1709 Poltava 28 June 09:10

Raise of Russia

ota

光り輝く夏の太陽が、人間と大地とを照らしていた。

「すばらしいな。すばらしい」

男は感嘆した。あれからもう九年が経過した。馬を飛ばしたあの暗い夜。泣き崩れた寒い吹雪の闇の中。すべてを思い起こした彼の黒い双眸は、澄み切ってなお深い。

まるで英雄叙事詩の中から抜け出たような肉体の持ち主だった。身の丈はゆうに二メートルを超えている。親衛聯隊の将校と寸分違わぬ濃緑の戎衣を纏っていても、漂う雰囲気は尋常それでない。

かつてすべてを抛ち逃げ出した彼は、けれどこの日、逃げることなど思いもよらず、埃と硝煙の入り交じる戦の庭に立っていた。

「思い出す、アラート卿。ユジェーヌにも見せたかった」

今、眼前に広がるのは、地の果てまで続くかのような緑と灰色の隊列である。視界を埋める銃剣また銃剣。輝く槍先、太鼓のひびき。大隊は隙間なく戦列を敷いてゆき、九年前にかくあるべきだった幻を現出させていた。

アラートと呼ばれた男は、ノヴゴロド歩兵聯隊に向けていた視線を転じていた。壮年期の盛りを過ぎた五十才の男爵は、しかし力強く男を見据える。

「似てますな、状況は。けれど、貴方はおられなかった。忘れもしない」

「覚えているとも。だからこそ、これを見せたかった。ここにいるのは彼のはずだった。だがすべきことをした。天国であの老人も笑ってくれるだろう」

「つまり――今度こそロシア人の勇気を見せていただける訳ですな、陛下ツァーリ

アラートは微笑んだ。けれどその瞳は笑っていなかった。

男はその視線を受け止めた。しっかりと受け止めた。目の前にあるのは過去である。北の牢獄に閉じ込められた男爵の過去である。それはあの日、年老いた元帥を最後まで支えた男の、暗い記憶だった。

「ハッハッハッさてはて。云うな卿も、まったく。ボーリャ、訊いたか? 吾らはアラート卿を満足させられるのかな?」

かつて直視できなかったものを直視して、男は顔をゆるませた。

「兵は既に立ち直りました」傍らに控えていた元外交官ボリス・シェレメーチェフが、聞く人を常に眠たくさせるような声を発した。

「左翼にメンシコフ公率いる六個竜騎兵聯隊。中央の歩兵はご覧の通り。将軍の部隊を左に配して、前後二戦列にセミョーノフスキー、プレオブラジェンスキー両親衛聯隊を含む一七個連隊。命令通りノヴゴロドの連中には灰色を着せています」

ゆっくりと元帥杖で左から右へと戦列を指し示していく。

「右翼は騎乗擲弾兵聯隊を含む一一個竜騎兵聯隊。バウエル中将も初期の混乱を収拾しました」

シェレメーチェフの声はいつもと変わらず、なんら誇るところがない。けれどそれだけで、男の心は浮き立った。

この決戦の日、防塁を固めた野営地を捨て、森と川と沼に囲まれた小さな平原に立ち並んだロシアの農民たちは、青の勇者たちを相手に規律と勇気を示していた。その姿はかつてを知るにつけ、何よりも信じられないものだった。

「アラート将軍。あの日から吾々は多くを学んだのです」

なるほど、敵は今もって目覚ましい。華々しい。翻って吾らは未だ退屈きわまりなく、特別なものなど何も持たない。だが、もはや如何なるときも動じないのだ。驕らず高ぶらず、淡々と受け止めるのだ。

男は身震いした。

「その通りだ。ボーリャ。血となり肉となった兵士らの上に俺は立っている。あらゆるものが変わったのだ。アラート卿。誰もが生まれ変わったのだ」

忘れもしない。誰もが手ひどく叩きのめされた。多くが無様な戦いの末、悪夢を見た。それがどうだ!

「あの王は何処にいる?」

熱に浮かされたような声を彼は上げていた。傷ついてもなおいるか?

「あれを」

シェレメーチェフは、戦意を失わぬ青色の隊列、その中心をぶっきらぼうに指し示した。「担がれても、兵らと伴に」

見やればそこに、若き天才がいた。服装はまるで一兵卒だ。足に包帯を巻き、護衛に担がせた担架の上で、身じろぎもせずこちらを射貫く。

知れず、声が漏れた。背筋を稲妻のような何かが走り抜けた。視線すら交差したような気がした。何が原因だ。何がすべてを変えた? 

「嬉しいな。心の底から今日が喜ばしい。挨拶をせねばなるまい」

「お許しいただければ」と、アラートが一礼した。

シェレメーチェフは何も言わず、ただ眼差しを向けてきた。

意味するところは、我こそが。

片や動。片や静。どちらが良いわけでもない。だから、認めよう。男は頷いた。受け入れて、飲み込もう。

何故なら、それこそロシア。

包み込む力。受容する力。ロシアの力。

「許す。が、抜け駆けは許さん」

剣を引き抜いた。胸の上で聖アンドレイ勲章の青い絹の略綬が揺れる。「俺も出る」

勇気がみなぎるのを自覚する。

フィネットに乗って、月毛の愛馬に跨って、あの日あの時から築き上げたすべてを見せつけるのだ。

男は想いを込めた視線を軍列の先に投げかけた。

命と情熱を賭けるに足る瞬間が迫っていた。

そして。

世界を変えた七十五分間が始まった。

「祖国の命運の決せられる時がきた。ひたすらに祖国を想い、祖国のために戦って欲しい。兵士諸君、このピョートルは、ロシアが栄光と繁栄のうちに生きるためなら、自分の命も惜しまぬつもりである」

ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ。ロシア皇帝。

この日、一七〇九年六月二八日。彼ピョートル率いるロシア軍は、欧州最強と当時謳われたカール一二世のスウェーデン軍を殲滅した。僅か四分の一のスウェーデン軍に打ち破られた日から始まったロシア九年間の悪夢はここに終わり、栄光の時代が幕開けた。

ポルタヴァの戦い。それは、世界大国ロシア誕生の瞬間であった。


後記

Chrome12に更新して縦書きがそこそこ使えるようになったのでお試しで作ってみました。WebKitの縦書き表示も随分と良くなった。今回作ってみたが、IE系でもルビ以外はそこそこ綺麗に表示できている。IE8系ではルビが正常なのにね。IE9だと横書きになってしまう。このあたりはまだまだ。代わりに文章の体裁はIE9の方が縦書きに最適化されている。う~ん、どうにかならなかったのだろうか? 今後に期待である。

文章の内容は学生時代の黒歴史の一つ。掲載に当たって誤認部分は手直しした。NHKの「その時、歴史が動いた」の再現ドラマ見ながらポルタヴァがあればなぁと思いながら書いた記憶がある。懐かしい。

更新履歴

2011年7
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