太田憲賢(おおたのりよし) 仙台アイドル評倶楽部


 ’67年仙台市生まれ。’90年、就職のため上京。三年間の在京期間中に

見た、「大人計画」の演劇に衝撃を受け、演劇ファンになる。’93年、仙台

にUターン転職。同年より、仙台演劇祭のボランティア・スタッフ(当時の「も

りあげ隊」)に参加。以後、’94、’96、’97年と同ボランティア・スタ

ッフに参加。’98年、同演劇祭に劇評モニター制度が創設されたのを機に、

同モニターに移行。’99年にも同モニターに参加。当ホームページには’9

9年より投稿を開始、現在に至る。

 太田は劇評を書く理由を「自分の中にある業」と考えている。つまり、作家

には本来、自分の中に「書きたい」というやむにやまれぬ創作意欲があり、そ

れが作品を生みだしていることと同様に、劇評を書く人間も、自分の内面に「書

きたい!」という欲求があるから書くものであり、それがたまたま物語という

方向に行くか、批評・感想という方向に行くかは、本人の得手、不得手の差で

あるという考えを持っている。従って、「劇評を書く者が仙台演劇界の良心を

標榜する」ことは、必ずしも必要なことではなく、むしろ、相対的価値観たる

べき劇評に、絶対的「正しさ」という下駄を履かせる危険性や、「業」に過ぎ

ない劇評を、「良心」という名の偽善と化する問題点があると考えている。太

田が仙台劇評倶楽部に属さないのは、上記の理由からなのである。

目次   1999年の劇評へ


 


宮城学院女子大学演劇部「If It’s」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここ2,3年の僕の年末の最大の楽しみは、宮学の12月公演を見ることである。今年

もついに、恒例のその日がやってきたのだが、相変わらずのほのぼのとした楽しい雰囲気

のお芝居で、最後まで飽きずに見させていただいたのであった。

 先の宮教の公演と同様、おそらく本公演も、見る人が見れば厳しい指摘をしたくなると

ころがたくさんあるのだろう、とは思う。しかし、そのような問題点を超えて、なおかつ

観客である僕に「楽しい!」と、ハッピーな気持ちにさせるものをこの大学の演劇部は間

違いなく持っている。では、それが何なのか?これについて、僕はこれから書こうと思う。

それは、僕の演劇を見る上での問題意識が、「いろいろアラがあっても、なおかつこの作

品を僕が面白いと思ってしまうのはなぜか?」という部分に大きく向いているからなので

ある。

 本作の主人公、菜月は画家志望の女の子である。大学を出て3年目の現在、彼女は絵に

対してスランプに陥っており、「自分から絵がなくなってしまったら、いったい何が残る

のだろう?」という悩みに苦しんでいる。そんな彼女と、大学時代からの友人であるフリ

ーターの牧乃、OLの香恵の3人が、街で出会ったある不思議な少年の超能力(?)によ

って、別の次元の世界に連れて行かれてしまう。そこは、何も存在せず、何もしなくてよ

い世界であり、その少年は菜月に「君がここにいたいと望んだから、ここに君たちを連れ

てきたんだよ」と話す。

 実は、その少年は菜月の中のネガティヴな心が作り出した、もう一人の菜月ともいえる

存在で、事実、菜月は絵に対してスランプに陥っている自分の状況を親友の香恵に話した

後、「このまま、なにもしたくない」という本音を吐露する。

 しかし、「何も存在しない・何もしなくていい」という世界は、いってみれば「死の世

界」を暗喩したものといえよう。精神的に参っているとき、人はおうおうに「自殺したい」

という思いを抱いてしまうものである。しかし、現実に死ぬことはやはりイヤだ、という

気持ちも矛盾ではあるが同時に持ち合わせているからこそ、多くの人は自殺しないで生き

続けているわけで、菜月も、一時は「ここにずっといてもいい」と思いながらも、やはり

元の世界へ戻ろう、と思い直し、もう一人の自分である少年と戦う決意をする。

 そんな菜月を助け、少年との戦いに助太刀をする不思議な少女が登場する。実は、その

少女は、以前菜月が飼っていた猫・アリスの霊なのである(だから、やはりこの世界は死

後の世界を象徴しているのだろう)。アリスや親友たちの助けにより、菜月はついに、元

の世界への帰還に成功する。

 つまり、本作は今年の高校演劇コンクールでの、白百合の「HAPPY BIRTHD

AY」と同じテーマを持つ作品なのである。現実世界は、自分にとっていいことばかりが

続くわけではない。むしろ、イヤなことの方が多いくらいだ。だから、「この世」ではな

い「幻想の世界」、あるいは「あの世」にいってしまいたい衝動に人は駆られてしまうこ

とが多い。しかし、それでもなおかつ「あの世」に行かず、「この世」に居残ろうという

気持ちにさせるのは、自分を「絵の才能」などといった限定したものによってのみ必要と

しているわけではない、全的存在を受け入れてくれる親友(あるいは飼い猫)という「居

場所」なのだ、というのが本作のテーマなのだろう。

 しかし、と私は考える。もし、そのような自分を受け入れてくれる存在がいない人間は

どうすればいいだろう?たぶん、そのような人間にとって必要なのが、「あの世」ではな

い「幻想の世界」なのである。つまり、今回の「宮学の演劇」、という存在自体が、実は

観客の僕にとっては、公演が終了すれば戻ってこれて、「あの世」ではないが「居場所」

として機能してくれる「幻想の存在」、しかもかなり居心地のいいそれだったのだ。

 宮学の芝居を見ていていつも感じるのは、何か舞台からパステルカラー、とでも形容し

たくなるような、明るく、穏やかな雰囲気だ。それは、たぶん僕がこの秋にコンクールで

見てきた、一部の女子高演劇部にも通じることなのだろうが、おそらく普段から、和気藹

々と楽しんで稽古をしているんだろうな、という感じが伝わってきて、それが見ているこ

ちら側も感応させ、なごんだ気分にさせてくれるのだと思う。

 確かに厳しい稽古をしてせっぱ詰まった状態に自分を持っていくことで、素晴らしい演

技を役者がする、ということはたくさんあるだろうし、事実そういう役者さんによって、

感動させてくれた作品だって僕も今まで何度も見てきたので、一概にこういう芝居がいい、

こういう芝居はダメ、と短絡的に結論などつけるつもりはない。しかし、和気藹々と楽し

んで稽古をしている感じが、ほのぼのと伝わってくる芝居というのも、その手の「居場所」

を求める観客にとっては、また得難い魅力であることも、また事実なのだ(もしかしたら、

彼女たちはかなり厳しい稽古をしているのかもしれないので、あまり勘違いしたことを書

くと失礼に値するかもしれない。でも、公演パンフに書いてあった「面白NG特集」を読

むと、あまりそういう感じがしないんだよネ。でも、僕にとっては、だから好き、という

面の方が強いんだけど)。

 個々の役者さんについて。主人公の親友のフリーター役で出てきた、手塚優子さんが面

白かった。大学出て3年もフリーターをやっているという設定からもわかるとおり、「明

日は明日の風が吹く」的なお気楽な性格であり、そういう「明るく元気がいいけど、ちょ

っとマヌケ」という見る者を楽しませる三の線の役作りが、ピッタリはまっていた。彼女、

去年の「センチメンタル〜」でもシローという少年の役だったが、元気のいい役が似合う

タイプなのだ。今回は特に、趣味で覚えたという催眠術を、もう一人の親友・香恵にかけ

る場面が、とても大仰かつコミカルでおかしかった(あと、ウィーンのダジャレ!)。た

だ、去年の演技に比べると、他の役者さんが静かな演技が多いのにひきずられたのか、や

や小振りになっていたようなところがちょっと残念だったが・・・。折り込みチラシに入

っていた来年3月の「学都出陣」の参加メンバーに、彼女の名前も入っていたので、今ま

で宮学の役者さんは1年に1回しか見られなかったのが不満だったが、もし3月もキャス

トで出てくれるというのであれば、今からとても楽しみである。

 それと、「幻想の世界」でボランティア活動をしている女性が、突然、ドラクエをより

面白くするには井戸から貞子を出せばいい、という話をするシーンがあるのだが、こうい

う突然関係ない話を、しかもいかにも幽霊がしゃべるように(ど〜ら〜く〜え〜は、い〜

ど〜か〜ら〜さ〜だ〜こ〜を)折り込むところが、あまりにもナンセンスで、おかしくて

仕方がなかった。ボランティアの女性は2人出ていて、どちらがこの役を演じた人なのか

よくわからないのだが(成沢綾さんの方?)、今年始めてみた顔なので、来年以降もキャ

ストでの出演を期待したい。

 そういえば、宮学の公演は、いつも3〜4人しかキャストが出てこないパターンがここ

数年続いていたのだが、今年は一挙に8人も出演していたので、少々ビックリしてしまっ

た。宮学は毎年12月と、一年に一回しか公演をしないので少々寂しく思っていたのだが、

せっかくキャストも増えたことだし、来年あたりは年2回、なんとかチャレンジしていた

だけないものだろうか?期待してますので、ぜひ、検討してみてください。 

 

[2000年12月16日 1時6分16秒]

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青葉玩具店「演宙遊戯」

お名前: アイドル評@太田   

 

 以前、新月列車の「誰か−STRANGER−」の劇評で、私はこんなことを書いた。

>ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

>少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいて

>い、「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさら

>に・・・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係

>性とか自分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女

>だと女子の方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因

>がある、という意見である。

 新月の「誰か−」が、その少女漫画を原作とした「他者との関係性」をテーマにした作

品だとしたら、今回の青葉玩具店の「演宙遊技」は、まさに少年漫画的・ジャンプ的作品

だったといえよう。

 「世界征服をたくらむマッドな博士と対決し、最後は勝利して世界平和に貢献する。」

身も蓋もなく言ってしまえば、本作のストーリーは今まで幾たびも少年漫画に掲載されて

きたストーリーのデジャ・ブ、焼き直しに過ぎない。もちろん、その手のストーリーがわ

かりやすく、また、善・悪の対立という、ドラマ性を生じさせやすいということから(こ

れは高校演劇コンクール県大会で、石川裕人氏が白女・後藤尚子さんにいった講評そのま

まではないか!)、何回も何回も飽きることなく作られてきたものである、ということは

理解できる。ジャンプが以前のような極端な勢いをなくしたとはいえ、何冊かの少年漫画

誌が商業ベースで成り立っているのは、そういったストーリーを面白がる読者が多数存在

しているからに他ならないからだ。しかし、今の私にはその手のわかりやすいエンタテイ

メントは、もはや物足りなく、嘘臭いものでしかなく、だからわざわざ劇評へ足を運んで

1800円の入場料を払ってまで見たいものではない。200円ちょっとでコンビニで買

えるにもかかわらず、あえて買わないものを、なんでそれ以上の手間暇を書けて見に行か

なければならないのだろう?それよりは、少女漫画に象徴されるような、複雑な人間関係

のシミュレーションゲームを読んでいた方がずっと面白いし、感情移入できる。

 これら作品のテーマは、理想を追求し、秩序を回復するための、正義の物語である。し

かし、私は、先の三高の劇評でも書いたとおり、「正義の味方」や「プラスのヒーロー」

を蘇らせることなど、例えていうなら、そこに存在しない遺跡を捏造するようなもんだ、

という現状認識を私は持っている。そんなわかりやすい「正義」が信じられるのなら、な

にも高校演劇の地方大会を見に行くために若柳や本吉まで足を運ぶような、業の深い酔狂

な真似などするわけがない。だって、私はコンビニでジャンプ読めばそれで今の生活に満

足できる、というタイプの人間ではないのだから。

 もちろん、このような反論をする人がいるかもしれない。「本作ではニセのブルース・

リーは自分がレプリカントである、という悩みを途中から抱え出す。これはアイデンティ

ティ不在という我々の現状をテーマとして扱っているということではないか?」と。しか

し、この悩みが本当に作品のテーマといえるほど掘り下げられていただろうか?結局は、

その悩みが迷いとなることによって、ニセ・ブルースリーは主人公に負けてしまう。つま

り、この悩みは作品のテーマとして作者が取り入れようとしたものというより、敵役が主

人公に負けるための原因を作るために、ご都合主義的に取り入れられたようにしか見えな

いのだ。だって、ニセ・リーはこの悩みを解決するために、自分探しの旅に出たり、引き

こもったりするわけではないんだもの(笑)。

 本作でニセ・リーはマッド博士に対して、「俺は何のために産まれてきたんだ!」と叫

ぶ。でも、「何のために産まれてきたか」なんて、すべての人間にとって「偶然」でしか

ないんだよ。自分の父親と自分の母親が何十億という世界中の男女の仲からであったのも

偶然だし、その良心のたくさんある精子と卵子の中からどれが受精したかも偶然なんだも

の。だから、私は三高の劇評でも書いたとおり、「人生に意味はない。」と考えてるし、「意

味にすがるのは弱者だ。」というニーチェの言葉を引用したのだ。

 また、作品の最後で、実は主人公もマッド博士の作ったクローン人間だった、というオ

チが付くのだが、これも観客を裏切ることによって「あっ!」と言わせるためのサービス

精神以上の強いテーマは感じられなかった。要するに、どっちも「本物」ではないという

オチは、「自分は本物だ」という強い「妄想」を持っていたものの方が、悩んでいる人間

より精神的に強い分、勝負の際は有利、という教訓を、示していることになるといえよう。

しかし、そのような強い「妄想」を持ちようがないのが、何が正しいかわからない今の時

代という現状なわけだし、逆に安易に強い「妄想」を持ってしまうことが危険であること

は、やはり三高の劇評でやはり例として出したした、オウムの一件を見れば明らかだろう。

 最後に念のため申し添えるが、私のここまで書いた劇評は、本作を見て面白かったと思

った人達の感想を否定するものではない。世の中には、同じ作品を見て「面白い」とも「面

白くない」ともとる人間が両方いることは当然のことだ。特に、本作のエンタテイメント

性は、先に述べた少年漫画を面白がる人が一定多数いるように、世の多数派の方々にとっ

て受け入れやすい面白さであることは充分理解できる。私のこの劇評は、あくまで私の内

面にとってどうだったか?と言うことについて書いているので、本作を「絶対的」レベル

で否定するものではない、ということをなにとぞ御理解いただきたい。

 

 

[2000年12月17日 21時40分51秒]

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宮城教育大学演劇部「ミナモノカガミ」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 井伏さんから僕に対して、井伏さんの劇評に対するコメントを求められましたので、こ

れについて述べさせていただきます。

 今回、井伏さんの御指摘のあった件につきましては、「現在の設定が安易」という部分

で意見が一致した以外は、ほぼ技術的な部分であると思うのですが、以前に「作品論か?

技術論か?」でも書きましたとおり、僕は作り手の立場に立ったことのない人間であり、

観客の視点から演劇を見続けてきた人間です。その意味で、今回井伏さんが指摘された点

につきましては、「なるほど、作り手の人はこういう視点で見ているのか。自分は見落と

していたことがたくさんあるんだなあ。しかし、言われてみれば確かにその通りではある

なあ。」と感心させられた、というのが率直な感想です。

 しかし、あえてこれは強調しておきますが、井伏さんが指摘された問題点について僕が

「全くその通りだ」と同意することが、イコール僕にとってこの作品に対する「面白かっ

た」という肯定的評価を減ずるものではないのです。

 なぜなら、例えば以前にも書きましたが、僕はクラシック音楽のファンでもあり、よく

オーケストラの演奏会を聴きに行きます。それで、プロの演奏家の方のお話を伺ってわか

ったことなのですが、僕のような素人にはわからないミスや事故が、演奏会の中では毎回

けっこうおこっているということなのです。それはきっとプロの方ならわかることだろう

し、そのプロの方がその問題点を指摘することによって、彼らの演奏がより良くなるので

あれば、それは大変けっこうなことだと思います。しかし、そのようなミスがあったこと

が後でわかったからといって、僕がそのコンサートでの演奏に対して大変感動した、とい

う事実は変わるものではないのです。

 技術はないよりあった方がいいでしょう。しかし、人が芸術を見て感動することは、必

ずしも技術的巧拙に限定されるものではない、ということもまた事実ではないでしょう

か?今述べたオーケストラの件で言えば、例えば故カラヤンについて、「表面的にはとて

も完璧な演奏をするが、中身が空虚で、作品から訴えてくるものが何もなかった」という

批評が生前からよくなされていたものでした。僕はカラヤンの演奏をライブで聴いたこと

はありませんが、確かにルーティンワークで弾いてるんじゃないか?と思わせるような外

国の「一流」オーケストラの演奏会には何度か出くわしたことがありましたし、そのオー

ケストラの演奏に比べれば技術的には稚拙であるだろうアマチュア・オーケストラの演奏

会の方に、より感動することも多いのです。

 例えば、今回の井伏さんの御指摘でいうなら、「見えないコップで水を飲んだ」とか「絵

の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出した」といった矛盾点は、僕に

とっては気にならない範囲の矛盾であり、たとえ気がついたとしてもそれによって太田と

いう人間に本作がつまらないものになるほど決定的な性質を持つミスではないから、僕の

劇評では指摘しなかったということです。もちろん、だからといって井伏さんがその件を

劇評で指摘しなくてもいい、ということではありません。井伏さんが指摘することによっ

て、宮教の方々がよりよい芝居を作れるきっかけになるのなら、それは彼らにとっても望

ましいことでしょうから。

 また、「国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか」という点につい

ても、それをいうなら僕が子供の頃に見た「仮面ライダー」のショッカーなんてのは、か

なり間抜けなことをたくさんやっていた悪の組織で、あれはいっぺんに何十体もの怪人を

ライダーにぶつければ、最初からライダーに勝ってたのではないか?とか、あるいはなん

でウルトラマンはスペシウム光線を最後の最後まで使わないんだ?とか、「間抜け」な部

分はたくさんあったわけで、そういう間抜けな部分を集めた「怪獣VOW」なんて本まで

出ているくらいですが、だからといってあれらの作品がつまらなかったか、といえばそん

なことはない。30代、40代までそれら特撮モノをひきずっている連中が「オタク・カ

ルチャー」という一ジャンルを現在築いているのは周知のことでしょう。ウルトラセブン

についての作品批評など読むと、正義対悪という単純な二項対立に限定されない深いテー

マが内包されていることが指摘されており、確かにそういう視点で見ると、子供の頃は「戦

闘シーンが少なくてつまんな〜い!」と思っていた話が、「ゲッ!こんな話、子どもに見

せてわかるのかよ」という大人になった今となって逆に落涙を禁じ得ない話だったりする。

まあ、これは何もこれら昔の作品に限ったことではなく、僕が何かにつけて引き合いに出

すエヴァンゲリオンにしたって、井伏さんのおっしゃる「人物設定の安易さ」と「行動の

いい加減さ」といった矛盾点は結構あちこちに存在し、いわゆる謎本を読むと、それらに

対するツッコミがてんこもりだったりするわけなんですが、だからといってあの作品がブ

ームとなり、多くの人がはまって感動したという事実が消えるものではないわけです。

 小学生の書いた稚拙な絵でも、見る人によっては強い衝撃を受けたり、深い感動をした

りするものです。僕は技術的な巧拙の向こうにある、テーマ的なものに目を凝らしたい、

それが批評の持つ重要な役目であろう、と考えています。もちろん、それが井伏さんの書

かれる技術的批評を否定するものではありません。井伏さんの御指摘によって宮教の人達

がよりよい芝居を次回以降作れるのなら、それはそれでけっこうなことですから。また、

いくら技術的なことはわからない、と言っても、それこそ僕のような素人でもわかるよう

なひどいミス、さっきのオーケストラの例でいえば、明らかにトランペットの音が外れて

いて、それで演奏が台無しになってしまった、という事例については、僕も書くことがあ

るとは思います。ただ、僕としては「ミスはないけど平板な演奏」を、技術的な問題点が

ないから賞揚する、ということは絶対したくありません。どことはいわないけれど、そう

いう内容の芝居をしていて、一部の方々に好評を得ている劇団がありますが、その手の劇

団に比べたら、今回の宮教の方が百倍も千倍も面白い、と僕は思っているのです(もちろ

ん、それだって、あくまで僕の主観なんですけどね)。

 

[2000年12月13日 21時57分40秒]

お名前: アイドル評@太田   

 

 2年続けて宮教演劇を夏、冬、夏、冬と見てきて、一つ気づいたことがある。それは、

夏公演の時は柱的存在の4年生が抜け、また新入生がまだ経験不足のためか、役者の技術

的面で少々不満を感じさせる演技がまま見られるが(それでも、宮教ならではの一生懸命

オーラで、それをカバーしてしまうのだが)、冬公演となると、役者の技量もアップして

きて、長編を演じながらも最後まで緊張感を途切れさせず、結果、一般のアマチュア劇団

を凌駕する名演を見せてくれるということだ。今回の「ミナモノカガミ」も2時間20分

の長編であったけれども、やはり最後まで飽きさせない、ドラマティックないい芝居であ

った。しかも、今回は久しぶりのオリジナル脚本である。シバタテツユキさんの作家とし

ての才能に敬意を表したい。

 物語は中世(役者の服装から考えて、平安〜鎌倉あたりか?)の巫女的な舞師(地鎮舞

踊)の家族と、現代のある兄弟をめぐる2つのストーリーが並行する形となっている。代

々舞師の家系を継ぐ家の仲の良い姉妹の前に、ある日、分家の若者が現れる。分家の若者

は男の子がいない本家に養子として入ってもらう予定となっており、実際彼は長女と恋仲

になるのであるが、ある時儀式の最中に篝火が長女の顔にぶつかり、長女は顔に大やけど

をおってしまう。世間体を気にする一家の主は、それでも長女を愛する若者に、「夜は姉

と一緒にいてもいいが、表面的には妹と結婚する形を取ってくれ」と若者に頼み、若者も

渋々それを承諾する。しかし、それが3人の心に深い溝を作り、姉はそのルサンチマンを

面(能面?)を作ることにぶつけていく。姉の負の心がこもったその面は、その後つけた

ものを破滅に導くものとして恐れられていく。

 そして、舞台は現代。お盆で帰省した兄と、それを迎えた弟は、2人でいたずらに神社

(?)に侵入し、偶然その面を見つける。弟が戯れにその面をつけようとしたとき、面は

光と共に弟の顔に吸い込まれてしまう。そして彼は、その面をつけたことによって、長年

に渡って不幸の源であるその面を壊そうとしてきた国の特務機関に追われる身となってし

まう。と、いうのが本作の主なあらすじである。

 秘密の政府系研究所や謎の特務機関が出てくるのは、どうも最近、宮教演劇のお家芸と

なりつつあるようだ(「パーフェクトライブス」しかり、「ウオルター・ミティ」しかり)。

しかし、面をめぐる政府系研究所や村の古老による謎解き、あるいは特務機関との追いつ

追われつの展開。これらドラマティックな要素が物語の中にてんこ盛りで詰まっているの

だから、これが見る者にとってスリリングな展開とならないわけがない。エンタテイメン

トとして、お客さんをどうすれば飽きさせないかを、作者が考え抜いているからこそ、こ

ういうサービス精神いっぱいの脚本が出来るのだろう。その意味で、シバタさんの脚本を

僕は高く評価するのである。

 そして、外面的なエンタテイメントの部分と並び、観客が登場人物の内面に感情移入す

る部分として設定されているのが、「負の心」をテーマとしたドロドロとした人間関係で

ある。この仲の良い姉妹と分家の若者との三角関係を見て感じたのは、パターンは異なる

が「ロミオとジュリエット」みたいだな、ということだ。どういうことかというと、「ロ

ミジュリ」は、両家の不和という「世間」の大きな力が二人の前に「壁」としてあらわれ

るわけだが、本作では姉の火傷が原因として、彼女の親を代表とする「世間」が、2人の

結婚を許さない「壁」として出現しているわけである。しかも、その「壁」が「ロミジュ

リ」のように、ストレートに2人を別れさせようとするのではなく、「表面的には妹と結

婚しろ。夜は姉と夫婦として暮らしていいぞ。」という、偽善的な妥協案として姿を現し

ていることが、本作のストーリーをより屈折した面白さとしているのである。つまり、こ

の「偽善」によって、本来なら苦しむべき存在が2人であるところが、結果として妹も含

めて3人がそれぞれ自分の中の「負」の心と対峙するという構造になっているのである。

 しかし、このことに関して私は少々不満を感じるところがある。それは、本作がドラマ

ティックになっているのは、そのような世間の壁が強大であった昔の話であったからこそ

可能になったのではないだろうか?つまり、「世間」というものが以前ほど強大でなくな

り、恋愛が自由になった現代に、このようなドラマは、自分のこととして感情移入の対象

となるものにはなり得ないのではないか?ということだ。ここ数年、「自分探し」とか、

「自分を見つめる」といったテーマの作品が、ジャンルを問わず流行になったのは、その

ような世間の壁がなくなったにもかかわらず、自分は相変わらず不幸である。それはなぜ

なのか?世間が原因でないとするなら、自分自身に原因があるのではないか?という疑問

が「世間」の力が弱まった結果として、多くの人の心にテーマとして浮かび上がったから

ではないだろうか?

 だからこそ、本作の現代のシーンでは、特務機関とのスリリングな展開といったエンタ

テイメントとしては魅せるものの、主人公の内面描写としての部分は、中世の場面に比べ

ると弱いものになっている。面を着けた弟は、面を被った影響によって、兄に対する憎し

みを強めていくのであるが、その憎しみは「面」をつけたことによって増幅されているに

過ぎず、本来、面をつけなければ兄弟仲を破滅させるほどの決定的なものとはならなかっ

たであろう、と思わせるほど、説得力の強いものとはなっていない。

 確かに、「障害」「壁」が物語の中に存在し、それと戦うというスタイルをとることは、

物語の中にドラマを作り出す王道ともいえるものである。しかし、私は芝居を見るからに

は、「今の自分」にシンクロできる作品を見たい。「親の反対」や「世間体」が存在しな

いにも関わらず、なぜ自分は幸せを実感できないのか?それをテーマとした作品を、次回

以降シバタさんが作ってくれればいいなあ、というのが、本作を堪能しつつも一観客とし

て感じた贅沢な要望である。勝手な希望で恐縮だが、是非ともチャレンジしていただきた

いものである。

 個々の役者について。今回は、なんといっても依子役の照井麻貴子さんに尽きるでしょ

う!この依子という役は、面をめぐる謎を取材するためにやってきた出版社の2人組のう

ちの一人なのだが、なんだか旧あみんの岡村孝子を思わせるような、クラ〜い雰囲気で出

てくるのである。そして、その暗さがマンガチックで、わざとユーモラスに演じていると

ころが、たまらなくいいのだ!そして、彼女は一種の超能力も持っており、いきなり写真

を念写して、周りを驚かせたりするし、さらには特務機関との戦闘シーンでは、なんと!

「日出処天子」の厩戸皇子のように、「気」によって敵を吹っ飛ばすことが出来たりする

のである!この手の不思議系少女は、まさに「アイドル評倶楽部」たる私のツボにズバッ

とハマってくるキャラクターであり、「あ〜あ。今回は吉田みどりも笹本愛もキャストに

出てこないのかあ。イマイチ物足りねえなあ。」と思っていた私の心を見透かすかのよう

な(ていうか、見透かされてました?シバタさん・笑)ナイスキャストであったといえよ

う。宮教は、必ず一人はこういう不思議系が舞台に出てくるところが嬉しい。ホント!役

者の層が厚いんだよねえ。

 そして、高橋愛美さんや鈴木香里さんといった、その手のオーラこそ出ていないものの、

手堅くワキを押さえる毎度ながらの見事なバイ・プレイヤーぶりにも、いつものことなが

ら感心させられた。彼女たちは宮教であるからこそ、渋いバイ的印象が強いが、ひとたび

どこかの劇団に客演すれば、以前の「ワガクニ」の高橋(妹)さんのように、他の劇団の

役者を喰ってしまうだけの実力を持ち合わせていることは確実であろう。

 そして男優では、なんといっても斉藤雄介君。背が高く、スタイルがいいので、いつも

出てくるだけで、「ああ、彼、今回もキャストなんだな」とすぐわかる、見栄えの良さ。

そして、割舌が悪いのか、その巻き舌気味の外国人のような独特のセリフ回しも、最初は

違和感があったものの、最近では彼ならではのポジティブな個性として楽しめるようにな

ってきた。すべてに平均的で印象に残らないような役者さんよりも、一見弱点のように見

えながらも、それが強烈な個性として残る役者の方が僕は好きだ。その意味で斉藤君は、

ある意味僕にとって「宮教の顔」であり、彼が出ることによって「宮教の芝居見たー!」

と思わせる役者さんなのである。これからも、大いに頑張ってほしい、と思わずにはいら

れないのであった。

 

[2000年12月10日 23時15分49秒]

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劇団ミモザ「太陽に背を向けて走れ」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここのところ、三高をめぐる議論がけっこうハードなものがあり、それについては書き

甲斐を感じてはいたものの、同時に少々重苦しい気分になっていたことも事実だ。そんな

中、本日ミモザの芝居を見てきたのだが、実に実に感動的な作品だったので、今まで感じ

ていたイヤな気分も束の間、吹っ飛ばすことができた。こういう時、自分が演劇ファンに

なってよかった、と心底思う。何だかんだいって、やっぱり俺、演劇好きなんだよなあ、

と暖かい気持ちになれる。そういう意味で、ミモザの皆さんには、心よりお礼を言いたい。

いい芝居を見せてくれて、本当にありがとう。

 本作は、近未来(?)の日本の話である。通信事業が完全民営化され、Eメールから郵

便までを扱う、とある民間企業の郵便セクションに勤務する職員たちの人間模様と、青年

海外協力隊員としてアフリカに行ったまま、行方不明になったある若者についての物語と

いう、2つのストーリーが同時並行に進んでいく。通信会社の郵便セクションは、Eメー

ルや携帯電話を使う人が増え、昔ながらに手紙を使う人が減っていることを理由に、リス

トラの危機におかれている。しかし、セクションのリーダー・ヤヤは、手紙だからこそ伝

わる熱い思いというものがある、と主張して強くリストラに抵抗する。

 このヤヤ役の、おーみひろみさんが、素晴らしかった。長いストレートヘアーは、「シ

ョムニ」での江角マキ子を意識したものであったらしいが、手紙に書ける熱い思い、部下

に厳しいが信頼されるお姉さま、としての役作りが、まさに本家・江角に負けない熱演と

して、印象に残った。彼女は手紙が大事だという理由を、「手紙だからこそ伝わる『実感』

というものがある」と語る。最近上演された、ある作品と同じ「実感」という言葉をテー

マとして使っていたわけであるが、同じテーマでも、芝居によっては、これだけ心にせま

る表現となるとは!やはりこれは役者の技量と脚本・演出の力量の差なのだろう。

 そして、実はこのヤヤの恋人が、アフリカに渡ったまま行方不明となった青年なのであ

る(ここで、同時並行していた2つの話はつながるわけだ)。彼は、「世界の果てを見た

い」という夢を持っており、その夢を実現するために、廃車になっている機関車に乗って

旅をしようと目論んでいる。この、「世界の果て探し」とは、同時に「自分探し」でもあ

るのだろうが、「終わりなき日常」に倦怠感を感じ、日常にはない濃密なものを探すこと

が、イコール彼のいう「世界の果て」を探すことなのだろう。その意味では、彼の探して

いるものも、きっと「実感」であり、そしてその「実感」を観客である私にも感情移入で

きるようにひしひしと伝えてくれた池田耕亮君の演技力!彼も、仙台演劇祭「星空の迷子

たち」の犬役で出ていた頃は、臭くてくどすぎる演技が鼻についたものだったが(失礼!)、

よくここまで役者として成長したものだ、と感慨深いものがあった。

 だから、彼は愛する女性から離れてまでアフリカに渡り、そのアフリカでも自分の持ち

場を捨てて汽車に乗って一人旅に出ようとする。これこそ、ロマンという名に相応しい、

古典的ではあるが美しいストーリーといえよう。

 そして、そんな職場の先輩のラブ・ロマンスを見つめる、新入社員のヒナタ。はい、こ

のヒナタ役こそ、松陵・亀歩さんと並び、私が今の仙台演劇界で最も一押しする女優!後

藤尚子さんである!!

 去年の「キャラメル・マン」の頃の彼女は、ホント、かわいい女の子、というイメージ

のみが強かったが(佐々木久善さんの「ピチピチしていた」発言が、まさにその象徴だが)、

今年のコンクールで県大会まで進出し、しかも創作脚本賞まで受賞する熱演を見せたこと

で、役者として一回りも二回りも大きくなったような印象を、本日受けたものだった。劇

中コントの場面での、表情の変化の素早く、そしてタイミングのよいことといったら!や

っぱり高校生をいう若い時期だけに、役者としての成長も早いのだろうか?もはや、私に

とって彼女は、ただの地元演劇界のアイドルではなく、若手実力者としての1人に数えた

い人材にまで育ってくれたといえよう。それにしても、コンクールからたった2週間しか

経っていないのに、こんなに長ゼリフを全て自然にこなしてしまうとは!やっぱり高校生

はまだまだ頭が柔らかいね。本人、終演後のロビーで、「この記憶力を中間試験にも役立

てればいいんですけどね、ガハハハハ」と笑っていたが、芝居とは直接関係ないが、ぜひ

試験も頑張るように!(笑)

 それにしても、私はエヴァンゲリオンでも、大人の恋をする加持・ミサトよりも、その

2人を近くで見つめる主人公の中学生・碇シンジ君に感情移入したものだったが、今回も、

大人の恋をする2人よりも、尚ちゃん演ずるダメダメだけど一生懸命頑張って新しい仕事

にチャレンジする新入社員・ヒナタに感情移入してしまうのは、きっと私がいい年をして、

未だに自分に自信がもてないからなんだろうな(苦笑)。でも、そんな自分はダメダメだ

ー!と思う人間に、とても共感できるように書かれていたヒナタの人物描写、私は強く評

価したい。

 それと、もう1人よかった役者。郵便区分けロボット・マリー役で今回出ていた、新人

・アベマコさんは、とても新人とは思えないヒールなんだけど憎めないキャラクターを好

演していた。彼女も高校生とのこと(でも、学校では演劇部に入っていないそうだが・・

・)、本当に最近の高校生の演技力には感心せずにはいられない。

 物語の結末は、明日も公演があるため書かないでおくので、明日お暇な人は、ぜひ大河

原まで足を伸ばしていただきたい。松陵・猫原体と並ぶ、今年の私にとっての感動作であ

る。ただ、一つだけ残念だったのは、物語の出だしが少々早口すぎて、何を言っているの

かわかりづらかったことだ。初日の出だしで緊張していたのかもしれないが、もし明日も

同じ場面が早口すぎたとしても、そこで早急に結論を出さずに、しばらく我慢して見続け

て欲しい。だんだんと尻上がりによくなってくるはずだから。

 

[2000年12月3日 0時13分2秒]

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仙台三高演劇部「ウルトラマンの母」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 前回は、笠原先生が今回の作品のテーマとして「実感」を挙げておられることについて、

私が先生の文章を読んでその趣旨には共感したが、その共感は芝居を見たときには生じな

かった、というところまで書いた。そこで今回はその理由について述べていくこととする。

 笠原先生は、「実感」の例示として、登場人物の「女性」が述べたセリフ、「缶コーヒ

ーって好き。舌に残る感じがいいのよね。」を挙げ、また、オウム信者について言及して

おられる。まず、この2つの例示については、私も強く同感するものである。

 まず、缶コーヒーについていえば、そもそも人間は、缶コーヒーに限らず、カレーでも

チョコレートクッキーでもいいけど、何かを食べて「おいしい!」と「実感」する場合は、

本来「意味」を経由しないものであろう。確かに、カレーがおいしいのはレシピが良かっ

たからかもしれない。しかし、川上高瀬がカレーを食べて「おいしい!」と感じたとき、

あるいはミイがチョコレートクッキーを食べて「おいしい!」と涙を流したとき、彼らは

いちいちレシピの因果関係など頭に浮かべないだろう。味覚がそのまま瞬間的に脳に反応

することによって「おいしい!」と感じる。これ、「意味」を経由しない「実感」である。

 また、オウムが修行で自らの肉体を「実感」するという話。これも、要は厳しい修行を

すれば、過剰な疲労から体が本能的に自分を守るために脳内麻薬を分泌する(いわゆるラ

ンナーズ・ハイの極端な例)として、気持ちが良くなったり、幻覚が見えたりという作用

が体内に生じるわけだけれども、本人たちはそういう脳内麻薬がウンタラといった、意味

的因果関係を経由しないで、ストレートに「気持ちいい!」とトリップしているわけで、

これもまた「意味」を経由しない「実感」といえよう。

 このように考えていくと、「実感」は以外と自分たちの身の回りに多く存在しているこ

とがわかる。例えば、風呂に入って気持ちがいいのは、体内の血行が良くなり体がリラッ

クスするためだろうが、私達はいちいちそんな理屈を考えずに、「ああ、いい湯だな〜!」

と言っている。あるいは、踊りを踊って気持ちが良くなるのだって、同じような理屈で説

明可能だろうが、実際に踊っていて気持ちよくなっている連中は、そんな因果関係を頭に

浮かべなくても気持ちよくなっている。さて、ここで疑問が生ずる。笠原先生は、後段で

は「実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦めて生きるので

はなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということを知らせ

伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。」と書かれている。し

かし、カレーやチョコレートクッキーがおいしいという「実感」は、過去の時代にのみ存

在するものではなく、カレーやチョコレートクッキーが存在する限り、普遍的に存在し続

けるものであろう。また、そもそも「実感」とは、上に述べたように「プラスのヒーロー

(または「正義の味方」)」とかいう意味的概念を経由しないで感じられるからこそ、「実

感」ではないのか?だいたい、風呂に入って気持ちよくなるのに、「正義」なんて必要な

のか?つまり、ここで過去には存在したけど現在は存在しない「正義」や「プラスのヒー

ロー」を例示することによって、笠原先生の本当に求めていることは、実はやっぱり「実

感」ではなく、「意味」ではないのか?という疑念を私は持たざるを得ないのである。最

初の文章で、私はこう書いているはずだ。「『自分のやっていることに意味はあるのか?』

と悩む高学歴の科学者に対して、『いや、お前のやっていることに意味はある。お前のそ

の技術力で社会変革はできる』と、信者を増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こした

ことは、未だ記憶に新しい。」と。つまり、笠原先生のいうとおり、オウムの修行によっ

て信者は「肉体の実感」を得た。しかし、それを「実感」ではなく「社会変革」という「正

義」的意味にすり替えていったのが、まさにオウムの教義ではないのか?だとしたら、「実

感」を「正義」や「プラスのヒーロー」という意味的行為に変換しようとする笠原先生の

目論見は、それに似ていないだろうか?

 だから、私が最後の「歌」に意味を感じたのも、ストーリーを一貫したものとして辻褄

を合わせるためには、必要だったからである。「もうずっと長い間面白い映画を見ていな

い。」という詞は、「意味」が存在した昔には映画も面白かった。つまり、「昔の面白い映

画」は、「意味」が存在することによって生き甲斐を感じていた昔、という時代そのもの

のメタファーであり、それを称揚する内容であるということは、つまりは「意味」の復活

を待望するということだろう、と私は判断したのである。それが、深読みだと言われれば、

そうなのかもしれない。しかし、私という人間の内面においては、そう考えることがこの

テキストに対しては、最も辻褄の合う結論だったのである。

 以上で私の反論は終わりである。渡部先生が質問に答えてほしい、という書き込みを下

になさっていらっしゃりこれについては私も同じ思いなのであるが、もしかしたら私の反

論が全て終了することを、笠原先生はお待ちになられていたのかもしれない。そう好意的

解釈をあえてとり、希望的観測を残すことにして、とりあえず本文を終了させていただく

こととしよう。 

 

[2000年12月12日 0時4分30秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 小山先生。笠原先生にお願いします。やはり、質問には答えていただけないでしょうか。

高校演劇関係者として、強く望みます。

 それから、すみませんでした。下の「MOGURA」という書込みは私のものです。必ず

「同じペンネームで」というルールを犯してしまいました。管理人さん申し訳ありません。

忌野際さんが書かれているように、高校演劇に限らず、演劇界はもっと開かれるべきだと私も

思います。

昨年度の審査経過について太田さんから質問がありましたが、もしおかしな評価をしていない

自信があるのならそれだって公開してもいいのではと個人的に考えています。今回の仙台三高

さんが東北大会に出場できなかったことは残念であると私も思います。なぜなら、本当に訓練

された演技を評価してあげるということも教育活動として大切だと考えるからです。

 ただ、三高さんの生徒の結果を素直に受け止める紳士な態度には一緒に生徒実行委員会の仕

事をした私は敬意を表したいと考えています。ですから、先生方再度お願いします。もういち

どきちんと議論をしようとしてはいただけないでしょうか。  

 

[2000年12月10日 21時44分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 先の書き込みで私は、

「せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。」と書いていたので、これから改めて作品

についての意見をここに書き込ませていただくことにしたい。

 まず、「言葉というものを意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのか

な?」という笠原先生の御意見について。これについては、「はい、全くその通りです。」

と答えるほかない。むしろ、「だから、どうした?」と聞きたいくらいのものである。な

ぜなら、下に書いた「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送れな

いから、意味にすがるのだ」という言葉を理解するためには、まさにそのニーチェの言葉

を「意味」として理解することを経ることが必要だからだ。その点で、我々現代人は「意

味的存在」だ、というジレンマを抱えており、そのジレンマをいかにして解消すべきか?

という問題意識を持っているからこそ、そのヒント・シミュレーションとして私は演劇を

見たり、その感想として劇評を書いたり、また逆に他人の書かれた批評を読んだりしてい

るのである。最初から既に意味から解脱した存在に私がなっているとしたら、笠原先生の

作品を含めて、何もわざわざ演劇を見るために劇場まで足を運んだりするわけがない(も

ちろん、生き方のシミュレーションとして見ることだけに限定されず、単にエンターテイ

メントとして芝居を楽しむことも、時にはあるが・・・)。世の中には、演劇を見なくて

も、そこそこ幸せに生きている人がいくらでもいる。演劇の作り手の方々には、よく「も

っと演劇ファンを増やさなくては!」という問題意識を持っている方がいらっしゃり、私

も、それについてはとても立派なことだと敬意を表しているのだが、と同時に、では、演

劇に対する熱心なファンである自分と、ここ10年近く生の演劇なんて見たことない、と

いう世の中の多数派の方々とを比較して、どちらが幸せなのか?と考えたとき、演劇を見

なくても自分より幸せそうな人が世の中にはたくさんいるのではないか?というのが正直

な実感としてあるわけで、そういう人に演劇を勧めることは、逆に大きなお世話ではない

のか?という思いもまた、私の中にはあるのだ。つまり、既に意味から解脱した人間にと

っては、「人生に生きていく意味はあるのか?」という問題意識を持つ必要はないため、

そのシミュレーションとして演劇や映画を見たりする必然性はない。私は、まだその域ま

で達した人間ではないため、熱心に演劇を見、その劇評を書く「意味的存在」なのだ。こ

の問題意識については、福島の劇団・鳥王の「楽園ダンス」という作品の劇評を書いたと

きにも詳細に論じているので、そちらも是非ともご参照されたい。

 それに関連して言うなら、笠原先生がその下で述べている「人間は意味無しで生きられ

るわけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーシ

ョンの手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。」という御意見について

も、「全くその通りだ。だからどうした。」と答えるしかない。しかし、私が上で引き合

いに出したニーチェの言葉は、「意味にすがる」という言い方をしている。「意味」を「手

段」として、必要かくべからざるものとして認識することと、「すがる=(例えば酒や麻

薬に対するように)依存する」ということは質的に異なることだ。例えば、人間と他の動

物との違いで「火」を使うというものがある。あるいは、「電気」でもいいが、これらは

文明人たる人間が生活していく上で、必要欠くべからざるものであろう。しかし、人間は

「人生に意味が見いだせないから、自殺する」ということを遺書に書いても、「人生に火

(または電気)が見いだせないから、自殺する」などという遺書を書くものだろうか?(シ

ュールなアングラ劇なら、そういう遺書を書く奴が、あるいは出てくるかもしれんが・・

・)そういう点から考えると、今回笠原先生が例示した文章は、「意味」という言葉が持

ついくつかの文意の中から、太田が使用している用法と、あえて違う内容の用法を用いる

ことによって、(本人が意図したことではないかもしれないが)結果的に論理のすり替え

をしていることになるのではないのか?

 念のため、自宅にある「新明解国語辞典」をひいてみた。意味には1として「その時そ

の文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか・用法。」とある。これこそが、

今回笠原先生が説明するとことの「意味」であろう。しかし、その後に2,3,4として

こう続く。2「その人が何かをしたときの動機・意図。」3「意義」4「趣旨」と。太田

が今回使った「意味」の内容としては、1よりもむしろ3が適切なものであることは、明

らかではないのか?さらにいうなら、「意義」を同じ辞書でひくと、1「そのものでなけ

れば・果たす(担う)ことのできないという意味での、存在理由」とある(2は略す)。

まさに太田は、この内容で「意味」という言葉をこの間使用してきたのである。

 そして、笠原先生はこう続ける。「テーマは前述した通り『実感のなさ』である。」と。

ところで、先に例示したニーチェによれば、「意味」にすがらないために必要とされるも

のは「強度」だという。私は、この「強度」と、笠原先生のいう「実感」というものを、

言葉としては違うが、中身としてはほぼ同じことを言っていると考える。その意味で、私

は今回の笠原先生のテーマ説明・問題意識には大いに共感したのである。しかし、皮肉に

も、その「共感」は、笠原先生のお芝居を見た感想として出てきたものではなく、今回の

笠原先生の文章を読んだことによって出てきたものである、ということは、是非とも留意

していただきたいところである。

 では、なぜ、文章では共感できたものが、芝居では共感できなかったのか?これについ

ては続けて述べたいところではあるが、またまた文章が長くなってきたので、また改めて

書かせていただくこととする(一気に長文を書くのは、読み手も大変だろうが、書き手も

疲れてくるのだ)。というわけで、今日はここまで!

 

[2000年12月6日 22時16分11秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

>小山先生

本音での書き込み、ありがとうございます。

ただ、

>劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので

私はそんなことはいっておりません。むしろ、逆に笠原先生に再反論されることを要請してい

ます。

また、

>高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います

とか、

>無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ

という御意見は、むしろ逆に、

「だから観客側は物を言うな」

と、とられても仕方のない言い方ですよ?

「無神経」とおっしゃるなら、その根拠を示して欲しい、だから議論をしよう、と私はこの間

ずっと申し上げているのです。

 

[2000年12月2日 0時45分25秒]

 

 

お名前: こやま   

 

太田さんに、ひとつだけ、ムリかもしれないけど、おつたえしたいのは、私たちは生きた生徒をかかえていて、

生徒と一緒に演劇活動をすることを無常の楽しみとしているのです。

生徒がいやかるものをつくれるはずがありません。

生徒の喜ぶ姿が私どもの無上のたのしみなのです。

だらかこそ、こんなに苦労しても、生徒に付き合って行こうとしているのです。

高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います。

劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので、

2度とここにはかきこまないし、読むことも止めますが、

私どもの弱みは、今生きて色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに

動いている生徒とともにに生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ。

高校演劇集会所の管理人というよびなで、だいぶ書かれているようなので、本音で書きました。

 

[2000年12月1日 22時56分30秒]

 

 

お名前: MOGURA   

 

県大会で見せていただきました。あれほどの演技力で3位であったとは納得いかない点もある

かと思います。ここ2年位演技力などが評価のウエイトとして軽視されすぎていることに私も

若干疑問を覚えてはいます。また、面白くなくてはという面からも、観客の受けも良かったし

生徒審査員の評価を得ていたことからも問題ないように思えます。特に役者同士の科白のやり

とりは大変面白く笑わせてもらいました。地区大会では審査員の先生から大人には共感できる

という評価だったそうですが、今回はむしろ高校生の審査員に評価され、大人には評価されな

かった。この理由について私なりにこの芝居を観た感想を述べながら、書かせていただきます。

 率直に言って、カサハラさんが述べているような17歳の高校生という像を描けていたかと

いうと、作者の全くの勘違いの面が隠せないと思います。現在の子ども達は実はカサハラさん

が思っているほど大人や社会に期待なんかしていない。言葉なんか嘘ばかりだと気付いている。

大人の言うことはすべて建前ばかりで、言葉になんか真実はないと感じていると思うのです。

 ですから、空虚感なんてものを意識しているんでしょうか。空虚感ていうのは、大人や社会

に期待している部分があるからむなしくなるのですよね。大部分の高校生はすっかりとあきら

めている。演劇部で活動しようなんていう高校生の感覚は実は本当に少数派であることをしっ

かり受け止めて書いているのかなと思うのです。唄だって、やりきれないから、叫ぶとすっと

するから、自分の存在を認めて欲しいからといった理由などで唄いたいのでしょう。

そこに意味なんかやはり求めちゃいないと思うのです。でもそれは今も昔も一緒じゃないです

か。例えば僕は井上陽水の「傘がない」という唄が好きなんですが、あれを安保闘争が終わっ

た後の若者のうんぬんなんて言った人がいたけど、ただ唄いたいからでしょ。社会に対するメ

ッセージなんてあの当時も大人が勝手に解釈したことだと思うんです。自分の気持ちを吐き出

したいから唄ったにすぎないんだと思うのです。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

と陽水が唄うとき僕らはその唄の意味に感動したのでしょうか。メッセージに感動したのでし

ょうか。違うと思います。恋をしたことのある僕らが、「今自分の周りに起こっていること、

自分がしなくちゃいけないこと、そんなことはどうでも良くて、ただ君に会いたい」

そういう純粋な真実の叫びに共感したに過ぎないのではないでしょうか。

 だとしたら、現在の若者と昔の若者はどう違うのでしょうか。カサハラさんと同世代の僕は

大差ないと考えています。昔の若者が社会や大人に何かを伝えたくて唄を唄ったのでしょうか。

そういうサークルも確かに存在しましたが少数派でしょう。今と大差ないのではと思います。

僕らの時代だって、何でも真面目に深刻に議論しようとした人間を「根暗」として多数派は排

除しようとしていたではありませんか。僕はどちらかというと排除された方だからよく覚えて

います。昔を振り返ってそれを解釈するのはよいのですが、それを今の高校生に信じ込ませよ

うとするのは間違った歴史を教えるのと同じだと思います。この芝居の昔の解釈は当時の世の

中全体を象徴するものではなかったと思うのです。カサハラさんにはそう見えたかもしれませ

んが、少なくとも僕はそう思っていません。ですから、今回は大人の世代も共感し得なかった

のではないでしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 2時9分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回の私の劇評に対し、作者の笠原先生より「責める」内容の反論をいただいた。

 私に非があるとするならば、私が笠原先生に謝罪するのは至極当然のことである。ただ

し、この「劇評バトル」という欄は、今までおこった数々の議論の結果として、「論には

論で返す」ということをルール・原則とするに至っている。太田に非があるという理由を

笠原先生が論として提示し、それが私にとって納得のいくものであれば、私は非を認めよ

う。逆に納得のいかないものであれば、私は笠原先生の「責め」を、理不尽なものとして

退けるしかない。では、今回の笠原先生の反論は、私にとって納得のいくものであったか

を、これから検証させていただくとする。

 今回、笠原先生は私の文章を責める理由として、「非礼」という言葉を使われている。

その根拠として、私が使った「遺跡云々」という比喩について、「インチキ呼ばわり」と

指摘しているわけだ。

 この御意見に対して、私は次のように反論する。そもそも「劇評」とは、他人の作った

作品に対し、「善し悪し」を論ずる行為である。「善し」はともかくとして、他人の創造

物に対して、「悪し=よくない」とネガティブな評価を下す行為とは、一般的な社会常識

から考えれば、全て「非礼」に該当するものである。つまり、批評という行為は、その対

象に対してネガティブな評価を下すときには、常に「非礼」である宿命を持つものなので

ある。だから、今回の笠原先生に限らず、ネガティブな批評を下された劇団側が批評を書

く者に対して、「非礼」を理由に「責め」ることを行い始めれば、全ての批評を書くもの

は謝罪しなければならなくなる。これは批評の否定であり、私としては理不尽なものとと

らえざるを得ない。

 もちろん、ここで笠原先生は「非礼」でないネガティブな批評と、「非礼」に該当する

ネガティブな批評の2つが存在する、と反論されることだろう。では、先回りして聞くが、

その「非礼」に該当する、しないの境界線はいったいどこにあるというのだろうか?

 上記に書いたとおり、笠原先生は私の文章を「インチキ呼ばわり」と見なしている。つ

まり、笠原先生にとっては、同じネガティブな劇評でも、「インチキ呼ばわり」する劇評

が「非礼」に該当する、という境界線をもたれている、ということだろう。しかし、私が

「遺跡云々」という比喩を呈示したのは、(厳密にいうと私は「インチキ」という言葉を

用いてはいないが、文章のニュアンスとしてインチキとみなしているように感じられる、

ということであれば、あえてそれは否定しない)私が本作品を見て、それこそ「実感」と

して持ったからこそ、使ったのである。

 「最近の話題をひょいと捕まえて」と先生はおっしゃるので、では、最近の話題ではな

い古典的な寓話で説明しよう(そもそも同じ比喩を用いるのなら、読者にわかりやすいよ

うに、「最近の話題」を使うのはレトリックの範疇ではないのか?「最近の話題」だから

「非礼」であり、「古典的寓話」を使えば「非礼」ではないと、もし笠原先生が考えてい

らっしゃるとするなら、その根拠はいったいどこにあるというのだろう?)。

 「裸の王様」という有名な童話がある。読者の皆さんもよくご存知のことだろうが、本

当は存在しない服を着た王様を見た子どもが、「あの王様は裸だ!」と言う、例の話であ

る。「王様は服を着ている」と主張する人達にとって、この子どもの発言は、まさに「イ

ンチキ呼ばわり」に匹敵する行為である。しかし、この「王様は裸だ!」と主張する行為

こそ、まさに批評の持つ重要な役割の一つではないだろうか?

 ただし、ここで留意しなければならない点が一つある。つまり、「裸の王様」において

は、本当に王様は裸だった、という唯一の事実が存在する。遺跡捏造問題にしても、遺跡

を捏造した、という事実は1つである。しかし、演劇(に限らず、あらゆる芸術作品にい

えることだが)という作品に関しては、事実は1つのみ存在するとは限らない。1人1人

の受け手が、1つの作品に対して異なる感想を持つということは、演劇においてはむしろ

自然なことである。だからこそ、「解釈」という概念は存在するのであり、1人1人が違

う劇評を持つことを前提として、劇評「バトル」は可能になるのである。つまり、太田が

本作を見て、遺跡捏造問題に例えて、「インチキ」だと考えるのも、太田という人間の内

面においては真実であり、逆に、笠原先生の内面において、「捏造はなかった!」という

真実が存在しても、2つの真実はそれぞれ各人にとって偽りのない真実であり、お互い矛

盾するものではないのである。

 せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。ただ、最後に笠原先生が「よその軒先を借

りて云々」と書いていらっしゃるが、それをいうなら、私も当フォーラムの非会員である。

フォーラムの会員・非会員にかかわらず、広く劇評を募集するのが、当ホームページの趣

旨と私はうかがっているので、こうして大量の劇評を書き込んでいるのある。従って、笠

原先生も、今回の私の文章に納得がいかなければ、さらなる反論をぜひともお寄せいただ

きたい。遠慮されることで、せっかくの議論が尻すぼみになるのはもったいないことであ

る。笠原先生が再反論をされることで、この場が活性化されるのであれば、それはむしろ

管理人さんを含めた、当HP読者にとっても望ましい展開であるだろうから。 

 

[2000年11月29日 19時26分32秒]

 

 

お名前: arasikiller   

 

質問があります。

 

1どうしてアンケートに書かれると許せて公の場に感想が載るとまずいのでしょうか?

 作品に自信があるのならいちいち言葉で反論するのはどうかと思いますけど?

 あなたの理屈で言えば誉める内容も当然公の場に載るのもまずいんでしょう?

 

カサハラさん答えて下さい。

 

2どうしてここの掲示板は「観客が抱いた感想」に対して作り手が反論をするのでしょう

 か?変だと思いますけど。最近は観客を罵倒する文章も見かけましたよ。

 

管理人さん答え下さい。

 

 

[2000年11月29日 15時6分41秒]

 

 

お名前: カサハラ アキラ   

 

こういうものに慣れていないので、あまりにも読みにくい形で書き込んでしまいました。

削除の仕方もわかりません。重複してしまいますが再度書き込みます。

 

 この発言がアンケート用紙に書いてあるのならまあ問題ない。しかし、不特定多数の人間が

目にするこのような場で「まるで遺跡があるように…云々」などと書かれては無関心ではいら

れない。もっと慎重に言葉を選ぶべきではないのか?自分の文章を飾るためだけに最近の話題

をひょいと捕まえて他人をインチキ呼ばわりするとはどういうつもりなのか?言葉というもの

を意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのかな?その言葉が相手にどう響く

かも想像できない「実感のなさ」こそ、この芝居の伝えたかったことである。

 ここにあえて書き込みをするのは、あなたの発言の非礼を責めるだけの目的であったが、つ

いでと言ってはなんだが作者として言いたいことは言っておこうと思う。

 まず芝居以前の問題として「意味」ということについてだが、人間は意味無しで生きられる

わけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーションの

手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。本能が壊れてしまっている人間は他

の動物のように現実と直接関わることができない。そこですべての物に意味づけをして意味に

よる仮想現実を作り上げた。バーチャルなどと騒いでいるが人間はもともとバーチャルな世界

に生きているからこそ、ゲームを本当の現実のように感じることができるのだ。つまり、恋愛

という言葉を知らない限り恋愛が出来ないのが人間だ。という基本的な認識をここで確認して

おきたい。

 さて芝居の話だが、伝えようとしたことが伝わらないのは本が悪いわけでこれは反省をしな

ければならない。芝居を解説することほどつまらなくばかげたことはないと思う。私は芝居を

よく絵画にたとえるが、キャンバスをどんな方法にせよ鑑賞者を惹きつけるものにすることが

絵画であると思っている。絵画のわきに立って「これはこういうことを描いた作品です」と解

説する画家がいるだろうか。それをすることはたいへん恥ずかしいことなのだがあえて解説し

てみよう。

 下敷きはユングである。(蛇足だが昨年の芝居はフロイトだ。バットなどと恥ずかしいくら

い分かりやすいものを出してしまった)ユングがアーキタイプ(元型)と呼んだ概念であるグ

レートマザー・アニマ・アニムス・シャドーというものを芝居の中で具現化していこうという

のが最初の発想である。(シャドーの話は文化祭版にはあったのだが、展開がもたつくのでカ

ットしてしまった)伝説・神話の解釈というのもユングの仕事である。トリックスターのうま

くいった最高のものが所謂ヒーローだということで「ウルトラマン」というモチーフを思いつ

き、そういえば「ウルトラの母」というのがいたなあということで芝居の筋立てが出来上がっ

た。

 テーマは前述した通り「実感のなさ」である。意味による仮想現実の仮想の部分がいよいよ

露呈しはじめ、最後の砦である「肉体」「実感」さえも失われようとしている現代の問題点を、

よりその問題がはっきりと表れている若者を中心に描こうとした。17歳問題を真っ正面から

扱う芝居が来年あたりは出てきて欲しいというようなことを審査員の一人が言っていたが、こ

の芝居はそれを扱っていなかったのだろうか?それとも真っ正面ではなかったのだろうか?分

かりやすすぎるほどストレートに書いたつもりなのに伝わらないのはこれもまた書き手の技量

のなさである。

 意味で溺れかけている現実はきれいに塗り直された商店街、形だけは女の格好をしている

「女」に象徴されている。しかし子供を産むという実感があって初めて女ということがわかる

と気づいている女。だから彼女はこうも言う。「缶コーヒーって好き。舌に残る感じがいいの

よね。」と。自分が自分でなくなっていく感覚から脱出するために女に転身したからこそ、自

分の肉体を実感し、実感のなさに気づき始めている。肉体の実感ということについては地区大

会版では占い師の台詞でオーム事件の分析がされていた。オーム信者たちは修行の中で初めて

自分の肉体を実感したのだと。それは奇跡とよべるほど遠く離れた存在になってしまっている

ということが。(これもあまりにメッセージ色が強く、会話の流れを悪くするのでカットした

が)

 それに対してまだそれほど実感が失われていなかった時代の人間として「男」は登場する。

当時の歌が強く人の心に響いたのはまだ言葉に実感があったからだ。言葉は肉声であり、実感

を伝えるものだった。

 失われた実感を取り戻すために、麻痺してしまった五感を取り戻すために、彼らは深夜の街

で自分の声を聞いているのではないか?生まれて初めて聞いたであろう母親が自分を呼ぶ声に

耳を傾けてみよう。胎内にいる子供に母親の言葉の意味は届いたのだろうか。ただ子供のこと

を思う気持ちだけが伝わったのではないだろうか。少年は「意味内容のあるメッセージソング」

を見つけたわけではない。自分にとって大切なものが「実感」であると気づいただけだ。だい

たいラストの歌が「意味あるメッセージソング」だっただろうか?

 「もうずっと長い間面白い映画を見ていない。もうずっと長い間新しい歌を聞いていない。

空はあんなに明るいけれど日差しは石のように冷たい。もうずっと長い間本当に歌いたいと思

ったことがない。」という歌詞なのだが…。

 トリックスターの役割をヒーローが担っていた時代が終わり、マイナスのヒーローとしての

17歳の事件がある。実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦め

て生きるのではなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということ

を知らせ伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。男の歌はその決意

表明であり、その歌に集まる人々は作者のかすかな希望である。現実はそんな希望などかき消

されてしまうほどの悲惨な状況ではあるが、その希望さえなくしてしまってはもう人間の生き

る術はないのではないか?

 というわけで私がこの発言について納得できないのは、以上の理由からなのである。 

 

最後に、よその軒先を借りてこのように長々と言いたいことを言ってしまったことをお詫び

します。

 

 

[2000年11月29日 1時54分5秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 「高校演劇掲示板閉鎖についての私的見解」で問題となったある男子校というのが、わ

かる人は既にわかられていたとは思うが、今回取り上げる仙台三高の「ウルトラマンの母」

である。「高校演劇集会所」で本作について簡単な劇評を書いたのは、「私的見解」で述

べたとおりであるが、こちらの「劇評バトル」では本作についての劇評は書かずにいたの

で、どういう作品だったのかわからない方も多いと思う。「高校演劇集会所」の掲示板は、

先日復活したが、問題の議論した部分に関しては削除されていた。そこで、コンクールの

県大会も終了し一週間を経過した現在、ある程度ほとぼりも冷め、いわゆる『審査への先

入観』を心配する必要もなくなったところで、改めて本作についての私の見解を明確にし

ておこうと思う。なぜなら、「もう終わったことだから」と、なあなあにしてしまうのは、

「臭い物に蓋」的でかえって後味が悪くなると、私には思われるからだ。

 さて、本論に入る前に、一つ指摘しておきたいことがある。それは、地区大会と県大会

において、本作のレベルが明らかにアップしていたことだ。地区大会においては、役者個

々のセリフに棒読み的なところが多く、その感情のこもらないように見える演技に正直い

ってだれた部分が多く感じられたのだが、県大会では役者の、本当に自分自身の言葉とし

てそのセリフをしゃべっているように見える演技によって、本作の持つドラマ性が浮かび

上がり、最後まで緊張感を持ち、飽きさせない展開となっていたことは、高く評価したい。

本作が優秀賞を取るに至ったことは、(好き嫌いを別にして)彼らの演技を見れば、ある

程度納得がいくものであった。どうも、ある作品を批判的に取り上げると、「坊主憎けり

ゃ袈裟まで憎い」的に、すべてにわたって批判的な評価を持っていると誤解されることが

多いが、当然そんなことがあるはずはなく、1時間という長さにわたる一つの作品の中に、

よいと思える部分とよくないと思える部分が同居することは、いくらでもあり得ることな

のだ。

 では、県大会における役者の上達によって、私の本作に対する評価が180度変わった

か?といえば、残念ながらそうではない。なぜなら、「私的見解」にも書いたとおり、本

作に私が共感できない部分が、この作品のテーマに対するものであったのだから。例えば、

世の中には漱石の小説が嫌いだという人もいれば、モーツアルトの音楽が嫌いだという人

も存在する。ある作品が、「名作」と世間一般で呼ばれるものだから、すべての人がその

作品に感動するという考え方は、むしろ人間一人一人が違う感性・違う価値観・違う問題

意識を持っている以上、不自然なものであろう。それでは、なぜ私は本作に共感できなか

ったのか?

 この物語の主人公は、俗にいうストリート・ミュージシャンの少年である。ところが、

彼は歌いたい歌が見つからない。そんな彼が、歌いたい歌を見つけるまでを描いたのが本

作の主なストーリーなのである。

 この「歌いたい歌」を、私は「意味」と解釈した。つまり、「集会所」の掲示板にも書

いたが、ニーチェのいう「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送

れないから、意味にすがるのだ」という言葉に、まさに本作の少年の悩みは該当するよう

に思われたのだ。ところが「集会所」の管理人さんは、少年の悩みは「意味」などと限定

されたものではない空虚感だ、と反論されたわけである。

 しかし、本作で少年が作ろうとして、なかなか作れなかった「歌」とは、果たしてどう

いった内容の歌だったのだろうか?もう一人の少年ともいうべき心証を持つ、酔っぱらい

の男(実は昔、シンガーだった人物)は、こんなセリフを言う。「(昔は)社会に対して

言うべきことを歌にしていた。(しかし今は)恋を歌うようになった。」つまり、少年の

作るべき歌は(意味のない)ラブ・ソングではなく、「社会に対する」メッセージである

べきだと、この酔っぱらいのセリフは示しているといえないか?では、メッセージとは何

か?社会に向けて、「自分の価値観」という「意味ある言葉」を訴える行為を、俗にメッ

セージというのではないのか?「意味のないメッセージ」など、「白い黒猫」と同じくら

い、矛盾した表現だろう。

 もう一点。主人公がひょんな流れで、顔なじみのオカマと酔っぱらいを人質に立てこも

るシーンが劇中出てくる。犯人である主人公の要求は、最初「何もありません」というも

のであった。これに対して酔っぱらいが「お前がここに来てるのは、意味あってのことな

んだろう」と説教するのだが、ここでの「犯人の要求文」と、少年が作ろうとしている「歌」

は、共に社会に対するメッセージとしてシンクロしているものだろう。だとしたら、少年

の要求文に意味がないことに対して、「意味あってのことなんだろう」と酔っぱらいが説

教するのは、やはり少年の空虚感を埋めるには「意味」が必要だと考えているからではな

いか、とはいえまいか?

 なぜ、私がここまで「意味」にこだわるか?それは、私も少年と同様、空虚感を実感と

して持つ人間だからである。だからこそ、その処方箋に対して切実なものを持って本作を

見ていたのである。だからこそ、酔っぱらいのおじさんに代表される、昔は「反体制」と

いう意味があったが、今はそんなものがない、という現状認識にも同意する。問題は、今

の世の中に「意味」というものが存在しないことに対して、もともと存在しない「意味」

を捏造しようと作者は考えているのではないか?というのが私の本作に対する不満なので

ある。むしろ、「意味」などこの世の中には存在しない、ということを前提条件として、

では、どのようにして「良き生」を送ればいいのか?を考えることが、より現実的な選択

ではないか?というのが私の現在の問題意識であり、そのような考えを持つ私から見れば、

酔っぱらいが「意味あるメッセージソング」を歌うことによって、多くの観客が集まって

くるという本作のラストシーンには、まるで遺跡がないから自分で埋めて、さもそこに遺

跡があるように見せかけるような嘘臭さを感じずにはいられなかったのである。

 「自分のやっていることに意味はあるのか?」と悩む高学歴の科学者に対して、「いや、

お前のやっていることに意味はある。お前のその技術力で社会変革はできる」と、信者を

増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こしたことは、未だ記憶に新しい。高度成長の時

代と違って、目標を持てば今日より明日がよりよく進歩する、という時代は終わってしま

ったのだ。社会が悪い!とメッセージを訴えようにも、現に社会は豊かになっており、反

体制を訴えるべき理由がなくなってしまった時代なのだ。もはや、潔く「意味」を追い求

めることを断念し、意味がなくても幸せに生きられる手段を探すべき時代に来ているので

はないか?私が本作に共感できないのは、以上の理由からなのである。 

 

 

[2000年11月28日 0時50分13秒]

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名取北高校演劇部「わたしはグリーン−見えない壁、見えない心 −」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 高校演劇にすっかりはまってしまった私は、仙台地区だけではなく、地方大会もぜひ見

に行こうと、今年はとうとう若柳(北部地区)、本吉(東部地区)まで足を伸ばしてしま

った。我ながら酔狂だよなあ、と少々自分にあきれてしまうところもあるのだが(実際、

それら地方大会の会場で、高校生や父兄、先生方以外の純粋な一般客と思われる人間は私

しかいなかった)、そんな私でもさすがに、平日に年休まで取って若林・太白地区を見に

行った(今年の若・太は会場の都合上、平日開催だった)佐々木久善さんにはかなわない

なあ、と思ってしまう。いや、酔狂のレベルでいえば、どっこいどっこいだろうか?

 そんな私ではあるが、残念ながら地方大会で南部地区だけは見に行けなかった。これは、

東部と南部が同じ日程で重なっていたためで、やむを得ない選択だったのだが、逆に南部

を選択し、見に行った上記・佐々木さんによると、なんでも、南部は非常にラテン系のノ

リが強いところだったらしい。

 どういうことかというと、開場時間になってもホールのドアが開かない。開演時間にな

ってもなかなか芝居が始まらない。公演中、客席で子供が遊び回っている。昼食を取りに

行って、戻って審査結果を聞こうと思ったら、既に全て終了していて、ホールはガランと

して誰もいなかった。という、まあ、あえて良い方にとると、「たいへん大らかな」大会

であったそうだ(笑)。

 それで、私達高校演劇ファンの間では、南部地区は「ラテンのノリ系」とひそかに呼ば

れていたのであるが、しかし、「ラテン的」ということは、一方で「盛り上がったときの

爆発力はすごい!」ということにも通じるわけで、実際、先に紹介した白石女子高の「高

校演劇でミュージカルを上演する」という大いなる冒険などは、まさにその典型例といえ

るだろうが、県大会にあがってきたもう一校、名取北高の役者さん方もまた、そんなラテ

ン的ノリを感じさせるやたらと元気のいい集団で、とても微笑ましいものとして、強く私

の心に焼きついたのであった。

 本作の主人公2人組、ブルーとブラックは、ある特殊な能力を持った人にだけはその姿

が見えるという、いわば妖精のような存在である。ベルリンの壁が崩壊したにもかかわら

ず、我々の周りには見えない壁が存在している、と彼らは主張する。その壁とは、「管理

社会」を比喩しているものらしく、その管理社会の典型ともいえる教育現場で(本作の作

者がそう認識しているのだろう、という意味です。)助けを求めている少女・グリーンを

救うため、彼らはとある高校へ向かう。

 遅刻という校則違反を犯した少女・みどり(グリーン)は、校内にあるカウンセラー室

のようなところに連れていかれ、カウンセラーの赤沢先生(実はその正体は、謎の女レッ

ド!)に催眠術をかけられ、管理社会に組み込まれる人間として洗脳されそうになる。み

どりを助けるため、カウンセラー室でレッドと対決するブルーとブラック!しかし、ブル

ーはレッドに催眠術をかけられたみどりによって、何発もの銃弾を浴び、撃ち殺されてし

まうのであった。ガーン!

 しかし、我に返ったみどりは、「こんな事ではいけない」と、気を取り直し、今度はレ

ッドに銃弾を浴びせ、物語は唐突に終わるのであった(ホント、「え!ここで終わり?」

って感じのシュールな終わり方でした)。

 さて、彼らの中でも特に、私に「こいつのノリはすげーぜ!」と思わせてくれたのが、

なんといってもブラック役の森千春さんである。もう、とにかく最初から最後まで元気が

いい!自分の芝居だけで元気がいいのではなく、他の劇団の公演が終わった後の幕間討論

でもやたらパワフルで、白女の時など、司会からマイクを奪い取り、討論会ジャックまで

していたくらいである(笑)。しかも、その元気のよさが、一本調子でうるさい、という

ものにはならず、見ていて好感のもてるものになっていたのは、おそらく、それが演技に

よって人工的に作られたものではなく、自分自身の中に内在しているものであったため、

結果、それが自然な形で発露されていたのであろう。

 また、謎の女・レッド役の三浦幸枝さんの、お色気爆発!路線の演技も、それをあえて

過剰なケレン味でみせることによって、とても面白く、楽しめるものとなっていた。特に

凶器のナイフを足から取り出すシーンの、実にカッコよかったこと!以前、仙台高校演劇

部の多田さんについて、「とても高校生には見えない」と書いたことがあったが、三浦さ

んもまた、負けず劣らずの、高校生に見えない大人のお姉さまキャラといえるだろう。

 惜しかったのは、これらキャラクターの立った個性的な役者さんが、今紹介した2人以

外にも何人かいたにもかかわらず、それらの役者の面白さを生かしきった演出になってい

なかったように見えたことだ。これは、脚本のテーマが「見えない壁」=管理社会といっ

た、少々固い内容であったためといえるかもしれないが、しかし、他校のお芝居で、表面

的にはエンターテイメントで楽しませつつも、その中身としては深いテーマを内包する作

品がいくつかあったことを考えると、脚本の側にも、自分のテーマをストレートに伝えよ

うとしすぎる「生硬さ」があっただろうし、また、演出の側にも、脚本の中に柔軟に遊び

の要素を含ませる工夫が、もう少しあってもよかったように思うのだ。そういう意味では、

もったいなかった芝居だなあ、という気持ちが残る作品であった。

 それにしても、今回県大会に出場した南部地区の2校のおかげで、「これは来年は南部

を見に行かないといかんなあ」と、強い気持ちがわきおこったのは事実である。まあ、高

校演劇の場合、上の学年が抜けてしまうと、学校のカラーがガラッと変わってしまうとこ

ろもあるので、来年もこのノリが続いているかどうかはわからないのだが。なんとか来年

も楽しい大会であってほしい、と願うばかりだ。また、今回紹介したブラックさんとレッ

ドさんは二人とも3年生で、残念ながら来年はご卒業でコンクールには出場できない(い

や、卒業自体は、おめでたいことだけどね。)が、ぜひその強烈なキャラクターを生かし、

これからも演劇活動を続けてほしい、と切に願う次第である。公演情報教えてくれれば、

なるたけ見に行きますから、よろしくね!

 

[2000年11月25日 22時24分40秒]

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三女高演劇部「カケラ」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今年夏の単独公演までの三女高演劇部は、三年生の層がものすごく厚くて、以前に「ポ

ケット」や「ラ・ヴィータ」の劇評でも書いたとおり、とても内容の濃い芝居を演じてい

たものであった。さて、それら三年生が抜けての最初の一大イベントが、今回のコンクー

ル・県大会だったわけだが、結論から先に言えば、やはり今の三年生の抜けた穴は大きい

ものがあるが、それでも残った数少ない部員で、よく健闘している、頑張っている、と感

じさせる内容であった。

 主人公はある高校のバスケ部の選手。彼女はバスケの才能に関しては、かなり高いレベ

ルのものを持っており、二年生でありながら、彼女の力で、インターハイの予選を勝ち進

んでいるころが多であるらしい。しかし、そんな彼女を快く思わない先輩の嫉妬や、途中

までは「一緒にインターハイを目指そう!」と誓い合っていた親友が、進学やささいな顧

問とのいさかいによって退部していったりといった、彼女にとっては「裏切り」と感じら

れる、辛い出来事が続いていく。彼女がそんな自分の周りに起こる出来事にうんざりし、

バスケ部をやめようかと思っているところへ、不思議な少女が彼女の前に姿を現す。実は

その少女は、彼女の心の中のもう一人の自分といった存在であり、バスケ部をやめたこと

を彼女に謝る親友たちに表面的に優しい表情をする主人公に対し、彼女の中の本音ともい

うべき親友に対する恨み言を、彼女にささやくのであった。

 しかし、親友に対し強いことが言えない主人公に呆れた少女は、「あなたが死んでしま

えば、(あなたの分身である)私も苦しまないですむ」と、彼女に自殺するよう示唆し、

その言葉に乗せられた彼女がまさに踏切から飛び出そうとするところを、2人の親友が偶

然発見し、主人公を助ける。3人が再び友情を取り戻したことを確認した少女は、安心し

姿を消すのであった。

 という内容が、本作の主なあらすじだったのだが、以前からあちこちに書いていること

だが、こういう他者との関係性をシミュレーションしたお芝居を作らせると、今の女子高

生って本当にうまいよなあ、と感心してしまう。センチメンタルで、親友に対する自分の

アンビバレントな思いがとてもリアルで、ラストの友情の確認でホロリ、とさせる。「居

場所」としての友情、というテーマは以前に書いた白百合などにも共通していることだが、

これって高校生に限らず、自分のような世代の人間にとっても切実な課題だからこそ、泣

かせる作品になっているんだろうなあ、と思う。

 特に感動させてくれたのが、主人公・比奈と雑談しているときに、親友の真子が、ふと

「わたし、こんなことしたこともあるんだ」と、傷の付いた手首を比奈にチラッと見せた

りするシーンである。実は、このシーンのあたりの芝居の雰囲気は、けっこうテンポが悪

くてダラダラとしているところで、見ているこっちはなんだかボーッと見ているところだ

ったので、その突然の衝撃的な告白に(でも、セリフとしてはとてもサラッと言っている

ところが、また効果的なのであるが)、思わず虚をつかれたようになって、心にグサッ!

と刺さってくるものがあったのであった。

 あるいは、その2人の会話の最後の方で、親友に裏切られたという思いが強い比奈が、

「真子はわたしのこと、好き?」と聞くシーンがある。真子は「もちろん、好きよ」と返

すのだが、その後、小声で「わたしのことは、好きなの?」とつぶやく。比奈は「え?」

と問い返すのだが、すかさず真子は「ううん、なんでもない」ととりつくろってしまうの

である。こういうさりげないところで、自分と相手との関係性を探り合うような場面って、

見ていてドキドキして、胸が痛くなってしまう。この作品を書いた、佐藤さだ江さんって、

きっとすごく繊細でナイーブな人なんだろうなあ、という想像が容易にできてしまうシー

ンなのであった。

 ただ、残念だったのは、上にも書いたが、テンポが悪くてダラダラしている場面が多か

ったことだ。東北大の「モチモチの木(仮)」でも書いたことだが、叙情的雰囲気を出そ

うとするあまり、沈黙のシーンを多く作りすぎてしまったような印象を受けた。先輩方が、

夏に創作した「ポケット」の中の「他愛もない話」は、一見淡々としているように見えな

がら、物語の中に次々とドラマが生じ、飽きさせないものとなっていたが、そういった先

輩方のいい面を一緒に芝居を作ることによって学ばれていると思うので、なんとか次回で

は、その経験を生かしてほしいと思ったのであった。

 ただ、最初にも書いたとおり、今の3年生が抜けて、2年生は今回脚本・演出を手がけ

た佐藤さだ江さん、お1人であることを考えれば(残りのキャストは皆1年生)、佐藤さ

んの苦労は並大抵のものではなかったように推察される。そんな中で、地区大会で最優秀

賞を受賞し、こうして県大会にあがってきたことは、本当に大したものだと思う。来年の

単独公演が、おそらく佐藤さんの最後の公演になるのだろうが、次回も感動的なオリジナ

ルを作られることを、心より期待したい。

 

[2000年11月24日 23時58分40秒] 

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白石女子高演劇部「月下狼伝」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回、本公演で、主演・脚本・作詞作曲・振り付けをした後藤尚子さんが、劇団ミモザ

という大河原の劇団にも所属していて、僕が以前よりファンだったことは、当ホームペー

ジのあちこちに既に書いているので、読者も御存じのことと思うが、実はこのミモザとい

うところも、劇中で音楽を多用することの多い劇団である。で、けっこうほのぼのファン

タジーっぽいお芝居が多いので、てっきり白女のお芝居も、ミュージカル仕立てとはいえ、

そういった内容のものだとばかり思っていた。ところがどっこい、実際に見てみると、宝

塚か、それともビジュアルロックのコンサートか!といった感じの、実にゴージャスかつ

パワフルなステージであり、しかも主役の彼女の役が、宝塚でいういわゆる男役だったた

め、ミモザでの後藤さんを知っている僕は(たいてい、かわいい女の子役が多い)大いに

驚いてしまったのであった。まあ、ミモザの一員と言っても、後藤さんとミモザ代表のさ

ざなみさんとでは、それぞれ違った感性を持っているのは当然のことだから、彼女の作る

芝居が違う傾向ものであっても、別におかしいことはないわけだが、それにしても「彼女

が本当にやりたかったのは、こういうものだったのね・・・。」と、そのギャップに衝撃

を受けずにはいられなかったのだった(作品自体は面白かったよ。それは誤解なきように)。

 プログラムにも書いてあるとおり、本作は「森に住む人狼(読んで字のごとく人間と狼

のハーフ)と人間の戦いを描いた壮大な物語」である。母親が肺炎で死にかけている少女

・湊が、人狼が持っているという万病に効く薬をもらうため、村の仲間、庄二郎と唖月(こ

の唖月役の村上祐香さんのとぼけたキャラクターがサイコーだった!まだ、1年とのこと、

将来がものすごく楽しみな人である)と3人で山へ向かう。ところで、この3人は、最初

に人狼たちの、まさに宝塚的なダンスシーンがあった後に登場するのだが、これが妙にお

かしかったのだ。なぜかというと、今まで宝塚的だった舞台が、彼女たちの登場によって

突然「わらび座」的空間に180度変わってしまったからだ。本作の面白さは、単に宝塚

的ゴージャスさだけにあるのではなく、この2つの全く異なる世界が奇妙に融合している

シュールな味わいにもあったのである。

 しかし、その万病に効く薬とは、実は人狼の尻尾であった。人狼は尻尾を奪おうとする

人間に乱獲され、人間に強い憎しみを抱いていたのである。そこへ、やはり人狼を捕まえ

ようとする武士・大悟朗もあらわれ、彼らの間に争いが始まるが、はずみで、たまたま地

面にあいていた大きな穴に獅竜(人狼のリーダー)、湊、大悟朗の3人が落ちてしまう。

争い合っていた人狼と人間たちは、3人を助けるために力を合わせることにより、お互い

の間に信頼が芽生え、共に夜食を囲みあう仲となるのであった。

 しかし、翌朝、他の人間たちによる山狩りが始まり、湊たちや仲間を逃がした後、獅竜

はあえなく人間たちによって殺されてしまったのだった(泣)。

 つまり、本作は宮崎駿的なテーマ性が存在する作品であり、表面的にはゴージャスなエ

ンタテイメントで満たされてはいるものの、行間を読んでいくと、単純な勧善懲悪では割

り切れない作者の思いが垣間見えるものなのである。

 その象徴ともいえるキャラクターが、僕は武士の大悟朗だと思う。彼は武士のわりには

腕力が弱く、周りから幼い頃から「ダメダメ大悟朗」と呼ばれている。そんな彼は馬鹿に

した仲間を見返すため、単身人狼を捕まえようと、一人で山の中に入っていたのである。

そんな彼に獅竜は「武士という肩書きだけに、お前は頼っているのではないのか?武士と

いう肩書きをとったとき、お前という人間の真価はどこにあるのか?」と、大悟朗を諭す。

その結果、大悟朗は「武士をやめる!」と宣言し、最後は獅竜たちを助けるために人間の

武士たちと戦い、命を落とすのだが、僕はこの大悟朗を単純な悪役とせず、人間的な弱さ

を持つキャラクターにしたことに、作者の後藤さんの思いを見るような気がし、感動した

のであった。

 実は本作に対する講評で、審査委員長の石川裕人氏が「善・悪をもっとハッキリさせた

方がいい。悪役が一人いると、対立からドラマ性が起きる。」という発言をされていたの

だ。確かに善・悪がハッキリしていると、ドラマ的にはわかりやすく面白いかもしれない。

しかし、悪役があまりにステレオタイプな悪者になってしまうと、その人間性が薄っぺら

なものになってしまう危険性も、またあるのではないだろうか?「水戸黄門」的な、作品

にテーマ性がなく、完全な勧善懲悪のエンタテイメントならそれでもいいかもしれない。

しかし、本作はエンタテイメントで観客を引っ張る内容ではあったものの、その底には人

間の持つ弱さに対する洞察的なものが、行間から垣間見える作品であったのだ。表面的に

は悪者に見える人間でも、そのような行動をとってしまうのは、ステレオタイプな悪人と

いう者がこの世に存在するからではなく、その人の持つ弱さとか、その人が現在そのよう

な行動をとらざるを得ない立場に置かれてしまっている運命の皮肉などがあるためではな

いだろうか?また、武士という肩書きにとらわれている大悟朗という存在は、会社での役

職とか、学校の教師といった肩書きに依存しており、それら肩書を取った生身の人間とし

ての価値が、あなたにどれほどあるというのか?という厳しい問いかけを含んでいる象徴

的存在とはいえないだろうか?それらの意味で、表面的に悪者に見えてしまう人間も、実

は自分たちとそんなに離れた心象風景を持つ存在ではないのではないか?という視点が本

作にはあったように思うし、それを「ドラマ性」というモノにこだわるために、ステレオ

タイプな悪役に変えてしまうのは、かえって作品を薄っぺらなものにしてしまうデメリッ

トの方が大きいのではないか?という疑問を、僕は石川さんの講評に感じずにはいられな

かったのだ。上記で僕は宮崎アニメを引き合いに出したが、例えば「ナウシカ」における

クシャナは典型的な悪役であろう。しかし、彼女がそのような悪役的立場に立たざるを得

ない立場・状況は「ナウシカ」という作品からは痛いほど感じられるものであるし、だか

らこそ、クシャナはステレオタイプな悪役よりも人間的魅力を感じるキャラクターになっ

ているのである。そして、「ナウシカ」という作品にステレオタイプな悪役がいなくても

ドラマ性が充分に存在するように、本作も、大悟朗がわかりやすい悪役となっていなかっ

たからといって、ドラマ性が損なわれていたとは僕には思えないのである。

 などと、石川氏に対し生意気な反論をしてしまったが、基本的には石川氏は本作に対し

肯定的な賛辞(「とても生き生きとして楽しかった。笑えたし、思いが伝わってきた。」

との発言)をしていらっしゃり、それらは僕の本作に対してもった感想とおおむね一致す

るものであったこはを、念のため付け加えておきたい。特に、石川氏が後藤尚子さんに対

し、「脚本・作詞作曲・振付・主演を一手に引き受けるとは、まるでIQ150の丹野久

美子のようだ。将来、後藤さんがポスト丹野久美子となることを期待したい。」と発言さ

れていたことについては、石川氏より以前から後藤さんのことをよく知っている僕として

は、まるで自分のことのように嬉しく、感激したものであった。この際だから、IQは次

回作に思い切って、後藤尚子さんに脚本を委嘱するという抜擢をしてみてはどうだろう?

今までのIQにはないカラーの、けっこう面白いものができるのではないか、と考えただ

けで胸がワクワクしてしまうのであるが、井伏さん、どうなもんでしょうかねえ?(笑)

 

[2000年11月23日 22時46分7秒]

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常盤木学園演劇部「GRADUATION] 

お名前: アイドル評@太田   

 

 本作については、既に「学生演劇の広場」で大学演劇人のワシさんが「気に入った芝居」

として紹介され、また、劇評こそ書いていないものの、劇評倶楽部の佐々木久善さんから

も「よかったですよ」とのお話をうかがっていたので、所用のため地区大会の際は観劇す

ることのできなかった私は、見られなくて残念に思っていたところであるが、本日県大会

でやっと本作を拝見することができ、なるほど、これはお二方の言うとおり、とてもいい

作品だなあ、と感動してきたのであった。

 本作は、ある仲良し高校生6人組の卒業式の一日を描いたものである。6人のうち、成

績優秀な“礼”が、式で答辞を読むこととなっており、式が始まる前の教室で彼女は友人

達に答辞朗読の「練習」をさせられる。しかし、彼女の書いた文章があまりに紋切り型で

あったため、もっと生き生きした文章を書いて欲しいと、仲間達があれこれと注文をつけ

る。その具体的なエピソードにあわせて、場面は今までの高校生活での印象深かった思い

出へと変わっていく。

 オリエンテーリング(修学旅行のようなもの?)や文化祭、体育祭と場面は展開してい

くのであるが、その思い出の中で彼女たち仲良しグループは、実は7人だったことが明ら

かになっていく。上記に書いたとおり、卒業式の日に集う現在の彼女たちは6人なのに・

・・。では、この1人の差はなんなのか?実は、1人、在学中に自殺した友人が彼女たち

のグループにはいたのである。

 物語の中に「死」をエピソードとして挿入することは、観客を泣かせる・感動させるた

めには、たいへん効果的な方法である。しかし、その「死」が真に観客にとって感情移入

のできる性質のものでないと、かえって「クサい」という逆効果を与える危険性もまた有

するものである。では本作ではどうだったか?

 実は本作で自殺する少女、“愛”の自殺の原因は、受験ノイローゼだったのである。彼

女はとても繊細で、オリエンテーリングで浜名湖へ行ったときも、満点の星を見て感動し

たり、湖に足をつけてじっと物思いにふけるような少女である。また、体育祭で、みんな

が懸命に応援したり、徒競走で必死に走ったりする、いわば人間が生で本能をむき出しに

するような姿を、何か恐ろしいと感じてしまうような性格の持ち主である。つまり、これ

らのエピソードは、彼女がいかにナイーブであるかを示すものであり、そしてそのナイー

ブさが悪い方に作用すると、「心の弱さ」となってしまう、という自殺の原因として機能

していたわけで、その意味ではこの脚本は伏線の貼り方が非常に巧みであったわけである。

 しかし、私が最も心を突かれたのは、自殺した日の深夜、彼女が友人に電話した内容で

ある。その日は、ちょうど冬休み前の中間試験の真っ最中だったのだが、彼女は友人に、

こう悩みをうち明けるのである。「こんな受験勉強なんかして、なんの意味があるんだろ

う」と(脚本を持っているわけではないので、正確なセリフではないのだが、そういった

内容のことを彼女は言ったのである)。もちろん、私のような30代の人間でも、以前受

験勉強をした思い出はあり、これを経験したことがあるものなら、多かれ少なかれ、上記

のような疑問は感じた覚えがあるだろうから、私達はその思い出によって、彼女のセリフ

に感情移入してしまうのだ、という解釈もできるだろう。しかし、私にはこの「なんの意

味があるんだろう」というセリフは、高校生という人生の一時期に限定されたものではな

く、30代の自分にも普遍的に感じられてしまう疑問であるからこそ、私のような受験を

とうに過ぎた人間すらも、強く心を揺さぶられてしまう言葉となってしまうのではないか、

と思うのだ。

 考えてもみてほしい。たとえ受験勉強が終わったとしても、私達の人生には、本当に何

らかの意味があるのだろうか?例えば会社に就職して、非常にストレスの強い仕事を任せ

られたとする。あるいは逆に、全く楽な仕事だったとしてもいい。自分はその仕事に対し

て非常に苦労しているとして、でも、ふと一歩立ち止まって考えたとき、自分にとって、

その仕事はどの程度の意味を持つものなのだろうか?もし、自分がその会社にいなくても、

誰か別な人間がその仕事をこなすだけの話ではないのか?あるいは、万が一自分がその組

織において、かけがえのない存在だったとしても、その会社が存在すること自体、世界に

とって本当に意味のあることなのか?これは仕事に限ったことではなく、世の中というも

のを一歩退いて見てしまったとき、自分という人間がこの世界にとって、本当に意味のあ

る存在なのか?という疑問は、人生において常に実存する問題なのではないだろうか?た

だ、食べて寝て、結局はそれだけで死んでいくのが人生ではないのか?毎日の忙しさに紛

れて、そういった問題は頭を離れていることが多いが、それは単に問題を先延ばししてい

るだけのことではないだろうか。本作の“愛”の言葉に、受験生をとうに卒業している私

のような人間も共感してしまうのは、彼女の発した疑問に、そういう普遍的な問題が含ま

れているからではないか、と私は思うのである。

 さらにいうなら、本作の優れた点は、そういった問題提起を観念的な堅苦しい言葉で提

示するのではなく、「高校生活」という具体的で、誰もが経験したシチュエーションの中

で示しているところにあるのだと思う。たとえ、同じテーマを扱ったとしても、観客に感

情移入してもらうには、演劇が芸術・芸能である以上、そのための「芸」が必要なのは当

然のことである。テーマをあまりにストレートに提示したのでは、それは「演劇」ではな

く「論説」になってしまう。さらにいうなら、本作の出演者達が、舞台の上での「高校生

活」を、本当にナチュラルに、現に自分たちが学校で会話しているように演技していたこ

とを、私は高く、高く評価したい。例えば、セリフをしゃべっている役者とは別のところ

で雑談している登場人物達のしゃべりが、本当に一番町や中央通りを歩いている女子高生

がペチャクチャしゃべっているような自然体であったのだ。脚本に載ったセリフ以外の部

分でのこうした細かい仕草が、本作に強いリアリティを与えていたと、私は思うのである。

 本作は既成の脚本を使ったものである。しかし、その内容をまるでオリジナルであるか

のように、自分たち自身のものとして引き寄せることに成功したことが、本作を感動作に

した大きな要因だったと思う。この作品については、そう私は結論づけたい。

 

[2000年11月18日 22時58分45秒] 

 

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東北大学学友会演劇部「モチモチの木」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 僕が最近、高校演劇や大学演劇など、学生演劇に強い関心を持っていることは、既にこ

の欄で何度も書いているとおりである。その意味で、今回の東北大の新作「モチモチの木」

にも、期待を持って観劇に望んだのであるが、残念ながら不満を感じざるを得ない内容の

作品であった。

 本作の主人公・俊介は20歳の大学生である。両親が交通事故で10年前に突然亡くな

り、今は高校生の妹と二人暮らしをしている。そんなある日、自分の部屋に見知らぬ若い

男女が上がり込んでくる。この2人は、自分たちのことを「お前の両親の幽霊だ」と自己

紹介し、妹も「父さんと母さんだ」とあっさり納得するのだが、俊介だけはどうしても納

得できない・・・。

 本来、このような出だしで始まる芝居であれば、次に観客が期待する展開は、「では、

なぜ両親が今頃になって突然やってきたのか?」とか「なぜ、幽霊とはいえ両親の年が異

常に若いのか?」といった謎解きであることはいうまでもないだろう。常識的に考えれば、

突然、両親の幽霊がやってきたという不条理が、もし自分自身におこれば、狼狽するのは

当然だし、その意味で一番狼狽している俊介に観客が感情移入するのは自然な成り行きで

あろう。

 しかし、本作では、その謎解きがさっぱり展開しないのである。では、何が舞台上で行

われるかというと、父親と妹がTVを見ながらダラダラしたり、家族そろって黙々と朝食

を食べたりするシーンが延々と続くのである。そして、それらのシーンで登場人物が沈黙

するシーンが、やたらと長い。

 僕はこの展開を見て、演出さんは叙情性を出したいがために、沈黙のシーンを多用して

いるのではないか?と思った。というより、それ以外の理由が見あたらないのである。し

かし、それは残念ながら、誤った演出法であるように思われる。僕は観客の立場でしか演

劇に関わっていない。そういう意味では、演出に関しては素人だが、同じような叙情性を

持つ演劇や映画は、好きで何本も見ている。それら成功作との比較をすることくらいなら、

僕にもできるというものだ。

 例えば、平田オリザや宮沢章夫といった作家が作る、いわゆる「静かな演劇」といわれ

る作品を見ていると(この「静か」が、叙情性を醸し出している効果となっていることは

彼らの作品を御覧になった方なら御存じだろう)、確かに役者はセリフを淡々としゃべっ

たり、BGMがほとんど流れていないといった特徴があるかも知れないが、沈黙のシーン

がやたら長いということは決してないはずだ。つまり、静かではあるが役者がコミュニケ

ーションを交わし続けることによって、舞台上でドラマは間違いなくおこっているのであ

る。表面的に沈黙を多くして、静かな雰囲気を作ることにより、叙情性を漂わせようとい

う試みは、観客をただ退屈させるだけという逆効果しか与えていないように僕には思える

のである。

 もう一点、疑問に感じたことがある。それは、父親の性格設定である。両親が突然、若

い姿で帰ってきたことの理由が明らかにされないのは、ある程度やむを得ないものと思う。

つまり、学生だけの芝居である以上、両親役にふさわしいそれ相応の年に見える役者がい

ないため、幽霊が出るということ自体が不条理な設定なんだから、両親の年が異常に若い

という不条理があったっていいだろう、とおそらく作者は考えたのだろう。ここまでは観

客も納得できる。しかし、父親の精神年齢までが異常に低く、小学生並のイタズラ(例え

ば、スライムを息子の鼻に押しつけて、「鼻水!」と言ったり、掛け軸の裏に秘密ののぞ

き穴を作ったり・・・)をやたらとするというのは、どういうことだろう?年が異常に若

くなっていても、中身はやっぱり昔の父さんだ!ということであれば、最終的に両親の再

会、という感動に観客を持っていくことも可能であろう。しかし、人格まで変わってしま

ったのでは、正確な意味で父親と再会したということにならないのではないだろうか?

 これは、もしかしたら両親の幽霊が帰ってきたことによる子供達の困惑を基にしたドタ

バタ・コメディーを(最終的には感動に持っていくとしても)本当は作者は作ろうと考え

ていた、ということなのだろうか?しかし、だとしたらますます、沈黙を多用した叙情風

演出は矛盾したものとなってしまうはずだ。

 誤解のないように書いておくが、役者陣の演技はとてもナチュラルなものであった。会

話の時に、ヘンに一泊間が空くようなところもなかったし、セリフに変な抑揚がついたり、

逆に棒読みになるようなところもなかった。つまり、本作が疑問作となった原因に役者の

責任はない、と僕は思う。やはり、演出に問題がある、ということではないだろうか?

 本公演は、明日、あさってとまだ続くのであるが、できることなら、あの以上に長い沈

黙の箇所を、少しでも直していただくことを強く希望したい。それによって、公演時間は

極端に短くなってしまうかも知れない。しかし、ダラダラとした芝居をお客さんに見せる

よりは、次善の策としてぜひとも考慮して欲しいのだ。演出さんの善処に期待するもので

ある。

 

[2000年11月5日 0時14分38秒]

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サイマル演劇団「ミリオン!!!!!」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作は昨年公演されたものの再演なのであるが、初演の時と比べて、より面白く、楽し

める仕上がりとなっていた。その理由は、単純に一つに限定されるものでなく、いろいろ

な複数の要素が絡まりあってのものであろうが、少なくとも僕にとって一番印象に残った

のは、役者陣が以前に比べて、すこぶる充実したなあ、ということである。

 以前のサイマルは、良くも悪くも佐武令子さんが一人輝いていて、その他の役者には強

い印象が感じられない感があり、佐武さんが登場している場面は舞台が生き生きしている

が、彼女の出ないシーンになると、途端に物足りない雰囲気が場内を覆っていたようなと

ころがあった。しかし、今回は主要登場人物である4兄弟が、それぞれに個性的演技を見

せてくれ、佐武さん一人が目立つということなく、他の役者同士の絡みでも充分楽しませ

てくれたのであった。

 特に強調したいのは、前作の「昭和枯れすすき」でも指摘したが、前回初演だった藤岡

成子さんの存在である。佐武さんとは別の魅力を持った彼女の登場によって、サイマル女

優陣が二枚看板になったことが、僕のような「アイドル好き」ファンにとっては、いい意

味で、とても大きな変化と感じられるのである。今までサイマルに登場していた他の女優

さんには、残念ながら佐武さんと比べると、やや物足りなく、いわば位負けしているよう

なところがあったのだが、藤岡さんは、役者としてのキャリアが今までほとんどない人に

も関わらず、その存在感はなかなかどうして、大したものなのである。

 彼女の魅力を一言でいうと、やはり表情のとても豊かなところであろう。喜怒哀楽の表

情の変わり方がとてもハッキリしていて、しかもそれが大仰とか、クサいという印象では

なく、本当に内面から喜びや怒りがにじみ出ているように見えるところが素晴らしいので

ある。そして、その豊かな表情のベースにあるものは、明るさであり、元気の良さである。

そういう「元気の良さ」的なところが、前作の少年探偵というボーイッシュな役どころに

マッチしていたのであろうが、今回演じたいくつかの女性の役でも、それが「明るく、元

気な女の子」という魅力的方向に作用しており、決して少年の役だけが似合う単色な役者

ではないことが証明されたのであった。僕は、今回の彼女の演技を見ていて、ふと「ノル

ウェイの森」に出てくる「緑」という女の子のことを思い出さずにはいられなかった。屈

折してネクラなところのある主人公・ワタナベ君は、この緑という元気で自由奔放な女の

子と出会うことによって、心の中の屈託が次第に癒されていく。僕自身も、自分自身がネ

クラでオタク系的な性格だという自覚があるせいか、藤岡さんのような生き生きした魅力

を感じさせる女の子を見ていると、それだけで元気を分けてもらった!とでも形容したく

なるような、癒された気分になるのである。

 そして、もう一方の看板女優・佐武令子さんが、そういった藤岡さんの持つ雰囲気と正

反対の魅力を持っているところが、今のサイマルの強みとなっていると思う。藤岡さんが

元気系なら、佐武さんは不思議系である。彼女の表情のベースは、穏やかな微笑である。

もちろん、場面によって怒ったりするシーンもあるのだが、その怒った顔も、なんだかベ

ースの穏やかさの上に仮面のように張り付いたような表情なのである。これは、彼女が下

手だということでは決してない。むしろ、どんな表情をしても、それがメタのように見え

てしまい、その根っこにある穏やかさが見る者をホッと落ち着かせる方向に持って行くと

ころが、彼女の魅力なのである。いってみれば、小津映画における原節子的な穏やかさ、

とでも形容すべきものであろうか。その、メタ的なところがボケの方向に作用すると、前

作で僕が劇評で書いた「バラドル」的な面白さに向くのであろう。僕はアイドル評倶楽部

を名乗っていることもあるから、ある有名なアイドル批評の言葉を、ここで引き合いに出

させていただこう。それは、ある評論家が口にした「山口百恵は菩薩である」というフレ

ーズである。僕なんかに言わせると、あんなキツい感じのする姉ちゃんのどこが菩薩なん

だ?という疑問を抱かずにはいられないのであるのだが(笑)、むしろ佐武令子のような

存在にこそ、菩薩という形容詞は似合っているのではないだろうか?あの、能面のようで

はあるが穏やかさをたたえた微笑は、観客である僕にとっては、「ああ、なんかうまくい

えないけど、今まであったいろんなことをみんな許してもらえそう。」と思わせてくれる

ような安心感を与えてくれるのである。

 この2人の看板女優にプラスし、前作に引き続き客演した佐藤トモヒコ君が、またいい。

彼の演技はナチュラルさというよりもむしろ、大衆演劇的大仰さが特徴となっている。し

かし、それはサイマルという劇団のカラーを考えると、むしろプラスの方向に働いている

と思う。つまり、役者の演技でナチュラルさが評価されるのは、芝居にリアリティを出す

ためであろう。だが、リアリティというのもまた、観客に自然に芝居を見せるための「手

段」に過ぎない。観客を楽しませることが「目的」であることを考えるなら、必ずしもす

べての芝居がリアリティを追求する必要などないのだ。そして、大仰さは観客にとってデ

フォルメという面白さを提供する手段として充分に機能するものである。以前、三角フラ

スコに出演していた頃の彼は、その劇団の作品の持つカラーが、静かな雰囲気を重視する

ものであったため、どうも場から浮いているような印象を観客に与えていたように思われ

るのだが、サイマルという過剰さが魅力となっている劇団に出演したことで、彼の個性が

生きる方向に働いたことは、双方にとって喜ばしい結果となったと思う。

 そして、カーツ福間君。彼も当初はその他大勢的役者であったが、「擬似鼓動」のウル

フマン・ジャックを演じたあたりから、濃い表情でありながら、穏やかな優しさを感じさ

せるキャラクターが立ってきたように思う。また、以前は彼のようなタイプの役者さんが、

他にも何人かいたのだが、それらの方々が次第にいなくなったことも、彼にはいい方向に

作用した、ともいえるだろう。

 役者評が長くなってしまったので、ストーリー等他の要素については割愛する(もとも

と再演だから、既にストーリー知っている人も多いだろうし)。それにしても、これだけ

面白く成長した劇団が、本作を最後に仙台を離れてしまうのは、実に惜しく、残念なこと

である。東京にフランチャイズを移転してからも、機会があれば上京してぜひ見に行きた

いと思っているし、逆に、東京に行ってからも、ときどきは仙台公演を実施して欲しい、

と切に願う次第である。東京での、さらなる活躍を心よりお祈り申し上げます。 

 

[2000年11月4日 11時5分32秒]

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泉高校演劇部「或る晴れた日に」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作もまた、最近の高校演劇に多く見かけられる、「自分の居場所がなくて辛い」とい

う登場人物達の悩みがテーマとなっているものでした。「高校演劇ははかないからこそ、

魅力的。」というCUEの森さんのお言葉を先日紹介しましたが、確かに高校生の時でし

か書けない、または演じ得ない作品というものはあるでしょうし、そのこと自体を否定す

るつもりはありません。しかし、例えば高校生以外の私のような人間が、彼らの芝居を見

て感動するということは、同時に高校生にだけ限定されるものではない、普遍的なテーマ

を彼らの作品が持ち合わせている、ということもまたいえるのではないか、とも思うので

す。その代表的なものとして、彼ら高校生のお芝居によく表れるのが、この「居場所のな

さ」なのです。

 「居場所のなさ」というのは、何も高校生だけが感じているものではありません。昔の

モーレツ社員ならいざ知らず、リストラ流行の昨今、会社が居場所だ!と自信を持って言

える人がどれほどいるでしょうか?家庭だってそうでしょう。広瀬高校の「家ジャック」

ではありませんが、表面的には平穏そうに見えて、実は心がバラバラな家族というのはけ

っこうあるように思われます。もちろん、そういった自分の身の回りの居心地の悪さを、

より感受性の鋭い高校生の方が、作品という形で発表した場合、よりナイーヴな形で発表

する傾向はあるかもしれません。だからこそ、彼らの作品は感動的なのですが、しかしこ

れは、世代を越えてある一定の人々に共感できる内容であることも、また事実ではないで

しょうか?

 前置きはこのくらいにして、あらすじを紹介していきましょう。本作の主人公、アリス

ガワは理系の大学を卒業後、海沿いにある政府系の研究所に就職します。実はその研究所

は、秘密裏にアンドロイドを育てる実験をしているところで、所長のカミジョウ、カミジ

ョウの幼なじみの研究員・ミサキ、アンドロイドの少女・ユイが主な登場人物として出て

きます。で、この中で、特に「居場所のなさ」で悩んでいるのは誰かというと、ユイとカ

ミジョウなんですね。

 ユイは、自分がアンドロイドということで、実験の道具としてしか、周りの研究所員達

に認識されていないことに、どうしようもない孤独感を感じています。しかし、新任とし

てやってきたアリスガワは、以前から勤めていた職員達のように先入観がないからなのか、

ユイを実験の道具としてではなく、一人の人間として接していきます。ユイは、このアリ

スガワという存在と出会うことで、初めて自分の居場所を見つけるんです。

 一方のカミジョウはどういう問題を抱えているかというと、実はユイを作ったのは彼の

父だったんですね。彼は、偉大な科学者としての父に、ものすごいコンプレックスを感じ

ていました。また、父が実の息子である自分よりも、アンドロイドのユイの方を愛してい

るのではないか、というジェラシーも強く感じていたのです。それで、彼は父が死んだ時

に、「自分は父を超えてやるんだ!」という決意をするわけです。その結果、今まで比較

的自由に育てられていたユイを、研究所にほとんど監禁のような状態にして、連日連夜の

実験づけにするという、ほとんどマッド・サイエンティストと化してしまったのです。

 そんなある日、ユイが反政府系のスパイの銃弾に打たれるという事件が起こります(こ

のスパイ役の伊藤仁美さんが、もうもの凄く格好よかった!ここのシーンだけ、なぜか0

07の一場面のようになっていたのが、面白かったですね。彼女にも演技賞出してあげて

ほしかったな・・・)。ユイは危うく一命を取り留めるのですが、銃弾に特殊な薬品が塗

られていたらしく、ユイの体には足の方から徐々に魚に変化していくという不思議な後遺

症が現れ始めます。マッド・サイエンティストのカミジョウは、このままでは自分の研究

が無駄になると、「ユイが死んでしまう危険の方が大きい」、という周りの反対を聞かず、

ユイを手術して、魚化を止めようとします。そんな中、やはり反政府系の仕業か、突然研

究所に火災が発生!ユイを逃がそうとする他のメンバー達に、「ユイがいなくなったら、

俺はこれからどう生きていけばいいんだー!」と、カミジョウが、もう本当に悲痛な絶叫

をします。ここで!僕は本作の中で、一番泣かせるシーンだと個人的には思っているので

すが、カミジョウの幼なじみ・ミサキが、カミジョウを「わたしがいるじゃない!」と、

強く抱きしめるんですよー(泣・泣・泣)!

 白百合のところでチラッとふれたのですが、このミサキ役を演じていたのが、去年はボ

ーイッシュな男の子役を演じていた小野菜実子さんだったのでした。一年見ない間に、こ

んなに泣かせる演技をするお姉さんになって・・・、と見ているこっちも感慨無量のもの

がありましたね。実は、本作の脚本を書いたのも、小野さん本人なのです。「居場所がな

い」ということが本作のテーマであることを考えると、きっと小野さんが演じていたミサ

キという存在は、小野さん自身の中にも願望として、こんな人間がいてくれたら・・・と

感じられてやまない人間なのでしょう。だからこそ、あれだけ泣かせる演技ができたので

はないのかなあ、と思うのです。

 一方のユイは、魚化を止めることができず、最後には魚になって海に帰ってしまいます。

しかし、ユイは最後にアリスガワに「自分にとっての居場所が、ここにあるということが

わかったから、いつかまた陸に帰ってくる」という言葉を残していきます。カミジョウに

とってミサキが「居場所」となり得たように、ユイのとってもアリスという存在が「居場

所」となったことを、このセリフは示しているといえるでしょう。

 そういうわけで、冒頭にも述べたとおり、この作品は、「自分にとっての居場所がどこ

にあるのかわからない」という思いを抱いている人間にとっては、本当に泣ける内容にな

っていたのでした。泉高校は残念ながら、三年生は引退してしまうところのようですが、

こんな泣かせる作品を書ける小野さんには、ぜひともこれからも脚本を書き続けててもら

いたいなあ、と強く願う次第です。高校卒業しても、何らかの形で演劇活動続けて欲しい

なあ。それだけのものを、小野さんは持っていると思いますよ。 

 

[2000年10月19日 22時13分10秒]

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仙台工業演劇部「幽霊学校」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 突然ですが、プロ野球の話をします。今年のセ・リーグは巨人が圧倒的な強さで優勝し

ました。「野球は巨人」と考えている人が世の中では多数派のようで、そういう方々はさ

ぞかしお喜びのことでしょうが、世の中にはアンチ巨人という人もそれなりの数おりまし

て、そういう方々はこういった主張をよくなさいます。いわく「巨人が強いのは、金にあ

かせて強力な選手をたくさん集めたからだ。あれでは強くなるのは当たり前で、不公平だ。」

もちろん、巨人側の「せっかく金があるんだから、それを有効に使って何が悪いんだ。」

という主張ももっともな言い分であり、一概にアンチ巨人ファンの言っていることばかり

が正しいともいえないところもあるのですが、僕個人としては、お金も人材も少ないとこ

ろで、なんとか頭を使って工夫して巨人に負けないように頑張ろう、という巨人以外の各

球団の方に感情移入するところが強いのです。人間、そうそういつも恵まれた状態にいる

ことなんて少ない。むしろ、自分の思うとおりにことが運ばないことが多いもの。そう考

えると、巨人と巨人以外の球団では、どうしても自分の状況に照らし合わせると、巨人以

外の球団の方に目が向いてしまうんですね。

 なんで、演劇の掲示板で延々プロ野球の話をしているんだって?実は、今まで書いてき

たことって、高校演劇コンクールを比喩したものなんですよ。建前上は同じスタートライ

ンに立っていることになってはいるものの、実際には学校ごとに部員の数の多少とか、部

につけられている予算の多少という条件の違いというのはどうしてもあるわけです。それ

で、何十人ものキャストによる大がかりなお芝居や、お金かかってるんだろうなあ、と思

わせるものすごく凝った舞台装置を作ってくる学校も当然あり、それはそれでいいお芝居

を見せてくれるのですが、僕個人としては、どうしても少ない部員の中から一人二役など

で一生懸命やりくりしていたり、よくいえばシンプル・悪くいうとショボいセットで、い

かに観客に魅せるかを工夫している学校を見ると、ついついそっちの方に感情移入してし

まい、思わず心の中で、「がんばれ!」と声をかけてしまうのです。

 その意味では、先に書いた泉松陵が優秀賞を取ったことに、僕は心より「おめでとう」

と声をかけたいのですが、実はもう一校、少ない部員の数にも負けず、面白いお芝居を見

せてくれた学校がありました。それが、仙台工業演劇部なのです。

 この「幽霊学校」という作品は、去年の夏休みの夜に教室で幽霊を見た!という大作に

連れられて、後輩の健一、クラスメートの真理子、良子の3人が1年後の同じ日の夜に同

じ教室にやってくるところから始まります。大作は怖くなって、幽霊が出る前にトイレに

行ってしまうのですが(これは部員が少ないので、大作役の津田佑介君が幽霊に変わるた

めの苦肉の策なのです)、残り3人は詰め襟服を着た高校生の幽霊に出会います。実は彼

は戦争中に死んだ高校生の幽霊で、本当は学園生活を満喫したかったのを果たせなかった

ために、毎年命日に幽霊として姿を現すのだが、自分の死んだ時間が夏休みの夜だったた

めに、せっかく幽霊として表れても、学校には誰もいない、という笑っていいのか悲しん

でいいのか、トホホな状態にいたのでした。

 それで、3人はこの幽霊のために模擬学校を演じ、幽霊君に学園生活を楽しんでもらお

う、と思い立ちます。幽霊君は、彼らの思いやりに満足し、最後に成仏して物語は終わる、

という内容でした。

 こう書いていくと、本作は戦争の悲惨さを訴えた重苦しいお芝居だったのだろうか、と

思われる方も多いでしょう。しかし、彼らの作品は、この幽霊君を喜ばせようとする3人

の試みが、見事なまでのギャグになっていて、むしろ、最初から最後まで笑いどおしにさ

せてくれる楽しい内容となっており、いわゆる戦争モノにありがちの、重苦しさや、説教

臭さから脱することに成功していたのでした。僕は、彼らが重いテーマを選んだことより

も、むしろそういったギャグセンスのほうをを高く評価したいと思うのです。重いテ−マ

を選べば、教育的配慮から、先生方の評価は良くなるかもしれない。でも、彼らが望んで

いたことは、むしろ、とにかく面白いモノを見せることによって、お客さんを喜ばせたい、

という面の方が強かったのではないでしょうか?

 例えば、幽霊君を呼ぶために、3人は幽霊君に名前を聞きます。しかし、何しろ昔のこ

となので幽霊君は名前を思い出せないというのです。そこで彼らは幽霊に、よりによって

「ボウフラ君」という名前を付けるのです!なぜって?どこからともなく湧いてきたとこ

ろがボウフラみたいだから、だって(ヘナヘナ〜)!物語の最後の方で、幽霊君が3人に、

「みんな、僕の名前を呼んでよ!」と叫び、彼らがそれに答えて、幽霊君に名前を呼びか

ける場面があります。本当なら、とても感動的なシーンになるところなのですが、何しろ

呼びかける名前が「ボウフラ君!」なものだから、観客としては、笑っていいのか、感動

していいのか、とまどってしまうのでした。でも、そういった泣き笑いのようなシーンっ

て、僕はけっこう好きです。なぜなら、ストレートに感動を持ってこようとするのって臭

んじゃないか?というような問題意識が作り手側にあるように感じられるからなのです。

 本作はけっこうお客さんも笑っていて、会場の評判も上々だったように感じたのですが、

残念ながら予選を突破することはできませんでした。何しろ、2校しか県大会に進めない

のですから、やむを得ないのでしょうが、僕としては最初にも述べたように、例えていう

なら小林一茶の「やせがえる 負けるな一茶 ここにあり」的な気持ちがあり、このまま

本作が忘れられてしまうのは惜しいことだなあ、という思いから、こうして劇評を書くに

至りました。それにしても心配なのは、来年は今1年の津田君一人になってしまうのか、

ということです。新しい1年生が入ってきて、また来年もコンクールに出られるといいの

ですが・・・。まあ、最悪の場合は「アテルイの首」みたいな1人芝居をするという手も

ありますけどね。これからも頑張ってくださいね! 

 

[2000年10月18日 20時20分45秒]

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富谷高校演劇部「広くてすてきな宇宙じゃないか」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作で主演のおばあちゃん役を演じていた佐藤里香さんが、地区大会での演技賞を受賞

されました。おめでとうございます。高校演劇コンクールで個人賞が出たのを見たのは初

めてだったので、ちょっとビックリしてしまいました。講評でも、彼女の演技が絶品だっ

たと審査員の先生が言っていたので、異例ではあるが、あえて個人賞を出した、というこ

とだったのでしょうか?

 確かに、彼女の演技はとてもとても素晴らしいものでした。でも、彼女に対する「相手

役」ともいえるクリコ役の三浦絵理さんの演技もまた、僕には負けず劣らず絶品のものに

見えました。松陵の亀歩さんが、より生きたのが、相手役の最上純くんのとぼけた味わい

のある演技であったように、佐藤さんのおばあちゃんが生きた裏には、三浦さんの絡みが

あったと思うのです。というわけで、ここでは三浦さんの方にスポットを当てた文章を書

こうと思います。

 本作はキャラメルボックスの成井豊氏の代表作ともいえる作品であり、あらすじをご存

じの方も多いと思いますので、ストーリーは簡単に紹介します。舞台は近未来。妻を早く

に亡くしたTVキャスターが、まだ幼い3人の子供達のために最新の科学技術で作られた

アンドロイドのおばあちゃんを家に連れてきます。上2人は、最初は反発しつつも仲良く

なっていくのですが、下の娘・クリコはおばあちゃんとずっと口を利かず、やがておばあ

ちゃんを壊そうと、ある事件を起こす・・・。で、この末娘のクリコを演じていたのが、

三浦絵理さんだったわけです。

 要するに、彼女がおばあちゃんに反発していたのは、おばあちゃんとの仲が親密になれ

ばなるほど別離の時が辛くなる、という深層心理での思いが理由だったわけで、そういう

意味では、クリコって、とっても寂しがり屋な女の子なんですね。実は、富谷高の春の単

独好演「半神」も僕は見たのですが、その時三浦さんは、双子の愛されていない方のシュ

ラ役を演じていまして、自分が周りから愛されていない、という自覚からくる孤独感を、

それこそ観客の心にグサッとくるように演じていたのが、とても印象に残っていたのです。

つまり、寂しそうな表情が、とってもサマになってる娘なんですよ。そんな彼女が、3人

兄弟の仲で、一番の寂しがり屋であるクリコを演じていたのですから、これははまらない

わけがない!のです。

 と、書いても具体的に読者の皆さんには、完璧にはイメージできないでしょうね。この

辺が、文章の限界とでもいうもので、自分でも書いてて歯がゆくて仕方がないんだけれど

も、あえて、例えていうなら、サイマル演劇団という仙台のアマチュア劇団がありますが、

そこの看板女優の佐武令子さん。三浦さんは、その佐武さんをを10年若くしたような感

じの女の子なのです。最近の佐武さんは、どちらかというとバラドル的なとぼけた感じで

笑いをとる演技が多いのですが、以前に三角フラスコの「ソラシドミニカ」で客演したと

きは、それこそ、身勝手な彼氏を待ち続ける女の子の孤独感を、こちらの胸が痛くなるよ

うな表情で見せてくれたものでした。細ーい目に、顔が卵形の輪郭で、笑うとかわいい。

でも、その笑顔には、どこかしら寂しさが宿っている。そんなところに、僕は佐武さんと

三浦さんの共通点を感じます。 

 ラスト・シーン。年老いて、子供は皆独立し、孤独になったクリコは、再びおばあちゃ

んのレンタルを希望します。ひとりぼっちで部屋にいる彼女の寂しそうな表情!最後の最

後におばあちゃんがクリコに空を飛ぶところを見せるシーンが、本作の最も泣ける場面で

あることは確かなのですが、そのラストが生きるためには、三浦さんの、それこそ孤独感

が体中からにじみ出ているような演技が伏線としてあってこそ!だと思うのです。実は、

おばあちゃん役の佐藤さんは、春の「半神」では、三浦さん演じるシュラにくっついた双

子のもう片っ方、マリアを演じていたんですね。そういう意味で、この2人はきっと富谷

を引っ張る車の両輪のような存在なのでしょう。今回、富谷は3年生も公演に参加してい

たのですが、そういう意味でも、再び、この2人の絡みをどこかで見たい!という強い思

いに駆られたのでした。期待していますよ!

 

[2000年10月18日 0時13分39秒]

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白百合学園演劇部「HAPPY BIRTHDAY」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 仙台高校の劇評の欄で岩井俊二のことを書いたけれど、実は僕は日本映画がけっこう好

きである。それも、「踊る大捜査線」みたいなアクションものではなく、今挙げた岩井俊

二や、あるいは大林宣彦といった、いわゆる叙情性あふれる監督の作品が好きなのだ。

 そんな僕にとって長い間フェイバリット・ムービーであり続けているのが、中原俊監督

の「櫻の園」である。最近の映画だと思っていたら、もう10年前の作品になるんだね。

創立記念日には伝統的にチエホフの「櫻の園」を演劇部が上演するという、地域からはお

嬢様学校と見られている女子高演劇部の1日を描いたものである。僕はこの映画が好きで

好きで、もう10回ぐらい見てるんだけれども、今にして思うと、僕が高校演劇をこんな

に好きになったのは、この「櫻の園」を見たためかもしれない。映画を見た当時は、演劇

にはほとんど興味のない人間だったんだけれども、高校演劇が将来好きになる要素が、深

層心理にサブリミナル効果(?)として、あの映画によってインプットされたのかもしれ

ない。なんでそんなことを思い出したかって?たぶんそれは、白百合演劇部の芝居を見て

しなったためだろう。

 この「HAPPY BIRTHDAY」という作品は、誕生日の前日に仲の良い親友3

人とささいなことからケンカしてしまった1人の女子高生が、時間の止まった夢の世界に

連れていかれるものであった。この夢の世界にいれば、誰かに傷つけられることがない。

でも、現実世界のような生きた他者との関係もない。夢の世界にいるのがいいのか、現実

に戻るのがいいのか、という選択を主人公が迫られるという、まあ、わかりやすくいうと、

エヴァンゲリオンの「人類補完計画」を、少女漫画風のファンタスティックなタッチで演

劇化するとこんな感じになるんだろうな、という作品であった(ちなみに、エヴァンゲリ

オンはアニメだが、やはり「映画」版が大ヒットしたもので、僕も大好きな作品です)。

 で、なんでこの作品を見て「櫻の園」を思い出したかというと、主人公が前日の学校で

のケンカを思い出して再現するシーンの、昼休みにお弁当を食べているという女子高生の

何気ない日常を淡々と描いている場面が、なんか「櫻の園」を思い出させて懐かしいなあ、

と感じたからでもあるんだけれども、4人組の親友の中に、一人ショートカットで元気の

いい、ボーイッシュな女の子がいたんだね。彼女は「夢の世界」では、サッカー少年の役

で出てくるんだけど、僕は彼女を見ていて、なーんかどっかで見たことあるんだよなあ、

という印象を拭えなかったのだ。でも、キャスト表を見ると、彼女(倉島紗綾華さん)は

1年生なので、去年のコンクールには当然出場していない。それで、なんだろう、このデ

ジャブー感は?と、ずっと悩んでいたんだけれども、表彰式の時に、各学校の生徒さんが

それぞれの制服で着席しているのを見たとき、ハッとした。「あ!彼女って『櫻の園』の

時の、つみきみほにそっくりじゃん!」。そう思い出した途端、僕の頭の中で10年前に

見た映画の思い出が、まるで走馬燈のように巡りだし、ほとんど死を直前に迎えた人間の

ような状態になってしまったのでした(笑)。

 うーむ、なんかお芝居そのものの劇評になってなくてゴメンナサイ。でも、昨日、CU

Eの掲示板で代表の森さんが、高校演劇というのははかないから美しいという趣旨のこと

を書かれていらっしゃったけれど、「櫻の園」って、きっと櫻の花があっという間に散っ

てしまうはかなさと、高校演劇(あるいは高校生という人生の中の大きな一時期)のはか

なさを掛け合わせた映画だったんだなあ、ということを、白百合の演劇を見ていて、ふと

思い出してしまったんだ。それはきっと、倉島さんの、「この娘、ほとんど役作りしてな

いんじゃないか?地丸出しでそのまま舞台に上がってるんじゃないか?」と思わせながら

も、いや、むしろ地そのものであるからこそ、とてもキラキラと輝いて見える元気ハツラ

ツさが、僕のような30代の若年寄には、とてもまぶしく見えたからなんだね(誤解のな

いように書いておくけど、地のままで舞台に上がる=ヘタ、ということでは決してない。

だって、普通の人なら舞台に上がると、たいてい緊張するじゃん。少なくとも、地のよう

に見えるということは、そういう緊張感からくる不自然さがまるで感じられない、という

ことだから、これは実はすごいことなのだ)。

 でも、今年の白百合は残念ながら予選落ちしてしまった。そういうわけで、県大会で、

彼女たちの、なんか、懐かしい感じのする、暖かい雰囲気のお芝居を見ることはできませ

ん。まあ、倉島さんはまだ1年生だから、来年、再来年も登場されることを、今から心待

ちにするとしよう。でも、「私はやっぱり、スポーツの方が好きだあ!」、なんて、運動

部に移ってしまいそうな雰囲気があるんだよなあ、彼女(勝手に想像してすみません・苦

笑)。あるいは、泉高校の小野菜実子さんみたいに、来年になったら、カッコいいお姉さ

んに早変わり!してるかもしれないしね、それはそれでまた楽しみである(小野さんも、

去年は映画「Love Letter」でトヨエツが演じていた主人公の彼氏の役を、と

てもボーイッシュに演じていたのだが、今年は打って変わって大人っぽいインテリ女性科

学者を好演していたのでした)。

 

[2000年10月16日 22時0分4秒]

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泉松陵高校演劇部「fractional....」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

恐るべき高校生(’00版)、亀歩!

 

 昨年の高校演劇コンクールで、私は、育英の大江有美さんの、あまりにも高校生離れし

た名演に感動し、「恐るべき高校生、大江有美!」という文章をこの場で書いたことは、

皆さんも覚えておいでのことと思う。今年もまた、並のアマチュア劇団をはるかに凌駕す

るような、ものすごい高校生はいないかなー、と思いながら各公演を見ていたのであるが、

最後の最後に、ついに見つけた!その名は、松陵の亀歩(かめ・あゆみ)さんである。し

かも、昨年の大江さんの場合は、役者としてのすごさに圧倒されたのだが、今年の亀さん

は、それに加えて脚本も自分のオリジナルとして書いていたのである。そういう意味では、

むしろ、昨年でいえば仙台高校の朝理恵さんに近いかもしれない。

 この「fractional....」という作品、とにかく冒頭からすごかった。舞台

は学校の食堂。主人公の高校生・川上高瀬が、悲愴な表情でカレーの皿を高く掲げている。

「ここにあるカレーは中辛ということだが、しかし、本当に中辛だろうか?もしかしたら、

辛口。いや、甘口かもしれない!」といったセリフを(台本持ってないので、正確ではな

くてすみません)、あたかもシェイクスピアの四大悲劇の主演男優のように、眉をひそめ、

この上なく深刻な表情で、朗々と語るのである!もう、この冒頭で私などは完璧にノック

・アウト。爆笑の渦に巻き込まれ、笑いすぎて目から涙が止まらなくなってしまったので

あった。

 この川上役を演じた最上純君というのも、また亀さんと息のあったギャグの応酬を見せ

てくれた。本作は優秀賞を見事受賞したのであるが(個人的には最優秀賞でもおかしくな

いと思ったが・・・)、これは亀さんのすごさに加え、最上君の味のあるボケぶりも大き

な要因であろう。実は、川上は自分で自分が何をすればいいか決められない優柔不断な人

間で、冒頭のギャグに象徴されるように、カレーの味ですら自分で判断できないようなヤ

ツなのである。彼は、親友の木元(石川泰介君)にいつも金魚の糞のようにくっついてお

り、コーラを飲むにも、コカ・コーラかペプシか自分で決められず、木元に決めてもらっ

ている有様なのであった。

 そんな川上を、未来の世界から見ていた孫娘の役が、亀さん演じる小池美紀である。彼

はこんなダメ人間のため、たぶんろくな彼女ができないだろう。でも、もっとしっかりし

た人間になれば、素敵な彼女ができるかもしれない。そうすれば、孫娘の自分も、今より

もっとスタイルの良い美形に生まれ変われるかもしれない。そう考えた美紀は、川上の人

格を前向きに改造するため、未来の世界からやってきたのであった。実は、この初めて亀

さんが登場するシーンが、またものすごく衝撃的なのだが、あえてここでは教えない。知

りたい人は、ぜひぜひ県大会まで足を運ぶのだ!絶対、多賀城まで見に行く価値はあるぞ!

 美紀の突然の登場に驚く川上だが、彼女が現代の人間では使えない特殊な能力を持った

人間だとわかると、実は自分が隣のクラスの超美人、佐藤さんに片思いをしていることを、

つい教えてしまう。しかし、親友の木元もまた、佐藤さんに片思いをしていることが明ら

かになる。今まで、木元にベッタリで主体性のない川上だったが、美紀の励ましにも助け

られ、次のマラソン大会で、見事、木元を破って優勝し、格好いいところを佐藤さんに見

せつけることによって自分をアピールし、そのチャンスに告白もしようと決意するのであ

った。

 つまり、この物語は古典的なビルドウングス・ロマン(成長物語)なワケだが、差し挟

まれるギャグの質がものすごく高く、しかも観客を飽きさせないために随所随所に効果的

に組み込まれているため、まさに、笑いあり、涙ありの、文字通りの感動ストーリーにな

っていたのであった。ギャグとして面白かったのが、電話を使ったネタだったのだが、こ

れもあえて教えない。せっかく県大会があるのだから、ここで文章としてネタを知るより、

現場で実際の演技を見た方が、絶対に笑えると確信するからだ。また、単にネタだけが面

白いのではなく、亀さん自身の役者としての個性も、また素晴らしかった。小さい体を、

それこそはじけるように元気いっぱい使っていて、ギャグに笑わされつつも、なんか、そ

の頑張っている姿がとてもけなげで、見ているこちら側の胸にしみるところもあったのだ

った。

 んで結局、川上は佐藤さんには振られちゃうんだけど、人間的には成長したことを見届

け、とりあえず一安心して美紀は未来の世界に帰る。ラストは、布団にジャージ姿で寝て

いた川上が目を覚ますところで終わるのだが、終演後の講評で古川高校の伊東先生も指摘

されていた通り、このラストはさらに改善すれば、より感動的になるだろう。例えば私だ

ったら、ダブルキャストとして、同じ学校に亀さん演じる同級生を登場させ、新たな出会

いを設定する。そうすれば、美紀が現在の美紀と同じ人間として将来生まれることのつじ

つまも合うし、川上も幸せになって、ハッピーエンドということになるわけだ。県大会で、

その辺をどのようにリニューアルしてくるか(あるいは、あのラストシーンにはこだわり

があり、そのまま変えないという可能性も、もしかしたらあるかもしれないが)、半月後

が、とてもとても楽しみである。

 と、いうわけで、私個人にとって本作は、猫原体の「アナログ・ノート」と甲乙つけが

たい、今年見た中で一、二を争う感動作であった。年末の年間ベスト10をどうしたもの

か、まだ10月だというのに、もう今から嬉しい悲鳴だよ!

 

[2000年10月15日 21時53分16秒]

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劇団M.M「エプロン」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 高校演劇コンクール、今まさにたけなわである。今日は注目の泉・宮城野地区初日とい

うこともあり、5校中4校を観劇してきた。本当なら昼間に4本も芝居を見たら、夜はも

う疲れて一休みしたい気分のところである。しかし、なんといっても劇団M.Mである。

去年の「ミリオンセラー」の面白さは、一年経った今でも未だに印象に強く残っている。

しかも、今回の作品は「三姉妹」が主人公である。「三姉妹」と聞いて、アイドル評倶楽

部の私が、そのまま見逃すわけにはいかないではないか!

 というわけで、青年文化センターを出たその足で、イベントフォーラム山口に向かった

のであるが、私が本作・「エプロン」で最も目をひきつけられたのは、実は主人公の三姉

妹ではなく(彼女たちの演技も良かったのだが)、客演していた青葉玩具店の西園ナツさ

んだったのである。

 物語は、三姉妹の長女が結婚することをきっかけに、失踪していた父親を捜すために、

TVの「三姉妹コンテスト」に彼女たちが出場するという話だったのだが、このTV番組

の司会者役で登場していたのが、今述べた西園さんなのである。彼のどこが面白かったか?

実は、彼は一週間前の劇団三銃士の「ねずみとり」にも客演していたのである。わずか一

週間に二本連続で客演するというのもすごいが(しかもどちらもけっこうセリフが多かっ

た)、私がここで指摘したいのはそのことではない。「ねずみとり」はアガサ・クリステ

ィー原作のミステリーで、当然舞台は50年ぐらい前のイギリスである。彼はペンション

に宿泊する怪しい外国人の役で登場していたのであるが、今回のTV司会者の役作りが、

その時の外国人の時と、全く瓜二つの演技だったのである!

 「三銃士」は、代表の紺野鷹志さんのカラーがよくも悪くも色濃く出ている劇団で、ま

あ要するに、出ている登場人物が皆、過剰に味の濃い芝居をするところである。西園さん

もその例に洩れず、怪しげなイントネーションを使い、ペンションの奥さんをナンパしよ

うとする、年齢不詳の(年食っているように見えるが、やたらと身のこなしが軽い。ギリ

シャ系の名前だが、むしろラテン系のノリ)外国人オヤジの役を怪演していたのだが、本

作では日本人のTV司会者であるはずなのに、その身のこなしといい、怪しいイントネー

ションといい、もう、その怪しい外国人そのまんま!

 つまり、私が何を言いたいかというと、彼の今回の面白さは、いわゆる楽屋オチ的なも

のだった、ということなのだ。先週の「三銃士」を見ていない観客にとっても、彼の過剰

かつ怪しげな演技は、充分笑えるものだったと思う。しかし、先週の彼の演技を見たもの

にとっては、彼は匿名のその場限りの存在ではなく、「なぜ、あのときの変な外国人が、

この現代の日本のTV番組に?」という実名性を伴うものになることによって、より面白

みが増していたわけである。例えていうなら、かつてのシャボン玉ホリデーにおける、植

木等の「お呼びでない?」的な面白さ。つまり、「三銃士」での演技が、今回のM.M出

演の(少々長すぎるが)伏線としての効果となっていた、というワケなのだ。

 彼が、意識して2週続けて役作りを、あえて似せたかどうかまではわからない。もしか

したら、本当は不器用な役者さんで、どんな役を演じても、同じ傾向のキャラクターにな

ってしまっただけなのかもしれない。しかし、楽屋オチ的に観客を笑わせるために、わざ

とあえて同じ役作りをした、と考える方が、夢があって面白いではないか!実は、衝劇祭

の時の青葉玩具店の本公演も私は見ているのだが、その時の西園さんの印象が、正直私に

は薄いのだ。つまり逆に考えれば、衝劇祭の時の彼の演技は、この2週にわたる演技とは

違う役作りをしていたから印象が薄い、と考えるのが妥当なわけで、そう類推していくと、

やはり今回の彼の演技は、確信犯、と考えるのが妥当なのである。

 今回のお芝居は、そういった西園さんの演技に限らず、楽屋オチ的な面白さが楽しめる

ものであった。例えば、三姉妹がTV出演しているシーンで、三姉妹がTVカメラに向か

って「ミヤさん、見てるー!」と手を振るシーンがあった。このミヤさんという人は、以

前M.Mに所属していた役者さんの名前なのだが、先日の衝劇祭でのGECKA−BIJ

INの芝居に客演する予定だったのが、突然失踪してしまった人なのである。もちろん、

そういうウラ話を知らなくても本作は充分面白いのだが、知っていると、より爆笑してし

まう仕掛けになっている、という構造になっており、しかもその伏線の貼り方が、あくま

でさりげないものであり、「はい、これは楽屋落ちですよー!」と、声高に見せつけるも

のでないところに、センスの良さを感じさせるのである。今、引き合いに出したGECK

A−BIJINは、「大・失・敗」の時に、出てくる役者が、「BIJIN−GECKA」

という劇団に所属している、という話になっていたが、そのように露骨に楽屋落ちを出し

てしまうと、かえって見ている者は鼻白んでしまうものなのである。楽屋落ちは、わかる

人にニヤッとさせるくらいに、さりげなくしてこそ効果があるものなのだ。こういうとこ

ろを、GECKAさんあたりは、先輩劇団のM.Mさんから学習するといいと思う。

 この公演は、明日も14:30の回があるが、今述べた理由で、特に、先週「三銃士」

を見た方に御覧いただくことを、強くおすすめしたい。もちろん、先週「三銃士」を見て

いない方でも、充分楽しめる愉快な内容になってはいるのだが、やはり、一週間がかりの

壮大な伏線、という楽しみ方は、そうそう味わえるものではないだろう。「三銃士」と、

今回の「M.M」、2回通し券でも作れば面白かったかもね!

 

[2000年10月14日 23時7分0秒]

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仙台高校演劇部「PICNIC」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 私が数ある高校演劇部の中で最も注目している高校として、仙台高校演劇部の名前を何

度か挙げていることは、既に皆さんご存じのことと思うが、その仙台高校が本コンクール

にぶつけてきたのが、岩井俊二の映画「PICNIC」の演劇版である。岩井俊二といえ

ば、昨年も泉高校が「love letter」を演劇化していたが、2年続けて彼の作

品が劇化されたということは、今時の高校生の心に通じるものが、彼の作品の中にあると

いうことなのだろう。私自身も彼の作品の大ファンなので、こういう傾向は個人的にはと

ても嬉しかったりする(まあ、私の文章はどれも、根をたどれば全て個人的な思いに通じ

てしまうのだが)。

 映画を御覧になった方はご存じと思うが、本作は精神病院が舞台の物語である。殺人な

ど重度の犯罪を犯した青少年が、おそらく精神病歴があるという理由で強制入院させられ

ている病院に主人公のココ(多田麻美、映画ではCHARA)が到着するところから、物

語は始まる。彼らは「(病院の)塀を越えては行けない」という規則に縛られているが、

それを逆手に取り、塀づたいにどこまでも歩いていくのは構わないだろう、とココと仲良

くなった男の子2人、計3人で冒険をはじめる。なぜか?世界の終わりを見に行くためで

ある。

 昨年の「今夜の君は素敵だよ」の主人公が、チョコレイト工場に幽閉された少女であっ

たように、今年の主人公達もまた、精神病院という場所に監禁されている。つまり、昨年

と同様、巨大な世間に対して常日頃私達が感じている閉塞感、が本作のテーマなのである。

そして彼らは、閉塞した状況をまさに打破するために、「世界の終わり」を渇望するので

ある。

 しかし、ココは劇中でこうも言っている。「自分が生まれたとき世界は始まり、自分が

死ぬとき世界は終わる」。確かに、「本当は」自分が生まれる前から世界は存在し、自分

が死んだ後も世界は存在し続けている。だから、ココのセリフは正確には間違っているか

もしれない。しかし、自分が生まれる前と自分が死んだ後では、自分という存在がない以

上、世界を知覚することはできない。だとするならば、自分という実存にとっては、世界

は存在しないのと同じことになるのだ!つまり、「世界の終わり」は、閉塞した現状を壊

すことを意味するが、同時に自分の存在がなくなることでもある。

 映画のラストシーンはこのことに自覚的であり、だからこそ悲しくも美しいものであっ

た。ココが、なかなか終わらない世界に苛立ち、「私が死んだら、世界も終わるのかな」

と、たまたま拾った拳銃を取り出し、衝動的に自殺する。唐突の銃声と美しすぎる夕焼け。

そして、物語はそれこそブチ切られる形で終幕を迎える(「私が死んだら世界も終わる」

のだから当然のことだ)。あのシーンは岩井ファンなら忘れがたい、まさに名場面であろ

う。しかし、今回の演劇版ではこのラストが改変されていた。主人公達3人は、死後の世

界で生き、世界の始まりに向けて輪廻の旅をはじめるのである。

 物語をオリジナルのままで上演するのでは芸がない。自分たちらしさを出すためにスト

ーリーをいじりたい、という気持ちは理解できる。しかし、この改変は本作の最も芯とい

うべき部分をアヤフヤにしてしまい、甘ったるい御都合主義に後退してしまったのではな

いだろうか?それが、私にはものすごく残念だったのである。

 「世界が終わる」ということは、自分も終わる=消えてなくなることを意味する。それ

でも、世界が終わった方がまだマシだ、というせっぱつまった究極の選択だからこそ、最

後のココの選択は濃密なものとなるのである。人が演劇を見るとき、登場人物に感情移入

しながら鑑賞するということは、作品の内容によっては、現実世界のシミュレーション・

ケーススタディとしているということを意味することでもある。現実離れした荒唐無稽な

異次元でのファンタジーや、笑いを目的としたドタバタ喜劇なら話は別だが、本作の場合

は、精神病院という状況が、上にも述べたとおり現実世界のメタファーであることを考え

るならば、特にシミュレーションとしての傾向は強いものといえるだろう。だとするなら

ば、本作の結論はつらくなったら自殺すれば別の世界に行くことができて、幸せになれる

よ、ということになってしまう。しかし、オカルトを信じている人ならともかく、死後の

世界は存在して、みんな死ねば幸せになれるという確たる証拠なんてどこにも存在しない

のだ。むしろ、現実の世界を精神病院という比喩によって、そのキツさを強いリアリティ

をもって描いているだけに、ラストシーンでオカルトをもってくるのは、その落差があま

りにも甘すぎる、という不満をだかせずにはいられないのである。

 途中までの展開は実に見事で、役者の演技力は他の高校と1ランク違う、と思わせるに

足る見事さだった。特に、「M.O+」の時に、とても高校生とは思えないと絶賛した多

田麻美さんが、今回ますます素晴らしい出来映えだったことは、特筆していい。私達は役

者を見る際、稚拙かそうでないかの判断でリアリティさを基準とする傾向がある。しかし、

道行く通行人にいちいち私達が感情移入しないように、どこにでもよくいる人のリアリテ

ィが出たとしても、それにプラスアルファがなければ、観客は役者に引きつけられないだ

ろう。しかし、多田さんにはそのプラスアルファとでもいうべき、強いオーラが感じられ

る役者となっていた。昨年、「天使は瞳を閉じて」を見たときは、1年先輩の佐藤弥子さ

んにそのオーラが感じられ、多田さんは目立たない存在であった。しかし、この1年とい

う短い期間を経て、多田さんも今回、まさにその域に達していたのである。それだけに、

あのラストシーンの改変は実に惜しい!まさに画龍点晴を欠くではないか!と思わずにい

られないのである。

 彼女たちが感じる現実が、重苦しくうっとうしいものであることには強く共感する。年

齢の差を超えて、私も同じ現実を感じているからこそ、彼らに共感するのだ。だから、救

済を望む気持ちもまた理解できる。しかし、理解できるからこそ、あまり安易な結論に走

ってほしくないのだ。なぜなら、現実の重苦しさがリアルであればあるほど、それをうち

破る救済も安易なものでは説得力がなくなってしまう、と思うからなのだ。

 

[2000年10月10日 23時41分35秒]


宮城広瀬高校演劇部「家ジャック」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 実に衝撃的な芝居であった。なぜなら、本作は家族崩壊というテーマを扱っており、し

かもそれを他人事としてではなく、彼女たち高校生自身のものとして問題提起した内容だ

ったからである。

 主人公・麻子の家は母子家庭である。幼い頃に両親が離婚し、母親が女手一つで彼女を

育ててきた。しかし、どうしても仕事が忙しく、麻子の進路面談にも出席できない。夜遅

く帰ってきて、仕事のストレスから麻子につらい言葉を浴びせる。おまけに、どうやら不

倫をしているらしい。そんなこんなで母親不信に陥り、暗い表情をしている麻子を、クラ

スメートの美沙が、自分の家に遊びに来るように誘う。

 美沙は麻子と対照的に明るい性格で、その明るさが麻子にはうっとうしく感じられるの

だが、幸せそうな美沙の家族をうらやましく感じた麻子は、たまたま家庭科で使ったため

カバンに入れていた包丁をとり出し、「この家をジャックした!今日一日、この家の家族

にしろ!」と、彼女の家族を脅迫する。

 しかし、その時たまたま帰宅して来た美沙の父親を見て、麻子は驚く。なんと、麻子の

母親の不倫相手が、美沙の父親だったのだ!しかも、彼は家の中では暴君のように家族に

振る舞う人物で、美沙の母親はそんな彼の振る舞いにいつもおびえを感じていたのだった。

 表面的に幸せそうに見えていた家族も、結局は自分の家と大して違わないじゃないか、

と絶望した麻子は、「家ジャック」をあきらめ、自宅で睡眠薬をあおる。運よく、母親が

早いタイミングで発見し救急車を呼んだため、麻子は一命を取り留めるのだが、この時、

母親が麻子に「お前がとても大事なんだ!」という内容を(ちょっと、セリフうろ覚えで

すみません)、麻子に向かって泣き叫ぶシーンがとても感動的であった。

 こうして、麻子は母親と和解し、明るさを取り戻すのだが、一方の美沙の家は、両親が

離婚し、美沙自身も、「自分はつらい状況を直視するのがつらくて、無理して明るく振る

舞っていたに過ぎない。でも、もうそんなことをする必要はなくなった。」と、明るく振

る舞うのをやめるのであった。

 ラスト、明るくなった麻子にあった後、以前に麻子が自分の家で「家ジャック」をした

ときのように、携帯電話から母親に「自分は誘拐された!」と美沙は狂言をする。しかし

電話は留守電で、美沙が「ふー」とため息をつくシーンで、物語は痛々しく幕を閉じる。

 実は、公演プログラムに「演出のことば」というのが載っているのだが、そこには「今

の私達の思いです。誰もが一度は感じたことだと思います。」と書いていった。これもま

た、私には衝撃的であった。要するに、この芝居は絵空事として書かれたものではなく、

彼女たち自身にとって現にリアリティを持つ問題なのである。もちろん、彼女たちの家族

が、皆母子家庭だということはないだろう。しかし、大きな少年犯罪がおこる度に、家族

の形骸化が識者によって指摘され、あるいは「家庭」についてのアンケートで、バラバラ

に食事をとる家庭が増えている、という内容などが、よくマスコミなどで取り上げられる

ことに象徴されるように、自分の家がこの物語ほど極端ではないとしても、ある意味、仮

面家族的な側面をもっていると感じている高校生は、わりかし結構いるということなので

はないだろうか?

 そして、この作品のいいところは、結末をきれい事のハッピーエンドにもっていかず、

美沙の家を離婚という悲劇に導いていった点である。「高校演劇」に教育的側面を持ち込

もうとするなら、「家族」の素晴らしさをみんなが認識し、父親も母親もそれぞれに反省

する、という結末が「望ましい」と先生方は思われるかもしれない。しかし、それでは彼

女たちのリアリティとは一致しないのだ!

 つまり、説教によって人間は変われない、という一種のあきらめを彼女たちは認識して

いるということではないだろうか?「子供達の心の問題には、親の責任が大きい」と、評

論家達はよく口にする。しかし、両親だって人間である以上、なかなか完璧に「いい親」

だけを演じられるものではない。子供に八つ当たりをしたくなることも、気持ちが弱くな

って誰かに頼りたくなり、結果不倫に走ることもあるだろう。それを評論家が説教したり、

自分たち子供がプロテストしても、その時一瞬は反省するかもしれないが、人間なんてそ

う劇的に聖人君子に変われるものではない。なぜなら、人間とは本来不完全な存在であり、

それは自分たちの両親だって例外ではないのだ、という諦念を、私は本作から感じずには

いられないのだ。

 そういうわけで、私は本作を高く評価するのであるが、ひとつだけ気になった点を。麻

子の母親が本作では普通のOLのようであるが、かえって水商売にした方が、よりリアリ

ティが出たのではないだろうか?麻子の学費を女手一つで稼ぐだけの仕事であり、いつも

夜遅く帰ってくる状況や、また、美沙の父親と不倫をしていた、という事実も、彼女が水

商売をしていたという設定にすれば、皆つじつまが合うのではないだろうか?(つまり、

美沙の父親が客として彼女のバー?なりの常連だったとすれば、二人の出会いはより自然

だろう)なぜかというと、彼女が麻子に向かってクダを巻いているときの啖呵の切り方が、

どっちかというと、普通のOLというより、飲み屋のお姉さんが荒れている、という感じ

のリアリティが出ていて、とてもいい演技だったからである。

 昨年の広瀬高は如月小春の「DOLL」を演じていたが、’83年の作品であることや、

オリジナルの脚本でないためか、どうも役者が脚本を消化しきっていないような印象を受

けた。今年の「家ジャック」は、登場人物が同じ高校生でも、自分自身の問題という雰囲

気がより強く漂ってきて、去年の2年生には申し訳ないが、格段の進歩を感じずにはいら

れなかった。選考結果がどうなったかわからないが、ぜひ県大会まで進んでほしい作品で

ある。

 

[2000年10月10日 0時3分33秒]

 

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朴沢学園明成高校「馬鹿者共の夢の後」 

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お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 「演劇談話室」にも書いたが、この秋、私が一番の楽しみにしていた高校演劇コンクー

ルが、いよいよ今日から開幕した(今日、明日は青葉地区予選)。いつもなら、休日とも

なると、昼まで寝ていることを常とするズボラな私ではあるが、さすがに今日ばかりは平

日と同じ時間に起床し、午前10時の「上演1」が始まる頃には、既に青年文化センター

・シアターホールの客席に、期待に胸を膨らませながら、座席にその身をしずめていたの

であった。

 「上演1」の題名が、またいい。いきなり「馬鹿者共の夢の後」である。これから県大

会を含めると、約1ヶ月半の長丁場となるコンクールの初日の一発目が、いきなり「馬鹿

者」である。この題名が、最後に終わってみれば、今年のコンクール全体を暗示するもの

だったなあ、などと思わせるような楽しいコンクールとなってほしいものだ、と切に思わ

ずにはいられない。

 内容がまた、題名に決して名前負けしない、実におバカなドタバタもので、最初から最

後まで楽しく笑いどおしで芝居を見終えることができた。今年も実に幸先がいい。明成の

皆さん、どうもありがとう。

 物語は西遊記を連想させるような、古代中国を舞台としたファンタジーである。不運な

事故によって洞窟に閉じこめられた、釈迦族の娘・ヒミコとその従者・イヨ。2人の前に、

カラスに姿を変えさせられた、この土地の土俗の神、フウギ・ジョカと、いたずら者のサ

ル(おそらく孫悟空がモデル)の美侯があらわれる。実は3人の間には遺恨があり(2人

をカラスに変えてしまったのは、実は美侯のイタズラだったのだ)、彼らのケンカにヒミ

コとイヨも巻き込まれ、5人はワアワアと言い争いを始めるのだが、そこへこの洞窟の大

家(洞窟に大家がいるのだ!、なぜか・・・)があらわれ、騒々しい彼らを「お前らはみ

んな、ダメな奴らだ、クズだ!」と一喝する。

 この大家役の森下恵さんのキャラクラターが、まったくもって強烈この上ないのだ。堂

々とした体格にかっぽう着という格好で登場し(なんで古代中国でかっぽう着?というシ

ュールさが、また笑いを誘わずにはいられない)、5人の中では一番威勢のいいヒミコま

でをも完膚なきまでに言い負かすところが、実に格好いい。まるで、女版寺内貫太郎、あ

るいは往年の京塚昌子をも彷彿とさせる、圧倒的な肝っ玉母さんぶりなのである。

 さて、大家が怒っていた理由が、実はサルの美侯が洞窟の入り口を崩して出入りできな

くしてしまったことが原因の一つだったということがその時明らかになるのだが(美侯は

カラスの2人組とのトラブルから、彼らが洞窟に来ないようにと、わざと入り口を崩した

のだ)、大家にクズ呼ばわりされたことに発憤した彼らは、大家を見返してやろう!と、

今までのケンカを棚上げし、5人で協力して出口の修復をはじめる。5人の間に友情が芽

生えるのだが、次の日にはいよいよ出口が回復と言うところまでこぎ着けた朝、みんなが

起きてみると、崩したはずの岩が、なぜか元通りに出口を邪魔していたのである!

 それでも、5人の努力で出口はその日開通するのだが、実は岩を元に戻していたのは、

美侯だったということがその時明らかになる。なぜ?美侯はねえ、みんなと別れるのが淋

しくて、わざと岩を元に戻したんだって!

 思わずヘナヘナー、となってしまうオチである。私は今まで、孤独感や空虚感をテーマ

にした演劇を高く評価する劇評を何度も書いてきた。そういう意味では、この美侯の行動

は、初めてできた大切な「仲間」を失いたくない、という気持ちから生まれたものだから、

本来なら感情移入すべきところだろう。しかし、その手段があまりにも幼稚なもののため

(だって、好きな女の子の持ち物をイタズラしてワザと隠す小学生みたいじゃないです

か!)、シリアスに感情移入するよりも先に、脱力的な笑いが、ついこみ上げてしまった

のであった。でも、そんな子供っぽいところまでをも含めて、美侯の気持ちに、「なんか

いじらしいなあ」と、胸がちょっと痛くなる思いがしたのも、また事実である。こういう

子供っぽいけど、実は寂しがり屋なキャラクターって、憎めなくっていいよね。

 結局、出口を開通させた5人は、それが縁で一緒に旅を続け、最後には日本に渡り、後

にヒミコは、あの邪馬台国の卑弥呼となった、というオチでこの物語は終わる。そう、我

々日本人の祖先は、実はみな「馬鹿者」だったのである!

 全体的に、やおい系同人マンガのような雰囲気を感じさせる、コミカルで笑わせつつも、

さりげなく心の中の寂しさを登場人物達が吐露する、とても楽しい芝居であった。役者で

は、先にも述べたが大家役の森下恵さんの圧倒的な存在感を筆頭として、広末涼子を思わ

せるようなショートカットがカワイイ、ジョカ役の山澤枝理子さん、そして宝塚の男役を

思わせるかっこよさと、まるで子供のような憎めなさを併せ持つ、美侯役の石垣さわ子さ

んが強く印象に残った。この手のコンクールって、どうしてもシリアスものが高く評価さ

れがちになってしまう傾向にあるのだが、こういうドタバタ系の面白さも、審査員の方々

には正当に評価して欲しいものだなあ、と思わずにはいられない。明日、どういう結果が

出るかわからないけど、もし不運にも予選落ちしたとしても、僕はこの高校の良さを高く

評価する気持ちは変えないつもりだ。それに、1年生部員が多い高校なので来年以降も、

今からとても楽しみである。これからもがんばって、楽しい芝居を見せてくださいね。 

 

[2000年10月7日 22時40分31秒]

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劇団満塁鳥王一座「楽園ダンス」 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 昨年、会場の公園貸与をめぐってひと悶着あり、残念なことに仙台公演を断念した福島

の劇団・鳥王のトラブルの件については、皆さんの記憶にも新しいことと思うが、私が福

島までその作品・「水の上を歩く」を見に行き、その内容に大変感動したことについて、

昨年の劇評バトルに書いたことを覚えておられる方も何人かいらっしゃることと思う(詳

しくは、昨年の劇評バックナンバーをご参照のこと)。その鳥王が、今年は「信夫山野外

演劇祭」という企画を立ち上げ、仙台の劇団、三角フラスコ・サイマル演劇団と3者で、

福島の信夫山公園にて、テントによる演劇祭を開催しているという情報を聞き、これはぜ

ひとも見に行かねば!という強い思いに駆られ、昨日、福島まで行ってきたのであった。

 物語は、大西洋に浮かぶ離島に赴任したサラリーマン夫妻が主人公である。彼らは、会

社の税金対策のため、タックスヘイブン(税金のないこと)の島へ赴任して2年になる。

仕事の性格上、島でなすべき業務などほとんどあるはずもなく、毎日毎日ゴロゴロしてい

るだけの生活に、妻の時子は少々ノイローゼ気味になっている。

 私はこの設定を見て、「ああ、これは宮沢章夫の『砂漠監視隊』と同じテーマなんだ」

ということに気づいた。多賀城の劇団・ポトフが以前に演じた、「14歳の国」の脚本を

書かれた宮沢章夫氏のシリーズに「砂漠監視隊」というものがある。これもやはり、砂漠

を監視するという、ただそれだけの目的のために砂漠に赴任した人々について書かれたも

ので、やはり毎日毎日、退屈で同じような日常が続いていき、中には精神に失調をきたし、

「声が聞こえる!」といって、砂漠に飛び出したまま戻ってこない人間も出てくる。そう

いえば、以前に鳥王の主宰・大信氏と話をした時、彼は「宮沢章夫の作品はとても好きで

すねえ」みたいなことを言ってたっけ。つまり、砂漠や離島で続いていく昨日も今日も明

日も変わらない日常、というのは、昨年の「水の上を歩く」でも彼が取り上げた、今の我

々を覆っている「終わりなき日常」のメタファーであり、私達はこの「終わりなき日常」

をいかにやり過ごしていけばいいのだろう、というのが本作のテーマなのである。

 大信氏は、その処方箋の1つとして「祭り」を考えているらしい。本作の題名、「楽園

ダンス」の「楽園」が、この島を意味しているとしたら、「ダンス」は、まさにその「祭

り」に相当する。彼らが住む島は、土地の人々には「神の住む島」と信じられており(つ

まり神の住む島だから、税金もないのだ)、年に1度、大きな祭りをその神のために開く

ことになっている。そして、この島では部外者である日本人の駐在員達も(主人公の他に

数人、やはり同じ目的で駐在している日本人がいるのだ)この祭りに参加し、ダンスを披

露するしきたりとなっているのである。

 これは、近代社会以前に存在した「ハレ」と「ケ」の、「ハレ」を意味するものだろう。

つまり、「人生には意味とか、目標とか、夢がなければいけない」という考え方は、産業

革命以降(つい最近の日本でいうなら「高度成長」が典型的だが)、社会が急速に成長し、

「生産」や「競争」が必要とされた時代には有効な考え方であったが、本来それら資本主

義が発達する以前の社会では(例えば江戸時代の農村では)、人生に意味や夢などないの

が当たり前で、毎年同じように農作業をし、退屈な日常を紛らわすために、年に1度、大

きな祭りを行うことを楽しみにするという人生を、みんながおくっていたのではないか。

産業革命(高度成長)が一段落した現在の社会は、今またそのような状況に戻っただけの

話で、無理して「夢」や「目標」を探すこともないじゃないか。だったら、毎年1回の祭

りを楽しみにして、後はまったりと生きようよ。ということを作者は言いたいのではない

だろうか。だからこそ、本作の舞台は、未だに土着の神様が信仰されており、地元民が日

本人と子供を作ったりすると、「異教徒の子を産んだ!」とその女性を焼き殺すような(そ

ういう場面が物語の中の回想で出てくる)、迷信深い孤島にする必要があったのだろう。

実際、物語の中の登場人物は日本人でありながらも、そんな島の雰囲気に馴染んでおり、

年に1度の祭りでのダンスを楽しみに、後はまったりと生きている、ダウナー型人間がほ

とんどなのである。

 しかし、まったりと生きたくてもそうそう簡単に変われないのが人間というものではな

いだろうか?子供の頃から、「人生には意味や夢が必要」という社会環境や教育によって

育ってきた我々は(受験勉強などその典型だろう。一生懸命勉強すれば、よい学校に入れ、

よい学校に入ればよりよい会社に入れ、と幸せになるために競争を余儀なくされるシステ

ム)、いまさら「人生に意味なんてなくても、まったりと生きればいいじゃん」という別

の価値観を提示されても、「頭ではそういう価値観は理解できるけれども、毎日毎日が変

わりのない日常というのは耐えられない」と思ってしまうのが現実ではないだろうか。だ

って、今までそういう価値観で20年も30年も生きてきたのだもの。一朝一夕に人間な

んて変われるものではない。そのジレンマに悩んでいるのが、本作の主人公・時子なのだ。

彼女は、年に1度の祭りだけで満足する他の登場人物とは違い、退屈な日常にイライラし

ている。そのため、日本にいる友人から、通販の健康器具などを次々取り寄せて、その欲

求を満たそうとするのであるが、それでも気持ちは晴れない。また、逆に島の祭りに過剰

なまでにのめり込み、ダンスの振り付けを毎日のように手直しし、駐在員達の雑談の中で

日本の話題が出ると、過剰なまでに嫌悪感を示し、「ここで日本の話はしないで!」と怒

る、もう一人の駐在員の妻、瑞希もまた、時子とコインの裏表のような生き方をしている

が故に、やはり根っこの部分で現状に欲求不満を抱いている人間なのである。

 しかし、今回の作品では、昨年の「水の上を歩く」のように、登場人物が皆、生き方を

模索しているような人間であるのと違い、彼女たち2人以外の人間が「まったり系」のた

め、まったりしたムードが舞台をしめることが多くなってしまい、観客の私が実存的な部

分で登場人物に感情移入してしまうシーンが、前回より少なくなってしまったように感じ

られたところが少々残念だった。これは、大信氏自身の意識が、「意味を求める系」から、

「まったり系」へと移行しているということを意味するのであろうか?

 ともあれ、本作はそういった小難しいテーマを別にしても、最後まで飽きさせず楽しめ

る作品であることには変わりはない。特に、役者の演技が非常にナチュラルで、臭くもな

く、棒読みでもないセリフ回しになっていたことには非常に感心した。私は、以前に東京

で、宮沢章夫氏本人が演出した「遊園地再生事業団」の諸作品、「ヒネミ」「箱庭とピク

ニック計画」「砂の国の遠い声」などを見ているのだが、そこで登場していた役者達と比

較しても、決して遜色はないと思わせるものであった。「14歳の国」「夢いかだ」と、

似たような方向性に進みつつあるように見える、劇団ポトフの皆さんなどが御覧になった

ら、大いに勉強になる演技ではないだろうか。今月13日(金)18:30より、エル・

パーク仙台スタジオホールで仙台公演を行うとのことなので(今回はテントでのトラブル

をさけるため、屋内公演としたようだ)、去年見逃してしまった方や、拙文を読んで興味

を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひ御覧になられることをお勧めする。「こんなレベ

ルの高い劇団が、意外に仙台に近いところにあったんだねえ」と、驚かれる方が多く出る

ことを期待しつつ、本稿を閉じることとする。

 

 

[2000年10月1日 14時18分41秒]

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演劇集団華臨党「夕日にシーツが染まる時刻」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 ここのところ、大河原の劇団ミモザや、多賀城の劇団ポトフなど、仙台市以外の県内劇

団の活躍が目立っている。以前、当HPの「演劇談話室」のコーナーで、「仙台では文化

は育たないか?」といった内容の議論があったように記憶しているが、仙台以外の地域で

は、劇団自体が存在しない地域もたくさんあるわけで、つまり育つ・育たない以前の問題

であるところに比べれば、仙台はまだまだ恵まれた状況にあると思うのだ。そんな中、登

米にもアマチュア劇団があり、この度第3回公演を開く、という情報を入手した私は、こ

れはぜひ応援に行かねば!という強い思いにかられ、例のごとく佐々木久善さんを強引に

説き伏せ、2人で登米まで出かけていったのであった。

 会場は登米祝祭劇場の小ホール。最近、仙台にも演劇専門ホールを!という話題が、や

はり談話室で問題提起されていたが、この登米の小ホールは、まさに演劇専門ホールにふ

さわしい、すばらしい雰囲気のところで、こういうホールが仙台にあったらいいだろうに、

また逆に在仙の劇団がもっと仙北公演などを行ったら面白いだろうに、と思わずにはいら

れなかった。聞くところによると、このホールではほとんど演劇公演はおこなわれていな

いという。いわば宝の持ち腐れで、実にもったいない話である。

 さて、肝心の芝居であるが、舞台はある病院の屋上。目の病気から演劇ができなくなる

という恐怖を抱えた女優が、まさに身投げをしようとしているところを、長期入院患者の

若者(男性)と外科医(女性)の2人が発見し、危うく押しとどめる。2人は「病院のぬ

し」的存在らしく、女優が最終的に自殺を敢行するかしないかについて賭けを始め、若者

は自殺をやめるよう、女医は自殺をするよう、それぞれ女優に説得をおこなう。

 この2人の説得と女優の自殺したい思いについてが、その後芝居の中で劇中劇という形

で交代交代に登場するのだが、その内容が実にコミカルで面白かったのだ。まあ、要する

に5分程度のショートコントを次々と積み重ねる形で、芝居が進行していったわけである。

 以前、屋上で自殺しようとしている3人が偶然に集まるという、似たような設定の芝居

を仙台の劇団・「山全」がおこなっていたことがあったが、今回の「華臨党」と「山全」

の最大の違いは、「山全」では3人が自殺したい思いを抽象的な禅問答的に延々議論して

いたのに対し、「華臨党」では、本筋から脱線しているように見えながらも、エンターテ

イメントに徹したエピソードづくりを心がけていた点であろう。別なところでも書いたが、

ストレートな議論は、物語に加工されていないという意味で「演劇」とは呼べない、と私

は思うのだ。

 また、登場人物達が語る内容を劇中劇にしていたことも、本作が成功した要因だろう。

やはり、仙台の劇団・サイマル演劇団の「昭和かれすすき」では、登場人物達の思い出話

をそのままモノローグとして表現していたが、演劇という視覚に訴えるジャンルを選択し

ている以上、今回の「華臨党」のように劇中劇という形で表現した方が、観客へのアピー

ル手段として、より望ましい形態であることは、いうまでもないことだと思う。

 さて、それら劇中劇の中で特に面白かったのが、主人公の女優が以前読んだ少女漫画の

エピソードを語るものである。その時は、自殺の話から発展して輪廻転生の話をしていた

のだが、ある女性が山の中で倒木の下敷きになっていたところを、熊が通りかかる。熊は

女性に結婚してくれたら助けてやるというのだが、熊と結婚するのがイヤな女性は、今自

分は既婚者であるとウソをつき、来世で結婚すると熊に方便をいい助けてもらう、という

内容のものだったのだが、このシーンで登場した熊がすごかったのだ。なぜか、頭に「た

れぱんだ」のぬいぐるみをかぶったかわいい女の子(ラダ・トロッソの今野由美子さんを

連想していただくと、かなり近いだろう)が、ひらがなで「くま」と書いたTシャツ姿で

登場したのである!なんなんだ、お前は!「くま」って書いてなかったら、ただのヘンな

女の子だぞ!と、ほとんどの観客が、おそらく心の中で突っ込みを入れたに違いないあの

シーン!あのマヌケでシュールな空間を、言葉では完全に書き尽くせないことが残念で残

念で仕方がない。しかも、この女の子のしゃべり方がまた、天然ボケのポヤーンとしたも

のだから、ますます場内のマヌケなオーラに拍車がかかっていったのだった。終演後の場

内アンケートで、よかった役者に圧倒的に「くま」が選ばれたことは、ある意味当然の帰

結であった。

 このように、本公演はわざわざ登米まで見に行った甲斐のある楽しく面白い芝居であっ

たのだが、敢えて不満な点を挙げるなら、自殺を志願する登場人物の内面の書き込みが弱

く、彼女が自殺したい気持ちに観客がシンクロできなかったことだろう。実は、主人公の

女優が自殺するかどうかを賭けしていた2人は、共にこの病院で自殺(及び自殺未遂)を

した幽霊(生き霊)だったというオチが最後につくのだが、女医は恋人の死が理由である

のに対し、若者はごく普通のサラリーマンだったのだが、いわゆる生きるのが不器用なタ

イプで、日々に対する漠然とした不安から自殺を敢行(結果、未遂だったが意識不明とな

り十年以上この病院に入院中)したのであった。だとするならば、この3人の中でいちば

ん観客がシンクロしやすいのは誰か?女優・女医は自殺志願の理由が視力・恋人の喪失

と、それぞれ明確である。しかし、私達の現実には、そうそうドラマティックな喪失とい

う出来事はしょっちゅう起こるものではない。むしろ、平凡に続く毎日に閉塞感を感じ、

鬱に落ち込んだりすることの方が、現実を生きる我々にはリアルなことではないだろう

か?その意味では、本作では理由のはっきりしない若者の方こそが、むしろ観客の心情に

シンクロするリアルさを内面に持ち得たキャラクターだと思うのだ。だからこそ、彼が脇

役という設定のため内面描写が最小限に限られていたことが、どうにも私には勿体ないこ

とのように思えたのであった。

 そうはいっても、それら不満を割り引いて余りある面白さを本作が提供してくれたのは、

上に述べたとおりである。ミモザ・ポトフ・華臨党と、これら仙台市以外で頑張ってる劇

団を仙台のお客さんに紹介する機会がなんとかできないものだろうか?と思わずにはいら

れない。仙台演劇祭は仙台市主催だから難しいだろうが、例えば衝撃祭でこれら3劇団を

招聘することはできないものだろうか?そんな思いを胸に抱きつつ、会場を後にしたので

あった。

[2000年9月24日 22時23分53秒]

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劇団ポトフ「夢いかだ」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 去年の「TOM」から約1年ぶりにポトフの芝居を見たのだが、昨年と比べてストーリ

ーづくりがより緻密になっており、約1時間20分の公演時間を最後まで飽きさせない作

りになっていたことに、非常に感心させられたのであった。

 物語は、主人公・加代が生まれ故郷の離島に12年ぶりに帰ってくるところから始まる。

加代は学生時代からの夢だったカメラマンになれたのであるが、最近スランプ気味で、島

にすんでいた頃の写真の師匠である敦にアドバイスを受けようと思って帰郷したのであっ

た。しかし、肝心の敦はカメラをやめていた。その理由を敦は語りたがらないのだが、実

は彼らの共通の幼なじみである浩之の海難事故(10年前、いかだに乗っていて高波に呑

まれて亡くなった)と関係があるらしい。田舎の離島のため、登場人物のほとんどが幼な

じみであり、この2人に限らず、この事故は登場人物達(事故で死んだ浩之の妹・麻衣と

その彼氏・一矢。やはり加代・浩之との幼なじみである隆。そして事故の現場に居合わせ

たが、当時5歳だったため、詳しい記憶が曖昧になっている美和。)それぞれの心に影を

落としていたものであったが、敦が真相を語らないため、お互いそれを胸の中にしまい込

んでそのままにしていたのであった。だが、加代が帰郷し、敦が写真をやめた事実を知り

ショックを受けているのを見た彼らは、10年ぶりに、蓋をした過去の記憶に決着をつけ

るため、敦に事故の真相を語ることを迫る・・・。

 BGMは静かなユーミンの曲をカラオケでたまに淡々と流す程度。暗転も必要最小限し

か使わないところは、平田オリザの「青年団」の芝居を連想させる。そして、一見淡々と

しながらも、登場人物が常に2〜3人舞台上に交代で登場し、モノローグではなく対話に

よる短いエピソードを集積することによって、それぞれの内面やストーリーの中の謎を少

しずつ明らかにしていく脚本の手際の見事さは、よくある「青年団」の外っつらだけをマ

ネして、結果ダラダラした芝居となって失敗している、「静かな演劇マネっこ劇団」と違

い、平田的手法を自分自身のものとして作者が消化していることを意味する。去年「TO

M」を見た時は、まだまだ稚拙なところがありながらも、一生懸命頑張っているさわやか

さに感動したものであったが、1年の間に脚本・演出の吉田氏が、これだけストーリーづ

くりに長けるようになったことには、正直舌を巻く思いがした。私は見なかったのだが、

今年の2月にやはり「静かな演劇」系と呼ばれている、宮沢章夫氏の「14歳の国」をユ

ニット公演したことが、作者や劇団にいい財産として残ったということなのかもしれない。

 さて、私がこの作品で最も感動したところはどこかというと、それはこの物語の幼なじ

みの登場人物達が、浩之の海難事故というトラウマを共通に持ちながらも、お互いを許し

あっているという、「優しさ」の共同体を構築しているところなのだ。普通、この離島に

象徴されるような「田舎」では、人間関係が「濃い」ところから、この手の事故が起こっ

たとしたら、敦のような立場の人間は、後ろ指を指されることによって、その土地にいた

たまれなくなる可能性が高いだろう。しかし、事故で最もショックを受けたであろう浩之

の妹・麻衣ですら、事故の当事者なんだろうと、うすうす感じている相手・敦を恨むこと

なく、むしろ落ち込んでいた時に優しくしてくれた敦に対して感謝の感情すら持っている

のである。こういう「傷をもつもの同士の優しい共同体」は、現実には存在しないユート

ピアかもしれない。しかし、この物語が感動的なのは、私をはじめとする観客にとって、

この殺伐とした現実社会で、最も切実に欲しいと願ってやまないものが、まさにこの吉田

氏が描くところの「優しい共同体」だからだと思うのだ。

 ラストに、実は浩之の事故は、10年前にやはり加代が写真について悩んでいた時に、

それを知った浩之が、加代を元気づけるために自分の夢であるいかだに乗って太平洋を横

断しようとするところを、敦に写真にとってもらおうとしたためにおこったものだったこ

とが、敦の口から明らかにされる。再び写真をやめようかと思っていた加代は、浩之の遺

志をくみ取り、みたびカメラマンを続けることを決意するところで、物語は感動的に終わ

るのであった。

 役者では、浩之の妹・麻衣役の三浦牧子さんが、特によかった。彼女は去年の「TOM」

では、主人公のTOMにネズミの取り方を教えたりするミハエルという猫の役で出演して

おり、「飯島直子に似ていて、かわいい」と佐々木久善さんと話題にしていた女の子であ

る。今回は、ただかわいいだけではなく、日頃は元気で明るいように見えるのだが、実は

兄が死んだことによって心に傷を持っているところが翳りとなっている、という複雑な役

どころを見事、上手に演じていた。おーみ氏流に言えば(笑)、「アイドル」から「女優」

へと成長しつつある注目株、といえるだろう。 逆に今回残念だったのは、「TOM」で

主役を演じていた高橋美沙子さんが、今回キャストから外れていたことだ。「多賀城の田

中麗奈」のお姿に、ぜひ次回公演ではお目にかかりたいものである。吉田さん、一つよろ

しくお願いします!

 

 

[2000年9月23日 21時3分48秒]

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劇団CUEプロデュース ピンズライブ「Dilemmer」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 劇団CUEの公演は、ピンズのライブを含めて今まで見たことがなかった(主宰の森氏

が顧問をしていた高校のコンクール作は1回だけ見たことがあるのだが・・・)。なぜか

というと、CUEの場合、今回のように1回のみの公演というケースが多く、私自身のス

ケジュールと合わないことや、チラシでの宣伝がないため、チラシによる情報収集をする

ことの多い私にとっては、気がついたときは終わっていた、というパターンが続いていた

ためだ。それで、「縁がないのかなあ」と思っていたのだが、今回初めて公演を見ること

ができ、そのあまりの面白さに「もっと早くから見ておけばよかった」と、ただただ後悔

することしきりなのであった。

 私は当欄で、自分の中の空虚感を埋めるものを見たいということをよく書いているのだ

が、これは「お笑い」の面白さにも当てはまることだろう。どういうことかというと、ベ

ルグソンだったかバタイユだったか忘れたんだけど、「笑い」というのは落差である、と

いう文章を読んで、「なるほど!」と思ったことがあるからだ。つまり、今までの自分の

経験にないものを見聞きすることによる衝撃が、強い濃度・刺激となってみるものに作用

することが「笑い」である、ということがそこには書いてあったんだけれども(確かにこ

の考え方からすれば、なぜマンネリなものがつまらないか、という理由も明らかになって

くる。つまり、マンネリなものは経験値として観客の中に既に存在しているため、落差が

小さくなってしまうのだ)、その伝でいうと、今回のピンズのネタは、見ているこちらが

どういう方向へ行くか予想がつかなかった、ということが、面白かった最大の要因ではな

いかと思うのだ。これはなかなか大変なことである。なぜなら、TVという全国レベルの

自然淘汰を勝ち抜いてきた「笑い」を、観客は既に経験値として持っているのだから。そ

の点、「演劇」の場合は、生で見たときの感覚が、なかなかTV・ビデオでは伝わらない

部分が多いジャンルであるという意味で(それがTVで劇場中継がなかなかなされない理

由なのだろうが)、「笑い」よりは若干優位な状況にいるとはいえそうだ。

 面白かった理由の1つが、ネタの新鮮さだったとすると、2つ目の理由として考えられ

るのは、タイミングの良さであろう。以前、「ゲキテキ」の劇評でギャグのタイミングが

遅い、という苦言を私は書いたのだが、誰かがボケた時の、ツッコミの出し方のテンポの

速さが、まさに「ゲキテキ」と対照的であったのだ。「ゲキテキ」の役者さんには、こと

ギャグに関しては、ピンズさんから学ぶことが多いと思うので、一度観劇されることをお

勧めしたい。さらにいうなら、その速いところが、ただ闇雲に速いという、悪いときのサ

イマルのようになっていなかったところにもまた、強く感心せずにはいられなかった。彼

らはきっとこの公演のために、練習量をみっちりと重ねてきたのだろう。それがきちんと

実になっていたのである。

 ところで、一つだけ残念だなあと思ったのは、今回のライブは主要出演者は全員男性だ

ったことだ。女性は出ていたが、本当にチョイ役というかたちで、メインのコントで役を

あてがわれるというものではなかった。「それはアンタがアイドル評倶楽部だからでしょ

う!」、と読者にはつっこまれるかもしれない。もちろん、それも理由の1つであること

は認めざるを得ないが(苦笑)、まじめな話として、コントのシチュエーションの幅を広

げるには、女性もいた方が、よりいろんなケースが作れるというのは事実だろう。せっか

く、CUEには女性の役者さんも何人かいるのだから、次回は誰かメインで絡んでくる人

が登場することを、強く期待したい。 

 それから、公演が終わった後、キャスト紹介がなくあっさり終わってしまったのは、ち

ょっと淋しかった。これはよくある演劇公演とは一線を画したライブなんだよ、だからキ

ャスト紹介もしないんだよ、という意志表示であえてそうしたのかもしれないが、観客に

名前を覚えてもらうことによって、個々の役者に親近感を持ってもらい、結果としてファ

ンを増やすという戦略的なことを考えるなら、やはりキャスト紹介はした方がいいのでは

ないだろうか?私としてはエンディングで、突然ヴォーカルで出てきた不思議系の女の子

が気になって仕方がなかったもので(シリアスな歌なのかなあ、と思わせつつ、突然音を

激しく外すところがおかしくておかしくて。プログラムに名前の載っていた「ダイアモン

ドダスト」のボーカルの方なのだろうか?)。

 

[2000年9月10日 22時53分42秒]

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新月列車仙商祭公演「誰か−STRANGER−」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいてい、

「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさらに・・

・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係性とか自

分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女だと女子の

方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因がある、とい

う意見である。私も漫画は好きだが、なにぶん作品が膨大でどこから手をつけたらわから

ない、ということもあり、最近はあまり読んでいない。しかし、昨年の演劇祭で「一跡二

跳」が演じた「夏の世の貘」(大島弓子原作)や、今年の富谷高演劇部が公演した「半神」

(萩尾望都原作)といった、少女漫画原作の演劇作品を見るにつけ、そのテーマの深さに

上記の意見に同意せざるを得ないものを感じさせられてきた。そこへもってきて、新月列

車が少女漫画を原作にした新作をするという。去年の演劇祭での「地上まで200m」以

来、心をテーマにしたヒット作を連発している、あの新月である。しかも、原作者の那州

雪絵という人を私は不勉強にも今まで知らなかったのだが、何しろ少女漫画の中でも特に

お耽美系として定評のある、あの白泉・「花ゆめ」連載の作品である。これは面白くなら

ないはずはないだろう、と期待を胸に仙商に足を運んできた。

 舞台は、とある大学の演劇部部室。深夜に熱い練習をしていたところ、突然の雷雨によ

る停電が発生する。ようやく電気が復旧すると、そこにはさっきまで3人しかいなかった

部員が4人に増えているではないか!実はこの学校では以前に自殺者が出ており、その幽

霊が部員に化けているらしいのだ。しかし、幽霊の記憶操作によって(そういう力が、な

ぜかこの幽霊にはあるのだ)4人は4人ともが昔からいた部員だという錯覚に陥っている

ため、誰が幽霊かわからない。しかも、停電の影響か入り口のドアが中から開かなくなっ

ているため、4人は幽霊かもしれない1人を加えたまま、一夜を共に明かす羽目に陥る・

・・。

 明日も公演があるので、4人のうち誰が本当の幽霊であったかというタネをここで明か

すことはしないが、要はこの作品は個人のアイデンティティをテーマとしているのである。

4人は、幽霊が誰かを突き止めようと、「お前は本当に昔からいた人間なのか?」と、互

いの過去や記憶を問いつめあっていく。そうすると、今まで自明だと思っていたアイデン

ティティが、「本当に自分は自分なのか?」という疑問によって、がらがらと崩れていく。

私は「演劇談話室」での川島・劇評倶楽部会長との論争で、氏の「一般常識(=自明)」

という言葉に対し、一般常識と思って思考停止してしまうのではなく、実は自明だと思っ

ていたものも突き詰めて考えると自明ではないこともある。それを探っていくのが批評を

含めた表現のなすべきことの一つではないか?という反論を書いたのだが(文章は違うが、

そういう意味を込めて書いた)、本作は、まさにそのテーマを「自分」というものにまで

当てはめて描いた作品なのである。 

 しかし、だからといって内容が堅苦しい作品になっていないところが、本作の見事なと

ころだ。ここのところ、私はストレートにテーマを出しすぎる作品に対して、「演劇は物

語であって、論説ではない」という批判を書いてきたのだが、本作は「誰が幽霊なのか?」

を巡って登場人物全員が大騒ぎするというドタバタが、ストーリーのテンポをよくし観客

を笑わせつつ最後まで飽きさせない効果となっていた。つまり、物語としての面白さを前

面に出し、テーマは行間から匂わすという、まさに、論説ではない「演劇」となっていた

のである。やはり、これは原作者が少女漫画という、自然淘汰の厳しい環境で作品を発表

していることに理由があるのではないだろうか?自明と思っているものが、実は自明では

ないことがある、という意見を私は上に書いたが、ここ数週間の各劇団の作品を見て思う

のは、一流の作家と一般常識ではなっているらしい、つか・こうへいや高橋いさをなどよ

りも、演劇界では無名である(少女漫画ファンにとっては有名なのかもしれないが)那州

雪絵の方が、よっぽど優れた作品を書く力量があるのではないか、ということである(だ

って、つか・こうへいってあまりにもストレートにテーマを出しすぎるんだもの)。野田

秀樹が少女漫画に着目し、「半神」を演劇化した理由が、少女漫画の持つ作品の内容の高

さの割に、少女漫画ファン以外にはあまり知られていないことを惜しむ気持ちが理由だと

するならば、斉藤可南子も同じ意味で有能な「目利き」と高く評価せざるを得ないだろう。

 個々の役者に目を移すと、昨年「地上まで200m」でハルカ役を演じた、遠藤名津子

さんが、やはり素晴らしかった。「地上まで〜」のハルカ役は、「頭が足りない」が、他

の登場人物を癒す「絶対承認」の供給者だったのに対し、今回のチヅルという役はいわゆ

るフツーの大学生である。しかし、彼氏に対し優しい表情を浮かべたりするシーンで見せ

る微笑みは「誰が幽霊かわからない」と不安になっている彼氏役のみならず、見ている観

客をもホッと一息つかせる、心を和ませる笑顔なのであった。「癒し系アイドル」という

言葉が一時はやったが、遠藤名津子さんこそ、まさに仙台演劇界の「癒し系」NO1とい

えるだろう。その理由は、上にも述べたとおり、彼女の微笑が見ているものに「絶対承認」

を感じさせずに入られない、暖かみのあるものだからなのだ。

 また、今回斉藤可南子さん本人も役者として登場していたが、彼女はこういう極限状況

で、ハイテンションになっている人間の役をやらせると、本当にハマル人だ。よく、役者

としての幅を広げた方がいい、という意見を役者に対してしている批評を見るのだが、私

はみんながみんなゼネラリストになる必要なんてないんじゃないか、と思っている。何を

やっても似たような感じになってしまうんだけど、ツボにはまると他の小器用な役者の追

随を許さない、いわばスペシャリストの役者という存在はもっと評価されていいのではな

いだろうか。斉藤可南子は、よく見ると、いつも「斉藤可南子」な傾向が強い役者である。

しかし、精神的に「いっちゃってる」役、異様にハイテンションな役をやらせたら、彼女

を越えるものは仙台にはいないのではないか、という独特な味を、ヘンに器用になろうと

せずに極めてもらう方が、私は好ましいと思うのだ。

 ともあれ、本作は明日も公演が2回ある(11時と13時)。仙台商業は移転したため、

ものすごく地の利が悪いところになったのかと、行く前不安に思っていたが、実際は地下

鉄の泉中央駅から徒歩で十分行ける距離であった。「地上まで200m」「トランス」「彼

女の場合」を見て面白い!と思った人なら、ぜひ見に行った方がいいと思う。今回、高校

の学園祭のためか、インターネット以外の告知がなく、今日も一般のお客さんがほとんど

いなかったのが非常に残念だっただけに、ここで力説する次第である。

 

[2000年9月9日 23時26分24秒]

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えずこシアター「ひなたは、草の匂い。」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

吉川脚本は「朝生」である!

 

 俗に「面白さ」には2種類あるといわれることがある。つまり、「心で感じる面白さ」

と「頭で感じる面白さ」である。「心で〜」は、叙情的・センチメンタルな作風で、観客

のエモーショナルな部分に訴えかけてくるもの。一方の「頭で〜」は、推理したり分析し

たりする面白さ、いわゆる知的興奮と呼ばれるものである。昨年、今年とえずこシアター

で吉川由美さんの脚本作品を2年続けて拝見して思ったのは、実は彼女の作品の醍醐味は、

知的興奮の方にあるのではないか?ということなのである。

 本作「ひなたは、草の匂い。」は、田舎の退屈な日常が耐えられず、都会へ出たいとい

う女の子が主人公である。これに対し、彼女の両親やおじいちゃんは、田舎の自然のすば

らしさなどを強調して反対する。彼女はその反対を振り切って都会へ出ていくわけだが、

本作は、この「都会と田舎ではどちらが素晴らしいか?」という二項対立がテーマとして

最後まで進んでいくわけである。

 もちろん、本作の題名が「ひなたは、草の匂い。」であり、仙台市ではなく大河原町に

ある、えずこホールで行われる公演という性格から考えても、作者が訴えたいことが田舎

賛美であろうことは、容易に想像できる。しかし、ここで私が以前、高橋いさを氏の脚本

について批評した懸念が本作にも出てくる。つまり、テーマをストレートに出しすぎる脚

本は、物語化されていないという意味で、演劇としての面白さが出ないのではないか?そ

して、実際に吉川脚本の登場人物達のセリフは、非常にストレートなものなのである。

 しかし、吉川脚本ではこの懸念を、先に挙げた「二項対立」という形で解決しようとす

る。つまり、テーマを一方的に訴えかけたのでは、「青年の主張」になってしまう。そこ

で、テーマに対するアンチテーゼを別の登場人物にしゃべらせることで、舞台上に議論を

起こさせ、結果、一方的な意見を作家が観客に押しつけるというイメージを低減しようと

狙っているのである。その結果、舞台上では役者達が賛否両論を延々と議論しあう場面が

続出し、まるで「朝まで生テレビ」を見ているような錯覚に観客はおそわれるのである。

 しかし、それではやはり「演劇」とはいえないのではないか?という疑問を抱く人もい

るだろう。もちろん、「起承転結がきちんと存在し・・・」とか、「ストーリーの中にド

ラマ性があり・・・」といった、狭義の意味での演劇を愛する人にとっては、本作は「演

劇」ではないかもしれない。だが、こう考えてはどうだろう。私が演劇を見るのは、以前

別の劇評でも書いたが、心の中に存在する空虚感を埋めんがため、という理由が大きい。

その「空虚感を埋める」という目的に合致するだけの濃度を持った「なにか」を見る、と

いう意味であれば、それが必ずしも「狭義の意味での演劇」である必要は必ずしもないの

である。TVで「朝生」を見ることによって、「夜中に退屈で仕方がない」という屈託が

埋められるのであれば、「朝生のような演劇」を見ることによって知的興奮を味わう、と

いうこともまた、退屈さを埋めるテンションを確保する、という意味では成功なのである。

 ところで、皮肉なことではあるが、吉川脚本はこのアンチテーゼを出すことによって、

本来訴えたいテーマが相対化され、説得力がなくなってしまうというジレンマを抱えてい

る。昨年の「場所」でいえば、「自由に生きることができないのなら、会社という組織な

どに属さない方がいい!」という自由の素晴らしさをテーマにしながら、実際には主人公

は会社を解雇されてしまい、明日の食い扶持に困ってしまう。今年の「ひなたは〜」でい

えば、本当は田舎の素晴らしさを全面的にアピールできる終わり方に持っていければいい

のだろうが、退屈な日常を克服できるだけの面白いものを持っている都会という現実に対

し、「ひなた」という自然では説得力がどうしても弱く、ラストシーンでは主人公は帰省

こそしているものの、「やっぱり田舎の方がいい!」と、都会を捨てて帰ってきたという

ドラマティックなシーンにすることは出来ずじまいなのである。おそらく、それをやって

しまうと、あまりにも嘘臭くなる、という懸念が作者にあったのではないだろうか。テー

マをストレートに持っていきたいが、アンチテーゼの反論が説得力あるもののため、大団

円を作れないジレンマ。しかし、脳天気な「青年の主張」を訴えるよりは、作者にまだ「現

実の社会は複雑なのに、脳天気にテーマを押しつけるだけでは、説得力がなくなるのでは

ないか?」という問題意識が存在するだけ、私は作者に好感を持つし、昨年の「場所」よ

りは一歩進歩していると思うのだ(「場所」は、解雇されても言いたいことを言った主人

公を賛美するようなラストシーンとなっており、それが鼻につく感があった)。

 ジレンマという意味では、汚いなりをしてはいるが心は美しいホームレス達と、きれい

な格好をしているが心の中にむなしさを抱えている主人公のバンド仲間達を、対比的に取

り上げているシーンがあったのだが、ビジュアル的なリアリティを追求していくと、ホー

ムレス達より、バンド練習をしている若者達の方が、どうしても美しく見えてしまうとこ

ろも、皮肉ではあるが、その皮肉なところが屈折した観客たる私には面白かった(そもそ

もホームレス達が皆きれいな心を持っているだろう、という発想は、おそらく見かけだけ

で人を判断してはいけない、というメッセージから出たものだろうが、どんな職種の人に

も性格のいい人と悪い人がいるように、ホームレスだからみんな心がきれいだろうという

発想自体がステレオタイプで一方的なものなのである)。特にキックボードに乗って、楽

しげに舞台を駆け回っていたバンド仲間の女の子がとてもかわいく、アイドル評倶楽部と

しては、特に推薦マークをつけさせていただきたい。さらに言わせてもらえば、えずこシ

アターでは、2月に若手のみの部分公演をしたそうだが、もし、あのバンドの若者達を演

じた役者の方々が中心で出てくる芝居であれば、ぜひ来年の2月にもやってほしい!と願

わずにはいられなかった。だって、彼ら、ホントにかっこよく、また、かわいかったんだ

もん!

 

[2000年9月3日 20時58分21秒]

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きいろいもくば「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 物語と論文との最大の違いは何か?受け手である観客や読者に対し、あるテーマなりメ

ッセージなりを作り手側が伝えようとしてそれらの手段を用いる、という意味では両者に

は共通性がある。問題は、このメッセージ等を伝える際の手段にある。

 論文・論説・評論などというものは、原則的にそのメッセージをストレートに受け手側

に伝えるために用いる手段である。それに対し、小説や戯曲といった物語という手段は、

ストーリーやドラマ、あるいはギャグといったものを介在し、観客にエンタテイメント性、

あるいは叙情性という装飾を用いながら、その陰にテーマを隠し味風に忍び込ませ、観客

にそれら「芸」を楽しませつつも、知らず知らずのうちに、そのテーマに共感させようと

するものだろう。だから、逆にいえばテーマやメッセージがあまりにストレートに出てい

る芝居というものは、「わかりやすい」かもしれないが、「芸がない」ともいえ、また、「青

年の主張」や「立会演説会」とどこが違うんだ?という疑問を抱かずに入られないものと

もいえる。実は、私が高橋いさを氏の脚本に対して常々抱いてしまう違和感というのも、

氏の脚本におけるメッセージ性のあまりにもストレートなところなのだ。

 今回上演された「ある日、僕らは夢の中に出会う」は、少女誘拐犯と彼らを担当した刑

事たちとの間に生ずる犯罪ドラマである。主人公の女性新米刑事は、TVの刑事ドラマの

大ファンであるのだが、現場の先輩刑事達の行動は、彼女のTVから得ていた知識をこと

ごとく裏切るものである。これをコメディーとしての部分を強調していけば面白い作品に

なるのかもしれないが、高橋氏の脚本は、むしろ「ドラマと現実とが同じと考えるのは、

ドラマのお約束ごとに毒されている証拠だ。」というメッセージを強調するセリフがやた

らと頻出するのだ。そのため会場の空間が、エンタテイメント的面白さよりも理屈っぽさ

で充満されてしまい、「言いたいことはわかりすぎるほどわかるが、自分は芝居を見にこ

の会場に足を運んだのはなかったのか?これは芝居と言うよりも、むしろ演説ではないの

か?」という疑問を観客に抱かせてしまうものとなってしまう。

 だから高橋氏の作品は劇評いらずとも言える。あるお芝居を見て感動した観客が、「自

分は感動したんだけど、なぜ感動したのかが、今ひとつモヤモヤしてわからないなあ。」

と感じていたとする。その時、「この作品のテーマというのは、実はこれこれこういうも

のなんだよ。」という劇評を読むことによって、「ああ、なるほど。」と、作品に対する認

識がより深まっていく、という過程が全く不要になってしまうわけだ。私のような劇評を

書くことを楽しみとしている人間にとっては、全くやりがいのない作品といえるが(笑)、

そもそもやりがい以前に、そんなストレートすぎる作品とは、果たして物語等、「芸」と

いう手段を本来用いるべき「演劇」といえるのだろうか?(ここで、本論から多少脱線す

るが、不条理演劇は必ずしも「物語」を必要としない、という反論を述べる方がいるかも

しれない。しかし、「物語」を用いずとも、不条理には不条理なりの「芸」が存在してい

るはずだろう)

 もちろん、脚本に多少問題性があったとしても、その問題性を補うコーティングをする

演出法というものはあるはずだ。ベートーベンの同じ交響曲を違う指揮者が指揮すると、

全く違う解釈でオーケストラが演奏するように。つまり、楽譜とは記号であり、その記号

をそれぞれ独自に解釈するのが指揮者の仕事であるとすれば、演劇における演出家の仕事

とは、指揮者が楽譜を解釈するように、自分の流儀で脚本を解釈することだろう。しかし、

残念なことに本公演の演出家は、むしろ本作のストレートな部分をより強調することが、

観客に対して本作のメッセージをわかりやすく伝えるという意味で、よりよいことである、

という考えを持っていたように見えた。なぜなら、役者が作者の主張をストレートに代弁

するようなシーンでの役者のセリフ回しが非常に強調され、逆にギャグとしての面白さが

出る部分でのテンポが今ひとつノリが悪かったように、客席の私には感じられたからだ。

これは全く仮定の話なのだが、「きいろいもくば」は高橋いさを作品をこれまでも好んで

よく取り上げてきたのだが、実はそれは「高橋脚本は内容がわかりやすいから」という理

由からなのではないだろうか?だとするならば、当人達が意識しないでいても、知らず知

らずのうちに、ストレートにメッセージを発する部分を強調する演出・役作りをしてしま

う、ということは充分あり得そうな話である。

 少々厳しいことを今回は書いてしまったので、最後にお約束の、本日のよかった女優さ

んについて。新米刑事のストウ役・菅原千寿さんが面白かった。彼女はドラマで見た刑事

と目の前にいる現実の刑事との違いに、先輩達が冗談をしていると思いこんでよく笑うの

だが、その笑い方が「ハハハハハ」と、本当に笑っているというより、むしろセリフを棒

読みするような笑い方をするのだ。もちろん、これは下手だからそういう笑い方をするの

ではなく、芝居の中で「現実」と呼ばれているものも、また芝居という虚構なのであるこ

とを遠回しに表現するために、わざとウソっぽい笑い方をしたのであろう。ここで私が彼

女を高く評価したいのは、つまり、メッセージをストレートに観客にわからせてしまうの

ではなく、「なんでこんな棒読みのような笑い方をするんだ?待てよ、これはわざとやっ

てるんじゃないのか?」というように、観客側に、ふと立ち止まって考えさせる演技をす

ることが、むしろ高橋作品のような「わかりやすすぎる」脚本には望ましいと思われるか

らなのだ。この人、ドラマが緊迫した場面でも、なぜかのほほんと微笑を浮かべているこ

とが多かった。これも、「今ここでおこっていることは芝居という虚構なんだよん」と、

芝居に対して醒めた視点を持つ、という高橋氏のメッセージを、暗喩的に示しているとい

う効果があったと思うのだが、それを意図してやっていたととらえるのは、さすがに深読

みのしすぎだろうか?

 

[2000年8月20日 20時1分36秒]

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劇団猫原体「Analog Note」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

本作について、その後猫原体さんの掲示板で、CUEの森さん、また作者のいしどおさ

ん本人が御感想を書き込まれておられました。詳しくは猫原体さんのホームページを御覧

いただきたいのですが、お2人のご意見を拝読すると、非常に興味深い指摘がなされてお

り、今回の作品について、より理解を深めることができました。そこで、本作について改

めて補足を書いておこうという考えに至り、ペンを執ることとしました。

 まず、森さんは、本作のクライマックスを、サトミが電話を切るシーンであると考え、

そこへ向けて物語が集約していない、と批判されています。これについては、もし物語の

主役がサトミであるならば、森さんの指摘は正しいものといえましょう。

 ところが、一方で作者のいしどおさんは、「だって主人公の名前が知らない人だもん!」

と書き込まれています。これはどういうことかというと、TVから出てきた少女・ミイの

名前を、猫原体さんの公演ではカレンに変えていることを示唆しているんですね。つまり、

作者としてはこの物語の主役はサトミではなく、ミイ(カレン)である、と述べておられ

るわけです。ここで問題となってくるのは、もし森さんの言うようにサトミが主役であれ

ば、「依存していた架空の関係の清算=電話を切る」行為が、物語のクライマックスにな

るだろうが、ミイが主役となると、「感情というものを知らなかった少女が、最後には幸

せというものの意味まで理解するようになる」というミイのストーリーが本筋となるため、

クライマックスの場所が森さんの指摘する場面とは必ずしも言えなくなってくるのではな

いか、という疑問が生じてくるわけです。

 この謎を解く鍵は、猫原体さんが台本を描き直しされている、という点にあると思いま

す。実は公演終了後、改めて本作の台本が読みたくなり、インターネットのシナリオガレ

ージから、本作の台本をダウンロードして再読したのですが、実は猫原体さんの公演では、

サトミがミイ(カレン)をTVの中に押し戻してしまうシーンとなっているところが、脚

本では、ミイが再びアナログ・ノートを開くことによって、登場人物達が危機を脱する結

末となっているのです。

 つまり、猫原体版で考えると、サトミはアナログ・ノートを頼らなかった=他人に頼ら

ず自力でピンチを脱しようと決意した、という解釈が成り立ち、結果として森さんの言う

ようにサトミ=主役となり、電話を切るシーンも自力で生きていくことを象徴的に示すシ

ーンとしてクライマックスにふさわしいものになる、と思われます。しかし、原作版で考

えると、ミイが主役なのだから、感情を知らなかったミイがアナログ・ノートを使うとい

う自己犠牲を呈してまで他者を救うシーンこそがクライマックスにふさわしい、という考

えが成り立ってきます。

 つまり、演出さんには厳しい言い方になってしまいますが、台本を書き換えたことによ

って主役が誰であるかが不明朗になったことが、結果として森さんのようにサトミが主役

=電話を切るシーンがクライマックスだろう、という誤解を生じさせる原因となってしま

ったように思うのです。

 では、なぜ演出さんはこのような脚本の書き換えをなさったのか?たぶん、ミイがアナ

ログ・ノートを使うことによって「願いが叶う」という結論が、やや御都合主義に過ぎる、

と感じられてしまったからではないでしょうか?しかし、これはファンタジーであり、一

種の寓話なのです。御都合主義というなら、そもそもミイがTVの中から出てくるという

設定自体が非現実なものなのです。だから、物語のテーマについて誤解が生じる危険性を

考慮するなら、御都合主義というリスクをおかしても、原作のクライマックスを適用した

方がよかったのではないか?というのが、原作を改めて読んでの私の結論となるのです。

  [2000年8月26日 0時8分21秒]

お名前: ひの@猫原体    URL

太田さま

事前の書き込み通り「セツナイ」話になっていたようで、私としては安心しています。

2回・3回公演の話は今回も出たのですが、団員の休みが合わないことで断念しました。

次回こそ、複数回の上演を目指したいと思っています。

ありがとうございました。

  [2000年8月21日 1時9分24秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

以前、「演劇談話室」のコーナーで「仙台の演劇では泣けるか?」という議論がおこっ

たことがあった。仙台の演劇をこよなく愛する私は、当然「泣ける」の側に立った意見を

展開したのだが、そうはいっても、やはり本当に泣ける芝居というのは、年間そう何本も

あるものではない。なぜなら、泣ける芝居にするには、まず脚本が泣けるものでなければ

いけないし、それを演出・役者が正確に脚本の泣ける部分を伝えなければいけないからだ。

 私は、以前「的を外す楽しさ」と題し、劇団が伝えたいメッセージをあえて正確に受け

取らなくても、面白いと思う部分を発見できるのなら、あえて的を外す見方を観客がして

もかまわない、という論を展開したことがあった。しかし、実をいうと、これは芝居を笑

うために見る時には通用するが、芝居を見て泣きたい時には通用しない方法論なのである。

なぜかを説明するとものすごく長くなるので敢えて一言で言うなら、「失笑」という言葉

は辞書に存在するが、「失泣」という言葉は現実にどこにも存在しないという事実が、そ

れを如実に示している、とはいえないだろうか。

 前置きが長くなった。要するに、私はこれから取り上げる、猫原体の「Analog Note」

を今回見て、不覚にも泣いてしまったのである。そして、本作の脚本はオリジナルではな

く、既成のものではあるが、私が泣いたのは、単に脚本がよかったからだけではなく、こ

の劇団の役者さんたちが、その泣ける部分を正確に伝達する力量を持っている、というこ

とが言いたくて、上のような長い前置きを書いてしまったのである。

 舞台は、情報化社会が極限まで進んだ現在の日本。しかし、そこは同時に、「電波」を

基にした新種の生命体が誕生している、というSF的な世界でもある。彼らは人間よりも

高度な知能を持っているが、人間の持つ「おいしい」「楽しい」「悲しい」「幸せ」といっ

た感情を有していない。ある日、好奇心の強いNo552が、文献に書いてあるクッキー

を現実に食べてみたい、と「彼らの世界」から人間の世界へとやってくる。そこは、売れ

ない芸術家の卵たち3人組のたまり場で、突然TVの中から飛び出してきた552を見て、

最初はひどく驚き訝しむが、彼女の性格がとてもピュアなことに気づき、仲間として迎え

入れるようになる。

 私は、この知能は高度に発達しているが、人間的感情を持ち合わせていない、という「未

来人」(?)の設定は、現実を生きる私達自身のメタファーではないかと思う。彼女たち

は、「幸せ」というものが、どういうものかわからない、という。では、私達ははたして

どうなのか?辞書的な意味では、「幸せ」というものを知っているかもしれないが、現実

的な意味で「幸せ」というものを実感しているだろうか?

 去年の高校演劇コンクールでの、仙台高校演劇部の作品「今夜の君は素敵だよ」の主人

公の少女も、感情というものを知らない人間だった。彼女の場合は、チョコレート工場に

幽閉され、他者との接触を断たれた状態にいたために、感情というものを知らないままに

生きてきた、という設定だった。552が感情というものを知らないのも、他人との関係

性が存在していない環境にいたからだろう(周りに同族はいるが、彼らもまた感情という

ものを知らない存在なのだから)。そんな中、チョコレート工場の少女は、工場が使わし

た同年代の少年との交流によって、また、552は、芸術家の卵達という「仲間」との出

会いと交流によって、感情、そして「幸せ」というものを覚えていく。つまり、これらの

物語の共通点は、「幸せ」というものは、「自分を承認してくれる他者」との関係性によ

って生まれてくるものだよ、というテーマを、「感情を知らない少女」という象徴的存在

を主人公にすることによって示そうとしている、というところにあるのだ(ちなみに、こ

の「自分を承認してくれる他者」=「幸せの条件」というテーマは、去年の演劇祭におけ

る新月列車の「地上まで200m・Xside」にも共通する内容だったりもする)。

 個々の役者さんについても述べていきたい。まず、なんといってもサトミ役の佐藤裕美

さんが素晴らしかった。実は私は、彼女の感情のこもりきった演技で泣いたのである。サ

トミはカレン(人間社会に来た552についた名前)にある時、「幸せとはどういうもの

か教えて」と尋ねられ、「幸せは、おいしいとか楽しいと違い、人から教えられる感情で

はない。しかし、今のあなたは充分幸せそうだ。」と答えるシーンがあるのだが、その時

のセリフ回しが、本当に見ているこちら側の涙腺のツボを、これでもかー!、と押すよう

な、心のこもった演技だったのである。人によっては、彼女の演技を、「クサい」と批判

する人もいるかもしれないが、観客の涙腺を刺激するには、彼女くらいでちょうどいい、

と私は思うのだ。実はサトミという女性も、遠距離恋愛の彼氏と受話器を置かない電話で

つながっている、と本人は言っているが、実はその電話はずっと話し中のままになってい

る、という境遇にいる人間である。つまり、彼女自身も「幸せ」を実感するために、承認

してくれる人間関係を求めている(しかし、その関係性は、実は架空のものである)人物

なのである。それだけに、「幸せ」についてカレンに語るサトミの言葉は、サトミ自身の

境遇がダブルミーニングとなっているだけに、見ていて痛ましく、涙が出てくるのだ。

 そして、552(カレン)役の福地春奈さん。ここんとこ、マジメな劇評を書くことが

多かったが、久しぶりにアイドル評倶楽部らしいことを言ってみよう。彼女、ホントにカ

ワイイんですよ!まさに、アイドルの名にふさわしい感じ。大きくつぶらな瞳に、かわい

らしく立った耳が、芸能人で似たような人がいたなあ、と思いながら見ていたのだが、そ

う、佐藤藍子にそっくり、この人。

 もちろん、ただカワイイだけではなく、重要な役柄を壊さないだけの演技力だって身に

ついていた。最初に他の仲間と一緒に人類の歴史を研究している場面では、人間より高度

な知能を持っているらしい大人っぽい雰囲気を出していたので、「この場面はこれでいい

かもしれないけど、後半は感情というものを知らない、無垢な少女という役柄になるのだ

から、このままでは大人っぽすぎないかなあ。」と、少々心配しながら見ていたのだが、

人間世界に来てからの場面では、少女らしい雰囲気に、ちゃんと役作りを変えてるのね!

そんなの役者なんだから当たり前じゃないか、と思う人もいるかもしれないけれど、場面

によって細かく役作りしなくちゃいけないのに、最初から最後まで無自覚に同じキャラク

ターで通しちゃう役者さんって、意外と多いのだ。そういう一見当たり前のように見えて、

なかなかできないことがキチンとできていた彼女にも、強く拍手を送りたい。

 一つだけ残念だったのは、103(もう一人の新しい生命体)役の高橋和也さんのセリ

フ回しが、他の役者さんが感情のこもった演技をしている中、一人だけ棒読みのしゃべり

方をしていたことだ。これは、彼だけが感情を知らない生命体ということを示すために、

あえて意図的にしたことかもしれないが、他の役者との絡みの部分で、棒にしゃべること

は効果的かもしれないが、モノローグで物語のキーワードとも言える重要なことをしゃべ

るシーンで、まるで森首相が国会答弁で原稿を棒読みしているようなしゃべり方をしてい

たのだけは、なんとかしてほしかった。感情たっぷりにしてはいけない役柄である、とい

うことは理解できるが、しゃべっているセリフが、「神に選ばれし生命体は我々・・・」

とかいった内容のものなのだから、少々感情を込めた語り口であっても、特に違和感はな

かったと思うのだ。

 ともあれ、これから秋に向けて、高校演劇コンクールなどもあり、感動的なお芝居に巡

り会う可能性は年末までまだまだあるだろうが、現時点での私が今年見た中で、一番泣い

た芝居に本作をノミネートさせていただくとする(あくまで8月現在の暫定1位だけど

ね)。願わくば次回公演からは、今回のように1回だけといわず、2〜3回公演をしてほ

しいものだ。映画と違って、演劇は後でビデオで見られると言う可能性が非常に低いし、

生とビデオとでは差が大きく出るジャンルでもある。感動した芝居は、時間とお金さえ許

せば、その場で何回でも見ておきたいのだ。

  [2000年8月19日 22時22分44秒]

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ステージプロジェクト『ゲキテキ』第1回公演「Find-er」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

先日の朝日新聞県内版の記事によると、ステージプロジェクト『ゲキテキ』は、高校演

劇コンクールでライバル同士だった、仙台三高と富谷高校各演劇部のOB、OGが中心に

なって旗揚げした劇団だそうだ。最近の高校演劇の面白さについては、私は当欄を通じて、

今まで口が酸っぱくなるほど書いてきたが、先日の「企」といい、この「ゲキテキ」とい

い、最近の高校演劇出身者が次々と劇団を旗揚げすることは、仙台演劇界の活性化という

意味で、とても喜ばしいことだと思う。ぜひ、既存の劇団を脅かすパワーを、これから存

分に発揮してほしい。

 さて、今回の「Find−er」、写真家を目指すため、夜勤でコンビニのバイトをし

ながら、コツコツと貯金をしている主人公の若者のバイト先に、突然パジャマ姿の女の子

が現れるところからドラマは始まる。実は彼女は夢遊病患者で、夜な夜な深夜の町を徘徊

しているのだが、若者が気に入ったのか、それから少女は毎日コンビニに姿を現すように

なり、少女と若者との間に、次第次第に友情が深まっていく。

 この夢遊病の少女役を演じた、武田優美さんの演技がすばらしかった。本作では夢遊病

という設定を、病気という深刻・暗いものとしてとらえるよりも、むしろ寝ぼけたヘンな

女の子というイメージで、観客を笑いに誘おうという演出の意図があったと思うのだが、

コンビニを訪れる際の彼女の、まるでキョンシーのような独特の歩き方や、目を半開きに

しながら薄ら笑いを浮かべているおかしな表情が、なんともシュールなユーモラスさを見

るものに与えており、アッパー系のギャグを他の役者さんがだいぶ外していたのとは対照

的に、私は大いに笑わされつつ、かつ感心させられてしまったのだった。

 彼女は素に戻った時のモノローグのシーンも(若者から渡されたポラロイド写真を見つ

つ、物思いに耽る場面)、静かでセンチメンタルな感情がこもった語り口がまた素晴らし

く、ああ、また若手でいい役者さんが一人出てきたものだなあ、と見ながら嬉しく思わず

にはいられなかった。

 さて、物語は、ある日、やはり夢遊病でフラフラしているヒロインが、危うく車にひか

れそうになるところを、主人公が身をもって救うのだが、その事故の影響で主人公は記憶

を喪失。一方の少女も、夢遊病の治療薬の副作用でこれまた記憶を喪失してしまう。

 5年後、若者は新聞社所属のカメラマンに、少女は治療先のアメリカで売れっ子女優と

なり、2人は新聞社の取材で再会する。お互い記憶を失っていながら、潜在意識の部分で

相手のことを覚えているのか、「はじめまして」といいながら、懐かしそうな表情を2人

が見せるラストシーンは、やはり記憶を失った若い男女が数年後に偶然再会する、映画「時

をかける少女」のラストシーンをどこか連想させ、しみじみとした感動を与えてくれたの

だった(でも、今20歳前後の今回の役者さんたちは、「時かけ」なんて知らないんだろ

うなあ)。

 全体の公演時間も、1時間10分という短いもので、ストーリーもコンパクトにまとめ

られており、若手劇団にありがちなダラダラした展開となっていないところに、旗揚げな

がらも脚本家の才能を感じた。おそらく、高校演劇コンクールの制限時間が、やはり70

分程度であるため、現役高校生時代から、ストーリーをコンパクトにまとめる方法を体で

学んできた成果なのだろう。こういうところは、一般のアマチュア劇団にも学んでほしい

ところだ。

 ところで、私はヒロインが夢遊病という設定を、物語をドラマティックにするための単

なる手段なのだろう、と最初軽く考えていたのだが、本作の山場とでもいうべき部分で少

女が若者に語りかけるシーンで、実は夢遊病は物語のテーマを伝えるために必然的に選択

した設定だったことに気づき、それまでの自分の解釈の甘さに少し恥ずかしい思いをした。

 少女は言う。世の中にはいろんな特技を持った人間がいるが、自分はなにもない「から

っぽな存在」だ、と。自分は起きているのと寝ているのが同じであり、砂漠の中のサボテ

ンのような存在なのだ、と。先の「企」の劇評で、私は彼らの持つ虚無感にシンクロした、

という趣旨のことを書いたが、自分は起きてる時も、ただ生きているだけという意味では、

寝てる時と同じ存在に過ぎないのではないのか、という少女の思いも、やはり「企」と同

じく、虚無感をテーマにしている、ということではないだろうか。だからこそ、寝てる時

に意識があるような状態に見える夢遊病者をヒロインにすることは、「起きてる時も寝て

る時も同じ」という「むなしさ」を具体的な姿としてみせるという意味で必然性を持つも

のであり、決してドラマを盛り上げるために、御都合主義的に作り上げた役柄ではないの

だ。それに気づいた時、私は本作にもまた、「企」を見た時と同様に共感した。

 最後に一つだけ不満点を。物語の終盤、医者がヒロインに、薬を飲めば夢遊病は治るが、

記憶を失うという副作用を生ずることを宣告する決定的な場面で、医者やヒロインの母な

ど他の役者の人たちが、妙に間を空けてセリフをしゃべっていたのが少々気になった。お

そらく物語をドラマティックに盛り上げるために、タメを効かそうとしてのことと思われ

るが、あまりに間が空きすぎると、せっかくのクライマックスの緊張感が弱まってしまい、

逆に「セリフ忘れたんじゃないのか?」という不安を観客に感じせしめ、結果、物語から

観客が醒めてしまう、というデメリットが生じてしまう。ギャグの件についても、先に苦

言を述べたが、ボケをする人に対して、ツッコミをする人のタイミングが遅れてしまい、

せっかくのギャグが笑えなくなってしまうシーンもいくつか見られた。まあ、できたばか

りの劇団だから、なにもかも完璧にとはなかなかいかないのはこちらも重々承知であるし、

そういったミスを割り引いてもなお、私が本作を好きな作品の一つに挙げる気持ちに変わ

りはないのだが、武田さん以外の役者さんたちが、これらセリフのタイミングをもう少し

上手にしていただければ、次回以降よりよい作品ができるだろう、とは思った。

 次回作も期待しているので、ぜひ頑張ってほしい。そして、できれば次回は、社会人の

観客も来やすい土・日+夜公演も組んでいただけるよう強く希望して、ペン(キーボー

ド?)を置くことにする。

[2000年8月17日 18時13分39秒]

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企(くわだて)旗揚げ公演 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

    公演が終了したので、ストーリーの結末を含めた劇評を書かせていただきます。

 物語は、政府との戦闘で壊滅的打撃を受けた反政府組織の秘密本部と、毎日を退屈に過

ごしている若者5人組の日常という、全く別のストーリーが同時並行に交代交代に進んで

いくというもので、この2つをどう結びつけるのだろう、と思いながら私は見ていました。

 結局、彼らは社会不適応者を収容した牢の中にいる人間たちで(あるいは精神病棟?)、

実は「反政府組織」も「退屈な日常」も、彼らが薬によって眠らされていたときに見た夢

だった、という「夢オチ」だったのでした。

 おそらく、早瀬さんは、この「夢オチ」というものを「ありふれた結論」と認識された

のだと思います。確かに、中国の古典「荘子」の、「荘子が寝てたら蝶になったが、夢の

中の蝶と現実の荘子では、どちらが現実かわからん。」という話の頃から、この手の結末

というのは延々と存在し続けているわけですが、私が本作で面白いなあと思ったのは、最

終的に夢オチだと登場人物たちがわかった時点で、では、どの現実を選択するか、と彼ら

が問われたところで、全員が「退屈な日常」ではなく、「終末的世界」を選択したところ

なのです。

 私たちが現実に生きている世界と、今回の芝居の中でシミュレートされた世界で一番似

ているのは、おそらく「退屈な日常」でしょう。毎日、衣食住についての不安はないが、

昨日も今日も明日も同じ毎日。いろいろな遊びを思いついても、その遊びにすら飽きてし

まう毎日。昨年、福島の劇団「鳥王」の劇評を書いたときに、私は社会学者・宮台真司氏

の著作を引用して、「終わりなき日常」を描いた作品、と評したのですが、「企」の彼ら

の現実に対するキツさもまた、この「終わり的日常」を牢獄のように感じている、という

ところにあるのではないか。現実に、彼ら「社会不適応者」は「牢」に収容されていたわ

けです。だからこそ、彼らは一見絶望的に見える、終末的世界観を選択したのではないか。

そして、「終わりなき日常」をキツいと感じている認識では、私もまた、年齢差を越えて

「企」の面々と一致しているのです。だからこそ私は、早瀬さんや、たぶん他の方も感じ

たであろう、彼らの演技の「中途半端」さを越えて、彼らの設定したテーマに感情移入し

てしまうのです。

 しかし、「終わりなき日常」よりも「終末的世界観」を選択するということは、非常に

危険な選択でもあります。やはり、宮台氏の著作からの引用になってしまいますが、あの

オウム事件を起こした犯人たちの精神的背景は、まさに「終わりなき日常」より「終末的

世界」の方が、濃密な人生を送れる、というところにあるのではないでしょうか?だから

こそ、ハルマゲドンを自作自演すべく、彼らはあのような事件を起こしてしまった。「企」

の登場人物たちが、終末的世界観を選択するのも、表面的には絶望的な世界のように見え

ながら、彼らの空虚感や虚無感(物語の中でこれらの言葉が、モノローグとして何度か使

われていました)を埋める、濃密な生き甲斐があの世界にはあるからなのです。つまり、

オウム的な心象は、オウムの犯人たちだけが持っていた特殊なものではなく、演劇を愛す

る、彼ら普通の高校生にも、そして一演劇ファンである30代男性・凡人の私自身の心の

中にも、多かれ少なかれ存在しているものなのです。

 コギャルのようにまったりと生きられる人間なら、「牢」のような終わりなき日常の中

でも、そこそこ楽しく生きていけることができるでしょう。しかし、「自意識」がいささ

か過剰気味に存在する私や彼ら「企」の面々は、これから如何に生きていくべきか?現実

に「終末」を引き起こす等という、恐ろしい選択はできず、しかし何か濃密な体験が起き

ないかと渇望する。だからこそ、彼らは「演ずる」という方法で、また、私は「客」とい

う形で、それぞれ「演劇」という手段を選択し、その空虚感を埋めようとしているのでし

ょう。しかし、「演劇」という手段が、彼らや私・それぞれの空虚感を埋められないもの

になってしまった時は?それを考えるのが、とても恐ろしい。そんなことを強く私の心に

引き起こしてくれた、という意味でも、やはり私には本作は傑作に値するのです。

 

[2000年8月12日 23時35分5秒]

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 今年の正月一発目の投稿で、今年の台風の目になりそうな劇団として、企のことを書いたの

ですが、今日の夜の回見てきたんだけど、重いテーマを見事に熱演していて、いやあ、流石で

した。

 感動した部分について書くと、結末のネタばらしになってしまうので、詳細劇評は後日書き

ますが、明日(日付が変わって今日ですね)も昼・夜2回公演あります。少々テンポがダレる

ところもありましたので、テンポ重視のお客さんにはお勧めしませんが、「僕たちはこれから

如何に生きていくべきだろう」というテーマの芝居に関心がある人にはお勧めです。

 もちろん、固い話ばかりだけじゃなくて、笑えるギャグのシーンもありますよ。

 役者では斉藤役の宍戸香奈恵さんがすごい!この人は第2の岩佐絵理ですよ。顔は似てない

けど、声がそっくりなので、目を閉じて声だけ聞いてると、岩佐と区別がつかないよ、きっと。

もちろん、演技の質もシリアスなときの岩佐を彷彿とさせてくれます。

 あと、古沢晋介君の「困らせる人」という場面の一人語りも面白いよ! 

     [2000年8月11日 1時11分45秒]

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宮城教育大学演劇部

「ウォルター・ミティにさよなら」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 僕は宮教大演劇部の芝居が大好きである。どのくらい好きかというと、例えば、もし僕

が誰かにインタビューされたとして(そんなことはないと思うが)、「在仙で太田さんの

好きな劇団はどこですか?」と聞かれたら、「仙台高校と宮教大です。」と答えるくらい

好きである。

 やはり去年の夏公演で、僕は宮教大を高校野球に例え「技術的には劣っていても、それ

を越えたひたむきさ、一生懸命さが見るものの心を打つということは現実にあるんです

よ。」と書いた。たぶん、今回の公演「ウォルター・ミティにさよなら」についても、作

り手の側に身を置いている人から見れば、いろいろと技術的に指摘したいところはたくさ

んあるだろう。しかし、僕には宮教大の芝居は、そういう技術的な欠点を超越した、「す

がすがしさ」とでもいうべきものをオーラとして感じずにはいられないのだ。

 今回の作品は、ラブ・ストーリー、刑事もの、特撮ドラマという3つの無関係な物語が

同時並行的に進行し、最終的には特撮ドラマに一本化され、正義の味方が悪を倒すことに

よって終わるまでをコミカルに描いたものであった。

 ところで、僕のような30代前半世代は、コミカルな勧善懲悪ものというと、「タイム

・ボカン」シリーズが、パッと反芻的に浮かんでくるのだが、ご存じの方もいらっしゃる

と思うが、この手の作品では悪役がいかに魅力的かが重要である。つまり、悪役がマジに

嫌な奴では、シリアスものと区別がつかなくなってしまうわけで、あのマージョ様やボヤ

ッキーみたいに、マヌケで憎めず、むしろ正義の味方を喰ってしまうような面白さがある

と、観客側は大いに楽しめるわけだ。

 今回、僕はBプロを見たのだが、悪の首領・ヘルナイト(また、名前がいいでしょ)役

の高橋愛美さんが、内田春菊ばりの濃〜いお姉さん的キャラクターでよかったのだ。特に

正義の味方に対して見栄をきるところ等、大仰な芝居がさまになっていてよかったなあ。

こういう適材適所な役者がちゃんと部内に存在しているところに、ここの層の厚さを感じ

ずにがいられない。

 また、ヘルナイトとグルになっている連続保険金殺人犯役には、OGの高橋菜穂子さん

が出演していたのだが、やっぱこの人は若手の中ではピカ一な味のある演技をする。去年

の「Perfect Lives」で、ナノという少女から老婆までを同じ舞台上で演じる役をナチュラ

ルに演じていたことに舌を巻いたことは去年の劇評で書いたが、保険金殺人の犯人という

のは、新聞報道などでもわかるとおり、中年以上の人間が犯人であることが多い。だから、

役作りとしては、おばさんである方が自然なわけで、ナノの時におばさん役をとても学生

とは思えないくらい自然に演じていた高橋さんをこの役に持ってきたのは、まさにはまり

役だったわけだ。よく、学生演劇で中年や老人の役を演じている役者に対し、「中年や老

人に見えなかった」と不満を書いている劇評を見かける。僕などは、その辺は観客の側で

ある程度「見立て」をすればいいのではないかと思うし、ドラマ性など他の部分が面白い

と、そちらの魅力でカバーされてしまい、あまり気にならない方なのだが、高橋さんがお

ばさんを演じると、そういう口うるさい観客でもおばさんには見えないとは言えないだろ

う、というレベルの演技を見せてくれるので、とても嬉しい。

 彼女は3月に宮教大を卒業したということで、どこか一般の劇団に入るのかなあ、と思

っていたが、こういうOGという形で演劇部に出続けるという選択の方が、むしろベター

な手段ではないだろうか、と今回の公演を見て思えてきた。今まで、学生演劇時代にはと

ても光った演技をしていたのに、社会人になって一般の劇団に入った途端、その劇団の演

出家が、その人の魅力を引き出せないため伸び悩んでしまっている役者さんを何人か見て

きた。そのような形で「飼い殺し」になるくらいなら、OB、OGも演劇部で活動し続け

るというスタイルの方が、双方にとってメリットになるように思う。それで、OG組があ

る程度人数が増え、現役生に出番に差し障りが出そうになったら、どこかの劇団に入るこ

となく、自分たちで新劇団を旗揚げすればいいのだ。

 さて、アイドル評倶楽部としては、かわいかった女優も一人挙げたいところだが、今回

は人造人間の妹役の藤山明日香さんを推薦したい。飯野和義さんという、村上春樹の「中

国行きのスロウ・ボート」の挿し絵も描いてる、チリチリ頭のかわいい女の子を書くイラ

ストレーターがいるのだが、藤山さんは、そんなイラストから抜け出てきたような感じの

子で、彼女が出てきた途端、アイドル好きの僕が「オー、カワイイじゃん、カワイイじゃ

ん!」と、目をランランと輝かせたことはいうまでもない。それでまた、顔が若い頃の山

口智子みたいなんだよなあ。今回は脇役で、あまり出番が多くなかったのが残念だったけ

ど、こういう子が「アニー」とか「オズの魔法使い」みたいなミュージカルの主役を演じ

たら絶対はまりますぜ。

 ところで、今回の芝居であえて苦言を呈するとすれば、クライマックスで悪役が貯水池

に毒薬を投げ込もうとするところで、主人公組と悪役で毒薬の争奪戦が展開するのだが、

この場面の間が悪くて、緊迫感に欠けてしまっていたところだけは、何とかしてほしかっ

た。例えば、サイマルのように「疾走する演劇」を目指すあまり、どんなシーンでも早口

でしゃべってしまい、せかせかと落ち着かない芝居をしてしまうのも問題だが(いつもと

は限らないが、時としてそうなる傾向がサイマルにはある)、やはり物語の一番の山場で

変に間が空いた芝居をしてはいけない。そういう意味では、去年の「Perfect Lives」での、

クライマックスに向けてグングン盛り上げていく柴田哲行君の演出は見事だった。彼のこ

とをいろいろいう人も以前いたが、今回の演出をみてしまうと、やはり柴田君の演出が懐

かしく感じられてしまう。ぜひ次の秋公演では、彼に再度演出のチャンスを与えてほしい、

と思わずにはいられなかったのだが、どんなもんだろう?

 蛇足。今回、平日公演ということもあり、Bプロしかみられなかったのだが、Aプロで

は、去年「天使は瞳を閉じて」で天子役を演じ、僕が絶賛した吉田みどりさんがヘルナイ

ト役を演じたそうだ。Aプロを見に行った佐々木久善さんに「吉田さんどうでした?」と

電話で聞いたところ、「いやあ、かわいいし、なんか変だし、面白い子ですねえ。」との

こと。チクショー、見たかったなあ!

[2000年8月10日 23時32分40秒]

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第29回宮一女演劇部単独公演

「たおやかな偏光」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 皆さんご存じの通り、私は最近、高校演劇にすっかりはまっています。それと同時に、

アイドル評倶楽部を名乗っていることからもおわかりかと思いますが、かわいい女優さん

が出そうな芝居にもまた、目がない人間です。そんな私が、その2条件を兼ね備えている

一女高演劇部が単独公演をすると聞いては、見に行かないわけにはいかない。そんなわけ

で、さる8月9日(水)、仙台市民会館へ足を運んだのでした。

 登場人物は4人姉妹と彼女たちの主治医、看護婦。胃潰瘍で入院していた長女が退院し、

自宅でお祝いのパーティを開こうというところから物語は始まります。この4人姉妹の両

親はともに癌で死んでいるため、4人は自分たちも癌で死ぬのではないか、という漠然と

した不安を感じています。しかも、長女は実業家、次女は女優、三女は売れっ子漫画家、

とそれぞれストレスのたまる仕事を抱えているためか、無類の酒好き。そんな中、看護婦

が持ってきた、この家の飼い犬のレントゲン写真から(実はこの犬が癌に犯されているの

だが)、実は4人のうちの誰かが癌ではないか、という疑惑が巻き起こり、勘違いが勘違

いを生みドタバタが展開する、というコメディー的作品でした。

 役者の演技については、まあ、先に書いた宮教大や企と同様、厳しい視点でご覧になる

方にとっては不満を感じさせる内容かもしれませんが、私のような、「かわいい女子高生

が一生懸命頑張ってる!」というだけで嬉しくなってしまう人間にとっては、充分すぎる

ほど楽しめるものでした。そうはいっても、同じ女子校でも以前に書いた三女高の三年生

サヨナラ公演に比べると、役者のセリフ回しが一本調子で、また、感情の出し方がやや大

げさかな、という部分はありましたけどね。ただ、この物語が4人姉妹を主人公としてお

り、また、笑いをとろうとしている作品であることから、チェーホフの「三人姉妹」やオ

ルコットの「若草物語」のパロディー的要素を持っていることも事実で、喜怒哀楽を過剰

に出した、いわゆる「演劇的」しゃべり方が、これら昔ながらの新劇的芝居をパロってる

ように見えるという点では、彼女たちの、少々大仰で臭いようなセリフ回しは、ケガの功

名かもしれませんが、いい方向に作用していたと思います。

 役者では、三女の漫画家役の伊藤智美さんが秀逸。まんまるの眼鏡をかけ、やせぎすで

髪型やファッションに無関心そうな雰囲気が、いかにも「やおい系マンガ家」的としての

役作りを見事に出していました。パンフによると、「この人が考えることがさっぱりわか

らない!」(本人談)と、役作りにだいぶ苦労されたように書かれていますが、どうして

どうして、一番役にはまっているように、こちら観客側からは感じられましたよ。

 また、対称的に元気のいい次女役の松原恵理子さんも熱演。この次女と三女が正反対の

ような雰囲気のため、二人が絡むシーンがとても面白かったです。

 秋のコンクール、この2人に特にチェックを入れて、また見に行こうと思っています。

 

[2000年8月13日 1時44分19秒]

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仙台高校演劇部公演「M.O+」 

お名前: 太田 憲賢   

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢   

 

昨年、僕の個人的年間ベスト10で堂々の第1位に認定した仙台高校演劇部ですが、去

年の2年生が受験のために引退し、新2年生が主メンバーとなっての今回の第1作、果た

してどれだけの成果を見せてくれるか、期待と不安を胸に見に行きました。結論から先に

言えば、若干課題は残ったものの、今度の新メンバーも、なかなかいい芝居を見せてくれ、

秋のコンクール上位入賞の有力校になるだろう、という期待を充分に抱かせたのでした。

 今回の「M.O+」という作品は、もともとは2つの別の作品を1つにドッキングさせ

たものだそうで、1つは交通事故で意識不明の重体となった少女の心の中に同居していた、

4体の霊が、事故をきっかけに他の人間にとりつきはじめる、というホラーもの。もう1

つは、あだち充の「みゆき」のような、両親を亡くし2人で同居している、実は血のつな

がっていない兄妹と、兄の勤め先(シックなバー)に現れた謎の美女との三角関係を描い

た恋愛もの。この2つのストーリーが、微妙に双方に影響を及ぼしあうドラマティックな

展開で、1時間半、最後まで飽きさせずに楽しませてくれました。

 ところで、僕が昨年の「今夜の君は素敵だよ」で、登場人物の心の中の空虚感や孤独感

に涙した、と書きましたが、今回の「M.O+」も、交通事故にあった少女は天涯孤独の

身の上で、孤独感から幽霊を自分の体の中に複数住まわせていた、という設定。そのため、

事故により彼女の体から出てきた霊たちは、やはり心の中に「マイナス感情」を持つ人達

にとりついていきます。僕はこのストーリーを見ながら、これって人類補完計画みたいだ

な、と思わずにはいられませんでした。欠けた心をもつもの同士が、お互いの欠けた部分

を埋め合っていこうという人類補完計画と、マイナス感情を持つ者同士が、お互いの心の

中に共存しようという本作。酒鬼薔薇−ネオ麦世代ならではの視点なのかなあ。でも、こ

ういう心の問題にストレートに取り組んだ作品が書けるのも、自由な校風の仙台高校なら

ではなんでしょうね。「清く、正しく、美しく」といった道徳的視点から自由でいられて、

余計なバイアスに影響されず、心の問題を正直に出してくる仙台高校のお芝居が、僕はと

ても好きです。このテーマは、実際30代の僕あたりにまで共感できるものですからね。

 個々の役者評に移ります。主役の医師役の佐藤隆一君。主役に抜擢されただけのことは

あり、なかなかのダンディーな印象でしたが、初舞台がいきなり主役というせいもあって

緊張したのか、セリフが早口で、しかもゴニョゴニョと聞き取りづらかったのが残念。去

年の劇評にも書いたけど、コンクールの審査員って、減点法的視点で見てる人が多いよう

だから、いくらストーリーやテーマで泣かせても、主役のセリフ回しが悪いとなると、減

点の対象になる危険性、大いに高しです。その点、去年のコンクールで、あの石川裕人氏

も絶賛し、僕も去年の最優秀男優にノミネートした貝山雅史君が、今回は音響に回ってい

たのが、ちょっと残念でした。ぜひ、コンクールでは、あの不思議感覚のお芝居を、また

見せてほしいものです。

 一方の女優陣ですが、三角関係の当事者2人、謎の美女(大人のお姉さん)役の多田麻

美さんと、カワユイ妹役の高橋絵理子さんは、昨年の「天使は瞳を閉じて」でも既に出演

しているキャリアからか、2人とも堂々の好演でした。はい、ここで「アイドル」・渡部

なちゅさんからも御好評いただきました、仙台アイドル評倶楽部・本作のMVP発表で

す!(なちゅさん、劇団名間違えてスミマセンでした)。今回は、大人のお姉さん役の多

田麻美さんで、決まりですね!。バーに一人で、けだるそ〜にお酒を飲んでいる役なんだ

けど、高校生に見えないのよ!ほんと、大人の女だー!、って感じで。国分町のバーあた

りで、多田さんがカウンターに腰掛けていたら、絶対20代前半のお姉さま、ってみんな

誤解するね。世の男性諸氏は、国分町でキャミソールにウエーブかかったロングヘアーの

お姉さんを見かけても、高校生かもしれないので、うっかりナンパしないよーに!(そも

そも、高校生が国分町のバーにはいないか・・・)。しかも見た目が大人っぽいだけじゃ

なくて、下がりかかったキャミソールのひもをさりげなく戻す演技とかが、すごくシック

でカックイイ演技なんですよ。しかもしかも、なんと三角関係の相手の男の子とのキスシ

ーンまであるんですよ!おいおい、高校演劇でそこまでやるかよ!、やってくれるなー、

仙台高校!と、見てるこっちの方が大いに狼狽してしまったのですが、なぜか二人がキス

しようとすると、シャキーンという謎の金属音がして、できないんですねえ(少しホッ?)。

実はお姉さんにとりついていた霊が、男の子の母親のものだったという驚愕の事実が明ら

かになるわけです(「みゆき」というより、大映ドラマだね、こりゃ)。

 一方の、実は血のつながっていなかった妹役の高橋絵理子さんは、ヒロスエとか田中麗

奈を連想させるショートカットが似合う、こちらは文字通りのカワユイ系。しかし、多田

さんと高橋さんが絡むシーンを見てると、君たちホントに同い年?本当は10歳ぐらい年

離れてない?という疑問を持たずにはいられないのでした。

 もう一人、面白かった人。看護婦役の早坂淳子さん。初出演にもかかわらず、突然キョ

エーッ??っと奇声を発したり、あるいは突然病院の中でリハビリダンス、と称する謎の

踊りを始めたり、とコミカルな三の線ぶりが見事見事!層の厚い高校では、必ず1人は、

こういう笑かしてくれる役者さんがでてくるんだよねー。彼女も初出演のためか、主人公

の佐藤君との絡みのシーンでは、彼に影響されて、早口ゴニョゴニョになっていたところ

に改善の余地ありだけど、その欠点を補って余りある面白さでした。ぜひ、秋のコンクー

ルでも三の線で登場し、大いに観客を笑いの渦に巻き込んでほしいものです。

 

[2000年7月27日 22時34分52秒]

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劇団次世代隔差Pーbridge

お名前: 仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢   

 

 開演前、本作のアンケートを見たところ、「一番気に入った役は誰ですか?」

(「一番好き」だったかなあ?、アンケート提出しちゃったんで記憶が今ひとつはっ

きりしないんだけど)という項目がありました。こういう項目の質問を作るというこ

とは、本作の登場人物の6人それぞれに人間ドラマが作ってありますよ、6人の持つ

ドラマ性や性格設定はそれぞれ別々で個性的なものですよ、という劇団側のメッセー

ジだと理解したんですが、「仙台アイドル評倶楽部」としては、ご期待通り!6人中

2人の女性のどちらかを選ばせていただきました。では、どちらか?

 2人の性格づけは、確かに劇団側が意図しているな、とわかるほどハッキリと対照

的でした。片や、結婚直前で陽気に浮かれている、少々天然ボケのはいったウェイト

レス・アスカ。もう一方は、29歳で周りの友人がみな結婚していき、やさぐれた雰

囲気のキョウコ。アイドル評倶楽部なんだから、当然アスカの方を選ぶだろう、と思

うでしょう?でも、違うんだなあ。僕はアイドルという言葉を便宜上使ってはいます

が、要は僕にとって惹かれる要素を持った女優を高く評価しているわけで、それが大

人のお姉さまの魅力であっても、全然差し支えないわけです。というわけで、今回の

MVPはキョウコ役の櫻井真美さんの圧勝でーす!

 なんでかっていうとね、出演する女優に対して、どれだけ「濃い」ものを感じられ

るか(別の言葉で言えば、「個性」かな?)が、僕の好きな女優に対する基準だった

りするわけですよ。やっぱり、わざわざ劇場まで足を運ぶからには、そのリスクに値

するだけのテンションを役者から感じたいよね。それでいくと、アスカという役柄

は、確かにかわいい。天然ボケも面白い。でも、天然ボケというランクからいくと、

例えば宮教大の笹本愛とか、仙台高校の早坂淳子とかに見られるような、独特のテン

ションの高さ、こいつ本当に天然じゃないか?と思わせるような危うさが、今回の濱

口幸さんにはないんだよね。誤解のないように釈明するけど、彼女が別に下手と言っ

てるわけではありません。むしろ、新人とは思えないほど、ソツなくこなしてはいま

した。

 ただ、マスターが長期で外出しているため、店を任されているウエイトレス役とも

なれば、あまりに非常識なボケは役柄上無理があるし(ある程度常識的部分がないと

店なんかやっていけないもんね)、また、彼女のボケは天然という部分よりも、まも

なく結婚を迎えて舞い上がっているという部分も加味されています。そうなると、演

劇を見る、という行為をする観客というのは、心の中にある種の満たされなさを持

ち、それを一時的に埋め合わせるために劇場に足を運ぶという要素もあるわけだか

ら、幸せいっぱいそうな登場人物を見ても、ケッ!というひがみ根性の方が先に立っ

て、感情移入の方向に動かないわけです。

 一方の、キョウコ。これはいいですよ。どこがいいかといえば、その屈折しまくっ

たところが、ひねくれた観客たるこちらの琴線をふるわせてくれるので、いいんです

よ(笑)。29歳で周りの友人で独身なのは自分を含めて残すところあと二人。今日

も友人の結婚式の帰りで、思いっきりやさぐれた表情で喫茶店の椅子に腰を下ろす。

携帯電話禁止の店にもかかわらず、あてつけがましく大声で電話。注意されると、今

度は後から入ってきたサラリーマンの携帯をわざとらしくヒステリックに注意。な

んって、イヤな性格なんだろう(笑)!でも、そのイヤさがコミカルに演じられてい

ることによって、不快感にまで至らず、逆に、そういう気持ちわかるなあ、人間って

そんな聖人君子みたいには生きられないよね、と共感の方向にまで持ってくる演技

力。

 もちろん、共感・感情移入という意味では、キョウコのヒネクレに自分のヒネクレ

が強くシンクロはしたのですが、でも、感情移入というなら、他に4人男優が出てい

るのだから、むしろ同じ性別の男優の方に共感する部分が多くなるのではないか?と

言う疑問が出てくると思いますけど、ここで、感情移入にプラスして異性に対するあ

こがれ、という要素が出てくるわけですね。もちろん、その部分でも櫻井真美さんは

合格!でした。結婚式の帰りということもあって、黒いサマードレスでの登場だった

んだけれども、それがまたシックに似合っていて、ああ、格好いい大人の女!という

感じで素敵だったんですよ。やさぐれた表情がまた、愁いを帯びていて、10代の子

には出せない味わいとなっていたしね。佐々木久善さんは、下で丹野久美子の若い

頃、と比喩していますが、僕は若い頃の中島みゆき、とまでいっていいんじゃないか

と思ったね。そのやさぐれ感が彼女の持つ歌と共振しているところからいってもね。

 だから、物語の結末で、彼女にも結婚相手が見つかってハッピーエンドに終わる、

というもって生き方は今ひとつ納得いかなかった。20代後半ともなると、世の中が

ある程度見えてくるわけだから、結婚することが、必然的に幸せにつながるとはいえ

ないことも、わかっているはずなんだよね。物語の途中で、写真家になりたいけれど

家族に家業の医者になれと圧力をかけられて苦しんでいる少年が中心になる場面があ

るんだけれど、その時彼女を含めた登場人物達は「周りがどう言ったって関係ない

じゃない。自分自身の問題でしょ。」と言って彼を励ますんですよ。でも、それを彼

女にそのまま当てはめるならば、「周りがみんな結婚したって関係ないでしょ。自分

自身が幸せになれるかどうかが問題なんだから。」という返し方もできるわけ。ま

た、彼女が心の中に欠落感を抱えていて、それを埋めるために結婚という願望を持っ

ているというのであれば、見つかったお相手が医者ということで大喜びするというの

は安直でしょう。そういう「三高」的単純な価値観で満足しない屈折を持っていてこ

そ、彼女の人物像に深みが出るわけだから。

 長くなるから、他の登場人物については書かないけれど、物語をハッピーエンドに

持っていきたいがために、それぞれの登場人物にやや安直な幸せを与えているんじゃ

ないかなあ、という不満は少々感じました。これに関して反論するなら、例えば国民

的人気を得た映画に「男はつらいよ」というのがありますよね。あの中で、寅さんは

毎回マドンナに振られるんだけど、だからといってひどく陰惨な話になっているとは

いえないでしょう。例えば、この物語が連作になったとして、キョウコがいつも喫茶

店の片隅に腰をかけて、「まーたふられちゃったのよねえ、マスター。」なんて、サ

イトーに声をかけているシーンなんて、ちょっと味があっていいんじゃないかなあ、

なんて頭に浮かんでくるわけよ。何でもかんでもほのぼのハッピーエンドに持ってい

けばいい、とは必ずしもいえない。むしろ、適度に幸せ、適度に不幸ぐらいの方が、

観客の実生活にもシンクロして、ああ、共感できるなあ、となるケースだってある。

まあ、底抜けのハッピーエンドで感動させる物語もあるから、一概には言えませんけ

どね。ただ、本作に関しては、はじめにハッピーエンドありき、という結論が強すぎ

て、いささかリアル感がかけてしまったきらいはあるんじゃないかなあ、とは思いま

した。

でも、前半のギャグの応酬、ドタバタにはセンスの良さを感じたので(後半の「いい

話」になってからは、少々臭くなったかな)、次回以降はコメディー重視の中に、

さりげなくテーマを埋め込むようにできるといいな、と思いました。大河原のミモザも、

以前は説教臭かった部分があったけど、そういうワザを身につけるようになりました

からねえ。

次世代さんだって、頑張ればできると思いますよ。御健闘をお祈りしております。

  [2000年7月31日 11時38分39秒]

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劇団Sympathy「フォルッテシモ」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 喫茶店のマスターと、マスターにあこがれる女子高生、マスターの高校時代のクラスメ

ートのカップル、計4人が偶然マスターの喫茶店で出会い、友情を深め合って行くが、実

はマスターは難病で死んでしまう、という物語でした。

 最近、喫茶店を舞台としたお芝居が多いような気がするんだけど、世知辛い世の中で、

まったりとくつろげる時間がほしい、という願望が、芝居でそういう場を表現しようとい

う発想として、出てくるんだろうね。僕自身もまったりしたいという願望が人一倍強い方

だから、気持ちはすごくよくわかるんだけど、ただ、そういう「たあいもない日常」って、

ダラダラと退屈な空間になる危険性も大きい。三女高演劇部「ポケット」の劇評でも書い

たけど、小津映画や三女高の「たあいもない話」が面白かったのは、表面的には何事も起

こらない空間のように見えて、実は細かい事件が次々と起こっているところにあるのね。

今回の「フォルッテシモ」は、高校時代の思い出話や、高校生・神崎の宿題の話で延々1

時間、間を持たせようとしたところに無理があったように思います。マスターが突然倒れ

るところで、おっ!いよいよ話が盛り上がってくるかな?と期待してたら、あっさりマス

ター死んじゃうんだもん。もうちょっと死ぬまでの闘病生活にドラマを作らないと、あっ

けなさすぎて、マスターが死んだことによる悲しみに、観客も感情移入できないと思いま

すよ。

 役者では、高校生役の江川美樹さんがよかったです。ハキハキと割舌もよく、しゃべり

方も棒読みじゃなくて、ちょうどよいテンポで感情がこもったものになってましたね。ポ

ッチャリ系でかわいかったし、アイドル評倶楽部として推薦させていただきましょう(笑)。

プログラムを見ると、彼女17歳って書いてあるところをみると、本当に高校生なのね。

最近は、本当にどこの劇団みても、大人の役者より、高校生の子の方がうまいってパター

ンがホントに多いなあ。

 マスターの悪友で大学生の関根役の叶正規さんは、アルバイトでホストもやっている、

という設定だったため、キザなしゃべり方を役作りとして一生懸命がんばってました。そ

れは認めるんだけど、役作りに気を取られて、せりふ回しが単調になってたのが残念。緊

張していたのか、落ち着かない早口なしゃべりだったしね。江川さんみたいに、ゆっくり

しゃべるところは落ち着いて表現するところを見習うといいと思うよ。

 関根の恋人役の坂野井一恵さんは、偶然の再会に驚く場面のリアクションが大げさで面

白かったんだけど、関根との絡みが多いため、叶さんの早口につられて、自分も落ち着か

ないしゃべりになってた部分が多かったのがもったいなかったね。

 マスター役の佐藤謙一郎さんは、主役だけにこなれた演技をしていました。が、主人公

が死んだ後、主人公の父として1人2役で出てきたのは、ちょっとどうかと思ったなあ。

だって、谷村新司みたいな口ひげをつけただけで、マスターそのまんまなんだもの。「実

は死んだのはウッソでーす!」と、口ひげをとって、みんな大笑いのハッピーエンド、っ

てオチかと思っちゃいましたよ。客演でもいいから、父役は別な人をあてた方がよかった

と思うなあ。あと、病気を表現するのに、ゲホゲホと咳をする、というのも、なんかウソ

臭くて、どうかと思いました。昔みたいに結核の死亡率が高い時代ならともかく、病気を

あらわすのにゲホゲホやるっていうのは、今ではギャグとしての記号みたいになっている

しね。コントとしてみると笑えるんだけどね。

 まあ、いろいろ問題点もあったけど、応援したいと思わせるさわやかさを感じさせる劇

団でした。次回作も見たいと思ってますので、頑張ってほしいです。

 

[2000年8月6日 15時6分28秒]

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Gecka−Bizin「大失敗!!」 

 仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢

 

 映画・演劇にしろ、TVにしろ、お目当ての女優さん見たさに映画館や劇場に足を運ん

だり、チャンネルを回したりする人間というのは少なからずいるわけで、スクリーンに映

るスターも、地元アマチュア劇団の女の子も、観客という立場からすれば、「ファン−役

者」という関係性は等価だ、という視点で僕は劇評を書くことが多いのですが、そういう

視点で劇評を書く人間は、現在のところ残念ながら僕しかいないようです。最近では、開

き直って、「仙台劇評家倶楽部」に対抗して「仙台アイドル評倶楽部」という会を勝手に

でっち上げようかと思っているくらいなんですけどね。

 というわけで、「仙台アイドル評倶楽部(現在会員1名、泣)」今週の一押し女優さん

は、ジャジャーン!、月下美人の渡部なちゅさんでーす!

 月下美人の芝居は去年の旗揚げ公演を見て以来2度目なんだけど、旗揚げの時のなちゅ

さんは、裏社会の組織の一員という思いっきり悪役で、黒づくめの服装にロングヘアーが

黒木瞳みたいで、それはそれで格好良かったんだけど、例えば「黒蜥蜴」みたいな、人間

的に魅力ある悪役、というパターンではなくて、もう本当に単なる嫌なヤツ、って役だっ

たのね。それで、ああ、こんなにかわいい女の子がもったいないなあ、一回ベビーフェイ

スの主人公やらせてあげてほしいなあ、と思いながら見ていたんだけど、いやあ、今回そ

んな僕の夢が叶いましたですよ!

 主人公はアマチュア劇団に所属している一人暮らしの女の子。ある日彼女の家に、突然

「宇宙人」を自称する男が転がり込んでくる。確かに彼は、地球人の常識では起こし得な

い能力を持っており、そんな彼がなし崩しに主人公の家に居候をはじめ、主人公の妹や他

の宇宙人を交えてドタバタを繰り広げるコメディー、というのが本作の主な内容でした。

 んで、主人公のなちゅさんが、もうホント!にかわいいんですよ。今回は、旗揚げの時

と違ってショートカットにしてたんだけど、なんかね、若き日の樋口可南子みたいでした

ね。童顔で、すごくピュアーな笑顔をする人なんですよ。今はまだまだ実年齢もお若いの

だと思うんですが、たぶん30過ぎてもこういう童顔の人って、かわいい顔で居続けるん

だろうな。樋口可南子もそうだし、あと、南果歩もそうだよね。

 ストーリー上では、主人公姉妹は妹の方がかわいくて、姉の方は「ドロロ星人みたいな

ブス(居候宇宙人のメモより)」ということになっているんだけど、そういう意味ではミ

ス・キャストでしたね(笑)。だって、なちゅさんのほうがカワイイんだもん。

 というと、妹役の菊地めぐみさんに対して、大変失礼な言い方になってしまうかもしれ

ませんが、そうじゃなくて、菊地さんは役作りとして徹底的に三の線に徹した演技をして

いたんですよ(二の線やれば、この人も充分かわいい女優さんだと思う)。特に、居候が

本当に宇宙人とわかったときの、ミーハーな驚きっぷりの見事さ!もう、爆発してるのよ、

はじけてるのよ。それでいて、臭くならない。こういうミーハーな女の子っているよなあ、

というリアル感も同時に持ち合わせる演技力。彼女は劇団M.M.からの客演とのこと。

M.M.といえば、去年の「ミリオンセラー」でのタムラ・ミキさんの、やはり爆発する

三の線の演技の面白さに圧倒された経験があるのですが、その後、よくM.Mを見ている

という方から、「いや、あの時はたまたまタムラさんが三の線をやってたんだけど、いつ

もは菊地さんの方が三の線をやることが多くて、それがまた面白いんですよ」という話を

うかがっておりまして、今回自分の目でそれをしっかと確認することができました。菊地

さん、ブラボーです!

 そして宇宙人役の、るうがあ熊谷君。彼は旗揚げの時も、主人公の家に突然転がり込ん

でくる役どころだったんだけど(そういえば、旗揚げの芝居と今回の芝居は、シリアスか

コメディかという違いだけで、ストーリーの構造は酷似している。同じ作家さんだから

か?)、こういう居候役は、ただでさえ胡散臭く見られるわけだから、でも何となく憎め

ない、ズルズルと居候させてやるか、と思わせるような愛嬌がないといけない。というの

はわかるんだけど、その愛嬌を出そうとするあまりに、かえってなれなれしいヤなヤツ、

というイメージを見る物に与えてしまっているところに改善の余地があるように思われま

す。しおらしくなってからの演技が、けっこう同情をひけるものになっていたので、もう

少しおさえた演技をした方がいいんじゃないかな。

 それでも、ドタバタの際の姉妹とのボケ・ツッコミのタイミングの旨さはなかなかのも

ので、こういう当意即妙な演技を、劇団ができたばかりの月下美人の役者が既にできてい

るのに、たまたま前日に見たピアスの役者が全然できていないのはどういうことだろう、

と思わずにはいられませんでした(ギャグをとばすシーンがけっこうあったにもかかわら

ず、だらだらしたテンポと棒読みのセリフで笑えないものになってしまっていた)。まあ、

ここはピアスの劇評を書くところではないので、これ以上はここでは書きませんが。

 そういうわけで、ピュアな感じのかわいい女優さんも見られたし、歯切れの良いドタバ

タも楽しむことができたしと、久しぶりに満足のいく芝居を観させていただきました。で

も、マジな話、なちゅさんって「週刊朝日」の篠山紀信撮影の表紙に出てきても、全然違

和感ないと思うなあ。「演劇人タイムズ」、月刊化して表紙は地元女優のグラビア写真に

するっていうのはどうでしょう?あるいは、ここのトップページに「今週の女優」と題し

て、JPEGで、その週公演予定劇団の看板女優掲載するとか。、そしたら、「SPA」

の中森明夫みたいに、僕がコラム書きたいなあ、なんてね。

[2000年7月24日 21時23分42秒]目次へ


宮城県第三女子高演劇部「ポケット」

お名前: 太田憲賢   

 

 僕はあまりオカルト的たぐいのものは信じない方だが、それでも不思議な偶然というも

のはこの世にあるようで、例えば面白い芝居を見る時は、短期間の内に今年のベスト1と

思えるような作品に立て続けに出会うということがよくある。

 実は先週、佐々木久善さんが劇評で、ミモザは今年のベスト1だと太田と見解が一致し

た旨を書かれておられたが、その翌週に見た三女高演劇部の本作が、これまたミモザを更

に上回る出来だったものだから、佐々木さん共々ビックリしてしまったわけだ。

 本作「ポケット」は二つの短編のオムニバスであり、共通のテーマは「思い出」である。

おそらく、三年生のサヨナラ公演という趣旨から、そのようなテーマを選んだのだろう。

 最初の「たあいもない話」は、高校時代修学旅行に行った思い出を、三十年後に同じ旅

館に集まった五人が回想するという話。しかし、この「たあいもない」というところがな

かなか曲者なのである。

 よく小津安次郎映画を見る人の感想として「たあいもない日常が淡々と流れて・・・」

というのがあるが、実は小津映画って小さな事件・ドラマが立て続けに起こっていて、そ

れが見る者を飽きさせない仕掛けになっているんだね。みんな、笠智衆や東山千枝子のゆ

っくりした演技に幻惑されているんだよ。実は、この「たあいもない話」も同じような作

りになっていて、三十年後の回想としては、「たあいもない」ことだけど、当時の彼女達

にとっては重要な事件が次々と起こっているわけ。

 例えば修学旅行が片思いの彼に告白するチャンスとばかりに勇んで彼の部屋へ出かけて

いく女の子。ところが、他に好きな子がいると言われシオシオと部屋に戻ってくると、さ

っき「がんばっといで!」と応援してくれた友人の胸にロケットが。しかも取り上げて中

を開ければ、さっきフラれた彼とのツーショットの写真が入っていたりするんだな!

 あるいは、別の仲良し二人組は、突然部屋の中でエクササイズを始めたりする。今まで

静かだった旅館の一室が、突如として女子高生が踊り狂う場面に転換してしまうんだから、

これは驚きますぜ。しかも二人につき合わされて一緒に踊りだした三人目の転校生の子が

意外や踊りが一番上手かったり。けっこう細かい芸で笑わせてくれるところが見事だ。

 さっきも小津映画を引き合いに出したけど、淡々とした話を作ろうという時、勘違いし

てダラダラとした芝居を作ってしまい失敗するケースってけっこう多い。その意味で、「た

あいもない」と題名にしながらも、実際にはものすごく作り込んだ脚本を書いた三女の皆

さんは(今回初のオリジナルだそうだが)ホント、大した者である。

 さて、後半は東映戦隊モノのパロディ(オマージュ?)、ドリームレンジャー!である。

これもまた思い出がテーマになっている。学校で好きな子にフラれ、イジメに会い、と嫌

なことが続く少年が主人公。その少年に、そんな嫌な思い出なら、私達によこしなさい、

と甘くささやきかける悪役・スパイダー一味。「でも、君の思い出の中には素敵なものも

あるはずだろう。それすら捨ててしまうのかい?」と、少年の思い出を救おうとするドリ

ームレンジャー!両者の熱い戦いが見る者を惹きつけ、酔わせる!

 それで、この後半の話はキャストが豪華なんだ。レンジャーのリーダーは、昨年のコン

クール「ラ・ヴィータ」で主役を演じた「たね」こと鈴木亜矢さん。彼女は出る度に全く

違うタイプの役で出てくるが、それぞれに別の個性で完璧に演じ分ける。とぼけた銀河鉄

道の駅員−死を間際にした老芸術家−そして今度は元気ハツラツなドリームレンジャーの

リーダー。ピアスの渡辺君がいう、自分を特定の色に染めないで柔軟な役作りができる役

者って彼女のような存在ではないだろうか。だとしたら、ピアスの役者は皆、たねさんに

学ぶべきだ。

 リーダーをサポートするイエロー役が井林麻希さん。彼女は前二作では少年の役で、そ

れはそれで見事だったんだけれど、一度女の子役も見てみたいと思っていた。今回はその

念願がかない、これに勝る喜びはない。で、やっぱり女の子役が超カワイイ!しかもただ

カワイイだけでなく、演技力もあるから、ホント、いうことなしである。

 そしてピンクハウス役の沼田希実さん。ラ・ヴィータでは愛人役であり、今回は主人公

の母親役も兼ねていたのだが、おっとりした優しげなオーラを前回同様、今回も漂わして

くれていて、これも一流の折り紙をつけたい。

 このオールスターキャストが、皆三年生で、今回の公演が最後というのは本当に淋しい。

ぜひ、卒業後このメンツで新劇団を旗揚げして欲しいものだ。仙高・育英に負けない名演

を見せてくれた彼女達を、僕は決して忘れない。

 

[2000年7月10日 20時26分48秒]

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東北大学学友会演劇部「怪談・銀の骨鞄」

お名前: 太田憲賢   

 

 例によって、よかった女優さんについて中心に書かせていただきます。

 このお芝居の僕にとってのMVPは、なんといってもウエイトレス役の永井久美子さん

ですね。彼女は主人公が物語のキーとなる不思議な老人と出会う喫茶店のウエイトレスで

して、従って登場する場面は、怪談という設定から、古風な感じの、まあ喫茶店というよ

りはカフェーという言葉が似合うような雰囲気を出したお店とする必要があると思われる

ところなのですが、永井さんの色白・ロングヘアー・狐目の美人というポイントポイント

が、その「古風なカフェーの女給」というイメージに、ぴったりとはまっていたんですわ。

そう。ウエイトレスではなく、ここは是非とも「女給」という言葉を使わせていただきた

い。そういうレトロな風味が似合う人なんですよ。んで、それまで正直いって「なんか退

屈な芝居だなあ。まあ、北村想の芝居って退屈なストーリーが多いし(戸川純のマリイ・

ヴォロンはよかったけど)、演者というよりは脚本のせいだろうなあ。」などと勝手なこ

とを思いながら見ていたのですが、喫茶店で永井さんがでてきた時点で、ハッと目が覚め

たようになりましたね。なんていうの、最近かわいい系の女優さんは結構見てきたけど、

久しぶりに本格的な「美形」という言葉が似合う女優を見たって感じ。それで、自分が美

形であることを自分でも知っていて、そのために気位が高く、ウエイトレスではあるけれ

ども、接客態度でも過度に媚びた笑い方はしないぞ、ちょっとお高くとまっているぞ、と

いう役作りがまた似合うんだなあ。こういう本格派美形女優を仙台で見たのは、そう、「鳥

の庭園」に以前いらっしゃったスルメさんという役者さんを見て以来ですわ。いいなあ、

東北大。また女優さんをチェックするために見に行こうと思わせる劇団が一つ増えて、嬉

しいことこの上なしです。

 永井さんを見たことない人に、彼女がいかに美形であるかを説明するのはとても難しい

のですが(東北大のHPに顔写真とか載ってるのかな?チェックしてないからわからない

けど・・・)、吉田秋生という「櫻の園」とか「バナナフィッシュ」という作品を書いた

有名少女漫画家がいるんだけど、その人のマンガに「吉祥天女」というロングヘア、狐目

の美人がでてくるコワーイ作品がありまして、その主人公に永井さんそっくりでした。是

非、東北大は次回公演で「吉祥天女」の演劇化をしてほしいぞ!(なんてね。ファンの勝

手な戯言です。気にしないで下さい。)

 ところで、この物語は主人公の若者が不思議な老人の家に連れられ、そこで老人の妻の

亡霊に誘惑されるという話でして、そういった意味では亡霊役が最も大人の色気を感じさ

せる女優でないといけないわけです。しかし、残念なことにこの亡霊役の女性が、今回3

人登場した女優の中では、最も色気を感じさせない人だったんだなあ。誤解の内容に言っ

ておくけど、彼女の演技が下手って言ってるわけじゃないよ。つまり、その人の持ってい

る個性として、大人の色気、と言うよりは、むしろ性格俳優的、というか、まあ有名な役

者さんに例えるなら、市原悦子的な感じがする人だったんだね。だから、役者が悪いんじ

ゃなくて、キャストを考えるとき、もう少し適性を考慮できなかったかなあ、と見てて思

いました。物語のラストで老人が主人公の青年に「君はたぶらかされているんだ!」とい

うシーンがあるんですが、もし僕が主人公だったら、永井さんになら絶対にたぶらかされ

るんだけどなあ・・・と思いながら見てましたもん。まあ、女給のコスチュームがものす

ごく似合う人だったから、あえてウエイトレス役を外して亡霊役に持っていくのももった

いない、という配慮が演出にあったのかもしれないし、それはそれですんごく理解できる

んですけどね。

 というわけで、東北大の次回公演は「吉祥天女」が無理なら、昭和初期のモボ・モガ時

代のお話を、永井さん主人公で強くきぼーん!あ、でもその手の話は「ネオ・クラシック」

をやったナインゲージの方が向いてるかな?今野君も東北大関連の人だし、是非次回作は、

彼女を主役で御検討いただきたいものです。ま、あくまでファンの勝手な願望ですけど、

ひとつよろしくお願いいたしますです。

 

[2000年7月10日 20時25分41秒]

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サイマル演劇団「昭和枯れすすき」

お名前: 太田憲賢   

 

サイマル演劇団第11回公演「昭和枯れすすき」

 

 サイマルには佐武令子さんという看板女優がいるんだけれども、1人だけ突出して

魅力的だと、彼女が出番でないときに物足りない思いをするし、また、彼女に万が一

のことがあったりしたら、一気に劇団の魅力が低下するんじゃないか、という不安も

あった。昨年あたりから新人の女優さんが1回だけ登場することがあったが、新人に

こういう言い方は酷かもしれないけど、佐武さんに比べるとどうも見劣りする感じが

否めなかった。ところが、今回新人で出演した藤岡成子さんは、新人ながら佐武さん

に負けないだけの魅力を感じさせてくれ、これでサイマルも二枚看板ができたか、ま

すます層の厚い劇団になりつつあるなあ、とファンとして嬉しく感じたのであった。

 藤岡さんの魅力を一言で言い表すなら、「ちがちゃん的雰囲気」ということに尽き

よう。御存じない方のために説明すると、「ちがちゃん」とは、福祉大出身で現在ラ

ダ・トロッソに所属している千川原友希さんの愛称である。以前に別なところで書い

たが、千川原さんの魅力は、ファンタジーを感じさせるユニ・セックスな役柄がはま

るところにある。代表例としては、福祉大在学時代の「トロイメライ」でのカイ少年

役が挙げられるが、奇しくも今回の藤岡さんの役柄は、「少年秘書」であった。女の

子だけど、男の子っぽい格好をして登場するが、だからといって男臭くならず、どち

らの性にも属していないような、不思議な魅力をたたえている役柄。感情表現も押さ

え気味で、だからといって無愛想というわけでもない、その微妙さが、とてもかわい

らしかった。赤井君が、不思議少女の演出に長けている人とは、意外ではあったが嬉

しくもあった。むしろ、本家のちがちゃんも、最近はこの手の芝居が少ないようだ

が、一度サイマルに客演などされたら面白いのではないだろうか。

 一方の佐武令子さんはといえば、前回のような鼻水ダラダラといったミスもなく、

いつもの魅力を振りまいてくれたところは流石であった。今回は小学生役ということ

で、少女っぽい服装での登場であったが、なんというか、こういう大人の女性が小学

生っぽい格好で出てくるのって、昔のTVでコントに出演してた時のキャンディーズ

とかを思い出させて、そこはかとないおかしみがある。そんな、違和感をもたせつつ

も、かわいいと思わせるのは、やはり佐武さんの持つキャラクターの勝利であろう。

人によってはシャレにならない結果になる可能性もあるわけだから。それと、今まで

男優だけが登場していて、暑苦しい場だったところに、突然脳天気な微笑を浮かべ

て、調子っぱずれな歌を歌う女性が出てくるというシチュエーションは、やはりTV

でバラエティーアイドルが場の雰囲気をかき回して、視聴者に好感を持たせつつ観客

を笑わせる芸と共通するものを感じた。そうか、今まで佐武令子には魅力を感じつつ

も、それを具体的にうまく表現できないもどかしさがあったのだが、彼女の良さって

バラドル的魅力だったんだ、と目が覚めた次第。

 脚本についていうと、今回はいつも書いている小林君の本ではなく、主宰の赤井君

が書いたものだったが、率直にいって小林君の方が一歩勝るなあ、と思った。物語の

なかにドラマ性がなく、ほとんどの時間が1人1人の俳優のモノローグによる思い出

話で終始しているため、ストーリーの流れが悪く退屈してしまった。思い出話って、

物語の登場人物について観客がある程度感情移入した後でならアリかもしれないけ

ど、いきなり登場した人間が思い出話をするのに対してのめり込むというのは、非常

に難しいと思う。しかも、話をしている間、その情景が物理的に眼前に展開するわけ

ではないのだから、ほとんど朗読劇みたいな状況になってるわけで、「演劇」として

ビジュアルを期待してきた僕にとっては、何でいちいち情景を想像しなきゃいけない

んだよという、おっくうさも感じてしまった。やはりこの劇団は、物語の中に山あり

谷ありを作るのに長けた小林君のドラマ性ある脚本を本筋として公演していくこと

が、今後とも望ましいと思われる。

[2000年7月14日 19時34分19秒]

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劇団新月列車「彼女の場合」

お名前: 太田憲賢   

小山ヨウコさんの今回の演技は本当に素晴らしかった。もともと個性的な役者さんでは

あったが、今回さらに一皮むけたという印象だ。

 この「彼女の場合」という芝居は、2月の公演をご覧になった方はご存知だろうが、

恋人の殺人未遂を犯した女性と、彼女を取り調べる男性の2人芝居である。小山さん

という人は、「地上まで200m」が代表的だが、オドオドした役をさせると右に出るのは

いない!というくらいハマる役者で、女版碇シンジか、この人は?と、その時思ったくらい

なのだが、今回、その気の弱そうなキャラクターにプラスアルファして、微妙な表情の動き

を魅力的に見せることができるようになったことに、強く感心させられた。取り調べる側は、

真相を知るために、あらゆる手練手管を使うわけだから、彼女はそれに対するリアクション

として、ある時は狼狽し、ある時は落ち込み、またある時は反発し、と時々刻々と表情を

変えていく。しかし、あまり露骨に表情を変えると芝居として嘘臭くなるし、取り調べ側に

つけ込まれる危険も高いわけだから、その表情は微妙なものにしなければならない。

小山さんは、その微妙さ加減が、実に絶妙だったのである。例えていうなら、富田靖子を

彷彿とさせる魅力的な表情であった。

 この芝居は密室での2人芝居ということもあり、芝居の中に大胆なドラマが次々と表れる

という性質のものではない。また、2月に既に見ているものにとってはオチはわかっている

わけだから、ストーリーを追うだけでは、どうしても退屈になりがちである。しかし、私は

小山さんの刻々と変わる表情を見つづけているだけで、1時間飽きなかった。私のことを、

よく女優のことばかり書いてると批判する人がいるが、そもそも登場人物に魅力を感じられ

なければ、物語(それが人間ドラマであれば特に)に感情移入することは難しいではないか。

下世話な話、好きな女優が出てるからTVドラマを見ているなんていう人は、世間には

いくらでもいるはずだ。そういう観客の視点を代弁する劇評というものがあっったって

構わないだろうと、私は思うのだ。

 では、なぜそこまで私が今回の小山さんに感情移入したか?以前の小山さんの演技では、

いじめられていじけている人間のリアリズムは出ていた。しかし、人間、リアリズムだけ

ではなかなか感情移入しない。逆にネガティブな部分ばかり見せられると、自分の嫌な部分を

見せられているような近親憎悪的感情を抱くことにもなりかねない。

 ところで、私は以前「地上まで200m」の劇評で、ハルカ的存在を私のような人間は

求めている、ということを書いた。ハルカ的存在とは、学歴や能力などという条件を前提と

しないで自分を承認してくれる他者、ということである。今回の小山さんには、その種の

恋人を無条件で受け入れる優しさが、その内面から滲み出るような演技をされていたことが、

私が高く評価したい由縁なのである。この物語の彼氏は、一緒にいたいからと彼女の部屋へ

転がり込み、なし崩しな同棲生活を始めるような人間である。また、仕事が極端に忙しいため、

家事全般は彼女が負担する形となっている。つまり、けっこう身勝手な人間なのであるが、

その身勝手さの内側にある内面的弱さに、彼女は自分の弱さをシンクロさせて、許し、愛して

いるようである。自分の弱さに精一杯で他人に関わっている余裕がないといったような以前の

演技では、この優しさは出せないだろう。自分と同じ弱さをもっているからこそ、共感を

持ちつつ自分の弱さを許してくれる。まあ、そこまで都合のいい人間など、なかなかこの世に

存在しないだろうが、だからこそ演劇という虚構の世界で登場する意義があると思うのだ。

 だから極端な話、今回の芝居には相手役の男性は必要ないともいえるのだ。暗転した舞台に

パイプ椅子に彼女を正面に座らせ、ピンスポで照らして、男性役の声はテープで流しただけ

でもよかったと思う。なぜなら、彼女がなぜ恋人を殺したか不思議に思い、なおかつ彼女の

魅力に興味を抱く男性側の心理に観客はのっかっているのだから。

 逆に、彼女が恋人を殺そうとした狂気については、小山さんよりは、2月の斎藤可南子さんの

「キレた」演技の方が、より説得力があっただろう。しかし、それは役者毎の持ち味なの

だから、無理して不自然な演技をされるよりは、今回の役作りの方がよっぽどいいと思う。

彼女の優しげな表情は、ストーリーを正確に伝えること以上に私という観客を惹きつける力を

持っていたのだから。

[2000年6月26日 21時2分31秒]

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劇団ミモザ『どこまでもドア』 

お名前: 太田憲賢   

 劇団ミモザについては、以前より好きな劇団の一つとして、この欄で紹介してきたが、

新作「どこまでもドア」で、さらにまた面白さを増してきた観があり、ファンとして

うれしいかぎりである。

 よくなってきた理由として考えられるのが作品がテーマ重視からギャグ重視に変わって

きたことである。もちろん骨太のテーマを持った素晴らしい作品というものは、演劇界には

たくさんあっただろうし、それらを一概に否定するものではない。ただミモザの場合、

テーマの出し方があまりにもストレートすぎたため、観客は物語を見せられているのか

青年の主張を見せられているのかわからない観があった。典型的例としては一昨年の演劇祭

「星空の迷子達」で、例の東京の演劇評論家が激怒した、ラストシーンでの犬の”演説”が

挙げられる。しかし、前作「キャラメルマン」を経て、今回の「どこまでもドア」では、

芝居の前面を占めるものは、ナンセンスなドタバタギャグであり作品のテーマと呼ぶべき

部分は、かくし味的に、ほんの少し、フッと顔を出す形にとどめられている。その結果、

過去の作品に感じられた「説教臭さ」が消え、観客は無心で作品を楽しめるようになった。

さざなみ氏の脚本家としての技量が、この二年で急速に上達しているということだろう。

 もちろん、ギャグというのは努力すれば上手くなるものでは必ずしもなく、ある種、

直感的な才能だということは、ギャグにたずさわる方の話を読むとよく載っていることだが、

さざなみ氏の場合は、幸運にもその手の才能がもともと備わっている人だったように思う。

昨年紹介した「キャラメルマン」でのペンギンのコントにも、すでにその片鱗はあらわれて

いたのだが、今述べたように訴えるべきテーマにとらわれすぎていた意識が、その才能を

引きだすことを阻害していたのだろう。その意味で、ナンセンスに徹した今回の変化を、

私は強く支持したい。

 もちろん、本作にテーマが全くなかったわけではない。本作はデパートのエレベーターに

閉じこめられた客の青年とエレベーターガールが、突然開いたエレベーターの向こうに延々

と続くドアを苦労しながら開けていくというストーリーで、開けるにあったての七転八倒ぶり

がドタバタとして楽しめる仕掛けとなっていたわけだがこの、開けても開けても延々とドアが

続くという閉塞感は、昨年秋に福島の劇団・鳥王を紹介した時に用いたキーワード「終りなき

日常」を、さざなみ氏なりの手法で表現していると思うのだ。最後の黒いドアに「このドアは

開けてはいけません」と書いてあったという展開は、この私の推測を裏付けるに足る、

象徴的なオチであろう。しかし、そのテーマを以前のように押し付けがましいものではなく、

笑いの中にさりげなくしのばせることができるようになったのが、さざなみ氏の進歩の跡なの

だ。

 ところで、今回はさざなみ氏と後藤尚子さんの二人芝居だったのだが、後藤尚子さんの

かわいらしさには、本当にマイッてしまった。以前、水上駿氏が、私が事あるごとに、

出演する女優のかわいらしさに言及することについて、演劇ファンを増やすためには有益な

手段だが、劇評としては認めない、といった趣旨のことを書かれていたことがあった。

水上氏には、私が逆境にあった時に私を支持する書き込みをなされたほとんど唯一の方であり、

その意味では大変感謝している。しかし、女優のかわいらしさを説くことについて異論を

述べられていることについては、改めて私の見解を述べておこう。

 たまたま今日(5月21日)読んだ朝日新聞の読書欄で、コラムニストの中野翠氏が、

最近の映画評は技術論ばかり多く、役者のキャスティングの妙についての意見が少ないことに

不満をもらされていた。氏は、映画とは生身の人間が演ずるところが小説やアニメとの最大の

違いなのだが役者を軽視する現在の風潮はおかしいと思っているようだ。私は氏の文章を

読んで我が意を得たり、と思った。なぜなら、演劇もまた生身の人間が演ずるものであり、

さらに言えばフィルムを通して間接的に鑑賞する映画以上に、ライブで役者を直接見る

演劇の方がより役者の個性は重視されてしかるべきだからだ。そして「かわいい」と

いうのは、役者として重要な個性の一つであるはずだ。

 今回の後藤さんの場合、早口でしゃべるシーンで、少々セリフが聴き取りづらいところが

あったのが今後の課題だろうが、そんな課題を補って余りあるほどの、豊かな表情、

テンションの高さで、観客に「かわいい光線」とでも言いたくなるような魅力を振りまいて

くれた。かわいい女優といえば、去年宮教大でとり上げた吉田みどりさんもいいが、後藤尚子

さんも、宮城県内では現在1,2を争うかわいい女優さんの一人である、と強調しておこう。

[2000年6月12日 0時13分35秒]

 

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「Darling my dear honey] 

お名前: 太田憲賢   

泉館山高校演劇部+劇団オシロスコープ合同公演

「Darling my dear honey」

 去年の高校演劇コンクールが、育英の大江有美、仙高の佐藤弥子、朝理恵といった、超高校級

の役者が大豊作だったのは、以前の劇評で書いた通りだが、今挙げた役者達と負けず劣らずの

実量を持ちながらも、少し影の薄い存在となっている、惜しむべき人材が泉館山の佐々木彩で

ある。

 なぜ影が薄くなっているかというと、去年の泉館山は残念ながら予選落ちしてしまったから

である。しかしその理由は、前回富谷高校のところでも書いたが、館山の出場地区が泉・宮城野

地区という超激戦区だったためで、現に館山は予選通過こそならなかったものの演技・演出賞を

受賞しているのだが、その対象となったのは主として佐々木彩だったと、私は思っている。

 実はその予選の芝居を、たまたま私と佐々木久善さんは一緒に見ていたのだが、それは「アン

ソニアの胸元」という作品で、主に友人の家で留守番を頼まれた女性とTVを修理に来た電気屋

の二人によるホラー風コントという内容のものだった。佐々木彩は電気屋の役だったのだが、

彼女のボケの面白いことといったらなくて、最初から最後まで笑い通しだったことを記憶してい

る。以来、私と佐々木久善さんの間で「あの時の館山の電気屋はスゴかったよね」と語りぐさに

なったのは言うまでもないことだ。

 じゃあ何で予選落ちしちゃったのかっていうと、私はよく当欄で高校野球を比喩として出して

るけど、館山ってエースだけが突出している野球部みたいなところがあるのだ。確かに育英も

大江有美というすごいエースがいたのだが、彼女だけではなくワキを固める役者もなかなかの

人間がそろっており、いわば一番から九番まで好打者が揃っている重量打線的な布陣だったのに

対して部員が2〜3名しかいない館山は総合力で負けてしまった、という趣があったのだ。

 しかし、佐々彩の超高校級の芸達者ぶりを再び味わいたいと思っていた私と佐々木久善さん

は、さる五月七日に当公演があることを知るや、いそいそと二人して出かけていったのであっ

た。

 そして・・・やはり彼女は面白かった!今回は宮城野高校の有志で作った作ったという劇団

オシロスコープとの合同公演であり(余談だが、何で宮城野高校の演劇部としてコンクールに

参加しないのだろう?勿体ないな)センチメンタルなストーリーの話だったためか、ギャグメー

カーの彼女は完全なワキ役で出番も少なかったのが残念だったが、それでも彼女の面白さは十分

堪能することができた。

 今回の彼女は恋に悩む主人公の男の子の腐れ縁的な女友達という役どころで、実は彼女も主人

公の彼のことが好きなのでは?と思わせるシーンも散見されるのだが、主人公は三の線の彼女で

はなく二の線のヒロインとくっついてしまうのであった。

 そんなわけで彼女はちょっとほろ苦い役回りなのだが、そこはギャグメーカーの彼女である。

二人がくっついた後の放課後の教室でティーン紙の身の上相談のコーナーを読みながら、やさぐ

れ口調で、ツッコミを入れるシーンが、もう圧巻!相談者の手紙をブリッ子口調で読んだ直後

に、「バカヤロー、ふざけんじゃねーよ!」と(本当にそう言ったのかは脚本持ってないので

不正確ですが)突然野太い口調になってツッコミを入れるタイミングと口調が実にうまい。

 それで思いだしたのだが他の役者がセリフを覚えるので精一杯だったのか、しゃべり方が単調

な棒読みか、喜怒哀楽が極端な一本調子だったのに対し佐々木彩のセリフ回しだけが、非常に

自然体なしゃべり方をしていたのが印象的だった。こういう基本だが、なかなか難しいことを

キチンとできるからこそ、今書いたような臨機応変なツッコミも上手にこなせるのだろう。

 彼女は現在三年生だそうだが、秋のコンクールには参加するのだろうか?受験との両立という

問題が出てくるだろうが、去年の育英・大江有美も三年生ながら出演していたこともあるので、

何とか出てきてほしい!というのが筆者のワガママな願いである。確かに館山は彼女のワンマン

チームではあるが、去年だって他校との実力は紙一重というところもあったし、もし今年他校の

実力差がさらに接近していれば、逆転で予選突破の可能性は十分あるのと思うのだ。

 そして、卒業後もぜひ、自分で新劇団を旗揚げするなり、どこかの劇団に入るなりして演劇

活動を続けてほしい。それだけのタマであると、私は今回彼女を再びウォッチし、より思いを

深くしたのである

[2000年5月14日 22時45分55秒]

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斎藤可南子プロデュース公演「トランス」 

お名前: 太田憲賢   

個人的にいろいろ思うところがあって、しばらく演劇鑑賞から離れていたが、久しぶりに見た

本作が、面白く、なおかつ執筆意欲をかき立てるものであったため、久しぶりに劇評を書いて

みようと思った。

 この「トランス」という作品については、鴻上尚史の代表作ということもあり、私の回りの

演劇好きにも見たことがあるという人が何人かいるのだが、よく聞く感想としては「前半は

普通のストーリー仕立てで進んでいくのに、後半突然ワケがわかんなくなるところが不満だ」

というものが多い。これについては私も今までは同意見で「仲の良い三人の親友のうち一人が

分裂病にかかる。精神病医と付き添い人の二人の懸命な看病」という図式は、看病する側に

共感しながらストーリーに違和感なく入っていけるものなのだが、三人のうち誰が精神病なのか

実はわからないという後半のストーリー転換は、友情ものが突然、謎解きモノに変わってしまう

という不条理に、今まで物語に熱くなっていた自分に、急に冷水をかけられたような不快さを

感じていたのである。

 しかし今回の斎藤版「トランス」は、その「冷水をかける」という行為をなぜ作家はせずには

いられなかったのか、という作家の心情までが理解できるような演出となっていたため、不満

以上にその屈折した作者の心情に共感を持つという満足感を得ることができた。

 問題のクライマックスシーンは、三人のうち二人が医者と患者の関係になり、治療が山場を

迎えてお互いが感極まる方向へ展開していく。すると脇で傍観していた三人目のキャラクターが

突然パン!と手を叩き、「はいそれまで。薬の時間ですよ。」とか「違う。それはお前の妄想

だ。」と二人をさえぎり、実は三人目が医者で、盛り上がっていた二人が演じていたのは、彼ら

病者の妄想だった、というオチを三人が立場を換えて延々と繰り返していく、というものだ。

 これを今までの私は、「誰が患者で誰が医者であるか正解を探すクイズ仕立て」と思って見て

いたのだが、実はこれは演劇という物語と現実の関係を、病者の妄想と現実という関係でメタフ

ァーとして表現しているものではないか、と思えてきたのだ。

 本作品では妄想という言葉がキーワードとして頻繁に使われる。妄想が現実でない物語を意味

するなら、演劇という現実でない物語を見て、感動したり笑ったり泣いたりしている観客は、

まさに妄想の世界にいる病者とシンクロしていないか?「パン!」と第三者に手を叩かれて、

盛り上がった表情から病者特有の無表情に変化する彼ら役者の顔は、芝居や映画を見終わった

後の「ああ、これって、物語だったんだよな」と、現実に引き戻されて虚脱した気分になる我々

の表情と同質のものであろう。

 つまり、作者は「どれだけ気持ちが盛り上がったり、感動を覚えたりしてても、しょせん物語

は物語、現実とは違うんだよ。」と、ある種メタな視線から屈折したメッセージを観客に送って

いるのではないだろうか。私自身も数多くの演劇を見、多くの感動をそこから得てきた。しかし

数をこなせばこなすほど、それが所詮現実ではない世界の出来事だという空しい思いも持つよう

になった。作り手と受け手という違いはあれ、長期間演劇に関わってきた鴻上氏もまた同様の

屈折を持つから、それがあのクライマックスとなって出たのではないか。

 私がなぜ今回の演出でこの視点に気づいたかというと、たまたま会場が青年文化のパフォーマ

ンス広場だったことによる。このスペースは舞台の後ろがガラス張りになっているため、暗転

や、凝った照明は不可能だし、外の通行人が見えること等で常に日常と地続きなっているため、

物語に没入することが極めて困難な作りになっている。本来ならこれは劇場としては致命的な

欠陥なのだが、今回は観客が物語に没入しきれず、やや冷めた視点から舞台を見る構造が、

作者が「妄想=物語」に対して、一歩引いた屈折した視点を持っていることに気づかせることを

容易にしたのである。つまり、両者が近い立場にたつ形態になっていたため、外界から遮断され

た劇場では隠れていたものが、むきだしになったというわけだ。

 これはもし斎藤さんが最初から意図した会場選択としたのなら相当なモノだが、恐らくケガの

功名的ものだろう。しかし、私は以前から何度も書いている通り、作り手の意図しないもので

あっても、観客にとってよい結果を生むものは肯定的に評価する考えだから、今回の効果にも

大いに満足するのである。 

 しかし、この視点でラストシーンを見ると、この物語は手放しのカタルシス話ではなくなって

くる。登場人物三人が同時に、「私の愛する人は心を病んでいるが、その人は自分を必要として

いるため、私は幸せです」といった趣旨のセリフをモノローグするのだが、素直に物語にひたっ

ていれば、このシーンは愛情により互いを必要とする三人の関係に感情移入して泣けるところで

ある。しかし、一度この物語を一歩引いたメタ的視点で見てしまうと、自分には自分が病気なり

心の悩みなりで苦しんでいる時、自分を必要とし、愛情をもって接してくれる人の存在がない

ことに気づき、別の意味で泣けてくるシーンにもなり得るのだ。それは以前同じ斎藤さん演出の

「地上まで200M」におけるハルカ的存在が、我々の周りにはなかなか存在しないという現実

を、以前私が劇評で指摘したことに通じるものである。その意味で、「200M」「彼女の場

合」「トランス」と、ここのところ傑作が続いている彼女の作品群には一本の同じテーマが存在

しているといえるだろう。

[2000年5月7日 19時41分45秒]

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サイマル演劇団第10回公演「マリファナ・ベル」 

 岸田賞を受賞した劇作家・松尾スズキ氏(大人計画主宰)の著書「大人失格」に、「ま

ぬけへのベクトル」と題したエッセイがある。その中で、松尾氏は世の中に転がっている

「まぬけ」の面白さについて考察しているのだが、氏がある劇団を見に行ったときに役者

の1人が鼻血を流し続けていたエピソードについて書いている。その役者は殴り合いのシ

ーンで、偶然相手の役者のパンチを受け、鼻血が出たのだが、乱闘シーンが終わり静かな

シーンになっても、その鼻血が止まらなかったそうだ。以下原文を引用する。

「・・・少人数の役者が一人何役もこなす早変わりの多い芝居で、彼も子供になったり老

人や黒人になったり、クルクル役を変えて出てくるのだが、どの役でどのシーンに登場し

ても、彼の鼻からは一筋の血が垂れているのだった。従って、我々も彼が現れるたびに「さ

っきの鼻血の人」「ああ、また鼻血の人」と、芝居の熱さとは裏腹に心萎えていくばかり

なのであった。」

 ここで松尾氏は、表面的には「心萎えていく」と、一見ネガティブな表現を用いている

が、ギャグを得意とする松尾氏のこと、勿論本音では読者を笑わせようとしている文章な

訳である。つまり、僕がこの欄でしばしば述べている「作り手の意図とは別の楽しみ方」

で言うなら、一筋の鼻血によってストレートに解釈すれば、芝居の雰囲気はぶち壊しにな

っているのだが、逆に言えば、鼻血によって生じた、そのまぬけな破壊力が面白いだろう!

というのがこの文章の趣旨なのである。

 僕もこの文章を読んで、役者が鼻血をたらたら流し続けたという、その芝居を見たかっ

たなあ、という強い思いに駆られたのだが、先日のサイマルの新作「マリファナ・ベル」

で、まさにそれに似たようなハプニングに遭遇したのである。ただし、それは「鼻血」は

ななく「鼻水」であったが。

 その役者さんは、いつもハスキー気味の性質なのだが、僕が見た日はそれに加え鼻声で

もあり、目もやや涙目であった。それで僕は、「ああ、東京公演とかハードスケジュール

だったから、風邪でもひいたのかな。」と思ってみていた。しかし、そのうちその役者さ

んの鼻の下がひどくテカテカ光り出してきたのである。最初は照明の関係かな、と思って

いたのであるが、何しろエル・パークとは違い、サイマルの稽古場は役者と観客の距離が

非常に近い。それが、大量の鼻水であることに気づいたときは、やっぱり相当な衝撃を僕

は受けざるを得なかった。だって、赤塚フジオのマンガに出てくるハタ坊みたいだったん

だもの。あの「ダジョー」と語尾につけるのが口癖の鼻水たらしたガキね。

 今、ここでサイマルの劇評を書くに当たって、物語のテーマやストーリーについて思い

だそうとしたのだが、あの鼻水のインパクトに比べたら、それら本筋に関することは堂で

もいいことのようにしか思えないのである。先にも書いたが、僕は作り手の意図とは別の

ところで芝居を楽しんでいいという考えだから、こういう芝居があってもいいと思うのだ。

 それにしても衝撃だったのは、その鼻水を流していた役者というのが、赤井君でもカー

ツでもなく、よりによって僕が当欄で常々高く評価している、「仙台のマレーネ・ディー

トリッヒ」(と僕が勝手に読んでいる)佐武令子だったのだから、事態がいかに深刻だっ

たか御理解いただけよう。

 赤井君の変なしゃっくりといい、押野氏の尻からキノコが生える病といい、そして今回

の佐武令子の鼻水ダラダラといい、この劇団は奇病変病にかかる人間がやたら多い。劇団

のカラーに似合っているといえばそれまでだが、やっぱり役者は体が資本なので、佐武さ

んも次回公演では、ぜひ「二の線」復活をお願いしたいものだ。松尾氏も先に挙げた本で

こう書いている。

 「役者にとって「舞台上で鼻血を出さない」ということは、セリフを忘れない、出とち

りをしない、等の約束事よりも、さらに切迫した戒めである」と。

まあ、サイマルの場合、毎回チラシに「観客に感動よりも衝撃を」と書いている劇団だ

から、たとえ作り手側の意図に反したものではあっても、観客である太田に大いなる衝撃

を与えたという意味では、今回の「佐武鼻水事件」は、劇団としての目的を果たしたハプ

ニングといえるだろうけどね(笑)。

 

[2000年1月26日 17時37分42秒]

 

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升孝一郎とがらくた本舗「ワガクニ」

劇評バックナンバーの「越前牛乳」の項で、関ステレ夫君が、「批評で才能という言葉

を連発する人は信じません。」という文章を書いていたことがあった。僕なんかはヒネク

レ者だから、ようし!そんならこれから「才能」という言葉を連発した劇評を書いてやろ

うじゃねえか!と思ったものだが、その根拠として彼が書いたのは「(力の差とは)ちょ

っとしたことに気がつく人か、そうでない人かとかその程度のことです。」というものだ

った。しかし、その「ちょっとしたことに気づく」か気づかないかという違いは、決して

「その程度」と軽視すべきことではなく、やはり立派な「才能」と呼ぶに値するものでは

ないだろうか、と僕は考えている。僕は自分自身が役者や演出をした経験はないが、職場

や学校など過去の自分の社会経験に照らし合わせると、「言われなくても気づく」「言わ

れて気づく」「言われて気づいても直せない」「言われても気づかない」というのは、や

はり「才能」と呼ぶ他ない、人それぞれの重要な個性と感じられるのだ。

 なぜ、こんなことを書いたかというと、今回の関君の芝居を見て、関君自身の演技のダ

メさ加減を、僕が、それこそ「気づく」のに、ある「才能」のある人と比べて大幅に遅れ

てしまったのだなあ、ということがわかったからだ。

 その、「才能」のある人の名を酒井福子という。彼女は、以前「モナド企画」という劇

団の主宰であり、関君が団員であり、僕はモナドの熱烈なファンだった。もう5年も前の

話、何かの機会で僕と酒井さんが雑談をしていたとき、ふと酒井さんが暗い顔をして、「太

田さんは関さんの演技をどう思いますか?」と聞いたことがあった。僕は、「彼は面白い

し、モナドに合ってると思うよ。」と話したのだが、彼女は関君に非常に気を使う言い回

しであったが、要は関君の演技はダメで、彼をやめさせたい、という旨のことを述べたの

であった。

 その後、実際に関君はモナドをやめたわけだが、今にして思うと、今回の「ワガクニ」

で見せた、関君のダメさを、既に5年前に彼女は予見していたんだなあ、ということに気

がつき、やはり彼女は「気づき」の面で、「能力」ある演出家だったのだ、と改めて感慨

に耽らざるを得なかったのであった。

 今回の関君のダメさを一言で言うなら、「過剰さが親父ギャグレベルでしかない」とい

うことだ。そもそも「過剰」というものは、「天然ぼけ」という言葉にも出ているように、

本人は自然に振る舞っているつもりなのだが、自然とにじみ出てしまうところにあるのだ

と僕は考えている(もちろん、自然を装った計算された過剰さを演じられる役者もいるだ

ろうが、そこまで高いレベルの話を今しているのではない)。今にして思うと、関君のモ

ナドでの当たり役、マイケル一次郎(ビニール100%)にしても、カトウ(ベルト室内)

にしても、静的な役柄にも関わらず、関君の内面から出てくる過剰さとのギャップが面白

いものであった。それが、「鳥庭」に移ってから、彼はベタな演技をすることが、観客を

喜ばせることだという勘違いをし始めたように思う。以前に僕は、「何で鳥庭に移ってか

らそんなつまらない演技をするようになったのだ。モナド時代のような演技すればいいじ

ゃん。」と彼に話したことがあった。すると彼は「いや、郷にいれば郷に従えですよ。鳥

庭の劇団としてのカラーを壊してまで、自分を出すわけには行かない。」と答えていたも

のだ。だから、今回の「ワガクニ」では、きっと鳥庭とは違った味の演技をしてくれるの

だろうな、と期待していたのだが、全然変わってないんだもん。「アマリリス」や「ニキ

ータ」の時と(それ以降は、「もう義理で鳥庭の芝居見に行くのはやめた。」と思って鳥

庭の芝居は見てないので、彼がどんな演技してるか知らないけど、でも今回の演技を見る

限りでは、ベタさにますます拍車をかけていったんだろうな)。

 きっと、笑ってくれる観客がいることによって、関君も「ああ、これでいいんだな。」

と思っちゃってるところがあるんだろう。実際、職場の上司のつまらない親父ギャグでも

笑う人って世の中にはいるからね。そういう人を対象にして演劇活動を続けるのなら、双

方にとって幸福だろうから、僕がどうこういう筋合いはない。ただ、僕はそういう芝居を

つまらないと思っているだけの話だ。

 思うに、升君と関君の役柄がミスキャストだったのではないか。ふたりの役柄を入れ替

えれば、双方の長所が出たように思うのだ。凄みのあるナチ風の制服を着た男、という役

柄は、トヨエツ的風貌を持つダンディーな升君にこそふさわしい。実際、最後に升君が制

服を着て銃を持って叫んでいたシーンは、メチャクチャ格好良かったもん。そして、関君

は、家賃滞納してダラダラしている男が似合う役者であることは、彼のひょうひょうとし

た雰囲気から考えても自然なことだ。もしかして、お互いに芸の幅を広げるために、ワザ

と自分の得意と逆な役柄にチャレンジしたのか?でも、稽古レベルで実験するのならかま

わないが、実際客に見せる段階では、やっぱり一番面白くなりそうなパターンで持ってき

て欲しかった。稽古場での実験の結果、「これなら大丈夫!」というよっぽどの自身があ

ったのなら別だが・・・。 

 

[2000年1月25日 10時33分12秒]

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