2000年後半劇評バックナンバー

2000年前半バックナンバー



目次へ


西瓜舞踏Solo野火シリーズ「死児」 

お名前: おーみ   

西瓜 舞踏Solo  野火シリーズ 「死児」をめぐっていろ
いろと考えさせられた。談話室のほうに書いたほうがいいかな
とも思ったが、こちらにかく事にした。
 
 
余談になるが、私は芝居関係の打ち上げなどに参加していると
どうしても言うにいわれぬ違和感にさいなまれて毎回ぶちきれ
てしまうという悪癖を持っている。だから、芝居関係者の前で
は極力飲まないことにしている。
長らくこの違和感の正体について考えてきたもののさっぱり見
当がつかなかった。その原因がこの公演で明らかになったよう
な気がする。
 
余談は続く。私は舞踏という表現形態は演劇というよりも美術
のジャンルに属するものだという感覚を持っている。これはた
またま初めて触れた場所が美術館だったからというせいも有る
のだろうし、表現の即興性および表現者の考え方が美術に近い
ものだと感じていたからなのだと思う。
 
この公演は2度観た。
 
一度目は、タイトルにもあるように完全に舞踏の公演のつもり
で観た。舞踏表現力の弱さ(そう感じた)・即興による妙味の
少なさ・場面転換による観る側の意識の流れの断絶に、物足り
なさを感じた。
しかし、soloとはいえあの「鳥の庭園」のスタッフで作り
上げている舞台である。何が問題なのだろうと、1日考えた。
考えて自分なりに結論を出したのが、−この舞台は私が考える
ような舞踏ではなく、あくまで、演出の意識で構成された演劇
なのだ。− ということだった。確かめるべく翌日もう一度観
に行った。
この回は充分に満足できた。タイトルの「死児」のイメージは、
舞踏としては、やや類型的に過ぎたかなという気がしないでも
ないが、観る側の想像を喚起しイメージを自由にあそばせる余
地を与えてくれる表現で面白かったと思う。
また、良く考えられた構成でイメージを何層にも重ね合わせて
いくことによる表現の重量感を良く出せていたと思う。
 
そして、終了後西瓜さんにそのへんの事を聞いてみた。
やはり、舞踏そのものの表現もさることながら、演劇としての
客も含めた時間空間のトータルな表現を前提としてこの舞台を
考えているとの事だった。
このへんのバランス感覚が演劇表現なのかなと考えさせられて
しまった。
 
関係ないけど、現代美術表現なんてほとんど見せる対象を想定
せずに作り展示しているもので。展覧会前日の展示作業が終わ
れば作業の全ては完了したようなものだし、その時の観客は自
分自身でしかないから自分が理解でき感動できる表現であれば
一般的には理解しにくいものでも当然アリなわけで。
そこでは、全体をまとめようとか楽しんでもらおうとかいう気
は無くて、どこか1点でも突出したものが出せれば良いといっ
た感