[2000年1月17日 15時15分57秒]
お名前: 3P両論
南河内万歳一座のプリミティブなタッチの宣伝チラシは、 演劇祭で配付される多種のチラシの中でスゲー気になるインパクト!! あのヘナチョコイラスト?ミナミカワチって?ジャイアント馬場と後光? 吉本新喜劇のようなものを想像しましたよね? 実際観劇すれば大阪で“のようなものは”要らないわけで、 見事にこっちの短絡的な想像を超えたスゲー芝居でした。 1秒間に30万キロ進む光の速度に近付くと 時間の概念は止まってしまう、でも動いてる。 何光年先から飛んできた流星なんだろう、あれは。 日本が未来へ向かって暗中模索してる けど未来はやってくる。どこへ飛んでいくんだろう? 制御の効かなくなった電車なんだろうか、 この問題提起に電車からおりた街、町、のシーンがあった。 人間社会が作った理想の暮らしと現実を 帽子のみの衣裳(小道具)変えで演じられる力と プランナーのセンスは、脱帽(洒落うまい?) シナリオの奥には四方八方に拡散し 臨海するイマジネーション(Oh!イマっぽくてヤバイフレーズだ) が込められていたっすねー、 他の劇作家さんも当然イマジネーション注いでるんだろう、 けど観客がメインテーマや意図を判断できても、 後でジワジワと個人勝手にいろんなことを想像する楽しみが少ないのは、 自分の貧弱な感性もあってちょっと悔しいなー アガリが何処か判らないスゴロク、出た目の停まった所で起きる そこの社会の概念と人間の多種多様の行動。 頭上には流れ星がたくさん。 月齢2.0 月の出7:42 11/9 at sendai[1999年11月14日 18時43分29秒]
お名前: 糸
み終わった後の「異」和感。 新しい劇団に対する先入観なのか。 パンフレットから受けた印象と違ったせいなのか。 演出も、舞台も、役者もよかったのに どうにも消化されないもの、歯がゆいものを抱いて会場を出た。 消化されなかったのは、私の感覚の問題だけではなかったと思う。 脚本そのものが、自ら出したテーマを消化しきれてない印象を抱いた。 古びた建造物が、見知らぬ駅になり、高度経済成長期の団地になり、 行き先のしれない電車になり、廃墟になり場面はめまぐるしく移り変わる。 同時にそこに居合わせた面々(役者)も立場と役柄を替えていく。 うまい演出で、20世紀という時代へのレクイエムと、がむしゃらに21世紀 (ここではない何処か)へ向うわたしたちの姿を浮き彫りにしていく。 その一方、冬服の群像の中で唯一「夏の終わり」にいるような半袖の 「青年」「少年」かれらはそれぞれの「過去」「未来」なのか。 重なりそうで重ならない。 書き込まれてしかるべき部分が微妙にぼやけて関係性が見えてこないのだ。 と同時に、それまで丁重に描かれたエピソード群も同様につながっていかない。 何の為に高度経済期の団地の様子をあそこまで描いたのか。 「つながらない」が為に、単純な時代への郷愁か、20世紀に対する自虐的 な反省だけに終始したように思えてくる。 最初に「無差別殺人事件」を描いた意味が、最後に少年がつぶやく「ざま ぁみろ」を引き出す為だけなら、「青年」と「少年」の関係と、彼らが出会う意味 (それは同時に、私たちが抱く問題、共感点=共感でもある)をもっと書き 込んでもよかったと思う。 作者がいわんとするテーマは、重いと感じるほど繰り返されているのに そこにたどりつけない。そういう歯がゆさを感じた芝居だった。 もう一度 時間を経て消化された「流星王者」を観たいと思う。
[1999年11月10日 16時28分16秒]
お名前: 太田 憲賢
八歳の少年の眼から見た、ある家族の崩壊を描いた、陰惨きわまりない物語であった。 主人公の少年・ソウジは八歳の誕生日を迎えた日に、突然周りの大人がみんな子供に見 えるようになる。同時にソウジ自身の精神年齢も二十歳にまで成長してしまう。つまり、 彼の目からは他の人間が、実年齢ではなく精神年齢で見えるようになったわけだ。しかし、 これは決して喜ばしい変化ではなく、逆にこの変化が起こってから、ソウジの家庭は崩壊 へ向かっていくのだ。 彼の父母は、それぞれ別の職場で働いているのだが、二人とも自分の職場の同僚と不倫 を始め、当然それと比例して二人の関係は冷えてくる。ソウジの兄は二浪していることか らくるコンプレックスから両親とケンカして家出。家に一人いる祖父はボケが激しくなり、 両親から疎んじられ、家での居場所がなくなっていく。 ここまでのストーリー展開で、察しのよい方はおわかりになられたと思うが、八歳の少 年が二十歳の精神年齢にならざるを得ないという設定は、家庭不和から子供の頃から大人 としてのふるまいを余儀なくされることによって生ずる、アダルト・チルドレン(以下A Cと略す)を、そのまんま比喩しているのだ。 そんなある日、ソウジはやはり崩壊した家庭にすむ少女・ノリコと学校の図書室で出会 う。彼女もまた精神年齢だけ大人になったACなのだが、そのノリコはソウジにシェイク スピアの「真夏の夜の夢」を見せ、ソウジが急に大人になったのも、家庭がおかしくなっ てきたのも、魔法をかけられたからだ、と解説する。そのため、ソウジはその魔法を解け ば、物語の「真夏の夜の夢」のように、現実もハッピーエンドになるだろうと考える。 しかし、現実は物語のようにうまくはいかない。祖父は居場所がないことへの怒りで家 出を敢行した後、孤独で悲惨な死を遂げる。ソウジが唯一心の頼りとし、片思いの対象と していた、ホームヘルパーのコバコ(彼女は両親が共稼ぎのため、ソウジの家に雇われて おり、ソウジの眼には実年齢と精神年齢が同じ珍しい大人として信頼のおける数少ない人 間だった)は、ソウジの目には子供にしか見えない兄と、「できちゃった結婚」をしてし まう。両親も祖父の死を機に正式に離婚。と次々にソウジを襲う不幸の連続は、まるで六 十年代末に流行した、高橋和巳の小説のようだ。 居場所をなくしたソウジは、ノリコに教えられたように菓子パンを暴食するようになる。 彼らACは、菓子パンを食べると、まるでマッチ売りの少女のように、目の前に幸せだっ た頃の思い出が一瞬ではあるが蘇るのだった。 ものすごく悲惨な話のように見えるが、では目を背けたくなるかというとそうでもなく、 むしろストーリーに強くひきこまれている自分に気づく。なぜなら、人生なんていいこと ばかり続くわけはなく、むしろ嫌なこと、不快なことの方が多く起こるということを、我 々は経験的に知っていて、自分よりはひどい境遇かもしれないが、程度の差こそあれ似た ような現実を抱える我々が、ソウジに感情移入せざるを得なくなるのだ。 本作の原作者・大島弓子は、それまで「白馬の王子様があらわれてメデタシメデタシ」 とか、「メガネを外したら、それまで地味でブスだと思ってた私が、突然美人に早変わり して、クラス一の素敵な男の子に告白されちゃった」といった、予定調和の絵物語的だっ た少女マンガの世界に、純文学的ストーリーを持ち込んだ、少女マンガ界の一大変革者の 一人として有名である。つまり、かつての文学青年が、太宰治を呼んで「この人だけは自 分のことをわかってくれる!」と、人生を生きる上での糧としたように、マンガが文学に とってかわるようになった七〇年代以降から、現実社会は「白馬の王子様」があらわれる 絵物語ではなく、不幸なことや嫌なことだってたくさんあるんだよ、とリアルな人生のガ イドブックとして、彼女の作品は支持を集めたのだろう。だから、本作がシェイクスピア の「真夏の夜の夢」のようにハッピーエンドにならないのは、ある意味当然のことだ。こ の場合の「真夏の夜の夢」は、大島弓子以前の予定調和的少女マンガ世界のメタファーな のだ。 このように考えていくと、もし不幸になったときの対策として彼女が出したプランとい うのも、ペシミスティックだが実用的だ。ソウジやノリコはパンを食うことによって思い 出を見た。つまり、現実なんて個人の力じゃどうすることもできないほど大きなものなん だから、いっそ夢に逃避しちゃうのが一番ですよ、と言っているわけだ。この辺が、同じ 夢をテーマにしたOH夢来’Sの芝居と正反対なところが面白い。OH夢来’Sの芝居の 中での夢は、前向きな目標だった。しかし本作で述べられる夢は、後ろ向きな逃避。どち らに共感するかは人それぞれだろうが、大島作品が、長い間多くの人々の心をとらえて離 さないのは、結局、OH夢来’Sのいう夢が、かつての少女マンガと同質の「絵空事」に つながることを意味するように、私には思えてならないのだ。
[1999年12月17日 9時7分12秒]
お名前: 井伏銀太郎
今回の演劇祭を振り返って 今回の演劇祭は、私の見た作品では未来樹シアター、六面座など完成度の高 い作品もあり、他地域からも南河内万歳一座、新人類人猿、韓国の劇団民衆 などが密度の高い公演をした。 しかし発表会的ミュージカルの上演もあり何故演劇祭で?と言う疑問の残 る公演も多かった。 もちろん市民参加型の公演もあっていいが、やはり仙台演劇祭ならではと いう充実した演劇を期待してしまう。 主催者も、劇団や観客にいい環境での舞台の環境を提供して欲しい、小劇場 演劇に適していないシアターホール、交流ホールばかりではなく、たとえば 一番大きい練習室を期間中劇場に改造するアイディアなどはどうだろうか。 141も平日にギャラリーホ−ルではなくて、休日も含めたスタジオホール での公演を企画して欲しい。それこそ仙台市長が先頭になって、縦割り行政 の壁を破って欲しい。 プロデュースCOO COO 「キャバレーソバージュ」 「キャバレーソバージュ」という枠組みの中で、それぞれ、シャンソ ン、アクロバット、バレエ、演劇を楽しんでもらおうという趣向なのだろう が、肝心のキャバレーのわい雑がなくキャバレーのショーというより舞台の 作り方が大道芸に見えるのだ。時代背景や戦争のイメージは最後の詩の朗 読と、歌でぼんやりわかる程度で、とても1950年代の、 パリの雰囲気 や、時代性が感じられない。 だから、れぞれのパフォーマンスは面白い が、ただ色々なパフォーマンスを横に並べただけという感じしかしなかっ た。 確かに試みとしては面白いが、見終わったあと、演劇を見たというより、 それぞれの芸を楽しんだという感じしか残らなかった。 SCSミュージカル研究所 「Is it LIFE?」 一つの作品としてのミュージカルを期待して見に行ったが、演劇じゃないざ んすというコメントのとおり、ミュージカル研究所の発表会だった。発表会 の宿命か全ての団員に華を持たせるために 、歌や踊り一人一人の出番が多 すぎて物語に締まりが無くなっていた。休憩を入れて二時間四十分は長かっ た。 劇団新月列車 「地上まで200M」 同じ設定での男女別バージョンの試みは演劇祭ならではの企画と思った。 女性バージョンを見た。大道具を使わなかった点、地下200メートルの シェルターの密閉感が出なかったところが残念だ。 ロケットハウス「ロケットハウス」 演劇祭には珍しく旗揚げ公演だった。三十歳の自分たちの年齢の問題を舞台 にしようという点は面白かったが、舞台設定が1970年のテレビドラマ的 で、善人しか出ないところが気になった。これからの可能性を感じさせる舞 台だった。 わらび座「菜の花の沖」 劇団民衆「ヨッチェン イ プムバ」 劇団新人類人猿 「KYO-KA -水の記憶-」 言葉を極力押さえて映像とダンスで、泉鏡花のイメージを表現していた。 会場のせいか、イントレの外部に客席を置いて、内部て演じていたので、 俳優の息づかいをもっと聞きたかった 南河内万歳一座「流星王者」 現代を終着駅のわからない急行列車に例えた物語や30名近い役者の群衆 シーンが素晴らしかった。今回は新作だったが、ぜひ再演の代表作をもっと 小さい舞台で見たくなった。[2000年1月9日 16時34分27秒]
お名前: 川島文男
第十回演劇祭の総括 昨年の総括では「出口の見えぬ演劇祭」と書いたが、今年は「張り子で飾った演劇 祭」と感じた。昨年のように劇評モニターの中から「劇評が出来ない」といった類の批判 こそ聞かれなかったが、それは他県招待と在仙有力劇団の幾つかが参加したことによるも ので、決して仙台演劇界の底上げによるものではない。単に批判をかわすだけの「行政の 一方的な選別」と考えられなくもないからである。勿論このことが悪い兆しだとばかりは 言わない。これだって前進への一歩である事は間違いないし、他にも良い兆しが窺える。 従来の閉鎖的慣習が崩壊し、関係者それぞれの立場が批判に曝されたため、あらゆる部門 で見直しが始まろうとしているのである。だがこの見直しが改良に向かっているのか、 或いは改悪にむかっているのかとなると定かではない。その方向が行政内部だけで決定さ れ、二年間に渡って数十の作品を観劇してきた「劇評モニター」や、「演劇人フォーラ ム」全体会議にかける等の方策がとられていないからである。そして行政の中には、 マスコミ、劇評モニター、そして一般演劇人から批判の出始めたこの演劇祭を中止しよう とする動きすらあり、しかも一部の演劇人がこれを支持しようとしている現実を関係者は 御存じだろうか。こういった臭いものに蓋をしようとする空気が存在する限り依然未熟な 環境と言えるし、こういった状況のなかで仙台演劇界が自分達の手で本当の演劇祭を創り 上げるまでにはまだまだ道程は険しいと言わざるを得ない。 私は本年二月、二千年と言う節目に向かって「仙台演劇祭への緊急提言」を纏め、 仙台市長に開かれた演劇祭の実施を強く訴えたが、行政との直接対話の中にその答えを 見つけることは困難であった。そして今後もその実施の可能性は至難であろうと推測され る。しかもその最大の原因は、現状に満足した一部演劇人の協力が得られないだろうと 言う不安であり、従来の枠を一歩も踏み出そうとしない体質が依然根深くこの演劇界に 充満しているのである。つまりそういった体質が存在しない限り、或いは多少とも演劇に 対する良心が存在していれば、これほど酷い演劇祭を十年間も続けていられる訳はなかっ たろうという事で説明がつきはしまいか。 話は逸れるが十二月五日、演劇祭ファイナルイベントである「東北の劇作家達」の集 いで、青森県弘前劇場の長谷川孝治氏の「劇作を書くときは死との戦いである」と言う話 を聞いた。そして三十数年前の記憶が蘇った。端役である女性上級生が上演中突然盲腸に なり、二日間の公演を劇場と病院との間を何度も救急車で往復しながら役を果たしたこ と。稽古で或るシーンになると必ず失神してしまう法政大学の女性が、本番では何とか頑 張ってやり遂げたこと。或いは稽古中に血を吐き、結核だと判明した国学院大学生が、 それでも公演まで何とか頑張り続けたこと等、それらが走馬灯のように私の脳裏を過った のである。そしてこれらの人々は私のような演劇専攻学生ではなく、一般の学生であり アマチュアだたのである。だが彼らの心の中にはアマチュアだからと言った妥協は存在し なかった。強制されない環境にも拘らず、それでも互いに議論し徹底的に結果を求めたの である。だから彼らの周囲には題材となる無数のテーマーが誕生し、人間の在り方を追求 する作品も多かったような気がする。つまりそのような努力が結果としてそういった作品 を求めたのである。しかし今の仙台演劇界は如何だろう。自分達はアマチュアだからと いって観客を無視しても許されると豪語し、議論を排除し論ずることをタブーとし、当然 テーマーの存在を極めて不透明なものにしている。それを憂えるのである。長谷川氏のよ うに真剣に自分と見つめ合う状況があってこそ真のテーマーが生まれ、演劇人が生き続け られる環境となる事を知らないように見える。昔も今と同じように生活は豊かだったしそ れほど大きな相違点があるとは思えない、にも拘らず彼らは何かを探していた。そして私 の知る限り前回や今回の演劇祭でもそういった作品は極めて少なかったように思える。 つまり心の葛藤の不在は、彼らの上演する演劇テーマーの不透明さであり、決して観客を 騙し通すことは出来ないのである。我々の演劇とは不透明なテーマーの作品を観せたり、 単に技術だけで観客を喜ばせるためにあるのだろうか。観客は演劇に感動を求めている。 だがその種の喜びの中に観客の求める本当の感動が存在するのだろうか。感動とは演劇人 が観客に向かって何かを真剣に投げ、その何かを観客が如何捕えるかという一筋の見えな い糸で表現出来ないだろうか。そしてその何かとは演劇人の心なのである。最早私達日本 人の心を救うのは、演劇にしか残っていないように思うのだが。 劇作家 川島文男 一九九九年一二月二三日
[2000年1月8日 21時39分1秒]
《仙台演劇祭総論》 小野一也
14作品(高校演劇4作品を含む)を観て、3作品の劇評を書いた。「劇評」として書いた
3作品以外の11作品について触れ、14作品を観劇して思ったことを、私の「総論」としたい。
★プロデュースCOUCOU「キャバレーソヴァージュ」 試みは面白いが、実験段階の域は
出ていない。四つだけを順に出しただけでパリのキャバレーというのでは寒い。組み合わせ
をもっと数多くして膨らませて、華やかに迫らなくてはいけない。
★劇団新人類人猿「KYO−KAー水の記憶ー」 「セリフがないから劇ではない」というつ
もりはない。そもそも劇とは考えていないのだろう。「『演劇祭』だから演劇でなければな
らない」と言うつもりはない。「お前には理解する力がないのだ」と言われれば、「そうで
すか」と言うしかない。とにもかくにも、私には理解出来なかった。理解しようと努めたが
無理であった。「泉鏡花だから幻想なのだろう」などと勝手に決めつけて会場を出た。もう
一度観ても理解出来ないだろうが、もう一度観てみたいと思っていることは確かだ。なぜも
う一度観てみたいと思うのかについてはうまく説明出来ないのだが……。
★ロケットハウス「ロケットハウス」 平田オリザを出すまでもないが、淡々と芝居が展開す
るから「静かな芝居」というのではない。この芝居の欠点はテーマが見えて来ないという点
である。このロケットハウスを舞台にして2作、3作と作るということだが、その試みは面
白いから尚のこと。「この作品はこのテーマで」とか、「全体を通してこのテーマを追及す
る」とかが伝わるようにストーリィを考えなくてはならない。さらに言わせてもらうなら、
いくら短い芝居でもせめて2つや3つの盛り上がりがなくてはならない。次作品に期待。
★わらび座「菜の花の沖」 いかにもわらび座。あの超大作を芝居にし、主人公の偉大さ、人
間性を描き出したジェームス三木の脚本、演出に敬意を。
★南河内万歳一座「流星王者」 今日的なテーマを無理なく盛り沢山詰め込み、多人数の出演
者なのによどみを与えることなく、《列車から降りて列車に乗るまで》を、芝居はスピーデ
ィに進行する。「振り返るまい」「やり直しは利かない」「ここまで来てしまった」全員が
列車に乗る。「どこへ行くのだろう」のセリフがこびりついて離れない。
★劇団一跡二跳「夏の夜の漠」 今日(こんにち)家庭に起きている大人の身勝手な振る舞い
が子供にどのような影響を与えているかを、シェイクスピアの「夏の夜の夢」とからませて
よどみなく展開されていく。シンプルな舞台装置の使い方も気が利いている。
☆高校演劇
★第三女子高等学校「ラ・ヴィータ」 オリジナルで挑戦してほしかった。年齢的な面で
どうしても無理があり、損をしてしまう。老人役の鈴木さん上手。
★塩釜高等学校「からっぽの部屋」 設定も面白いし、生き生きと邪念なく演じていて
心地よい。五人が達者だ。
★名取北高等学校「GONGERA」 気持ちは分かるが、話の展開に無理がある。
ゴタゴタしすぎている。
★若柳高等学校「おにごっこ」 子供の持つ怖さや優しさがよく描かれている。だから、
そのことを通して成長していく様が伝わる。私としては、4本観た中ではこの作品がトップ。
★そして、SCSミュージカル研究所「IsitLIFE?(いづい らいふ)」について言
えば、演劇祭のありかたにも言及することになるが、これはあくまでも子供の親からの金で
運営している研究所の「発表会」であって、《劇団を作り自分たちで金を出し合って苦労し
ながらも創造していく過程で喜びを感じ文化を築づくことを目指している人達を助成し文化
の振興をはかる》ことを目的とする「仙台演劇祭」に参加させることに疑問を持つ。実は、
昨年までは「選考過程」について不明瞭感を抱いていたのだが、今年は高校演劇を除いた
10作品を観ての感じでは不明瞭感を取り除くことが出来たと喜んでいた。が、この作品を観
て、演劇祭への「参加資格」そのものを問題視する必要があると思った。一考を要する。
さて、昨年は12作品を観て5作品の劇評を書いた。今年は去年より多くの作品を観たのに
「劇評が3作品だけ」と少ないのは、事務局から「今年は2〜3作品を」と言われたからであり、
深い意味は無い。去年と今年を比して重要なのは、書いた劇評の数ではなく、昨年《及第点》して
書いた3作品の中に地元劇団の作品はたったの1つしかなかったが、今年は3本の劇評が全て
地元劇団対象で《高揚した気分の中で書くことが出来た》ということである。うれしいことである。
着実に地元劇団は力をつけている。この「演劇祭」の成果と思う。大きな喜びである。それなのに
「シアター・ムープメント」の作品を地元作家に書かせないという動きがあると聞いた。信じたくない。
事実としたら、「考えられない逆行」である。
最後に付け加えたい。高校演劇コンクールで、ある審査委員から《高校を卒業したら地元の劇団に
入って頑張ってほしい》旨の発言があったとのこと。その発言を無念に思う。良い演劇とは、創造側
だけで作れるはずはない。「芝居をきちんと見る目を養い、良い観客になることも良い演劇を作る
には大切なことである」と、高校生に教えてほしかった。
[2000年2月21日 19時57分11秒]