管理人文書館


避戦主義の旗を立てる
2003,3/19、イラク攻撃前夜に私は宣言する

[Back]

全人類の祈念する理想とは、「平和社会」であると私は信じる。「平和社会」とは全ての人間の権利と財産が安全に、公正に、保障される社会である。そして、その社会においてのみ、あらゆる人々が争うことなく安全に、そして己の幸せを追求することが出来ると信じる。

では、この理想を実現する「理念」とは何であろうか? 

人はよくこれを「平和主義」と言う。これは間違いではない。しかし、私はこれに無条件で同意出来ない。「理念」として存在する「平和主義」には一片の妥協も許されない。何故ならば、それは「理念」であるからである。私の考える「理念」とは、現実を理想に近づけるための具体的主張、手段のことを指す。そう考えるならば、私は「理念」を曲げるという行為を容認することが出来ない。

しかし巷に溢れる「平和主義者」は往々にしてこの素晴らしき「理念」を曲げてしまっている。その例は挙げるまでもない。人は言う。「国連の承認があるならば戦争を支持する」「敵国が攻めてくるならば戦う」しかし、人はこうも言う。「国連の承認のない戦争は支持出来ない」「軍隊を持つことは良くないことだ」

私は考える。彼らの根底にある「理念」とは何であろうか? 彼らは自らを持って「平和主義者」と呼ぶ。とするならば、彼らの理念は「平和主義」なのであろうか? いや、違う。少なくとも私はそう言いたい。何故ならば「平和主義」とは絶対的無条件の平和を主張しているからだと思うからである。

例えば、人が「平和主義」という言葉を使う時、多くの場合、人は戦争に反対する。つまり「反戦」である。戦争の害悪、<安全を脅かし、人権を侵害し、人命を軽んじ、財産を収奪する>それら害悪を非難し、それを「悪」だと断定する。ではそれを言わせる「平和主義」とは、何であろうか?

少なくとも、そこに戦争を肯定する主張は存在しない。そこにあるのはただ、戦争を憎む純粋で崇高な、人として当然の主張である。

しかし、それなのに多くの人々は、「平和主義者」を名乗る有形無形の人々は、「国連の承認」「自国の危機」といったお題目があれば、戦争を「容認」すると発言して憚らないのである。それは決して「平和主義」ではないと私は考えるのである。今まで述べてきたように、戦争を容認することなど、「平和主義」という理念には存在しないからだ。隣人が殺され、暴虐な侵略者があらゆる全てを破壊しつくしても、「抵抗」なる選択肢は、「平和主義」という理念において許されないのである。

よって、条件付けをして「平和主義」を語る彼らは、己の「理念」を、良心に従い普遍的な正道を求め判断し追求する「理念」を、間違いなく曲げていることになるのである。

これは許されざることである。人は己の「理念」を常に、如何なることが有ろうとも、固持し守り、時には「権威」に逆らってでも、証明しなければならないからである。でなければそれは「理念」足り得ないし、そのような状況によって言を左右にする人物をどうして、信用することが出来ようか。人が人として普遍的な正道を歩もうとするならば、それは曲げてはいけないものなのだ。 だが、人は言うだろう。ならばどうすればよいのかと。戦争に反対するには、「あらゆる状況においても」戦争に反対せねばならないのかと。

そうなのだ。ここに一つの矛盾が生じるのだ。確かに、間違いなく戦争は悪いことだ。それは万人が認める。しかし、それでも人は時として考えてしまう。良心に照らし、普遍的正道をねじ曲げていると判断した「悪」に対抗するには、必要悪としての「抵抗(戦争を含む)」が必要な時だってあるのではないかと。

かく言う、私もそう考える。しかし「国連の承認」「侵略に対する抵抗」といった条件は、「平和主義」を曲げるに足るものでないのは、今までの文に同意していただけるのなら、明らかである。「理念」とは曲げて良いものではないからだ。

ではどうするか。私は、自分の良心に従って、普遍的な正道を求めるための「理念」をこの場において表明する。私の良心は、時として「抵抗」という手段を承認すべきだと言っている。であるならば、私はおのが良心に従い、「平和社会」という理想を追求するべき「理念」として、ここに「避戦主義」と呼ぶべき旗を立てる。

目指すべきは平和である。そして混迷し争いが満ちる現実を理想に近づけるために、この「避戦主義」は、可能な限り争いを「避け」、しかし、良心に照らし、普遍的正道をねじ曲げていると判断した「悪」に対抗する最後の手段として、「抵抗(戦争を含む)」を取る。

私は、この旗を一生涯保持する決意である。そしてこの「理念」にもとづき、私は現状において進行しつつある「イラク攻撃」を最終的に容認する立場を取る。

イラクの政府が行った行動は、私の良心に照らして考えれば、普遍的な正道を歩んでいるとは到底思えない。クウェートに侵攻してより約10年、いやそれ以前より、あの国家の行動は、到底、「平和社会」の実現を目指しているものとは思えない。米国の武力がチラついた途端、武器の廃棄を始めたという行動には、姑息な意図しか見受けられない。

だから私は、イラク政府を利することに結果としてなる「反戦」に賛同出来ない。

もちろん、米国の行動が完全に正しいという気は毛頭ない。国連(連合国)の新たな決議なしの行動は、やはりこれも私の良心に照らして考えれば、「悪」である。「平和社会」の実現という正道をねじ曲げる行動である。

しかし私が思うに、対話による問題解決は、少なくともサダム・フセインの両足がこの世に有る限り、おそらく不可能である。そして、今回もし、(すでにその可能性は消えたが)米国が攻撃しなくとも、いずれ国連の承認を得る形で、武力行使が行われたであろうと思う。そしてその結果は、米国主導による「攻撃」とほぼ同じものとなっていただろう。

そして、私としては、そのような国際社会の承認を得た行動(攻撃)こそが、己の良心に照らした上で、「最良」であると判断している。

つまり、「イラク攻撃」には賛成である。しかしだからこそ、問題とするべきは、戦争ではなく、米国の姿勢、仏国の姿勢、その他各国、日本の姿勢である。

それら「人間的権威」は、果たして真実、「世界平和」を実現するために、「理念」を曲げず、良心に忠実に、正当に権力を行使したであろうか?

米国は軍を早めに展開させすぎ、強引に国際社会を自らに従わせようとした。そしてその結果、軍を危険に晒し、いずれ辿り着くはずであった成果を、世界の非難に晒した。

フランスもまた、やはりアメリカと同じように妥協を知らなかった。

日本は、黙して何も言わず、指導者は何ら「理念」を示すことなく、ただ追従した。

その他国々も、同様に、現状を防げなかった点で、同罪である。

私は、己の良心に従い、我が「避戦主義」に照らし、彼らを断固、非難する。政治とは結果が全てである。正当となるはずだった成果の行く末を混沌とさせた外交の結果に対し、彼らは等しく責任を取るべきである。責任とは、ともかくも勝ち得るはずの成果を、確実に「平和社会」の実現に向けて利用することである。

Return Top


[管理人文書館] [Top Main Page]

Copyright (C) 2001-2007 M.Ota All Rights Reserved.
このページに含まれる全ての文章・画像の無断転載を禁止します。


Column

コラム
色んな話



このページのトップに戻る


Column

コラム
色んな話



このページのトップに戻る