2000年後半劇評バックナンバー

2000年前半バックナンバー



目次へ


西瓜舞踏Solo野火シリーズ「死児」 

お名前: おーみ   

西瓜 舞踏Solo  野火シリーズ 「死児」をめぐっていろ
いろと考えさせられた。談話室のほうに書いたほうがいいかな
とも思ったが、こちらにかく事にした。
 
 
余談になるが、私は芝居関係の打ち上げなどに参加していると
どうしても言うにいわれぬ違和感にさいなまれて毎回ぶちきれ
てしまうという悪癖を持っている。だから、芝居関係者の前で
は極力飲まないことにしている。
長らくこの違和感の正体について考えてきたもののさっぱり見
当がつかなかった。その原因がこの公演で明らかになったよう
な気がする。
 
余談は続く。私は舞踏という表現形態は演劇というよりも美術
のジャンルに属するものだという感覚を持っている。これはた
またま初めて触れた場所が美術館だったからというせいも有る
のだろうし、表現の即興性および表現者の考え方が美術に近い
ものだと感じていたからなのだと思う。
 
この公演は2度観た。
 
一度目は、タイトルにもあるように完全に舞踏の公演のつもり
で観た。舞踏表現力の弱さ(そう感じた)・即興による妙味の
少なさ・場面転換による観る側の意識の流れの断絶に、物足り
なさを感じた。
しかし、soloとはいえあの「鳥の庭園」のスタッフで作り
上げている舞台である。何が問題なのだろうと、1日考えた。
考えて自分なりに結論を出したのが、−この舞台は私が考える
ような舞踏ではなく、あくまで、演出の意識で構成された演劇
なのだ。− ということだった。確かめるべく翌日もう一度観
に行った。
この回は充分に満足できた。タイトルの「死児」のイメージは、
舞踏としては、やや類型的に過ぎたかなという気がしないでも
ないが、観る側の想像を喚起しイメージを自由にあそばせる余
地を与えてくれる表現で面白かったと思う。
また、良く考えられた構成でイメージを何層にも重ね合わせて
いくことによる表現の重量感を良く出せていたと思う。
 
そして、終了後西瓜さんにそのへんの事を聞いてみた。
やはり、舞踏そのものの表現もさることながら、演劇としての
客も含めた時間空間のトータルな表現を前提としてこの舞台を
考えているとの事だった。
このへんのバランス感覚が演劇表現なのかなと考えさせられて
しまった。
 
関係ないけど、現代美術表現なんてほとんど見せる対象を想定
せずに作り展示しているもので。展覧会前日の展示作業が終わ
れば作業の全ては完了したようなものだし、その時の観客は自
分自身でしかないから自分が理解でき感動できる表現であれば
一般的には理解しにくいものでも当然アリなわけで。
そこでは、全体をまとめようとか楽しんでもらおうとかいう気
は無くて、どこか1点でも突出したものが出せれば良いといっ
た感覚で作る。
 
昨年1年間いろいろな劇団を観てきて一番感じたのは、この突
出した個性をこじんまりまとめた表現の枠に収めてしまい、表
現の印象が皆似たり寄ったりになってしまっていることだ。こ
れについて私はたいへんにもったいない事だと思っているし、
この考え方の差が違和感の原因なのかなと思っている。
 
演劇とは?表現とは?現代性とは?またまた、考えに沈む毎日
ではある。
 

[2001年1月14日 2時19分39秒]
目次へ
劇団ピアス「月光」

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 今まで松田正隆の作品を中心に「目の前で繰り広げられる人間ドラマ」「人と人との関係
や呼吸を中心」に公演して来た「劇団ピアス」が、なぜ今11回公演で初のオリジナル作品に
挑戦しようとしたのか? にすごく興味があった。
 渡辺ケンの新作であるこの作品は、なぞを含ませながら観客に興味を持たせて引き込む
という計算された巧みな作りにしている。隆司がなぜ離婚したのか? 今どのような仕事を
しているのか? 永井とは何物なのか? それらのなぞは決して一気には明らかにされない。
ジグソーパズルのように、徐々に「ひとつ」「ひとつ」と見えてくる。そして、全てが明らかに
された時、主人公の死という形で幕が下りる。
 「劇団ピアス」は、私が観た限りにおいては、冒頭に書いたような劇団の姿勢として
「事件が起きる」「悪に手を染める」というようなドラマチックな内容の芝居はなかった。
だから悪いとか良いとかいうつもりはない。違和感を持ったことは事実ではあるが……。
ラストで何かが起こるとは予想できた。もしかしたら、達也に殺されるのでは? と一瞬
考えはしたが、「まさか」と否定していた。それはなぜか。達也が隆司を殺すほど思い詰めて
いたと観客に納得させるほどの説得力ある伏線があまりに弱過ぎる。ドジを踏んだ達也を責める
隆司の責め方は迫力に欠けているし、あの場面では、達也に達也なりの言い分を観客に示す
べきである。その言い分と、隆司が責めなくてはならない立場との対比をはっきり明示する
べきである。
そのように書き改めての再演を望む。その際には、もっとテンポよくするべきだろう。
是非再演を。初のオリジナル作品が「劇団ピアス」の財産作品になるかもしれない。
オリジナル作品のへの挑戦は成功と言える。
スライドの使い方も、少しもくにならずに、気が利いていた。
来年12月上演予定の新作にも期待する。
                                            3日観る
 

[2001年1月11日 22時15分38秒]

目次へ


もしもしガシャ〜ン「コーヤコーヤ星」 

お名前: おーみ   

12/23〜12/31まで、7回公演。まあ、ロングランといえるでしょう。
もしもしガシャーンの敢闘精神をたたえたいと思う。
台本はよく考えられていると思うしナオ君らしさも垣間見えるけれど
印象としてはまだまだ第一稿であり推敲の余地はおおいに残されてい
ると感じた。無駄だと感じたり前後の脈絡がわからなかったりするシ
ーンがあったと思う。結果的にそれがリズム感やテンポを損ねる原因
となっていて、とりつくしまの無さや芝居の中にのめり込めない感じ
につながっていたと思う。
この点は何度でも改訂を繰り返して練り上げていくことで良いものに
仕上げていくことが可能であると思う。新作を次々に発表していくの
もひとつのスタイルだとは思うけど、表現の作業というのは、やりっ
ぱなしにしておくと自分の作品に自分自身が嫌われて先に進めなくな
ることがあるので気をつけた方が良いと思う。
 
たかはしみちこ君は相変わらず熱演でした。でも彼女はいい女優さん
だとは思うんだけど、ここにi.q150の丹野久美子君のような洒
脱さが加わって表現の幅が広がったら最強なんだけどな、と思うのは
ないものねだりなのだろうか。
ともあれ、個人的にはしばらく目が離せないしどこまでも突っ走って
くれる事を願わずにはいられない劇団である。
 

[2001年1月14日 2時27分10秒]

お名前: W.S   

 12月28日(木)に観に行ってきました。2時間以上にわたる長い芝居で、予約席をつく
ってもらったのですが、地べたの演技が観ずらく、一緒に行った高校生ともどもほとんど立っ
て観劇しました。やはり、そういった観点から言っても、やや観客に対する配慮に欠けてい
る。前半のストーリーが進行しない場面はもう少しつめて1時間30分程度にすることができ
るだろうと思う。休憩なしで観客を何分なら座らせておくことが可能か。今年見た演劇の中で
そういったことに大変鈍感な、作る側の都合しか考えていないような演劇というのが数々あり
つまらないことと思うかもしれないが、入場料をいくらにするかを考えるのとと同等に大切だ
と感じている僕にはは大変不満な劇団が多く残念でした。
 さて、本論に入りたいと思うのですが、この作品は3つのストーリーが平行して、絡み合う
ことなく進んでいくという設定となっています。最後に何かからんでくるのかと期待をもたせ
つつも、中心になる強盗のシーンを、もうひとつの家族がテレビドラマとして見ている位しか
関連性がない。見終わったあとそれが大変不満だったのですが、今思うにこれらの3つのスト
ーリーが独立でなければならない重要な要素を作者は提示していたのではないかと思ったので
ある。今日も公演があるので、詳しくは書かないが、3つの男女のストーリーは、僕の解釈で
はすべて現代の中に存在しながらも、どれも絡み合うことのできない日常なのである。すなわ
ち舞台奥でくり広げられる、奥さんの「にくじゃが」を愛する、一見亭主関白を装いながらも、
奥さんの尻に引かれているといった、昭和30年代的な「3丁目の夕日」的な夫婦の生活。
女が男に何かを期待し、すがりながら偽りの共同生活を営もうとする、昭和40年〜50年代
的な男女関係。そして、のっぺりした時代の流れに逆らうことなく、好きだという強い感情を
自覚できないが、何となくまさに何となく共感し一緒にだらだらと生活を続けてしまう、幕開
けの男女の話。くだらないギャグを言い合うことによってしかコミュニケーションをとれない
悲劇。この最初の30分程度の男女関係に共感をし、笑っていながらも空しい感覚をお覚えた
のは僕だけではなかったように思われる。
 とにかく、この3つのストーリーは現代の我々の日常の中にまさに存在する。存在するがそ
れらは互いに分かり合うことなく、自分がよければそれでいいじゃないという具合にそれぞれ
の部屋のの中で自己完結しようとする。僕はここに作者の鋭さを感じたのだが皆さんはどう思
ったのでしょうか?
 私が勝手に解釈すると、やはり作者や劇団の方々がもっとも共感したいのは真中の銀行強盗
のシーンで繰り広げられる、互いに求め合う(実は求めているのは女の方だけである)男女の
関係ではないかと思われる。先ほど書いたように実はそれはもう現代的ではないことを十分に
知っているからこそ、テレビドラマや演歌の世界にしかもう存在しないんだよと言わんばかり
に描かれているのだろう。だから、クライマックスが近くなり、舞台が緊張してきても、相変
わらず緊張感のカケラモ感じさせない、テレビを見ている親父がしっかりと映し出されてい
るし、観客も緊張したクライマックスにしっかりとのめり込むことなく、これはしょせん作り
事なのさという感覚で観るしかないのである。しかし、それで本当にいいのだろうか。結局最
後に男が叫ぶ女というのは、男に何も求めないが共通感覚というだけで男の傍にいる例の最初
のシーンの女のような存在なのだと思うのだが、作者側が最初の男女の関係に完全に共感して
いるのではないことは劇の作り方などからも伝わって来た。真中の銀行強盗のシーンに出てく
る男女関係がまだこの世にあるんじゃないかという思いも伝わってきた。男を信じ、求め、そ
して心を通じ合わせたい。「神田川」的な男女関係がまだ存在して欲しいと願いながらも、現
実にそんなものは消滅しつつあるし、期待なんかしちゃいけないんだと現実を突きつけられて
いるような思いを僕は感じたのである。
 また、この3つのストーリーに共通して言えることは、男の無責任さというか何も考えてい
ない、女次第で流されている様子である。少なくとも昭和までは、「女は男次第」という言葉
があったが、実は今も昔も男は女次第なんだなという現実もつきつけられたような気がして、
心が痛い思いでした。
 しかし、もし僕の想像が当たっていたとしたら、作り手は、なぜそんなに照れてしまうのだ
ろうと思うのでした。演劇を作る側が現実の前で現実に迎合してしまう姿勢というものに僕は
どうも作り手側の一人としてやはり共感できないものを感じる。こういう時代だからこそ、照
れないで本来男女ってこうあって欲しいと作者が思っていることを堂々と提示して欲しいと思う。
そのことで、古臭いとか共感できないとか言われるのならまだ分かる。でも、やはり、こ
の芝居は現実から逃げているだけではないかと思われて大変不満なのでした。
 最後に、客席の前方で大笑いをしていた方々。役者があなたの友人なのかどうかは分かり
ませんし、サクラを頼まれたのかも分かりません。しかし、あなた方の笑い方はあまりにも
わざとらしく後ろの観客はすっかり芝居からひいてしまいました。もう少し他の客もいると
いう意識を持って笑ってください。劇団とは関係ないかもしれませんが、客のマナーの悪さ
を感じて不愉快だったのは僕だけではなかったようです。せっかくのいい公演だったのに大
変残念です。
 

[2000年12月31日 9時12分58秒]

お名前: アイドル評@太田   

 本作には、テーマというか教訓とも呼ぶべき内容が、芝居を見終わったあと複数存在す
る構造となっている芝居であった。その中のどの教訓が一番重要と思うかは、見る人によ
って異なってくるものと思われるが、太田という人間の解釈で言わせていただければ(と
いうか、そもそも、劇評というものを突き詰めていけば、個人の主観・解釈でしか書きよ
うがないものなのであるが)本作一番のテーマは、DM葉書に書いてあった「運命に逆ら
いたい」という言葉に関わってくるものだと思う。つまり、我々の運命というものは既に
定まったものであって、我々はその決まっている運命をなぞって一生を送っているに過ぎ
ないのではないか?、という主張が、本作のテーマだと思うのだ。
 なぜ、私がそのように思ったかについて、具体的なストーリーと照らし合わせて書いて
しまうと、明日も公演が残っていることを考えると、いわばネタ晴らしを明日見に行く予
定のお客さんにしてしまうことになるので、ここでは書かないでおく。でも、今日までに
本作を見たお客さんであれば、「ああ、あの部分で太田はそう感じたんだな。」とおそら
く御理解いただけるだろうし、明日見に行く予定のお客さんも、芝居を見ていく過程で「な
るほど。太田が昨日HPに書いていたのは、この部分のことか。」となることと思う。と
いうわけで、具体的なストーリーは割愛して、このテーマに対する私の考えを続けて書い
ていくこととする。
 このテーマに対する私の考え方は、「全くその通りだ。でも、だからどうした?」とい
うものである。まず、前段の「全くその通りだ。」について。これについては、「いや、
その人その人の努力によって運命は変えられる!」と反論してくる人が出てくることと思
う。しかし、私が思うに、本作のテーマは、その反論すら折り込み済みであるのだ。つま
り、「努力によって運命を変えよう」とする人は、一生懸命努力するタイプの人間として、
その人の人格形成にあたっての環境が彼・彼女をそうさせたのであり、そのような環境で
すら運命的なものである、という考えが本作からは滲み出るように感じられたからである。
おそらく、そう考えてしまうのは、社会というものの大きさと自分というものの小ささと
の比較による閉塞感・絶望感なのだろう。いわゆる、アメリカン・ドリームともいうべき
立身出世物語なんてのは、それが珍しいものだからこそドラマの題材にされやすいものな
のであり、現実にそうゴロゴロ転がっているほど甘いものじゃない、というのはそれこそ
我々が日々実感として持っていることであろう。その意味で、私はこのテーマに対して「そ
の通りだ。」と、まず肯くのである。
 しかし、その現状認識で一致したとして、そこから出てきた「空しさ」や「絶望感」に
対してどう対処していくかを考えるのが、演劇も含めた文学・芸術・あるいは哲学の役割
ではないのか?という問いかけが、私の頭には続いてくるのである。そこへ、ただ「絶望
感」だけを裸のままで投げ出されても、観客としては途方に暮れるしかないのである。結
果、「そんなことは、あなたに言われなくてもわかっているよ。問題は、むしろそこから
生じた『絶望感』を、我々がどう克服していくかじゃないの?そのヒントを探したいから
こそ、僕はこうしてあなたの芝居を見に来てるんだよ。」と、私などは作者に文句の一つ
も言いたくなってしまうわけである。つまり、後段の「だからどうした?」とは、そうい
う意味なのである。
 
 話題を役者に移そう。私が昨年、本作の主演女優・たかはしみちこさんについて高い評
価を当HPで述べ、彼女についての「女優論」まで書いたことを覚えていらっしゃる方も
おられると思う。そこで、「その後の彼女」ということで、少々書いてみたい。
 今回の彼女の演技を見て思ったのは、「うまくなったけど、引き出し減ったんじゃな
い?」というものだ。そう感じたのは、今回の演技の内容が、秋にやった「蒲田行進曲」
で見られた「殺伐とした怖い女」に非常に近いものに感じられたからである。そして、こ
の種の演技は、やはりつかの「熱海殺人事件」でのものにまでさかのぼることができるも
のである。この、つかの芝居という一連の流れで見ていくと、彼女の演技はより深化して
いるように見える。その意味では、高く評価すべきであろう。しかし一方で彼女は、昨年
末の、もしもしガシャーン旗揚げ公演「逃げようよ・そ・そ」や、あるいは一昨年の劇団
からんこでの「埋み火の駅」などで見せた、別の役作りも持っていたはずなのだ。それは、
やはり表面上は怒りっぽくはあるが、その内面は淋しがり屋で人なつっこくって・・・、
という、いわば「共感できる弱さ」が滲み出るような役作りである。私の場合、つかの芝
居で見せる彼女の演技は、つかの芝居の時にやってくれればいいし、つか以外の芝居の時
はもう一つの役作りを見せて欲しいなあ、という気持ちが正直あったわけである。
 もちろん、「殺伐とした怖い女」にも、その内面には弱さ・淋しさがあり、それを押し
隠すための「仮面」があの性格設定なのだろうなあ、とは頭では理解できる。しかし、あ
まりに「殺伐さ」が前面に出過ぎてしまうと、こちらはそれに対する恐怖感からまず引い
てしまう感情が先に立ってしまい、その内面の弱さまで感じる余裕が、正直持てなくなっ
てしまうのだ。
 まあ、これはもしかしたら「弱っちい顔してたら、この厳しい世の中渡っていけないの
よ!」という彼女の心境の変化が演技面でもあらわれているということかもしれないし、
それはもしかしたら、彼女にとっては「精神的成長」なのかもしれない。そして、太田の
理想とする彼女の演技というものは、所詮は観客側からの身勝手な願望に過ぎないのだろ
う。そう考えていくと、彼女はこれからも彼女なりに自分の役者としての道を究めていく
だろうし、それが太田の望む方向ではないにしても、両者は「他者」なのだから仕方がな
いのだ、という極めて当たり前の結論に達しざるを得なくなる。演劇を見るということは
(あるいは他者と接するということ全般にいえることなのだろうだが)、世の中って自分
と同じような価値観を持つ人間ばかりではないんだな、ということに改めて気づくことで
もあるのだ。何を当たり前なことを!と、今これを読んで思われる方もたくさんおられる
だろうと思う。私も、頭では重々承知していることではある。しかし、やはり「頭で理解」
することと、「実感として感じる」ことは、やはり違うものがあるし、やはり後者に立ち
至った時というのは、結構悲しい気分になってしまわざるを得ないものなのであった(ま
あ、愚痴といってしまえばそれまでですが・苦笑)。
 

[2000年12月30日 20時47分9秒]
目次へ


SENDAI IKUEI THEATRE CLUB「MOON」VersionII

お名前: むささび   

この「MOON」という作品のあらすじを簡単にまとめると文芸部の少女が小説を書いて
いるのだけど、その内容が自分の忘れていた過去の記憶を書き上げているもので、
その場に集まった人達も実は過去に繋がりのあった人たちといった関係にいたという
事が判っていく、そして文芸部の教室であったその場所は教室ではなく、パラレルワールドだった。
 自分の中で忘れたかった嫌な記憶(なのかな?)をあえて小説として完成させることで
自分自身を振り返るといったものなのだと感じました。このストーリーは特にラストが抽象的で
ハッピーエンドなのだろうけど、ラストにあった、ここちよい空間でのバーチャル学園祭という
言葉が私の中では少し理解し辛いものがありました。しかし劇全体としてはバランスのとれた
いい内容だと思いました。
 
 劇のストーリー以外の部分として、ちょっと気になったところですと、
男2の役者の方は少しオカマっけが入ったギャグキャラとして出ていましたが、冷めていたというか
本人自身がまだ自分を捨てきれていない、もしくは(実際は面白い方なのかどうかは判らない
ですが)そういったキャラは似合わないのではないか、ギャグセンスにも色々な種類があるので
もう少しちがった位置にしても良かったのではないかという気がしました。
 これは私自身の問題なのですが、私は芝居じみてる演技があまり好きではありません。
演劇というのは舞台的な喋り方をしてこそなのか自然な喋りでいいのかが正直よく判らないのですが
育英さんの劇ではいかにも芝居的な喋り方、特に最初の方はちょっとそれが多くて、
もっと自然に、何も考えずに喋っていいと思う所があるのですが、なんか段取り通りというか
言葉が決まっているというか。それがちょっと気になりました。
 劇の最後の方で役者の方が噛んでしまったときに『カンでるし。』というセリフがありましたが
これは結構好きでした。このセリフはあらかじめ台本に書いてあったのか、アドリブだったのかは
分かりませんが(多分アドリブでしょう)こういうセリフは大好きです。その人の演技の柔軟性が 
よく見えて。私はアドリブが効かない人間なのでああいうアドリブ旺盛な方は羨ましかったです。
しかしスタッフは慌てるでしょうけど(笑)
 

[2000年12月26日 3時45分37秒]

<お名前: アイドル評@太田   

 本作は3月・単独公演での「MOON」、10月・高校演劇コンクールでの「僕らは水
面に浮かぶ木の葉のように」をバージョン・アップした再々演であった。僕は3月公演は
見ていないので、10月公演との比較でしか語れないことを、まず御了承いただきたい。
 10月のコンクールを見た時に僕が感じたことは、役者が絶叫調であることによって、
ナチュラルさが失われており、芝居の中に観客である自分が没入しきれなかったというこ
とと、本来1時間以上かかる公演だったのが、コンクールの制限時間に合わせるためにカ
ットがなされており、ストーリーがやや舌足らず気味になっていたのではないか、という
不満だった。今回の公演では、その反省をふまえたのであろう、役者のセリフ回しも以前
に比べると、だいぶ自然な感じになっていたし(それでも冒頭の部室での生徒会長登場の
シーンなど、まだ少々うるさいかなあ、と思われる箇所はあったんだけど・・・)、また、
制限時間を気にせずにすむ単独公演ということもあって、1時間半の公演時間の中で、ス
トーリーのつながりがより丁寧に描かれ、観客である自分の頭の中に、よりわかりやすく
物語が入ってきたように感じられた。
 しかし、本作を見終わったあとに僕の心に残ったものは、「感動」とか「カタルシス」
といったものではなく、むしろ「暗鬱」とでも表現したくなるような感情なのであった。
つまり、僕が秋に前作を見て感動できなかったのは、役者の技術的部分が原因であり、ス
トーリー自体には自分が共感できる部分が本当は多いのだろう、と予想していたものが、
実はそうではなくて、ストーリーそのもの自体が、自分の気持ちに「感動」を起こさせる
ものではなかった、ということが、逆に芝居の技量向上によって明らかになってしまった
わけなのだ。どういうことか、以下に説明しよう。
 本作の主人公は、いわゆる「引きこもり」の少女である。彼女は文芸部に所属しており、
学園祭に向けて自分の半生を描いた小説を書いていく、という形でストーリーは進んでい
く。その小説によると、彼女の小・中学校時代は、両親の彼女の成績や生活態度に対する
強い期待が、彼女にとってはずっとプレッシャーであったことが明らかになっていく。つ
まり、本来家族・両親というものは、自分という存在を無条件で受け入れてくれる「居場
所」「ホームベース」であるべきはずなのに、実際は「私立に入学できるよい成績」「生
活態度のよい(万引きなんかしない)、いい子」である、という条件付きでしか、自分は
愛されない、ということが、おそらく彼女に「自分を愛してくれる人はどこにもいない」
という絶望感になって、彼女を「引きこもり」に向かわせていったのだろう、という推測
が見えてくる展開となっているわけだ。
 僕はこのテーマに広瀬高校の「家ジャック」を重ね合わせずに入られない。あの作品も、
表面的には仲むつまじいように見えながら、実際は仮面家族となっている家庭が登場した
が、あの作品のプログラムで、演出の言葉に「今の私たちの思いです。誰もが一度は感じ
たことのあることだと思います。」とあったことが、未だに強く僕の心に残っている。つ
まり、受験勉強という誰もが一度は通る道の中で、自分の親が「勉強ができる、いい子」
という条件付きでしか自分を評価してくれない、という不安感を、多かれ少なかれ誰もが
持っているのではないか(広瀬の場合は、受験が直接の原因ではなかったが、親が自分の
ことに精一杯で、子供に全幅の愛情を注いでいない、という問題が出ていた)。それで、
「自分は愛されていない」という不安感を思春期以降〜大人になっても持ち続る人間は、
ある者は、いわゆるアダルト・チルドレン的になって、「自分を愛してくれる人」を求め
て右往左往する人生を送るのだろうし、またある者は、本作の主人公のように「愛」を半
ばあきらめて、「引きこもり」になっていくのだろう。
 さて、僕が「暗鬱」な気分になったのはなぜか、ということと、上記の分析がどう関係
あるかというと、広瀬の演出さんが「誰もが一度は感じたこと」といったように、僕にも
自分に「アダルト・チルドレン」的傾向があるのではないか?、と思い当たる節がある人
間なのである。つまり、僕が年間何十本と演劇をそれこそ憑かれたように見まくるのは、
自分の「居場所」はどこにあるのだろう?自分が「幸せ」になるヒントはどこにあるのだ
ろう?という視点で、演劇を見ているからなのである。だから、自分に似たような人間が
「居場所」を見つけるような作品を見ると、ついつい涙が出てしまうほど感動してしまう
わけだ(例えば、「アナログ・ノート」のミイが、チョコレイトクッキーを食べて「おい
しい」と涙を流すのは、単にクッキーがおいしいからではなく、そこに、おいしいクッキ
ーを作ってくれる「仲間」「居場所」を発見したからこそなのであり、まさにその部分に
僕は感動するのである)。だが、「引きこもり」の人は、そういう居場所を求めるために
右往左往をしない。本当は欲しいのに、「幸せなんて、この世にはないんだ」とあきらめ
ているかのようだ。そして、実はアダルトチルドレン的右往左往型の僕も、心のどこかで
は、「今、僕はこの作品(例えばアナログ・ノート)にすごく感動してるけど、本当にこ
ういう幸せを実感できる居場所って、現実にはないんじゃないのかな?」という疑問が、
やっぱり心のどこかに残っている。つまり、僕が本作に「感動」ではなく「暗鬱」を感じ
るのは、本作が、まさに「現実」を突きつけているように感じられるからなのだ。
 確かに、作品が素晴らしいものとして成立するには、リアルさは必要である。しかし、
右往左往型の観客である自分は、ある種「救い」を求めて芝居に足を運んでいることも、
また事実だ。もちろん、あまりに嘘臭いハッピー・エンドでは、いくら感動を求める自分
だって鼻白んでしまう。リアルでありつつ、なおかつ救いがある作品。これは実は、作り
手にとっては、ものすごくアクロバティックに難しい課題といえるかもしれない。その意
味で本作は、リアルさを強く感じさせる分、観客である僕に「感動」ではなく、苦い「暗
鬱」を与えてくれた、と言えるだろう。もちろん、嘘臭いハッピー・エンドに持っていか
ないという作り手側の姿勢に対しては、誠実さを感じ、敬意を表するものではあるのだが。
 ただ、これは実は僕の思い違いで、本当は作者はこの作品をハッピー・エンドとして作
ったつもりなのかもしれない。つまり、引きこもった部屋での中で、インターネットを通
すことによって新たな「仲間」(父親を含む)と出会うことで、彼女は「居場所」を見つ
けた、というのが、実は本作の明るい結論なのかもしれない。しかし、それにしては、な
ぜ彼女はインターネットでチャットをしている時や、あるいはバーチャルな文芸部の部室
で仲間たちと会話しているときに、全然笑顔を見せないのだろう?彼女がそうした「場」
にいる時も、暗い表情をしていることが、僕には安易なハッピー・エンドには持っていか
ないつもりだな、一筋縄ではいかない物語だな、と構えた気持ちにさせてしまうのである。
 やっぱり、インターネットばっかりやって引きこもっているより、外の世界に復帰する
ことが「いいこと」という気持ちが彼女の中に強くあるから、外の世界に出る可能性を匂
わせつつも、ラストでも外へ出ない彼女は笑顔を見せないまま物語は終わる、ということ
なのだろうか?でも、もう「がんばれ」という言葉は彼女に対しては言うべきではない、
と物語の中で周りの人間が言うシーンがあった。「外へ出る」ということが「がんばる」
ということと一致していたら?「外へ出る」=「いいこと」という考え自体が、実は自明
のように見えて、本当は彼女にとって「正しい」ことでないとしたら?でも、やっぱり外
へずっと出ないというのはいけないことなんじゃないか?という思いとのジレンマが、観
客である僕までをも、ラストにハッピー・エンドを感じさせず、逆に重苦しい気持ちにさ
せてしまったのだろう、と思うのだ。 
 

[2000年12月24日 23時56分40秒]

目次へ


シアタームーブメント仙台V「イヌの仇討」 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

作者の意図が伝わらない
 
 「この芝居は、ほとんどの人が『主人公は大石内蔵助』として知っている話を
『主人公は吉良上野介』というふうに主人公を変えたところに面白味がある」と
しゃべっていた人がいた。「その人は」と、本来なら名前を明らかにするべきだろうが、
その人はこの芝居作りに大きく係わった人なので、その人の名誉のためにも明らかに
しない。作者は、「憎まれ者」を主人公にして面白味をねらってこの芝居を書いた
のではない。出来上がった芝居からは、作者の真の意図が明確に伝わって来なかった。
作者の「歯ぎしりの音」が、聞こえてくるようだ。
 公演パンフレットの「作品解説」に、「井上ひさし氏は『長屋の仇討』で、
江戸時代に一般的だった「親の敵を子が討つ」という仇討を、ごくごく普通の人が
巻き込まれる「特別な一日として」描きたかったということである。しかしそれは
『イヌの仇討』となっても同じであろう。吉良上野介にとっても、普通に日常生活を
送っていた中での『特別な一日』がこの日であったのだから」と書いている。観劇前に
これを読んで私は悔しさで歯ぎしりした。この作品を、このような受け止め方で作られた
のではたまったものでない。作品の「出来」に、大きな不安を持ちながら芝居と向き合う
ことになった。果たして、作品は「作者の意図はどこへやら」となり、単なる「変更した
主人公の特別な一日劇」になっていたのである。
 作者が「長屋の仇討」という題で書いたものを、《内容を変更して》「イヌの仇討」
に変えたところに大きな意味がある。解説者は「『長屋の仇討』が、『イヌの仇討』に
なっても同じであろう」と書いてるが、とんでもない。この作品は、「特別な一日」とかと
括ってしまえる作品ではない。イヌが飼い主を仇討つという大変な話なのである。
作者にとってあの芝居で言いたかったのは、仇討つのは「長屋」ではなく「犬」でもなく
「イヌ」でなければならなかったのである。上野介は、春斎から大石内蔵助の行動を聞き、
大石の意図に気付き、「イヌ」であった自分を知り、「イヌ」を捨て、「人間」になる為に、
飛び出していくのである。飛び出して行く上野介のセリフ「さあ、上野介はこれより生きに
行くぞ」に、作者のこの芝居への意図が込められているのである。上野介は、大石に
討たれることで、「イヌ」から「人間」に生きるのである。又、上野介を討つことで大石は、
実は「お上」を討ったのである。上野介と大石との《合作お上討ち》とも言えよう。
 権力者は権力保持のためには《利用し使い捨てる》。いつの世も同じである。
 ラストの場面を、作者は台本に上野介は「ゆっくりと戸口から出て行く」と書いている。
観劇した人は、はたしてあの場面を上野介は「討たれに行く」と観ただろうか。
「討ちに行く」と観たのではないか。私には残念ながら「討ちに行く」としか見えなかった。
演出家に聞いてみたい。いや、聞く必要は無い。パンフの「解説」を読めば明らかだから……。
 いまさら言うまでもなく、芝居つくりの基本は、作者の意図を正しく理解し、それを
観客に伝えることである。金を掛けて作った芝居が、作者の意図を伝えることが出来なかった
としたら、金のむだ使いということになる。この芝居は、金のむだ使いだったのか、そうで
なかったのか…。主催団体は、検証しなければならないだろう。
                                           22日観る
 

[2001年1月11日 22時13分23秒]

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

 かって、或いは現在も名声を欲しいままにしている宮田氏の演出とは一体どんなものなのか。
今回の観劇も、これまで同様こうした素朴な疑問を持ったまま終えた。だがこの度の私の劇評は、
プロとしての彼女または他の著名なスタッフに甚だ失礼だが、抽象的劇評を避け「このような
解釈も成り立つのではないか」と言った単刀直入な疑問をぶつけてみたいと思う。
「一」島次郎氏の舞台装置について。
 舞台全体を使わず、中央にぽつんと小綺麗な味噌部屋を設定したのは何故だろうか。また
様式美を強調しているようにとれる家屋内部の装飾は、漆喰壁に刻まれた縦横の梁の美しい
ラインで統一されているが、これは明治時代の書生さんを登場させるに相応しい設定と
勘繰られる。少なくとも未だ徳川幕府成立して百年の、赤穂討ち入り同様荒々しい時代背景を
表現しているとは到底思えない。またラストシーンの降雪にも象徴されていたように、こうした
様式美が演出の狙いであったとするならば、本来作者が意図したであろう重々しい「反逆」と
言う主題とはそぐわないような気がする。現実に衣装などは写実的手法を取っているのだから、
これまた同様の手法が効果的だったのではないか。特にセット中央に存在する四角の細い柱は、
何等の意味付けもされておらず、邪魔にこそ思えて至極残念であった。演出の解釈に徳川
二百六十年の重圧や、幕府に対する剥き出しの抵抗があったとするならば、黒くて太い粗削りな
大黒柱等を使用するなどの写実的で象徴的な使い方もあった筈である。それなら必然的に
時代考証としての役割も担えたし、舞台全体が俄然、緊張感を持って現れたのではないかと思えて
残念であった。
「二」入り口のドアの位置について。
 唯一の出入り口を舞台中央奥としたのは如何しても納得できないし、役者の演技に致命的な
影響を与えたと考えられる。つまりこのことによって、登場人物の演技に多大な制約を
もたらしたと懸念されるのである。例えば、そのため主人公である吉良の定位置が上手前面と
言う極めて可笑しな場所に追いやられてしまったが、これは吉良を主人公とさせなかった
ばかりでなく、単なる脇役に陥れてしまったように思える。我々が吉良を主人公と認識
出来たのは、皮肉にも本人が極めて不自然な動作によって舞台中央に罷り出た時だけなのである。
それは観客の視線が常に舞台中央に集まるという習性によるもので、その視界に入らない
出演者は常に脇役でしかなかったからである。また物語の進行に欠かすことの出来ない新助の
演技についても、同様の理由で極めて限られた空間しか利用できなかったように思われる。
つまり、あれだけ左右の広い舞台であったにも拘らず、役者達の演技は常に限定された
局地的スペースの利用しか許されず、その大なる責任はこの入り口の設定にこそあったと思える。
「三」高窓の利用について。
 私はこの作品の最も重要な演出上の要素は、登場人物から発する極限状況での心の葛藤では
なかったかと考えている。そしてそれは刻々進む時間との対決であり、対立する外界との緊迫した
緊張感なのである。そしてそれを表現出来る唯一の手段は、前述した出入り口と高窓だけである。
だが演出はこれについてどのような認識を持っていたのだろうか。即ち、出入り口から吹き込む
激しい吹雪等はそうした緊張感を更に高めてくれると思えるし、高窓も同様の利用の仕方が
あったはずである。更に其処から差し込む月光や日光などの光の強弱、或いは色彩の変化に
よって、この舞台に欠かすことの出来ない時間の経過を十分表現できたはずである。だが、
残念ながらこれらについて全く無防備な演出手法によって、何ら緊張感のないそれと化して
しまったのは甚だ残念であった。
「四」役者の演技について。
 仙台では有数の演技人の出演だけに、それぞれがそれなりに好演していたように思う。
だが前述の幾つかの条件が無視され、そうした外的要因が削除されていては、如何に優れた
役者であろうと演技に高度な期待を抱かせるのは困難である。つまり前述したような緊張感の
ない状況設定では、役者の演技も同様に緊張感のないものとなってしまったし、虚ろな会話と
個人芸だけに頼らざるを得ない。即ち、確認しようのないドアの向こうの世界に対する、
凄まじい苛立ちが徐々に盛り上がっていく様子を描き切れないとしたら、感動のない淡々とした
舞台に終始するのは自明の理である。
しかし、敢えて役者一人一人についても簡単に語ろう。
米沢牛氏が吉良の心情を真摯に捉えようと努力していたのは理解出来るが、余りに高齢なこの役を
演じ切るには本質的な無理があったのではないか。老人の物腰や台詞をどんなに上手く表現
していても、観客はそれだけ創り過ぎの感を抱いてしまうからなのである。金野氏の新助は
かなり面白い役どころで、彼女の良さを十分引き出していたように思える。だが舞台人として、
その声が遠くの客席にまで届いていなかったように思えたのは気の所為だろうか。逆にお三様の
絵永けい氏は、流石に重厚感ある演技と声量を披露していたが、さりとてあのような明瞭すぎる
演技は、声が戸外に漏れてしまうのではないかと心配でならなかった。つまり余りに元気すぎた
ように思えるのである。また恋愛関係にある二人の男女の存在は、物語の中に溶け込んでいるとは
思えなかったし、取って付けたような印象は演出の所為であろうと思える。
 最後になるが、あれだけ人の出入りの激しい隠れ家では、踏み締めた足跡を辿れば簡単に発見
されてしまうと思われるのだが、こうした簡単な理屈を平気でクリアしてしまう作家や関係者の
感覚を理解できないし、そうした取り組み方がこの舞台を最後まで安易なものにしてしまったように
思える。また上演された作品の評価については、観劇者の僅かな拍手に象徴されていたように
思えるのだが、それは観客のレベルが一段と向上した証であり、にもかかわらず前回同様在仙
マスコミの「素晴らしい作品」と言って誉めちぎる提灯記事のような哀れさが、またまた脳裏を
よぎって離れない。									  
2000年12月22日の舞台を観劇。
ご連絡
仙台で上演したことのある金沢市の「劇団新人類人猿」様より、以下の要項で行なわれる招待券が
届きました。劇評倶楽部のメンバーは都合で参加することが出来ませんので希望者にお譲り致します。
日	 2001年1月6日「土」と7日「日」の両日。
時間	 PM7時30分
枚数	 2枚
場所	 金沢市民芸術村里山の家。
上演作品 ハイナミュラー作「ハムレットマシーン」
連絡先	 「私の自宅」	022ー211ー1719
 

[2000年12月26日 0時20分9秒]

お名前: 水天堂    URL

 22日(金)の公演を見ました。
 シアタームーブメントは、第一回、第二回、第三回と見て、もう二度と見るまいと思って
いたのですが、色々と様子も変わったようなので見てみることにしました。
 
 観劇しての第一印象は、とにかく、「面白かった!!!」の一言に尽きます。
 井上ひさしの台本の面白さはもちろん、全体の演出も、役者の演技も、とてもレベルが高
い完成度を見せており、これまでのシアタームーブメントとは、全く別物と言っていい出来
の良さだったと思います。
 
 何故、これが今まで出来なかったのだろうか?
 出ている役者のメンバーは、あまり入れ替わっておりません。演出も、スタッフ的にも、
そうでしょう。変わったのは、台本選択の部分です。
 
 幸いなことに、そして、残念なことに、「仙台の劇作家による仙台をテーマにした作品を
題材とする」という方針が、今回はとられませんでした。
 
 今まで、シアタームーブメントに台本を書いた劇作家の方たちは、どなたも長く活動を続
けてきて、独自の世界や方法論を確立している方ばかりでした。書かれた台本は、当然、そ
のこれまでの方法論や世界観をもって書かれたものだったろうと想像されます。
 それに対し、演出や制作において目指したものは、端的に言えば、東京でやられる大劇場
での(たぶんに新劇的な)演劇であったろうと思います。(勘違いでしたらすいません。)
 この違いをぶつけ合うことは意味のあることとは思います。でも、少なくとも客として見
ていて、そのぶつけ合いが、劇作家個人の方法論や世界観を可能な限り排除した骨格だけで
作られた作品ばかりだった気がします。
 結果的に、「仙台の劇作家」や「仙台を題材に」ということにこだわる意味が全く無くな
ってしまっていたように思うのです。
 
 今回、台本に井上ひさし氏の作品が使われました。井上ひさし氏の戯曲は、演出の宮田氏
の得意分野でもあると聞いてます。
 結果的に、前回まで顕著だった、戯曲のもつ世界と作り出された作品とのズレや葛藤は見
られず、役者の演技もぴったりとはまっていました。
 
 企画としても、見通しが聞き易くなっていると思います。これまでのシアタームーブメン
トは、「地方演劇の育成」を標榜しながら、余りに中途半端な企画であったと思います。そ
れに比べれば、だいぶ目的がはっきりしたように思います。
 来年以降、どういう方向性をとるのかはわかりませんが、今回の方向変換は、十分評価さ
れるべきものだと思います。
 
 とにかくも、役者、スタッフの皆様、お疲れ様でした。
 良い芝居でした〜!! 
 

[2000年12月24日 21時8分21秒]
目次へ


宮城学院女子大学演劇部「If It’s」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここ2,3年の僕の年末の最大の楽しみは、宮学の12月公演を見ることである。今年

もついに、恒例のその日がやってきたのだが、相変わらずのほのぼのとした楽しい雰囲気

のお芝居で、最後まで飽きずに見させていただいたのであった。

 先の宮教の公演と同様、おそらく本公演も、見る人が見れば厳しい指摘をしたくなると

ころがたくさんあるのだろう、とは思う。しかし、そのような問題点を超えて、なおかつ

観客である僕に「楽しい!」と、ハッピーな気持ちにさせるものをこの大学の演劇部は間

違いなく持っている。では、それが何なのか?これについて、僕はこれから書こうと思う。

それは、僕の演劇を見る上での問題意識が、「いろいろアラがあっても、なおかつこの作

品を僕が面白いと思ってしまうのはなぜか?」という部分に大きく向いているからなので

ある。

 本作の主人公、菜月は画家志望の女の子である。大学を出て3年目の現在、彼女は絵に

対してスランプに陥っており、「自分から絵がなくなってしまったら、いったい何が残る

のだろう?」という悩みに苦しんでいる。そんな彼女と、大学時代からの友人であるフリ

ーターの牧乃、OLの香恵の3人が、街で出会ったある不思議な少年の超能力(?)によ

って、別の次元の世界に連れて行かれてしまう。そこは、何も存在せず、何もしなくてよ

い世界であり、その少年は菜月に「君がここにいたいと望んだから、ここに君たちを連れ

てきたんだよ」と話す。

 実は、その少年は菜月の中のネガティヴな心が作り出した、もう一人の菜月ともいえる

存在で、事実、菜月は絵に対してスランプに陥っている自分の状況を親友の香恵に話した

後、「このまま、なにもしたくない」という本音を吐露する。

 しかし、「何も存在しない・何もしなくていい」という世界は、いってみれば「死の世

界」を暗喩したものといえよう。精神的に参っているとき、人はおうおうに「自殺したい」

という思いを抱いてしまうものである。しかし、現実に死ぬことはやはりイヤだ、という

気持ちも矛盾ではあるが同時に持ち合わせているからこそ、多くの人は自殺しないで生き

続けているわけで、菜月も、一時は「ここにずっといてもいい」と思いながらも、やはり

元の世界へ戻ろう、と思い直し、もう一人の自分である少年と戦う決意をする。

 そんな菜月を助け、少年との戦いに助太刀をする不思議な少女が登場する。実は、その

少女は、以前菜月が飼っていた猫・アリスの霊なのである(だから、やはりこの世界は死

後の世界を象徴しているのだろう)。アリスや親友たちの助けにより、菜月はついに、元

の世界への帰還に成功する。

 つまり、本作は今年の高校演劇コンクールでの、白百合の「HAPPY BIRTHD

AY」と同じテーマを持つ作品なのである。現実世界は、自分にとっていいことばかりが

続くわけではない。むしろ、イヤなことの方が多いくらいだ。だから、「この世」ではな

い「幻想の世界」、あるいは「あの世」にいってしまいたい衝動に人は駆られてしまうこ

とが多い。しかし、それでもなおかつ「あの世」に行かず、「この世」に居残ろうという

気持ちにさせるのは、自分を「絵の才能」などといった限定したものによってのみ必要と

しているわけではない、全的存在を受け入れてくれる親友(あるいは飼い猫)という「居

場所」なのだ、というのが本作のテーマなのだろう。

 しかし、と私は考える。もし、そのような自分を受け入れてくれる存在がいない人間は

どうすればいいだろう?たぶん、そのような人間にとって必要なのが、「あの世」ではな

い「幻想の世界」なのである。つまり、今回の「宮学の演劇」、という存在自体が、実は

観客の僕にとっては、公演が終了すれば戻ってこれて、「あの世」ではないが「居場所」

として機能してくれる「幻想の存在」、しかもかなり居心地のいいそれだったのだ。

 宮学の芝居を見ていていつも感じるのは、何か舞台からパステルカラー、とでも形容し

たくなるような、明るく、穏やかな雰囲気だ。それは、たぶん僕がこの秋にコンクールで

見てきた、一部の女子高演劇部にも通じることなのだろうが、おそらく普段から、和気藹

々と楽しんで稽古をしているんだろうな、という感じが伝わってきて、それが見ているこ

ちら側も感応させ、なごんだ気分にさせてくれるのだと思う。

 確かに厳しい稽古をしてせっぱ詰まった状態に自分を持っていくことで、素晴らしい演

技を役者がする、ということはたくさんあるだろうし、事実そういう役者さんによって、

感動させてくれた作品だって僕も今まで何度も見てきたので、一概にこういう芝居がいい、

こういう芝居はダメ、と短絡的に結論などつけるつもりはない。しかし、和気藹々と楽し

んで稽古をしている感じが、ほのぼのと伝わってくる芝居というのも、その手の「居場所」

を求める観客にとっては、また得難い魅力であることも、また事実なのだ(もしかしたら、

彼女たちはかなり厳しい稽古をしているのかもしれないので、あまり勘違いしたことを書

くと失礼に値するかもしれない。でも、公演パンフに書いてあった「面白NG特集」を読

むと、あまりそういう感じがしないんだよネ。でも、僕にとっては、だから好き、という

面の方が強いんだけど)。

 個々の役者さんについて。主人公の親友のフリーター役で出てきた、手塚優子さんが面

白かった。大学出て3年もフリーターをやっているという設定からもわかるとおり、「明

日は明日の風が吹く」的なお気楽な性格であり、そういう「明るく元気がいいけど、ちょ

っとマヌケ」という見る者を楽しませる三の線の役作りが、ピッタリはまっていた。彼女、

去年の「センチメンタル〜」でもシローという少年の役だったが、元気のいい役が似合う

タイプなのだ。今回は特に、趣味で覚えたという催眠術を、もう一人の親友・香恵にかけ

る場面が、とても大仰かつコミカルでおかしかった(あと、ウィーンのダジャレ!)。た

だ、去年の演技に比べると、他の役者さんが静かな演技が多いのにひきずられたのか、や

や小振りになっていたようなところがちょっと残念だったが・・・。折り込みチラシに入

っていた来年3月の「学都出陣」の参加メンバーに、彼女の名前も入っていたので、今ま

で宮学の役者さんは1年に1回しか見られなかったのが不満だったが、もし3月もキャス

トで出てくれるというのであれば、今からとても楽しみである。

 それと、「幻想の世界」でボランティア活動をしている女性が、突然、ドラクエをより

面白くするには井戸から貞子を出せばいい、という話をするシーンがあるのだが、こうい

う突然関係ない話を、しかもいかにも幽霊がしゃべるように(ど〜ら〜く〜え〜は、い〜

ど〜か〜ら〜さ〜だ〜こ〜を)折り込むところが、あまりにもナンセンスで、おかしくて

仕方がなかった。ボランティアの女性は2人出ていて、どちらがこの役を演じた人なのか

よくわからないのだが(成沢綾さんの方?)、今年始めてみた顔なので、来年以降もキャ

ストでの出演を期待したい。

 そういえば、宮学の公演は、いつも3〜4人しかキャストが出てこないパターンがここ

数年続いていたのだが、今年は一挙に8人も出演していたので、少々ビックリしてしまっ

た。宮学は毎年12月と、一年に一回しか公演をしないので少々寂しく思っていたのだが、

せっかくキャストも増えたことだし、来年あたりは年2回、なんとかチャレンジしていた

だけないものだろうか?期待してますので、ぜひ、検討してみてください。 

 

[2000年12月16日 1時6分16秒]

目次へ


青葉玩具店「演宙遊戯」 

お名前: うにくりーむころっけ   

 

おもしろかったです。終わった後、あんなにじーんとした気持ちになった演劇を見たのは、

久しぶりでした。照明と音響のすばらしさと、舞台の美しさがとても印象に残りました。

何より、役者さんたちが本当に楽しそうに演じているのが、良かったと思います。

客席の上のほうに、とてもきれいなランプ(灯篭のような。)が飾ってあったりして、

観に来るお客さんのことを本当に大切に考えてくれているのだなあ、と思いました。

青葉玩具店の公演は今回で3回観ましたが、私は今回のものが一番楽しめました。

でも全ての作品に笑いと感動が込められていて、私はここの演劇が大好きです。

 

次も必ず観にいきたいと思います。

 

 

[2000年12月19日 22時45分22秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

青葉玩具店の芝居の観劇は3度目となる。

私にとっては、今回の「演宙遊戯」も期待を裏切らない素晴らしい芝居だった。

いつものストーリー展開の分かりやすさに加え、役者の身体能力の高さをよく生かした芝居

だったと思う。

 

青葉玩具店の芝居の良いところは、何も考えずに観ていられるところかもしれない。

映画を見に行くように芝居を見に行く人はまだ少ない。

芸術性や自分の主張を強調した芝居が一般うけしないのは至極当然のことだろう。

観客が何を求めているかではなく、作り手側の満足を優先させているからだ。

一般大衆の心を掴むのは老若男女誰にでも分かりやすいものではないだろうか。

そういった意味で青葉玩具店の芝居は、仙台で演劇が発展するための大きな役割を果たして

いくのではないかと思う。

 

1人の役者が多くの役を演じ分ける今回の芝居、役者不足ということではなく、役者としての

挑戦や自信といったものからきたものだろう。全体として巧く演じ分けていたと言えると思う。

特に雲雀壱志という役者は、それぞれの役に大きな特徴を持たせることで演じ分けており、

彼によって舞台上に創り出された人物は、どれも好感の持てる人物だった。

それに対し、滝田、不実、松田の3名は役の演じ分けがやや弱いと感じた。

彼らの役者としての成長により、青葉玩具店の芝居がさらに良いものとなることを期待する。

 

次回公演も楽しみだ。

 

 

[2000年12月18日 19時14分43秒]

 

 

お名前: れぽたん   

 

私も正直物足りませんでした。

青葉玩具店さんならもっとやれたんじゃ…。なんて。

なんかお芝居を見たのではなく、

青葉玩具店さんの役者を見に言ったみたいな感じでした。

それはそれで楽しんだんですがね。

私には以前見させて頂いた「life for life」

のような満足感は得られませんでした。

次に期待します。

 

 

[2000年12月18日 1時41分23秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 以前、新月列車の「誰か−STRANGER−」の劇評で、私はこんなことを書いた。

>ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

>少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいて

>い、「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさら

>に・・・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係

>性とか自分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女

>だと女子の方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因

>がある、という意見である。

 新月の「誰か−」が、その少女漫画を原作とした「他者との関係性」をテーマにした作

品だとしたら、今回の青葉玩具店の「演宙遊技」は、まさに少年漫画的・ジャンプ的作品

だったといえよう。

 「世界征服をたくらむマッドな博士と対決し、最後は勝利して世界平和に貢献する。」

身も蓋もなく言ってしまえば、本作のストーリーは今まで幾たびも少年漫画に掲載されて

きたストーリーのデジャ・ブ、焼き直しに過ぎない。もちろん、その手のストーリーがわ

かりやすく、また、善・悪の対立という、ドラマ性を生じさせやすいということから(こ

れは高校演劇コンクール県大会で、石川裕人氏が白女・後藤尚子さんにいった講評そのま

まではないか!)、何回も何回も飽きることなく作られてきたものである、ということは

理解できる。ジャンプが以前のような極端な勢いをなくしたとはいえ、何冊かの少年漫画

誌が商業ベースで成り立っているのは、そういったストーリーを面白がる読者が多数存在

しているからに他ならないからだ。しかし、今の私にはその手のわかりやすいエンタテイ

メントは、もはや物足りなく、嘘臭いものでしかなく、だからわざわざ劇評へ足を運んで

1800円の入場料を払ってまで見たいものではない。200円ちょっとでコンビニで買

えるにもかかわらず、あえて買わないものを、なんでそれ以上の手間暇を書けて見に行か

なければならないのだろう?それよりは、少女漫画に象徴されるような、複雑な人間関係

のシミュレーションゲームを読んでいた方がずっと面白いし、感情移入できる。

 これら作品のテーマは、理想を追求し、秩序を回復するための、正義の物語である。し

かし、私は、先の三高の劇評でも書いたとおり、「正義の味方」や「プラスのヒーロー」

を蘇らせることなど、例えていうなら、そこに存在しない遺跡を捏造するようなもんだ、

という現状認識を私は持っている。そんなわかりやすい「正義」が信じられるのなら、な

にも高校演劇の地方大会を見に行くために若柳や本吉まで足を運ぶような、業の深い酔狂

な真似などするわけがない。だって、私はコンビニでジャンプ読めばそれで今の生活に満

足できる、というタイプの人間ではないのだから。

 もちろん、このような反論をする人がいるかもしれない。「本作ではニセのブルース・

リーは自分がレプリカントである、という悩みを途中から抱え出す。これはアイデンティ

ティ不在という我々の現状をテーマとして扱っているということではないか?」と。しか

し、この悩みが本当に作品のテーマといえるほど掘り下げられていただろうか?結局は、

その悩みが迷いとなることによって、ニセ・ブルースリーは主人公に負けてしまう。つま

り、この悩みは作品のテーマとして作者が取り入れようとしたものというより、敵役が主

人公に負けるための原因を作るために、ご都合主義的に取り入れられたようにしか見えな

いのだ。だって、ニセ・リーはこの悩みを解決するために、自分探しの旅に出たり、引き

こもったりするわけではないんだもの(笑)。

 本作でニセ・リーはマッド博士に対して、「俺は何のために産まれてきたんだ!」と叫

ぶ。でも、「何のために産まれてきたか」なんて、すべての人間にとって「偶然」でしか

ないんだよ。自分の父親と自分の母親が何十億という世界中の男女の仲からであったのも

偶然だし、その良心のたくさんある精子と卵子の中からどれが受精したかも偶然なんだも

の。だから、私は三高の劇評でも書いたとおり、「人生に意味はない。」と考えてるし、「意

味にすがるのは弱者だ。」というニーチェの言葉を引用したのだ。

 また、作品の最後で、実は主人公もマッド博士の作ったクローン人間だった、というオ

チが付くのだが、これも観客を裏切ることによって「あっ!」と言わせるためのサービス

精神以上の強いテーマは感じられなかった。要するに、どっちも「本物」ではないという

オチは、「自分は本物だ」という強い「妄想」を持っていたものの方が、悩んでいる人間

より精神的に強い分、勝負の際は有利、という教訓を、示していることになるといえよう。

しかし、そのような強い「妄想」を持ちようがないのが、何が正しいかわからない今の時

代という現状なわけだし、逆に安易に強い「妄想」を持ってしまうことが危険であること

は、やはり三高の劇評でやはり例として出したした、オウムの一件を見れば明らかだろう。

 最後に念のため申し添えるが、私のここまで書いた劇評は、本作を見て面白かったと思

った人達の感想を否定するものではない。世の中には、同じ作品を見て「面白い」とも「面

白くない」ともとる人間が両方いることは当然のことだ。特に、本作のエンタテイメント

性は、先に述べた少年漫画を面白がる人が一定多数いるように、世の多数派の方々にとっ

て受け入れやすい面白さであることは充分理解できる。私のこの劇評は、あくまで私の内

面にとってどうだったか?と言うことについて書いているので、本作を「絶対的」レベル

で否定するものではない、ということをなにとぞ御理解いただきたい。

 

 

[2000年12月17日 21時40分51秒]

 

 

お名前: 桜井   

 

初めて書きこみします。みなさんよろしくお願いします。

青葉玩具店についてですが、初日見てきました。もう、なんて表現したら良い

のでしょう?彼らの個性的な光る演技はもちろんのこと、開場してからのラジオ番組系

のトークや、次回予告など、相変わらず斬新的な演出に、最初から最後まで、瞬きもせず

釘付けになっていました。

 

永澤真美さんの迫力ある演技力、見事でした。

 

私は芝居を見た事がほとんどありませんでしたが、青葉玩具店をきっかけに、

お芝居の楽しさを味わうことができるようになったと思います。

将来が楽しみな劇団ですね!!

 

 

[2000年12月16日 3時44分41秒]

 

 

お名前: 小泉   

 

 青葉玩具店の演劇は初めて見ました。

 

 自分はあまり演劇を見たことが無いので上手く書けませんが

本当に面白かったと思いました。ストーリーのテンポがよく、

2時間があっというまに感じられました。音楽が大きすぎて

セリフが聞き取りづらかった場面など少しありましたが、

それ以外での場面での役者の方々の声はよく通ってて

とても感情移入しやすかったと思います。

 

 少ない人数で何役もこなしていたにも関わらず、動きなどで

すぐ別な役だと気付けました。特にクローンのブルースリーの弟役の方の

演技が一番印象に残りました。空維の兄の役から弟の役に流れるように

変わった演技が素晴らしかったです。

 

 あまり思ったことを文章に出来なかったですが、本当に面白かったです。

次回作も面白そうなので期待したいと思います。

 

 

[2000年12月15日 23時50分47秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初日を見た、後2日あるのであらすじ等は見てのお楽しみとしたい。

 青葉玩具店は3回目の観劇になるが、その都度満足して返ってきた。

まだ結成2年目の団体とは思えないほどの完成度だ。

徹底したエンターティメント路線で一瞬も飽きさせずに最後まで見せる。

まず俳優ありきで、役者が本当に楽しんで演じているのがわかる。

テーマが何かを感じさせるより、彼らにとっては演劇そのものがテーマであり、

「演劇表現によって何が可能か」ということがテーマになっているようだ。

3回とも違った路線で、今回はSFアクションと言ったらいいのかもしれない。

作演出がその都度違うようで、作演出が違っても面白いのは、確かな技術に支えられているからだ。

舞台美術、音響、照明の技術は仙台屈指と言っていいだろう。

そして体の切れる、個性的な役者達。舞台技術にも、役者にも全く穴が無い。

 今回、役者達は一人何役もこなし、場面も何十という場面で成り立っているのだが、

暗転が2,3回しかなく、場面場面を見事な照明と音響でつないでいる。

舞台も中国の闘技場や城壁をイメージさせ、奥が2階建てになっていてうまく高さを使っている。

演出家が本当に観客のことを考えていて、客席に観客がいるのを感じさせてくれる。

集団としての勢いや、やる気を感じさせて、見た後すぐ誰かを見に誘いたくなるような舞台だった。

仙台のこれからの演劇を変革させてくれるような集団だと思う。

青葉玩具店の舞台は過去、あまり書き込みが無いので観客の皆さん是非感想を聞かせて下さい。

 

 

[2000年12月15日 23時0分10秒]

目次へ


宮城教育大学演劇部「ミナモノカガミ」 

お名前: 井伏銀太郎   

 

太田さん早速の書き込みありがとうございました。

面白かったか面白くなかったかと聞かれれば単純に面白かった。

笑わせようとしていて一度も笑えなかった劇団もたくさんあるのと比べると

劇中何度も笑った。

太田さんが推薦していた依子役の照井麻貴子さんが特に面白かったと思う。

 私が特に感じたのは先の文でも書いたけど、過去の物語の素晴らしさです、それだけで

芝居を作ったらいいのではないかと思ったほどだった。三島由紀夫を連想させた。

それに比べると現代の設定や、過去と現在を結びつける必然性が弱かったと思った。

現在の物語は太田さんの言う怪獣ものよりは「スケバン刑事」等のイメージが強いように感じた。

三島とスケバン刑事が混在しているように感じたのです。

 

 私は何度も劇評バトルで書いているとおり、小さいリアルなドラマの積み重ねでしか大きなドラマが

成立しないという考えなので、リアリティ−の基準ということにこだわっているのです。

 私は演劇とは、省略の芸術だと思っています。例えば室内劇においては観客側の壁が第4の壁として

省略されているわけで、時間や空間を省略していって、想像力でその省略部分を補っていくものだと

考えています。

 と言うわけで過去何度も同一空間上の本物とパントマイムの混在に対してリアリティーの基準を

(省略の基準)をどこに設定しているのかと指摘してきたのです。

何の理由もなく小道具を省略してしまっているところがあまりにも多すぎました。

思い起こしてみると、同じテーブルの上でチンチロリンの茶わんとサイコロが本物なのに、賭けている

お金が無対象だったり、本物の料理を食べているのに、飲み物が無対象演技とか、

本物の缶コーヒーを飲んでいるのに瓶ビールが無対象だったり。もっとひどいものになるとお客が

代金を本物のお札で払っているのに店の人のおつりの500円玉が無対象演技だったり。

それをなんの疑問もなく演出家が見逃しているわけです。笑い話のようだけど2,3年前まで仙台の

劇団も平気でいい加減なことをやっていたのです。

 同じ無対象でも、もしもしガシャ〜ンの「フニフニ王国」のクライマックスは素晴らしかったと

思いました。ホモのカップルの一人が自殺を図るのだけれど、台風の効果音とガラスの割れる音、

無対象でガラスを拾って自分の首に突き立てたのだが、音響や役者の集中力によって見えないガラス

が見えてきたのです。

このように演出がしっかり考えて使えばいいのだが、今回の宮教の芝居は意味なく無対象にしているとしか

思えない場面が多々ありました。

そういう技術的なところはすぐ直せるので、次回頑張って欲しいと思いました。

 

[2000年12月14日 1時21分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 井伏さんから僕に対して、井伏さんの劇評に対するコメントを求められましたので、こ

れについて述べさせていただきます。

 今回、井伏さんの御指摘のあった件につきましては、「現在の設定が安易」という部分

で意見が一致した以外は、ほぼ技術的な部分であると思うのですが、以前に「作品論か?

技術論か?」でも書きましたとおり、僕は作り手の立場に立ったことのない人間であり、

観客の視点から演劇を見続けてきた人間です。その意味で、今回井伏さんが指摘された点

につきましては、「なるほど、作り手の人はこういう視点で見ているのか。自分は見落と

していたことがたくさんあるんだなあ。しかし、言われてみれば確かにその通りではある

なあ。」と感心させられた、というのが率直な感想です。

 しかし、あえてこれは強調しておきますが、井伏さんが指摘された問題点について僕が

「全くその通りだ」と同意することが、イコール僕にとってこの作品に対する「面白かっ

た」という肯定的評価を減ずるものではないのです。

 なぜなら、例えば以前にも書きましたが、僕はクラシック音楽のファンでもあり、よく

オーケストラの演奏会を聴きに行きます。それで、プロの演奏家の方のお話を伺ってわか

ったことなのですが、僕のような素人にはわからないミスや事故が、演奏会の中では毎回

けっこうおこっているということなのです。それはきっとプロの方ならわかることだろう

し、そのプロの方がその問題点を指摘することによって、彼らの演奏がより良くなるので

あれば、それは大変けっこうなことだと思います。しかし、そのようなミスがあったこと

が後でわかったからといって、僕がそのコンサートでの演奏に対して大変感動した、とい

う事実は変わるものではないのです。

 技術はないよりあった方がいいでしょう。しかし、人が芸術を見て感動することは、必

ずしも技術的巧拙に限定されるものではない、ということもまた事実ではないでしょう

か?今述べたオーケストラの件で言えば、例えば故カラヤンについて、「表面的にはとて

も完璧な演奏をするが、中身が空虚で、作品から訴えてくるものが何もなかった」という

批評が生前からよくなされていたものでした。僕はカラヤンの演奏をライブで聴いたこと

はありませんが、確かにルーティンワークで弾いてるんじゃないか?と思わせるような外

国の「一流」オーケストラの演奏会には何度か出くわしたことがありましたし、そのオー

ケストラの演奏に比べれば技術的には稚拙であるだろうアマチュア・オーケストラの演奏

会の方に、より感動することも多いのです。

 例えば、今回の井伏さんの御指摘でいうなら、「見えないコップで水を飲んだ」とか「絵

の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出した」といった矛盾点は、僕に

とっては気にならない範囲の矛盾であり、たとえ気がついたとしてもそれによって太田と

いう人間に本作がつまらないものになるほど決定的な性質を持つミスではないから、僕の

劇評では指摘しなかったということです。もちろん、だからといって井伏さんがその件を

劇評で指摘しなくてもいい、ということではありません。井伏さんが指摘することによっ

て、宮教の方々がよりよい芝居を作れるきっかけになるのなら、それは彼らにとっても望

ましいことでしょうから。

 また、「国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか」という点につい

ても、それをいうなら僕が子供の頃に見た「仮面ライダー」のショッカーなんてのは、か

なり間抜けなことをたくさんやっていた悪の組織で、あれはいっぺんに何十体もの怪人を

ライダーにぶつければ、最初からライダーに勝ってたのではないか?とか、あるいはなん

でウルトラマンはスペシウム光線を最後の最後まで使わないんだ?とか、「間抜け」な部

分はたくさんあったわけで、そういう間抜けな部分を集めた「怪獣VOW」なんて本まで

出ているくらいですが、だからといってあれらの作品がつまらなかったか、といえばそん

なことはない。30代、40代までそれら特撮モノをひきずっている連中が「オタク・カ

ルチャー」という一ジャンルを現在築いているのは周知のことでしょう。ウルトラセブン

についての作品批評など読むと、正義対悪という単純な二項対立に限定されない深いテー

マが内包されていることが指摘されており、確かにそういう視点で見ると、子供の頃は「戦

闘シーンが少なくてつまんな〜い!」と思っていた話が、「ゲッ!こんな話、子どもに見

せてわかるのかよ」という大人になった今となって逆に落涙を禁じ得ない話だったりする。

まあ、これは何もこれら昔の作品に限ったことではなく、僕が何かにつけて引き合いに出

すエヴァンゲリオンにしたって、井伏さんのおっしゃる「人物設定の安易さ」と「行動の

いい加減さ」といった矛盾点は結構あちこちに存在し、いわゆる謎本を読むと、それらに

対するツッコミがてんこもりだったりするわけなんですが、だからといってあの作品がブ

ームとなり、多くの人がはまって感動したという事実が消えるものではないわけです。

 小学生の書いた稚拙な絵でも、見る人によっては強い衝撃を受けたり、深い感動をした

りするものです。僕は技術的な巧拙の向こうにある、テーマ的なものに目を凝らしたい、

それが批評の持つ重要な役目であろう、と考えています。もちろん、それが井伏さんの書

かれる技術的批評を否定するものではありません。井伏さんの御指摘によって宮教の人達

がよりよい芝居を次回以降作れるのなら、それはそれでけっこうなことですから。また、

いくら技術的なことはわからない、と言っても、それこそ僕のような素人でもわかるよう

なひどいミス、さっきのオーケストラの例でいえば、明らかにトランペットの音が外れて

いて、それで演奏が台無しになってしまった、という事例については、僕も書くことがあ

るとは思います。ただ、僕としては「ミスはないけど平板な演奏」を、技術的な問題点が

ないから賞揚する、ということは絶対したくありません。どことはいわないけれど、そう

いう内容の芝居をしていて、一部の方々に好評を得ている劇団がありますが、その手の劇

団に比べたら、今回の宮教の方が百倍も千倍も面白い、と僕は思っているのです(もちろ

ん、それだって、あくまで僕の主観なんですけどね)。

 

[2000年12月13日 21時57分40秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 インターネットでの、あらすじにひかれ見に行った。

学内発表会と違い、公演と名打っているからには、一般の劇団と同等に評価してみたい。

俳優の中には何人か可能性を感じさせる人がいたし、脚本的には確かに伝説的な部分で作家の才能を

感じさせたし、過去の場面の布を使った処理も良かったと思う。しかし私は、太田さんや

クール・ドッグ さんとは違い、作/演出に対しては、今の時点では満足出来なかった。

 

 あらすじは太田さんが書いているので、詳しくは述べないが、

過去の物語の設定の素晴らしさに対して、現在の物語が安易すぎる。

物語が、場当たり的で、必然性や、登場人物の動機付け、行動がいい加減すぎる印象を感じた。

過去の物語と現在の物語の接点が、たまたま帰郷して、たまたま神社の倉庫に入った兄弟というのが

効果的だったろうか、そこになんの必然性も感じられない。後半で姉妹の葛藤が兄弟の葛藤に

推移するのだが、太田さんも書いているとおり、初め兄弟になんの葛藤もなく、その場その場で、

作家の都合で設定が変わってきている。物語の進行が「たまたま」で成り立っている。

過去と現在が融合されるならそこに大きな必然性を感じられなければならないと考えるのは私だけ

だろうか?

確かに物語の中のリアリティーなどあまり気にしないで、その場その場を楽しめばいい、と言う

考えもあるだろう。しかし、物語が歴史的で、現在と過去が行ったり来たりするのだから、それを

支える設定にリアリティーが無いとすべてが安易な物語に見えてくる。

 

 キャスト表に警官と書いてあるのだが、どう見ても警備と胸に書かれており、警備員にしか見え

なかった。それを「警察、警察」と言っているものだから、最後までそれがはっきりしなかった、

警官が能面を探す為に一般人になりすましたと言っていたが、警官が一般人の警備員に化けていたと

理解すべきなのだろうか。それなら何故初めに、警官警官と騒いでいたのか全く理解できなかった。

 

人物設定も安易すぎた。

近くの診療所に入院している女と医者が兄弟の幼なじみなのだが、その二人とも国の機関(研究所)

に勤めていたという設定や、能面をかぶった神主が大量殺人にしたという事件(55年の悲劇)

の唯一生き残った神主の妻が、弟が昔バイトした喫茶店の女主人だった言うのだから、歴史的、

国家的出来事が、すべて町内の知り合いの中で起こっているようなのだ。

 

行動のいい加減さも目立った。

能面を探るために何故、近くの診療所に偽装入院する必要があったのかわからなかった、そんな

遠回りなどせずに、直接的に処理すればいいことだろう。

国が必死で隠したとされる、「55年の悲劇」も雑誌の女編集員が簡単に知っていたというのも、

あまりにも安易すぎた、それでは国家機密にならない。神社の倉庫に能面の文献を調べに入った時、

何故カギを締めたのか、そして放火するわけだが、初めから特務機関は4人を殺すつもりだった

のか等。

そして放火後生き残った弟が、すぐに兄達の生存に意識がいかなかった点など。

国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか、犯人が診療所の方に逃げたと電話

してきたり、それが分かっているなら自分達で捕まえろとツッコミを入れたくなった。

 

演出について。

俳優達は、ほとんどが棒立ちで、身体感覚を喪失している。特に気になったのが、弟だ。

初めに兄弟が診療所に幼なじみを訪ねた時、医者が「暑い暑い」と言いながら舞台袖から出てくる

のだが、その時ゲンコツを顔の前で、ひらひらさせるのだが、初め意味がわからなかったが、

どうやらウチワの無対象演技らしい。

劇評バトルで何度も指摘しているが、同一空間上で本物と、意味のない無対象演技(パントマイム)

をいまだに何の必然性もなく使用している。

リアルなものと、パントマイムの演技が意味なく混在しているのだ。

特に喫茶店の場面で、それが目立った、はじめ見えない水道で、見えないコップで水を飲んだかと

思うと、本物に見せかけた、絵の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出したり。

勝手に電話を使ったと怒られると、お金を払えばいいんでしょと、お金をつまんだパントマイムの

演技をする。

観客がどこにリアリティーの基準を置いていいのかわからない。演出が観客の視線を全く意識して

いないのだ。

何故本物を使わないのか理解できなかった。

 

次ぎに、意見の分かれるところと思うが、かがり火が倒れてやけどを負った姉の演技も気になった、

常に、妹の旦那にやけどを見せているのだが、これは観客に一瞬見せて、後は男に対しては頭巾等で

隠していたほうが、女心が伝わったように思う。

 

 部員のやる気や、作家の才能は感じられた、次の公演も見てみたいと思わせた。

次は、作品のリアリティーの基準や、演出家が観客の視点をもっと意識したほうがいいだろう。

観客は冷静に、しかもしっかりと舞台を見つめているのだから。

 

太田さんは私と同じ時間に見ていたので、私の感じた部分どう感じましたか、良かったら書き込んで下さい。

 

[2000年12月12日 23時53分39秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

面白かった。

まず脚本が良く、感心した。太田さん同様、脚本家の恵まれた才能に敬意を表する。

また、演出もすばらしかった。よく演出がいるはずなのに全く演出効果のない芝居を

観ることがある。しかし、この芝居では、実にいいタイミングで音が入ったり、初め

にスクリーンとして使用していた幕を芝居中巧みに使用するなど、効果が随所に盛り

込まれていた。

私の芝居を観る楽しみは、生の迫力だけではなく、「こうきたか!」と思わせてくれ

る演出効果にある。野田秀樹のような演出家がそうそういるとは思わないが、テレビ

ドラマを観ているような芝居を観た後は、わざわざ時間をかけて足を運んだことが悔

やまれ、どうしようもなく不機嫌になってしまう。

宮城教育大学演劇部のこの芝居、「来てよかった。」と思うことができ、帰りの足取

りも軽かった。宮城教育大学演劇部の皆さんに感謝したい。

毎回面白いのかどうかわからないが、学生演劇は観ないという方々、一度御覧になっ

てみてはどうだろうか。少なくとも今回の芝居は観る価値があったと私は思う。

太田さんによると、冬公演がお薦めらしい。また、チラシによると卒業公演が3月に

あるらしい。期待できるのではないだろうか。

私も時間があれば、また足を運ぼうと思う。

 

[2000年12月11日 18時53分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 2年続けて宮教演劇を夏、冬、夏、冬と見てきて、一つ気づいたことがある。それは、

夏公演の時は柱的存在の4年生が抜け、また新入生がまだ経験不足のためか、役者の技術

的面で少々不満を感じさせる演技がまま見られるが(それでも、宮教ならではの一生懸命

オーラで、それをカバーしてしまうのだが)、冬公演となると、役者の技量もアップして

きて、長編を演じながらも最後まで緊張感を途切れさせず、結果、一般のアマチュア劇団

を凌駕する名演を見せてくれるということだ。今回の「ミナモノカガミ」も2時間20分

の長編であったけれども、やはり最後まで飽きさせない、ドラマティックないい芝居であ

った。しかも、今回は久しぶりのオリジナル脚本である。シバタテツユキさんの作家とし

ての才能に敬意を表したい。

 物語は中世(役者の服装から考えて、平安〜鎌倉あたりか?)の巫女的な舞師(地鎮舞

踊)の家族と、現代のある兄弟をめぐる2つのストーリーが並行する形となっている。代

々舞師の家系を継ぐ家の仲の良い姉妹の前に、ある日、分家の若者が現れる。分家の若者

は男の子がいない本家に養子として入ってもらう予定となっており、実際彼は長女と恋仲

になるのであるが、ある時儀式の最中に篝火が長女の顔にぶつかり、長女は顔に大やけど

をおってしまう。世間体を気にする一家の主は、それでも長女を愛する若者に、「夜は姉

と一緒にいてもいいが、表面的には妹と結婚する形を取ってくれ」と若者に頼み、若者も

渋々それを承諾する。しかし、それが3人の心に深い溝を作り、姉はそのルサンチマンを

面(能面?)を作ることにぶつけていく。姉の負の心がこもったその面は、その後つけた

ものを破滅に導くものとして恐れられていく。

 そして、舞台は現代。お盆で帰省した兄と、それを迎えた弟は、2人でいたずらに神社

(?)に侵入し、偶然その面を見つける。弟が戯れにその面をつけようとしたとき、面は

光と共に弟の顔に吸い込まれてしまう。そして彼は、その面をつけたことによって、長年

に渡って不幸の源であるその面を壊そうとしてきた国の特務機関に追われる身となってし

まう。と、いうのが本作の主なあらすじである。

 秘密の政府系研究所や謎の特務機関が出てくるのは、どうも最近、宮教演劇のお家芸と

なりつつあるようだ(「パーフェクトライブス」しかり、「ウオルター・ミティ」しかり)。

しかし、面をめぐる政府系研究所や村の古老による謎解き、あるいは特務機関との追いつ

追われつの展開。これらドラマティックな要素が物語の中にてんこ盛りで詰まっているの

だから、これが見る者にとってスリリングな展開とならないわけがない。エンタテイメン

トとして、お客さんをどうすれば飽きさせないかを、作者が考え抜いているからこそ、こ

ういうサービス精神いっぱいの脚本が出来るのだろう。その意味で、シバタさんの脚本を

僕は高く評価するのである。

 そして、外面的なエンタテイメントの部分と並び、観客が登場人物の内面に感情移入す

る部分として設定されているのが、「負の心」をテーマとしたドロドロとした人間関係で

ある。この仲の良い姉妹と分家の若者との三角関係を見て感じたのは、パターンは異なる

が「ロミオとジュリエット」みたいだな、ということだ。どういうことかというと、「ロ

ミジュリ」は、両家の不和という「世間」の大きな力が二人の前に「壁」としてあらわれ

るわけだが、本作では姉の火傷が原因として、彼女の親を代表とする「世間」が、2人の

結婚を許さない「壁」として出現しているわけである。しかも、その「壁」が「ロミジュ

リ」のように、ストレートに2人を別れさせようとするのではなく、「表面的には妹と結

婚しろ。夜は姉と夫婦として暮らしていいぞ。」という、偽善的な妥協案として姿を現し

ていることが、本作のストーリーをより屈折した面白さとしているのである。つまり、こ

の「偽善」によって、本来なら苦しむべき存在が2人であるところが、結果として妹も含

めて3人がそれぞれ自分の中の「負」の心と対峙するという構造になっているのである。

 しかし、このことに関して私は少々不満を感じるところがある。それは、本作がドラマ

ティックになっているのは、そのような世間の壁が強大であった昔の話であったからこそ

可能になったのではないだろうか?つまり、「世間」というものが以前ほど強大でなくな

り、恋愛が自由になった現代に、このようなドラマは、自分のこととして感情移入の対象

となるものにはなり得ないのではないか?ということだ。ここ数年、「自分探し」とか、

「自分を見つめる」といったテーマの作品が、ジャンルを問わず流行になったのは、その

ような世間の壁がなくなったにもかかわらず、自分は相変わらず不幸である。それはなぜ

なのか?世間が原因でないとするなら、自分自身に原因があるのではないか?という疑問

が「世間」の力が弱まった結果として、多くの人の心にテーマとして浮かび上がったから

ではないだろうか?

 だからこそ、本作の現代のシーンでは、特務機関とのスリリングな展開といったエンタ

テイメントとしては魅せるものの、主人公の内面描写としての部分は、中世の場面に比べ

ると弱いものになっている。面を着けた弟は、面を被った影響によって、兄に対する憎し

みを強めていくのであるが、その憎しみは「面」をつけたことによって増幅されているに

過ぎず、本来、面をつけなければ兄弟仲を破滅させるほどの決定的なものとはならなかっ

たであろう、と思わせるほど、説得力の強いものとはなっていない。

 確かに、「障害」「壁」が物語の中に存在し、それと戦うというスタイルをとることは、

物語の中にドラマを作り出す王道ともいえるものである。しかし、私は芝居を見るからに

は、「今の自分」にシンクロできる作品を見たい。「親の反対」や「世間体」が存在しな

いにも関わらず、なぜ自分は幸せを実感できないのか?それをテーマとした作品を、次回

以降シバタさんが作ってくれればいいなあ、というのが、本作を堪能しつつも一観客とし

て感じた贅沢な要望である。勝手な希望で恐縮だが、是非ともチャレンジしていただきた

いものである。

 個々の役者について。今回は、なんといっても依子役の照井麻貴子さんに尽きるでしょ

う!この依子という役は、面をめぐる謎を取材するためにやってきた出版社の2人組のう

ちの一人なのだが、なんだか旧あみんの岡村孝子を思わせるような、クラ〜い雰囲気で出

てくるのである。そして、その暗さがマンガチックで、わざとユーモラスに演じていると

ころが、たまらなくいいのだ!そして、彼女は一種の超能力も持っており、いきなり写真

を念写して、周りを驚かせたりするし、さらには特務機関との戦闘シーンでは、なんと!

「日出処天子」の厩戸皇子のように、「気」によって敵を吹っ飛ばすことが出来たりする

のである!この手の不思議系少女は、まさに「アイドル評倶楽部」たる私のツボにズバッ

とハマってくるキャラクターであり、「あ〜あ。今回は吉田みどりも笹本愛もキャストに

出てこないのかあ。イマイチ物足りねえなあ。」と思っていた私の心を見透かすかのよう

な(ていうか、見透かされてました?シバタさん・笑)ナイスキャストであったといえよ

う。宮教は、必ず一人はこういう不思議系が舞台に出てくるところが嬉しい。ホント!役

者の層が厚いんだよねえ。

 そして、高橋愛美さんや鈴木香里さんといった、その手のオーラこそ出ていないものの、

手堅くワキを押さえる毎度ながらの見事なバイ・プレイヤーぶりにも、いつものことなが

ら感心させられた。彼女たちは宮教であるからこそ、渋いバイ的印象が強いが、ひとたび

どこかの劇団に客演すれば、以前の「ワガクニ」の高橋(妹)さんのように、他の劇団の

役者を喰ってしまうだけの実力を持ち合わせていることは確実であろう。

 そして男優では、なんといっても斉藤雄介君。背が高く、スタイルがいいので、いつも

出てくるだけで、「ああ、彼、今回もキャストなんだな」とすぐわかる、見栄えの良さ。

そして、割舌が悪いのか、その巻き舌気味の外国人のような独特のセリフ回しも、最初は

違和感があったものの、最近では彼ならではのポジティブな個性として楽しめるようにな

ってきた。すべてに平均的で印象に残らないような役者さんよりも、一見弱点のように見

えながらも、それが強烈な個性として残る役者の方が僕は好きだ。その意味で斉藤君は、

ある意味僕にとって「宮教の顔」であり、彼が出ることによって「宮教の芝居見たー!」

と思わせる役者さんなのである。これからも、大いに頑張ってほしい、と思わずにはいら

れないのであった。

 

[2000年12月10日 23時15分49秒]

目次へ


開かれてきた高校演劇 

お名前: 忌野  際   

 

仙台三高の演劇をめぐり、議論が活発になってきていることを歓迎する。笠原、小山、大田氏の

それぞれの主張を歓迎したい。とかくこういう話はこじれてくると「空気が悪い」の「怖い」の

「揚げ足とり」だのと思う方もいるようだが、私は空気のよしあしよりも、自分の存在をしっか

りと表現している寄稿者の姿勢を常にすがすがしいと思っているし、無気味なスマイリーの乱れ

飛ぶなれなれしい掲示板こそ、こういう場にはふさわしくないと考えるからだ。無論、管理人氏

が不適切と感じるものは削除の対象にもなろうが、このページの管理人氏は大変に懐が広い。私

はこの姿勢もまた支持したいと思っている。

 

 さて、高校演劇が開かれてきた。WEB上の掲示板を通して、いままでは会場アンケート(それ

以前は会場掲示板)に書かれてきたことが、広く一般の目に触れる環境が整ってきたと思える。

このような風潮に対して小山氏は「仙台三高」の演劇に関する議論で「私どもの弱みは、今生き

て色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに動いている生徒とともに

に生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないん

ですよ。」という所感を述べておられた。氏の述べるとことはむしろ「強み」であり、「自信」

になるはずだ。仮に「ひでえこといわれてるなあ」と思っても、それを黙殺するだけの自信があ

ればいい。氏の学校は常に秀作をコンクールに持ってきており、優秀な実績を常にあげているで

はないか。

 私が言いたいのは、高校演劇も「聖域」ではなく、広く多くの人に開かれるものであるべきだ

し、多くの人の意見を求める必要があるということだ。無論その中で無責任な誹謗や中傷にさら

されることもあるだろうが、この掲示板に関する限り、それなりの論拠をもった意見が述べられ

ており、神経質にこれを気にする必要は特にないと思う。所詮どのような劇評であっても、それ

は「個人」の印象であり、また、見に来てくれたお客様の中でも「批判」をあえて寄せてくださ

るお客様というのは、黙って帰って「クチコミ」で悪評を流してくれるお客様よりも数段真摯で

あり、真っ向からその劇作者に向かう姿勢を持っている点で、私はこれを受容しなければならな

いと考えている。そういうお客様の文章を「馬鹿文章」と斬り捨てた方もいるようだが、私は

そういうことはできないと考えている。

 

 宮城の高校演劇というHPがある。高校演劇界も広く自分の存在をPRしはじめた。私はこれを

大変に歓迎している。だが、WEBでのPRはその他の場面でのもの以上に「一方通行」では終わら

ない。たとえそこに高校生という未成年が絡んでいようが、作り上げた劇はしっかりと批評され

るべきだと思うし、それを是とする姿勢がほしい。そして、内部の人間でのみ行われてきた議論

が今回太田氏の努力により、広く一般に広げられたことをもっと歓迎すべきである。太田氏の

議論は確かにストレートで感情を害しやすいことを書いているけれども、根拠は明確である。

 そして、演劇をしている高校生諸君がなぜこの劇評の議論に参加してこないのか。無論それは

充実した劇評もあるだろうし、「なぜあの学校が入賞するの?」という疑問も出てこよう。しか

しそこに対話の機会を捕らえることは非常に大切なことだと私は思う。

 高校演劇はもっともっと開かれて欲しい。これからも批評にさらされることがあるだろうが、

それは批評された作品の価値を決めるものではない。一批評家の印象を素直に書くことは、一

演劇人が芝居を作ることと同じくらいに尊重すべきことなのだから。

 

[2000年12月3日 7時27分50秒]

目次へ


劇団ミモザ「太陽に背を向けて走れ」 

お名前: KIT@麦   

 

 最終公演を一家で楽しんできました。良かったです。

 

 特に本がいいです。あと20分短くできたら相当な名作になった思うんですが、小学生が2時

間半じっと(...というかヘラヘラと)見ていたんですからやっぱり良くできてますね。

サービス精神いっぱいでした。

 

 この劇団のいいところは、受付から客出しまで一続きが公演と考えて演出されているところで

しょう。ユニホームを着た受付に迎えられ会場に入ると開演まで何かやってくれます。前回は一

人コント5連発、今回は模擬ラジオ放送でした。そしてちゃんと定刻で開演します。

 今回は団体割引券や託児サービスまであったようで、日頃我々がやりたくてもできないでいる

色々な試みを実際にやって見せてくれるところに感服します。客としてとても大切にされている

感じがしてうれしく思うのです。

 

 話はギャグ系な郵便屋さん達の話とシリアスに疾走するアフリカの話が交互に出て来まして、

私としてはアフリカの比重がもうちょっと上がったらと思いました。

 子供達はギャグが好きで「山羊さん郵便」や「切手ちょうだい」がいたく気に入ったようで

す。帰りの車中でずっとリピートしとりました(笑)。「演歌」や「はがき男」(爆)も楽しめ

ました。

 

 箱による抽象舞台で演じられる熱いステージは大変好感の持てるもので、たしかに前半は聞き

取りに苦労しましたがそんなことが気にならない若い舞台は良いものでした。

 ラスト、バオバブの木、大きく広がった梢、天からこぼれんばかりの星が確かに見えました。

そのあとの麦球はなくてもよかったと思うほど。

 

 私がもらったダイレクトメールには「郵便配達夫の恋」についての感想が同封されていまし

た。気持ちも運ぶことに一生懸命な郵便屋さんたちの姿を見て、ああこのことかと納得しまし

た。面白かったです。(仕分けのシーンでは「ら抜きの殺意」での自分を思いだしたのです

が...笑)

”いかに生きるか、伝わらない気持ちをどうやって伝えようか”芝居の永遠のテーマですよね。

 

 仙台の人たちも是非一度ミモザの芝居を見てほしい。きっと何か気づいたり思い出したりする

ものがあると思うから。

 仙台から大河原まで電車でわずか30分ほどです。ただ、えずこホールがもう少し駅に近ければ...と

 

[2000年12月3日 21時52分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここのところ、三高をめぐる議論がけっこうハードなものがあり、それについては書き

甲斐を感じてはいたものの、同時に少々重苦しい気分になっていたことも事実だ。そんな

中、本日ミモザの芝居を見てきたのだが、実に実に感動的な作品だったので、今まで感じ

ていたイヤな気分も束の間、吹っ飛ばすことができた。こういう時、自分が演劇ファンに

なってよかった、と心底思う。何だかんだいって、やっぱり俺、演劇好きなんだよなあ、

と暖かい気持ちになれる。そういう意味で、ミモザの皆さんには、心よりお礼を言いたい。

いい芝居を見せてくれて、本当にありがとう。

 本作は、近未来(?)の日本の話である。通信事業が完全民営化され、Eメールから郵

便までを扱う、とある民間企業の郵便セクションに勤務する職員たちの人間模様と、青年

海外協力隊員としてアフリカに行ったまま、行方不明になったある若者についての物語と

いう、2つのストーリーが同時並行に進んでいく。通信会社の郵便セクションは、Eメー

ルや携帯電話を使う人が増え、昔ながらに手紙を使う人が減っていることを理由に、リス

トラの危機におかれている。しかし、セクションのリーダー・ヤヤは、手紙だからこそ伝

わる熱い思いというものがある、と主張して強くリストラに抵抗する。

 このヤヤ役の、おーみひろみさんが、素晴らしかった。長いストレートヘアーは、「シ

ョムニ」での江角マキ子を意識したものであったらしいが、手紙に書ける熱い思い、部下

に厳しいが信頼されるお姉さま、としての役作りが、まさに本家・江角に負けない熱演と

して、印象に残った。彼女は手紙が大事だという理由を、「手紙だからこそ伝わる『実感』

というものがある」と語る。最近上演された、ある作品と同じ「実感」という言葉をテー

マとして使っていたわけであるが、同じテーマでも、芝居によっては、これだけ心にせま

る表現となるとは!やはりこれは役者の技量と脚本・演出の力量の差なのだろう。

 そして、実はこのヤヤの恋人が、アフリカに渡ったまま行方不明となった青年なのであ

る(ここで、同時並行していた2つの話はつながるわけだ)。彼は、「世界の果てを見た

い」という夢を持っており、その夢を実現するために、廃車になっている機関車に乗って

旅をしようと目論んでいる。この、「世界の果て探し」とは、同時に「自分探し」でもあ

るのだろうが、「終わりなき日常」に倦怠感を感じ、日常にはない濃密なものを探すこと

が、イコール彼のいう「世界の果て」を探すことなのだろう。その意味では、彼の探して

いるものも、きっと「実感」であり、そしてその「実感」を観客である私にも感情移入で

きるようにひしひしと伝えてくれた池田耕亮君の演技力!彼も、仙台演劇祭「星空の迷子

たち」の犬役で出ていた頃は、臭くてくどすぎる演技が鼻についたものだったが(失礼!)、

よくここまで役者として成長したものだ、と感慨深いものがあった。

 だから、彼は愛する女性から離れてまでアフリカに渡り、そのアフリカでも自分の持ち

場を捨てて汽車に乗って一人旅に出ようとする。これこそ、ロマンという名に相応しい、

古典的ではあるが美しいストーリーといえよう。

 そして、そんな職場の先輩のラブ・ロマンスを見つめる、新入社員のヒナタ。はい、こ

のヒナタ役こそ、松陵・亀歩さんと並び、私が今の仙台演劇界で最も一押しする女優!後

藤尚子さんである!!

 去年の「キャラメル・マン」の頃の彼女は、ホント、かわいい女の子、というイメージ

のみが強かったが(佐々木久善さんの「ピチピチしていた」発言が、まさにその象徴だが)、

今年のコンクールで県大会まで進出し、しかも創作脚本賞まで受賞する熱演を見せたこと

で、役者として一回りも二回りも大きくなったような印象を、本日受けたものだった。劇

中コントの場面での、表情の変化の素早く、そしてタイミングのよいことといったら!や

っぱり高校生をいう若い時期だけに、役者としての成長も早いのだろうか?もはや、私に

とって彼女は、ただの地元演劇界のアイドルではなく、若手実力者としての1人に数えた

い人材にまで育ってくれたといえよう。それにしても、コンクールからたった2週間しか

経っていないのに、こんなに長ゼリフを全て自然にこなしてしまうとは!やっぱり高校生

はまだまだ頭が柔らかいね。本人、終演後のロビーで、「この記憶力を中間試験にも役立

てればいいんですけどね、ガハハハハ」と笑っていたが、芝居とは直接関係ないが、ぜひ

試験も頑張るように!(笑)

 それにしても、私はエヴァンゲリオンでも、大人の恋をする加持・ミサトよりも、その

2人を近くで見つめる主人公の中学生・碇シンジ君に感情移入したものだったが、今回も、

大人の恋をする2人よりも、尚ちゃん演ずるダメダメだけど一生懸命頑張って新しい仕事

にチャレンジする新入社員・ヒナタに感情移入してしまうのは、きっと私がいい年をして、

未だに自分に自信がもてないからなんだろうな(苦笑)。でも、そんな自分はダメダメだ

ー!と思う人間に、とても共感できるように書かれていたヒナタの人物描写、私は強く評

価したい。

 それと、もう1人よかった役者。郵便区分けロボット・マリー役で今回出ていた、新人

・アベマコさんは、とても新人とは思えないヒールなんだけど憎めないキャラクターを好

演していた。彼女も高校生とのこと(でも、学校では演劇部に入っていないそうだが・・

・)、本当に最近の高校生の演技力には感心せずにはいられない。

 物語の結末は、明日も公演があるため書かないでおくので、明日お暇な人は、ぜひ大河

原まで足を伸ばしていただきたい。松陵・猫原体と並ぶ、今年の私にとっての感動作であ

る。ただ、一つだけ残念だったのは、物語の出だしが少々早口すぎて、何を言っているの

かわかりづらかったことだ。初日の出だしで緊張していたのかもしれないが、もし明日も

同じ場面が早口すぎたとしても、そこで早急に結論を出さずに、しばらく我慢して見続け

て欲しい。だんだんと尻上がりによくなってくるはずだから。

 

[2000年12月3日 0時13分2秒]

目次へ


仙台三高演劇部「ウルトラマンの母」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 前回は、笠原先生が今回の作品のテーマとして「実感」を挙げておられることについて、

私が先生の文章を読んでその趣旨には共感したが、その共感は芝居を見たときには生じな

かった、というところまで書いた。そこで今回はその理由について述べていくこととする。

 笠原先生は、「実感」の例示として、登場人物の「女性」が述べたセリフ、「缶コーヒ

ーって好き。舌に残る感じがいいのよね。」を挙げ、また、オウム信者について言及して

おられる。まず、この2つの例示については、私も強く同感するものである。

 まず、缶コーヒーについていえば、そもそも人間は、缶コーヒーに限らず、カレーでも

チョコレートクッキーでもいいけど、何かを食べて「おいしい!」と「実感」する場合は、

本来「意味」を経由しないものであろう。確かに、カレーがおいしいのはレシピが良かっ

たからかもしれない。しかし、川上高瀬がカレーを食べて「おいしい!」と感じたとき、

あるいはミイがチョコレートクッキーを食べて「おいしい!」と涙を流したとき、彼らは

いちいちレシピの因果関係など頭に浮かべないだろう。味覚がそのまま瞬間的に脳に反応

することによって「おいしい!」と感じる。これ、「意味」を経由しない「実感」である。

 また、オウムが修行で自らの肉体を「実感」するという話。これも、要は厳しい修行を

すれば、過剰な疲労から体が本能的に自分を守るために脳内麻薬を分泌する(いわゆるラ

ンナーズ・ハイの極端な例)として、気持ちが良くなったり、幻覚が見えたりという作用

が体内に生じるわけだけれども、本人たちはそういう脳内麻薬がウンタラといった、意味

的因果関係を経由しないで、ストレートに「気持ちいい!」とトリップしているわけで、

これもまた「意味」を経由しない「実感」といえよう。

 このように考えていくと、「実感」は以外と自分たちの身の回りに多く存在しているこ

とがわかる。例えば、風呂に入って気持ちがいいのは、体内の血行が良くなり体がリラッ

クスするためだろうが、私達はいちいちそんな理屈を考えずに、「ああ、いい湯だな〜!」

と言っている。あるいは、踊りを踊って気持ちが良くなるのだって、同じような理屈で説

明可能だろうが、実際に踊っていて気持ちよくなっている連中は、そんな因果関係を頭に

浮かべなくても気持ちよくなっている。さて、ここで疑問が生ずる。笠原先生は、後段で

は「実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦めて生きるので

はなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということを知らせ

伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。」と書かれている。し

かし、カレーやチョコレートクッキーがおいしいという「実感」は、過去の時代にのみ存

在するものではなく、カレーやチョコレートクッキーが存在する限り、普遍的に存在し続

けるものであろう。また、そもそも「実感」とは、上に述べたように「プラスのヒーロー

(または「正義の味方」)」とかいう意味的概念を経由しないで感じられるからこそ、「実

感」ではないのか?だいたい、風呂に入って気持ちよくなるのに、「正義」なんて必要な

のか?つまり、ここで過去には存在したけど現在は存在しない「正義」や「プラスのヒー

ロー」を例示することによって、笠原先生の本当に求めていることは、実はやっぱり「実

感」ではなく、「意味」ではないのか?という疑念を私は持たざるを得ないのである。最

初の文章で、私はこう書いているはずだ。「『自分のやっていることに意味はあるのか?』

と悩む高学歴の科学者に対して、『いや、お前のやっていることに意味はある。お前のそ

の技術力で社会変革はできる』と、信者を増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こした

ことは、未だ記憶に新しい。」と。つまり、笠原先生のいうとおり、オウムの修行によっ

て信者は「肉体の実感」を得た。しかし、それを「実感」ではなく「社会変革」という「正

義」的意味にすり替えていったのが、まさにオウムの教義ではないのか?だとしたら、「実

感」を「正義」や「プラスのヒーロー」という意味的行為に変換しようとする笠原先生の

目論見は、それに似ていないだろうか?

 だから、私が最後の「歌」に意味を感じたのも、ストーリーを一貫したものとして辻褄

を合わせるためには、必要だったからである。「もうずっと長い間面白い映画を見ていな

い。」という詞は、「意味」が存在した昔には映画も面白かった。つまり、「昔の面白い映

画」は、「意味」が存在することによって生き甲斐を感じていた昔、という時代そのもの

のメタファーであり、それを称揚する内容であるということは、つまりは「意味」の復活

を待望するということだろう、と私は判断したのである。それが、深読みだと言われれば、

そうなのかもしれない。しかし、私という人間の内面においては、そう考えることがこの

テキストに対しては、最も辻褄の合う結論だったのである。

 以上で私の反論は終わりである。渡部先生が質問に答えてほしい、という書き込みを下

になさっていらっしゃりこれについては私も同じ思いなのであるが、もしかしたら私の反

論が全て終了することを、笠原先生はお待ちになられていたのかもしれない。そう好意的

解釈をあえてとり、希望的観測を残すことにして、とりあえず本文を終了させていただく

こととしよう。 

 

[2000年12月12日 0時4分30秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 小山先生。笠原先生にお願いします。やはり、質問には答えていただけないでしょうか。

高校演劇関係者として、強く望みます。

 それから、すみませんでした。下の「MOGURA」という書込みは私のものです。必ず

「同じペンネームで」というルールを犯してしまいました。管理人さん申し訳ありません。

忌野際さんが書かれているように、高校演劇に限らず、演劇界はもっと開かれるべきだと私も

思います。

昨年度の審査経過について太田さんから質問がありましたが、もしおかしな評価をしていない

自信があるのならそれだって公開してもいいのではと個人的に考えています。今回の仙台三高

さんが東北大会に出場できなかったことは残念であると私も思います。なぜなら、本当に訓練

された演技を評価してあげるということも教育活動として大切だと考えるからです。

 ただ、三高さんの生徒の結果を素直に受け止める紳士な態度には一緒に生徒実行委員会の仕

事をした私は敬意を表したいと考えています。ですから、先生方再度お願いします。もういち

どきちんと議論をしようとしてはいただけないでしょうか。  

 

[2000年12月10日 21時44分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 先の書き込みで私は、

「せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。」と書いていたので、これから改めて作品

についての意見をここに書き込ませていただくことにしたい。

 まず、「言葉というものを意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのか

な?」という笠原先生の御意見について。これについては、「はい、全くその通りです。」

と答えるほかない。むしろ、「だから、どうした?」と聞きたいくらいのものである。な

ぜなら、下に書いた「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送れな

いから、意味にすがるのだ」という言葉を理解するためには、まさにそのニーチェの言葉

を「意味」として理解することを経ることが必要だからだ。その点で、我々現代人は「意

味的存在」だ、というジレンマを抱えており、そのジレンマをいかにして解消すべきか?

という問題意識を持っているからこそ、そのヒント・シミュレーションとして私は演劇を

見たり、その感想として劇評を書いたり、また逆に他人の書かれた批評を読んだりしてい

るのである。最初から既に意味から解脱した存在に私がなっているとしたら、笠原先生の

作品を含めて、何もわざわざ演劇を見るために劇場まで足を運んだりするわけがない(も

ちろん、生き方のシミュレーションとして見ることだけに限定されず、単にエンターテイ

メントとして芝居を楽しむことも、時にはあるが・・・)。世の中には、演劇を見なくて

も、そこそこ幸せに生きている人がいくらでもいる。演劇の作り手の方々には、よく「も

っと演劇ファンを増やさなくては!」という問題意識を持っている方がいらっしゃり、私

も、それについてはとても立派なことだと敬意を表しているのだが、と同時に、では、演

劇に対する熱心なファンである自分と、ここ10年近く生の演劇なんて見たことない、と

いう世の中の多数派の方々とを比較して、どちらが幸せなのか?と考えたとき、演劇を見

なくても自分より幸せそうな人が世の中にはたくさんいるのではないか?というのが正直

な実感としてあるわけで、そういう人に演劇を勧めることは、逆に大きなお世話ではない

のか?という思いもまた、私の中にはあるのだ。つまり、既に意味から解脱した人間にと

っては、「人生に生きていく意味はあるのか?」という問題意識を持つ必要はないため、

そのシミュレーションとして演劇や映画を見たりする必然性はない。私は、まだその域ま

で達した人間ではないため、熱心に演劇を見、その劇評を書く「意味的存在」なのだ。こ

の問題意識については、福島の劇団・鳥王の「楽園ダンス」という作品の劇評を書いたと

きにも詳細に論じているので、そちらも是非ともご参照されたい。

 それに関連して言うなら、笠原先生がその下で述べている「人間は意味無しで生きられ

るわけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーシ

ョンの手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。」という御意見について

も、「全くその通りだ。だからどうした。」と答えるしかない。しかし、私が上で引き合

いに出したニーチェの言葉は、「意味にすがる」という言い方をしている。「意味」を「手

段」として、必要かくべからざるものとして認識することと、「すがる=(例えば酒や麻

薬に対するように)依存する」ということは質的に異なることだ。例えば、人間と他の動

物との違いで「火」を使うというものがある。あるいは、「電気」でもいいが、これらは

文明人たる人間が生活していく上で、必要欠くべからざるものであろう。しかし、人間は

「人生に意味が見いだせないから、自殺する」ということを遺書に書いても、「人生に火

(または電気)が見いだせないから、自殺する」などという遺書を書くものだろうか?(シ

ュールなアングラ劇なら、そういう遺書を書く奴が、あるいは出てくるかもしれんが・・

・)そういう点から考えると、今回笠原先生が例示した文章は、「意味」という言葉が持

ついくつかの文意の中から、太田が使用している用法と、あえて違う内容の用法を用いる

ことによって、(本人が意図したことではないかもしれないが)結果的に論理のすり替え

をしていることになるのではないのか?

 念のため、自宅にある「新明解国語辞典」をひいてみた。意味には1として「その時そ

の文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか・用法。」とある。これこそが、

今回笠原先生が説明するとことの「意味」であろう。しかし、その後に2,3,4として

こう続く。2「その人が何かをしたときの動機・意図。」3「意義」4「趣旨」と。太田

が今回使った「意味」の内容としては、1よりもむしろ3が適切なものであることは、明

らかではないのか?さらにいうなら、「意義」を同じ辞書でひくと、1「そのものでなけ

れば・果たす(担う)ことのできないという意味での、存在理由」とある(2は略す)。

まさに太田は、この内容で「意味」という言葉をこの間使用してきたのである。

 そして、笠原先生はこう続ける。「テーマは前述した通り『実感のなさ』である。」と。

ところで、先に例示したニーチェによれば、「意味」にすがらないために必要とされるも

のは「強度」だという。私は、この「強度」と、笠原先生のいう「実感」というものを、

言葉としては違うが、中身としてはほぼ同じことを言っていると考える。その意味で、私

は今回の笠原先生のテーマ説明・問題意識には大いに共感したのである。しかし、皮肉に

も、その「共感」は、笠原先生のお芝居を見た感想として出てきたものではなく、今回の

笠原先生の文章を読んだことによって出てきたものである、ということは、是非とも留意

していただきたいところである。

 では、なぜ、文章では共感できたものが、芝居では共感できなかったのか?これについ

ては続けて述べたいところではあるが、またまた文章が長くなってきたので、また改めて

書かせていただくこととする(一気に長文を書くのは、読み手も大変だろうが、書き手も

疲れてくるのだ)。というわけで、今日はここまで!

 

[2000年12月6日 22時16分11秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

>小山先生

本音での書き込み、ありがとうございます。

ただ、

>劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので

私はそんなことはいっておりません。むしろ、逆に笠原先生に再反論されることを要請してい

ます。

また、

>高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います

とか、

>無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ

という御意見は、むしろ逆に、

「だから観客側は物を言うな」

と、とられても仕方のない言い方ですよ?

「無神経」とおっしゃるなら、その根拠を示して欲しい、だから議論をしよう、と私はこの間

ずっと申し上げているのです。

 

[2000年12月2日 0時45分25秒]

 

 

お名前: こやま   

 

太田さんに、ひとつだけ、ムリかもしれないけど、おつたえしたいのは、私たちは生きた生徒をかかえていて、

生徒と一緒に演劇活動をすることを無常の楽しみとしているのです。

生徒がいやかるものをつくれるはずがありません。

生徒の喜ぶ姿が私どもの無上のたのしみなのです。

だらかこそ、こんなに苦労しても、生徒に付き合って行こうとしているのです。

高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います。

劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので、

2度とここにはかきこまないし、読むことも止めますが、

私どもの弱みは、今生きて色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに

動いている生徒とともにに生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ。

高校演劇集会所の管理人というよびなで、だいぶ書かれているようなので、本音で書きました。

 

[2000年12月1日 22時56分30秒]

 

 

お名前: MOGURA   

 

県大会で見せていただきました。あれほどの演技力で3位であったとは納得いかない点もある

かと思います。ここ2年位演技力などが評価のウエイトとして軽視されすぎていることに私も

若干疑問を覚えてはいます。また、面白くなくてはという面からも、観客の受けも良かったし

生徒審査員の評価を得ていたことからも問題ないように思えます。特に役者同士の科白のやり

とりは大変面白く笑わせてもらいました。地区大会では審査員の先生から大人には共感できる

という評価だったそうですが、今回はむしろ高校生の審査員に評価され、大人には評価されな

かった。この理由について私なりにこの芝居を観た感想を述べながら、書かせていただきます。

 率直に言って、カサハラさんが述べているような17歳の高校生という像を描けていたかと

いうと、作者の全くの勘違いの面が隠せないと思います。現在の子ども達は実はカサハラさん

が思っているほど大人や社会に期待なんかしていない。言葉なんか嘘ばかりだと気付いている。

大人の言うことはすべて建前ばかりで、言葉になんか真実はないと感じていると思うのです。

 ですから、空虚感なんてものを意識しているんでしょうか。空虚感ていうのは、大人や社会

に期待している部分があるからむなしくなるのですよね。大部分の高校生はすっかりとあきら

めている。演劇部で活動しようなんていう高校生の感覚は実は本当に少数派であることをしっ

かり受け止めて書いているのかなと思うのです。唄だって、やりきれないから、叫ぶとすっと

するから、自分の存在を認めて欲しいからといった理由などで唄いたいのでしょう。

そこに意味なんかやはり求めちゃいないと思うのです。でもそれは今も昔も一緒じゃないです

か。例えば僕は井上陽水の「傘がない」という唄が好きなんですが、あれを安保闘争が終わっ

た後の若者のうんぬんなんて言った人がいたけど、ただ唄いたいからでしょ。社会に対するメ

ッセージなんてあの当時も大人が勝手に解釈したことだと思うんです。自分の気持ちを吐き出

したいから唄ったにすぎないんだと思うのです。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

と陽水が唄うとき僕らはその唄の意味に感動したのでしょうか。メッセージに感動したのでし

ょうか。違うと思います。恋をしたことのある僕らが、「今自分の周りに起こっていること、

自分がしなくちゃいけないこと、そんなことはどうでも良くて、ただ君に会いたい」

そういう純粋な真実の叫びに共感したに過ぎないのではないでしょうか。

 だとしたら、現在の若者と昔の若者はどう違うのでしょうか。カサハラさんと同世代の僕は

大差ないと考えています。昔の若者が社会や大人に何かを伝えたくて唄を唄ったのでしょうか。

そういうサークルも確かに存在しましたが少数派でしょう。今と大差ないのではと思います。

僕らの時代だって、何でも真面目に深刻に議論しようとした人間を「根暗」として多数派は排

除しようとしていたではありませんか。僕はどちらかというと排除された方だからよく覚えて

います。昔を振り返ってそれを解釈するのはよいのですが、それを今の高校生に信じ込ませよ

うとするのは間違った歴史を教えるのと同じだと思います。この芝居の昔の解釈は当時の世の

中全体を象徴するものではなかったと思うのです。カサハラさんにはそう見えたかもしれませ

んが、少なくとも僕はそう思っていません。ですから、今回は大人の世代も共感し得なかった

のではないでしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 2時9分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回の私の劇評に対し、作者の笠原先生より「責める」内容の反論をいただいた。

 私に非があるとするならば、私が笠原先生に謝罪するのは至極当然のことである。ただ

し、この「劇評バトル」という欄は、今までおこった数々の議論の結果として、「論には

論で返す」ということをルール・原則とするに至っている。太田に非があるという理由を

笠原先生が論として提示し、それが私にとって納得のいくものであれば、私は非を認めよ

う。逆に納得のいかないものであれば、私は笠原先生の「責め」を、理不尽なものとして

退けるしかない。では、今回の笠原先生の反論は、私にとって納得のいくものであったか

を、これから検証させていただくとする。

 今回、笠原先生は私の文章を責める理由として、「非礼」という言葉を使われている。

その根拠として、私が使った「遺跡云々」という比喩について、「インチキ呼ばわり」と

指摘しているわけだ。

 この御意見に対して、私は次のように反論する。そもそも「劇評」とは、他人の作った

作品に対し、「善し悪し」を論ずる行為である。「善し」はともかくとして、他人の創造

物に対して、「悪し=よくない」とネガティブな評価を下す行為とは、一般的な社会常識

から考えれば、全て「非礼」に該当するものである。つまり、批評という行為は、その対

象に対してネガティブな評価を下すときには、常に「非礼」である宿命を持つものなので

ある。だから、今回の笠原先生に限らず、ネガティブな批評を下された劇団側が批評を書

く者に対して、「非礼」を理由に「責め」ることを行い始めれば、全ての批評を書くもの

は謝罪しなければならなくなる。これは批評の否定であり、私としては理不尽なものとと

らえざるを得ない。

 もちろん、ここで笠原先生は「非礼」でないネガティブな批評と、「非礼」に該当する

ネガティブな批評の2つが存在する、と反論されることだろう。では、先回りして聞くが、

その「非礼」に該当する、しないの境界線はいったいどこにあるというのだろうか?

 上記に書いたとおり、笠原先生は私の文章を「インチキ呼ばわり」と見なしている。つ

まり、笠原先生にとっては、同じネガティブな劇評でも、「インチキ呼ばわり」する劇評

が「非礼」に該当する、という境界線をもたれている、ということだろう。しかし、私が

「遺跡云々」という比喩を呈示したのは、(厳密にいうと私は「インチキ」という言葉を

用いてはいないが、文章のニュアンスとしてインチキとみなしているように感じられる、

ということであれば、あえてそれは否定しない)私が本作品を見て、それこそ「実感」と

して持ったからこそ、使ったのである。

 「最近の話題をひょいと捕まえて」と先生はおっしゃるので、では、最近の話題ではな

い古典的な寓話で説明しよう(そもそも同じ比喩を用いるのなら、読者にわかりやすいよ

うに、「最近の話題」を使うのはレトリックの範疇ではないのか?「最近の話題」だから

「非礼」であり、「古典的寓話」を使えば「非礼」ではないと、もし笠原先生が考えてい

らっしゃるとするなら、その根拠はいったいどこにあるというのだろう?)。

 「裸の王様」という有名な童話がある。読者の皆さんもよくご存知のことだろうが、本

当は存在しない服を着た王様を見た子どもが、「あの王様は裸だ!」と言う、例の話であ

る。「王様は服を着ている」と主張する人達にとって、この子どもの発言は、まさに「イ

ンチキ呼ばわり」に匹敵する行為である。しかし、この「王様は裸だ!」と主張する行為

こそ、まさに批評の持つ重要な役割の一つではないだろうか?

 ただし、ここで留意しなければならない点が一つある。つまり、「裸の王様」において

は、本当に王様は裸だった、という唯一の事実が存在する。遺跡捏造問題にしても、遺跡

を捏造した、という事実は1つである。しかし、演劇(に限らず、あらゆる芸術作品にい

えることだが)という作品に関しては、事実は1つのみ存在するとは限らない。1人1人

の受け手が、1つの作品に対して異なる感想を持つということは、演劇においてはむしろ

自然なことである。だからこそ、「解釈」という概念は存在するのであり、1人1人が違

う劇評を持つことを前提として、劇評「バトル」は可能になるのである。つまり、太田が

本作を見て、遺跡捏造問題に例えて、「インチキ」だと考えるのも、太田という人間の内

面においては真実であり、逆に、笠原先生の内面において、「捏造はなかった!」という

真実が存在しても、2つの真実はそれぞれ各人にとって偽りのない真実であり、お互い矛

盾するものではないのである。

 せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。ただ、最後に笠原先生が「よその軒先を借

りて云々」と書いていらっしゃるが、それをいうなら、私も当フォーラムの非会員である。

フォーラムの会員・非会員にかかわらず、広く劇評を募集するのが、当ホームページの趣

旨と私はうかがっているので、こうして大量の劇評を書き込んでいるのある。従って、笠

原先生も、今回の私の文章に納得がいかなければ、さらなる反論をぜひともお寄せいただ

きたい。遠慮されることで、せっかくの議論が尻すぼみになるのはもったいないことであ

る。笠原先生が再反論をされることで、この場が活性化されるのであれば、それはむしろ

管理人さんを含めた、当HP読者にとっても望ましい展開であるだろうから。 

 

[2000年11月29日 19時26分32秒]

 

 

お名前: arasikiller   

 

質問があります。

 

1どうしてアンケートに書かれると許せて公の場に感想が載るとまずいのでしょうか?

 作品に自信があるのならいちいち言葉で反論するのはどうかと思いますけど?

 あなたの理屈で言えば誉める内容も当然公の場に載るのもまずいんでしょう?

 

カサハラさん答えて下さい。

 

2どうしてここの掲示板は「観客が抱いた感想」に対して作り手が反論をするのでしょう

 か?変だと思いますけど。最近は観客を罵倒する文章も見かけましたよ。

 

管理人さん答え下さい。

 

 

[2000年11月29日 15時6分41秒]

 

 

お名前: カサハラ アキラ   

 

こういうものに慣れていないので、あまりにも読みにくい形で書き込んでしまいました。

削除の仕方もわかりません。重複してしまいますが再度書き込みます。

 

 この発言がアンケート用紙に書いてあるのならまあ問題ない。しかし、不特定多数の人間が

目にするこのような場で「まるで遺跡があるように…云々」などと書かれては無関心ではいら

れない。もっと慎重に言葉を選ぶべきではないのか?自分の文章を飾るためだけに最近の話題

をひょいと捕まえて他人をインチキ呼ばわりするとはどういうつもりなのか?言葉というもの

を意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのかな?その言葉が相手にどう響く

かも想像できない「実感のなさ」こそ、この芝居の伝えたかったことである。

 ここにあえて書き込みをするのは、あなたの発言の非礼を責めるだけの目的であったが、つ

いでと言ってはなんだが作者として言いたいことは言っておこうと思う。

 まず芝居以前の問題として「意味」ということについてだが、人間は意味無しで生きられる

わけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーションの

手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。本能が壊れてしまっている人間は他

の動物のように現実と直接関わることができない。そこですべての物に意味づけをして意味に

よる仮想現実を作り上げた。バーチャルなどと騒いでいるが人間はもともとバーチャルな世界

に生きているからこそ、ゲームを本当の現実のように感じることができるのだ。つまり、恋愛

という言葉を知らない限り恋愛が出来ないのが人間だ。という基本的な認識をここで確認して

おきたい。

 さて芝居の話だが、伝えようとしたことが伝わらないのは本が悪いわけでこれは反省をしな

ければならない。芝居を解説することほどつまらなくばかげたことはないと思う。私は芝居を

よく絵画にたとえるが、キャンバスをどんな方法にせよ鑑賞者を惹きつけるものにすることが

絵画であると思っている。絵画のわきに立って「これはこういうことを描いた作品です」と解

説する画家がいるだろうか。それをすることはたいへん恥ずかしいことなのだがあえて解説し

てみよう。

 下敷きはユングである。(蛇足だが昨年の芝居はフロイトだ。バットなどと恥ずかしいくら

い分かりやすいものを出してしまった)ユングがアーキタイプ(元型)と呼んだ概念であるグ

レートマザー・アニマ・アニムス・シャドーというものを芝居の中で具現化していこうという

のが最初の発想である。(シャドーの話は文化祭版にはあったのだが、展開がもたつくのでカ

ットしてしまった)伝説・神話の解釈というのもユングの仕事である。トリックスターのうま

くいった最高のものが所謂ヒーローだということで「ウルトラマン」というモチーフを思いつ

き、そういえば「ウルトラの母」というのがいたなあということで芝居の筋立てが出来上がっ

た。

 テーマは前述した通り「実感のなさ」である。意味による仮想現実の仮想の部分がいよいよ

露呈しはじめ、最後の砦である「肉体」「実感」さえも失われようとしている現代の問題点を、

よりその問題がはっきりと表れている若者を中心に描こうとした。17歳問題を真っ正面から

扱う芝居が来年あたりは出てきて欲しいというようなことを審査員の一人が言っていたが、こ

の芝居はそれを扱っていなかったのだろうか?それとも真っ正面ではなかったのだろうか?分

かりやすすぎるほどストレートに書いたつもりなのに伝わらないのはこれもまた書き手の技量

のなさである。

 意味で溺れかけている現実はきれいに塗り直された商店街、形だけは女の格好をしている

「女」に象徴されている。しかし子供を産むという実感があって初めて女ということがわかる

と気づいている女。だから彼女はこうも言う。「缶コーヒーって好き。舌に残る感じがいいの

よね。」と。自分が自分でなくなっていく感覚から脱出するために女に転身したからこそ、自

分の肉体を実感し、実感のなさに気づき始めている。肉体の実感ということについては地区大

会版では占い師の台詞でオーム事件の分析がされていた。オーム信者たちは修行の中で初めて

自分の肉体を実感したのだと。それは奇跡とよべるほど遠く離れた存在になってしまっている

ということが。(これもあまりにメッセージ色が強く、会話の流れを悪くするのでカットした

が)

 それに対してまだそれほど実感が失われていなかった時代の人間として「男」は登場する。

当時の歌が強く人の心に響いたのはまだ言葉に実感があったからだ。言葉は肉声であり、実感

を伝えるものだった。

 失われた実感を取り戻すために、麻痺してしまった五感を取り戻すために、彼らは深夜の街

で自分の声を聞いているのではないか?生まれて初めて聞いたであろう母親が自分を呼ぶ声に

耳を傾けてみよう。胎内にいる子供に母親の言葉の意味は届いたのだろうか。ただ子供のこと

を思う気持ちだけが伝わったのではないだろうか。少年は「意味内容のあるメッセージソング」

を見つけたわけではない。自分にとって大切なものが「実感」であると気づいただけだ。だい

たいラストの歌が「意味あるメッセージソング」だっただろうか?

 「もうずっと長い間面白い映画を見ていない。もうずっと長い間新しい歌を聞いていない。

空はあんなに明るいけれど日差しは石のように冷たい。もうずっと長い間本当に歌いたいと思

ったことがない。」という歌詞なのだが…。

 トリックスターの役割をヒーローが担っていた時代が終わり、マイナスのヒーローとしての

17歳の事件がある。実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦め

て生きるのではなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということ

を知らせ伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。男の歌はその決意

表明であり、その歌に集まる人々は作者のかすかな希望である。現実はそんな希望などかき消

されてしまうほどの悲惨な状況ではあるが、その希望さえなくしてしまってはもう人間の生き

る術はないのではないか?

 というわけで私がこの発言について納得できないのは、以上の理由からなのである。 

 

最後に、よその軒先を借りてこのように長々と言いたいことを言ってしまったことをお詫び

します。

 

 

[2000年11月29日 1時54分5秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 「高校演劇掲示板閉鎖についての私的見解」で問題となったある男子校というのが、わ

かる人は既にわかられていたとは思うが、今回取り上げる仙台三高の「ウルトラマンの母」

である。「高校演劇集会所」で本作について簡単な劇評を書いたのは、「私的見解」で述

べたとおりであるが、こちらの「劇評バトル」では本作についての劇評は書かずにいたの

で、どういう作品だったのかわからない方も多いと思う。「高校演劇集会所」の掲示板は、

先日復活したが、問題の議論した部分に関しては削除されていた。そこで、コンクールの

県大会も終了し一週間を経過した現在、ある程度ほとぼりも冷め、いわゆる『審査への先

入観』を心配する必要もなくなったところで、改めて本作についての私の見解を明確にし

ておこうと思う。なぜなら、「もう終わったことだから」と、なあなあにしてしまうのは、

「臭い物に蓋」的でかえって後味が悪くなると、私には思われるからだ。

 さて、本論に入る前に、一つ指摘しておきたいことがある。それは、地区大会と県大会

において、本作のレベルが明らかにアップしていたことだ。地区大会においては、役者個

々のセリフに棒読み的なところが多く、その感情のこもらないように見える演技に正直い

ってだれた部分が多く感じられたのだが、県大会では役者の、本当に自分自身の言葉とし

てそのセリフをしゃべっているように見える演技によって、本作の持つドラマ性が浮かび

上がり、最後まで緊張感を持ち、飽きさせない展開となっていたことは、高く評価したい。

本作が優秀賞を取るに至ったことは、(好き嫌いを別にして)彼らの演技を見れば、ある

程度納得がいくものであった。どうも、ある作品を批判的に取り上げると、「坊主憎けり

ゃ袈裟まで憎い」的に、すべてにわたって批判的な評価を持っていると誤解されることが

多いが、当然そんなことがあるはずはなく、1時間という長さにわたる一つの作品の中に、

よいと思える部分とよくないと思える部分が同居することは、いくらでもあり得ることな

のだ。

 では、県大会における役者の上達によって、私の本作に対する評価が180度変わった

か?といえば、残念ながらそうではない。なぜなら、「私的見解」にも書いたとおり、本

作に私が共感できない部分が、この作品のテーマに対するものであったのだから。例えば、

世の中には漱石の小説が嫌いだという人もいれば、モーツアルトの音楽が嫌いだという人

も存在する。ある作品が、「名作」と世間一般で呼ばれるものだから、すべての人がその

作品に感動するという考え方は、むしろ人間一人一人が違う感性・違う価値観・違う問題

意識を持っている以上、不自然なものであろう。それでは、なぜ私は本作に共感できなか

ったのか?

 この物語の主人公は、俗にいうストリート・ミュージシャンの少年である。ところが、

彼は歌いたい歌が見つからない。そんな彼が、歌いたい歌を見つけるまでを描いたのが本

作の主なストーリーなのである。

 この「歌いたい歌」を、私は「意味」と解釈した。つまり、「集会所」の掲示板にも書

いたが、ニーチェのいう「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送

れないから、意味にすがるのだ」という言葉に、まさに本作の少年の悩みは該当するよう

に思われたのだ。ところが「集会所」の管理人さんは、少年の悩みは「意味」などと限定

されたものではない空虚感だ、と反論されたわけである。

 しかし、本作で少年が作ろうとして、なかなか作れなかった「歌」とは、果たしてどう

いった内容の歌だったのだろうか?もう一人の少年ともいうべき心証を持つ、酔っぱらい

の男(実は昔、シンガーだった人物)は、こんなセリフを言う。「(昔は)社会に対して

言うべきことを歌にしていた。(しかし今は)恋を歌うようになった。」つまり、少年の

作るべき歌は(意味のない)ラブ・ソングではなく、「社会に対する」メッセージである

べきだと、この酔っぱらいのセリフは示しているといえないか?では、メッセージとは何

か?社会に向けて、「自分の価値観」という「意味ある言葉」を訴える行為を、俗にメッ

セージというのではないのか?「意味のないメッセージ」など、「白い黒猫」と同じくら

い、矛盾した表現だろう。

 もう一点。主人公がひょんな流れで、顔なじみのオカマと酔っぱらいを人質に立てこも

るシーンが劇中出てくる。犯人である主人公の要求は、最初「何もありません」というも

のであった。これに対して酔っぱらいが「お前がここに来てるのは、意味あってのことな

んだろう」と説教するのだが、ここでの「犯人の要求文」と、少年が作ろうとしている「歌」

は、共に社会に対するメッセージとしてシンクロしているものだろう。だとしたら、少年

の要求文に意味がないことに対して、「意味あってのことなんだろう」と酔っぱらいが説

教するのは、やはり少年の空虚感を埋めるには「意味」が必要だと考えているからではな

いか、とはいえまいか?

 なぜ、私がここまで「意味」にこだわるか?それは、私も少年と同様、空虚感を実感と

して持つ人間だからである。だからこそ、その処方箋に対して切実なものを持って本作を

見ていたのである。だからこそ、酔っぱらいのおじさんに代表される、昔は「反体制」と

いう意味があったが、今はそんなものがない、という現状認識にも同意する。問題は、今

の世の中に「意味」というものが存在しないことに対して、もともと存在しない「意味」

を捏造しようと作者は考えているのではないか?というのが私の本作に対する不満なので

ある。むしろ、「意味」などこの世の中には存在しない、ということを前提条件として、

では、どのようにして「良き生」を送ればいいのか?を考えることが、より現実的な選択

ではないか?というのが私の現在の問題意識であり、そのような考えを持つ私から見れば、

酔っぱらいが「意味あるメッセージソング」を歌うことによって、多くの観客が集まって

くるという本作のラストシーンには、まるで遺跡がないから自分で埋めて、さもそこに遺

跡があるように見せかけるような嘘臭さを感じずにはいられなかったのである。

 「自分のやっていることに意味はあるのか?」と悩む高学歴の科学者に対して、「いや、

お前のやっていることに意味はある。お前のその技術力で社会変革はできる」と、信者を

増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こしたことは、未だ記憶に新しい。高度成長の時

代と違って、目標を持てば今日より明日がよりよく進歩する、という時代は終わってしま

ったのだ。社会が悪い!とメッセージを訴えようにも、現に社会は豊かになっており、反

体制を訴えるべき理由がなくなってしまった時代なのだ。もはや、潔く「意味」を追い求

めることを断念し、意味がなくても幸せに生きられる手段を探すべき時代に来ているので

はないか?私が本作に共感できないのは、以上の理由からなのである。 

 

 

[2000年11月28日 0時50分13秒]

目次へ


宮城学院女子大学演劇部「If It’s」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここ2,3年の僕の年末の最大の楽しみは、宮学の12月公演を見ることである。今年

もついに、恒例のその日がやってきたのだが、相変わらずのほのぼのとした楽しい雰囲気

のお芝居で、最後まで飽きずに見させていただいたのであった。

 先の宮教の公演と同様、おそらく本公演も、見る人が見れば厳しい指摘をしたくなると

ころがたくさんあるのだろう、とは思う。しかし、そのような問題点を超えて、なおかつ

観客である僕に「楽しい!」と、ハッピーな気持ちにさせるものをこの大学の演劇部は間

違いなく持っている。では、それが何なのか?これについて、僕はこれから書こうと思う。

それは、僕の演劇を見る上での問題意識が、「いろいろアラがあっても、なおかつこの作

品を僕が面白いと思ってしまうのはなぜか?」という部分に大きく向いているからなので

ある。

 本作の主人公、菜月は画家志望の女の子である。大学を出て3年目の現在、彼女は絵に

対してスランプに陥っており、「自分から絵がなくなってしまったら、いったい何が残る

のだろう?」という悩みに苦しんでいる。そんな彼女と、大学時代からの友人であるフリ

ーターの牧乃、OLの香恵の3人が、街で出会ったある不思議な少年の超能力(?)によ

って、別の次元の世界に連れて行かれてしまう。そこは、何も存在せず、何もしなくてよ

い世界であり、その少年は菜月に「君がここにいたいと望んだから、ここに君たちを連れ

てきたんだよ」と話す。

 実は、その少年は菜月の中のネガティヴな心が作り出した、もう一人の菜月ともいえる

存在で、事実、菜月は絵に対してスランプに陥っている自分の状況を親友の香恵に話した

後、「このまま、なにもしたくない」という本音を吐露する。

 しかし、「何も存在しない・何もしなくていい」という世界は、いってみれば「死の世

界」を暗喩したものといえよう。精神的に参っているとき、人はおうおうに「自殺したい」

という思いを抱いてしまうものである。しかし、現実に死ぬことはやはりイヤだ、という

気持ちも矛盾ではあるが同時に持ち合わせているからこそ、多くの人は自殺しないで生き

続けているわけで、菜月も、一時は「ここにずっといてもいい」と思いながらも、やはり

元の世界へ戻ろう、と思い直し、もう一人の自分である少年と戦う決意をする。

 そんな菜月を助け、少年との戦いに助太刀をする不思議な少女が登場する。実は、その

少女は、以前菜月が飼っていた猫・アリスの霊なのである(だから、やはりこの世界は死

後の世界を象徴しているのだろう)。アリスや親友たちの助けにより、菜月はついに、元

の世界への帰還に成功する。

 つまり、本作は今年の高校演劇コンクールでの、白百合の「HAPPY BIRTHD

AY」と同じテーマを持つ作品なのである。現実世界は、自分にとっていいことばかりが

続くわけではない。むしろ、イヤなことの方が多いくらいだ。だから、「この世」ではな

い「幻想の世界」、あるいは「あの世」にいってしまいたい衝動に人は駆られてしまうこ

とが多い。しかし、それでもなおかつ「あの世」に行かず、「この世」に居残ろうという

気持ちにさせるのは、自分を「絵の才能」などといった限定したものによってのみ必要と

しているわけではない、全的存在を受け入れてくれる親友(あるいは飼い猫)という「居

場所」なのだ、というのが本作のテーマなのだろう。

 しかし、と私は考える。もし、そのような自分を受け入れてくれる存在がいない人間は

どうすればいいだろう?たぶん、そのような人間にとって必要なのが、「あの世」ではな

い「幻想の世界」なのである。つまり、今回の「宮学の演劇」、という存在自体が、実は

観客の僕にとっては、公演が終了すれば戻ってこれて、「あの世」ではないが「居場所」

として機能してくれる「幻想の存在」、しかもかなり居心地のいいそれだったのだ。

 宮学の芝居を見ていていつも感じるのは、何か舞台からパステルカラー、とでも形容し

たくなるような、明るく、穏やかな雰囲気だ。それは、たぶん僕がこの秋にコンクールで

見てきた、一部の女子高演劇部にも通じることなのだろうが、おそらく普段から、和気藹

々と楽しんで稽古をしているんだろうな、という感じが伝わってきて、それが見ているこ

ちら側も感応させ、なごんだ気分にさせてくれるのだと思う。

 確かに厳しい稽古をしてせっぱ詰まった状態に自分を持っていくことで、素晴らしい演

技を役者がする、ということはたくさんあるだろうし、事実そういう役者さんによって、

感動させてくれた作品だって僕も今まで何度も見てきたので、一概にこういう芝居がいい、

こういう芝居はダメ、と短絡的に結論などつけるつもりはない。しかし、和気藹々と楽し

んで稽古をしている感じが、ほのぼのと伝わってくる芝居というのも、その手の「居場所」

を求める観客にとっては、また得難い魅力であることも、また事実なのだ(もしかしたら、

彼女たちはかなり厳しい稽古をしているのかもしれないので、あまり勘違いしたことを書

くと失礼に値するかもしれない。でも、公演パンフに書いてあった「面白NG特集」を読

むと、あまりそういう感じがしないんだよネ。でも、僕にとっては、だから好き、という

面の方が強いんだけど)。

 個々の役者さんについて。主人公の親友のフリーター役で出てきた、手塚優子さんが面

白かった。大学出て3年もフリーターをやっているという設定からもわかるとおり、「明

日は明日の風が吹く」的なお気楽な性格であり、そういう「明るく元気がいいけど、ちょ

っとマヌケ」という見る者を楽しませる三の線の役作りが、ピッタリはまっていた。彼女、

去年の「センチメンタル〜」でもシローという少年の役だったが、元気のいい役が似合う

タイプなのだ。今回は特に、趣味で覚えたという催眠術を、もう一人の親友・香恵にかけ

る場面が、とても大仰かつコミカルでおかしかった(あと、ウィーンのダジャレ!)。た

だ、去年の演技に比べると、他の役者さんが静かな演技が多いのにひきずられたのか、や

や小振りになっていたようなところがちょっと残念だったが・・・。折り込みチラシに入

っていた来年3月の「学都出陣」の参加メンバーに、彼女の名前も入っていたので、今ま

で宮学の役者さんは1年に1回しか見られなかったのが不満だったが、もし3月もキャス

トで出てくれるというのであれば、今からとても楽しみである。

 それと、「幻想の世界」でボランティア活動をしている女性が、突然、ドラクエをより

面白くするには井戸から貞子を出せばいい、という話をするシーンがあるのだが、こうい

う突然関係ない話を、しかもいかにも幽霊がしゃべるように(ど〜ら〜く〜え〜は、い〜

ど〜か〜ら〜さ〜だ〜こ〜を)折り込むところが、あまりにもナンセンスで、おかしくて

仕方がなかった。ボランティアの女性は2人出ていて、どちらがこの役を演じた人なのか

よくわからないのだが(成沢綾さんの方?)、今年始めてみた顔なので、来年以降もキャ

ストでの出演を期待したい。

 そういえば、宮学の公演は、いつも3〜4人しかキャストが出てこないパターンがここ

数年続いていたのだが、今年は一挙に8人も出演していたので、少々ビックリしてしまっ

た。宮学は毎年12月と、一年に一回しか公演をしないので少々寂しく思っていたのだが、

せっかくキャストも増えたことだし、来年あたりは年2回、なんとかチャレンジしていた

だけないものだろうか?期待してますので、ぜひ、検討してみてください。 

 

[2000年12月16日 1時6分16秒]

目次へ


青葉玩具店「演宙遊戯」 

お名前: うにくりーむころっけ   

 

おもしろかったです。終わった後、あんなにじーんとした気持ちになった演劇を見たのは、

久しぶりでした。照明と音響のすばらしさと、舞台の美しさがとても印象に残りました。

何より、役者さんたちが本当に楽しそうに演じているのが、良かったと思います。

客席の上のほうに、とてもきれいなランプ(灯篭のような。)が飾ってあったりして、

観に来るお客さんのことを本当に大切に考えてくれているのだなあ、と思いました。

青葉玩具店の公演は今回で3回観ましたが、私は今回のものが一番楽しめました。

でも全ての作品に笑いと感動が込められていて、私はここの演劇が大好きです。

 

次も必ず観にいきたいと思います。

 

 

[2000年12月19日 22時45分22秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

青葉玩具店の芝居の観劇は3度目となる。

私にとっては、今回の「演宙遊戯」も期待を裏切らない素晴らしい芝居だった。

いつものストーリー展開の分かりやすさに加え、役者の身体能力の高さをよく生かした芝居

だったと思う。

 

青葉玩具店の芝居の良いところは、何も考えずに観ていられるところかもしれない。

映画を見に行くように芝居を見に行く人はまだ少ない。

芸術性や自分の主張を強調した芝居が一般うけしないのは至極当然のことだろう。

観客が何を求めているかではなく、作り手側の満足を優先させているからだ。

一般大衆の心を掴むのは老若男女誰にでも分かりやすいものではないだろうか。

そういった意味で青葉玩具店の芝居は、仙台で演劇が発展するための大きな役割を果たして

いくのではないかと思う。

 

1人の役者が多くの役を演じ分ける今回の芝居、役者不足ということではなく、役者としての

挑戦や自信といったものからきたものだろう。全体として巧く演じ分けていたと言えると思う。

特に雲雀壱志という役者は、それぞれの役に大きな特徴を持たせることで演じ分けており、

彼によって舞台上に創り出された人物は、どれも好感の持てる人物だった。

それに対し、滝田、不実、松田の3名は役の演じ分けがやや弱いと感じた。

彼らの役者としての成長により、青葉玩具店の芝居がさらに良いものとなることを期待する。

 

次回公演も楽しみだ。

 

 

[2000年12月18日 19時14分43秒]

 

 

お名前: れぽたん   

 

私も正直物足りませんでした。

青葉玩具店さんならもっとやれたんじゃ…。なんて。

なんかお芝居を見たのではなく、

青葉玩具店さんの役者を見に言ったみたいな感じでした。

それはそれで楽しんだんですがね。

私には以前見させて頂いた「life for life」

のような満足感は得られませんでした。

次に期待します。

 

 

[2000年12月18日 1時41分23秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 以前、新月列車の「誰か−STRANGER−」の劇評で、私はこんなことを書いた。

>ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

>少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいて

>い、「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさら

>に・・・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係

>性とか自分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女

>だと女子の方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因

>がある、という意見である。

 新月の「誰か−」が、その少女漫画を原作とした「他者との関係性」をテーマにした作

品だとしたら、今回の青葉玩具店の「演宙遊技」は、まさに少年漫画的・ジャンプ的作品

だったといえよう。

 「世界征服をたくらむマッドな博士と対決し、最後は勝利して世界平和に貢献する。」

身も蓋もなく言ってしまえば、本作のストーリーは今まで幾たびも少年漫画に掲載されて

きたストーリーのデジャ・ブ、焼き直しに過ぎない。もちろん、その手のストーリーがわ

かりやすく、また、善・悪の対立という、ドラマ性を生じさせやすいということから(こ

れは高校演劇コンクール県大会で、石川裕人氏が白女・後藤尚子さんにいった講評そのま

まではないか!)、何回も何回も飽きることなく作られてきたものである、ということは

理解できる。ジャンプが以前のような極端な勢いをなくしたとはいえ、何冊かの少年漫画

誌が商業ベースで成り立っているのは、そういったストーリーを面白がる読者が多数存在

しているからに他ならないからだ。しかし、今の私にはその手のわかりやすいエンタテイ

メントは、もはや物足りなく、嘘臭いものでしかなく、だからわざわざ劇評へ足を運んで

1800円の入場料を払ってまで見たいものではない。200円ちょっとでコンビニで買

えるにもかかわらず、あえて買わないものを、なんでそれ以上の手間暇を書けて見に行か

なければならないのだろう?それよりは、少女漫画に象徴されるような、複雑な人間関係

のシミュレーションゲームを読んでいた方がずっと面白いし、感情移入できる。

 これら作品のテーマは、理想を追求し、秩序を回復するための、正義の物語である。し

かし、私は、先の三高の劇評でも書いたとおり、「正義の味方」や「プラスのヒーロー」

を蘇らせることなど、例えていうなら、そこに存在しない遺跡を捏造するようなもんだ、

という現状認識を私は持っている。そんなわかりやすい「正義」が信じられるのなら、な

にも高校演劇の地方大会を見に行くために若柳や本吉まで足を運ぶような、業の深い酔狂

な真似などするわけがない。だって、私はコンビニでジャンプ読めばそれで今の生活に満

足できる、というタイプの人間ではないのだから。

 もちろん、このような反論をする人がいるかもしれない。「本作ではニセのブルース・

リーは自分がレプリカントである、という悩みを途中から抱え出す。これはアイデンティ

ティ不在という我々の現状をテーマとして扱っているということではないか?」と。しか

し、この悩みが本当に作品のテーマといえるほど掘り下げられていただろうか?結局は、

その悩みが迷いとなることによって、ニセ・ブルースリーは主人公に負けてしまう。つま

り、この悩みは作品のテーマとして作者が取り入れようとしたものというより、敵役が主

人公に負けるための原因を作るために、ご都合主義的に取り入れられたようにしか見えな

いのだ。だって、ニセ・リーはこの悩みを解決するために、自分探しの旅に出たり、引き

こもったりするわけではないんだもの(笑)。

 本作でニセ・リーはマッド博士に対して、「俺は何のために産まれてきたんだ!」と叫

ぶ。でも、「何のために産まれてきたか」なんて、すべての人間にとって「偶然」でしか

ないんだよ。自分の父親と自分の母親が何十億という世界中の男女の仲からであったのも

偶然だし、その良心のたくさんある精子と卵子の中からどれが受精したかも偶然なんだも

の。だから、私は三高の劇評でも書いたとおり、「人生に意味はない。」と考えてるし、「意

味にすがるのは弱者だ。」というニーチェの言葉を引用したのだ。

 また、作品の最後で、実は主人公もマッド博士の作ったクローン人間だった、というオ

チが付くのだが、これも観客を裏切ることによって「あっ!」と言わせるためのサービス

精神以上の強いテーマは感じられなかった。要するに、どっちも「本物」ではないという

オチは、「自分は本物だ」という強い「妄想」を持っていたものの方が、悩んでいる人間

より精神的に強い分、勝負の際は有利、という教訓を、示していることになるといえよう。

しかし、そのような強い「妄想」を持ちようがないのが、何が正しいかわからない今の時

代という現状なわけだし、逆に安易に強い「妄想」を持ってしまうことが危険であること

は、やはり三高の劇評でやはり例として出したした、オウムの一件を見れば明らかだろう。

 最後に念のため申し添えるが、私のここまで書いた劇評は、本作を見て面白かったと思

った人達の感想を否定するものではない。世の中には、同じ作品を見て「面白い」とも「面

白くない」ともとる人間が両方いることは当然のことだ。特に、本作のエンタテイメント

性は、先に述べた少年漫画を面白がる人が一定多数いるように、世の多数派の方々にとっ

て受け入れやすい面白さであることは充分理解できる。私のこの劇評は、あくまで私の内

面にとってどうだったか?と言うことについて書いているので、本作を「絶対的」レベル

で否定するものではない、ということをなにとぞ御理解いただきたい。

 

 

[2000年12月17日 21時40分51秒]

 

 

お名前: 桜井   

 

初めて書きこみします。みなさんよろしくお願いします。

青葉玩具店についてですが、初日見てきました。もう、なんて表現したら良い

のでしょう?彼らの個性的な光る演技はもちろんのこと、開場してからのラジオ番組系

のトークや、次回予告など、相変わらず斬新的な演出に、最初から最後まで、瞬きもせず

釘付けになっていました。

 

永澤真美さんの迫力ある演技力、見事でした。

 

私は芝居を見た事がほとんどありませんでしたが、青葉玩具店をきっかけに、

お芝居の楽しさを味わうことができるようになったと思います。

将来が楽しみな劇団ですね!!

 

 

[2000年12月16日 3時44分41秒]

 

 

お名前: 小泉   

 

 青葉玩具店の演劇は初めて見ました。

 

 自分はあまり演劇を見たことが無いので上手く書けませんが

本当に面白かったと思いました。ストーリーのテンポがよく、

2時間があっというまに感じられました。音楽が大きすぎて

セリフが聞き取りづらかった場面など少しありましたが、

それ以外での場面での役者の方々の声はよく通ってて

とても感情移入しやすかったと思います。

 

 少ない人数で何役もこなしていたにも関わらず、動きなどで

すぐ別な役だと気付けました。特にクローンのブルースリーの弟役の方の

演技が一番印象に残りました。空維の兄の役から弟の役に流れるように

変わった演技が素晴らしかったです。

 

 あまり思ったことを文章に出来なかったですが、本当に面白かったです。

次回作も面白そうなので期待したいと思います。

 

 

[2000年12月15日 23時50分47秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初日を見た、後2日あるのであらすじ等は見てのお楽しみとしたい。

 青葉玩具店は3回目の観劇になるが、その都度満足して返ってきた。

まだ結成2年目の団体とは思えないほどの完成度だ。

徹底したエンターティメント路線で一瞬も飽きさせずに最後まで見せる。

まず俳優ありきで、役者が本当に楽しんで演じているのがわかる。

テーマが何かを感じさせるより、彼らにとっては演劇そのものがテーマであり、

「演劇表現によって何が可能か」ということがテーマになっているようだ。

3回とも違った路線で、今回はSFアクションと言ったらいいのかもしれない。

作演出がその都度違うようで、作演出が違っても面白いのは、確かな技術に支えられているからだ。

舞台美術、音響、照明の技術は仙台屈指と言っていいだろう。

そして体の切れる、個性的な役者達。舞台技術にも、役者にも全く穴が無い。

 今回、役者達は一人何役もこなし、場面も何十という場面で成り立っているのだが、

暗転が2,3回しかなく、場面場面を見事な照明と音響でつないでいる。

舞台も中国の闘技場や城壁をイメージさせ、奥が2階建てになっていてうまく高さを使っている。

演出家が本当に観客のことを考えていて、客席に観客がいるのを感じさせてくれる。

集団としての勢いや、やる気を感じさせて、見た後すぐ誰かを見に誘いたくなるような舞台だった。

仙台のこれからの演劇を変革させてくれるような集団だと思う。

青葉玩具店の舞台は過去、あまり書き込みが無いので観客の皆さん是非感想を聞かせて下さい。

 

 

[2000年12月15日 23時0分10秒]

目次へ


宮城教育大学演劇部「ミナモノカガミ」 

お名前: 井伏銀太郎   

 

太田さん早速の書き込みありがとうございました。

面白かったか面白くなかったかと聞かれれば単純に面白かった。

笑わせようとしていて一度も笑えなかった劇団もたくさんあるのと比べると

劇中何度も笑った。

太田さんが推薦していた依子役の照井麻貴子さんが特に面白かったと思う。

 私が特に感じたのは先の文でも書いたけど、過去の物語の素晴らしさです、それだけで

芝居を作ったらいいのではないかと思ったほどだった。三島由紀夫を連想させた。

それに比べると現代の設定や、過去と現在を結びつける必然性が弱かったと思った。

現在の物語は太田さんの言う怪獣ものよりは「スケバン刑事」等のイメージが強いように感じた。

三島とスケバン刑事が混在しているように感じたのです。

 

 私は何度も劇評バトルで書いているとおり、小さいリアルなドラマの積み重ねでしか大きなドラマが

成立しないという考えなので、リアリティ−の基準ということにこだわっているのです。

 私は演劇とは、省略の芸術だと思っています。例えば室内劇においては観客側の壁が第4の壁として

省略されているわけで、時間や空間を省略していって、想像力でその省略部分を補っていくものだと

考えています。

 と言うわけで過去何度も同一空間上の本物とパントマイムの混在に対してリアリティーの基準を

(省略の基準)をどこに設定しているのかと指摘してきたのです。

何の理由もなく小道具を省略してしまっているところがあまりにも多すぎました。

思い起こしてみると、同じテーブルの上でチンチロリンの茶わんとサイコロが本物なのに、賭けている

お金が無対象だったり、本物の料理を食べているのに、飲み物が無対象演技とか、

本物の缶コーヒーを飲んでいるのに瓶ビールが無対象だったり。もっとひどいものになるとお客が

代金を本物のお札で払っているのに店の人のおつりの500円玉が無対象演技だったり。

それをなんの疑問もなく演出家が見逃しているわけです。笑い話のようだけど2,3年前まで仙台の

劇団も平気でいい加減なことをやっていたのです。

 同じ無対象でも、もしもしガシャ〜ンの「フニフニ王国」のクライマックスは素晴らしかったと

思いました。ホモのカップルの一人が自殺を図るのだけれど、台風の効果音とガラスの割れる音、

無対象でガラスを拾って自分の首に突き立てたのだが、音響や役者の集中力によって見えないガラス

が見えてきたのです。

このように演出がしっかり考えて使えばいいのだが、今回の宮教の芝居は意味なく無対象にしているとしか

思えない場面が多々ありました。

そういう技術的なところはすぐ直せるので、次回頑張って欲しいと思いました。

 

[2000年12月14日 1時21分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 井伏さんから僕に対して、井伏さんの劇評に対するコメントを求められましたので、こ

れについて述べさせていただきます。

 今回、井伏さんの御指摘のあった件につきましては、「現在の設定が安易」という部分

で意見が一致した以外は、ほぼ技術的な部分であると思うのですが、以前に「作品論か?

技術論か?」でも書きましたとおり、僕は作り手の立場に立ったことのない人間であり、

観客の視点から演劇を見続けてきた人間です。その意味で、今回井伏さんが指摘された点

につきましては、「なるほど、作り手の人はこういう視点で見ているのか。自分は見落と

していたことがたくさんあるんだなあ。しかし、言われてみれば確かにその通りではある

なあ。」と感心させられた、というのが率直な感想です。

 しかし、あえてこれは強調しておきますが、井伏さんが指摘された問題点について僕が

「全くその通りだ」と同意することが、イコール僕にとってこの作品に対する「面白かっ

た」という肯定的評価を減ずるものではないのです。

 なぜなら、例えば以前にも書きましたが、僕はクラシック音楽のファンでもあり、よく

オーケストラの演奏会を聴きに行きます。それで、プロの演奏家の方のお話を伺ってわか

ったことなのですが、僕のような素人にはわからないミスや事故が、演奏会の中では毎回

けっこうおこっているということなのです。それはきっとプロの方ならわかることだろう

し、そのプロの方がその問題点を指摘することによって、彼らの演奏がより良くなるので

あれば、それは大変けっこうなことだと思います。しかし、そのようなミスがあったこと

が後でわかったからといって、僕がそのコンサートでの演奏に対して大変感動した、とい

う事実は変わるものではないのです。

 技術はないよりあった方がいいでしょう。しかし、人が芸術を見て感動することは、必

ずしも技術的巧拙に限定されるものではない、ということもまた事実ではないでしょう

か?今述べたオーケストラの件で言えば、例えば故カラヤンについて、「表面的にはとて

も完璧な演奏をするが、中身が空虚で、作品から訴えてくるものが何もなかった」という

批評が生前からよくなされていたものでした。僕はカラヤンの演奏をライブで聴いたこと

はありませんが、確かにルーティンワークで弾いてるんじゃないか?と思わせるような外

国の「一流」オーケストラの演奏会には何度か出くわしたことがありましたし、そのオー

ケストラの演奏に比べれば技術的には稚拙であるだろうアマチュア・オーケストラの演奏

会の方に、より感動することも多いのです。

 例えば、今回の井伏さんの御指摘でいうなら、「見えないコップで水を飲んだ」とか「絵

の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出した」といった矛盾点は、僕に

とっては気にならない範囲の矛盾であり、たとえ気がついたとしてもそれによって太田と

いう人間に本作がつまらないものになるほど決定的な性質を持つミスではないから、僕の

劇評では指摘しなかったということです。もちろん、だからといって井伏さんがその件を

劇評で指摘しなくてもいい、ということではありません。井伏さんが指摘することによっ

て、宮教の方々がよりよい芝居を作れるきっかけになるのなら、それは彼らにとっても望

ましいことでしょうから。

 また、「国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか」という点につい

ても、それをいうなら僕が子供の頃に見た「仮面ライダー」のショッカーなんてのは、か

なり間抜けなことをたくさんやっていた悪の組織で、あれはいっぺんに何十体もの怪人を

ライダーにぶつければ、最初からライダーに勝ってたのではないか?とか、あるいはなん

でウルトラマンはスペシウム光線を最後の最後まで使わないんだ?とか、「間抜け」な部

分はたくさんあったわけで、そういう間抜けな部分を集めた「怪獣VOW」なんて本まで

出ているくらいですが、だからといってあれらの作品がつまらなかったか、といえばそん

なことはない。30代、40代までそれら特撮モノをひきずっている連中が「オタク・カ

ルチャー」という一ジャンルを現在築いているのは周知のことでしょう。ウルトラセブン

についての作品批評など読むと、正義対悪という単純な二項対立に限定されない深いテー

マが内包されていることが指摘されており、確かにそういう視点で見ると、子供の頃は「戦

闘シーンが少なくてつまんな〜い!」と思っていた話が、「ゲッ!こんな話、子どもに見

せてわかるのかよ」という大人になった今となって逆に落涙を禁じ得ない話だったりする。

まあ、これは何もこれら昔の作品に限ったことではなく、僕が何かにつけて引き合いに出

すエヴァンゲリオンにしたって、井伏さんのおっしゃる「人物設定の安易さ」と「行動の

いい加減さ」といった矛盾点は結構あちこちに存在し、いわゆる謎本を読むと、それらに

対するツッコミがてんこもりだったりするわけなんですが、だからといってあの作品がブ

ームとなり、多くの人がはまって感動したという事実が消えるものではないわけです。

 小学生の書いた稚拙な絵でも、見る人によっては強い衝撃を受けたり、深い感動をした

りするものです。僕は技術的な巧拙の向こうにある、テーマ的なものに目を凝らしたい、

それが批評の持つ重要な役目であろう、と考えています。もちろん、それが井伏さんの書

かれる技術的批評を否定するものではありません。井伏さんの御指摘によって宮教の人達

がよりよい芝居を次回以降作れるのなら、それはそれでけっこうなことですから。また、

いくら技術的なことはわからない、と言っても、それこそ僕のような素人でもわかるよう

なひどいミス、さっきのオーケストラの例でいえば、明らかにトランペットの音が外れて

いて、それで演奏が台無しになってしまった、という事例については、僕も書くことがあ

るとは思います。ただ、僕としては「ミスはないけど平板な演奏」を、技術的な問題点が

ないから賞揚する、ということは絶対したくありません。どことはいわないけれど、そう

いう内容の芝居をしていて、一部の方々に好評を得ている劇団がありますが、その手の劇

団に比べたら、今回の宮教の方が百倍も千倍も面白い、と僕は思っているのです(もちろ

ん、それだって、あくまで僕の主観なんですけどね)。

 

[2000年12月13日 21時57分40秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 インターネットでの、あらすじにひかれ見に行った。

学内発表会と違い、公演と名打っているからには、一般の劇団と同等に評価してみたい。

俳優の中には何人か可能性を感じさせる人がいたし、脚本的には確かに伝説的な部分で作家の才能を

感じさせたし、過去の場面の布を使った処理も良かったと思う。しかし私は、太田さんや

クール・ドッグ さんとは違い、作/演出に対しては、今の時点では満足出来なかった。

 

 あらすじは太田さんが書いているので、詳しくは述べないが、

過去の物語の設定の素晴らしさに対して、現在の物語が安易すぎる。

物語が、場当たり的で、必然性や、登場人物の動機付け、行動がいい加減すぎる印象を感じた。

過去の物語と現在の物語の接点が、たまたま帰郷して、たまたま神社の倉庫に入った兄弟というのが

効果的だったろうか、そこになんの必然性も感じられない。後半で姉妹の葛藤が兄弟の葛藤に

推移するのだが、太田さんも書いているとおり、初め兄弟になんの葛藤もなく、その場その場で、

作家の都合で設定が変わってきている。物語の進行が「たまたま」で成り立っている。

過去と現在が融合されるならそこに大きな必然性を感じられなければならないと考えるのは私だけ

だろうか?

確かに物語の中のリアリティーなどあまり気にしないで、その場その場を楽しめばいい、と言う

考えもあるだろう。しかし、物語が歴史的で、現在と過去が行ったり来たりするのだから、それを

支える設定にリアリティーが無いとすべてが安易な物語に見えてくる。

 

 キャスト表に警官と書いてあるのだが、どう見ても警備と胸に書かれており、警備員にしか見え

なかった。それを「警察、警察」と言っているものだから、最後までそれがはっきりしなかった、

警官が能面を探す為に一般人になりすましたと言っていたが、警官が一般人の警備員に化けていたと

理解すべきなのだろうか。それなら何故初めに、警官警官と騒いでいたのか全く理解できなかった。

 

人物設定も安易すぎた。

近くの診療所に入院している女と医者が兄弟の幼なじみなのだが、その二人とも国の機関(研究所)

に勤めていたという設定や、能面をかぶった神主が大量殺人にしたという事件(55年の悲劇)

の唯一生き残った神主の妻が、弟が昔バイトした喫茶店の女主人だった言うのだから、歴史的、

国家的出来事が、すべて町内の知り合いの中で起こっているようなのだ。

 

行動のいい加減さも目立った。

能面を探るために何故、近くの診療所に偽装入院する必要があったのかわからなかった、そんな

遠回りなどせずに、直接的に処理すればいいことだろう。

国が必死で隠したとされる、「55年の悲劇」も雑誌の女編集員が簡単に知っていたというのも、

あまりにも安易すぎた、それでは国家機密にならない。神社の倉庫に能面の文献を調べに入った時、

何故カギを締めたのか、そして放火するわけだが、初めから特務機関は4人を殺すつもりだった

のか等。

そして放火後生き残った弟が、すぐに兄達の生存に意識がいかなかった点など。

国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか、犯人が診療所の方に逃げたと電話

してきたり、それが分かっているなら自分達で捕まえろとツッコミを入れたくなった。

 

演出について。

俳優達は、ほとんどが棒立ちで、身体感覚を喪失している。特に気になったのが、弟だ。

初めに兄弟が診療所に幼なじみを訪ねた時、医者が「暑い暑い」と言いながら舞台袖から出てくる

のだが、その時ゲンコツを顔の前で、ひらひらさせるのだが、初め意味がわからなかったが、

どうやらウチワの無対象演技らしい。

劇評バトルで何度も指摘しているが、同一空間上で本物と、意味のない無対象演技(パントマイム)

をいまだに何の必然性もなく使用している。

リアルなものと、パントマイムの演技が意味なく混在しているのだ。

特に喫茶店の場面で、それが目立った、はじめ見えない水道で、見えないコップで水を飲んだかと

思うと、本物に見せかけた、絵の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出したり。

勝手に電話を使ったと怒られると、お金を払えばいいんでしょと、お金をつまんだパントマイムの

演技をする。

観客がどこにリアリティーの基準を置いていいのかわからない。演出が観客の視線を全く意識して

いないのだ。

何故本物を使わないのか理解できなかった。

 

次ぎに、意見の分かれるところと思うが、かがり火が倒れてやけどを負った姉の演技も気になった、

常に、妹の旦那にやけどを見せているのだが、これは観客に一瞬見せて、後は男に対しては頭巾等で

隠していたほうが、女心が伝わったように思う。

 

 部員のやる気や、作家の才能は感じられた、次の公演も見てみたいと思わせた。

次は、作品のリアリティーの基準や、演出家が観客の視点をもっと意識したほうがいいだろう。

観客は冷静に、しかもしっかりと舞台を見つめているのだから。

 

太田さんは私と同じ時間に見ていたので、私の感じた部分どう感じましたか、良かったら書き込んで下さい。

 

[2000年12月12日 23時53分39秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

面白かった。

まず脚本が良く、感心した。太田さん同様、脚本家の恵まれた才能に敬意を表する。

また、演出もすばらしかった。よく演出がいるはずなのに全く演出効果のない芝居を

観ることがある。しかし、この芝居では、実にいいタイミングで音が入ったり、初め

にスクリーンとして使用していた幕を芝居中巧みに使用するなど、効果が随所に盛り

込まれていた。

私の芝居を観る楽しみは、生の迫力だけではなく、「こうきたか!」と思わせてくれ

る演出効果にある。野田秀樹のような演出家がそうそういるとは思わないが、テレビ

ドラマを観ているような芝居を観た後は、わざわざ時間をかけて足を運んだことが悔

やまれ、どうしようもなく不機嫌になってしまう。

宮城教育大学演劇部のこの芝居、「来てよかった。」と思うことができ、帰りの足取

りも軽かった。宮城教育大学演劇部の皆さんに感謝したい。

毎回面白いのかどうかわからないが、学生演劇は観ないという方々、一度御覧になっ

てみてはどうだろうか。少なくとも今回の芝居は観る価値があったと私は思う。

太田さんによると、冬公演がお薦めらしい。また、チラシによると卒業公演が3月に

あるらしい。期待できるのではないだろうか。

私も時間があれば、また足を運ぼうと思う。

 

[2000年12月11日 18時53分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 2年続けて宮教演劇を夏、冬、夏、冬と見てきて、一つ気づいたことがある。それは、

夏公演の時は柱的存在の4年生が抜け、また新入生がまだ経験不足のためか、役者の技術

的面で少々不満を感じさせる演技がまま見られるが(それでも、宮教ならではの一生懸命

オーラで、それをカバーしてしまうのだが)、冬公演となると、役者の技量もアップして

きて、長編を演じながらも最後まで緊張感を途切れさせず、結果、一般のアマチュア劇団

を凌駕する名演を見せてくれるということだ。今回の「ミナモノカガミ」も2時間20分

の長編であったけれども、やはり最後まで飽きさせない、ドラマティックないい芝居であ

った。しかも、今回は久しぶりのオリジナル脚本である。シバタテツユキさんの作家とし

ての才能に敬意を表したい。

 物語は中世(役者の服装から考えて、平安〜鎌倉あたりか?)の巫女的な舞師(地鎮舞

踊)の家族と、現代のある兄弟をめぐる2つのストーリーが並行する形となっている。代

々舞師の家系を継ぐ家の仲の良い姉妹の前に、ある日、分家の若者が現れる。分家の若者

は男の子がいない本家に養子として入ってもらう予定となっており、実際彼は長女と恋仲

になるのであるが、ある時儀式の最中に篝火が長女の顔にぶつかり、長女は顔に大やけど

をおってしまう。世間体を気にする一家の主は、それでも長女を愛する若者に、「夜は姉

と一緒にいてもいいが、表面的には妹と結婚する形を取ってくれ」と若者に頼み、若者も

渋々それを承諾する。しかし、それが3人の心に深い溝を作り、姉はそのルサンチマンを

面(能面?)を作ることにぶつけていく。姉の負の心がこもったその面は、その後つけた

ものを破滅に導くものとして恐れられていく。

 そして、舞台は現代。お盆で帰省した兄と、それを迎えた弟は、2人でいたずらに神社

(?)に侵入し、偶然その面を見つける。弟が戯れにその面をつけようとしたとき、面は

光と共に弟の顔に吸い込まれてしまう。そして彼は、その面をつけたことによって、長年

に渡って不幸の源であるその面を壊そうとしてきた国の特務機関に追われる身となってし

まう。と、いうのが本作の主なあらすじである。

 秘密の政府系研究所や謎の特務機関が出てくるのは、どうも最近、宮教演劇のお家芸と

なりつつあるようだ(「パーフェクトライブス」しかり、「ウオルター・ミティ」しかり)。

しかし、面をめぐる政府系研究所や村の古老による謎解き、あるいは特務機関との追いつ

追われつの展開。これらドラマティックな要素が物語の中にてんこ盛りで詰まっているの

だから、これが見る者にとってスリリングな展開とならないわけがない。エンタテイメン

トとして、お客さんをどうすれば飽きさせないかを、作者が考え抜いているからこそ、こ

ういうサービス精神いっぱいの脚本が出来るのだろう。その意味で、シバタさんの脚本を

僕は高く評価するのである。

 そして、外面的なエンタテイメントの部分と並び、観客が登場人物の内面に感情移入す

る部分として設定されているのが、「負の心」をテーマとしたドロドロとした人間関係で

ある。この仲の良い姉妹と分家の若者との三角関係を見て感じたのは、パターンは異なる

が「ロミオとジュリエット」みたいだな、ということだ。どういうことかというと、「ロ

ミジュリ」は、両家の不和という「世間」の大きな力が二人の前に「壁」としてあらわれ

るわけだが、本作では姉の火傷が原因として、彼女の親を代表とする「世間」が、2人の

結婚を許さない「壁」として出現しているわけである。しかも、その「壁」が「ロミジュ

リ」のように、ストレートに2人を別れさせようとするのではなく、「表面的には妹と結

婚しろ。夜は姉と夫婦として暮らしていいぞ。」という、偽善的な妥協案として姿を現し

ていることが、本作のストーリーをより屈折した面白さとしているのである。つまり、こ

の「偽善」によって、本来なら苦しむべき存在が2人であるところが、結果として妹も含

めて3人がそれぞれ自分の中の「負」の心と対峙するという構造になっているのである。

 しかし、このことに関して私は少々不満を感じるところがある。それは、本作がドラマ

ティックになっているのは、そのような世間の壁が強大であった昔の話であったからこそ

可能になったのではないだろうか?つまり、「世間」というものが以前ほど強大でなくな

り、恋愛が自由になった現代に、このようなドラマは、自分のこととして感情移入の対象

となるものにはなり得ないのではないか?ということだ。ここ数年、「自分探し」とか、

「自分を見つめる」といったテーマの作品が、ジャンルを問わず流行になったのは、その

ような世間の壁がなくなったにもかかわらず、自分は相変わらず不幸である。それはなぜ

なのか?世間が原因でないとするなら、自分自身に原因があるのではないか?という疑問

が「世間」の力が弱まった結果として、多くの人の心にテーマとして浮かび上がったから

ではないだろうか?

 だからこそ、本作の現代のシーンでは、特務機関とのスリリングな展開といったエンタ

テイメントとしては魅せるものの、主人公の内面描写としての部分は、中世の場面に比べ

ると弱いものになっている。面を着けた弟は、面を被った影響によって、兄に対する憎し

みを強めていくのであるが、その憎しみは「面」をつけたことによって増幅されているに

過ぎず、本来、面をつけなければ兄弟仲を破滅させるほどの決定的なものとはならなかっ

たであろう、と思わせるほど、説得力の強いものとはなっていない。

 確かに、「障害」「壁」が物語の中に存在し、それと戦うというスタイルをとることは、

物語の中にドラマを作り出す王道ともいえるものである。しかし、私は芝居を見るからに

は、「今の自分」にシンクロできる作品を見たい。「親の反対」や「世間体」が存在しな

いにも関わらず、なぜ自分は幸せを実感できないのか?それをテーマとした作品を、次回

以降シバタさんが作ってくれればいいなあ、というのが、本作を堪能しつつも一観客とし

て感じた贅沢な要望である。勝手な希望で恐縮だが、是非ともチャレンジしていただきた

いものである。

 個々の役者について。今回は、なんといっても依子役の照井麻貴子さんに尽きるでしょ

う!この依子という役は、面をめぐる謎を取材するためにやってきた出版社の2人組のう

ちの一人なのだが、なんだか旧あみんの岡村孝子を思わせるような、クラ〜い雰囲気で出

てくるのである。そして、その暗さがマンガチックで、わざとユーモラスに演じていると

ころが、たまらなくいいのだ!そして、彼女は一種の超能力も持っており、いきなり写真

を念写して、周りを驚かせたりするし、さらには特務機関との戦闘シーンでは、なんと!

「日出処天子」の厩戸皇子のように、「気」によって敵を吹っ飛ばすことが出来たりする

のである!この手の不思議系少女は、まさに「アイドル評倶楽部」たる私のツボにズバッ

とハマってくるキャラクターであり、「あ〜あ。今回は吉田みどりも笹本愛もキャストに

出てこないのかあ。イマイチ物足りねえなあ。」と思っていた私の心を見透かすかのよう

な(ていうか、見透かされてました?シバタさん・笑)ナイスキャストであったといえよ

う。宮教は、必ず一人はこういう不思議系が舞台に出てくるところが嬉しい。ホント!役

者の層が厚いんだよねえ。

 そして、高橋愛美さんや鈴木香里さんといった、その手のオーラこそ出ていないものの、

手堅くワキを押さえる毎度ながらの見事なバイ・プレイヤーぶりにも、いつものことなが

ら感心させられた。彼女たちは宮教であるからこそ、渋いバイ的印象が強いが、ひとたび

どこかの劇団に客演すれば、以前の「ワガクニ」の高橋(妹)さんのように、他の劇団の

役者を喰ってしまうだけの実力を持ち合わせていることは確実であろう。

 そして男優では、なんといっても斉藤雄介君。背が高く、スタイルがいいので、いつも

出てくるだけで、「ああ、彼、今回もキャストなんだな」とすぐわかる、見栄えの良さ。

そして、割舌が悪いのか、その巻き舌気味の外国人のような独特のセリフ回しも、最初は

違和感があったものの、最近では彼ならではのポジティブな個性として楽しめるようにな

ってきた。すべてに平均的で印象に残らないような役者さんよりも、一見弱点のように見

えながらも、それが強烈な個性として残る役者の方が僕は好きだ。その意味で斉藤君は、

ある意味僕にとって「宮教の顔」であり、彼が出ることによって「宮教の芝居見たー!」

と思わせる役者さんなのである。これからも、大いに頑張ってほしい、と思わずにはいら

れないのであった。

 

[2000年12月10日 23時15分49秒]

目次へ


開かれてきた高校演劇 

お名前: 忌野  際   

 

仙台三高の演劇をめぐり、議論が活発になってきていることを歓迎する。笠原、小山、大田氏の

それぞれの主張を歓迎したい。とかくこういう話はこじれてくると「空気が悪い」の「怖い」の

「揚げ足とり」だのと思う方もいるようだが、私は空気のよしあしよりも、自分の存在をしっか

りと表現している寄稿者の姿勢を常にすがすがしいと思っているし、無気味なスマイリーの乱れ

飛ぶなれなれしい掲示板こそ、こういう場にはふさわしくないと考えるからだ。無論、管理人氏

が不適切と感じるものは削除の対象にもなろうが、このページの管理人氏は大変に懐が広い。私

はこの姿勢もまた支持したいと思っている。

 

 さて、高校演劇が開かれてきた。WEB上の掲示板を通して、いままでは会場アンケート(それ

以前は会場掲示板)に書かれてきたことが、広く一般の目に触れる環境が整ってきたと思える。

このような風潮に対して小山氏は「仙台三高」の演劇に関する議論で「私どもの弱みは、今生き

て色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに動いている生徒とともに

に生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないん

ですよ。」という所感を述べておられた。氏の述べるとことはむしろ「強み」であり、「自信」

になるはずだ。仮に「ひでえこといわれてるなあ」と思っても、それを黙殺するだけの自信があ

ればいい。氏の学校は常に秀作をコンクールに持ってきており、優秀な実績を常にあげているで

はないか。

 私が言いたいのは、高校演劇も「聖域」ではなく、広く多くの人に開かれるものであるべきだ

し、多くの人の意見を求める必要があるということだ。無論その中で無責任な誹謗や中傷にさら

されることもあるだろうが、この掲示板に関する限り、それなりの論拠をもった意見が述べられ

ており、神経質にこれを気にする必要は特にないと思う。所詮どのような劇評であっても、それ

は「個人」の印象であり、また、見に来てくれたお客様の中でも「批判」をあえて寄せてくださ

るお客様というのは、黙って帰って「クチコミ」で悪評を流してくれるお客様よりも数段真摯で

あり、真っ向からその劇作者に向かう姿勢を持っている点で、私はこれを受容しなければならな

いと考えている。そういうお客様の文章を「馬鹿文章」と斬り捨てた方もいるようだが、私は

そういうことはできないと考えている。

 

 宮城の高校演劇というHPがある。高校演劇界も広く自分の存在をPRしはじめた。私はこれを

大変に歓迎している。だが、WEBでのPRはその他の場面でのもの以上に「一方通行」では終わら

ない。たとえそこに高校生という未成年が絡んでいようが、作り上げた劇はしっかりと批評され

るべきだと思うし、それを是とする姿勢がほしい。そして、内部の人間でのみ行われてきた議論

が今回太田氏の努力により、広く一般に広げられたことをもっと歓迎すべきである。太田氏の

議論は確かにストレートで感情を害しやすいことを書いているけれども、根拠は明確である。

 そして、演劇をしている高校生諸君がなぜこの劇評の議論に参加してこないのか。無論それは

充実した劇評もあるだろうし、「なぜあの学校が入賞するの?」という疑問も出てこよう。しか

しそこに対話の機会を捕らえることは非常に大切なことだと私は思う。

 高校演劇はもっともっと開かれて欲しい。これからも批評にさらされることがあるだろうが、

それは批評された作品の価値を決めるものではない。一批評家の印象を素直に書くことは、一

演劇人が芝居を作ることと同じくらいに尊重すべきことなのだから。

 

[2000年12月3日 7時27分50秒]

目次へ


劇団ミモザ「太陽に背を向けて走れ」 

お名前: KIT@麦    URL

 

 最終公演を一家で楽しんできました。良かったです。

 

 特に本がいいです。あと20分短くできたら相当な名作になった思うんですが、小学生が2時

間半じっと(...というかヘラヘラと)見ていたんですからやっぱり良くできてますね。

サービス精神いっぱいでした。

 

 この劇団のいいところは、受付から客出しまで一続きが公演と考えて演出されているところで

しょう。ユニホームを着た受付に迎えられ会場に入ると開演まで何かやってくれます。前回は一

人コント5連発、今回は模擬ラジオ放送でした。そしてちゃんと定刻で開演します。

 今回は団体割引券や託児サービスまであったようで、日頃我々がやりたくてもできないでいる

色々な試みを実際にやって見せてくれるところに感服します。客としてとても大切にされている

感じがしてうれしく思うのです。

 

 話はギャグ系な郵便屋さん達の話とシリアスに疾走するアフリカの話が交互に出て来まして、

私としてはアフリカの比重がもうちょっと上がったらと思いました。

 子供達はギャグが好きで「山羊さん郵便」や「切手ちょうだい」がいたく気に入ったようで

す。帰りの車中でずっとリピートしとりました(笑)。「演歌」や「はがき男」(爆)も楽しめ

ました。

 

 箱による抽象舞台で演じられる熱いステージは大変好感の持てるもので、たしかに前半は聞き

取りに苦労しましたがそんなことが気にならない若い舞台は良いものでした。

 ラスト、バオバブの木、大きく広がった梢、天からこぼれんばかりの星が確かに見えました。

そのあとの麦球はなくてもよかったと思うほど。

 

 私がもらったダイレクトメールには「郵便配達夫の恋」についての感想が同封されていまし

た。気持ちも運ぶことに一生懸命な郵便屋さんたちの姿を見て、ああこのことかと納得しまし

た。面白かったです。(仕分けのシーンでは「ら抜きの殺意」での自分を思いだしたのです

が...笑)

”いかに生きるか、伝わらない気持ちをどうやって伝えようか”芝居の永遠のテーマですよね。

 

 仙台の人たちも是非一度ミモザの芝居を見てほしい。きっと何か気づいたり思い出したりする

ものがあると思うから。

 仙台から大河原まで電車でわずか30分ほどです。ただ、えずこホールがもう少し駅に近ければ...と

 

[2000年12月3日 21時52分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここのところ、三高をめぐる議論がけっこうハードなものがあり、それについては書き

甲斐を感じてはいたものの、同時に少々重苦しい気分になっていたことも事実だ。そんな

中、本日ミモザの芝居を見てきたのだが、実に実に感動的な作品だったので、今まで感じ

ていたイヤな気分も束の間、吹っ飛ばすことができた。こういう時、自分が演劇ファンに

なってよかった、と心底思う。何だかんだいって、やっぱり俺、演劇好きなんだよなあ、

と暖かい気持ちになれる。そういう意味で、ミモザの皆さんには、心よりお礼を言いたい。

いい芝居を見せてくれて、本当にありがとう。

 本作は、近未来(?)の日本の話である。通信事業が完全民営化され、Eメールから郵

便までを扱う、とある民間企業の郵便セクションに勤務する職員たちの人間模様と、青年

海外協力隊員としてアフリカに行ったまま、行方不明になったある若者についての物語と

いう、2つのストーリーが同時並行に進んでいく。通信会社の郵便セクションは、Eメー

ルや携帯電話を使う人が増え、昔ながらに手紙を使う人が減っていることを理由に、リス

トラの危機におかれている。しかし、セクションのリーダー・ヤヤは、手紙だからこそ伝

わる熱い思いというものがある、と主張して強くリストラに抵抗する。

 このヤヤ役の、おーみひろみさんが、素晴らしかった。長いストレートヘアーは、「シ

ョムニ」での江角マキ子を意識したものであったらしいが、手紙に書ける熱い思い、部下

に厳しいが信頼されるお姉さま、としての役作りが、まさに本家・江角に負けない熱演と

して、印象に残った。彼女は手紙が大事だという理由を、「手紙だからこそ伝わる『実感』

というものがある」と語る。最近上演された、ある作品と同じ「実感」という言葉をテー

マとして使っていたわけであるが、同じテーマでも、芝居によっては、これだけ心にせま

る表現となるとは!やはりこれは役者の技量と脚本・演出の力量の差なのだろう。

 そして、実はこのヤヤの恋人が、アフリカに渡ったまま行方不明となった青年なのであ

る(ここで、同時並行していた2つの話はつながるわけだ)。彼は、「世界の果てを見た

い」という夢を持っており、その夢を実現するために、廃車になっている機関車に乗って

旅をしようと目論んでいる。この、「世界の果て探し」とは、同時に「自分探し」でもあ

るのだろうが、「終わりなき日常」に倦怠感を感じ、日常にはない濃密なものを探すこと

が、イコール彼のいう「世界の果て」を探すことなのだろう。その意味では、彼の探して

いるものも、きっと「実感」であり、そしてその「実感」を観客である私にも感情移入で

きるようにひしひしと伝えてくれた池田耕亮君の演技力!彼も、仙台演劇祭「星空の迷子

たち」の犬役で出ていた頃は、臭くてくどすぎる演技が鼻についたものだったが(失礼!)、

よくここまで役者として成長したものだ、と感慨深いものがあった。

 だから、彼は愛する女性から離れてまでアフリカに渡り、そのアフリカでも自分の持ち

場を捨てて汽車に乗って一人旅に出ようとする。これこそ、ロマンという名に相応しい、

古典的ではあるが美しいストーリーといえよう。

 そして、そんな職場の先輩のラブ・ロマンスを見つめる、新入社員のヒナタ。はい、こ

のヒナタ役こそ、松陵・亀歩さんと並び、私が今の仙台演劇界で最も一押しする女優!後

藤尚子さんである!!

 去年の「キャラメル・マン」の頃の彼女は、ホント、かわいい女の子、というイメージ

のみが強かったが(佐々木久善さんの「ピチピチしていた」発言が、まさにその象徴だが)、

今年のコンクールで県大会まで進出し、しかも創作脚本賞まで受賞する熱演を見せたこと

で、役者として一回りも二回りも大きくなったような印象を、本日受けたものだった。劇

中コントの場面での、表情の変化の素早く、そしてタイミングのよいことといったら!や

っぱり高校生をいう若い時期だけに、役者としての成長も早いのだろうか?もはや、私に

とって彼女は、ただの地元演劇界のアイドルではなく、若手実力者としての1人に数えた

い人材にまで育ってくれたといえよう。それにしても、コンクールからたった2週間しか

経っていないのに、こんなに長ゼリフを全て自然にこなしてしまうとは!やっぱり高校生

はまだまだ頭が柔らかいね。本人、終演後のロビーで、「この記憶力を中間試験にも役立

てればいいんですけどね、ガハハハハ」と笑っていたが、芝居とは直接関係ないが、ぜひ

試験も頑張るように!(笑)

 それにしても、私はエヴァンゲリオンでも、大人の恋をする加持・ミサトよりも、その

2人を近くで見つめる主人公の中学生・碇シンジ君に感情移入したものだったが、今回も、

大人の恋をする2人よりも、尚ちゃん演ずるダメダメだけど一生懸命頑張って新しい仕事

にチャレンジする新入社員・ヒナタに感情移入してしまうのは、きっと私がいい年をして、

未だに自分に自信がもてないからなんだろうな(苦笑)。でも、そんな自分はダメダメだ

ー!と思う人間に、とても共感できるように書かれていたヒナタの人物描写、私は強く評

価したい。

 それと、もう1人よかった役者。郵便区分けロボット・マリー役で今回出ていた、新人

・アベマコさんは、とても新人とは思えないヒールなんだけど憎めないキャラクターを好

演していた。彼女も高校生とのこと(でも、学校では演劇部に入っていないそうだが・・

・)、本当に最近の高校生の演技力には感心せずにはいられない。

 物語の結末は、明日も公演があるため書かないでおくので、明日お暇な人は、ぜひ大河

原まで足を伸ばしていただきたい。松陵・猫原体と並ぶ、今年の私にとっての感動作であ

る。ただ、一つだけ残念だったのは、物語の出だしが少々早口すぎて、何を言っているの

かわかりづらかったことだ。初日の出だしで緊張していたのかもしれないが、もし明日も

同じ場面が早口すぎたとしても、そこで早急に結論を出さずに、しばらく我慢して見続け

て欲しい。だんだんと尻上がりによくなってくるはずだから。

 

[2000年12月3日 0時13分2秒]

目次へ


仙台三高演劇部「ウルトラマンの母」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 前回は、笠原先生が今回の作品のテーマとして「実感」を挙げておられることについて、

私が先生の文章を読んでその趣旨には共感したが、その共感は芝居を見たときには生じな

かった、というところまで書いた。そこで今回はその理由について述べていくこととする。

 笠原先生は、「実感」の例示として、登場人物の「女性」が述べたセリフ、「缶コーヒ

ーって好き。舌に残る感じがいいのよね。」を挙げ、また、オウム信者について言及して

おられる。まず、この2つの例示については、私も強く同感するものである。

 まず、缶コーヒーについていえば、そもそも人間は、缶コーヒーに限らず、カレーでも

チョコレートクッキーでもいいけど、何かを食べて「おいしい!」と「実感」する場合は、

本来「意味」を経由しないものであろう。確かに、カレーがおいしいのはレシピが良かっ

たからかもしれない。しかし、川上高瀬がカレーを食べて「おいしい!」と感じたとき、

あるいはミイがチョコレートクッキーを食べて「おいしい!」と涙を流したとき、彼らは

いちいちレシピの因果関係など頭に浮かべないだろう。味覚がそのまま瞬間的に脳に反応

することによって「おいしい!」と感じる。これ、「意味」を経由しない「実感」である。

 また、オウムが修行で自らの肉体を「実感」するという話。これも、要は厳しい修行を

すれば、過剰な疲労から体が本能的に自分を守るために脳内麻薬を分泌する(いわゆるラ

ンナーズ・ハイの極端な例)として、気持ちが良くなったり、幻覚が見えたりという作用

が体内に生じるわけだけれども、本人たちはそういう脳内麻薬がウンタラといった、意味

的因果関係を経由しないで、ストレートに「気持ちいい!」とトリップしているわけで、

これもまた「意味」を経由しない「実感」といえよう。

 このように考えていくと、「実感」は以外と自分たちの身の回りに多く存在しているこ

とがわかる。例えば、風呂に入って気持ちがいいのは、体内の血行が良くなり体がリラッ

クスするためだろうが、私達はいちいちそんな理屈を考えずに、「ああ、いい湯だな〜!」

と言っている。あるいは、踊りを踊って気持ちが良くなるのだって、同じような理屈で説

明可能だろうが、実際に踊っていて気持ちよくなっている連中は、そんな因果関係を頭に

浮かべなくても気持ちよくなっている。さて、ここで疑問が生ずる。笠原先生は、後段で

は「実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦めて生きるので

はなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということを知らせ

伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。」と書かれている。し

かし、カレーやチョコレートクッキーがおいしいという「実感」は、過去の時代にのみ存

在するものではなく、カレーやチョコレートクッキーが存在する限り、普遍的に存在し続

けるものであろう。また、そもそも「実感」とは、上に述べたように「プラスのヒーロー

(または「正義の味方」)」とかいう意味的概念を経由しないで感じられるからこそ、「実

感」ではないのか?だいたい、風呂に入って気持ちよくなるのに、「正義」なんて必要な

のか?つまり、ここで過去には存在したけど現在は存在しない「正義」や「プラスのヒー

ロー」を例示することによって、笠原先生の本当に求めていることは、実はやっぱり「実

感」ではなく、「意味」ではないのか?という疑念を私は持たざるを得ないのである。最

初の文章で、私はこう書いているはずだ。「『自分のやっていることに意味はあるのか?』

と悩む高学歴の科学者に対して、『いや、お前のやっていることに意味はある。お前のそ

の技術力で社会変革はできる』と、信者を増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こした

ことは、未だ記憶に新しい。」と。つまり、笠原先生のいうとおり、オウムの修行によっ

て信者は「肉体の実感」を得た。しかし、それを「実感」ではなく「社会変革」という「正

義」的意味にすり替えていったのが、まさにオウムの教義ではないのか?だとしたら、「実

感」を「正義」や「プラスのヒーロー」という意味的行為に変換しようとする笠原先生の

目論見は、それに似ていないだろうか?

 だから、私が最後の「歌」に意味を感じたのも、ストーリーを一貫したものとして辻褄

を合わせるためには、必要だったからである。「もうずっと長い間面白い映画を見ていな

い。」という詞は、「意味」が存在した昔には映画も面白かった。つまり、「昔の面白い映

画」は、「意味」が存在することによって生き甲斐を感じていた昔、という時代そのもの

のメタファーであり、それを称揚する内容であるということは、つまりは「意味」の復活

を待望するということだろう、と私は判断したのである。それが、深読みだと言われれば、

そうなのかもしれない。しかし、私という人間の内面においては、そう考えることがこの

テキストに対しては、最も辻褄の合う結論だったのである。

 以上で私の反論は終わりである。渡部先生が質問に答えてほしい、という書き込みを下

になさっていらっしゃりこれについては私も同じ思いなのであるが、もしかしたら私の反

論が全て終了することを、笠原先生はお待ちになられていたのかもしれない。そう好意的

解釈をあえてとり、希望的観測を残すことにして、とりあえず本文を終了させていただく

こととしよう。 

 

[2000年12月12日 0時4分30秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 小山先生。笠原先生にお願いします。やはり、質問には答えていただけないでしょうか。

高校演劇関係者として、強く望みます。

 それから、すみませんでした。下の「MOGURA」という書込みは私のものです。必ず

「同じペンネームで」というルールを犯してしまいました。管理人さん申し訳ありません。

忌野際さんが書かれているように、高校演劇に限らず、演劇界はもっと開かれるべきだと私も

思います。

昨年度の審査経過について太田さんから質問がありましたが、もしおかしな評価をしていない

自信があるのならそれだって公開してもいいのではと個人的に考えています。今回の仙台三高

さんが東北大会に出場できなかったことは残念であると私も思います。なぜなら、本当に訓練

された演技を評価してあげるということも教育活動として大切だと考えるからです。

 ただ、三高さんの生徒の結果を素直に受け止める紳士な態度には一緒に生徒実行委員会の仕

事をした私は敬意を表したいと考えています。ですから、先生方再度お願いします。もういち

どきちんと議論をしようとしてはいただけないでしょうか。  

 

[2000年12月10日 21時44分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 先の書き込みで私は、

「せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。」と書いていたので、これから改めて作品

についての意見をここに書き込ませていただくことにしたい。

 まず、「言葉というものを意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのか

な?」という笠原先生の御意見について。これについては、「はい、全くその通りです。」

と答えるほかない。むしろ、「だから、どうした?」と聞きたいくらいのものである。な

ぜなら、下に書いた「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送れな

いから、意味にすがるのだ」という言葉を理解するためには、まさにそのニーチェの言葉

を「意味」として理解することを経ることが必要だからだ。その点で、我々現代人は「意

味的存在」だ、というジレンマを抱えており、そのジレンマをいかにして解消すべきか?

という問題意識を持っているからこそ、そのヒント・シミュレーションとして私は演劇を

見たり、その感想として劇評を書いたり、また逆に他人の書かれた批評を読んだりしてい

るのである。最初から既に意味から解脱した存在に私がなっているとしたら、笠原先生の

作品を含めて、何もわざわざ演劇を見るために劇場まで足を運んだりするわけがない(も

ちろん、生き方のシミュレーションとして見ることだけに限定されず、単にエンターテイ

メントとして芝居を楽しむことも、時にはあるが・・・)。世の中には、演劇を見なくて

も、そこそこ幸せに生きている人がいくらでもいる。演劇の作り手の方々には、よく「も

っと演劇ファンを増やさなくては!」という問題意識を持っている方がいらっしゃり、私

も、それについてはとても立派なことだと敬意を表しているのだが、と同時に、では、演

劇に対する熱心なファンである自分と、ここ10年近く生の演劇なんて見たことない、と

いう世の中の多数派の方々とを比較して、どちらが幸せなのか?と考えたとき、演劇を見

なくても自分より幸せそうな人が世の中にはたくさんいるのではないか?というのが正直

な実感としてあるわけで、そういう人に演劇を勧めることは、逆に大きなお世話ではない

のか?という思いもまた、私の中にはあるのだ。つまり、既に意味から解脱した人間にと

っては、「人生に生きていく意味はあるのか?」という問題意識を持つ必要はないため、

そのシミュレーションとして演劇や映画を見たりする必然性はない。私は、まだその域ま

で達した人間ではないため、熱心に演劇を見、その劇評を書く「意味的存在」なのだ。こ

の問題意識については、福島の劇団・鳥王の「楽園ダンス」という作品の劇評を書いたと

きにも詳細に論じているので、そちらも是非ともご参照されたい。

 それに関連して言うなら、笠原先生がその下で述べている「人間は意味無しで生きられ

るわけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーシ

ョンの手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。」という御意見について

も、「全くその通りだ。だからどうした。」と答えるしかない。しかし、私が上で引き合

いに出したニーチェの言葉は、「意味にすがる」という言い方をしている。「意味」を「手

段」として、必要かくべからざるものとして認識することと、「すがる=(例えば酒や麻

薬に対するように)依存する」ということは質的に異なることだ。例えば、人間と他の動

物との違いで「火」を使うというものがある。あるいは、「電気」でもいいが、これらは

文明人たる人間が生活していく上で、必要欠くべからざるものであろう。しかし、人間は

「人生に意味が見いだせないから、自殺する」ということを遺書に書いても、「人生に火

(または電気)が見いだせないから、自殺する」などという遺書を書くものだろうか?(シ

ュールなアングラ劇なら、そういう遺書を書く奴が、あるいは出てくるかもしれんが・・

・)そういう点から考えると、今回笠原先生が例示した文章は、「意味」という言葉が持

ついくつかの文意の中から、太田が使用している用法と、あえて違う内容の用法を用いる

ことによって、(本人が意図したことではないかもしれないが)結果的に論理のすり替え

をしていることになるのではないのか?

 念のため、自宅にある「新明解国語辞典」をひいてみた。意味には1として「その時そ

の文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか・用法。」とある。これこそが、

今回笠原先生が説明するとことの「意味」であろう。しかし、その後に2,3,4として

こう続く。2「その人が何かをしたときの動機・意図。」3「意義」4「趣旨」と。太田

が今回使った「意味」の内容としては、1よりもむしろ3が適切なものであることは、明

らかではないのか?さらにいうなら、「意義」を同じ辞書でひくと、1「そのものでなけ

れば・果たす(担う)ことのできないという意味での、存在理由」とある(2は略す)。

まさに太田は、この内容で「意味」という言葉をこの間使用してきたのである。

 そして、笠原先生はこう続ける。「テーマは前述した通り『実感のなさ』である。」と。

ところで、先に例示したニーチェによれば、「意味」にすがらないために必要とされるも

のは「強度」だという。私は、この「強度」と、笠原先生のいう「実感」というものを、

言葉としては違うが、中身としてはほぼ同じことを言っていると考える。その意味で、私

は今回の笠原先生のテーマ説明・問題意識には大いに共感したのである。しかし、皮肉に

も、その「共感」は、笠原先生のお芝居を見た感想として出てきたものではなく、今回の

笠原先生の文章を読んだことによって出てきたものである、ということは、是非とも留意

していただきたいところである。

 では、なぜ、文章では共感できたものが、芝居では共感できなかったのか?これについ

ては続けて述べたいところではあるが、またまた文章が長くなってきたので、また改めて

書かせていただくこととする(一気に長文を書くのは、読み手も大変だろうが、書き手も

疲れてくるのだ)。というわけで、今日はここまで!

 

[2000年12月6日 22時16分11秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

>小山先生

本音での書き込み、ありがとうございます。

ただ、

>劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので

私はそんなことはいっておりません。むしろ、逆に笠原先生に再反論されることを要請してい

ます。

また、

>高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います

とか、

>無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ

という御意見は、むしろ逆に、

「だから観客側は物を言うな」

と、とられても仕方のない言い方ですよ?

「無神経」とおっしゃるなら、その根拠を示して欲しい、だから議論をしよう、と私はこの間

ずっと申し上げているのです。

 

[2000年12月2日 0時45分25秒]

 

 

お名前: こやま   

 

太田さんに、ひとつだけ、ムリかもしれないけど、おつたえしたいのは、私たちは生きた生徒をかかえていて、

生徒と一緒に演劇活動をすることを無常の楽しみとしているのです。

生徒がいやかるものをつくれるはずがありません。

生徒の喜ぶ姿が私どもの無上のたのしみなのです。

だらかこそ、こんなに苦労しても、生徒に付き合って行こうとしているのです。

高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います。

劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので、

2度とここにはかきこまないし、読むことも止めますが、

私どもの弱みは、今生きて色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに

動いている生徒とともにに生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ。

高校演劇集会所の管理人というよびなで、だいぶ書かれているようなので、本音で書きました。

 

[2000年12月1日 22時56分30秒]

 

 

お名前: MOGURA   

 

県大会で見せていただきました。あれほどの演技力で3位であったとは納得いかない点もある

かと思います。ここ2年位演技力などが評価のウエイトとして軽視されすぎていることに私も

若干疑問を覚えてはいます。また、面白くなくてはという面からも、観客の受けも良かったし

生徒審査員の評価を得ていたことからも問題ないように思えます。特に役者同士の科白のやり

とりは大変面白く笑わせてもらいました。地区大会では審査員の先生から大人には共感できる

という評価だったそうですが、今回はむしろ高校生の審査員に評価され、大人には評価されな

かった。この理由について私なりにこの芝居を観た感想を述べながら、書かせていただきます。

 率直に言って、カサハラさんが述べているような17歳の高校生という像を描けていたかと

いうと、作者の全くの勘違いの面が隠せないと思います。現在の子ども達は実はカサハラさん

が思っているほど大人や社会に期待なんかしていない。言葉なんか嘘ばかりだと気付いている。

大人の言うことはすべて建前ばかりで、言葉になんか真実はないと感じていると思うのです。

 ですから、空虚感なんてものを意識しているんでしょうか。空虚感ていうのは、大人や社会

に期待している部分があるからむなしくなるのですよね。大部分の高校生はすっかりとあきら

めている。演劇部で活動しようなんていう高校生の感覚は実は本当に少数派であることをしっ

かり受け止めて書いているのかなと思うのです。唄だって、やりきれないから、叫ぶとすっと

するから、自分の存在を認めて欲しいからといった理由などで唄いたいのでしょう。

そこに意味なんかやはり求めちゃいないと思うのです。でもそれは今も昔も一緒じゃないです

か。例えば僕は井上陽水の「傘がない」という唄が好きなんですが、あれを安保闘争が終わっ

た後の若者のうんぬんなんて言った人がいたけど、ただ唄いたいからでしょ。社会に対するメ

ッセージなんてあの当時も大人が勝手に解釈したことだと思うんです。自分の気持ちを吐き出

したいから唄ったにすぎないんだと思うのです。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

と陽水が唄うとき僕らはその唄の意味に感動したのでしょうか。メッセージに感動したのでし

ょうか。違うと思います。恋をしたことのある僕らが、「今自分の周りに起こっていること、

自分がしなくちゃいけないこと、そんなことはどうでも良くて、ただ君に会いたい」

そういう純粋な真実の叫びに共感したに過ぎないのではないでしょうか。

 だとしたら、現在の若者と昔の若者はどう違うのでしょうか。カサハラさんと同世代の僕は

大差ないと考えています。昔の若者が社会や大人に何かを伝えたくて唄を唄ったのでしょうか。

そういうサークルも確かに存在しましたが少数派でしょう。今と大差ないのではと思います。

僕らの時代だって、何でも真面目に深刻に議論しようとした人間を「根暗」として多数派は排

除しようとしていたではありませんか。僕はどちらかというと排除された方だからよく覚えて

います。昔を振り返ってそれを解釈するのはよいのですが、それを今の高校生に信じ込ませよ

うとするのは間違った歴史を教えるのと同じだと思います。この芝居の昔の解釈は当時の世の

中全体を象徴するものではなかったと思うのです。カサハラさんにはそう見えたかもしれませ

んが、少なくとも僕はそう思っていません。ですから、今回は大人の世代も共感し得なかった

のではないでしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 2時9分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回の私の劇評に対し、作者の笠原先生より「責める」内容の反論をいただいた。

 私に非があるとするならば、私が笠原先生に謝罪するのは至極当然のことである。ただ

し、この「劇評バトル」という欄は、今までおこった数々の議論の結果として、「論には

論で返す」ということをルール・原則とするに至っている。太田に非があるという理由を

笠原先生が論として提示し、それが私にとって納得のいくものであれば、私は非を認めよ

う。逆に納得のいかないものであれば、私は笠原先生の「責め」を、理不尽なものとして

退けるしかない。では、今回の笠原先生の反論は、私にとって納得のいくものであったか

を、これから検証させていただくとする。

 今回、笠原先生は私の文章を責める理由として、「非礼」という言葉を使われている。

その根拠として、私が使った「遺跡云々」という比喩について、「インチキ呼ばわり」と

指摘しているわけだ。

 この御意見に対して、私は次のように反論する。そもそも「劇評」とは、他人の作った

作品に対し、「善し悪し」を論ずる行為である。「善し」はともかくとして、他人の創造

物に対して、「悪し=よくない」とネガティブな評価を下す行為とは、一般的な社会常識

から考えれば、全て「非礼」に該当するものである。つまり、批評という行為は、その対

象に対してネガティブな評価を下すときには、常に「非礼」である宿命を持つものなので

ある。だから、今回の笠原先生に限らず、ネガティブな批評を下された劇団側が批評を書

く者に対して、「非礼」を理由に「責め」ることを行い始めれば、全ての批評を書くもの

は謝罪しなければならなくなる。これは批評の否定であり、私としては理不尽なものとと

らえざるを得ない。

 もちろん、ここで笠原先生は「非礼」でないネガティブな批評と、「非礼」に該当する

ネガティブな批評の2つが存在する、と反論されることだろう。では、先回りして聞くが、

その「非礼」に該当する、しないの境界線はいったいどこにあるというのだろうか?

 上記に書いたとおり、笠原先生は私の文章を「インチキ呼ばわり」と見なしている。つ

まり、笠原先生にとっては、同じネガティブな劇評でも、「インチキ呼ばわり」する劇評

が「非礼」に該当する、という境界線をもたれている、ということだろう。しかし、私が

「遺跡云々」という比喩を呈示したのは、(厳密にいうと私は「インチキ」という言葉を

用いてはいないが、文章のニュアンスとしてインチキとみなしているように感じられる、

ということであれば、あえてそれは否定しない)私が本作品を見て、それこそ「実感」と

して持ったからこそ、使ったのである。

 「最近の話題をひょいと捕まえて」と先生はおっしゃるので、では、最近の話題ではな

い古典的な寓話で説明しよう(そもそも同じ比喩を用いるのなら、読者にわかりやすいよ

うに、「最近の話題」を使うのはレトリックの範疇ではないのか?「最近の話題」だから

「非礼」であり、「古典的寓話」を使えば「非礼」ではないと、もし笠原先生が考えてい

らっしゃるとするなら、その根拠はいったいどこにあるというのだろう?)。

 「裸の王様」という有名な童話がある。読者の皆さんもよくご存知のことだろうが、本

当は存在しない服を着た王様を見た子どもが、「あの王様は裸だ!」と言う、例の話であ

る。「王様は服を着ている」と主張する人達にとって、この子どもの発言は、まさに「イ

ンチキ呼ばわり」に匹敵する行為である。しかし、この「王様は裸だ!」と主張する行為

こそ、まさに批評の持つ重要な役割の一つではないだろうか?

 ただし、ここで留意しなければならない点が一つある。つまり、「裸の王様」において

は、本当に王様は裸だった、という唯一の事実が存在する。遺跡捏造問題にしても、遺跡

を捏造した、という事実は1つである。しかし、演劇(に限らず、あらゆる芸術作品にい

えることだが)という作品に関しては、事実は1つのみ存在するとは限らない。1人1人

の受け手が、1つの作品に対して異なる感想を持つということは、演劇においてはむしろ

自然なことである。だからこそ、「解釈」という概念は存在するのであり、1人1人が違

う劇評を持つことを前提として、劇評「バトル」は可能になるのである。つまり、太田が

本作を見て、遺跡捏造問題に例えて、「インチキ」だと考えるのも、太田という人間の内

面においては真実であり、逆に、笠原先生の内面において、「捏造はなかった!」という

真実が存在しても、2つの真実はそれぞれ各人にとって偽りのない真実であり、お互い矛

盾するものではないのである。

 せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。ただ、最後に笠原先生が「よその軒先を借

りて云々」と書いていらっしゃるが、それをいうなら、私も当フォーラムの非会員である。

フォーラムの会員・非会員にかかわらず、広く劇評を募集するのが、当ホームページの趣

旨と私はうかがっているので、こうして大量の劇評を書き込んでいるのある。従って、笠

原先生も、今回の私の文章に納得がいかなければ、さらなる反論をぜひともお寄せいただ

きたい。遠慮されることで、せっかくの議論が尻すぼみになるのはもったいないことであ

る。笠原先生が再反論をされることで、この場が活性化されるのであれば、それはむしろ

管理人さんを含めた、当HP読者にとっても望ましい展開であるだろうから。 

 

[2000年11月29日 19時26分32秒]

 

 

お名前: arasikiller   

 

質問があります。

 

1どうしてアンケートに書かれると許せて公の場に感想が載るとまずいのでしょうか?

 作品に自信があるのならいちいち言葉で反論するのはどうかと思いますけど?

 あなたの理屈で言えば誉める内容も当然公の場に載るのもまずいんでしょう?

 

カサハラさん答えて下さい。

 

2どうしてここの掲示板は「観客が抱いた感想」に対して作り手が反論をするのでしょう

 か?変だと思いますけど。最近は観客を罵倒する文章も見かけましたよ。

 

管理人さん答え下さい。

 

 

[2000年11月29日 15時6分41秒]

 

 

お名前: カサハラ アキラ   

 

こういうものに慣れていないので、あまりにも読みにくい形で書き込んでしまいました。

削除の仕方もわかりません。重複してしまいますが再度書き込みます。

 

 この発言がアンケート用紙に書いてあるのならまあ問題ない。しかし、不特定多数の人間が

目にするこのような場で「まるで遺跡があるように…云々」などと書かれては無関心ではいら

れない。もっと慎重に言葉を選ぶべきではないのか?自分の文章を飾るためだけに最近の話題

をひょいと捕まえて他人をインチキ呼ばわりするとはどういうつもりなのか?言葉というもの

を意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのかな?その言葉が相手にどう響く

かも想像できない「実感のなさ」こそ、この芝居の伝えたかったことである。

 ここにあえて書き込みをするのは、あなたの発言の非礼を責めるだけの目的であったが、つ

いでと言ってはなんだが作者として言いたいことは言っておこうと思う。

 まず芝居以前の問題として「意味」ということについてだが、人間は意味無しで生きられる

わけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーションの

手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。本能が壊れてしまっている人間は他

の動物のように現実と直接関わることができない。そこですべての物に意味づけをして意味に

よる仮想現実を作り上げた。バーチャルなどと騒いでいるが人間はもともとバーチャルな世界

に生きているからこそ、ゲームを本当の現実のように感じることができるのだ。つまり、恋愛

という言葉を知らない限り恋愛が出来ないのが人間だ。という基本的な認識をここで確認して

おきたい。

 さて芝居の話だが、伝えようとしたことが伝わらないのは本が悪いわけでこれは反省をしな

ければならない。芝居を解説することほどつまらなくばかげたことはないと思う。私は芝居を

よく絵画にたとえるが、キャンバスをどんな方法にせよ鑑賞者を惹きつけるものにすることが

絵画であると思っている。絵画のわきに立って「これはこういうことを描いた作品です」と解

説する画家がいるだろうか。それをすることはたいへん恥ずかしいことなのだがあえて解説し

てみよう。

 下敷きはユングである。(蛇足だが昨年の芝居はフロイトだ。バットなどと恥ずかしいくら

い分かりやすいものを出してしまった)ユングがアーキタイプ(元型)と呼んだ概念であるグ

レートマザー・アニマ・アニムス・シャドーというものを芝居の中で具現化していこうという

のが最初の発想である。(シャドーの話は文化祭版にはあったのだが、展開がもたつくのでカ

ットしてしまった)伝説・神話の解釈というのもユングの仕事である。トリックスターのうま

くいった最高のものが所謂ヒーローだということで「ウルトラマン」というモチーフを思いつ

き、そういえば「ウルトラの母」というのがいたなあということで芝居の筋立てが出来上がっ

た。

 テーマは前述した通り「実感のなさ」である。意味による仮想現実の仮想の部分がいよいよ

露呈しはじめ、最後の砦である「肉体」「実感」さえも失われようとしている現代の問題点を、

よりその問題がはっきりと表れている若者を中心に描こうとした。17歳問題を真っ正面から

扱う芝居が来年あたりは出てきて欲しいというようなことを審査員の一人が言っていたが、こ

の芝居はそれを扱っていなかったのだろうか?それとも真っ正面ではなかったのだろうか?分

かりやすすぎるほどストレートに書いたつもりなのに伝わらないのはこれもまた書き手の技量

のなさである。

 意味で溺れかけている現実はきれいに塗り直された商店街、形だけは女の格好をしている

「女」に象徴されている。しかし子供を産むという実感があって初めて女ということがわかる

と気づいている女。だから彼女はこうも言う。「缶コーヒーって好き。舌に残る感じがいいの

よね。」と。自分が自分でなくなっていく感覚から脱出するために女に転身したからこそ、自

分の肉体を実感し、実感のなさに気づき始めている。肉体の実感ということについては地区大

会版では占い師の台詞でオーム事件の分析がされていた。オーム信者たちは修行の中で初めて

自分の肉体を実感したのだと。それは奇跡とよべるほど遠く離れた存在になってしまっている

ということが。(これもあまりにメッセージ色が強く、会話の流れを悪くするのでカットした

が)

 それに対してまだそれほど実感が失われていなかった時代の人間として「男」は登場する。

当時の歌が強く人の心に響いたのはまだ言葉に実感があったからだ。言葉は肉声であり、実感

を伝えるものだった。

 失われた実感を取り戻すために、麻痺してしまった五感を取り戻すために、彼らは深夜の街

で自分の声を聞いているのではないか?生まれて初めて聞いたであろう母親が自分を呼ぶ声に

耳を傾けてみよう。胎内にいる子供に母親の言葉の意味は届いたのだろうか。ただ子供のこと

を思う気持ちだけが伝わったのではないだろうか。少年は「意味内容のあるメッセージソング」

を見つけたわけではない。自分にとって大切なものが「実感」であると気づいただけだ。だい

たいラストの歌が「意味あるメッセージソング」だっただろうか?

 「もうずっと長い間面白い映画を見ていない。もうずっと長い間新しい歌を聞いていない。

空はあんなに明るいけれど日差しは石のように冷たい。もうずっと長い間本当に歌いたいと思

ったことがない。」という歌詞なのだが…。

 トリックスターの役割をヒーローが担っていた時代が終わり、マイナスのヒーローとしての

17歳の事件がある。実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦め

て生きるのではなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということ

を知らせ伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。男の歌はその決意

表明であり、その歌に集まる人々は作者のかすかな希望である。現実はそんな希望などかき消

されてしまうほどの悲惨な状況ではあるが、その希望さえなくしてしまってはもう人間の生き

る術はないのではないか?

 というわけで私がこの発言について納得できないのは、以上の理由からなのである。 

 

最後に、よその軒先を借りてこのように長々と言いたいことを言ってしまったことをお詫び

します。

 

 

[2000年11月29日 1時54分5秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 「高校演劇掲示板閉鎖についての私的見解」で問題となったある男子校というのが、わ

かる人は既にわかられていたとは思うが、今回取り上げる仙台三高の「ウルトラマンの母」

である。「高校演劇集会所」で本作について簡単な劇評を書いたのは、「私的見解」で述

べたとおりであるが、こちらの「劇評バトル」では本作についての劇評は書かずにいたの

で、どういう作品だったのかわからない方も多いと思う。「高校演劇集会所」の掲示板は、

先日復活したが、問題の議論した部分に関しては削除されていた。そこで、コンクールの

県大会も終了し一週間を経過した現在、ある程度ほとぼりも冷め、いわゆる『審査への先

入観』を心配する必要もなくなったところで、改めて本作についての私の見解を明確にし

ておこうと思う。なぜなら、「もう終わったことだから」と、なあなあにしてしまうのは、

「臭い物に蓋」的でかえって後味が悪くなると、私には思われるからだ。

 さて、本論に入る前に、一つ指摘しておきたいことがある。それは、地区大会と県大会

において、本作のレベルが明らかにアップしていたことだ。地区大会においては、役者個

々のセリフに棒読み的なところが多く、その感情のこもらないように見える演技に正直い

ってだれた部分が多く感じられたのだが、県大会では役者の、本当に自分自身の言葉とし

てそのセリフをしゃべっているように見える演技によって、本作の持つドラマ性が浮かび

上がり、最後まで緊張感を持ち、飽きさせない展開となっていたことは、高く評価したい。

本作が優秀賞を取るに至ったことは、(好き嫌いを別にして)彼らの演技を見れば、ある

程度納得がいくものであった。どうも、ある作品を批判的に取り上げると、「坊主憎けり

ゃ袈裟まで憎い」的に、すべてにわたって批判的な評価を持っていると誤解されることが

多いが、当然そんなことがあるはずはなく、1時間という長さにわたる一つの作品の中に、

よいと思える部分とよくないと思える部分が同居することは、いくらでもあり得ることな

のだ。

 では、県大会における役者の上達によって、私の本作に対する評価が180度変わった

か?といえば、残念ながらそうではない。なぜなら、「私的見解」にも書いたとおり、本

作に私が共感できない部分が、この作品のテーマに対するものであったのだから。例えば、

世の中には漱石の小説が嫌いだという人もいれば、モーツアルトの音楽が嫌いだという人

も存在する。ある作品が、「名作」と世間一般で呼ばれるものだから、すべての人がその

作品に感動するという考え方は、むしろ人間一人一人が違う感性・違う価値観・違う問題

意識を持っている以上、不自然なものであろう。それでは、なぜ私は本作に共感できなか

ったのか?

 この物語の主人公は、俗にいうストリート・ミュージシャンの少年である。ところが、

彼は歌いたい歌が見つからない。そんな彼が、歌いたい歌を見つけるまでを描いたのが本

作の主なストーリーなのである。

 この「歌いたい歌」を、私は「意味」と解釈した。つまり、「集会所」の掲示板にも書

いたが、ニーチェのいう「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送

れないから、意味にすがるのだ」という言葉に、まさに本作の少年の悩みは該当するよう

に思われたのだ。ところが「集会所」の管理人さんは、少年の悩みは「意味」などと限定

されたものではない空虚感だ、と反論されたわけである。

 しかし、本作で少年が作ろうとして、なかなか作れなかった「歌」とは、果たしてどう

いった内容の歌だったのだろうか?もう一人の少年ともいうべき心証を持つ、酔っぱらい

の男(実は昔、シンガーだった人物)は、こんなセリフを言う。「(昔は)社会に対して

言うべきことを歌にしていた。(しかし今は)恋を歌うようになった。」つまり、少年の

作るべき歌は(意味のない)ラブ・ソングではなく、「社会に対する」メッセージである

べきだと、この酔っぱらいのセリフは示しているといえないか?では、メッセージとは何

か?社会に向けて、「自分の価値観」という「意味ある言葉」を訴える行為を、俗にメッ

セージというのではないのか?「意味のないメッセージ」など、「白い黒猫」と同じくら

い、矛盾した表現だろう。

 もう一点。主人公がひょんな流れで、顔なじみのオカマと酔っぱらいを人質に立てこも

るシーンが劇中出てくる。犯人である主人公の要求は、最初「何もありません」というも

のであった。これに対して酔っぱらいが「お前がここに来てるのは、意味あってのことな

んだろう」と説教するのだが、ここでの「犯人の要求文」と、少年が作ろうとしている「歌」

は、共に社会に対するメッセージとしてシンクロしているものだろう。だとしたら、少年

の要求文に意味がないことに対して、「意味あってのことなんだろう」と酔っぱらいが説

教するのは、やはり少年の空虚感を埋めるには「意味」が必要だと考えているからではな

いか、とはいえまいか?

 なぜ、私がここまで「意味」にこだわるか?それは、私も少年と同様、空虚感を実感と

して持つ人間だからである。だからこそ、その処方箋に対して切実なものを持って本作を

見ていたのである。だからこそ、酔っぱらいのおじさんに代表される、昔は「反体制」と

いう意味があったが、今はそんなものがない、という現状認識にも同意する。問題は、今

の世の中に「意味」というものが存在しないことに対して、もともと存在しない「意味」

を捏造しようと作者は考えているのではないか?というのが私の本作に対する不満なので

ある。むしろ、「意味」などこの世の中には存在しない、ということを前提条件として、

では、どのようにして「良き生」を送ればいいのか?を考えることが、より現実的な選択

ではないか?というのが私の現在の問題意識であり、そのような考えを持つ私から見れば、

酔っぱらいが「意味あるメッセージソング」を歌うことによって、多くの観客が集まって

くるという本作のラストシーンには、まるで遺跡がないから自分で埋めて、さもそこに遺

跡があるように見せかけるような嘘臭さを感じずにはいられなかったのである。

 「自分のやっていることに意味はあるのか?」と悩む高学歴の科学者に対して、「いや、

お前のやっていることに意味はある。お前のその技術力で社会変革はできる」と、信者を

増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こしたことは、未だ記憶に新しい。高度成長の時

代と違って、目標を持てば今日より明日がよりよく進歩する、という時代は終わってしま

ったのだ。社会が悪い!とメッセージを訴えようにも、現に社会は豊かになっており、反

体制を訴えるべき理由がなくなってしまった時代なのだ。もはや、潔く「意味」を追い求

めることを断念し、意味がなくても幸せに生きられる手段を探すべき時代に来ているので

はないか?私が本作に共感できないのは、以上の理由からなのである。 

 

 

[2000年11月28日 0時50分13秒]

目次へ


名取北高校演劇部「わたしはグリーン−見えない壁、見えない心 −」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 高校演劇にすっかりはまってしまった私は、仙台地区だけではなく、地方大会もぜひ見

に行こうと、今年はとうとう若柳(北部地区)、本吉(東部地区)まで足を伸ばしてしま

った。我ながら酔狂だよなあ、と少々自分にあきれてしまうところもあるのだが(実際、

それら地方大会の会場で、高校生や父兄、先生方以外の純粋な一般客と思われる人間は私

しかいなかった)、そんな私でもさすがに、平日に年休まで取って若林・太白地区を見に

行った(今年の若・太は会場の都合上、平日開催だった)佐々木久善さんにはかなわない

なあ、と思ってしまう。いや、酔狂のレベルでいえば、どっこいどっこいだろうか?

 そんな私ではあるが、残念ながら地方大会で南部地区だけは見に行けなかった。これは、

東部と南部が同じ日程で重なっていたためで、やむを得ない選択だったのだが、逆に南部

を選択し、見に行った上記・佐々木さんによると、なんでも、南部は非常にラテン系のノ

リが強いところだったらしい。

 どういうことかというと、開場時間になってもホールのドアが開かない。開演時間にな

ってもなかなか芝居が始まらない。公演中、客席で子供が遊び回っている。昼食を取りに

行って、戻って審査結果を聞こうと思ったら、既に全て終了していて、ホールはガランと

して誰もいなかった。という、まあ、あえて良い方にとると、「たいへん大らかな」大会

であったそうだ(笑)。

 それで、私達高校演劇ファンの間では、南部地区は「ラテンのノリ系」とひそかに呼ば

れていたのであるが、しかし、「ラテン的」ということは、一方で「盛り上がったときの

爆発力はすごい!」ということにも通じるわけで、実際、先に紹介した白石女子高の「高

校演劇でミュージカルを上演する」という大いなる冒険などは、まさにその典型例といえ

るだろうが、県大会にあがってきたもう一校、名取北高の役者さん方もまた、そんなラテ

ン的ノリを感じさせるやたらと元気のいい集団で、とても微笑ましいものとして、強く私

の心に焼きついたのであった。

 本作の主人公2人組、ブルーとブラックは、ある特殊な能力を持った人にだけはその姿

が見えるという、いわば妖精のような存在である。ベルリンの壁が崩壊したにもかかわら

ず、我々の周りには見えない壁が存在している、と彼らは主張する。その壁とは、「管理

社会」を比喩しているものらしく、その管理社会の典型ともいえる教育現場で(本作の作

者がそう認識しているのだろう、という意味です。)助けを求めている少女・グリーンを

救うため、彼らはとある高校へ向かう。

 遅刻という校則違反を犯した少女・みどり(グリーン)は、校内にあるカウンセラー室

のようなところに連れていかれ、カウンセラーの赤沢先生(実はその正体は、謎の女レッ

ド!)に催眠術をかけられ、管理社会に組み込まれる人間として洗脳されそうになる。み

どりを助けるため、カウンセラー室でレッドと対決するブルーとブラック!しかし、ブル

ーはレッドに催眠術をかけられたみどりによって、何発もの銃弾を浴び、撃ち殺されてし

まうのであった。ガーン!

 しかし、我に返ったみどりは、「こんな事ではいけない」と、気を取り直し、今度はレ

ッドに銃弾を浴びせ、物語は唐突に終わるのであった(ホント、「え!ここで終わり?」

って感じのシュールな終わり方でした)。

 さて、彼らの中でも特に、私に「こいつのノリはすげーぜ!」と思わせてくれたのが、

なんといってもブラック役の森千春さんである。もう、とにかく最初から最後まで元気が

いい!自分の芝居だけで元気がいいのではなく、他の劇団の公演が終わった後の幕間討論

でもやたらパワフルで、白女の時など、司会からマイクを奪い取り、討論会ジャックまで

していたくらいである(笑)。しかも、その元気のよさが、一本調子でうるさい、という

ものにはならず、見ていて好感のもてるものになっていたのは、おそらく、それが演技に

よって人工的に作られたものではなく、自分自身の中に内在しているものであったため、

結果、それが自然な形で発露されていたのであろう。

 また、謎の女・レッド役の三浦幸枝さんの、お色気爆発!路線の演技も、それをあえて

過剰なケレン味でみせることによって、とても面白く、楽しめるものとなっていた。特に

凶器のナイフを足から取り出すシーンの、実にカッコよかったこと!以前、仙台高校演劇

部の多田さんについて、「とても高校生には見えない」と書いたことがあったが、三浦さ

んもまた、負けず劣らずの、高校生に見えない大人のお姉さまキャラといえるだろう。

 惜しかったのは、これらキャラクターの立った個性的な役者さんが、今紹介した2人以

外にも何人かいたにもかかわらず、それらの役者の面白さを生かしきった演出になってい

なかったように見えたことだ。これは、脚本のテーマが「見えない壁」=管理社会といっ

た、少々固い内容であったためといえるかもしれないが、しかし、他校のお芝居で、表面

的にはエンターテイメントで楽しませつつも、その中身としては深いテーマを内包する作

品がいくつかあったことを考えると、脚本の側にも、自分のテーマをストレートに伝えよ

うとしすぎる「生硬さ」があっただろうし、また、演出の側にも、脚本の中に柔軟に遊び

の要素を含ませる工夫が、もう少しあってもよかったように思うのだ。そういう意味では、

もったいなかった芝居だなあ、という気持ちが残る作品であった。

 それにしても、今回県大会に出場した南部地区の2校のおかげで、「これは来年は南部

を見に行かないといかんなあ」と、強い気持ちがわきおこったのは事実である。まあ、高

校演劇の場合、上の学年が抜けてしまうと、学校のカラーがガラッと変わってしまうとこ

ろもあるので、来年もこのノリが続いているかどうかはわからないのだが。なんとか来年

も楽しい大会であってほしい、と願うばかりだ。また、今回紹介したブラックさんとレッ

ドさんは二人とも3年生で、残念ながら来年はご卒業でコンクールには出場できない(い

や、卒業自体は、おめでたいことだけどね。)が、ぜひその強烈なキャラクターを生かし、

これからも演劇活動を続けてほしい、と切に願う次第である。公演情報教えてくれれば、

なるたけ見に行きますから、よろしくね!

 

[2000年11月25日 22時24分40秒]

目次へ


三女高演劇部「カケラ」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今年夏の単独公演までの三女高演劇部は、三年生の層がものすごく厚くて、以前に「ポ

ケット」や「ラ・ヴィータ」の劇評でも書いたとおり、とても内容の濃い芝居を演じてい

たものであった。さて、それら三年生が抜けての最初の一大イベントが、今回のコンクー

ル・県大会だったわけだが、結論から先に言えば、やはり今の三年生の抜けた穴は大きい

ものがあるが、それでも残った数少ない部員で、よく健闘している、頑張っている、と感

じさせる内容であった。

 主人公はある高校のバスケ部の選手。彼女はバスケの才能に関しては、かなり高いレベ

ルのものを持っており、二年生でありながら、彼女の力で、インターハイの予選を勝ち進

んでいるころが多であるらしい。しかし、そんな彼女を快く思わない先輩の嫉妬や、途中

までは「一緒にインターハイを目指そう!」と誓い合っていた親友が、進学やささいな顧

問とのいさかいによって退部していったりといった、彼女にとっては「裏切り」と感じら

れる、辛い出来事が続いていく。彼女がそんな自分の周りに起こる出来事にうんざりし、

バスケ部をやめようかと思っているところへ、不思議な少女が彼女の前に姿を現す。実は

その少女は、彼女の心の中のもう一人の自分といった存在であり、バスケ部をやめたこと

を彼女に謝る親友たちに表面的に優しい表情をする主人公に対し、彼女の中の本音ともい

うべき親友に対する恨み言を、彼女にささやくのであった。

 しかし、親友に対し強いことが言えない主人公に呆れた少女は、「あなたが死んでしま

えば、(あなたの分身である)私も苦しまないですむ」と、彼女に自殺するよう示唆し、

その言葉に乗せられた彼女がまさに踏切から飛び出そうとするところを、2人の親友が偶

然発見し、主人公を助ける。3人が再び友情を取り戻したことを確認した少女は、安心し

姿を消すのであった。

 という内容が、本作の主なあらすじだったのだが、以前からあちこちに書いていること

だが、こういう他者との関係性をシミュレーションしたお芝居を作らせると、今の女子高

生って本当にうまいよなあ、と感心してしまう。センチメンタルで、親友に対する自分の

アンビバレントな思いがとてもリアルで、ラストの友情の確認でホロリ、とさせる。「居

場所」としての友情、というテーマは以前に書いた白百合などにも共通していることだが、

これって高校生に限らず、自分のような世代の人間にとっても切実な課題だからこそ、泣

かせる作品になっているんだろうなあ、と思う。

 特に感動させてくれたのが、主人公・比奈と雑談しているときに、親友の真子が、ふと

「わたし、こんなことしたこともあるんだ」と、傷の付いた手首を比奈にチラッと見せた

りするシーンである。実は、このシーンのあたりの芝居の雰囲気は、けっこうテンポが悪

くてダラダラとしているところで、見ているこっちはなんだかボーッと見ているところだ

ったので、その突然の衝撃的な告白に(でも、セリフとしてはとてもサラッと言っている

ところが、また効果的なのであるが)、思わず虚をつかれたようになって、心にグサッ!

と刺さってくるものがあったのであった。

 あるいは、その2人の会話の最後の方で、親友に裏切られたという思いが強い比奈が、

「真子はわたしのこと、好き?」と聞くシーンがある。真子は「もちろん、好きよ」と返

すのだが、その後、小声で「わたしのことは、好きなの?」とつぶやく。比奈は「え?」

と問い返すのだが、すかさず真子は「ううん、なんでもない」ととりつくろってしまうの

である。こういうさりげないところで、自分と相手との関係性を探り合うような場面って、

見ていてドキドキして、胸が痛くなってしまう。この作品を書いた、佐藤さだ江さんって、

きっとすごく繊細でナイーブな人なんだろうなあ、という想像が容易にできてしまうシー

ンなのであった。

 ただ、残念だったのは、上にも書いたが、テンポが悪くてダラダラしている場面が多か

ったことだ。東北大の「モチモチの木(仮)」でも書いたことだが、叙情的雰囲気を出そ

うとするあまり、沈黙のシーンを多く作りすぎてしまったような印象を受けた。先輩方が、

夏に創作した「ポケット」の中の「他愛もない話」は、一見淡々としているように見えな

がら、物語の中に次々とドラマが生じ、飽きさせないものとなっていたが、そういった先

輩方のいい面を一緒に芝居を作ることによって学ばれていると思うので、なんとか次回で

は、その経験を生かしてほしいと思ったのであった。

 ただ、最初にも書いたとおり、今の3年生が抜けて、2年生は今回脚本・演出を手がけ

た佐藤さだ江さん、お1人であることを考えれば(残りのキャストは皆1年生)、佐藤さ

んの苦労は並大抵のものではなかったように推察される。そんな中で、地区大会で最優秀

賞を受賞し、こうして県大会にあがってきたことは、本当に大したものだと思う。来年の

単独公演が、おそらく佐藤さんの最後の公演になるのだろうが、次回も感動的なオリジナ

ルを作られることを、心より期待したい。

 

[2000年11月24日 23時58分40秒]

目次へ


白石女子高演劇部「月下狼伝」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回、本公演で、主演・脚本・作詞作曲・振り付けをした後藤尚子さんが、劇団ミモザ

という大河原の劇団にも所属していて、僕が以前よりファンだったことは、当ホームペー

ジのあちこちに既に書いているので、読者も御存じのことと思うが、実はこのミモザとい

うところも、劇中で音楽を多用することの多い劇団である。で、けっこうほのぼのファン

タジーっぽいお芝居が多いので、てっきり白女のお芝居も、ミュージカル仕立てとはいえ、

そういった内容のものだとばかり思っていた。ところがどっこい、実際に見てみると、宝

塚か、それともビジュアルロックのコンサートか!といった感じの、実にゴージャスかつ

パワフルなステージであり、しかも主役の彼女の役が、宝塚でいういわゆる男役だったた

め、ミモザでの後藤さんを知っている僕は(たいてい、かわいい女の子役が多い)大いに

驚いてしまったのであった。まあ、ミモザの一員と言っても、後藤さんとミモザ代表のさ

ざなみさんとでは、それぞれ違った感性を持っているのは当然のことだから、彼女の作る

芝居が違う傾向ものであっても、別におかしいことはないわけだが、それにしても「彼女

が本当にやりたかったのは、こういうものだったのね・・・。」と、そのギャップに衝撃

を受けずにはいられなかったのだった(作品自体は面白かったよ。それは誤解なきように)。

 プログラムにも書いてあるとおり、本作は「森に住む人狼(読んで字のごとく人間と狼

のハーフ)と人間の戦いを描いた壮大な物語」である。母親が肺炎で死にかけている少女

・湊が、人狼が持っているという万病に効く薬をもらうため、村の仲間、庄二郎と唖月(こ

の唖月役の村上祐香さんのとぼけたキャラクターがサイコーだった!まだ、1年とのこと、

将来がものすごく楽しみな人である)と3人で山へ向かう。ところで、この3人は、最初

に人狼たちの、まさに宝塚的なダンスシーンがあった後に登場するのだが、これが妙にお

かしかったのだ。なぜかというと、今まで宝塚的だった舞台が、彼女たちの登場によって

突然「わらび座」的空間に180度変わってしまったからだ。本作の面白さは、単に宝塚

的ゴージャスさだけにあるのではなく、この2つの全く異なる世界が奇妙に融合している

シュールな味わいにもあったのである。

 しかし、その万病に効く薬とは、実は人狼の尻尾であった。人狼は尻尾を奪おうとする

人間に乱獲され、人間に強い憎しみを抱いていたのである。そこへ、やはり人狼を捕まえ

ようとする武士・大悟朗もあらわれ、彼らの間に争いが始まるが、はずみで、たまたま地

面にあいていた大きな穴に獅竜(人狼のリーダー)、湊、大悟朗の3人が落ちてしまう。

争い合っていた人狼と人間たちは、3人を助けるために力を合わせることにより、お互い

の間に信頼が芽生え、共に夜食を囲みあう仲となるのであった。

 しかし、翌朝、他の人間たちによる山狩りが始まり、湊たちや仲間を逃がした後、獅竜

はあえなく人間たちによって殺されてしまったのだった(泣)。

 つまり、本作は宮崎駿的なテーマ性が存在する作品であり、表面的にはゴージャスなエ

ンタテイメントで満たされてはいるものの、行間を読んでいくと、単純な勧善懲悪では割

り切れない作者の思いが垣間見えるものなのである。

 その象徴ともいえるキャラクターが、僕は武士の大悟朗だと思う。彼は武士のわりには

腕力が弱く、周りから幼い頃から「ダメダメ大悟朗」と呼ばれている。そんな彼は馬鹿に

した仲間を見返すため、単身人狼を捕まえようと、一人で山の中に入っていたのである。

そんな彼に獅竜は「武士という肩書きだけに、お前は頼っているのではないのか?武士と

いう肩書きをとったとき、お前という人間の真価はどこにあるのか?」と、大悟朗を諭す。

その結果、大悟朗は「武士をやめる!」と宣言し、最後は獅竜たちを助けるために人間の

武士たちと戦い、命を落とすのだが、僕はこの大悟朗を単純な悪役とせず、人間的な弱さ

を持つキャラクターにしたことに、作者の後藤さんの思いを見るような気がし、感動した

のであった。

 実は本作に対する講評で、審査委員長の石川裕人氏が「善・悪をもっとハッキリさせた

方がいい。悪役が一人いると、対立からドラマ性が起きる。」という発言をされていたの

だ。確かに善・悪がハッキリしていると、ドラマ的にはわかりやすく面白いかもしれない。

しかし、悪役があまりにステレオタイプな悪者になってしまうと、その人間性が薄っぺら

なものになってしまう危険性も、またあるのではないだろうか?「水戸黄門」的な、作品

にテーマ性がなく、完全な勧善懲悪のエンタテイメントならそれでもいいかもしれない。

しかし、本作はエンタテイメントで観客を引っ張る内容ではあったものの、その底には人

間の持つ弱さに対する洞察的なものが、行間から垣間見える作品であったのだ。表面的に

は悪者に見える人間でも、そのような行動をとってしまうのは、ステレオタイプな悪人と

いう者がこの世に存在するからではなく、その人の持つ弱さとか、その人が現在そのよう

な行動をとらざるを得ない立場に置かれてしまっている運命の皮肉などがあるためではな

いだろうか?また、武士という肩書きにとらわれている大悟朗という存在は、会社での役

職とか、学校の教師といった肩書きに依存しており、それら肩書を取った生身の人間とし

ての価値が、あなたにどれほどあるというのか?という厳しい問いかけを含んでいる象徴

的存在とはいえないだろうか?それらの意味で、表面的に悪者に見えてしまう人間も、実

は自分たちとそんなに離れた心象風景を持つ存在ではないのではないか?という視点が本

作にはあったように思うし、それを「ドラマ性」というモノにこだわるために、ステレオ

タイプな悪役に変えてしまうのは、かえって作品を薄っぺらなものにしてしまうデメリッ

トの方が大きいのではないか?という疑問を、僕は石川さんの講評に感じずにはいられな

かったのだ。上記で僕は宮崎アニメを引き合いに出したが、例えば「ナウシカ」における

クシャナは典型的な悪役であろう。しかし、彼女がそのような悪役的立場に立たざるを得

ない立場・状況は「ナウシカ」という作品からは痛いほど感じられるものであるし、だか

らこそ、クシャナはステレオタイプな悪役よりも人間的魅力を感じるキャラクターになっ

ているのである。そして、「ナウシカ」という作品にステレオタイプな悪役がいなくても

ドラマ性が充分に存在するように、本作も、大悟朗がわかりやすい悪役となっていなかっ

たからといって、ドラマ性が損なわれていたとは僕には思えないのである。

 などと、石川氏に対し生意気な反論をしてしまったが、基本的には石川氏は本作に対し

肯定的な賛辞(「とても生き生きとして楽しかった。笑えたし、思いが伝わってきた。」

との発言)をしていらっしゃり、それらは僕の本作に対してもった感想とおおむね一致す

るものであったこはを、念のため付け加えておきたい。特に、石川氏が後藤尚子さんに対

し、「脚本・作詞作曲・振付・主演を一手に引き受けるとは、まるでIQ150の丹野久

美子のようだ。将来、後藤さんがポスト丹野久美子となることを期待したい。」と発言さ

れていたことについては、石川氏より以前から後藤さんのことをよく知っている僕として

は、まるで自分のことのように嬉しく、感激したものであった。この際だから、IQは次

回作に思い切って、後藤尚子さんに脚本を委嘱するという抜擢をしてみてはどうだろう?

今までのIQにはないカラーの、けっこう面白いものができるのではないか、と考えただ

けで胸がワクワクしてしまうのであるが、井伏さん、どうなもんでしょうかねえ?(笑)

 

[2000年11月23日 22時46分7秒]

目次へ


WINDCOMPANY 「十二夜」

お名前: 瀬川 マーチ   

 

WINDを見に来てくださった佐々木様。わざわざ劇評くださりまして有難うございます。

忙しいところお越し下さいまして有難うございました。

劇評の方読ませていただいたのですが、ちょっと補足させてください。

前回までの公演は「宝塚」の本を使わせていただきましたが、今回はWIND初のオリジナルです。

WIND劇団員、鳳城りむがシェークスピアの「十二夜」を題材にWINDらしくミュージカルに仕上げたものです。

WINDとしましては、「宝塚」という事には余りこだわりはなく、楽しいミュージカルを作ろうということを一番に考えています。

次回どんな作品になるかはまだ決まっていませんが、お時間がありましたらまた是非見に来てください。

お待ちしています。今回は見に来てくださり本当に有難うございました。

 

[2000年11月19日 23時50分50秒]

 

 

お名前: 佐々木 久善   

 

 CHANGE? CHANGE!? CHANGE!!

 これはシェイクスピアの『十二夜』を基にした作品ですが、パックやロズ・ギル、

ガートルード、ハーミア、ヘレンまで登場する通好みのコメディーになっています。

 ご存じない方のために申し上げれば、この劇団は宝塚のコピー(って言うのかな)で

す。本家には及ばないにしても、舞台と客席とが一体になって楽しめる素敵な舞台に

なっています。

 設定を現代のアメリカに移した『十二夜』の物語は案外と原作以上に楽しいもの

になっていると思います。

 

 DREAM TIME!

 この劇団の見所は、ショータイムであると言ってもいいでしょう。

 第1部の劇に対して、表裏一体となっているショーの迫力は見てみないとわかりま

せんが、それはそれは見事なものです。

 私はタンゴ・メドレーの迫力に圧倒されました。

 

[2000年11月19日 8時39分19秒]

目次へ


常盤木学園演劇部「GRADUATION] 

お名前: アイドル評@太田   

 

 本作については、既に「学生演劇の広場」で大学演劇人のワシさんが「気に入った芝居」

として紹介され、また、劇評こそ書いていないものの、劇評倶楽部の佐々木久善さんから

も「よかったですよ」とのお話をうかがっていたので、所用のため地区大会の際は観劇す

ることのできなかった私は、見られなくて残念に思っていたところであるが、本日県大会

でやっと本作を拝見することができ、なるほど、これはお二方の言うとおり、とてもいい

作品だなあ、と感動してきたのであった。

 本作は、ある仲良し高校生6人組の卒業式の一日を描いたものである。6人のうち、成

績優秀な“礼”が、式で答辞を読むこととなっており、式が始まる前の教室で彼女は友人

達に答辞朗読の「練習」をさせられる。しかし、彼女の書いた文章があまりに紋切り型で

あったため、もっと生き生きした文章を書いて欲しいと、仲間達があれこれと注文をつけ

る。その具体的なエピソードにあわせて、場面は今までの高校生活での印象深かった思い

出へと変わっていく。

 オリエンテーリング(修学旅行のようなもの?)や文化祭、体育祭と場面は展開してい

くのであるが、その思い出の中で彼女たち仲良しグループは、実は7人だったことが明ら

かになっていく。上記に書いたとおり、卒業式の日に集う現在の彼女たちは6人なのに・

・・。では、この1人の差はなんなのか?実は、1人、在学中に自殺した友人が彼女たち

のグループにはいたのである。

 物語の中に「死」をエピソードとして挿入することは、観客を泣かせる・感動させるた

めには、たいへん効果的な方法である。しかし、その「死」が真に観客にとって感情移入

のできる性質のものでないと、かえって「クサい」という逆効果を与える危険性もまた有

するものである。では本作ではどうだったか?

 実は本作で自殺する少女、“愛”の自殺の原因は、受験ノイローゼだったのである。彼

女はとても繊細で、オリエンテーリングで浜名湖へ行ったときも、満点の星を見て感動し

たり、湖に足をつけてじっと物思いにふけるような少女である。また、体育祭で、みんな

が懸命に応援したり、徒競走で必死に走ったりする、いわば人間が生で本能をむき出しに

するような姿を、何か恐ろしいと感じてしまうような性格の持ち主である。つまり、これ

らのエピソードは、彼女がいかにナイーブであるかを示すものであり、そしてそのナイー

ブさが悪い方に作用すると、「心の弱さ」となってしまう、という自殺の原因として機能

していたわけで、その意味ではこの脚本は伏線の貼り方が非常に巧みであったわけである。

 しかし、私が最も心を突かれたのは、自殺した日の深夜、彼女が友人に電話した内容で

ある。その日は、ちょうど冬休み前の中間試験の真っ最中だったのだが、彼女は友人に、

こう悩みをうち明けるのである。「こんな受験勉強なんかして、なんの意味があるんだろ

う」と(脚本を持っているわけではないので、正確なセリフではないのだが、そういった

内容のことを彼女は言ったのである)。もちろん、私のような30代の人間でも、以前受

験勉強をした思い出はあり、これを経験したことがあるものなら、多かれ少なかれ、上記

のような疑問は感じた覚えがあるだろうから、私達はその思い出によって、彼女のセリフ

に感情移入してしまうのだ、という解釈もできるだろう。しかし、私にはこの「なんの意

味があるんだろう」というセリフは、高校生という人生の一時期に限定されたものではな

く、30代の自分にも普遍的に感じられてしまう疑問であるからこそ、私のような受験を

とうに過ぎた人間すらも、強く心を揺さぶられてしまう言葉となってしまうのではないか、

と思うのだ。

 考えてもみてほしい。たとえ受験勉強が終わったとしても、私達の人生には、本当に何

らかの意味があるのだろうか?例えば会社に就職して、非常にストレスの強い仕事を任せ

られたとする。あるいは逆に、全く楽な仕事だったとしてもいい。自分はその仕事に対し

て非常に苦労しているとして、でも、ふと一歩立ち止まって考えたとき、自分にとって、

その仕事はどの程度の意味を持つものなのだろうか?もし、自分がその会社にいなくても、

誰か別な人間がその仕事をこなすだけの話ではないのか?あるいは、万が一自分がその組

織において、かけがえのない存在だったとしても、その会社が存在すること自体、世界に

とって本当に意味のあることなのか?これは仕事に限ったことではなく、世の中というも

のを一歩退いて見てしまったとき、自分という人間がこの世界にとって、本当に意味のあ

る存在なのか?という疑問は、人生において常に実存する問題なのではないだろうか?た

だ、食べて寝て、結局はそれだけで死んでいくのが人生ではないのか?毎日の忙しさに紛

れて、そういった問題は頭を離れていることが多いが、それは単に問題を先延ばししてい

るだけのことではないだろうか。本作の“愛”の言葉に、受験生をとうに卒業している私

のような人間も共感してしまうのは、彼女の発した疑問に、そういう普遍的な問題が含ま

れているからではないか、と私は思うのである。

 さらにいうなら、本作の優れた点は、そういった問題提起を観念的な堅苦しい言葉で提

示するのではなく、「高校生活」という具体的で、誰もが経験したシチュエーションの中

で示しているところにあるのだと思う。たとえ、同じテーマを扱ったとしても、観客に感

情移入してもらうには、演劇が芸術・芸能である以上、そのための「芸」が必要なのは当

然のことである。テーマをあまりにストレートに提示したのでは、それは「演劇」ではな

く「論説」になってしまう。さらにいうなら、本作の出演者達が、舞台の上での「高校生

活」を、本当にナチュラルに、現に自分たちが学校で会話しているように演技していたこ

とを、私は高く、高く評価したい。例えば、セリフをしゃべっている役者とは別のところ

で雑談している登場人物達のしゃべりが、本当に一番町や中央通りを歩いている女子高生

がペチャクチャしゃべっているような自然体であったのだ。脚本に載ったセリフ以外の部

分でのこうした細かい仕草が、本作に強いリアリティを与えていたと、私は思うのである。

 本作は既成の脚本を使ったものである。しかし、その内容をまるでオリジナルであるか

のように、自分たち自身のものとして引き寄せることに成功したことが、本作を感動作に

した大きな要因だったと思う。この作品については、そう私は結論づけたい。

 

[2000年11月18日 22時58分45秒] 

目次へ


未来樹シアター「みんな、待ってる」 

お名前: KIT   

 

 土曜日の夜見てきました。すべてに実力を感じさせる公演だったと思います。

 

 ...それにしても「みんな、待ってる」があれほど怖い言葉だったとは。(^^;

 

 

 必要にして充分、簡素でセンスの良さを感じさせる舞台装置や照明からは攻めの姿勢が

うかがえた気がします。

 なんだか偉そうな言い方になってしまいますが、去年の「寂しいきつね」ではちょっと

カタくて周りの出演者たちとギャップの感じられた女優さんが、今回は見事に溶け込みつ

つ、埋没せず、物語を盛り上げていた感じがしたのは見事でした。

 

 本と演出についてですが、麦版「ら抜きの殺意」とは遠くて近いアプローチだったように

思えて面白かったです。

 

 (お客の層がかなり違ったので多くないとは思うのですが)両方ごらんになったお客さん

はどのように思われたか、興味深いところです。

 

 知り合い何人かと話してみたなかでは、20代とそれから上とで感想が分かれました。

私を含む後者はこの話にそれぞれ何かしら後味の悪さを感じたようです。

 個人的な好みの話になってしまいますが、あの閉塞感はちょっと疲れました。

 

 でも「みんな、待ってる」は厳しくて、確かで、鋭くて、とても勇気のある本だったと思

います。その厳しさはもしかしたら作者が世の中にまだ大きな希望を持っているからこその

ものなのかも知れませんね。

 

[2000年11月16日 12時43分10秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

未来樹シアター 「みんな、待ってる」劇評

 みんなが待ってるのは何なのか。「現代病」を描いた秀作

仙台劇評倶楽部 小野一也

 

 舞台には、8コの木箱が置かれて、バックの紗の手前に8本の細い柱が

下がっているだけ。「未来樹シアターの舞台は高低を生かした舞台」という

イメージを強く持っていた私は戸惑いを感じた。その戸惑いは、斜の向こう

で踊りを見せられるに及んで「いつもとちがうぞ」という興味に変わった。

が、その時点では、その「興味」は、「はたして?……」という「?」付き

であった。

 さて、これは個人的なことだが、私は《イジメには吐き気をもようすほどの

嫌悪感を持っている》。冒頭のエナの儀式を経て展開されるイジメをみるのは

席を立ってしまいたい程につらいことであった。が、それは、それほどまでに

「あのイジメは迫力があった」という証明である。そして、その迫力が、

展開されるストーリィに活(い)きていくことになる。「冒頭で興味を持た

せて芝居の中にグイグイと引きづり込む」は、芝居作りの鉄則である。私は、

「前半は、テーマを伝えるために展開されるお話しの為の説明、という作り

になっていて退屈するといった作品が多い」ことに不満をもっていたが、

そんな中で「未来樹シアター」は、今までも冒頭から説明ではなく興味を

持たせて引きづり込むという「方式」になっている。この芝居の場合この

「方式」は、顕著で、見事に活(い)きた。

 作者は、チラシに「黄昏の子供」の改訂版のはずだったと書いているが、

「黄昏の子供」で扱った《おまじない雑誌》を、「不幸のメール」に置き

換えて、はびこ

っている「携帯電話」、それも「居場所のわかる携帯電話」の特徴を活(い)

かして観客を舞台に集中させることに成功した。

 さらに、観客を舞台に集中させる為に効果的だったのは、「女学生たち

の場面」と、「会社の3人」との場面を交互に展開させ、《一見何の関連性

もない2つ場面》が、どう結び付くのかという強い興味を持たせたということ

である。得意の不気味さを漂わせながら展開する。作者の芝居作りの「智」をみた。

 その「智」は、「人間はだれでもが何かを待って生きている。が、待っている

ものが何かが分からない。それはなぜなのか。どうすれば分かるのか。分からない

まま、一人っきりになる不安の中で、その不安を恐れて他人との結び付きを求める。

 

その結び付きは、直に話し合う、本音で話し合うという形をとらずに、《携帯電話》

でしゃべりあうとう形しか取れない。それで満足したと思い込もうとする。思い

込もうとはするが、そんなことで待っているものは何なのかは分かるはずはない」

という、現代が抱えている心底の「現代病」とも言える「問題」を提起して見せた

ことにある。      

 話は変わるが……、文月奈緒子さんにお願い。心底からお願い。

 「夢の観覧車」の上演権はどこにあるのか分かりませんが、あの作品を、

「未来樹シアター」で上演できるよう努力してください。上演してください。

 言うまでもないことですが、「いじくり回される前の、文月奈緒子さんの作品」を、

「城崎 憫」の演出で。         《11月12日 17時 観る》

  [2000年11月14日 20時35分16秒]

 

 

お名前: 水天堂    URL

 

 明日も公演があるので、具体的な内容に関しては触れませんが、一筆感想を

書きたいと思います。

 

 面白かった。

 私にとって、今まで観た未来樹の芝居の中で一番見応えのある公演でした。

 内容的にも、また舞台美術を含めた構成・演出的にも、今まで観た未来樹の

公演に無い要素が取り込まれ、それが効果的に生きていたように思います。

 

 従来の未来樹の芝居が「ほんの少し異質な要素を抱える少女が、異人・異界

と出会うことで、それに惹かれそこに踏み込む(ないし踏みとどまる)」とい

う話が多かったと思うのですが、今回は、「全ての人に異質さがそれぞれ内在

し、現実世界そのものが同時に異界である。」という前提から始まっているよ

うに思います。

 この違いにより、見終わった後、より現実的な救いの無さが、そしてそれゆ

えの救いが、感じられました。

 中心となる人物も、今までとちょっと雰囲気が違うような気がしましたが、

この辺の内容的な変化の延長線上にあるように思います。

 

 また、舞台美術や構成面での変化が、今回の台本を(文月さんの世界を)よ

りクッキリとしたものとして見せてくれたように思います。また、従来より、

舞台が客席に近いような感じも受けました。

 

 特に一部で噂になっていた未来樹パラパラ隊の舞台一杯でのパラパラは、そ

んなシーンがあると知っていてもなかなか壮観で、恐ろしかったです。

 

 今まで未来樹を見慣れている方にもお薦めです。

  [2000年11月11日 21時55分10秒]

目次へ


演劇集団 円 小劇場「抱擁ワルツ」劇評 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

「人間は一人では生きてゆけない」

 

 芝居が始まる前。観客の目の前に砂浜が広がっている。

 照明が落ちる。

 照明が入ると、二人の男が砂浜の前に立っている。

 二人の男は、泣き顔になり、笑い顔になり、苦悩の顔になり……、それらの顔を何回も

何回も繰り返す。二人の男は、全く同時に寸分違わずにその顔を繰り返す。なぜに全く同時に

それらの顔を繰り返すのかは、芝居が進行するにしたがい、観客に伝わる。計算された、

巧みな手法である。そして、それがこの芝居のテーマなのである。

 この汚い服装の二人の男は、本屋から本のページを破り取っていつものようにこの砂浜に

やって来たのだと分かる。そのページは精子についてのページだことも分かる。しかも一人の

男は、左手の手のひらを丸めてその中にその精子があり、こぼれないようにしていることも

知れる。この精子が大きな意味を持っていることも後で明らかになる。

 さて、これらのことが観客に知れるには時間がかかる。一人の男の発する「ことば」は

「言葉」になっていない。その「言葉」になっていない「ことば」を、もう一人の男には

理解できる。そのことも大きな意味を持っていることが後で知れる。一人の男の、「言葉」に

なっていない「ことば」を、もう一人の男の返答で観客に芝居の中身が知れる……という風に

して芝居は進行して行く。この進行の仕方も又、この芝居が訴えようとしているテーマその

ものなのである。

 盗み取って来た本のページを奪い合うようにして読んだ二人が、精子の持つ大きな意味

「精子の真実」を知り、感動して、その手のひらにこぼれないようにして持っていた精子を

空に向けて放つ場面は感動的である。この場面あたりから芝居はそのテーマが表面化して

観客に伝わり出す。

 宇宙に向けて精子を放った一人の男は、放ったが故に、一人の男に「抱きたい」と言う。

この「抱きたい」と言い出した男の心情に私は涙した。この場面の「つながり」「流れ」に、

演出の冴と、鋭いまでの、そしてそれでいて暖かな感覚を感じた。

 「抱かれる」ことに拒否反応を示していた男が、抱かれることに同意するその経過、

その間に交わされる会話。そして、同意して抱き合ってから交わされる会話が心打つ。

なぜなら、精子を宇宙に放った場面で表面化したこの芝居のテーマは、この抱き合うことに

なった二人の会話で、より具体化して、さらには、車椅子の少女と母親が登場により最高潮へ

と向かい出すからである。私は、身を乗り出していた。

 車椅子の親子の会話は、二人の男の会話と異なりストレートである。しかも、その中身は

すごみをおびている。この対比で、心通わせるのに言葉は「抱擁」ほどの大きな意味を

持たないことを示す。母親が男と情を交わす場面を目撃したと告げる少女と、最初はそれを

否定していた母親が肯定するまでの二人の会話はドラマチックである。母親を攻撃していた

少女が、事実を認めた母親に対して大きくうなづき、それ以降は素直。「はい。お母様」と

言うセリフの響きは優しい。が、この優しさは大きな意味を持っていた。ここにも演出の冴が

感じられた。優しく「はい、お母様」と言った少女は、実はその夜母親の目を盗んで二人の

男の元に車椅子を走らせる。不自由な足をものともせずに、車椅子から身を乗り出して抱き

合った二人の男に両足を広げて「見て」「見て」と迫る場面は迫力があり、この芝居のテーマが

より具体的に露呈されることになる。  

 この芝居のテーマは、優しさである。一人では生きて行けない人間が求め会う優しさである。

抱擁し合う二人の男。男に情を求める母親。そして少女。観客には通じないが、もう一人の

男には通じるという「言葉」、この特異な手法。「抱擁」を通じて心通わせ合うことの大切さ、

優しさを私たちに与えてくれた舞台であった。宇宙に放たれた精子。広い宇宙の中の小さな

小さな人間。一人一人は小さな存在だが、その人間は心を通わせ合うことで、大きな宇宙に

匹敵した大きな広がりを持った存在になり得る。

私は、帰り道に夜空を見上げて深呼吸をした。すごく優しい気持ちになっていた。

さて、この芝居を観た翌々日、「芝居のジャンル分けが必要だ」という知人と議論した。

私は、この芝居「抱擁ワルツ」はジャンル分けするとしたなら、何というジャンルに入るの

だろうかと思いながら、「ジャンル分けは必要無い」と主張していた。新劇の「文学座」から

枝分けして「演劇集団円」を結成したのはなぜなのか。新劇ではないものを目指そうとした

ためなのだろうか。この芝居は「新劇」というジャンルで作ったのか。そうでないとしたら

何というジャンルで作ったのか。そんなことにこだわる必要は無いと私は思った。

先にも書いたが、私はこの芝居を観終えて「一人では生きて行けない人間が求め合う優しさ」を

強く感じて、優しい心持ちになって帰宅した。この芝居の作り手は、そういう思いを込めて

作ったのだろうと信じている。「この芝居のジャンルは何か」ということは、この事実の前に

何らの意味も持たない。  

  《11月3日観る》

[2000年11月14日 20時30分49秒]

目次へ


劇団演奏舞台 「難波津に咲くやこの花」ー 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

劇団演奏舞台 「難波津に咲くやこの花」ー近松拾遺

「芝居とは想像力を膨らませる芸術」を証明した秀作

      

 わざわざ演奏と名付けた舞台とはどういう舞台なのか? ということに興味があったし、

期待感もあった。その期待感が満たされたかどうかについては、後に触れることにして、

どうしても書きたいことから書き出すことにしよう。

 この作品を観て「芝居とは、想像を膨らませる芸術である」と、つくづく《思った》。

というよりは、《確認》した。そのことを書くためには、六月にロシアへ旅して「白夜・

芸術祭」で「モスクア・ユーザーパド劇場」の「検察官」「ロミオとジュリエット」と、

「ポクロフカ劇場」の「結婚」「三人姉妹」を鑑賞して感じたことを書かねばならない。

 

 さて、この四本に共通していたのは、《ほとんど舞台装置がない》ということである。

「ロミオとジュリエット」では鉄柱が六本あるだけ。「三人姉妹」は、大きなテーブルのみ。

「検察官」にいたっては、舞台にはなんにも無し。舞台装置が無くとも何らの物足りなさを

感じない。このことについて「ロミオとジュリエット」を例に詳しく書いてみよう。

六本の鉄柱は「屋敷の柱」になり、「広場に面した屋敷」になり、ロミオとジュリエットが

恋を語る時には平面の鉄柱は落差のある「バルコニー」になる。両家の決闘の場面で、

照明を落としてその鉄柱に剣を当てれば、火花が散りに散り、すさまじい闘いを想像させる。

この「ロミオとジュリエット」を仙台演劇鑑賞会は例会にした。九千人近い会員が鑑賞したが、

イヤホンガイドを耳にして鑑賞した会員から「分かりやすかった」という喜びの声は聞いたが、

「舞台装置が無くて物足りなかった」という声は全く聞かない。イヤホンガイド無しで現地で

鑑賞した時既に「芝居には舞台装置は要らない。芝居は想像を膨らませる芸術」と思った私は、

鑑賞会の会員から「分かりやすかった」との声を聞くという事実を経て、この《劇団演奏舞台》の

「難波津に咲くやこの花」を観て、そのことを「確認」したと言う訳である。

 さて、舞台に装置は何もない。奥中央にドラム等演奏楽器がデーンと位置している。

コンサートの舞台としか思えず、手前にお膳がなければ芝居の舞台とは思えない。芝居は最後

まで装置はないままで進行する。屋内、屋外と、数多くの「場」はあるが、その「場」は

舞台装置が無くとも、違和感無くイメージ出来る。芝居に舞台装置は不要であるなどと言う

つもりはサラサラない。私が言いたいのは、舞台装置が無くとも芝居は成り立つということで

ある。それはどのような場合か。モスクアの劇団の芝居や、この「難波津に咲くやこの花」の

場合に共通して言えるのは「演出力」「演技力」が優れていたということである。優れた

「演出力」「演技力」があれば想像が膨らみ、想像で舞台は自分の中にクッキリと浮かび

上がるのである。役者は自由に動き回り、伸び伸びと演技する。観客は自由に舞台を想像して、

舞台と客席は一体化する。別役実の「電柱一本だけの舞台」を例に出すまでも無く、芝居の

楽しみ方の一つに「想像力を膨らませる」ということがある。想像力を膨らませることが出来る

「力」を持った芝居に出会った時の幸せを、モスクアの劇団の芝居に引き続き、この芝居でも

味合った。

 時代物の芝居を現代の衣装で演じても違和感を与えない。《古典劇を現代劇化》するには、

「自信」という確かな裏打ちがなければならない。パンフレットによれば、この劇団の二つ

ある路線の一つにしているということ、うなづける。

 今なぜ心中物なのか? と思った人はいるかもしれない。が、この芝居を観終えた時、勿論

心中を是とするわけではないが、心中という形で死を選んだ二人に愚を感じなかった。

近松門左衛門の「曾根崎心中」を原典に、劇化した作者は、「形だけの愛や見せかけの

愛だけがはびこり、真の愛不毛の現代だからこそこの芝居を」と考えたのではなかろうか

思ったものだった。事実古臭さを全く感じさせなかった。

 大阪弁の達者さに、「大阪の劇団だったかな」と、も一度パンフレットを見直したほど。

演奏者が、楽器から離れて「役者」になって、また楽器もどって「演奏者」に、という

早変わりには一瞬「あれっ」と驚いたが、

面白い趣向。

 さてさて、冒頭にふれた「生演奏」についてであるが、結論から言ってしまえば「期待感を

満足させてくれた」ということになる。パンフレットに、「芝居と臨場感にあふれたサウンドとの

相乗効果が好評」と書いてあったが、「同感」である。正直に言わせてもらうと、私は

「音に効果を頼り過ぎる芝居づくり」に反対を唱えて来た。冒頭で「興味がある」と書いたのは

そのためである。が、この芝居の場合、というよりは、この「劇団」の場合は、「音に頼り過ぎる」

ということではなく、音と一体になった芝居作りを「基本」に据えて芝居作りをしているのである。

しかもそれは「生」で。言い方を替えるなら、「生の音を基本にした芝居作り」がこの劇団の基本路線。

その「基本路線」にこの作品は「ピシュリとはまった出来になっていた」と、私は言いたいのである。

劇団名が文字どおり「劇団演奏舞台」なのだ。

    《10月15日観る》

 

[2000年11月7日 20時37分56秒]

目次へ


東北大学学友会演劇部「モチモチの木」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 僕が最近、高校演劇や大学演劇など、学生演劇に強い関心を持っていることは、既にこ

の欄で何度も書いているとおりである。その意味で、今回の東北大の新作「モチモチの木」

にも、期待を持って観劇に望んだのであるが、残念ながら不満を感じざるを得ない内容の

作品であった。

 本作の主人公・俊介は20歳の大学生である。両親が交通事故で10年前に突然亡くな

り、今は高校生の妹と二人暮らしをしている。そんなある日、自分の部屋に見知らぬ若い

男女が上がり込んでくる。この2人は、自分たちのことを「お前の両親の幽霊だ」と自己

紹介し、妹も「父さんと母さんだ」とあっさり納得するのだが、俊介だけはどうしても納

得できない・・・。

 本来、このような出だしで始まる芝居であれば、次に観客が期待する展開は、「では、

なぜ両親が今頃になって突然やってきたのか?」とか「なぜ、幽霊とはいえ両親の年が異

常に若いのか?」といった謎解きであることはいうまでもないだろう。常識的に考えれば、

突然、両親の幽霊がやってきたという不条理が、もし自分自身におこれば、狼狽するのは

当然だし、その意味で一番狼狽している俊介に観客が感情移入するのは自然な成り行きで

あろう。

 しかし、本作では、その謎解きがさっぱり展開しないのである。では、何が舞台上で行

われるかというと、父親と妹がTVを見ながらダラダラしたり、家族そろって黙々と朝食

を食べたりするシーンが延々と続くのである。そして、それらのシーンで登場人物が沈黙

するシーンが、やたらと長い。

 僕はこの展開を見て、演出さんは叙情性を出したいがために、沈黙のシーンを多用して

いるのではないか?と思った。というより、それ以外の理由が見あたらないのである。し

かし、それは残念ながら、誤った演出法であるように思われる。僕は観客の立場でしか演

劇に関わっていない。そういう意味では、演出に関しては素人だが、同じような叙情性を

持つ演劇や映画は、好きで何本も見ている。それら成功作との比較をすることくらいなら、

僕にもできるというものだ。

 例えば、平田オリザや宮沢章夫といった作家が作る、いわゆる「静かな演劇」といわれ

る作品を見ていると(この「静か」が、叙情性を醸し出している効果となっていることは

彼らの作品を御覧になった方なら御存じだろう)、確かに役者はセリフを淡々としゃべっ

たり、BGMがほとんど流れていないといった特徴があるかも知れないが、沈黙のシーン

がやたら長いということは決してないはずだ。つまり、静かではあるが役者がコミュニケ

ーションを交わし続けることによって、舞台上でドラマは間違いなくおこっているのであ

る。表面的に沈黙を多くして、静かな雰囲気を作ることにより、叙情性を漂わせようとい

う試みは、観客をただ退屈させるだけという逆効果しか与えていないように僕には思える

のである。

 もう一点、疑問に感じたことがある。それは、父親の性格設定である。両親が突然、若

い姿で帰ってきたことの理由が明らかにされないのは、ある程度やむを得ないものと思う。

つまり、学生だけの芝居である以上、両親役にふさわしいそれ相応の年に見える役者がい

ないため、幽霊が出るということ自体が不条理な設定なんだから、両親の年が異常に若い

という不条理があったっていいだろう、とおそらく作者は考えたのだろう。ここまでは観

客も納得できる。しかし、父親の精神年齢までが異常に低く、小学生並のイタズラ(例え

ば、スライムを息子の鼻に押しつけて、「鼻水!」と言ったり、掛け軸の裏に秘密ののぞ

き穴を作ったり・・・)をやたらとするというのは、どういうことだろう?年が異常に若

くなっていても、中身はやっぱり昔の父さんだ!ということであれば、最終的に両親の再

会、という感動に観客を持っていくことも可能であろう。しかし、人格まで変わってしま

ったのでは、正確な意味で父親と再会したということにならないのではないだろうか?

 これは、もしかしたら両親の幽霊が帰ってきたことによる子供達の困惑を基にしたドタ

バタ・コメディーを(最終的には感動に持っていくとしても)本当は作者は作ろうと考え

ていた、ということなのだろうか?しかし、だとしたらますます、沈黙を多用した叙情風

演出は矛盾したものとなってしまうはずだ。

 誤解のないように書いておくが、役者陣の演技はとてもナチュラルなものであった。会

話の時に、ヘンに一泊間が空くようなところもなかったし、セリフに変な抑揚がついたり、

逆に棒読みになるようなところもなかった。つまり、本作が疑問作となった原因に役者の

責任はない、と僕は思う。やはり、演出に問題がある、ということではないだろうか?

 本公演は、明日、あさってとまだ続くのであるが、できることなら、あの以上に長い沈

黙の箇所を、少しでも直していただくことを強く希望したい。それによって、公演時間は

極端に短くなってしまうかも知れない。しかし、ダラダラとした芝居をお客さんに見せる

よりは、次善の策としてぜひとも考慮して欲しいのだ。演出さんの善処に期待するもので

ある。

 

[2000年11月5日 0時14分38秒]

目次へ


サイマル演劇団「ミリオン!!!!!」 

お名前: W.S   

 

「感動を共有するより、衝撃を産むことを目標として、役者がストーリーやテーマに隷属

することなく、<役者の背骨が唄い始める芝居>を目指して...」

 これがこの劇団のプロフィールである。今回の芝居はこの劇団の目標が明確に観客に伝

わり、そして劇団自体も一区切りの成長段階を越えることができた芝居ではないかと思う。

 役者の演技については、太田氏とほぼ同じ感想であえて付け加える必要はない。前回の

舞台「昭和かれすすき」の段階に比べて、藤岡成子、カーツ福間の成長は著しいと感じた。

どこが成長したのかといえば、前回は表面的な演技を懸命に作り上げようとする意気込み

のあまり、堅さが目立ち、大切なところで、テンションが落ちてしまった点が特に気にな

っていた。今回は旅公演などで場数を踏んで来たせいだろう。表面的な固さがとれ、その

代わりその力が自分の内面を深く掘り起こし、自分自身の個性を柔らかにそして大胆に、

表に引き出していた。そして、それが他の二人のレベルに追いついてきたと思われる原因

であろう。

 芝居全体のテンポはスムーズになり、軽快で気持ちがいい。役者もそのリズムに上手く

載ってのびのびと演技をしていた。私があえて強調しておきたいのは、その軽快なリズム

の芝居の中で、「泣き虫横丁」のシーンだけが全体から浮き出ていたことである。これは

決して失敗ということではない。短いリズミカルなそして軽快な会話が全般に続く中で、

このシーンだけが詩的で情緒的でそして、ゆったりと我々にモノローグ調の台詞で語りか

けるのである。異論があるかもしれないが、私はこのシーンが一番役者自信の個性というか、

「背骨」、そして「心」が観えてくるシーンではないかと思った。この部分は前回の「昭

和かれすすき」とつながりをもつシーンであるが、初演の「ミリオン」のときもこの

シーンは入っていたのだろうか。もし、今回初めてこの場面を挿入したとするならば、

私は見事に成功したと思う。これによって作品全体が大変重層的になったのだと思う。

また、もしこのシーンが小林氏と赤井氏の共同執筆によるものだとしたら、今後もこ

のよう書き方をすべきではないかと思う。

 最後に赤井氏の役者の個性を引き出す演出はぜひ見習いたいと思う。演出が役者を

愛しているそんなことを感じられる劇団だから1度みただけで好きになれたのだと私

自信好きになれたのだとあらためて感じることかできた。

 

[2000年11月6日 19時35分4秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作は昨年公演されたものの再演なのであるが、初演の時と比べて、より面白く、楽し

める仕上がりとなっていた。その理由は、単純に一つに限定されるものでなく、いろいろ

な複数の要素が絡まりあってのものであろうが、少なくとも僕にとって一番印象に残った

のは、役者陣が以前に比べて、すこぶる充実したなあ、ということである。

 以前のサイマルは、良くも悪くも佐武令子さんが一人輝いていて、その他の役者には強

い印象が感じられない感があり、佐武さんが登場している場面は舞台が生き生きしている

が、彼女の出ないシーンになると、途端に物足りない雰囲気が場内を覆っていたようなと

ころがあった。しかし、今回は主要登場人物である4兄弟が、それぞれに個性的演技を見

せてくれ、佐武さん一人が目立つということなく、他の役者同士の絡みでも充分楽しませ

てくれたのであった。

 特に強調したいのは、前作の「昭和枯れすすき」でも指摘したが、前回初演だった藤岡

成子さんの存在である。佐武さんとは別の魅力を持った彼女の登場によって、サイマル女

優陣が二枚看板になったことが、僕のような「アイドル好き」ファンにとっては、いい意

味で、とても大きな変化と感じられるのである。今までサイマルに登場していた他の女優

さんには、残念ながら佐武さんと比べると、やや物足りなく、いわば位負けしているよう

なところがあったのだが、藤岡さんは、役者としてのキャリアが今までほとんどない人に

も関わらず、その存在感はなかなかどうして、大したものなのである。

 彼女の魅力を一言でいうと、やはり表情のとても豊かなところであろう。喜怒哀楽の表

情の変わり方がとてもハッキリしていて、しかもそれが大仰とか、クサいという印象では

なく、本当に内面から喜びや怒りがにじみ出ているように見えるところが素晴らしいので

ある。そして、その豊かな表情のベースにあるものは、明るさであり、元気の良さである。

そういう「元気の良さ」的なところが、前作の少年探偵というボーイッシュな役どころに

マッチしていたのであろうが、今回演じたいくつかの女性の役でも、それが「明るく、元

気な女の子」という魅力的方向に作用しており、決して少年の役だけが似合う単色な役者

ではないことが証明されたのであった。僕は、今回の彼女の演技を見ていて、ふと「ノル

ウェイの森」に出てくる「緑」という女の子のことを思い出さずにはいられなかった。屈

折してネクラなところのある主人公・ワタナベ君は、この緑という元気で自由奔放な女の

子と出会うことによって、心の中の屈託が次第に癒されていく。僕自身も、自分自身がネ

クラでオタク系的な性格だという自覚があるせいか、藤岡さんのような生き生きした魅力

を感じさせる女の子を見ていると、それだけで元気を分けてもらった!とでも形容したく

なるような、癒された気分になるのである。

 そして、もう一方の看板女優・佐武令子さんが、そういった藤岡さんの持つ雰囲気と正

反対の魅力を持っているところが、今のサイマルの強みとなっていると思う。藤岡さんが

元気系なら、佐武さんは不思議系である。彼女の表情のベースは、穏やかな微笑である。

もちろん、場面によって怒ったりするシーンもあるのだが、その怒った顔も、なんだかベ

ースの穏やかさの上に仮面のように張り付いたような表情なのである。これは、彼女が下

手だということでは決してない。むしろ、どんな表情をしても、それがメタのように見え

てしまい、その根っこにある穏やかさが見る者をホッと落ち着かせる方向に持って行くと

ころが、彼女の魅力なのである。いってみれば、小津映画における原節子的な穏やかさ、

とでも形容すべきものであろうか。その、メタ的なところがボケの方向に作用すると、前

作で僕が劇評で書いた「バラドル」的な面白さに向くのであろう。僕はアイドル評倶楽部

を名乗っていることもあるから、ある有名なアイドル批評の言葉を、ここで引き合いに出

させていただこう。それは、ある評論家が口にした「山口百恵は菩薩である」というフレ

ーズである。僕なんかに言わせると、あんなキツい感じのする姉ちゃんのどこが菩薩なん

だ?という疑問を抱かずにはいられないのであるのだが(笑)、むしろ佐武令子のような

存在にこそ、菩薩という形容詞は似合っているのではないだろうか?あの、能面のようで

はあるが穏やかさをたたえた微笑は、観客である僕にとっては、「ああ、なんかうまくい

えないけど、今まであったいろんなことをみんな許してもらえそう。」と思わせてくれる

ような安心感を与えてくれるのである。

 この2人の看板女優にプラスし、前作に引き続き客演した佐藤トモヒコ君が、またいい。

彼の演技はナチュラルさというよりもむしろ、大衆演劇的大仰さが特徴となっている。し

かし、それはサイマルという劇団のカラーを考えると、むしろプラスの方向に働いている

と思う。つまり、役者の演技でナチュラルさが評価されるのは、芝居にリアリティを出す

ためであろう。だが、リアリティというのもまた、観客に自然に芝居を見せるための「手

段」に過ぎない。観客を楽しませることが「目的」であることを考えるなら、必ずしもす

べての芝居がリアリティを追求する必要などないのだ。そして、大仰さは観客にとってデ

フォルメという面白さを提供する手段として充分に機能するものである。以前、三角フラ

スコに出演していた頃の彼は、その劇団の作品の持つカラーが、静かな雰囲気を重視する

ものであったため、どうも場から浮いているような印象を観客に与えていたように思われ

るのだが、サイマルという過剰さが魅力となっている劇団に出演したことで、彼の個性が

生きる方向に働いたことは、双方にとって喜ばしい結果となったと思う。

 そして、カーツ福間君。彼も当初はその他大勢的役者であったが、「擬似鼓動」のウル

フマン・ジャックを演じたあたりから、濃い表情でありながら、穏やかな優しさを感じさ

せるキャラクターが立ってきたように思う。また、以前は彼のようなタイプの役者さんが、

他にも何人かいたのだが、それらの方々が次第にいなくなったことも、彼にはいい方向に

作用した、ともいえるだろう。

 役者評が長くなってしまったので、ストーリー等他の要素については割愛する(もとも

と再演だから、既にストーリー知っている人も多いだろうし)。それにしても、これだけ

面白く成長した劇団が、本作を最後に仙台を離れてしまうのは、実に惜しく、残念なこと

である。東京にフランチャイズを移転してからも、機会があれば上京してぜひ見に行きた

いと思っているし、逆に、東京に行ってからも、ときどきは仙台公演を実施して欲しい、

と切に願う次第である。東京での、さらなる活躍を心よりお祈り申し上げます。 

 

[2000年11月4日 11時5分32秒]

目次へ


劇団麦「ら抜きの殺意」 

お名前: W..S   

 

10月29日(日)の楽日に見させていただきました。

 実はこの日腕時計が壊れていて、結構長い芝居なんだなと思いながら終わって外に出て

みると、なんと2時間30分以上もたっていて驚いた。それだけ、最初から最後まで、

退屈せずに観れた(観られた?)せいだろう。脚本の内容も実に入り込みやすかったし、

主役を演じた二人の演技が実に滑稽さが出ていた好感が持てた。そう、一方で「らぬき」

言葉に対して不快感丸出しの教師(これが実は身近にもいて困っている)とそれに反発

するサラリーマンのコンビがじつに面白い。どちらも自分の考え方に、プライドがあり

一生懸命だからこそ、第三者が見ていて滑稽なのである。

 それで十分なのではないかなと思うのですが、サラリーマンの伴の恋人役の女性営業

だやってきてめちゃくちゃな敬語や謙譲語をつかったり、会社の女の子の電話の応対が

また言葉が乱れていたと少々くどすぎる面が多いかなと思いました。これはあくまでも

脚本上の問題かもしれませんが、これでもかという風にこられると、こっちはもう分か

ったから...という風に引いちゃう部分もありますのでその辺は適度に台本を削るな

り演出上サラッとやるのがむしろ効果的なんじゃないかなと思います。特に阿部さん演

ずる女性が汚い言葉で電話に向かって叫ぶあたり、実はそれが真実の言葉に近いんだと

いう説明的な副社長とのやり取り、携帯電話が鳴り響き電話に出ることの出来ない彼女。

このあたりの演出もくどすぎるような気がします。最後に実は伴さんが山形県の人間で

東北弁が一番自分らしく語ることができるんだという結末も、主張が多すぎてまるで、

ワイドショーのコメントを聞いているみたいに聞こえました。

 分かりやすさを目指すと座長さんはおっしゃっていましたが、分かりやすさとは作り手

側が客に何を言いたいかが言葉として伝わることではないと僕は思います。それならば

討論会や青年の主張で十分だからです。この芝居では二人の人間がどちらも滑稽だが愛着

がもてるなと思える演出をするだけで十分なのではないかと思いますし、客がどういう結

論を出そうが客の勝手であり、作り手側は材料を提供しているに過ぎないんだというスタ

ンスで作ってくれた方が共感を持てると思うのですが。

 それから、伴さんが国語教師を本気で殺そうとますよね。タイトルから言ってもあそこ

は最も大切に演出しなくてはならなかったのでしょうけど、殺意にいたるまでの心の動き

が今ひとつ役者が追い込み切れてなく、納得できませんでした。

 伝えたいことを伝えるということ目的とする芝居も否定はしませんが、むしろ我々が芝居

を通して見たいのは人間であり、愛情と嫉妬、コンプレックス、自分の奥に無意識にしまい

込んでい残虐性など、この台本が持っているそいうった部分をクローズアップさせた演出を

行えば全く違う芝居になっていただろうし、この劇団の目的には合わないかもしれないけれ

どそういうものを観たい客だっているということも忘れないでほしいと思う。

 しかしながら、大変面白い芝居であったことを最後に強調しておきたいと思います。帰り

に一緒にエレベーターに乗った客達も概ね満足そうでした。

 

 

[2000年11月3日 16時5分25秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

劇団麦「ら抜きの殺意」

今回麦は77回目の公演をむかえた。

数えたら私は、1975年以来30本近く見たことになる。

今回の作品は、私が麦の劇評を書き始めてから〔「五番街の灯」以降〕久々に見る、

麦らしさがでていた、いい作品だと思った。

 

 以前も「やりたい作品よりやれる作品を」と書いたのだが、今回は麦でしか出来無い俳優の

ラインナップだと思う。

 最近麦が上演した小劇場系の作品では、キャラメルボックス等エンターティーメント系が

多かったが、当書きされたスター俳優が多い作品は、かなり難しいように思った。俳優の

年齢的にもかなり無理があったし、全体的なバランスが悪く、麦本来の丁寧な舞台作りが

見えなかった。

 

 長年演出を勤めていた榊原文彦氏が退団されたと聞いたが、今回演出の弟子は銀河旋律以降

2度目の演出にもかかわらずうまくまとめていたと思う。

今回の作品は今後の麦の新しい転機になるような作品に思えた。

 

 とにかく脚本が良かった、日本語とは何かを考えさせられる中、その言葉によって人間関係が

うまく変化していた。

何より主役の一人を演じてた北島寛がいい。

麦に入団して2度目の出演なのだが、見事に、日本語の乱れを許せない高校教師役を演じてた、

とにかく大げさな演技をぜず、キャリアを感じさせるリアリティのある演技だった。

螺子転造、あまりましたも好演していた。

この3人は彼らのためにこの作品を書いたのではと思わせるぐらいはまり役だった。

本当に自分達に合った作品を選んだと思う。

 

 以前に私が書いた 「麦らしさとは、現代的作品を近代的演出をしている」という問題にも

触れたい。

以前劇評バトルで、関氏が「才能という言葉を使う演劇人は信用できない」という趣旨の評論を

していたが、私は才能をセンスという言葉に置き換えたい。

小劇場の作品を、大劇場的な新劇的センスで演出しているという意味だ。

これは、劇場の大きさが大きく影響している。

つまり、大劇場的な演劇に対して、小劇場的な同時代演劇、例えば青年団などは、現在の日本の

演劇におけるリアリティーを求めて、観客200名以内程度の小劇場にこだわっている。

同時代的リアリティは小劇場でなければ表現できないと言っている。

 

 今回の麦の作品も、そういう意味では小劇場的作品なのだが、演出センスは大劇場的に

感じられた。

やたらと正面を向く俳優達、それによって相手との関係性、意識のつながりが中断されて

しまう。

以前、他の人も指摘していたが、舞台上で同時に二ヶ所で会話があるときに一方が、無言の

パントマイムの会話になる、つまり口パク。

現代的な演出なら、同時に話したり時間差を付けたりするのだが。

大道具も書割りの前に、実際の小道具を置いている、つまり古ぼけた壁を書いた絵〔パネル〕

の前に実際の棚などがあるのが、統一感が感じられなかった。

現代的な道具だったら、この壁も実際の壁布や壁紙を貼って、それに汚しをかけていただろう。

仙台演劇祭に出た、弘前劇場の大道具のリアリティを参考にして欲しい。

効果音の指向性の無さも気になった、舞台中央の電話や携帯の呼び出し音が、脇のスピーカー

から聞こえてくる、このような場合、本当に鳴らすか、中央に小さい隠しスピーカーを用意

するだろう。

 

これらのセンスは、大劇場ではリアルに感じられたり、必要だったセンスかもしれないが、

このような作品では、逆にリアリティを失ってしまう。

あくまで、これはセンスが良い悪いと言う問題ではない。

演出が客席に座って見た時感じるリアリティのセンスと、私の客席から見たリアリティの

センスが違うのと言ってるのだ。

 

次ぎに、これはセンス以前の問題なのだが、俳優達の行動の段階的な嘘が各所にみられた。

具体的的にいうと、例えば、ドアを入ってきた人物が入った瞬間に相手に話しかけている。

ドアを入る、中を見る、相手を捉えるという行動の段階が無いのだ。

電話の番号を押してすぐ話始める。

番号を押す、耳に当てる、呼び出し音を聞く、相手がでる、相手を確認する、話すという

段階が無くなっている。行動は、まずモノや、相手を捉えてから初めて起こるということを

しっかり考えて欲しい。キッカケだけでの行動はリアリティが感じられない。

表面的な顔の表情での内面を説明するような演技も斉藤正樹や那須睦子に残っていた。

これは何度も繰り返しているのだが、まともな大人はなるべく表情を読まれないように

するのが普通であり、対人関係においても感情を説明はしない。

つまり顔の表情で表現しようとすると、ただ単にうるさいだけで、内面的タメが逃げてしまう。

北島は内面を観客に想像させたのに対して、斉藤は観客に説明していたように感じた。

 

センス的に気になった部分はあったが、作品的にはかなりの出来だと思った。

若い演出の更なる研鑽を望む。

 

[2000年11月1日 17時53分31秒]

目次へ


ガマの卵プロデュース「ジャング・ギャング」 

お名前: R.S   

 

正直、どんな芝居だろうと不安半分、そんなに期待もせずに

足を運んだのだけれど。・・・面白かった。

物語が、よく組み立てられていたように思います。

くだらないギャグだとは思いながらも、つい微笑んでしまう

自分に気づいて、そう、人ってそんなもんだろうと思わせる

舞台だったと思います。

今後もこの路線で、書いてほしいと願ってます。

ただ、書いて欲しいというのは、役者の技量が物語に

負けていると感じました。

演技(演出)の部分を今後の課題にしたほうがいいと

思います。

もっと面白くなるはずだと思うし、

特に犯人役の高橋大さんにそれを感じました。

また、芝居と芝居の間の暗くなる部分の音楽、

もう少し、印象に残るものだったらよかったのかな・・・。

もったいない気がしました。

今回は、第1回の公演で、たぶんいろいろとやることが一

杯でそこまでいかなかったと思うのですが、もっとしっか

りとした人物・舞台をみたかったと思います。

ただ、反対に相手役の方は好演してた気がします。

劇団ピアスの役者さんとのこと、12月にも公演があるそうで

出演されるようですね。頑張ってください。

また、第2回公演の際にはみてみたいと思います。

勝手な意見ですいません・・・。

でも、いい作品だったと思うので、次は多くの人たちに

みてもらいといなと思います。

 

[2000年10月31日 1時15分41秒]

目次へ


IQ150「シュガー・ドロップス」 

お名前: 仙台劇評倶楽部小野一也   

 

I.Q150 「シュガー・ドロップ」

 

 再演に期待持たせる

 

 

 丹野久美子の世界である。ではあるが、残念ながら物足りない。それは、「『女ともだち』

の男版」を想定していたという私の先っ走りという面もあったということはある。が、

そればかりではない。この点を中心に書いてみようと思う。

中途半端である。例えば、「女ともだち」はアドリブを交えながらもそこに展開されるのは

まさに「おんなともだち3人の生態」であり、観客はその3人と同じ部屋にいて3人の

おしゃべりを聞いているという図式になっている。3人と観客は共存している。

誤解を恐れずに言ってしまえば「女ともだち」の素晴らしさは、《なにやかにやの理屈は

一切なしの3人と観客との一体感の徹底》にある。

 この「シュガー・ドロップ」には、この《男性11人のおしゃべりを聞く観客との一体感》

は生まれない。なぜならそこに、作者はあまりに大きなテーマを持ち込んだからである。

テーマを持ち込んだのが悪いと言っているのではない。持ち込んだテーマが中途半端であった

からである。ラストでりょうと父親との和解はあまりに安易である。母親を殺したと思っていた

りょうが、実は死んでいなかったと知らされて父親の胸に頭を押し付けるという図はいただけない。

父親に向かって「何しに来たんだ。説教しにか?……」のあのりょうの心からの叫び、

あの長ぜりふはなんだったのか?

 りょうの、抱えている将来への悩み。、親にさえも理解してもらえない苦しみ。

理解してもらおうにも親との間に真の対話が成り立たない、そのもどかしさ。

 大人たちのおしゃべりは理解し合うための会話であろうはずはない。

 会話とは何なのか。理解し合うためにではなく、単にしゃべりあう……。言葉は行き交うが、

決して心と心とは通い合わないという「寒々とした現代」の姿、空虚さが浮かび上がって来る。

作者は、理解し合うことの重要性をねらったのかどうかは知らないが、そのことが私には強く

伝わって来た。もどかしい芝居の作りになっている。生煮えの感は否めない。

  それにしても、すごい役者をそろえるものだ。さすがである。 

佐々木卓の安心感漂う演技。佐々木充の着実さ。井伏銀太郎のいぶし銀のごとく光る存在感。

永島りんごの初々しさ。

 この役者で、台本に手を入れて改訂版としての再演を待つ。心から待つ。期待して待つ。

《10月20日観る》

 

 

[2000年11月6日 21時58分51秒]

 

 

お名前: W.S   

 

 実をいうとこの劇団の公演を見たのは15年振り位です。「眠れぬ夜の羊は少年」という

実に型破りの芝居、エネルギッシュな芝居を見て、仙台にもこんなに挑戦的な(?)劇団が

あるんだということを知りホッとした記憶があります。その後、何故公演を見に行かなかっ

たのかというと、あまり理由はないのですが、ついつい行きそびれたといっただけの理由に

過ぎません。

 見終わった後、15年前に抱いたこの劇団の印象とは全然違う印象を持ちました。自然体

なんですね。

 今回の作品は女性である丹野久美子氏が書いた「野郎」の芝居ということで、果たしてど

んな人間を描くのか楽しみにしていました。実に人間臭い男達を見事に描いていたと思いま

す。もしかして、素でやっているのかと思うくらい役者さんはそれぞれ自然体の演技がはま

っていた。ゴルゴ似の役者さんも普段もあんなことやってるんだろうなと思わせる位無理な

く生き生きしていたと思う。そして一人一人が格好いいのである。自分も自分らしくそれで

いて格好をつけるときは格好をつけていたい。男だもの。というわけで多くの役者さんに共

感できた芝居でした。

 そして、永島りんごさんの少年役のリアルさ。あれもきっと日常で何かを引きずっている

のかなと思いました。それ位、真に迫ってくるものがありました。 

 ただ、男というものはもっと考えていることの何割かは下品でどうしょうもない部分もあ

るのではないのかな。と思う部分もありましたけど....。きっと、そういう男の部分は

わざと省いたんでしょうね。

 芝居全体の構成について、1時間35分という理想的な時間で終らせることはいいことだと

思いますが、前半の部分が少々長いような気がしました。まあ、あれによって一人一人の人

物像が良く分るようになるんですが、後半ストーリーが一気に展開して、実は女性を討った

のは少年でそして父親が飛び込んできて説得してという流れが急展開しすぎのような気がし

ました。少年を説得するマスターと客達の部分が短いのは、マスターと少年の関わりのバッ

クグランドが少々突っ込んでいなかったためではないかと思うのですが....。単に店に

やって来る少年というだけでなく、どうしてその店に好んで来るようになったのか。おそら

く、僕も若い頃通っていた店があったけれど、そこのマスターに父親とか兄貴とかそんなも

のを求める気持ちや生き方に対する憧れみたいなものがあったと思います。そこのとこは表

現されていたといえばいえるけれども、「蒲田行進曲」の銀ちゃんとヤスまではいかなくて

も少年がマスターに求める気持ちの強さみたいな物ももう少し見たかったような気がします。

 それから、男と女の愛はあえて書かないとなってますけど、やはり男を動かすエネルギー

はやはり愛じゃないかなと思います。だから、ゴルゴ似の役者さんが電話で娘に語りかける

ところはやけに説得力があり笑えました。また、父親の息子に対する無条件の愛情も見てて

僕は納得いきました。僕も父親だからでしょうか。男と女の愛のストーリーなんて、勿論書

かなくてもいいけれど、この他の男達がどんな愛を抱えているかを見たい気もします。

 また、一見平凡なストーリーに見えましたが、そこには私達の日常へとつながる開かれた

物をしっかりと見ることができました。この時代の普通の人間が抱えている日常も映し出さ

れていたと思います。ただ、一緒に見に行ったやつが、母親が助かって終わるのは平凡では

ないかと言っていましたが、どうでしょうか。また、昔、別役実氏が「観客を裏切ること」

の重要性を書いていましたが、そういった部分ももう少しあってもいいのではないか

と思いました。少年が実は犯人であることは大体想像つきますよね。あえてそうしたのでし

ょうか。

 多分、的外れなことを言ってる部分もあると思いますが、お許しください。脚本集を買い忘

れてしまったために確認しないで書いたとこもありますのでもし違ってたら教えて下さい。

 

[2000年10月23日 18時44分46秒]

 

目次へ


”OCT/PASS”公演「又三郎」 

 

お名前: 渡部  進   

 

 blue-city さんへ。一応反応してくれたことは、私個人としては嬉しいのですが、頭が

おかしい人とあなたが考える人とは誰のことなのでしょう。別に私のことだと言っても構いません。

ただ、皆さんおっしゃているように、何を基準に頭が正常、異常とあなたが判断するのか、そ

こをきちんと書いてもらいたいなあと思います。

 それから、これは言っておいた方がよいのかなと思うのですけど、芝居を作るという作業は

他人の劇を見て感想を書くことの100倍以上は大変だというです。一度でも真剣に芝居を作

った経験のある人なら当然分ると思いますが。その苦労を十分理解た上で感想をあえてこのよ

うな所に載せるというのなら、それなりの覚悟があってのことであると私は思います。

 もし、その苦労を理解しようとせずに安易に批判ばかり書いているのだとしたら、私だって

頭に来る気持ちはわかります。劇評クラブの方々は前者であると私は信じていますが、どうなの

でしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 18時15分11秒]

 

 

お名前: ケイコ   

 

佐々木さんはどんな覚悟で劇評を書いてるのでしょう。

謝るのなら最初から書かなければいいのにと思いました。

芝居をする者と同じくらいの覚悟で取り組んで欲しいと思います。

そうでなければあまりにも失礼です。そんな軽い覚悟で劇評を書く方が非礼だと思いました。

書いた物にたいして責任をとり、自分の論を通す方が失礼じゃないと思います。

 

もうひとつ思ったことなのですが、作り手が反論をすることは悪い事じゃないと思うのですが

どうも不快な印象を感じます。ただの言い訳にしか聞こえなかったりするからでしょうか。

今回の場合、学生さんとみよこさんに対して馬鹿文章と切り捨ててしまう石川氏の芝居に

対する姿勢が気になりました。

ただつまんなかったと言う簡単な意見では不満なのでしょうけど。

 

 

[2000年11月30日 8時19分32秒]

 

 

お名前: KIT   

 

 下のbule_cityさんのご発言、せっかく出てきていただいてなんなんですが...

1〜3行目と6行目が意味不明です。特に6行目について、どうか一人で納得されずに

ご説明をお願いしたいです。何か取り違いをされているような気がするのですが?

 

 

[2000年11月26日 23時45分17秒]

 

 

お名前: blue_city   

 

”あたまのおかしい人の相手をしてはいけません。それでは相手の思うツボです”って

ニュースグループに時折出てくるあれですね。

・・劇評倶楽部とやらの方々の劇評はそちらのwebに載せていただけると幸いです。

それだけの志しがあるのなら自分たちで芝居作ってみれば?!

 

そうやってグループ化しちゃうのがかなり笑えました。

 

 

[2000年11月26日 18時52分57秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 何か、この欄がこのままバックナンバーに行ってしまうのも惜しいということなのか、いつ

までも残っているようなのでまた失礼ながら記入させていただきます。

 もしかしたら、私が感想文をここに一観客として書いたのがきっかけでこのような悪い雰囲

気のままこの欄が終わっているのではという気がするからです。はっきりいえることは、今年

は夏から秋にかけて仙台の芝居を観たけれど、やはりOCT/PASSはすごいと思ったこと

は言わなくてはならないと思います。しかしながら、私と同じように、過去にもっとすごい物

をみせつけられた者にとっては、やっぱりその芝居を基準に考えるからなんとなく物足りなさ

を感じる。それだけの話だということは書いておきたいと思います。(蛇足なのでしょうが)

 今年「レミング」を観た時、客席を眺めると結構年齢層の高い観客が多くて、仙台にもこん

なに演劇を観たい年配の方(といっても40代〜50代位でしょうか)がいるんだなと感じま

した。でも、いままで私が観に行った芝居の観客は若い世代が比較的多く、また演劇に携わっ

ている方が多い感じを受けました。そういって意味で、石川さんのやっている「AgingAtack」

という試みは演劇を観る観客層を広げるという意味でも評価はできると思いますし、若い世代

の我々が観て物足りないからと言って一概に批判するのはよくないのではと思います。

 ただ、私は私が過去に観た最高のレベルの芝居をこの劇団の上演にも観たかった。それは欲

張りだったのかもしれませんが、例え客演が多く苦しい中で作品を作っているのだとしても、

より高い理想に向かって欲しいということを願うだけです。私が住んでいた札幌市では今、

演劇ブームで、面白い劇団は1万人単位で客が入るそうです。何故なのでしょうか?仙台の方

は特に一般の方は何故演劇を観に来ないのでしょうか。私も演劇が大好きな人間の一人として

きっと面白い物を作れば皆さんが振り向いてくれる、そう信じたいといつも願っています。

 仙台を今後もリードしていくであろう劇団の方々、私たちの街にもっと演劇人口が増えるよ

う今後を素晴らしい芝居を作り続けて下さい。

 そして、この欄を観てただ第三者として傍観しているあなた。間違ったり、稚拙な言葉でし

か語れないとしても、本当に演劇を愛するのであれば何かを言って欲しかったと私は感じまし

た。

 

 

 

[2000年11月24日 0時30分45秒]

 

 

お名前: 喪歌魔多利   

 

書いていいのかな?

 

自分も客演していた芝居なのでね、読ましていただきましたが……

べつに「つまらん」と言っていただくぶんには全然かまわないのですが、いろいろと

ひっかかることがありますので少しばかり書き込ませていただきたい、と想いました。

(まずかったら削除して下さい。)

 

まずは「テント」と言うことについてですが、テントがこの芝居に必要であったかどうか?

と言うご批評がありましたが、あれって何に対して言ってはるのですかね?手法としての

問題としてなのか、演出効果としてなのか、はたまた役者体のこととしているのか?

まったく解りません。

自分らが立つべき場所として選んだことに関してならば、これは覚悟の問題に近いんですよね。

総てを抱え持つ演り口として選んでいる訳ですからこいつを否定されると困ってしまいます。

作品としての時間とまた違う時間の流れも見ていただかないとねー、そんなこと客には

関係ない!正にその通りなのですが、「劇評家」を自認している方ならば「ただのお客さん」

ではないのですからキチンと把握してから御批判いただかないと演ってる側としては困ります。

演出効果的な部分からの御発言なら効果的ではなかった、ということですよね。テントでしか

なかった芝居をテントを上手く使っていなかったからテントである必要はなかったと言うのは

如何なものでしょうか?俺なんかテントばかり20年近くも演ってきた人間なのですが……

上手く行かない芝居もあります。で、テントの必要無しでは人格の全否定に近いのでかんべん

してくれ、ですね。必要だから演っているのです。ここのところでの御発言なら(石川氏では

ありませんが)あぁ、この喪歌魔多利にケンカ売っているんだと、俺なんか想ってしまいますね。

役者体が空間に棲み込んでいなかったということならば、ゴメンナサイ。俺たちヘタクソでした。

この部分なら納得できます。もっと意識してテントそのものと勝負すべきでしたね。既成の劇場

では有り得ない存在感とか舞台での居直り方とかまだまだ演らなければならない問題は山積みです。

頑張りますのでこれに懲りずに次回に期待して下さい。

うーん、あとは台本そのものがテント芝居に合っていないってケースも在るのですが、今回は

それは有り得ませんよね。ホールで飛ぶ教室を現前させるなんてことを実現させるためにどれほどの

資金と技術が必要か考えたら言わずもがなですよね。まさかそんなこと、ね。

それ以外の部分でしたら俺には今ンところ考えつかないのでまたご指摘下さい。

 

それから「アングラ云々…」とかの発言もよく解りません。

「私は日本に於けるアンダーグランド演劇及び小劇場運動は表現技術を指すのではなく、

国家体制に対する否定から始まった政治闘争だと考えている。

つまり、資本主義体制で生じた矛盾を端に、社会主義、乃至は更に過激な共産主義的思想が

進出していった先鋭的活動だと解釈しているのである。」

だからなんなんですか?

これって、俺はそう想いません。で終ってしまいますよ。

今回のテントでのイベントでも「アンダーグランド演劇の…」ってのがありましたが、結果

あれだけ拘っていた諸先輩方でも統一見解の欠片も出せなかったような命題を普遍性を持つか

のように劇評のベクトルとして使うのは軽率ではないでしょうか?

俺なんか所謂「第3世代」ってやつですから思想性などこれっぽっちもないのですが、

「アングラ役者」と呼ばれていますし、自分としては『ま、いいか。』なんて気楽に考えて

いるのですが、これってダメなことなんですかね?

 

笑えるのは批判的な発言をされている劇評家の方はほとんどが(石川裕人氏名指しが多いですが

)個人攻撃(誉めるのもそうですかね)なんですよね。芝居は現場性を持つから芝居なんでしょう?

木を見て森を見ず。これは役者が陥りがちな状態なんですけれどね、人の振り見て我が降り

直せですよね、勉強になりました。

 

また仙台にお邪魔したいと想っています。

その折にはまた、舞台の上でお逢いしたいと想っています。

 

 

[2000年11月10日 0時16分53秒]

 

 

お名前: W.S   

 

> とにかく、こんなもので愚生と劇団員、客演してくれた役者陣がが死ぬと思ったら大間違

いだ。

 

石川氏の怒り、伝わってきます。きっとこの気持ちがあれば、次は今回よりもっと素晴ら

しい芝居が完成するだろうな。ということを一観客として期待します。今回の芝居を作るとき

もこのような感情の動きあったのでしょうか。芝居というのは、演出家、役者がどれだけ自分

を追い込んでいるかが露骨に表面に現れますよね。ですから、どんなに完成度の高い物を作っ

ても客が反応しない時っていうがあるのではないかと思います。

 私はこの数多くの書き込みの中で一番、(一観客としての)真実の言葉を語っていたのは

「学生」さんと「みよこ」さんの言葉だったと思うのですよ。芝居を作る者はそのことに敏感

であるべきだし、それを逆に宝にするべきですよね。勿論失礼な点は私も含めてお詫びしなく

てはならないと思いますけど。残念なのは、それに対して、「いやこの芝居は良かったよ。何

言ってるんだおまえ達の目は節穴か。」みたいな反論が一般の方から出てきて当然なのに出て

こなかったことです。

 私も高校生相手でしかありませんが、芝居を作る人間ですから、言葉のニュアンスには一番

敏感なつもりです。「高校生相手のW.Sの感想文でも」ということばからあなたが高校演劇

に対して持っている本音も伺えました。

 そんなことより、皆さん、石川氏に期待しているからこそ、このように沢山の文章が載った

わけだし、少なくとも、誰一人悪意を持っているようには思えませんでした。ですから、次回作、

ぜひいい芝居作ってください。お願いします。

 また、これは「談話室」の方を見ていただければ良いと思いますが、寸評、感想、エッセイ

的な物でも結構です。と管理人さんから返事をいただいています。代表として、これが駄目だ

ということであれば、きちんと訂正して欲しいと思います。

 

 

[2000年11月8日 1時44分9秒]

 

 

お名前: 佐々木 久善   

 

 石川さんは私の書いた「高慢な感想文」をご覧になって喧嘩を売られたと考えておられ

るようですが、私は他人に喧嘩を売るほどの腕っぷしもありませんので、まずは謝ります。

 不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。

 私もこの「感想文」を書きながら石川さんが相当に不快な思いをされるのではないかと

内心ビクビクしておりましたから、ストレートに「喧嘩を買った」と出てきていただき、

自分勝手ではありますが、謝る機会ができて少しほっとしてもおります。

 ただ一つ、私には石川さんに「私怨」があると思われている理由に心当たりがございま

せんので、自分でも自覚しないうちにこれまでいろいろなご無礼を働いてしまっていたこ

とと思い、こちらもあわせて申し訳なく思っております。

 石川さんの反論はいちいちごもっともなことばかりで、はっきりとご自分から説明して

いただければ、私のような部外者がブラーブラーと申し上げるまでもないことばかりです。

 あなたがいかにご自分の考え方のストレートな表現として芝居を創作しているのか。そ

して「無意味で何が悪いのか」とおっしゃっておられることに心底感心しております。

 まさに目からウロコが落ちるとはこのことを言うのだと実感しております。

 あなたもおっしゃっておられるように私は「冷静な」人間なので全てのものに意味を求

めてしまう悪いクセがあります。このクセは私の36年の人生において育まれてきた性質

なのでお許しください。

 またご自分でもお書きになっておられるように、芝居を続けていくことは本当に大変な

ことのようですね。

 私のような何も知らない門外漢が発言するような世界ではなかったのだと深く深く反省

しております。

 演劇人フォーラムの代表としての立場でさえご自分の持論の前では何の意味もなさない

とのお考えにすべてを納得いたしました。

 最後にひとつだけ、私の考えをお聞きください。

 あなたがどんなに尽力しても「仙台の演劇のレベルを立ち直れないくらいに落とすこと」は

困難であると思います。

 このご発言は撤回していただいたほうがよろしいかと思います。

 

 

[2000年11月8日 0時42分25秒]

 

 

お名前: みよこ   

 

>あなた達のは馬鹿文章です。

どういうこと????

 

>自己満足のために感想文書くなら日記にしまっておいて

私はお金払って観た芝居を感想として書いただけなのですが。まちがっていたのでしょうか。

ここはそういう場では無いのですか?

ここでの正しい書き方を教えて下さい。難しい言葉では書けないので素直に書いたのです。

これらの感想が誹謗中傷だとおもわれるのでしたら、削除したほうがいいのでは無いですか?

 

 

[2000年11月7日 18時36分12秒]

 

 

お名前: 石川裕人(TheatreGroup“OCT/PASS”主宰)   

 

売られた喧嘩を買いましょう。

石川裕人(TheatreGroup“OCT/PASS”主宰)

 

愚生は自らの劇評に関していままでこういう形での反論をしてこなかった。

何故かといえば芝居者として批評への答えは次の舞台成果に注ぎ込んでいたからだ。

その禁を犯してある批判に答えてみたくなったのは余りに独善的で劇評とは言い難い

感想文がまかり通り、そして中傷とも取れる文脈でネット上を流通していることへの

怒りだった。これは喧嘩を売られていると感じたわけだ。批評と喧嘩とは別次元の

ことだが、批評を志す人が確信的に書いているのだろうから、それは喧嘩になっても

いいと言うことだろう。

 

佐々木久善氏に問う。

無意味で何が悪いのか?愚生はいままで演劇の意味論などというところで芝居はして

こなかったし、これからもそういう考えである。無意味でナンセンスでアナーキー

だからこそ愚生は芝居をやっているわけで芝居で教訓をたれたり、教条的な芝居には

反吐をする。あなたは人生を含めた全てのことに意味を見いだしたいようだが、

ではあなたが演劇に求める意味性とは何か?無意味では芝居は成立しないのか?

非常に根源的なことだけど芝居の面白さとは、「個」対「個」の表現の乱反射なのでは

ないのか?「又三郎」が全てそれを体現しているとは言わない。そんなことはやってる

本人が一番気づいている。それを作業仮説としてメソッド化したりして血肉化していく

わけだし、いままでもそうやってきた。それには途方もない時間がかかる。あなたも

ご存じの通り“OCT/PASS”は昨年から劇団員が流動化して今回は主要なキャストを

客演に仰がなければならない状況だった。お家の事情なんて聞きたくない、それなら

やめればいいさとはいかない。愚生は人の芝居を見て高邁な感想文を書く側の人間じゃない。

芝居を生き方の糧にしている。勉強もやり直したり、ずっと続けている。あなたから勉強を

し直した方がいいなどとお節介なことを言われる筋合いはない。ましてや仙台演劇フォーラムの

代表とその作品の関連云々となると森首相の適格性のようで、そこまで責任をとらされるの

なら仙台の演劇のレベルを立ち直れないくらいに落としてやろうかとも思う。誤解されては

困るが、愚生は芝居を仙台のレベルのためになんてやったことはない。罪のあるのはあなたの

感想文だ。あなたがこういうことを書く心理がはかりしれない。今年4月のAging Attack !!

公演の批評も愚生への私怨としか取れないようなものだった。

(明らかに他の批評文とは違う冷静なもの)私怨ならそれでこのような場所で展開する

性質のものではないと思うのだが。

 

川島文男氏に問う。

あなたが感動と名付けるのはどういうことなのだろうか?

感動の押し売り的な物言いしか感じない。あなたは観客の代表ではないのだ。観客論を

度外視して観客を一般化するのはやめたほうがいい。あなた以外の観客がどれほど喜び、

感動していたのかを知るべきだと思う。役者はそれに励まされ、鼓舞され、観客と

セッションをしていくわけで。

批評とは一般化ではなく、批評家の個的な営為と切り結ぶことではないのか?

佐々木氏にもいえることだけど、批評に妙な公共性を持ち込んだりするのはやめた方が

いいのではないか。誰にでも愛される芝居なんてない。

いつでもそうだが、私はなんでも知ってるよという高飛車な批評は、どこか滑稽だ。

 

学生・みよこさんに。

あなた達のは馬鹿文章です。高校生の演劇WSの感想文でももっと的確なことを書いている。

人を批評すると言うこと、このような形で自分が批評されたらどう思うかと言うことを

思慮する事だと思う。自己満足のために感想文書くなら日記にしまっておいて。

 

何も褒めちぎってくれと言うことではないんです。

演出論だの、戯曲論だの、俳優論、観客論、あらゆる論を包括し、それをOUT PUT

したところに舞台は現前します。それを生きるのが芝居者です。様々な苦しみ、悲しみ、

喜び、怒りの稽古現場があって作品が立ち上がってきます。実はやった芝居のことを

一番わかっているのはやった当人たちでどんな批評も甘んじていることの方が多い

わけです。もっとやれたはずだとか、やっぱり今回もできなかった等々。

反省しきりなのです。

芝居者はそうやって続けていきます。愚生もそうやって30年くらいになります。

しかしながらわからないところは年を追うごとに増えてくるわけで、演劇の本質に関わる

ところに常に触れ続けています。そうやって試行錯誤しながら金にもならないことに地道を

上げ、四苦八苦して達成感なんかこの十年来感じたこともありません。しかし、続けます。

こりゃ面白いと思えることには飛びついて行こうと思っています。いくら酷評されようと、

失墜ねらいの感想文が出ようと愚生はやり続けます。

そして、多くの芝居者がそう思っているのだと、期待票です。

そういう芝居者の思いに至らず、ダラダラと自分の感想が書き込まれ、

(他に書き方はないのか?)それがまだ閉鎖的な様相の強いネット上で垂れ流されるのは

困ったことだと思うし、ネット環境のない人まで犠牲になっていく構図が怖いと思う。

とにかく、こんなもので愚生と劇団員、客演してくれた役者陣がが死ぬと思ったら大間違いだ。

ご高覧、応援してくれたみなさん、ありがとうございます。

好意的な方もそうでない方もまた劇場でお会いしましょう。

 

 

[2000年11月7日 15時18分1秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木 久善   

 

 宮澤賢治の『風の又三郎』の物語を使いながら映画への偏愛を描き、アングラ演劇の継

承を狙った野心的な作品である。しかしその野心は時代錯誤であり明らかに失敗してい

る。

 ゴミ処理場の建設が始まり住民全員の村外への移転が進行している村の小学校に一風変

わった転校生がやってくる。真っ赤な髪の毛にマントを翻すその少年・高田三郎のことを

村の子供たちは「風の又三郎」だと思い込む。小学校の教師・宮澤は生徒が帰って誰もい

なくなった教室で亡くなった妹・ネリと再会する。彼にとって彼女は身内を超えた愛情の

対象であった。夜毎彼女と語り明かし彼女を失った悲しみを追体験するうちに彼は村の崩

壊の元凶であるゴミ処理場を自らが犠牲となることによって破壊しようと決心する。宮澤

の思いを知り、風を操る不思議な力を発揮して処理場を攻撃する「又三郎」ではあったが

堅固なその建物を壊滅するまでには力及ばず、計画の中止という曖昧な結末のうちに三郎

は再び転校していってしまうのであった。

 以上がこの芝居の物語である。宮澤賢治の『風の又三郎』を基本にしながら賢治自身の

近親相姦的愛情と今日的な環境問題とを絡めた展開は十分に魅力的であった。しかし一方

この物語を中断するように侵入してくる人物が何人か存在している。

 第一にナウシカ婆あ。明らかに映画『風の谷のナウシカ』からの出典であることがわか

るがそれ以上の何者でもない。映画の主人公が自然と人間との間に立って無償の愛を持ち

つつ戦ったのに対し、ただの老婆である。キャラクターの名前の引用に過ぎないというこ

とだろう。次にアキラ。日活映画の小林旭を意識したようだがビルのこだまを上手く使っ

たギャグ以外には目立ったところのない人物である。最後にインディー・ジョーンズと助

手のキム。やはり映画である。処理場の建設地に忍び込んで恐竜の化石を発掘することが

唯一物語との接点である以外前述の二人同様に無意味である。

 以上の無意味な侵入者を登場させることで作者が意図したこととははたして何だったの

か。もちろん映画への目配せという意味もあるかとは思うが、それ以上に作者・石川裕人

の演劇論がわかりやすい形で現われていると私は見る。

 それは一言で言って稚拙。好きなものをただ並べることだけしかできない未成熟な劇作

論である。そこでは効果的な構成や考え抜かれた展開は影を潜め、おもちゃ箱のような乱

雑さのみが際立っていた。彼がアンダーグラウンド演劇をそのようなものとしてとらえて

いるとすれば明らかな間違いである。

 唐十郎の状況劇場に代表されるアングラ演劇・テント芝居は確かに一筋縄ではとらえき

れない物語構成に特徴がある。だがそれは日常のすぐ隣にポッカリと口を開けている非日

常の陥穽を観客に理解させようと考え抜かれた末に到達した地点であり実に大胆な仕掛け

であった。そこでは脱線であっても物語の本筋に切り込んでくる鋭い刃を持っていた。

 それに対して石川裕人の構成は物語の合間に自分の好みの話題を挿入しているに過ぎな

い。一見無意味で唐突な人物が物語へと突っ込んでくる瞬間こそが劇的なのであって、そ

の瞬間を構想することができないならばやはり無意味なのだ。

 三時間近い上演時間のうちのどれほどが無意味な脱線に費やされたかを考えてみれば一

目瞭然である。

 石川自身が演じた校長先生という役が本当に必要であったのか、また最後の場面の舞台

の奥に消えてゆく教室のように使い古されたテント芝居の技法が本当にこの芝居に必要で

あったのか、上演の前に考える必要があったと思う。

 残酷な言い方になるが、石川裕人はもう一度演劇を勉強し直したほうがいいと思う。

 この芝居を観て、野外・テントという他にない仕掛けだけで新鮮であると思えた人も多

かったとは思う。しかし一方ドラマの基本を欠いたいい加減な構成に呆れてしまった人も

同様に多かっただろう。仙台演劇祭に参加する劇団が仙台演劇界の代表であると思い観劇

した人も多かったと思われる。しかも仙台演劇人フォーラムの会長が主宰する団体の作品

である。これを観て仙台の演劇のレベルを見限った人も少なくはないであろう。

 非常に罪のある公演であった。

 

 

[2000年11月4日 13時10分52秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

 

[劇評]「又三郎」劇団オクトパス 「十月八日の公演を観て」

   仙台劇評倶楽部代表 川島文男

 本作を劇評するには多少の躊躇を伴う。原作、演出意図を発表すべきチラシに於て、石川氏は

「演じる上で気をつけていることはアドリブをたくさん入れること。テント公演はお祭りみたいで

楽しい」と述べ、「相手にアドリブが利かないのがツライ[笑い]」とも語っているからである。

つまり楽しむことが優先され、作品の質についての真剣な取り組みがなされたとは思えなかった

のである。しかし、劇評するにはその演劇が真剣に演じられていなくてはならないと言う

前提条件がいる。そうでなければ如何なる劇評も上演者側のジョークとして捉えられ、あらゆる

言い分を許してしまうことになるからである。よって私はこのコメントを真面目に受け取るべきか

どうか迷った。或いは氏の照れで述べているのではないかとも考えた。だが上演意図が宮沢賢治

の名を上げるに止め、他のどの部分にも述べられていない以上、本音であると判断せざるを得な

かったのである。また作品を見終って、確かにその通りだと思える部分が多数見受けられたこと

にもよる。

 在仙演劇家のなかで、石川氏はアンダーグランド演劇を標榜する名にし負う劇作家である。

だが今回の「又三郎」はそれであったのだろうか。私にはこの作品がそうだとするには余りに

不十分と思えた。僭越を承知で言えば、私は日本に於けるアンダーグランド演劇及び小劇場運動は

表現技術を指すのではなく、国家体制に対する否定から始まった政治闘争だと考えている。

つまり、資本主義体制で生じた矛盾を端に、社会主義、乃至は更に過激な共産主義的思想が

進出していった先鋭的活動だと解釈しているのである。勿論、私はそのような思想に賛同する

ものではないが、それは別として、そのような主義主張がこの作品に表現されていたとは思え

ないし、ラストシーンでの「私の力は不十分であった」との三郎の台詞さえ木で鼻を括った

ものに感じられ、思想面からみて余りに脆弱な思想表現であると思えたのである。

 次に、この作品を表現技術といった面から見てみる。私はこの二時間四十分に及ぶ作品を、

最初から観た人々と、途中から観た人々が受ける印象の違いについて想像してみた。しかし

、恐らくこの両者に大きな違いはなかっただろうと思える。つまり、どこから切っても同じ絵の

出る金太郎飴のような作品ではなかったか。そしてこのことは、その時間の大半が同じ意味の

繰り返しのなかに費やされ、それが余りに過ぎたことが原因と考えられる。例えば空中を舞う

アクロバット的演技にしても、これだけの仕掛けを用意するなら、それによって観客に大きな

感動が生まれなければならないと考える。そうでなければ、これまで努力してきた役者や

スタッフに報いることは不可能だからである。にも拘らず、観客は冷静に凝視していた。

豊年座の獅子踊りにしても、何の必然性もない退屈な余興的時間ではなかったか。話を原点に

戻せば、観客が金を払って観たいと思っていたのはドラマであり演劇なのである。だから観客

はこのような無理強いされた見世物的獲物に飛びつかず、演劇だけが許される素晴らしい感動を

得られなかったのである。つまり表現技術の面からみても、アンダーグランド演劇を問う以前の

芝居が行なわれ、観客を満足させることは出来なかったのである。更に前述したラストシーン

での又三郎の台詞を補足すれば、この輝かしい力強い台詞も、他の無益な演出に邪魔され、

既に時を逸してしまったように思える。そして氏が観客の歓心を意図したであろう喜劇風の

仕立ても、豊かな色とりどりの空間も、或いは時にはシリアスな心を打つ見せ場も、全てが

各々勝手に主張し、決して融合することはなかったのである。

 とは言え、出演者やスタッフの活躍には目を見張るものが感じられ、舞台を完成させる

要素は十分にあった。特に、又三郎を演じた佐々木久美子氏は粗削りで、また宝塚調の口調に

多少の不満は残るが、作品を理解している感性の深さを際立たせていたように思う。

彼女の「三郎」が今でも私の脳裏に蘇ってくるのは嬉しいことである。一方、良否が

決められず困っているのが石井氏の舞台装置である。重機器等を用いての大掛かりな仕掛けや、

舞台両面を使っての舞台移動が賞賛に値するのは当然だが、芝居全体の繋がりの中で一体と

なって存在していたかとなると、その賞賛に匹敵するだけの価値を見いだすのにやや消極的になる。

つまり、これもまた単独で輝いていたのではないかと思え、俗に言う「勿体無い活躍」として

受けとめざるを得ないのである。だが、これほどの仕掛けを用意できる装置家はざらにはいないと

思えるし、これによって氏の評価が揺らぐものではない。今後も更なる「見せ場」を創ってもらい

たいと願う。

[2000年11月1日 20時36分6秒]

 

 

お名前: W.S   

 

 私と同じ感想を持った人、やっぱりこの劇団はすごいと感じた人、いろいろな人が居て

安心しています。

 さて、しつこいようですが、もう一言だけ述べさせてください。それは演技法なのか演出

法なのか分かりませんが、又三郎の演技についてです。確かに一見熱演ですばらしい演技で

した。しかし、なぜ私がもの足りなさを感じたのかといえば、それはしょせん作り事にすぎ

ないようにしか思えなかったからです。又三郎を一生懸命演じている、作っている佐々木久

美子さん本人があの目の奥から読み取れてしまうんです。つまり、表面的に見せている又三

郎と佐々木さんが二重になって見えてしまうんですね。それは、必死に表面上を作っている

からなんでしょう。それは、他の役者さんにも多少はいえるんですけど、又三郎がやはり一

番目立ってしまったのは役柄のせいでしょうか。つまり、佐々木さん自身の人間性が役にし

っかりと結びつくような演出をしないとこういうことになってしまうんですよね。つかこう

へいが「口立て」による演出方法を確立したのは、まさにこのような作り事の演技からの脱

却を狙ったからであると私は思っています。この演出方法はアングラどころか新劇に近いの

ではないのかと思われます。ですが私は新劇で学んだことはないのでこんなことは言っては

いけませんね。

 目の演技がすばらしいというのであれば、サイマル劇団の佐武令子さんや赤井康弘さんの方

が上手だと思いますが。なぜなら、彼らは演技のそこにしっかりと自分というものが存在して

います。それは決して素でやっているということではなく、自分自身の底にある何かを引き出

して提示してくれているからです。そして、役者と演出の戦いがしっかりと見えています。

 私個人の傲慢な意見かもしれませんが、「演技というものは何か」ということを作品論以前に

考えなくては...だからいい役者が育たないのかなと思うこのごろです。

 

 

 

[2000年10月28日 14時49分57秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

錦町公園に宮沢賢治と「十月劇場」が蘇る

 

「AGINGATTACK」を二年観た。劇評を書いたが、つらい作業であった。「高齢者俳優養成」

というねらいはすばらしいが、内容が伴っていなかったからである。「趣旨が良いのだからそれで

いいではないか。素人演技に期待し過ぎてはいけないよ」という人がいたが、その言い方は的外

れだ。私は演技には最初から期待はしていなかった。せっかくの試みなのに、台本がそれにふさ

わしくなかったのである。すばらしい作品を書いて来た作家なのに、せっかくの試みそのものをも

マイナス化してしまうほど、話そのものがありきたりだったのである。私は、劇評を《こんな内容の

芝居をやるのなら「AGINGATTACK」は止めたほうが良い。継続するなら、きちんとした台本を

書かなくてはならない》という思いをこめて書いたものだった。告白させてもらうなら、言い方がき

つくなるが、作者は台本作りに行き詰まりを感じているのではないかとさえ思ったものである。 

そんな私を「余計な心配だったかな?」と、少し安心させたのは、『現代浮世草紙集』六の巻

「夜を、散る」であったし、この作品「又三郎」改訂版であった。が、?マークがついていて、しかも

「すこし」と、わざわざことわりを入れたのは、この「又三郎」は改訂版であるという点と、あれ

以来、「まだ二作目に過ぎないという点である。

 さて、言うまでもないことだがテント芝居の場合、「なぜ屋内ではなくてテントなのか」が問われ

る。その意図が観客に納得行く形で伝わらなければならない。その点でこの芝居は「まさにテン

ト」である。テントの特徴が見事までに生かされていた。舞台と屋外をふんだんに生かして、

《この場面は舞台》《この場面は屋外》というふうに、それも交互に納得いく台本になっていた。

特に屋外での場面は、スケールが大きくダイナミックであった。 座席の向きも工夫されていて

観客は向き合う形で座ることにより、芝居が始まる前からテントの中に仲間意識が生まれてい

た。その一体感は、芝居が始まると演じる側をも巻き込んで「演じる側」と「観る側」とが交じりあっ

て、会場には「独特の『世界』」が形成されていった。その「世界」は、まさに宮沢賢治の「世界」と

相通じるものであった。作者は「演劇通信」で「テントの仕掛けや舞台の使い方を観て欲しい」「舞

台が2つあるところ」と言っているが、これも計算の内なのだとしたら、脱帽するのみである。

 

 「まさに宮沢賢治の『世界』に相通じるものがある」と、書いたが、こと宮沢賢治に関していうな

ら、芝居全体が宮沢賢治の世界そのものであったと言っても過言ではない。

 作者は「演劇通信」で、宮沢賢治へのこだわりについての質問に「何本かやっているので

『こだわり』はあります」「アレンジものでこれからも宮沢賢治の作品をやっていきたいです」と

答えている。その作者のこだわりが、作品全体を宮沢賢治の世界そのものにしたのだろう。

すさまじいまでの「こだわり」である。

 随所にみられた「だじゃれ」は、宮沢賢治にそぐわない。蛇足の感があり、不要だったのでは…

…と、思えるのだが、観客が沸いていたことからすれば「あれはやはり必要だったのか」と認めて

しまいたくなる。言い方を変えれば、そぐわない「だじゃれ」さえも「ものともしない」ほどの濃さをあ

の芝居は持っていたということになるのだろう。

 それほどまでの「濃さ」について、具体的に書いてみよう。

 テントを巧みに使い座席設定で、始まる前から観客を独自の世界に巻き込んだ工夫について

は、冒頭に書いた。

 宮沢賢治の作品を、芝居全体の中に違和感をあたえることなく巧みに織り込み観客を引き付け

て離さなかった。

 いい役者をそろえた。

 特に目立ったのは、「ネリ」を演じた古村朋子。ただ立っているだけですでに「ネリ」であったし、

無表情の表情とあいまってセリフまわしに「あの世の人」を感じさせ、兄宮沢先生への語りかけに

は説得力を持つ。

 それに「三郎」を演じた佐々木久美子がいい。軽やかな身のこなし、話す相手を見る目は「風の

又三郎」そのものであった。私は、役者の演技の差は目だと思っている。「目」で演技が出来かど

うかにかかっている。セリフまわしや身振りが巧みでも、「目」で表現出来なければ「よい役者」と

は言えない。

 そして、「あきら」の南城和彦。インディ・ジョーンズの喪歌魔多利。何といっても極め付けは、

「ナウシカ婆あ」の絵永けい。立ち振る舞い、セリフ回し、そのものが役に成り切っている。出てくる

だけでその場はすでに「ナウシカ娑あ」の世界。存在感ある役者である。敬服。

 長さを感じさせることなく、雨模様の寒い日であったが、寒さを感じさせることない「充実の芝居」

であった。その要因について書いて来たが、最後に書いておきたいことがある。作者の意図とは

違うことになるかもしれない。作者は巨大なゴミ処理場問題をこの芝居のテーマにと考えたのか

もしれないが、私にはそのことが深く響いて来なかった。むしろ観ている間に深く響かなかったか

らこそ「充実の芝居」になり得たのだとさえ思っている。テーマがじわじわと後からにじみ出て来て

観客の心に染み込む作品だってあるのものだ。

 「0CTPASS」は、「十月劇場」に戻ったらどうだろうか。石川裕人作品はテント用に書いたとき

輝く。限りなく輝く。              《10月9日観る》

 

 

[2000年10月25日 23時44分55秒]

 

 

お名前: みよこ     

 

確かに私もがっかりでした。前までいた素晴らしい役者達さんがいなくなったせいでしょうか。

それともオクトパスがつまらなくなったからその人達がやめたのでしょうか。

まあ、私にはわかりませんが。

昔のテントの方がよっぽど面白かったように思います。なんだかアングラの真似っぽいように思えて‥‥

と書くとアングラってなんだろうって悩みだしてしまいますね。

昔のオクトパスは面白かったのに‥‥と感じる今日この頃です。

 

 

[2000年10月21日 10時48分49秒]

 

 

お名前: 学生   

 

OCT/PASSをはじめてみました。

初日です。がっかりでした。期待していた分、ものすごくがっかりでした。

書きこみを見て、正直驚いています。それほど評価されるお芝居でしたか?

スト−リ−はいきあたりばったりで、力がない。笑えないギャグ、コントもどき。

2時間30分もやる必要がないものだと思いました。無駄に話をのばしている。

私には苦痛でした。寒くて、文字通り苦痛だったってのもありますが・・・・

失礼にあたるとは思ったのですが、他の方のものを読んでいて、自分も書いてみました。

 

 

[2000年10月20日 16時50分47秒]

 

 

お名前: W.S   

 

当然、太田さんからこういう意見が来ると思ってました。ただ、ここは「又三郎」の劇評の

コーナーなので、そのことについては別の欄か私に直接メールを送って下さるようお願い

いたします。私も太田さんの意見は最もだと思いますが。

  

 

 

 

[2000年10月19日 23時8分28秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

僕はこのお芝居は見ていないので、本作の劇評は書けません。ただ、一言いっておいた方がい

いかなあ、と思ったことがあったので書き込ませていただきます。

それは、下のW.Sさんの、

>僕は一言レスというのも大切にすべきだと思いますけど。

という件についてです。

たぶんこの御意見は、僕が以前に「演劇掲示板」で匿名氏の一言レスに対して、削除依頼を出

したことを念頭においてのことと思われるのですが、僕があの「一言レス」に対して削除依頼

を出したのは、その内容が中傷に該当する、と判断したからなのです。「一言レス」でも、内

容のある、中傷ではないものであれば、削除依頼を出すつもりはありません。でも、それだけ

の内容を、果たして一言で書き込めるものか?という疑問は残るのですが・・・。

 話は変わりますが、やはり演劇掲示板のコーナーで、劇団に対する批判で、今の仙台演劇界

は「発表会」が多い、というものがありまして、僕はそういう考えは単にレッテル貼りではな

いのか、という反論を書いたのですが、あえて百歩譲って、その主張に同意するなら、演劇で

発表会が許されないのなら、劇評でも「発表会」的なものは安易に認めるべきではないのでは

ないのか、と思うのです。僕は、一言レスというのは、中身の濃い内容を書くのに限界がある

という点で、「発表会」的劇評と判断せざるを得ないんじゃないか?と個人的には思っている

のですが、いかがでしょうか?

 

 

[2000年10月19日 22時54分20秒]

 

 

お名前: W.S   

 

10月9日の楽日に見せていただきました。石川氏の演出の力をあらためて感じることの

できる芝居でありました。演技もきちんとしているというか、安心して見ていられること

ができました。他のお客につられて私も随分と笑いましたし、退屈せずに2時間30分強

の間狭い空間に座っていることができました。

 しかしながら、見終った後のこの空虚感は何なのだろうと、今感じているのです。

芝居の台詞にも出てきたように、この劇団は元はアングラといわれる芝居が発端のなだろ

うと思われます。アングラとは何かと訊ねられれば僕自身よく分らないけれど、1980

年の初めH大学の同じ「唐十郎」を氏と仰ぐ演劇研究会のテント芝居を思い起こすと、今回

の芝居には、あのときの感動がない。自分の心を動かすものが足りなかったと思うのです。

 具体的にいうと、あの頃の自称アングラ集団は、極めて破壊的だった。演技にしろ発声

にしろ、わざわざ完成に向かっていく作品を自ら崩壊させようとでもするように。そして

常に何かと戦っていた。それは、大学当局であったり、大人達であったり、きれい事ばかり

ならべている某劇団であったり。

 今回の芝居に僕が期待したものはやはり足りなかった。ストーリーは反論不可能なきれい

事とまではいわないが、高校演劇などによくある誰もが共感せざる終えないものだったし、

演技自体もまとまりすぎ(まとめようとしすぎ)のように感じられた。私がよく知っている

人間も一人出演していたのだが、私と以前芝居をやったときに見せた、彼の奥底にある人間

性を引き出してはいなかった。しかし、演技は上手かった上手すぎてつまらなかった。

 最も引っかかったのは終始笑いの中で芝居は進められていくのだが、笑ったあとの虚しさ。

この芝居の笑いには毒がないのである。唯一心から笑えたのは「デーブ・スペクター」に似

てるってやつだった。

石川さん自体も何度か登場していて、それだけで受けていたのだが、きっとこの劇団のファ

ンが期待していて、それに応えているための出演なのではと思いました。本当に演出家であ

彼は出演すべきなのか、この劇団のファンの方に聞きたいと思います。彼が出てくる度に芝

居の緊張感が下がるし、本当に効果があるとは思えませんでした。

 

 まあ、あれこれ生意気なことを書きましたが、最近このコーナーが「劇評バトル」という

タイトルから遥かに遠ざかっていることもあり、あえて反論ひんしゅく覚悟で書き込んでみ

ました。これが仙台のNO1(なのかは定かではないのですが)劇団では困ると思ったから

です。もちろん、自分のことを棚に上げないと他人のことは言えないわけですが、仙台の演

劇のレベルを高めるためにこのコーナーがあるのでしょうから、芝居のストーリーの解釈や

素敵な俳優がいて僕は好きだ,なんていうだけでなく、(そういうのもいいんですが、やは

りそれだけでは...)芝居を見た率直な感想をもっと皆が書きこむべきではないでしょう

か。僕は一言レスというのも大切にすべきだと思いますけど。

 とにかく、素晴らしい芝居でした。でも、上に書いたような不満を抱いたのは本当に僕だ

けだったのでしょうか。皆さんの意見、劇団の方の反論をお願いします。

 

 

 

[2000年10月19日 17時26分32秒]

 

 

お名前: おーみ   

 

十月劇場の稽古場公演は、何度か行った記憶はあるが、テント公演は始めての観劇だ。

いまさらアングラでもあるまい、と思いながら臨んだ芝居だった。

 

いや、ビックリして腰がぬけた。

 

石川さんも伊達に長い間やってるわけじゃありませんね。その昔、アングラのみならず

時間表現にかかわる者たちは、芸能と言う原点に立ち返れみたいなことを言っていたよ

うに思います。(私だけの勘違いかなあ)

ちなみに、最近20年ぶりで読み返した世阿弥の「風姿花伝」にも、珍しい、常とは異

なる風情にて、観劇者の心に異形の心持を呼び覚ます事が、肝要である。といった事が

書かれていました。その意味では、予定調和を破壊し、瞬間瞬間の役者の芸のぶつかり

合いとうねりのようなテンポの出し方。そして、イメージの積み重ねをもとにした劇全

体の重層構造による重厚な表現に、アングラこそ、能の奥義を地で行く表現形態なのか

なと本当に考えさせられてしまいました。

 

ちょっと劇評とは離れますが、かぶくという語源を持ちながら、”かぶく”、”けれん”

などの表現形式を否定しているかのような歌舞伎。(猿之助の言われようなどは歌舞伎

の基本精神を無視していますね)

また、上記花伝書に書いてあるとおり、時代に合わせた衣装や表現にて、リアルタイム

な観客の気持ちをつかんでいく事を説いた能。

それぞれの、基本精神を無視した現在の芸能のあり様を見るにつけ考えるにつけ、

OCT/PASSのような劇団(石川さん個人かな?)こそ芸能の直系を受け継いだ表現

形態なのではないかと思い至るしだい。

 

まず、空間のダイナミズムを推し進めた舞台構成。

一人一人が達者でありながら、劇中の登場人物そのものといった枠を外さずにのびのび表

現にしている役者達。特に又三郎役の佐々木久美子さんは、ほんとに又三郎そのものとい

った風情でほんとに驚いた。死んだ人に会ったような気分だった。いや誰と言わずみんな

はまっていたです。

そして懐かしいような音楽(効果音)。

一つ一つ、一人一人について、書ききれないほど言いたいことはあるのだけれど、それは

またの機会に譲ることにして、このへんで止めにしておきます。

 

言うに言われぬ底力を見せてくれました。脱帽です。

 

こういう物凄いのを観ると、しばらく何も観たく無くなるんですけど、今月は公演がめじ

ろ押しなので、パワーをためて乗りきるか。

 

 

[2000年10月11日 23時38分14秒]目次へ


きらく企画プロデュース「回りまくる人」 

お名前: あんもないと   

 

引き算という名のセンス

 

見終わった後、正直すごく驚いた。久々に、誰かの頭の中を見せられたような、

できあがった世界が舞台で見れた。

きらく企画を知ったのは当サイトの劇評中に、高校生の頃から面白い脚本を書く人がいると

いうのを読んで興味を持ったからで、以前の活動については全く知らなかった。

ただ、劇団のホームページを見に行き、シンプルだけどすごくセンスがいい(頭がいい)と

感じた。舞台は正にそのセンスが活かされたものだった。

 

 物語は、父母娘の3人家族がどうにも変わった朝を迎えたことから始まる。

微妙に食い違う会話と、部分部分が取り違えられている身体。やがてそれは、時代を越え

受け継がれるべき魂が同時間内に存在することから起きる「狂い」だと謎の男2人(天使なの

だろうか)に告げられる。原点に返ろうという男達と、壮大な「繰り返し」に巻き込まれる家族。

 

 舞台の始まりと終わりで映像が付けられている。最近はいろんな公演で、舞台に映像を使おう

とするが、どうしても異質なものを持ち込んでいるという感覚が残った。ところがきらく企画の

映像は、舞台空間の延長のようで違和感なく受け止められた。これは、たぶん「こうしたい」と

いうはっきりしたイメージがあって映像という手段を使っているためだと思う。

 そうした部分は舞台上のいたる所で見られた。例えば、舞台美術にしても一見すごくシンプルな

のだが、ここぞという場面で意外な演出効果が盛り込まれていて驚かされる。

 これを伝える為にはこれを使う、そして他は省くという独自の「引き算」のセンスが、複雑な

世界を一つの舞台に作り出している。

 

 会話の大半は、言葉遊びというか、音遊びの要素が多い。たぶん、脚本だけを本として読んで

はここまで面白い世界というのは伝えにくかっただろう。それを舞台で可能にしてるのは、演出

、役者、スタッフが脚本に描かれた世界観を明確に把握していたからだ。本当によく、この不思議

な物語を、統一した感覚でとらえ具体化し、観客に届けてくれたと思う。

 役者では、特に父親役(礒部氏)、母親役(三浦氏)の会話で、シュールな言葉のやりとりを

上手く間や動きではずし、笑いを誘っていたのが印象的だった。

 

 たぶん、きらく企画はたくさんの引き出しを持っている。

今回の舞台には必要ないと切り捨てていった部分を、次の舞台でも「引き算」のセンスと共に

次々見せてくれそうな気がする。最後になるが、ラストシーンで娘が風につつまれながらほほえ

む場面で、一気に物語は不可思議なものになる。このラストシーンがすごく面白かった。

 

[2000年10月22日 1時12分49秒]

目次へ


泉高校演劇部「或る晴れた日に」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作もまた、最近の高校演劇に多く見かけられる、「自分の居場所がなくて辛い」とい

う登場人物達の悩みがテーマとなっているものでした。「高校演劇ははかないからこそ、

魅力的。」というCUEの森さんのお言葉を先日紹介しましたが、確かに高校生の時でし

か書けない、または演じ得ない作品というものはあるでしょうし、そのこと自体を否定す

るつもりはありません。しかし、例えば高校生以外の私のような人間が、彼らの芝居を見

て感動するということは、同時に高校生にだけ限定されるものではない、普遍的なテーマ

を彼らの作品が持ち合わせている、ということもまたいえるのではないか、とも思うので

す。その代表的なものとして、彼ら高校生のお芝居によく表れるのが、この「居場所のな

さ」なのです。

 「居場所のなさ」というのは、何も高校生だけが感じているものではありません。昔の

モーレツ社員ならいざ知らず、リストラ流行の昨今、会社が居場所だ!と自信を持って言

える人がどれほどいるでしょうか?家庭だってそうでしょう。広瀬高校の「家ジャック」

ではありませんが、表面的には平穏そうに見えて、実は心がバラバラな家族というのはけ

っこうあるように思われます。もちろん、そういった自分の身の回りの居心地の悪さを、

より感受性の鋭い高校生の方が、作品という形で発表した場合、よりナイーヴな形で発表

する傾向はあるかもしれません。だからこそ、彼らの作品は感動的なのですが、しかしこ

れは、世代を越えてある一定の人々に共感できる内容であることも、また事実ではないで

しょうか?

 前置きはこのくらいにして、あらすじを紹介していきましょう。本作の主人公、アリス

ガワは理系の大学を卒業後、海沿いにある政府系の研究所に就職します。実はその研究所

は、秘密裏にアンドロイドを育てる実験をしているところで、所長のカミジョウ、カミジ

ョウの幼なじみの研究員・ミサキ、アンドロイドの少女・ユイが主な登場人物として出て

きます。で、この中で、特に「居場所のなさ」で悩んでいるのは誰かというと、ユイとカ

ミジョウなんですね。

 ユイは、自分がアンドロイドということで、実験の道具としてしか、周りの研究所員達

に認識されていないことに、どうしようもない孤独感を感じています。しかし、新任とし

てやってきたアリスガワは、以前から勤めていた職員達のように先入観がないからなのか、

ユイを実験の道具としてではなく、一人の人間として接していきます。ユイは、このアリ

スガワという存在と出会うことで、初めて自分の居場所を見つけるんです。

 一方のカミジョウはどういう問題を抱えているかというと、実はユイを作ったのは彼の

父だったんですね。彼は、偉大な科学者としての父に、ものすごいコンプレックスを感じ

ていました。また、父が実の息子である自分よりも、アンドロイドのユイの方を愛してい

るのではないか、というジェラシーも強く感じていたのです。それで、彼は父が死んだ時

に、「自分は父を超えてやるんだ!」という決意をするわけです。その結果、今まで比較

的自由に育てられていたユイを、研究所にほとんど監禁のような状態にして、連日連夜の

実験づけにするという、ほとんどマッド・サイエンティストと化してしまったのです。

 そんなある日、ユイが反政府系のスパイの銃弾に打たれるという事件が起こります(こ

のスパイ役の伊藤仁美さんが、もうもの凄く格好よかった!ここのシーンだけ、なぜか0

07の一場面のようになっていたのが、面白かったですね。彼女にも演技賞出してあげて

ほしかったな・・・)。ユイは危うく一命を取り留めるのですが、銃弾に特殊な薬品が塗

られていたらしく、ユイの体には足の方から徐々に魚に変化していくという不思議な後遺

症が現れ始めます。マッド・サイエンティストのカミジョウは、このままでは自分の研究

が無駄になると、「ユイが死んでしまう危険の方が大きい」、という周りの反対を聞かず、

ユイを手術して、魚化を止めようとします。そんな中、やはり反政府系の仕業か、突然研

究所に火災が発生!ユイを逃がそうとする他のメンバー達に、「ユイがいなくなったら、

俺はこれからどう生きていけばいいんだー!」と、カミジョウが、もう本当に悲痛な絶叫

をします。ここで!僕は本作の中で、一番泣かせるシーンだと個人的には思っているので

すが、カミジョウの幼なじみ・ミサキが、カミジョウを「わたしがいるじゃない!」と、

強く抱きしめるんですよー(泣・泣・泣)!

 白百合のところでチラッとふれたのですが、このミサキ役を演じていたのが、去年はボ

ーイッシュな男の子役を演じていた小野菜実子さんだったのでした。一年見ない間に、こ

んなに泣かせる演技をするお姉さんになって・・・、と見ているこっちも感慨無量のもの

がありましたね。実は、本作の脚本を書いたのも、小野さん本人なのです。「居場所がな

い」ということが本作のテーマであることを考えると、きっと小野さんが演じていたミサ

キという存在は、小野さん自身の中にも願望として、こんな人間がいてくれたら・・・と

感じられてやまない人間なのでしょう。だからこそ、あれだけ泣かせる演技ができたので

はないのかなあ、と思うのです。

 一方のユイは、魚化を止めることができず、最後には魚になって海に帰ってしまいます。

しかし、ユイは最後にアリスガワに「自分にとっての居場所が、ここにあるということが

わかったから、いつかまた陸に帰ってくる」という言葉を残していきます。カミジョウに

とってミサキが「居場所」となり得たように、ユイのとってもアリスという存在が「居場

所」となったことを、このセリフは示しているといえるでしょう。

 そういうわけで、冒頭にも述べたとおり、この作品は、「自分にとっての居場所がどこ

にあるのかわからない」という思いを抱いている人間にとっては、本当に泣ける内容にな

っていたのでした。泉高校は残念ながら、三年生は引退してしまうところのようですが、

こんな泣かせる作品を書ける小野さんには、ぜひともこれからも脚本を書き続けててもら

いたいなあ、と強く願う次第です。高校卒業しても、何らかの形で演劇活動続けて欲しい

なあ。それだけのものを、小野さんは持っていると思いますよ。 

 

[2000年10月19日 22時13分10秒]

目次へ


仙台工業演劇部「幽霊学校」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 突然ですが、プロ野球の話をします。今年のセ・リーグは巨人が圧倒的な強さで優勝し

ました。「野球は巨人」と考えている人が世の中では多数派のようで、そういう方々はさ

ぞかしお喜びのことでしょうが、世の中にはアンチ巨人という人もそれなりの数おりまし

て、そういう方々はこういった主張をよくなさいます。いわく「巨人が強いのは、金にあ

かせて強力な選手をたくさん集めたからだ。あれでは強くなるのは当たり前で、不公平だ。」

もちろん、巨人側の「せっかく金があるんだから、それを有効に使って何が悪いんだ。」

という主張ももっともな言い分であり、一概にアンチ巨人ファンの言っていることばかり

が正しいともいえないところもあるのですが、僕個人としては、お金も人材も少ないとこ

ろで、なんとか頭を使って工夫して巨人に負けないように頑張ろう、という巨人以外の各

球団の方に感情移入するところが強いのです。人間、そうそういつも恵まれた状態にいる

ことなんて少ない。むしろ、自分の思うとおりにことが運ばないことが多いもの。そう考

えると、巨人と巨人以外の球団では、どうしても自分の状況に照らし合わせると、巨人以

外の球団の方に目が向いてしまうんですね。

 なんで、演劇の掲示板で延々プロ野球の話をしているんだって?実は、今まで書いてき

たことって、高校演劇コンクールを比喩したものなんですよ。建前上は同じスタートライ

ンに立っていることになってはいるものの、実際には学校ごとに部員の数の多少とか、部

につけられている予算の多少という条件の違いというのはどうしてもあるわけです。それ

で、何十人ものキャストによる大がかりなお芝居や、お金かかってるんだろうなあ、と思

わせるものすごく凝った舞台装置を作ってくる学校も当然あり、それはそれでいいお芝居

を見せてくれるのですが、僕個人としては、どうしても少ない部員の中から一人二役など

で一生懸命やりくりしていたり、よくいえばシンプル・悪くいうとショボいセットで、い

かに観客に魅せるかを工夫している学校を見ると、ついついそっちの方に感情移入してし

まい、思わず心の中で、「がんばれ!」と声をかけてしまうのです。

 その意味では、先に書いた泉松陵が優秀賞を取ったことに、僕は心より「おめでとう」

と声をかけたいのですが、実はもう一校、少ない部員の数にも負けず、面白いお芝居を見

せてくれた学校がありました。それが、仙台工業演劇部なのです。

 この「幽霊学校」という作品は、去年の夏休みの夜に教室で幽霊を見た!という大作に

連れられて、後輩の健一、クラスメートの真理子、良子の3人が1年後の同じ日の夜に同

じ教室にやってくるところから始まります。大作は怖くなって、幽霊が出る前にトイレに

行ってしまうのですが(これは部員が少ないので、大作役の津田佑介君が幽霊に変わるた

めの苦肉の策なのです)、残り3人は詰め襟服を着た高校生の幽霊に出会います。実は彼

は戦争中に死んだ高校生の幽霊で、本当は学園生活を満喫したかったのを果たせなかった

ために、毎年命日に幽霊として姿を現すのだが、自分の死んだ時間が夏休みの夜だったた

めに、せっかく幽霊として表れても、学校には誰もいない、という笑っていいのか悲しん

でいいのか、トホホな状態にいたのでした。

 それで、3人はこの幽霊のために模擬学校を演じ、幽霊君に学園生活を楽しんでもらお

う、と思い立ちます。幽霊君は、彼らの思いやりに満足し、最後に成仏して物語は終わる、

という内容でした。

 こう書いていくと、本作は戦争の悲惨さを訴えた重苦しいお芝居だったのだろうか、と

思われる方も多いでしょう。しかし、彼らの作品は、この幽霊君を喜ばせようとする3人

の試みが、見事なまでのギャグになっていて、むしろ、最初から最後まで笑いどおしにさ

せてくれる楽しい内容となっており、いわゆる戦争モノにありがちの、重苦しさや、説教

臭さから脱することに成功していたのでした。僕は、彼らが重いテーマを選んだことより

も、むしろそういったギャグセンスのほうをを高く評価したいと思うのです。重いテ−マ

を選べば、教育的配慮から、先生方の評価は良くなるかもしれない。でも、彼らが望んで

いたことは、むしろ、とにかく面白いモノを見せることによって、お客さんを喜ばせたい、

という面の方が強かったのではないでしょうか?

 例えば、幽霊君を呼ぶために、3人は幽霊君に名前を聞きます。しかし、何しろ昔のこ

となので幽霊君は名前を思い出せないというのです。そこで彼らは幽霊に、よりによって

「ボウフラ君」という名前を付けるのです!なぜって?どこからともなく湧いてきたとこ

ろがボウフラみたいだから、だって(ヘナヘナ〜)!物語の最後の方で、幽霊君が3人に、

「みんな、僕の名前を呼んでよ!」と叫び、彼らがそれに答えて、幽霊君に名前を呼びか

ける場面があります。本当なら、とても感動的なシーンになるところなのですが、何しろ

呼びかける名前が「ボウフラ君!」なものだから、観客としては、笑っていいのか、感動

していいのか、とまどってしまうのでした。でも、そういった泣き笑いのようなシーンっ

て、僕はけっこう好きです。なぜなら、ストレートに感動を持ってこようとするのって臭

んじゃないか?というような問題意識が作り手側にあるように感じられるからなのです。

 本作はけっこうお客さんも笑っていて、会場の評判も上々だったように感じたのですが、

残念ながら予選を突破することはできませんでした。何しろ、2校しか県大会に進めない

のですから、やむを得ないのでしょうが、僕としては最初にも述べたように、例えていう

なら小林一茶の「やせがえる 負けるな一茶 ここにあり」的な気持ちがあり、このまま

本作が忘れられてしまうのは惜しいことだなあ、という思いから、こうして劇評を書くに

至りました。それにしても心配なのは、来年は今1年の津田君一人になってしまうのか、

ということです。新しい1年生が入ってきて、また来年もコンクールに出られるといいの

ですが・・・。まあ、最悪の場合は「アテルイの首」みたいな1人芝居をするという手も

ありますけどね。これからも頑張ってくださいね! 

 

[2000年10月18日 20時20分45秒]

目次へ


富谷高校演劇部「広くてすてきな宇宙じゃないか」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作で主演のおばあちゃん役を演じていた佐藤里香さんが、地区大会での演技賞を受賞

されました。おめでとうございます。高校演劇コンクールで個人賞が出たのを見たのは初

めてだったので、ちょっとビックリしてしまいました。講評でも、彼女の演技が絶品だっ

たと審査員の先生が言っていたので、異例ではあるが、あえて個人賞を出した、というこ

とだったのでしょうか?

 確かに、彼女の演技はとてもとても素晴らしいものでした。でも、彼女に対する「相手

役」ともいえるクリコ役の三浦絵理さんの演技もまた、僕には負けず劣らず絶品のものに

見えました。松陵の亀歩さんが、より生きたのが、相手役の最上純くんのとぼけた味わい

のある演技であったように、佐藤さんのおばあちゃんが生きた裏には、三浦さんの絡みが

あったと思うのです。というわけで、ここでは三浦さんの方にスポットを当てた文章を書

こうと思います。

 本作はキャラメルボックスの成井豊氏の代表作ともいえる作品であり、あらすじをご存

じの方も多いと思いますので、ストーリーは簡単に紹介します。舞台は近未来。妻を早く

に亡くしたTVキャスターが、まだ幼い3人の子供達のために最新の科学技術で作られた

アンドロイドのおばあちゃんを家に連れてきます。上2人は、最初は反発しつつも仲良く

なっていくのですが、下の娘・クリコはおばあちゃんとずっと口を利かず、やがておばあ

ちゃんを壊そうと、ある事件を起こす・・・。で、この末娘のクリコを演じていたのが、

三浦絵理さんだったわけです。

 要するに、彼女がおばあちゃんに反発していたのは、おばあちゃんとの仲が親密になれ

ばなるほど別離の時が辛くなる、という深層心理での思いが理由だったわけで、そういう

意味では、クリコって、とっても寂しがり屋な女の子なんですね。実は、富谷高の春の単

独好演「半神」も僕は見たのですが、その時三浦さんは、双子の愛されていない方のシュ

ラ役を演じていまして、自分が周りから愛されていない、という自覚からくる孤独感を、

それこそ観客の心にグサッとくるように演じていたのが、とても印象に残っていたのです。

つまり、寂しそうな表情が、とってもサマになってる娘なんですよ。そんな彼女が、3人

兄弟の仲で、一番の寂しがり屋であるクリコを演じていたのですから、これははまらない

わけがない!のです。

 と、書いても具体的に読者の皆さんには、完璧にはイメージできないでしょうね。この

辺が、文章の限界とでもいうもので、自分でも書いてて歯がゆくて仕方がないんだけれど

も、あえて、例えていうなら、サイマル演劇団という仙台のアマチュア劇団がありますが、

そこの看板女優の佐武令子さん。三浦さんは、その佐武さんをを10年若くしたような感

じの女の子なのです。最近の佐武さんは、どちらかというとバラドル的なとぼけた感じで

笑いをとる演技が多いのですが、以前に三角フラスコの「ソラシドミニカ」で客演したと

きは、それこそ、身勝手な彼氏を待ち続ける女の子の孤独感を、こちらの胸が痛くなるよ

うな表情で見せてくれたものでした。細ーい目に、顔が卵形の輪郭で、笑うとかわいい。

でも、その笑顔には、どこかしら寂しさが宿っている。そんなところに、僕は佐武さんと

三浦さんの共通点を感じます。 

 ラスト・シーン。年老いて、子供は皆独立し、孤独になったクリコは、再びおばあちゃ

んのレンタルを希望します。ひとりぼっちで部屋にいる彼女の寂しそうな表情!最後の最

後におばあちゃんがクリコに空を飛ぶところを見せるシーンが、本作の最も泣ける場面で

あることは確かなのですが、そのラストが生きるためには、三浦さんの、それこそ孤独感

が体中からにじみ出ているような演技が伏線としてあってこそ!だと思うのです。実は、

おばあちゃん役の佐藤さんは、春の「半神」では、三浦さん演じるシュラにくっついた双

子のもう片っ方、マリアを演じていたんですね。そういう意味で、この2人はきっと富谷

を引っ張る車の両輪のような存在なのでしょう。今回、富谷は3年生も公演に参加してい

たのですが、そういう意味でも、再び、この2人の絡みをどこかで見たい!という強い思

いに駆られたのでした。期待していますよ!

 

[2000年10月18日 0時13分39秒]

目次へ


プロジェクト・ナインゲージ 「ちゃんとするまで待って」 

お名前: 関 健治   

 

舞台は、森首相の神の国発言に対し行われた学生運動の要求がすんなり通ってし

まった為に「ハワイを、日本国とする」という要求を出してしまい、そんな要求が

通るわけもなく以後2年間閉鎖された大学のバリケード内、文芸部の部室である。

1週間後、機動隊の突入を控えた部室内。描かれているのは「モノトリアムの臨

界点」である。文芸部の女部長 最上(太田 ゆう)はヘッドホンで音楽をききなが

コタツで読書をしている。しかし、そのコタツには、電源が入っていない。

 

前作「ストロベリーフィルズ フォーエバー」では、血縁の不条理をテーマにして

いた様に感じたが、正直テーマなのかモチーフなのかがはっきりしない点が不満

だった。作品内にちりばめられた脱力ギャグ(秀逸、面白い。)の数々が、ラスト

の主人公の叫びに作品を通しての主張を感じる分、照れ隠しのように思えたから

だ。

 

しかし、本作「ちゃんとするまで待って(stay high cracking

 cherry)」ではそのギャグ群が包括される世界観がきっちり描かれている。

馬鹿馬鹿しく、意味の無く、不道徳なことで盛り上がれる。必死で盛り上がろう

とする。しかし、それも過剰さと短絡さゆえに飽きそれでもそうせざるしかない

そんな微妙な季節のなかでの、ギャグはすでに骸でしかなく、ゆえの熱のない脱

力なギャグが本作では繰り返される。それが、作品全体の世界観にうまくはまっ

ていたと思うのだ。

 

本作では、もうひとつの世界が別舞台で進行する。どこかの国の戦時中捕虜

となった男 星撃ち(砲弾手の総称らしい。役 室野尚武)とおなじく捕虜の

少女ヒビ(堀口佳奈子)収容所の門番(松山ユウコ)の物語である。捕虜となった

星撃ちは門番の出す条件、以後一年間星撃ちとして働きその後本国送還、

もしくは星撃ちの廃業目的で両眼をつぶした上での本国送還、を拒みつづけ

収容所に最後の星撃ちの捕虜として居座りつづける。

 

そんな、星撃ちに危険を冒してまで会いにくるヒビは、星撃ちに歌をきかせにく

るのだが、どうにもならない歌ばかりでさらにひどく音痴である。しかし、彼女

は明るい。無駄に明るい少女である。

 

文芸部の部室には学生結婚で大学を出た沢木(二役 樋口佳奈子)が部室を訪れる

彼女は離婚し、「祭り」をもとめ機動隊突入前の部室に舞い戻ってきたのだ。

部室内では、宴会が始まるがここで文芸部員で前半虫山(紺谷和生)ともに道化的

役割だった殿村(鎌田澄人)は理不尽な宴会ゲームで姿を消す。丁寧にもカルト教

団ネタで1回よみがえり、また別のカルト教団ネタで完全に姿を消すのだが、沢

木の心配をよそに最上と虫山はいっこうに気にしない。

そんな中、機動隊突入のサイレンがなる。

 

もう一つの世界では、星撃ちに会いにきたヒビが発見されヒビの銃殺か、それと

も条件をのむかと門番が星撃ちにせまる。ぎりぎりのなか条件を飲むことに決め

た星撃ちの前に拘束されたヒビがあらわれ歌をきかせる。

内容は、あなたの夢になるために私は死をえらぶ。といったものである。

星撃ちは、驚愕し崩れる。

 

部室内に、戦いにやぶれた最上と虫村が帰ってくる。沢木は、えらんだヘルメッ

トの色がピンクで目立ちすぎたせいかガス弾にあたって死んだ。最上は虫村の

会話の中で前線にいる恋人イサオに会いに行くことを告げる。その理由として

イサオが最上に書き残した小説のラストをどうしても知る必要があるからだと

いうのだ。

 

ここで、収容所の世界はイサオの書き残していた小説だということが明らかにな

る。ここで二つの世界はクライマックスを迎える。

 

門番は、なぜ選択を拒みヒビの銃殺を止めなかったのかと星撃ちを激しく責める。

星撃ちは、ここではじめて選択を拒み収容所に居座りつづけた訳を語りだす。星

撃ちは「星撃ち」であることに、自分を見出せなくなっていたのだ。

ゆえに、星撃ちとして戦うことも、星撃ちを放棄することで自分の目をつぶされ

ることも拒み続けていたのだ。星撃ちはさらに語りだす。拒みつづけ居座りつづ

けた結果結局ここも、自分の場所ではないことに結論した。ゆえに国に帰る。星

撃ちとしてではなく、自分として国に帰るのだと門番に告げる。

 

部室では、虫村が最上に、いっしょに自分の故郷に帰ることを説得する。最上を

愛するがゆえにこれからの自分には最上が必要だという。しかし最上は、それを

拒む。虫村の気持ちはわかっていたが、最上に必要なのはイサオなのだ。

 

門番は星撃ちに馬乗りになり、星撃ちを殺そうとする。

星撃ちが星撃ちであることを自ら否定してしまえば、自分が門番であることも意

味の無いことになるからだ。

 

虫村は最上に馬乗りになり、最上を殺そうとする。

虫村は、最上がイサオの元に去れば自分の2年間はまったく意味の無いものに

なってしまうからだ。

 

2つに分けられた舞台で進んできた二つの物語は文芸部の部室内で一つになり

劇と劇中劇の壮絶なリンクのなかビートルズ中期の名曲「ストロベリーフィルズ

フォーエバー」が鳴り響き幕を閉じる。

 

作・演出の今野信一は本作においてモノトリアムのぬるさに対する愛情と嫌悪を

提示し、その極限に個でありたいことを主張している一方で、モノトリアムに対

する軟弱ともいえる執着をラストに描いた。

 

終わりなき日常に、どっぷりとつかってきた人間に簡単に結論を出させること無

くむしろ、それによって起こる歪のなかに人間性を求めたラストは実際よくでき

ていたと思う。健康的だとすら思った。

 

プロジェクト ナインゲージは、今野信一のソロプロジェクトであり、キャスト、

スタッフとも大学生中心に公演されているのであるが、そういったことを考える

と自らの日常の延長を作品として実に昇華したものだ。

14日のマチネを観た。

 

 

[2000年10月17日 19時22分31秒]

目次へ


白百合学園演劇部「HAPPY BIRTHDAY」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 仙台高校の劇評の欄で岩井俊二のことを書いたけれど、実は僕は日本映画がけっこう好

きである。それも、「踊る大捜査線」みたいなアクションものではなく、今挙げた岩井俊

二や、あるいは大林宣彦といった、いわゆる叙情性あふれる監督の作品が好きなのだ。

 そんな僕にとって長い間フェイバリット・ムービーであり続けているのが、中原俊監督

の「櫻の園」である。最近の映画だと思っていたら、もう10年前の作品になるんだね。

創立記念日には伝統的にチエホフの「櫻の園」を演劇部が上演するという、地域からはお

嬢様学校と見られている女子高演劇部の1日を描いたものである。僕はこの映画が好きで

好きで、もう10回ぐらい見てるんだけれども、今にして思うと、僕が高校演劇をこんな

に好きになったのは、この「櫻の園」を見たためかもしれない。映画を見た当時は、演劇

にはほとんど興味のない人間だったんだけれども、高校演劇が将来好きになる要素が、深

層心理にサブリミナル効果(?)として、あの映画によってインプットされたのかもしれ

ない。なんでそんなことを思い出したかって?たぶんそれは、白百合演劇部の芝居を見て

しなったためだろう。

 この「HAPPY BIRTHDAY」という作品は、誕生日の前日に仲の良い親友3

人とささいなことからケンカしてしまった1人の女子高生が、時間の止まった夢の世界に

連れていかれるものであった。この夢の世界にいれば、誰かに傷つけられることがない。

でも、現実世界のような生きた他者との関係もない。夢の世界にいるのがいいのか、現実

に戻るのがいいのか、という選択を主人公が迫られるという、まあ、わかりやすくいうと、

エヴァンゲリオンの「人類補完計画」を、少女漫画風のファンタスティックなタッチで演

劇化するとこんな感じになるんだろうな、という作品であった(ちなみに、エヴァンゲリ

オンはアニメだが、やはり「映画」版が大ヒットしたもので、僕も大好きな作品です)。

 で、なんでこの作品を見て「櫻の園」を思い出したかというと、主人公が前日の学校で

のケンカを思い出して再現するシーンの、昼休みにお弁当を食べているという女子高生の

何気ない日常を淡々と描いている場面が、なんか「櫻の園」を思い出させて懐かしいなあ、

と感じたからでもあるんだけれども、4人組の親友の中に、一人ショートカットで元気の

いい、ボーイッシュな女の子がいたんだね。彼女は「夢の世界」では、サッカー少年の役

で出てくるんだけど、僕は彼女を見ていて、なーんかどっかで見たことあるんだよなあ、

という印象を拭えなかったのだ。でも、キャスト表を見ると、彼女(倉島紗綾華さん)は

1年生なので、去年のコンクールには当然出場していない。それで、なんだろう、このデ

ジャブー感は?と、ずっと悩んでいたんだけれども、表彰式の時に、各学校の生徒さんが

それぞれの制服で着席しているのを見たとき、ハッとした。「あ!彼女って『櫻の園』の

時の、つみきみほにそっくりじゃん!」。そう思い出した途端、僕の頭の中で10年前に

見た映画の思い出が、まるで走馬燈のように巡りだし、ほとんど死を直前に迎えた人間の

ような状態になってしまったのでした(笑)。

 うーむ、なんかお芝居そのものの劇評になってなくてゴメンナサイ。でも、昨日、CU

Eの掲示板で代表の森さんが、高校演劇というのははかないから美しいという趣旨のこと

を書かれていらっしゃったけれど、「櫻の園」って、きっと櫻の花があっという間に散っ

てしまうはかなさと、高校演劇(あるいは高校生という人生の中の大きな一時期)のはか

なさを掛け合わせた映画だったんだなあ、ということを、白百合の演劇を見ていて、ふと

思い出してしまったんだ。それはきっと、倉島さんの、「この娘、ほとんど役作りしてな

いんじゃないか?地丸出しでそのまま舞台に上がってるんじゃないか?」と思わせながら

も、いや、むしろ地そのものであるからこそ、とてもキラキラと輝いて見える元気ハツラ

ツさが、僕のような30代の若年寄には、とてもまぶしく見えたからなんだね(誤解のな

いように書いておくけど、地のままで舞台に上がる=ヘタ、ということでは決してない。

だって、普通の人なら舞台に上がると、たいてい緊張するじゃん。少なくとも、地のよう

に見えるということは、そういう緊張感からくる不自然さがまるで感じられない、という

ことだから、これは実はすごいことなのだ)。

 でも、今年の白百合は残念ながら予選落ちしてしまった。そういうわけで、県大会で、

彼女たちの、なんか、懐かしい感じのする、暖かい雰囲気のお芝居を見ることはできませ

ん。まあ、倉島さんはまだ1年生だから、来年、再来年も登場されることを、今から心待

ちにするとしよう。でも、「私はやっぱり、スポーツの方が好きだあ!」、なんて、運動

部に移ってしまいそうな雰囲気があるんだよなあ、彼女(勝手に想像してすみません・苦

笑)。あるいは、泉高校の小野菜実子さんみたいに、来年になったら、カッコいいお姉さ

んに早変わり!してるかもしれないしね、それはそれでまた楽しみである(小野さんも、

去年は映画「Love Letter」でトヨエツが演じていた主人公の彼氏の役を、と

てもボーイッシュに演じていたのだが、今年は打って変わって大人っぽいインテリ女性科

学者を好演していたのでした)。

 

[2000年10月16日 22時0分4秒]

目次へ


泉松陵高校演劇部「fractional....」 

お名前: 亀の代理母   

 

温かいお励ましの御言葉本当にありがとうございました。亀がこれを読んだらまたないて喜ぶでしょう。

 

[2000年10月16日 22時9分4秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

恐るべき高校生(’00版)、亀歩!

 

 昨年の高校演劇コンクールで、私は、育英の大江有美さんの、あまりにも高校生離れし

た名演に感動し、「恐るべき高校生、大江有美!」という文章をこの場で書いたことは、

皆さんも覚えておいでのことと思う。今年もまた、並のアマチュア劇団をはるかに凌駕す

るような、ものすごい高校生はいないかなー、と思いながら各公演を見ていたのであるが、

最後の最後に、ついに見つけた!その名は、松陵の亀歩(かめ・あゆみ)さんである。し

かも、昨年の大江さんの場合は、役者としてのすごさに圧倒されたのだが、今年の亀さん

は、それに加えて脚本も自分のオリジナルとして書いていたのである。そういう意味では、

むしろ、昨年でいえば仙台高校の朝理恵さんに近いかもしれない。

 この「fractional....」という作品、とにかく冒頭からすごかった。舞台

は学校の食堂。主人公の高校生・川上高瀬が、悲愴な表情でカレーの皿を高く掲げている。

「ここにあるカレーは中辛ということだが、しかし、本当に中辛だろうか?もしかしたら、

辛口。いや、甘口かもしれない!」といったセリフを(台本持ってないので、正確ではな

くてすみません)、あたかもシェイクスピアの四大悲劇の主演男優のように、眉をひそめ、

この上なく深刻な表情で、朗々と語るのである!もう、この冒頭で私などは完璧にノック

・アウト。爆笑の渦に巻き込まれ、笑いすぎて目から涙が止まらなくなってしまったので

あった。

 この川上役を演じた最上純君というのも、また亀さんと息のあったギャグの応酬を見せ

てくれた。本作は優秀賞を見事受賞したのであるが(個人的には最優秀賞でもおかしくな

いと思ったが・・・)、これは亀さんのすごさに加え、最上君の味のあるボケぶりも大き

な要因であろう。実は、川上は自分で自分が何をすればいいか決められない優柔不断な人

間で、冒頭のギャグに象徴されるように、カレーの味ですら自分で判断できないようなヤ

ツなのである。彼は、親友の木元(石川泰介君)にいつも金魚の糞のようにくっついてお

り、コーラを飲むにも、コカ・コーラかペプシか自分で決められず、木元に決めてもらっ

ている有様なのであった。

 そんな川上を、未来の世界から見ていた孫娘の役が、亀さん演じる小池美紀である。彼

はこんなダメ人間のため、たぶんろくな彼女ができないだろう。でも、もっとしっかりし

た人間になれば、素敵な彼女ができるかもしれない。そうすれば、孫娘の自分も、今より

もっとスタイルの良い美形に生まれ変われるかもしれない。そう考えた美紀は、川上の人

格を前向きに改造するため、未来の世界からやってきたのであった。実は、この初めて亀

さんが登場するシーンが、またものすごく衝撃的なのだが、あえてここでは教えない。知

りたい人は、ぜひぜひ県大会まで足を運ぶのだ!絶対、多賀城まで見に行く価値はあるぞ!

 美紀の突然の登場に驚く川上だが、彼女が現代の人間では使えない特殊な能力を持った

人間だとわかると、実は自分が隣のクラスの超美人、佐藤さんに片思いをしていることを、

つい教えてしまう。しかし、親友の木元もまた、佐藤さんに片思いをしていることが明ら

かになる。今まで、木元にベッタリで主体性のない川上だったが、美紀の励ましにも助け

られ、次のマラソン大会で、見事、木元を破って優勝し、格好いいところを佐藤さんに見

せつけることによって自分をアピールし、そのチャンスに告白もしようと決意するのであ

った。

 つまり、この物語は古典的なビルドウングス・ロマン(成長物語)なワケだが、差し挟

まれるギャグの質がものすごく高く、しかも観客を飽きさせないために随所随所に効果的

に組み込まれているため、まさに、笑いあり、涙ありの、文字通りの感動ストーリーにな

っていたのであった。ギャグとして面白かったのが、電話を使ったネタだったのだが、こ

れもあえて教えない。せっかく県大会があるのだから、ここで文章としてネタを知るより、

現場で実際の演技を見た方が、絶対に笑えると確信するからだ。また、単にネタだけが面

白いのではなく、亀さん自身の役者としての個性も、また素晴らしかった。小さい体を、

それこそはじけるように元気いっぱい使っていて、ギャグに笑わされつつも、なんか、そ

の頑張っている姿がとてもけなげで、見ているこちら側の胸にしみるところもあったのだ

った。

 んで結局、川上は佐藤さんには振られちゃうんだけど、人間的には成長したことを見届

け、とりあえず一安心して美紀は未来の世界に帰る。ラストは、布団にジャージ姿で寝て

いた川上が目を覚ますところで終わるのだが、終演後の講評で古川高校の伊東先生も指摘

されていた通り、このラストはさらに改善すれば、より感動的になるだろう。例えば私だ

ったら、ダブルキャストとして、同じ学校に亀さん演じる同級生を登場させ、新たな出会

いを設定する。そうすれば、美紀が現在の美紀と同じ人間として将来生まれることのつじ

つまも合うし、川上も幸せになって、ハッピーエンドということになるわけだ。県大会で、

その辺をどのようにリニューアルしてくるか(あるいは、あのラストシーンにはこだわり

があり、そのまま変えないという可能性も、もしかしたらあるかもしれないが)、半月後

が、とてもとても楽しみである。

 と、いうわけで、私個人にとって本作は、猫原体の「アナログ・ノート」と甲乙つけが

たい、今年見た中で一、二を争う感動作であった。年末の年間ベスト10をどうしたもの

か、まだ10月だというのに、もう今から嬉しい悲鳴だよ!

 

[2000年10月15日 21時53分16秒]

目次へ


劇団M.M「エプロン」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 高校演劇コンクール、今まさにたけなわである。今日は注目の泉・宮城野地区初日とい

うこともあり、5校中4校を観劇してきた。本当なら昼間に4本も芝居を見たら、夜はも

う疲れて一休みしたい気分のところである。しかし、なんといっても劇団M.Mである。

去年の「ミリオンセラー」の面白さは、一年経った今でも未だに印象に強く残っている。

しかも、今回の作品は「三姉妹」が主人公である。「三姉妹」と聞いて、アイドル評倶楽

部の私が、そのまま見逃すわけにはいかないではないか!

 というわけで、青年文化センターを出たその足で、イベントフォーラム山口に向かった

のであるが、私が本作・「エプロン」で最も目をひきつけられたのは、実は主人公の三姉

妹ではなく(彼女たちの演技も良かったのだが)、客演していた青葉玩具店の西園ナツさ

んだったのである。

 物語は、三姉妹の長女が結婚することをきっかけに、失踪していた父親を捜すために、

TVの「三姉妹コンテスト」に彼女たちが出場するという話だったのだが、このTV番組

の司会者役で登場していたのが、今述べた西園さんなのである。彼のどこが面白かったか?

実は、彼は一週間前の劇団三銃士の「ねずみとり」にも客演していたのである。わずか一

週間に二本連続で客演するというのもすごいが(しかもどちらもけっこうセリフが多かっ

た)、私がここで指摘したいのはそのことではない。「ねずみとり」はアガサ・クリステ

ィー原作のミステリーで、当然舞台は50年ぐらい前のイギリスである。彼はペンション

に宿泊する怪しい外国人の役で登場していたのであるが、今回のTV司会者の役作りが、

その時の外国人の時と、全く瓜二つの演技だったのである!

 「三銃士」は、代表の紺野鷹志さんのカラーがよくも悪くも色濃く出ている劇団で、ま

あ要するに、出ている登場人物が皆、過剰に味の濃い芝居をするところである。西園さん

もその例に洩れず、怪しげなイントネーションを使い、ペンションの奥さんをナンパしよ

うとする、年齢不詳の(年食っているように見えるが、やたらと身のこなしが軽い。ギリ

シャ系の名前だが、むしろラテン系のノリ)外国人オヤジの役を怪演していたのだが、本

作では日本人のTV司会者であるはずなのに、その身のこなしといい、怪しいイントネー

ションといい、もう、その怪しい外国人そのまんま!

 つまり、私が何を言いたいかというと、彼の今回の面白さは、いわゆる楽屋オチ的なも

のだった、ということなのだ。先週の「三銃士」を見ていない観客にとっても、彼の過剰

かつ怪しげな演技は、充分笑えるものだったと思う。しかし、先週の彼の演技を見たもの

にとっては、彼は匿名のその場限りの存在ではなく、「なぜ、あのときの変な外国人が、

この現代の日本のTV番組に?」という実名性を伴うものになることによって、より面白

みが増していたわけである。例えていうなら、かつてのシャボン玉ホリデーにおける、植

木等の「お呼びでない?」的な面白さ。つまり、「三銃士」での演技が、今回のM.M出

演の(少々長すぎるが)伏線としての効果となっていた、というワケなのだ。

 彼が、意識して2週続けて役作りを、あえて似せたかどうかまではわからない。もしか

したら、本当は不器用な役者さんで、どんな役を演じても、同じ傾向のキャラクターにな

ってしまっただけなのかもしれない。しかし、楽屋オチ的に観客を笑わせるために、わざ

とあえて同じ役作りをした、と考える方が、夢があって面白いではないか!実は、衝劇祭

の時の青葉玩具店の本公演も私は見ているのだが、その時の西園さんの印象が、正直私に

は薄いのだ。つまり逆に考えれば、衝劇祭の時の彼の演技は、この2週にわたる演技とは

違う役作りをしていたから印象が薄い、と考えるのが妥当なわけで、そう類推していくと、

やはり今回の彼の演技は、確信犯、と考えるのが妥当なのである。

 今回のお芝居は、そういった西園さんの演技に限らず、楽屋オチ的な面白さが楽しめる

ものであった。例えば、三姉妹がTV出演しているシーンで、三姉妹がTVカメラに向か

って「ミヤさん、見てるー!」と手を振るシーンがあった。このミヤさんという人は、以

前M.Mに所属していた役者さんの名前なのだが、先日の衝劇祭でのGECKA−BIJ

INの芝居に客演する予定だったのが、突然失踪してしまった人なのである。もちろん、

そういうウラ話を知らなくても本作は充分面白いのだが、知っていると、より爆笑してし

まう仕掛けになっている、という構造になっており、しかもその伏線の貼り方が、あくま

でさりげないものであり、「はい、これは楽屋落ちですよー!」と、声高に見せつけるも

のでないところに、センスの良さを感じさせるのである。今、引き合いに出したGECK

A−BIJINは、「大・失・敗」の時に、出てくる役者が、「BIJIN−GECKA」

という劇団に所属している、という話になっていたが、そのように露骨に楽屋落ちを出し

てしまうと、かえって見ている者は鼻白んでしまうものなのである。楽屋落ちは、わかる

人にニヤッとさせるくらいに、さりげなくしてこそ効果があるものなのだ。こういうとこ

ろを、GECKAさんあたりは、先輩劇団のM.Mさんから学習するといいと思う。

 この公演は、明日も14:30の回があるが、今述べた理由で、特に、先週「三銃士」

を見た方に御覧いただくことを、強くおすすめしたい。もちろん、先週「三銃士」を見て

いない方でも、充分楽しめる愉快な内容になってはいるのだが、やはり、一週間がかりの

壮大な伏線、という楽しみ方は、そうそう味わえるものではないだろう。「三銃士」と、

今回の「M.M」、2回通し券でも作れば面白かったかもね!

 

[2000年10月14日 23時7分0秒]

目次へ


仙台高校演劇部「PICNIC」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 私が数ある高校演劇部の中で最も注目している高校として、仙台高校演劇部の名前を何

度か挙げていることは、既に皆さんご存じのことと思うが、その仙台高校が本コンクール

にぶつけてきたのが、岩井俊二の映画「PICNIC」の演劇版である。岩井俊二といえ

ば、昨年も泉高校が「love letter」を演劇化していたが、2年続けて彼の作

品が劇化されたということは、今時の高校生の心に通じるものが、彼の作品の中にあると

いうことなのだろう。私自身も彼の作品の大ファンなので、こういう傾向は個人的にはと

ても嬉しかったりする(まあ、私の文章はどれも、根をたどれば全て個人的な思いに通じ

てしまうのだが)。

 映画を御覧になった方はご存じと思うが、本作は精神病院が舞台の物語である。殺人な

ど重度の犯罪を犯した青少年が、おそらく精神病歴があるという理由で強制入院させられ

ている病院に主人公のココ(多田麻美、映画ではCHARA)が到着するところから、物

語は始まる。彼らは「(病院の)塀を越えては行けない」という規則に縛られているが、

それを逆手に取り、塀づたいにどこまでも歩いていくのは構わないだろう、とココと仲良

くなった男の子2人、計3人で冒険をはじめる。なぜか?世界の終わりを見に行くためで

ある。

 昨年の「今夜の君は素敵だよ」の主人公が、チョコレイト工場に幽閉された少女であっ

たように、今年の主人公達もまた、精神病院という場所に監禁されている。つまり、昨年

と同様、巨大な世間に対して常日頃私達が感じている閉塞感、が本作のテーマなのである。

そして彼らは、閉塞した状況をまさに打破するために、「世界の終わり」を渇望するので

ある。

 しかし、ココは劇中でこうも言っている。「自分が生まれたとき世界は始まり、自分が

死ぬとき世界は終わる」。確かに、「本当は」自分が生まれる前から世界は存在し、自分

が死んだ後も世界は存在し続けている。だから、ココのセリフは正確には間違っているか

もしれない。しかし、自分が生まれる前と自分が死んだ後では、自分という存在がない以

上、世界を知覚することはできない。だとするならば、自分という実存にとっては、世界

は存在しないのと同じことになるのだ!つまり、「世界の終わり」は、閉塞した現状を壊

すことを意味するが、同時に自分の存在がなくなることでもある。

 映画のラストシーンはこのことに自覚的であり、だからこそ悲しくも美しいものであっ

た。ココが、なかなか終わらない世界に苛立ち、「私が死んだら、世界も終わるのかな」

と、たまたま拾った拳銃を取り出し、衝動的に自殺する。唐突の銃声と美しすぎる夕焼け。

そして、物語はそれこそブチ切られる形で終幕を迎える(「私が死んだら世界も終わる」

のだから当然のことだ)。あのシーンは岩井ファンなら忘れがたい、まさに名場面であろ

う。しかし、今回の演劇版ではこのラストが改変されていた。主人公達3人は、死後の世

界で生き、世界の始まりに向けて輪廻の旅をはじめるのである。

 物語をオリジナルのままで上演するのでは芸がない。自分たちらしさを出すためにスト

ーリーをいじりたい、という気持ちは理解できる。しかし、この改変は本作の最も芯とい

うべき部分をアヤフヤにしてしまい、甘ったるい御都合主義に後退してしまったのではな

いだろうか?それが、私にはものすごく残念だったのである。

 「世界が終わる」ということは、自分も終わる=消えてなくなることを意味する。それ

でも、世界が終わった方がまだマシだ、というせっぱつまった究極の選択だからこそ、最

後のココの選択は濃密なものとなるのである。人が演劇を見るとき、登場人物に感情移入

しながら鑑賞するということは、作品の内容によっては、現実世界のシミュレーション・

ケーススタディとしているということを意味することでもある。現実離れした荒唐無稽な

異次元でのファンタジーや、笑いを目的としたドタバタ喜劇なら話は別だが、本作の場合

は、精神病院という状況が、上にも述べたとおり現実世界のメタファーであることを考え

るならば、特にシミュレーションとしての傾向は強いものといえるだろう。だとするなら

ば、本作の結論はつらくなったら自殺すれば別の世界に行くことができて、幸せになれる

よ、ということになってしまう。しかし、オカルトを信じている人ならともかく、死後の

世界は存在して、みんな