衝劇祭劇評バックナンバー



サイマル演劇団「昭和枯れすすき」

名前: 早瀬  俊   

 

 今回初めて見ました。客演のトモヒコ君からチケットを貰い、今まで居た劇団と

違って熱い演技ができるという話を聞き楽しみして行ってまいりました。

 確かに会場も厚いが演技も熱いものを感じさせてくれる芝居でありました。

昔私も天井の低い狭く生き苦しい小屋で芝居をした経験があるものですから大変懐かしい

思いがしました。

あれは1980年代の始まりであり、考えてみればこの劇団の人たちはそのころまだ小中学生

といったところでしょうか。

 さて、本題に入りますと、まず幕開けから緊張感のあるスタートで、赤井さんの表情

とくに目にひきつけられました。私的なモノローグから始まるなんともミステリアス(?)

な時空間のつくりはこの後ラストまでよく生きていたと思います。ただ残念なことに随所に

現れるモノローグというか長台詞をこなしきれていない役者が多かったと思われます。

テンポやトーンの変化といった基本的な技術的なこともさることながら、内的な感情の

揺さぶりが小さく、パンフレットに書いてあるような(私の勝手な期待だけだったのかも

しれないが)内的感情の爆発が見られなかったのは残念です。私も芝居を作るときは心掛けて

いてなかなかできないのですが、もっともっと役者が自分自身を追い込んでいくことが大切では

ないだろうか。

(そんなことは分かっているんだよといわれそうなのでこの辺にしておきます)また、

演出自信が出演することによって演出が甘くなることも考えなくてはならないと思います。

テンポの乱れ、リズム感の乱れ、演技のメリハリがもっとあるべき脚本であるはずなのに

役者がやっていないのではと思われる箇所も随所にありました。看板役者兼演出のつらい

ところかも知れませんが、思い切って演出に徹してもよかったのではないかと思いました。

 今後もぜひみにいきたいと思っています。生意気言ってすみませんでした。

  [2000年7月18日 20時34分35秒]

 

お名前: KIT   

 

 土曜日の昼を見てきました。ココロも体も灼熱の公演でした。ウチワサービスが嬉

しかった <(^o^;;; です。

 

 私は「マリファナベル」と2回しか見てないのですが、前の方が楽しめた感じです。

 今回の赤井氏の本の路線は個人的に大好きなのですが、もうちょっと熟成が欲しかっ

たなと思います。それから、最後、何か起こりそうだと思ったところで終わってしまっ

て残念でした。前編と続編が見てみたいなぁと思います。

 

 単語一つ一つに強烈なイメージを乗せようと頑張っていた役者さんたちでしたが、

魔力の点では佐武さんが頭2つほどリードして自在な感じでした。客演の佐藤トモヒ

コさんも良かったですが、掛け合いでは他の役者がなぜか(?)ちょっとやりにくそ

うに見えました。

 「マリファナベル」でマモーを思わせる役作りで怪演していた赤井さんをはじめ他

のキャストが今回ちょっと大人しかったのも残念です。

 

 近いうちに活動拠点を東京に移すそうですね。

 失礼かも知れませんが、他の土地で今回の「昭和枯れすすき」ような本を上演する

劇団を多く見てきました。圧倒的なパワーとイメージ力と哀感を誇る劇団が地方を中

心に数多くありました。他の土地だと、舞台と客席で果たし合いをするかのような公

演もあるかも知れませんね。あれは楽しいものですが、ぜひ仙台にも持って返ってき

て下さい。

 ご健闘を祈ります。

  [2000年7月17日 21時36分28秒]

 

お名前: 太田憲賢   

 

サイマル演劇団第11回公演「昭和枯れすすき」

 

 サイマルには佐武令子さんという看板女優がいるんだけれども、1人だけ突出して

魅力的だと、彼女が出番でないときに物足りない思いをするし、また、彼女に万が一

のことがあったりしたら、一気に劇団の魅力が低下するんじゃないか、という不安も

あった。昨年あたりから新人の女優さんが1回だけ登場することがあったが、新人に

こういう言い方は酷かもしれないけど、佐武さんに比べるとどうも見劣りする感じが

否めなかった。ところが、今回新人で出演した藤岡成子さんは、新人ながら佐武さん

に負けないだけの魅力を感じさせてくれ、これでサイマルも二枚看板ができたか、ま

すます層の厚い劇団になりつつあるなあ、とファンとして嬉しく感じたのであった。

 藤岡さんの魅力を一言で言い表すなら、「ちがちゃん的雰囲気」ということに尽き

よう。御存じない方のために説明すると、「ちがちゃん」とは、福祉大出身で現在ラ

ダ・トロッソに所属している千川原友希さんの愛称である。以前に別なところで書い

たが、千川原さんの魅力は、ファンタジーを感じさせるユニ・セックスな役柄がはま

るところにある。代表例としては、福祉大在学時代の「トロイメライ」でのカイ少年

役が挙げられるが、奇しくも今回の藤岡さんの役柄は、「少年秘書」であった。女の

子だけど、男の子っぽい格好をして登場するが、だからといって男臭くならず、どち

らの性にも属していないような、不思議な魅力をたたえている役柄。感情表現も押さ

え気味で、だからといって無愛想というわけでもない、その微妙さが、とてもかわい

らしかった。赤井君が、不思議少女の演出に長けている人とは、意外ではあったが嬉

しくもあった。むしろ、本家のちがちゃんも、最近はこの手の芝居が少ないようだ

が、一度サイマルに客演などされたら面白いのではないだろうか。

 一方の佐武令子さんはといえば、前回のような鼻水ダラダラといったミスもなく、

いつもの魅力を振りまいてくれたところは流石であった。今回は小学生役ということ

で、少女っぽい服装での登場であったが、なんというか、こういう大人の女性が小学

生っぽい格好で出てくるのって、昔のTVでコントに出演してた時のキャンディーズ

とかを思い出させて、そこはかとないおかしみがある。そんな、違和感をもたせつつ

も、かわいいと思わせるのは、やはり佐武さんの持つキャラクターの勝利であろう。

人によってはシャレにならない結果になる可能性もあるわけだから。それと、今まで

男優だけが登場していて、暑苦しい場だったところに、突然脳天気な微笑を浮かべ

て、調子っぱずれな歌を歌う女性が出てくるというシチュエーションは、やはりTV

でバラエティーアイドルが場の雰囲気をかき回して、視聴者に好感を持たせつつ観客

を笑わせる芸と共通するものを感じた。そうか、今まで佐武令子には魅力を感じつつ

も、それを具体的にうまく表現できないもどかしさがあったのだが、彼女の良さって

バラドル的魅力だったんだ、と目が覚めた次第。

 脚本についていうと、今回はいつも書いている小林君の本ではなく、主宰の赤井君

が書いたものだったが、率直にいって小林君の方が一歩勝るなあ、と思った。物語の

なかにドラマ性がなく、ほとんどの時間が1人1人の俳優のモノローグによる思い出

話で終始しているため、ストーリーの流れが悪く退屈してしまった。思い出話って、

物語の登場人物について観客がある程度感情移入した後でならアリかもしれないけ

ど、いきなり登場した人間が思い出話をするのに対してのめり込むというのは、非常

に難しいと思う。しかも、話をしている間、その情景が物理的に眼前に展開するわけ

ではないのだから、ほとんど朗読劇みたいな状況になってるわけで、「演劇」として

ビジュアルを期待してきた僕にとっては、何でいちいち情景を想像しなきゃいけない

んだよという、おっくうさも感じてしまった。やはりこの劇団は、物語の中に山あり

谷ありを作るのに長けた小林君のドラマ性ある脚本を本筋として公演していくこと

が、今後とも望ましいと思われる。

[2000年7月14日 19時34分19秒]

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高山広のおキモチ大図鑑"Dear Friends"

お名前: ロン!ドラのみ   

1人芝居で2時間弱!

それなのにちっとも飽きることなくグイグイ惹きつけられる。

本当に面白かったです。

たった一つの肉体が創り出す世界の大きさ,多彩さに感服!

とにかく観客を笑かそうとする。

時には力技であっても。

観客はまんまと罠にはまり,爆笑!

そして最後にキュンとせつなくさせられる。

笑いながらせつなくなる。ジーンとくる。

私はこんなふうに笑えるお芝居が観たかった!

 

でもお客さんがもっと入ったらもっとよかったのに。

今までもよく,いいなあって感動したお芝居で

ふと後ろを振り返ると(いつも一番前に座るので・・・)

お客さんがパラパラだったりする。

つかのお芝居とか,フィリップ・ジャンティとか,この前の南河内とか。

そんなときすごくもったいなくて,とても寂しい思いをします。

やっぱり知り合いが出てるお芝居にばっかりお客さんは集まってしまうものなのでしょうか?

来週またあのフィリップ・ジャンティが仙台にくるけど,

お客さんいっぱいになるといいなあ。

高山広もきっとまた仙台に来てくれるような気がします。(なんとなく)

県外から来てくれる質のいいお芝居をもっとたくさんの人で楽しめる

そんな仙台になるといいのにと思います。

[2000年7月13日 16時3分18秒]

 

お名前: あんもないと   

 

おキモチ大図鑑という名のファンタジー

 

公演当日のチラシにあった

「生物はもとより、モノや概念にまでなりながら、微妙な心理を表現する」という言葉に偽り

はない。この人が持つ想像力、観察力、そしてそれを実際に舞台の上で体現して見せる技術

と体力に驚かされた。そして素直に笑えて、少し感動した。

 

 舞台の上には基本的に高山氏しか存在しない。次々と演じられる者、モノ、物たちの中で、

高山氏が表現する「モノ」は他の「人間」を描写したものよりもずっと人間くさく愛しく思え

て印象的だった。

 そんな訳ないだろうと突っ込みたくなるようなTVのぼやきを、歯ブラシ・フェイスタオル

のやりとりを、思わず我が身に重ねて感情移入して見入ってしまうのは、同氏が持つ説得力あ

る表現と独特なユーモアを余すことなく発揮しているからだ。子供の頃であったら難なく入っ

ていけた、今では浸りきれないファンタジー。しかもそれは、童話やキャラクターに頼らない、

何とも日常的なファンタジーに、同氏は大人の味付けと役者の技量で難なく導き入れてくれる。 

 

 最後の「歯ブラシとフェイスタオル」では、自分を見せることを知っている器用な「役者・

高山広」と高山広という(不器用な)人物の相反する両面がよく見えたように思えた。以前に

書いたことがあったが、舞台の上の「リアリティ」と現実との違い、そういうことを充分に理

解して技術として体得している。上記の演目では2役をほぼ同時に演じわけて行くのだが、そ

の切り返しに無理がないこと、また「転倒シーン」などでも演技という技術を持って、体で表

現できる役者だと改めて感じた。

 

 舞台を見るのが初めてという人はもちろん、役者や演劇関係者にとっても見ていて感じるも

のが多い芝居だったと思う。

[2000年7月11日 23時41分0秒]

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初めて芝居を観るお客様が楽しめる芝居がなかなか無いと思われる中、

このDear Friendsはそんなお客様でも文句無く楽しめるだろう。

オムニバス形式の一人芝居なのだが、笑っているうちにぐいぐい引き込まれて

最後はジーンと来ている自分に気づく、そんな芝居だ。

色々な状況の人物を演じるのはもちろん、終わったあとその物語自体を

構造で笑わせたり。

人間はもとより、モノまで一人芝居で演じるとの前評判どうり、

老婆にリモコンで酷使されるテレビや、使い古された歯ブラシのたどる運命。

それらをたった一人で演じきるのだから見事としか言い様がない。

一人芝居の概念を変えたと言われる通り、たった一人の肉体の持つ直接性で

演劇の楽しさを十分伝えてくれる舞台だった。

[2000年7月9日 0時37分51秒]

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劇団麦「郵便配達夫の恋」

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

先ず、砂本豊の作品に挑戦した劇団麦の意欲を買う。過去75回公演のレパートリーに

明らかだが、1、2本の例外はあるにしても劇団が今まで取り上げた作品とこの作品は

異質だ。私のイメージとしては、劇団が大きいということも原因しているだろうが、多人数の

出演で、活力が伝わる内容が多く、それを得意として来た、と受け止めていた。その意味

では、この公演に期待を持った。 

 期待は裏切られた、というよりも劇団の意欲が作品の出来に結び付かなかった。

そのことを具体的に書いてみよう。

 「そんな小さなことを」と、思われるかもしれないが、砂本豊の作品は、その小さなことが

大事にされてこそ成り立つ芝居なのである。

  配達夫は書留カバンから普通郵便を取り出したが、現実としてそれはあり得ない。

  カセットテープが入っている郵便として配達された郵便は《うすっぺら》でカセットテープ

が入ってたと観客には思われない。

  「あかり」が、来る日も来る日も同じシャツを着ているのは、若い女として、恋される女と

してのセンスが疑われて、恋物語として成りたち難い。リアルで無い。

 この芝居は、「郵便配達夫・森尾と、あかりの母との恋」ではなく、「上村とあかりとの恋」

が、観る人にロマンチックに伝わらなければならないのだが、上記のような、一見小さいと

思える欠点が災いして、伝わらない。惜しいのである。

 演技について触れる。あの芝居の場合、上村の性格だけが他の登場人物とは違うという

設定になっているのだが、演技力ある斎藤にしてもいまいちリアル感に欠ける。

もち論あのような演技が非常に難しいことは承知の上での苦言である。阿部は声が上ずって

いて「セリフが体から出るのではなく口から出ている」としか聞こえない。伊藤は無難な演技で

あったし、浦崎は安心してみていられた。

 色々書いたが、長年観て来た劇団「麦」への期待は大きい。次作品を待つ。

      《1日昼観る》

[2000年7月25日 21時53分34秒]

 

お名前: 北島寛(KIT)   

 

▼ 団を代弁する立場ではないので、個人の立場で 御礼 ▼

 

 観に来て下さった方々、ありがとうございました。

あの時点での精一杯をお送りしました。少しでも楽しんでいただけたなら幸せです。

 

 皆様のおかげで、後から考えればたしかに欠点はあったと思いますが、良い芝居を

お送りできたのではないかと思っています。

 会場を出て行かれる時のお客さんの表情を見まして、正直ほっとしています。アン

ケートの回収率も良かったです。厳しいご指摘とともにたくさんの励ましをいただき

ました。

 次回10月公演では・も・ち・ろ・ん・もっと上を目指しますのでどうかよろしく

お願いいたします。

 

▼ 蛇足 ▼

 

 私はいわゆる初舞台ではなかったのですが、パンフレットで「新人」と紹介されま

したので(まさに、そのとおりなのですが)ことさら暖かく見ていただいたのかなと

思っています。役者としてはこれまでと違う、新しいものを引き出してもらえたよう

で、お客さんを始めスタッフ、役者の仲間にも感謝しています。

 夢中でやっておりましたので、舞台上で何が起き、何が起きなかったのか、これか

らゆっくり検証したいと思っています。ありがとうございました。

  [2000年7月8日 20時6分24秒]

 

お名前: 井伏銀太郎   

劇団麦は、25年以上みている私からすると、イメージ的にオーソドックなリアリズムの劇を

しっかり丁寧に作るというイメージだった。

 しかし最近は、その方法論と、作品の間にずれが生じているようでならない。

最近のエンターティメント系小劇場の作品に新劇的演出や演技が会わなくなってきているように

思う。

それはなぜかというと、麦の劇評で何度も書いたが、舞台上でドラマが起こってこないのだ。

以前私は、役者間の小さなドラマの積み重ねからしか大きなドラマが生まれないと書いた。

どこからドラマが起こるかというと登場人物間の会話からだ。

以前、言葉は数学で言うベクトルと書いたが、力と方向性、それに演劇ではニュアンスが含まれ

る。

日常では、誰が誰に向かって、どのくらいの距離感、どのようなニュアンスで会話しているか

自然に分かるが、この舞台の上では、役者間でこのベクトルが見えないのだ。

方向性もなく、力(距離感)もいい加減、ニュアンスも感じられない。

これは簡単に言うと、キッカケでだけ芝居をしていて、全く相手を捉えていないからだ。

相手を捉える前に観客に向かって説明的に芝居をしている。

それに加えてセリフのテンポが遅すぎたり、変な抑揚を付けるため、会話がかみ合わない。

 

 演出の「誰にでも分かりやすく」というコンセプトからか、役者が舞台の上で自分の感情や

内面を直接観客に説明している、相手役に集中することよりも、観客に向かって、演技をする

ことに意識が向かっている。(これがすべて悪いと言っているのではない、そのような独白や、

遊び、客いじりなど、直接観客に向かっての演技は確かに有る)しかし、だからと言って、

リアルな場面で役者間のコミュニケーションを無視していいというのではない。

確かに最終的に芝居は脚本の意味を観客に伝えるものだ、しかしそれは、あくまで役者間の

会話を通してだ。

 演劇は映画や文学と比べても、観客の想像性にゆだねられたジャンルだと思う。

観客は俳優の内面の説明を聞きたいのではなく、会話によってその場で起こっている俳優の

内面を想像したいのだ。だから余計な身振り、よけいな顔の表情での説明はいらない。

観客は一つのセリフ、行動によって、何を説明したいのかを聞きたいのではなく、それによって

何を隠したいのか想像したいのだ。

 

俳優的に言うと新人の北島寛は、他の相手を捉えられない俳優の中では、しっかり相手を捉え

ようとはしていた、少なくとも相手役に話そうとしていた。他の地域での演技経験があると

聞いたが、基本が出来ていると思った。

前回公演の「かっちん」といい、今回の北島寛といい、新人俳優が自然に見えるのはなぜだろ

う。

 しかし、北島寛は全編を通じてしっかり演技してほしかった、杖をついた足の悪い老人という

設定がいつのまにか全く無くなっている。

仙台演劇祭参加の「五番街の灯」の劇評でも書いたが、盲人の女が、いつのまにか杖で さぐらず

階段を上ったり、集団の中から友達を見つけたり。なぜ設定にあった一貫性のある丁寧な芝居

作りをしないのだろう。

演出が気がつかないのか、俳優が出来ないのかどちらかわからないが、俳優として、

物語を、与えられた設定で最後まで生きるということが出来なくなっている。

 

 伊勢江美の挫折した歌手というのも設定に無理を感じた、プロの歌手に見えないのだ。

あのギターと歌は、プロの歌手としてのリアリティーが無かった。

 

 伊藤祥司は、やはり年齢設定に無理があった。かつての母親を陰ながら愛していたという

設定なのだが、伊勢江美とは同年代にしか見えない。それを隠そうとしたのか、不自然な

メークも気になった。

 

 斎藤正樹は一人だけ浮いていた。前回も書いたのだが、よけいな動き、不自然な表情が多すぎ

る。瞬間的に表情が変わり、身振りが大げさすぎて、常に相手を指さしている。(あいてを指さ

し過ぎるのは、普通の感覚を持っている人間は失礼と思うのだが)、これは個人的癖というより

は、指さしている相手とお芝居をしてますよという、意味不明の説明にしか見えない。

 確かに馬鹿といわれる設定なのだがそれにしてもひどすぎる。常に身振り、顔の表情で説明

しようとしていて、ただただ気配がうるさすぎて、普通の人間に見えない。

何度も言ってるのだが普通のまともな人間は、自分の感情や内面を他人に対して容易に説明は

しないということをもう一度考えてほしい。

俳優は常に何かを表現しなければならないという強迫観念があるのだろうか、そこか

らは全く普通の人間が持っているニュアンスが消えている。

北島寛を除いては役のリアリティーも無くなっている。

自分たちで作品を選びながら、全くのミスキャストになっているのは何故か。

 

 かなり辛口になったが、北島寛は、今後いい役者になりそうな希望が持てた。

自然な感覚を持っているので、彼に演出を担当させるのもいいのではないか。

 

 大道具的はホリゾントを使った舞台だったが、雲と波のエフェクトをかけ感じがでていた。

このような舞台は麦らしくてイイと思う。

しかし、小道具は、ここ数年何度も言っているのだが、その公演のために新品を集めるのは

やめてほしい役者達の生活感が全く感じられないのだ。それでも、同一空間上での本物と

無対象演技の混在はなくなっていたので、確かに進歩はあった。

 

 演出は舞台において全責任を取るものだが、今回も細かいところに目が行き届かず、役者の

演技にも統一感が無かったし。行動の一貫性も無かった。

かつての、リアリティーの有る作品を丁寧に作るという姿勢をもう一度思いだしてほしい。

今後はもっと自分たちの役者体、演技スタイルにあった作品選出が望まれる。

「やりたい作品」ではなく、自分たちで丁寧に「やれる作品」が望まれている。

 

 もう一度、斎藤正樹に作品を書くチャンスを与えてはどうだろうか、集団として劇作家に

経験を積ませ育てるという姿勢も大切と思う。斎藤正樹の作家としての可能性を私は高く評価

している、いい演出がつけば必ずのびる作家だと思う、斎藤正樹作、北島寛演出の芝居を

観てみたい。(初日を見た)

  [2000年7月5日 17時37分14秒]

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

チラシにある「演出の言葉」は、現代のスピードについていけない「人々の癒しになれば」

と語っている。私も同感である。だが観客の「・・・癒し」になるためには、上演者側の

出来得る限りの努力と、観客の賛意を必要とする。間違っても「面白くなかった」と言う

ような基本的な非難を浴びてはならないし、そのための訓練を惜しむべきではない。

だが残念ながら、この演劇はその「癒し」に程遠いものとなった。

 舞台は辺ぴな漁師町の民家で幕が開く。ところが、既にここから私の疑問は始まったのである。

関係者によればこの家は灯台を想定していたとのことだが、如何してもそうは見えないし、

民家だとしても土台のコンクリートが気になってしまう。湿気の多い地域は高床のような

風通しの良い家屋を好むからである。また続いて登場する人物は、年齢不詳等の理由で役割が

判断としない。そして主演者が誰なのかさえ分からない。 例えば北島の「徳蔵」は杖を突いて

かなりの老齢を感じさせているが、かと思えば猿のように飛び跳ねて機敏な動きを見せる。

伊勢の「あかり」は声幅が少ないため、感情の起伏が押さえられ娘のようには思えない。伊藤の

「郵便配達夫」は二枚目に終始し、あかりの恋人と間違えられかねないほど若い。斎藤の「上村」

はひょうきんな面を強調しすぎて子供ぽく見えるし、作者が望んでいた人物とはこのような性格

だったのかさえ疑問である。その他にも疑問は無数にある。老人の用いた杖は最新式に見えるは

何故か。「あかね」の読む手紙は誰から誰へのものなのか明確ではなく、どれが最も大切な手紙

なのかさえ分からない。或いは「あかね」との隠れた愛情を表現できる唯一の小道具である

ワイン瓶は、上村の粗雑な扱いで何の意味も持たなくなってしまった。

 つまりそれぞれの登場人物が自分の与えられた役創りを怠り、精神性を重視する作品の特徴を

壊してしまったのである。そして全てが曖昧に解釈され、それを理解出来ぬうちに曖昧に終わら

されたのである。現代にはこのような作品こそ尊ばられなければならないと思うし、他の劇団では

得られにくい年配者の多数の観客のためにも、次回は十分な分析と十分な稽古量で望んで欲しいと

願う。

[二〇〇〇年六月三〇日初日を観劇して]

[2000年7月4日 22時33分39秒]

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南河内万歳一座「なつざんしょ…−夏残暑−」

お名前: プチ   

遅ればせつつ、すごくおもしろかったです。

私は演劇のことはくわしくない方だけれども

感想って劇を芸術ととるかエンターテイメントと取るかで

大きく変わるのだとおもいます。

でもどっちだとしても、おもしろかったな、とか笑ったり

感動したりすることがあればいいのだと思います。

見た後の後味って大切ですよね。

見てよかったと思える劇がいい劇なのじゃないのかなと。

 

この劇、また観たいな。

[2000年7月3日 19時6分37秒]

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島 文男   

相変わらずの凄まじい芝居である。舞台一杯に広がる人海戦術は、誰しもの視界に頼る

全ての感覚を満足させる。だが飽く迄それは視界に限ってのことである。我々観客には

五感があり、その他に思考する能力もある。つまり演劇に限って言うならば、演ずる側と

同様の想像力があるのである。

 緞帳のデザインは明らかに大衆演劇を目指している。要するに人間の持っている喜怒哀楽の

ほんの上辺だけを捕え、それを観客の心情に訴えようとする手法である。またそれが間違って

いると言っているのではないし、それなりの立派な演劇である。だが我々の観たい演劇とは

そんなものではない筈ではないか。その喜怒哀楽が何処から発せられたのか、そしてその

起こってしまったものに何処対処していくのかが問題なのである。或いは米沢牛の「実験、

マシーンて何だ?」のように、起こってしまったことを誇大に観せることによって再発への

警鐘とすることもある。そしてそのことを個人として、或いは総合としての芸術の姿に仕立て

上げていくことに意味がある。与えられた物語が当たり前のように帰結し、或いはそれに

幾何かの劇的趣向が凝らされたとしても、それが何程の価値があると言うのだろうか。

私達の持っている想像力とはそんなものを見るためにあるのではないし、舞台上で表現される

彼等の想像力との戦いのためにあるのではないか。だから、その場限りの一瞬が楽しめれば

良いと言った演劇は、我々の求めている演劇とは全く違うように思えるのである。勿論、

前述した緞帳は唯の照れ隠しだと言いたいことは察しがつく。しかし残念ながら、全く

その通りに感じてしまったのである。

「なつざんしょ」の作品意図は何処にあったのか。そして何を訴えようとしたのか。私には

その辺のことが良く分からなかったし、作者の演劇に対する姿勢に疑問を持った。幾つもの

賞を得た氏の事であるから、確かに演じられる舞台は文句の言いようがないほど立派な技術と

物語性を兼ね備えていた。だが我々が各々会場を去るとき、我々の心の中に何程の温かい、

或いは冷たい感覚を持たせて貰っただろうか。あの寄席での帰路と同様の空しい感覚は、

私一人にしてほしいと思った。技術を優先させ、劇的なるものを優先させ、そして訴えるべき

ものを忘れてしまった演劇の空しさである。

[二〇〇〇年六月二四日の上演を観た]

[2000年7月2日 17時48分47秒]

 

お名前: ロン!ドラのみ   

 

これは面白い!

あつい!やかましい!そして面白い!笑った笑った笑った!

あっという間の2時間10分。全然そんな気がしない!

やられました。めろめろです。

こんなに雄弁にロマンを語る男がいたんですね。

私まで今年の夏が、夏が惜しくなってしまいました。

 

去年観た「流星王者」が私の初万歳一座でしたが、去年は前評判とのギャップもあり

少し拍子抜けした記憶があります。

でも今、この「なつざんしょ」を観た今では、あの「流星王者」のよさが今ごろになって

じわじわと込み上げてきます。

万歳一座は私に最上級のロマンを提供してくれます。

嗚呼、また観たい!

[2000年6月25日 4時0分30秒]

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Lada Trosso「Sambo?」

ロン!ドラのみ   

     面白かった。というとすこし間違った表現かもしれない。

でも確かに良い感情を持って最後まで愉しむ事ができたように思えます。

でもこの公演にお芝居らしいお芝居を、若しくは「物語」を求めて観に言った人は満足できないか

もしれない。

私はチラシから受け取ったイメージが実際の公演とそんなに離れていなかったので、素直に舞台

に引き込まれる事ができました。でも拒否反応を示しているお客さんも確かにいたかな。

 

私個人まず思ったことは、「ああ、こんなある意味オーソドックスでストレートなやり方、忘れて

いたなあ。」ってことでした。演劇をあるひとくくりの枠で囲ってしまって、その枠の本質か

ら少しでもそれるようなら「これではだめだ」と批判の対象となってしまう。私自身がそういう考

え方にとらわれていた感があり、そういう意味で目の覚める思いをしました。

 

細かく気になった点をあげれば、

大いにパントマイムを取り入れていた点。特に前半の方は役者がしゃべっている内容よりも一体

何のパントマイムをしているのかに気をとられ、そっちの方ばっかり気になってしまった事。

結構めまぐるしくパントマイムの場所や内容が切り替わり、わかりにくいことが多かったんです。

ああいったパフォーマンスはLada Trossoさんの言ってみればウリの部分ですから気持ちはわか

るんですが、この作品に果たして本当に必要だったのかどうかは疑問が残りました。

 

それから役者について。今回の公演にあたりオーディションの形をとって役者を決定されたそう

ですが、正直言ってなんで出演しているのか疑問に思えるキャストの割り振りが結構目に付きま

した。要は限りなく初心者(多分)と思える役者たちの使い方なんですが、それだけのために出

すのならいっそ切り捨てるか若しくはもっとうまく使えないのかなあって。メインで活躍するベ

テランの役者達の担う部分が大きすぎて、きれいなアンサンブルとはいかない、バランスの悪さ

が気になりました。でもどの役者からも舞台に立っていることの喜びが感じられ、全体のいい雰

囲気を作り出していたことは伝わりました。

 

私はこの作品は成功したのだと思います。この公演によって打ち出したいこと、観客に感じさせ

たいことは十分に伝わる力を持っていました。

そしてとても貴重な公演だったと思えるのは私だけじゃないと思います。

[2000年6月23日 17時0分2秒]

 

お名前: あんもないと   仙台劇評倶楽部

 

「ちびくろサンボ」の絵本を見かけなくなってどれくらいになるんだろう。

劇中で繰り返されるフレーズに、懐かしさと改めて、時代の諸事情で「消される」物語を考え直す

時間をもらった。

 

ストレートなテーマと台詞が、役者の体を通して心地よいほど直球で伝わる。

ストーリー展開に主題を託して・・・なんて小手先のことはしない。

こんなに単純な、まっすぐなやりかたもあったんだと感心した。

何気ない台詞中にも役者の体は、日常の生活を見せ続けるのだが、その動きから目が離せない。

舞台の役者達に合わせて左右に首が振られるなんて久々なことだ。

何よりも役者一人ひとりの表情から目がはなせなくて、舞台の上を一生懸命に目で追う自分がいた。

芝居を観た後気づいたが、登場人物が名前で呼ばれることはほとんど無かった。

それなのに、はっきりと思い出せるそれぞれの人物たち。

個人の持ち味がしっかり舞台で生きていたんだと改めて感じた。

 

観劇後、思わず絵本朗読会に所属している知り合いに電話していた。

「絶対観て欲しい芝居があるんです。」

芝居を初めてみる人、芝居が好きな人、、表現が好きな人、いろんな人に観て欲しい芝居だと思う。

17日19時からを観た。

 [2000年6月18日 0時18分12秒]

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