若い人に説教する。その後で激しくヘコむ。いったい、おれは他人様のことをとやかく言えた立場なのか、と。長く生きてるというだけでエラソウな口がきけるのなら、おれなぞより、梅干しにでも頭を下げるがまだいい。おれは真人間じゃない、それをたなにあげて他人に説教するのはたやすい。キリストさえかの女に石を投げなかった。おれに石を持てる道理はない。それでも、誰かが言ってやらにゃならんことだ。そのとき目の前にいたのがおれだから、おれが言うしかあるまい。それでも、おれは責められるべきだ。おれに人生を説く権利はない。
おれには不平不満を言う権利も資格もない。もしおれが「つらい」だの「しんどい」だのと愚痴を言ったら、愚痴のほうで首をくくるにちがいない。おれのような人間に「しんどい」などという言葉を使われるくらいなら死んだほうがましだ、と。それでもおれは、つらいし、しんどいし、愚痴を言いたい。おれのようなケツの穴の小さい人間には、わずかの困難でさえ耐えがたい苦痛となるから。小さな器は、わずかの水を注いだだけで溢れてしまう。おれという人間の器は、そもおれがまっとうな人間と言えるのなら、小指の先もない。おれは、世間なみの真人間なら苦痛とみなさない瑣末事でさえ、厭い、憂い、怨嗟する。それが、おれという阿呆だ。わかっていてやめられないのではない。わかっていず、やめようともしない。自己嫌悪に耽溺することで、真摯に自己を反省したかのように思いこむ、どうしようもない阿呆だ。だからおれは自分のことを阿呆と呼ぶ。それは、誰かれに比べておれは阿呆だ、というのではない。湯は熱く、ポストは赤いように、おれは阿呆だ。おれにとってもはや自己嫌悪は単なる自分の形容にしかすぎない。私の身長は171センチです。私の左手は右手より大きいです。私はどうしようもない阿呆です。以上、おわり。もはやおれは自分を情けないと思うことすらできんのかもしれん。あまりに自分を情けないと言いつづけたから。阿呆な自分を、あるがままの自分の本来の姿だと、理解しているのかもしれん。おれがおれの姿を真に嫌悪すれば、それを変えるはずだ。変わらないなら、おれは腐った己に満足しているということだ。
自分の阿呆さを理解するのが一歩。そこから二歩目をださないのなら、一歩の意味はない。右足をだしただけでは、歩いたことにならない。左足をだして、右足をまただして、そうしてようやく歩いたと言えるのだから。おれは歩くしかあるまい。愚痴を言い、自己嫌悪し、ヘコみながら。
「たぶん、人間のたったひとつの本当の価値は、じぶんを軽蔑できるということであろう」(サンタヤナ) おれは価値ある人間だ(←間違い)。
5月の積ん読部活動。増やすほうは12冊。減らすほうは以下略。中国の神話がおもしろい。
まちがってメモリースティック(64MB)をゴミと一緒に捨てた私に愛の手を。
ねこ「さのよいよい」分別収集に協力できてません。ていうかゴミじゃないし。返せ。
おれ「いや、それ間の手」
幸多かれと心より祈念する。あなたたちの歩く道があなたたちを望むところへ導きますように。願わくばその道が花で彩られていますように。
電撃hpにて『イリヤの空、UFOの夏』最終話読了。気まずい。なにが気まずいと言って、おれの父親は件の「グリーンラーメン(正確にはヤクルトラーメンだが)」が大好きだ。したがって、おれの家にはグリーンラーメン(正確には同上)が常備してある。常備してあるものはおれも食う。したがって、おれもグリーンラーメン(正確には前述)が好きだ。おれのクロレラは無駄じゃなかったんだ(?)。\