お名前: アイドル評@太田
>遠藤さん
お返事、ありがとうございました。
さて、僕の、「持ち味を活かす役」で成功するのなら、それはそれでいいじゃないか。
なにも、無理にいろんな役作りをつかもうとしなくても、それで充分お客さんは満足でき
るんだから、という考え方もまた、遠藤さんと同じく「観客のわがまま」です。
そういう意味では、別の方向性を向いているようでいて、「観客のわがまま」という意
味では、お互い共通項があるということになりますね。
プロの役者さんでも、役者としての幅を広げようとして、いろんな役柄に挑戦する人も
いれば、いつ見ても同じような役しかしてないんだけど、それが味になっていて、何も新
しい役にチャレンジしなくたっていいだろう、と本人も思っていそうだし、客もそう願っ
ている役者さんと、2通りあるように思われます。その意味でいうと、雅絵さんや石川君
以外の役者さんに、逆に僕が「もっと幅を広げて欲しい」という注文をつけたくなること
だって、これから充分あり得ることだと思います。
だから、最終的にはどちらを選ぶかは、雅絵さんや石川君自身の問題なんですよね。た
だ、「劇評」というのは、ある意味「観客のわがまま」を発表する場でもある、と僕は思
ってますから、僕や遠藤さんが正反対の注文をそれぞれつけるということ自体は、これか
らも続けていってかまわないことだと思います。
でも、確かに遠藤さんの言う「ハジけた高橋(雅絵)さん」というのは、ちょっと見て
みたい気もします。僕は古い人間なので、中森明菜がアイドルだった頃に、中・高時代を
過ごしたのですが、日頃くら〜い感じのする彼女が、たま〜にバラエティなんかで異様に
ハイになっているところを見た時など、日頃とのギャップは大きい分だけ、ある種の「激
しい衝撃」を感じずにはいられなかったものでした。そういう意味では、「ハジけた雅絵
さん」というのも、見る者に相当ショックを与えてくれそうだなあ、という期待はありま
すよね。
[2001年6月19日 20時17分38秒]
お名前: 遠藤 鉱一
太田さんへ
正直どこがどう変化していないか、よくわからないのです。
ただ、舞台が終わった後にそう感じたとしか言えないのです。
芝居を見てこんな風に感じたのははじめてで、だからこそ、
消化不良であり、劇評を書いてみようと思ったのです。
(これが劇評と呼べるかどうかは別問題として)
あともうひとつ。「持ち味」を活かす事も良いと思いますがそればかり考えていると、
「持ち味を活かす役」しか出来なくなっていくのではないかと思います。
そんな事はないだろう。そう思う人も居ると思います。
でも、実際あったのです。
僕は、ハジけた高橋さん。哀しみの石川君が見たいのです。
これは、観客としてのわがままです。
最後に、返事が遅れて申し訳ありませんでした。暇が無かったのです・・・。
[2001年6月19日 10時29分26秒]
お名前: 育英生
この芝居は育英のいままでやってきた一連の芝居では明らかに傾向が違うと思う。
新人が多いとはいえ、役者の一人一人の力量は明らかに劣る。(新人公演なので仕方ない
かもしれないが)遠藤さんの指摘の通り、すでに新人ではない役者の成長が感じられない
のも事実だと思う。太田さんが言っているように、確かに今回は高橋さんの演技は3月公
演よりはましだったが、前回がひどすぎただけにそれを感じるだけかもしれないと思う。
昨年のコンクールのときの方が演技に集中していたような気がするし、発声や舞台上の
動きなど、1年たつとかなり成長できるはずのものさえ成長していない。石川君の演技は
ある意味で洗練されてきたと言えるが、発声は相変わらず聞きにくく、演技のテンポも悪
い。台詞の意味が分かっているのかどうかわからないような言い方、である。という訳で
厳しいかも知れませんが、育英の役者が成長していないという点では、遠藤さんの言うこと
の方にどちらかというと賛成です。
ただ、コンクールに向けて、このままで終らないと思いますので、今後に期待しています
[2001年6月14日 17時24分16秒]
お名前: アイドル評@太田
今、去年のコンクールのプログラムを見たところ、高橋雅絵さんは去年1年生となっている
ので、確かに今2年生ということになりますね。僕の勘違いでした。遠藤さん、御指摘ありが
とうございました。
去年のコンクールで既に主役を演じられていたので、去年の2年生だとすっかり思いこんで
いました。たいへん失礼いたしました。でも、もう1年雅絵さんの演技が見られると思うと、
これはこれで嬉しいことです。
ところで遠藤さんは、雅絵さんの演技を「何の変化の無い」と書いていらっしゃいます。
僕は、遠藤さんが雅絵さんの具体的にどの部分を指してそう思われたのか、よくわからない
のですが、僕が「彼女が本質的に持っている『哀しみ』のようなもの」と、先の劇評で表現し
た部分について言えば、確かに変わっていないといえましょう。
しかし、その部分は、僕に言わせれば、彼女の基本的なテイスト・持ち味ともいえる部分だ
と思うので、その部分は無理に変える必要はないと思うのです。
ただ、その基本的な「持ち味」を、より効果的に表現するものとして、今回表情が豊かにな
った、と思えるところが、僕はいい意味での変化だと思ったワケなのです。おわかりいただけ
ますでしょうか?
石川君についても、似たようなことがいえると思います。
彼も基本的な部分では変わっていないかもしれない。しかし、それをギャグの部分では白け
てしまった持ち味を、「恐い人」という役柄にあてたことによって生かすことができた、とい
う意味では、これは適材適所という意味で、演出の成功といえるのではないでしょうか?
と、いうことを僕は下に書いたつもりなんですけどね。
別に、遠藤さんの言っていることが間違っていると思っているわけではないので、その点は
誤解しないでくださいね。人それぞれで、いろんな感想を持つからこそ、「劇評バトル」とい
うのは成り立つわけですから。僕と遠藤さんの感想が違ったても、どっちもアリな解釈だと思
います。
ただ、もうちょっと、「変わっていない」という部分をどこに感じたのかを、具体的に教え
ていただけると嬉しいかな、とは思いました。もし、お差し支えなければ、もう少しその点、
補足的に書き込んでいただけますと幸いです。
[2001年6月13日 0時2分24秒]
お名前: 遠藤 鉱一
はじめまして、エンドウコウイチと申します。
僕はあまり劇評は書かない人間なのですが、今回だけは書いてみようと思いました。
「眠れる森の死体」はっきり言ってしまうと僕は消化不良でした。
オサナイ役の人と、ヒロミ役のひとが、怒鳴りすぎていたのもその一つですが
(あれは喉枯らしたか、痛めたかしたんだとおもいましたが・・・)
何だかいつもの「仙台育英」を感じられなかったのです。
「いつもの育英」って何だ。と、ツっこまれたらそれまでなんですが、それにしても
おかしいんじゃないかと感じました。
うまく表現出来ないのですが、演出の意図を役者が演技(表現)しきれていないんじゃ
ないかということなんです。
アキラ役の人も(雅絵さんでしたか)よくよく見ていると初舞台の頃より演技が変化して
いないのではないでしょうか。良くも悪くもいろんな意味で自分の演技を見詰め直して、
変化してくるものだと思うのです。しかし、彼女は(そうゆう役ばかりやってきたせい
なのか、僕がわかってないのかはわかりません)何の変化の無い。同じ事はヒロミ役の
人にも言えます。
何故、最後の「なんかおもしろいことないか?」というセリフをあんなふうに言ってし
まうのかオサナイとエイジに、そして観客に伝えなければいけないセリフを、まるで流すように
いえてしまうのか。それだからいいんじゃないのか、という人もいると思います。事実、
僕の友達がそうでした。でも、あの言い方だと芝居が終わらないのではないでしょうか。
あそこで、音楽が入らなくて、照明も暗くならなかったら終わった事にならなかったの
ではないでしょうか。「眠れる森の死体」という物語は終わります。しかし、芝居は
続いてしまうでしょう。観客の心の中で、
「え!終わりなの?」というわだかまりを残したまま閉幕してしまうのです。何だか
文学的な?表現ですが、僕の言いたい事はそういうことなんです。
高校演劇に多くを求め過ぎかもしれません。でも、以前の仙台育英の演劇はそうでは
なかったのです。
何だか批判してばかりですが、もちろん良いとこもありました。1年生です。これからの
練習次第ではどんどんのびることでしょう。何より本人の気持ちが大切ですが。
最後に、役者の皆さんへ上記の通り、本人の気持ちが大切です。途中で投げ出すことの
ないよう頑張って下さい。コンクール、楽しみにしています。
PS・太田さんへ
アキラ役の人は確か2年生でしたよ。
[2001年6月12日 17時11分5秒]
お名前: 吟遊詩人@むささび
予備校に通う青年に
何故あの少女が 見えたのだろう
写真は写しても 燃やしてしまう
それが青年の芸術だった
彼は少し 力が入り過ぎていた
力んでしまい まるで怒鳴ってるかのよう
それはオサナイも同じ
力んだことで 君の声は聴き取れない
君の力はもっとあるはず
次に期待したい
微笑んでいたあきらは 存在感がある
本当の君は解らない
演出家にマインドコントロールされているの?
でもそれでいい
君の魅力はそれで引き出されるのだから
ヒロミの動きには文句なし 見事だった
芦原は聴き取ろうと思わなくても 聴こえてくる声
今後を期待させてくれる 演技であった
無線からきこえてくる君は 舞監の声
[2001年6月10日 2時21分12秒]
お名前: アイドル評@太田
この「眠れる森の死体」という話は、主な登場人物が高校生・予備校生であることから、
「今のキレる若者」を扱った問題提起的作品のように一見思われるが、実際の筋を見ると、
三角関係のもつれで1人の男を巡って、2人の女が暴力沙汰を起こし、1人は死んでベッ
ドの中に死体を隠され、相手を殺したもう1人も脾臓破裂の重傷で入院するという、まあ、
下世話な言い方をすると、きわめて「ウィークエンダー」的な(例えが古いかな?)いつ
の時代にも存在するスポーツ新聞の三面記事にでも載りそうな話なのである。
ところで、今書いたように本作の主な登場人物は、高校生や予備校生である。実は僕は
本作を、昨年の高校演劇コンクール北部地区大会で、涌谷高校が上演したのを見ているの
だが、その時の彼らの演技は、まさに今時の高校生・予備校生が駅裏の代ゼミ前ででも会
話していそうな、自然・ナチュラルな感じのしゃべり方であり、役作りであった。ところ
が、ここが本作の評価の分かれるところだと思うが、今回の早瀬俊氏の演出は、役者同士
の会話が、なんだかまるで怒鳴りあっているようで、登場人物が高校生というよりは、む
しろヤクザ映画に登場するチンピラ同士が、相手を脅しあっているような役作りだったの
である。
劇団CUEさんの掲示板で、今回の演出について早瀬氏が、「芝居を無茶苦茶にする」
「できあがりつつあるものを、壊す」「役者の狂気性を引き出す」等々ということを書か
れていらっしゃっていた。その意味では、僕にはこの演出は大変刺激的で、見ていて面白
く飽きないものとなっていたのだが、逆にこの芝居を見て、「作者の意図を正しく伝える
演出法とはいえないのではないか?」という疑問を持つ人が出てきても、おかしくはない
ようにも思えた。ただ、無難にみんなにそこそこ褒められるような作品よりも、賛否の論
議を激しく巻き起こすような芝居を作りたい!という意気込みを持った演出家の方の、そ
の情熱を僕は一観客として買いたいと思う。
例えていえば、こういうことではないだろうか?クラシックでいうなら、いつもいつも
「正統派」「センチメンタル」な解釈のショパンばかり聴いていても、確かにそれはショ
パンの「正しい」解釈なのかもしれないが、毎度毎度同じタイプの演奏ばかりでは飽きて
しまう。たまに、バッハみたいなショパンを弾いたり、ベートーヴェンみたいなショパン
を弾いたり、あるいは、ロック・パンク風にアレンジしたショパンを弾く人が現れても、
それは「異端」な解釈かもしれないが、逆にそれが「異端」であるが故に、とても面白く、
興奮させてくれる。そういう面白さを、僕は本作に感じたのである。
ただ、これがそれぞれの役者を追い込むことによって、表面的ではないその役者の内面
を引き出した結果としての彼らの演技だとするならば、やはりこの手の「淡々とした日常
の中に突然現れる惨劇」といった内容の芝居をするよりは、先にも書いたように、ヤクザ
映画的な芝居を上演した方が、彼らには似合うように思う。高校演劇だからって、レパー
トリーを限定することはないのだから、そういう「仁義なき闘い−仙台育英編」みたいな
芝居がコンクールに1本ぐらいあったって面白いと思う。「常盤木戦隊ゴレンジャー」な
んていう、とても面白い芝居もあったし(笑)。今回ものすごく成長した役者として、僕
はゴウ・ヒロミ役の石川逸朗君を挙げたいのだが、彼と国分町で偶然肩なんかぶつかった
ら、マジ怖いだろうな、と思ったもん(おかげで、ギャグのシーンでも、顔が怖くて笑え
なかったという副作用はあったのだけれど・・・)。例えば、物語の中盤あたりで鉄砲玉
になって、敵方にボコボコに殺されるようなチンピラ役を石川君がやると知ったら、絶対
見に行きたいようなあ、と思わせる凄まじい迫力だったから。そうなると、やはり、姐さ
ん役は高橋雅絵さんになりますかね?
その高橋雅絵さんも、今回非常に伸びた役者だと思う。以前の彼女は、引きこもりの少
女役で見せた、常に暗く、悲しい表情をたたえているところが、その持ち味、魅力だと思
うのだが、逆に笑顔を見せないことが、TPOで表情を変えられない、単調な演技になっ
てしまい、その良さを生かし切れていないように思われた。しかし、今回は場面場面で、
笑顔を見せたり、穏やかな表情を見せたりするシーンがあり、そのバリエーションが広が
ったことによって、彼女が本質的に持っている「哀しみ」のようなものが、より際だった
ように思えたのである。
もう1人、今回は麻酔医役で小畑奈々絵さんという女優さんが出ていたのだが、この人
の場合は、最初から表情のとても豊かで、しかもそれが相手を挑発するような感じ、頭の
回転もよさそうで、結構キツいことでも平気でズバズバと言い、近くにいると傷つけられ
そうなんだけど、でもそこがまた魅力で離れられなくなってしまいそうな、そんなタイプ
の持ち味を感じさせてくれた。雅絵さんが確か今年3年生だから、小畑さんがこれから育
英のヒロインに代替わり(また任侠的表現を使ってしまった・苦笑)するのだろうが、こ
れから楽しみな女優さんである。
あと、外科医であり、主人公の父でもある猪瀬という役柄についてなのだが、この役を
演じた役者さんの名誉のために言っておくと、彼の演技が悪かったわけではないのだが、
でも、この役は渡部先生で見たかったなあ、というのがちょっと残念だった。この外科医
は、自分より年下だが、自分より手術の腕のいい部下に、ライバルとしての嫉妬心を露骨
に示したり、また、息子に対しても大人げなく本気で口論をするなど、かなり「熱い」役
なのであるが、この役を、まさに熱血を絵に描いたような渡部先生が演じたら、かなりハ
マったろうなあ、と思わずにはいられなかったのだ。もちろん、僕はコンクールでは高校
生自身が主役であった方が望ましいと思っていることは、以前に書いたことはあるが、単
独公演の場合は、それが好結果につながるのなら、ケース・バイ・ケースで先生が客演し
ても面白いのではないかと思ったのであった。
[2001年6月6日 22時23分46秒]
お名前: アイドル評@太田
おそらくこういう回答は、ピンズのお2人が望んでいる回答ではないと思う。それは重
々承知の上なのだが、でも、あえて言わせてください。今日のピンズライヴ、僕にとって
一番よかったシーンは、一番最後の渋谷加奈子さんが歌歌ってるシーンでした。
どんなに作り込んだネタをギャグとして披露されても、それよりも、ただただ元気のい
い女の子がステージで飛んだり跳ねたりしながら歌を歌っているのを見る方が、俺みたい
な野郎にとっては、「ああ、いいモノを見せてもらった。見ていて元気が出てきた。どう
もありがとう!」という気持ちになってしまい、ギャグのネタなんかどこかへ吹っ飛んで
しまうっていうのは、どうしようもなくあるものなんだよね。それは、ピンズのお2人も、
男である以上、わかってもらえるでしょ?
もちろん、僕が渋谷加奈子に萌えるのは、彼女がただ単に底なしに元気がいいだけの女
の子だからではない。彼女の元気の良さには、隠し味として寂しさみたいなものが、まぎ
れている感じがする。それを紛らわすために、あえて元気に振る舞っているような雰囲気
を感じる。だから、僕は渋谷加奈子にこんなにも萌えるんだろうな、と思う。
その伏線としてあったのが、今回4本オムニバスであった最後の「LOVE(ロベ)」
という短編である。ピンズライブというのは、もともとギャグユニットであるだろうから、
最後に1本シリアスな芝居が入るのは、異例なことかもしれない。でも、小学生時代にド
リフの洗礼を受けてきたものとしては、「大爆笑」なんかで、ギャグが続きながらも、1
本だけしみじみと泣かせる短編が入っているというシチュエーションに慣れていたから、
今回の「LOVE」に関しても、違和感なく入ることができた。
「LOVE」は、同棲している彼氏に別れ話を持ちかけられた女の子の話である。僕が
感動したのは、男に別れ話を打ち明けられて、困惑している彼女の動きであった。ウジウ
ジと泣きそうになりながら、前髪を無意識にいじり続ける彼女。そう!僕は、この前髪の
無意識(?)の演技に、参ってしまったのである!
あれは、演出の人が、そういう動作をしろ、と指示したのか、あるいは、彼女自身が、
もし自分がそういうシチュエーションになったら、こういう動作をするだろうな、と無意
識に出てしまったものかは、わからない。でも、その彼女が困りながら前髪をいじる演技
が、ものすごくナチュラルで、僕には、ああ、彼女この役柄に入っているんだろうな、も
し自分が現実にこういうシチュエーションにおかれたら、きっと似たような仕草をクセと
してするのだろうな、と思わせる、ものすごいリアリティを感じてしまったのである。あ
あいう、一見無意識にやっているように見える演技に、男は弱いモノなのですよ。(って、
一般化するなよな、自分!苦笑)
僕は、CUEの劇団としてのシステムって、あまり詳しく知らないんだけれども、本公
演では森先生の作る、比較的シリアスな作品をやって、ピンズでは菱沼さんの考えるギャ
グユニットって感じなのでしょうか?だとしたら、もう一つプラス・アルファーとして、
アイドルプロデュースみたいなのがあるといいなあ、と思いました。渋谷加奈子・ソロラ
イヴなんてあったら、俺絶対見に行くもんね!渋谷加奈子が、MCでどんなしゃべりをす
るかなんて、すごく興味あるなあ。まあ、それも太田がアイドル評倶楽部であるという特
殊性かもしれず、実際ライヴを開いたら、太田以外に客がいなかったら、洒落にならない
ので、あまり真剣に検討されても、かえって御迷惑をおかけすることになるかもしれない
けど・・・(苦笑)。
余談ですが、今日の渋谷さんのメイク、ちょっとあか抜けなさすぎなくない?ギャグに
出演するのだから、二の線で出てはいかん!というためのメークだったのかもしれないけ
ど・・・。先にドリフを例として挙げましたが、アイドルは二の線のままでギャグに出て
いる、というのが、ドリフの「8時だよ!」にしろ、「みごろ!たべごろ!わらいごろ!」
にしろ(ネタ古くてスマン!)、王道だと思うので、渋谷さんには、やっぱり二の線のメ
ークで次回は出てほしいです。「ジレンマ」の時の彼女には、俺ホント、ドキドキしたもん!
蛇足:今回、終演後にキャスト紹介があったのは良かったです。ファンにとっては、や
っぱり名前と顔が一致するいい機会になりますので。
[2001年6月3日 21時26分6秒]
お名前: 少女遊 科白
>太田さんへ
少しばかり言い訳をさせていただくなら、まぁ、役者としての自分の
信念の問題でもありますからね。忠告には感謝します。
>人間なんて一人一人考え方の違う生き物なんだから、すべてのお客
さんを作り手が満足させることなんて、実質不可能です。
いやぁ、まぁ、そうですけどね。ですけど、限りなく100%に近づ
けるのは可能だと思ってます。それが譬え理想論に過ぎないとて。太田
さんの言葉は、よぉく肝に銘じておきますが、貴男はまだボクの演技・
芝居をまともに観た事は無いはずです。ですから、まだ離れて行ったり
しないで下さいね(半ば脅し)。
[2001年6月6日 11時13分17秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木 久善
フェリーニの映画に『8 1/2』という作品がある。
作品に行き詰まった映画監督がああでもないこうでもないと思い悩んで新しい作品の撮
影に臨むまでを描いた自伝的な映画と言われており、映画史上に残る傑作とも言われてい
る。
佐藤さだ江の(あえてこう呼ばせてもらう)この作品を観ていて、私が思い浮かべたの
はこの映画であった。
昨年の『ポケット』から高校演劇コンクール、そして今回の公演へと様々な経験を経て
ここへ至ったことが、随所に引用される場面に感じられるのだ。
いいとか悪いとかを越えて、この年齢で『8 1/2』を作ってしまった彼女の将来が
少し心配になってしまった。
[2001年6月4日 22時55分51秒]
お名前: アイドル評@太田
>少女遊さん
僕も「面白ければ良い、ギャグについては余程の誹謗・中傷が無い限りはそれが許され
る」と、考えている人間です。だから、あまり簡単に「自分も気を付けないと」と考える
ことはないのでは?、と思います。
すべてのお客さんが、kuniさんのように、その手のネタを「逃げ」と考えるとは限
りません。太田がここに書く意見が、太田の個人的なものであるのと同様に、kuniさ
んの御意見が、「絶対に正しい真理」だとは言いきれないでしょう。kuniさんの御意
見もまた、相対的個人的一意見なのです。
「そう考えているお客さんもいるのだから」とあなたはおっしゃる。しかし、「そう考
えないお客さん」だっているのです。人間なんて一人一人考え方の違う生き物なんだから、
すべてのお客さんを作り手が満足させることなんて、実質不可能です。だから、あるお客
さんを選択することは、同時にあるお客さんを断念するということでもある、と僕は思い
ます。
もし、少女遊さんが、kuniさんの考えを尊重し、「オリジナル」にこだわることに
よって、逆に太田好みの芝居でなくなってしまうことにより、今度は太田という観客が離
れてしまうかもしれません。
そもそも、元ネタが別にある笑いや表現というものが、すべて「パクリ」であり、「逃
げ」である、とは限らないでしょう。そんなことをいったら、パロディとか、オマージュ
といったものが、表現の一ジャンルとして認知されている理由がなくなってしまいます。
これだけ表現が飽和状態になっている現在、全くのオリジナルなんて存在不可能だ、と
主張している人間だっていくらでもいるのです。最近出てきた有名な作品に対して、元ネ
タはこれだ!と、ネタもとをあてる謎本の類だっていくらでもありますが、それによって
その作品による感動の質が減じる、ということは僕はないと思います。
今回の作品にしても、ストーリーすべてが、まんま「ドラえもん」だったとか、まんま
「ドラゴンボール」だったとかいうのなら問題でしょうが、一種の小ネタ・くすぐりとし
て使っていたわけで、僕個人としては、全然OK、セーフの範囲内でした。まあ、この辺
の許容範囲も人によって微妙に違ってくるものでしょうから、絶対に太田の言っているこ
とが「真実」だというつもりはありません。
ただ、観客の反応にバリエーションがあるということに対し、すべての観客を満足させ
よう、と考えることは、むしろ不可能だと僕は考えます。やはり、どこかで割り切る必要
が作り手側には必要なのではないでしょうか?
[2001年6月4日 19時40分8秒]
お名前: 少女遊 科白
先ず、自分の感想の前に、Kuniさんの書き込みについて・・・。
>パクリによる笑い
それが「逃げ」だ等とは、考えた事も無かった。面白ければ良い、ギャグに
ついては余程の誹謗・中傷が無い限りはそれが許されると思っていた。なるほ
ど、そう考えているお客さんもいるのだから、自分も気を付けないと・・・。
さて、自分の感想(劇評には成り得ないかもしれないが・・・)。
ボクも、もう高校演劇では佐藤さだ江さんを観られない、と言った様な、半ば
脅迫観念に近いものに突き動かされ、エル・パークへと足を運んだ。
始まって一分、いきなりアクシデント発生(?)。恐らくはビデオの巻き戻し
をしていなかったのだろう。目の前のプロジェクターに映し出された画面がた
だ巻き戻されていく。これが演出等とは、思いたく無い。そのビデオに映った
光景、芝居始めの方の部員の喧嘩、その二つのシーンはどうしても余計に思え
てしまった。そして、もう一つ別な所に欲を言うなら、ダンスはもっと楽しそ
うに踊って欲しかった。別に、笑顔で踊れと言う訳では無い。振りに真剣にな
りすぎ、表情は堅くなりすぎ、観てる自分は好感を持てなかった(その反面に
劇中のダンスには好感を持てた)。緊張、芝居が始まる前に客席に待機してい
た幾人の役者の表情から感じ取られたが、もう少し余裕を持てれば、と思った。
さらに不満点を上げるなら、劇中の所々に役者が訛る所があったのだが(一部
の役者に限りですが)、両親と話す時の希の台詞の何ヶ所かのイントネーショ
ンに違和感を感じた。仙台弁のそれと、標準語のそれがおかしな風に混ざって
いた様に思えた所があった様に思う。そして、さだ江さんについてもう一つ。
彼女の演技は、本当に上手いと思った。だからかもしれない。周りの役者達と
のやり取りに、何か違和感の様なものを感じたのだ。つまり、釣り合いが取れ
ていなかったのではないか、思ったのである。
それと、一つ疑問なのは、修平役だった女の子(パンフが手元に無いために
名前が判らない)は、きちんとサラシを巻いていたのだろうか・・・。男であ
るはずなのに胸がふくらんでいる、という点が気になった。
上には自分の不満点しか書いてないが、良かったと思える点が無かった訳で
は無い。物語の暗転の際に、何処からともなく「ふるさと」の音色が聞こえて
来る。辺りを見回すと、二階下手側の連絡用通路のドアの前にリコーダーを吹
く人影が・・・。修平1人のシーン、何の罪も無い最前列のお客さんに話し掛
けて1人で納得。役者の客席からの登場。何故だぁ・・・。自分が後に何処か
でやろうと思っていた演出(?)を、幾つもいっぺんにやられてしまったぁ。そ
れ程大きな事でもなく、どうでも良い様な事を書いて少し脱線してしまったが、
この哀しみは他の誰にも解るまいて・・・(以上で脱線終わり)。
これからさだ江さんが抜けて、どうなるんだろうと不安に思えたが、自分好
みの役者を見つけてしまった。下記の太田さんの意見と重なってしまうのだが
アナウンサー&南役の斉藤さん、希に対する冷たさと、望に対する熱さが、自
分には好印象だった。ただ、動きの面でもう少し大きく動ける様になれば、も
っと良くなると思う。コンクールへは、彼女を観るために行っても良いかな、
と思った(別に他の役者さんが良く無かったと言ってる訳ではありませんよ、
他にも目を引いてくれた娘はいましたよ)。ただ、役者達のレベルを総合的に
考えてみれば、今秋のコンクール、今年はレベルアップしていくであろうあの
若林・太白地区を勝ち抜ける程のものでは無くなってしまって様に思える。ど
うかこのボクの期待を、裏切って欲しい所ではあるのだが・・・。
[2001年6月4日 16時34分59秒]
お名前: Kuni URL
これほど中に入るのに緊張する演劇はないかもしれない。
24歳、男で1人。
女子校の演劇を観に行く理由は『エロ心』と言われてもしかたがない。
実際は演劇を楽しむためとはいえ、
実際はエロも入っている。
だから、なおさら後ろめたい感じがして、観るかどうか迷った。
舞台は手作りという感じで、好感が持てた。少し舞台をとめている透明のテープが
照明に反射しするのが気になったが、座っている場所が悪かったのかもしれない。
劇はとてもシンプルで分かりやすい。と、言いたいが24歳のおれとしては、
恥ずかしい劇だった。
観ているのが辛くてね。
そりゃ、中高生だったら大丈夫かもしれないが、純情が無くなってしまっている者に
とっては辛かった。
しかし、女優さん達はなかなか立派な演技だった様に思える。
思えるというのは、おれは「役」についてまったく分からないからで、本当にいいの
かはプロの人が評価してくれると思う。
何が立派に感じたかというと、声は随分はっきり聞こえたし演技に違和感がなかった。
まだ、そんなに演劇を観ているわけでは無いが、高校生であれくらい演技ができるのは
凄いのではないでしょうか?
レベルが低いと思っていたがまったくそんなことはなかった。
申し訳なかった。
これはいかがなものか?
そう思うところがあった。
「パクリ」である。
話のパクリではなく、話の中の合間に入れてある、テレビ等からのパクリによる笑い。
学生の頃、少し企画に携わっていたころがあり、おれもテレビでやっていることを
パクって企画にしていた。
はっきり言って、これは逃げ。
パクったおれが逃げで企画を作ったので、たぶん製作した彼女もそうかもしれない。
話の内容で客を笑わせるのは、そりゃ難しいがパクリによる笑いというのは、
そんなにいいものではないように思える。
おれもパクっていたので大きなことは言えないが、そんな場面が多かった。
学生には時間が無いから、そこを気をつけて作るには時間が無さ過ぎるかもしれない。
後、身内の話。
最初に放映された部室の絵と、部員達が少ないこと。
彼女等では面白いかもしれないが、おれはそんなに面白くなかった。
「男子高生の夢を打ち砕く・・・」
と、言うセリフがあったが、おれも男子校だが女子校その程度のことは知っていて、
仮におれが男子校時代に観ても、夢は打ち砕かれなかっただろう。
今後、演劇に期待するのは、独創的な物。
今回の演劇も独創的なところは出ていたが(あまり演劇みてないから本当に独創か
わからないが)よりステップアップしたものを期待している。
でも、もう女子校の演劇は観ないだろうな。
入るのになんか、後ろめたさを感じるから・・・
[2001年6月3日 20時3分55秒]
お名前: アイドル評@太田
俗に「役者バカ」という言葉がある。辞書による正確な意味は違うのかもしれないが、
僕はこの言葉を「役者として演劇に対する情熱があまりにも強く、それがあまりにも常軌
を逸している状態の人」のことを指している、と受け止めている。僕は、そんな役者バカ
な人が大好きだ。知り合いの高校生で、高校演劇コンクールの東北大会にどうしても行き
たい!と言って、日程が重なっていた修学旅行を欠席してまで秋田へ行ってしまった奴が
いるが、そいつなど、典型的な「役者バカ」「演劇バカ」といえよう。なんでそういう「役
者バカ」の人を僕が愛するかといえば、僕自身が役者と観客という違いがあるにせよ、演
劇を「業」としか表現しようのない気持ちで愛している人間であり、しかし、脚本を書き、
長い時間苦心惨憺の稽古を重ね、ようやくの思いで公演を発表する作り手側の苦労は、僕
のように単に劇評を書く程度の行為に比べれば、いかばかりの苦労をされているのだろう、
と思うと、そこまでして「演劇」というものに対する情熱を、まさに「業」として持って
いる「役者バカ」な人を、その「業」の深さゆえに、ちょっと哀しみに似た気持ちを投影
せずにはいられず、だからこそ、ますます愛さずにはいられないのである。
本作の脚本を書き、演出をし、なおかつ主役を演じた佐藤さだ江ちゃんも、まさにそう
いった「演劇バカ」の典型のような人であり、本作は、そんな彼女の「業」をメタファー
・暗喩しているような作品であった。
主人公・川村希は、どうしてもプロの役者になりたい!と、高校に進めという親とケン
カ別れをしてまで、中卒で田舎の村を離れ、上京しある劇団に所属している19歳の女の
子である。僕は、こういう脚本を書かずにはいられない彼女の心情を思うと、彼女は本当
に演劇を愛しているのだろうな、とホロリとしてしまう。しかし、彼女は上京して4年、
自分の役者としての限界を感じ始めて悩んでおり、弱気な気持ちから、演劇をやめてしま
おうか、と田舎へ帰ってしまう。
この辺の演劇人としての悩みの部分も、きっと彼女が演劇部で実際に感じている悩みが、
微妙に投影されているのだろう。実は、三女高演劇部は、以前に何度か僕もこの欄で書い
ているのだが、さだ江ちゃんの先輩にあたる、今年3月に卒業した学年が、ものすごい個
性派揃いで、しかも人数も10人ぐらいと多く、ところがその先輩方が引退した途端、次
の学年はさだ江ちゃんたった1人。まだ演劇のことは右も左もわからないだろう1年生を、
先輩・部長として1人で引っ張っていっただろう彼女の苦労は、想像するだに、並大抵で
はなかっただろうなあ、と思わずにはいられず、(実際、パンフに入っていた部長の言葉
で、彼女はこう書いているんですよ。「1人だけの先輩で特に2年生には不安を抱かせた
し、先輩方にもたくさん心配を掛けましたね。とても淋しくて辛かったのに、いつ、誰に
なら言ってもよいのかわからなくてとりあえず笑ってみました。」と。こんな文章読んじ
ゃったら、そりゃ、オジサン泣いちゃうよ!・苦笑)そんな彼女の現実での苦悩を、観客
たる僕は舞台の役柄上で悩んでいる彼女に重ね合わせずにはいられず、なんだかとても胸
が痛くなってしまったのだった。
しかし、田舎へ帰ってきた彼女を、両親や昔からの親友達は、「このまま負け犬になっ
てはいかん!」と、それぞれの言葉で、あるものは暖かく、またあるものは厳しく、叱咤
激励し、彼女は再び演劇を続けることを決意し、物語は終わるのだった。
実は、本作は唯一の3年生であるさだ江ちゃんの、三女高としてのファイナル公演だっ
たわけで、その彼女の悩みながらも芝居を続けようとする「演劇バカ」としての自分自身
をモデルにしたような芝居を、3年間の集大成として、最後の最後に彼女が書いたことに、
僕は何ともいえない思いを感じずにはいられなかったのだった。しかし、この芝居の主人
公がもし本当に彼女の分身なら、学校の演劇部を引退しても、演劇活動を続けていく、と
いう宣言にこの芝居はなる、ということになるのだろうか?僕としては、ぜひともそうあ
って欲しいと願っている。彼女のような「役者バカ」「演劇バカ」がいてこそ、仙台の演
劇界は、それこそ「笑って咲く花」でいっぱいになることだろうから。
ところで、先日の「かくれんぼ」で、2年生に個性的な役者さんがいないのでは、とい
う不安を僕は書いたのだが、今回、アナウンサーと主人公の幼なじみ北南(きた・みなみ)
の2役を演じた斎藤奈津美さんが、独特の雰囲気を醸し出していて、お!2年生にも面白
い役者さんが出てきたようだぞ!と今後の三女にも期待を感じさせてくれたのであった。
アナウンサー役の時の彼女は、ダテ眼鏡をかけてキャリアウーマン的な役作りだったの
だが、それがインテリ女性のパロディというか、カリカチュアというか、妙にコミカルで
おかしかったし、また、主人公の幼なじみ・南役での彼女は、自分の好きな男の子が主人
公を好きなことに対して、複雑な思いをもつが言い出せないでいる、という微妙な気持ち
を持っているわけだが、そんな南の哀しみを、露骨な喜怒哀楽を出さず、さりげない表情
で見せていたところが素晴らしかった。こういうところで、露骨に感情を見せることがい
いことだ、と思っているような役者さんもいるのだが、そんなことしたら、逆に芝居がぶ
ち壊しになっちゃうもんね。また、田舎の村の少女という設定だからか、クサモチみたい
な深緑色のジャージに、膝から下のないGパンという、なんか見るからにあか抜けない格
好で、年頃の女の子なんだから、外歩くときジャージなんか着るなよ!と思わせつつも、
逆にそこがまた田舎の村娘らしいリアリティを感じさせてもいたところが、なんともおか
しく、ユーモラスでありながらもかわいらしく、とても好感が持てたのであった。さだ江
ちゃん引退後の三女は、斎藤さんが要チェック!という印象を、今回受けたので、秋のコ
ンクールでも、ぜひがんばってください。期待してます。
[2001年6月2日 23時45分39秒]
お名前: アイドル評@太田
本作は、全編3時間10分の時間を要する超長編で、終演後主宰の方が「長い芝居にな
り、申し訳ありません」と、お詫びの言葉を述べておられた。しかし、本当に長すぎて申
し訳ないと思うのなら、終わってから謝るより前に、そもそも3時間10分もの時間を、
本当に必要とする脚本だったのか?必ずしも絶対に必要ではなく、カットしてもかまわな
いシーンは全くなかったのか?という事前の検討がなされてしかるべきだったのではない
だろうか?
本作は一言でいってしまえば、急性白血病にかかった若い女性の闘病記、つまりいわゆ
る「難病モノ」である。それで、彼女が病室の窓からいつも見ている桜の木の変化と、彼
女の病状とが関わりあるものとして描かれている。
こう書くと、「それって、O・ヘンリーの有名な短編小説・『最後の一葉』みたいだね」
と連想される方がいらっしゃるかもしれない。実は、私も本作を見ながら同じ連想をして
しまった。難病にかかり、病室の窓に写る落葉樹に残る葉を見ながら、「この木に残って
いる最後の葉っぱが落ちたとき、自分も死ぬんだ」と考える少年の物語。もちろん、本作
がオリジナル作品である以上、「最後の一葉」と本作では、それ以外の部分でむしろ違う
設定が多いのは当然のことだが、しかし、私がここで言いたいのは、「似てる」「似てな
い」ということではない。要は、難病をテーマにした泣かせる物語というのは、本来30
分もかからない短編として、充分まとめることが可能なはずのものではないのか?だとし
たら、3時間10分かかる必然性は、いったいどこにあるのだ?という疑問なのである。
本作では、白血病にかかった女性の兄が外科医として同じ病院に勤務している。この病
院では、上層部の贈収賄疑惑が持ち上がっており、また、この兄である外科医にも、製薬
メーカーの営業マンが薬品の納入と引き替えに、あれこれとリベートを渡そうとするシー
ンが頻繁に登場し、物語の中のもう一つの大きな流れとなっている。しかし、このサイド
ストーリーが、本筋である「白血病闘病記」に、最後までほとんどリンクしてこないので
ある。率直に言って、このリベートのエピソードを全部取っ払ったとしても、本作のスト
ーリー全体の流れを損なうものとは、とても思えなかった。そういう「白い巨塔」的な話
を書きたいのであれば、作者は欲張らずに別の脚本を独立して書くべきではなかったか?
また、作中、登場人物同士が互いにギャグを応酬するシーンが、もうむやみやたらと多
かったのだが、これも「難病モノ」という暗くなりがちな話の中に、この手のギャグを挿
入することによって、潤滑油的に観客に楽しんでもらおう、という意図があったのかもし
れない。しかし、そのために芝居の時間が3時間を超してしまうのであれば、むしろ本末
転倒ではないだろうか?私には、これらギャグのシーンがストーリーの流れを不必要に押
しとどめてしまい、結果芝居がダラダラする原因の一つになっているようにしか見えなか
った。
おかげで、カスミ(白血病の女性)が自分が白血病であることを自分で受け止めるのが、
物語が始まってから2時間も経ってからとなっており、もうこのあたりで、いい加減普通
のお芝居なら終演している時間なわけである。しかし、このあとカスミが延命治療を受け
るか受けないかで、兄や周りの看護婦達と激しくやり合うシーンが、また延々と続くので
ある。カスミは直る見込みが低いのに、髪が抜けたり肌が荒れる延命治療を受けるのはイ
ヤだ、と兄や看護婦達に抵抗するのだが、これも双方の主張が明確にされていれば、両者
の「治療を受けろ」「いや、受けない」という押し問答のシーンを、延々・長々と続ける
必要はなかったのではないか?両者の押し問答を長く続けることによって、彼らの心の葛
藤を見せたい、という作者の意図だったのかもしれないが、いい加減2時間経っても芝居
が続いているので緊張感が途切れかかっている観客側から見れば、これからまた出口の見
えない押し問答がずーっと続くのか・・・、というウンザリした気持ちの方が、どうして
も先に立ってしまわざるを得ないのであった。
役者の演技は良かったと思う。2年ぶりぐらい?の久しぶりの公演だけあって、稽古に
も時間をかけたのであろう。カスミ役の平間ユカリさんは、どこか柳美里を思わせる風貌
が、病人の役にマッチしていた。適材適所の役柄といえよう。また、看護婦でありながら、
安月給を補うため、夜はイメクラでバイトしているエー子役の沼邊真奈美さんも、大人計
画の池津祥子を思わせるゴージャス系の見栄えのする役者さんで、見ていてけっこう気に
入ってしまった。しかし、キャラクターの役作りのためなのだろうとは思うが、職場に黒
の網タイツをはいて勤務している看護婦なんて、実際にいるのだろうか!?本当にいたら、
その病院は楽しそうだなあ、とは思うのだけれど・・・。
[2001年5月26日 22時40分54秒]
お名前: 少女遊 科白
今回この劇評バトル欄には初めて書き込みさせてもらいます。なにぶん経験も浅く, 頭も
よろしくないので,拙いものになってしまい,劇評と言うより感想になってしまうでしょうが
勘弁して下さい。
この脚本はボクの先輩達が一昨年に上演したものであり,この夏に自分達が演じる芝居も同
じ鴻上作品であるから,色々な意味で期待しながら観ていました。
先ず,舞台装置に眼を奪われました。ストーリーを全く知らなかったからなのかもしれませ
んが,何が起こるのか全然予想が付きませんでした。役者一人一人にスポットライトが当たり
ちょい役は本当にちょいですが・・・),抽象空間ばかりの鴻上ワールドを,自分的には上手
く現せていた様に見えましたし,舞台装置においては何かと勉強させてもらった気がします。
ただ,役者面においては,男女間の発声の技術に差を感じてしまった。トシオとアキラの役
を演じた二人は,喉が枯れていたのではないか。割れた声によって,何度も台詞が聞き取れな
かった部分があった。お客に台詞が伝わらないのは,やはりマイナスだろう。次に太郎は,発
声ではなく,滑舌の方が気になってしまった。サ・タ行の言葉が,息が抜けてしまい,上手く
聞き取れなかった。もっとも,三人とも動きの面では良かったと思えるから,先が楽しみでは
あるのだが。
演技において,最も自分の目を引いたのが,ケイだった。もともと,ケイ役演じる櫻井智紗
さんには何度か面識があり,彼女を観るために,今回は足を運んだのだが。太田さんが評され
る様に,周りを引っ張る演技とテンションの高さが好印象だった。
太田さんがウチの部長様とこちらの天使様を比較なされていましたが,確かに和田さんと部
長じゃタイプが違うなぁ,と思わされました。で,ボクがエル・パークで観た天使は,自分の
元気を周りに分け与える事によって周りを勇気付けていく,と言った天使だったわけですが。
今回の芝居,面白いものではあったが,それなりに問題点もあったと思う。勿論,役者それ
ぞれもしっかりと課題を見つけているだろう。もし,この中の何人かの芝居を観られる様な事
があれば,次にも期待したいと思う・・・。
[2001年5月21日 16時42分45秒]
お名前: 早瀬 俊
鴻上作品は、度々あちこちの劇団で上演されるのだが、ことごとく演出の失敗によるつまら
なさが目立っていた。この作品はビデオが既に発売されており、御覧になった方も多いと思う。
おそらくビデオを見てこの脚本はこういう風に演じるものなのかと考えさせられる人も多いの
ではないかと思う。この作品は高校演劇コンクールで何度か観たことがあり、いずれも役者個
人の人間性を引き出してはなく、鴻上作品のもっとも良いところが見えない残念な出来であっ
たことを覚えている。つまり、物語性の追究ではなく、一人一人の人間性、個人の奥に潜む絶
望感。それをひたすら日常では見せないように明るく振る舞おうとする。自分こそが励まされ
たいのに、必死に他人を励まそうとする人間のいじらしさ。悲しみと絶望の中にあっても、そ
れでもかつ立ち続けようとする人間達。僕が鴻上作品が好きな理由は、そんな人間が好きだか
らである。だとしたら、鴻上さんの芝居をやる上で最も必要なことは何なのか。それは自分の
日常で抱えている問題と正面切って戦うことである。逃げずに戦おうとすると必ず挫折をし、
絶望をする。そしてまたその絶望の底から立ち上がろうとする。その繰り返しであろう。それ
は、仕事でも、受験でも、家庭でも、恋愛でもいいのだけれど。
この上演では、役者が一人一人生き生きしていて、大変好感が持てた。舞台はまだまだ、太
田さんのいうように未熟であるが、天子、トシ、ケイ、ママといった人間の中にそれぞれの個
性(舞台を下りたときの日常という意味であう)を感じさせた。特に、ケイという人物を描い
た桜井さんの天性ともいえる明るさには、ただ能天気なのではなく、人間としての強さ、しっ
かりとした生き方を持っていることを感じた。それは何故なのか?ストーリーという枠では考
えられないことがそこにあるからだと思う。舞台はそこで完結するのではなく、役者個人個人
のあるいは観客の日常へと確実に繋がっている。私が鴻上作品が好きなのはその点であり、こ
の公演に関しては上にあげた役者仁に対して好感をを持てたのもそれが理由である。
ただし、やはり役への追究は甘いと思う。役者とぶつかる演出は必ず必要であり、人間対人
間のぶつかり合いがあってこそ、表面上をベールで覆い、隠しているその役者の真の人間性が
見えてくるのではないのかと思う。
そういった意味ではもの足りない部分も多かった。この集団が見えない透明な壁をどういう
風に壊していくのか楽しみである。それだけ魅力的な役者が多かったからである。
[2001年5月21日 10時22分59秒]
お名前: アイドル評@太田
今、「もしもし」の掲示板で、つかこうへいと鴻上尚史の比較論が盛り上がっています。
たかはしみちこさんが、「自分がつかは好きだが、鴻上はキライ」と言うことを書かれて
いらっしゃるのですが、僕はそれを読んで「あ、僕とみちこさんって作家に対する評価が
ちょうど正反対なんだなあ。」ということが、とても興味深く、面白く感じたのでした。
僕は逆につかがどうしても好きになれなくて、鴻上の本作「天使は瞳を閉じて」が、泣き
たくなるくらい大好きな作品なんですね。それで、なぜ自分はこの作品が好きなのかを確
認するためにも、本作には期待していたんですが・・・。
僕は以前より、自分自身がずっと客の立場で劇評を書いてきた人間であり、技術論・演
技論に関してはシロウトなので、その手の批評はあまり書きたくない、ということを発言
してまいりました。それでも、本作については技術的部分での問題点が、失敗の主因であ
ったことは、遺憾ながら事実と言わざるを得ないでしょう。逆に言えば、こんなことは書
きたくないんだけれども、僕のようなシロウトでもわかるようなミスを連発していたとい
うことは、演劇の公演をする、という意味では、もはや致命的なことと言わざるを得ない
のではないでしょうか?
具体的には何か?役者のセリフが入っていなかったんですよ。それも、クライマックス
の最もいいシーンで、セリフが出ないために芝居が止まってしまった。
もしかしたら、作り手側は初日で緊張のあまりのことだったんです、という言い訳をな
さるかもしれません。まあ、僕も、このアクシデントがこのシーンに限定されたものであ
れば、上にも書いているように、あまり技術論を書きたいタイプではないし、問題点より
もいいところを探す劇評を書きたいと考えている人間ですから、あまり重箱の隅をつつく
ような目くじらを立てるようなことはしたくはありません。でも、セリフが入ってないの
は、ここのシーンだけではなかったですよね?物語全般を通して、セリフが出なかったり、
役者同士の会話のタイミングが合っていないために、ミョーな間が空いてしまい、場が白
けてしまうシーンが、あまりにも多すぎた。
僕は本作は、本公演の2〜3ヶ月前からチラシが折り込まれていたことを考えると、か
なり準備万端なプロジェクトだと思っていました。しかも、オリジナル版に比べるとかな
りカットが加えられており、本来2時間半程度かかる内容が、1時間45分で終わってい
ることを考えると、「セリフが多すぎてとても覚えきれなかったんです」、という言い訳
も通用しないように思います。だから、なんで稽古不足としか思えないようなミスが連発
する?というのが不思議で仕方なかったのです。
まあ、本公演は今日だけではなく明日も行われます。もし、明日見違えるように出来が
変わっていたら、今回の原因が稽古不足ではなく、単に緊張が原因だった、ということに
なるでしょう。なんとか、僕のこの分析が見込み違いであり、明日のお客さんが満足され
るような出来になっているよう、心から祈りたい気持ちです。
そうは言いつつも、やはりよかったと思える部分を少しでも見つけたい、と思うのが、
私・太田です。そんな中でも面白かった、と思える部分は、やはりいくつかありました。
まず、天子が「元気いっぱい」のアッパー的な性格設定にしていたのが、とても新鮮で
面白かったです。劇評バックナンバーを御参照いただければ、と思うのですが、僕が以前、
宮教大が本作を公演したときに感動したのが、現宮教大演劇部部長・吉田みどりさんの演
じた「癒し系」の天子だったんですね。今日はカットされていましたが、ケイが撮影した
ヴィデオの中で、天子が「大丈夫!大丈夫!」と、みんなを励ますシーンがあり、その天
子のはかなげな笑顔が、なんか本当の妖精みたいで、僕は思わず涙したのですが、今回、
天子を演じた和田紘恵さんは、むしろ「渡辺美里」的とでもいうか、自分が元気いっぱい
で、その元気を周りに分け与えることによって、周りも元気にする、という役づくりだっ
たんですよ。つまり、吉田さんとは正反対の「天子」だったのですが、ああ、でもこうい
う天子が自分の側にいたら、自分も元気づけられそうだなあ、と納得させてくれたという
意味で、自分のイメージとは逆でありながらも、こういう天子もありなんだ!ととても興
味深く、面白く感じさせてくださったのでした。
また、ケイ役の桜井智紗さんの、テンションの高い演技にも好感を持ちました。前述し
た稽古不足による自信のなさからか、他の役者がテンションの低い演技をすることが多く、
結果、芝居がダレかかると、すかさず彼女が元気いっぱいの演技を見せ、それによってな
んとかメリハリを芝居につけようと努力しているなあ、という感じが、観客であるこちら
側にも伝わってきたのでした。ケイというのは、人間的にはとてもいい子なんだけれども、
芸術の才能がないことで、常に挫折を味わうという残酷な星の元に産まれた女の子で、だ
から日頃は自分を鼓舞するために元気いっぱいに振る舞っていても、時折、ふと淋しい表
情などを見せる必要もあるように思うのですが、まあ今日のような芝居の状況では、そん
なことも言っていられない、とにかくダレないようにテンションあげなきゃ!という危機
感もあったのでしょう。他の役者を自分がリーダー格として引っ張っていこう!という感
じが、演技の随所に見られ、それがとても好感を持てるものであったので、今度、共演者
にも恵まれたところでの彼女の芝居を、ぜひ改めて見てみたいなあ、と思ったのでした。
[2001年5月19日 23時56分20秒]
お名前: アイドル評@太田
>ガスボンベさん
私は、職業として劇評を書いているものではないので、「演劇評論家」という肩書は、おこ
がましくて使えないと考えている人間ですが、それはさておき、題名を書き間違えたことに関
しましては、疑いようもなく私のミスです。尚絅の皆さんにお詫び申し上げます。すみません
でした。
ところで、ガスボンベさんって、やっぱりあの「風船」さんのお母さんなのでしょうか?
(って、このお芝居見ていない人にはわからないネタですね。失礼しました)
[2001年5月30日 1時26分2秒]
お名前: ガスボンベ
―いちばんぼしってどんなひと―です。―が必要です。演劇評論家として気をつけてください!
[2001年5月29日 17時17分28秒]
お名前: アイドル評@太田
いやあ、僕はこの手のファンタジー系のお芝居に滅法弱いんですよ。演劇ではないけど、
デビュー当初の一人称に「ボク」を使っていた頃の遊佐未森とか、すごいファンだったし。
以前は、仙台にも「メタセコイア化石林」という、ファンタスティックなお芝居を上演さ
れる劇団があったのですが、最近活動を長期に休止されているため、こういうお芝居を見
るのは本当に久しぶりで、・・・ホント、よかったです。
主人公のかずみちゃんは、毎日自分の部屋で、人形・くらげ・風船たちと会話をして過
ごすことを楽しみとしている女の子です。もちろん、本当に人形がしゃべるわけもなく、
部屋の中に本当にくらげがいるとも思えないから、これはかずみちゃんの心の中での想像
なのでしょう。
以前に、井伏さんがどこかの劇評に書かれたと記憶しているのですが(すみません、ど
の劇評か忘れました)、「舞台上のその場で語られていないことを想像させるのがよい芝
居だ」ということを、確かおっしゃってましたよね?本作は、まさにそれをよい意味で実
践していたお芝居だと思ったのです。つまり、かずみちゃんが人形たちと会話して幸せそ
うな場面が舞台上で展開すればするほど、実はかずみちゃんは、学校では表面的なつき合
いの友達はいても、本当の「親友」と呼べる人はいないのだろうな(実際に劇中で、学校
内でクラスメートと雑談しているシーンが出てきますが、その時の彼女は、見かけは「普
通」にこそしているものの、何となくうまく溶け込めないような感じを出しています)。
だから、こうして部屋にこもって想像上の人形やくらげたちとしゃべっているときが、本
当に楽しいひとときなんだろうな、というのが観客側が、少し頭を働かせると想像できる
わけです。だから、舞台上のかずみちゃんが幸せそうであればあるほど、観客のこちら側
は、なんだか寂しく、悲しい気持ちにさせられるし、また、物語中盤あたりで、突然かず
みちゃんが「どうしてわたしはここにいるんだろう。どうしてわたしは、わたしなんだろ
う。」とモノローグをするシーンが出てくるのですが、そうした物語の流れがあるので、
このモノローグも、唐突な感じが少しもせず、ああ、やっぱり彼女は他人と表面的な友情
しか作れず、孤独感から逃れられない自分自身に自己嫌悪を持っているのだろうな、とい
う想像をまた、観客にさせてくれるわけです。
さて、そんなある日、人形君がロケットを作る!と言い出します。そして、みんなで一
緒に宇宙へ旅に出よう、と提案するのです。そして、実際に宇宙旅行をはじめるのですが、
しかし、かずみちゃんは宇宙旅行の途中で、「宇宙には行かない。今、自分のいるところ
に戻る」、と言います。
なぜ、突然こんなことを彼女が言ったか?人形君は、かずみちゃんが心の中に孤独感を
抱えているだろうと思いやり、ここではないどこかへ行こうよ!という意味でかずみちゃ
んをロケットに乗せたのでしょう。しかし、かずみちゃんは、ここではないどこかへ行っ
ても、自分自身の内面が変わらなければ、結局は何も変わらない。むしろ、今の自分自身
を好きになることが大事だ、ということに、おそらく気づいたのです。
もちろん、これも直接、かずみちゃんがセリフとして説明している、というわけではあ
りません。やはり、示唆し、想像させる形態をとっているわけです。
かずみちゃんが「行かない」と言った後に、かずみちゃんのお母さんが童話を彼女に読
んできかせるシーンが出てきます。キツネの親子が明るい星を見つけて、その星のあると
ころへ行こうと旅をするが、実は星と思っていたものは、町の街灯の明かりだった、とい
う話です。おそらく、これはユートピアを訪ねて行っても、結局はそこも現実の一部なん
だよ、ということを、ロケットで行く宇宙とかぶせて暗喩しているものなのでしょう。ま
た、このお母さんが童話を語っているシーンと同時に、くらげや風船がモノローグをかぶ
せます。ここでの彼女たちのセリフも、今まで自分がくらげや風船であることに不満を抱
いていたこともあったが、でも、やっぱりくらげや風船である自分でいいと思うようにな
った、という内容のモノローグなのです(すみません、正確なセリフをメモしてないので。
そういった趣旨のセリフでした)。これもまた、自己嫌悪を抱くかずみちゃんに、今のま
まの自分を好きになりなよ、と示唆するセリフであるのでしょう。
こういう芝居は、今まで何度も書いていますが、いくつになっても自分自身に自信を持
てない僕のような人間は、見ていると、堪えるんですよねえ!ホント、涙が出て困ってし
まいましたよ。
役者では、人形役の金野奈緒子さん。この人形は、一人称に「ボク」を使っているので、
男の子なんでしょうけれど、ほっそりした女の子の役者さんが、男の子の格好をしている
のを見ると、最初に書いた初期の遊佐未森みたいに、ユニ・セックスな魅力を感じさせま
すよね。あるいは、渋澤龍彦が絶賛した四谷シモンの、それこそ“人形”みたいに。彼女
は3年生で、これが引退公演とのことですが、惜しい!ぜひ、卒業してからも、どこかで
演劇を続けてほしいです。
ただ、金野さんと、作・演出の松本奈々さん以外は、みんな2年生ということだったの
で、主力メンバーは秋のコンクールでも続けて出演できる、ということなわけです。うう
む!これだけできる2年生が主体の尚絅。秋の青葉地区が、今からとても楽しみです。
[2001年5月12日 23時45分6秒]
お名前: アイドル評@太田
以前に何度か書いたが、僕は俗にいう「B級」とか「カルト」と呼ばれるものに、こと
のほか目がなく、B級映画を作り続けた映画監督の生涯を描いた映画「エド・ウッド」に
強い愛情を感じてしまうタイプの人間なのである。そんな私にとって、今回見た「常盤木
戦隊ゴレンジャー」は、まさに痒いところに手が届くというか、ツボにはまったという感
のある、トンデモ度満点の大怪作なのであった。こういう芝居を見てしまうと、「総合芸
術?技術論?そんなものどうだっていいじゃん!結果オーライで面白ければ、俺にとって
はそれで超OKさ!」と不遜なことを叫びながら踊りだしたくなってしまう、というもの
である。つくづく「劇評倶楽部賞」の審査員を引き受けなくてよかったと思う。たぶん本
作をノミネートしたりしたら、他の審査員の方々怒り出すと思うもん。でも、僕個人にと
っては本作はかけがえのない傑作なんだよなあ(常盤木の皆さん、怒らないでくださいね。
これは僕にとっては最大級の褒め言葉なんです。もちろん、かなり屈折した言い方である
ことは、重々承知しておりますけどね)。
どこがすごかったかっていうと、もちろん高校演劇でいきなり「戦隊もの」という設定
自体にも驚いたけど、ストーリー展開の強引かつ意外、意外の連続技の炸裂なところであ
る。そもそも、未知なるものを見ることによって観客は強い刺激を得るということを考え
れば、「予定調和」「先が見える」ということはマンネリズムとして避けるべきことであ
ろう。しかし、物語をある程度の数見慣れてくると、だいたいこう来たら次はこう、とい
うパターンが作り手側にも備わってくるし、やっぱり起承転結という自然な流れも大事に
しなければ、という気持ちだって出てくるだろう。そういった、いわば「お約束ごと」を
壊してくれた、という意味でいうと、本作の乱暴な展開は、僕にはある種爽快感さえ感じ
られる素晴らしいものだったのである。
冒頭、ゴレンジャーとなるべき主要登場人物の家庭事情が映し出される。それぞれ、過
剰な教育ママだったり、あるいは夫との関係が壊れたことによって、ノイローゼ状態にな
っていたり、と問題のある家庭環境で心に傷を持った子供達が主人公なのだな、というこ
とがわかる状況説明となっており、ここで観客の僕などは、「ああ、これは去年のコンク
ールで広瀬高校が演じた『家ジャック』みたいな話なんだろうなあ。」と予想するわけで
ある。
ところが、これら似たような家庭環境を持った5人が集まったところで、「よし!人助
けをすることで親にいい子と認められよう!」とゴレンジャーを結成してしまう、という
ところが、まず「え?」と驚いてしまうどんでん返しである。しかも、ゴレンジャーとい
う名前から凶悪怪人との対決などがあるのだろうな、と期待していると、彼らのすること
といえば、お年寄りの重い荷物を持ってやるとか、いじめられている小さなこどもをいじ
めっ子から守ってやるとか、なんだかとっても小市民的な話ばっかりなのである。ここで
また、観客の僕はずっこけてしまう。
そして、ところどころナンセンスなギャグを挟みつつ、物語はノンビリムードで展開し、
ああ、この話はほのぼの学園ものだったんだなあ、と安心しながら見ていると、今度はい
きなり主人公級の女の子(黄川田さん)が射殺される、というトンデモない展開が急に訪
れるから、またまたビックリである(しかも物語の中盤でですよ!)。
ゴレンジャー達が関わっていた記憶喪失の女性というのが、実は生徒3人を殺していた
女性教師ということが明らかになり(もう、突然のこの展開からしてビックリだ)、しか
も彼女と一緒に学校の屋上にいたことから、警察に犯人が彼ら5人を人質に取られている
と誤解されてしまい、警察の誤射で黄川田さんは心臓を一発で打ち抜かれて(おいおい;)
即死してしまうのである。
ここから話はまたまた強引な急展開を見せ、それぞれの家庭でノイローゼや薬物中毒が
ひどくなった親たちに、残りのメンバーもリーダー格の青木君をのぞいて次々と殺されて
しまうのである。なんで同じ時期に、偶然に4人も・・・、とツッコミを入れたくなると
ころだが、この御都合主義こそが、B級作品ならではのダイゴ味なのである!(笑)
自分も一緒に死にたい、と落ち込む青木君が寝ているところへ、4人の幽霊があらわれ、
「家庭に問題があって落ち込んでいた僕らに楽しい思い出を作るきっかけを作ってくれた
のは青木じゃないか。」と青木君を慰める。目が覚めた青木君に昔からの友人の女の子が、
「今度は私に悩みができたから、助けて。」といい、青木君に新たな生き甲斐を与えると
ころで、物語は泣かせる終わり方をするのであった。いいねえ。こういう破天荒な作品は、
やっぱり最後は浪花節的人情味で泣かせて終わりでしょう!
役者ではなんといっても赤松君役の長野智子さんでしょう。「赤」といえば、戦隊もの
ではリーダー役と相場は決まっているが、彼女のまるで江戸っ子?と思わせるような、キ
ップのいい、そしてちょっとおっちょこちょいな元気の良さが、何ともいえずユーモラス
で、本作の持つ、その独特なカラーに最もマッチしたキャラクターだったと思うのである。
そういえば、長野さんは昨秋のコンクールでは、ガングロのコギャルをやっていて、これ
がまた実にはまっていたのだった。彼女のような、見ているだけでこちらも元気で楽しい
気分にさせてくれる役者さんというのは、本当にいいなあ、と思う。
最後に1つだけ、苦言を。ゴレンジャーで「黄」というキャラクターはカレー好きな男
でなければならない。これは僕に限らず、「戦隊モノ」に子供の頃に洗礼を受けたオタク
にとってのこだわりである。しかし!今回、「黄」を演じた黄川田さんは、どちらかとい
うと仕切り役の女の子だったのである!やっぱり、あの5人の中で「黄」を演じるとした
ら、緑川君の方でしょう?もし、本作を再演する機会があるとすれば(個人的には、ぜひ
コンクールに改訂版を持ってきてほしいと思うのだが。でも、頭の固い人が審査員になっ
ちゃうと、予選で落とされそうだしなあ・・・)、ぜひこの部分だけは直していただきた
いところなのであった(笑)。
[2001年5月5日 22時7分17秒]
お名前: ゆう
なんかすごいですね。パンフ読んで音響さんが毎日?としょかんに行ったそうで。
私も自分の学校の単独公演で音響やったんですけど二回位しか探しに行きませんでした。
努力が足りないです・・・。
劇中で中島みゆきの「ファイト」が流れてたんですけどどなたが歌ってらしたんですか?
[2001年5月29日 17時41分10秒]
お名前: アイドル評@太田
6人の高校生が、深夜の校舎で鬼ごっこをする、ただそれだけの芝居であった。
と、身も蓋もない書き方をしてしまったが、その「ただそれだけ」の芝居を、1時間引
っ張り、しかも観客を飽きさせず最後まで見せていたのだから、やはり役者・演出は大し
たものだった、と言わざるを得ない。
なぜ、それが可能であったか?まず第一に、芝居のテンポがとてもよく、途中でだれる
シーンが一度もなかったためだろう。また、劇中間断なく個々の役者がギャグを飛ばすシ
ーンが入っているのだが、これがタイミング良く、ほとんど外していなかったのも成功の
一因であろう。
ただ、僕なんかの場合、同じギャグ作品でも、ストーリー展開で笑わせてくれるとか、
笑いと同時に本編の中にも濃密なドラマがあり、終わった後、「うーん、堪能したー。」
と強い余韻が残る、というタイプの芝居の方が、個人的には好きである。やっぱりわざわ
ざ会場まで足を運んだからには、それなりに濃密なものを求めたい、という気持ちがどう
しても出てしまう。だから、今日みたいな芝居を見た後では、「退屈はしなかったけど、
なんか物足りないなあ」という気持ちが、正直してしまった。でも、これもあくまで好み
の問題で、「ドラマの中身が薄くたって、その場その場が面白ければいいではないか。そ
の場その場を飽きさせないということだって、口で言うのは簡単化もしれないけど、実際
はとても大変なんだぞ。」という御意見もあろうと思うし、そういう考えを否定するつも
りはさらさらない。あくまで上記意見は、私の個人的好みと受けとめていただきたい。ま
あ、今回の場合は、脚本にその原因があり、キャスト・演出は責められないとは思うんだ
けれども・・・(既成の脚本だったのだろうか?それとも創作?)。
役者では、男性側の主役を演じた若井一真君。3月に社会人劇団「Gecka−Biz
in」に客演し、社会人相手にまるで違和感のない演技を見せてくれたが、それが自信に
なったのか、今回、そこにいるだけで存在感が強く感じられる役者さんになってきたよう
に見えた。今後の仙台演劇界を担う若手の1人として、一目置きたくなるような存在にな
ってきたように感じる。まだ先の話だけど、卒業してからも、ぜひどこかの大学で演劇を
続けてほしいなあ、と思う。
ところで若井君については、前回、Geckaの劇評で、しゃべり方がいわゆるクサい
感じになっているのは、わざとなのか、高校演劇でついてしまったクセなのか、今一つわ
からなかったということを書いたのだが、今回、出だしのところではけっこうナチュラル
なしゃべり方をしており、だんだん「かくれんぼ」が盛り上がるに連れて、いわゆる「ク
サい」しゃべり方を、ギャグの手段として使っていたように見えた。だから、ああ、やっ
ぱりこの人は、考えて使い分けることのできる役者さんなんだな、と改めて感心させられ
たのであった。
それと、なんだかマヌケで、生徒の笑いの対象にされている先生役の大崎雅則君。確か、
「ウルトラマンの母」でも、マヌケな大人役を演じていたように記憶しているのだが、そ
のボーッとした独特の妙な雰囲気が、とてもいい味を出していたように思う。こういう、
ちょっと変わった雰囲気を持ったワキ役さんって、僕はとても好きだ。いわゆる「通好み」
の役者さん、といえるのではないだろうか。
これに対し、三女の役者さんは、かわいいことはかわいいのだが、どうも一人一人のキ
ャラクターが今一つ薄いように感じられた。まあ、今年の3月に卒業していった先輩方が、
あまりにもそれぞれ一癖も二癖もある、個性派揃いだったということもあり、比較してし
まうのは酷すぎる、といえるかもしれないが。そうはいっても、来月すぐ単独公演がある
し、秋にはコンクールもあるから、きっとそれまでには存在感のある役者さんに成長して
くださることであろう。僕のような観客側も、あせってすぐ結果を求めず、気長に見守っ
ていかなければな、とは自戒しています。短い期間で大化けした役者さんを、今まで何人
も見ているしね。
それにしても、以前、三高は春の単独は生徒主体、秋のコンクールは顧問の指導コミで
芝居を作っているというお話を、以前にどこかでうかがったように記憶しているのだが、
今回拝見して、生徒主体でも、なかなか魅せるじゃない!という感想を率直なところ持っ
た。やっぱり、昨秋の経験が大きくいきているってことなのかなあ。
[2001年5月4日 21時55分39秒]
お名前: 早瀬 俊
前回の書き込みで訳のわからないことを書いてしまい申し訳ありませんでした。さて、最終日
も終わり、聞くところによると途中で台本が多少変わったということですが、私が見たのは初日
ということを理解して読んでいただければ幸いです。
前回、12月公演のときも感じたのであるが、この劇団の芝居は前半が長い。しかも、芝居の
ストーリーと直接関わってこないようなギャグとかのシーンが長すぎるのではないかと思われる。
個人的にはつまらないギャグのシーンも好きなのだが、全体のバランスを考えるともう少
し削った方がいいのではないかと思われる。後半の大切なシーンの前に私のような忍耐力のない
人間は飽きてしまい集中力の欠いた状態で後半を見ることになるからである。しかしながら、
全般を通じて現代の若者の感覚を上手く描いているなと私は思いました。時代という得体の知れ
ない物に押しつぶされそうになりながら、ちょっとしたことの中に生きている実感を見出そうと
する人々の心が伝わってきましたけど。けれども、それは芝居の中味というより役者達個人が
見え隠れしているだけなのかもしれませんね。
演技についてですが、80年代演劇のように、底にある感情を無理やり外へ引き出そうという
パワーはこの芝居からは感じませんでした。けれども、あの時代はそういう演技を観て人々が
カッコいいと思ったのですが、90年代に入ってからは、そういったものから引いてしまい、
自分の世界に閉じこもろうとする人間が増えてきたと思います。ですから、小劇場的な(つか
こうへいや唐十郎など)の演技法が段々と大衆に受け入れられなくなった。一流のところはそ
れでもまだ共感する者もいて生き残っているが、それを真似しただけの二流の劇団は次第に衰
退していったのではないかと思うのです。
そういった意味でこの狭い劇場で、自然体の演技をあえて目指したとしたならば、それはそ
れでよいと思います。しかしながら、随所に明らかに演技ができていないだけ、日常的にしか
喋れないだけなのではという演技が目立ったのは、まだまだ未熟(失礼)としかいいようがない
ような気がしたのです。きちんとした演技力(たかはしさんが好きなつかの役者のように)を
身につけた上であえて、日常的に科白を喋ることができたら、もっとそれぞれの役を表現できた
はずだと思います。表情についても動揺です。つかのように一見大げさな表情をできる演技力
を身に付けた上であえて抑える(客席との距離を測るということです)ことができたらいい
と思います。
というわけで、また訳がわからないことばかり書いてしまいました。批判的になってしまい
ましたが、私はこの劇団にすごく期待しています。この芝居も前回書いたように私にとっては
珍しく好印象な芝居であったことは間違いありません。これからも頑張って下さい。
[2001年5月18日 14時48分57秒]
お名前: おーみ
もしもしガシャーンというと、或るイメージというか雰囲気が頭に浮かぶ。
また、芝居が始まったとたんに、その空気感が客席を含めた会場の空間全
てを埋め尽くしていく様こそが、私は表現の命だと思っている。
フニフニ大国以来、私はこの劇団および奈尾君の脚本に多大な期待を寄せ
つつ観にいくことになる。
そして、その期待というのは、なにかとんでもないもの、演劇に対してど
素人の私の概念を覆すような始めて体験するもの、そして圧倒的に強いも
の、圧倒的に繊細なものを体験させてくれるという事だ。
そんな〜無理だ!と言うことなかれ。私はその片鱗を見ているし何時か必
ず充分に期待にこたえてくれる劇団に成長すると信じている。
で、だ。いつもながら脚本の着想には感心したが、登場人物それぞれの性
格設定や台詞が、着想を生かしきるようなものにはなっていないような気
がした。表面的には変な人達の集まりのような会話が成されるが、観た感
じは、皆普通の人で、暗いバックボーンやトラウマなんてなにも持っては
いないように感じられたのがちょいと苦しかったかなと思った。
もっとも、このへんを全て脚本のせいだと感じる私に対し、井伏君は演出
の問題だと軽く言い放つであろう。多分彼の言い分が正しいのだと思う。
でも演出は・・・やっぱり奈尾君か。
あと、今回は奈尾君があまり目立たなくて、もしもしガシャーンの雰囲気
がスポイルされたように感じた。それに、たかはし君もずっと抑えた演技
ではあったが表現力も抑えられてしまったように感じた。
それにひきかえ、正井君はいちおう絶好調だったけど、本来奈尾君やたか
はし君の絶好調が有って初めて生きるスタイルであり今回は熱演ほどの効
果は感じられなかった。
最後に、音楽は、その芝居の雰囲気を左右する結構重大な要素であると思
っている。そういう意味で、今回の芝居の雰囲気を醸し出す音楽はビート
ルズより他にいっぱいあったと思う。というか、奈尾君の世界にビートル
ズは無いだろうと思った。
取り止めがなくてすみません。こんな感じです。
[2001年5月16日 2時13分35秒]
お名前: 早瀬 俊
本来なら、僕も(いつも」はW.Sで書いてます)公演の楽日が過ぎるまで講評を書かないの
ですが、あえて今回は書かせていただきます。今回は前回12月公演より僕は好感が持てたか
らです。前回のこの欄で私は、どんなに共感がもたれない劇評がかかれようとも作者の
描きたい人間像を堂々と描いて欲しい、ということを書きました。そいいった意味で太田さん
のような劇評が出てきたことはむしろこの劇団がついに戦おうとしているのだなということ
うを感じ、嬉しい思いでした。
僕、個人的には、太田さんが言った部分はむしろ反感どころか共感をもてました。僕の周り
では僕も含めて、いい仕事をしたいから彼女とあえて分かれたとか、彼女と一緒にいると自分
が駄目になるから好きでしかたないけど別れたとか、いい芝居を作るために共演する彼女と3
ヶ月口を利かないようにしていたら、彼女に別の男ができたとか、嘘のような(というよりよ
くある話ですよね)本当の話がたくさんあったからです。おそらく、僕もこういった状況であ
ったなら、別れる(というほどのこともないけど)道を選ぶだろなって思うのです。そして僕
の選んだ人だったら僕からあえて離れていくだろうなって。だって苦労してやっとつかんだ幸
せならともかく、寂しさゆえに偶然そこにあった好意をもった者との話でしょ。それは一瞬だ
からこそ美しい幸せの思い出だけど(演劇をする者はすごく大切にします)
自分のために、そして彼女のために別れなくてはいけないと考えたのでないのでしょうか。一
緒にいることによって見失うことの大切さに気付いているから。
そういったことに共感をもてるのは私が芝居を作る側の人間だからかもしれません。自分
は自分が癒されるために芝居をやるのではなく、少しでも観に来る人を勇気付けたいと思って
います。そのためには、自分が立ち直れない位傷ついてもやむおえないと考えます。だって、
自分が傷付かなくては、いくら傷ついて見せたってそれは嘘にしか見えないからです。傷つい
た振りではやはり観客の気持ちを癒すことはできません。
傷ついてもそれでも舞台に立っている役者の姿に一観客の自分は勇気づけられるのではないで
しょうか?そういった意味ではこの芝居ではいい傷つき方を提示していると思うのです。(た
かはしみちこさんの演技は派手さがないけど役者として最も大切な魂を感じます)そこ
に私は共感しました。そして傷ついた人間同士はなんとなくさりげない言葉のやり取りでもつ
ながり合える。見終わった後で僕はさわやかとまでは行かなくても後味の良いものを感じ
ました。
また、芝居の構成、演技などについてはもう一度講評できたらと考えています。
昔の1980年代小劇場ブームをご存知の方にはお勧めだとおもいます。昔の小劇場
の劇団が何故成功し、何故失敗したかについて答えの重大なヒントがこの芝居を見ると
考えさせられます。というわけで、楽日が終わった後でもう一度書けたらと思っています。
[2001年5月4日 1時19分16秒]
お名前: アイドル評@太田
最初にお断りしておくが、私は今回、この芝居のあらすじと結末を必然的に書かないと、
本作の劇評が書けないことに気づいた。その理由は、以下の本文をお読みいただければ御
理解いただけると思うが、問題は本作がロングラン公演であり、私が見たのが、その初日
だったということだ。以前、公演が続いている間は結末がわかるような劇評は控えるべき
ではないか、という意見があり、また、逆にロングランで劇評が控えられると、芝居を見
に行くべきか判断材料がなくて困る、という意見もあったように記憶している。そこで、
読者の皆さんにお願いしたいのだが、もし、これから本作を見に行こうと思っている人で、
物語のあらすじを知りたくない、という方は、これから書く私の文章は読まないでいただ
きたい。逆に、あらすじがわかっても判断材料にしたい、という方、または、もう既に見
たという方は、私の文章をお読みいただきたい。以上、勝手ながらあらかじめお断りする
次第である。
では、本論に入ろう。まず、本作を見て私の内面に強く残った気持ちを最初に言ってお
こう。正直言って、登場人物の誰にも共感できなかった。登場人物への感情移入、共感の
結果としてカタルシスを得ることが芝居を見る際の大きな目的の一つである私にとって、
誰にも共感できない、という芝居は正直言って辛いものがあった。しかし、劇団の名誉の
ために言っておくが、私がこの芝居に共感できなかったのは、芝居の内容が不出来だった
からではない。では、なぜか?
世の中にはいろいろなタイプの人間がいる。こうして劇評を書いていてもわかるが、私
の意見にすぐに共感してくれる人もいれば、いくら議論を重ねても平行線のまま、結局理
解し合えない人もいる。人間というのは1人1人違う生き物であり、だからこそ、その人
固有の「個性」というものが存在することを考えれば、むしろそれは自然なことである。
私が本作の登場人物に感じたのも、これと同じ種類の、いわば「性格の不一致」である。
だから逆に、私の人間性と相容れないタイプの人がこの芝居を見て、本作の登場人物、あ
るいはこのような登場人物を描いてしまった作者に対して、強く共感するということは充
分あり得ることのように思う。
では、私は登場人物の具体的にどの部分に「性格の不一致」を感じたか?
本作の主人公であろうワタルという青年は、祖父が地下鉄サリン事件をモデルにしたと
思われる、有毒アメーバを大量散布したことにより、首都圏を壊滅状態にした実行犯のメ
ンバーであった。そのため、両親は世間の非難の圧力によって自殺。親戚からも厄介者扱
いされ、無一文で、とある町(子丑町)にたどり着く。そこは、そういった「ワケあり」
の人達にも「居場所」を提供することを目的とした行政施策を採っているため、彼はここ
に職を見つけ、定住することになる。
また、ワタルは、当初行き倒れていた際に助けてくれたハルという青年に連れられ、ハ
ルの仲間達が毎日公民館で開いている「サークル」にも参加するようになり、そのサーク
ルのメンバー、タマコと知り合うこととなる。タマコは上記の政策を採る町長の娘なのだ
が、父親が不倫をしていることで家庭が崩壊しているという内面の傷を持っており、「似
たもの同士」というか、お互いの気持ちが理解し合えるところから、2人は惹かれ合うよ
うになる。
そんなある日、タマコとハルは致命的な大喧嘩をしてしまい(この2人にも古くからの
つきあいによる複雑なしがらみの物語があるのだが、それについては直接本編を見てくだ
さい)、落ち込んだタマコを慰めるワタルに、タマコは「今晩一緒にいて」と頼む。ワタ
ルは「今までみんなに必要ない存在だった自分が、はじめて他人に必要とされた」と、ま
るで碇シンジ君のように感激する。しかし、まさにその同じ日の夜、ワタルはハルからも
「サークルに使う映像資料として、バスを撮影するのを手伝ってくれ」と頼まれていたの
である。ワタルとタマコが一緒にいる頃、(おそらくタマコとのケンカも原因の一つとし
て)ハルはバスに仕掛けた爆発物によって自殺する。
ここまではいい。上に「まるで碇シンジ君のように」という比喩を用いたが、同じ理由
で私は、このワタルという人物に比較的感情移入しつつ物語を見続けていた。問題は、ハ
ルが自殺したことを知った後のワタルの行動である。
ハルが死んだことを知ったワタルは、自分がその夜、ハルと一緒にいるという約束を破
ったことがハルを死なせた原因だと思いつめ、タマコをその場に置き去りにして、失踪し
てしまうのである(タマコも日を同じくして失踪するのだが、2人が一緒に行動をとった
のではないことは、その後の芝居の展開で明らかになる)。これが自分にはどうしても理
解できないのである。今まで、幸せというものを実感できなかった人間が、はじめてタマ
コという女性に出会うことで幸せというものを実感する。そこへ、自分が原因の一因かも
しれない事故が起こり、それに対する「罪悪感」や「責任感」がいくら強いからといって、
せっかくつかんだ「幸せ」を、たとえその「幸せ」が事故の原因だったかもしれないから
といって、そんなに簡単に捨ててしまうものだろうか?私には、ワタルがわざわざ自分か
ら積極的に「不幸」の道を選択したようにしか見えなかったのである。
私は、人間というのは本能的に幸せを求める生き物だろうと思っている。少なくとも
「私」という個人に関してはそうだ。確かに、自分がタマコを選んだことが原因でハルが
死んだと考えたら、その「罪悪感」からタマコと一緒にいても幸せを感じられない、とい
う気持ちはあるかもしれない。しかし、そういう辛い状況だからこそ、「自分を必要とし
てくれた」タマコから離れたくない、と私ならなってしまうと思うのだ(もちろん、タマ
コに拒絶されてしまえばそれまでの話だが、ここではワタルの心情にのっとって書いてい
るので、そのケースは割愛する)。
おそらくこの違いが、冒頭に述べた私と本作の作者との「性格の不一致」なのである。
本作の作者は、ケース・スタディとして、この物語のような状況に自分が追いやられた場
合、自分なら「罪悪感」「責任感」から、その場から一人離れるという道を選択する、あ
るいは実際は離れられないかもしれないけれど、離れたいなあ、というストイックさを願
望として持つ性格なのだろう。しかし、私はこの物語のようなケースに自分が追い込まれ
たなら、たとえ「格好悪い」「見苦しい」と周りから罵られようと、「自分を必要として
くれた」タマコにしがみついてでも離れたくない、と思ってしまう人間なのである。だか
ら、私は本作を見た後、ひどく苦々しく、なんで自分から不幸になる?と重苦しい気持ち
に強く支配されてしまったのである。
実は本作は、この場面に限らず、「責任感」「罪悪感」がキーワードのように、あちこ
ちの場面で散見される芝居であった。例えば、登場人物達が毎日公民館で催している「サ
ークル」。これは登場人物の1人、カンコが、昔のバンド仲間で恋人であった男性の死に
よって強度の鬱状態になってしまったことから、彼女を元気づけるために開かれているも
のなのであるが、精神的に参っているカンコからは辛い、きつい反応しか返ってこず、勢
い「サークル」は常に殺伐とした重苦しい雰囲気に満たされている。ここで私はまた、「も
し自分なら・・・」という想像を働かせてしまうのである。いくら、昔からの仲間のため、
という「責任感」があるとはいえ、こんな重苦しい殺伐として空間で、毎日毎日「道化」
を演じることなど、おそらく自分には耐えられないだろう、と思ってしまうのである。し
かし、そこで「責任」を果たすことこそ、人間としてなすべき態度だ、とおそらく作者は
思っているのだろう。気持ちは理解できる。理解はできるが、自分という人間の根っこに
ある「感情」として、そのようなシチュエーションは、私にはとても耐えられない。私が
この芝居を見て、とても芝居を楽しめる気分になれず、ずっとイヤ〜な気分で満たされて
いたのは、おそらくそれら作者のストイックさに自分がついていけないからなのだろう。
[2001年5月4日 0時8分40秒]
お名前: アイドル評@太田
富谷高の皆様、御丁寧なお返事、ありがとうございました。
実は「半神」の劇評は、私がまだインターネットを持っていない頃に、原稿用紙に書いた
ので、当ホームページの管理人に井伏さんにお預けしておいたところ、井伏さんもちょうど
お忙しかった時期だったため、パソコンに打ち直していただく時間がないとのことで、その
ままになってしまいました。
原稿用紙もコピーをとっていなかったので、井伏さんがお持ちであれば、それをお送りす
ることができるのですが・・・。今度、井伏さんに聞いてみますね。
[2001年5月13日 21時33分44秒]
お名前: 富高演劇部
いつもいつもみにきてくださり、本当にありがとうございます。そしてありがたいお言葉も。
いつも拝見させていただいています。毎劇ともお褒めの言葉をいただけて、部員一同それが
励みとなっています。
三年生の出演は、あるいはこの劇で最後になるかもしれませんが、これからの富谷高校演劇部も
是非是非応援してください。コンクール会場では、部員一同笑顔でお待ちしています。
本当にありがとうございました。
追伸・「半神」の劇評もいただけると嬉しいです。
富谷高校演劇部一同より
[2001年5月13日 15時57分53秒]
お名前: アイドル評@太田
昨年・秋のコンクールでも、富谷高校はキャラメルボックス・成井豊の「広くてすてき
な宇宙じゃないか」を好演していたのであるが、今回の単独公演もまた、キャラメル・成
井作品である「ハックルベリーにさよならを」を、またまた感動的に魅せてくれたのであ
った。
なんでこんなに富谷がキャラメルを演じると感動的になるのだろう?僕が思うに、キャ
ラメルの脚本の中にある、ある要素が、彼女たちの内面にも同時に備わっており、その自
分たち自身の内面の要素を素直に引き出しているからこそ、まるでオリジナル作品である
かのようなシンパシーあふれる芝居に仕上がっているように思うのだ。
では、その「要素」とは何か?僕は、プログラムの中の、☆キャストからの一言☆に、
ケンジ役の三浦絵理さんが書かれている文章、「(前略)僕って実は淋しがり屋だったん
だよね。そんな僕だけど、みんなの中にも僕みたいな感情(気持ち)ってあると思うんだ。
(後略)」、まさにこの、「淋しがり屋」という言葉がキーワードなんじゃないかと思う。
三浦さんは昨年のコンクール・「広くてすてきな・・・」でも、本当は淋しがり屋なく
せに、強がって、ホームヘルパーとして来たアンドロイドのおばあちゃんになつこうとし
ない末娘の役を好演していたが(キャラメルではないが、「半神」でのシュラ役も素晴ら
しかった)、彼女を含めて、富谷の生徒さん達は、自分たち自身の中にある「淋しくて強
がる気持ち」を、作品を通して、観客であるこちら側の内面まで伝え、そして共感で震わ
せてくれたのである。
そして、「広くてすてきな・・・」が、おばあちゃんという、いわば保護者を求める気
持ちであったのに対し、今回の「ハックルベリー・・・」は、別居していた父親の再婚相
手である女性・カオルさんという、年上の女性に対する憧れ、恋愛感情であったことが、
より作品のセンチメンタル度を高め、共感の度合いを強めていた、といえるだろう。
それにしても、三浦絵理&佐藤里香の2人は、本当に富谷の誇る「黄金コンビ」だなあ、
と毎回見る度に感心する。昨年の単独「半神」でのシュラ&マリア(宿命のつながった双
子)、コンクール「広くてすてきな・・・」での末娘&おばあちゃん(佐藤さんのおばあ
ちゃん役が特別賞をとった、あの2人の名ラストシーン!)。そして今回の、息子と父・
・・。息子と父は双方をいとしく思っている。しかし、息子は父が再婚することで母や自
分が見捨てられるのでは?という不安、怒りを持ち、また、再婚相手の女性の魅力を自分
自身も感じている、という複雑な心情を抱いている。こういうお互いが持つ微妙な心理を
ぶつけ合う芝居をこの2人がすると、野球に例えるなら、まるで呼吸のぴったり合ったピ
ッチャーとキャッチャーのような会話のうまみを見せてくれて、僕はこの2人が会話を続
ける前半の比較的長いシーンで、すっかりずっと見惚れてしまっていた。場面展開が少し
でも遅れるように、この2人芝居がずっと続いてくれますように・・・、なんて思いなが
ら。
しかし、今回この「黄金コンビ」に勝るとも劣らない素晴らしい演技を見せてくれた役
者さんがもう1人いたのである。ボク役の跡部尚子さんである。ケンジは自分が小学6年
生で、年上の女性・カオルさんとあまりにも年齢が離れすぎていることから、自分より十
歳年上の大学生の「お兄さん」という架空の存在をイメージし、その「お兄さん」がカオ
ルにあこがれを持っているという空想を持つ。しかしその空想が、まるでビリー・ミリガ
ンの多重人格のように一人歩きをはじめ、カオルは本当にその「お兄さん」が存在してい
るかのような錯覚に陥る。その「お兄さん」=「ボク」役が、跡部さんだったわけである。
物語最大の山場、父と口論の末、カオルのアパートを飛び出し神田川を延々一人、カヌ
ーで下るケンジに、父と別れるから帰ってきて欲しいとカオルから携帯電話がかかる。彼
女に「自分もカオルを好きなんだ」と、ついに告白するケンジ。もちろん、ここのケンジ
は小学生の方のケンジではなく、大学生の「お兄さん」であるケンジが語ってこそ、ケン
ジが大人への一歩を踏み出す象徴的場面となるわけだが、この時の跡部さんの表情が、も
う本当に、実によかったのである!
たぶん、彼女はこの場面で本当に泣いていたと思う。今、社会人の劇団の役者で、ここ
まで役にのめり込んで演技をしている人が、いったい何人いるだろう?この場面、僕の目
頭も熱くなり、舞台がぼやけて見えて困ったし、また、会場のあちらこちらからも、すす
り泣きの声が聞こえていた。本当に素晴らしい演技だった。
そういえば、今日は会場係をしていた宮教大の菅野準君に、偶然お会いした。彼は富谷
のOBとのことで、現在非常勤で学校でも教えているとのこと。「今の高校演劇ってレベ
ル高いんですねえ。」と、彼も感心していたので、「そう思うだろ?だったら、この3年
生を卒業させたら、演劇やめさせたらもったいないよ。」と応えておいた。宮教に入れば
いうことないけど、もし就職なり他の進路を選んだとしても、「出口入口プロジェクト」
にスカウトするなり、今の3年には何らかの形で演劇を続けるチャンスを与えてほしいで
す。今回の芝居で跡部、三浦、佐藤の3人に、僕はもうすっかりまいってしまったのだ!
(もちろん、他の役者さんも一生懸命頑張っていたとは思うけど。特に印象に残った、と
いう意味で書いているので、その点はなにとぞ御了承ください)
[2001年4月29日 19時47分0秒]
お名前: アイドル評@太田
永井久美子・讃!
最近の在仙劇団には、たいてい1人は「看板女優」というか、「トップ・アイドル」と
でもいうべき存在がいるような状況になっているように感じられ、私・アイドル評として
は喜ばしいことこの上ありません。東北大演劇部の場合は、昨年の「怪談・銀の骨鞄」の
際にウェイトレス役で登場された永井久美子さんを私は一発でファンになってしまったの
ですが、今回、久しぶりに彼女が出演されるとあって、極端な話、もうそれだけが楽しみ
といってもいいくらいの気持ちで、会場に足を運んだのでした。
さて、劇評バックナンバーをお読みいただければわかるとおり、前回私は彼女に対して
「久しぶりに見た美形女優」という表現を用いたのですが、今回もまた、その存在感は他
の役者さんを圧しているように感じられ、私はほとんど彼女ばかりを見ていたのでありま
した。
でも、ただ「美形」という表現だけを用いると、単にお人形さんみたいな存在で、生き
生きした喜怒哀楽のない役者なんじゃないの?というイメージを、実際の彼女を見ていな
い人は持ってしまうかもしれません。そこで、彼女の「美形」たるところを、より具体的
に説明させていただきます。彼女の場合、プロの役者に例えるなら、原節子とか鈴木京香
を連想させます。このことについては、前回は気位の高いウェイトレスという設定だった
ので、あまり笑顔を見せる場面がなかったため気づかなかったのですが、今回は主人公の
男性のバイト先で知り合った年上の女友達という役どころであり、「穏やかな笑顔」が表
情の基本ベースになっていたため、あっ!と気づいたところです。
原節子や鈴木京香をTVや映画でよく御覧になった方ならおわかりと思いますが、その
「穏やかな笑顔」は、「しっかりした心優しいお姉さん」的なイメージの象徴的存在とも
いえるものです。つまり、自分の内面のドロドロは自分の中で冷静に処理することを旨と
しており、何か外的な事件があっても、極端な喜怒哀楽を表に出さない精神修養ができて
いる性格。そのため、年下の男性の立場から見ると、頼りになる存在・安心感を感じさせ、
思わずあこがれてしまう、というタイプの魅力を持っているわけです。そういう意味では、
確かに極端な喜怒哀楽は出てこないとはいえるわけであり、例えば役柄として極端な怒り
や悲しみを表現する場面があったとしても(今回は年上の男性と不倫をしているという役
柄だったので、荒れる場面が一部出てくるのですが)、それも「演技としてやってるんで
しょ?」ということが透けて見えてしまう、もともと激情型で自分に内在する激しい感情
的部分をそのままストレートに出しているというのではなくて、冷静な仮面の上にさらに
「演技」として怒っている表情がかぶさっているという感じが見えてしまうんですね。で
も、だからといって冷たい・無表情というのとは、また異なる魅力・独特の持ち味、を持
っているといえるのです。
なんで自分がこういうタイプの女優さんにまいってしまうかといえば、やはり私の内面
にも、そういうしっかりした女性に対するあこがれが存在しているからでしょう。男って、
そういう意味では、いくつになっても弱い生き物なんですよ。なんて、私の個人的性格を
一般論化しちゃあいけませんね(苦笑)。
折り込みチラシによると、永井さんは7月のナインゲージにも出演されるとのこと。今
までナインゲージのお芝居は、残念ながら未見だったのですが、たぶん、永井さんみたさ
で次回は見に行くことになるでしょう(笑)。今からとても楽しみです。
[2001年4月18日 23時26分19秒]
お名前: アイドル評@太田
吉田みどりさんと照井麻貴子さんといえば、笹本愛さんが現在活動休止中ということを
考慮に入れると、僕にとっては車の両輪といっていいくらい宮教の中で好きな女優さんと
いうことになるわけで、その2人が奇しくもダブル銀行員で登場する今回の「バンク・バ
ン・レッスン」は、けっこう期待して見に行ったのですが・・・。う〜ん、正直言って、
なんか物足りない。2人の個性が生きてない、という印象を受けてしまったのでした。
そもそも、僕が吉田みどりさんの演技に感激した「天使は瞳を閉じて」は、吉田さん以
外の役者がほとんど、アグレッシブで元気の良い演技をしている中、吉田さん1人が、な
んかポヤ〜ンとした感じでたたずんでいるところで、逆に「かわいい!」と目をひいたよ
うなところがありました。また、「ミナモノカガミ」での照井さんにしても、やっぱり周
りが特務機関との追いつ追われつ、というアップテンポの演技をしている中で、とぼけた
不思議系の女の子という落差が、面白さにつながっていたわけです。
ところが、今回の「バンク・バン・レッスン」というお芝居は、逆に銀行員の2人が、
いわゆる「濃い」演技をすることによって、観客を面白がらせる仕掛けになってるわけで
すね。つまり、銀行強盗が来たときの訓練をしている銀行員+強盗に扮した警備員+その
場に居合わせたお客達が、繰り返し訓練をしているうちに次第に悪ノリしていって、どん
どん設定を過激にしていく、というのがこの芝居の主なストーリーなわけで、本来ならナ
チュラルに演じた方がリアルさが出るところも、これは芝居の中のさらに芝居なんだ、と
いうお約束ごとが観客にもあらかじめわかっているからこそ、あえて「演歌調」の濃ゆい
演技をすることが芝居の面白さに繋がるところが、本作のポイントとも言えるわけです。
ところが、吉田・照井のご両人は、今書いたとおり、周りが濃い演技をする中、ポケ〜
ッ、とした存在でいることによって面白さが出る役者さんだから、逆に濃い演技を要求さ
れる役どころについちゃうと、「なんだかソツがないけど、物足りない・・・」という印
象に、残念ながらなってしまうんですね。オーケストラに例えていうなら、ピッコロに無
理してトランペットの音を出させようとしている感じ。頑張っているのはわかるんだけど、
薄いんだよなあ、と思わず言いたくなっちゃうんですよ。
ちなみにこれは支店長役の影山さんにも感じたことで、今回、本人の個性にはまってる
なあ、という演技を見せてくれた女優さんは、唯一、偶然来店した元気のいい女の子役で
出てきた松林萌さんだけでした。松林さんの場合、「ウォルターミティ」での先輩刑事、
「ミナモノカガミ」でのばあさん役、と元気系の役がもともと似合う役者さんだからよか
ったんだろうけど、そう考えると、松林さんのクローンを3体ぐらい用意して、支店長・
2人の女子行員を、全部松林B、松林C、松林Dにやらせたかったなあ、という印象を持
ってしまったのでした。(松田陽子さんの演じた強盗Bは、本来男性の役だと思うので、
ここでは割愛)
今回、「ウオルターミティ」で、内田春菊ばりの濃厚なヘルナイトを演じてくれた高橋
愛美さんが、演出助手に回っていたのが痛かったですね。本来、彼女のような人が支店長
やって、「人を殺めたけれども、娘のお前に会いたいがために銀行の支店長に・・・」な
んて見栄を切ってくれると、こっちも元気よく「おいおい!殺人犯がどうやって銀行の支
店長になれるんだよ!」と、突っ込み甲斐も出てくるってえものなんですけどねえ(笑)。
男優も、斉藤雄介君がその場に居合わせた客っていうのは、なんかもったいない感じが
しちゃいました。やっぱ、彼には銀行強盗役で出てきて、アンドロイド的な圧倒的存在感
でガンガンピストルをブッ放して欲しいよなあ。今回、部員紹介欄に「少し人間らしくな
った」というコメントを自分で書いてたけど、ダメだよ!斎藤君が人間らしくなっちゃ!
せっかくの個性が薄まっちゃうじゃん!(笑)
まあ、もしかしたら今回斉藤君をあえて強盗役に持ってこなかったのは、あまりにもは
まりすぎることで彼の存在価値がワンパターン化してしまうことを恐れて、あえて外した
のかもしれないけれども、でもその外しが観客にとって「あっ!」と驚くことによって濃
密な体験をもたらすものであれば成功だと思うんだけれど、逆に薄味、物足りない、と思
わせてしまっては、その外しはかえって逆効果だったと思うんだよね。
思うに、宮教女優陣には大きく2つの流れがあって、醤油に例えるなら「うす口系」(O
Gでいうと久慈貴子さん。彼女、最近ピアスに出てないけど、どうしているんだろう?)
と、「濃い口系」(OGでいうと高橋奈穂子さん。)といえると思うんだけど、ここ2年ほ
どは、「濃い口系」が優位のメンバー構成だったように思うんです。それが、今回の「バ
ンクバン」を見て、新2年・新3年は、むしろ「うす口」系が優位になってきてるんじゃ
ないかなあ、という印象を持ったのでした。そうなると、脚本としては、宮沢章夫とか、
岩松了あたりをやった方が、これからはハマるんじゃないかなあ。この辺の作者は、とぼ
けた感じの登場人物が大部分で、その中に1人ぐらい「濃い系」の役者が入って、周りに
馴染めなくて困ってしまうところが、おかしみに繋がっていたりする芝居を書く人達です
からね。だから、吉田・照井みたいなトボケ系に囲まれて、イライラする高橋愛美みたい
なシチュエーションの芝居をやっていった方が、今年の新生・宮教演劇部は合うんじゃな
いかなあ、なんてことを思ってしまったのでした。(でも、この手の静かな演劇系の芝居
って、一歩間違えると、単にダラダラした退屈な芝居になる危険性もあるので、その辺の
作り込みは大変ではあるでしょうが・・・。それでも、ふわふわ系の役者陣で、無理して
グッ!と見栄を切るような芝居をするよりは、合うと思うんだよねえ。)
[2001年4月10日 22時10分4秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也
文学座ならではの重厚劇
仙台劇評倶楽部 小野一也
「モンテ・クリスト伯」をむさぼるように読んだ。一九六八年のことである。なぜ読
んだ年を明確に記憶しているのかについては深い訳がある。六〇年安保から七〇安保にか
けて私が勤務していた郵便局にも合理化の嵐が吹き荒れていた。労働組合の役員をしてい
た私は、管理者のデッチ上げで逮捕され《閉じ込め》られた。鉄の扉。冷たいコンクリー
ト。高い所に明かり取りは一つ。においをまき散らす便器が片隅に。床にはささくれだっ
て黒ずんだうすべり。油染みた布団が三つ折りに畳んである。外と遮断され、自由を奪わ
れた圧迫感。時計は取られて、今何時なのか分からない。閉じ込められて時はどのくらい
流れたのか……。いつ自由になれるのか? の不安感。気が狂うばかりであった。私は幸
いにして二十時間後に自由にはなったが、その二十時間は何日間にも思えたほど永遠に長
く感じられた。たった二十時間だったのにあの長さ。なのに、なのにエドモン・ダンタス
は十四年間。気が遠くなる長さである。
むさぼるように読んだ「モンテ・クリスト伯」を劇化するということを知り、早速
「文学座」に電話した。観劇日を待った日の長さ。わくわくする気持ちを押さえて席に着
いた。 わくわくして待ったかいがあった。その要因を列挙して私の観劇感想にしたい。
長い原作を、ダイジェスト版にしなかった脚色の良さを先ず挙げたい。何を取り入れ
何を捨てるかの決断の的確さ。観劇後、原作を思い起こしてみて「なるほど」とうなるば
かりであった。冒頭の獄を訪ねる場面は、獄中の日々の長さ苦しさを思わせて、後半の
復讐する主人公の心情を理解させるのに効果的であった。
三時間余を「長い」と感じさせなかった理由の一つに場面転換の妙があった。二階建
てに組んだ舞台は幅を生かすよりも高さを生かすことにより観る人を混乱させない。回る
ことにより、スムースに場面は展開し、前の場面との関連性が密になり、ストレートに次
の場面に気持ちが入って行ける。
この芝居は、内野聖陽がいたからこそ立ち上がったのだろうという見方も確かにでき
ようが、主要な人物が多い芝居を一人の客演も入れずに座員だけでやろうという発想に
敬意を表したい。あれ程の深みある芝居を座員だけで作り上げた文学座の層の厚さは驚く
ばかりだ。関にしろ、原にしろ、清水にしろ、塩田にしろ、金沢にしろ見事に役に成り
切り、見事なアンサンブルとなって舞台を作り上げていた。
冒頭の獄を訪ねる場面から一転してエドモン・ダンテスが航海を終えて帰港する場面
で登場人物のほとんどを巧みに紹介し、絡み、関係を、理解させる。なぜ彼が獄に送り込
まれたのかも含めて……。その紹介の巧みさが、獄にほうり込まれた主人公の「悔しさ」
「無念さ」を経て、二幕の復讐劇の盛り上がりへと結び付くことになる。
たった二十時間自由を奪われただけなのにあの長さ、苦しみを味わった私には十四年
間の途方もない長きにわたって自由を奪われた主人公が、復讐に燃える気持ちは十分ほど
理解できる。「やれ」「やれ」と掛け声かけたいほどだ。
ラストについて、人間性を取り戻すという原作に忠実なつくりは当然なことではある。
が、原作を読んだときにも感じた「徹底的にやってほしい」という気持ちは捨て切れない。
デッチ上げで自由を奪った権力を私は許さない。決して。決して。
堪能の約三時間であった。ありがとう。
最後にお願い。登場人間の関係図をつけてくれた方が親切だったような気がする。
二幕に入ってからの人間関係で混乱していた人がいた。(終演後に後ろの席の人達が
「あの人だれだっけ」と。それを聞いた人が「私もわからなくなっちゃって」とワイ
ワイに。外国人の名前は覚えにくい、忘れやすい)。地方公演では原作を読んでいない
方のために、是非。
《三月七日・十八時三十分観る》
[2001年4月10日 20時26分21秒]
お名前: W.S
まずは高校生が自分達だけで集まって、何かを始めようという意欲を買おう。しかしながら
今回の芝居は現在の高校演劇の実態を見たような気がする残念な出来であった。
すなわち、このタイプの芝居の演技演出をどうすればよいかを指導できる人間がいない。昔
風の芝居を演出できる顧問はいるが、つかこうへい以降(といっても随分になるが)80年代
以降の芝居の演技演出を指導できる人間がいないということである。恐らく彼らもこういった
芝居がどういった具合に演出されればよくなるかを全く分かっていないし、本当にいい芝居を
みたことがないのではないか。見ても自分達の未熟さとの違いが分からないのではないか。
宮城県の高校演劇は来年度全国大会に出場する位レベルが高いと(宮城県の人は)信じてい
るかもしれないが、紙一重で演技力はこの芝居と似たりよったりである。素人の怖さで1作は
いいものが偶然できることもあるが、2作目以降もいい作品を作りつづけていくためには、き
ちんとした技術を学ぶ必要がある。素人ゆえの面白さが消える場合もあるが、長く続けていく
ためには絶対に鍛えなくてはならないと思う。
たった1時間なのに恐ろしく長く感じられたのは私だけだろうか。
こんな厳しいことを書くのは、高校演劇だからという甘えは、「劇団」と名前をつけた以上
許されないことを知ってほしいからである。安易に劇団と名乗る集団がこれ以上増えないこと
を祈る。劇団は見に来た観客に責任があるはずだからだ。
[2001年4月1日 0時33分15秒]
お名前: アイドル評@太田
昨年、私・太田が、堂々の年間ベスト1に選定させていただいた、泉松陵・亀歩さんの、
コンクール後第一作である。また、主要キャストで登場している白百合高校演劇部さんも、
やはりコンクール発表作「HAPPY BIRTHDAY」は、年間ベスト10の中にラ
ンキングさせていただいた、お気に入りの作品であった。そんなわけで、本作については、
今年上半期の最大の楽しみだな、と大いに期待に胸を膨らませて会場に行ったのだが、残
念ながら「う〜〜〜ん・・・・・・。亀ちゃん、君の実力はこの程度のものではなかったはずだ
ろう?」と、いう感想を、率直なところ持たざるを得なかったのだった。
原因はハッキリしていると思う。先日の「学都出陣」と同じである。つまり、日頃同じ
学校で練習している仲間以外と組んだことにより、役者同士の息が合っていないため、役
者同士の間が悪く、その結果テンポがダラダラになってしまっていたと思うのだ。プライ
ベートでは仲の良い友人同士、ということはプログラムを見るとわかるのだが、いくらプ
ライベートで仲が良くても、実際の舞台での息の合わせ方は、日頃一緒に稽古している同
じ学校の仲間同士との方が、やはりうまくいくということなのだろう。
脚本は面白かった。役者が理想型の演技をしてくれれば、ここはもっと笑えたのになあ、
というシーンや、ここはほろりと泣かせるなあ、とか、あ、今すごくいいことを言ったな
あ、という場面が結構あちこちにちりばめられていたからだ。
また、個々の役者が一人で演じているところも面白かった。ほとんどの役者さんを去年
のコンクールで見ており、しかもその時、キャラクターが立ってるなあ、と感心して見て
いた面々が、今回、これだけ揃っているのだから、面白くならないはずがない。要は、他
の役者との間合い、タイミングの問題なのだと思う。
本作のテーマは「居場所」である。自分の居場所が見つけられない、と悩む若者たちが、
自分たちにとってここは唯一の居場所だ、と思えるところで、以前の仲間と再会する。今
まで私の劇評を読んでいらっしゃる方ならおわかりと思うが、これは私・太田の最もツボ
をつく内容のテーマである。
しかし、その理想の「居場所」が、よりによって、トイレなのである!前回の「fractional....」
も、「他人の意見に左右されない、自分自身を持ちなさい」という、泣かせるいいテーマ
だったにもかかわらず、その具体的な例として、「自分でカレーの味が中辛か辛口が決め
るようになりなさい」という、あまりに下世話な内容だったところが、その極端な落差で
笑いを誘っていたものだが、今回も、「居場所」というシリアスなテーマと、「トイレ」
という思いっきり下世話な場所、というこの落差!こういう切り口を思いつくところが、
やっぱり亀歩ってただ者じゃないよなあ、と感心してしまう。しかも、プログラムの「脚
本・演出の言葉」で、彼女は「私自身トイレが大好き・・・で、書き始めた話です。」な
んて書いてるのである。おいおい、華の女子高生が、よりによって好きな場所がトイレっ
て、・・・・・・ねえ(笑)。フツー、トイレって、臭いとか、掃除が大変とか、あまりいいイ
メージがないものだし、「トイレが好き」なんていうと、なんか四コママンガに出てくる、
トイレで新聞読んだままなかなか出てこなくって、妻や娘に文句言われてるお父さんみた
いじゃないですか。そういう意味で、とても笑える設定なんだけれども、でも、「トイレ
で新聞読んでるときが、自分にとって最も落ち着ける時間なんだよなあ」という親父的感
性を、女子高生だって本音ではもっているんだよ、というカムアウトができてしまうとこ
ろが、僕は亀歩のいいところだと思うんだよねえ!(ちなみに、前作がカレーで、本作が
トイレ、というところも、ちょっと考えると、実はつながってるのかな?なんて思ってし
まうのですが、さすがにそれは考えすぎですかね?)
それで、ストーリー上は、占い師役の佐々木麻衣さん(白百合)と、彼女に思いを寄せ
るサラリーマン役の菅原達也君(古川)を軸にしたラブ・コメにした方が、短編な分、ス
ッキリしてよかったと思う。ラストも二人が仲良くなるところで、泣かせる終わり方にな
ってたし。つーか、他の登場人物の人物像の掘り下げ方が、その2人より弱いのにも関わ
らず、群像劇的にキャストの登場シーンが、ほぼ均等になっていたことによって、ストー
リー全体が、なんか散漫な感じになっていたと思うのだ。
個々の役者では、今挙げた占い師役の「サマイ」こと、佐々木麻衣さんが、なんといっ
てもよかった。彼女の演技は、前作「HAPPY BIRTHDAY」でも見ており、そ
の時はダイエットに失敗して、デートの途中でスカートのボタンが取れてしまうOLとい
う、物凄い(笑)役をしていたのだが、今回の占い師も、どちらかというと、巫女的な不
思議系の演技ではなく、事務所に所属してOL的に占い師やってまーす、とでもいった風
情の役作りが親しみやすさを出していたと思う。舞台がデパートの中のトイレなので、た
ぶん彼女も、141の地下にある占いコーナーみたいなところで働いてるんだろうな、と
いう想像ができるため、この役作りは正解だろう。そして、なんか生活に疲れてるな、人
間関係に疲れてるな、とでも思わせるような、ちょっと不機嫌で、ちょっと怒りっぽくっ
て、という役作りが、前回の職場の人間関係や、ダイエットを気にしているOL役とシン
クロして、思わず同情したくなるような、「心が疲れたときは、ショコラBBがいいよ!」
と、お勧めしたくなってしまうような、こちらが感情移入してしまうリアリティを持って
いたのである。しかし、まだ10代の女子高生にして、既に日々の生活にすりへっている
OLをやらせたら、右に出るものはない役者、っていうのも、ある意味スゴイよね(笑)。
でも、高校生だって、気苦労の絶えない性格・他の人がアッケラカ〜ンとしている事柄に
も、つい背負い込んでしまう性分の人って、実際いるんだよねえ。わかるなあ・・・、と
こちらがしみじみとした思いにさせてしまうところが、サマイさんの魅力・持ち味なので
ある。
そして、そんな彼女に好きと告白すべきかどうか迷っているサラリーマン役の菅原達也
君。こういうシチュエーションもわかるなあ。「彼女、なんか毎日疲れてるみたいだ。な
んとかして力になりたい。でも、僕に比べたら彼女の方がずっと大人だし、かえってイラ
イラの原因を一つ増やすことになってしまうかもしれないなあ・・・」、な〜んて思いな
がら遠くから見つめている感じが、彼の小柄で童顔のキャラクターからは、よく出ていた
と思う(二人で抱き合うシーンでは、サマイさんの方が大柄なのがハッキリわかって、こ
れもまたユーモラスなシーンなのでした)。なんか、風邪ひいて稽古に出られない間、一
時キャスト降ろされかかったという噂を聞いたんだけど、あの役者の中で、サマイさんを
見守る役といったら、やっぱりキャラクター的には菅原君しかいないよなあ、と納得させ
られたのであった。
まあ、こんな風に、個別で見ていくと、いいなあと思わせるシーンもいくつかあったわ
けで、本来の僕なら、技術的に不満な点があっても、部分的にでも、「ここはいい!」と
いうところを見つけられた芝居は、ポジティブに評価する方なんだけれども、なにしろ、
去年のNO.1の芝居を作ったという記憶が、やっぱりどうしても強く自分の中に残って
いるため、つい厳しい評価を今回はしてしまいました。ただ、最初にも述べたように「学
都出陣」と同じで、最初はお互いの呼吸が合わなくても、同じメンツで長期間芝居を続け
ていけば、だんだんと、それこそ煮込んだカレーみたいに、いい味が出てくると思う。た
とえば、「Gecka−Bizin」という劇団も、僕は旗揚げの時から見てるけど、最
初の頃は、「なんつーダラダラした芝居をするところなんだ・・・・・・」、と思って見てたの
だが、先日の最新作では、主要キャストの息が、それこそぴったり合ったテンポのよい芝
居を見せてくれていたわけだし。それと同じように、この劇団も長い目で見ていけば、き
っといい劇団になってくれる、と期待している。それだけの力を亀歩は持っているはずだ
もの。なんてったって、あの「fractional...」を作った作家なんだもんね!
[2001年3月31日 21時36分4秒]
お名前: KIT
私が見たのは17日の昼でした。
川島さんが言っておられる点については気になりませんでした。
等身大に描かれた登場人物を等身大の役者が演じている印象を受け、ほほえましく
感じました。その印象が正しいかどうかは、彼らの世代から一回りはなれてしまった
私には「そう思う」ことしかできないのですが。
大きく構えず、私たちからはもう遠い過去となってしまったような事柄に彼らが一
喜一憂する姿が私には新鮮でした。あの脚本にあの俳優達のあの話し方は似つかわし
いと思うのです。実は人それぞれ、世代ごとに、真剣な悩みがあるものなのですが、
彼らなりの生活信条を表したいと思ったとき、なまじっか「よく訓練された」役者を
使うと話がそらぞらしくなるだけかもしれない。と、公演を見終えた私は納得して帰
った次第です。
さらに私が感心したのは、彼ら役者達が無理して役を仕立てよう、見せ場を作ろう
としていない点でした。お客を前にすくみ上がり、それを跳ね返そうとただただ「熱
演」してしまう…ということがありがちなだけに、あの役者達の「素直さ」は才能も
あるでしょうが、そういった方面の訓練の結果なのではないか思っています。
若い間に自分たちにしかできない芝居をやる。そしてそれが他の世代にも伝わるな
ら最高ですよね。そして「無花果の庭」は20代前半にだけ向けた芝居ではなかったと
思います。決して一方的ではなく、なにか普遍的なものを持っていました。
会話がもっとぎこちない人たちなんて世間にいっぱいいますよ。よくできた脚本は
それを反映しているだけでしょう。
私は縁あってこの前「日本語の乱れが許せない高校教師」役をやりましたが、大切
なのは標準化することではなく、自分だけの、人に伝わる話し方を見つけることなん
ですね。
私が「無花果の庭」を見ていて心配したことが一つ。上の世代から見ると余裕を
持って(失礼)見ていられた話題かもしれませんが、それをかなり正面から扱って
いたようなので、同世代のお客は身につまされたんではないかと言うところです。
若い知り合いに聞くと「映画で見たい話だった」と言ってましたから、かなり共感
していたようですが。ほかのお客はどう思われたでしょうか?
それからもう一つ。仙台近郊の新しい劇団は、メンバーが同年代でかたまってい
る割合がかなり高いように思います。構成の幅がちょっと広がると扱える話の幅が
かなり大きくなると思うのですが。変な上下関係が生じて若手の良い着想を邪魔す
るようだと困りますが、年上の役者を見事に使いこなす若い演出家・脚本家が出て
来てくれないかと私は期待しています。
[2001年3月27日 1時12分15秒]
お名前: 劇評倶楽部代表 川島文男
仙台演劇人への提言「番外篇」
2001年3月23日 劇評倶楽部代表 川島文男
「無花果の庭」への評論
三角フラスコ「作・演出 生田恵氏」
「はじめに」
エルパークでの四日間の公演を終え、慌ただしい後片づけの中での打ち上げに出席
させてもらった。だが夜十一時を過ぎてもまだ搬出に追われる彼らの行動を垣間見てい
ると、とても呑気に飲んで等いられる雰囲気ではないし、彼らに対する申し訳なさが先
にたつ。私も考えるところがあって劇評等という活動に身を置いているのだが、そうし
た思考の世界より、せめてトラックの運転等の援助を申し出た方が余程彼らの実利に叶
うのではないかと反省させられることしきりである。そしてそれが昔から替わらぬ演劇
活動の実体だと承知しているだけに、それを解消するための手立てを考えてあげなけれ
ばならないと落ち込んでしまう。同時に真剣に劇評を書こうと決意を新たにする。
「本論」
三月十六日の「中日」を観たが、今回の「評論」は作品の良否は問うものではなく、
この作品が抱えている幾つかの疑問点[或いは問題点と呼んだほうが適切かも知れない]
を抽出して考えてみたいと思う。それは以下に指摘するように、舞台で使用されている
「会話」が観客に対してどのような役割を担っているかと言うことであり、「三角フラ
スコ」に限らず特に若い人々の作品においてしばしば目にし耳にすることだからである。
従って今回の作品の評価については、観劇した多くの皆様の判断に委ねたいと思うし、
私は上記の問題についてだけ述べることにする。また上記文中、これを疑問点或いは問
題点と比喩したのは、この疑問点が当たり前で至極当然と考えている若い人々から反論
される可能性が極めて高く、「問題点」と言い換えたほうが適切ではないかと思われた
からである。即ち、上演に使用された会話は日常使われている会話との関連性に於て現
実的であり多数派なのである。しかし私はそうした傾向に対し、演劇とはどういう芸術
なのか、或いは演劇とは何を求めているのかと言った基本的論理をもって言及したいし、
このまま放置して良いのだろうかと言った問題を打つけてみたい。
ご承知の通り、芸術活動にはそれぞれの分野に於て自分たちの意志を観客に伝える
ための手法が存在する。そしてその手法こそ、芸術と呼ばれるに相応しい要素を多分に
含んでいる。つまり私たちの演劇には「台詞を語る」という手法が最も重要であり、そ
れこそ芸術活動として評価される代表的手法なのである。だが今回の上演では、それを
著しく損なわせているのではないかと思われる会話及び雰囲気が多々見受けられ、その
ことについて感じたままを以下に列記する。
「一」俗に言う、相手の台詞を「食ってる」シーンが極めて多いと感じた。
つまり一人の役者が話している最中、その会話の最後尾に相手の役者の会話が平然
と割 り込んでくるのである。これは一体どうしたことだろう。しかもこの異常な話術
[?]は舞台前半の大部分に於て多用されているのである。これは本人達の意志に拠
るものか、或いは演出者の指導に拠るものかは判然としないが、何れにしろ余りに危
険な行為と思えるし、実に不愉快に感じたのである。このことは前者ばかりか、後者
の台詞さえ聞こえないようにしてしまう恐れがあり、とても理解できなかったのであ
る。そしてこれが舞台上ではない日常生活の会話だとしたら、互いに喧嘩になっても
おかしくないとさえ感じたのである。
「二」彼らの会話中、センテンスの最終台詞や語尾が乱れていなかったか。
例えば「・・私就職、県外だから・・」と言う台詞があるが、これが「・・私就職
県外 だから・・」と読の「、」を無視して連続して聞こえたのである。しかも私のよ
うな者には余りの早口で。そのため役者が何を話しているのか意味が分からず、私は
一瞬舞台進行を無視して考え込んでしまった。だがそもそもこの台詞は、「・・私の
就職先、県外だから・・」と、助詞である「の」を加えて書かれるべきではなかった
か。そうすることによって観客は苦労なく意味を解することが出来たはずである。に
も拘らず作者が敢えてこの助詞を使わなかったのは、彼らの日常的慣習によるものだ
ったのか、或いはそれ以上の価値がこの表現の中にあると判断したからなのだろうか。
また次に述べる問題については、指摘したい台詞を忘却してしまったため、要点だ
けで 容赦してもらうが、「・・です、貴方。」と言う台詞が、「・・です。貴方・・」
と読の「、」を句の「。」に替えて読まれているように聞こえ、「貴方」が次のセン
テンスの頭にきているように聞こえたのである。つまり作者が台詞を正しく書いてい
るのか、或いは書かれている台詞を役者が正確に読んでいるのかと言った疑問が生じ、
両者の何れかが句読点を無視してはいないかと感じたのである。
ご承知とは思うが句読点の「句」は「・・。」であり、読は「・・、」である。
即ち俳句や詩なら別だが、これを無視して文書は読めないと思うし、解釈も間違って
しまうのは明らかである。
「三」
「テンポ」はあるが「リズム」が感じられない。
役者の「早口」は観客を飽きさせないためのテクニックとして使われているのだろ
うが、極めて早いテンポの会話が前半幕を通じて流れていたように思う。そして確か
に若い観客を中心にその目的は達せられたかのように見えるが、残念ながら私には
「リズム」が欠けているように感じられた。つまり会話は速いテンポで進んでいても
その速さに一定の「リズム」がなく、時として観客は前のめりになったり後ろにひっ
くり返ったりさせられるような不安定な違和感を抱いたのではないか。そのため台詞
を必死に理解しようとする観客にはそれが余計な圧力となって舞台に集中することが
出来なかったように思う。またこの原因のひとつは「韻を踏む」と言った日本古来の
素晴らしい会話技術が忘れ去られているようにも感じた。
以上、舞台上の会話について気付いたことを記したが、何れにしろここで指摘したい
最も大きな問題は、これらの会話が十代二十代の若者の日常使われている一般的会話の
延長であり、同世代の観客の大半に受け入れられていると勘違いしているのではないか
と懸念されるのである。そして確かにそれは事実だとする意見もあるだろうが、これ等
の会話は文法上明らかに間違っていると思えるし、或いは間違って読まれているように
感じたのである。従ってこの問題を別の角度から検証してみることにする。
昨年九月十日、NHKで放映された「日本語この五十年、そして次の時代へ」での
調査で、日本人の五十パーセントの人々が美しい言葉が失われていると感じており、そ
のうちの六十一パーセントの人々が二十代の女性であったと報告している。つまり若い
女性の多数は正確で美しい日本語を望んでいたのである。更に、最近の演劇活動の顕著
な例として、ジェームス三木氏や久世光彦氏が演劇を学校教育に取り入れようと運動し
ている。この運動の目的は正しい日本語の保護普及であることは言うまでもなく、演劇
が最も相応しい活動のひとつとして考えられている証である。だがもしこの作品で使用
されたような日常会話が演劇で多用されるならば、こうした学校教育への導入などは全
く意味を持たなくなってしまうし、これから正しい日本語を学ぼうとする人々への教材
としては不適格にならざるを得ない。即ち、こうした傾向の演劇活動は大衆の理解を得
ることが出来ず、演劇活動の発展に重大な支障を及ぼすことになる。だがそれでもなお
このような会話の使用を続けたいと思うなら、甚だ極論ではあるが、それなりの反社会
的なテーマーを扱うアンダーグランド演劇のような方向に劇団の姿勢を転換させる方法
も残されている。そしてそうであれば、大変僭越だが、私の劇評においての問題対象と
はならないのである。何故なら、それは演劇に対する姿勢が根本的に異なっているとし
か言いようがないからである。
またこうした会話の使用は、他にも新たな問題をもたらす危険があるので列記してみ
る。
「一」これは若者だけにしか通じない「使い方」、或いは「専用語」ではないか。
これ等の会話の使用は、若者だけの観客を対象とした使い方と思えるし、若者だけ
の演劇に偏ってしまう危険を否めない。従って仮に多くの観客を獲得しなければならな
いとする私の主張が正当であるならば、これに反する演劇だと思えるし、多くの議論が
必要となるだろう。だが真に若者に受け入れられる演劇とは、年齢に拘らず幅広い人々
に受け入れられるものではないだろうか。そして勿論、それでも構わないとの反論が
仙台には多く存在していることも承知しているが、それなりの重みをもって聞こえた
試しは未だ一度もないことを付け加えておく。
「二」アクセントの間違いがある。
この間違いをひとつひとつ指摘したいのだが、残念ながらこれもまた忘却してしま
ったので仮にとすることをお許し願いたい。
「くり」と言う単語はアクセントを前に置けば「庫裏」となり、後ろに置けば「栗」
となって全く異なる意味となる。しかし最近では標準語と地方語との相違を強調すべきで
はないとの考え方が生まれ、その混乱に乗じてこうした問題に重きを置かなくしている
傾向があるように思う。だがそれとこれとは全く別の理屈だと思えるし、こうした間違
いはアクセント辞典等を利用して正しい発音を心がけてもらいたいと願う。またそうし
た辞書は、各劇団にひとつは必ずあって欲しいと思う。
「三」作者はこうした若者だけの会話の使用を何時まで続けるのだろうか。
観客が求めている上演上の技術とは、こうした一部にしか理解出来ない会話ではなく、
簡潔で分かり易く正確にではないだろうか。そして更に、高度なテーマー性を併せ持っ
ていることではないだろうか。つまりそうしたことが演劇にとって最も大切な課題だと
すれば、こうした若者だけに受け入れられる会話に拘わることは論外だと思えるし、妥
当だとは思えない。またこうした会話は近い将来見向きもされなくなる可能性は強いと
私は考えている。
「四」本当に考え抜かれて使用されたのだろうか。
こうした会話の使用は、果たして作者が考え抜いた結果使用されたのだろうか。実のと
ころ私にはそうとは思えないのである。それはこの作品のテーマー性がしっとりしてい
るように感じられたし、こうした会話を使用するには余りに不向きのように思えたから
なのである。そのため依然として意図が見えないでいる。従って今まで指摘してきたこ
とが単なる劇作上の不備や役者の間違いによるものであって欲しいと願っている。
「最後に」
以上述べたような基本的な問題を解決するには、大変失礼な言い方ではあるが、余りに
若く経験不足な彼らだけでは困難なような気がする。勿論、彼らはそうした「既成的演劇の
あり方」を踏襲するよりも、若い自分たちだけで創りだす新しい演劇世界が優先される
べきだとの考え方を持っているかも知れないし、理解も出来る。だがそれはある一定の
技術を習得した上での論理だと思えるし、より以上の向上を目指すのは演劇に拘らず
人間として当然の摂理ではないだろうか。そして自分たちを信じて共に演劇を創り上げ
てくれた仲間にも、その恩恵をもたらすべきではないだろうか。従って関係者は全てを
自分たちの手だけで行なおうとせず、そうした指導者を早く探し出して素直に指導を仰ぐ
べきことが劇団に課せられた正しい選択だと提言する。また仮にそうした努力を怠れば、
この先の活動に重大な支障をきたすだろうことは明白だと思えるからである。
こうした問題は三角フラスコだけに限らず、我々の日常生活に於て特に問題とはなっ
ていないようである。携帯電話等が発達し相手の顔を見ることなく会話をするとき、相手の
意志を顔色で確認することがなくなってしまったからである。そしてそのため、話し手の
会話は一方的な自己主張の連続となり、自分の会話が正しく作動されているかさえ見分ける
手段を失ってしまっているように思える。またこうした会話が及ぼす社会的影響について
本人たちは関心がないかも知れないが、現代の荒れた若者社会に大なり小なり加担している
可能性があることを感じて欲しいと思う。そして良しにつけ悪しきにつけ、このような
会話が舞台上で表現されるのを見るのは、崩れ去っていく日本語の最後を見届けているよう
で実に悲しい思いを抱くと同時に、こうしたことが観客減少の原因にならないことを祈っている。
[2001年3月26日 20時26分34秒]
「祖母からみれば僕たちは荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ」
お名前: TABOO
近年まれにみる”劇団の”良い芝居だと思ったのだが、誰もまだ書き込んでいないので、
自分の感想を述べてみたいと思う。
自分が最も心地よく刺激され、芝居の世界に没頭できたのは、その思い切りの良さ故。
様々な”もの”。大概とても大切な”もの”を出し惜しみする感のある芝居に出くわす
ことがよくある中で、この芝居はスコーンと何かが突き抜ける快感があった。
そして鋭く心をえぐる鋭利さ。鋭く研いだナイフのようなこの芝居は自分の心の汚い物
を見事にえぐり取ってくれた。
それなのに、とてもあたたかい。作者の人間くさいあたたかさをすぐそばに感じられる
芝居。決して説教くさくなく。決して押しつけがましくなく。そして肝心なところを照
れくささや無責任さのベールではぐらかすことのない、真摯な警鐘。
団員達がきちんと作品を愛している気持ちが伝わった。これが感じられる劇団はそう多
くない。その点先日の六面座もよかった。今回のオクトパスにはその愛がしっかりと溢
れ、世界を支えていた。役者一人一人がその世界を構築せんとその身をなげうっていた。
その中の誰が欠けても足りない芝居。劇団芝居の理想ではなかろうか。
自分も芝居の世界に身をおく者として、この芝居には大いに励まされ、厳しく叱咤され、
そして大切なものを分けていただいた。ワナワナと震えるほどの衝撃を抱えながらの帰
り道はこの上ない至福の時だった。
[2001年3月30日 2時14分19秒]
お名前: 早瀬 俊
以前、作者がここに書き込んでよいかという議論もあったような気がしたが、太田さん以外
にまだ書き込みがないようですので、お礼も兼ねて書き込ませてもらいます。
僕が書きたいのはあくまでも、普通の人間です。普通って何かは実は難しいのですが、自分
も含めて周囲によく居る人間と考えてもらって構いません。ですから、僕は実は登場人物の説
明は必要ないと考えています。それが前半でテレビドラマの第1話のように人物や状況の説明
がない大きな原因です。それから、後半で謎解きが行われるような展開が多いのはあくまでも
僕が普通の日常から派生される状況を前半で書き、その裏や展開を芝居を作りながら作ってい
くといった作り方を「しているからです。このぺんネームで書いた初期の作品「Hard To Say
I'm Sorry」から今回の作品まで僕自身芝居がどう展開するか分からない状況で練習は進めら
れます。ですから、今回メールを送っていた詩人さんが実は自分の妹だったことや、セラピス
トである先生と姉妹の三角関係という設定も練習開始後、役者間の組み合わせや演技の方向を
見て決めていったものです。ですから脚本が完成するのは練習開始後、早くても1ヶ月後なの
です。
太田さんの劇評は、暗に前半のシーンが面白くなかったという意味だと思いますが、本番で
も残念ながら役者が出し切っていませんでした。また、芝居全体を通じて、演出意図である現
代の女性の孤独感も上手く引き出せなかったと思います。見てくださった皆さんの感想をお待
ちしています。
[2001年4月1日 1時1分14秒]
お名前: アイドル評@太田
なぜ育英の公演は明日なのに、既にこの公演の劇評が載っているのか?と、不思議に思
われる方も多いと思われるので、最初に釈明しておく。実は、年度末という時期もあり、
残念ながら職場の予定が入ってしまい、明日の本公演が見に行けないのである。結構楽し
みにしていた公演だったので、残念に思い、お詫びのメールを渡部先生に送ったところ、
「じゃあ、前日のゲネプロを御覧になりませんか?」とのお誘いを受けた、というのが、
ことの次第なのである。
ところで、そもそもこのような個人的なご厚意を受けられるようになったのも、私が劇
評を通して育英のお芝居を見るようになったという経緯があるわけだ。そう考えると、見
せてもらって、ただ「ありがとうございました」で終わるのでは、たいへん申し訳ないこ
とのように思える。やはり、見ての感想・劇評を書き込んでこそ、このご厚意に応えるこ
とではないか、と考え、こうして異例ではあるが、「前日劇評」を書き込むに至ったので
ある。
さて、前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
先に「Gecka−Bizin」の劇評で、観客の立場からいうと、劇団の得意パター
ン・いわば「型」のようなものがあると、シンパシーを持ってその劇団のリピーターにな
りやすい、という趣旨のことを書いた。早瀬俊氏の脚本作品を拝見するのはこれが3度目
なのだが、早瀬氏の得意な「型」のようなものが、傾向として見えてきたように思えた。
大ざっぱに説明すると、早瀬氏の脚本を前半と後半に分けるなら、後半は主人公の内面
にあるトラウマの謎解きが展開し、前半は登場人物の紹介と、その謎解きの伏線を作るこ
とにあてられる、というのが、早瀬氏の得意な型・傾向のようである。御覧になった方は
おわかりと思うが、「transformation1999」も「MOON」も、そのパターンであったはず
だ。そして、明日御覧になる方+劇団への礼儀として、詳しいストーリーまでは詳述しな
いが、今回の「夜明け前という名のオブジェ序章」もまた、そのパターンを踏襲した作品
だったのである。
ところで、物語の後半・クライマックスが主人公のトラウマ、屈折の原因究明にあてら
れるとするなら、物語の前半において、その主人公がある程度、そのような屈折を抱えて
いる人間であることを示唆する必要があるだろう。その屈折が観客である私にもまた思い
当たるものであるならば、既に前半の段階で私は主人公に感情移入し、後半の謎解きでは、
謎が明らかになっていくのに比例して、ますますその主人公への思い入れを強くしていく
はずである。しかし、以前の2作も、そして本作もそうだったが、早瀬作品の主人公は、
少なくとも前半においては、とてもそんな屈折を心に抱いているようには見えない、いわ
ゆる普通の社会生活を送っている人間であることが多い。これはなぜなのだろう?
私が考えた仮説はこうだ。例えば、長編小説や半年放映されるアニメであれば、物語の
前半だけでも大幅な時間をとることは可能だから、主人公は表面的には普通の社会生活を
送っているように見えるが、実は内面には屈折を抱えている、という内容を綿密に描ける
だろう。しかし、1時間半から2時間が標準的な演劇公演において、綿密に前半で主人公
の描写をすることは、時間的になかなか大変である。あまり綿密に描くと、前半だけで膨
大な時間をとり、観客の緊張感が続かなくなる恐れがある。それが、物語の前半において、
主人公が「フツーの人」の域を超えていない理由ではないだろうか?
今にして思うと、私が氏の作品に初めて出会い、非常に興奮した「transformation1999」
にしても、私にとっての感激のポイントは、高校生離れした圧倒的なギャグを繰り出す大
江有美の存在感に対してであり、むしろ主人公のトラウマについては、後半突然出てきた
ことによって、「え?こいつ、こんな悩み抱えてたんだ・・・」という驚きの方が強かっ
たように記憶している。つまり、「transformation1999」は、主人公への感情移入よりも、
むしろ前半は圧倒的なギャグで観客を興奮状態に引き込み、その間に後半のトラウマ解明
に向けた伏線をさりげなく仕込む。そして、後半ではトラウマの謎解きに本筋が転換する
が、ギャグで興奮状態に陥っている観客はだらけることなく、その謎解きに興味をうまい
タイミングで移していく、というパターンで物語が進んだことが成功の要因であり、そう
考えると、早瀬作品は前半のギャグでいかに観客を乗せるか、が成功するかどうかのポイ
ントになってくるように思われる。逆に、前半のギャグが外れてしまうと、後半の主人公
のトラウマ解明が唐突なものに感じられ、謎解きというドラマ構築による興奮は出てくる
のだが、「主人公に感情移入できなかった自分」、というものが前半の熱狂がない分、観
客の中で浮き彫りになってしまい、「飽きはしなかったが、なんか釈然としない」という
思いに観客が捕らわれてしまう危険性が高くなるわけだ。
では、本作では、そのポイントとなる前半のギャグのキレ具合はどうだったか?これに
ついては、私が今日見たのは、あくまでゲネプロである。従って、ここでの論評は控えさ
せていただく。(リンパ腺だって、公開リハーサルだったのに、ばっちり劇評書いたでは
ないか?それなのに、なんで今回は論評しないんだ?と指摘する人がいるかもしれない。
しかし、リンパ腺はリハーサルとはいえ観客に「公開」されたものである。本作のゲネプ
ロは、公開されたものではなく、私が個人的なご厚意で見せていただいたもの、という大
きな違いがある。だから、ここで論評するのはフェアではない、と私は判断する。)ただ、
明日皆さんが御覧になるにあたっての、本作が面白いと思えるか否かのポイントは、その
部分にあるのではないか?と言うことを、私はここで言いたかったのである。明日、皆さ
んが本番を御覧になっての御感想、ぜひとも教えていただきたい。私も楽しみに待ちたい。
[2001年3月27日 23時21分14秒]
お名前: W.S
2時間半以上の芝居、一緒に観に行った人間のほとんどはきつかったというが、私は個人
的には最後まで集中してこの芝居を観ることができた。何故なのだろうと、その後考えていた
のだが、私はどちらかというといいかげんな芝居の観方をする人間で、大抵の人のようにスト
ーリーを理解しようとしたり、テーマは何かなどとは考えない。しいて言えば、「いい役者が
いるかな」というのが一番で2番目は雰囲気である。
そういった私にとってみると、この作品に登場する役者達は、いい方向性を持っていたと思
う。一見難しい科白(「やりてえ」もそうだろう)を自分の言葉として言おうという意識が見
えた。お岩さんの長科白や最後の長科白もそうであるし、途中でマイクが故障したのは入らな
かった歌の歌詞もそうであろう。一人一人が何とか自分の言葉で客に向かって語ろうという姿
勢が見えたと私は思う。しかし、残念ながらそれは未完成であった。科白回しが妙に型にはま
った調子になるところが随所に見られ、その方向を邪魔していた。もっと現代語でしゃべらせ
ても構わなかったと思うのだが。それから、特に周りを固める男優を中心にしっかり役作りが
できていなかった。はっきり言って浅かったと思う。お岩さんの科白も、見ているときは迫力
を感じたが、こうして一週間たってみるとあれも今一歩自分自身の心の叫びにはなっていなか
ったのではないか。つまり、役者全員がいい方向性を持っていながら、役への踏み込みがもう
一歩だったのが残念である。
しかしながら、このようなことが目立ってしまった原因は、やはり作者・演出家の役者に対
する思い入れのせいだろう。役者一人一人が自分自身をさらけ出して欲しい。自分の持ってい
る日常や絶望感と戦うために演技をしてほしいという願いからだと思う。残念ながら、上手く
かわして傷つくことなく日常を送る癖のある若者には、そこまで自分を追い込むことが出来なか
ったのだろうか。けれども、劇団の役者達が日常において、もう少し色々な経験をし、傷つき
もう少し大人になった後この芝居をやったらどうだろうか。そこに、今回はむしろ前向きな失
敗であった可能性を信じたい。
[2001年3月31日 11時39分5秒]
お名前: ペッパー
広報さん、素早く真摯なご返答ありがとうございます。書き方が悪かったところを付け加えますと、
扉の開け閉めについては、誰かをドア係りとして置く事をお勧めします。そうすれば、音も最小限で
すみますし、ドアが開きっぱなしになることも防げると思います。
他の劇団であれ程、出入りが激しいところはありませんし、皆それぞれに開閉には気を使っている
ようにみえます。それと矛盾するようですが、私は子供の声についてはある程度がまんできます。
子供がいても観たい芝居はあるし、周りの人を気にしながら観るというのは大変だなと思っているので。
それと余裕があれば、アンケートをとるのも手かなと思います。無記名で身内じゃない意見を聞くのも
次への参考になりますよ。
たまにだいぶ痛い意見もありますが、、、。がんばってください。
[2001年3月30日 14時24分24秒]
お名前: N.Y
私はあまり演劇が好きではない・・・・というか、一度友人に連れられて有名と言われ
る劇団の公演を見に行ったが、面白くなかった。自分はちょっとバンドをやってる人間なんで、
演劇について偉そうなことは言えないけれど、ステージに立っている人の汗とか肉体とか、そう
いうのがあまり感じられなかった。
劇団CUEの芝居は、友人に誘われて見にいった。このHPにもCUEのHPからリンクをつたって
初めてやってきた。いろいろな感想を持つ人がいるんだなあと感心した。私は泣けた。いい
芝居だと思った。役者が2時間半、自分の体を賭けて必死に表現しようとしていたせつなさが
とても好きだった。全然期待していなかったんでそう思えるだけかもしれないし、ほかの皆さん
のように演劇に詳しくないから、こんなこと書いたら生意気かもしれないが、でも、私のまわり
にも何人か泣いているお客さんがいた。高校生くらいの女の子も泣いてた。一方で、やっぱり
ぜんぜん面白くないとイラツイてみているお客さんがいることもわかった。
なんだか、人の感想って様々なんだなあと思った。自分もバンドやってて、ライブのあとに
「いいよ」といってくれる人が多いけど、反面、「ひでえ演奏だった」と感じているお客さん
もきっといるに違いないなあと思った。これは余計な話だけれど。
でも、私のバンドの師匠からいつも言われているんだけど、「見る人を怒らせるか、感動さ
せるか、どっちかの演奏をやれ」なんていわれる。そういう意味でいうとCUEさんの公演、涙
こぼして席を立っていく人と、不機嫌そうな顔して出て行く人とに別れて、とても不思議な
感じがした。なんか、役者さんが自信もって真剣に取り組んでる姿勢がとてもよかった。ほか
の劇団の芝居と比較していってるわけじゃないけど、私は行ってよかったと思っている。
[2001年3月29日 20時13分47秒]
お名前: 劇団CUE広報
ペッパー様
劇団CUE公演においでいただきありがとうございます。
受付の応対が悪かったとの件、大変不愉快な思いをさせてしまったことをお詫びいたします。
担当者にはきつく注意をしておきましたが、今後もこのようなことのないように努力させていただきます。
また、会場の出入りについては、子連れのお客様も多く、かなり頻繁に行われていたことは確かだったと
思います。ご不快な点も多々あったかと思いますが、次回以降十分注意させていただきますので、ご容赦
願えれば幸いです。ご苦情を今後十分に踏まえさせていただきます。
[2001年3月29日 14時59分11秒]
お名前: ペッパー
久々にきつい芝居を見た。色々なものを新しく取り入れようとしている姿勢も見受け
られたが、それがうまく発揮されずに終わってしまった。
まず、役者のセリフが初めよく聞き取れなかった。何かを喋っているのはわかるが後ろ
まで届かない。だんだんのってきて、言葉が理解できるようになったと思ったら、次は
感情を吐露し、叫ぶ演技に変わってしまった。全員が自分の気持ちを次々にわめいて行
くのだから、聞いている方はたまらない、、、と思っているところに、あの歌だ。スト
ップモーションの二人の後ろで感情たっぷりに気持ちよく歌っている姿には、
気持ちがスーと冷めて行くのを感じ、それが3コーラス続いた後にはもう苦笑するしかな
かった。三人娘がニコニコしながら死体を布で隠して
袖に持ち込むーーー考えは良かったけど、最後に美しく死んだ二人が、隠れられない布に
隠れようと、もぞもぞと芋虫のように動く姿には、
悲しみさえ覚えた。 それと、もう少し観客の側にたった芝居づくり、会場作りは
出来なかったのか。あの席で休憩無しで3時間も続けて
芝居を見るのは、辛すぎる。もっと席に余裕を持たせるべきだし、途中非常灯がついた
ままの暗転が何度かあったが、あれだけぶつぶつと切れるなら、一度くらい休憩があって
も良かったのではないか。
また、この劇団を前にも見たが、今回も来てより強く思ったのは、「身内意識の強さ」
と「芝居を見てもらうことへの配慮のなさ」である。
受付は知り合いが来るとおしゃべりをしたまんま、つっけんどんな対応だし、今回も劇中
何度もドアの開け閉めがありそのたびに凄い音が、ひびきわたっていた。後ろでは、知り
合いが出るらしい人達が、えんえんと関係ないおしゃべりを続け、舞台になかなか集中
する事が出来ない。
アンケートがないので、こういった苦情をどこにももっていきようがなかったので、あえて
書かせていただいた。私が普通、観ている劇団では
起こった事がないことばかりだったので。普通の観客の目には、そうもうつると言う事を
知って欲しい。
これからが、楽しみな若い役者が多いのだから、余計なところで足を引っ張ったり、内輪
だけの盛り上がりでせっかくのいい芽がつぶされないように願う。
[2001年3月28日 15時29分9秒]
お名前: kieu
長くてきつい芝居だったが、「あの日に帰りてえ」だけで2時間半引っ張ったのはよかった。
ところどころにどうも印象に残る台詞があって頭から抜けない。
なんだかよくわからない感じもしたけれど、役者さんの迫力で植え付けられた何かが
頭から抜けない芝居だった。
[2001年3月26日 22時38分22秒]
お名前: S.E
ン?カモメさん。私は正直言ってきつかった。あれをありとはおせじでも言えん。
[2001年3月26日 22時5分56秒]
お名前: カモメ
劇団CUEさんの劇は初めてみたのですが、正直な意見としては
僕は演劇を見るなら喜劇派です。しかし、CUEさんの今回の劇は悲劇でした。
だから、2時間半以上の劇を飽きずに観れるのかが不安で観ていたんです
話の全体的に男が女に『ヤラせろ!』とか『抱かせてくれ』ばかり言うので、
下ネタとは違うけど、なんか人間としてのいやな所を表現している劇だなぁと
思いつつ(人をスグに切ってたりするし)、しばらく観ていたらでも、なんだか
こういう劇もあっていいなぁって感じました。
セリフ的にはああいったものが多かったけど、それとは別に
(うまく表現できないので一言で)心にくるものが何かあった気がしたんです
パンフにも載っていたのでそのまま書きますが、個人的には
『あの日、あの楽しかった日のお岩に会いてえ!そのためには
人だって切る。その気持ちがなんでわからねえんだ、お岩!』ここが好きカモ。
役者さんとして、目を引かれたのは(皆うまかったんですけど)お岩役をした
佐藤美沙紀さんが素直によかったです。迫真の演技とは正に事のことを言うんだと
思い知らされて、思わず泣きそうになったりしたりしなかったり(どっちだよ)
とにかく見る価値ある劇だったと思ってます。
[2001年3月26日 18時57分46秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也
演劇中毒者集団リンパ線 公演 「殺人会議」劇評
劇団結成の「熱意」と、作品の完成度に頭を下げて拍手を送る
仙台劇評倶楽部 小野一也
私の知人が「いま高校演劇に興味を持っている」とよく言っていた。昨年の高校演劇
宮城県大会に通い、彼が興味を持ってることを理解した。古川女子高等学校演劇部が宮城
県で初めて全国大会出場を決めたことでも立証された。
私も彼同様高校演劇に「興味」を持つことになった。その私をびっくりさせたのが、
「演劇中毒者集団リンパ線」の結成である。「びっくり」について書くことが高校演劇に
ついて持った「興味」の中身についての説明になる
高校演劇に興味を持った最大の理由は、「いいなあ」と思えた作品に、生徒自身の作、
演出が多かったからである。生徒の自主性がどれほどその作品に生かされたかが作品の出
来に大きく関わっていると思った。
芝居の持つ特性を一言で言うなら「力を合わせて作り上げてメッセージを観客に伝え
る芸術」である。高校演劇の場合、学校という枠のなかで、生徒が抱えている問題意識を、
学校がどれほど問題意識として理解しているのか。又その問題意識を芝居のテーマとして
取り上げ、メッセージとして発信することを学校側が「許す」のか。昨年の高校演劇宮城
県大会を観劇して心の中に引っ掛かっていたことだ。
それは……。実は、前述の古川女子高校の作品も部員が意見を出し合って作り上げた
オリジナルであったが、「いいなあ」と思った作品は、こぞって生徒の創作であった。
生徒によるオリジナル作品の場合、学校との間で摩擦はないのか? どのような話し合い
がされているのか? 部員がやりたい作品を学校の圧力でやれないということはないのか?
この「殺人会議」を観て、《高校生が日常生活の中で抱えている問題、直面している
悩みを赤裸々に表現したいと思っているが、それが部活としては許されてはいないという
実態》を確認した。自分たちが直面している、成長のためには乗り越えていかなくてはい
けない問題を芝居として表現したいのに、それが許されないという苦しみは大きいと想像
出来る。その苦しみを乗り越えて、《それなら自分たちで実現しよう》と決意したその決
意に拍手を送る。「決意」から「実現」までの道程にはどれほどの努力が必要であったろ
うか…、頭が下がる。西さんをはじめとしたメンバー全員に。
私が拍手をしたり頭を下げるのは「決意」し「努力」し「実現」させたその「情熱」
にだけではない。芝居の完成度に対しても深く頭を下げ、大きな拍手を送る。
盛り込まれた「いじめ」「性的虐待」「少年犯罪」等を「現代の奇病」としてとらえ、
西さんは「殺人会議」という場面を設定して露呈させる。その露呈の仕方は「これでもか」
「これでもか」とダイナミックで迫力があって、最後までよどみなく進行する。しかも、
計算されていて一種の推理劇風に展開し、舞台に引きづり込む。西さんの才能は、脚本だ
けではなく、演出でも発揮する。開演時間前から舞台に二人の少女を登場させ、その二人
は芝居の途中でも登場し、あの二人は何? と思わせながら結末でようやく明らかにさせ
る。その明らかにされた「事実」は、この芝居のテーマそのものである。見事である。
出演者はこぞって達者だ。その中でも特筆すべきは、あの難しい演技をこなした二人
の少女。すばらしい。
次作品を楽しみに待つ。 《3月31日観る》
[2001年4月10日 23時55分44秒]
お名前: アイドル評@太田
御存じの通り、私は「アイドル評倶楽部」を名乗っているぐらいだから、役者さんにつ
いて、つい男優より女優さんの方に目がいってしまうことが多い傾向があるのは、率直に
認めざるを得ない。しかも、今回の「リンパ腺」は、プログラムのキャスト紹介の女優さ
んのところに、「チームアダルト」「ゴージャス班」「かわい娘班」など、私・アイドル
評の琴線を、思わずくすぐるような自己紹介が書いてあったりする(笑)。しかし、今回
の芝居に関しては、私の目が惹きつけられたのは、なぜか、それらアダルトでゴージャス
な女優陣ではなく、オタク高校生を演じた向山・國井圭君の演技なのであった。
なぜ、よりによってアダルト(以下略)な女優陣をさしおいて國井君の演技に?実は、
彼のオタク高校生としての演技が、「ああ、こんな奴いるよなあ。なんか、E−bean
sの8階でアニメのトレーディングカードの交換とかしてそうだよ!」と、思わずにはい
られないような、匂ってきそうなリアルさがあったからなのである。
この物語は、ある不思議な空間に集められた5人の男女の物語である。彼らは殺人を犯
したという共通点を持っており、「なぜ、殺した?」と問う、質問者(斎藤ちぐさ/チー
ムアダルト)に対し、それぞれが内面に抱えていた心の問題を吐露していく、という構造
になっていた。で、國井君の悩みは、アニメオタクであるということで、周りの人間から
蔑視をうけている、というものなのだが、私が思うに、彼の演技が他の役者に比べてリア
ルだったのは、他の役者が割り当てられていた心の屈折の原因が、援助交際だったり、近
親姦だったり、という、衝撃的な内容ではあるのだが、自分自身に内在した問題ではない
ために、演出及び役者が、マスコミなどで報道されているそれらの事例の上っ面だけを真
似ざるを得ず、それがリアルさに欠ける演技になっていたのではないだろうか?これに対
し、國井君の演じた「オタク」は、実際E−beansやアニメイトに行けば、いくらで
もリアルな実物を見ることができるし(笑)、また、役者の彼自身の中にも、そして観客
である私自身にも、内在しているものだろうから、「ああ、わかるわかる」という共感を
得やすい演技となっていたように思うのだ。
彼の演じた内容をより具体的に説明すると、とにかくイライラしていて、いつも怒って
いる、というものであった。本当なら、彼の演技は一本調子で幅がない、と批判されるべ
きものなのかもしれない。しかし、今回の役柄にのみ限っていえば、逆にこれが成功して
いた。なぜなら、彼は周りが自分をオタクだということで軽蔑しているだろう、という不
安を被害妄想的レベルにまで高めているため、他人に対して、つい過剰防衛的態度に出て
役柄だからだ。この辺は、自分自身にも似た傾向があるため、ものすごく共感して見てし
まった。と同時に、「それはいくら何でも考えすぎなんじゃないかな?」とか、「まあ、
こんなにロリっぽいアニメについてアツく語ってる奴は、キモいと言われても仕方ないよ
な」と、役者としての彼を、見ているこちら側が客観的な対象として見ることができると
いう意味で、彼を「オタク」という存在の“物真似”として笑うこともできる、という二
重の楽しみ方ができるようになっていた。よく言われる通り、“物真似”というのは対象
の特徴をデフォルメすることによって笑いをとるものだが、彼の場合、「ミョーにアツい」
ところと、「なんか、ダサい」というオタクの特徴を、とても際だたせていたと思うのだ。
本作に似た構造の芝居に、去年の高校演劇コンクールでの白百合の「HAPPY BI
RTHDAY」という作品があった。あの作品も、どこか非現実的空間に集められた人達
が、自分の内面の屈折を吐露するという内容だった。しかし、白百合の芝居のよかった点
は、その登場人物が、「試合で失敗したサッカー少年」とか、「デートに失敗したOL」
「友人とケンカして気まずくなった少女」と言った、いわば自分たちの身の丈にあった、
「ああ、わかるわかる」と、こちらも思ってしまうような悩みを持っていたところにある
と思う。その意味で、國井君以外の役者の悩みとして取り上げた、援交や近親姦といった
深刻な問題については、題材として取り上げたくなる気持ちも分からないでもないが、観
客側にも共感が伝わってくるような自分自身の問題としての身近なテーマを選んだ方が、
よりよい作品になったのではないだろうか、とは思ったのであった。
まあ、次まであと1週間あるので、次回どのくらい変わっているか、楽しみにしています。
[2001年3月24日 23時25分29秒]
お名前: すちゃらかおーみ
ひょんなことから、今年最初の観劇でありそれも2度も観てしまった。
何から書き出そうか迷いに迷っています。結果的に取り止めが無くなる
(いつものパターン)と思いますがまあ、そんなもんでしょ。
イメージから言うと、20数年前の仙台のアングラ演劇を観ているよう
な錯覚に何度も陥りました。全てが稚拙でしたがそこには微熱があり、
幻想があり、なにかが起きる、新しい時代が夜明けがやってくるみた
いなえもしれぬ陶酔が襲ってくるのを感じながら観ていました。
多分こんな見かたをしていたのは今回の公演で私一人でしょう。楽しみ
教の教祖代理だけのことはあると自負しています。
さて、この演劇を論ずるのはたいへん難しいと思っています。
3月18日までの脚本だけで言えば、私もアイドル倶楽部@太田氏の感
想そのままの意見です。あまり追記することも無いので書きこみは止め
るかと思っていました。でも私は最終日をついつい観てしまったのです。
このへんが、観劇道倶楽部@すちゃらかおーみの本領なのでしょう。
台本に大幅な修正が施され、演出が変わり、よりアングラな感じが増大
し台詞は下手、テンポは最悪、テーマについて、うわべは明確、本質は
より闇の奥へ。ってな感じですか。
言葉にするといいんだか悪いんだか分からないな。個人的には3月20
日の舞台は非常に濃密なものを感じました。それは私の学生時代へのオ
マージュも重ね合わせて見えていたからかもしれませんが、ようするに
同じ匂いを発散していたと言うことです。同じ学生だからなんて馬鹿な
ことを言っているのではありません。当時の時代の熱みたいなものをち
ょいと感じると言っているのです。そしてこの熱こそ今の時代に最も欠
けているものだと感じているからです。この熱量を発散できていればお
ーみ的には何も言うことはありませんよ。だって、今20才すぎとして
あと60年表現しつづけられるんでしょ。細かいところどころか大まか
なところ全て含んで改善のための時間はたっぷりありますよね。
まず語らなければいけないのは、脚本と演出でしょうね。
書き直されてといっても、脚本家の、自分だけで理解できる言葉が多す
ぎるように思いました。まあ、たった2日でこんなに改善できるんだか
ら公演を重ねていくごとに良い脚本が書けるようになると思います。
脚本について、「もしもしガシャーン」への劇評でいったん書いたもの
をおろそかにすると表現の神様に嫌われるみたいなことを書きましたが
今回の脚本はきれいさっぱり捨てたほうが良いと思いました。アイドル
倶楽部@太田氏が述べている通り観客に伝わった結果としての表現につ
いて意識が足らないと思います。これについては公演をかさねて、客の
前に裸の気持をさらけ出していくこと以外にトレーニングを行うことは
出来ないので本人は辛いかもしれないけど、あと5〜6回は捨石にしな
いといけないんじゃないでしょうか。でもその前提として、表現したい
物事があるのかどうなのかということにつきますね。語りたいことがな
いのなら脚本なんて書けるはずがないし、語りたいことがあるのなら、
今回のようなコラージュの積み重ねのような脚本にならなかったと思う
し。まあ、このへんは本人の問題だから多くは語りますまい。
役者に付いて言えば
東君:どっちかって言うと演出がダメ出しをしなければいけないような
単純ミスが多かったような気がします。まあ、表現への意思を学
ぶ時期なんでしょうか。
嶋口君:いきなり難しい役柄しかも性別が別と言う役柄を良くこなした
とは思いますが、技術がまずいですね。これはトレーニングで
改善できることだと思うのでこなしていって下さい。
あと、ネル役の嶋口君が白塗りだったのが理解出来ませんでした。寺山
を意識したんですか?それは欲張りすぎだと思いました。私のようなオ
ヤジは当時の演劇・パフォーマンス・ATGの映画なんぞで結構慣れてい
るつもりですが。
とはいえ、2日で圧倒的に変えた(変えることが出来た)脚本・演出の
”剛腕”たるや信じがたいものがありました。70年代的ですね。
私は、この剛腕を信じます。いつまでも頑張っていってください。
[2001年3月21日 1時35分30秒]
お名前: アイドル評@太田
この物語が、伝統的形式としての起−承−転−結を踏襲しているとすれば(上っ面だけ
見ると、その手の伝統的手法を本作はとっていないように見えるが、一歩深読みすると、
実は伝統的起承転結による芝居だったと私には思えた)、本作の結論は、ラスト近くにお
いて“男”が言う「感覚に逃げ込もう」というセリフと、それに続く1組の男女(?・た
ぶん男女だと思うんだけど・・・)、のセックスで終わるラストシーンだろう。つまり、
人が幸せになるための手段として一番いいのは「感覚に逃げ込む」ことであって、その具
体的事例としてのセックスを舞台上で見せた、と私は本作を解釈したのである。
この結論自体は、私も共感するものである。それは、以前に仙台三高の「ウルトラマン
の母」で笠原先生と議論した「意味か?実感か?」で、既にその理由を書いているので、
ここでは重複を避けるために割愛する。ただ、問題なのは、その結論を観客に納得させる
だけの説得力が、本作にあったか?ということだ。
つまり、セックスシーンを舞台上で見せることによって、観客が舞台上の役者に感情移
入・シンクロし、あたかも自分もセックスをしているような気分になることによって、「な
るほど、感覚に逃げ込むというのは素晴らしいことだなあ」と思うことができたとしたら、
本作は成功だったといえよう。しかし、私はこの舞台のラストシーンを見ながらも、「な
に、観客不在なところで、自分たちだけ勝手に気持ちよくなってるんだよ」という、醒め
た気分しか持つことができなかった。
なぜ、私がそのような醒めた気分になったかといえば、この物語の「結」に至るまでの、
「起・承・転」に、私が登場人物に感情移入できなかったためで、だからいきなり「結」
で、日頃自分が考えていることと同じ結論を見せられても、「何を今さら・・・」と、シ
ラけた気持ちしか起こらなかったというわけだ。
本作の「起・承・転」にあたる部分では、1組の男女(女性と思われる人間に対して、
男性が「オマエはゲイか?」と問うセリフがあるので、正確には男女ではないのかも知れ
ないが)が、男の部屋に女が勝手に入り込んだらしく、「出ていけ」「出ていかない」と
押し問答をし(起)、その押し問答のラチがあかないとなると、話題が次第にずれていき、
だんだんと、ほとんど禅問答とも言うべき抽象的なアフォリズムの掛け合いをしゃべりあ
い(承)、その後、唐突にお互いの首を絞めあい(転)、そして最後のセックスシーン(結)
へとなだれ込むというわけだ。
「理屈」という「意味」を経過して、結論として「感覚」に至ること自体は、私は構わ
ないと思う。「ウルトラマンの母」評でも述べたが、私達・現代人は、「実感が大事」と
いうこと自体を、「なぜ実感が大事か?」という意味を経由しなければ理解できない存在
となっているのだから。ただ、その「実感が大事」という理屈・意味が説得力のあるもの
である、という条件がその場合、出てくるが。その理屈を論じる場が、本作で言えば「承」
の部分であったと思うのだ。
しかし、上記に書いたように、本作の「承」の部分は、禅問答的アフォリズムで埋め尽
くされ、観客に対して説得力のあるものとはなっていなかった。私は、こうして劇評、と
いう言葉を用いて、他人に自分の考えていることを理解してもらおうという努力をしてい
る。しかし、どんなに相手に理解してもらおうと、なるべくわかりやすく書こう、と言葉
を尽くしても、私の言葉を誤解したり、反発したりする人は後を絶たない。それほど、人
間とは一人一人が違う生き物であり、お互いを理解し合う、ということは絶望的な試みで
あったりもする。しかるに、本作の「承」の部分は、そういう絶望的ではあるかもしれな
いが、それでも努力すれば一部の人には理解してもらえるかもしれない、という説明をし
ようと言う努力がまるで感じられなかったのである。そのアフォリズム的禅問答は、「わ
かる人がわかってくれればいいや」とでも言うような投げやりさ、自分の頭の中に浮かん
だ抽象的な思いを、そのままなんの加工もせず、セリフに移し替えたようなものだった。
もちろん、私も文章を書きながらも、「みんながみんな、この太田の思いを理解してく
れるとは限らないだろう。わかる人だけがわかってくれるだろう。」という諦念は持ち合
わせている。しかし、その「わかってくれる人」が、一人でもパーセンテージとして多け
ればいいな、という思いから、少しでも理解してもらえるような文章を書こう、という努
力はしている。だが、本作の禅問答には、それがほとんど見受けられなかったのだ。だか
ら、私は本作が1時間未満の小編であったにもかかわらず、途中ひどく退屈してしまった。
「わかる人さえわかればいい」という考え自体には、私もその通りだと賛意を表する。
しかし、その「わかる人」のパーセンテージを増やす努力は必要ではないだろうか。その
努力こそが、演劇における「芸」だと思うのだが。本作で、“男”の方の役者が、いろん
な野菜を生かじりし、その理由として、「素材の味を楽しみたいんだ」と言うのだが、こ
れは、もしかしたら「禅問答」を、自分の頭に浮かんだ「素材」を生のまま出したことの
メタファーなのだろうか?私は、「芝居を作る」と言うことは、まさに「料理をする」と
いうことであり、野菜を生のままで出すことではない、と考える。現実問題として、生の
ままのカボチャやナスを出されて、「わあい!僕、生のままの野菜が大好きなんだ!」と
いう観客が存在することを期待すること自体、極めて甘い考えだと、私は思うのだ。
[2001年3月19日 23時6分26秒]
お名前: アイドル評@太田
高橋美峰子さんの魅力を、プロの役者に喩えるなら、さて誰になるのだろうか?単に容
貌だけでなら、一色紗英あたりだろうか。しかし、一色紗英の場合、やさしそうな表情で
穏やかな笑顔を見せているところがその最大の持ち味といえようが、今回の高橋さんの場
合、それに加えて、シビアなシーンでの凄みのある表情がまた素晴らしく、今回の演技は、
それらいわゆるプロの役者と比較しても決して遜色のない、まさに出色の出来だったとい
えよう。
井伏さんは、彼女について“華がある”という形容をされておられる。私は、時々「こ
の役者さんには独特のオーラがある」という書き方をすることがあるが、成る程“華”と
いう言葉を使った方が、より演劇らしい、なにか雅な感じのするボキャブラリーだなあ、
と感心させられた。ただ、「オーラ」という言葉の場合、「負のオーラ」とか、「邪悪なオ
ーラ」とか、必ずしもポジティブでない形容に使えるなど、応用範囲が広い、というとこ
ろはあるのだが、これに対し、“華”という言葉は、その語源が文字通り、あの植物の花
であるだろうから、「見栄えが美しくて、見ている者が思わず引き込まれてしまう」対象
への形容に限定される、と考えていいだろう。
そう考えていくと、以前、「ゲキテキ」の劇評で私は原色系の役者と中間色系の役者と
いう比喩を用いたが、さしずめ亀歩あたりは、野に咲く野草の花のような、加工されてい
ない面白さを持っているといえよう。これに対し、高橋さんの場合は同じ花でも、おそら
くセルフ・コントロールであろうが、みずから肥料を与え、枝を切りそろえ、整えた美し
さともいうべき魅力を感じた。喜怒哀楽の表情がとても生き生きとしていたのだが、それ
がもともとのプライベートで感情表現が大きいものをそのまま舞台にのっけました、とい
う感じではなく、一瞬一瞬が計算されているような、微妙かつ繊細さが見られたのであっ
た。特にモノローグのシーンでの、虚空を見つめてのあの淋しそうな表情と発声!井伏さ
んは彼女の視線について苦言を書かれていらっしゃったが、少なくとも、あのモノローグ
での虚空を見つめている視線は、観客に語りかけるというのではなく、むしろ自分自身を
見つめてつぶやくシーンであったことを考慮すれば、あれでよかったのだ、と思うのだ。
それにしても、昨年1月の「ワガクニ」で彼女を拝見して以来、1年2ヶ月というブラ
ンクがあり、彼女は大学4年ということもあって、その間演劇を中断して就職活動に専念
していたと聞いていたのだが、今回の彼女の演技は、そのようなブランクを感じさせず、
むしろ前回よりも更にスケール・アップしていたことには驚くばかりである。一昨年秋の
「パーフェクト・ライヴス」の時には、彼女に関しては「面白い、いい脇役さんだなあ」
と思ってみていたのだが、むしろ“華”を感じさせてくれたのは、ナノを演じた彼女のお
姉さん、高橋奈穂子さんの方だった。役柄の違いということもあるだろうが、それでも光
る人は脇役にいる時でも、主役を凌駕してしまうほど魅せてしまうことがある。そう考え
ると、今回の彼女の演技力は、彼女が役者として急激に成長している、という証なのであ
ろう。
あえて私から注文があるとすれば、私にとって強く惹かれる対象となる役者さんという
のは、淋しげな表情で引き込ませてくれる人なので(センチメンタルで泣かせる芝居に弱
いものですから・・・)、もっと叙情味の濃い芝居で、一度ヒロインを演じてほしいので
ある。今回、この芝居を見て思ったのは、野田秀樹の脚本って、案外「きらく企画」の瀧
原君の脚本に近いんじゃないかな?ということだ。セリフの内容が形而上的、抽象的なと
ころが多く、叙情をほんのりと感じさせるシーンはあるものの、ダラダラと涙をこぼさせ
るような泣かせ方までには流されない芝居なのである。原作が萩尾望都ということを考え
ると、マンガの方はもっとファンタスティックなのではないかと想像させるのだが、おそ
らくマンガの中に言葉として書いていれば、ポエティックに感じられるものも、役者の言
葉として耳に入ってくると印象がかなり違う、というのはあるのだろう。それだけに、い
つか大林映画のヒロインのような役どころでの高橋さんを見てみたい、という思いを強く
持ったのであった。
それから、茶髪のことについても井伏さんが指摘していらっしゃったが、本作の原作が
今述べたように少女マンガであったことや、芝居の中の状況設定から類推するに、この物
語は、遠いどこかのお伽噺的要素の強いものであるように感じた。そう考えると、茶髪で
あることはそんなに違和感があるものだとは私には思えなかった。また、シュラの容貌に
ついてであるが、以前に富谷高校での本作を見たときも、シュラ役は三浦絵理さんという
富谷一?のかわいい系女優さんであり、また、東京での野田自身の演出による公演は残念
ながら私は未見なのだが、シュラ役は深津絵里が演じていた、ということを聞くと、シュ
ラは醜い、ということは状況説明として観客には分かるのだから、それはお約束ごととし
て観客の脳裏にインプットしてもらえれば、シュラは主役でもあることだし、あまり醜い
格好を役者にさせて、観客がひいたり、感情移入をしにくかったりしてもかえって逆効果
であろうという判断が、この芝居を演じる人達には暗黙の前提としてあるのではないだろ
うか?僕はそれについては、最初富谷の芝居で本作を見た時、やはり少々違和感を持った
が、今は以上のような理由で、そんなにおかしい、という感情を抱かなくなった。もっと
も、シュラにリアリズムを持たせるために、徹底して醜いメーキャップをさせた「半神」
も、それはそれで演出家の強い個性を感じさせて、面白いものになる可能性は否定できな
い、とは思うのだが。
つづいて、双子の老人役の菅野準さんについて。私も井伏さん同様、彼はたいへんうま
い役者ではあるが、彼の独特の魅力ある低音のヴォイスは、今回のようなトリックスター
的配役には少々合わないんじゃないかな、と思った。私は以前に菅野さんの「天使は瞳を
閉じて」のマスター役とか、「パーフェクト・ライヴス」での主役を見ているだけに、余
計にそう感じるのかもしれない。「天使〜」における、あの渋い声で「コーマ・エンジェ
ルだ」と、吉田みどり(天子)に酒瓶を見せるシーン、未だに忘れがたい。やはり、彼は
そういった大人の魅力を湛える配役の方が、ピッタリはまるのだろう。
それ以外の役者さんも、高橋さんの“華”が鮮やかすぎて、少々その魅力が隠れてしま
った感はあるが、皆さんそれぞれに独自の魅力を持たれた方々で、これら4年生が抜けら
れたら宮教はどうなるのだろう、と始めて宮教をご覧になった方が心配になってしまうか
もしれないくらいだった。しかし、安心なされませ。彼等が抜けても宮教は、まだ吉田み
どり、笹本愛、斎藤雄介、照井麻貴子などなどと、まだまだ個性的な役者がたくさんいる
のである。当分、宮教の黄金時代は続きそうで、うれしい限りだ。
今回、上記2人以外でよかったなあ、と思えた役者さんは、まず家庭教師役の針生丈志
さん。先週の「学都」での古里祐輔さんといい、今回の針生さんといい、宮教には、何か
こう「爽やか系」とでも名付けたくなるような、好青年的キャラクターが何人かいる。今
回の針生さんも、ラストシーンでの独白は、高橋さんにいい意味で乗せられたという面も
あったろうが、なかなか泣かせる見せ場であった。
それと、ガブリエル役の藪田容子さんが、よかった。ちっこくてすばしっこい元気系の
女優さんというと、前述の亀歩とか、あるいは今度仙台高校を卒業する、佐藤弥子、朝理
恵といった高校演劇のヒロインでよく出てくるタイプなのだが、僕はこの手のタイプの役
者さんが大好きなのである。この手の女優さんって、三の線の芝居をしても、なんか健気
に頑張ってるなあ、って感じが出て来て、そこがとても気に入っているのである。卒業公
演なのに、今回初めて目に止まったということは、あるいは私が見ない回にダブル・キャ
ストで出演されていたりしたのかもしれない。もっと早くから見たかったな、惜しいこと
をしたな、とも思ったが、井伏さんの書かれている9月の新劇団旗揚げ公演に、藪田さん
もキャストに名を連ねていたので、次回を楽しみに待ちたいと思う。
あと、双子の母役の藤山明日香さん。「ウオルター・ミティにさよなら」での超人の妹
役もかわいくてよかったが、今回は髪型をストレートに変えて、だいぶ雰囲気が変わった
ものの、やはり「たまひよクラブ」のグラビアにでも出てきそうな「かわいい奥さん」な
のであった。なんか、デビュー当時の藤田朋子を彷彿とさせる、ほんわかしたキャラクタ
ーなのである。彼女は卒業公演にこそ出ていたが、まだ4年ではないので、また学内公演
でお目にかかれることを楽しみにしたい。
そして、今回演出をされ、その新劇団では作・演出をされるシバタテツユキ君。彼はこ
このインターネットで以前トラブルに巻き込まれたことがあったが、その後、そのトラブ
ルを糧にして、少しでもいいものを作ろうとしているな、という厳しい姿勢が感じられた。
もともと、「パーフェクト・ライヴス」だって結構いい出来の芝居だったのに、それでも
自分ではうまくいかなかったと楽屋で泣いていたというぐらいの人だから、本当に情熱家
なんだと思う。今回の「半神」だって、抽象的な台詞が多いだけに、散漫になる可能性の
すごく高い芝居だと思う。それでも、場面場面での緊張感は途切れなかったし、クライマ
ックスでの家庭教師が棺桶を開ける場面など、会場全体が息を飲んでいることがひしひし
と伝わってきたものである。こういう自分に厳しい演出家さんのおかげで、太田のような
利己的な観客も、素晴らしいお芝居を享受できているわけだ(笑)。感謝しなければなる
まい。
[2001年3月19日 21時57分32秒]
お名前: 水天堂 URL
さっき、宮教の方から連絡があり、「稽古期間、正確にはちょうど二ヶ月です。」
とのこと。正直な方だ。
二ヶ月でも足りないと思うよ。稽古密度の問題でもあるし。
[2001年3月19日 16時10分1秒]
お名前: 水天堂 URL
土曜日の公演を観た。夢の遊眠社がやった『半神』は、昔ビデオで観たことが
あり、結構好きだった。
で、今回。
正直、きつかった。
芝居としては、よくまとまっていたとは思う。学生演劇と言う枠組で括るなら、
今まで見た中でもかなり見れるものだったとは思う。
だが、では面白かったか?と言えば、そうでもない。
全体的に見て、メリハリに乏しかったのが原因の一つだと思う。
役者のテンポ、セリフつきのメリハリ、音響・照明のメリハリ、それらを総合
した全体のメリハリ。どれもはっきりしないものが多かった。
特に、役者ではマリア役と先生役は全体的にのっぺりとした演技だった。
この芝居では、マリアとシュラ。先生と老教授の対峙が重要な鍵となる。シュ
ラと老教授がしっかり出来ている分、マリアと先生の身体つき(舞台での在り方、
立ち方)のだらしなさやメリハリの無さが目立ってしまった。
特に、手術後の後半戦を引っ張っていけるのはこの二人である。芝居全体のテ
ンションが上がり、テンポも良くなる中、マリアと先生は十全にシーンを引っ張
って行けていたとは言いがたい。弱かったのだ。シュラ、老教授に比べて「見せ
る」ことのパワー不足を感じた。
音響、照明のメリハリも効いていなかった。
照明に関しては、在る機材で何とかしようとしたのだろうとは思う。役者の手
の動きを照明にかざして舞台の白幕にユラめく影を出した当たりは良いアイディ
アだと思う。ただ、(構成・演出レベルの問題ではあるが、)後半戦、メールシュ
トリームの中でも地明りだけってのはどうかと思う。「もう一人の自分との別れ
」のシーンなんかはもっと微細な当て方が必要だった。(マリアに照明が当たって
なかったりした。まあこれは、マリア役が照明に当たりに行く必要もあったと思
うが…。)
音響は、全体的に「ここ!!」というところでのボリューム不足を感じた。あの
手術の暗転での音楽なんかは客に叩き付ける位の勢いで出して欲しかった。音が
気持悪いと役者も客も乗れない。
それと、後半戦は、似たような曲が次々かかりっぱなしの状態になったのはき
つかった。ポイントポイントでグワッっと出すとか、無音のシーンを作るとか、
もっと出し方を工夫する必要があった。
それと、もう一つ。
野田作品は、語弊を恐れず言えば、基本的にリアルな台詞ではないと思う。
つまり、役者が、なにか心の動機を感じてリアルに発する台詞としてだけ考え
ると、台本の持つ魅力をかなり損ねる様な気がするのだ。
実際台本を読んでみると、言葉の繰り返しや積み重ね、韻を踏んで連鎖的に展
開して行く言葉の綾。意味があるようで無さそな言葉の迷宮の様な台本であり、
黙読だと一回二回じゃ何が描かれているのかさっぱりわからない。音読して初め
てその面白さがわかる台本だと思う。
そして、それらの言葉は、一人一人の台詞だけでは無意味に感じられても、そ
れが次々紡がれていくことで本当に描かれるべき物が見えて来る。(それは他の戯
曲・台本でも同じことだが、野田作品では、台詞のシーンを形作るための部品と
しての意味合いが強いように思う。
そのため、それを舞台に乗せる方法としては、出来るだけ早く展開して行く必
要がある。役者が付いて行けなくては意味無いが、言葉が客にちゃんと届いて胸
落ちするスピードではもう遅いのだ。
今回の場合、どちらかと言うと普通の(と言うと語弊があるが)台詞として扱っ
ていたように思う。
そうすると、台本の持つテクニカルな要素がかえってリアルさを損ない、無意
味な言葉の羅列のような感じを与えてしまうのだ。
あのやり方でやるなら、もっとリアルな台詞らしい台詞(テクニカルな要素を吟
味して減らした台詞)へ書き換えるなりする必要があったと思う。
これらは、『半神』のビデオを見ているから気になった事かも知れない。
だが、既成の台本、既に公演された物を扱う限り、どんな作品でも前作・原作
との比較がされるのは当然のことだ。
…色々と書いたが、伝え聞くところによると、今回の芝居、役一ヵ月で仕上げ
たとか。
それを考えると、時間不足の中でよく作ったとは思う。
あと一ヵ月、準備のための時間があったら…とはどんな芝居でも(特に良いとこ
ろがあればあるほど)思うことだが、今回の公演ももう少し時間があったら、上に
書いたような問題点の多くは解決していたかも知れない。
少なくとも、それだけの地力を感じる芝居だった。
四年生の卒業公演だったとのこと。
参加メンバーの、今後ますますの活動・活躍を切に期待します。
[2001年3月19日 8時11分13秒]
お名前: 小泉
18日の公演を観てきました。やられた〜ってくらい感情移入して見てしまいました。
キーワードになってた『2分の1』の謎がとても印象的な作品で、
役者の方々は走り回りながらのセリフでもしっかり声が通っていたので
とても観(聴き)やすかったです。
こんなことなら17日のほうも観けば良かったと今更後悔しております。
ではでは
[2001年3月19日 0時25分30秒]
お名前: アイドル評@太田
ああ、井伏さんに先越されちゃった。
とにかく、今日見てない人は明日絶対見るべし!早くも今年の太田賞有力候補です(笑)。
高橋美峰子さんは、「ワガクニ」からさらに一歩スケールアップしました。
正直言って、怖いくらいです。
ちょっと興奮して、冷静な文章が書けないので、明日以降、また改めて文章書かせていただき
ます。
[2001年3月17日 23時42分24秒]
お名前: 井伏銀太郎
「半神」は青年文化センターで遊民社を見ているが、シアターホールの2階席だったため反響がひどく
て早口のセリフがほとんど聞こえず、舞台が回り舞台だった事ぐらいしか記憶に無い。
先週の「学都出陣」を含め大学演劇に少々失望していたが、やっと作品らしい作品に巡り合えた気が
する。単なる遊民社ごっこになっていず、作品として丁寧に作っていたのがわかった。
観客もしっかり入っていた。
宮教大は前回の「ミナモノカガミ」以来2度目の観劇になる。
前回の公演で感じた小道具等のいくつかの問題点も今回は感じられなかった。
以前、141の帰りのエレベーターの観客の会話で芝居の善し悪しがわかると書いたが、長年芝居を
観ていると、芝居が終わった瞬間の観客の雰囲気で善し悪しがわかる。
物語への集中から解かれた、安堵感に近い、心地よい歓声。そういう意味で今回の公演は成功だった
と思う。
大学の演劇部も演出がしっかりして丁寧に作れば、作品として見ごたえのあるものになる。今回の
レベルの作品をオリジナルでやれたら、何も言うことはないのだが。
そういう意味で今回は、色々な演出の切り口を感じたし、観客を物語に集中させていたと思う。
スタッフを含め、細かいドラマやリアリティーの積み重ねでしか、大きなドラマは成立しないと何度も
書いていたが、今回はそういうものが丁寧に積み重ねられていたように思う。
舞台美術もシンプルな中に工夫があった。
ほとんどの出演者が4年生ということもあったのか、4年間の総決算的な公演だったのだろう。
シュラの高橋美峰子がイイ。オクトパスや、がらくた本舗に出演していたと思うが、舞台の中心になっ
ていて、華がある女優だ。こういう女優を見ていると、残酷だが、女優というものは観客の目をひきつ
ける生まれ持っての華というものが絶対的に必要だとあらためて感じさせられた。今後仙台で活躍して
いくだろう。
作品的には、全体的にまとまっていて、物語として成立していたと思うが、演出的に更なる成長を期待
して、気になったところを少々。
小道具、舞台美術、照明、音響に関しては丁寧に作っていたと思う、しかし今回はメイクが気になっ
た。
シュラは頭が良いのだが醜く、マリアは頭が弱いのだがそのぶんかわいいと言う設定に思えたが、今回
見た瞬間それがよくわからなかった。
シュラが華がある分、頭の良さと美しさ両方持ってるように思え、シュラの抱えるコンプレックスが
薄くなった。
マリアのメイクをもっとかわいいメイクにして欲しかったし、シュラをコンプレックスを持つぐらいの
顔にして欲しかった。
二人のメイクが茶髪だったせいか、今どきの若者的な印象を受けた。メイクも専門的に作る必要があ
る。
今回ハーピーやガブリエルという神的な登場人物が、叔母役を演じていたが、特殊なメイクのまま
だったので、物語の構造の境界線が見えにくかった。
構造的に両親までもハーピーやガブリエルの作り出した物語に引き込まれているように思え、その場の
リアリティーの基準がわからなくなるのだ。
ハーピーやガブリエル達はメイクなしで十分やれたと思う。
演技については、日常的リアリティーの無い登場人物(スフィンクス等)は気にならなかったが、二人
の両親の演技が、まだ、歌う演技をしていたように思えた。この劇評で何度も繰り返しているが、俳優
が自分の内面や感情を、表現しようとした瞬間、相手との関係性が崩れ、リアリティーが無くなってし
まう。
演技において表現とは、何を表すかではなく、何を隠そうとしているのか想像させるところにしかリア
リティは存在しない。
シュラが自分の内面と向き合うところが、視線が高くなって、遠くを見つめすぎている。
視線が高くなると夢見るような表現になり、俳優が自分自身をとらえられないように見え
今そこで起こっている内面的葛藤が拡散してしまう。
仙台の劇団で、よく意味もなく天井を見つめる役者が多いが、視線一つで意味が変わってしまうことを
知って欲しい。
老ドクターは、咽にかかっているものの、ひびく声を持っていた。野田秀樹がやった役だと思うが、
狂言回し的な役なのだが声が他の人物と比べて、大きすぎる、そのため他の出演者と舞台において
同一空間に存在しているように見えないのが残念だった。
声が大きすぎて関係性の演技が崩れている、ドクターと他の人物間で会話が成立しなくなる。
もう少し押さえて、対象に集中させれば、もっとよくなると思う。
シュラの華といい、ドクターの声といい、良いものが逆に全体の統一感を失わせていたのが残念だ。
私は演出が客席から見ていた痕跡が見えないという言い方をよく使うが、演出が客席から一観客として
冷静に舞台を観るということがいかに大切か知って欲しい。
照明を当てて実際のメイクをして女優の顔を見たり、客席から俳優の声の大きさのバランスを確認した
り、視線の高さを調節すれば、今回私が感じたようなところはすぐに直せると思う。
以前仙台の演劇人が大学演劇について、「基本も現代演劇に対する思想もない学生が適当に演劇を
作って、仙台の観客を失望させ演劇アレルギーを作り出し、そのまま卒業していく」と厳しい意見を
言っていた事があるが、今回の公演は演出や、俳優の面でも、仙台の新しい演劇を出現させられる
予感を感じた公演だった。パンフレットにはさんであったチラシに、9月に「出口から入口」プロジェ
クトとして今回の演出が作品を作るとあったので今から期待している。ぜひ、自分達の同時代演劇と
いうものを追求して欲しい。
[2001年3月17日 23時30分48秒]
お名前: アイドル評@太田
Gecka−Bizinについては、僕の場合、旗揚げ公演から見ているのだが(第2
回公演のみ未見)、最初、シリアス作品を演じていた頃は、ずいぶんとテンポの悪いダラ
ダラとした芝居をしているなあ、というのが率直な印象であった。しかし、去年の衝劇祭
参加作品「大・失・敗」では、テンポのよいコメディーを上演しており、「この路線を続
けていってくれれば、面白い劇団になっていくのではないかなあ」と期待していたところ、
今回の「ラバー・ラヴァー」でも、前回同様のコメディー路線で、しかも予想以上の面白
い芝居を上演していらっしゃった。2回好演が続いたということは、「大・失・敗」も、
その場限りのまぐれ当たりではなかったんだな。「猫原隊」「M.M」等と並んで(「ミモ
ザ」は大河原なので別格・笑)、いい劇団が若手で台頭してきたなあ、と嬉しく思った次
第である。
本作は、「古今東西馬鹿物語り」という、様々なフェチの人を本人には知らせずTVに
出演させて笑いモノにする、という番組を作っているTV局のディレクター(千羽和さん)
が主人公である。ところで、冒頭、ストーリーの説明の意味も兼ねて、この「バカ物語」
の1つ前週のオン・エア場面が演じられるのだが、ここで紹介されている「バカ」の内容
が、「グラスを人間のように愛する男」なのである。これって、旗揚げ公演の主人公なん
だよねえ。つまり、楽屋オチなわけだけれども、実は、前作「大・失・敗」で、かなりミ
エミエな楽屋オチをしていたことに対して、「楽屋落ちというのは、さりげなく見せてこ
そ効果が上がるモノじゃない?」という劇評を僕は書いていたのである。それを早速実践
してくるところ、お、Geckaさん、なかなかやるねえ!と思わず、ニヤリとさせられ
たのであった。この辺、滑り出しは上々といえよう。
で、この主人公のディレクターが探し出してきた次の「バカ」候補・ゴムフェチ男(い
きなり、「初めてのチューウー」と裏声で歌って出てくるところからして、いい味だしす
ぎ!)が、るうがあ熊谷改め杜乃クマさんである。(余談だけど、熊谷という名字の劇団
関係者は大御所を含めて複数いらっしゃるので、この改名は賢明でしょう。)実は、彼が
とんでもないトラブルメーカーで、千羽さん演じる主人公のディレクターに、杜乃さんの
おっちょこちょいが原因で、恋人(渡部なちゅ改め渡部なつさん・・・個人的には「なち
ゅ」の方がかわいくていいと思うのだが)とは気まずくなるは、ケガは負わされるは、と
いう不幸が一気に押し寄せてくる。その不幸をコミカルに見せるところがこの作品の肝、
となっているわけである。
僕が本作を見て面白いなあ、と思ったのは、僕にとってこの劇団の観劇は3回目なのだ
が、劇団の「型」のようなものができてきたな、ということである。この劇団の「核」と
いえる役者さんというのは、上記の千羽、杜乃、渡部の3人なのだが、この3人のキャラ
クター設定が第1回目から、ほとんど同じなのである。つまり、クールな2枚目の千羽さ
ん。ちょっと怒りっぽいけど笑顔のかわいいヒロインの渡部さん。という2人のどちらか
に、トリックスターの杜乃さんが絡むことによってトラブルが発生し、ドタバタ喜劇とな
る、という黄金パターンが段々と固まってきたように思えるのだ。
つまり、これはTVで毎週やっているコメディーと同じパターンである。かつてのドリ
フや、お笑いオンステージ、あるいは現在なら「お江戸でござる」あたりがそうだろうが、
毎回設定は「バカ殿と、じい」とか、「泥棒と警官」、あるいは「食堂の店員と客」とい
う風に変わるものの、基本的なキャラクター設定は「いかりやはいかりや、志村は志村」
として出てくる。その同じキャラクターであることによって、観客は登場人物にシンパシ
ー・親しみを次第に感じ、その番組になじんでいく。Geckaの場合も、ある時はガラ
スフェチ男と居候、または某アマチュア劇団の女優と宇宙人、といったように、その時そ
の時で設定は変わるのだが、クールな千羽orヒロイン渡部のどちらかにトリックスター
の杜乃が絡んできて笑いを誘う、というキャラクター設定+黄金パターンができてきてい
ると思うのだ。しかも、前回公演までは杜乃さんは必ず居候役で出てきたのである。僕は
その辺が面白かったので、「今度も杜乃さんが居候で出てくるのですか?」と以前に聞い
たら、「いやあ、さすがに今度は変えますよ」と杜乃さんは苦笑していたものである。で
も(居候役ではなかったものの)、基本的に杜乃=トラブルメーカーという構図は、今回
も維持されたわけである。
僕はこれをマンネリだとは思わない。だって、まだ4回しか公演していない劇団なので
ある。むしろ、前述したドリフなどのヒットしたお笑いグループというのは、まず基本的
なキャラクターの「型」を持っていたように思うのだ。先に、ミモザ2月公演の劇評で、
キャラクターに親しみを感じることによって観客はリピーターになっていく、ということ
を書いたが、脚本・演出がそのたびに変わるためか、毎回公演を見る度に印象がガラッと
変わってしまう劇団が仙台には多いように感じる。おそらくマンネリを恐れてのことだと
は思うが、マンネリなってるほどの公演回数をアンタ等してないだろう、と突っ込みたく
なることが多い。観客を増やすためには、新規のお客さんをいかに増やすか、ということ
が議論の題材として登ることが多いが、一度来たお客さんにリピーターになってもらう、
ということを考えることも大事ではないだろうか。いくら大きなバケツで水を汲んでも、
そのバケツの底がザルになっていては、水はほとんど残らないであろう。その意味で、G
eckaさんの主要3者のキャラクターの固定化を僕は歓迎したいし、また、今の段階で
は、マンネリを恐れることを心配する時期では、まだないんじゃないか、と思うのだ。だ
から、渡部さんは次回作でもゴマキに似ているという設定で出てきてほしいなあ、なあん
て、思ったりもするのである(笑・でも本当に似ているんですか?僕は最近の若手アイド
ルのことはよくわからないんですよ。アイドル評倶楽部のクセにね。つーか、TVタレン
トにアイドルを捜すよりも、地元劇団にアイドルを捜したいという気持ちが強いから、こ
うしてアイドル評倶楽部を名乗っているといえるかもしれないけどね)。
それと、主要3者以外の役者で好演が光ったのは、三高演劇部から客演で出演された老
石和馬さんである(確か「ウルトラマンの母」では、若井一真という名前だったと記憶し
ているのだが。今回は客演ということで芸名をつけられた、ということだろうか?)。僕
は御存じの通り「ウルトラマンの母」については、少々厳しい劇評を書いたわけではある
が、あの時にも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということではない、と書いたとおり、あ
くまであの作品については脚本が好みではなかったわけであり、個々の役者さんの演技力
は素晴らしいと思っていた。その意味で、今回若井さんが、Geckaに客演することに
よって、大人の役者さん相手でも決して位負けしない熱演を見せてくれたことは、むしろ
この間僕が口を酸っぱく書いてきた、最近の高校演劇の役者のレベルは非常に高い、ヘタ
な大人のアマチュア劇団(もちろん、Geckaさんのことではありません。念のため)
よりよっぽどうまい、という実証を示してくれた、といえるだろう。ただ、先のコンクー
ルが多賀城の大ホールという広い会場で行われていたためか、割舌や発声が今回もとても
ハッキリしていて朗々としていたのだが、それが逆に、いわゆる「芝居がかった」セリフ
回しになっていたようには感じられた。これがコンクールでの演技であれば、ほかの役者
さんも同じようにしゃべっているし、観客の方も、「まあ、これは演劇というお約束ごと
の中でのセリフ回しだからな」と、あんまり気にならないものであるが、エルパークとい
う小さな会場で、しかもほかの役者さんがむしろナチュラルな感じのしゃべり方をしてい
るときには、「なんか、一人だけしゃべり方が違うような・・・」というちょっとした違
和感を観客に持たせてしまっていたようには思った。もっとも、この主人公のライバルの
司会者というのは、芸能人という役柄から、比較的キザな男という設定にも感じられたた
め、「こういう芝居がかったしゃべり方を常にしている男なんだろうな」と、結果オーラ
イ的にはまっていたともいえるので、今回のしゃべり方が良くないとは、決して一概には
いえないものなんだけどね。つまり、逆にキザな芸能人をカリカチュア化していた、とと
ればあのしゃべり方は超OK!なんですよ。実際のところは、意識化したものか、天然だ
ったのか、どっちだったんでしょうね?
[2001年3月12日 19時44分35秒]
お名前: 劇団ミモザ
劇評大変ありがとうございます。いつもながら大河原まで足を運んでいただきまして
大変ありがとうございます。さて、皆様にご連絡がございます。太田様の劇評にも
書いてございます、4月28日〜30日に公演を予定しておりました「アオゾラ」ですが、
諸事情により、急遽公演中止となってしまいました。関係者の皆様、楽しみにして
くださっていた皆様、本当に申し訳ございません。 次回公演は追ってお知らせします
ので何卒ご了承の程お願いいたします。
2001年3月13日 劇団ミモザ 製作 おーみひろみ
[2001年3月13日 18時28分12秒]
お名前: アイドル評@太田
先の「あなたの20世紀・・・」の項でも書きましたが、劇団ミモザの大河原中央公民
会館こども劇場による招聘公演「カラフル☆トイボックス」が、本日大河原中央公民館で
あったので、ミモザ大ファンの僕は、またまた大河原まで足を伸ばしてきました。といっ
ても、子供ばっかりのところにいい大人が1人で入るのは、ちょっと気後れするので、今
回は、おなじみ劇評倶楽部の佐々木久善氏に同行をお願いし、2人で行ってまいりました。
こども劇場というと、どうしても作り手側が道徳的な内容にしなければ、という意識を
してしまい、結果クサイ、鬱陶しい芝居になってしまうのではないか、という危惧が開演
前には、実は少しあったのですが、そこはさすがミモザ、ちゃ〜んと毒のある話やナンセ
ンスなドタバタも取り混ぜており、大人の僕や佐々木さんも大いに楽しませてもらったの
でした。本当は子供って残酷だし、馬鹿馬鹿しいものが好きなものなんだよね。逆にいい
子ちゃんぶった芝居では、子供の方が飽きてしまう危険性の方が高かったでしょう。だか
ら、よっぽどブラックなものでない限りは、メインの味付けがほのぼのであることはいい
として、その中に、ちょっと「毒」のあるスパイスを入れることは、必要なことだと思う
のです。
さて、ミモザの中で、その手の「毒」としてのピリリとした味わいを持つ役者さんとい
えば、これはもうなんといっても、アベマコさんに尽きるでしょう!前々回の「太陽に背
を向けて走れ」での、後藤尚子演じる碇シンジ風・ダメダメ新入社員をいじめるアンドロ
イドロボット役で、強烈なデビューを飾った彼女ですが、今回も、舞台に登場してニヤッ
と笑った瞬間に、なんだかステージ上に邪悪な空気が立ちこめるような気がしてしまうか
ら、面白いものです。彼女は山羊さん郵便での青山羊役だったのですが、あの青のステー
ジ衣装を、黒に塗り替えて、先っぽがとがった尻尾をつければ、かわいい小悪魔みたいで
はまるんだけどなあ、などという想像を膨らませずにはいられなかったのでした。
そう、彼女の場合、ファウストに出てくる悪魔のように人生を破滅させるような巨悪で
はないんですね。長谷川町子の「意地悪ばあさん」の女子高生時代というか(ミモザ版意
地悪ばあさんをもし上演するとしたら、絶対主役はアベさんで決まりでしょう!)、トム
に対してワナを仕掛けてほくそ笑むジェリーとか、そういったイタズラ好きなんだけど憎
めない、まさに小悪魔的魅力を持った役者さんといえるでしょう。まあ、山羊さん郵便と
いうのは御存じの通り、もらった手紙を山羊さんが食べてしまうという例のアレなんです
が、赤山羊役の鈴木雅彦さんが、せっかちな性格のため、つい届いた手紙を食べてしまう
という、素朴系の演技であったのに対して、アベさんの青ヤギは、「ううむ、このまった
りとした味わいは・・・」などと、せっかく届けた郵便屋さんを困らせるような、ちょっ
と意地悪な感じが、何ともはまっていたのでした。ちなみに、せっかく届けた手紙を食べ
られて困ってしまう郵便屋さんは、ハイ、お察しのとおり後藤尚子です(笑)。
そういえば、終演後出待ちの挨拶をしている後藤尚子と雑談をしていた時に、「彼女(ア
ベさん)は実生活でも毒舌なんですよお!太田さん、劇評に書いてくださいよお!」とぼ
やかれてしまったんだけど、いや、別に尚ちゃんが書いてくれ、って頼んだから書いたワ
ケじゃないんだけどさ(苦笑)、でも、役作りとしての性格設定じゃなくて、内面から出
てくるシニカルさを、そのまま芝居にもってってるっぽいよなあ、と思ってみていた僕の
予想は、あながち外れてなかったみたいですね。そう考えると、あの「太陽に〜」での意
地悪アンドロイド役も、もしかして当て書きだったのかな?なんて感じもしてきますね。
ぜひ、さざなみさんにはアベさんに本当のかわいい小悪魔の役を一回演じさせてほしい
ものです。例えば、後藤尚子が道路で偶然一万円を拾うと、彼女の頭の中にアベマコが出
てきて、「いいからネコババしちゃいなよー!」と囁くとか。あるいはダイエット中の後
藤尚子の前に、ポテチを食べてるアベマコが出てきて「とってもおいしーよー!」と囁く
とか。絶対はまると思うんだよねえ。
それと、今回もう一人面白かったのは、ハイ、おなじみ「熟年女優(笑)」の、おーみ
ひろみさんです。「ながれぼし」というコントで、夜空の流れ星に願い事を祈る乙女チッ
クな女の子(みとべあつみさん)のところに、突然、舞台下手から、星形の被りものを頭
に着け、ウクレレを鳴らしながら出てくるおーみひろみ!あのナンセンスさはたまらなか
ったなあ。しかも、「あーあ、やんなっちゃったーあー、あんあ、驚いた」って、アンタ
それ牧伸二だろ!子供わかんないって!こういう、まるで往年の吉田戦車的シュールギャ
グを、子供向けでも平気でぶつけてくるから、ミモザは楽しいんだよねえ。
さてさて、そんな次回のミモザの公演は4月28〜30日、えずこホールで。「アオゾ
ラ」という新作です。今度は子供向け公演ではないですし、ゴールデンウィークというこ
とでもありますので、仙台の演劇ファンの皆様も、ちょっと大河原まで足を伸ばしてみて
はいかがでしょうか?へえ、仙台市外にもこれだけ面白い劇団があるんだあ、と思ってく
れる人が1人でも増えるといいなあ、と願っております(おーみ星にでも願いをかけよう
かね・・・)。
[2001年3月11日 23時19分24秒]
お名前: 井伏銀太郎
先の私の評に間違いがあると指摘を受けました。
私は何人か知っている大学演劇部の学生が出演していたので、六大学の演劇部の合同公演と勘違いして
いました。大学演劇部関係者から、演劇部としての合同公演ではないとメールをいただきました。
正しくは大学演劇部を中心に代表の久米さんが声をかけ、その中で興味を待った学生が結成したそうで
す。確かに近い時期に宮教大や東北大の公演があるので、演劇部の合同公演ではなかったみたいです。
太田憲賢さんへ、
確かに、劇場は昔、悪場所と呼ばれていたり、俳優は舞台に上がらなければ、ただの生活破たん者とか
性格破たん者等といわれたりしていた時期もあります。芝居馬鹿と言われてる人には
他者との関係性をうまく保てないことが演劇をする動機になってる人も確かにいます。
演劇にはある面では、怖いもの見たさや、常識に縛られた観客が、常識を超えた人間を見に行くという
ところもあるでしょう。
私がなぜ観客動員にこだわったかというと、パンフレットに「新しい切り口で観客を呼ぶことが可能
だ」と書いてあったからです。出演者は何故プライドを持って、もっと観客を呼ばなかったのか疑問に
思ったのです。
営業の世界には「義理も実力」と言う言葉があります。友人知人親兄弟を呼んでも20人は呼べるで
しょう。たとえ身内の観客だったとしても少なくとも知り合いを俳優を見に来たのだから、集中力に
おいて学校の授業の関係か何かで動員されたような若者とは違うと思います。
私は演劇とは関係性の芸術と思っています。舞台上の俳優同士、スタッフと、そして観客との関係性
の上に成り立っていると思うのです。
そういう意味で、今回の公演は、俳優同士、スタッフ、そして観客との関係でうまくいってなかった
ように思います。
ただ一人俳優で、他者との関係を作ろうとしていた人がいました。父親の意志を継いで、戦士になった
女性で白い着物を着ていた女優です。他の俳優達がセリフを言うのに夢中(自分自身に集中)だったの
に比べて、彼女は相手に向かってしゃべろうとしていて(相手に集中)、他者と関係性を作ろうとして
いるように見えました。
大学演劇の関係者の方、大学生で劇団に入って活動してる方、今回の「学都動員」どうみたか意見を
載せて下さい。
[2001年3月17日 0時37分37秒]
お名前: アイドル評@太田
井伏さんが下でおっしゃられている内容は、僕が当初書き込んだことと近い内容である
ように思います。例えば、僕が「お互いのセリフのやりとりが、なんだか一呼吸遅いよう
なテンポの悪さが感じられ」と、観客の直感として書いている点についての、作り手の立
場だからこそいえる、より具体的な指摘として変換された言葉が、「場面場面で舞台の中
心がない、俳優が距離感も無く、がなっているので、誰と誰の間でドラマが起こっている
のかわからない。」というものでしょう。その意味で、同じ作り手としてのアドバイスと
いう意味では、有益な具体論となっていると感じました。
ただ、かなり手厳しい御批判をなさっているなあ、という感想を、文章を拝見して持っ
たのですが、それについては、僕の場合、純粋な観客の立場で見ているので、100%完
璧な芝居ではなくても、芝居の中に部分的にでも面白いところを発見できれば、そこに楽
しみを見いだすことができるのに対し、井伏さんのように、同じ作り手の立場ともなると、
完璧なモノを観客に見せるべき、という思いから、問題点に対する指摘が、どうしても僕
のような立場の者よりは厳しい言い方になってしまう、というのはあるのでしょう。
そういった意味では、ニュアンスの厳しさ具合の違いがあるとはいえ、大半は納得のい
く御意見であるのですが、1ヶ所だけ、「これは僕の見解とは異なるな。」と感じられる
箇所がありましたので、それについて以下述べさせていただきます。
それは、「出演者一人20人観客を呼べば、満席ではないか、何故それだけの観客が呼べ
ないのか。」という、集客に関する意見についてです。これは、太田という個人をサンプ
ルとして書くので、「学都」関係者の皆さんには、異論を持たれるかもしれませんが、「そ
もそも演劇をやったり見たいと思ったりする人間というのは、他者との親密な関係性とい
うものを上手に作ることが難しいため、多数派の人達と同じところにいても、そこを居場
所として感じられない。そのため、少数派の人間しかいないが、少数であることにより、
ここだけが自分を受け入れてくれる場所だ!、という共感から演劇の世界にはまっていく」
という構造が少なからずあるのではないかと思うのです。つまり、もっと下世話に言えば、
「20人もチケットを手売りできるほど知人・友人に恵まれているのなら、最初から演劇
の世界には、足を踏み入れませんよ。」と、もし僕が「学都」の関係者だったら反論して
しまうだろうな、という思いを当該文章を読んで思ってしまったわけです。(「伊達ロッ
ク」との比較としての行政担当者の方の御意見については、「そもそも客層が違うだろう。
『演劇という場』のような、少数のところにしか居場所を見つけられない人のケアだって、
大事なことなんじゃないの?」と、僕としては答えたいところです。)
手売りで知人・友人を動員して満席になることが、必ずしも芝居の成功に結びつかない
ことは、以前に井伏さん御自身が書かれた「シェイクスピア・カンパニー」の観客論でも
御理解いただけると思います。井伏さんは、若い学生の観客が多かったが、集中力があま
りにもなかったことを批判された後、「本当に芝居を楽しもうと思って見に来た観客にと
って、そのような学生の観客は迷惑以外の何者でもなかった。」と書き込まれています。
実を言うと、僕がここ数年シェイクスピア・カンパニーの芝居を見に行かなくなったのも、
その手のいかにも学校の授業の関係か何かで動員されたような若者で満員御礼となってい
る場の雰囲気にどうしても馴染めなくて、足が遠のいてしまったというのがあるからです
(それでも、僕が見に行っていた3〜4年前頃は、井伏さんが指摘された携帯・居眠りと
いった観客は、まだいなかったのですが・・・)。それだったら、制作が弱くて十人程度
しか客が入っていない会場の方が、却ってその十人が、この劇団を本当に好きで見に来て
いるんだ、という親密な空気が会場を覆っているようで、僕は好きだし、むしろそういう
雰囲気を味わいたいから劇場に数多く足を運んでいるようなところもあるわけです。もし、
20人ノルマを今回の芝居でも関係者全員に課した場合、シェイクスピア・カンパニー的
状況に会場が陥る危険性は充分あり得たのではないでしょうか?
ただ、手売り以外の制作として最低限なすべきこと、例えば他劇団へのチラシの折り込
みとか、DMの発送、インターネットによる告知などは積極的にやるべきだと思います。
「学都」さんの場合は、その点はできていたと思うのですが、その部分の制作が弱すぎる
劇団を見かけるのが多いことも事実です。そのような劇団については、「制作何やってる
んだ!」との、そしりを受けても仕方がないでしょう。実際、好きな劇団なのにもかかわ
らず、本番直前ギリギリまで公演情報がわからず、危うく見逃しそうになったり、本当に
見逃してしまったという経験が僕にも何度かあります。もちろん、各劇団ごとにその劇団
としてのポリシーがあるでしょうから、僕の意見が絶対正しいとは言い切れないでしょう
が、僕個人の考えとしては、「告知は積極的に。手売りノルマはやむを得ない場合にのみ
おこなう。」というのがいいのではないか、と思っています。
[2001年3月14日 20時43分6秒]
お名前: 井伏銀太郎
80年代90年代は大学演劇から様々な小劇場が誕生し、日本の演劇シーンを
形作ってきた。現在、仙台の高校演劇は全国大会に出場するくらいレベルが
高いのだが、大学演劇は、オリジナリティーが無いといわれてきたのを
残念に思っていた。
今回各大学の演劇部が集まって、ひとつの公演を立ち上げたことは、画期的で
あり、関係者の努力がうかがえた。すなおに称賛したい。俳優も30人近く
出演していて、合宿などもして稽古に時間をかけていたのがわかった。
企画制作の皆さんご苦労様でした。
これからの始めの1歩であり、まず行動しようという意欲は感じられた。
一の作品として完成形を見せるよりも、まず行動することによって、現在の
大学演劇の色々な問題を浮かび上がらせる事ができたのが、今回の最大の
収穫かも知れない。これをもとに、大学演劇について活発な議論が起こったらと思う。
色々演劇を見慣れてる人にも大学生の実力がどの程度のものか見て欲しいと
パンフレットに書いていたので、企画自体は称賛しながらも、作品として
厳しく検証してみたい。
アマチュアなんだから、やって楽しければいいというような批評は望んでいないだろう。
私が感じた最大の疑問は、六大学集まって、30名以上の学生が参加して、
これだけの観客しか動員できないのかということだった。私が見た土曜日夕方の
公演で100人ぐらいか。
先日市民文化事業団の知り合いから、伊達ロックは1万人以上集めたらしいと
プレシャーをかけられたばかりなので、「1つのステージでいくつものバンドが
出場できるロックと違って芝居は仕込みや大道具を建てたりで大変なんですよ」
と言いわけしたが、確かに在仙の劇団でもキャパの半分も入れられないところが多い。
エル・パールのギャラリーホールのキャパは約300だが、今回は舞台が広いので
200人ぐらいか、印象としては半分くらいしか入っていなかった。
今回の企画は立ち見を出してこそ成功といえるような気がする。
出演者一人20人観客を呼べば、満席ではないか、何故それだけの観客が呼べないのか。
今回の公演は、まず演出が感じられなく、スタッフ的に破綻していた舞台だった。
キャストでなければ参加した気がしないというわけではないだろうが、これほどスタッフが
充実していない舞台も珍しい。
脚本選定について、
とにかく合同公演なので出演者が多い作品を選んだのかどうか分からないが
新感線やキャラメルボックス等のエンターティメント系劇団の作品は、スター性の
あるよっぽど上手い俳優や、大掛かりなスタッフが居なければ、只バタバタした
芝居になってしまい、単なる「新感線ごっこ」的な芝居になってしまう。
笑い、スピード感、テンポで見せる芝居は、どれ一つかけても、オリジナルに
ほど遠いものになってしまう。
オリジナルを見て楽しんで、やろうと思ったのだろうが、やるほうは楽しいが、
観客にとって苦痛な舞台が多い。
昔の仙台の演劇状況は、東京で流行った作品を、そのまま持ってきて、
アマチュアの演出、キャストスタッフが、ただ上演するだけの、まったく
オリジナリティーが感じられないものが多かった。最近は既成の作品を上演しても、
新しい切り口や演出でオリジナリティを出そうとするところも増えてきた。
既成の脚本をやるに当たって、オリジナルを超えようという志が欲しい。
演出について
この作品はテーマがどうこうというのではなく、まず楽しませて欲しかった。
演出が一観客として客席で見た場合、この芝居で本当に楽しめたのだろうか?
とにかくテンポが悪い、場面転換が遅すぎて、芝居の流れが中断されている。
(余談だが場面転換の上手さテンポのよさは青葉玩具店が群を抜いている。)
はじめ2時間30分の上演時間と言っていたが10分以上長引いたのはテンポの
悪さだろうか。各シーンごとのラップタイムを取り、シーンシーンのテンポを完全に
管理できていないのだろう。
まず場面場面で舞台の中心がない、俳優が距離感も無く、がなっているので、
誰と誰の間でドラマが起こっているのかわからない。
とにかく演出をやろうとする人は、とことん他の芝居を観て欲しい、
うまく盗めばいいのだ。
俳優について
俳優はたとえ素人でも、自分自身を演じることが出来れば素晴らしい演技に
なることもある。
しかし今回の俳優達はまったく自分自身が見えない演技だった、理由はセリフの、
不自然な抑揚(セリフを歌うと言われているもの)やがなりや力みのセリフ回し、
身体感覚の喪失からだ。
不自然や抑揚をつけて、力んでセリフを言わなければ、演技をした気にならないのか。
日本語と英語の強調の違い。新劇が英語圏の演劇を輸入したとき、セリフ回や
大げさな身振りなど不自然なものをそのまま持ってきた。
英語は声の高低、日本語は声の強弱で強調すると言われている。
俳優達のしゃべっている言葉が、日本語に聞こえない 。
演技というものは受と動が交互にやって来て、 受が有るから動があるわけで、
突き詰めれば、動の中に受があり、受の中に動がある。
セリフを力んで言おうとするために、受けが無い演技になり、ただ順番にセリフを
怒鳴っているだけになり、ドラマの根本である、その場で起こる会話が成立しない。
一体誰に向かって話しているのかわからないものが多かった。
セリフのベクトルがまったく感じられなかった。
(余談だが劇団ピアスの渡辺ケンが俳優によけいなことをさせない、いい演出をしている。)
わざとらしく変な抑揚をつけてセリフを言うのに、何の意味があるのか、
その方がセリフが伝わりやすいのなら別だが。
何十人も参加していて、だれ一人、意味の無い抑揚をつけたセリフ回しが
気にならなかったのだろうか?
仙台の劇団でも多いのだが、遊びとして使っているところは別として、
リアルな場面においても、演技をすることは、何か大げさな不自然なことを
しなければ、演技ではないという間違った刷り込みがあるのではないか。
俳優が勝手にテンションを上げて、自分だけが気持ちいいという状態に
なっていないか。
演技はセリフを言わないときが難しいとよく言われるが、今回はセリフを言わないとき、
ただ止まっているように見えた、場面を感じていない。
俳優が素直に舞台に立っていない、妙に力んで猫背になっていたりいたり、
身体感覚を失って棒立ちになっていたりしていた。
(このようなことは高校演劇でも、今や常識になっていると思うのだが)
殺陣は、よく稽古してるように見えた、今回努力がうかがえたところだ。
笑いについて、
二つあると思う。一つは呼吸や、関係性で笑わせるものと。
もう一つはネタで笑わせるもの、そう考えると今回は後者のネタでの笑いがやや
受けていたものがあるが、前者の笑いはほとんど滑っていたように思う。
新感線は、関西系のお笑いとスピード感が売りだと思うが、それが無いので、
二時間半は厳しかった。
照明
とにかく舞台が暗い。広く舞台を使っていたせいもあるが、人物に光が当たって
いない。必要なところに光が行って無く、暗いベタ明かりになっている。
(在仙の劇団のスタッフを借りてアドバイザーになってもらってはどうか)
音響
はじめの録音の声など雑音がひどすぎた。
続蒲田行進曲等でも見られたサンプリングはよかった。
衣装
統一感が無かった、ジーパンでキャンパスを歩いている大学生が、そのまま
布を羽織って伝説の戦士として出てきても観客は物語に入れない。
新感線の見せる舞台にくらべると、今回の関係者も知っているだろうが、あまりにも
今回の衣装はちゃちではなかったか。
まねしろと行ってるわけではなく、それを超える工夫が欲しかった。
学生のネットワークで、ファッション系の学生の手を借りるとか方法はあるはずだ。
小道具
無くなった父親の墓が段ボールに白い紙を貼っただけとか、まさか手抜き具合を
笑ってもらおうと思ったわけではないだろうが、あまりに貧弱すぎる。
最後の自殺用の手りゅう弾も塗にムラのある、発泡スチロールに見えた。
物語のカギになる鏡も、アルミホイルの回りに波トタンを貼ったように見えたし、
うまく照明を当てて、もっと光らせるべきではなかったか。
何発か目つぶしがあったが、鏡自体も光って欲しかった。
最後は、銀紙の降り物が降る予定だったのだが、ほとんど降らなかった。
降り物のカゴは暗幕とかで隠すのが普通だろうと思うのだが、カゴの
揺れる様をそのまま見せている。しかもよく降らない。
結論から言えば、細かいスタッフの積み重ねからしか、演劇は成立しないことを
もう一度考えなければいけない。
今回の救いは、何人か将来性を感じさせる俳優がいたことだ。
未来樹シアターやもしもしガシャ〜ン等、在仙劇団の公演に参加している俳優もいて、
存在感を感じさせていた。。
最後に私が考える合同公演とは、スタッフを俳優の2倍近く用意して、
作品的にも例えば、青年団の「北限の猿」の3シリーズ等どうだろうか、大学の
研究室が舞台だし、青年団の若手も公演しているから、現代演劇を知る意味でも
格好の題材だと思うのだが。出演者10人前後の芝居を20人のスタッフが支える
ほうが、よっぽどレベルアップにつながると思う。
今回様々な問題点があったが、一つ一つ検証して、各演劇部に持ち帰って、
演劇部ごとにレベルアップすれば、仙台の大学演劇も変わるだろう。
その1歩としては価値のあった公演だと思う。
とにかく、自分達でしか出来無い表現、同時代演劇を新しく作るという志が欲しい。
次回は、今回の企画に参加した4人の女優で学園祭を2ヶ月近く廻るらしいので、
そちらに期待したい。
早速太田憲賢さんが劇評を書いていたが、現役の大学生や、市民の方どう感じた
でしょうか、今回の最大の目的である、公演を通じての数多くの論議を期待
したいので、書き込んで下さい。参加者からの意見も待ってます。
[2001年3月13日 15時50分44秒]
お名前: アイドル評@太田
僕はよくこの欄で例え話として野球のことを持ち出すけど、この「学都出陣」について
も、「これって野球でいえばオールスター戦みたいなものだなあ」という感想を持たずに
はいられなかったのだった。
公式戦とオールスター戦の違いは何か?オールスターとは、各チームの花形選手が集ま
った混成チームである。つまり、悪くいうと「寄せ集め」にもなりかねないわけで、だか
ら、4番バッターばかりがそろったチームが必ずしも強いとは限らない、という言葉もあ
るとおり、一人一人の選手の個性は強いけれど、でも、同じ釜の飯を食った仲間同士によ
る熟成したチームプレーみたいなものは、あまり期待しない方がいい。だから、野球のオ
ールスターも「お祭り」と定義されているように、普段なら勝つための手段として称揚さ
れている「送りバント」などをする選手はおらず(いたら「無粋」と批判されるだろう)
ピッチャーは三振を狙い、バッターはホームランを狙い、ファンはそれら個人プレーを楽
しむ、そういうのがオールスターの楽しみ方だろう。
今回の「LOST SEVEN」も、それぞれの学校で存在感を感じさせてくれる役者
は、定期公演以上にその個性を楽しませてくれたのだが、では、野球でいうチームプレー、
それぞれの学内での定期公演で感じさせてくれるような空気のような信頼関係、いわば阿
吽の呼吸のようなものが、この芝居では感じられなかったのであった。その結果として、
個性的な役者が出ているときは芝居が活性化するが、芝居の流れとしては、お互いのセリ
フのやりとりが、なんだか一呼吸遅いようなテンポの悪さが感じられ、少々ダレ気味の展
開になってしまったのが残念であった。
今回のパンフレットで代表の久米さんが「大学生の可能性を感じてほしい」「観劇経験
のある方には、大学生がどこまでできるのか、大学生の実力がどの程度のものなのか見て
ほしい」と書いている。お言葉を返すようで申し訳ないのだが、例えば、宮教や宮学の役
者さんの場合は、今回の「学都出陣」よりも、それぞれの学校の定期公演を見た方が、そ
の実力を高く発揮した芝居が見られるように思った。そういう意味では、むしろ「学都出
陣」を見ることによって、「仙台の大学演劇の実力はこのレベル」と、今まで大学演劇を
見たことがない人が判断してしまっては、逆にもったいないのではないか、と思えるのだ。
宮教や宮学の定期公演では、同じ学内同士だからこそできる、長年同じ釜の飯を食うこと
によって培われた、いわば熟成した阿吽の呼吸による練れた芝居を見ることができるはず
だし、むしろ大学演劇の魅力を、今まで大学演劇を見たことのない人に見ていただければ、
「なるほど、大学演劇も捨てたものではないな」と、心ある人にはわかってもらえるので
はないだろうか?例えば、前回の宮教の「ミナモノカガミ」で、僕以外の方からも、「初
めて宮教の芝居を見たけど面白かった」という書き込みをいただいたように。今回の芝居
の練れなさ加減は、同じ宮教で例えるなら、夏休みに公演された「ウオルター・ミティに
さよなら」を連想させた。なぜなら、8月頃の宮教は、新入生もまだ完全にとけ込んでお
らず、また、4年生が抜けた穴もまだ埋まりきっていない、という熟成されなさが、ちょ
うど今回の「学都出陣」の練れなさに近いものを感じさせたからだ。
だから、このお芝居は、最初に指摘したように、むしろ「オール・スター戦」として割
り切ってみると、実はけっこう楽しめる芝居なのである。つまり、個々の役者の個人芸、
その人が持つ個性・存在感を楽しむ。そういう視点で見ると、2時間半という長丁場で、
しかも前述したようにテンポダレダレのところもあったにもかかわらず、けっこう僕自身
は面白く最後まで見ることができたのであった。
しかし、その手の個人芸となると、突出してくるのが東北大の連中である(笑)。宮教
・宮学などの場合は、他の劇団への客演で見かけることが正直少ないのだが(福祉・宮城
は尚のことである)、何しろ東北大の諸君は、「もしもしガシャーン」だ「たかはしみち
こプロデュース」だ、「ナイン・ゲージ」だと、学内公演に限らず、自分たちでプロデュ
ース活動をしたり、よそに客演したりという機会を積極的に行っているから、この手の合
同公演では、百戦錬磨というか、他の大学の皆さんに比べて、手慣れている感じがありあ
りと出ていた。そのせいか、物語冒頭から、中井均君と今野信一君の飛ばしっぷりが尋常
ではなかった。なんというか、異様にハイ・テンションなのである。日頃、片平ホールで
ジメジメと、くら〜い芝居をしている鬱憤を晴らすかのように(笑)。今回の芝居は、「魔
族」という敵役が出てくる、ファンタジー系のお芝居で、この手の謎だの闇の組織だのが
出てくる作品は、むしろ宮教演劇部のお家芸的なものなのだが・・・。そうかあ、東北大
のみんなも、本当はこういうやってる方もワクワクした気分になれるような芝居をやりた
かったのね!だったら、トンペイでも「パーフェクト・ライヴス」とか、「天使は瞳を閉
じて」とかやればいいのに〜!(笑)
しかし、それにしてもラスト前、中井・今野・福田敦史の3人が、ヒロイン(手塚優子)
をめぐって激しく剣を交えるシーンは、悪いけどここだけ去年の「蒲田行進曲」のデジャ
ブーか!?と、錯覚を覚えずにはいられなかったぞ!あの芝居の劇評で佐々木久善氏が「た
かはしみちこと野郎ども」という、言い得て妙な形容をなさっていたが、ここのシーンっ
て、「たかはしみちこ」が「手塚優子」に入れ替わっただけで、まるっきりトンペイの芝
居じゃん!おいおい、これって在仙大学合同公演じゃなかったのお!(笑)1人の「ヒロ
イン」をめぐり、ライバル関係にある仲間同士が、馴れ合いつつも剣を交えあう、という
この構造、結構微笑ましくはあるんだけど、でも、この手のファンタジー芝居は宮教のお
家芸なんだから、トンペイに喰われっぱなしで終わるなよー、宮教もがんばれよー、と思
ってみてたら、ラストシーン、今野信一(東北)と手塚優子(宮学)に対峙する敵役のト
ップが、宮教の古里君!彼の悪役でありながらもさわやかな笑顔(本当は敵役だから、不
敵な笑顔でもあるんだが)を見て、「そうだよなあ。やっぱりこの手の芝居は、最後は宮
教の役者さんで締めてくれないとなあ!」と、思わず嬉しくなったのだった。
今まで、僕は宮教の劇評を何度も書いているのだが、古里君の個人評は書いてこなかっ
た。それは、先のオール・スターの形容でいえば、彼の役所は渋いバイ・プレーヤー、打
順でいえば2番とか6番打者的なものが多かったため、どうしても、吉田みどりとか、笹
本愛といった、個性の強い役者に目がいってしまっていたのである。でも、たぶん彼は僕
の見た宮教の芝居にほとんど出演している?ためか、最後に彼が登場したことによって、
「あ、この爽やかな宮教の顔!」という安心感を与えてくれたのだった。やっぱり、この
辺もファン心理というのは、野球と同じなんだな。「芝居がトータルで成功していること」
が、芝居を評価するにあたっての建前ではあるのだろうけれど、ファンの本音としては、
「自分の好きなチームの選手が頑張ってくれるといいなあ」というのが、つい出ちゃうん
だよね。まあ、それもこういうオールスター的、お祭り的芝居だからこその特殊性、では
あるんだけども、ネ!
[2001年3月10日 23時42分29秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也
芝居小屋六面座公演2001「やよいの空に」劇評
やよいの空に六面座の花が咲く
一昨年の「仙台演劇祭」で上演された「虹のあと」を観て感心した。書いた劇評に
次のようなくだりがある。「……静かな芝居に、ドラマ性をたっぷりと乗せて金野むつ
江は新しい道を歩もうとしているのかもしれない。消えることが分かっている虹を求め
てなのか? そうではないだろう。虹が消えた後にこそある何かを求めてであることは
間違いない。それなら、その何かとはなになのか? 期待がふくらむ。……」
待つこと約1年半。期待をふくらませて席についた。
芝居は、新作であってもチラシやパンフ等で大体の筋は前もって知ることが出来る
のが常だが、この芝居に関しての前知識は案内状に書かれていた「皆で花見できる日を
心待ちにしている老女」が主人公だということだけ。これも又《作者の計算してのこと
だったにちがいない》と、観終わった後に思ったものだった。
居間に一人の若い男が座って居る。エプロンを付けた同年代の男がお茶を持って現
れる。二人は知人であることが分かる。そこへ花を持った中年の女があわてふためいた
感じて登場して、やはりあわてふためいた感じで退場する。そして老女が……というふ
うにして、人物の登場のさせ方が計算されていて実に巧みであり、作者の才を感じさせ
る。例えば鈴木ちよ子の場合でもそのことは言える。暗転後に座っている若い女性は、
話の展開からすれば老女の姪だと観客には思える。が、違う。姪だと紹介した山田リカ
の場合は、「あれっ、そうなの? この人が?」と思わせておいて、今度は逆、「やっ
ぱり」という風に……。
作者の才は、話の展開術に色濃い。「この人は?」と思わせて登場させた登場人物
と老女との係わりが次第に明らかになるその実態は実は「暗く」「寂しく」「やるせな
い」ものなのだが、作者は、決してそのようには思わせずに、「老女」の明るさで包み
込み、客席を笑わせながら進行させる。そして、老女の死で一気に急転させてみせる。
係わっていた5人は、老女が冷蔵庫に準備していた「ビール」と「笹かま」を持っ
て花見に出掛ける。《冷蔵庫の「ビール」と「笹かま」は賞味期限が切れている》とい
う設定に、作者のメッセージがある。「老人の寂しさ」「老人問題」等と声高に叫ばな
くとも、観る人に伝わる。染み入る。
銀行からもらったビニールを広げてちょこんと座って、「みんなで花見に行こうね。
花見は一人じゃつまらない」と、期待に胸膨らませて待っていた老女を思い浮かべた時、
賞味期限が切れる程も前から冷蔵庫に詰め込んで待っていた老女の心情を思い、《どん
なにか楽しみにしていただろうに、可哀想」と、つぶやいていたのだった。
「金野むつ江が虹の消えた後に何かを求めている」の何かとは,はたして何である
かは未だ分からない。が、おぼろげには見えて来た……。そう思わせる作品であった。
《やよい10日(土)14時観る》
[2001年3月14日 20時12分27秒]
お名前: 井伏銀太郎
名取・突GEKI祭2001 芝居小屋 六面座「やよいの空に」
満席の劇場で初演をむかえた。
一昨年の仙台演劇祭から1年数ヶ月ぶりの六面座公演。期待以上の作品だった。
人間に視点を定めた「有りようの芝居」へ。 「静かな演劇」でも「賑やかな芝居」でもない
「六面座の演劇」を探求と言っていたが、まさに六面座独自の演劇が完成しようとしている。
初日なのであえてストーリーには触れない。
前回は、青年団、弘前劇場の「しずかな演劇」の影響を強く感じたし、アンサンブル的に主催の
金野の演技が他のメンバーから特出しているのが気になった。
しかし今回は、あえて「スタイルとしての静かな演劇」とは一線をかくしていたように感じたし、
金野も、舞台の中心的配役で見せる芝居は影をひそめ、リアルな中にも遊びのある確かな存在感を
出していた。俳優達も確かに舞台の上で息づいていた。
静かな演劇を出発点としながらも、金野の女性特有の感性と、人生経験が見事にマッチした
新しい演劇の形が出現したように思う。私は青年団の名作「暗愚小伝」を思いだした。
劇評には、その芝居が見る価値があるかどうか知らせるという側面が有ると、劇評家の扇田昭彦氏が
書いていた。
その意味では、演劇アレルギーと言われる演劇に失望した多くの市民、初めて演劇に触れる市民、
演劇関係者に見て欲しい舞台だ。
[2001年3月10日 1時29分19秒]
名前: 井伏銀太郎
平成12年度舞台技術アカデミー
「お寺の和尚さんが西瓜の種を蒔きました」
動機づけの無い、いい加減な舞台
前回の二人芝居「女優」も、仙台を代表する劇団の俳優を使いながら、まったくドラマが
起こらない公演だった。
今回は相田東子、劇団ピアスの中鉢大、きらく企画の原西忠祐、三浦ひろえ、
他団体にも出演し経験を積み、将来の期待も持てる俳優達だったのだが、作品的には前回同様
失望が大きい作品だった。
中鉢大、原西忠祐、三浦ひろえは、大げさな演技や、説明的なそぶりがなく、日頃の所属劇団での
訓練や、経験が読み取れた。特に中鉢大、原西忠祐は声がいい。
材料は良いものを使いながら、料理人のせいで、いい加減な料理が出てきたという感じなのだ。
ストーリーは、母と兄、妹、弟の4人暮らしの家族。
母親の思いどうりに、人を疑うことを知らずに育てられた兄と妹、それが元で、うまく社会に
適合できないでいる。一人自由奔放な弟、母はそんな弟を溺愛している。
兄と妹が母を自分達の育て方について攻めていると、弟の生き霊?が現れる。次の場面では
弟のバイト先に母が現れる、すると兄が母が店にくる途中で交通事故に遭って、救急車で
運ばれたというのだ。
細かい動機づけが、大きな動機づけになる、動機づけの無い行動はただの嘘になる。
確かに、閉じられた関係の家族を描くのは難しい、毎日顔を合わせているから、それぞれの日頃
抱いている思いを打ち明けるにはそれなりの必然的事件や大きな動機が必要だ。
それがなんの動機も感じられないまま、今までの不満をぶちまける。つまりただの説明的な
場面から芝居が始まっている。
兄が迎えに来たとき、弟は、「何で兄が嘘を言うのか、母はここにいるじゃないか」という
反応をする、普通まともな人間の生理ならそこで大きなドラマが起こるはずなのだが、
お互い取りあわないで、母(生き霊?)はずるずると最後まで登場している。
幻が幻でなくなっている。
相田東子の演技が気になった、年齢的にもかなり上の設定なのだが、天然ボケと言ってるが
狂人にしか見えない、初めから狂人の演技をしていた。
相手の話を聞かないし、視線の先に何も見ていない。
以前の劇評でも書いたのだが、正常でいようとする人間が正常でいられなくなるところに
ドラマが起こる。
最初から精神異常者にしか見えない人物ではドラマを起こせないのだ。
細かいことだが、働いている店のすぐそばで、交通事故が有、救急車が来たのなら様子を
見に行くのが普通だろう、それを筋の進行のため様子を見に行かない、行動として不自然だ。
この作品は俳優達が、ただ単に、作家の主題のままに細かい動気づけが無いまま人間の生理を
無視して行動している。
小道具的にも、まったく水に濡らさないでモップで掃除したりするのはどういうことだろう。
演出は気にならないのだろうか?。リアルなものと、いい加減な嘘がなんの境界線もないまま
混在している。
スタッフは舞台技術アカデミーの生徒達が担当していたが、もっとまともな作品を練習題材に
選ばなければ勉強にもならないだろう。
[2001年3月10日 1時28分22秒]
お名前: 井伏銀太郎
ショックだった、確かに名取で土曜の夕方、雪も降っていたが、私が見た回は
10名ほどしか観客がいなかった。
確かに少人数で練習もしながらの制作だろうが、真剣に制作活動をしたのかまず疑問に思った。
仙台演劇祭はかつて500名以上の観客動員が参加の条件になっていたことがあったが
どのぐらいの観客動員を見越してこの演劇祭に参加したのか疑問に思う。
これは参加団体の問題というより、参加団体を選ぶ側の問題だろう。
ちゃんとした選択基準、判断基準が行政に要求されている。
ホール代はかからないし、助成金もでる、観客が来なくても公演が出来ればいいと思ったとは
思いたくないが、何故こんなにも観客が少ないのか真剣に検討する必要が有るのではないか。
同じ名取突GEKI祭の他の参加劇団は、満席の公演もあったのだから。
演劇祭では確かに若い劇団にチャンスを与える側面も必要と思うが、あまりにも少な過ぎた。
観客あっての公演だと思うのだが。
いくつかの出演希望団体の中から、行政が選んで、代表として出ている事を考えると、
これでは市民に新たな演劇アレルギーを植え付け演劇祭の目的の演劇振興に逆効果ではなかったか。
本当に実験的で観客が少ない公演も有るが、ある種のエンターティーメント路線の芝居ながら、
200人以上入るこのようなホールに10名足らずの観客では、舞台と観客の一体感など望めるはずが
無い。自分達の芝居が観客と絡まなかったのを一番実感しているのは自分自身だと思う。
あまり大きな間違いはしなかったので確かに稽古はしているようだ。
あらすじは劇団パニックに所属している役者貴志は次回公演に向けて追い込みに入って来た頃、
様子がおかしくなる。変な女が現れ、双子の妹だという、その後神が出てきて、その妹と名乗った
女は実は女神だった。実はそれは貴志の心の世界で、神が連れていた、性格が暗そうな男が自分の
影の部分が実体化した男で、突然その男が\拳銃を取りだす、主人公はその男を殺すのだが・・・
作家はどの程度のキャリアが有るかわからないが、第8回公演ということなので劇団としては
経験もありそうだ。
作演出が演劇の雰囲気と映画の雰囲気とテレビドラマの雰囲気とアニメの雰囲気が一つになった
ものがあってもいいんじゃないかと書いていた。確かに、色々雰囲気的に工夫はされていたと思う、
しかしどんな雰囲気であっても、肝心の登場人物の感性がいい加減ならどうしようもないだろう。
人間のまともな感覚が有るから演劇は成立する。
具体的に言うと、悩める主人公の前に、女神が双子の妹だと言って登場する、主人公は疑うのだが、
すぐ悩み相談などする。まともな感覚ならそんな、得体のしれない女にすぐ人生相談などしない
だろう。初対面のそれも怪しげな人物に対しての距離感がまったく無い。
つまり登場人物は、作家の描いた、いい加減なレールの上を、まともな感覚生理を無視して行動
している。
作者は新しい演劇の形と書いていたが、あまりにも脚本が稚拙だ。シナリオ初心者はすぐ
人を殺すし、意味もなく神や悪魔を出すと言われているが、その典型的な作品だった。
あらすじもそうなのだが特に気になったのが、セリフだ、
作劇上でセリフは単なる説明ではないというのが基本であり、説明しなければならないところは
いかに必然性を持たせて登場人物にしゃべらせるかというのが作家の腕の見せ所なのだが、
説名的なセリフのオンパレードで、必要の無い説明まである。
具体的に言うと、携帯電話が鳴ると、普通ボタンを押して「もしもし」と話すだろう、
ところがこの作家は役者に携帯のベルが鳴ると、「あっ、電話だ」と説明させる、その後で電話に
出る。電話のベルが鳴れば、その人物だって、観客だって「あっ、電話だ」等と説明しなくても
わかるだろう。安易に頭の中の意識を言葉にする。「こまったなー、しょうがないなー」
「完全に、行くところが無くなった、どうしよう」
劇団員が3人しかいない劇団なのだが、主人公と演出家がいなくなって、独り取り残された木村が
「あーあ、独りになちゃったよ」とセリフで状況を説明する。。観客は見ればわかるのだ。
あまりにもセリフを人物にしゃべらせるというのを安易に考えているのではないか、よく画家は
デッサンにおいて幾千の線の中から、本当に大切な1本を見つけて線を引くと言われているが、
セリフだって幾千の言葉の中から、本当に必要で効果的なセリフを書くべきではないか。
そしてラスト近くに神が「人は悩んで苦しんで成長するものだ・・・お前が壁にぶつかったとき
又会える」というようなこと言う。人間の苦悩というものは、いざというとき神がいないところから
始まると思うのだが、安易に神を出して解決させないで欲しい。
演技的にも、下半身が客席を向いているのに、上半身が相手役に向かっていたり、振り付けられた
ように動くし、セリフもよく絡まず、順番のようにセリフを言う。俳優が生きていない。
小道具もこの劇評で何度も言っている、いい加減なものを使っていた、女神が缶ジュースを箱から
出して主人公と飲むのだが、あきらかにフタが開いていて空なのだが、それを飲むふりをする。
何の意味があるのか、何故本物を使わないのか。
衣装も、何日か日数が経っているのに、主人公が同じ服を着ているのはどういうことか、
演劇においてはよく服によって時間の変化を表すのに。つまり時間軸がはっきりしていないのだ。
誰でも演劇をする権利は有ると思うし、表現の自由もある、しかしもう少し勉強して、自分達の
表現というものを考えてから演劇祭に出場すべきではなかったか。
劇団も観客も閉じた関係の中では、何も生まれない。
身内でない、多くの一般観客に、自分達をさらして、自分の表現を知るところから始めなければ
ならない。今回がそのいい経験になればいいのだが。
仙台の演劇でよく言われる、身内相手の発表会と言われないためにも、更なる研鑽が必要だろう。
若い集団なので次を期待したい。
[2001年3月10日 1時27分33秒]
お名前: ワッキー貝山
本当に多大なる御支援のお陰で今回の企画終わる事が出来ました。出演団体も
みんなイイ感じで主旨を理解していただきレベルが高いものが出来たと思います。
又、鈴木拓他裏方の皆の長時間との戦い御苦労さまでした。1回の公演が終わった
段階でひと公演終わった気がしたなんて言っていたけど6時間だから、
(本編は420分位ありました)2時間の芝居3回やった計算になるんだもんね!
ほんと!みなさんに迷惑をかけたがお客さんに喜ばれているしがんばったかいが
あったね!(涙)ところでなんと『笑ing』のビデオが出る予定です。
4月中旬!是非忙しくて足を運べなかった皆さん。お買い求めを!
なんて宣伝しちゃいました。
[2001年3月14日 1時24分6秒]
お名前: 井伏銀太郎
ホール入り口にはフリーマーケットや縁日が出ていて、お祭りの雰囲気が出ていた。
笑いというテーマで色々な団体を集めた、6時間の企画だ。
ワッキー貝山の、力技でも、演劇祭を盛上げようとする意志が感じられた。
青葉玩具店とティーライズを見た。
なんで、青葉玩具店はこんなに面白いのだろう。
初めて青葉玩具店を見た時「すごいやつらが出てきた」と思った。完成度の高いスタッフワーク、
キャラクターのはっきりしたチームワークを感じさせる俳優達。
仙台演劇界久々の大型新人登場という感じだった。
今回の内容は忠臣蔵と「生類哀れみの令」を題材にしていて、昨年の「犬の仇討ち」とおなじ題材だ。
ぬいぐるみを着て「生類哀れみの令」のキャンペーンをしていた侍二人が、ぬいぐるみに小便を
かけた犬を蹴り殺してしまい、知り合いのそば屋に逃げ込んだところから物語は始まる。
侍うちの一人の弟がその店の看板娘を好きで通っていて、やたらとプロポーズする。
その4人が登場人物なのだが、時代設定や衣装小道具はもちろんいい加減だが、そこが逆に
笑わせるセンスがある。大体、侍がぬいぐるみを来てアルバイトしているのだ。
「赤穂ってどこらへん?」と娘が訪ねると「そうだな、今の兵庫県の辺りだ」と侍が答える、
「今っていつだ!!」とつい突っ込みたくなる。
侍の兄弟が赤穂浪士で、犬殺しで悩んでるうちに松の廊下で刃傷ざたで藩主が切腹してしまう。
犬殺しどころではなく、仇討ちをしようということになるのだが、仇討ちをして伝説の男に
なろうとするのだが、いつのまにか伝説の男、宮本武蔵になろうとする。
まあ、あまりストーリー自体はこの劇にとってたいした重要ではないのだが、役者同士の
掛け合いがテンポがよくて上手い。芝居の嘘を逆手に取って笑いに変えている。
これからの彼らの活躍が一時の仙台演劇界の閉塞感を変えるだろう。
[2001年3月10日 1時23分0秒]
お名前: S,M
こんなパワフルな公演あるのか〜と関心して帰ってきました。
皆、真剣にお笑いに取り組んでて、ちょっと期待せずに行ったのですが、
充分もとは取れました。きめ細かいサービス(タコ焼き付)や
ちょっとした洒落(お客さんの書き割り)なんかも良かったです。
内容は全部が全部似たものがなくそれぞれに面白みがあって良かったです。
宮城県にお笑いの文化育てて下さい。又、第2弾楽しみにしています。
[2001年3月8日 22時50分42秒]
お名前: 井伏銀太郎
1997年日本劇作家協会新人戯曲賞受賞を受賞した「カイゴの鳥」の続編ということで
期待して見に行ったが、期待を上回る作品だった。
前回は残念ながら観る機会が無かったのを悔やまれる。テレビで観たで前回の「カイゴの鳥」の
ラストは病人のベットを頭上に持ち上げて終わったように記憶している。
今回続編ということだろうか、初めに火葬場の脇で物思いにふけるシーンの暗転後に
父親の棺桶を頭上に持ち上げての登場だ。
何度も再演されるだろうから、どんでん返しもあるストーリーは説明しないが。
息子から見た父、父から見た息子が、時代とともに構造的に見事に描かれていた。
リアルな中にも遊びがあり、遊びの中にもリアリティがある作品だった。
何が素晴らしかったかというと、なかじょう自身でもなく、かといって単なる役柄でもない、
なかじょう自身がその物語を多面的に生きていたことだ。
こういう作品こそ、もっと多くの市民に見て欲しい。再演が待ちどおしい作品だ。
[2001年3月10日 1時24分0秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也
作者の思いが心に染み入る「私小説」風なつくり
仙台劇評倶楽部 小野一也
私は、「なかじょうのぶ」を「メッセージ作家」と呼んでいる。「そもそもメッセ
ージを持たずに芝居づくりをするはずがないではないか」と言われそうだ。勿論私自
身も同感。が、実態は、何を言いたくてこの芝居を作ったのかさっぱり分からない芝
居は少なくなくあるし、「特に訴えるものがありません」と平然と言ってのけた
演劇人が仙台にはいた。そんな中で「なかじょうのぶ」は明確なメッセージを強烈に突き
出した芝居作りをしている。この芝居でもそのことを強く感じた。
一昨年のシアター・ムーブメント「僕らは支倉通りを亙って水星に行く」でのメッ
セージは強烈であった。劇評で私は《「自立」を真正面に据えた「明確メッセージ作
家」の秀作》と題して、次のように書いた。
(前略)《「背中をドーンと押されて」「押された男たちは」「背中を押した者の
背中を」「ふいに押されても自分の力だと信じて」「背中を押されて飛ぶ」「自分で
自分の背中を押す」等とこの芝居のテーマである自立を「背中」「押す」という言葉
で表して見せて、その意図は見事に活きた。「明確メッセージ作家」は、国に寄生し
ている村に住む人々の自立を「気の利いたセリフ」を多用し、「鋭い切り口」で、
「感動的」に描いてみせた。(中略)慶長使節を命じられた支倉常長らは「選択のな
い男たち」であったという事実と「新・芸術村構想」の名の下「留学」と称した陰に
意味されていたものとを重ね合わせた作者の「切り口」は鋭い。「選択のない男た
ち」から「自立」を学び取る村人たちの姿勢を突き付けた作者の作劇姿勢は説得力を
持つ》(後略)。
さて、「月 見る 月日」は、「カイゴの鳥」の続編である。
「カイゴの鳥」はベットを背負う場面で終えたが、「月 見る 月日」は棺おけを背負
う場面で始まる。私は「カイゴの鳥」の劇評で「今日的な問題を真っ正面から見据え
て訴えたメッセージ作品。秀作である」と書いた。
あれから4年。作者は、「カイゴの鳥」ではテーマを《真っ正面》から訴えたが、
この「月 見る 月日」は《側面》からじわりと訴えた。小説で言えば、「私小説」風
に。この作り方が、効いた。
亡くなった父への息子の思いが、静かに語られていく。芝居にのめり込んでいる自分。
「一人芝居をやっているのは、《仲間からも見捨てられたからだろう》と思われ
ているのではないか…」「一度だけ観にきてくれたよなあ」というセリフが心に染み入る。
作者は、父親に語りかけることで、息子としての思いを観客に提示してあいて、
突然に息子の体を借りた父親という設定で、父親の息子への思いを想像、提示して見せ
る。この設定は見事だ。作品自体に膨らみを持たせて、立体的に見せる効果があった。
なかじょうのぶは、父を演じる時には、単に三角布をつけただけではなく、「背を
丸め」「視点をやや前方に向け」「声色を変え」「語りもゆるやかに」というふうな
こまやかな配意をした演じ方してみせて見事であった。
「カイゴの鳥」と、この「月 見る 月日」一挙上演を期待したい。実現に向けての
検討を心底望む。
《2月24日(土)15時観る》
[2001年3月6日 0時44分51秒]
お名前: アイドル評@太田
例えば、亀歩さんとか、後藤尚子さんなど、私が当欄で何かと話題にし、絶賛する女優
さん方が何人かいるが、彼女達の特徴を色に例えるなら、いわば原色系といえると思う。
つまり、彼女達は、その人本人が素で持っていると(たぶん)思われる喜怒哀楽をハッキ
リすぎるほど生き生きとした表情で舞台で見せることにより、観客である私をその元気・
迫力で圧倒させることで、舞台に引き込んでくれるのである。好き嫌いの好みでいえば、
私はそういった傾向の役者さんに惹かれることが多いのであるが、その一方で、逆に色で
いうと中間色系とでも表現したくなるような役者さんもいる。
この「中間色系」の役者さんは、通受け、というか玄人受け、とでもいうべきか、原色
系の役者さんがハッキリとした表情が魅力であるのに対し、微妙な表情や仕草で「うま
い!」と、うならせる演技をしてくれるところに特徴がある。例えば、顔では笑っている
が、心の中では泣いているのだろうなあ、と思わせるようなフッとした寂しげな表情とか、
満面の笑みではないのだが、ささやかな幸せを感じているのだろうなあ、と思わせるよう
な、穏やかな微笑とか。どちらが優劣というのではない。それぞれが素晴らしい持ち味だ
と思うのだ。
で、今回「ゲキテキ」の第2回公演に出演された、天条皐月役の武田優美さんが、まさ
にそういった「中間色系」の女優さんとしての上手さを魅せてくれる役者さんであり、私
は、今回もまた彼女の演技にすっかり堪能させられてしまったのであった。
武田さんについては、「ゲキテキ」の旗揚げ公演でヒロインの夢遊病の少女を演じてお
り、その際の劇評でも私は絶賛を惜しまなかったのであるが、今回再び「名演」を見せて
下さったことにより、彼女の演技力は前回限りの「たまたまよかった」的なものではなく、
本当に実力のある役者さんなのだなあ、と感心させられたのであった。「ゲキテキ」のお
芝居は、今後、たとえ運悪く脚本や演出がよくない芝居が上演されたとしても、武田さん
の演技を見るだけでも、お金を払って見に行く価値のある劇団である、と私は確信したの
であった(例えばの話です。勿論いい芝居をするように毎回皆さん努力されるとは思いま
す)。
では、どの辺の演技がよかったか?実は彼女の出番は今回は少なかったのである(しか
し、その少ない出番できちんと印象に残る演技をしていたのだから、大したものだ)。彼
女は主人公の探偵がかつて助手時代に師事していた先輩探偵の奥さん役で、この先輩探偵
が、彼に恨みを持つ男に殺害されてしまう。事件を知らされた主人公が、事件担当の刑事
と、被害者の妻である彼女と3人で話し合っている場面で、激情にかられた主人公が彼女
に「なんであなたは、そんな冷静な顔をしていられるのですか!」となじるシーン。この
時の彼女の表情が、実によかった。グッと一呼吸タメを効かせた後、ゆっくりと「こうい
うことがおきること(探偵の妻である以上、主人が怨恨でころされる可能性)は、覚悟し
ていましたから」といった内容のセリフを語るのであるが、ここで100%クールな表情
をされてしまっては、本当に冷淡な女にみえてしまうし、逆に悲しみが前面に出てしまう
表情をされても、主人公が彼女をなじる理由が分からなくなってしまう。そういう、表面
は気丈に振る舞っているのだが、しかし堪えている悲しみが微妙に滲み出ている、という
複雑な表情を、とても印象的に彼女は見せてくれるのである。こういう表情というのは、
喜怒哀楽をストレートに出していく役者さんではなかなかできないだろうなあ、全くもっ
てうまいもんだよなあ、と、極端な話、私はこの一瞬を見ただけでも、本公演を見に来た
甲斐があったと感じずにはいられなかったのである。
しかし、武田さんばかりを毎回褒めていると、では他の役者さんには印象的な人はいな
かったのか?と誤解されてしまいそうだ。今回はもう1人、とても印象的な役者さんがい
たので紹介することとしよう。武田さんが演じた天条皐月の実の娘だが、皐月が事件のシ
ョックで失踪したことによって事件の関係者に預けられた月乃沙奈役の西嶋夕紀さん。物
語の現在進行形が、最初の事件から15年後に設定されているので、彼女は女子高生役で
出てきたのだが、これがもう、今時こんな子がいるのか!と驚いてしまうような純朴そう
な雰囲気を漂わせて登場したので、私はもう、ビックリしてしまったのであった。リンゴ
ホッペで、見るからにおっとりしていて、本当は複雑な家庭環境にあるのに、いや、だか
らこそ大事に育てられたんだろうなあ、と思わせるような、素直で優しそーな雰囲気が、
そこにいるだけでオーラのように漂っているような役者さんであった。そういう意味で、
西嶋さんは武田さんとは対照的に、その人の本来持っている素の雰囲気の延長線上での魅
力でみせてくれる役者さんのように見えたし(本当はどうかわからないけど)、彼女をこ
の役にもってきたのは適材適所だったのだなあ、と思った。この人も、今回は登場シーン
が少なかったのだが、次回はもう少し長い演技を見てみたいものである。
ここまで役者さんのことばかり書いてしまったが、ではストーリーの方はどうか?とい
うと、正直なところこれがあまり印象に残らなかった。まあ、前作と違い「探偵もの」と
いうことで、登場人物の内面について深く掘り下げていくというタイプの芝居というより
も、謎解きというドラマ性を主に引っ張っていく内容の芝居であったのだから、これはあ
る程度仕方のないことであろう。ただ、前回同様1時間という芝居にしては短い方に類す
る時間帯に、観客を飽きさせないようにコンパクトにストーリーをまとめていったこの劇
団の力量はさすがである。数多くの地元の他劇団を見るにつけ、1時間最後まで飽きさせ
ない展開でストーリーを持っていく、ということは、たとえただそれだけだったとしても、
ものすごくたいへんなことだろう、とは容易に想像がつくからである。
[2001年3月3日 22時36分30秒]
お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也
新国立劇場 小劇場 「時代と記憶」シリーズ 第2弾
「ピカドン・キジムナー」 坂手洋二・作 栗山民也・演出
沖縄を舞台に、原爆等「忘れてはいけない」問題を訴える秀作
仙台劇評倶楽部 小野一也
欲張った芝居である。その欲張りが見事に結実した。
「原爆」「沖縄」「在日コリアン」等の決して風化させてはいけない「今日的な問題」を、
新しい世紀の冒頭に「終わってはいない。終わったと思っていけない」と、突き付けて見せた。
しかも、その手法は心憎いほどに巧みだ。
「原爆」と「沖縄」との接点に、度肝を抜かれた。恥ずかしながら「沖縄に被爆者がいる」
という事実を知らなかったのである。
あの忌まわしい戦争の忌まわしさの最大の「もの」である原爆と、忌まわしさを「戦場」
として最大に受けた「場所」である沖縄との結び付き。この着眼に先ずうなった。
さらには、それに「在日コリアン」がからんで「差別」がクッキリと浮き上がってくる。
この「差別」という大きな「問題」を浮かび上がらせるのに、子供の味方だという妖精
「キジムナー」のとりいれが大きな役割を果たしていた。原爆症の「秀子」が手紙で言い
残した「キジムナーになる」は、涙を誘い、この芝居のメッセージとしてこころに染み入る。
手法が巧みだと先に書いたが、人物の登場させ方にもそのことが言える。「照政」「秀子」
「善実」「泰億」らは、「あれこの人は?…」というようななぞを持った人として、どのように
係わっていくのかという推理小説を読むにも似た興味津々の期待を持たせる形で登場する。
それにしても、子供達がすごくいい。いきいきとして可愛らしい。このいきいきとした
可愛らしさが、メッセージを伝えるのに効果的であった。先に触れた「終わってはいない。
終わったと思ってはいけない」は、子供達に受け継がれていくに違いないということを
明示している。そのことは、風化させてはいけない「今日的な問題」を風化させてしまい
そうな《私たち大人の自戒》に通じる。
沖縄が「日本になった日」に「日の丸」を掲げるところから始まったこの芝居は、
「日の丸」を折り畳んでしまい込むところで終わる。
作者の思いが、強烈に突き刺さる。まさに「時代と記憶」である。芝居が終わっても立てずにいた。
「記憶の畑をたがやそう 時からこぼれ落ちる一瞬、の、光景集」
である「時代と記憶」シリーズのこれからの作品への期待が、さらに大きく膨らむ。
《二月二十一日十四時 観る》
[2001年3月6日 0時43分36秒]
お名前: アイドル評@太田
1月・2月と、積極的に見に行きたい!という気持ちにさせる演劇が残念ながら見当た
らず、このコーナーもしばらくご無沙汰していたが、本日、大河原で仙南青年文化祭とい
う地域のお祭り的な行事があり、そこに劇団ミモザも参加するという情報を聞き、最近自
分の中での愛着が高くなっているこの劇団を21世紀最初の観劇に選ぶのは、今の自分に
とってとてもふさわしいことのように思え、いそいそと大河原まで出かけていったのであ
った。
本日の公演は、文化祭の中の一環という位置づけのため、正規の公演とは違う形態であ
り、「あなたの20世紀21世紀発表します!」というお題で、地域の方からアンケート
を募り、その中から印象に残ったモノを15本のショートストーリーに仕立てるという内
容であった。そういった定期公演とは違うものまで、つい見に行きたくなってしまうとい
うことは、私という人間にとってミモザという劇団が、いわば擬似的な居場所とでもいう
べき、居心地のよい空間を提供してくれるからに他ならない。
だから、とでも言うべきか、今回のショートストーリーの中でも、私が最も気に入った
ネタは、鈴木雅彦・父、おーみひろみ・母、後藤尚子・娘の三人家族によるコントもの2
本だった。1つは、大晦日に「20世紀のうちに、ミカンの丸かじりをしたい!」と父親
がシュールな駄々をこねる話、もう1つは、21世紀に動物の言葉がわかる機械が発明さ
れ、その機械を飼い犬のポチにつける、という話である。話の内容としては、まあ他愛の
ないドタバタとでもいうべきものなのだが(それでも笑いのツボを押さえたギャグの出し
方は、さすがであった)、私がこの2本を見て、「ああ、いいなあ」と思ってしまったの
は、この3人の作る(擬似的ではあるのだが)「家族」の持つ暖かみに、強く惹かれるも
のがあったからなのだ。
それは、いわゆる「家族の素晴らしさ」を大上段から振りかざすような、よくある教訓
めいた、お説教臭い芝居とは違う、他愛ないショートコントである。しかし、だからこそ
押しつけがましくない家族像として、「ああ、こういう家族の中で暮らすことができたら
ハッピーだろうなあ」という「夢」を見せてくれるものとなっていたのである。鈴木雅彦
さんは、前作「太陽に背を向けて走れ」での、ワザと外したギャグを言う社長役から、ま
たさらに一歩深化した、バカボンのパパ的な、子供みたいだが憎めない父親を好演してい
たし、おーみさんの母親も、そんな父親のワガママを笑って許してくれる、おおらかなお
母さんだった。そして、後藤尚子さんの、いつもながらの元気いっぱいだが、おっちょこ
ちょいなかわいい妹とでもいうべき役回り。「家族のありがたみ」というのは、こういう
「居場所として居心地のいい人間の集まり」として提示してこそ、見るものを実感として
なごませるのであって、むしろ「家族の素晴らしさ」をテーマとして芝居を作っている多
くの劇団は、そのような自然さよりも「テーマ」をあまりにストレートに出そうとしすぎ
ることによって、むしろ暑苦しい、うっとうしい家族像を作ってしまっているのではない
だろうか。そんなことを、今日の芝居を見ながら、ふと考えたりしてしまった。
ところで、ミモザは12月の本公演が終わった後、わずか2ヶ月で今回の青年文化祭に
出演し、さらに3月には子供向け公演、そして4月には、今度は3人芝居をするとのこと
だ。こんなに公演が多くては、1回の公演にかける稽古量が不足するのではないか、とい
う心配が、人ごとながら当然出てくる。しかし、そのようなデメリットがある一方で、公
演数が多いということは、それだけお客さんの目に触れる機会が多くなる、ということを
意味するわけだから、ひいては観客に劇団に対する愛着を持たせることができる、という
大きなメリットもある。現に、私という観客はミモザに対して、強い愛着を感じ始めてい
る。野球に例えれば、なんで12球団の中で巨人のファンがあれだけ圧倒的に多いかとい
えば、毎日TV中継があることによって、個々の選手を毎日見ることによって、知らず知
らずのうちに情が移ってくるということがあるのだろう。私自身は巨人が好きではないの
だが、そういった感情はとても理解できるところだ。そう考えると、質の高い芝居をする
ために稽古に時間をたっぷりかけたい、ということになれば、公演間隔は長くした方はい
いだろうが、観客に、自分たち劇団の熱心なファン・リピーターを増やしたい、というこ
とを考えた場合は、公演間隔はなるべく短い方がいい、ということになる。どちらも一長
一短あり、ジレンマを感じてしまうところであるが、私のような「総合芸術云々」とか、
「技術的に云々」ということにあまりこだわらない、「自分にとっての居場所を感じさせ
てくれる芝居」を第一義に求める観客としては、公演間隔が短いミモザのような劇団が、
もっと増えるといいなあ、と無責任にも思ってしまうのであった。
(蛇足)役者紹介のところで、おーみひろみさんのことを、後藤尚子ちゃんが「熟年女
優のおーみさんです!」と紹介していたが、おいおい、まだおーみさんそんな年じゃない
だろうって!いくら自分が花の女子高生だからってさ!でも、この紹介に一番うけて笑っ
ていたのは、他ならぬ私だったんですけどね。まあ、それだって私自身がミモザのリピー
ターだからこそ、個々の役者にシンパシーを持っていることによって「笑える」わけなん
であって、そういう意味でもリピーター・ファンを作るって大事なことなんだよね。
[2001年2月25日 21時15分44秒]
お名前: おーみ
西瓜 舞踏Solo 野火シリーズ 「死児」をめぐっていろ
いろと考えさせられた。談話室のほうに書いたほうがいいかな
とも思ったが、こちらにかく事にした。
余談になるが、私は芝居関係の打ち上げなどに参加していると
どうしても言うにいわれぬ違和感にさいなまれて毎回ぶちきれ
てしまうという悪癖を持っている。だから、芝居関係者の前で
は極力飲まないことにしている。
長らくこの違和感の正体について考えてきたもののさっぱり見
当がつかなかった。その原因がこの公演で明らかになったよう
な気がする。
余談は続く。私は舞踏という表現形態は演劇というよりも美術
のジャンルに属するものだという感覚を持っている。これはた
またま初めて触れた場所が美術館だったからというせいも有る
のだろうし、表現の即興性および表現者の考え方が美術に近い
ものだと感じていたからなのだと思う。
この公演は2度観た。
一度目は、タイトルにもあるように完全に舞踏の公演のつもり
で観た。舞踏表現力の弱さ(そう感じた)・即興による妙味の
少なさ・場面転換による観る側の意識の流れの断絶に、物足り
なさを感じた。
しかし、soloとはいえあの「鳥の庭園」のスタッフで作り
上げている舞台である。何が問題なのだろうと、1日考えた。
考えて自分なりに結論を出したのが、−この舞台は私が考える
ような舞踏ではなく、あくまで、演出の意識で構成された演劇
なのだ。− ということだった。確かめるべく翌日もう一度観
に行った。
この回は充分に満足できた。タイトルの「死児」のイメージは、
舞踏としては、やや類型的に過ぎたかなという気がしないでも
ないが、観る側の想像を喚起しイメージを自由にあそばせる余
地を与えてくれる表現で面白かったと思う。
また、良く考えられた構成でイメージを何層にも重ね合わせて
いくことによる表現の重量感を良く出せていたと思う。
そして、終了後西瓜さんにそのへんの事を聞いてみた。
やはり、舞踏そのものの表現もさることながら、演劇としての
客も含めた時間空間のトータルな表現を前提としてこの舞台を
考えているとの事だった。
このへんのバランス感覚が演劇表現なのかなと考えさせられて
しまった。
関係ないけど、現代美術表現なんてほとんど見せる対象を想定
せずに作り展示しているもので。展覧会前日の展示作業が終わ
れば作業の全ては完了したようなものだし、その時の観客は自
分自身でしかないから自分が理解でき感動できる表現であれば
一般的には理解しにくいものでも当然アリなわけで。
そこでは、全体をまとめようとか楽しんでもらおうとかいう気
は無くて、どこか1点でも突出したものが出せれば良いといっ
た感覚で作る。
昨年1年間いろいろな劇団を観てきて一番感じたのは、この突
出した個性をこじんまりまとめた表現の枠に収めてしまい、表
現の印象が皆似たり寄ったりになってしまっていることだ。こ
れについて私はたいへんにもったいない事だと思っているし、
この考え方の差が違和感の原因なのかなと思っている。
演劇とは?表現とは?現代性とは?またまた、考えに沈む毎日
ではある。
[2001年1月14日 2時19分39秒]