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2005年新年企画

フラウスタット会戦記
〜某守護者風味〜

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 寒々しい氷に覆われた原野に冬の陽光が降り注ぐ。
 雪はやみ、空の色は澄み切った青。大地が光り輝く西暦1706年2月3日の午前10時30分。既に早朝とは呼べぬこの時刻、しかしオーデル河にほど近いフラウスタットの街は静かなままだった。教会の鐘は鳴らず、人の営みも感じられない。それは、まるで住民がすべて死に絶えたかのような静寂だった。

 フラウスタット会戦当日 西暦1706年、冬

 はたしてそれは人のなせる業だったのだろうか。西暦1706年1月13日、ザクセン=ポーランド・ロシア連合軍がその命運をかけて発動したリトアニア及びポーランド東方における反撃作戦は、軍事的天才であるスウェーデン王カール12世が実施した迅速な奇襲、厳寒の沼沢地180哩を突っ切る急速行軍によって崩壊した。
 リトアニアの要塞グロドノに投入されていたロシア軍元帥オジルビー麾下の連合軍3万は、疾風迅雷を旨とするスウェーデン軍に迎撃され分断され退路を失い、反撃から一転してあてのない要塞防御戦に追い込まれた。

 1月18日。最高司令官として反撃作戦の総指揮に当たっていたザクセン選帝候にしてポーランド王フリードリヒ・アウグスト2世は、リトアニア方面での再逆襲計画を放棄する簡潔きわまりない決断を下した。
 余はグロノドを去る。
 戦術面においてアウグストは敵前逃亡を平気で行う愚劣きわまりない指揮官であったが、その一方で戦略面において彼は果断きわまりない勇将であった。この時も即座に戦略的敗北を認めると、敗北は敗北としてその結果生じたスウェーデン主力軍の分裂−−リトアニア遠征軍とポーランド駐留軍の間には300哩以上の間隙が存在した−−を好機と考え、壮大な分進合撃作戦、クラクフとザクセンに残る最後の兵力を投入しポーランドを再征服する作戦、を立案した。
 目標はポーランド西方の都市ポズナニ。目的はその地域で冬営中のポーランド駐留スウェーデン軍1万1千。そしてその実施にあたり、アウグストは連合軍を四つに再編した。
 これまで反撃の主力を担っていたオジルビー指揮下のロシア軍を、スウェーデン主力軍の拘束を目的としたグロノド守備軍として再編。またその一部、ロシア軍竜騎兵4個聯隊とザクセン軍聯隊、合計6千を自らの親率軍とし、ワルシャワ南方に。クラクフ要塞防衛の任にあたっていたブラウセ将軍麾下2千は、これに合流すべく北上。両軍は合流後、西進しポズナニを目指す。そして作戦の中核を担うシューレンベルク中将率いるザクセン・ロシア連合軍1万8千もまた、オーストリア領シュレジェンを無断突破した後、ポスナニへ向かう。
 特にシューレンベルク中将には、状況が許せばスウェーデン軍を独力で撃破する許可が与えられた。ザクセンで長期間の訓練を積んだこの軍団は、もともと独力でスウェーデン軍全軍と渡り合うことを目的として編成されており、それを率いる陸軍中将ヨハン・マティアス・フォン・デァ・シューレンベルク伯爵の手腕もそれに見合っていた。この時までに彼は名将たる称号に恥じない実績を積み上げていた。経験豊かで兵学に精通し、プニッツにおける絶望的な後衛戦闘を成功させた防御戦の達人。そして何よりあの天才から唯独り勝ちを認められた男。しかし彼は、麾下の軍にまったく信頼を置いていなかったし、内心ではこの作戦に大きな不安を覚えていた。それでもシューレンベルクは、作戦の発令を受けるや直ちにシュレジェンに侵入する決意を固め準備を怠らなかった。彼はそう言う男だった。

 最も彼の危惧は作戦の初期段階においては現実のものとはならなかった。
 計画は順調に推移し、作戦第1段階は1月26日をもって終了した。この日、アウグスト麾下6千は、ワルシャワ南方において予定通りブラウセ将軍麾下2千との合流に成功。一方グロノド要塞では、主君ピョートルにも、彼らの指揮を引き継いだ司令官にも裏切られたロシア兵が半ば自暴自棄的な勇戦をオジルビーの下で継続し、カール12世率いるスウェーデン主力軍の拘束を続行。冬営中だったシューレンベルク軍も動員を完了させていた。
 アウグストは状況が第2段階に移行したと考えた。まず合流した2軍を自らの親率軍として再編成し、さらに進軍命令をザクセンへ発した。4日後、スウェーデン軍警戒網を突破した伝令は王の意志をシューレンベルクに伝達し、ザクセン兵とロシア兵で構成された1万8千の軍は、シュレジェンに侵入した。彼らはオーデル河を渡り、2月1日にはポーランドとの国境にほど近いシュレジェンの小都市スラワに到達した。

 これに対しポーランド駐留のスウェーデン軍の動きは鈍かった。各都市の守備軍は薄く広く配置されていたし、その中核である駐留軍は、ポズナニ周辺の長さ24哩に渡る地域に分散して冬営中だったからである。そのため、彼らは連合軍の一連の行動に当初まったく対応出来ず、その狙いが何なのかもつかめてはいなかった。
 だが、彼らは座して状況を放置するほど消極的ではなかった。彼らは勝利の女神に微笑んで貰うのではなく、女神の微笑みを勝ち取ることを常に望んでいた。
 状況が錯綜する中、ポーランド駐留スウェーデン軍総司令官、騎兵大将カール・グスタヴ・レーンスケルドは、ポズナニ周辺で冬営中の全軍に集結命令を発令し、出撃準備を完成するや、すぐさまシュレジェンに向けて進軍を下令した。彼はシューレンベルク軍の行動をまったく認識出来ていなかったが、敵の主力が彼らであることを正しく理解して、それの撃滅をただ一つの作戦目標とした。
 この決断は、まったく至当だった。長躯進撃を余儀なくされたアウグスト親率軍は、ここに来てその行軍速度を急速に低下させていたし、彼らは結局の所、主力ではなく補助軍でしかなかった。通信連絡手段が劣悪な中では、積極的な内戦作戦こそ最良だとレーンスケルドは彼の王から学んでいた。
 ほぼ1万1千に達する彼らは、敵の所在をつかめぬまま、2月1日にはシュレジェン領内オーデル河右岸近郊に到達。午前中には、捜索斥候からの報告がもたらされはじめた。先発した彼らは前方に広く展開し、騎兵捜索幕を張っていた。
 2日前にシュレジェンへ突入した連合軍、その主力は、既にオーデル河を越え南方の街道を北西に進軍中。斥候たちはそう報告した。
 駐留軍司令部は緊張した。
 連合軍が行動を開始したことは彼らも既に承知している。しかし、オーデル河を越えているとなれば、描いていたオーデル河左岸での作戦計画は大幅に狂う。
 もし連合軍が戦闘を嫌い、このまま側方を通過すれば2,3日後にはポズナニ近郊でアウグスト親率軍と合流出来る。そうなれば連合軍は圧倒的な兵力の優勢を確保し、スウェーデン軍は背後連絡線を寸断され、退却あるいは最悪の場合、壊滅を余儀なくされる。しかも兵を温存することを好むシューレンベルクが指揮官の場合、この決断を下す確率は高い。
 2月1日午後、ポーランド駐留スウェーデン軍総司令官、騎兵大将カール・グスタヴ・レーンスケルドは、シューレンベルクの意図を側傍通過と推定。隷下全軍に向け退却命令を発した.

 スウェーデン軍後退の知らせは直ちにシューレンベルクのもとにもたらされた。斥候は次々と敵が混乱状態に陥り潰走を始めたと報告した。シューレンベルクはそれを偽装ではないかと疑い、麾下の騎兵を使い威力偵察を行わせた。しかし疑惑とは逆に、戦果はまさに嚇嚇たるものとなった。  スウェーデン軍後衛部隊は隊列を乱し、波状攻撃を仕掛けた騎兵に行軍縦列を寸断され、物資を満載した輜重を失った。スウェーデン軍の撤退は完全な敗走へと転じた、追撃すれば大勝利間違いなし。幕僚はそう予測し興奮した。作戦発動にあたっての至上命令も、軍の積極的行動を推奨していた。ここにいたりシューレンベルクは決断した。
 翌日、雪が降り始めた中をザクセン・ロシア連合軍1万8千は進行方向を北東から南東へと回転させ、追撃行軍を開始した。将兵は雪を軍靴で踏みしめつつ進軍した。その速度は速く、午後にはフラウスタットを通過。しかしそれから1哩と行かぬうちに、情勢は一変した。
 前方で左右に展開する移動警戒線から、驚くべき情報がもたらされた。
 スウェーデン軍反転。全軍1万1千が秩序だった縦列で南下を開始。
 シューレンベルクは戦慄した。直感は正しく、情報は誤りだった。進軍停止を命じたシューレンベルクは即座に司令部を後にし、地形偵察へ出かけた。慎重すぎるきらいがあるものの、名将の名にふさわしい将帥であることの証明であった。

 2月3日。真冬の寒空の下、どう考えても暖かとは言えない天幕の中で眠りから覚めた将兵は、運命の朝を迎えた。10時。スウェーデン王国陸軍ポーランド駐留軍は号令と伴に、フラウスタット近傍における行動を開始した。歩兵12個大隊、兵力4千5百。騎兵37個大隊、兵力5千7百。全軍が歩騎兵混成の三個縦列に分かれ、前進する。偽装退却により、初動の遅れに端を発する戦略的劣勢は既にない。平原とまではいかないが、騎兵の運用に適した地に敵をおびき寄せ、司令官レーンスケルドは勝利を確信していた。
 10時30分。両軍は遂に互いの主力を視認するに至った。ここにフラウスタット会戦と銘打たれる決戦が始まった。

 まず驚愕したのはスウェーデン軍だった。スウェーデン軍将校から感嘆の呻きが漏れる。シューレンベルクは風評に違わぬ男だった。
 シューレンベルク率いるザクセン・ロシア連合軍は、前日のうちにスウェーデン軍を逆に向かい撃つべくフラウスタット前面、ジェイエルスドルフ村と レールスドルフ村の間に野戦応急築城を実施していた。
 この日、連合軍が戦場に投入し得た兵力は歩兵29個大隊1万6千、騎兵42個大隊2千、合計約1万8千名。主力は鮮やかな緋色を纏う歴戦のザクセン兵で、弱兵と名高いロシア軍将兵にも、ザクセンの地で入念な訓練が施されていた。しかも彼らはスウェーデン軍の集中攻撃を恐れたシューレンベルクにより、裏地が赤い白と緑の軍服を裏返して着させられ、遠目においてはザクセン軍と変わらぬ出で立ちであった。
 彼らは32門の野戦砲と44門の臼砲で援護された、新型の騎兵障壁とその陣前に掘られた細い馬防壕によって構成された陣地に篭もり、戦列を敷いた。騎兵障壁は鎖で左右をつながれ、鉄の杭で地面に固定されていた。
 軍の戦闘序列は当時の欧州各国陸軍の一般的戦闘教義に従って行われ、歩兵部隊は2戦列に分かれて中央2つの村の間に占位した。第1戦列は歩兵16個大隊が大隊横列を組み、左翼のロシア兵6千と右翼のザクセン兵に分かれた。第2戦列は歩兵9個大隊が一直線に展開した。歩兵の両翼を防護する2つの村落にはそれぞれ歩兵2個大隊、騎兵1個大隊が配置され、敵騎兵の迂回に備えた。騎兵はそれを援護するため両翼に配され、右翼騎兵20個大隊はジェイエルスドルフ村の右方に4列で、左翼騎兵20個大隊はレールスドルフ村後方の林付近に同じく4列の突撃準備隊形で待機させられた。特に右翼は最も名誉ある地位とされていたため、その部署にはザクセン近衛騎兵を始めとした優秀な騎兵が配置され、リュッツェルベルク騎兵少将とザクセン軍騎兵隊総司令官フォン・プレッツ騎兵中将がそれを率いた。
 しかし彼ら騎兵は大隊数は多いもののその定数を満たしている部隊はほとんど無く、実勢はせいぜい中隊規模であった。そのため、統一した行動を取ることが極めて困難だった。

 一方で完全に虚をつかれたスウェーデン軍だったが、兵士に動揺はなかった。しかも彼らは兵力差と、火力により防護された陣地に対する正面攻撃の危険をまったく無視するような行動を取った。スウェーデン軍は縦列のまま連合軍前面に迫ると、833ヤードの距離で巨大な“分厚い赤い線”の眼前で開進運動−−隊形変換を行い、横列隊形を取った。連合軍砲兵隊はこれに対し直ちに擾乱射撃を行ったが、捕捉に失敗しその射撃効果は低かった。彼らはスウェーデン軍の行動速度にまったくついていけず、一方スウェーデン軍の行動はこれまでの戦闘と同じように迅速で正確だった。
 スウェーデン軍の戦闘序列は当時としては変則的なものだった。中央第1戦列には歩兵少将アクセル・スパレ伯爵とアルヴィド・アクセル・マルデフェルト両名が指揮する8個歩兵大隊が置かれ、右翼第1戦列は2個歩兵大隊を中央に置く12個騎兵大隊がレーンスケルド自身に指揮され、左翼第1戦列は騎兵少将アンドレアス・フンメルイェルムが率いる騎兵11個大隊と中央の歩兵2個大隊によって構成された。第2戦列は、中央右翼よりに14個騎兵大隊、右翼と左翼ではそれぞれ4個騎兵大隊が第1戦列後方で予備兵力となった。

 正午、開進運動を完了させたスウェーデン軍戦列から「神の助けと伴に」が発せられた。スウェーデン軍総司令官、騎兵大将カール・グスタヴ・レーンスケルド男爵が全軍に突撃を下令する。戦場の主導権を握ったのはいつもの通りスウェーデン軍だった。
 これを受けて連合軍からも喚声が上がった。「突っ込め! 容赦するな」。しかしその言葉とは裏腹に彼らはすぐさまの行動を起こさなかった。
 ナルヴァでもドヴィナでも、クリッソフでも聞かれた言葉と伴に、まず先頭を切ったのは騎兵少将フンメルイェルム指揮する左翼騎兵群であった。
 左翼騎兵の先陣を務めたバッチワルド竜騎兵聯隊は、ジェイエルスドルフ村を左に迂回してザクセン軍左翼騎兵部隊前面に出現した。しかしここで予想外の事態が起きた。
 一面の氷原は、人馬の重さに充分耐えたが、その滑らかさが騎兵の運動を阻害した。蹄鉄を打っていなかったスウェーデン軍騎兵は次々と横転、突撃に失敗し、下馬をした後、氷原外に再展開する混乱を見せた。
 しかしザクセン騎兵に侮りが生じた。「我々はこれから鼠を殺すようだ」どこからともなく嘲笑がわき起こる。だが、彼らは安全な陣地から出撃するのを躊躇い、即座の行動に移れなかった。入念な野戦築城が裏目に出たのだ。結局この瞬間、連合軍に唯一あった勝機は去った。彼らは自ら流した血で出来た海の中で、すぐにその嘲りを忘れた。

 スウェーデン軍騎兵はすぐさま混乱を収拾すると突撃を再開。百二十歩の距離に至るや直剣を抜きはなち、速歩から襲歩に移ってザクセン軍右翼騎兵に襲いかかった。騎兵に突撃力を復活させたグスタヴ二世アドルフの時代から七十年余り。乗馬白兵襲撃はスウェーデン騎兵の常套手段となっていた。人馬一体となった青の暴風に対し、立ち止まったままのザクセン騎兵はそれでも3度耐えた。近衛騎兵を中心に旺盛な戦意を誇るスウェーデン軍騎兵の強襲を撃退し、竜騎兵聯隊長、騎兵大佐バッチワルドを負傷させた。しかし遂に戦列は切り裂かれ、精強をもってなるザクセン近衛騎兵隊と騎士近衛隊も反撃に失敗。波状攻撃を受けた右翼騎兵集団は壊乱し、再編することも叶わず戦場外に潰走した。
 一方、中央のスウェーデン軍歩兵部隊の行動も果敢だった。リウマチからくる痛みに悩まされていたマルデフェルトも、疲労から来る身体の痛みに耐えていたスパレも、その自己に課せられた責務を忠実に果たし、そして何よりスウェーデン軍歩兵の能力は素晴らしかった。
 ザクセン軍砲兵隊は猛烈な砲撃を、敵間距離約百歩から開始した。しかし爆煙に包まれながら中央歩兵8個大隊は攻撃前進を続行した。彼らは砲火にさらされてもまったく秩序を失わず、歩兵操典通りの行動を行った。最終的にザクセン砲兵隊は擾乱射撃に続き阻止砲撃にも失敗し、さらにザクセン軍歩兵の数度にわたる一斉射撃も彼らの前進を阻止することは出来なかった。
 攻勢発起から15分あまり、誰もが異常なる熱情の証人となった。白煙の向こうから真っ青な将兵が現れる。そして突撃が始まった。
 スウェーデン軍歩兵は、連隊砲の直協射撃を受けてザクセン軍歩兵第1戦列に接近、至近距離から半斉射を2回行った後、突進した。壕と障壁による陣地は砲撃により破砕され、あるいは突撃する歩兵によって除去された。
 ザクセン軍歩兵はそれでも斉射を続けながら、徐々に後退した。爆竹にも似た銃声と白煙の連鎖。だが、射撃効果は低い。火力の集中度が低かった。騎兵の迂回を恐れる余り広く展開しすぎた連合軍歩兵横列は、左右の連携に失敗し、兵力優勢を活かすことが出来なかった。
 けれどシューレンベルクが事前に心配したほどザクセン兵は弱兵ではなかった。方陣を組み、左右の村落に拠り防戦し、戦列を寸断されながらも懸命な努力を払った。しかしそれでも劣勢は覆せない。
 右翼における状況はより一方的だった。レーンスケルド自らが指揮するスウェーデン右翼群は、連合軍左翼に展開するロシア兵6千をほぼその全戦力を持って強襲した。中央と同じく歩兵が制圧射撃下を攻撃前進し、至近距離で1斉射を行い突進。ただの一撃で混乱に陥ったロシア兵は、歩兵隊が切り開いた突進路を通って突入した騎兵に追いまくられ殲滅された。続いて第2戦列の騎兵隊16個大隊が右方向に旋回しつつ、敵左翼を側撃した。レールスドルフ村に拠る歩騎兵混成部隊を含め迎撃に出たザクセン軍左翼騎兵隊は、逆にスウェーデン予備騎兵群の逆襲を受けて打ちのめされ、右翼騎兵隊に遅れること数分で崩壊、それは瞬く間に中央左翼にも波及し全面潰走に移行した。
 ロシア歩兵隊の指揮官、ロシア陸軍少将フォン・ゴルツは真っ先に逃亡し、代わりに指揮を執っていたザクセン陸軍中将ウェストロミルスキは、白旗を掲げた。
 左右両翼の潰走は、辛うじて戦場にとどまっていた中央右翼の歩兵横列に致命的な衝撃を与えた。ザクセン歩兵にとって状況は困難から不可能へと移行した。潰走するザクセン騎兵をスウェーデン騎兵群は、ほとんど追撃しなかった。連合軍の最終予備兵力として後置されていた近衛歩兵聯隊は後方から襲撃を受け、辛うじて保たれていた連合軍の士気は完全に粉砕された。
 連合軍総司令官シューレンベルクは、敗北を悟ると戦場から速やかに離脱した。しかし多くの者は彼ほど幸運に恵まれていなかった。彼らは敗走にも失敗した。両翼突破からの包囲を完成させたスウェーデン軍は、その敗走路をほとんど塞ぎ、取り残された連合軍に残された術は降伏のみだった。結局、戦闘は二時間にも満たぬうちに終わった。
 逃げ遅れたロシア軍歩兵5百名は、総司令官レーンスケルドの命によりバルト沿海州での略奪行為に対する見せしめとして、ことごとく殺害され、戦闘終了後も悲惨な絶叫が戦場にこだまし続けた。

 潰走したシューレンベルク率いる連合軍が態勢を立て直したのは、シュレジェンを通ってザクセン領内に到達してからのことだった。しかしそれはまったく無意味な行為だった。彼らに残された戦力ではザクセンを防衛することも出来なかった。
 スウェーデン軍の被害は死者4百名。怪我1千4百。カール・グスタヴ・レーンスケルドは勝利者として戦場にとどまり、追撃は行わなかった。双方の怪我人を収容し、戦場清掃を行い、疲弊しきった将兵に休息を与えるためポズナニ方向へ十数哩後退した。しかし追撃を行わなかったからと言って、それを非難する必要はない。  まさにフラウスタット会戦は戦史に燦然と輝く包囲殲滅戦の理想例であった。
シューレンベルク軍の損害は死亡7千、捕虜8千、合計1万5千名。残存兵力は約3千。しかも副司令官ウェストロミルスキ中将と右翼指揮官リュッツェルベルク少将らを捕虜にとられ、彼らまさに文字通り殲滅されたからである。
 総司令官レーンスケルドはこの功績で伯爵、陸軍元帥に任命される事となる。

 一方、彼らの潰走によりアウグスト二世が親率する連合軍は戦わずして無力化された。彼らは本国への連絡線を奪われ、戦う前に兵員は四散した。アウグストは手元に残ったザクセン軍聯隊数個とロシア軍、そしてポーランド王国軍数部隊を率いてクラクフに撤退。リトアニアでは、あてのない籠城戦がグロノドで継続された。つまるところザクセン選帝候にしてポーランド王アウグスト2世に残されたものは、更なる敗北、本領の蹂躙だけであった。彼は先祖より受け継いだものを守るために無条件降伏をしなければならない運命だった。

 後にシューレンベルクはオイゲン公子に手紙で語っている。「彼らがわが軍の阻止砲撃下で行った攻撃前進と突撃には、あまり高い評価を与えることは出来ない。あのような軍を率いることは素晴らしい優位であり幸運である。それを率いる者には常に満足いく結果がもたらされるだろう」。そしてまた、彼はこうも後に述べている。「敗因はわが軍の騎兵と哀れなロシア兵である。彼らの惨めな行動は、我が歩兵に壊滅をもたらした」
 しかしシューレンベルクは当時においては、簡潔にアウグストに報告するのみだった。

「これただ不運なり」

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