太田憲賢(おおたのりよし) 仙台アイドル評倶楽部

 


太田憲賢の劇評1999年



劇団*翔王シアターの新作「RED ZONE」

劇団*翔王シアターの新作「RED ZONE」は、見ていてせつなくて涙が出そうな芝居

だった。芝居が終わった後、主宰の高野蓮さん、主演の羽賀本名君にそう伝えると、

彼らはそういう 意図でこの芝居を作ったのではなかったらしく、たいそう驚いておら

れた。その意味でこれから書く文は作者の望む感想では必ずしもないかもしれないが、

一つの作品 には正しい唯一の解釈のみが存在するわけではないという前提の基に、

こういう受け取り方もあるんだな、と思って読んでいただければ幸いである。僕が

この作品を見てせつなくなってしまったのは、主演の芳賀君演じる馬場のあまりの

ダメっぷりに対してである。ダメ人間が主人公として出てくる物語というのはある

種の人間 にとっては強く引かれるものがあり、古くは大宰治から、最近ではエヴァ

ンゲリオンの碇シンジまで熱狂的ファンを生んできたものである。本作の馬場という

人物に、僕はそれら 歴史的名作に綿々と続いている「ダメ人間の悲しさ」とでも形容

したくなるものを強く感じたのである。
 馬場は定職にも就かず、毎日家でゴロゴロしている人間である。生計はゴミ拾いを

して、会社や個人がうっかり捨ててしまった重要書類を隣室のオカマ・田村に売るこ

とによって しのいでいる。田村は自分の働いているオカマ・バーに来る常連の会社の

お偉方にその情報を高く売りつけているというわけだ。そういう事情で馬場の部屋は

いつもゴミでいっぱいで、事情を知らない大家からは出ていくかゴミを捨てるかどっち

かにしろ、と頻繁に注意を受けている。そんな生活をしているものだから、友人や恋人

などいるはずもなく、彼はいつも 無気力で寂しそうな表情を浮かべているのだった。

もう、こういう設定だけで僕は涙が浮かんでしまう。最近、東京では「ダメ連」という

、自分はダメな人間だという悩みに苦しんでいる人たちが、連絡を取り合って、お互い

がんばっていこうと励まし合う組織ができ一部で話題になっているが、学校ではいつ

落ちこぼれる存在になるかという恐怖を抱え、社会に出たら出たで今度は勉強以外の

協調性、 積極性、明るさといった新たな定規で日々計量され、他人とうまく人間関係

を結ぶのが苦手な人間にとっては、「自分はダメだなあ」と落ち込むことが日常と化

しているのが今の世の中の現実なのである。だからこそ、大宰やシンジ君にもう一人

の自分を見てしまう人たちは、「この人だけは自分の気持ちをわかってくれる人だ!」

と熱狂的支持者になるわけである。そして、本作の馬場がまさにそういう自分に自信

のない人たち(当然僕自身を含む)に、ぴったりはまるキャラクターだったと思うのだ。
 さらにいえば、本作を見て僕がふと思いだしたのは、2年前の演劇祭でサイマル演劇

団が公演した「ニキビ・ビキニ」という芝居である。この物語の主人公サエキ・ケンゾウ

も典型的ダメ人間だった。定職に就かず、道ばたの草を喰って生きているという人間で、

ある日いつものように草を喰っているうちに日射病か何かで倒れてしまい、病院に入院

して いるという設定であった。そこへ偶然、左翼ゲリラの残党のニキビという若く美

しい女性(演じるはもちろん、サイマルの看板女優・佐竹令子さんだ!)が病院を占領

して立て 籠るという事件が起こる。ニキビに好意を持ったケンゾウは、彼女を助けよう

とするがかえって足手まといになり当然のことながらニキビに疎まれる。しかしケンゾウ

の誠意が通じたのか次第にニキビは彼に心を許すようになり、最後に二人は駆け落ちの

ように病院から姿を消すところで物語は終わるのである。僕はこの作品を見たときも、

「これはオタクの夢を描いた作品だ!」と感じ、涙が出る思いだった。というのも僕自

身もまた、自分もまた、自分のようなオタク・ダメ人間にはとても彼女なんてできないだ

ろう、というあきらめを持ちながら日々生きているのだが、これは芝居という絵空事だと

わかっていつつも、そんなダメ人間に彼女ができ最後に二人が駆け落ちして 終わるという

設定に心の底から救われる思いがしたし、泣いてしまったのである。
 なぜ「ニキビ・ビキニ」のことを書いたかというと、「RED ZONE」でも馬場に彼女が

できるチャンスが訪れるのである。馬場の友人を自称し、何かというと馬場の世話を焼き

たがる中川という男が登場するのだが、彼が馬場に彼女を紹介するといい、職場の同僚・

伊藤を連れてくるのである。僕はこの展開に、物語としては嘘臭くてリアリティーがなく

なるという批判を 受けるだろうけど、こんな馬場みたいな男にも彼女ができたらどんなに

いいだろう、という思いで舞台の進行を見ていた。でもやっぱり馬場はだまされていたの

だ。中川と伊藤は大手広告代理店の社員で、うっかりゴミに捨てた大事なフロッピーディ

スクを馬場が拾ったものと判断し、彼をだまして部屋を探そうとしていたのである。結局

だまされていたと気づき落ち込む馬場に、唯一の信頼関係のもてる相手だと思っていた

田村が、じつは自分が馬場の部屋からこっそり持ち出していたことを告げ馬場にショック

の追い打ちをかけるのだった。 結局自分に好意を持っているように見える人間は皆自分を

利用しているだけだった。しかし、彼には日々の生活があり、落ち込んでばかりもいられ

ない。夜が明けると彼はのろのろと部屋を出、またゴミを漁りに出かけるところで物語は

終わるのであった。 何という絶対的な孤独感だろう。僕は馬場のラストシーンの寂しそう

な後ろ姿を見て、本当にせつない思いに胸を締めつけられる思いがした。この物語を見て

の僕の結論は、ちまたに多くいる大宰ファンやエヴァファンと同じだ。「わからないやつは

わからなくていい!でも、誰がなんといおうと馬場の気持ちが僕には痛いほどわかるんだと!」と。

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 「女優論 たかはしみちこ」

たかはしみちこには一度静かな演劇にチャレンジして欲しい!

 

僕が最近とても気になっている女優に、たかはしみちこさんという人がいる。(しかし、

芸名がひらがなだと読みにくいですね)彼女は「新月列車」という劇団の看板女優なんだ

けれども(現在は退団)、僕が彼女を意識して見るようになったのは去年の演劇祭で、

劇団からんこの「埋み火の駅」に彼女が客演してからだ。この辺の経緯は’98年演劇祭

の劇評モニター報告書に僕の文章が掲載される予定なので、重複を避ける意味でここで

詳しく書かないけど(報告書が出たら、皆さん読んで下さい!)要はモニター仲間で

佐々木久善さんという方がいらっしゃたのですが、その方が彼女の大ファンだというのを

うかがい、そんじゃどんな女優か注目してみるか、と思ってその芝居を見たわけ。そし

たらけっこう人を引きつけるオーラのようなものを持っている人だったので、「おお、

これはなかなかいい女優さんだなあ。」と思ったんだけれども、ただ、そのオーラを

今一つ上手く生かしきってないなあ、という印象も同時の持ったのである。
「埋み火の駅」での彼女の役というのが結婚詐欺にあった若い女性というもので、

日常生活ではいつも勝ち気に振る舞っているのだが、内面はとても孤独に弱くて淋し

がり屋で、まあその弱い内面を防御する意味もあって、あえて勝ち気に振る舞っている

という部分もあるわけなんだけれども、その心の弱さにつけ込まれて結婚詐欺にあって

しまうという役どころなわけね。彼女がたまたま赤いコートを着ていたところから、

僕はその時のアンケートに「まるで惣流アスカ・ラングレイーのようだ。」と書いたり

もしたのだが(わからない?そういうキャラクターの女の子がエヴァンゲリオンという

アニメに出てたの!見てない人は見てね、泣けるから。)それはさておき、その時の

彼女の勝ち気に振る舞っている時のアップテンポの騒々しい演技と、時折ふっと見せる

寂しそうな顔や自分が詐欺にあったとわかった時の悲しみでいっぱいになった表情の

コントラストがすごくよかったのだ。なんていうのかなあ、ああいう寂しげな表情が

さまになる女優さんていうのに僕はめちゃくちゃ弱いんだよね。まあ、これは僕に

限ったものじゃなくて、大林宣彦という映画監督の撮った「尾道もの」と呼ばれる

作品群があるんだけれど(小林聡美の「転校生」、富田靖子の「さびしんぼう」、

石田ひかり、中島朋子の「ふたり」などが傑作)これがまさに寂しげな表情の似合う

少女にこだわり続けたもので、この「大林映画」を愛する人であれば僕の言わんと

することが御理解いただけると思う。
ただ、たかはしさんの場合、そういう寂しげな表情がすごくいい女優さんであるにも

関わらず、その長所を生かす場面を、あえて自分から少なくしている感じがある。

つまり、自分はアップテンポで騒々しい演技をするのが似合っている女優だ、という

固定観念を持ってしまってるように見えるんだなあ。
それは「埋み火の駅」でも感じたんだけれど、2月にロングラン公演された彼女の

最新作「熱海殺人事件」では、より強調された形で出てしまった。つかこうへい作品

だから騒々しい演技をするのが原作に忠実でいいんだと思ったのかもしれないんだけど

、脚本の中にはけっこうセンチメンタルな場面も多いんだよ。ああここはもっと間を

たっぷりかけて寂しい表情を長くして欲しいのになあ!と思ったシーンが何回あった

ことか!そう思う間もなくすぐに騒々しい芝居に逆戻りしてしまって、ほんともった

いない!たかはしみちこの真価は静かな芝居にあり!これは美少女センチメンタル

映画にうるさい僕が言ってるんだから間違いない!ということで提案なんだが一度

徹底して静かな演劇に彼女はチャレンジしてもらいたい。
いい例が佐竹令子さんだ、彼女の所属するサイマル演劇団も「疾走する演劇」をテーマ

にしており、そのためアップテンポの騒々しい芝居をすることが多かったのだが、

三角フラスコの「ソラシドミニカ」に客演したのを機に、とぼけた味のあるかわいい

女の子という役柄を見事に身につけ、演技に幅を持たせることに成功したのだ。

その意味では、生田恵さんの演出がいいだろうな。二人芝居で相手役は我が悪友・

関ステレ夫(鳥の庭園所属)でどうだろう?あんがい関君の方が食われまくりそう

な気がするぞ(と親友には冷たい太田なのであった)。

 [1999年7月12日 19時11分24秒]

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劇団 M.M 第2回公演 「ミリオンセラー 〜運命の見分け方、教えます」 

太田 憲賢 「愛すべきジコチュー女」(劇団M.M「ミリオンセラー」)

前回の「RED ZONE」でも書いたことだけど、僕が演劇を見る場合、登場人物に

感情移入するという見方で楽しむことが多い(特に「ダメ人間」とか「困ったちゃん」

といわれる人に対して)。これは人それぞれ違うことだろうとは思うけれども、僕自身の

人間としての資質がダメ人間に共感するようにできており、なおかつ物語に「自分の

気持ちをわかってくれること」を求める傾向が強いので、必然的にそうなってしまうのだ。

さて、さる7月24,25日にエル・パーク仙台で観劇した、劇団M.M(「ママ」と

読みます)の「ミリオンセラー」というお芝居は、まさにそんな僕に「ビビビ」とくる

内容だった(実はこの「ビビビ」というのはこの物語のテーマとなる言葉だったりも

するわけだが)ので紹介したい。物語は松本聖子という、明らかに松田聖子のパロディー

とわかる大スタア(笑)が、 自分が運命の男の人に出会った時に「ビビビ」とくる

ものがあって結婚したという(トホホ・・・)体験を基にして書いた本がミリオンセラー

となっている世界での話。2組の男女の間で起こる四角関係のドタバタなんだけど、

男性ペアは職場の先輩後輩、女性ペアは大学のクラスメートという設定で、どちらの

ペアも片方がしっかりもので片方が困ったちゃんなワケ。ここまでの経緯から考えれば、

僕が困ったちゃんの方に感情移入するというのは当然わかっていただけると思うん

だけど、じゃあ男女のうちどっちかっていうと、これが女の子の方なんだな。「なんで?

あんたは男なのに」って、思うでしょ。実は、男より女の方がキャラクターが立って

たんですよ。もっとあからさまにいうと、女の方の困った度が激烈に高かったんだね。

男の方は彼女がいなくて、「彼女欲しい!彼女欲しい!」と騒いでいる人間なんだけど

、 彼女がいないこと以外で特に歪んだ感じもなくって、僕の見る限りではなんか印象が

薄いんだよね。そこそこ格好いいし。これに対してタムラ・ミキさん演じる女の子の

方は、「ジコチュー女」って劇中でいわれちゃうんだけれど、とにかく自分がいかに

いい女かについてアピールばかりしているメチャクチャ騒々しいヤツ。男の2人組の

方の先輩(シッカリしてる方)に片思いするんだけど、彼が優しいのをいいことに、

相手の迷惑かえりみず、飲みに連れまくり! 夜中に電話かけまくり!でも、そんな

困った度が上がれば上がるほど、僕は彼女のことを気に入ってしまったんだなあ。

なんでかっていうとね、この手のタイプの人間っていうのは自分に自信がないんですよ。

本当に魅力があるのなら「能ある鷹は爪を隠す」っていうけど、黙っていても周りの

人たちはその人の魅力を認めてくれるはずでしょ。でも自分に自信がないから、自己

アピールを積極的にしていかないと、「ダレもワタシをみてくれない!!」という不安

がある。つまり孤独に対する強い恐れがあるわけ。「RED ZONE」の馬場の場合

は自分に自信がないから自分の殻にこもってしまったわけだけど、「ミリオンセラー」

の女1(タムラさんの役名)は自分に自信がないから、必要以上に自己アピールをして

「ジコチュー女」とまでいわれてしまう。 外側に出てくる人格は正反対のようだけど、

根っこの部分は同じダメさをもっているってことなんだね。そしてタムラさんの役作り

がまたよかった。ダメ人間を表現するってことは、一歩間違えると 見ている人に不愉快

な感情をだかせる危険性もあるんだけど、彼女はその「ジコチュー」さを、とっても

コミカルに演じていたので、観客はあまり不快感を持つことなくその三の線ぶりを

笑いことができた。そして敏感なお客さんなら、その心の中にある弱さを、隠し味と

して(うっすらとではあるが)感じることができたと思うんだ。物語はシッカリした方の

二人が、実は昔ささいな勘違いで離れていた恋人同士だったということがわかり、ダメな

方の二人も、お互いを「ビビビ」と感じる相手だったと気づくという他愛のないハッピー

エンドでおしまい。それにしても、このタムラ・ミキさんという人は、初めて拝見したん

だけど上手い役者さんだねー。最近若手劇団でいい女優さんが次々出てきていて、

仙台演劇界も未来が 明るいって感じだね。

[1999年8月2日 20時8分49秒]

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劇団ミモザ『キャラメルマン』 

太田 憲賢   

「宮城県の宝」について僕も一言 太田憲賢佐々木さんと一緒に大河原までミモザを見に行った

太田です。実は佐々木さんとは昨年の劇評モニターで一緒だったのですが、その時から貴重な友人

ができた、と喜ぶと共に「この人は僕にとっての劇評ライバルだぜ!」という意識も持っていた

ので、今回のミモザ評には正直いって「やられた!」と思いました。どこがやられたかっていえば、

やはりこの「さざなみしおんは宮城県の宝である」という表現ですよ。なかなか思いつく形容詞で

はない。劇評を書くとき、いつもワンパターンなほめ方ではいけないな、と思いつつボキャブラリー

で苦労することは劇評書いている人なら経験あると思いますが、まさか「宝」とは・・・。

しかも、それがミモザにピッタリはまってるんだよなあ。さらに驚いたのは、後の配役紹介の中で

「キャラメルマン1(お宝)」と書いてあって、あれ、お宝って役者は出てなかったはずだけど、

と考えつつ、あっ!さざなみさんのことか、なんという念の入れよう!しかもユーモアたっぷりに。

もう今回は参りました、って感じです。でも、佐々木さんもいつもこういうユーモアたっぷりな

文章を書いて欲しいのに、なぜか「仙台っこ」の劇評は紋切り調で物足りないんですよねえ。

こういう笑いに溢れた文章を、ぜひよそでも書いて下さいませ。 ところで佐々木さんの劇評では、

物語のあらすじが載っていないので、どんな話かよくわからない 方も多いと思いますので簡単に

説明しますと、舞台は100年後の世界で今よりももっと環境破壊が進んでいて、世紀末感・

この世の終わり感が強まっているのですが、そこに現代の天才科学者(兼劇作家)・さざなみ

しおん(お宝)が、死体を改造して蘇らせたサイボーグ、その名もキャラメルマン(って、それって

ゾンビかフランケンシュタインじゃ・・・。)をタイムワープで 派遣し、世界中にキャラメルを

空からまき散らすことによって人々に子供の頃の純粋な心を思い出してもらえれば少しは終末的

状況もよくなるだろう、という、とーってもいいお話なんですけど、実さざなみさん(お宝)の

サービス精神溢れたドタバタギャグの炸裂するパワーで、本来のテーマがよく見えなくなってし

まっているという、なんとも素敵な物語だったのでありました(これって褒めてないって?

いえいえ、客にとっては面白ければ結果オーライですよ、というのが僕のポリシー)。 特に

温暖化で南極の氷が溶けかかっているという危機的状況を描写するため、ペンギン三羽のエピソ

ードがあるんですけど、一羽が「しりとりをすると、最後にペの字の単語が少ないので、ペンギン

と呼んでくれる人がいない!」と言い出して(それって温暖化と何の関係があるんだよ!)、

なぜか突然大しりとり大会が始まるシーンにはもう爆笑しちゃいましたよ。 しかも、オチが

「カトちゃん、ペ!」だよ・・・。ドリフネタかい!ラストシーンも、キャラメルマンが空から

降らしたキャラメルが、猛スピードで地上に落ちてきたため、それが当たったことが原因で多数の

死傷者が出てしまったという、去年の「星空の迷子たち」を見たものにとってはにわかには信じが

たいブラックなオチ(しかも、そのキャラメルが人々には「恐怖の大王」と呼ばれるようになった

というオマケつき)。もちろん、もっとブラックなネタをとばしている劇団は他にありますけど

、あのミモザがブラックユーモアとは・・・、という衝撃に僕と佐々木さんは思わず客席で硬直

してしまったのでした。えずこホールの知り合いの職員の方に聞いたところ、さざなみさん(お宝)

は来年、再び仙台公演を考えているとのこと。これはみなさん、見なきゃいかんでしょう!今から

とっても楽しみバビョーン(byキャラメルマン4号)。

[1999年8月6日 19時20分29秒]

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宮教大演劇部公演「天使は瞳を閉じて」

宮教大講堂に天使を見た!  太田 憲賢

高校野球の季節ですね。世間ではプロ野球より高校野球の方が好きだ、という人がけっこういらっ

しゃいます。技術的なことを考えたらプロの方が優れているのになんで?という疑問を持つ人もい

らっしゃるでしょうが、技術的には劣っていても、それを超えたひたむきさ、一生懸命さが見るも

のの心を打つということは現実的にあるんですよ。これはスポーツに限ったことではなくて、僕は

クラシック音楽も好きなんですけど、例えば技術的には下手だけど一生懸命演奏しているアマチュア・

オーケストラが、プロの演奏会より感動を生むということだってありまして、そこが芸術・文化の

面白いところでもあり、奥の深いところでもあるのだと思います。
実は最近僕は高校・大学の演劇部の公演を見に行くことにはまっているのですが、その理由は、

今述べた法則が演劇にも当てはまるように感じるからなのです。三女高、仙台高校と見てきまして、

どちらも、もし技術的にうるさい人が御覧になればいろいろ言いたくなるようなところもあるとは

思うのですが、僕にはそれを超えたところでの感動というものを強くいだかずにいられなかったのです。
さて、以上の前提を基にして、僕の高校・大学ツアー第3弾、宮教大演劇部公演「天使は瞳を閉じて」

(8月9,10日、宮教大講堂)についてお話ししましょう。
鴻上尚志の代表作ともいえる作品ですので、あえて細かいストーリーは述べません。人間社会を見て、

自分も人間になりたい、と天使から人間に変わった天子(てんこ)という女の子を中心とした、

若者たちの哀しい群像劇です。ここではその中で一番感動したエピソードについて述べます(なにせ

2時間40分の長いお芝居でしたので、印象的なシーンを全部書いていくと、きりがなくなりそう

なんですよ)。芸術家志望のケイという女の子が天子(てんこ)を主人公としたビデオ作品を作り

ます。これが、天子が天使の格好(といっても、背中に羽を付けて、頭に輪っかをのっけてるだけ

の簡単なもの)をして、何回もただ「だいじょうぶ!、だいじょうぶ!」と言いながら視聴者に微

笑みかけることを繰り返すだけ、というもので、ケイはTV局にこのビデオを売り込むけれども、

さすがにTV局の人も、「これは放映は無理だよ」と断ってしまうのですが、実は僕はこのビデオ

のシーンで不覚にも涙がこぼれてしまったのです。
  今回、2日間の公演がダブルキャストで、僕は初日の9日(月曜日)に見に行ったのですが、

その回の天子役・吉田みどりさんが、ものすごくよかったんですね。このシーンは、天子は実は本

当に天使だから、見ているものがファンタスティックな癒しを感じさせるシーンになるわけなので

すが(でも演出の解釈によっては、ものすごくパロディックなシーンにもなりうるところです)、

吉田さんってほんとに天使みたいだったんですよ!
 吉田さんという人は、体が本当にちっこくて、そのせいか声量が細くて、バックで他の役者が歌

を歌ったりしているところでしゃべるシーンではセリフがよく聞き取れなかったり、また、芝居に

メリハリをつけるために、劇中で「イッツ、ショウタイム!」と一人の役者が叫ぶと同時に、 何人

かで踊りを踊るシーンが何回か挿入されるですが、他の役者ほど基礎を積んでないのか、その場面の

吉田さんの踊りだけひどくぎこちないなあ、と感じさせたり、まあ例えばサイマルの芝居を見て、

佐武令子以外の役者は発声からやり直すべきだ」と書かれた井伏さんあたりが御覧になったら、まず

酷評しそうな演技だったのですが(笑)、これが先に述べた天使の役を演じる場面になると、 その

マイナス面が逆に、はかなげ+ファンタジーを感じさせる雰囲気として、本当の天使のように見える

というプラス面に変わっていたのでした。
  もし吉田さんを演技が今一つにも拘わらず天子に抜擢した理由が、このビデオのシーンで彼女の

マイナス面が逆にプラス面としてハマる!、彼女でなくてはこのシーンは生きない!との判断から

決めたものだとすれば、ここの演劇部の演出家は本当に大したもものです。なぜなら、僕が冒頭で

述べた、「見る者を感動させることと技術面の上手さが必ずしも一致しない」という例に彼女も

当てはまることにこの演出家は気づいていた、ということなのですから。
 もっとも吉田さんの場合は、冒頭で述べた高校野球的一生懸命さというよりも(もちろん彼女も

一生懸命がんばっていたとは思いますが)、むしろ今述べたような、彼女のもともと持っている、

はかなげなオーラとでも呼びたくなるようなもので、より強く感動させてくれたのでした。実は

僕は彼女を見ていて、昔のアイドルのことを思いださずにはいられませんでした。70〜80年代の、

いわゆるアイドル歌手といわれた人達は、歌が下手な人が本当に多かった。当時子供だった僕は

、なんで歌唱力のない人の方が、実力派と呼ばれる人より人気があるのだろう、と憤りを感じて

いたものです。しかし、歌唱力というものばかりが人を惹きつけるものではない。技術的な面以外

での、オーラとでも呼ぶしかないものは存在するのだ、ということがやっと理解できるように

なったのは、ある程度年齢を 経た最近になってからのことなのです(我ながら情けない話です)。

そういえば原田知代なんて、TVのベストテンで思いっきり音程はずしまくってたけど魅力あった

もんなあ。今じゃスウエーデンロックの歌姫だそうだけど。実はこのコーナーの常連、関ステレ夫

君と佐々木久善さんは共に「現在の」原田知代のファンで、佐々木さんはコンサートにまで足を運

ばれたそうです。僕が、「時かけ」(もちろん、「時をかける少女」のことだ!)歌うんなら僕も

コンサートに行ってみたいなあ、と話したところ、2人には「さすがに今は『時かけ』は歌わんよ。」

と言下に否定されてしまいました。しかし、吉田さんに天使が似合うように、「時かけ」を歌って

こその 原田知代じゃないのか!と、僕は昔とは全く逆の憤りを感じずにはいられなかったのでした。
 吉田さんも、これから役者としてのキャリアを重ねていくにつれて、技術力は向上していくもの

と思われますが、その、本当の天使のようなはかなさをいかにして失わないでいてくれるかが、

実は大事なことだったりするんじゃないかなあと感じます。でも、こればかりは努力によって

どうなるというものでもなさそうだけに、難しいよねえ。

[1999年8月17日 0時24分29秒]

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劇団ポトフ第2回公演「TOM」

ポトフの主役は田中麗奈似

 無国籍の劇評を巡る議論では、地元の女優をアイドル的視点で見ることへの批判もあった。しかし、

私には今もって納得いかない。そもそも、アイドルであれ地元の女優であれ芸術・芸能の存在として、

不特定多数の観客の視線に晒されるという意味では、 両者は等価ではないのか?などと堅苦しい書き

出しをしてしまったが、要はこの前見た芝居に出ていた主演の女優さんが、またかわいかったので

紹介しようというだけの話なのです。
 さる8月29日(日)、多賀城市民会館で拝見した劇団ポトフ第2回公演「TOM」の主役、

TOM役の女の子が、また田中麗奈似でとてもかわいくてよかったのでした。8月29日?そう、

この日はサイマル、重箱、IQと各劇団の公演が重なっていたのですが、私はそのどれも蹴ってあえて

ポトフへ行ったのです。赤井君、熊谷君、井伏さん、申し訳ない!まあ、いつも見ている劇団には

マンネリ感を最近もってまして、新しい劇団を開拓したい、という気持があったんですね。ポトフは

多賀城市が主催した手作り創作ミュージカルの卒業生達が自主的に作った劇団だそうです。そのため

、まだ公演回数もまだ2回ということもあって、技術的にはまだまだのレベルではありますが、

やはり一生懸命やろうという熱意が伝わってきて、見ていてとても気持ちいい。
 物語は飼い猫TOMが家出するところから始まります。TOMは飼い主にとてもかわいがられては

いたのだが、それは文字どおりの「猫かわいがり」で、家から一歩も出たことのないTOMは、外の

世界で自由に生きてみたいという欲求を募らせていたのでした(ちなみに飼い主は、ラダ・トロッソの

瀬戸みなさんです)。で、このTOMはオス猫の設定なのですが、演じているのは中学生か高校生

ぐらいの女の子なんですねえ。先に田中麗奈似と書いたけど、彼女の魅力ってむしろセクシャルな

ものとは反対で、男でも女でもないような存在、天使・妖精的魅力なわけです。つまり、TOMは

オス猫だけれどもまだ子猫なので、あえて女優さんを使うことによって、天使的魅力を出そうとし

たわけですね。これは、例えばアニメのエヴァンゲリオンで主役の碇シンジ君の声を女性の声優さん

があてていたり(14歳なんだから本当なら声変わりしてるはずだし、実際彼のクラスメートの役は

皆男優さんが声をあてているわけで、これはシンジ君に中性的魅力を出させようという効果なの

でしょう)、また先に劇団きいろいもくばが旗揚げ公演「Wonderingで、主役の少年役に

女優さんを使っていたという例などにも見られるものです。つまり、的を外した意見とはいえないよ。
 それで、このTOMの子の寂しそうな表情がとてもいいのです。脱走したTOMは空き地で野良

猫達と出逢います。そこで、ある野良猫に祭りの楽しさを説明されるんだけど、その時のTOMの

「僕、お祭りって一度も見たことがないんだ」といって寂しそうに下を向くシーンが、心にジン!

とくるのです。これは、美少女趣味の人じゃないとわかんないだろうなあ(それにしても、瀬戸

さーん、お祭りぐらい連れてってやってよー!)。 また、野良猫として生きていくために仲間の

ミハエルという猫からネズミの取り方を教えてもらうのですが、ミハエルが模範演技を示して、

TOMにやるように勧めても、「僕、こんなことできないよ!」と、また寂しそうに泣き言を

もらすのです。これが男優が演じてたら、「甘ったれるんじゃねえよ!」とドツキたくなる

ところですが、かわいい女の子が言ってくれるおかげで、「その寂しそうな表情がいいんだよ!」

と感動してしまうのでした。
 ちなみに、このネズミの取り方を教えるミハエル役の女の子も、飯島直子に似ていてかわい

かったなあ。ホントにアイドル系の顔した女優さんが多い劇団で、アイドル好きの私のような

客にはこんなに嬉しいことはありません。
 この飯島直子については、TOMの先輩猫という役柄でもあり、20歳前後の人なのかなあ、

と思って見ていたのですが、いっしょに見にいった佐々木久善さんによると「いやいや、太田さん。

私は客出しの時に飯島直子の顔、近くで見ましたけどね、けっこう若くてTOMと同じぐらいの

年って感じでしたよ。」とのこと。ううむ、さすが佐々木さん、チェックが厳しい!さすがに

私が劇評ライバルと認めただけのことはあります。佐々木さんはミモザの劇評でも、「テクノ

イド・ナオはピチピチしていた」と書いてましたが、女優に対する視点に私に近いものを感じ

、嬉しく思います。なんてことばかり書いてると、「太田さーん、あんまり私をバッシングの

方向へ巻き込まないで下さいよー!」と怒られるかもしれません。でも、佐々木さんは帰りの

車の中で、「TOM=マージナルな存在」という、真剣な演劇論を展開なさっていたので、

ぜひこの後にその御意見を投稿して下さって、真面目な読者を感心させて下さいませ。最後に

余談を一つ。配布されたプログラムの協力欄に小山全志の名前があったのですが(!)、いったい

全ちゃんはどこで何をしていたのでしょう?気になるところである。

[1999年9月9日 13時5分4秒]

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井伏銀太郎プロデュース公演「ROUGE」

「こら太田!また女優ばっかり見て!」(江目ひとみ篇)

 

 僕が「ROUGE」を見てしみじみ思ったのは、江目ひとみさんっていい女だなあ、

ということでした。えっ、井伏さんはどうだったって?うん、まあよかったとは思う

けれども、でも僕の場合魅力的な女優さんが出てくると、そっちの方に意識が集中し

ちゃって、他の要素が二の次になってしまうことは、今までの僕の劇評をお読み

いただいた方はよく御存じのことでしょう。そういうわけで、井伏さんには

申し訳ありませんが、これから書く内容のほとんどは江目さんについてです。

あしからず御了承下さい。

とはいいつつも、なにしろ性格の屈折したこの太田のことです。素直には褒めません。

では、どこがよくてどこが気に入らなかったのか?順を追って説明しましょう。

 今回のチラシを見てもわかるとおり、江目さんの役どころは「女女したの、

イヤだったんです」という意識を持った女性です。女女してないけど魅力的な女性、

というと2パターンあって、一つはボーイッシュ、もう一つはユニ・セックスという

イメージです。ユニ・セックスというのは、以前にポトフの主役の女の子について

述べたけど、妖精的というか中性的な魅力なわけ。で、今回の江目さんの役どころの

場合は、物語の中で学生時代「男みたいだった」と言われてるところから考えて、

むしろボーイッシュの方でしょう。つまり、妖精的というと、女女してないまでも

弱っちい可愛らしさみたいなものがあるんだけど、ボーイッシュの場合はもっと男の子

寄りで、それこそ体育会系っていうかね、あのー、昔さ、大沢逸美っていうアイドルが

いて、その子のデビュー曲が「ジェームズ・ディーンみたいな女の子」っていうもの

だったんだけど、えっ?そんな昔のしかもあまりメジャーじゃないアイドルなんて

知らない?ウーン、じゃあ「うる星やつら」ってマンガあったよね?あれで藤波竜之介

って女の子いたじゃない。女なんだけど、親に男として育てられて、ほっそりしてて

腕力強くて胸にさらし巻いてて・・・、ああいうのをボーイッシュっていうのよ。

 それで、話を「ROUGE」に戻すけど、江目さんが登場して、「ほお、これは

なかなかいい雰囲気を持った女優さんだなあ」と最初は思って見ていたんだけれど、

そのうちだんだんなーんか違和感を感じ始めたのね。その違和感がなんだろう、

ってしばらく考えていたんだけど、要するに江目さんの魅力ってボーイッシュな

ものではないんじゃないか、という根本的な疑問をもってしまったのよ。

 江目さんって、体全体のスタイルもどちらかというとポッチャリ系だし、顔の表情も

落ち着いた柔らかさを感じさせるし、瞳も穏やかな優しさが宿ってる感じだしで、

うーん、これはグラマーな女女というのとはまた違うけれども、でもいわゆる男に癒し

を感じさせるような、「優しい女の子」の典型的タイプではないのか?そこに太田も

惹かれたのではないか?と思ったわけよ。

 例えていうとね、まあ今回物語の中で映画の話がたくさん出てきたので、映画でいき

ましょうか。「櫻の園」っていう女子高演劇部を舞台にした傑作があったんだけれど、

あの中に江目さんがセーラー服を着て登場してたら、実に違和感なくピッタリはまって

そうな感じがするんだよなあ。それで絶対学級委員タイプね。周りの女の子がアイドル

や隣の男子高のカッチョイイ男子のウワサ話でキャーキャー騒いでる中、一人だけ微笑み

ながら静かにお弁当を食べてるっていう配役だったら右に出るものはないって感じ

(ちなみにこういうシーンは「櫻の園」にはありません。僕が今想像した江目ベスト

シーンの一つです)。

あるいは、大学のサークルでの紅一点とかね。やっぱり映画サークルでしょう。

それで夏休みなんかに、合宿組んで自主映画撮るわけだよ。どっかの高原のお花畑に

ロケに行って、そこで江目さんがフレア・スカート着ててさ、にっこり微笑みながら

スキップすると、フレア・スカートがフワーッて少しだけ上がって、そこのシーンだけ

ストップ・モーションになるんだよ!わざとフォーカス甘めにしてね。いいなあ、

甘酸っぱい青春の思い出だなあ。そんな映画あったら絶対5回は見るぞ、俺。

そんなわけで、物語のクライマックスに、題名にもなっているルージュをつけることに

よって、ボーイッシュな少女が大人のレディにヘンシーンっていうシーンにも、いまいち

ノリきれなかった。黒の色っぽいドレス着てたせいもあるんだろうけど、なんか、

かたせ梨乃みたいに見えちゃったんだよ(笑)。清純女子高生がフェロモン姉御に

ヘンシーン!まあ、確かにすごい変化だってビックリはさせられたけど、作者の意図する

変身とは微妙に異なるような感じが、ウーン、しないでもない。

あと、井伏さんが後半、別れた奥さんの話にかこつけて「やっぱ、オッパイはいいよ、

オッパイは!」ってこだわるシーンがあるんだけど、これはクライマックスへの伏線に

なってるんだろうなあ、最後に江目さんのシーツをとったら(メイクをしてもらっている

ので、美容室みたいに服の上にシーツをずっと掛けていた)どんな衣装か楽しみだなあ、

とワクワクしていたんだけど、これに関しては期待どおりでよかったです、ヘヘヘ

(もっと詳しく説明しろって?ダメダメ、また「女性の人格を無視した視点だ!」だの、

「太田はまだ懲りないのか!」だの、怒りの抗議が殺到するとイヤだからね、こっから

先は自主規制、自主規制)。

以上が、今回のお芝居に関しての主な感想なんだけど、最後にもう一回。くどいよう

だけど、やっぱり江目さんの清純派青春モノ、何とかやってほしいなあ。

柔らかな微笑み!フレア・スカート、フワーッ!ストップ・モーション!青春の思い出!

今関あきよしワールド!!見てえ、絶対見てえ!!

 でも、IQの劇団としてのカラーを考えると、その手の叙情派作品をやる可能性は

低いだろうなあ・・・。どっかで江目さんを客演で使おうって劇団、ありませんかね?

「きいろいもくば」さんあたり叙情派得意そうだけど、いかがです?

絶対はまりますよー、江目さん。

 余談2。江目さんの苗字って「ゴンメ」って読むらしいけど、「エメ」に改名したら

いかがっしょ?今回の物語で映画の話がキーになってたけど、映画女優で「アヌーク・

エメ」っていたじゃないですか。「ゴンメ」より、雰囲気出てていいと思うんだけど

なあ。

 [1999年9月27日 21時18分28秒]

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えずこシアター第3回公演『場所』 

お名前: 太田憲賢    課長がかわいそう過ぎるよー(泣) 

この物語の主人公の女性は、いわゆる普通の会社に勤める普通のOLなんだけど、自分の仕事が誰に

でもできるものなんじゃないかという疑問を日頃から抱えていて、ある日、下請けに厳しいことを言

っている上司である課長と大喧嘩してしまうんですね。そこでの彼女のセリフがさあ、なんか「自由に

本音でものを言えない人間関係なら、 会社なんてない方がいいんです!」とかいうものだったんだけど、

でも自由に本音で 無国籍の劇評を書いた太田はバッシングを受けたぞ(笑)。
まあ、自由に本音でものを言う、ということは聞こえはいいけどリスクを伴うというのは太田も彼女も

同じだったようで(笑)、彼女は課長にクビを宣告されます。それで、彼女は失業者となり、以前から

仲のよかった屋台でパンを売っているお兄さん(のぼりに「愛のパン」と書いているのが、なんとも

ねえ・・・)と一緒に桜を見上げるところで物語は終わるのですが、この物語の教訓は何か?ここで、

「口は災いのもとっていうことですね」という答えができるようなら、あなたは「作者の意図とは違う

見方で芝居を楽しむ視点」大合格です!でも、まじめな 話、この物語を見ての僕の感想はそうでしたよ。

要するに、この物語の作者の吉川さんみたいに、自由に本音でものを言いながら飯を食える人って、

今の世間ではごく限られた能力ある人だけなんですよ。この前書いたアマデウスの例でも言ったけどね。

だから、この物語の課長みたいに不本意ながらも会社人間になっているのがほとんどなわけ。シアター・

ムーブメントでの公務員の課長も、やっぱり相当ステレオタイプな人格だったけど、なかじょうさん

といい、吉川さんといい、芸術に携わっている人達って、どうしてこう組織人間に対する憎悪というか

アレルギーが強いんだろうね。もちろん、自分は組織に頼らず一人で生きているんだ、という自負が

強いからなんだろうけれども、でも実際に見に来るお客さんのほとんどは、そういう組織の中に生きる、

という現実にあるわけなんだからさあ、そういう立場の人の心情も汲むような視点も必要だと思うよ。

つまり、この前文月さんに「素朴すぎる」と指摘したことが、なかじょうさんや吉川さんにも当て

はまると思うわけです。結局、主人公は再就職できたかどうかうやむやのままに終わっちゃうん

だけど、あの性格じゃ他の職場に行っても絶対トラブル起こすと思うぞ!まさか、公立ホールの

芸術プロデューサーになりました、なんてオチじゃないだろうね(笑)。

[1999年9月16日 13時25分2秒]

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太穣の舞(太白区文化センター開館記念 区民手作り演劇) 

佐々木さん、僕は太白区長もなかなかの名演だったと思いますよ(笑)。ところで、佐々木さんは

シアタームーブメントと比較していらっしゃいますが、たぶんこれは今年のシア・ムーのことだと

思います。ただ、本作は主人公が若い女性で、仙台に住み続けるか否かを悩んでいるというストーリー

を考えると、むしろ昨年の「夢の観覧車」と比較するのが、適切だと思うのです。では、「夢観」

と比べた場合は、どうか?僕は、それでも今回の「太穣の舞」の方が断然上だと思います。だって、

主人公のキャラクターが「太穣」の方がずっと立ってるんだもん。「夢観」の場合は、主人公は

ポーッとしていて、何で仙台に残っていたいのか見えないキャラだったけど、「太穣」の場合は、

仙台に残るか彼氏と北海道へ行くかの心の揺らぎがよりリアルに見えましたからね。
 実は本作の作者は、先にピアスの客演で名演をした、元「そよ風」の小山浩美さんなんですよ。

ピアスといい太穣といい、3年ぶりとは思えない大活躍ですね。仙台演劇人フォーラムに表彰制度

がないのが残念だけれども、もし表彰制度があれば、小山さんを99年度仙台演劇カムバック賞に

真っ先にノミネートしたいと思います(それとも井伏、太田、佐々木の3人で私費を出しあって、

「劇評バトル特別賞」でも作りましょうか?)。ラストもカーテンコールが終わった後、役者の

踊りがあったところが「マカマカ50」みたいで楽しくて良かったです(でも、「太穣の舞」と

「マカマカ50」の両方見てる人って、太田・佐々木の2人だけかも・・・)。ぜひ、来年のシア・

ムーは「太穣の舞」をやってほしいです。地元の石垣さん演出で充分いい作品になりますよ、

それこそ佐々木さんのいうように無理して東京から演出家ひっぱって来なくたって。そのときは、

ぜひ太白区長の客演も続けてネ!(区長が登場しただけで、会場から拍手がおこるんだもん。

出てきただけで拍手をとる役者なんて、七ヶ浜で見た片桐はいり以来だよ。 つまり、太白区長は

片桐はいりレベルの役者なんですよ!?)。

[1999年10月8日 11時40分1秒]

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劇団満塁鳥王一座公演「水の上を歩く」

 さる10月17日(日)、福島駅西口テントにて、劇団満塁鳥王一座公演「水の上を歩く」を

見てきた。この公演は、本来10月9,10日に台原森林公園で行われるはずのものであったが、

公園当局側が「作品が社会的通念に反する内容」との理由で貸し出しを許可しなかったと聞いて

いる。それで、わざわざ福島まで見に行ったわけである。

しかし、私が以前に無国籍の論争で論じたように、社会的通念に反する=不道徳であるものでも、

人間の心の中には「業」というものが現に存在するのであり、それを演劇というバーチャルな場で

取り上げることがいけないという考えには納得しがたいものを感じる。むしろ、社会的通念に反し

ているからこそ、現実ではない場で取り上げる意義があるのではないだろうか。

さて、実際のストーリーでどこが問題になったのだろう?私は、当局の見解を直接聞いたわけでは

ないので断定はできないが、実際に芝居の内容を見て推測するに、おそらく登場人物の1人が、

衝動的に猫や犬を殺すことに楽しみを見いだす人間であり、それが次第にエスカレートしていき、

最後には小学生の殺人に至るという内容が、例の「酒鬼薔薇事件」を連想させる、ということでは

ないだろうか。しかし、これはまさに作者の大信氏が言うとおり、作品のテーマに関わることであり、

妥協はできないところであろう。この作品のテーマは、社会学者・宮台真司氏の言う「終わりなき

日常」がつらいと感じる人間たちが、いかに「強度」を自分の生活の中に見いだすか試行錯誤を

するというものであると、私は理解したからだ。

物語は海辺の古いアトリエで個展を開こうとする若い女性が主人公で、その「少年殺し」の男は、

個展の準備の手伝いをする仲間の1人なのであるが、この主人公の女性も、自分の生活にいかに

「強度」を見いだすか、悪戦苦闘しているような人物である。退屈な日常から脱却するために、

彼女は行きずりの男と寝たり、周りの仲間が一生懸命準備の手伝いをしている中、ふらっと散歩に

出たまま帰らなかったりする。では、彼女が宮台氏の言うコギャルのように、理想的な「まったり」

した生き方をしているかといえば、どうもそうには見えない。手伝っている彼女の親友の女性や

(奇しくも私と同じ太田という名字であった)やはり手伝っている昔の彼氏(大信氏本人が演じて

いた)が主人公があまりにわがままだと説教すると、彼女は「自分にとっては意味ではなく、強度が

大事なんだ!」という、まさに宮台氏が本に書いている内容をそのまま書き写した理屈を、ベラベラと

声高に反論するのである(後で大信氏本人に聞いてみたら、やはり大信氏は宮台氏の本の愛読者だそうだ)。

もし、本当に彼女が「まったり」と「強度」に身を任せて生きているのだとすれば、このような理屈を

述べたりはしないだろう。コギャルが自分の生き方を正当化するために、延々と理屈を述べたりしない

ように。つまり、理屈という「意味」を経由しないと、「強度」に達することができない、という意味で

彼女のとっている態度には矛盾があるのだ。「強度」に身を任せて生きたいけど、現実には「意味」

がないと、きつい。しかし、これはコギャルではなく、今の世の中がきついと感じている、私自身の

姿でもある。その意味で、私はこの矛盾を持った主人公や、少年殺しの男性に共感した。

ストーリーは、少年殺しが露見した男性に、主人公+主人公の妹が一緒に海へ向かい、入水自殺する

結末で終わる。結局、彼らの試行錯誤は失敗し、死ぬという選択しか残されなかったのだ。「水の上を

歩く」という題名は、この結末の比喩である。水の上を歩いて、向こう側に行けばユートピアが

あるかもしれないと言う希望。しかし、そんなものは幻想にすぎないという苦い現実がこの題名に

込められている、と私は思った。実は当日、関ステレ夫君と会場であったのだが、彼は「最近の若者達

の群像をよく描いている」といった感想を述べていた。しかし私には、彼のように「最近の若者達」と、

登場人物を自分から切り離して、第三者的立場から醒めた目で見ることはできない。関君には、この

登場人物達のような屈折が自分の心の内にないのだろうか?自分は彼らとは違い心の歪んだ人間では

ないんだ、と自慢しているようで。それではなぜ君は演劇というアートに関わっているの?現実生活

だけでは満たされない、一般の人たちとは違う心を持っているからこそ、演劇してるんじゃないの?

という疑念を感じてしまった。私は、あえてカミング・アウトするけど(と、いうより私の文を読ん

でいる人は既によくご存じのことだろうが)、私の心が屈折し、歪んでいるからこそ、演劇が好きで

あり、特にこの作品に感動した、とハッキリ述べさせていただく。

[1999年10月20日 11時16分0秒]

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劇団ピアス第7回公演「夏の砂の上」

公演から多少時間が経過してしまいましたが、劇団ピアス第7回公演「夏の砂の上」(9月17〜

19日、エルパーク仙台)について書かせていただきます。この公演で強く印象に残っている、と

いうか驚いてしまったのは、ピアスのレギュラー陣の芝居がひどくダラダラと退屈なものだったの

に比べ、客演した役者さんが緊張感のあるいい芝居をしていた、両者のあまりに極端な差に対して

でした。例えば劇団三銃士の紺野鷹志さん。僕はこの人の演技を「アリゲーターダンス」「越前牛乳」

で見ているのですが、もう独特の過剰な雰囲気を持った人なんですね。それで、今回は主人公の倒産

した前の会社の元同僚という役で、飲み会の後主人公の家を 訪れるという設定で登場されたのですが、

もう出てきただけで、今までダラーッとしていた場の雰囲気が、まるで「俺が紺野鷹志だーっ!」

と言ってるかのようなオーラを体中から濃厚にまき散らしてくれるおかげで、会場に「待ってま

した!」とでも言いたくなるような活気が満ちてくるんですよ。それでまた、酔っぱらいの役が

はまるんだ、この人は。客演ということもあって多少セーブはしてるんだろうけど、それでも

ピアス・レギュラーにはないパワーを感じさせてくれました。

また、元・未来樹で「そよ風」の芸名で親しまれていた小山浩美さんが、3年ぶりの舞台として、

今回久々に出演されていらっしゃいまして、それでこの人も未来樹時代から、やっぱり独特の

雰囲気を持った役者さんだったのですが、3年のブランクがあっても衰えていませんねえ!先の

紺野さんが交通事故で亡くなられて(もちろん役の中でですよ!)、主人公が通夜に行こうとす

るとき、突然彼女が訪問してくるのですが、頭と腕に異常に大きな包帯を巻いて現れるんですね。

それだけでも異様な雰囲気なのですが、それから延々と自分がなぜこのような大けがをしたのか

話をするんですよ!通夜に行かなくてはいけないのでソワソワしている主人公の気持も知らず。

自転車に乗っててボーっとしてただのなんだのってね。気分を害するというより、むしろこの人

どっかオカシイんじゃないか、という異様な不気味さを感じさせるわけ。この間の異常な緊張感、

そしてそれを一種不条理ギャグ的な味にまで昇華させているところが、彼女のウマサなんだよ

なあ(結局、主人公の妻と彼女の夫が浮気をしているということを訴えに来たというのが真相

だったん だけど、やっぱり異様だよなあ、自転車の話、延々・・・)。このように、客演陣が

健闘しているのに、レギュラーの役者だけのシーンになると途端に、ダラーッとした雰囲気に

なっちゃうんですよ。この原因は何かといえば、僕は渡辺ケン君の「透明な演出」にあると思

うんですね。実は僕と渡辺君とは高校の同級生で、その関係もあってときどき親しく雑談した

りしているのですが、ちょうど去年の今頃だったか、彼にこんな話をされたことがあるんです

よ。「僕は透明感のある役者を使いたいんです。いろいろな役を柔軟にできるには、役者 に色

がついてない方がいいんです。」僕がその時、「仙台で僕が一番上手い若手女優は岩佐絵理

(steamTV)だと思うなあ。」という話をしたところ、彼は「確かに彼女は上手いけど、

色がつきすぎてるから、ウチでは使えないなあ。」と答えたのを、「へえ、そういう考えもあ

るんだ。」と驚いて聞いた覚えがあるのです。しかし、今回の公演の結果を見てもわかるよう

に、観客の目を惹きつける、いわばドラマのある芝居をできる役者って、まさに「色のついた

個性的な」客演陣なんだよね。 透明感を大事にするあまり、レギュラーの役者に魅力がなく

なってしまったら、本末転倒じゃないかと思うんですよ。

 奈尾真なんて、「熱海殺人事件」や「ポレポレ鳥」など、他所に出演してるときはイキイキ

としたいい演技を見せてくれるのに、なんでピアスに出た途端あんなに生彩がなくなるんだ?

僕はこれを仙台演劇界七不思議の第一番に挙げたいくらいなんだけど、 要は渡辺君の「透明

演出」に問題があると思うんですね。だから奈尾君ねえ、なんでもキミ、「自分にとってピアス

は本妻、ナベオ君やミチコ リンと芝居をするのは愛人関係みたいなもの」みたいな発言した

らしいけど、現実問題としてピアスでの演技の方がツマンナイという事実を受け止めてほしい

んだよねえ。あと、あんまりミチコリンを悲しませるようなことをいうと、たかはしみちこ

ファンクラブ会長の、この太田が許さないよーん!!なんてね(でもこのファンクラブ、

会員は 現在、太田・佐々木の2名しかいないのであった。トホホホホ・・・)。

[1999年10月5日 12時36分15秒]

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演劇部隊シンデレラボーイズ「誰よりも高く翔べる方法」

遠藤裕美さんって超カワイー!

 私が女優のことばかり書いている劇評について、「かわいい女優しか見るべきところ

がなかった芝居」というネガティヴな評価を、嫌味っぽく書いていると思われている方

も多いかと思う。しかし、それは誤解だ。決して皮肉ではなく、他の諸要素に見るべき

ところが全くなかったとしても、女優の存在がとても魅力的なものであれば、私にとって

その芝居はポジティヴな評価を与えるべき芝居なのだ。

 だから、さる9月18,19日にエル・パーク仙台で公演された、演劇集団シンデレ

ラボーイズの「誰よりも高く翔べる方法」についても、私にとっては杉浦虎介役の遠藤

裕美さんが、ただひたすら可愛かったという感想しか持てないものであったけれども、

それは私にとって決してネガティヴな評価ではなく、また一人魅力的な女優さんに出会え

たとの喜びの方が強いのである。

 この物語は廃部寸前の社会人野球の選手が終戦直前の同じ野球部のある会社にタイム

スリップするという話で、当時のその会社は軍に接収されていて、軍人さんが野球部の

部員を兼ねているという設定なのだが、遠藤さんはショートの選手役・つまり男性の役を

演じていたのである。

ここでIQにおける江目ひとみさんと同じ問題が生じる。遠藤さんの持つ魅力は、果た

してボーイッシュなものかどうか?確かに彼女はショートカットで小柄で体も細いという

こともあって、男性の役も無理なくこなしてはいた。しかし、やはり私はもったいない!

と思ってしまうのだ。なぜなら、彼女は男性を演じるには、あまりにも可愛らしすぎるの

である。

今、私の手元には、当日公演の際に配布されたパンフレットがあって、そこには彼女の

写真も掲載されているのだが、これを見てあらためて感じるのは、彼女ってアイドル時代

のキョンキョンとか、元レベッカのNOKKOとか、あるいは岩井俊二の映画「picn

ic」に出てた頃のCHARAに雰囲気近いな、というものだ。彼女たちに共通している

のは、ショートカットで小柄で線が細いという、まさに遠藤さんと共通するものであるが

(そして最も重要な要素として、笑顔がカワイイ!)しかし、彼女たちの魅力は必ずしも

ボーイッシュというものではなかったことは、多くの方が御存じのことであろう。だとす

るならば、遠藤さんの魅力も(無難にこなせはするものの)必ずしもボーイッシュなもの

とはいえない、という私の意見も御理解いただけよう。

 ところで私はこの公演を楽日(日曜日)に見に行ったのであるが、その時遠藤さんは

もう声がすっかり潰れてしまっていて、途中でほとんど何を行っているか聞こえない状態

となっていた。これに関しては、TPOを考えず、どんなシーンでも役者にただひたすら

絶叫をさせる演出に非常に疑問を感じたのだが、他の役者は誰も声が枯れていなかった

ことを考えると、彼女の発声法にも問題があったのだろう。まあ、あえて私がここで書か

なくても本人自身が一番自覚し反省していることだと思うので、あまり深く追求はしな

い。私がここで言いたいのは、以前にも書いたが、役者の魅力というのは技術的な意味で

はマイナスな要素も、観客の視点からは逆にプラスに感じられる場合もあるということ

だ。

 この物語の中で、彼女は空襲によって全身に大怪我を負い、途中から半身不随になっ

てしまう。同時に彼女の部隊の中で仲間割れが生じていたことも、彼女の心に大きな傷と

なっており、そんな状況の中で、車椅子に座った彼女が打ちひしがれた表情で「みんな、

嘘つきだ!」と叫ぶシーンは、彼女の声が潰れていたことが、彼女の悲しみをより深く

感じさせるものとして、非常にプラスに作用していたのだ。カワイイ女の子が、下を向い

て寂しそうな表情をしている。もうこれだけで、大林映画好きの私などは「心にクル!」

シーンなのだが、声枯れがさらにオプションとして、「ヒョウタンから駒」的効果では

あったにしても、有効に作用していたのであった。

そんなわけで、私にとって遠藤裕美さんの存在は、新たなニューアイドルの登場!的

衝撃だったのだが、ぜひ次回作では彼女にカワイイ女の子役を与えてほしい。IQの江目

さんの場合は、おしとやかな優等生が似合うと先に私は書いたが、遠藤さんの場合は、

同じ優等生でも、元気のいい女の子というパターンだろう。幼なじみに不良化している

男の子がいて、「煙草吸っちゃダメでしょ!」とか 「授業さぼっちゃダメでしょ!」と

か会う度に怒ってる女の子。男の子の方は「いつもうるせーなー」なんてブツブツ言って

るんだけど、心の中では彼女のことを憎からず思っている。まあ、青春ドラマにありがち

なパターンだが、男の子やらせるよりは彼女の魅力が絶対生きると思うんだよなー!

今回の配役にしても、部付きの女医役を彼女が演じても、「カワイイお姉さん先生」と

いう感じでよかったと思うんだよ。そのかわり、ショート役をどこかから男優を客演させ

て。ぜひ、次回作では御検討いただきたい、と切望する次第である。

  [1999年10月8日 20時59分17秒]

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劇団山全「スラップスティック・エロティック」

このお芝居のテーマは、チラシや当日パンフにも書いてある「機械を使わずに子供を作

れるの?」というものだ。舞台は近未来。DNA操作が現在より発達し、子供は全て人工

受精によって生まれる社会で、あえて遺伝子操作をせず生まれた「野生児」の若者7人を

当局が拉致し、機械を使わず子供を作ることができるか実験するという内容であった。

 演劇が「作り物」である以上、現実とは違うフィクションを織り込むこと自体は当然責

められるべきものではない。もし、リアルでなくなるからと全てのフィクションを否定し

たら、SFなど存在自体を否定されてしまう。問題は、メインの設定にフィクションを持

ち込んでも、枝葉の部分にまでウソが満たされれば、今述べたリアルさがなくなるという

危険性が出ることだ。だからこそ、脚本の中には現実に近くしなければならない部分もあ

ると私は考える。

 例えば、「12人の優しい日本人」という芝居がある。これは映画化もされたので御存

じの方も多いと思うが、もし日本にも陪審制度があったら?というフィクションを基にし

た内容であった。ここで、登場人物が皆アメリカ人のように議論好きで、何でも白黒をは

っきりつけたがる人間達であったなら、物語は面白くなくなってしまう。つまり、登場人

物が、議論によって人間関係がギスギスするのを避けたがる典型的日本人であるというリ

アルさが、観客が登場人物に共感させるために必要な要素なのだ。つまり、外的条件にフ

ィクションを入れても、登場人物の心情はなるべくリアルであることが、観客が感情移入

する上で望ましい、と私は思うのだ。

 ひるがえって今回の「山全」である。冒頭に述べた「機械を使わずに子供を作る社会」

という設定はいい。問題はそれに派生して、登場人物が皆セックスの方法を知らない、と

いうフィクションが生じていたことだ。作者は、子供を機械で作るようになれば、人は皆

セックスしなくなるだろうと考えたようだが、本当にそうだろうか?

 私が思うに、これは近未来に限らず現在既におこっていることだが、人間にとって性欲

とは、既に生殖行為から離れて、娯楽・快楽として使われているという事実を本作は見落

としているのではないか?たとえば、ピルやコンドームといった避妊具が現実に販売され

ているのはそのよい証拠だし、また、ソープランドなるものが実際に存在し、女子高生の

援助交際が社会問題となっているのも、やはり人間が性欲を本来の目的から離れた娯楽と

して利用している証明である。

 例えば、これを食欲に置き換えればわかりやすいだろう。昭和30年代頃の「サザエさ

ん」に、近未来では人間はビタミン剤で栄養を摂取するようになる、という四コマがあっ

たが、現実にビタミン剤やカロリーメイトなどが当時より商品として増えた現代でも、食

欲は単に栄養を摂取するという本来の目的を離れ、グルメと称して、よりおいしいものを

食べようとする人間は現実にたくさん存在するのだ。だとするならば、例え機械で子供を

作るようになったとしても、快楽に対して積極的な人間がセックスをしなくなるとは、現

実に考えられないではないか。

 つまり、私が冒頭で言った人間の心情に対するフィクションを本作は行ってしまい、そ

れが作品からリアルさを失わせてしまったように感じるのである。

 ただし、唯一感情移入できる点があった。それは、登場人物のうち2人の男性が1人の

女性を好きになる、いわゆる三角関係になった場面である。1人の男性は、とてもストレ

ートにアタックし、もう1人はムードづくりを巧みにすることによって女性に近づく。で、

結局女性は後者とくっつき、とうとう子供も作ってしまうのだが、前者のストレートな男

性は、正直であることがアダになり、ストーカーに対するのと同じような非難まで浴びて

しまうのであった。「彼は正直なだけなのになあ。」と、似たような経験を何度も持つ私

は、いたく同情してしまったのであった。

 

[1999年10月27日 12時28分11秒]

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三角フラスコ公演#009「ミカン」 

 例えば冷たい日本酒を飲んだ時って、その場では大して酔っぱらってないなあ、と思ってい

ても、後になってからジワジワと効いてくることってあるじゃないですか?お芝居の中にも、

そういう冷や酒みたいなのがあるんだよねえ。例えば、去年の演劇祭で見た「在」(現「山

全」)の「あいたいよー」。物語のテンポがメチャクチャ悪くて、見てる時はものすごく腹立

ってたんだけど、後になってから思い出してみると、登場人物達の孤独な心が、だんだん胸に

染みてきて、「あれって、ホントはいい作品だったんだよなあ。」と、自分の心の中での評価

が徐々に上がってくる。今回の三角フラスコの「ミカン」もそんな作品でした。

 主人公の実香は、複雑な家庭環境が原因で、いわゆる「引きこもり」状態になっている女の

子。しかも、「電波系」の症状も出ていて、巻き貝の貝殻を電話の受話器と思いこみ、そこか

ら流れてくる「ミカン」という人からの「電波」と話をすることを、毎日の楽しみにしている。

 なんで実香が「引きこもり」になってるかというと、彼女と同居しているかな子って女性が

実香の父親の後妻なんだけど、実香とほとんど年が違わなくって、しかも実香とは幼なじみで、

もっとショッキングなことには、どうも実香が中学時代から既に実香の父親と加奈子は同棲し

ていたらしい、という回想シーンが出てくるんだ。これは屈折するよねえ。だって、言葉悪い

けど、「ロリコン親父」じゃないですか。

 この実香の回想シーンで、ロリコン親父がセーラー姿のかな子を抱きしめて、デヘヘヘヘな

んて笑ってる姿でも出てくれば、実香の屈折が、より明確な形で観客にもわかったと思うんだ

けれども、そういう生々しいシーンを出さないのが、生田さんの美学なんでしょうねえ。この

シーンは、実香の一人芝居で処理されていました。もちろん、三角フラスコが今までファンタ

ジー的な雰囲気を重視する劇団であり、そういう生々しいシーンはあまり出したくない、って

いう気持ちはわからないでもない。でも、そういう(あくまで実香にとっての)醜いシーンで

も、それを明らかにすることで、実香が「ミカン」へと逃避する理由もより明確に見えてくる

し、むしろその「ミカン」との幻想シーンをより美しく見せるためのスパイスになりうると思

うんだよねえ。まあ、個人的な好みの問題といわれれば、それまでなんですけどね。

 あと、「引きこもり」っていうのはアダルト・チルドレンの人に似た屈折だと思うんだけど、

通常のアダルト・チルドレンと呼ばれる人たちの物語の場合は、登場人物達は淋しいもんだか

ら、いろんな人たちと接触しようとするんだけど、彼ら本人も歪んでいて人を傷つけやすいし、

また、心の弱い人たちのことだから、普通の人ならそんなに傷つかないところでも必要以上に

傷つくという性癖があるため、結果的に人間ドラマが生じやすい。それだけ、観客が感情移入

しやすいシーンも増えてくるわけだけど、「引きこもり」の子の場合は、内面的にはそういう

アダルト・チルドレンの人たちと同じ寂しさを抱えてるんだけど、彼らとの最大の違いは、も

うあきらめてる、ってことなんだよね。アダルト・チルドレンの人たちみたいに「居場所」や

「自分をわかってくれる人」を探すために一生懸命にならない。つまり、自分を受け入れてく

れる人や場所なんてないんだ、とあきらめているから「引きこもり」になってる。気持ちはわ

かるんだけれども、でも引きこもってばかりいると、今述べたような自分探しをするアダルト

・チルドレンとは違って、ドラマが生じにくいんだね。去年の演劇祭での「すばらしいメガネ」

でも、やはり今回と同じ瀧原弘子さんが主人公だったんだけど、自分の家に「引きこもる」キ

ャラクターだったため、退屈なお芝居になってしまったと思うんだ。

 良かった芝居といってる割には、批判的な文章になってる?それがまさに「ミカン」の冷や

酒的な特長なんですよ。芝居の流れから言えば、だらだらとした退屈なものになっていた。だ

から、実際に見ているときにはイライラしてしまうんだけど、終わった後になってから主人公

の孤独な心を思いやると、ふと涙が目ににじんでしまう。そういう意味で、「ミカン」は「あ

いたいよー」にとてもよく似ているし、心に屈折を持っている人でなければわからない、客を

選ぶ芝居だと思うんですね。

 だから、ある意味エヴァ論争と似たところがあると思うんですよ。わからない人には、「な

んだ、あの作品は!」という怒りの対象になるし、同じ屈折を持つ人には「涙が出た!」とい

う程の高いシンクロ率を示す作品。でも、僕は以前に「わからない奴はわからなくていい!」

という文章をここで書いて批判されたけど、「ミカン」のことをわからない、っていう奴に無

理にわかってもらう必要は本当にないと思うなあ。泣ける人は、自分の心の中に大事にとって

おきなさい、と言いたくなる作品でした。

 

[1999年11月4日 10時9分0秒]

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宮城教育大学演劇部「Perfect Lives」  

私は常々、作り手の視点とは違った視点での楽しみ方などを提唱していることもあり、皆様

にはひねくれた鑑賞法ばかりしている奴のように見えるかもしれませんが、作り手の作品内容

が素晴らしいものであれば、なにもわざわざ屈折した見方をせず、素直に感動するのは当然の

ことです。ただ、そういう芝居がなかなか少ないという現状を私は指摘したいのです。

 しかし、これから紹介する宮教大の「Perfect Lives」は、ストレートに見て

も感動する希有なものでした。こういう芝居が見られると、本当に心から嬉しく思います。

 舞台は近未来のクローン人間を秘密裏に開発している研究所でのもので、五年間の記憶を消

された主人公の科学者が、何者かに襲われ逃亡しているうちに、ある恐るべき秘密計画が浮か

び上がってくる。その中に恋あり、友情ありといった盛りだくさんなもので、2時間10分の

大作でした。

 学生演劇で2時間以上なんて途中でだれるんじゃないか、という懸念を隣に座っていた佐々

木久善さんなどは開演前におっしゃっていたが、私はそんなに心配していませんでした。とい

うのは、前回公演の「天使は瞳を閉じて」は2時間30分と、もっと長い芝居であったにもか

かわらず、最後まで飽きさせず見せることに成功していたからです。

 なぜかといえば、この劇団の役者のレベルがみな高いからです。ストーリーの中にギャグを

ちりばめているシーンがかなり多いのですが、いくら脚本のギャグが面白くても、肝心の役者

が「ボケ、ツッコミ」のタイミングなどをうまく演じなければ、客席は白けてしまい、かえっ

て本筋とは関係ないシーンが多いことが、だれる原因になる危険性にもつながるのですが、彼

らの笑わせるタイミングは、実に絶妙なのです。「ピアス」や「山全」の役者陣など、弟子入

りして一から教えてもらったらいいんじゃないか、と思ったぐらいでした。

 もちろん、ギャグだけが素晴らしいのではありません。例えば主人公役を演じた菅野準さんは、

善人と悪人の1人2役というとても難しい役どころであり、しかも2時間10分ほとんど

出ずっぱりにも関わらず、見るものに不自然さを感じさせず演じ分けていたんだから本当に大

したものでした。また、クローン人間で、成長が普通の人間と違い、1週間で死ぬように設定

されているという悲劇のヒロイン役を演じた高橋奈穂子さんも、役柄の関係上、少女からギャル、

おばさん、老婆のすべてを一つの物語の中で演じ分けなけらばならなかったのだが、これ

がまた巧いんだ!例えていうなら、まるで松坂慶子を見ているような感じでした。

 それぞれの年齢がどれも不自然なく演じているんだから、ビックリしてしまいました。こん

な上手な女優さんが仙台にいたなんて!しかも4年生で今回が最後の公演だなんて!今までど

うして学生演劇だというだけで、アマチュア劇団よりレベルが低いんだろうな、というレッテ

ルを勝手に貼って見なかったんだろう、と後悔することしきりです。その意味でも、今回の演

劇祭でも高校演劇を特に熱心に見ているようにしているんですけどね。本当に、学生演劇に弟

子入りした方がいいんじゃないか、ていうアマチュア劇団たくさんありますよ!これからは、

社会人劇団は本当に好きな数劇団だけを見て、後は学生演劇鑑賞に専念しようか、とすら考え

ているくらいです。

 もちろん、今述べた主役級クラスに宇限らず、準主役、脇役もみな上手で、いちいち書いて

いたらキリがないので、以下申し訳ありませんが省略させていただきますが、個人的好みで1

人だけ紹介しますね。研究員の1人で、天然ボケ的なキャラクター役の笹本愛さんが、とても

かわいくてよかったです。前回の「天使は瞳を閉じて」でも、ぼけるシーンでの演技がとても

面白かったのですが、その時はシリアスな役柄だったため、その魅力を完全には出しきってい

なかったのです。でも、今回は役柄がもともとの彼女の個性にあっていたようで、とても楽し

く拝見することができました。トロンとした大きな瞳が、手塚のぶ絵さんを連想させますが、

彼女をさらにグレードアップした力を持っているように感じました(手塚さん、引き合いに出

してごめん。でも、本当によかったんだ、この子)。

 最後に1つだけ残念だったこと。前回「天使は瞳を閉じて」で天子役を演じて、私がこの欄

で「涙が出た」と書いた吉田みどりさんが今回は裏方に回られて出演されていませんでした。

もちろん、いろんな経験を積まれることはとても大事なことだと思いますが、僕は彼女の何と

もいえないオーラがとても好きなんだよなあ。一観客のわがままな希望として聞き流していた

だいてもかまいませんが、次回公演では再び役者としての御出演を、ぜひお願いします!

  [1999年11月15日 11時51分11秒]

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劇団ウインドカンパニー第3回公演「誘惑の天使」 

ここのところ、私が扱う劇評は「自分探し」をテーマとしたものが多かった。もちろん、

私自身がそういったテーマに関心があるということも採り上げる理由なのだが、では、逆

にそれら小説でいえば純文学的なものとは対照的な、徹底したエンターテイメント志向の

芝居が嫌いかといえば、そんなことはない。娯楽作品には娯楽作品の面白さがあるし、多

様な価値観を同時に愛することができるのが、本来人間というものだろう(少し、大げさ

な言い方かな?)。実は、これから紹介する劇団ウインド・カンパニーの「誘惑の天使」

という作品が、まさに徹底的にエンターテイメントを極めた大河ドラマ的傑作だったのだ。

 舞台はソヴィエト崩壊後のロシア。主人公のミハイル・コルサコフは元バレエ・ダンサ

ーだったが、今は元教会を改修したクラブの店長になっている。そんなある日、かつての

プリマドンナで、彼の相手役だったタチアーナが彼のもとを訪れる。2人はかつて共に亡

命を計画したのだが、彼女だけが成功し、失敗した彼はKGBの手により収容所へ送られ

たという苦い過去があったのだ。彼女は亡命先の米国で、亡命を手助けしてくれた米国人

・レオナードと結婚したのだが、商用でロシアを訪れたレオナードが突然行方不明になっ

てしまう。彼女は手がかりを求めてモスクワの町を歩いているうちに、ふとした偶然から、

ミハイルのクラブを訪れたのだった・・・。

 どうです、設定からしてドキドキワクワクさせてくれる内容でしょう!。そして、物語

はロシア正教で用いられる、天使が描かれているイコン(宗教画)に秘密の暗号が隠され

ている(天使にそれぞれ番号がついているという設定が、「天使は瞳を閉じて」にシンク

ロしていていいですね)、旧KGBがスイス銀行に残した多額の隠し財産をめぐり、ロシ

ア・マフィア、旧KGB、新興宗教団体の3つどもえの争いが展開し(レオナードも実は

その争奪戦に1枚噛んでいたことが、のちのち明らかになっていく)、ミハイルも次第に

その争いの中に巻き込まれていくことになる・・・。

 これら各種団体の暗躍や、ミハイルと彼らとの戦い、そしてバレエダンサー時代の思い

出や、さらには歌や踊りが次々と舞台上に織りなし、見ている観客に退屈する隙を1分た

りとも感じさせないのだ。まだ3回しか公演していない彼女らが、これだけのストーリー

を書き上げているとは、本当に驚かされる。だらだらしたテンポの芝居を繰り広げる退屈

な劇団が仙台には数多いが、ぜひウインド・カンパニーの芝居をみて、学ぶべきところは

学んでほしいと痛感した次第だ。まだまだできたばっかりの劇団に、どうして我々数年の

キャリアがある劇団が学ばねばならないのか、などという下手なプライドは捨てるべきだ。

仙台高校の芝居をみて、30代の太田が高校生に教えられた、という劇評を以前に書いた

が、本当によりよいものを作りたい、と各劇団の皆さんが思っておられるのなら、キャリ

アや実績など二の次と考えるべきではないだろうか。

 まあ、そうはいっても、以前に「的を外す楽しさ」でも書いたが、屈折した私が彼女ら

のストーリーをストレートに受け止めてだけ楽しんだのではないことは事実である(笑)。

マンガでいうなら、「巨人の星」で、目の中に炎が燃えているシーンが、のちのち「すす

めパイレーツ」や、ほりのぶゆきの短編などでパロディー化されたように、大仰で味の濃

い作品というのは、どうしてもパロディー化した視点で、笑いの対象として楽しまれてし

まいがちである。ウインドの芝居も、国際舞台を背景にした、怒濤の愛と野望が渦巻く世

界なわけだから、これはどうしても大げさな場面が頻出してしまい、つい笑ってしまうシ

ーンもまた続出するわけだ。もちろん、これは彼女たちの芝居が劣っているということで

は決してなく、太田の視点が、いわゆる「オタク的屈折」に満ちているというだけの話な

ので、ウインドの方々には、私の笑いを決して失笑とは受け止めないで、自信を持って、

今の路線を続けていって欲しいものである。

 とはいいつつも、ついつい書いてしまうのが太田の業なのだが(笑)、実は元KGBの

三人組のリーダーは、金髪が多い役者陣の中で、黒髪の七・三分けに、黒ブチ眼鏡、それ

にこげ茶のスーツといういでたちだったんだけど、なんか元KGBというより、どっかの

人口五万ぐらいの市役所の庶務課長って感じだったぞ(笑)。私の隣で見ていた佐々木久

善さんが(最近、休筆が長いので、ぜひ本作の劇評は書いて欲しいです)、「シア・ムー、

えずこシアターと並ぶ、今年の仙台演劇界の三大課長だ!」と言っていたのが、なんとも

爆笑もんでした。そして、この元KGBの三人が「KGB復活の歌」というのを熱唱する

のだが(「この世に秩序は必要だ〜」とかなんとかいう、なんだか物凄い歌詞だった・・

・)、なんか昔のタイムボカンに出ていた例の三人組みたいで、そのトホホ感がなんとも

たまらない!(笑)。いい味だしてたなあ、本当。

 さらに、それを上回るトンデモだったのは、後半登場する新興宗教・ルシファー団の教

祖様!。純白のゴージャスな衣装に身を包み、拉致したレオナードに向かって、「君と僕

はずっと一緒だよ・・・」と、甘く囁きかけるところなんか、まさに「やおいマンガ」的

世界が爆発!って感じで、もうサイコー!(笑)。絶対、ミイラとか作っていそうな怪し

い雰囲気プンプンだったもんなあ(笑)。

 

[1999年12月5日 12時16分16秒]

上の書き込みで私は、「まだ3回しか公演していない彼女らが、これだけのストーリーを書

き上げているとは」と書きましたが、実は本作は以前に宝塚で公演された脚本だそうです。

 誤った情報を書き込み、関係各位に御迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げ、並びに訂正

させていただきます。

 

 それにしても、宝塚ってあのようなB級の味わい深い作品を公演していて、しかもそれが、

好評を博しているとは・・・(12月17日「OH!バンです」より)。宝塚、あなどりがた

し!!と言わざるを得ませんねえ。

[1999年12月21日 9時55分50秒]

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宮城学院女子大学演劇部公演「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」 

僕はこの「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」という作品が、すっごく好きで

ねえ。今まで3回見てるんですけれども、何回見ても飽きません。それどころか、見る度

に感動が大きくなってくるような気さえします。

 初めて見たのは、作者の前川麻子本人のプロデュースによるもので、2度目に見たのは

翔王シアターB−6unitによるものでした。特に初めて見た時というのは、もう7年

前の、やはり12月のことでして、僕は当時東京に住んでいて、会場が高円寺の明石スタ

ジオだったのですが、終演後に前川麻子本人と手塚とおるの2人による即興劇が、プラス

1000円のオプションで見られたという、今にして思うと信じられないくらいゼイタク

な公演でしたねえ。

 以前に宮教大の「Perfect Lives」について、水上駿さんが僕に対する反

論として、オリジナルとの比較として良くない旨のことを書かれていらっしゃいましたが、

僕が今回の「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」を見て思ったのは、むしろ逆の

ことで、原作が名作だと、たとえアマチュアや学生劇団が公演しても、やっぱり感動させ

られるんだよなあ、という感想を持ったのでした。それは、クラシックに例えるなら、今

ぐらいの年末になると、どこでもベートーベンの「第九」が流行るのですが、やっぱりア

マチュアの合唱団の歌でも、歌い手の情熱や曲に対する愛情が伝わってくると、曲自体の

名作の度合いと相乗効果を上げて、感動を観客側に与えてくれるんですね。

 こんなことを書くと、今回の出演者の演技がイマイチだったのか、という誤解を与えて

しまうかも知れません。しかし、決してそんなことはなく、登場する4人の役者さん、皆

いい演技を見せて下さいました。特にニ子役の伊藤美樹子さん!往年の筒井美筆さんを思

わせる美形キャラで、こういう人がボソボソと、自己嫌悪のモノローグを語るシーンには、

本当にこちらの胸がズキズキ痛くなってくるのでした(そういえば、筒井さんも確か宮学

演劇部のOGだったはずですよね・・・)。

 ストーリーを御存じない方のために、簡単に紹介しますと、登場人物は女子中学生3人

(イチ子、ニ子、サン子)と、イチ子に片思いをする青年・シロウの4人。表面的にはカ

ル〜イのりで毎日を過ごしている3人の女の子ですが、シロウの登場によって、自分の内

面にある自意識過剰と自己嫌悪が明らかになっていき、3人の思いが雪だるま式にシンク

ロすることで膨らんでいくことによって、最後は3人で飛び降り自殺をする、という内容

です。

 僕がこの作品をなぜそんなに愛するかというと、僕自身が自分で自分のことを大っきら

いな人間だから、後半の登場人物達がモノローグによって繰り広げる自己嫌悪の嵐に、も

のすごく反応してしまうんですね。以前に無国籍の「口実クリーニング」について、僕は

「(自殺志願者達が)心に抱いている屈折が見えない」という劇評を書いたのですが(こ

の劇評は別の部分が論議になってしまいましたが・・・)、「口実〜」で見えなかった、

死にたい人間の内面描写の模範解答を、本作はこれでもか!これでもか!と見せてくれる

ところが素晴らしいんですよ。ラダ・トロッソの安藤敏彦さんが、僕の問題提起に対する

御意見として、最近自殺者が多い中高年者を登場人物にしなかったからではないか、とい

う趣旨のことを書かれておられたのですが、僕は、いや、そういう経済的なものという理

由がハッキリしている自殺と、「口実〜」で登場人物の言う「ぼんやりした不安」といっ

た内容の自殺は、質的に違うんではないか?という疑問を持っていたのですが、例の別の

議論の方が盛り上がってしまってので(苦笑)、そのまま反論を書かずじまいにしていた

んですよ。そういう若者が中心に持ちがちな、「ぼんやりした不安」というものの具体的

姿が、この「センチメンタル〜」に見られる、自意識過剰と自己嫌悪なんだと、僕は思い

ます。そんな僕が、安藤さんの脚本による、老人の死を題材にした「his icon」

を、何となく見る気がおきないなあ、とサボってしまい、宮学の「センチメンタル〜」に

は、喜んでいそいそと見に行くのは、だから必然的帰結なんですよ。

 あと、ストーリーとは直接は離れますが、この作品の魅力はなんといってもセーラー服!

以前にB−6unitが公演した時は、茶色の幼稚園児が着るようなスモッグを3人の女

の子が着ていたのですが、確かにあれも可愛かったんだけど、やっぱり女子中学生といっ

たら、今回の宮学のように、黒のセーラー服の胸に赤いリボン、これが王道でしょう!。

と、美少女大好き人間の太田としては、強調しておきたいところですね(笑)。

 一つだけ残念だったのは、宣伝が足りなかったせいかお客さんが10人ちょっとしか入

っていなかったこと。今日(12月15日)の6時30分からも、エル・パーク仙台ギャ

ラリーホールで公演がありますので、そこの自分で自分がキライでしようがないアナタ!、

それからそこの肥大化した自意識を押さえきれないアナタ!、是非見に行って下さいよ。

見終わった後、死にたくなること請け合いですよ〜!(笑)。

 

[1999年12月15日 9時34分57秒]

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 もしもしガシャ〜ンプロデュース「逃げようよ・そ・そ」 

 2時間の公演を見終わったあと、ひどく肩が凝るというか、ああ、疲れたなあ、と思わ
 
せる芝居であった。なぜそう思わせるかといえば、最初から最後まで芝居に緊張感がとぎ
 
れなく続いていたためであり、その意味では、ダラダラと緊張感なく展開する退屈な芝居
 
が多い仙台演劇界においては、本作の演出家・奈尾真君の才能は高く評価すべきだろう。
 
しかし、見ている間退屈しないのはいいとしても、見終わった後、疲労感が第一印象とし
 
て強く残る(感動や満足感よりも)ということは、ベターではあってもベストの芝居とは
 
いえないように(ゼイタクな要望かもしれないが)私には思えるのだ。
 
 では、なぜ本作ではそれほどまでに緊張感を観客に強いるかというと、結論から言って
 
しまえば登場人物の性格設定にある。ここ何件か、私は「自分探し」をテーマとした作品
 
を高く評価する劇評を書いてきた。なぜ、「自分探し」をテーマとする芝居に私が感動す
 
るかといえば、「自分探し」をする登場人物に、私が自分自身を重ね合わせる、つまり感
 
情移入をしているからである。これに対し、なぜ本作が疲労感を持たせる芝居になってい
 
るかといえば、登場人物の性格が私に緊張感を強いるからだ。要するに、登場人物が私に
 
とって「他者」である、つまり自分を重ね合わせられないからこそ、緊張もするし、感情
 
移入までいかないのだ。
 
 わかりやすい例を挙げよう。例えばあなたが人見知りをする人間だったとしたら、初対
 
面の相手には緊張するだろう。もちろん、人見知りをしない人間だったとしても、やはり
 
初対面の相手と何かの都合で会うときは、すぐに打ち解けるというのは難しいものだ。ま
 
してや、相手が何を考えているかわからない人間だったり、見るからに怖そうな人間だっ
 
たりしたら、なおさらだろう。で、本作に登場する人間達は、1人の脇役を除いて(取引
 
先の社長)、みんなある意味何考えてるかわからなくて、コワ〜イ連中ばっかりなのだ(あ
 
くまで私にとっては、だけど)。
 
 この「もしもしガシャ〜ン」というユニットは、奈尾真君と渡辺淳君の二人で立ち上げ
 
たものだそうだ。この二人については、この1年で急速に伸びた印象が強いが、今年見た
 
彼らの作品、例えば「熱海殺人事件」にしろ「ポレポレ鳥」にしろ、あるいは渡辺君だけ
 
が出演していた「地上まで200m」にしろ、彼らの役どころってみんな怖いモノばっか
 
りなのだ。じっと無表情でうつむいている。あるいは笑顔で話をしているが目だけは笑っ
 
ていない。そして、突然の暴力!殴る!蹴る!。同じ「静かな演劇」でも、映画に例える
 
なら、決して大林宣彦ではなく、間違いなく北野武的ムード。この二人が中心となるユニ
 
ットである以上、今回の「逃げようよ・そ・そ」にも、同様の雰囲気が舞台を満たしてし
 
まうのは、ある意味必然といえよう。
 
 そして、奈尾君が演出である以上、この役作りは他の役者にも伝播する。本作は、小さ
 
な骨董屋を舞台にしたもので、ある日社長の奈尾君が気まぐれで採用した女の子が、突然
 
会社にやってくるところから物語は始まるのだが、この女の子を演じた久慈貴子さんが、
 
また怖い。彼女は劇団ピアスからの客演で、「夏の砂の上」の時は、カワイイんだけどダ
 
ラダラした演技をするなあ、という印象が残っているのだが、今回はその能面のように張
 
り付いた笑顔が、心底では何を考えてるかわからない恐怖感を見るものに与えており、実
 
際、彼女は社長の奈尾君が丹誠込めて作りかけていた商品のタンスを、いきなり、衝動的
 
にハンマーで破壊しようとしたり、得意先の社長が、自分の妻と奈尾君が駆け落ちしたの
 
ではないかと心配になって奈尾君の会社を訪問した時も、突然狂気じみた哄笑を発したり
 
するのだ。
 
 私の愛する女優、たかはしみちこさんにも同じことがいえる。彼女の場合、場の雰囲気
 
を無視してまで自分の個性を強調しない演技をすることが、長所でもあり場合によっては
 
欠点にもなっていると思うのだが、以前に私が「静かな演劇にもチャレンジするべきだ」
 
と書いたとおり、少なくとも「埋み火の駅」や「熱海殺人事件」よりも、本作の静かなム
 
ードに合わせた演技をすることが、彼女の良さを生かしていたことは確かだ。しかし、同
 
時に私が「女優論」で引き合いに出した、大林映画的センチメンタリズムを彼女から引き
 
出す演出ではない以上(先にも書いたように本作は北野的だったから)、彼女の静けさは、
 
むしろ見るものに「突然切れる怖い女」という恐怖感を先に持たせるものになってしまう
 
(実際、顔で笑っていながら、誰も見ていないところで未使用の鉛筆を素手でまっぷたつ
 
に折ることがストレス解消法だったりする役なのだ)。
 
 私が思うに、たぶん奈尾君という人は、ダンディズムを強く持った人で、自分の弱さを
 
さらけ出したり、自分の内面を他人に見せたりすることは、とってもカッコ悪いことだと
 
いう気持ちが強いのではないだろうか。深読みかもしれないが、本作の冒頭が、アニメ「ル
 
パン三世」のオマージュになっていたことも、彼のダンディズムを象徴していることのよ
 
うに思われてならない。だから、必然的に彼の作る作品はハードボイルド的なものになら
 
ざるを得ず、自分の弱さをハッキリ出すような人間は、逆に笑いの対象にされてしまうの
 
だろう。本作でいえば、取引先の社長がそうだ。彼は骨董屋に来る度に、自分の若い妻の
 
ことを、のろけるのを楽しみにしているような人間だ。のろけるという行為は、おそらく
 
奈尾君的ダンディズムの基準からいえば、格好悪いことだろう。しかし、思わずのろけず
 
にいられない、という社長の内面の弱さに私は好感を持ったし、妻が奈尾君と駆け落ちし
 
たのではないか、とおろおろするシーンでも、残りの登場人物は奈尾君の味方だから、彼
 
が困っている気持ちも無視して大笑いするわけだが、私はこの可哀想な社長の方に強く感
 
情移入せずにいられないのである。
 
 最後に念のため書いておくが、本作は作と演出が、同一人物(奈尾君)のものであった
 
が、例えば演出を「ロケットハウス」の人がしたら、ずいぶんと印象の変わったものにな
 
ったのではないだろうか、という感想を持った。売れない骨董屋に集う似たもの同士が送
 
る日常、というテーマは、ロケットハウスの志向しているものに似ているし、おそらく彼
 
らが同じ本作を演出したら、とっても暖かい感じのほのぼのとした作品になったような気
 
がするのである。その意味で、柔軟性があり、解釈の幅の持てる脚本だと思うので、他の
 
劇団が本作を再公演するのを見たい気が強くする作品であった。

[1999年12月24日 17時11分29秒]

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シアタームーブメント仙台

「僕らは支倉通りを亙って水星に行く」

シア・ムー雑感(主に行政批判に関して)

演劇祭の劇評モニターに今年も参加することになった。最初の課題は、シア・ムーの劇評を二千字書

くことであり、これは先日書き上げたのだが、そのため、青年文化に提出したその二千字の劇評で、

シア・ムーに関してはほぼ言い尽くした、という思いが 強い。二千字劇評が一般公開されるかどうか

は今のところ不明だが、このスペースではその劇評に書ききれなかったことを、ぼつぼつと雑感風に

書いてみた。

・一番失笑したこと

ラスト・シーンで、箱船に乗った登場人物達が「行政に寄生しない自立した生き方をこれからはして

いこう!」と決意表明することで、この物語は「感動的に」終わる。しかし、よく考えてみると、こ

の箱船は国からの補助金で作られたものなんだよね。ということは、もし「行政に寄生しない生き

方」を彼らが以前からしていたとすれば、彼らはみんな洪水でおぼれて死んでたってことになるわけ

で・・・。本来なら国に感謝すべきところなのに、よくもまあヌケヌケと御大層な口聞くもんだよ、

と失笑してしまったのでした。これは「行政=悪、敵」という一方的な先入観でこの物語が書かれて

いるからおこったことであって、要は人間っていうのは一人では生きていけない生き物だから、相手

が行政であれ近所の人々であれ助け合って生きていくのが自然なんですよ。それを、「寄生はいけな

い!」というネガティヴな論理で凝り固まっているから、こういうおバカな話になっちゃうのだ。も

し行政の方が、「シア・ムーで言ってた通り、劇作家側は行政に寄生したくないそうだから、これか

らは文化に対して予算を使うのは一切やめる」なんて言い出したら、なかじょうさんはどう責任とる

つもりなんだろうね? 劇作家だって寄生的存在なのでは?

 この物語の村は人口の65%を公務員が占めているそうで、要するに消費をするだけで何も生産し

ない公務員は、補助金がなければ自らは生活できない寄生的な存在だと作者は言いたいらしい。でも

さ、そんなこというなら人口の65%を劇作家が占める村だって生活が成り立つかあ?(劇作家に限

らず、広く芸術家全般が65%を占めると仮定してもいいけど)。自らは生産をせず、消費のみをす

る存在であるという意味では、公務員も芸術家も同じ穴のムジナなんだよね。いや、もっと広くいっ

てしまえば、いわゆる第三次産業といわれている職種に就いている人達は、みんなそうなのだ。

 作者は行政に対していろいろ不満を心に抱いていて、それをメッセージとして物語に込めようとし

たんでしょ。その気持ちは分からなくもないが、市民が行政に対して不快な思いをするのって、いわ

ゆる役人の頭が固くて市民が望んでいることに柔軟な対応をしてくれない、っていうのがほとんど

だ。だとしたら、その方面から批判を展開する物語を書けばいいのに、よりによって「自らは何も生

産しない」なんて切り口で攻めたもんだから、結局は天にツバをする行為みたいになって、自分の頭

に自分が吐いたツバが落ちてくることになったのだ。マヌケという他ないんじゃないの、これは。

[1999年8月31日 19時42分56秒]

 

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プロデュースCOUCOU「キャバレーソバージュ」

 
二人の若い日本人観光客がパリを訪れる。二人のうちの後輩の方は、五〇年代のパリの
 
文化にあこがれを持っているのだが、とあるカフェに入った二人は不思議な力でタイムス
 
リップし、まさに五〇年代のパリにある、キャバレー・ソバージュに迷い込む。
 
 普通、このようなきっかけから始まる物語は、当時のキャバレーで働く人々と彼らタイ
 
ムトラベラーとの間に、友情が芽生えたり、あるいは葛藤があったりといった人間ドラマ
 
が展開するものである(例:戦国自衛隊など)。私も当然それを期待していたのであるが、
 
実態はまるで違った。
 
 これ以降舞台に展開したものは、そのキャバレー・ソバージュでなされたであろう芸能
 
をそっくりそのまま模倣しただけのものだったのである。歌・アクロバット・フランス小
 
噺・バレエ・・・。これら短い演し物が舞台上で交替交替に演じられ、日本人の二人は、
 
その演し物の中に出演者としてときどき登場はするものの、彼らフランス人の役者達と、
 
特になにがしかのドラマを引き起こすわけでもない。
 
 つまりこれは五〇年代フランスのキャバレーの単なるレプリカントに過ぎないものなの
 
である。「演劇」という言葉から、ストーリー性やドラマ性を期待した私は、思いっきり
 
肩透かしを食わされたわけだが、それにしても、このようなストーリーもドラマもない単
 
なるレプリカントを「演劇」と称しても、はたしていいものであろうか?
 
 「演劇」というものを、広いワクで考えれば、確かにこれも「演劇」ではあろう。例え
 
ば、アングラ演劇の中にある不条理モノといわれる作品には、それこそ最初から最後まで
 
いわゆる起承転結と呼ばれるストーリーなど存在せず、作者が何を言いたいのか結局最後
 
までわからなかった、といったものだっていくらでもあるわけだから、今回の「キャバレ
 
ー・ソバージュ」だって、ドラマらしいドラマが全然ないことを理由に、「これは演劇で
 
はない!」などというのは、短絡的であり不正確な意見になってしまうだろう。
 
 しかし、理屈では「これだって一種の演劇である」という意見がたとえ正しいとしても、
 
現実問題として、何のドラマもなく、レプリカントのバレエや歌を延々見せられても、ち
 
いとも面白くないのだよ。一時間二〇分という比較的短いはずの公演時間が、まるで刑務
 
所の独房に入れられたように長く苦痛な時間に私には感じられた。
 
 なぜ、こんなに退屈だったか?考えられる理由は二つある。一つは、所詮レプリカント
 
では本物の良さは伝えられない、ということ。私はパリには一度だけ観光で行ったことは
 
あるが、キャバレーにまでは足を踏み入れていない。従って、本場モノのパリのキャバレ
 
ーは見たことがない。もし、本場モノを見ることができたとしたら(五〇年代を設定して
 
るといったって、ノスタルジックな客をつかまえるためのキャバレーが全く存在しないと
 
もいえまい)私は感動してしまうかもしれない。しかし、日本人の素人が(アクロバット
 
の二人だけはプロ級だったが)いくらフランス人の真似事をしても、結局それは明治以来
 
の日本人特有の白人コンプレックスがにじみ出たみっともないものにしかなり得ないので
 
はないか?だって、現実に私の目の前にいる役者達は、肌が黄色く髪が黒い正真正銘の日
 
本人ばっかりなんだもの。海外旅行へ行った観光客が「どこへ行っても日本人ばかりだっ
 
た」と怒って帰ってくることって、よくあるじゃないですか。あれって、要するに外国に
 
自分の日常を離れたファンタジーを求めにいったのに、その外国で日本人を見てしまうこ
 
とによって現実に引き戻される不快感なのだろう。自分だって日本人であることを棚に上
 
げてるわけだけど。
 
 「キャバレー・ソバージュ」にも同じことがいえる。日本人としての特長が本人達が意
 
図しなくても必然的ににじみ出てしまうことで、観客である私は日常に引き戻され、さら
 
に役者達の心の中にある(そしてたぶん同じ日本人である私の心にもある)白人に対する
 
コンプレックスに気づき、嫌な気持ちにさせられてしまうのである。
 
 日本人がフランス人を演じながら、非日常の世界をトリップさせてくれる演劇が一つだ
 
けある。それは宝塚の「ベルばら」だ。あれは、フランス人に似せようとするのではなく、
 
宝塚歌劇という一種独特の様式美を過剰に演じることによって、非日常空間を現出してい
 
るのである。フランス物だからフランス人に似せようという発想ばかりでは安直であろう。
 
 もう一つ考えられる退屈の理由。それは私が演劇に求めているものと、今回の作り手が
 
観客に伝えたがっているものが完全にスレ違いであるという可能性だ。私は案外保守的な
 
人間で、物語の中にドラマがないと退屈してしまう。ドラマに変わる何かがあれば話は別
 
だが、それも残念ながら発見できなかった。 
 
[2000年1月17日 15時12分5秒]
                   

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劇団新月列車「地上まで200M」

  本作はSide・X、Side・Yという二つの別なストーリーが併存するものであったが、
 
ここではSide・Xについてのみ書かせていただく。なぜなら、Side・Xの方が、
 
登場人物の性格描写がより緻密で、作品としての完成度がより高いと判断したからだ。
 
 これは地下二○○mの核シェルターで暮らす四人の少女の物語である。彼女達は近い
 
将来起こると思われる核戦争後の危機的世界に対応すべく、腕力・科学技術力・超能力の
 
才能を飛躍的に高めるために特殊な薬品を投与されている。どうやら彼女達は身よりのない
 
子供らしく、四人共実の姉妹ではないにもかかわらず、同一人物(おそらくシェルターを
 
作った科学者)を「とうさん」と呼んでいる。ある日、核戦争が現実となり、「とうさん」
 
は事故死、彼女達は自分の真の任務に気づかないまま、シェルターに閉じ込められる。
 
四人の間で人間的葛藤が生ずるが、やがて真の自分達の任務に気づき、四人は地上へ向かう。
 
しかし、時既に遅く、世界は廃墟となっていた、というのが主なストーリーである。
 
 先に「流星王者」を比喩が下手だと論じた時、私はSFアニメと受験勉強の互換性の
 
高さについて述べた。「地上まで200m」が傑作となっているのは、登場人物の置かれて
 
いる状況、抱えている悩みが、その手のSFアニメ同様、今を生きる私達の心に存在する問題と、
 
非常に高くシンクロしているからだ。
 
 彼女達は特殊能力を伸ばすことを目的として育てられている。ということは、逆にいえば、
 
運悪く能力を伸ばせられなかった者は、「役立たず」として存在自体を否定されたも同然である。
 
また、運良く能力を伸ばすことのできた者達も、能力という条件付きで認められているわけで、
 
このオプションを外した生身の人間としての自分を認めてくれる者は誰もいない、という不安が
 
常時内在することになる。前者に該当するのがフユミ、後者に該当するのが残り3人なわけだが、
 
彼女達の置かれている状況は、今を生きる私達の生活を象徴しているとはいえないだろうか?
 
 先にSFアニメとの互換性の件で、受験勉強の例を挙げたが、私達は高卒までなら十二年間、
 
大卒までなら十六年間を、テストの点数によって人間としての価値を決められる生活を送ってくる
 
わけだ。その人の人間性を決める最も多感な幼少から思春期にかけて、受験という「条件つきの
 
承認」である価値観の中で過ごしてきた人間が、大人になってからも「自分は本当に価値のある
 
人間か?」という不安を常に心に宿しながら生きていくのは、むしろ自然な流れだろう。
 
最近流行のアダルト・チルドレンという言葉は、正確には親がアルコール依存症で情緒不安定で
 
よく暴力をふるったりするため、親に嫌われないように常に「いい子」でいようとする子供が持つ
 
精神の歪みに対してつけられた用語だそうだが、より広い意味で解釈すれば、テストでよい点を
 
とって親や先生に承認されたいとか、イジメにあわないように周りから浮かない「いい子」で
 
いようと考えさせられる無形の圧力にさらされているという意味で、今を生きる私達の内面に、
 
アダルト・チルドレン的要素が含まれていると考えるのは自然なことで、だからこそ本作の登場
 
人物達に強く共感させられるのである。
 
 彼女達が精神的な崩れをみせるのも、自分が必要とされてない人間だ、ということが見えて
 
しまうところからである。まず、特殊な能力が生まれなかったフユミ。彼女は能力に代わる生きがい
 
として、姉貴分であるアキエに必要な人間になろうと努力する。能力が開花しているアキエとナツコは
 
互いをライバル視し、アキエにフユミ、ナツコにハルカがくっつき二対二でケンカをする毎日を
 
送っているのだが、ナツコに献身的に尽くしているハルカに対し、ある日「(あなたはナツコに)
 
いいように利用されてるだけじゃないんですか?」と疑問を投げかけたフユミは、それがまさに
 
自分自身にはね返る言葉であることに気づく。表面的には憎みあっているように見えるが、実際には
 
アキエが関心をもっているのはナツコであり、自分ではないのだ。そう考えたフユミはショックから
 
アキエを離れる。
 
 一方のアキエ。優等生である彼女は能力の出ないフユミに対し保護者的感覚をもっていた。
 
しかし、フユミが離れることにより、実は逆に自分がフユミに依存していたことに気づき、
 
ショックを受け、落ち込む。
 
 また、アキエのライバルであるナツコも、実は自分が憎んでいる対象だと思っていたアキエと
 
戦うことが、自分にとって重要な生きがいになっていたことに、アキエが戦意を喪失した時に気づく。
 
表面上の「勝利」を得たものの、生きがいをなくした彼女は自暴自棄になっていく。
 
 結局、彼女達を救えるものは何か?作者はその回答をハルカに求めているようだ。ハルカは
 
「頭が弱い」と他の3人に見られている子である。しかし、その自意識のなさ、無垢さが、他の3人
 
を癒す力に結果的にはなっていくのである。悪夢にうなされたナツコを優しくハルカが抱きしめる
 
シーンは、実に印象的だ。また、自暴自棄になったナツコに八つ当たりされたハルカが仲直りする
 
シーンで述べるセリフ、「ハルカ、ナッちゃんがキイキイしてるのが好きなんだ。でも、
 
キイキイしてなくても、ナッちゃんいるのがいいんだよ(キイキイは、生き生きを意味する
 
ハルカ語である)」には、落涙を禁じ得なかった。このハルカのセリフこそ、先に述べた、
 
能力に対する「条件つきの承認」ではない、人間それ自体を愛していることを意味する
 
「全的承認」なのである。
 
 おそらく、作者も私もハルカ的存在を求めている点で一致しているからこそ、私はこの場面に
 
感動するのだ。しかし全的承認者が圧倒的に不足してるのも今の社会の現実なのだ。
 
[2000年1月17日 15時15分8秒]
                     

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SCSミュージカル研究所 「IS IT LIFE?」

 岡田斗司夫氏の「オタク学入門」という本に、「はてなの茶碗」というエピソードが載っている。
 
引用すると、「ただの薄汚い、おまけに水の漏れる茶碗を、茶屋金兵衛が『はてなの茶碗』と名付ける。
 
どこからともなく漏れる水が面白い、趣があるというのだ。」ここで岡田氏が何を言いたいのかというと、
 
批評とは作者の意図とは別のところに面白さを見出すことでもある、ということなのだ。だって、水の
 
漏れる茶碗など、茶碗本来の目的からすれば役立たずである。もしかしたら茶碗の作者が、失敗作とし
 
て道に捨ててしまったものかもしれない。そんな失敗作を世間がもてはやしているということがわかった時
 
作者は不快に思うだろう。しかし、批評が作り手の意図を離れ、新たな価値を創造する行為だとするなら、
 
金兵衛の批評は何ら責められるべきものではないはずだ。
 
 なぜ、このような前置きを書いたかというと、今回観劇した「IS it life?」が、まさに
 
作り手の意図するところとは別の部分に、その価値を見出せる作品だと思ったからだ。
 
 というのも、この作品、ストーリーのテンポが非常に悪いのだ。よく、ミュージカルやオペラは
 
総合芸術とよばれる。つまり、演劇的要素に加え、音楽や踊り(オペラではあまり踊らないが)といった、
 
別の芸術ジャンルの要素が加わることによって、複合的な楽しみを観客が味わえるということだ。
 
もちろん、いくら音楽や踊りが素晴らしかろうと、メインの部分は演劇であるのだから、その背骨とも
 
いうべきストーリーがしっかりしていないことには、観客は退屈してしまう。本体の演劇の部分が
 
しっかりしており、さらに音楽や踊りがプラスアルファとして相乗効果をあげてこそ、総合芸術としての
 
魅力が生まれてくるのだ。しかし、逆にストーリーがあまりに貧弱で、その貧弱さをカバーするために
 
歌や踊りが利用されているとしたらどうだろう?それはミュージカルとしては失敗作ということになるの
 
ではないだろうか。
 
 本作品は、人間社会ではうまく生きていけない若者が、不思議な力によって虫に姿を変えられる。
 
彼は虫社会で生活を始めるが、ある時自分が愛する虫を助けるため、自分を犠牲にする行為をしてしまう
 
。本来、弱肉強食の虫社会で自分を犠牲に他者を助ける行為は、自然界の掟に反する。こうして彼は、
 
人間界へと帰される、という内容であった。
 
 ストーリーの良し悪しはこの際置いておくとしても、中身としては非常にシンプルなものだ。
 
余計なゼイ肉をそぎ落として、観客を退屈させないために物語のテンポを上げていこうと考える
 
演出家の手にかかったら、三〇分、いや下手をすると一五分で終わってしまうかもしれない。
 
ところが本作は休憩をはさんで約二時間半の大作に仕上がっていた。これがどういうことかといえば、
 
要するに、ストーリーの貧弱さを歌や踊りというゼイ肉でブクブクに太らせた、ということなのだ。
 
だから、必然的にダラけた空気が場内にまん延することになってしまう。
 
 これだけ書くと、本作を見ていない人は、ものすごくひどい作品だという印象を受けるだろう。
 
しかし、私は本作をけっこう楽しんで見ることができたのだ。なぜか?ここで冒頭に述べた、作者の
 
意図を離れた視点で作品を楽しむ手法が浮上するのだ。
 
 実は、本作に登場する若い女優さん達が、けっこうかわいい子揃いで、しかもミュージカルという
 
こともあってか、派手でセクシーなコスチュームで飛んだりはねたりしていたものだから、男性である
 
私にとっては、まさに眼福、眼福といった案配だったわけである。
 
 こう書くと、「なんだ、あんたただのスケベオヤジじゃねえか」と批判する人も出てくるだろう。
 
しかし、芸術においてエロスというのは、けっこう重要な要素を占めるものではないだろうか。
 
 作り手が出演者にセクシーなコスチュームを着せる意図だって、若い女性の持つエロス的美という
 
ものを肯定しているからだろう。それが、女性の外面ばかりを見、内面の人格を無視しているものだと
 
しても、演劇が視覚に訴える芸術である以上、外面の美は尊重されてしかるべきだと私は思うのだ。
 
 こうして考えると、「ミュージカルだから若い女優さんが派手なコスチュームを着る」→「その
 
コスチュームを観客である私が愛でる」という意味で、私の批評は必ずしも作り手の意図を外したものとは
 
いえないかもしれない。とはいえ、作者の立場にたってみれば、やはりメインで観客に訴えたかったのは、
 
その作品のテーマであり、それを無視してただ「お姉ちゃんがかわいかったのでよかった」では的外れとの
 
不満を持つだろうから、岡田氏を引き合いに出して理屈づけをしたワケだ。
 
 それにしてもカマキリボンドガールの河野珠美さんは、本当に色っぽかった、最高っす。
 
[2000年1月17日 15時13分11秒]

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芝居小屋六面座「虹のあと」

 
 このお芝居を見て最も強く印象に残ったのは、やはり金野むつ江さんの演技であった。
 
舞台はホテルの結婚披露宴係の窓口で、そこに関わる人達の人間模様を描いたものだった。
 
むつ江さんは、演出を兼ねているということもあってか、そのホテルの掃除のおばちゃん
 
役でほんの2場面ほどしか出てこないのであるが、彼女が出てくるだけで、舞台の雰囲気
 
が違ってくるのである。パーッと明るくなるというか、まだギャグをとばす前から観客に
 
笑いがこみ上げてくるというか。存在感だけで観客を楽しませることができるという意味
 
では、やはり一流の役者さんなんだなあ、と感心させられた。
 
 しかし、これは六面座という劇団のレベルで考えた場合、必ずしも喜ばしいこととはい
 
えないかもしれない。本来なら1人1人の役者のキャラクターが立っていて、むつ江さん
 
が役者として登場せず演出に専念していても、観客が充分楽しめる状態になっているのが、
 
劇団としての理想的な形であろう。しかし、むつ江さんが登場すると舞台が華やぎ、むつ
 
江さんが退場するとフーッと気の抜けた雰囲気になってしまうということは、まだまだむ
 
つ江さんと他の役者との力量の格差が大きい、残念ながら他の役者が成長していないとい
 
う証明ともいえよう。
 
 もちろん、他の役者に同情すべき部分はある。ここ数年の六面座は、いわゆる「静かな
 
演劇」的演出を行っており、役者陣は静的なイメージを感じさせる淡々とした演技をして
 
いる。その中にむつ江さんが1人で、騒々しいおばちゃん役で登場するのだから、彼女が
 
目立って見えるのは当然のことだ。映画に例えるなら、小津安二郎作品に突然勝新が割り
 
込んできたような違和感が、逆に面白さとして機能している。完成された嘘臭さを壊す楽
 
しさ。つまりむつ江さんは「王様は裸だ!」と叫ぶ、子供のような役割を担っているのだ。
 
 しかし、では他の役者、例えば山内登寿子さんが、あのおばちゃんの役をもし演じてい
 
たとしたら、むつ江さんほどの存在感があったか?と考えると、やはりそれも疑問なのだ。
 
今回山内さんは、旦那と離婚したことを機に、今まで勤めていた葬儀社を辞め、このホテ
 
ルに転職してきたという役柄だった。そのため、まだ仕事に慣れておらず、また、元来お
 
っちょこちょいな性格という設定をされているらしく、しょっちゅう失敗ばっかりしてい
 
る。しかし、彼女がドジな失敗をするところは、当然観客を笑わせようという意図も含ま
 
れているのだろうが、どうにもむつ江さんほどの笑いがおきないのだ。まあ、宮城県芸術
 
選奨受賞者と比較されるのも酷な話かもしれないが、やっぱりむつ江さんが登場しないシ
 
ーンは退屈だなあ、という印象が、どうしても頭の中にこびりついてしまう。
 
 また、そもそも「静かな演劇」路線を選択したにもかかわらず、なぜむつ江さんはあの
 
ような役柄で登場するのだろう?という根本的な疑問も感じてしまう。2つの理由が考え
 
られる。1つは、「青年団」や「弘前劇場」の単なる模倣というイメージを払拭し、劇団
 
としてのオリジナリティを示すために、あえて確信犯的にやっているという可能性。もう
 
1つは、やはり「静かな演劇」として世界観を統一したいという気持ちは持っているが、
 
観客を最後まで退屈させてはいけないという配慮から、やむを得ず挿入しているというケ
 
ース。観客の立場で舞台を見ているだけでは、どちらが本意なのかまで私の力量では残念
 
ながら読みとれなかったのだが、あの役柄が観客に大受けしていた、という事実だけは厳
 
然として残ってしまったわけだ。
 
 今後、六面座はどちらの路線を選択していくのだろう?前者であれば、「静かな演劇」
 
と、かつての六面座のそれぞれのよい面をブレンドした、新しい舞台が作られるかもしれ
 
ないが、逆にどっちつかずの中途半端な芝居になってしまう危険性もある。後者を極める
 
のであれば、うまくいけば「青年団」的な緊張感あふれる芝居を、わざわざ東京まで見に
 
行かなくても仙台で楽しめるようになるだろう。しかし、失敗すれば、単にダラダラとし
 
たテンポの悪いだけの劇団に堕してしまう危険性もある(ちょうど、現在の劇団ピアスが
 
そういう状態になっていると思う)。ただ、今回の結果を踏まえるならば、やはり今後も
 
むつ江さんの味の濃い演技を売りにしていく方が、観客の立場からいえば楽しめそうだ。
 
 その路線の選択は、もしかしたら「静かな演劇」の本来持っていた趣旨、今までのクサ
 
イ「役者しゃべり」では観客にリアルさを与えられない、という問題提起から離れてしま
 
う可能性が出てこよう。しかし、過度に静かな演劇というのも、逆にウソ臭いのではない
 
か?という反動がそろそろあちこちに出始めているようにも思う。最初に書いたとおり、
 
今回のむつ江さんの役柄は、まさにその点を衝く役割を果たしていた。振り子の原理のよ
 
うに、極端に片方に偏ったら、それと反対のことをすることによって、意外な新鮮味を出
 
す。アートというものの本質は、案外この揺れの繰り返しであるのかもしれない。
 

[1999年11月1日 19時46分52秒]

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スタジオOH夢来’S「お祭りミュージカル HO−!HO−!HO−!」

 

この「HO−!HO−!HO−!」の公演のちょうど一週間前、会場も同じ青年文化セ

ンターシアターホールで、高校演劇コンクール県大会が開催されていた。その時の講評で、
 
審査員の石川裕人氏(仙台演劇人フォーラム代表)が、「今年の作品には、自分探しをテ
 
ーマにしたものが非常に多かった。」と発言していたのが、強く印象に残っているのだが、
 
奇しくも一週間後、同じ会場で演じられた、この「HO−!HO−!HO−!」も、まさ
 
に自分探しをテーマとする内容のものであったのだ。もっとも、OH夢来’Sの場合は、
 
「自分」の代わりに、「夢」という言葉を用いていたのだが、実質的内容は同じだろう。
 
 これはなにも偶然の一致ではないと私は考える。高度成長の頃のように、衣食住をより
 
充実させ、より豊かになろうという目標が見えていた時代と違い、不景気とはいえ、充分
 
豊かさを満喫している現代において、こんなに豊かな社会なのに、自分には幸せが実感で
 
きない。幸せではない原因が外的要素(豊かさ)ではないとしたら、その原因は内的要素
 
(つまり自分自身)にあるのではないか、と考える人間は、当然、では幸せを実感できな
 
い自分ってなんなんだろう、と自分探しに走るだろう。それは、自分にとって夢とは何だ
 
ろう、と考えることも、同じことを意味する。
 
 この物語は、クリスマスに公園でおこなわれているイベントの司会者が主人公だ。イベ
 
ントの中で、サンタコンテストという企画が催されるのだが、これはコンテストの参加者
 
が語る夢の中で、最も大きな夢を持った人をサンタと認定し、賞金・賞品を授与するとい
 
うものだ。六人の参加者がそれぞれ自分の夢を語るが、ことごとく観客に否定され、サン
 
タ該当者がいなくなってしまう。
 
 この六人の参加者の語る夢というものが、性転換(男性)、ヤマトの乗組員になる(男
 
性)、モデルになる(女性)、結婚(女性)、釣りをしたい(男性)、女社長になる(女性)
 
というものであったが、これらが観客に否定されるということは、作者自身が、これらの
 
夢がたとえ実現されたとしても、自分は幸せになれないのではないか、と気づいているこ
 
とを意味するのだろう。事実、物語の中で彼ら六人は、自らの正当性を主張するため、互
 
いの夢を否定する罵り合いを始めるのだが、それらの批判がことごとく的を射ているのだ。
 
いわく、スーパーモデルになって一時的にチヤホヤされても、ブームが過ぎれば捨てられ
 
る。有名なスターで孤独に死んでいった人は多い。あるいは、結婚を望んでも相手が見つ
 
からなければどうしようもない。よしんば相手が見つかっても、お互いの心がすれ違って
 
しまえば、結局は不幸だ、などなど。
 
 要するに、幸せになるためには夢が必要だといいつつも、実現すれば幸せになれそうな
 
夢が見当たらない、という苦い現実が、この物語からは見えてくるのだ。だから私にはこ
 
の物語は悲劇にしか見えないのだが、作者は悲劇という結論には持っていきたくないらし
 
く(気持ちはわかるけどね)、半ば強引に夢の大切さを説く結論に持っていこうとする。
 
 具体的にいうと、二つのニューキャラの登場である。一つは、百年前に親に捨てられ海
 
で溺れた四姉妹の亡霊であり、もう一つは、難病で死んだ少年の亡霊である。彼らの霊的
 
な力によって、主人公と六人のサンタコンテスト参加者は、不思議な空間に閉じこめられ
 
て、自分探しをおこなうのだが、彼ら亡霊を登場させたいとは、おそらく現代を生きる主
 
人公達(つまり私達自身)と対比して、彼ら亡霊が夢を持っている存在だということを強
 
調したいがためだろう。
 
 四姉妹が親に捨てられた原因は、おそらく百年前という時代設定から想像するに、貧し
 
さが原因だろう。また、難病の少年の持つ夢は、当然、健康になることである。つまり、
 
彼らにとって、夢は「豊かさ」や「健康」と具体的に切実に見えるものである。しかし、
 
彼らを登場させることによって、物語に決定的に欠陥が生じることに作者は気づかなかっ
 
たのだろうか。現代を生きる私達は、彼らと違い、既に「豊かさ」も「健康」も享受して
 
いるのである。つまり、夢は既に実現済みの状態になっているのだ。にもかかわらず、私
 
達は「幸せ」を実感できない。それがなぜだかわからないからこそ、そもそも「自分探し」
 
をしているのではないか?
 
 物語のラストシーンで、主人公は「皆さんがそれぞれ夢をもっていらっしゃるのだから、
 
一人をサンタに選ぶことはできません。皆さん全てがサンタなのです。」と会場の参加者
 
に呼びかけるのだが、そのみんながそれぞれ持っている夢が、劇中でさんざん否定されて
 
いるのだから、主人公の言葉は空々しくしか聞こえない。結論として私が考えたのは、夢
 
が幸せという目標に向けての手段なら、夢という手段にこだわらず幸せになる方法を模索
 
すべきではないかということだ。ただし、夢に強いこだわりを持つ作者に、その踏ん切り
 
がつくかどうか。しかし、現在の問題意識のまま、いくら新作を作っても、作者の語る夢
 
は空虚なものにしかならないようにしか、私には思えないのだ。
 

[1999年11月28日 12時13分19秒]

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南河内万歳一座(大坂)「流星王者」

 本作を大ざっぱに二つのシーンに分けるとすれば、一つは急行電車を乗り間違えたと
 
いう集団旅行者のモノローグであり、もう一つは、主人公の少年が引越した先で体験する
 
団地でのということになる。
 
 物語が展開するシーンとモノローグのシーンの二種類が一つの芝居の中に同居している
 
場合、考えられるのは、物語の部分を受けて「あの時自分は○○するべきだった」と後悔、
 
または反省する。あるいは、逆に「あの頃はよかった」と懐かしむ。つまり否定か肯定かは
 
別にして、物語がモノローグの部分につながって、作品に一貫性が出てくる。しかし、
 
本作での旅行者達のモノローグと、団地での主人公の少年の心情は、それぞれがバラバラの
 
ものであった。この店が、私にとってはまず納得のいかないところだ。
 
 もちろん、双方がつながらなかったとしても、双方の登場人物の心情に共感するなり、
 
ストーリーのテンポのよさやドラマ性に興奮することができれば、両者に一貫性がなくたって、
 
短編オムニバスを二本見たと思えばいいんだ、という割り切り方をすることは可能だ。しかし、
 
もし二本のオムニバスを見たと仮定した場合、物語が展開する少年時代の分は別にして、
 
モノローグだけ延々と続く部分を、独立した一本の作品として鑑賞することは可能か、
 
という問題がでてくる。
 
 「私達だって現実に自分の世界に閉じこもって考え事をすることぐらいあるだろう。
 
だったら、モノローグだけの芝居があったとしても、それに感情移入することは可能じゃ
 
ないのか」という考えをもつ人もいるかもしれない。しかし、私はこの考えには反対だ。
 
なぜなら、例えば私達が一人で考え事をしている時に、考えている具体的内容がなにかを
 
思い出せば、それは容易に理解していただけると思う。
 
 例えば、多くのサラリーマンの方には同意していただけると思うが、仕事上でストレスを
 
感じている時は、その仕事の悩みがフッと風呂やフトンの中で頭に浮かぶということがあるだろう。
 
あるいは、受験勉強やイジメで悩んでいる学生なら、学校から帰って一人でいる時間にも、
 
学校での悩みが頭にこびりつき離れないということだってあるはずだ。逆に明るい話題として、
 
恋人ができた喜びにあふれている人なら、一人でいる時でも、その恋人のことを考え続けている
 
だろう。つまり、最初にも書いた通り、人がモノローグする場合には、普通その前提として
 
現実社会での具体的な事件なり人間関係なりが存在するものなのである。ところがこの「流星王者」
 
のモノローグには、その前提となる具体的なドラマが存在しないのだから、見ている側が感情移入
 
できず退屈してしまうのは至極当然のことといえよう。
 
 私はここまで「モノローグ」という表現を用いているが、これに疑問を持つ人もいるかもしれない。
 
つまり、「急行電車に乗り間違えたと言っていた連中は、総勢二十人程度はいた。モノローグとは
 
一人で言うセリフのことであるから、このケースはモノローグとはいわないのではないか」と。
 
しかし、考えてみてほしい。彼らは劇中で「うっかりウトウトしてしまって、気がついたら見知らぬ
 
終着駅に着いていた」と言っている(脚本を持っているわけではないので記憶を頼りにしているが
 
、大方そういう内容だ)。二十人前後もいる団体客が、同時にウトウトして誰も目的地に着いた時
 
起きていないなんてことが普通あり得るか?これは別にアラを探す意味で言っているのではなく、
 
要するに彼らは数こそ多いが、作者という一人の人格の比喩なのである。私達だって考え事をする時、
 
心の中に複数の自分を作って議論をさせることがあるだろう。彼ら団体客も同じ意味で一人の人格だから、
 
モノローグと呼んでも差し支えないのである。
 
 この「団体客」という一人の人格が述べているモノローグの内容が、「急行で急ぎ過ぎたのかも
 
しれない。鈍行でゆっくり行けばよかった」とか、「いつ電車を乗り間違ってしまったんだろう」
 
などというもので、要するに人生を電車に乗ることにたとえているわけだ。しかし、この比喩が私達の
 
心にスーッと入ってくるものかといえば、回答は否だ。
 
 先ほど学生の受験勉強について書いたが、例えばSFアニメで敵と戦闘を繰り返している少年が
 
主人公のものがあったとして、その少年が「なぜ自分は戦っているのか?」と悩んでいたとしたら、
 
これは「敵との戦闘」と「受験勉強」を言葉を入れ替えれば残りの内容がほぼ同じという意味で互換性が
 
高い。しかし、「人生」と「電車旅行」の場合、今述べた例に比べれば互換性は非常に低い。そもそも
 
「人生」なんて抽象的だし人それぞれ違うものだ。だからこそ、「電車旅行のような人生」を具体的個
 
別的なものとしてストーリー作りしなければいけないのに、主人公が実際に電車に乗っている場面は、
 
最後にほんのわずかしか登場せず、それも窓から外の景色を見るだけの、ほとんどドラマ性のないもの
 
なのだから、共感のできようはずがないではないか。
 

[2000年1月17日 15時15分57秒]

 

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劇団一跡二跳「夏の夜の獏」

 八歳の少年の眼から見た、ある家族の崩壊を描いた、陰惨きわまりない物語であった。
 
 主人公の少年・ソウジは八歳の誕生日を迎えた日に、突然周りの大人がみんな子供に見
 
えるようになる。同時にソウジ自身の精神年齢も二十歳にまで成長してしまう。つまり、
 
彼の目からは他の人間が、実年齢ではなく精神年齢で見えるようになったわけだ。しかし、
 
これは決して喜ばしい変化ではなく、逆にこの変化が起こってから、ソウジの家庭は崩壊
 
へ向かっていくのだ。
 
 彼の父母は、それぞれ別の職場で働いているのだが、二人とも自分の職場の同僚と不倫
 
を始め、当然それと比例して二人の関係は冷えてくる。ソウジの兄は二浪していることか
 
らくるコンプレックスから両親とケンカして家出。家に一人いる祖父はボケが激しくなり、
 
両親から疎んじられ、家での居場所がなくなっていく。
 
 ここまでのストーリー展開で、察しのよい方はおわかりになられたと思うが、八歳の少
 
年が二十歳の精神年齢にならざるを得ないという設定は、家庭不和から子供の頃から大人
 
としてのふるまいを余儀なくされることによって生ずる、アダルト・チルドレン(以下A
 
Cと略す)を、そのまんま比喩しているのだ。
 
 そんなある日、ソウジはやはり崩壊した家庭にすむ少女・ノリコと学校の図書室で出会
 
う。彼女もまた精神年齢だけ大人になったACなのだが、そのノリコはソウジにシェイク
 
スピアの「真夏の夜の夢」を見せ、ソウジが急に大人になったのも、家庭がおかしくなっ
 
てきたのも、魔法をかけられたからだ、と解説する。そのため、ソウジはその魔法を解け
 
ば、物語の「真夏の夜の夢」のように、現実もハッピーエンドになるだろうと考える。
 
 しかし、現実は物語のようにうまくはいかない。祖父は居場所がないことへの怒りで家
 
出を敢行した後、孤独で悲惨な死を遂げる。ソウジが唯一心の頼りとし、片思いの対象と
 
していた、ホームヘルパーのコバコ(彼女は両親が共稼ぎのため、ソウジの家に雇われて
 
おり、ソウジの眼には実年齢と精神年齢が同じ珍しい大人として信頼のおける数少ない人
 
間だった)は、ソウジの目には子供にしか見えない兄と、「できちゃった結婚」をしてし
 
まう。両親も祖父の死を機に正式に離婚。と次々にソウジを襲う不幸の連続は、まるで六
 
十年代末に流行した、高橋和巳の小説のようだ。
 
 居場所をなくしたソウジは、ノリコに教えられたように菓子パンを暴食するようになる。
 
彼らACは、菓子パンを食べると、まるでマッチ売りの少女のように、目の前に幸せだっ
 
た頃の思い出が一瞬ではあるが蘇るのだった。
 
 ものすごく悲惨な話のように見えるが、では目を背けたくなるかというとそうでもなく、
 
むしろストーリーに強くひきこまれている自分に気づく。なぜなら、人生なんていいこと
 
ばかり続くわけはなく、むしろ嫌なこと、不快なことの方が多く起こるということを、我
 
々は経験的に知っていて、自分よりはひどい境遇かもしれないが、程度の差こそあれ似た
 
ような現実を抱える我々が、ソウジに感情移入せざるを得なくなるのだ。
 
 本作の原作者・大島弓子は、それまで「白馬の王子様があらわれてメデタシメデタシ」
 
とか、「メガネを外したら、それまで地味でブスだと思ってた私が、突然美人に早変わり
 
して、クラス一の素敵な男の子に告白されちゃった」といった、予定調和の絵物語的だっ
 
た少女マンガの世界に、純文学的ストーリーを持ち込んだ、少女マンガ界の一大変革者の
 
一人として有名である。つまり、かつての文学青年が、太宰治を呼んで「この人だけは自
 
分のことをわかってくれる!」と、人生を生きる上での糧としたように、マンガが文学に
 
とってかわるようになった七〇年代以降から、現実社会は「白馬の王子様」があらわれる
 
絵物語ではなく、不幸なことや嫌なことだってたくさんあるんだよ、とリアルな人生のガ
 
イドブックとして、彼女の作品は支持を集めたのだろう。だから、本作がシェイクスピア
 
の「真夏の夜の夢」のようにハッピーエンドにならないのは、ある意味当然のことだ。こ
 
の場合の「真夏の夜の夢」は、大島弓子以前の予定調和的少女マンガ世界のメタファーな
 
のだ。
 
 このように考えていくと、もし不幸になったときの対策として彼女が出したプランとい
 
うのも、ペシミスティックだが実用的だ。ソウジやノリコはパンを食うことによって思い
 
出を見た。つまり、現実なんて個人の力じゃどうすることもできないほど大きなものなん
 
だから、いっそ夢に逃避しちゃうのが一番ですよ、と言っているわけだ。この辺が、同じ
 
夢をテーマにしたOH夢来’Sの芝居と正反対なところが面白い。OH夢来’Sの芝居の
 
中での夢は、前向きな目標だった。しかし本作で述べられる夢は、後ろ向きな逃避。どち
 
らに共感するかは人それぞれだろうが、大島作品が、長い間多くの人々の心をとらえて離
 
さないのは、結局、OH夢来’Sのいう夢が、かつての少女マンガと同質の「絵空事」に
 
つながることを意味するように、私には思えてならないのだ。
 

   [1999年12月17日 9時7分12秒]

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ロケットハウス第1回公演「ロケットハウス」

 下宿を舞台とした作品である。三〇歳の独身男性の管理人、同じく三〇歳の独身男性、
 
臨月なのに夫とケンカして家を飛び出してここに住む女性、そして出入りの花屋の女の子、
 
主な登場人物はこの四人である。
 
 住人の一人・淳史はつき合っている女性がいて、結婚を前提にマンションを購入したが、
 
突然彼女にフラれてしまい、一人でマンションへと移っていく。もう一人の住人・あかり
 
も、いよいよ出産という時に、心配で様子を見に近くまで来ていた夫とよりを戻し、自分
 
の家へ帰っていく。上演時間も五〇分程度というもので、あっさりした短編であった。
 
 ところで私はこの作品を見て、どうにも物足りないものを感じてしまった。時間が短か
 
かったため、登場人物の性格描写が掘り下げきられていないのもその一因だろうが、上演
 
時間が短くても、中身の濃い作品だって他にはあるわけで、別のところにも原因はあるよ
 
うに思われるのだ。それはなにか?
 
 私はこの芝居の舞台となっている、下宿という設定に、その原因があるように思われる
 
のだ。かつて、七〇年代頃の日本であれば、学生や独身サラリーマンが下宿で生活すると
 
いうことも一般的だっただろう。その頃のTVドラマには、「時間ですよ」とか「カック
 
ラキン大放送」といった、下宿を舞台としたものも割と存在した。しかし、個人のプライ
 
バシーが尊重され始め、社会全体もより豊かになってきた八〇年代以降は、学生も独身生
 
活者もワンルームに住むことが一般的となり、下宿生活者の割合は大幅に少なくなってい
 
るはずだ。TVドラマに、下宿を舞台としてきたものがいつの間にかなくなっていったの
 
も、そうした時代の流れに沿ったものだったのであろう。
 
 おそらく本作の作者は、こうした時代の流れから、人々の心がバラバラになり、孤独感
 
や淋しさを抱えている人間が増えていることを考慮し、そうした淋しい時代への処方せん
 
として、人々の心に暖かみを取り戻すもの=下宿という設定をしたのだろう。しかし、本
 
当に人々の心への対処法として下宿が有効だとするなら、なぜ現実社会では下宿は減り続
 
けているのだろう?
 
 確かに現代人は心に孤独感を抱えている人が多い。「癒し」という言葉が流行語大賞に
 
ノミネートされることからみても、それは明らかだ。しかし、同時に世間というものがう
 
っとうしいという感覚を今の我々が共有していることもまた事実だ。東京に代表される大
 
都市が、「人間の住むところじゃない」といわれながらも人口が増え続けているのも、そ
 
うした田舎にありがちな、世間のしがらみから逃れたいという人が多いことを意味してい
 
るのだろう。下宿が廃れてきているのも、そうした世間のうっとうしさを感じさせるもの
 
だからではないだろうか?
 
 では、今の人々は下宿に代わるものとして、どんなものに楽しみを見出しているか?例
 
えばオタクという言葉は、使われ始めた当初は、差別的意味合いを強く含むものだったが、
 
今では「俺って、オタクだから」などという言葉が、違和感なく使われるようになった。
 
彼らの特徴はといえば、アニメ・特撮・同人誌マンガに代表されるように、共通の価値観
 
が他人との結びつきとなっていることだ。あるいは、今流行りのインターネット。これも、
 
あらゆる細かいジャンルに対応した天文学的数のホームページが存在することで、それぞ
 
れに価値観を共有するものが集うことができている。これに対して下宿や学校や会社や家
 
族といった、昔ながらの世間的な共同体はどうかというと、別に同じ価値観を共有してい
 
ないけれども、たまたま偶然に一緒に同じ生活を営んでいる、という共通点が見られる。
 
 例えば学校や会社の場合は、受験勉強という目標や、生活の糧となる収入を得るという
 
目的があるため、嫌でも我慢してその場にいざるを得ない、という面はある。確かに、か
 
つての高度成長の頃のように、一生懸命働けばより豊かになる、という共通の目標があれ
 
ば、会社も居場所として機能できただろう。しかし、社会が充分豊かになった現在では、
 
なにも価値観の合わない上司と長時間いる苦痛をガマンしなければならない理由はない。
 
また、以前と違いよい大学を出ればよい就職を得られる時代ではなくなった現在、目標の
 
見えない学校に行って価値観の合わないクラスメートと一緒にいるのも苦痛だろう。こう
 
して、アフター5は自分の時間を大事にする社員が会社には増え、学校では学級崩壊が社
 
会問題となってゆく。こうした時代に、共通の価値観のない人間が、好きこのんで下宿と
 
いう場で一緒に生活するというケースが減ってくるのは理の当然であろう。
 
 本作の作者が、多くの人の心に暖かみを取り戻させてあげたい、という心優しい問題意
 
識を持っているであろうことには敬意を表する。しかし、その対処法として時計の針を逆
 
に戻すことを選んでも、私には「癒し」を求める人々を本質的に癒すことは、残念ながら
 
不可能ではないか、としか思えないのだ。
 

[1999年12月25日 11時1分35秒]

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