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War at sea in the age of sail 1650-1850 読書ノート
著:Andrew Lambert
帆船時代の海戦史をコンパクトに纏めた概説書。内容は可もなく不可も無し。

大北方戦争の部分についての部分を適当にメモった。翻訳じゃないのであしからず。

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 大北方戦争1700ー21
 17世紀後半、スウェーデンはバルト海帝国を築き、その帝国はバルト海の制海権を基盤としていた。1700年2月、北方同盟がスウェーデンの同盟国ホルシュタインとスウェーデン海外領土であるリヴランド、インゲルマンランド、エストランドを攻撃した。
 デンマークがウレスンド海峡とベルト海峡を掌握してバルト海への入り口を制することを懸念したイングランドとオランダはスウェーデンに海上支援を提供した。カール12世は7月、これらの支援を受けて主導権を握るとウレスンド海峡を渡ってコペンハーゲンに迫った。デンマークは戦争からの離脱を余儀なくされた。デンマークは当時の北方同盟における唯一の艦隊保有国であったために、彼らの脱落により戦争序盤においてスウェーデン軍は自由にバルト海を利用して軍を機動させることができるようになった。
 これを受け、カール12世は直ちに軍を率いて海を渡り大陸に赴くと、ナルヴァにおいてロシア軍を打ち破った。最初の一年で、若年の国王は、海上連絡線を完全に握った場合のスウェーデンにおける内線の利を証明して見せた。しかしながらカールは自国の海上戦略上の利点に十分な注意を払わなかった。対照的にロシアの皇帝ピョートルは1702年にバルト海への安全な港としてサンクトペテルブルクを建設し、バルト海艦隊の創設に取りかかった。スウェーデン海軍は徐々にフィンランド湾沿岸域における制海権を失っていった。
 一方、陸ではカール12世率いるスウェーデン軍はザクセン軍を打ち破り、ポーランドを手中に収めて、ついにロシアへと遠征を行った。敵を過小評価し、地元民からの支援の約束を過大評価した結果、カールの軍はウクライナ奥深くまで引きずり込まれ、焦土戦術にあい、補給路をたたれ、1709年ポルタヴァで大敗した。バルト海沿岸の根拠地を放棄するという愚行は、カールの戦略眼の低さを実証している。もし彼の軍が海上補給線を維持したままでいたならば、あのような敗北を喫しなかったに違いない。[# 注釈:この本の著者はカールのバルト海沿岸部の軽視を辛辣に批評しているが、短命に終わったリヴランド軍の戦闘記録とレーヴェンハウプト軍の戦歴、リューベッカー軍の失敗をみる限り、スウェーデン陸軍は海軍と同じように、ポーランド・ザクセン軍とバルト海沿岸でのロシア軍に対して二正面作戦を展開できるほど戦力を保有していなかった。制圧したポーランドにおいてですら、スタニスラフ軍は反対勢力に対して勝利を収めることができなかった。つまり軽視したのではなく、兵力配分上どちらかを優先しなければならなかったという点において、情状酌量の余地があると思われる]
 ポルタヴァの戦いの後、スウェーデン軍の退勢を見て取ったデンマークは戦争に復帰した。その艦隊は直ちにスウェーデン軍の海上機動を困難にし、バルト海南岸におけるスウェーデンの領土防衛計画を崩壊させた。1710年の小競り合いの後、デンマーク艦隊はポンメルンの要塞都市シュトラールズントへと派遣されていた大規模なスウェーデン輸送船団を襲撃し、海上輸送を一時的に麻痺させた。スウェーデン海軍は大部分の艦隊をデンマーク方面に割り振らねばならず、その結果、ロシア海軍と相対していたフィンランド湾方面のスウェーデン艦隊は数において劣勢とならざるを得なかった。
 そして1714年8月6日、約百隻のロシアガレー船団はハンゲにおいてスウェーデンの7隻の艦隊を捕捉した。ハンゲ海戦はフィンランド戦線の趨勢を決定づける海域で発生した。ハンゲ半島は、ガレー船の航行に適した複雑な沿岸の航路上に位置しており、その海域ではスウェーデン艦隊の主力である船底が深い帆装艦の動きは阻害された。ロシアのガレー船団は長く激しい戦いの末、スウェーデン艦隊を打ち破った。このロシア・ガレー船団の勝利は、スウェーデン沿岸への襲撃作戦を実行可能にした。翌年、デンマーク艦隊はスウェーデン艦隊を撃破し、シュトラールズントを封鎖した。同盟軍の水陸両用軍は沖合の要衝リューゲン島を制し、シュトラールズントの命運は定まった。
 これら作戦はイギリス・オランダ連合艦隊の支援も受けていた。彼らの目的は、スウェーデン軍の私掠船団による通商路への脅威を排除することにあった。イギリスの新王ジョージ1世はハノーヴァー選帝候でもあり、彼の大陸における野望はバルト海世界に新たな要素を付け加えた。カール12世は、私掠船団によってバルト海沿岸諸州からの通商利益をロシアが得ることを阻もうと考えていたが、イギリスとオランダは自国の海運に不可欠なバルト海からの様々な船舶資材の輸送を妨害されること認めなかった。
 1716年、デンマーク艦隊はウレスンド海峡でスウェーデンのガレー船団を打ち破り、カールのノルウェー侵攻作戦を頓挫させた。その後、1719年にはロシアのガレー船団が陸軍をストックホルム近郊に上陸させた。デンマーク軍もカール12世死後、ストックホルムへの攻撃を行うと同時に、ノルウェー方面のスウェーデン軍後方連絡線を遮断した。戦争が長引けば、おそらくデンマーク軍はノルウェー経由でスウェーデン本土への侵攻作戦を行っていただろう。
 同年、イギリスはスウェーデンと講和し、バルト海世界における勢力の均衡を回復させるため、北ドイツからロシアの影響力を排除しようとした。この政策はある程度の成功を収めたが、スウェーデンは著しく国力を低下させており、しかも国際社会から孤立していたため、ヨーロッパの列強への復帰は不可能であった。しかしながらイギリス艦隊とスウェーデン軍のガレー船団は1719年から二スタット条約によって戦争が最終的に終結する1721年までの間、ロシア海軍の動きを押さえつけることに成功した。
 スウェーデン・バルト海帝国の崩壊は、海軍戦略の理論から考えれば自明の帰結であった。スウェーデンの国力では単純に、バルト海の両端で活動するロシア艦隊とデンマーク艦隊に対処するだけの海上戦力を持ち得なかったからである。つまりスウェーデンの海軍は個別に戦うには適切な戦力を保有していたが、二正面で発生した小規模で数多くの小競り合いによってその戦力を減衰させて衰弱死した。この経過は重要な連絡線の喪失によってさらに加速した。なぜならば海上連絡線を使うことなしに、スウェーデンは大陸領土へ軍を派遣することができなかったからである。バルト海の制海権なくしてスウェーデンの強力ではあるが小規模な陸軍は、大陸各地で発生する脅威に対処することができなかった。
 一方1725年まで、ロシアのバルト海における野望は、イギリスのバルト海における権益に対して脅威になるかのように思われた。しかしピョートルによって創設された最初のバルト海艦隊は短命に終わった。数多くの艦艇があったが、そのほとんどは武装商船に毛が生えたような船であり、スペインとイギリスの短い戦争が終わるとこれらは売り払われた。結局のところピョートルの艦隊は沖合で正規の艦隊戦を行えるようなものではなかった。1723年ピョートルが死ぬとロシア海軍は崩壊し、半世紀にわたって再建されなかった。スウェーデンとデンマークは衰退し、ロシアはピョートル以前の大陸国家に立ち返ったため、バルト海におけるイギリスとオランダの権益は守られた。
 バルト海はその後も重要な船舶資材の供給源でありつづけ、1809年までバルト海の勢力地図が大きく変化することはなかった。

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