サイト開設5周年企画

ナルヴァ会戦
Adlerfeld, Gustavus.
Military History of Charles XII. pp52-58

 Military History of Charles XII.はポルタヴァで戦死するまでカールの軍に随行したAdlerfeldが書き続けていたカール12世の戦役史である。サイト開設5周年を記念して、その中からナルヴァの戦いの部分を抜粋し、(テキトーな翻訳ではあるが)翻訳した。
 彼自身はこの戦いの後から軍に加わったため、直接の目撃者ではない。しかし彼がカール12世本人から、この戦役史を書くことを許可され、便宜を図ってもらっていたことからも、ある意味、これがナルヴァの戦いにおけるカール12世の公式見解であると言える。(もっともポルタヴァで散逸したがカール12世自身も戦いの記録を残していたらしい)


 王が軍をそれら配置につかせるや、攻撃の合図である二発の花火が打ち上げられ、合い言葉である「神の助けと伴に[With the Assistance of God]」が全隊列で唱和された。歩兵隊は直ちに行動に移り、陣地線へと直進した。ちょうど時刻は午後二時であった。突然の分厚い雲がこれまで穏やかであった空を覆うと、敵の顔めがけて吹きつける雹と雪の嵐が巻き起こり、それはスウェーデン軍の接近を、大砲の射程内ほとんど塹壕の間際に至るまで、敵に気付かせなかった。

 陣地への攻撃は卓越した勇猛さで行われ、素晴らしい成功をおさめた。歩兵隊は四半時とかからずにその占領を成し遂げ、騎兵の進入路を切り開いた。モスクワ大公軍は今や分散させられたまま戦闘に突入し、それにもかかわらずド・クロワ[de Croy]公は自軍を集結させた。我らの左翼は陣地線に沿って配置されている敵右翼に対し河に向けて突撃し、敵は自らが架けた橋に殺到した。

 奇襲されたそれら部隊の一部は、陣地線より出撃して、戦況を好転させようと試みた。王はこれを認めると、ドラバント隊と左翼龍騎兵隊の先頭に立って彼らを攻撃し、瞬く間に後退させた。その間に我らの歩兵隊は素早く前進し、当たる敵すべてをなぎ倒した。河にまで追いつめられた彼らの一部は幸運にも助かったが、しまいには橋が彼らを乗せたまま壊れ、多くの者が水死した。

 残りはスウェーデン軍と河の間で包囲されつつあり、まるで自暴自棄に捕らわれたかのように防戦を決意していた。ド・クロワ公、アラート[Allart]将軍、更にその他数名は既に王の捕虜となっていたといえども、未だに彼らは多くの将軍に率いられていた。彼らは数軒の家屋と兵舎を見出すとその背後に退避し、荷馬車や利用できるあらゆる物を使って防塞を設けた。彼らは予想を上回る勇気を持って防戦した。スウェーデン側の絶え間ない恐ろしい火攻にもかかわらず、我々は彼らを打ち負かすことが出来なかった。

 闇の訪れと伴に、戦いはより激しく凄惨なものへと化した。王は、今や陣地線の外で数騎を伴としていたが、騒音を聞きつけると、アクセル・ホールド[Axel Hordh]という侍従のみを従え、その場所へ急ぎ向かった。その際、沼沢を越えようとしたところで彼は沼に嵌り落ち、近くにいた側近らに助け出されたが、剣と片方の長靴を、その後発見されたが、失った。このような事故も彼の行動を妨げはせず、敵と交戦し銃火で双方伴に大きな損害を出す歩兵隊をようやく見つけるや、片方だけ靴をはいたまま自ら進んでその先頭に立った。

 その間に、スウェーデン軍右翼も左翼に劣らぬ成功をおさめていた。彼らは既に敵を潰走させ、それから後、歩兵隊の大部分を戦闘中の左翼へと合流させた。

 夜の訪れは、戦いを沈静化させ、王はその猶予を新たな攻撃のための準備に費やした。彼は軍を街と陣地線との間に配置したが、この様な処置は驚くべきことではない。彼は同時に砲兵総監[General Master of the Artillery]シェブラッド[Sioblad]卿とメイデル[Meidel]少将、ステンボック[Stenbock]伯爵に数個隊を率いて、敵主力砲兵隊が占領している、陣地線全域を見渡せる丘を攻撃するように命じた。スウェーデン軍はそれにより敵両翼の連絡を断とうとしたのである。

 モスクワ大公軍右翼の残る退路はナルヴァ河により断たれており、彼らは降伏がいずれ避けられないだろうことを悟ると、その夜、王の慈悲に身を委ねる旨を伝えた。カールは彼らの要求を認め、兵站総監[Commissary General of War]ヤーコブ・フェオドロウィッチ・ドルゴルーキー公[Knez Jacob Feodorowits Dolgoruki]、アフェモン・ミハイロヴィッチ・ゴローヴィン[Affemon Michalowits Golowin]大将、そして砲兵総監[Grand Master of the Artillery]メリタ大公[Prince of Melita]を捕虜とし、その剣を足下に捧げ置かせた。彼らは指揮下全兵士が捕虜となり、直ちにこれまで守り通してきた場所と、近衛二個大隊が保持するように命じられていた場所を明け渡し、降伏することを宣言した。

 王は、それら部隊の従順ぶりに満足し、武器を持ったままの退却を認めた。彼らは次の日の午前四時に架け直した橋を渡り退却した。しかしながら、勝利者たちは軍旗と隊旗のすべてを獲得し、名のある士官たち全てを戦争捕虜として留めおいた。  壊乱した敵左翼の残余を率いていたウェイデ[Weide]大将は、合流する術を断たれていた右翼の運命を聞くと直ちに、副官を軍鼓と軍総指揮官へ宛てた書状をもたせて夜明けに送り、彼の決心を伝えた。王は手紙を開き、彼に部隊の祖国への退去を許すが、武装は放棄するようにと答えた。

 カールはそれらすべてのモスクワ大公軍の連隊と接見し、彼らはその軍旗と隊旗を彼の足下へと捧げ置いていった。その後、彼らは列を為し、士官も兵士も同じく頭を露出させ、手には杖を持ち、陣地線と野営地に沿って河へと向かい、我らがつい先ほど言及した件の橋を渡り去っていった。彼らの大多数は翌日の朝に至るまで行進を続けた。  斯様な訳で、この素晴らしき日の成功は、若き英雄が陣地にこもる八万の敵を完全に打ち破ったとして、如何なるときも史上にその名を留めるであろう。

 スウェーデン軍は敵の野営地において多量の戦利品を発見した。しかし勝利者の手に帰した素晴らしき砲兵段列に比肩するものはなかった。それは、すべて新たに鋳造された口径の違う一四五門の青銅製野砲と、大きさの違う真新しい二八門の臼砲からなり、更にそこに多量の軍需物資、六対の軍鼓<ケットル−ドラム>、一五一流の隊旗と二〇流の軍旗、これらは戦闘で手に入れたものと戦場に遺棄され獲得されたものを除いていた、が加わった。そして驚くべき量の火器、ツァーリの軍事金庫、すべての幕舎、大量の飼料と食料からなる糧食を獲得した。  モスクワ大公軍は、ナルヴァ河に落ちた者たちを含めて、少なくとも一八〇〇〇を失い、スウェーデン軍の戦死者および戦傷者の数は、どちらも伴に二〇〇〇名を下回った。

 戦争捕虜は以下の如くである。総司令官ド・クロワ公、兵站総監ドルゴルーキー、歩兵大将ゴローヴィン、同じくアダム・ウェイデ、ノヴゴロド総督[Governor of Novogrod]にして大将イヴァン・ユルゲニッツ・トゥルベルスコイ公[Knez Iwan Jurgenits Trubetskoi]、ゲオリギアのメリタ大公[Prince of Melita of Georgia]にして砲兵総監アルトスチェロヴィッツ[Artschelowits]、工兵隊長アラート中将、少将にしてポーランド大使のラング[Lang]男爵、イヴァン・イヴァノヴィッチ・ブトーリン[Iwan Iwanowits Buturlin]少将、ツァーリの近衛連隊長ブルームベルク[Blumberg]、フォン・クラーゲン[Von Kragen]砲兵隊長、そして大佐たち、フォン・デーレン[Von Deelen]、ヤコブ・ゴルドン[Jacob Gordon]、シェーネベルク[Schnecberg]、ガリッツ[Gulitz]、ピンデグランド[Pindegrand]、ウィエホフ[Wiethoff]、イェルダン[Jordan]、イヴァニトスキ[Iwanitski]。中佐、少佐、大尉の数は多すぎてここでは言及できない。

 我々はド・クロワ公がギスカール[Guiscard]卿にこの戦いについて語ったことを忘れるわけにはいかない。彼は、ラゲナ[Lagena]の森から現れたスウェーデン軍が戦列を組み接近してきたのを認めたとき、これがただの前衛であると考え、スウェーデン王が、良く陣地にこもり数で圧倒的に勝る彼に向かって大胆にも攻撃をかけるなどとは、信じることが出来なかったと断言した。この、ツァーリにより全指揮権を移譲された公爵は、一年後モスクワへ向かう途上、レヴァルで死去した。

 王は、この名高き日において、銃火が激しく交わされるあらゆる場所にその身を曝すという尋常ではない振る舞いによって、その存在を際立たせた。しかしながら彼は無傷であり、ただ唯一、夜になって、彼の黒い首布<クラヴァット>から銃弾が見つけられた。銃弾は全く彼を傷つけることなくそこにあった。

 すべてが静謐になるや、王は軍を陣地線に沿って野営させ、戦病者と戦傷者をナルヴァの街へ移送し、彼自身も多くの士官とドラバント隊を従えて凱旋入城を果たし、不自由なるおよそ十週間に及ぶ包囲に耐えた後、彼らの主がもたらした喜びを目撃し熱狂した住民からの絶え間ない歓呼に包まれた。街を守り通したホルン[Horn]大佐は、陛下から良くねぎらわれ、少将の位が与えられた。

 ナルヴァへの凱旋入城の後、王が最初に望んだのは、彼が勝ち取った勝利に対して神に感謝の祈りを捧げることであった。二十六日がこの儀式にあてられた。賛美歌<テ・デウム>が歌われ、街とイヴァノゴロド[Ivanogrod]の城、野営地と陣地の大砲が祝砲を放ち、いまや武器を置いていた全軍が小銃の二斉射を行った。