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nightsongs: 74914の日々

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2003年9月28日(Sun)

無題

漢字の多用は重厚で暑苦しい。ひらがなの多用は読みにくい。電子的デバイスを使って文章を書くとつい漢字を多用しがちだが、自分の手で紙とペンで文章を書いたとしても、漢字にするかどうかを考える。なんでも漢字に変換されるからといって嬉しがっていてはいけない。よく見られるのは「五月蝿い」。なんらかの効果を狙って使う場合はともかく、日常会話に使うのはどうかと思う。「そういう漢字で書かれる」から漢字で書けばいい、というものではない。「うるさい」と怒鳴るとき、我々の頭を支配しているのは、騒音が耐えがたく不愉快である、という逐語的な意味判断ではなく、ただひたすらに「うるさい」という、その一点である。五月蝿いのではなく、うるさいのである。記号論、言語論ではなく、語感が悪くなる。「見付ける」「気付く」もなんとなく重苦しい。「見つける」「気づく」のほうがいい。「ない」に「無い」を使うことは、基本的にしない。


同じ言葉でも、状況によって漢字とひらがなを使いわけたほうが効果的なものがある。どういう効果があるかは不明。おれはたとえば「一度」と「いちど」を使いわけているが、どういうときにどちらを使うかは、言葉で説明はできない。が、使いどきを間違えたことはない(自分の文章だから当然だけど)。


漢字は基本的に見苦しい。ひらがなは稚拙である。両者を適度に混淆することで、はじめて美しくなる。文章の美しさは単語ひとつ、漢字ひとつで決定されるのではなく、全体のバランスによる。しかるに全体を構築するのは単語ひとつ、漢字ひとつである。文章の端々にまで注意を払うというのは、そういうことである。読点ひとつと言えど、あだやおろそかに打ってはならない。読点の打ち位置ひとつ、助詞の使い方ひとつに頭を悩ませるほどに、文章の隅々まで等しく気をくばる。


辞書をひく回数は、文章の技量が上達するにつれて増える。素人は、自分の記憶に頼ったり面倒くさがったりして、辞書をひかない。書き慣れてくるにつれ、辞書の使い方も少しずつ変わり、参照する頻度も増えてくる。辞書を一度もひかずに書けるような文章ばかり書いていてはいけない。常に自分の知識を疑い、より正確な用法を把握しながら書く。辞典・辞書の内容をつぎはぎしたような文章を書いてはいけない。言葉の意味は辞書で知ることができる、しかし用法まで知ることはできない。辞書の言葉は、言わば死んだ標本である。構造を知るにたやすいが、生きて躍動する様を見ることはできない。辞書のみで得た語彙を使うには、技術と慣れが必要である。自信のないうちは、「生きた用法」にあたったものだけを使うようにすればいい。辞書に頼るのはいいが依存してはいけない。辞書にこだわるのはいいが縛られてはいけない。受動的ではなく能動的に辞書に接せよ。


うるせーエビフライ投げつけんぞ! …ごばーく><
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(写真と本文は何の関係もありません。ついでに本文にも意味はありません)




今月のへびーろーてーしょん。
Dancing With The Moonlit Knight / GENESIS フィル・コリンズ萌え。
Thank You / LED ZEPPELIN
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