2000年後半劇評バックナンバー

2000年前半バックナンバー



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西瓜舞踏Solo野火シリーズ「死児」 

お名前: おーみ   

西瓜 舞踏Solo  野火シリーズ 「死児」をめぐっていろ
いろと考えさせられた。談話室のほうに書いたほうがいいかな
とも思ったが、こちらにかく事にした。
 
 
余談になるが、私は芝居関係の打ち上げなどに参加していると
どうしても言うにいわれぬ違和感にさいなまれて毎回ぶちきれ
てしまうという悪癖を持っている。だから、芝居関係者の前で
は極力飲まないことにしている。
長らくこの違和感の正体について考えてきたもののさっぱり見
当がつかなかった。その原因がこの公演で明らかになったよう
な気がする。
 
余談は続く。私は舞踏という表現形態は演劇というよりも美術
のジャンルに属するものだという感覚を持っている。これはた
またま初めて触れた場所が美術館だったからというせいも有る
のだろうし、表現の即興性および表現者の考え方が美術に近い
ものだと感じていたからなのだと思う。
 
この公演は2度観た。
 
一度目は、タイトルにもあるように完全に舞踏の公演のつもり
で観た。舞踏表現力の弱さ(そう感じた)・即興による妙味の
少なさ・場面転換による観る側の意識の流れの断絶に、物足り
なさを感じた。
しかし、soloとはいえあの「鳥の庭園」のスタッフで作り
上げている舞台である。何が問題なのだろうと、1日考えた。
考えて自分なりに結論を出したのが、−この舞台は私が考える
ような舞踏ではなく、あくまで、演出の意識で構成された演劇
なのだ。− ということだった。確かめるべく翌日もう一度観
に行った。
この回は充分に満足できた。タイトルの「死児」のイメージは、
舞踏としては、やや類型的に過ぎたかなという気がしないでも
ないが、観る側の想像を喚起しイメージを自由にあそばせる余
地を与えてくれる表現で面白かったと思う。
また、良く考えられた構成でイメージを何層にも重ね合わせて
いくことによる表現の重量感を良く出せていたと思う。
 
そして、終了後西瓜さんにそのへんの事を聞いてみた。
やはり、舞踏そのものの表現もさることながら、演劇としての
客も含めた時間空間のトータルな表現を前提としてこの舞台を
考えているとの事だった。
このへんのバランス感覚が演劇表現なのかなと考えさせられて
しまった。
 
関係ないけど、現代美術表現なんてほとんど見せる対象を想定
せずに作り展示しているもので。展覧会前日の展示作業が終わ
れば作業の全ては完了したようなものだし、その時の観客は自
分自身でしかないから自分が理解でき感動できる表現であれば
一般的には理解しにくいものでも当然アリなわけで。
そこでは、全体をまとめようとか楽しんでもらおうとかいう気
は無くて、どこか1点でも突出したものが出せれば良いといっ
た感覚で作る。
 
昨年1年間いろいろな劇団を観てきて一番感じたのは、この突
出した個性をこじんまりまとめた表現の枠に収めてしまい、表
現の印象が皆似たり寄ったりになってしまっていることだ。こ
れについて私はたいへんにもったいない事だと思っているし、
この考え方の差が違和感の原因なのかなと思っている。
 
演劇とは?表現とは?現代性とは?またまた、考えに沈む毎日
ではある。
 

[2001年1月14日 2時19分39秒]
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劇団ピアス「月光」

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 今まで松田正隆の作品を中心に「目の前で繰り広げられる人間ドラマ」「人と人との関係
や呼吸を中心」に公演して来た「劇団ピアス」が、なぜ今11回公演で初のオリジナル作品に
挑戦しようとしたのか? にすごく興味があった。
 渡辺ケンの新作であるこの作品は、なぞを含ませながら観客に興味を持たせて引き込む
という計算された巧みな作りにしている。隆司がなぜ離婚したのか? 今どのような仕事を
しているのか? 永井とは何物なのか? それらのなぞは決して一気には明らかにされない。
ジグソーパズルのように、徐々に「ひとつ」「ひとつ」と見えてくる。そして、全てが明らかに
された時、主人公の死という形で幕が下りる。
 「劇団ピアス」は、私が観た限りにおいては、冒頭に書いたような劇団の姿勢として
「事件が起きる」「悪に手を染める」というようなドラマチックな内容の芝居はなかった。
だから悪いとか良いとかいうつもりはない。違和感を持ったことは事実ではあるが……。
ラストで何かが起こるとは予想できた。もしかしたら、達也に殺されるのでは? と一瞬
考えはしたが、「まさか」と否定していた。それはなぜか。達也が隆司を殺すほど思い詰めて
いたと観客に納得させるほどの説得力ある伏線があまりに弱過ぎる。ドジを踏んだ達也を責める
隆司の責め方は迫力に欠けているし、あの場面では、達也に達也なりの言い分を観客に示す
べきである。その言い分と、隆司が責めなくてはならない立場との対比をはっきり明示する
べきである。
そのように書き改めての再演を望む。その際には、もっとテンポよくするべきだろう。
是非再演を。初のオリジナル作品が「劇団ピアス」の財産作品になるかもしれない。
オリジナル作品のへの挑戦は成功と言える。
スライドの使い方も、少しもくにならずに、気が利いていた。
来年12月上演予定の新作にも期待する。
                                            3日観る
 

[2001年1月11日 22時15分38秒]

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もしもしガシャ〜ン「コーヤコーヤ星」 

お名前: おーみ   

12/23〜12/31まで、7回公演。まあ、ロングランといえるでしょう。
もしもしガシャーンの敢闘精神をたたえたいと思う。
台本はよく考えられていると思うしナオ君らしさも垣間見えるけれど
印象としてはまだまだ第一稿であり推敲の余地はおおいに残されてい
ると感じた。無駄だと感じたり前後の脈絡がわからなかったりするシ
ーンがあったと思う。結果的にそれがリズム感やテンポを損ねる原因
となっていて、とりつくしまの無さや芝居の中にのめり込めない感じ
につながっていたと思う。
この点は何度でも改訂を繰り返して練り上げていくことで良いものに
仕上げていくことが可能であると思う。新作を次々に発表していくの
もひとつのスタイルだとは思うけど、表現の作業というのは、やりっ
ぱなしにしておくと自分の作品に自分自身が嫌われて先に進めなくな
ることがあるので気をつけた方が良いと思う。
 
たかはしみちこ君は相変わらず熱演でした。でも彼女はいい女優さん
だとは思うんだけど、ここにi.q150の丹野久美子君のような洒
脱さが加わって表現の幅が広がったら最強なんだけどな、と思うのは
ないものねだりなのだろうか。
ともあれ、個人的にはしばらく目が離せないしどこまでも突っ走って
くれる事を願わずにはいられない劇団である。
 

[2001年1月14日 2時27分10秒]

お名前: W.S   

 12月28日(木)に観に行ってきました。2時間以上にわたる長い芝居で、予約席をつく
ってもらったのですが、地べたの演技が観ずらく、一緒に行った高校生ともどもほとんど立っ
て観劇しました。やはり、そういった観点から言っても、やや観客に対する配慮に欠けてい
る。前半のストーリーが進行しない場面はもう少しつめて1時間30分程度にすることができ
るだろうと思う。休憩なしで観客を何分なら座らせておくことが可能か。今年見た演劇の中で
そういったことに大変鈍感な、作る側の都合しか考えていないような演劇というのが数々あり
つまらないことと思うかもしれないが、入場料をいくらにするかを考えるのとと同等に大切だ
と感じている僕にはは大変不満な劇団が多く残念でした。
 さて、本論に入りたいと思うのですが、この作品は3つのストーリーが平行して、絡み合う
ことなく進んでいくという設定となっています。最後に何かからんでくるのかと期待をもたせ
つつも、中心になる強盗のシーンを、もうひとつの家族がテレビドラマとして見ている位しか
関連性がない。見終わったあとそれが大変不満だったのですが、今思うにこれらの3つのスト
ーリーが独立でなければならない重要な要素を作者は提示していたのではないかと思ったので
ある。今日も公演があるので、詳しくは書かないが、3つの男女のストーリーは、僕の解釈で
はすべて現代の中に存在しながらも、どれも絡み合うことのできない日常なのである。すなわ
ち舞台奥でくり広げられる、奥さんの「にくじゃが」を愛する、一見亭主関白を装いながらも、
奥さんの尻に引かれているといった、昭和30年代的な「3丁目の夕日」的な夫婦の生活。
女が男に何かを期待し、すがりながら偽りの共同生活を営もうとする、昭和40年〜50年代
的な男女関係。そして、のっぺりした時代の流れに逆らうことなく、好きだという強い感情を
自覚できないが、何となくまさに何となく共感し一緒にだらだらと生活を続けてしまう、幕開
けの男女の話。くだらないギャグを言い合うことによってしかコミュニケーションをとれない
悲劇。この最初の30分程度の男女関係に共感をし、笑っていながらも空しい感覚をお覚えた
のは僕だけではなかったように思われる。
 とにかく、この3つのストーリーは現代の我々の日常の中にまさに存在する。存在するがそ
れらは互いに分かり合うことなく、自分がよければそれでいいじゃないという具合にそれぞれ
の部屋のの中で自己完結しようとする。僕はここに作者の鋭さを感じたのだが皆さんはどう思
ったのでしょうか?
 私が勝手に解釈すると、やはり作者や劇団の方々がもっとも共感したいのは真中の銀行強盗
のシーンで繰り広げられる、互いに求め合う(実は求めているのは女の方だけである)男女の
関係ではないかと思われる。先ほど書いたように実はそれはもう現代的ではないことを十分に
知っているからこそ、テレビドラマや演歌の世界にしかもう存在しないんだよと言わんばかり
に描かれているのだろう。だから、クライマックスが近くなり、舞台が緊張してきても、相変
わらず緊張感のカケラモ感じさせない、テレビを見ている親父がしっかりと映し出されてい
るし、観客も緊張したクライマックスにしっかりとのめり込むことなく、これはしょせん作り
事なのさという感覚で観るしかないのである。しかし、それで本当にいいのだろうか。結局最
後に男が叫ぶ女というのは、男に何も求めないが共通感覚というだけで男の傍にいる例の最初
のシーンの女のような存在なのだと思うのだが、作者側が最初の男女の関係に完全に共感して
いるのではないことは劇の作り方などからも伝わって来た。真中の銀行強盗のシーンに出てく
る男女関係がまだこの世にあるんじゃないかという思いも伝わってきた。男を信じ、求め、そ
して心を通じ合わせたい。「神田川」的な男女関係がまだ存在して欲しいと願いながらも、現
実にそんなものは消滅しつつあるし、期待なんかしちゃいけないんだと現実を突きつけられて
いるような思いを僕は感じたのである。
 また、この3つのストーリーに共通して言えることは、男の無責任さというか何も考えてい
ない、女次第で流されている様子である。少なくとも昭和までは、「女は男次第」という言葉
があったが、実は今も昔も男は女次第なんだなという現実もつきつけられたような気がして、
心が痛い思いでした。
 しかし、もし僕の想像が当たっていたとしたら、作り手は、なぜそんなに照れてしまうのだ
ろうと思うのでした。演劇を作る側が現実の前で現実に迎合してしまう姿勢というものに僕は
どうも作り手側の一人としてやはり共感できないものを感じる。こういう時代だからこそ、照
れないで本来男女ってこうあって欲しいと作者が思っていることを堂々と提示して欲しいと思う。
そのことで、古臭いとか共感できないとか言われるのならまだ分かる。でも、やはり、こ
の芝居は現実から逃げているだけではないかと思われて大変不満なのでした。
 最後に、客席の前方で大笑いをしていた方々。役者があなたの友人なのかどうかは分かり
ませんし、サクラを頼まれたのかも分かりません。しかし、あなた方の笑い方はあまりにも
わざとらしく後ろの観客はすっかり芝居からひいてしまいました。もう少し他の客もいると
いう意識を持って笑ってください。劇団とは関係ないかもしれませんが、客のマナーの悪さ
を感じて不愉快だったのは僕だけではなかったようです。せっかくのいい公演だったのに大
変残念です。
 

[2000年12月31日 9時12分58秒]

お名前: アイドル評@太田   

 本作には、テーマというか教訓とも呼ぶべき内容が、芝居を見終わったあと複数存在す
る構造となっている芝居であった。その中のどの教訓が一番重要と思うかは、見る人によ
って異なってくるものと思われるが、太田という人間の解釈で言わせていただければ(と
いうか、そもそも、劇評というものを突き詰めていけば、個人の主観・解釈でしか書きよ
うがないものなのであるが)本作一番のテーマは、DM葉書に書いてあった「運命に逆ら
いたい」という言葉に関わってくるものだと思う。つまり、我々の運命というものは既に
定まったものであって、我々はその決まっている運命をなぞって一生を送っているに過ぎ
ないのではないか?、という主張が、本作のテーマだと思うのだ。
 なぜ、私がそのように思ったかについて、具体的なストーリーと照らし合わせて書いて
しまうと、明日も公演が残っていることを考えると、いわばネタ晴らしを明日見に行く予
定のお客さんにしてしまうことになるので、ここでは書かないでおく。でも、今日までに
本作を見たお客さんであれば、「ああ、あの部分で太田はそう感じたんだな。」とおそら
く御理解いただけるだろうし、明日見に行く予定のお客さんも、芝居を見ていく過程で「な
るほど。太田が昨日HPに書いていたのは、この部分のことか。」となることと思う。と
いうわけで、具体的なストーリーは割愛して、このテーマに対する私の考えを続けて書い
ていくこととする。
 このテーマに対する私の考え方は、「全くその通りだ。でも、だからどうした?」とい
うものである。まず、前段の「全くその通りだ。」について。これについては、「いや、
その人その人の努力によって運命は変えられる!」と反論してくる人が出てくることと思
う。しかし、私が思うに、本作のテーマは、その反論すら折り込み済みであるのだ。つま
り、「努力によって運命を変えよう」とする人は、一生懸命努力するタイプの人間として、
その人の人格形成にあたっての環境が彼・彼女をそうさせたのであり、そのような環境で
すら運命的なものである、という考えが本作からは滲み出るように感じられたからである。
おそらく、そう考えてしまうのは、社会というものの大きさと自分というものの小ささと
の比較による閉塞感・絶望感なのだろう。いわゆる、アメリカン・ドリームともいうべき
立身出世物語なんてのは、それが珍しいものだからこそドラマの題材にされやすいものな
のであり、現実にそうゴロゴロ転がっているほど甘いものじゃない、というのはそれこそ
我々が日々実感として持っていることであろう。その意味で、私はこのテーマに対して「そ
の通りだ。」と、まず肯くのである。
 しかし、その現状認識で一致したとして、そこから出てきた「空しさ」や「絶望感」に
対してどう対処していくかを考えるのが、演劇も含めた文学・芸術・あるいは哲学の役割
ではないのか?という問いかけが、私の頭には続いてくるのである。そこへ、ただ「絶望
感」だけを裸のままで投げ出されても、観客としては途方に暮れるしかないのである。結
果、「そんなことは、あなたに言われなくてもわかっているよ。問題は、むしろそこから
生じた『絶望感』を、我々がどう克服していくかじゃないの?そのヒントを探したいから
こそ、僕はこうしてあなたの芝居を見に来てるんだよ。」と、私などは作者に文句の一つ
も言いたくなってしまうわけである。つまり、後段の「だからどうした?」とは、そうい
う意味なのである。
 
 話題を役者に移そう。私が昨年、本作の主演女優・たかはしみちこさんについて高い評
価を当HPで述べ、彼女についての「女優論」まで書いたことを覚えていらっしゃる方も
おられると思う。そこで、「その後の彼女」ということで、少々書いてみたい。
 今回の彼女の演技を見て思ったのは、「うまくなったけど、引き出し減ったんじゃな
い?」というものだ。そう感じたのは、今回の演技の内容が、秋にやった「蒲田行進曲」
で見られた「殺伐とした怖い女」に非常に近いものに感じられたからである。そして、こ
の種の演技は、やはりつかの「熱海殺人事件」でのものにまでさかのぼることができるも
のである。この、つかの芝居という一連の流れで見ていくと、彼女の演技はより深化して
いるように見える。その意味では、高く評価すべきであろう。しかし一方で彼女は、昨年
末の、もしもしガシャーン旗揚げ公演「逃げようよ・そ・そ」や、あるいは一昨年の劇団
からんこでの「埋み火の駅」などで見せた、別の役作りも持っていたはずなのだ。それは、
やはり表面上は怒りっぽくはあるが、その内面は淋しがり屋で人なつっこくって・・・、
という、いわば「共感できる弱さ」が滲み出るような役作りである。私の場合、つかの芝
居で見せる彼女の演技は、つかの芝居の時にやってくれればいいし、つか以外の芝居の時
はもう一つの役作りを見せて欲しいなあ、という気持ちが正直あったわけである。
 もちろん、「殺伐とした怖い女」にも、その内面には弱さ・淋しさがあり、それを押し
隠すための「仮面」があの性格設定なのだろうなあ、とは頭では理解できる。しかし、あ
まりに「殺伐さ」が前面に出過ぎてしまうと、こちらはそれに対する恐怖感からまず引い
てしまう感情が先に立ってしまい、その内面の弱さまで感じる余裕が、正直持てなくなっ
てしまうのだ。
 まあ、これはもしかしたら「弱っちい顔してたら、この厳しい世の中渡っていけないの
よ!」という彼女の心境の変化が演技面でもあらわれているということかもしれないし、
それはもしかしたら、彼女にとっては「精神的成長」なのかもしれない。そして、太田の
理想とする彼女の演技というものは、所詮は観客側からの身勝手な願望に過ぎないのだろ
う。そう考えていくと、彼女はこれからも彼女なりに自分の役者としての道を究めていく
だろうし、それが太田の望む方向ではないにしても、両者は「他者」なのだから仕方がな
いのだ、という極めて当たり前の結論に達しざるを得なくなる。演劇を見るということは
(あるいは他者と接するということ全般にいえることなのだろうだが)、世の中って自分
と同じような価値観を持つ人間ばかりではないんだな、ということに改めて気づくことで
もあるのだ。何を当たり前なことを!と、今これを読んで思われる方もたくさんおられる
だろうと思う。私も、頭では重々承知していることではある。しかし、やはり「頭で理解」
することと、「実感として感じる」ことは、やはり違うものがあるし、やはり後者に立ち
至った時というのは、結構悲しい気分になってしまわざるを得ないものなのであった(ま
あ、愚痴といってしまえばそれまでですが・苦笑)。
 

[2000年12月30日 20時47分9秒]
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SENDAI IKUEI THEATRE CLUB「MOON」VersionII

お名前: むささび   

この「MOON」という作品のあらすじを簡単にまとめると文芸部の少女が小説を書いて
いるのだけど、その内容が自分の忘れていた過去の記憶を書き上げているもので、
その場に集まった人達も実は過去に繋がりのあった人たちといった関係にいたという
事が判っていく、そして文芸部の教室であったその場所は教室ではなく、パラレルワールドだった。
 自分の中で忘れたかった嫌な記憶(なのかな?)をあえて小説として完成させることで
自分自身を振り返るといったものなのだと感じました。このストーリーは特にラストが抽象的で
ハッピーエンドなのだろうけど、ラストにあった、ここちよい空間でのバーチャル学園祭という
言葉が私の中では少し理解し辛いものがありました。しかし劇全体としてはバランスのとれた
いい内容だと思いました。
 
 劇のストーリー以外の部分として、ちょっと気になったところですと、
男2の役者の方は少しオカマっけが入ったギャグキャラとして出ていましたが、冷めていたというか
本人自身がまだ自分を捨てきれていない、もしくは(実際は面白い方なのかどうかは判らない
ですが)そういったキャラは似合わないのではないか、ギャグセンスにも色々な種類があるので
もう少しちがった位置にしても良かったのではないかという気がしました。
 これは私自身の問題なのですが、私は芝居じみてる演技があまり好きではありません。
演劇というのは舞台的な喋り方をしてこそなのか自然な喋りでいいのかが正直よく判らないのですが
育英さんの劇ではいかにも芝居的な喋り方、特に最初の方はちょっとそれが多くて、
もっと自然に、何も考えずに喋っていいと思う所があるのですが、なんか段取り通りというか
言葉が決まっているというか。それがちょっと気になりました。
 劇の最後の方で役者の方が噛んでしまったときに『カンでるし。』というセリフがありましたが
これは結構好きでした。このセリフはあらかじめ台本に書いてあったのか、アドリブだったのかは
分かりませんが(多分アドリブでしょう)こういうセリフは大好きです。その人の演技の柔軟性が 
よく見えて。私はアドリブが効かない人間なのでああいうアドリブ旺盛な方は羨ましかったです。
しかしスタッフは慌てるでしょうけど(笑)
 

[2000年12月26日 3時45分37秒]

<お名前: アイドル評@太田   

 本作は3月・単独公演での「MOON」、10月・高校演劇コンクールでの「僕らは水
面に浮かぶ木の葉のように」をバージョン・アップした再々演であった。僕は3月公演は
見ていないので、10月公演との比較でしか語れないことを、まず御了承いただきたい。
 10月のコンクールを見た時に僕が感じたことは、役者が絶叫調であることによって、
ナチュラルさが失われており、芝居の中に観客である自分が没入しきれなかったというこ
とと、本来1時間以上かかる公演だったのが、コンクールの制限時間に合わせるためにカ
ットがなされており、ストーリーがやや舌足らず気味になっていたのではないか、という
不満だった。今回の公演では、その反省をふまえたのであろう、役者のセリフ回しも以前
に比べると、だいぶ自然な感じになっていたし(それでも冒頭の部室での生徒会長登場の
シーンなど、まだ少々うるさいかなあ、と思われる箇所はあったんだけど・・・)、また、
制限時間を気にせずにすむ単独公演ということもあって、1時間半の公演時間の中で、ス
トーリーのつながりがより丁寧に描かれ、観客である自分の頭の中に、よりわかりやすく
物語が入ってきたように感じられた。
 しかし、本作を見終わったあとに僕の心に残ったものは、「感動」とか「カタルシス」
といったものではなく、むしろ「暗鬱」とでも表現したくなるような感情なのであった。
つまり、僕が秋に前作を見て感動できなかったのは、役者の技術的部分が原因であり、ス
トーリー自体には自分が共感できる部分が本当は多いのだろう、と予想していたものが、
実はそうではなくて、ストーリーそのもの自体が、自分の気持ちに「感動」を起こさせる
ものではなかった、ということが、逆に芝居の技量向上によって明らかになってしまった
わけなのだ。どういうことか、以下に説明しよう。
 本作の主人公は、いわゆる「引きこもり」の少女である。彼女は文芸部に所属しており、
学園祭に向けて自分の半生を描いた小説を書いていく、という形でストーリーは進んでい
く。その小説によると、彼女の小・中学校時代は、両親の彼女の成績や生活態度に対する
強い期待が、彼女にとってはずっとプレッシャーであったことが明らかになっていく。つ
まり、本来家族・両親というものは、自分という存在を無条件で受け入れてくれる「居場
所」「ホームベース」であるべきはずなのに、実際は「私立に入学できるよい成績」「生
活態度のよい(万引きなんかしない)、いい子」である、という条件付きでしか、自分は
愛されない、ということが、おそらく彼女に「自分を愛してくれる人はどこにもいない」
という絶望感になって、彼女を「引きこもり」に向かわせていったのだろう、という推測
が見えてくる展開となっているわけだ。
 僕はこのテーマに広瀬高校の「家ジャック」を重ね合わせずに入られない。あの作品も、
表面的には仲むつまじいように見えながら、実際は仮面家族となっている家庭が登場した
が、あの作品のプログラムで、演出の言葉に「今の私たちの思いです。誰もが一度は感じ
たことのあることだと思います。」とあったことが、未だに強く僕の心に残っている。つ
まり、受験勉強という誰もが一度は通る道の中で、自分の親が「勉強ができる、いい子」
という条件付きでしか自分を評価してくれない、という不安感を、多かれ少なかれ誰もが
持っているのではないか(広瀬の場合は、受験が直接の原因ではなかったが、親が自分の
ことに精一杯で、子供に全幅の愛情を注いでいない、という問題が出ていた)。それで、
「自分は愛されていない」という不安感を思春期以降〜大人になっても持ち続る人間は、
ある者は、いわゆるアダルト・チルドレン的になって、「自分を愛してくれる人」を求め
て右往左往する人生を送るのだろうし、またある者は、本作の主人公のように「愛」を半
ばあきらめて、「引きこもり」になっていくのだろう。
 さて、僕が「暗鬱」な気分になったのはなぜか、ということと、上記の分析がどう関係
あるかというと、広瀬の演出さんが「誰もが一度は感じたこと」といったように、僕にも
自分に「アダルト・チルドレン」的傾向があるのではないか?、と思い当たる節がある人
間なのである。つまり、僕が年間何十本と演劇をそれこそ憑かれたように見まくるのは、
自分の「居場所」はどこにあるのだろう?自分が「幸せ」になるヒントはどこにあるのだ
ろう?という視点で、演劇を見ているからなのである。だから、自分に似たような人間が
「居場所」を見つけるような作品を見ると、ついつい涙が出てしまうほど感動してしまう
わけだ(例えば、「アナログ・ノート」のミイが、チョコレイトクッキーを食べて「おい
しい」と涙を流すのは、単にクッキーがおいしいからではなく、そこに、おいしいクッキ
ーを作ってくれる「仲間」「居場所」を発見したからこそなのであり、まさにその部分に
僕は感動するのである)。だが、「引きこもり」の人は、そういう居場所を求めるために
右往左往をしない。本当は欲しいのに、「幸せなんて、この世にはないんだ」とあきらめ
ているかのようだ。そして、実はアダルトチルドレン的右往左往型の僕も、心のどこかで
は、「今、僕はこの作品(例えばアナログ・ノート)にすごく感動してるけど、本当にこ
ういう幸せを実感できる居場所って、現実にはないんじゃないのかな?」という疑問が、
やっぱり心のどこかに残っている。つまり、僕が本作に「感動」ではなく「暗鬱」を感じ
るのは、本作が、まさに「現実」を突きつけているように感じられるからなのだ。
 確かに、作品が素晴らしいものとして成立するには、リアルさは必要である。しかし、
右往左往型の観客である自分は、ある種「救い」を求めて芝居に足を運んでいることも、
また事実だ。もちろん、あまりに嘘臭いハッピー・エンドでは、いくら感動を求める自分
だって鼻白んでしまう。リアルでありつつ、なおかつ救いがある作品。これは実は、作り
手にとっては、ものすごくアクロバティックに難しい課題といえるかもしれない。その意
味で本作は、リアルさを強く感じさせる分、観客である僕に「感動」ではなく、苦い「暗
鬱」を与えてくれた、と言えるだろう。もちろん、嘘臭いハッピー・エンドに持っていか
ないという作り手側の姿勢に対しては、誠実さを感じ、敬意を表するものではあるのだが。
 ただ、これは実は僕の思い違いで、本当は作者はこの作品をハッピー・エンドとして作
ったつもりなのかもしれない。つまり、引きこもった部屋での中で、インターネットを通
すことによって新たな「仲間」(父親を含む)と出会うことで、彼女は「居場所」を見つ
けた、というのが、実は本作の明るい結論なのかもしれない。しかし、それにしては、な
ぜ彼女はインターネットでチャットをしている時や、あるいはバーチャルな文芸部の部室
で仲間たちと会話しているときに、全然笑顔を見せないのだろう?彼女がそうした「場」
にいる時も、暗い表情をしていることが、僕には安易なハッピー・エンドには持っていか
ないつもりだな、一筋縄ではいかない物語だな、と構えた気持ちにさせてしまうのである。
 やっぱり、インターネットばっかりやって引きこもっているより、外の世界に復帰する
ことが「いいこと」という気持ちが彼女の中に強くあるから、外の世界に出る可能性を匂
わせつつも、ラストでも外へ出ない彼女は笑顔を見せないまま物語は終わる、ということ
なのだろうか?でも、もう「がんばれ」という言葉は彼女に対しては言うべきではない、
と物語の中で周りの人間が言うシーンがあった。「外へ出る」ということが「がんばる」
ということと一致していたら?「外へ出る」=「いいこと」という考え自体が、実は自明
のように見えて、本当は彼女にとって「正しい」ことでないとしたら?でも、やっぱり外
へずっと出ないというのはいけないことなんじゃないか?という思いとのジレンマが、観
客である僕までをも、ラストにハッピー・エンドを感じさせず、逆に重苦しい気持ちにさ
せてしまったのだろう、と思うのだ。 
 

[2000年12月24日 23時56分40秒]

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シアタームーブメント仙台V「イヌの仇討」 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

作者の意図が伝わらない
 
 「この芝居は、ほとんどの人が『主人公は大石内蔵助』として知っている話を
『主人公は吉良上野介』というふうに主人公を変えたところに面白味がある」と
しゃべっていた人がいた。「その人は」と、本来なら名前を明らかにするべきだろうが、
その人はこの芝居作りに大きく係わった人なので、その人の名誉のためにも明らかに
しない。作者は、「憎まれ者」を主人公にして面白味をねらってこの芝居を書いた
のではない。出来上がった芝居からは、作者の真の意図が明確に伝わって来なかった。
作者の「歯ぎしりの音」が、聞こえてくるようだ。
 公演パンフレットの「作品解説」に、「井上ひさし氏は『長屋の仇討』で、
江戸時代に一般的だった「親の敵を子が討つ」という仇討を、ごくごく普通の人が
巻き込まれる「特別な一日として」描きたかったということである。しかしそれは
『イヌの仇討』となっても同じであろう。吉良上野介にとっても、普通に日常生活を
送っていた中での『特別な一日』がこの日であったのだから」と書いている。観劇前に
これを読んで私は悔しさで歯ぎしりした。この作品を、このような受け止め方で作られた
のではたまったものでない。作品の「出来」に、大きな不安を持ちながら芝居と向き合う
ことになった。果たして、作品は「作者の意図はどこへやら」となり、単なる「変更した
主人公の特別な一日劇」になっていたのである。
 作者が「長屋の仇討」という題で書いたものを、《内容を変更して》「イヌの仇討」
に変えたところに大きな意味がある。解説者は「『長屋の仇討』が、『イヌの仇討』に
なっても同じであろう」と書いてるが、とんでもない。この作品は、「特別な一日」とかと
括ってしまえる作品ではない。イヌが飼い主を仇討つという大変な話なのである。
作者にとってあの芝居で言いたかったのは、仇討つのは「長屋」ではなく「犬」でもなく
「イヌ」でなければならなかったのである。上野介は、春斎から大石内蔵助の行動を聞き、
大石の意図に気付き、「イヌ」であった自分を知り、「イヌ」を捨て、「人間」になる為に、
飛び出していくのである。飛び出して行く上野介のセリフ「さあ、上野介はこれより生きに
行くぞ」に、作者のこの芝居への意図が込められているのである。上野介は、大石に
討たれることで、「イヌ」から「人間」に生きるのである。又、上野介を討つことで大石は、
実は「お上」を討ったのである。上野介と大石との《合作お上討ち》とも言えよう。
 権力者は権力保持のためには《利用し使い捨てる》。いつの世も同じである。
 ラストの場面を、作者は台本に上野介は「ゆっくりと戸口から出て行く」と書いている。
観劇した人は、はたしてあの場面を上野介は「討たれに行く」と観ただろうか。
「討ちに行く」と観たのではないか。私には残念ながら「討ちに行く」としか見えなかった。
演出家に聞いてみたい。いや、聞く必要は無い。パンフの「解説」を読めば明らかだから……。
 いまさら言うまでもなく、芝居つくりの基本は、作者の意図を正しく理解し、それを
観客に伝えることである。金を掛けて作った芝居が、作者の意図を伝えることが出来なかった
としたら、金のむだ使いということになる。この芝居は、金のむだ使いだったのか、そうで
なかったのか…。主催団体は、検証しなければならないだろう。
                                           22日観る
 

[2001年1月11日 22時13分23秒]

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

 かって、或いは現在も名声を欲しいままにしている宮田氏の演出とは一体どんなものなのか。
今回の観劇も、これまで同様こうした素朴な疑問を持ったまま終えた。だがこの度の私の劇評は、
プロとしての彼女または他の著名なスタッフに甚だ失礼だが、抽象的劇評を避け「このような
解釈も成り立つのではないか」と言った単刀直入な疑問をぶつけてみたいと思う。
「一」島次郎氏の舞台装置について。
 舞台全体を使わず、中央にぽつんと小綺麗な味噌部屋を設定したのは何故だろうか。また
様式美を強調しているようにとれる家屋内部の装飾は、漆喰壁に刻まれた縦横の梁の美しい
ラインで統一されているが、これは明治時代の書生さんを登場させるに相応しい設定と
勘繰られる。少なくとも未だ徳川幕府成立して百年の、赤穂討ち入り同様荒々しい時代背景を
表現しているとは到底思えない。またラストシーンの降雪にも象徴されていたように、こうした
様式美が演出の狙いであったとするならば、本来作者が意図したであろう重々しい「反逆」と
言う主題とはそぐわないような気がする。現実に衣装などは写実的手法を取っているのだから、
これまた同様の手法が効果的だったのではないか。特にセット中央に存在する四角の細い柱は、
何等の意味付けもされておらず、邪魔にこそ思えて至極残念であった。演出の解釈に徳川
二百六十年の重圧や、幕府に対する剥き出しの抵抗があったとするならば、黒くて太い粗削りな
大黒柱等を使用するなどの写実的で象徴的な使い方もあった筈である。それなら必然的に
時代考証としての役割も担えたし、舞台全体が俄然、緊張感を持って現れたのではないかと思えて
残念であった。
「二」入り口のドアの位置について。
 唯一の出入り口を舞台中央奥としたのは如何しても納得できないし、役者の演技に致命的な
影響を与えたと考えられる。つまりこのことによって、登場人物の演技に多大な制約を
もたらしたと懸念されるのである。例えば、そのため主人公である吉良の定位置が上手前面と
言う極めて可笑しな場所に追いやられてしまったが、これは吉良を主人公とさせなかった
ばかりでなく、単なる脇役に陥れてしまったように思える。我々が吉良を主人公と認識
出来たのは、皮肉にも本人が極めて不自然な動作によって舞台中央に罷り出た時だけなのである。
それは観客の視線が常に舞台中央に集まるという習性によるもので、その視界に入らない
出演者は常に脇役でしかなかったからである。また物語の進行に欠かすことの出来ない新助の
演技についても、同様の理由で極めて限られた空間しか利用できなかったように思われる。
つまり、あれだけ左右の広い舞台であったにも拘らず、役者達の演技は常に限定された
局地的スペースの利用しか許されず、その大なる責任はこの入り口の設定にこそあったと思える。
「三」高窓の利用について。
 私はこの作品の最も重要な演出上の要素は、登場人物から発する極限状況での心の葛藤では
なかったかと考えている。そしてそれは刻々進む時間との対決であり、対立する外界との緊迫した
緊張感なのである。そしてそれを表現出来る唯一の手段は、前述した出入り口と高窓だけである。
だが演出はこれについてどのような認識を持っていたのだろうか。即ち、出入り口から吹き込む
激しい吹雪等はそうした緊張感を更に高めてくれると思えるし、高窓も同様の利用の仕方が
あったはずである。更に其処から差し込む月光や日光などの光の強弱、或いは色彩の変化に
よって、この舞台に欠かすことの出来ない時間の経過を十分表現できたはずである。だが、
残念ながらこれらについて全く無防備な演出手法によって、何ら緊張感のないそれと化して
しまったのは甚だ残念であった。
「四」役者の演技について。
 仙台では有数の演技人の出演だけに、それぞれがそれなりに好演していたように思う。
だが前述の幾つかの条件が無視され、そうした外的要因が削除されていては、如何に優れた
役者であろうと演技に高度な期待を抱かせるのは困難である。つまり前述したような緊張感の
ない状況設定では、役者の演技も同様に緊張感のないものとなってしまったし、虚ろな会話と
個人芸だけに頼らざるを得ない。即ち、確認しようのないドアの向こうの世界に対する、
凄まじい苛立ちが徐々に盛り上がっていく様子を描き切れないとしたら、感動のない淡々とした
舞台に終始するのは自明の理である。
しかし、敢えて役者一人一人についても簡単に語ろう。
米沢牛氏が吉良の心情を真摯に捉えようと努力していたのは理解出来るが、余りに高齢なこの役を
演じ切るには本質的な無理があったのではないか。老人の物腰や台詞をどんなに上手く表現
していても、観客はそれだけ創り過ぎの感を抱いてしまうからなのである。金野氏の新助は
かなり面白い役どころで、彼女の良さを十分引き出していたように思える。だが舞台人として、
その声が遠くの客席にまで届いていなかったように思えたのは気の所為だろうか。逆にお三様の
絵永けい氏は、流石に重厚感ある演技と声量を披露していたが、さりとてあのような明瞭すぎる
演技は、声が戸外に漏れてしまうのではないかと心配でならなかった。つまり余りに元気すぎた
ように思えるのである。また恋愛関係にある二人の男女の存在は、物語の中に溶け込んでいるとは
思えなかったし、取って付けたような印象は演出の所為であろうと思える。
 最後になるが、あれだけ人の出入りの激しい隠れ家では、踏み締めた足跡を辿れば簡単に発見
されてしまうと思われるのだが、こうした簡単な理屈を平気でクリアしてしまう作家や関係者の
感覚を理解できないし、そうした取り組み方がこの舞台を最後まで安易なものにしてしまったように
思える。また上演された作品の評価については、観劇者の僅かな拍手に象徴されていたように
思えるのだが、それは観客のレベルが一段と向上した証であり、にもかかわらず前回同様在仙
マスコミの「素晴らしい作品」と言って誉めちぎる提灯記事のような哀れさが、またまた脳裏を
よぎって離れない。									  
2000年12月22日の舞台を観劇。
ご連絡
仙台で上演したことのある金沢市の「劇団新人類人猿」様より、以下の要項で行なわれる招待券が
届きました。劇評倶楽部のメンバーは都合で参加することが出来ませんので希望者にお譲り致します。
日	 2001年1月6日「土」と7日「日」の両日。
時間	 PM7時30分
枚数	 2枚
場所	 金沢市民芸術村里山の家。
上演作品 ハイナミュラー作「ハムレットマシーン」
連絡先	 「私の自宅」	022ー211ー1719
 

[2000年12月26日 0時20分9秒]

お名前: 水天堂    URL

 22日(金)の公演を見ました。
 シアタームーブメントは、第一回、第二回、第三回と見て、もう二度と見るまいと思って
いたのですが、色々と様子も変わったようなので見てみることにしました。
 
 観劇しての第一印象は、とにかく、「面白かった!!!」の一言に尽きます。
 井上ひさしの台本の面白さはもちろん、全体の演出も、役者の演技も、とてもレベルが高
い完成度を見せており、これまでのシアタームーブメントとは、全く別物と言っていい出来
の良さだったと思います。
 
 何故、これが今まで出来なかったのだろうか?
 出ている役者のメンバーは、あまり入れ替わっておりません。演出も、スタッフ的にも、
そうでしょう。変わったのは、台本選択の部分です。
 
 幸いなことに、そして、残念なことに、「仙台の劇作家による仙台をテーマにした作品を
題材とする」という方針が、今回はとられませんでした。
 
 今まで、シアタームーブメントに台本を書いた劇作家の方たちは、どなたも長く活動を続
けてきて、独自の世界や方法論を確立している方ばかりでした。書かれた台本は、当然、そ
のこれまでの方法論や世界観をもって書かれたものだったろうと想像されます。
 それに対し、演出や制作において目指したものは、端的に言えば、東京でやられる大劇場
での(たぶんに新劇的な)演劇であったろうと思います。(勘違いでしたらすいません。)
 この違いをぶつけ合うことは意味のあることとは思います。でも、少なくとも客として見
ていて、そのぶつけ合いが、劇作家個人の方法論や世界観を可能な限り排除した骨格だけで
作られた作品ばかりだった気がします。
 結果的に、「仙台の劇作家」や「仙台を題材に」ということにこだわる意味が全く無くな
ってしまっていたように思うのです。
 
 今回、台本に井上ひさし氏の作品が使われました。井上ひさし氏の戯曲は、演出の宮田氏
の得意分野でもあると聞いてます。
 結果的に、前回まで顕著だった、戯曲のもつ世界と作り出された作品とのズレや葛藤は見
られず、役者の演技もぴったりとはまっていました。
 
 企画としても、見通しが聞き易くなっていると思います。これまでのシアタームーブメン
トは、「地方演劇の育成」を標榜しながら、余りに中途半端な企画であったと思います。そ
れに比べれば、だいぶ目的がはっきりしたように思います。
 来年以降、どういう方向性をとるのかはわかりませんが、今回の方向変換は、十分評価さ
れるべきものだと思います。
 
 とにかくも、役者、スタッフの皆様、お疲れ様でした。
 良い芝居でした〜!! 
 

[2000年12月24日 21時8分21秒]
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宮城学院女子大学演劇部「If It’s」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここ2,3年の僕の年末の最大の楽しみは、宮学の12月公演を見ることである。今年

もついに、恒例のその日がやってきたのだが、相変わらずのほのぼのとした楽しい雰囲気

のお芝居で、最後まで飽きずに見させていただいたのであった。

 先の宮教の公演と同様、おそらく本公演も、見る人が見れば厳しい指摘をしたくなると

ころがたくさんあるのだろう、とは思う。しかし、そのような問題点を超えて、なおかつ

観客である僕に「楽しい!」と、ハッピーな気持ちにさせるものをこの大学の演劇部は間

違いなく持っている。では、それが何なのか?これについて、僕はこれから書こうと思う。

それは、僕の演劇を見る上での問題意識が、「いろいろアラがあっても、なおかつこの作

品を僕が面白いと思ってしまうのはなぜか?」という部分に大きく向いているからなので

ある。

 本作の主人公、菜月は画家志望の女の子である。大学を出て3年目の現在、彼女は絵に

対してスランプに陥っており、「自分から絵がなくなってしまったら、いったい何が残る

のだろう?」という悩みに苦しんでいる。そんな彼女と、大学時代からの友人であるフリ

ーターの牧乃、OLの香恵の3人が、街で出会ったある不思議な少年の超能力(?)によ

って、別の次元の世界に連れて行かれてしまう。そこは、何も存在せず、何もしなくてよ

い世界であり、その少年は菜月に「君がここにいたいと望んだから、ここに君たちを連れ

てきたんだよ」と話す。

 実は、その少年は菜月の中のネガティヴな心が作り出した、もう一人の菜月ともいえる

存在で、事実、菜月は絵に対してスランプに陥っている自分の状況を親友の香恵に話した

後、「このまま、なにもしたくない」という本音を吐露する。

 しかし、「何も存在しない・何もしなくていい」という世界は、いってみれば「死の世

界」を暗喩したものといえよう。精神的に参っているとき、人はおうおうに「自殺したい」

という思いを抱いてしまうものである。しかし、現実に死ぬことはやはりイヤだ、という

気持ちも矛盾ではあるが同時に持ち合わせているからこそ、多くの人は自殺しないで生き

続けているわけで、菜月も、一時は「ここにずっといてもいい」と思いながらも、やはり

元の世界へ戻ろう、と思い直し、もう一人の自分である少年と戦う決意をする。

 そんな菜月を助け、少年との戦いに助太刀をする不思議な少女が登場する。実は、その

少女は、以前菜月が飼っていた猫・アリスの霊なのである(だから、やはりこの世界は死

後の世界を象徴しているのだろう)。アリスや親友たちの助けにより、菜月はついに、元

の世界への帰還に成功する。

 つまり、本作は今年の高校演劇コンクールでの、白百合の「HAPPY BIRTHD

AY」と同じテーマを持つ作品なのである。現実世界は、自分にとっていいことばかりが

続くわけではない。むしろ、イヤなことの方が多いくらいだ。だから、「この世」ではな

い「幻想の世界」、あるいは「あの世」にいってしまいたい衝動に人は駆られてしまうこ

とが多い。しかし、それでもなおかつ「あの世」に行かず、「この世」に居残ろうという

気持ちにさせるのは、自分を「絵の才能」などといった限定したものによってのみ必要と

しているわけではない、全的存在を受け入れてくれる親友(あるいは飼い猫)という「居

場所」なのだ、というのが本作のテーマなのだろう。

 しかし、と私は考える。もし、そのような自分を受け入れてくれる存在がいない人間は

どうすればいいだろう?たぶん、そのような人間にとって必要なのが、「あの世」ではな

い「幻想の世界」なのである。つまり、今回の「宮学の演劇」、という存在自体が、実は

観客の僕にとっては、公演が終了すれば戻ってこれて、「あの世」ではないが「居場所」

として機能してくれる「幻想の存在」、しかもかなり居心地のいいそれだったのだ。

 宮学の芝居を見ていていつも感じるのは、何か舞台からパステルカラー、とでも形容し

たくなるような、明るく、穏やかな雰囲気だ。それは、たぶん僕がこの秋にコンクールで

見てきた、一部の女子高演劇部にも通じることなのだろうが、おそらく普段から、和気藹

々と楽しんで稽古をしているんだろうな、という感じが伝わってきて、それが見ているこ

ちら側も感応させ、なごんだ気分にさせてくれるのだと思う。

 確かに厳しい稽古をしてせっぱ詰まった状態に自分を持っていくことで、素晴らしい演

技を役者がする、ということはたくさんあるだろうし、事実そういう役者さんによって、

感動させてくれた作品だって僕も今まで何度も見てきたので、一概にこういう芝居がいい、

こういう芝居はダメ、と短絡的に結論などつけるつもりはない。しかし、和気藹々と楽し

んで稽古をしている感じが、ほのぼのと伝わってくる芝居というのも、その手の「居場所」

を求める観客にとっては、また得難い魅力であることも、また事実なのだ(もしかしたら、

彼女たちはかなり厳しい稽古をしているのかもしれないので、あまり勘違いしたことを書

くと失礼に値するかもしれない。でも、公演パンフに書いてあった「面白NG特集」を読

むと、あまりそういう感じがしないんだよネ。でも、僕にとっては、だから好き、という

面の方が強いんだけど)。

 個々の役者さんについて。主人公の親友のフリーター役で出てきた、手塚優子さんが面

白かった。大学出て3年もフリーターをやっているという設定からもわかるとおり、「明

日は明日の風が吹く」的なお気楽な性格であり、そういう「明るく元気がいいけど、ちょ

っとマヌケ」という見る者を楽しませる三の線の役作りが、ピッタリはまっていた。彼女、

去年の「センチメンタル〜」でもシローという少年の役だったが、元気のいい役が似合う

タイプなのだ。今回は特に、趣味で覚えたという催眠術を、もう一人の親友・香恵にかけ

る場面が、とても大仰かつコミカルでおかしかった(あと、ウィーンのダジャレ!)。た

だ、去年の演技に比べると、他の役者さんが静かな演技が多いのにひきずられたのか、や

や小振りになっていたようなところがちょっと残念だったが・・・。折り込みチラシに入

っていた来年3月の「学都出陣」の参加メンバーに、彼女の名前も入っていたので、今ま

で宮学の役者さんは1年に1回しか見られなかったのが不満だったが、もし3月もキャス

トで出てくれるというのであれば、今からとても楽しみである。

 それと、「幻想の世界」でボランティア活動をしている女性が、突然、ドラクエをより

面白くするには井戸から貞子を出せばいい、という話をするシーンがあるのだが、こうい

う突然関係ない話を、しかもいかにも幽霊がしゃべるように(ど〜ら〜く〜え〜は、い〜

ど〜か〜ら〜さ〜だ〜こ〜を)折り込むところが、あまりにもナンセンスで、おかしくて

仕方がなかった。ボランティアの女性は2人出ていて、どちらがこの役を演じた人なのか

よくわからないのだが(成沢綾さんの方?)、今年始めてみた顔なので、来年以降もキャ

ストでの出演を期待したい。

 そういえば、宮学の公演は、いつも3〜4人しかキャストが出てこないパターンがここ

数年続いていたのだが、今年は一挙に8人も出演していたので、少々ビックリしてしまっ

た。宮学は毎年12月と、一年に一回しか公演をしないので少々寂しく思っていたのだが、

せっかくキャストも増えたことだし、来年あたりは年2回、なんとかチャレンジしていた

だけないものだろうか?期待してますので、ぜひ、検討してみてください。 

 

[2000年12月16日 1時6分16秒]

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青葉玩具店「演宙遊戯」 

お名前: うにくりーむころっけ   

 

おもしろかったです。終わった後、あんなにじーんとした気持ちになった演劇を見たのは、

久しぶりでした。照明と音響のすばらしさと、舞台の美しさがとても印象に残りました。

何より、役者さんたちが本当に楽しそうに演じているのが、良かったと思います。

客席の上のほうに、とてもきれいなランプ(灯篭のような。)が飾ってあったりして、

観に来るお客さんのことを本当に大切に考えてくれているのだなあ、と思いました。

青葉玩具店の公演は今回で3回観ましたが、私は今回のものが一番楽しめました。

でも全ての作品に笑いと感動が込められていて、私はここの演劇が大好きです。

 

次も必ず観にいきたいと思います。

 

 

[2000年12月19日 22時45分22秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

青葉玩具店の芝居の観劇は3度目となる。

私にとっては、今回の「演宙遊戯」も期待を裏切らない素晴らしい芝居だった。

いつものストーリー展開の分かりやすさに加え、役者の身体能力の高さをよく生かした芝居

だったと思う。

 

青葉玩具店の芝居の良いところは、何も考えずに観ていられるところかもしれない。

映画を見に行くように芝居を見に行く人はまだ少ない。

芸術性や自分の主張を強調した芝居が一般うけしないのは至極当然のことだろう。

観客が何を求めているかではなく、作り手側の満足を優先させているからだ。

一般大衆の心を掴むのは老若男女誰にでも分かりやすいものではないだろうか。

そういった意味で青葉玩具店の芝居は、仙台で演劇が発展するための大きな役割を果たして

いくのではないかと思う。

 

1人の役者が多くの役を演じ分ける今回の芝居、役者不足ということではなく、役者としての

挑戦や自信といったものからきたものだろう。全体として巧く演じ分けていたと言えると思う。

特に雲雀壱志という役者は、それぞれの役に大きな特徴を持たせることで演じ分けており、

彼によって舞台上に創り出された人物は、どれも好感の持てる人物だった。

それに対し、滝田、不実、松田の3名は役の演じ分けがやや弱いと感じた。

彼らの役者としての成長により、青葉玩具店の芝居がさらに良いものとなることを期待する。

 

次回公演も楽しみだ。

 

 

[2000年12月18日 19時14分43秒]

 

 

お名前: れぽたん   

 

私も正直物足りませんでした。

青葉玩具店さんならもっとやれたんじゃ…。なんて。

なんかお芝居を見たのではなく、

青葉玩具店さんの役者を見に言ったみたいな感じでした。

それはそれで楽しんだんですがね。

私には以前見させて頂いた「life for life」

のような満足感は得られませんでした。

次に期待します。

 

 

[2000年12月18日 1時41分23秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 以前、新月列車の「誰か−STRANGER−」の劇評で、私はこんなことを書いた。

>ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

>少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいて

>い、「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさら

>に・・・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係

>性とか自分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女

>だと女子の方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因

>がある、という意見である。

 新月の「誰か−」が、その少女漫画を原作とした「他者との関係性」をテーマにした作

品だとしたら、今回の青葉玩具店の「演宙遊技」は、まさに少年漫画的・ジャンプ的作品

だったといえよう。

 「世界征服をたくらむマッドな博士と対決し、最後は勝利して世界平和に貢献する。」

身も蓋もなく言ってしまえば、本作のストーリーは今まで幾たびも少年漫画に掲載されて

きたストーリーのデジャ・ブ、焼き直しに過ぎない。もちろん、その手のストーリーがわ

かりやすく、また、善・悪の対立という、ドラマ性を生じさせやすいということから(こ

れは高校演劇コンクール県大会で、石川裕人氏が白女・後藤尚子さんにいった講評そのま

まではないか!)、何回も何回も飽きることなく作られてきたものである、ということは

理解できる。ジャンプが以前のような極端な勢いをなくしたとはいえ、何冊かの少年漫画

誌が商業ベースで成り立っているのは、そういったストーリーを面白がる読者が多数存在

しているからに他ならないからだ。しかし、今の私にはその手のわかりやすいエンタテイ

メントは、もはや物足りなく、嘘臭いものでしかなく、だからわざわざ劇評へ足を運んで

1800円の入場料を払ってまで見たいものではない。200円ちょっとでコンビニで買

えるにもかかわらず、あえて買わないものを、なんでそれ以上の手間暇を書けて見に行か

なければならないのだろう?それよりは、少女漫画に象徴されるような、複雑な人間関係

のシミュレーションゲームを読んでいた方がずっと面白いし、感情移入できる。

 これら作品のテーマは、理想を追求し、秩序を回復するための、正義の物語である。し

かし、私は、先の三高の劇評でも書いたとおり、「正義の味方」や「プラスのヒーロー」

を蘇らせることなど、例えていうなら、そこに存在しない遺跡を捏造するようなもんだ、

という現状認識を私は持っている。そんなわかりやすい「正義」が信じられるのなら、な

にも高校演劇の地方大会を見に行くために若柳や本吉まで足を運ぶような、業の深い酔狂

な真似などするわけがない。だって、私はコンビニでジャンプ読めばそれで今の生活に満

足できる、というタイプの人間ではないのだから。

 もちろん、このような反論をする人がいるかもしれない。「本作ではニセのブルース・

リーは自分がレプリカントである、という悩みを途中から抱え出す。これはアイデンティ

ティ不在という我々の現状をテーマとして扱っているということではないか?」と。しか

し、この悩みが本当に作品のテーマといえるほど掘り下げられていただろうか?結局は、

その悩みが迷いとなることによって、ニセ・ブルースリーは主人公に負けてしまう。つま

り、この悩みは作品のテーマとして作者が取り入れようとしたものというより、敵役が主

人公に負けるための原因を作るために、ご都合主義的に取り入れられたようにしか見えな

いのだ。だって、ニセ・リーはこの悩みを解決するために、自分探しの旅に出たり、引き

こもったりするわけではないんだもの(笑)。

 本作でニセ・リーはマッド博士に対して、「俺は何のために産まれてきたんだ!」と叫

ぶ。でも、「何のために産まれてきたか」なんて、すべての人間にとって「偶然」でしか

ないんだよ。自分の父親と自分の母親が何十億という世界中の男女の仲からであったのも

偶然だし、その良心のたくさんある精子と卵子の中からどれが受精したかも偶然なんだも

の。だから、私は三高の劇評でも書いたとおり、「人生に意味はない。」と考えてるし、「意

味にすがるのは弱者だ。」というニーチェの言葉を引用したのだ。

 また、作品の最後で、実は主人公もマッド博士の作ったクローン人間だった、というオ

チが付くのだが、これも観客を裏切ることによって「あっ!」と言わせるためのサービス

精神以上の強いテーマは感じられなかった。要するに、どっちも「本物」ではないという

オチは、「自分は本物だ」という強い「妄想」を持っていたものの方が、悩んでいる人間

より精神的に強い分、勝負の際は有利、という教訓を、示していることになるといえよう。

しかし、そのような強い「妄想」を持ちようがないのが、何が正しいかわからない今の時

代という現状なわけだし、逆に安易に強い「妄想」を持ってしまうことが危険であること

は、やはり三高の劇評でやはり例として出したした、オウムの一件を見れば明らかだろう。

 最後に念のため申し添えるが、私のここまで書いた劇評は、本作を見て面白かったと思

った人達の感想を否定するものではない。世の中には、同じ作品を見て「面白い」とも「面

白くない」ともとる人間が両方いることは当然のことだ。特に、本作のエンタテイメント

性は、先に述べた少年漫画を面白がる人が一定多数いるように、世の多数派の方々にとっ

て受け入れやすい面白さであることは充分理解できる。私のこの劇評は、あくまで私の内

面にとってどうだったか?と言うことについて書いているので、本作を「絶対的」レベル

で否定するものではない、ということをなにとぞ御理解いただきたい。

 

 

[2000年12月17日 21時40分51秒]

 

 

お名前: 桜井   

 

初めて書きこみします。みなさんよろしくお願いします。

青葉玩具店についてですが、初日見てきました。もう、なんて表現したら良い

のでしょう?彼らの個性的な光る演技はもちろんのこと、開場してからのラジオ番組系

のトークや、次回予告など、相変わらず斬新的な演出に、最初から最後まで、瞬きもせず

釘付けになっていました。

 

永澤真美さんの迫力ある演技力、見事でした。

 

私は芝居を見た事がほとんどありませんでしたが、青葉玩具店をきっかけに、

お芝居の楽しさを味わうことができるようになったと思います。

将来が楽しみな劇団ですね!!

 

 

[2000年12月16日 3時44分41秒]

 

 

お名前: 小泉   

 

 青葉玩具店の演劇は初めて見ました。

 

 自分はあまり演劇を見たことが無いので上手く書けませんが

本当に面白かったと思いました。ストーリーのテンポがよく、

2時間があっというまに感じられました。音楽が大きすぎて

セリフが聞き取りづらかった場面など少しありましたが、

それ以外での場面での役者の方々の声はよく通ってて

とても感情移入しやすかったと思います。

 

 少ない人数で何役もこなしていたにも関わらず、動きなどで

すぐ別な役だと気付けました。特にクローンのブルースリーの弟役の方の

演技が一番印象に残りました。空維の兄の役から弟の役に流れるように

変わった演技が素晴らしかったです。

 

 あまり思ったことを文章に出来なかったですが、本当に面白かったです。

次回作も面白そうなので期待したいと思います。

 

 

[2000年12月15日 23時50分47秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初日を見た、後2日あるのであらすじ等は見てのお楽しみとしたい。

 青葉玩具店は3回目の観劇になるが、その都度満足して返ってきた。

まだ結成2年目の団体とは思えないほどの完成度だ。

徹底したエンターティメント路線で一瞬も飽きさせずに最後まで見せる。

まず俳優ありきで、役者が本当に楽しんで演じているのがわかる。

テーマが何かを感じさせるより、彼らにとっては演劇そのものがテーマであり、

「演劇表現によって何が可能か」ということがテーマになっているようだ。

3回とも違った路線で、今回はSFアクションと言ったらいいのかもしれない。

作演出がその都度違うようで、作演出が違っても面白いのは、確かな技術に支えられているからだ。

舞台美術、音響、照明の技術は仙台屈指と言っていいだろう。

そして体の切れる、個性的な役者達。舞台技術にも、役者にも全く穴が無い。

 今回、役者達は一人何役もこなし、場面も何十という場面で成り立っているのだが、

暗転が2,3回しかなく、場面場面を見事な照明と音響でつないでいる。

舞台も中国の闘技場や城壁をイメージさせ、奥が2階建てになっていてうまく高さを使っている。

演出家が本当に観客のことを考えていて、客席に観客がいるのを感じさせてくれる。

集団としての勢いや、やる気を感じさせて、見た後すぐ誰かを見に誘いたくなるような舞台だった。

仙台のこれからの演劇を変革させてくれるような集団だと思う。

青葉玩具店の舞台は過去、あまり書き込みが無いので観客の皆さん是非感想を聞かせて下さい。

 

 

[2000年12月15日 23時0分10秒]

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宮城教育大学演劇部「ミナモノカガミ」 

お名前: 井伏銀太郎   

 

太田さん早速の書き込みありがとうございました。

面白かったか面白くなかったかと聞かれれば単純に面白かった。

笑わせようとしていて一度も笑えなかった劇団もたくさんあるのと比べると

劇中何度も笑った。

太田さんが推薦していた依子役の照井麻貴子さんが特に面白かったと思う。

 私が特に感じたのは先の文でも書いたけど、過去の物語の素晴らしさです、それだけで

芝居を作ったらいいのではないかと思ったほどだった。三島由紀夫を連想させた。

それに比べると現代の設定や、過去と現在を結びつける必然性が弱かったと思った。

現在の物語は太田さんの言う怪獣ものよりは「スケバン刑事」等のイメージが強いように感じた。

三島とスケバン刑事が混在しているように感じたのです。

 

 私は何度も劇評バトルで書いているとおり、小さいリアルなドラマの積み重ねでしか大きなドラマが

成立しないという考えなので、リアリティ−の基準ということにこだわっているのです。

 私は演劇とは、省略の芸術だと思っています。例えば室内劇においては観客側の壁が第4の壁として

省略されているわけで、時間や空間を省略していって、想像力でその省略部分を補っていくものだと

考えています。

 と言うわけで過去何度も同一空間上の本物とパントマイムの混在に対してリアリティーの基準を

(省略の基準)をどこに設定しているのかと指摘してきたのです。

何の理由もなく小道具を省略してしまっているところがあまりにも多すぎました。

思い起こしてみると、同じテーブルの上でチンチロリンの茶わんとサイコロが本物なのに、賭けている

お金が無対象だったり、本物の料理を食べているのに、飲み物が無対象演技とか、

本物の缶コーヒーを飲んでいるのに瓶ビールが無対象だったり。もっとひどいものになるとお客が

代金を本物のお札で払っているのに店の人のおつりの500円玉が無対象演技だったり。

それをなんの疑問もなく演出家が見逃しているわけです。笑い話のようだけど2,3年前まで仙台の

劇団も平気でいい加減なことをやっていたのです。

 同じ無対象でも、もしもしガシャ〜ンの「フニフニ王国」のクライマックスは素晴らしかったと

思いました。ホモのカップルの一人が自殺を図るのだけれど、台風の効果音とガラスの割れる音、

無対象でガラスを拾って自分の首に突き立てたのだが、音響や役者の集中力によって見えないガラス

が見えてきたのです。

このように演出がしっかり考えて使えばいいのだが、今回の宮教の芝居は意味なく無対象にしているとしか

思えない場面が多々ありました。

そういう技術的なところはすぐ直せるので、次回頑張って欲しいと思いました。

 

[2000年12月14日 1時21分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 井伏さんから僕に対して、井伏さんの劇評に対するコメントを求められましたので、こ

れについて述べさせていただきます。

 今回、井伏さんの御指摘のあった件につきましては、「現在の設定が安易」という部分

で意見が一致した以外は、ほぼ技術的な部分であると思うのですが、以前に「作品論か?

技術論か?」でも書きましたとおり、僕は作り手の立場に立ったことのない人間であり、

観客の視点から演劇を見続けてきた人間です。その意味で、今回井伏さんが指摘された点

につきましては、「なるほど、作り手の人はこういう視点で見ているのか。自分は見落と

していたことがたくさんあるんだなあ。しかし、言われてみれば確かにその通りではある

なあ。」と感心させられた、というのが率直な感想です。

 しかし、あえてこれは強調しておきますが、井伏さんが指摘された問題点について僕が

「全くその通りだ」と同意することが、イコール僕にとってこの作品に対する「面白かっ

た」という肯定的評価を減ずるものではないのです。

 なぜなら、例えば以前にも書きましたが、僕はクラシック音楽のファンでもあり、よく

オーケストラの演奏会を聴きに行きます。それで、プロの演奏家の方のお話を伺ってわか

ったことなのですが、僕のような素人にはわからないミスや事故が、演奏会の中では毎回

けっこうおこっているということなのです。それはきっとプロの方ならわかることだろう

し、そのプロの方がその問題点を指摘することによって、彼らの演奏がより良くなるので

あれば、それは大変けっこうなことだと思います。しかし、そのようなミスがあったこと

が後でわかったからといって、僕がそのコンサートでの演奏に対して大変感動した、とい

う事実は変わるものではないのです。

 技術はないよりあった方がいいでしょう。しかし、人が芸術を見て感動することは、必

ずしも技術的巧拙に限定されるものではない、ということもまた事実ではないでしょう

か?今述べたオーケストラの件で言えば、例えば故カラヤンについて、「表面的にはとて

も完璧な演奏をするが、中身が空虚で、作品から訴えてくるものが何もなかった」という

批評が生前からよくなされていたものでした。僕はカラヤンの演奏をライブで聴いたこと

はありませんが、確かにルーティンワークで弾いてるんじゃないか?と思わせるような外

国の「一流」オーケストラの演奏会には何度か出くわしたことがありましたし、そのオー

ケストラの演奏に比べれば技術的には稚拙であるだろうアマチュア・オーケストラの演奏

会の方に、より感動することも多いのです。

 例えば、今回の井伏さんの御指摘でいうなら、「見えないコップで水を飲んだ」とか「絵

の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出した」といった矛盾点は、僕に

とっては気にならない範囲の矛盾であり、たとえ気がついたとしてもそれによって太田と

いう人間に本作がつまらないものになるほど決定的な性質を持つミスではないから、僕の

劇評では指摘しなかったということです。もちろん、だからといって井伏さんがその件を

劇評で指摘しなくてもいい、ということではありません。井伏さんが指摘することによっ

て、宮教の方々がよりよい芝居を作れるきっかけになるのなら、それは彼らにとっても望

ましいことでしょうから。

 また、「国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか」という点につい

ても、それをいうなら僕が子供の頃に見た「仮面ライダー」のショッカーなんてのは、か

なり間抜けなことをたくさんやっていた悪の組織で、あれはいっぺんに何十体もの怪人を

ライダーにぶつければ、最初からライダーに勝ってたのではないか?とか、あるいはなん

でウルトラマンはスペシウム光線を最後の最後まで使わないんだ?とか、「間抜け」な部

分はたくさんあったわけで、そういう間抜けな部分を集めた「怪獣VOW」なんて本まで

出ているくらいですが、だからといってあれらの作品がつまらなかったか、といえばそん

なことはない。30代、40代までそれら特撮モノをひきずっている連中が「オタク・カ

ルチャー」という一ジャンルを現在築いているのは周知のことでしょう。ウルトラセブン

についての作品批評など読むと、正義対悪という単純な二項対立に限定されない深いテー

マが内包されていることが指摘されており、確かにそういう視点で見ると、子供の頃は「戦

闘シーンが少なくてつまんな〜い!」と思っていた話が、「ゲッ!こんな話、子どもに見

せてわかるのかよ」という大人になった今となって逆に落涙を禁じ得ない話だったりする。

まあ、これは何もこれら昔の作品に限ったことではなく、僕が何かにつけて引き合いに出

すエヴァンゲリオンにしたって、井伏さんのおっしゃる「人物設定の安易さ」と「行動の

いい加減さ」といった矛盾点は結構あちこちに存在し、いわゆる謎本を読むと、それらに

対するツッコミがてんこもりだったりするわけなんですが、だからといってあの作品がブ

ームとなり、多くの人がはまって感動したという事実が消えるものではないわけです。

 小学生の書いた稚拙な絵でも、見る人によっては強い衝撃を受けたり、深い感動をした

りするものです。僕は技術的な巧拙の向こうにある、テーマ的なものに目を凝らしたい、

それが批評の持つ重要な役目であろう、と考えています。もちろん、それが井伏さんの書

かれる技術的批評を否定するものではありません。井伏さんの御指摘によって宮教の人達

がよりよい芝居を次回以降作れるのなら、それはそれでけっこうなことですから。また、

いくら技術的なことはわからない、と言っても、それこそ僕のような素人でもわかるよう

なひどいミス、さっきのオーケストラの例でいえば、明らかにトランペットの音が外れて

いて、それで演奏が台無しになってしまった、という事例については、僕も書くことがあ

るとは思います。ただ、僕としては「ミスはないけど平板な演奏」を、技術的な問題点が

ないから賞揚する、ということは絶対したくありません。どことはいわないけれど、そう

いう内容の芝居をしていて、一部の方々に好評を得ている劇団がありますが、その手の劇

団に比べたら、今回の宮教の方が百倍も千倍も面白い、と僕は思っているのです(もちろ

ん、それだって、あくまで僕の主観なんですけどね)。

 

[2000年12月13日 21時57分40秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 インターネットでの、あらすじにひかれ見に行った。

学内発表会と違い、公演と名打っているからには、一般の劇団と同等に評価してみたい。

俳優の中には何人か可能性を感じさせる人がいたし、脚本的には確かに伝説的な部分で作家の才能を

感じさせたし、過去の場面の布を使った処理も良かったと思う。しかし私は、太田さんや

クール・ドッグ さんとは違い、作/演出に対しては、今の時点では満足出来なかった。

 

 あらすじは太田さんが書いているので、詳しくは述べないが、

過去の物語の設定の素晴らしさに対して、現在の物語が安易すぎる。

物語が、場当たり的で、必然性や、登場人物の動機付け、行動がいい加減すぎる印象を感じた。

過去の物語と現在の物語の接点が、たまたま帰郷して、たまたま神社の倉庫に入った兄弟というのが

効果的だったろうか、そこになんの必然性も感じられない。後半で姉妹の葛藤が兄弟の葛藤に

推移するのだが、太田さんも書いているとおり、初め兄弟になんの葛藤もなく、その場その場で、

作家の都合で設定が変わってきている。物語の進行が「たまたま」で成り立っている。

過去と現在が融合されるならそこに大きな必然性を感じられなければならないと考えるのは私だけ

だろうか?

確かに物語の中のリアリティーなどあまり気にしないで、その場その場を楽しめばいい、と言う

考えもあるだろう。しかし、物語が歴史的で、現在と過去が行ったり来たりするのだから、それを

支える設定にリアリティーが無いとすべてが安易な物語に見えてくる。

 

 キャスト表に警官と書いてあるのだが、どう見ても警備と胸に書かれており、警備員にしか見え

なかった。それを「警察、警察」と言っているものだから、最後までそれがはっきりしなかった、

警官が能面を探す為に一般人になりすましたと言っていたが、警官が一般人の警備員に化けていたと

理解すべきなのだろうか。それなら何故初めに、警官警官と騒いでいたのか全く理解できなかった。

 

人物設定も安易すぎた。

近くの診療所に入院している女と医者が兄弟の幼なじみなのだが、その二人とも国の機関(研究所)

に勤めていたという設定や、能面をかぶった神主が大量殺人にしたという事件(55年の悲劇)

の唯一生き残った神主の妻が、弟が昔バイトした喫茶店の女主人だった言うのだから、歴史的、

国家的出来事が、すべて町内の知り合いの中で起こっているようなのだ。

 

行動のいい加減さも目立った。

能面を探るために何故、近くの診療所に偽装入院する必要があったのかわからなかった、そんな

遠回りなどせずに、直接的に処理すればいいことだろう。

国が必死で隠したとされる、「55年の悲劇」も雑誌の女編集員が簡単に知っていたというのも、

あまりにも安易すぎた、それでは国家機密にならない。神社の倉庫に能面の文献を調べに入った時、

何故カギを締めたのか、そして放火するわけだが、初めから特務機関は4人を殺すつもりだった

のか等。

そして放火後生き残った弟が、すぐに兄達の生存に意識がいかなかった点など。

国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか、犯人が診療所の方に逃げたと電話

してきたり、それが分かっているなら自分達で捕まえろとツッコミを入れたくなった。

 

演出について。

俳優達は、ほとんどが棒立ちで、身体感覚を喪失している。特に気になったのが、弟だ。

初めに兄弟が診療所に幼なじみを訪ねた時、医者が「暑い暑い」と言いながら舞台袖から出てくる

のだが、その時ゲンコツを顔の前で、ひらひらさせるのだが、初め意味がわからなかったが、

どうやらウチワの無対象演技らしい。

劇評バトルで何度も指摘しているが、同一空間上で本物と、意味のない無対象演技(パントマイム)

をいまだに何の必然性もなく使用している。

リアルなものと、パントマイムの演技が意味なく混在しているのだ。

特に喫茶店の場面で、それが目立った、はじめ見えない水道で、見えないコップで水を飲んだかと

思うと、本物に見せかけた、絵の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出したり。

勝手に電話を使ったと怒られると、お金を払えばいいんでしょと、お金をつまんだパントマイムの

演技をする。

観客がどこにリアリティーの基準を置いていいのかわからない。演出が観客の視線を全く意識して

いないのだ。

何故本物を使わないのか理解できなかった。

 

次ぎに、意見の分かれるところと思うが、かがり火が倒れてやけどを負った姉の演技も気になった、

常に、妹の旦那にやけどを見せているのだが、これは観客に一瞬見せて、後は男に対しては頭巾等で

隠していたほうが、女心が伝わったように思う。

 

 部員のやる気や、作家の才能は感じられた、次の公演も見てみたいと思わせた。

次は、作品のリアリティーの基準や、演出家が観客の視点をもっと意識したほうがいいだろう。

観客は冷静に、しかもしっかりと舞台を見つめているのだから。

 

太田さんは私と同じ時間に見ていたので、私の感じた部分どう感じましたか、良かったら書き込んで下さい。

 

[2000年12月12日 23時53分39秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

面白かった。

まず脚本が良く、感心した。太田さん同様、脚本家の恵まれた才能に敬意を表する。

また、演出もすばらしかった。よく演出がいるはずなのに全く演出効果のない芝居を

観ることがある。しかし、この芝居では、実にいいタイミングで音が入ったり、初め

にスクリーンとして使用していた幕を芝居中巧みに使用するなど、効果が随所に盛り

込まれていた。

私の芝居を観る楽しみは、生の迫力だけではなく、「こうきたか!」と思わせてくれ

る演出効果にある。野田秀樹のような演出家がそうそういるとは思わないが、テレビ

ドラマを観ているような芝居を観た後は、わざわざ時間をかけて足を運んだことが悔

やまれ、どうしようもなく不機嫌になってしまう。

宮城教育大学演劇部のこの芝居、「来てよかった。」と思うことができ、帰りの足取

りも軽かった。宮城教育大学演劇部の皆さんに感謝したい。

毎回面白いのかどうかわからないが、学生演劇は観ないという方々、一度御覧になっ

てみてはどうだろうか。少なくとも今回の芝居は観る価値があったと私は思う。

太田さんによると、冬公演がお薦めらしい。また、チラシによると卒業公演が3月に

あるらしい。期待できるのではないだろうか。

私も時間があれば、また足を運ぼうと思う。

 

[2000年12月11日 18時53分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 2年続けて宮教演劇を夏、冬、夏、冬と見てきて、一つ気づいたことがある。それは、

夏公演の時は柱的存在の4年生が抜け、また新入生がまだ経験不足のためか、役者の技術

的面で少々不満を感じさせる演技がまま見られるが(それでも、宮教ならではの一生懸命

オーラで、それをカバーしてしまうのだが)、冬公演となると、役者の技量もアップして

きて、長編を演じながらも最後まで緊張感を途切れさせず、結果、一般のアマチュア劇団

を凌駕する名演を見せてくれるということだ。今回の「ミナモノカガミ」も2時間20分

の長編であったけれども、やはり最後まで飽きさせない、ドラマティックないい芝居であ

った。しかも、今回は久しぶりのオリジナル脚本である。シバタテツユキさんの作家とし

ての才能に敬意を表したい。

 物語は中世(役者の服装から考えて、平安〜鎌倉あたりか?)の巫女的な舞師(地鎮舞

踊)の家族と、現代のある兄弟をめぐる2つのストーリーが並行する形となっている。代

々舞師の家系を継ぐ家の仲の良い姉妹の前に、ある日、分家の若者が現れる。分家の若者

は男の子がいない本家に養子として入ってもらう予定となっており、実際彼は長女と恋仲

になるのであるが、ある時儀式の最中に篝火が長女の顔にぶつかり、長女は顔に大やけど

をおってしまう。世間体を気にする一家の主は、それでも長女を愛する若者に、「夜は姉

と一緒にいてもいいが、表面的には妹と結婚する形を取ってくれ」と若者に頼み、若者も

渋々それを承諾する。しかし、それが3人の心に深い溝を作り、姉はそのルサンチマンを

面(能面?)を作ることにぶつけていく。姉の負の心がこもったその面は、その後つけた

ものを破滅に導くものとして恐れられていく。

 そして、舞台は現代。お盆で帰省した兄と、それを迎えた弟は、2人でいたずらに神社

(?)に侵入し、偶然その面を見つける。弟が戯れにその面をつけようとしたとき、面は

光と共に弟の顔に吸い込まれてしまう。そして彼は、その面をつけたことによって、長年

に渡って不幸の源であるその面を壊そうとしてきた国の特務機関に追われる身となってし

まう。と、いうのが本作の主なあらすじである。

 秘密の政府系研究所や謎の特務機関が出てくるのは、どうも最近、宮教演劇のお家芸と

なりつつあるようだ(「パーフェクトライブス」しかり、「ウオルター・ミティ」しかり)。

しかし、面をめぐる政府系研究所や村の古老による謎解き、あるいは特務機関との追いつ

追われつの展開。これらドラマティックな要素が物語の中にてんこ盛りで詰まっているの

だから、これが見る者にとってスリリングな展開とならないわけがない。エンタテイメン

トとして、お客さんをどうすれば飽きさせないかを、作者が考え抜いているからこそ、こ

ういうサービス精神いっぱいの脚本が出来るのだろう。その意味で、シバタさんの脚本を

僕は高く評価するのである。

 そして、外面的なエンタテイメントの部分と並び、観客が登場人物の内面に感情移入す

る部分として設定されているのが、「負の心」をテーマとしたドロドロとした人間関係で

ある。この仲の良い姉妹と分家の若者との三角関係を見て感じたのは、パターンは異なる

が「ロミオとジュリエット」みたいだな、ということだ。どういうことかというと、「ロ

ミジュリ」は、両家の不和という「世間」の大きな力が二人の前に「壁」としてあらわれ

るわけだが、本作では姉の火傷が原因として、彼女の親を代表とする「世間」が、2人の

結婚を許さない「壁」として出現しているわけである。しかも、その「壁」が「ロミジュ

リ」のように、ストレートに2人を別れさせようとするのではなく、「表面的には妹と結

婚しろ。夜は姉と夫婦として暮らしていいぞ。」という、偽善的な妥協案として姿を現し

ていることが、本作のストーリーをより屈折した面白さとしているのである。つまり、こ

の「偽善」によって、本来なら苦しむべき存在が2人であるところが、結果として妹も含

めて3人がそれぞれ自分の中の「負」の心と対峙するという構造になっているのである。

 しかし、このことに関して私は少々不満を感じるところがある。それは、本作がドラマ

ティックになっているのは、そのような世間の壁が強大であった昔の話であったからこそ

可能になったのではないだろうか?つまり、「世間」というものが以前ほど強大でなくな

り、恋愛が自由になった現代に、このようなドラマは、自分のこととして感情移入の対象

となるものにはなり得ないのではないか?ということだ。ここ数年、「自分探し」とか、

「自分を見つめる」といったテーマの作品が、ジャンルを問わず流行になったのは、その

ような世間の壁がなくなったにもかかわらず、自分は相変わらず不幸である。それはなぜ

なのか?世間が原因でないとするなら、自分自身に原因があるのではないか?という疑問

が「世間」の力が弱まった結果として、多くの人の心にテーマとして浮かび上がったから

ではないだろうか?

 だからこそ、本作の現代のシーンでは、特務機関とのスリリングな展開といったエンタ

テイメントとしては魅せるものの、主人公の内面描写としての部分は、中世の場面に比べ

ると弱いものになっている。面を着けた弟は、面を被った影響によって、兄に対する憎し

みを強めていくのであるが、その憎しみは「面」をつけたことによって増幅されているに

過ぎず、本来、面をつけなければ兄弟仲を破滅させるほどの決定的なものとはならなかっ

たであろう、と思わせるほど、説得力の強いものとはなっていない。

 確かに、「障害」「壁」が物語の中に存在し、それと戦うというスタイルをとることは、

物語の中にドラマを作り出す王道ともいえるものである。しかし、私は芝居を見るからに

は、「今の自分」にシンクロできる作品を見たい。「親の反対」や「世間体」が存在しな

いにも関わらず、なぜ自分は幸せを実感できないのか?それをテーマとした作品を、次回

以降シバタさんが作ってくれればいいなあ、というのが、本作を堪能しつつも一観客とし

て感じた贅沢な要望である。勝手な希望で恐縮だが、是非ともチャレンジしていただきた

いものである。

 個々の役者について。今回は、なんといっても依子役の照井麻貴子さんに尽きるでしょ

う!この依子という役は、面をめぐる謎を取材するためにやってきた出版社の2人組のう

ちの一人なのだが、なんだか旧あみんの岡村孝子を思わせるような、クラ〜い雰囲気で出

てくるのである。そして、その暗さがマンガチックで、わざとユーモラスに演じていると

ころが、たまらなくいいのだ!そして、彼女は一種の超能力も持っており、いきなり写真

を念写して、周りを驚かせたりするし、さらには特務機関との戦闘シーンでは、なんと!

「日出処天子」の厩戸皇子のように、「気」によって敵を吹っ飛ばすことが出来たりする

のである!この手の不思議系少女は、まさに「アイドル評倶楽部」たる私のツボにズバッ

とハマってくるキャラクターであり、「あ〜あ。今回は吉田みどりも笹本愛もキャストに

出てこないのかあ。イマイチ物足りねえなあ。」と思っていた私の心を見透かすかのよう

な(ていうか、見透かされてました?シバタさん・笑)ナイスキャストであったといえよ

う。宮教は、必ず一人はこういう不思議系が舞台に出てくるところが嬉しい。ホント!役

者の層が厚いんだよねえ。

 そして、高橋愛美さんや鈴木香里さんといった、その手のオーラこそ出ていないものの、

手堅くワキを押さえる毎度ながらの見事なバイ・プレイヤーぶりにも、いつものことなが

ら感心させられた。彼女たちは宮教であるからこそ、渋いバイ的印象が強いが、ひとたび

どこかの劇団に客演すれば、以前の「ワガクニ」の高橋(妹)さんのように、他の劇団の

役者を喰ってしまうだけの実力を持ち合わせていることは確実であろう。

 そして男優では、なんといっても斉藤雄介君。背が高く、スタイルがいいので、いつも

出てくるだけで、「ああ、彼、今回もキャストなんだな」とすぐわかる、見栄えの良さ。

そして、割舌が悪いのか、その巻き舌気味の外国人のような独特のセリフ回しも、最初は

違和感があったものの、最近では彼ならではのポジティブな個性として楽しめるようにな

ってきた。すべてに平均的で印象に残らないような役者さんよりも、一見弱点のように見

えながらも、それが強烈な個性として残る役者の方が僕は好きだ。その意味で斉藤君は、

ある意味僕にとって「宮教の顔」であり、彼が出ることによって「宮教の芝居見たー!」

と思わせる役者さんなのである。これからも、大いに頑張ってほしい、と思わずにはいら

れないのであった。

 

[2000年12月10日 23時15分49秒]

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開かれてきた高校演劇 

お名前: 忌野  際   

 

仙台三高の演劇をめぐり、議論が活発になってきていることを歓迎する。笠原、小山、大田氏の

それぞれの主張を歓迎したい。とかくこういう話はこじれてくると「空気が悪い」の「怖い」の

「揚げ足とり」だのと思う方もいるようだが、私は空気のよしあしよりも、自分の存在をしっか

りと表現している寄稿者の姿勢を常にすがすがしいと思っているし、無気味なスマイリーの乱れ

飛ぶなれなれしい掲示板こそ、こういう場にはふさわしくないと考えるからだ。無論、管理人氏

が不適切と感じるものは削除の対象にもなろうが、このページの管理人氏は大変に懐が広い。私

はこの姿勢もまた支持したいと思っている。

 

 さて、高校演劇が開かれてきた。WEB上の掲示板を通して、いままでは会場アンケート(それ

以前は会場掲示板)に書かれてきたことが、広く一般の目に触れる環境が整ってきたと思える。

このような風潮に対して小山氏は「仙台三高」の演劇に関する議論で「私どもの弱みは、今生き

て色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに動いている生徒とともに

に生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないん

ですよ。」という所感を述べておられた。氏の述べるとことはむしろ「強み」であり、「自信」

になるはずだ。仮に「ひでえこといわれてるなあ」と思っても、それを黙殺するだけの自信があ

ればいい。氏の学校は常に秀作をコンクールに持ってきており、優秀な実績を常にあげているで

はないか。

 私が言いたいのは、高校演劇も「聖域」ではなく、広く多くの人に開かれるものであるべきだ

し、多くの人の意見を求める必要があるということだ。無論その中で無責任な誹謗や中傷にさら

されることもあるだろうが、この掲示板に関する限り、それなりの論拠をもった意見が述べられ

ており、神経質にこれを気にする必要は特にないと思う。所詮どのような劇評であっても、それ

は「個人」の印象であり、また、見に来てくれたお客様の中でも「批判」をあえて寄せてくださ

るお客様というのは、黙って帰って「クチコミ」で悪評を流してくれるお客様よりも数段真摯で

あり、真っ向からその劇作者に向かう姿勢を持っている点で、私はこれを受容しなければならな

いと考えている。そういうお客様の文章を「馬鹿文章」と斬り捨てた方もいるようだが、私は

そういうことはできないと考えている。

 

 宮城の高校演劇というHPがある。高校演劇界も広く自分の存在をPRしはじめた。私はこれを

大変に歓迎している。だが、WEBでのPRはその他の場面でのもの以上に「一方通行」では終わら

ない。たとえそこに高校生という未成年が絡んでいようが、作り上げた劇はしっかりと批評され

るべきだと思うし、それを是とする姿勢がほしい。そして、内部の人間でのみ行われてきた議論

が今回太田氏の努力により、広く一般に広げられたことをもっと歓迎すべきである。太田氏の

議論は確かにストレートで感情を害しやすいことを書いているけれども、根拠は明確である。

 そして、演劇をしている高校生諸君がなぜこの劇評の議論に参加してこないのか。無論それは

充実した劇評もあるだろうし、「なぜあの学校が入賞するの?」という疑問も出てこよう。しか

しそこに対話の機会を捕らえることは非常に大切なことだと私は思う。

 高校演劇はもっともっと開かれて欲しい。これからも批評にさらされることがあるだろうが、

それは批評された作品の価値を決めるものではない。一批評家の印象を素直に書くことは、一

演劇人が芝居を作ることと同じくらいに尊重すべきことなのだから。

 

[2000年12月3日 7時27分50秒]

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劇団ミモザ「太陽に背を向けて走れ」 

お名前: KIT@麦   

 

 最終公演を一家で楽しんできました。良かったです。

 

 特に本がいいです。あと20分短くできたら相当な名作になった思うんですが、小学生が2時

間半じっと(...というかヘラヘラと)見ていたんですからやっぱり良くできてますね。

サービス精神いっぱいでした。

 

 この劇団のいいところは、受付から客出しまで一続きが公演と考えて演出されているところで

しょう。ユニホームを着た受付に迎えられ会場に入ると開演まで何かやってくれます。前回は一

人コント5連発、今回は模擬ラジオ放送でした。そしてちゃんと定刻で開演します。

 今回は団体割引券や託児サービスまであったようで、日頃我々がやりたくてもできないでいる

色々な試みを実際にやって見せてくれるところに感服します。客としてとても大切にされている

感じがしてうれしく思うのです。

 

 話はギャグ系な郵便屋さん達の話とシリアスに疾走するアフリカの話が交互に出て来まして、

私としてはアフリカの比重がもうちょっと上がったらと思いました。

 子供達はギャグが好きで「山羊さん郵便」や「切手ちょうだい」がいたく気に入ったようで

す。帰りの車中でずっとリピートしとりました(笑)。「演歌」や「はがき男」(爆)も楽しめ

ました。

 

 箱による抽象舞台で演じられる熱いステージは大変好感の持てるもので、たしかに前半は聞き

取りに苦労しましたがそんなことが気にならない若い舞台は良いものでした。

 ラスト、バオバブの木、大きく広がった梢、天からこぼれんばかりの星が確かに見えました。

そのあとの麦球はなくてもよかったと思うほど。

 

 私がもらったダイレクトメールには「郵便配達夫の恋」についての感想が同封されていまし

た。気持ちも運ぶことに一生懸命な郵便屋さんたちの姿を見て、ああこのことかと納得しまし

た。面白かったです。(仕分けのシーンでは「ら抜きの殺意」での自分を思いだしたのです

が...笑)

”いかに生きるか、伝わらない気持ちをどうやって伝えようか”芝居の永遠のテーマですよね。

 

 仙台の人たちも是非一度ミモザの芝居を見てほしい。きっと何か気づいたり思い出したりする

ものがあると思うから。

 仙台から大河原まで電車でわずか30分ほどです。ただ、えずこホールがもう少し駅に近ければ...と

 

[2000年12月3日 21時52分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここのところ、三高をめぐる議論がけっこうハードなものがあり、それについては書き

甲斐を感じてはいたものの、同時に少々重苦しい気分になっていたことも事実だ。そんな

中、本日ミモザの芝居を見てきたのだが、実に実に感動的な作品だったので、今まで感じ

ていたイヤな気分も束の間、吹っ飛ばすことができた。こういう時、自分が演劇ファンに

なってよかった、と心底思う。何だかんだいって、やっぱり俺、演劇好きなんだよなあ、

と暖かい気持ちになれる。そういう意味で、ミモザの皆さんには、心よりお礼を言いたい。

いい芝居を見せてくれて、本当にありがとう。

 本作は、近未来(?)の日本の話である。通信事業が完全民営化され、Eメールから郵

便までを扱う、とある民間企業の郵便セクションに勤務する職員たちの人間模様と、青年

海外協力隊員としてアフリカに行ったまま、行方不明になったある若者についての物語と

いう、2つのストーリーが同時並行に進んでいく。通信会社の郵便セクションは、Eメー

ルや携帯電話を使う人が増え、昔ながらに手紙を使う人が減っていることを理由に、リス

トラの危機におかれている。しかし、セクションのリーダー・ヤヤは、手紙だからこそ伝

わる熱い思いというものがある、と主張して強くリストラに抵抗する。

 このヤヤ役の、おーみひろみさんが、素晴らしかった。長いストレートヘアーは、「シ

ョムニ」での江角マキ子を意識したものであったらしいが、手紙に書ける熱い思い、部下

に厳しいが信頼されるお姉さま、としての役作りが、まさに本家・江角に負けない熱演と

して、印象に残った。彼女は手紙が大事だという理由を、「手紙だからこそ伝わる『実感』

というものがある」と語る。最近上演された、ある作品と同じ「実感」という言葉をテー

マとして使っていたわけであるが、同じテーマでも、芝居によっては、これだけ心にせま

る表現となるとは!やはりこれは役者の技量と脚本・演出の力量の差なのだろう。

 そして、実はこのヤヤの恋人が、アフリカに渡ったまま行方不明となった青年なのであ

る(ここで、同時並行していた2つの話はつながるわけだ)。彼は、「世界の果てを見た

い」という夢を持っており、その夢を実現するために、廃車になっている機関車に乗って

旅をしようと目論んでいる。この、「世界の果て探し」とは、同時に「自分探し」でもあ

るのだろうが、「終わりなき日常」に倦怠感を感じ、日常にはない濃密なものを探すこと

が、イコール彼のいう「世界の果て」を探すことなのだろう。その意味では、彼の探して

いるものも、きっと「実感」であり、そしてその「実感」を観客である私にも感情移入で

きるようにひしひしと伝えてくれた池田耕亮君の演技力!彼も、仙台演劇祭「星空の迷子

たち」の犬役で出ていた頃は、臭くてくどすぎる演技が鼻についたものだったが(失礼!)、

よくここまで役者として成長したものだ、と感慨深いものがあった。

 だから、彼は愛する女性から離れてまでアフリカに渡り、そのアフリカでも自分の持ち

場を捨てて汽車に乗って一人旅に出ようとする。これこそ、ロマンという名に相応しい、

古典的ではあるが美しいストーリーといえよう。

 そして、そんな職場の先輩のラブ・ロマンスを見つめる、新入社員のヒナタ。はい、こ

のヒナタ役こそ、松陵・亀歩さんと並び、私が今の仙台演劇界で最も一押しする女優!後

藤尚子さんである!!

 去年の「キャラメル・マン」の頃の彼女は、ホント、かわいい女の子、というイメージ

のみが強かったが(佐々木久善さんの「ピチピチしていた」発言が、まさにその象徴だが)、

今年のコンクールで県大会まで進出し、しかも創作脚本賞まで受賞する熱演を見せたこと

で、役者として一回りも二回りも大きくなったような印象を、本日受けたものだった。劇

中コントの場面での、表情の変化の素早く、そしてタイミングのよいことといったら!や

っぱり高校生をいう若い時期だけに、役者としての成長も早いのだろうか?もはや、私に

とって彼女は、ただの地元演劇界のアイドルではなく、若手実力者としての1人に数えた

い人材にまで育ってくれたといえよう。それにしても、コンクールからたった2週間しか

経っていないのに、こんなに長ゼリフを全て自然にこなしてしまうとは!やっぱり高校生

はまだまだ頭が柔らかいね。本人、終演後のロビーで、「この記憶力を中間試験にも役立

てればいいんですけどね、ガハハハハ」と笑っていたが、芝居とは直接関係ないが、ぜひ

試験も頑張るように!(笑)

 それにしても、私はエヴァンゲリオンでも、大人の恋をする加持・ミサトよりも、その

2人を近くで見つめる主人公の中学生・碇シンジ君に感情移入したものだったが、今回も、

大人の恋をする2人よりも、尚ちゃん演ずるダメダメだけど一生懸命頑張って新しい仕事

にチャレンジする新入社員・ヒナタに感情移入してしまうのは、きっと私がいい年をして、

未だに自分に自信がもてないからなんだろうな(苦笑)。でも、そんな自分はダメダメだ

ー!と思う人間に、とても共感できるように書かれていたヒナタの人物描写、私は強く評

価したい。

 それと、もう1人よかった役者。郵便区分けロボット・マリー役で今回出ていた、新人

・アベマコさんは、とても新人とは思えないヒールなんだけど憎めないキャラクターを好

演していた。彼女も高校生とのこと(でも、学校では演劇部に入っていないそうだが・・

・)、本当に最近の高校生の演技力には感心せずにはいられない。

 物語の結末は、明日も公演があるため書かないでおくので、明日お暇な人は、ぜひ大河

原まで足を伸ばしていただきたい。松陵・猫原体と並ぶ、今年の私にとっての感動作であ

る。ただ、一つだけ残念だったのは、物語の出だしが少々早口すぎて、何を言っているの

かわかりづらかったことだ。初日の出だしで緊張していたのかもしれないが、もし明日も

同じ場面が早口すぎたとしても、そこで早急に結論を出さずに、しばらく我慢して見続け

て欲しい。だんだんと尻上がりによくなってくるはずだから。

 

[2000年12月3日 0時13分2秒]

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仙台三高演劇部「ウルトラマンの母」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 前回は、笠原先生が今回の作品のテーマとして「実感」を挙げておられることについて、

私が先生の文章を読んでその趣旨には共感したが、その共感は芝居を見たときには生じな

かった、というところまで書いた。そこで今回はその理由について述べていくこととする。

 笠原先生は、「実感」の例示として、登場人物の「女性」が述べたセリフ、「缶コーヒ

ーって好き。舌に残る感じがいいのよね。」を挙げ、また、オウム信者について言及して

おられる。まず、この2つの例示については、私も強く同感するものである。

 まず、缶コーヒーについていえば、そもそも人間は、缶コーヒーに限らず、カレーでも

チョコレートクッキーでもいいけど、何かを食べて「おいしい!」と「実感」する場合は、

本来「意味」を経由しないものであろう。確かに、カレーがおいしいのはレシピが良かっ

たからかもしれない。しかし、川上高瀬がカレーを食べて「おいしい!」と感じたとき、

あるいはミイがチョコレートクッキーを食べて「おいしい!」と涙を流したとき、彼らは

いちいちレシピの因果関係など頭に浮かべないだろう。味覚がそのまま瞬間的に脳に反応

することによって「おいしい!」と感じる。これ、「意味」を経由しない「実感」である。

 また、オウムが修行で自らの肉体を「実感」するという話。これも、要は厳しい修行を

すれば、過剰な疲労から体が本能的に自分を守るために脳内麻薬を分泌する(いわゆるラ

ンナーズ・ハイの極端な例)として、気持ちが良くなったり、幻覚が見えたりという作用

が体内に生じるわけだけれども、本人たちはそういう脳内麻薬がウンタラといった、意味

的因果関係を経由しないで、ストレートに「気持ちいい!」とトリップしているわけで、

これもまた「意味」を経由しない「実感」といえよう。

 このように考えていくと、「実感」は以外と自分たちの身の回りに多く存在しているこ

とがわかる。例えば、風呂に入って気持ちがいいのは、体内の血行が良くなり体がリラッ

クスするためだろうが、私達はいちいちそんな理屈を考えずに、「ああ、いい湯だな〜!」

と言っている。あるいは、踊りを踊って気持ちが良くなるのだって、同じような理屈で説

明可能だろうが、実際に踊っていて気持ちよくなっている連中は、そんな因果関係を頭に

浮かべなくても気持ちよくなっている。さて、ここで疑問が生ずる。笠原先生は、後段で

は「実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦めて生きるので

はなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということを知らせ

伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。」と書かれている。し

かし、カレーやチョコレートクッキーがおいしいという「実感」は、過去の時代にのみ存

在するものではなく、カレーやチョコレートクッキーが存在する限り、普遍的に存在し続

けるものであろう。また、そもそも「実感」とは、上に述べたように「プラスのヒーロー

(または「正義の味方」)」とかいう意味的概念を経由しないで感じられるからこそ、「実

感」ではないのか?だいたい、風呂に入って気持ちよくなるのに、「正義」なんて必要な

のか?つまり、ここで過去には存在したけど現在は存在しない「正義」や「プラスのヒー

ロー」を例示することによって、笠原先生の本当に求めていることは、実はやっぱり「実

感」ではなく、「意味」ではないのか?という疑念を私は持たざるを得ないのである。最

初の文章で、私はこう書いているはずだ。「『自分のやっていることに意味はあるのか?』

と悩む高学歴の科学者に対して、『いや、お前のやっていることに意味はある。お前のそ

の技術力で社会変革はできる』と、信者を増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こした

ことは、未だ記憶に新しい。」と。つまり、笠原先生のいうとおり、オウムの修行によっ

て信者は「肉体の実感」を得た。しかし、それを「実感」ではなく「社会変革」という「正

義」的意味にすり替えていったのが、まさにオウムの教義ではないのか?だとしたら、「実

感」を「正義」や「プラスのヒーロー」という意味的行為に変換しようとする笠原先生の

目論見は、それに似ていないだろうか?

 だから、私が最後の「歌」に意味を感じたのも、ストーリーを一貫したものとして辻褄

を合わせるためには、必要だったからである。「もうずっと長い間面白い映画を見ていな

い。」という詞は、「意味」が存在した昔には映画も面白かった。つまり、「昔の面白い映

画」は、「意味」が存在することによって生き甲斐を感じていた昔、という時代そのもの

のメタファーであり、それを称揚する内容であるということは、つまりは「意味」の復活

を待望するということだろう、と私は判断したのである。それが、深読みだと言われれば、

そうなのかもしれない。しかし、私という人間の内面においては、そう考えることがこの

テキストに対しては、最も辻褄の合う結論だったのである。

 以上で私の反論は終わりである。渡部先生が質問に答えてほしい、という書き込みを下

になさっていらっしゃりこれについては私も同じ思いなのであるが、もしかしたら私の反

論が全て終了することを、笠原先生はお待ちになられていたのかもしれない。そう好意的

解釈をあえてとり、希望的観測を残すことにして、とりあえず本文を終了させていただく

こととしよう。 

 

[2000年12月12日 0時4分30秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 小山先生。笠原先生にお願いします。やはり、質問には答えていただけないでしょうか。

高校演劇関係者として、強く望みます。

 それから、すみませんでした。下の「MOGURA」という書込みは私のものです。必ず

「同じペンネームで」というルールを犯してしまいました。管理人さん申し訳ありません。

忌野際さんが書かれているように、高校演劇に限らず、演劇界はもっと開かれるべきだと私も

思います。

昨年度の審査経過について太田さんから質問がありましたが、もしおかしな評価をしていない

自信があるのならそれだって公開してもいいのではと個人的に考えています。今回の仙台三高

さんが東北大会に出場できなかったことは残念であると私も思います。なぜなら、本当に訓練

された演技を評価してあげるということも教育活動として大切だと考えるからです。

 ただ、三高さんの生徒の結果を素直に受け止める紳士な態度には一緒に生徒実行委員会の仕

事をした私は敬意を表したいと考えています。ですから、先生方再度お願いします。もういち

どきちんと議論をしようとしてはいただけないでしょうか。  

 

[2000年12月10日 21時44分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 先の書き込みで私は、

「せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。」と書いていたので、これから改めて作品

についての意見をここに書き込ませていただくことにしたい。

 まず、「言葉というものを意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのか

な?」という笠原先生の御意見について。これについては、「はい、全くその通りです。」

と答えるほかない。むしろ、「だから、どうした?」と聞きたいくらいのものである。な

ぜなら、下に書いた「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送れな

いから、意味にすがるのだ」という言葉を理解するためには、まさにそのニーチェの言葉

を「意味」として理解することを経ることが必要だからだ。その点で、我々現代人は「意

味的存在」だ、というジレンマを抱えており、そのジレンマをいかにして解消すべきか?

という問題意識を持っているからこそ、そのヒント・シミュレーションとして私は演劇を

見たり、その感想として劇評を書いたり、また逆に他人の書かれた批評を読んだりしてい

るのである。最初から既に意味から解脱した存在に私がなっているとしたら、笠原先生の

作品を含めて、何もわざわざ演劇を見るために劇場まで足を運んだりするわけがない(も

ちろん、生き方のシミュレーションとして見ることだけに限定されず、単にエンターテイ

メントとして芝居を楽しむことも、時にはあるが・・・)。世の中には、演劇を見なくて

も、そこそこ幸せに生きている人がいくらでもいる。演劇の作り手の方々には、よく「も

っと演劇ファンを増やさなくては!」という問題意識を持っている方がいらっしゃり、私

も、それについてはとても立派なことだと敬意を表しているのだが、と同時に、では、演

劇に対する熱心なファンである自分と、ここ10年近く生の演劇なんて見たことない、と

いう世の中の多数派の方々とを比較して、どちらが幸せなのか?と考えたとき、演劇を見

なくても自分より幸せそうな人が世の中にはたくさんいるのではないか?というのが正直

な実感としてあるわけで、そういう人に演劇を勧めることは、逆に大きなお世話ではない

のか?という思いもまた、私の中にはあるのだ。つまり、既に意味から解脱した人間にと

っては、「人生に生きていく意味はあるのか?」という問題意識を持つ必要はないため、

そのシミュレーションとして演劇や映画を見たりする必然性はない。私は、まだその域ま

で達した人間ではないため、熱心に演劇を見、その劇評を書く「意味的存在」なのだ。こ

の問題意識については、福島の劇団・鳥王の「楽園ダンス」という作品の劇評を書いたと

きにも詳細に論じているので、そちらも是非ともご参照されたい。

 それに関連して言うなら、笠原先生がその下で述べている「人間は意味無しで生きられ

るわけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーシ

ョンの手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。」という御意見について

も、「全くその通りだ。だからどうした。」と答えるしかない。しかし、私が上で引き合

いに出したニーチェの言葉は、「意味にすがる」という言い方をしている。「意味」を「手

段」として、必要かくべからざるものとして認識することと、「すがる=(例えば酒や麻

薬に対するように)依存する」ということは質的に異なることだ。例えば、人間と他の動

物との違いで「火」を使うというものがある。あるいは、「電気」でもいいが、これらは

文明人たる人間が生活していく上で、必要欠くべからざるものであろう。しかし、人間は

「人生に意味が見いだせないから、自殺する」ということを遺書に書いても、「人生に火

(または電気)が見いだせないから、自殺する」などという遺書を書くものだろうか?(シ

ュールなアングラ劇なら、そういう遺書を書く奴が、あるいは出てくるかもしれんが・・

・)そういう点から考えると、今回笠原先生が例示した文章は、「意味」という言葉が持

ついくつかの文意の中から、太田が使用している用法と、あえて違う内容の用法を用いる

ことによって、(本人が意図したことではないかもしれないが)結果的に論理のすり替え

をしていることになるのではないのか?

 念のため、自宅にある「新明解国語辞典」をひいてみた。意味には1として「その時そ

の文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか・用法。」とある。これこそが、

今回笠原先生が説明するとことの「意味」であろう。しかし、その後に2,3,4として

こう続く。2「その人が何かをしたときの動機・意図。」3「意義」4「趣旨」と。太田

が今回使った「意味」の内容としては、1よりもむしろ3が適切なものであることは、明

らかではないのか?さらにいうなら、「意義」を同じ辞書でひくと、1「そのものでなけ

れば・果たす(担う)ことのできないという意味での、存在理由」とある(2は略す)。

まさに太田は、この内容で「意味」という言葉をこの間使用してきたのである。

 そして、笠原先生はこう続ける。「テーマは前述した通り『実感のなさ』である。」と。

ところで、先に例示したニーチェによれば、「意味」にすがらないために必要とされるも

のは「強度」だという。私は、この「強度」と、笠原先生のいう「実感」というものを、

言葉としては違うが、中身としてはほぼ同じことを言っていると考える。その意味で、私

は今回の笠原先生のテーマ説明・問題意識には大いに共感したのである。しかし、皮肉に

も、その「共感」は、笠原先生のお芝居を見た感想として出てきたものではなく、今回の

笠原先生の文章を読んだことによって出てきたものである、ということは、是非とも留意

していただきたいところである。

 では、なぜ、文章では共感できたものが、芝居では共感できなかったのか?これについ

ては続けて述べたいところではあるが、またまた文章が長くなってきたので、また改めて

書かせていただくこととする(一気に長文を書くのは、読み手も大変だろうが、書き手も

疲れてくるのだ)。というわけで、今日はここまで!

 

[2000年12月6日 22時16分11秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

>小山先生

本音での書き込み、ありがとうございます。

ただ、

>劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので

私はそんなことはいっておりません。むしろ、逆に笠原先生に再反論されることを要請してい

ます。

また、

>高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います

とか、

>無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ

という御意見は、むしろ逆に、

「だから観客側は物を言うな」

と、とられても仕方のない言い方ですよ?

「無神経」とおっしゃるなら、その根拠を示して欲しい、だから議論をしよう、と私はこの間

ずっと申し上げているのです。

 

[2000年12月2日 0時45分25秒]

 

 

お名前: こやま   

 

太田さんに、ひとつだけ、ムリかもしれないけど、おつたえしたいのは、私たちは生きた生徒をかかえていて、

生徒と一緒に演劇活動をすることを無常の楽しみとしているのです。

生徒がいやかるものをつくれるはずがありません。

生徒の喜ぶ姿が私どもの無上のたのしみなのです。

だらかこそ、こんなに苦労しても、生徒に付き合って行こうとしているのです。

高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います。

劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので、

2度とここにはかきこまないし、読むことも止めますが、

私どもの弱みは、今生きて色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに

動いている生徒とともにに生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ。

高校演劇集会所の管理人というよびなで、だいぶ書かれているようなので、本音で書きました。

 

[2000年12月1日 22時56分30秒]

 

 

お名前: MOGURA   

 

県大会で見せていただきました。あれほどの演技力で3位であったとは納得いかない点もある

かと思います。ここ2年位演技力などが評価のウエイトとして軽視されすぎていることに私も

若干疑問を覚えてはいます。また、面白くなくてはという面からも、観客の受けも良かったし

生徒審査員の評価を得ていたことからも問題ないように思えます。特に役者同士の科白のやり

とりは大変面白く笑わせてもらいました。地区大会では審査員の先生から大人には共感できる

という評価だったそうですが、今回はむしろ高校生の審査員に評価され、大人には評価されな

かった。この理由について私なりにこの芝居を観た感想を述べながら、書かせていただきます。

 率直に言って、カサハラさんが述べているような17歳の高校生という像を描けていたかと

いうと、作者の全くの勘違いの面が隠せないと思います。現在の子ども達は実はカサハラさん

が思っているほど大人や社会に期待なんかしていない。言葉なんか嘘ばかりだと気付いている。

大人の言うことはすべて建前ばかりで、言葉になんか真実はないと感じていると思うのです。

 ですから、空虚感なんてものを意識しているんでしょうか。空虚感ていうのは、大人や社会

に期待している部分があるからむなしくなるのですよね。大部分の高校生はすっかりとあきら

めている。演劇部で活動しようなんていう高校生の感覚は実は本当に少数派であることをしっ

かり受け止めて書いているのかなと思うのです。唄だって、やりきれないから、叫ぶとすっと

するから、自分の存在を認めて欲しいからといった理由などで唄いたいのでしょう。

そこに意味なんかやはり求めちゃいないと思うのです。でもそれは今も昔も一緒じゃないです

か。例えば僕は井上陽水の「傘がない」という唄が好きなんですが、あれを安保闘争が終わっ

た後の若者のうんぬんなんて言った人がいたけど、ただ唄いたいからでしょ。社会に対するメ

ッセージなんてあの当時も大人が勝手に解釈したことだと思うんです。自分の気持ちを吐き出

したいから唄ったにすぎないんだと思うのです。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

と陽水が唄うとき僕らはその唄の意味に感動したのでしょうか。メッセージに感動したのでし

ょうか。違うと思います。恋をしたことのある僕らが、「今自分の周りに起こっていること、

自分がしなくちゃいけないこと、そんなことはどうでも良くて、ただ君に会いたい」

そういう純粋な真実の叫びに共感したに過ぎないのではないでしょうか。

 だとしたら、現在の若者と昔の若者はどう違うのでしょうか。カサハラさんと同世代の僕は

大差ないと考えています。昔の若者が社会や大人に何かを伝えたくて唄を唄ったのでしょうか。

そういうサークルも確かに存在しましたが少数派でしょう。今と大差ないのではと思います。

僕らの時代だって、何でも真面目に深刻に議論しようとした人間を「根暗」として多数派は排

除しようとしていたではありませんか。僕はどちらかというと排除された方だからよく覚えて

います。昔を振り返ってそれを解釈するのはよいのですが、それを今の高校生に信じ込ませよ

うとするのは間違った歴史を教えるのと同じだと思います。この芝居の昔の解釈は当時の世の

中全体を象徴するものではなかったと思うのです。カサハラさんにはそう見えたかもしれませ

んが、少なくとも僕はそう思っていません。ですから、今回は大人の世代も共感し得なかった

のではないでしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 2時9分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回の私の劇評に対し、作者の笠原先生より「責める」内容の反論をいただいた。

 私に非があるとするならば、私が笠原先生に謝罪するのは至極当然のことである。ただ

し、この「劇評バトル」という欄は、今までおこった数々の議論の結果として、「論には

論で返す」ということをルール・原則とするに至っている。太田に非があるという理由を

笠原先生が論として提示し、それが私にとって納得のいくものであれば、私は非を認めよ

う。逆に納得のいかないものであれば、私は笠原先生の「責め」を、理不尽なものとして

退けるしかない。では、今回の笠原先生の反論は、私にとって納得のいくものであったか

を、これから検証させていただくとする。

 今回、笠原先生は私の文章を責める理由として、「非礼」という言葉を使われている。

その根拠として、私が使った「遺跡云々」という比喩について、「インチキ呼ばわり」と

指摘しているわけだ。

 この御意見に対して、私は次のように反論する。そもそも「劇評」とは、他人の作った

作品に対し、「善し悪し」を論ずる行為である。「善し」はともかくとして、他人の創造

物に対して、「悪し=よくない」とネガティブな評価を下す行為とは、一般的な社会常識

から考えれば、全て「非礼」に該当するものである。つまり、批評という行為は、その対

象に対してネガティブな評価を下すときには、常に「非礼」である宿命を持つものなので

ある。だから、今回の笠原先生に限らず、ネガティブな批評を下された劇団側が批評を書

く者に対して、「非礼」を理由に「責め」ることを行い始めれば、全ての批評を書くもの

は謝罪しなければならなくなる。これは批評の否定であり、私としては理不尽なものとと

らえざるを得ない。

 もちろん、ここで笠原先生は「非礼」でないネガティブな批評と、「非礼」に該当する

ネガティブな批評の2つが存在する、と反論されることだろう。では、先回りして聞くが、

その「非礼」に該当する、しないの境界線はいったいどこにあるというのだろうか?

 上記に書いたとおり、笠原先生は私の文章を「インチキ呼ばわり」と見なしている。つ

まり、笠原先生にとっては、同じネガティブな劇評でも、「インチキ呼ばわり」する劇評

が「非礼」に該当する、という境界線をもたれている、ということだろう。しかし、私が

「遺跡云々」という比喩を呈示したのは、(厳密にいうと私は「インチキ」という言葉を

用いてはいないが、文章のニュアンスとしてインチキとみなしているように感じられる、

ということであれば、あえてそれは否定しない)私が本作品を見て、それこそ「実感」と

して持ったからこそ、使ったのである。

 「最近の話題をひょいと捕まえて」と先生はおっしゃるので、では、最近の話題ではな

い古典的な寓話で説明しよう(そもそも同じ比喩を用いるのなら、読者にわかりやすいよ

うに、「最近の話題」を使うのはレトリックの範疇ではないのか?「最近の話題」だから

「非礼」であり、「古典的寓話」を使えば「非礼」ではないと、もし笠原先生が考えてい

らっしゃるとするなら、その根拠はいったいどこにあるというのだろう?)。

 「裸の王様」という有名な童話がある。読者の皆さんもよくご存知のことだろうが、本

当は存在しない服を着た王様を見た子どもが、「あの王様は裸だ!」と言う、例の話であ

る。「王様は服を着ている」と主張する人達にとって、この子どもの発言は、まさに「イ

ンチキ呼ばわり」に匹敵する行為である。しかし、この「王様は裸だ!」と主張する行為

こそ、まさに批評の持つ重要な役割の一つではないだろうか?

 ただし、ここで留意しなければならない点が一つある。つまり、「裸の王様」において

は、本当に王様は裸だった、という唯一の事実が存在する。遺跡捏造問題にしても、遺跡

を捏造した、という事実は1つである。しかし、演劇(に限らず、あらゆる芸術作品にい

えることだが)という作品に関しては、事実は1つのみ存在するとは限らない。1人1人

の受け手が、1つの作品に対して異なる感想を持つということは、演劇においてはむしろ

自然なことである。だからこそ、「解釈」という概念は存在するのであり、1人1人が違

う劇評を持つことを前提として、劇評「バトル」は可能になるのである。つまり、太田が

本作を見て、遺跡捏造問題に例えて、「インチキ」だと考えるのも、太田という人間の内

面においては真実であり、逆に、笠原先生の内面において、「捏造はなかった!」という

真実が存在しても、2つの真実はそれぞれ各人にとって偽りのない真実であり、お互い矛

盾するものではないのである。

 せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。ただ、最後に笠原先生が「よその軒先を借

りて云々」と書いていらっしゃるが、それをいうなら、私も当フォーラムの非会員である。

フォーラムの会員・非会員にかかわらず、広く劇評を募集するのが、当ホームページの趣

旨と私はうかがっているので、こうして大量の劇評を書き込んでいるのある。従って、笠

原先生も、今回の私の文章に納得がいかなければ、さらなる反論をぜひともお寄せいただ

きたい。遠慮されることで、せっかくの議論が尻すぼみになるのはもったいないことであ

る。笠原先生が再反論をされることで、この場が活性化されるのであれば、それはむしろ

管理人さんを含めた、当HP読者にとっても望ましい展開であるだろうから。 

 

[2000年11月29日 19時26分32秒]

 

 

お名前: arasikiller   

 

質問があります。

 

1どうしてアンケートに書かれると許せて公の場に感想が載るとまずいのでしょうか?

 作品に自信があるのならいちいち言葉で反論するのはどうかと思いますけど?

 あなたの理屈で言えば誉める内容も当然公の場に載るのもまずいんでしょう?

 

カサハラさん答えて下さい。

 

2どうしてここの掲示板は「観客が抱いた感想」に対して作り手が反論をするのでしょう

 か?変だと思いますけど。最近は観客を罵倒する文章も見かけましたよ。

 

管理人さん答え下さい。

 

 

[2000年11月29日 15時6分41秒]

 

 

お名前: カサハラ アキラ   

 

こういうものに慣れていないので、あまりにも読みにくい形で書き込んでしまいました。

削除の仕方もわかりません。重複してしまいますが再度書き込みます。

 

 この発言がアンケート用紙に書いてあるのならまあ問題ない。しかし、不特定多数の人間が

目にするこのような場で「まるで遺跡があるように…云々」などと書かれては無関心ではいら

れない。もっと慎重に言葉を選ぶべきではないのか?自分の文章を飾るためだけに最近の話題

をひょいと捕まえて他人をインチキ呼ばわりするとはどういうつもりなのか?言葉というもの

を意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのかな?その言葉が相手にどう響く

かも想像できない「実感のなさ」こそ、この芝居の伝えたかったことである。

 ここにあえて書き込みをするのは、あなたの発言の非礼を責めるだけの目的であったが、つ

いでと言ってはなんだが作者として言いたいことは言っておこうと思う。

 まず芝居以前の問題として「意味」ということについてだが、人間は意味無しで生きられる

わけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーションの

手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。本能が壊れてしまっている人間は他

の動物のように現実と直接関わることができない。そこですべての物に意味づけをして意味に

よる仮想現実を作り上げた。バーチャルなどと騒いでいるが人間はもともとバーチャルな世界

に生きているからこそ、ゲームを本当の現実のように感じることができるのだ。つまり、恋愛

という言葉を知らない限り恋愛が出来ないのが人間だ。という基本的な認識をここで確認して

おきたい。

 さて芝居の話だが、伝えようとしたことが伝わらないのは本が悪いわけでこれは反省をしな

ければならない。芝居を解説することほどつまらなくばかげたことはないと思う。私は芝居を

よく絵画にたとえるが、キャンバスをどんな方法にせよ鑑賞者を惹きつけるものにすることが

絵画であると思っている。絵画のわきに立って「これはこういうことを描いた作品です」と解

説する画家がいるだろうか。それをすることはたいへん恥ずかしいことなのだがあえて解説し

てみよう。

 下敷きはユングである。(蛇足だが昨年の芝居はフロイトだ。バットなどと恥ずかしいくら

い分かりやすいものを出してしまった)ユングがアーキタイプ(元型)と呼んだ概念であるグ

レートマザー・アニマ・アニムス・シャドーというものを芝居の中で具現化していこうという

のが最初の発想である。(シャドーの話は文化祭版にはあったのだが、展開がもたつくのでカ

ットしてしまった)伝説・神話の解釈というのもユングの仕事である。トリックスターのうま

くいった最高のものが所謂ヒーローだということで「ウルトラマン」というモチーフを思いつ

き、そういえば「ウルトラの母」というのがいたなあということで芝居の筋立てが出来上がっ

た。

 テーマは前述した通り「実感のなさ」である。意味による仮想現実の仮想の部分がいよいよ

露呈しはじめ、最後の砦である「肉体」「実感」さえも失われようとしている現代の問題点を、

よりその問題がはっきりと表れている若者を中心に描こうとした。17歳問題を真っ正面から

扱う芝居が来年あたりは出てきて欲しいというようなことを審査員の一人が言っていたが、こ

の芝居はそれを扱っていなかったのだろうか?それとも真っ正面ではなかったのだろうか?分

かりやすすぎるほどストレートに書いたつもりなのに伝わらないのはこれもまた書き手の技量

のなさである。

 意味で溺れかけている現実はきれいに塗り直された商店街、形だけは女の格好をしている

「女」に象徴されている。しかし子供を産むという実感があって初めて女ということがわかる

と気づいている女。だから彼女はこうも言う。「缶コーヒーって好き。舌に残る感じがいいの

よね。」と。自分が自分でなくなっていく感覚から脱出するために女に転身したからこそ、自

分の肉体を実感し、実感のなさに気づき始めている。肉体の実感ということについては地区大

会版では占い師の台詞でオーム事件の分析がされていた。オーム信者たちは修行の中で初めて

自分の肉体を実感したのだと。それは奇跡とよべるほど遠く離れた存在になってしまっている

ということが。(これもあまりにメッセージ色が強く、会話の流れを悪くするのでカットした

が)

 それに対してまだそれほど実感が失われていなかった時代の人間として「男」は登場する。

当時の歌が強く人の心に響いたのはまだ言葉に実感があったからだ。言葉は肉声であり、実感

を伝えるものだった。

 失われた実感を取り戻すために、麻痺してしまった五感を取り戻すために、彼らは深夜の街

で自分の声を聞いているのではないか?生まれて初めて聞いたであろう母親が自分を呼ぶ声に

耳を傾けてみよう。胎内にいる子供に母親の言葉の意味は届いたのだろうか。ただ子供のこと

を思う気持ちだけが伝わったのではないだろうか。少年は「意味内容のあるメッセージソング」

を見つけたわけではない。自分にとって大切なものが「実感」であると気づいただけだ。だい

たいラストの歌が「意味あるメッセージソング」だっただろうか?

 「もうずっと長い間面白い映画を見ていない。もうずっと長い間新しい歌を聞いていない。

空はあんなに明るいけれど日差しは石のように冷たい。もうずっと長い間本当に歌いたいと思

ったことがない。」という歌詞なのだが…。

 トリックスターの役割をヒーローが担っていた時代が終わり、マイナスのヒーローとしての

17歳の事件がある。実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦め

て生きるのではなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということ

を知らせ伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。男の歌はその決意

表明であり、その歌に集まる人々は作者のかすかな希望である。現実はそんな希望などかき消

されてしまうほどの悲惨な状況ではあるが、その希望さえなくしてしまってはもう人間の生き

る術はないのではないか?

 というわけで私がこの発言について納得できないのは、以上の理由からなのである。 

 

最後に、よその軒先を借りてこのように長々と言いたいことを言ってしまったことをお詫び

します。

 

 

[2000年11月29日 1時54分5秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 「高校演劇掲示板閉鎖についての私的見解」で問題となったある男子校というのが、わ

かる人は既にわかられていたとは思うが、今回取り上げる仙台三高の「ウルトラマンの母」

である。「高校演劇集会所」で本作について簡単な劇評を書いたのは、「私的見解」で述

べたとおりであるが、こちらの「劇評バトル」では本作についての劇評は書かずにいたの

で、どういう作品だったのかわからない方も多いと思う。「高校演劇集会所」の掲示板は、

先日復活したが、問題の議論した部分に関しては削除されていた。そこで、コンクールの

県大会も終了し一週間を経過した現在、ある程度ほとぼりも冷め、いわゆる『審査への先

入観』を心配する必要もなくなったところで、改めて本作についての私の見解を明確にし

ておこうと思う。なぜなら、「もう終わったことだから」と、なあなあにしてしまうのは、

「臭い物に蓋」的でかえって後味が悪くなると、私には思われるからだ。

 さて、本論に入る前に、一つ指摘しておきたいことがある。それは、地区大会と県大会

において、本作のレベルが明らかにアップしていたことだ。地区大会においては、役者個

々のセリフに棒読み的なところが多く、その感情のこもらないように見える演技に正直い

ってだれた部分が多く感じられたのだが、県大会では役者の、本当に自分自身の言葉とし

てそのセリフをしゃべっているように見える演技によって、本作の持つドラマ性が浮かび

上がり、最後まで緊張感を持ち、飽きさせない展開となっていたことは、高く評価したい。

本作が優秀賞を取るに至ったことは、(好き嫌いを別にして)彼らの演技を見れば、ある

程度納得がいくものであった。どうも、ある作品を批判的に取り上げると、「坊主憎けり

ゃ袈裟まで憎い」的に、すべてにわたって批判的な評価を持っていると誤解されることが

多いが、当然そんなことがあるはずはなく、1時間という長さにわたる一つの作品の中に、

よいと思える部分とよくないと思える部分が同居することは、いくらでもあり得ることな

のだ。

 では、県大会における役者の上達によって、私の本作に対する評価が180度変わった

か?といえば、残念ながらそうではない。なぜなら、「私的見解」にも書いたとおり、本

作に私が共感できない部分が、この作品のテーマに対するものであったのだから。例えば、

世の中には漱石の小説が嫌いだという人もいれば、モーツアルトの音楽が嫌いだという人

も存在する。ある作品が、「名作」と世間一般で呼ばれるものだから、すべての人がその

作品に感動するという考え方は、むしろ人間一人一人が違う感性・違う価値観・違う問題

意識を持っている以上、不自然なものであろう。それでは、なぜ私は本作に共感できなか

ったのか?

 この物語の主人公は、俗にいうストリート・ミュージシャンの少年である。ところが、

彼は歌いたい歌が見つからない。そんな彼が、歌いたい歌を見つけるまでを描いたのが本

作の主なストーリーなのである。

 この「歌いたい歌」を、私は「意味」と解釈した。つまり、「集会所」の掲示板にも書

いたが、ニーチェのいう「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送

れないから、意味にすがるのだ」という言葉に、まさに本作の少年の悩みは該当するよう

に思われたのだ。ところが「集会所」の管理人さんは、少年の悩みは「意味」などと限定

されたものではない空虚感だ、と反論されたわけである。

 しかし、本作で少年が作ろうとして、なかなか作れなかった「歌」とは、果たしてどう

いった内容の歌だったのだろうか?もう一人の少年ともいうべき心証を持つ、酔っぱらい

の男(実は昔、シンガーだった人物)は、こんなセリフを言う。「(昔は)社会に対して

言うべきことを歌にしていた。(しかし今は)恋を歌うようになった。」つまり、少年の

作るべき歌は(意味のない)ラブ・ソングではなく、「社会に対する」メッセージである

べきだと、この酔っぱらいのセリフは示しているといえないか?では、メッセージとは何

か?社会に向けて、「自分の価値観」という「意味ある言葉」を訴える行為を、俗にメッ

セージというのではないのか?「意味のないメッセージ」など、「白い黒猫」と同じくら

い、矛盾した表現だろう。

 もう一点。主人公がひょんな流れで、顔なじみのオカマと酔っぱらいを人質に立てこも

るシーンが劇中出てくる。犯人である主人公の要求は、最初「何もありません」というも

のであった。これに対して酔っぱらいが「お前がここに来てるのは、意味あってのことな

んだろう」と説教するのだが、ここでの「犯人の要求文」と、少年が作ろうとしている「歌」

は、共に社会に対するメッセージとしてシンクロしているものだろう。だとしたら、少年

の要求文に意味がないことに対して、「意味あってのことなんだろう」と酔っぱらいが説

教するのは、やはり少年の空虚感を埋めるには「意味」が必要だと考えているからではな

いか、とはいえまいか?

 なぜ、私がここまで「意味」にこだわるか?それは、私も少年と同様、空虚感を実感と

して持つ人間だからである。だからこそ、その処方箋に対して切実なものを持って本作を

見ていたのである。だからこそ、酔っぱらいのおじさんに代表される、昔は「反体制」と

いう意味があったが、今はそんなものがない、という現状認識にも同意する。問題は、今

の世の中に「意味」というものが存在しないことに対して、もともと存在しない「意味」

を捏造しようと作者は考えているのではないか?というのが私の本作に対する不満なので

ある。むしろ、「意味」などこの世の中には存在しない、ということを前提条件として、

では、どのようにして「良き生」を送ればいいのか?を考えることが、より現実的な選択

ではないか?というのが私の現在の問題意識であり、そのような考えを持つ私から見れば、

酔っぱらいが「意味あるメッセージソング」を歌うことによって、多くの観客が集まって

くるという本作のラストシーンには、まるで遺跡がないから自分で埋めて、さもそこに遺

跡があるように見せかけるような嘘臭さを感じずにはいられなかったのである。

 「自分のやっていることに意味はあるのか?」と悩む高学歴の科学者に対して、「いや、

お前のやっていることに意味はある。お前のその技術力で社会変革はできる」と、信者を

増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こしたことは、未だ記憶に新しい。高度成長の時

代と違って、目標を持てば今日より明日がよりよく進歩する、という時代は終わってしま

ったのだ。社会が悪い!とメッセージを訴えようにも、現に社会は豊かになっており、反

体制を訴えるべき理由がなくなってしまった時代なのだ。もはや、潔く「意味」を追い求

めることを断念し、意味がなくても幸せに生きられる手段を探すべき時代に来ているので

はないか?私が本作に共感できないのは、以上の理由からなのである。 

 

 

[2000年11月28日 0時50分13秒]

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宮城学院女子大学演劇部「If It’s」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここ2,3年の僕の年末の最大の楽しみは、宮学の12月公演を見ることである。今年

もついに、恒例のその日がやってきたのだが、相変わらずのほのぼのとした楽しい雰囲気

のお芝居で、最後まで飽きずに見させていただいたのであった。

 先の宮教の公演と同様、おそらく本公演も、見る人が見れば厳しい指摘をしたくなると

ころがたくさんあるのだろう、とは思う。しかし、そのような問題点を超えて、なおかつ

観客である僕に「楽しい!」と、ハッピーな気持ちにさせるものをこの大学の演劇部は間

違いなく持っている。では、それが何なのか?これについて、僕はこれから書こうと思う。

それは、僕の演劇を見る上での問題意識が、「いろいろアラがあっても、なおかつこの作

品を僕が面白いと思ってしまうのはなぜか?」という部分に大きく向いているからなので

ある。

 本作の主人公、菜月は画家志望の女の子である。大学を出て3年目の現在、彼女は絵に

対してスランプに陥っており、「自分から絵がなくなってしまったら、いったい何が残る

のだろう?」という悩みに苦しんでいる。そんな彼女と、大学時代からの友人であるフリ

ーターの牧乃、OLの香恵の3人が、街で出会ったある不思議な少年の超能力(?)によ

って、別の次元の世界に連れて行かれてしまう。そこは、何も存在せず、何もしなくてよ

い世界であり、その少年は菜月に「君がここにいたいと望んだから、ここに君たちを連れ

てきたんだよ」と話す。

 実は、その少年は菜月の中のネガティヴな心が作り出した、もう一人の菜月ともいえる

存在で、事実、菜月は絵に対してスランプに陥っている自分の状況を親友の香恵に話した

後、「このまま、なにもしたくない」という本音を吐露する。

 しかし、「何も存在しない・何もしなくていい」という世界は、いってみれば「死の世

界」を暗喩したものといえよう。精神的に参っているとき、人はおうおうに「自殺したい」

という思いを抱いてしまうものである。しかし、現実に死ぬことはやはりイヤだ、という

気持ちも矛盾ではあるが同時に持ち合わせているからこそ、多くの人は自殺しないで生き

続けているわけで、菜月も、一時は「ここにずっといてもいい」と思いながらも、やはり

元の世界へ戻ろう、と思い直し、もう一人の自分である少年と戦う決意をする。

 そんな菜月を助け、少年との戦いに助太刀をする不思議な少女が登場する。実は、その

少女は、以前菜月が飼っていた猫・アリスの霊なのである(だから、やはりこの世界は死

後の世界を象徴しているのだろう)。アリスや親友たちの助けにより、菜月はついに、元

の世界への帰還に成功する。

 つまり、本作は今年の高校演劇コンクールでの、白百合の「HAPPY BIRTHD

AY」と同じテーマを持つ作品なのである。現実世界は、自分にとっていいことばかりが

続くわけではない。むしろ、イヤなことの方が多いくらいだ。だから、「この世」ではな

い「幻想の世界」、あるいは「あの世」にいってしまいたい衝動に人は駆られてしまうこ

とが多い。しかし、それでもなおかつ「あの世」に行かず、「この世」に居残ろうという

気持ちにさせるのは、自分を「絵の才能」などといった限定したものによってのみ必要と

しているわけではない、全的存在を受け入れてくれる親友(あるいは飼い猫)という「居

場所」なのだ、というのが本作のテーマなのだろう。

 しかし、と私は考える。もし、そのような自分を受け入れてくれる存在がいない人間は

どうすればいいだろう?たぶん、そのような人間にとって必要なのが、「あの世」ではな

い「幻想の世界」なのである。つまり、今回の「宮学の演劇」、という存在自体が、実は

観客の僕にとっては、公演が終了すれば戻ってこれて、「あの世」ではないが「居場所」

として機能してくれる「幻想の存在」、しかもかなり居心地のいいそれだったのだ。

 宮学の芝居を見ていていつも感じるのは、何か舞台からパステルカラー、とでも形容し

たくなるような、明るく、穏やかな雰囲気だ。それは、たぶん僕がこの秋にコンクールで

見てきた、一部の女子高演劇部にも通じることなのだろうが、おそらく普段から、和気藹

々と楽しんで稽古をしているんだろうな、という感じが伝わってきて、それが見ているこ

ちら側も感応させ、なごんだ気分にさせてくれるのだと思う。

 確かに厳しい稽古をしてせっぱ詰まった状態に自分を持っていくことで、素晴らしい演

技を役者がする、ということはたくさんあるだろうし、事実そういう役者さんによって、

感動させてくれた作品だって僕も今まで何度も見てきたので、一概にこういう芝居がいい、

こういう芝居はダメ、と短絡的に結論などつけるつもりはない。しかし、和気藹々と楽し

んで稽古をしている感じが、ほのぼのと伝わってくる芝居というのも、その手の「居場所」

を求める観客にとっては、また得難い魅力であることも、また事実なのだ(もしかしたら、

彼女たちはかなり厳しい稽古をしているのかもしれないので、あまり勘違いしたことを書

くと失礼に値するかもしれない。でも、公演パンフに書いてあった「面白NG特集」を読

むと、あまりそういう感じがしないんだよネ。でも、僕にとっては、だから好き、という

面の方が強いんだけど)。

 個々の役者さんについて。主人公の親友のフリーター役で出てきた、手塚優子さんが面

白かった。大学出て3年もフリーターをやっているという設定からもわかるとおり、「明

日は明日の風が吹く」的なお気楽な性格であり、そういう「明るく元気がいいけど、ちょ

っとマヌケ」という見る者を楽しませる三の線の役作りが、ピッタリはまっていた。彼女、

去年の「センチメンタル〜」でもシローという少年の役だったが、元気のいい役が似合う

タイプなのだ。今回は特に、趣味で覚えたという催眠術を、もう一人の親友・香恵にかけ

る場面が、とても大仰かつコミカルでおかしかった(あと、ウィーンのダジャレ!)。た

だ、去年の演技に比べると、他の役者さんが静かな演技が多いのにひきずられたのか、や

や小振りになっていたようなところがちょっと残念だったが・・・。折り込みチラシに入

っていた来年3月の「学都出陣」の参加メンバーに、彼女の名前も入っていたので、今ま

で宮学の役者さんは1年に1回しか見られなかったのが不満だったが、もし3月もキャス

トで出てくれるというのであれば、今からとても楽しみである。

 それと、「幻想の世界」でボランティア活動をしている女性が、突然、ドラクエをより

面白くするには井戸から貞子を出せばいい、という話をするシーンがあるのだが、こうい

う突然関係ない話を、しかもいかにも幽霊がしゃべるように(ど〜ら〜く〜え〜は、い〜

ど〜か〜ら〜さ〜だ〜こ〜を)折り込むところが、あまりにもナンセンスで、おかしくて

仕方がなかった。ボランティアの女性は2人出ていて、どちらがこの役を演じた人なのか

よくわからないのだが(成沢綾さんの方?)、今年始めてみた顔なので、来年以降もキャ

ストでの出演を期待したい。

 そういえば、宮学の公演は、いつも3〜4人しかキャストが出てこないパターンがここ

数年続いていたのだが、今年は一挙に8人も出演していたので、少々ビックリしてしまっ

た。宮学は毎年12月と、一年に一回しか公演をしないので少々寂しく思っていたのだが、

せっかくキャストも増えたことだし、来年あたりは年2回、なんとかチャレンジしていた

だけないものだろうか?期待してますので、ぜひ、検討してみてください。 

 

[2000年12月16日 1時6分16秒]

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青葉玩具店「演宙遊戯」 

お名前: うにくりーむころっけ   

 

おもしろかったです。終わった後、あんなにじーんとした気持ちになった演劇を見たのは、

久しぶりでした。照明と音響のすばらしさと、舞台の美しさがとても印象に残りました。

何より、役者さんたちが本当に楽しそうに演じているのが、良かったと思います。

客席の上のほうに、とてもきれいなランプ(灯篭のような。)が飾ってあったりして、

観に来るお客さんのことを本当に大切に考えてくれているのだなあ、と思いました。

青葉玩具店の公演は今回で3回観ましたが、私は今回のものが一番楽しめました。

でも全ての作品に笑いと感動が込められていて、私はここの演劇が大好きです。

 

次も必ず観にいきたいと思います。

 

 

[2000年12月19日 22時45分22秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

青葉玩具店の芝居の観劇は3度目となる。

私にとっては、今回の「演宙遊戯」も期待を裏切らない素晴らしい芝居だった。

いつものストーリー展開の分かりやすさに加え、役者の身体能力の高さをよく生かした芝居

だったと思う。

 

青葉玩具店の芝居の良いところは、何も考えずに観ていられるところかもしれない。

映画を見に行くように芝居を見に行く人はまだ少ない。

芸術性や自分の主張を強調した芝居が一般うけしないのは至極当然のことだろう。

観客が何を求めているかではなく、作り手側の満足を優先させているからだ。

一般大衆の心を掴むのは老若男女誰にでも分かりやすいものではないだろうか。

そういった意味で青葉玩具店の芝居は、仙台で演劇が発展するための大きな役割を果たして

いくのではないかと思う。

 

1人の役者が多くの役を演じ分ける今回の芝居、役者不足ということではなく、役者としての

挑戦や自信といったものからきたものだろう。全体として巧く演じ分けていたと言えると思う。

特に雲雀壱志という役者は、それぞれの役に大きな特徴を持たせることで演じ分けており、

彼によって舞台上に創り出された人物は、どれも好感の持てる人物だった。

それに対し、滝田、不実、松田の3名は役の演じ分けがやや弱いと感じた。

彼らの役者としての成長により、青葉玩具店の芝居がさらに良いものとなることを期待する。

 

次回公演も楽しみだ。

 

 

[2000年12月18日 19時14分43秒]

 

 

お名前: れぽたん   

 

私も正直物足りませんでした。

青葉玩具店さんならもっとやれたんじゃ…。なんて。

なんかお芝居を見たのではなく、

青葉玩具店さんの役者を見に言ったみたいな感じでした。

それはそれで楽しんだんですがね。

私には以前見させて頂いた「life for life」

のような満足感は得られませんでした。

次に期待します。

 

 

[2000年12月18日 1時41分23秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 以前、新月列車の「誰か−STRANGER−」の劇評で、私はこんなことを書いた。

>ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

>少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいて

>い、「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさら

>に・・・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係

>性とか自分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女

>だと女子の方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因

>がある、という意見である。

 新月の「誰か−」が、その少女漫画を原作とした「他者との関係性」をテーマにした作

品だとしたら、今回の青葉玩具店の「演宙遊技」は、まさに少年漫画的・ジャンプ的作品

だったといえよう。

 「世界征服をたくらむマッドな博士と対決し、最後は勝利して世界平和に貢献する。」

身も蓋もなく言ってしまえば、本作のストーリーは今まで幾たびも少年漫画に掲載されて

きたストーリーのデジャ・ブ、焼き直しに過ぎない。もちろん、その手のストーリーがわ

かりやすく、また、善・悪の対立という、ドラマ性を生じさせやすいということから(こ

れは高校演劇コンクール県大会で、石川裕人氏が白女・後藤尚子さんにいった講評そのま

まではないか!)、何回も何回も飽きることなく作られてきたものである、ということは

理解できる。ジャンプが以前のような極端な勢いをなくしたとはいえ、何冊かの少年漫画

誌が商業ベースで成り立っているのは、そういったストーリーを面白がる読者が多数存在

しているからに他ならないからだ。しかし、今の私にはその手のわかりやすいエンタテイ

メントは、もはや物足りなく、嘘臭いものでしかなく、だからわざわざ劇評へ足を運んで

1800円の入場料を払ってまで見たいものではない。200円ちょっとでコンビニで買

えるにもかかわらず、あえて買わないものを、なんでそれ以上の手間暇を書けて見に行か

なければならないのだろう?それよりは、少女漫画に象徴されるような、複雑な人間関係

のシミュレーションゲームを読んでいた方がずっと面白いし、感情移入できる。

 これら作品のテーマは、理想を追求し、秩序を回復するための、正義の物語である。し

かし、私は、先の三高の劇評でも書いたとおり、「正義の味方」や「プラスのヒーロー」

を蘇らせることなど、例えていうなら、そこに存在しない遺跡を捏造するようなもんだ、

という現状認識を私は持っている。そんなわかりやすい「正義」が信じられるのなら、な

にも高校演劇の地方大会を見に行くために若柳や本吉まで足を運ぶような、業の深い酔狂

な真似などするわけがない。だって、私はコンビニでジャンプ読めばそれで今の生活に満

足できる、というタイプの人間ではないのだから。

 もちろん、このような反論をする人がいるかもしれない。「本作ではニセのブルース・

リーは自分がレプリカントである、という悩みを途中から抱え出す。これはアイデンティ

ティ不在という我々の現状をテーマとして扱っているということではないか?」と。しか

し、この悩みが本当に作品のテーマといえるほど掘り下げられていただろうか?結局は、

その悩みが迷いとなることによって、ニセ・ブルースリーは主人公に負けてしまう。つま

り、この悩みは作品のテーマとして作者が取り入れようとしたものというより、敵役が主

人公に負けるための原因を作るために、ご都合主義的に取り入れられたようにしか見えな

いのだ。だって、ニセ・リーはこの悩みを解決するために、自分探しの旅に出たり、引き

こもったりするわけではないんだもの(笑)。

 本作でニセ・リーはマッド博士に対して、「俺は何のために産まれてきたんだ!」と叫

ぶ。でも、「何のために産まれてきたか」なんて、すべての人間にとって「偶然」でしか

ないんだよ。自分の父親と自分の母親が何十億という世界中の男女の仲からであったのも

偶然だし、その良心のたくさんある精子と卵子の中からどれが受精したかも偶然なんだも

の。だから、私は三高の劇評でも書いたとおり、「人生に意味はない。」と考えてるし、「意

味にすがるのは弱者だ。」というニーチェの言葉を引用したのだ。

 また、作品の最後で、実は主人公もマッド博士の作ったクローン人間だった、というオ

チが付くのだが、これも観客を裏切ることによって「あっ!」と言わせるためのサービス

精神以上の強いテーマは感じられなかった。要するに、どっちも「本物」ではないという

オチは、「自分は本物だ」という強い「妄想」を持っていたものの方が、悩んでいる人間

より精神的に強い分、勝負の際は有利、という教訓を、示していることになるといえよう。

しかし、そのような強い「妄想」を持ちようがないのが、何が正しいかわからない今の時

代という現状なわけだし、逆に安易に強い「妄想」を持ってしまうことが危険であること

は、やはり三高の劇評でやはり例として出したした、オウムの一件を見れば明らかだろう。

 最後に念のため申し添えるが、私のここまで書いた劇評は、本作を見て面白かったと思

った人達の感想を否定するものではない。世の中には、同じ作品を見て「面白い」とも「面

白くない」ともとる人間が両方いることは当然のことだ。特に、本作のエンタテイメント

性は、先に述べた少年漫画を面白がる人が一定多数いるように、世の多数派の方々にとっ

て受け入れやすい面白さであることは充分理解できる。私のこの劇評は、あくまで私の内

面にとってどうだったか?と言うことについて書いているので、本作を「絶対的」レベル

で否定するものではない、ということをなにとぞ御理解いただきたい。

 

 

[2000年12月17日 21時40分51秒]

 

 

お名前: 桜井   

 

初めて書きこみします。みなさんよろしくお願いします。

青葉玩具店についてですが、初日見てきました。もう、なんて表現したら良い

のでしょう?彼らの個性的な光る演技はもちろんのこと、開場してからのラジオ番組系

のトークや、次回予告など、相変わらず斬新的な演出に、最初から最後まで、瞬きもせず

釘付けになっていました。

 

永澤真美さんの迫力ある演技力、見事でした。

 

私は芝居を見た事がほとんどありませんでしたが、青葉玩具店をきっかけに、

お芝居の楽しさを味わうことができるようになったと思います。

将来が楽しみな劇団ですね!!

 

 

[2000年12月16日 3時44分41秒]

 

 

お名前: 小泉   

 

 青葉玩具店の演劇は初めて見ました。

 

 自分はあまり演劇を見たことが無いので上手く書けませんが

本当に面白かったと思いました。ストーリーのテンポがよく、

2時間があっというまに感じられました。音楽が大きすぎて

セリフが聞き取りづらかった場面など少しありましたが、

それ以外での場面での役者の方々の声はよく通ってて

とても感情移入しやすかったと思います。

 

 少ない人数で何役もこなしていたにも関わらず、動きなどで

すぐ別な役だと気付けました。特にクローンのブルースリーの弟役の方の

演技が一番印象に残りました。空維の兄の役から弟の役に流れるように

変わった演技が素晴らしかったです。

 

 あまり思ったことを文章に出来なかったですが、本当に面白かったです。

次回作も面白そうなので期待したいと思います。

 

 

[2000年12月15日 23時50分47秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初日を見た、後2日あるのであらすじ等は見てのお楽しみとしたい。

 青葉玩具店は3回目の観劇になるが、その都度満足して返ってきた。

まだ結成2年目の団体とは思えないほどの完成度だ。

徹底したエンターティメント路線で一瞬も飽きさせずに最後まで見せる。

まず俳優ありきで、役者が本当に楽しんで演じているのがわかる。

テーマが何かを感じさせるより、彼らにとっては演劇そのものがテーマであり、

「演劇表現によって何が可能か」ということがテーマになっているようだ。

3回とも違った路線で、今回はSFアクションと言ったらいいのかもしれない。

作演出がその都度違うようで、作演出が違っても面白いのは、確かな技術に支えられているからだ。

舞台美術、音響、照明の技術は仙台屈指と言っていいだろう。

そして体の切れる、個性的な役者達。舞台技術にも、役者にも全く穴が無い。

 今回、役者達は一人何役もこなし、場面も何十という場面で成り立っているのだが、

暗転が2,3回しかなく、場面場面を見事な照明と音響でつないでいる。

舞台も中国の闘技場や城壁をイメージさせ、奥が2階建てになっていてうまく高さを使っている。

演出家が本当に観客のことを考えていて、客席に観客がいるのを感じさせてくれる。

集団としての勢いや、やる気を感じさせて、見た後すぐ誰かを見に誘いたくなるような舞台だった。

仙台のこれからの演劇を変革させてくれるような集団だと思う。

青葉玩具店の舞台は過去、あまり書き込みが無いので観客の皆さん是非感想を聞かせて下さい。

 

 

[2000年12月15日 23時0分10秒]

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宮城教育大学演劇部「ミナモノカガミ」 

お名前: 井伏銀太郎   

 

太田さん早速の書き込みありがとうございました。

面白かったか面白くなかったかと聞かれれば単純に面白かった。

笑わせようとしていて一度も笑えなかった劇団もたくさんあるのと比べると

劇中何度も笑った。

太田さんが推薦していた依子役の照井麻貴子さんが特に面白かったと思う。

 私が特に感じたのは先の文でも書いたけど、過去の物語の素晴らしさです、それだけで

芝居を作ったらいいのではないかと思ったほどだった。三島由紀夫を連想させた。

それに比べると現代の設定や、過去と現在を結びつける必然性が弱かったと思った。

現在の物語は太田さんの言う怪獣ものよりは「スケバン刑事」等のイメージが強いように感じた。

三島とスケバン刑事が混在しているように感じたのです。

 

 私は何度も劇評バトルで書いているとおり、小さいリアルなドラマの積み重ねでしか大きなドラマが

成立しないという考えなので、リアリティ−の基準ということにこだわっているのです。

 私は演劇とは、省略の芸術だと思っています。例えば室内劇においては観客側の壁が第4の壁として

省略されているわけで、時間や空間を省略していって、想像力でその省略部分を補っていくものだと

考えています。

 と言うわけで過去何度も同一空間上の本物とパントマイムの混在に対してリアリティーの基準を

(省略の基準)をどこに設定しているのかと指摘してきたのです。

何の理由もなく小道具を省略してしまっているところがあまりにも多すぎました。

思い起こしてみると、同じテーブルの上でチンチロリンの茶わんとサイコロが本物なのに、賭けている

お金が無対象だったり、本物の料理を食べているのに、飲み物が無対象演技とか、

本物の缶コーヒーを飲んでいるのに瓶ビールが無対象だったり。もっとひどいものになるとお客が

代金を本物のお札で払っているのに店の人のおつりの500円玉が無対象演技だったり。

それをなんの疑問もなく演出家が見逃しているわけです。笑い話のようだけど2,3年前まで仙台の

劇団も平気でいい加減なことをやっていたのです。

 同じ無対象でも、もしもしガシャ〜ンの「フニフニ王国」のクライマックスは素晴らしかったと

思いました。ホモのカップルの一人が自殺を図るのだけれど、台風の効果音とガラスの割れる音、

無対象でガラスを拾って自分の首に突き立てたのだが、音響や役者の集中力によって見えないガラス

が見えてきたのです。

このように演出がしっかり考えて使えばいいのだが、今回の宮教の芝居は意味なく無対象にしているとしか

思えない場面が多々ありました。

そういう技術的なところはすぐ直せるので、次回頑張って欲しいと思いました。

 

[2000年12月14日 1時21分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 井伏さんから僕に対して、井伏さんの劇評に対するコメントを求められましたので、こ

れについて述べさせていただきます。

 今回、井伏さんの御指摘のあった件につきましては、「現在の設定が安易」という部分

で意見が一致した以外は、ほぼ技術的な部分であると思うのですが、以前に「作品論か?

技術論か?」でも書きましたとおり、僕は作り手の立場に立ったことのない人間であり、

観客の視点から演劇を見続けてきた人間です。その意味で、今回井伏さんが指摘された点

につきましては、「なるほど、作り手の人はこういう視点で見ているのか。自分は見落と

していたことがたくさんあるんだなあ。しかし、言われてみれば確かにその通りではある

なあ。」と感心させられた、というのが率直な感想です。

 しかし、あえてこれは強調しておきますが、井伏さんが指摘された問題点について僕が

「全くその通りだ」と同意することが、イコール僕にとってこの作品に対する「面白かっ

た」という肯定的評価を減ずるものではないのです。

 なぜなら、例えば以前にも書きましたが、僕はクラシック音楽のファンでもあり、よく

オーケストラの演奏会を聴きに行きます。それで、プロの演奏家の方のお話を伺ってわか

ったことなのですが、僕のような素人にはわからないミスや事故が、演奏会の中では毎回

けっこうおこっているということなのです。それはきっとプロの方ならわかることだろう

し、そのプロの方がその問題点を指摘することによって、彼らの演奏がより良くなるので

あれば、それは大変けっこうなことだと思います。しかし、そのようなミスがあったこと

が後でわかったからといって、僕がそのコンサートでの演奏に対して大変感動した、とい

う事実は変わるものではないのです。

 技術はないよりあった方がいいでしょう。しかし、人が芸術を見て感動することは、必

ずしも技術的巧拙に限定されるものではない、ということもまた事実ではないでしょう

か?今述べたオーケストラの件で言えば、例えば故カラヤンについて、「表面的にはとて

も完璧な演奏をするが、中身が空虚で、作品から訴えてくるものが何もなかった」という

批評が生前からよくなされていたものでした。僕はカラヤンの演奏をライブで聴いたこと

はありませんが、確かにルーティンワークで弾いてるんじゃないか?と思わせるような外

国の「一流」オーケストラの演奏会には何度か出くわしたことがありましたし、そのオー

ケストラの演奏に比べれば技術的には稚拙であるだろうアマチュア・オーケストラの演奏

会の方に、より感動することも多いのです。

 例えば、今回の井伏さんの御指摘でいうなら、「見えないコップで水を飲んだ」とか「絵

の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出した」といった矛盾点は、僕に

とっては気にならない範囲の矛盾であり、たとえ気がついたとしてもそれによって太田と

いう人間に本作がつまらないものになるほど決定的な性質を持つミスではないから、僕の

劇評では指摘しなかったということです。もちろん、だからといって井伏さんがその件を

劇評で指摘しなくてもいい、ということではありません。井伏さんが指摘することによっ

て、宮教の方々がよりよい芝居を作れるきっかけになるのなら、それは彼らにとっても望

ましいことでしょうから。

 また、「国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか」という点につい

ても、それをいうなら僕が子供の頃に見た「仮面ライダー」のショッカーなんてのは、か

なり間抜けなことをたくさんやっていた悪の組織で、あれはいっぺんに何十体もの怪人を

ライダーにぶつければ、最初からライダーに勝ってたのではないか?とか、あるいはなん

でウルトラマンはスペシウム光線を最後の最後まで使わないんだ?とか、「間抜け」な部

分はたくさんあったわけで、そういう間抜けな部分を集めた「怪獣VOW」なんて本まで

出ているくらいですが、だからといってあれらの作品がつまらなかったか、といえばそん

なことはない。30代、40代までそれら特撮モノをひきずっている連中が「オタク・カ

ルチャー」という一ジャンルを現在築いているのは周知のことでしょう。ウルトラセブン

についての作品批評など読むと、正義対悪という単純な二項対立に限定されない深いテー

マが内包されていることが指摘されており、確かにそういう視点で見ると、子供の頃は「戦

闘シーンが少なくてつまんな〜い!」と思っていた話が、「ゲッ!こんな話、子どもに見

せてわかるのかよ」という大人になった今となって逆に落涙を禁じ得ない話だったりする。

まあ、これは何もこれら昔の作品に限ったことではなく、僕が何かにつけて引き合いに出

すエヴァンゲリオンにしたって、井伏さんのおっしゃる「人物設定の安易さ」と「行動の

いい加減さ」といった矛盾点は結構あちこちに存在し、いわゆる謎本を読むと、それらに

対するツッコミがてんこもりだったりするわけなんですが、だからといってあの作品がブ

ームとなり、多くの人がはまって感動したという事実が消えるものではないわけです。

 小学生の書いた稚拙な絵でも、見る人によっては強い衝撃を受けたり、深い感動をした

りするものです。僕は技術的な巧拙の向こうにある、テーマ的なものに目を凝らしたい、

それが批評の持つ重要な役目であろう、と考えています。もちろん、それが井伏さんの書

かれる技術的批評を否定するものではありません。井伏さんの御指摘によって宮教の人達

がよりよい芝居を次回以降作れるのなら、それはそれでけっこうなことですから。また、

いくら技術的なことはわからない、と言っても、それこそ僕のような素人でもわかるよう

なひどいミス、さっきのオーケストラの例でいえば、明らかにトランペットの音が外れて

いて、それで演奏が台無しになってしまった、という事例については、僕も書くことがあ

るとは思います。ただ、僕としては「ミスはないけど平板な演奏」を、技術的な問題点が

ないから賞揚する、ということは絶対したくありません。どことはいわないけれど、そう

いう内容の芝居をしていて、一部の方々に好評を得ている劇団がありますが、その手の劇

団に比べたら、今回の宮教の方が百倍も千倍も面白い、と僕は思っているのです(もちろ

ん、それだって、あくまで僕の主観なんですけどね)。

 

[2000年12月13日 21時57分40秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 インターネットでの、あらすじにひかれ見に行った。

学内発表会と違い、公演と名打っているからには、一般の劇団と同等に評価してみたい。

俳優の中には何人か可能性を感じさせる人がいたし、脚本的には確かに伝説的な部分で作家の才能を

感じさせたし、過去の場面の布を使った処理も良かったと思う。しかし私は、太田さんや

クール・ドッグ さんとは違い、作/演出に対しては、今の時点では満足出来なかった。

 

 あらすじは太田さんが書いているので、詳しくは述べないが、

過去の物語の設定の素晴らしさに対して、現在の物語が安易すぎる。

物語が、場当たり的で、必然性や、登場人物の動機付け、行動がいい加減すぎる印象を感じた。

過去の物語と現在の物語の接点が、たまたま帰郷して、たまたま神社の倉庫に入った兄弟というのが

効果的だったろうか、そこになんの必然性も感じられない。後半で姉妹の葛藤が兄弟の葛藤に

推移するのだが、太田さんも書いているとおり、初め兄弟になんの葛藤もなく、その場その場で、

作家の都合で設定が変わってきている。物語の進行が「たまたま」で成り立っている。

過去と現在が融合されるならそこに大きな必然性を感じられなければならないと考えるのは私だけ

だろうか?

確かに物語の中のリアリティーなどあまり気にしないで、その場その場を楽しめばいい、と言う

考えもあるだろう。しかし、物語が歴史的で、現在と過去が行ったり来たりするのだから、それを

支える設定にリアリティーが無いとすべてが安易な物語に見えてくる。

 

 キャスト表に警官と書いてあるのだが、どう見ても警備と胸に書かれており、警備員にしか見え

なかった。それを「警察、警察」と言っているものだから、最後までそれがはっきりしなかった、

警官が能面を探す為に一般人になりすましたと言っていたが、警官が一般人の警備員に化けていたと

理解すべきなのだろうか。それなら何故初めに、警官警官と騒いでいたのか全く理解できなかった。

 

人物設定も安易すぎた。

近くの診療所に入院している女と医者が兄弟の幼なじみなのだが、その二人とも国の機関(研究所)

に勤めていたという設定や、能面をかぶった神主が大量殺人にしたという事件(55年の悲劇)

の唯一生き残った神主の妻が、弟が昔バイトした喫茶店の女主人だった言うのだから、歴史的、

国家的出来事が、すべて町内の知り合いの中で起こっているようなのだ。

 

行動のいい加減さも目立った。

能面を探るために何故、近くの診療所に偽装入院する必要があったのかわからなかった、そんな

遠回りなどせずに、直接的に処理すればいいことだろう。

国が必死で隠したとされる、「55年の悲劇」も雑誌の女編集員が簡単に知っていたというのも、

あまりにも安易すぎた、それでは国家機密にならない。神社の倉庫に能面の文献を調べに入った時、

何故カギを締めたのか、そして放火するわけだが、初めから特務機関は4人を殺すつもりだった

のか等。

そして放火後生き残った弟が、すぐに兄達の生存に意識がいかなかった点など。

国の特務機関にしては、行動があまりにも間抜けすぎないか、犯人が診療所の方に逃げたと電話

してきたり、それが分かっているなら自分達で捕まえろとツッコミを入れたくなった。

 

演出について。

俳優達は、ほとんどが棒立ちで、身体感覚を喪失している。特に気になったのが、弟だ。

初めに兄弟が診療所に幼なじみを訪ねた時、医者が「暑い暑い」と言いながら舞台袖から出てくる

のだが、その時ゲンコツを顔の前で、ひらひらさせるのだが、初め意味がわからなかったが、

どうやらウチワの無対象演技らしい。

劇評バトルで何度も指摘しているが、同一空間上で本物と、意味のない無対象演技(パントマイム)

をいまだに何の必然性もなく使用している。

リアルなものと、パントマイムの演技が意味なく混在しているのだ。

特に喫茶店の場面で、それが目立った、はじめ見えない水道で、見えないコップで水を飲んだかと

思うと、本物に見せかけた、絵の具を内側に塗ったコップを、アイスコーヒーと言って出したり。

勝手に電話を使ったと怒られると、お金を払えばいいんでしょと、お金をつまんだパントマイムの

演技をする。

観客がどこにリアリティーの基準を置いていいのかわからない。演出が観客の視線を全く意識して

いないのだ。

何故本物を使わないのか理解できなかった。

 

次ぎに、意見の分かれるところと思うが、かがり火が倒れてやけどを負った姉の演技も気になった、

常に、妹の旦那にやけどを見せているのだが、これは観客に一瞬見せて、後は男に対しては頭巾等で

隠していたほうが、女心が伝わったように思う。

 

 部員のやる気や、作家の才能は感じられた、次の公演も見てみたいと思わせた。

次は、作品のリアリティーの基準や、演出家が観客の視点をもっと意識したほうがいいだろう。

観客は冷静に、しかもしっかりと舞台を見つめているのだから。

 

太田さんは私と同じ時間に見ていたので、私の感じた部分どう感じましたか、良かったら書き込んで下さい。

 

[2000年12月12日 23時53分39秒]

 

 

お名前: クール・ドッグ   

 

面白かった。

まず脚本が良く、感心した。太田さん同様、脚本家の恵まれた才能に敬意を表する。

また、演出もすばらしかった。よく演出がいるはずなのに全く演出効果のない芝居を

観ることがある。しかし、この芝居では、実にいいタイミングで音が入ったり、初め

にスクリーンとして使用していた幕を芝居中巧みに使用するなど、効果が随所に盛り

込まれていた。

私の芝居を観る楽しみは、生の迫力だけではなく、「こうきたか!」と思わせてくれ

る演出効果にある。野田秀樹のような演出家がそうそういるとは思わないが、テレビ

ドラマを観ているような芝居を観た後は、わざわざ時間をかけて足を運んだことが悔

やまれ、どうしようもなく不機嫌になってしまう。

宮城教育大学演劇部のこの芝居、「来てよかった。」と思うことができ、帰りの足取

りも軽かった。宮城教育大学演劇部の皆さんに感謝したい。

毎回面白いのかどうかわからないが、学生演劇は観ないという方々、一度御覧になっ

てみてはどうだろうか。少なくとも今回の芝居は観る価値があったと私は思う。

太田さんによると、冬公演がお薦めらしい。また、チラシによると卒業公演が3月に

あるらしい。期待できるのではないだろうか。

私も時間があれば、また足を運ぼうと思う。

 

[2000年12月11日 18時53分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 2年続けて宮教演劇を夏、冬、夏、冬と見てきて、一つ気づいたことがある。それは、

夏公演の時は柱的存在の4年生が抜け、また新入生がまだ経験不足のためか、役者の技術

的面で少々不満を感じさせる演技がまま見られるが(それでも、宮教ならではの一生懸命

オーラで、それをカバーしてしまうのだが)、冬公演となると、役者の技量もアップして

きて、長編を演じながらも最後まで緊張感を途切れさせず、結果、一般のアマチュア劇団

を凌駕する名演を見せてくれるということだ。今回の「ミナモノカガミ」も2時間20分

の長編であったけれども、やはり最後まで飽きさせない、ドラマティックないい芝居であ

った。しかも、今回は久しぶりのオリジナル脚本である。シバタテツユキさんの作家とし

ての才能に敬意を表したい。

 物語は中世(役者の服装から考えて、平安〜鎌倉あたりか?)の巫女的な舞師(地鎮舞

踊)の家族と、現代のある兄弟をめぐる2つのストーリーが並行する形となっている。代

々舞師の家系を継ぐ家の仲の良い姉妹の前に、ある日、分家の若者が現れる。分家の若者

は男の子がいない本家に養子として入ってもらう予定となっており、実際彼は長女と恋仲

になるのであるが、ある時儀式の最中に篝火が長女の顔にぶつかり、長女は顔に大やけど

をおってしまう。世間体を気にする一家の主は、それでも長女を愛する若者に、「夜は姉

と一緒にいてもいいが、表面的には妹と結婚する形を取ってくれ」と若者に頼み、若者も

渋々それを承諾する。しかし、それが3人の心に深い溝を作り、姉はそのルサンチマンを

面(能面?)を作ることにぶつけていく。姉の負の心がこもったその面は、その後つけた

ものを破滅に導くものとして恐れられていく。

 そして、舞台は現代。お盆で帰省した兄と、それを迎えた弟は、2人でいたずらに神社

(?)に侵入し、偶然その面を見つける。弟が戯れにその面をつけようとしたとき、面は

光と共に弟の顔に吸い込まれてしまう。そして彼は、その面をつけたことによって、長年

に渡って不幸の源であるその面を壊そうとしてきた国の特務機関に追われる身となってし

まう。と、いうのが本作の主なあらすじである。

 秘密の政府系研究所や謎の特務機関が出てくるのは、どうも最近、宮教演劇のお家芸と

なりつつあるようだ(「パーフェクトライブス」しかり、「ウオルター・ミティ」しかり)。

しかし、面をめぐる政府系研究所や村の古老による謎解き、あるいは特務機関との追いつ

追われつの展開。これらドラマティックな要素が物語の中にてんこ盛りで詰まっているの

だから、これが見る者にとってスリリングな展開とならないわけがない。エンタテイメン

トとして、お客さんをどうすれば飽きさせないかを、作者が考え抜いているからこそ、こ

ういうサービス精神いっぱいの脚本が出来るのだろう。その意味で、シバタさんの脚本を

僕は高く評価するのである。

 そして、外面的なエンタテイメントの部分と並び、観客が登場人物の内面に感情移入す

る部分として設定されているのが、「負の心」をテーマとしたドロドロとした人間関係で

ある。この仲の良い姉妹と分家の若者との三角関係を見て感じたのは、パターンは異なる

が「ロミオとジュリエット」みたいだな、ということだ。どういうことかというと、「ロ

ミジュリ」は、両家の不和という「世間」の大きな力が二人の前に「壁」としてあらわれ

るわけだが、本作では姉の火傷が原因として、彼女の親を代表とする「世間」が、2人の

結婚を許さない「壁」として出現しているわけである。しかも、その「壁」が「ロミジュ

リ」のように、ストレートに2人を別れさせようとするのではなく、「表面的には妹と結

婚しろ。夜は姉と夫婦として暮らしていいぞ。」という、偽善的な妥協案として姿を現し

ていることが、本作のストーリーをより屈折した面白さとしているのである。つまり、こ

の「偽善」によって、本来なら苦しむべき存在が2人であるところが、結果として妹も含

めて3人がそれぞれ自分の中の「負」の心と対峙するという構造になっているのである。

 しかし、このことに関して私は少々不満を感じるところがある。それは、本作がドラマ

ティックになっているのは、そのような世間の壁が強大であった昔の話であったからこそ

可能になったのではないだろうか?つまり、「世間」というものが以前ほど強大でなくな

り、恋愛が自由になった現代に、このようなドラマは、自分のこととして感情移入の対象

となるものにはなり得ないのではないか?ということだ。ここ数年、「自分探し」とか、

「自分を見つめる」といったテーマの作品が、ジャンルを問わず流行になったのは、その

ような世間の壁がなくなったにもかかわらず、自分は相変わらず不幸である。それはなぜ

なのか?世間が原因でないとするなら、自分自身に原因があるのではないか?という疑問

が「世間」の力が弱まった結果として、多くの人の心にテーマとして浮かび上がったから

ではないだろうか?

 だからこそ、本作の現代のシーンでは、特務機関とのスリリングな展開といったエンタ

テイメントとしては魅せるものの、主人公の内面描写としての部分は、中世の場面に比べ

ると弱いものになっている。面を着けた弟は、面を被った影響によって、兄に対する憎し

みを強めていくのであるが、その憎しみは「面」をつけたことによって増幅されているに

過ぎず、本来、面をつけなければ兄弟仲を破滅させるほどの決定的なものとはならなかっ

たであろう、と思わせるほど、説得力の強いものとはなっていない。

 確かに、「障害」「壁」が物語の中に存在し、それと戦うというスタイルをとることは、

物語の中にドラマを作り出す王道ともいえるものである。しかし、私は芝居を見るからに

は、「今の自分」にシンクロできる作品を見たい。「親の反対」や「世間体」が存在しな

いにも関わらず、なぜ自分は幸せを実感できないのか?それをテーマとした作品を、次回

以降シバタさんが作ってくれればいいなあ、というのが、本作を堪能しつつも一観客とし

て感じた贅沢な要望である。勝手な希望で恐縮だが、是非ともチャレンジしていただきた

いものである。

 個々の役者について。今回は、なんといっても依子役の照井麻貴子さんに尽きるでしょ

う!この依子という役は、面をめぐる謎を取材するためにやってきた出版社の2人組のう

ちの一人なのだが、なんだか旧あみんの岡村孝子を思わせるような、クラ〜い雰囲気で出

てくるのである。そして、その暗さがマンガチックで、わざとユーモラスに演じていると

ころが、たまらなくいいのだ!そして、彼女は一種の超能力も持っており、いきなり写真

を念写して、周りを驚かせたりするし、さらには特務機関との戦闘シーンでは、なんと!

「日出処天子」の厩戸皇子のように、「気」によって敵を吹っ飛ばすことが出来たりする

のである!この手の不思議系少女は、まさに「アイドル評倶楽部」たる私のツボにズバッ

とハマってくるキャラクターであり、「あ〜あ。今回は吉田みどりも笹本愛もキャストに

出てこないのかあ。イマイチ物足りねえなあ。」と思っていた私の心を見透かすかのよう

な(ていうか、見透かされてました?シバタさん・笑)ナイスキャストであったといえよ

う。宮教は、必ず一人はこういう不思議系が舞台に出てくるところが嬉しい。ホント!役

者の層が厚いんだよねえ。

 そして、高橋愛美さんや鈴木香里さんといった、その手のオーラこそ出ていないものの、

手堅くワキを押さえる毎度ながらの見事なバイ・プレイヤーぶりにも、いつものことなが

ら感心させられた。彼女たちは宮教であるからこそ、渋いバイ的印象が強いが、ひとたび

どこかの劇団に客演すれば、以前の「ワガクニ」の高橋(妹)さんのように、他の劇団の

役者を喰ってしまうだけの実力を持ち合わせていることは確実であろう。

 そして男優では、なんといっても斉藤雄介君。背が高く、スタイルがいいので、いつも

出てくるだけで、「ああ、彼、今回もキャストなんだな」とすぐわかる、見栄えの良さ。

そして、割舌が悪いのか、その巻き舌気味の外国人のような独特のセリフ回しも、最初は

違和感があったものの、最近では彼ならではのポジティブな個性として楽しめるようにな

ってきた。すべてに平均的で印象に残らないような役者さんよりも、一見弱点のように見

えながらも、それが強烈な個性として残る役者の方が僕は好きだ。その意味で斉藤君は、

ある意味僕にとって「宮教の顔」であり、彼が出ることによって「宮教の芝居見たー!」

と思わせる役者さんなのである。これからも、大いに頑張ってほしい、と思わずにはいら

れないのであった。

 

[2000年12月10日 23時15分49秒]

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開かれてきた高校演劇 

お名前: 忌野  際   

 

仙台三高の演劇をめぐり、議論が活発になってきていることを歓迎する。笠原、小山、大田氏の

それぞれの主張を歓迎したい。とかくこういう話はこじれてくると「空気が悪い」の「怖い」の

「揚げ足とり」だのと思う方もいるようだが、私は空気のよしあしよりも、自分の存在をしっか

りと表現している寄稿者の姿勢を常にすがすがしいと思っているし、無気味なスマイリーの乱れ

飛ぶなれなれしい掲示板こそ、こういう場にはふさわしくないと考えるからだ。無論、管理人氏

が不適切と感じるものは削除の対象にもなろうが、このページの管理人氏は大変に懐が広い。私

はこの姿勢もまた支持したいと思っている。

 

 さて、高校演劇が開かれてきた。WEB上の掲示板を通して、いままでは会場アンケート(それ

以前は会場掲示板)に書かれてきたことが、広く一般の目に触れる環境が整ってきたと思える。

このような風潮に対して小山氏は「仙台三高」の演劇に関する議論で「私どもの弱みは、今生き

て色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに動いている生徒とともに

に生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないん

ですよ。」という所感を述べておられた。氏の述べるとことはむしろ「強み」であり、「自信」

になるはずだ。仮に「ひでえこといわれてるなあ」と思っても、それを黙殺するだけの自信があ

ればいい。氏の学校は常に秀作をコンクールに持ってきており、優秀な実績を常にあげているで

はないか。

 私が言いたいのは、高校演劇も「聖域」ではなく、広く多くの人に開かれるものであるべきだ

し、多くの人の意見を求める必要があるということだ。無論その中で無責任な誹謗や中傷にさら

されることもあるだろうが、この掲示板に関する限り、それなりの論拠をもった意見が述べられ

ており、神経質にこれを気にする必要は特にないと思う。所詮どのような劇評であっても、それ

は「個人」の印象であり、また、見に来てくれたお客様の中でも「批判」をあえて寄せてくださ

るお客様というのは、黙って帰って「クチコミ」で悪評を流してくれるお客様よりも数段真摯で

あり、真っ向からその劇作者に向かう姿勢を持っている点で、私はこれを受容しなければならな

いと考えている。そういうお客様の文章を「馬鹿文章」と斬り捨てた方もいるようだが、私は

そういうことはできないと考えている。

 

 宮城の高校演劇というHPがある。高校演劇界も広く自分の存在をPRしはじめた。私はこれを

大変に歓迎している。だが、WEBでのPRはその他の場面でのもの以上に「一方通行」では終わら

ない。たとえそこに高校生という未成年が絡んでいようが、作り上げた劇はしっかりと批評され

るべきだと思うし、それを是とする姿勢がほしい。そして、内部の人間でのみ行われてきた議論

が今回太田氏の努力により、広く一般に広げられたことをもっと歓迎すべきである。太田氏の

議論は確かにストレートで感情を害しやすいことを書いているけれども、根拠は明確である。

 そして、演劇をしている高校生諸君がなぜこの劇評の議論に参加してこないのか。無論それは

充実した劇評もあるだろうし、「なぜあの学校が入賞するの?」という疑問も出てこよう。しか

しそこに対話の機会を捕らえることは非常に大切なことだと私は思う。

 高校演劇はもっともっと開かれて欲しい。これからも批評にさらされることがあるだろうが、

それは批評された作品の価値を決めるものではない。一批評家の印象を素直に書くことは、一

演劇人が芝居を作ることと同じくらいに尊重すべきことなのだから。

 

[2000年12月3日 7時27分50秒]

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劇団ミモザ「太陽に背を向けて走れ」 

お名前: KIT@麦    URL

 

 最終公演を一家で楽しんできました。良かったです。

 

 特に本がいいです。あと20分短くできたら相当な名作になった思うんですが、小学生が2時

間半じっと(...というかヘラヘラと)見ていたんですからやっぱり良くできてますね。

サービス精神いっぱいでした。

 

 この劇団のいいところは、受付から客出しまで一続きが公演と考えて演出されているところで

しょう。ユニホームを着た受付に迎えられ会場に入ると開演まで何かやってくれます。前回は一

人コント5連発、今回は模擬ラジオ放送でした。そしてちゃんと定刻で開演します。

 今回は団体割引券や託児サービスまであったようで、日頃我々がやりたくてもできないでいる

色々な試みを実際にやって見せてくれるところに感服します。客としてとても大切にされている

感じがしてうれしく思うのです。

 

 話はギャグ系な郵便屋さん達の話とシリアスに疾走するアフリカの話が交互に出て来まして、

私としてはアフリカの比重がもうちょっと上がったらと思いました。

 子供達はギャグが好きで「山羊さん郵便」や「切手ちょうだい」がいたく気に入ったようで

す。帰りの車中でずっとリピートしとりました(笑)。「演歌」や「はがき男」(爆)も楽しめ

ました。

 

 箱による抽象舞台で演じられる熱いステージは大変好感の持てるもので、たしかに前半は聞き

取りに苦労しましたがそんなことが気にならない若い舞台は良いものでした。

 ラスト、バオバブの木、大きく広がった梢、天からこぼれんばかりの星が確かに見えました。

そのあとの麦球はなくてもよかったと思うほど。

 

 私がもらったダイレクトメールには「郵便配達夫の恋」についての感想が同封されていまし

た。気持ちも運ぶことに一生懸命な郵便屋さんたちの姿を見て、ああこのことかと納得しまし

た。面白かったです。(仕分けのシーンでは「ら抜きの殺意」での自分を思いだしたのです

が...笑)

”いかに生きるか、伝わらない気持ちをどうやって伝えようか”芝居の永遠のテーマですよね。

 

 仙台の人たちも是非一度ミモザの芝居を見てほしい。きっと何か気づいたり思い出したりする

ものがあると思うから。

 仙台から大河原まで電車でわずか30分ほどです。ただ、えずこホールがもう少し駅に近ければ...と

 

[2000年12月3日 21時52分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 ここのところ、三高をめぐる議論がけっこうハードなものがあり、それについては書き

甲斐を感じてはいたものの、同時に少々重苦しい気分になっていたことも事実だ。そんな

中、本日ミモザの芝居を見てきたのだが、実に実に感動的な作品だったので、今まで感じ

ていたイヤな気分も束の間、吹っ飛ばすことができた。こういう時、自分が演劇ファンに

なってよかった、と心底思う。何だかんだいって、やっぱり俺、演劇好きなんだよなあ、

と暖かい気持ちになれる。そういう意味で、ミモザの皆さんには、心よりお礼を言いたい。

いい芝居を見せてくれて、本当にありがとう。

 本作は、近未来(?)の日本の話である。通信事業が完全民営化され、Eメールから郵

便までを扱う、とある民間企業の郵便セクションに勤務する職員たちの人間模様と、青年

海外協力隊員としてアフリカに行ったまま、行方不明になったある若者についての物語と

いう、2つのストーリーが同時並行に進んでいく。通信会社の郵便セクションは、Eメー

ルや携帯電話を使う人が増え、昔ながらに手紙を使う人が減っていることを理由に、リス

トラの危機におかれている。しかし、セクションのリーダー・ヤヤは、手紙だからこそ伝

わる熱い思いというものがある、と主張して強くリストラに抵抗する。

 このヤヤ役の、おーみひろみさんが、素晴らしかった。長いストレートヘアーは、「シ

ョムニ」での江角マキ子を意識したものであったらしいが、手紙に書ける熱い思い、部下

に厳しいが信頼されるお姉さま、としての役作りが、まさに本家・江角に負けない熱演と

して、印象に残った。彼女は手紙が大事だという理由を、「手紙だからこそ伝わる『実感』

というものがある」と語る。最近上演された、ある作品と同じ「実感」という言葉をテー

マとして使っていたわけであるが、同じテーマでも、芝居によっては、これだけ心にせま

る表現となるとは!やはりこれは役者の技量と脚本・演出の力量の差なのだろう。

 そして、実はこのヤヤの恋人が、アフリカに渡ったまま行方不明となった青年なのであ

る(ここで、同時並行していた2つの話はつながるわけだ)。彼は、「世界の果てを見た

い」という夢を持っており、その夢を実現するために、廃車になっている機関車に乗って

旅をしようと目論んでいる。この、「世界の果て探し」とは、同時に「自分探し」でもあ

るのだろうが、「終わりなき日常」に倦怠感を感じ、日常にはない濃密なものを探すこと

が、イコール彼のいう「世界の果て」を探すことなのだろう。その意味では、彼の探して

いるものも、きっと「実感」であり、そしてその「実感」を観客である私にも感情移入で

きるようにひしひしと伝えてくれた池田耕亮君の演技力!彼も、仙台演劇祭「星空の迷子

たち」の犬役で出ていた頃は、臭くてくどすぎる演技が鼻についたものだったが(失礼!)、

よくここまで役者として成長したものだ、と感慨深いものがあった。

 だから、彼は愛する女性から離れてまでアフリカに渡り、そのアフリカでも自分の持ち

場を捨てて汽車に乗って一人旅に出ようとする。これこそ、ロマンという名に相応しい、

古典的ではあるが美しいストーリーといえよう。

 そして、そんな職場の先輩のラブ・ロマンスを見つめる、新入社員のヒナタ。はい、こ

のヒナタ役こそ、松陵・亀歩さんと並び、私が今の仙台演劇界で最も一押しする女優!後

藤尚子さんである!!

 去年の「キャラメル・マン」の頃の彼女は、ホント、かわいい女の子、というイメージ

のみが強かったが(佐々木久善さんの「ピチピチしていた」発言が、まさにその象徴だが)、

今年のコンクールで県大会まで進出し、しかも創作脚本賞まで受賞する熱演を見せたこと

で、役者として一回りも二回りも大きくなったような印象を、本日受けたものだった。劇

中コントの場面での、表情の変化の素早く、そしてタイミングのよいことといったら!や

っぱり高校生をいう若い時期だけに、役者としての成長も早いのだろうか?もはや、私に

とって彼女は、ただの地元演劇界のアイドルではなく、若手実力者としての1人に数えた

い人材にまで育ってくれたといえよう。それにしても、コンクールからたった2週間しか

経っていないのに、こんなに長ゼリフを全て自然にこなしてしまうとは!やっぱり高校生

はまだまだ頭が柔らかいね。本人、終演後のロビーで、「この記憶力を中間試験にも役立

てればいいんですけどね、ガハハハハ」と笑っていたが、芝居とは直接関係ないが、ぜひ

試験も頑張るように!(笑)

 それにしても、私はエヴァンゲリオンでも、大人の恋をする加持・ミサトよりも、その

2人を近くで見つめる主人公の中学生・碇シンジ君に感情移入したものだったが、今回も、

大人の恋をする2人よりも、尚ちゃん演ずるダメダメだけど一生懸命頑張って新しい仕事

にチャレンジする新入社員・ヒナタに感情移入してしまうのは、きっと私がいい年をして、

未だに自分に自信がもてないからなんだろうな(苦笑)。でも、そんな自分はダメダメだ

ー!と思う人間に、とても共感できるように書かれていたヒナタの人物描写、私は強く評

価したい。

 それと、もう1人よかった役者。郵便区分けロボット・マリー役で今回出ていた、新人

・アベマコさんは、とても新人とは思えないヒールなんだけど憎めないキャラクターを好

演していた。彼女も高校生とのこと(でも、学校では演劇部に入っていないそうだが・・

・)、本当に最近の高校生の演技力には感心せずにはいられない。

 物語の結末は、明日も公演があるため書かないでおくので、明日お暇な人は、ぜひ大河

原まで足を伸ばしていただきたい。松陵・猫原体と並ぶ、今年の私にとっての感動作であ

る。ただ、一つだけ残念だったのは、物語の出だしが少々早口すぎて、何を言っているの

かわかりづらかったことだ。初日の出だしで緊張していたのかもしれないが、もし明日も

同じ場面が早口すぎたとしても、そこで早急に結論を出さずに、しばらく我慢して見続け

て欲しい。だんだんと尻上がりによくなってくるはずだから。

 

[2000年12月3日 0時13分2秒]

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仙台三高演劇部「ウルトラマンの母」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 前回は、笠原先生が今回の作品のテーマとして「実感」を挙げておられることについて、

私が先生の文章を読んでその趣旨には共感したが、その共感は芝居を見たときには生じな

かった、というところまで書いた。そこで今回はその理由について述べていくこととする。

 笠原先生は、「実感」の例示として、登場人物の「女性」が述べたセリフ、「缶コーヒ

ーって好き。舌に残る感じがいいのよね。」を挙げ、また、オウム信者について言及して

おられる。まず、この2つの例示については、私も強く同感するものである。

 まず、缶コーヒーについていえば、そもそも人間は、缶コーヒーに限らず、カレーでも

チョコレートクッキーでもいいけど、何かを食べて「おいしい!」と「実感」する場合は、

本来「意味」を経由しないものであろう。確かに、カレーがおいしいのはレシピが良かっ

たからかもしれない。しかし、川上高瀬がカレーを食べて「おいしい!」と感じたとき、

あるいはミイがチョコレートクッキーを食べて「おいしい!」と涙を流したとき、彼らは

いちいちレシピの因果関係など頭に浮かべないだろう。味覚がそのまま瞬間的に脳に反応

することによって「おいしい!」と感じる。これ、「意味」を経由しない「実感」である。

 また、オウムが修行で自らの肉体を「実感」するという話。これも、要は厳しい修行を

すれば、過剰な疲労から体が本能的に自分を守るために脳内麻薬を分泌する(いわゆるラ

ンナーズ・ハイの極端な例)として、気持ちが良くなったり、幻覚が見えたりという作用

が体内に生じるわけだけれども、本人たちはそういう脳内麻薬がウンタラといった、意味

的因果関係を経由しないで、ストレートに「気持ちいい!」とトリップしているわけで、

これもまた「意味」を経由しない「実感」といえよう。

 このように考えていくと、「実感」は以外と自分たちの身の回りに多く存在しているこ

とがわかる。例えば、風呂に入って気持ちがいいのは、体内の血行が良くなり体がリラッ

クスするためだろうが、私達はいちいちそんな理屈を考えずに、「ああ、いい湯だな〜!」

と言っている。あるいは、踊りを踊って気持ちが良くなるのだって、同じような理屈で説

明可能だろうが、実際に踊っていて気持ちよくなっている連中は、そんな因果関係を頭に

浮かべなくても気持ちよくなっている。さて、ここで疑問が生ずる。笠原先生は、後段で

は「実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦めて生きるので

はなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということを知らせ

伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。」と書かれている。し

かし、カレーやチョコレートクッキーがおいしいという「実感」は、過去の時代にのみ存

在するものではなく、カレーやチョコレートクッキーが存在する限り、普遍的に存在し続

けるものであろう。また、そもそも「実感」とは、上に述べたように「プラスのヒーロー

(または「正義の味方」)」とかいう意味的概念を経由しないで感じられるからこそ、「実

感」ではないのか?だいたい、風呂に入って気持ちよくなるのに、「正義」なんて必要な

のか?つまり、ここで過去には存在したけど現在は存在しない「正義」や「プラスのヒー

ロー」を例示することによって、笠原先生の本当に求めていることは、実はやっぱり「実

感」ではなく、「意味」ではないのか?という疑念を私は持たざるを得ないのである。最

初の文章で、私はこう書いているはずだ。「『自分のやっていることに意味はあるのか?』

と悩む高学歴の科学者に対して、『いや、お前のやっていることに意味はある。お前のそ

の技術力で社会変革はできる』と、信者を増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こした

ことは、未だ記憶に新しい。」と。つまり、笠原先生のいうとおり、オウムの修行によっ

て信者は「肉体の実感」を得た。しかし、それを「実感」ではなく「社会変革」という「正

義」的意味にすり替えていったのが、まさにオウムの教義ではないのか?だとしたら、「実

感」を「正義」や「プラスのヒーロー」という意味的行為に変換しようとする笠原先生の

目論見は、それに似ていないだろうか?

 だから、私が最後の「歌」に意味を感じたのも、ストーリーを一貫したものとして辻褄

を合わせるためには、必要だったからである。「もうずっと長い間面白い映画を見ていな

い。」という詞は、「意味」が存在した昔には映画も面白かった。つまり、「昔の面白い映

画」は、「意味」が存在することによって生き甲斐を感じていた昔、という時代そのもの

のメタファーであり、それを称揚する内容であるということは、つまりは「意味」の復活

を待望するということだろう、と私は判断したのである。それが、深読みだと言われれば、

そうなのかもしれない。しかし、私という人間の内面においては、そう考えることがこの

テキストに対しては、最も辻褄の合う結論だったのである。

 以上で私の反論は終わりである。渡部先生が質問に答えてほしい、という書き込みを下

になさっていらっしゃりこれについては私も同じ思いなのであるが、もしかしたら私の反

論が全て終了することを、笠原先生はお待ちになられていたのかもしれない。そう好意的

解釈をあえてとり、希望的観測を残すことにして、とりあえず本文を終了させていただく

こととしよう。 

 

[2000年12月12日 0時4分30秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 小山先生。笠原先生にお願いします。やはり、質問には答えていただけないでしょうか。

高校演劇関係者として、強く望みます。

 それから、すみませんでした。下の「MOGURA」という書込みは私のものです。必ず

「同じペンネームで」というルールを犯してしまいました。管理人さん申し訳ありません。

忌野際さんが書かれているように、高校演劇に限らず、演劇界はもっと開かれるべきだと私も

思います。

昨年度の審査経過について太田さんから質問がありましたが、もしおかしな評価をしていない

自信があるのならそれだって公開してもいいのではと個人的に考えています。今回の仙台三高

さんが東北大会に出場できなかったことは残念であると私も思います。なぜなら、本当に訓練

された演技を評価してあげるということも教育活動として大切だと考えるからです。

 ただ、三高さんの生徒の結果を素直に受け止める紳士な態度には一緒に生徒実行委員会の仕

事をした私は敬意を表したいと考えています。ですから、先生方再度お願いします。もういち

どきちんと議論をしようとしてはいただけないでしょうか。  

 

[2000年12月10日 21時44分42秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 先の書き込みで私は、

「せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。」と書いていたので、これから改めて作品

についての意見をここに書き込ませていただくことにしたい。

 まず、「言葉というものを意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのか

な?」という笠原先生の御意見について。これについては、「はい、全くその通りです。」

と答えるほかない。むしろ、「だから、どうした?」と聞きたいくらいのものである。な

ぜなら、下に書いた「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送れな

いから、意味にすがるのだ」という言葉を理解するためには、まさにそのニーチェの言葉

を「意味」として理解することを経ることが必要だからだ。その点で、我々現代人は「意

味的存在」だ、というジレンマを抱えており、そのジレンマをいかにして解消すべきか?

という問題意識を持っているからこそ、そのヒント・シミュレーションとして私は演劇を

見たり、その感想として劇評を書いたり、また逆に他人の書かれた批評を読んだりしてい

るのである。最初から既に意味から解脱した存在に私がなっているとしたら、笠原先生の

作品を含めて、何もわざわざ演劇を見るために劇場まで足を運んだりするわけがない(も

ちろん、生き方のシミュレーションとして見ることだけに限定されず、単にエンターテイ

メントとして芝居を楽しむことも、時にはあるが・・・)。世の中には、演劇を見なくて

も、そこそこ幸せに生きている人がいくらでもいる。演劇の作り手の方々には、よく「も

っと演劇ファンを増やさなくては!」という問題意識を持っている方がいらっしゃり、私

も、それについてはとても立派なことだと敬意を表しているのだが、と同時に、では、演

劇に対する熱心なファンである自分と、ここ10年近く生の演劇なんて見たことない、と

いう世の中の多数派の方々とを比較して、どちらが幸せなのか?と考えたとき、演劇を見

なくても自分より幸せそうな人が世の中にはたくさんいるのではないか?というのが正直

な実感としてあるわけで、そういう人に演劇を勧めることは、逆に大きなお世話ではない

のか?という思いもまた、私の中にはあるのだ。つまり、既に意味から解脱した人間にと

っては、「人生に生きていく意味はあるのか?」という問題意識を持つ必要はないため、

そのシミュレーションとして演劇や映画を見たりする必然性はない。私は、まだその域ま

で達した人間ではないため、熱心に演劇を見、その劇評を書く「意味的存在」なのだ。こ

の問題意識については、福島の劇団・鳥王の「楽園ダンス」という作品の劇評を書いたと

きにも詳細に論じているので、そちらも是非ともご参照されたい。

 それに関連して言うなら、笠原先生がその下で述べている「人間は意味無しで生きられ

るわけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーシ

ョンの手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。」という御意見について

も、「全くその通りだ。だからどうした。」と答えるしかない。しかし、私が上で引き合

いに出したニーチェの言葉は、「意味にすがる」という言い方をしている。「意味」を「手

段」として、必要かくべからざるものとして認識することと、「すがる=(例えば酒や麻

薬に対するように)依存する」ということは質的に異なることだ。例えば、人間と他の動

物との違いで「火」を使うというものがある。あるいは、「電気」でもいいが、これらは

文明人たる人間が生活していく上で、必要欠くべからざるものであろう。しかし、人間は

「人生に意味が見いだせないから、自殺する」ということを遺書に書いても、「人生に火

(または電気)が見いだせないから、自殺する」などという遺書を書くものだろうか?(シ

ュールなアングラ劇なら、そういう遺書を書く奴が、あるいは出てくるかもしれんが・・

・)そういう点から考えると、今回笠原先生が例示した文章は、「意味」という言葉が持

ついくつかの文意の中から、太田が使用している用法と、あえて違う内容の用法を用いる

ことによって、(本人が意図したことではないかもしれないが)結果的に論理のすり替え

をしていることになるのではないのか?

 念のため、自宅にある「新明解国語辞典」をひいてみた。意味には1として「その時そ

の文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか・用法。」とある。これこそが、

今回笠原先生が説明するとことの「意味」であろう。しかし、その後に2,3,4として

こう続く。2「その人が何かをしたときの動機・意図。」3「意義」4「趣旨」と。太田

が今回使った「意味」の内容としては、1よりもむしろ3が適切なものであることは、明

らかではないのか?さらにいうなら、「意義」を同じ辞書でひくと、1「そのものでなけ

れば・果たす(担う)ことのできないという意味での、存在理由」とある(2は略す)。

まさに太田は、この内容で「意味」という言葉をこの間使用してきたのである。

 そして、笠原先生はこう続ける。「テーマは前述した通り『実感のなさ』である。」と。

ところで、先に例示したニーチェによれば、「意味」にすがらないために必要とされるも

のは「強度」だという。私は、この「強度」と、笠原先生のいう「実感」というものを、

言葉としては違うが、中身としてはほぼ同じことを言っていると考える。その意味で、私

は今回の笠原先生のテーマ説明・問題意識には大いに共感したのである。しかし、皮肉に

も、その「共感」は、笠原先生のお芝居を見た感想として出てきたものではなく、今回の

笠原先生の文章を読んだことによって出てきたものである、ということは、是非とも留意

していただきたいところである。

 では、なぜ、文章では共感できたものが、芝居では共感できなかったのか?これについ

ては続けて述べたいところではあるが、またまた文章が長くなってきたので、また改めて

書かせていただくこととする(一気に長文を書くのは、読み手も大変だろうが、書き手も

疲れてくるのだ)。というわけで、今日はここまで!

 

[2000年12月6日 22時16分11秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

>小山先生

本音での書き込み、ありがとうございます。

ただ、

>劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので

私はそんなことはいっておりません。むしろ、逆に笠原先生に再反論されることを要請してい

ます。

また、

>高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います

とか、

>無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ

という御意見は、むしろ逆に、

「だから観客側は物を言うな」

と、とられても仕方のない言い方ですよ?

「無神経」とおっしゃるなら、その根拠を示して欲しい、だから議論をしよう、と私はこの間

ずっと申し上げているのです。

 

[2000年12月2日 0時45分25秒]

 

 

お名前: こやま   

 

太田さんに、ひとつだけ、ムリかもしれないけど、おつたえしたいのは、私たちは生きた生徒をかかえていて、

生徒と一緒に演劇活動をすることを無常の楽しみとしているのです。

生徒がいやかるものをつくれるはずがありません。

生徒の喜ぶ姿が私どもの無上のたのしみなのです。

だらかこそ、こんなに苦労しても、生徒に付き合って行こうとしているのです。

高校演劇は何よりも教育活動なんだということに、そろそろ気付いて欲しいと思います。

劇評家が何書いても、作り手は物を言うなということなので、

2度とここにはかきこまないし、読むことも止めますが、

私どもの弱みは、今生きて色々感じて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり、毎日そんなふうに

動いている生徒とともにに生きているということです。そのことに無神経にいろいろやられてはたまったものではないんでよ。

高校演劇集会所の管理人というよびなで、だいぶ書かれているようなので、本音で書きました。

 

[2000年12月1日 22時56分30秒]

 

 

お名前: MOGURA   

 

県大会で見せていただきました。あれほどの演技力で3位であったとは納得いかない点もある

かと思います。ここ2年位演技力などが評価のウエイトとして軽視されすぎていることに私も

若干疑問を覚えてはいます。また、面白くなくてはという面からも、観客の受けも良かったし

生徒審査員の評価を得ていたことからも問題ないように思えます。特に役者同士の科白のやり

とりは大変面白く笑わせてもらいました。地区大会では審査員の先生から大人には共感できる

という評価だったそうですが、今回はむしろ高校生の審査員に評価され、大人には評価されな

かった。この理由について私なりにこの芝居を観た感想を述べながら、書かせていただきます。

 率直に言って、カサハラさんが述べているような17歳の高校生という像を描けていたかと

いうと、作者の全くの勘違いの面が隠せないと思います。現在の子ども達は実はカサハラさん

が思っているほど大人や社会に期待なんかしていない。言葉なんか嘘ばかりだと気付いている。

大人の言うことはすべて建前ばかりで、言葉になんか真実はないと感じていると思うのです。

 ですから、空虚感なんてものを意識しているんでしょうか。空虚感ていうのは、大人や社会

に期待している部分があるからむなしくなるのですよね。大部分の高校生はすっかりとあきら

めている。演劇部で活動しようなんていう高校生の感覚は実は本当に少数派であることをしっ

かり受け止めて書いているのかなと思うのです。唄だって、やりきれないから、叫ぶとすっと

するから、自分の存在を認めて欲しいからといった理由などで唄いたいのでしょう。

そこに意味なんかやはり求めちゃいないと思うのです。でもそれは今も昔も一緒じゃないです

か。例えば僕は井上陽水の「傘がない」という唄が好きなんですが、あれを安保闘争が終わっ

た後の若者のうんぬんなんて言った人がいたけど、ただ唄いたいからでしょ。社会に対するメ

ッセージなんてあの当時も大人が勝手に解釈したことだと思うんです。自分の気持ちを吐き出

したいから唄ったにすぎないんだと思うのです。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」

と陽水が唄うとき僕らはその唄の意味に感動したのでしょうか。メッセージに感動したのでし

ょうか。違うと思います。恋をしたことのある僕らが、「今自分の周りに起こっていること、

自分がしなくちゃいけないこと、そんなことはどうでも良くて、ただ君に会いたい」

そういう純粋な真実の叫びに共感したに過ぎないのではないでしょうか。

 だとしたら、現在の若者と昔の若者はどう違うのでしょうか。カサハラさんと同世代の僕は

大差ないと考えています。昔の若者が社会や大人に何かを伝えたくて唄を唄ったのでしょうか。

そういうサークルも確かに存在しましたが少数派でしょう。今と大差ないのではと思います。

僕らの時代だって、何でも真面目に深刻に議論しようとした人間を「根暗」として多数派は排

除しようとしていたではありませんか。僕はどちらかというと排除された方だからよく覚えて

います。昔を振り返ってそれを解釈するのはよいのですが、それを今の高校生に信じ込ませよ

うとするのは間違った歴史を教えるのと同じだと思います。この芝居の昔の解釈は当時の世の

中全体を象徴するものではなかったと思うのです。カサハラさんにはそう見えたかもしれませ

んが、少なくとも僕はそう思っていません。ですから、今回は大人の世代も共感し得なかった

のではないでしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 2時9分49秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回の私の劇評に対し、作者の笠原先生より「責める」内容の反論をいただいた。

 私に非があるとするならば、私が笠原先生に謝罪するのは至極当然のことである。ただ

し、この「劇評バトル」という欄は、今までおこった数々の議論の結果として、「論には

論で返す」ということをルール・原則とするに至っている。太田に非があるという理由を

笠原先生が論として提示し、それが私にとって納得のいくものであれば、私は非を認めよ

う。逆に納得のいかないものであれば、私は笠原先生の「責め」を、理不尽なものとして

退けるしかない。では、今回の笠原先生の反論は、私にとって納得のいくものであったか

を、これから検証させていただくとする。

 今回、笠原先生は私の文章を責める理由として、「非礼」という言葉を使われている。

その根拠として、私が使った「遺跡云々」という比喩について、「インチキ呼ばわり」と

指摘しているわけだ。

 この御意見に対して、私は次のように反論する。そもそも「劇評」とは、他人の作った

作品に対し、「善し悪し」を論ずる行為である。「善し」はともかくとして、他人の創造

物に対して、「悪し=よくない」とネガティブな評価を下す行為とは、一般的な社会常識

から考えれば、全て「非礼」に該当するものである。つまり、批評という行為は、その対

象に対してネガティブな評価を下すときには、常に「非礼」である宿命を持つものなので

ある。だから、今回の笠原先生に限らず、ネガティブな批評を下された劇団側が批評を書

く者に対して、「非礼」を理由に「責め」ることを行い始めれば、全ての批評を書くもの

は謝罪しなければならなくなる。これは批評の否定であり、私としては理不尽なものとと

らえざるを得ない。

 もちろん、ここで笠原先生は「非礼」でないネガティブな批評と、「非礼」に該当する

ネガティブな批評の2つが存在する、と反論されることだろう。では、先回りして聞くが、

その「非礼」に該当する、しないの境界線はいったいどこにあるというのだろうか?

 上記に書いたとおり、笠原先生は私の文章を「インチキ呼ばわり」と見なしている。つ

まり、笠原先生にとっては、同じネガティブな劇評でも、「インチキ呼ばわり」する劇評

が「非礼」に該当する、という境界線をもたれている、ということだろう。しかし、私が

「遺跡云々」という比喩を呈示したのは、(厳密にいうと私は「インチキ」という言葉を

用いてはいないが、文章のニュアンスとしてインチキとみなしているように感じられる、

ということであれば、あえてそれは否定しない)私が本作品を見て、それこそ「実感」と

して持ったからこそ、使ったのである。

 「最近の話題をひょいと捕まえて」と先生はおっしゃるので、では、最近の話題ではな

い古典的な寓話で説明しよう(そもそも同じ比喩を用いるのなら、読者にわかりやすいよ

うに、「最近の話題」を使うのはレトリックの範疇ではないのか?「最近の話題」だから

「非礼」であり、「古典的寓話」を使えば「非礼」ではないと、もし笠原先生が考えてい

らっしゃるとするなら、その根拠はいったいどこにあるというのだろう?)。

 「裸の王様」という有名な童話がある。読者の皆さんもよくご存知のことだろうが、本

当は存在しない服を着た王様を見た子どもが、「あの王様は裸だ!」と言う、例の話であ

る。「王様は服を着ている」と主張する人達にとって、この子どもの発言は、まさに「イ

ンチキ呼ばわり」に匹敵する行為である。しかし、この「王様は裸だ!」と主張する行為

こそ、まさに批評の持つ重要な役割の一つではないだろうか?

 ただし、ここで留意しなければならない点が一つある。つまり、「裸の王様」において

は、本当に王様は裸だった、という唯一の事実が存在する。遺跡捏造問題にしても、遺跡

を捏造した、という事実は1つである。しかし、演劇(に限らず、あらゆる芸術作品にい

えることだが)という作品に関しては、事実は1つのみ存在するとは限らない。1人1人

の受け手が、1つの作品に対して異なる感想を持つということは、演劇においてはむしろ

自然なことである。だからこそ、「解釈」という概念は存在するのであり、1人1人が違

う劇評を持つことを前提として、劇評「バトル」は可能になるのである。つまり、太田が

本作を見て、遺跡捏造問題に例えて、「インチキ」だと考えるのも、太田という人間の内

面においては真実であり、逆に、笠原先生の内面において、「捏造はなかった!」という

真実が存在しても、2つの真実はそれぞれ各人にとって偽りのない真実であり、お互い矛

盾するものではないのである。

 せっかく、笠原先生が後段で作品論も述べていらっしゃるので、これについての私の意

見も書きたいところであるが、いっぺんであまり長い文章を書いても読みづらくなると思

うので、今日はこの辺で終わらせていただく。ただ、最後に笠原先生が「よその軒先を借

りて云々」と書いていらっしゃるが、それをいうなら、私も当フォーラムの非会員である。

フォーラムの会員・非会員にかかわらず、広く劇評を募集するのが、当ホームページの趣

旨と私はうかがっているので、こうして大量の劇評を書き込んでいるのある。従って、笠

原先生も、今回の私の文章に納得がいかなければ、さらなる反論をぜひともお寄せいただ

きたい。遠慮されることで、せっかくの議論が尻すぼみになるのはもったいないことであ

る。笠原先生が再反論をされることで、この場が活性化されるのであれば、それはむしろ

管理人さんを含めた、当HP読者にとっても望ましい展開であるだろうから。 

 

[2000年11月29日 19時26分32秒]

 

 

お名前: arasikiller   

 

質問があります。

 

1どうしてアンケートに書かれると許せて公の場に感想が載るとまずいのでしょうか?

 作品に自信があるのならいちいち言葉で反論するのはどうかと思いますけど?

 あなたの理屈で言えば誉める内容も当然公の場に載るのもまずいんでしょう?

 

カサハラさん答えて下さい。

 

2どうしてここの掲示板は「観客が抱いた感想」に対して作り手が反論をするのでしょう

 か?変だと思いますけど。最近は観客を罵倒する文章も見かけましたよ。

 

管理人さん答え下さい。

 

 

[2000年11月29日 15時6分41秒]

 

 

お名前: カサハラ アキラ   

 

こういうものに慣れていないので、あまりにも読みにくい形で書き込んでしまいました。

削除の仕方もわかりません。重複してしまいますが再度書き込みます。

 

 この発言がアンケート用紙に書いてあるのならまあ問題ない。しかし、不特定多数の人間が

目にするこのような場で「まるで遺跡があるように…云々」などと書かれては無関心ではいら

れない。もっと慎重に言葉を選ぶべきではないのか?自分の文章を飾るためだけに最近の話題

をひょいと捕まえて他人をインチキ呼ばわりするとはどういうつもりなのか?言葉というもの

を意味内容でしかとらえられないのはあなたの方じゃないのかな?その言葉が相手にどう響く

かも想像できない「実感のなさ」こそ、この芝居の伝えたかったことである。

 ここにあえて書き込みをするのは、あなたの発言の非礼を責めるだけの目的であったが、つ

いでと言ってはなんだが作者として言いたいことは言っておこうと思う。

 まず芝居以前の問題として「意味」ということについてだが、人間は意味無しで生きられる

わけがない。人間は意味でしか現実を把握できない。言語というものがコミュニケーションの

手段のために生まれたのではないことは言うまでもない。本能が壊れてしまっている人間は他

の動物のように現実と直接関わることができない。そこですべての物に意味づけをして意味に

よる仮想現実を作り上げた。バーチャルなどと騒いでいるが人間はもともとバーチャルな世界

に生きているからこそ、ゲームを本当の現実のように感じることができるのだ。つまり、恋愛

という言葉を知らない限り恋愛が出来ないのが人間だ。という基本的な認識をここで確認して

おきたい。

 さて芝居の話だが、伝えようとしたことが伝わらないのは本が悪いわけでこれは反省をしな

ければならない。芝居を解説することほどつまらなくばかげたことはないと思う。私は芝居を

よく絵画にたとえるが、キャンバスをどんな方法にせよ鑑賞者を惹きつけるものにすることが

絵画であると思っている。絵画のわきに立って「これはこういうことを描いた作品です」と解

説する画家がいるだろうか。それをすることはたいへん恥ずかしいことなのだがあえて解説し

てみよう。

 下敷きはユングである。(蛇足だが昨年の芝居はフロイトだ。バットなどと恥ずかしいくら

い分かりやすいものを出してしまった)ユングがアーキタイプ(元型)と呼んだ概念であるグ

レートマザー・アニマ・アニムス・シャドーというものを芝居の中で具現化していこうという

のが最初の発想である。(シャドーの話は文化祭版にはあったのだが、展開がもたつくのでカ

ットしてしまった)伝説・神話の解釈というのもユングの仕事である。トリックスターのうま

くいった最高のものが所謂ヒーローだということで「ウルトラマン」というモチーフを思いつ

き、そういえば「ウルトラの母」というのがいたなあということで芝居の筋立てが出来上がっ

た。

 テーマは前述した通り「実感のなさ」である。意味による仮想現実の仮想の部分がいよいよ

露呈しはじめ、最後の砦である「肉体」「実感」さえも失われようとしている現代の問題点を、

よりその問題がはっきりと表れている若者を中心に描こうとした。17歳問題を真っ正面から

扱う芝居が来年あたりは出てきて欲しいというようなことを審査員の一人が言っていたが、こ

の芝居はそれを扱っていなかったのだろうか?それとも真っ正面ではなかったのだろうか?分

かりやすすぎるほどストレートに書いたつもりなのに伝わらないのはこれもまた書き手の技量

のなさである。

 意味で溺れかけている現実はきれいに塗り直された商店街、形だけは女の格好をしている

「女」に象徴されている。しかし子供を産むという実感があって初めて女ということがわかる

と気づいている女。だから彼女はこうも言う。「缶コーヒーって好き。舌に残る感じがいいの

よね。」と。自分が自分でなくなっていく感覚から脱出するために女に転身したからこそ、自

分の肉体を実感し、実感のなさに気づき始めている。肉体の実感ということについては地区大

会版では占い師の台詞でオーム事件の分析がされていた。オーム信者たちは修行の中で初めて

自分の肉体を実感したのだと。それは奇跡とよべるほど遠く離れた存在になってしまっている

ということが。(これもあまりにメッセージ色が強く、会話の流れを悪くするのでカットした

が)

 それに対してまだそれほど実感が失われていなかった時代の人間として「男」は登場する。

当時の歌が強く人の心に響いたのはまだ言葉に実感があったからだ。言葉は肉声であり、実感

を伝えるものだった。

 失われた実感を取り戻すために、麻痺してしまった五感を取り戻すために、彼らは深夜の街

で自分の声を聞いているのではないか?生まれて初めて聞いたであろう母親が自分を呼ぶ声に

耳を傾けてみよう。胎内にいる子供に母親の言葉の意味は届いたのだろうか。ただ子供のこと

を思う気持ちだけが伝わったのではないだろうか。少年は「意味内容のあるメッセージソング」

を見つけたわけではない。自分にとって大切なものが「実感」であると気づいただけだ。だい

たいラストの歌が「意味あるメッセージソング」だっただろうか?

 「もうずっと長い間面白い映画を見ていない。もうずっと長い間新しい歌を聞いていない。

空はあんなに明るいけれど日差しは石のように冷たい。もうずっと長い間本当に歌いたいと思

ったことがない。」という歌詞なのだが…。

 トリックスターの役割をヒーローが担っていた時代が終わり、マイナスのヒーローとしての

17歳の事件がある。実感のあった時代に生きた者はそれを過去のものとして黙り未来を諦め

て生きるのではなく、ヒーローを懐かしむだけではなく、それが大切なものであるということ

を知らせ伝える責任がある。プラスのヒーローを蘇らせなければならない。男の歌はその決意

表明であり、その歌に集まる人々は作者のかすかな希望である。現実はそんな希望などかき消

されてしまうほどの悲惨な状況ではあるが、その希望さえなくしてしまってはもう人間の生き

る術はないのではないか?

 というわけで私がこの発言について納得できないのは、以上の理由からなのである。 

 

最後に、よその軒先を借りてこのように長々と言いたいことを言ってしまったことをお詫び

します。

 

 

[2000年11月29日 1時54分5秒]

 

 

お名前: アイドル評@太田   

 

 「高校演劇掲示板閉鎖についての私的見解」で問題となったある男子校というのが、わ

かる人は既にわかられていたとは思うが、今回取り上げる仙台三高の「ウルトラマンの母」

である。「高校演劇集会所」で本作について簡単な劇評を書いたのは、「私的見解」で述

べたとおりであるが、こちらの「劇評バトル」では本作についての劇評は書かずにいたの

で、どういう作品だったのかわからない方も多いと思う。「高校演劇集会所」の掲示板は、

先日復活したが、問題の議論した部分に関しては削除されていた。そこで、コンクールの

県大会も終了し一週間を経過した現在、ある程度ほとぼりも冷め、いわゆる『審査への先

入観』を心配する必要もなくなったところで、改めて本作についての私の見解を明確にし

ておこうと思う。なぜなら、「もう終わったことだから」と、なあなあにしてしまうのは、

「臭い物に蓋」的でかえって後味が悪くなると、私には思われるからだ。

 さて、本論に入る前に、一つ指摘しておきたいことがある。それは、地区大会と県大会

において、本作のレベルが明らかにアップしていたことだ。地区大会においては、役者個

々のセリフに棒読み的なところが多く、その感情のこもらないように見える演技に正直い

ってだれた部分が多く感じられたのだが、県大会では役者の、本当に自分自身の言葉とし

てそのセリフをしゃべっているように見える演技によって、本作の持つドラマ性が浮かび

上がり、最後まで緊張感を持ち、飽きさせない展開となっていたことは、高く評価したい。

本作が優秀賞を取るに至ったことは、(好き嫌いを別にして)彼らの演技を見れば、ある

程度納得がいくものであった。どうも、ある作品を批判的に取り上げると、「坊主憎けり

ゃ袈裟まで憎い」的に、すべてにわたって批判的な評価を持っていると誤解されることが

多いが、当然そんなことがあるはずはなく、1時間という長さにわたる一つの作品の中に、

よいと思える部分とよくないと思える部分が同居することは、いくらでもあり得ることな

のだ。

 では、県大会における役者の上達によって、私の本作に対する評価が180度変わった

か?といえば、残念ながらそうではない。なぜなら、「私的見解」にも書いたとおり、本

作に私が共感できない部分が、この作品のテーマに対するものであったのだから。例えば、

世の中には漱石の小説が嫌いだという人もいれば、モーツアルトの音楽が嫌いだという人

も存在する。ある作品が、「名作」と世間一般で呼ばれるものだから、すべての人がその

作品に感動するという考え方は、むしろ人間一人一人が違う感性・違う価値観・違う問題

意識を持っている以上、不自然なものであろう。それでは、なぜ私は本作に共感できなか

ったのか?

 この物語の主人公は、俗にいうストリート・ミュージシャンの少年である。ところが、

彼は歌いたい歌が見つからない。そんな彼が、歌いたい歌を見つけるまでを描いたのが本

作の主なストーリーなのである。

 この「歌いたい歌」を、私は「意味」と解釈した。つまり、「集会所」の掲示板にも書

いたが、ニーチェのいう「人は意味がないから良き生が送れないのではない。良き生が送

れないから、意味にすがるのだ」という言葉に、まさに本作の少年の悩みは該当するよう

に思われたのだ。ところが「集会所」の管理人さんは、少年の悩みは「意味」などと限定

されたものではない空虚感だ、と反論されたわけである。

 しかし、本作で少年が作ろうとして、なかなか作れなかった「歌」とは、果たしてどう

いった内容の歌だったのだろうか?もう一人の少年ともいうべき心証を持つ、酔っぱらい

の男(実は昔、シンガーだった人物)は、こんなセリフを言う。「(昔は)社会に対して

言うべきことを歌にしていた。(しかし今は)恋を歌うようになった。」つまり、少年の

作るべき歌は(意味のない)ラブ・ソングではなく、「社会に対する」メッセージである

べきだと、この酔っぱらいのセリフは示しているといえないか?では、メッセージとは何

か?社会に向けて、「自分の価値観」という「意味ある言葉」を訴える行為を、俗にメッ

セージというのではないのか?「意味のないメッセージ」など、「白い黒猫」と同じくら

い、矛盾した表現だろう。

 もう一点。主人公がひょんな流れで、顔なじみのオカマと酔っぱらいを人質に立てこも

るシーンが劇中出てくる。犯人である主人公の要求は、最初「何もありません」というも

のであった。これに対して酔っぱらいが「お前がここに来てるのは、意味あってのことな

んだろう」と説教するのだが、ここでの「犯人の要求文」と、少年が作ろうとしている「歌」

は、共に社会に対するメッセージとしてシンクロしているものだろう。だとしたら、少年

の要求文に意味がないことに対して、「意味あってのことなんだろう」と酔っぱらいが説

教するのは、やはり少年の空虚感を埋めるには「意味」が必要だと考えているからではな

いか、とはいえまいか?

 なぜ、私がここまで「意味」にこだわるか?それは、私も少年と同様、空虚感を実感と

して持つ人間だからである。だからこそ、その処方箋に対して切実なものを持って本作を

見ていたのである。だからこそ、酔っぱらいのおじさんに代表される、昔は「反体制」と

いう意味があったが、今はそんなものがない、という現状認識にも同意する。問題は、今

の世の中に「意味」というものが存在しないことに対して、もともと存在しない「意味」

を捏造しようと作者は考えているのではないか?というのが私の本作に対する不満なので

ある。むしろ、「意味」などこの世の中には存在しない、ということを前提条件として、

では、どのようにして「良き生」を送ればいいのか?を考えることが、より現実的な選択

ではないか?というのが私の現在の問題意識であり、そのような考えを持つ私から見れば、

酔っぱらいが「意味あるメッセージソング」を歌うことによって、多くの観客が集まって

くるという本作のラストシーンには、まるで遺跡がないから自分で埋めて、さもそこに遺

跡があるように見せかけるような嘘臭さを感じずにはいられなかったのである。

 「自分のやっていることに意味はあるのか?」と悩む高学歴の科学者に対して、「いや、

お前のやっていることに意味はある。お前のその技術力で社会変革はできる」と、信者を

増やした新興宗教が恐ろしい大事件を起こしたことは、未だ記憶に新しい。高度成長の時

代と違って、目標を持てば今日より明日がよりよく進歩する、という時代は終わってしま

ったのだ。社会が悪い!とメッセージを訴えようにも、現に社会は豊かになっており、反

体制を訴えるべき理由がなくなってしまった時代なのだ。もはや、潔く「意味」を追い求

めることを断念し、意味がなくても幸せに生きられる手段を探すべき時代に来ているので

はないか?私が本作に共感できないのは、以上の理由からなのである。 

 

 

[2000年11月28日 0時50分13秒]

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名取北高校演劇部「わたしはグリーン−見えない壁、見えない心 −」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 高校演劇にすっかりはまってしまった私は、仙台地区だけではなく、地方大会もぜひ見

に行こうと、今年はとうとう若柳(北部地区)、本吉(東部地区)まで足を伸ばしてしま

った。我ながら酔狂だよなあ、と少々自分にあきれてしまうところもあるのだが(実際、

それら地方大会の会場で、高校生や父兄、先生方以外の純粋な一般客と思われる人間は私

しかいなかった)、そんな私でもさすがに、平日に年休まで取って若林・太白地区を見に

行った(今年の若・太は会場の都合上、平日開催だった)佐々木久善さんにはかなわない

なあ、と思ってしまう。いや、酔狂のレベルでいえば、どっこいどっこいだろうか?

 そんな私ではあるが、残念ながら地方大会で南部地区だけは見に行けなかった。これは、

東部と南部が同じ日程で重なっていたためで、やむを得ない選択だったのだが、逆に南部

を選択し、見に行った上記・佐々木さんによると、なんでも、南部は非常にラテン系のノ

リが強いところだったらしい。

 どういうことかというと、開場時間になってもホールのドアが開かない。開演時間にな

ってもなかなか芝居が始まらない。公演中、客席で子供が遊び回っている。昼食を取りに

行って、戻って審査結果を聞こうと思ったら、既に全て終了していて、ホールはガランと

して誰もいなかった。という、まあ、あえて良い方にとると、「たいへん大らかな」大会

であったそうだ(笑)。

 それで、私達高校演劇ファンの間では、南部地区は「ラテンのノリ系」とひそかに呼ば

れていたのであるが、しかし、「ラテン的」ということは、一方で「盛り上がったときの

爆発力はすごい!」ということにも通じるわけで、実際、先に紹介した白石女子高の「高

校演劇でミュージカルを上演する」という大いなる冒険などは、まさにその典型例といえ

るだろうが、県大会にあがってきたもう一校、名取北高の役者さん方もまた、そんなラテ

ン的ノリを感じさせるやたらと元気のいい集団で、とても微笑ましいものとして、強く私

の心に焼きついたのであった。

 本作の主人公2人組、ブルーとブラックは、ある特殊な能力を持った人にだけはその姿

が見えるという、いわば妖精のような存在である。ベルリンの壁が崩壊したにもかかわら

ず、我々の周りには見えない壁が存在している、と彼らは主張する。その壁とは、「管理

社会」を比喩しているものらしく、その管理社会の典型ともいえる教育現場で(本作の作

者がそう認識しているのだろう、という意味です。)助けを求めている少女・グリーンを

救うため、彼らはとある高校へ向かう。

 遅刻という校則違反を犯した少女・みどり(グリーン)は、校内にあるカウンセラー室

のようなところに連れていかれ、カウンセラーの赤沢先生(実はその正体は、謎の女レッ

ド!)に催眠術をかけられ、管理社会に組み込まれる人間として洗脳されそうになる。み

どりを助けるため、カウンセラー室でレッドと対決するブルーとブラック!しかし、ブル

ーはレッドに催眠術をかけられたみどりによって、何発もの銃弾を浴び、撃ち殺されてし

まうのであった。ガーン!

 しかし、我に返ったみどりは、「こんな事ではいけない」と、気を取り直し、今度はレ

ッドに銃弾を浴びせ、物語は唐突に終わるのであった(ホント、「え!ここで終わり?」

って感じのシュールな終わり方でした)。

 さて、彼らの中でも特に、私に「こいつのノリはすげーぜ!」と思わせてくれたのが、

なんといってもブラック役の森千春さんである。もう、とにかく最初から最後まで元気が

いい!自分の芝居だけで元気がいいのではなく、他の劇団の公演が終わった後の幕間討論

でもやたらパワフルで、白女の時など、司会からマイクを奪い取り、討論会ジャックまで

していたくらいである(笑)。しかも、その元気のよさが、一本調子でうるさい、という

ものにはならず、見ていて好感のもてるものになっていたのは、おそらく、それが演技に

よって人工的に作られたものではなく、自分自身の中に内在しているものであったため、

結果、それが自然な形で発露されていたのであろう。

 また、謎の女・レッド役の三浦幸枝さんの、お色気爆発!路線の演技も、それをあえて

過剰なケレン味でみせることによって、とても面白く、楽しめるものとなっていた。特に

凶器のナイフを足から取り出すシーンの、実にカッコよかったこと!以前、仙台高校演劇

部の多田さんについて、「とても高校生には見えない」と書いたことがあったが、三浦さ

んもまた、負けず劣らずの、高校生に見えない大人のお姉さまキャラといえるだろう。

 惜しかったのは、これらキャラクターの立った個性的な役者さんが、今紹介した2人以

外にも何人かいたにもかかわらず、それらの役者の面白さを生かしきった演出になってい

なかったように見えたことだ。これは、脚本のテーマが「見えない壁」=管理社会といっ

た、少々固い内容であったためといえるかもしれないが、しかし、他校のお芝居で、表面

的にはエンターテイメントで楽しませつつも、その中身としては深いテーマを内包する作

品がいくつかあったことを考えると、脚本の側にも、自分のテーマをストレートに伝えよ

うとしすぎる「生硬さ」があっただろうし、また、演出の側にも、脚本の中に柔軟に遊び

の要素を含ませる工夫が、もう少しあってもよかったように思うのだ。そういう意味では、

もったいなかった芝居だなあ、という気持ちが残る作品であった。

 それにしても、今回県大会に出場した南部地区の2校のおかげで、「これは来年は南部

を見に行かないといかんなあ」と、強い気持ちがわきおこったのは事実である。まあ、高

校演劇の場合、上の学年が抜けてしまうと、学校のカラーがガラッと変わってしまうとこ

ろもあるので、来年もこのノリが続いているかどうかはわからないのだが。なんとか来年

も楽しい大会であってほしい、と願うばかりだ。また、今回紹介したブラックさんとレッ

ドさんは二人とも3年生で、残念ながら来年はご卒業でコンクールには出場できない(い

や、卒業自体は、おめでたいことだけどね。)が、ぜひその強烈なキャラクターを生かし、

これからも演劇活動を続けてほしい、と切に願う次第である。公演情報教えてくれれば、

なるたけ見に行きますから、よろしくね!

 

[2000年11月25日 22時24分40秒]

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三女高演劇部「カケラ」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今年夏の単独公演までの三女高演劇部は、三年生の層がものすごく厚くて、以前に「ポ

ケット」や「ラ・ヴィータ」の劇評でも書いたとおり、とても内容の濃い芝居を演じてい

たものであった。さて、それら三年生が抜けての最初の一大イベントが、今回のコンクー

ル・県大会だったわけだが、結論から先に言えば、やはり今の三年生の抜けた穴は大きい

ものがあるが、それでも残った数少ない部員で、よく健闘している、頑張っている、と感

じさせる内容であった。

 主人公はある高校のバスケ部の選手。彼女はバスケの才能に関しては、かなり高いレベ

ルのものを持っており、二年生でありながら、彼女の力で、インターハイの予選を勝ち進

んでいるころが多であるらしい。しかし、そんな彼女を快く思わない先輩の嫉妬や、途中

までは「一緒にインターハイを目指そう!」と誓い合っていた親友が、進学やささいな顧

問とのいさかいによって退部していったりといった、彼女にとっては「裏切り」と感じら

れる、辛い出来事が続いていく。彼女がそんな自分の周りに起こる出来事にうんざりし、

バスケ部をやめようかと思っているところへ、不思議な少女が彼女の前に姿を現す。実は

その少女は、彼女の心の中のもう一人の自分といった存在であり、バスケ部をやめたこと

を彼女に謝る親友たちに表面的に優しい表情をする主人公に対し、彼女の中の本音ともい

うべき親友に対する恨み言を、彼女にささやくのであった。

 しかし、親友に対し強いことが言えない主人公に呆れた少女は、「あなたが死んでしま

えば、(あなたの分身である)私も苦しまないですむ」と、彼女に自殺するよう示唆し、

その言葉に乗せられた彼女がまさに踏切から飛び出そうとするところを、2人の親友が偶

然発見し、主人公を助ける。3人が再び友情を取り戻したことを確認した少女は、安心し

姿を消すのであった。

 という内容が、本作の主なあらすじだったのだが、以前からあちこちに書いていること

だが、こういう他者との関係性をシミュレーションしたお芝居を作らせると、今の女子高

生って本当にうまいよなあ、と感心してしまう。センチメンタルで、親友に対する自分の

アンビバレントな思いがとてもリアルで、ラストの友情の確認でホロリ、とさせる。「居

場所」としての友情、というテーマは以前に書いた白百合などにも共通していることだが、

これって高校生に限らず、自分のような世代の人間にとっても切実な課題だからこそ、泣

かせる作品になっているんだろうなあ、と思う。

 特に感動させてくれたのが、主人公・比奈と雑談しているときに、親友の真子が、ふと

「わたし、こんなことしたこともあるんだ」と、傷の付いた手首を比奈にチラッと見せた

りするシーンである。実は、このシーンのあたりの芝居の雰囲気は、けっこうテンポが悪

くてダラダラとしているところで、見ているこっちはなんだかボーッと見ているところだ

ったので、その突然の衝撃的な告白に(でも、セリフとしてはとてもサラッと言っている

ところが、また効果的なのであるが)、思わず虚をつかれたようになって、心にグサッ!

と刺さってくるものがあったのであった。

 あるいは、その2人の会話の最後の方で、親友に裏切られたという思いが強い比奈が、

「真子はわたしのこと、好き?」と聞くシーンがある。真子は「もちろん、好きよ」と返

すのだが、その後、小声で「わたしのことは、好きなの?」とつぶやく。比奈は「え?」

と問い返すのだが、すかさず真子は「ううん、なんでもない」ととりつくろってしまうの

である。こういうさりげないところで、自分と相手との関係性を探り合うような場面って、

見ていてドキドキして、胸が痛くなってしまう。この作品を書いた、佐藤さだ江さんって、

きっとすごく繊細でナイーブな人なんだろうなあ、という想像が容易にできてしまうシー

ンなのであった。

 ただ、残念だったのは、上にも書いたが、テンポが悪くてダラダラしている場面が多か

ったことだ。東北大の「モチモチの木(仮)」でも書いたことだが、叙情的雰囲気を出そ

うとするあまり、沈黙のシーンを多く作りすぎてしまったような印象を受けた。先輩方が、

夏に創作した「ポケット」の中の「他愛もない話」は、一見淡々としているように見えな

がら、物語の中に次々とドラマが生じ、飽きさせないものとなっていたが、そういった先

輩方のいい面を一緒に芝居を作ることによって学ばれていると思うので、なんとか次回で

は、その経験を生かしてほしいと思ったのであった。

 ただ、最初にも書いたとおり、今の3年生が抜けて、2年生は今回脚本・演出を手がけ

た佐藤さだ江さん、お1人であることを考えれば(残りのキャストは皆1年生)、佐藤さ

んの苦労は並大抵のものではなかったように推察される。そんな中で、地区大会で最優秀

賞を受賞し、こうして県大会にあがってきたことは、本当に大したものだと思う。来年の

単独公演が、おそらく佐藤さんの最後の公演になるのだろうが、次回も感動的なオリジナ

ルを作られることを、心より期待したい。

 

[2000年11月24日 23時58分40秒]

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白石女子高演劇部「月下狼伝」 

お名前: アイドル評@太田   

 

 今回、本公演で、主演・脚本・作詞作曲・振り付けをした後藤尚子さんが、劇団ミモザ

という大河原の劇団にも所属していて、僕が以前よりファンだったことは、当ホームペー

ジのあちこちに既に書いているので、読者も御存じのことと思うが、実はこのミモザとい

うところも、劇中で音楽を多用することの多い劇団である。で、けっこうほのぼのファン

タジーっぽいお芝居が多いので、てっきり白女のお芝居も、ミュージカル仕立てとはいえ、

そういった内容のものだとばかり思っていた。ところがどっこい、実際に見てみると、宝

塚か、それともビジュアルロックのコンサートか!といった感じの、実にゴージャスかつ

パワフルなステージであり、しかも主役の彼女の役が、宝塚でいういわゆる男役だったた

め、ミモザでの後藤さんを知っている僕は(たいてい、かわいい女の子役が多い)大いに

驚いてしまったのであった。まあ、ミモザの一員と言っても、後藤さんとミモザ代表のさ

ざなみさんとでは、それぞれ違った感性を持っているのは当然のことだから、彼女の作る

芝居が違う傾向ものであっても、別におかしいことはないわけだが、それにしても「彼女

が本当にやりたかったのは、こういうものだったのね・・・。」と、そのギャップに衝撃

を受けずにはいられなかったのだった(作品自体は面白かったよ。それは誤解なきように)。

 プログラムにも書いてあるとおり、本作は「森に住む人狼(読んで字のごとく人間と狼

のハーフ)と人間の戦いを描いた壮大な物語」である。母親が肺炎で死にかけている少女

・湊が、人狼が持っているという万病に効く薬をもらうため、村の仲間、庄二郎と唖月(こ

の唖月役の村上祐香さんのとぼけたキャラクターがサイコーだった!まだ、1年とのこと、

将来がものすごく楽しみな人である)と3人で山へ向かう。ところで、この3人は、最初

に人狼たちの、まさに宝塚的なダンスシーンがあった後に登場するのだが、これが妙にお

かしかったのだ。なぜかというと、今まで宝塚的だった舞台が、彼女たちの登場によって

突然「わらび座」的空間に180度変わってしまったからだ。本作の面白さは、単に宝塚

的ゴージャスさだけにあるのではなく、この2つの全く異なる世界が奇妙に融合している

シュールな味わいにもあったのである。

 しかし、その万病に効く薬とは、実は人狼の尻尾であった。人狼は尻尾を奪おうとする

人間に乱獲され、人間に強い憎しみを抱いていたのである。そこへ、やはり人狼を捕まえ

ようとする武士・大悟朗もあらわれ、彼らの間に争いが始まるが、はずみで、たまたま地

面にあいていた大きな穴に獅竜(人狼のリーダー)、湊、大悟朗の3人が落ちてしまう。

争い合っていた人狼と人間たちは、3人を助けるために力を合わせることにより、お互い

の間に信頼が芽生え、共に夜食を囲みあう仲となるのであった。

 しかし、翌朝、他の人間たちによる山狩りが始まり、湊たちや仲間を逃がした後、獅竜

はあえなく人間たちによって殺されてしまったのだった(泣)。

 つまり、本作は宮崎駿的なテーマ性が存在する作品であり、表面的にはゴージャスなエ

ンタテイメントで満たされてはいるものの、行間を読んでいくと、単純な勧善懲悪では割

り切れない作者の思いが垣間見えるものなのである。

 その象徴ともいえるキャラクターが、僕は武士の大悟朗だと思う。彼は武士のわりには

腕力が弱く、周りから幼い頃から「ダメダメ大悟朗」と呼ばれている。そんな彼は馬鹿に

した仲間を見返すため、単身人狼を捕まえようと、一人で山の中に入っていたのである。

そんな彼に獅竜は「武士という肩書きだけに、お前は頼っているのではないのか?武士と

いう肩書きをとったとき、お前という人間の真価はどこにあるのか?」と、大悟朗を諭す。

その結果、大悟朗は「武士をやめる!」と宣言し、最後は獅竜たちを助けるために人間の

武士たちと戦い、命を落とすのだが、僕はこの大悟朗を単純な悪役とせず、人間的な弱さ

を持つキャラクターにしたことに、作者の後藤さんの思いを見るような気がし、感動した

のであった。

 実は本作に対する講評で、審査委員長の石川裕人氏が「善・悪をもっとハッキリさせた

方がいい。悪役が一人いると、対立からドラマ性が起きる。」という発言をされていたの

だ。確かに善・悪がハッキリしていると、ドラマ的にはわかりやすく面白いかもしれない。

しかし、悪役があまりにステレオタイプな悪者になってしまうと、その人間性が薄っぺら

なものになってしまう危険性も、またあるのではないだろうか?「水戸黄門」的な、作品

にテーマ性がなく、完全な勧善懲悪のエンタテイメントならそれでもいいかもしれない。

しかし、本作はエンタテイメントで観客を引っ張る内容ではあったものの、その底には人

間の持つ弱さに対する洞察的なものが、行間から垣間見える作品であったのだ。表面的に

は悪者に見える人間でも、そのような行動をとってしまうのは、ステレオタイプな悪人と

いう者がこの世に存在するからではなく、その人の持つ弱さとか、その人が現在そのよう

な行動をとらざるを得ない立場に置かれてしまっている運命の皮肉などがあるためではな

いだろうか?また、武士という肩書きにとらわれている大悟朗という存在は、会社での役

職とか、学校の教師といった肩書きに依存しており、それら肩書を取った生身の人間とし

ての価値が、あなたにどれほどあるというのか?という厳しい問いかけを含んでいる象徴

的存在とはいえないだろうか?それらの意味で、表面的に悪者に見えてしまう人間も、実

は自分たちとそんなに離れた心象風景を持つ存在ではないのではないか?という視点が本

作にはあったように思うし、それを「ドラマ性」というモノにこだわるために、ステレオ

タイプな悪役に変えてしまうのは、かえって作品を薄っぺらなものにしてしまうデメリッ

トの方が大きいのではないか?という疑問を、僕は石川さんの講評に感じずにはいられな

かったのだ。上記で僕は宮崎アニメを引き合いに出したが、例えば「ナウシカ」における

クシャナは典型的な悪役であろう。しかし、彼女がそのような悪役的立場に立たざるを得

ない立場・状況は「ナウシカ」という作品からは痛いほど感じられるものであるし、だか

らこそ、クシャナはステレオタイプな悪役よりも人間的魅力を感じるキャラクターになっ

ているのである。そして、「ナウシカ」という作品にステレオタイプな悪役がいなくても

ドラマ性が充分に存在するように、本作も、大悟朗がわかりやすい悪役となっていなかっ

たからといって、ドラマ性が損なわれていたとは僕には思えないのである。

 などと、石川氏に対し生意気な反論をしてしまったが、基本的には石川氏は本作に対し

肯定的な賛辞(「とても生き生きとして楽しかった。笑えたし、思いが伝わってきた。」

との発言)をしていらっしゃり、それらは僕の本作に対してもった感想とおおむね一致す

るものであったこはを、念のため付け加えておきたい。特に、石川氏が後藤尚子さんに対

し、「脚本・作詞作曲・振付・主演を一手に引き受けるとは、まるでIQ150の丹野久

美子のようだ。将来、後藤さんがポスト丹野久美子となることを期待したい。」と発言さ

れていたことについては、石川氏より以前から後藤さんのことをよく知っている僕として

は、まるで自分のことのように嬉しく、感激したものであった。この際だから、IQは次

回作に思い切って、後藤尚子さんに脚本を委嘱するという抜擢をしてみてはどうだろう?

今までのIQにはないカラーの、けっこう面白いものができるのではないか、と考えただ

けで胸がワクワクしてしまうのであるが、井伏さん、どうなもんでしょうかねえ?(笑)

 

[2000年11月23日 22時46分7秒]

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WINDCOMPANY 「十二夜」

お名前: 瀬川 マーチ   

 

WINDを見に来てくださった佐々木様。わざわざ劇評くださりまして有難うございます。

忙しいところお越し下さいまして有難うございました。

劇評の方読ませていただいたのですが、ちょっと補足させてください。

前回までの公演は「宝塚」の本を使わせていただきましたが、今回はWIND初のオリジナルです。

WIND劇団員、鳳城りむがシェークスピアの「十二夜」を題材にWINDらしくミュージカルに仕上げたものです。

WINDとしましては、「宝塚」という事には余りこだわりはなく、楽しいミュージカルを作ろうということを一番に考えています。

次回どんな作品になるかはまだ決まっていませんが、お時間がありましたらまた是非見に来てください。

お待ちしています。今回は見に来てくださり本当に有難うございました。

 

[2000年11月19日 23時50分50秒]

 

 

お名前: 佐々木 久善   

 

 CHANGE? CHANGE!? CHANGE!!

 これはシェイクスピアの『十二夜』を基にした作品ですが、パックやロズ・ギル、

ガートルード、ハーミア、ヘレンまで登場する通好みのコメディーになっています。

 ご存じない方のために申し上げれば、この劇団は宝塚のコピー(って言うのかな)で

す。本家には及ばないにしても、舞台と客席とが一体になって楽しめる素敵な舞台に

なっています。

 設定を現代のアメリカに移した『十二夜』の物語は案外と原作以上に楽しいもの

になっていると思います。

 

 DREAM TIME!

 この劇団の見所は、ショータイムであると言ってもいいでしょう。

 第1部の劇に対して、表裏一体となっているショーの迫力は見てみないとわかりま

せんが、それはそれは見事なものです。

 私はタンゴ・メドレーの迫力に圧倒されました。

 

[2000年11月19日 8時39分19秒]

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常盤木学園演劇部「GRADUATION] 

お名前: アイドル評@太田   

 

 本作については、既に「学生演劇の広場」で大学演劇人のワシさんが「気に入った芝居」

として紹介され、また、劇評こそ書いていないものの、劇評倶楽部の佐々木久善さんから

も「よかったですよ」とのお話をうかがっていたので、所用のため地区大会の際は観劇す

ることのできなかった私は、見られなくて残念に思っていたところであるが、本日県大会

でやっと本作を拝見することができ、なるほど、これはお二方の言うとおり、とてもいい

作品だなあ、と感動してきたのであった。

 本作は、ある仲良し高校生6人組の卒業式の一日を描いたものである。6人のうち、成

績優秀な“礼”が、式で答辞を読むこととなっており、式が始まる前の教室で彼女は友人

達に答辞朗読の「練習」をさせられる。しかし、彼女の書いた文章があまりに紋切り型で

あったため、もっと生き生きした文章を書いて欲しいと、仲間達があれこれと注文をつけ

る。その具体的なエピソードにあわせて、場面は今までの高校生活での印象深かった思い

出へと変わっていく。

 オリエンテーリング(修学旅行のようなもの?)や文化祭、体育祭と場面は展開してい

くのであるが、その思い出の中で彼女たち仲良しグループは、実は7人だったことが明ら

かになっていく。上記に書いたとおり、卒業式の日に集う現在の彼女たちは6人なのに・

・・。では、この1人の差はなんなのか?実は、1人、在学中に自殺した友人が彼女たち

のグループにはいたのである。

 物語の中に「死」をエピソードとして挿入することは、観客を泣かせる・感動させるた

めには、たいへん効果的な方法である。しかし、その「死」が真に観客にとって感情移入

のできる性質のものでないと、かえって「クサい」という逆効果を与える危険性もまた有

するものである。では本作ではどうだったか?

 実は本作で自殺する少女、“愛”の自殺の原因は、受験ノイローゼだったのである。彼

女はとても繊細で、オリエンテーリングで浜名湖へ行ったときも、満点の星を見て感動し

たり、湖に足をつけてじっと物思いにふけるような少女である。また、体育祭で、みんな

が懸命に応援したり、徒競走で必死に走ったりする、いわば人間が生で本能をむき出しに

するような姿を、何か恐ろしいと感じてしまうような性格の持ち主である。つまり、これ

らのエピソードは、彼女がいかにナイーブであるかを示すものであり、そしてそのナイー

ブさが悪い方に作用すると、「心の弱さ」となってしまう、という自殺の原因として機能

していたわけで、その意味ではこの脚本は伏線の貼り方が非常に巧みであったわけである。

 しかし、私が最も心を突かれたのは、自殺した日の深夜、彼女が友人に電話した内容で

ある。その日は、ちょうど冬休み前の中間試験の真っ最中だったのだが、彼女は友人に、

こう悩みをうち明けるのである。「こんな受験勉強なんかして、なんの意味があるんだろ

う」と(脚本を持っているわけではないので、正確なセリフではないのだが、そういった

内容のことを彼女は言ったのである)。もちろん、私のような30代の人間でも、以前受

験勉強をした思い出はあり、これを経験したことがあるものなら、多かれ少なかれ、上記

のような疑問は感じた覚えがあるだろうから、私達はその思い出によって、彼女のセリフ

に感情移入してしまうのだ、という解釈もできるだろう。しかし、私にはこの「なんの意

味があるんだろう」というセリフは、高校生という人生の一時期に限定されたものではな

く、30代の自分にも普遍的に感じられてしまう疑問であるからこそ、私のような受験を

とうに過ぎた人間すらも、強く心を揺さぶられてしまう言葉となってしまうのではないか、

と思うのだ。

 考えてもみてほしい。たとえ受験勉強が終わったとしても、私達の人生には、本当に何

らかの意味があるのだろうか?例えば会社に就職して、非常にストレスの強い仕事を任せ

られたとする。あるいは逆に、全く楽な仕事だったとしてもいい。自分はその仕事に対し

て非常に苦労しているとして、でも、ふと一歩立ち止まって考えたとき、自分にとって、

その仕事はどの程度の意味を持つものなのだろうか?もし、自分がその会社にいなくても、

誰か別な人間がその仕事をこなすだけの話ではないのか?あるいは、万が一自分がその組

織において、かけがえのない存在だったとしても、その会社が存在すること自体、世界に

とって本当に意味のあることなのか?これは仕事に限ったことではなく、世の中というも

のを一歩退いて見てしまったとき、自分という人間がこの世界にとって、本当に意味のあ

る存在なのか?という疑問は、人生において常に実存する問題なのではないだろうか?た

だ、食べて寝て、結局はそれだけで死んでいくのが人生ではないのか?毎日の忙しさに紛

れて、そういった問題は頭を離れていることが多いが、それは単に問題を先延ばししてい

るだけのことではないだろうか。本作の“愛”の言葉に、受験生をとうに卒業している私

のような人間も共感してしまうのは、彼女の発した疑問に、そういう普遍的な問題が含ま

れているからではないか、と私は思うのである。

 さらにいうなら、本作の優れた点は、そういった問題提起を観念的な堅苦しい言葉で提

示するのではなく、「高校生活」という具体的で、誰もが経験したシチュエーションの中

で示しているところにあるのだと思う。たとえ、同じテーマを扱ったとしても、観客に感

情移入してもらうには、演劇が芸術・芸能である以上、そのための「芸」が必要なのは当

然のことである。テーマをあまりにストレートに提示したのでは、それは「演劇」ではな

く「論説」になってしまう。さらにいうなら、本作の出演者達が、舞台の上での「高校生

活」を、本当にナチュラルに、現に自分たちが学校で会話しているように演技していたこ

とを、私は高く、高く評価したい。例えば、セリフをしゃべっている役者とは別のところ

で雑談している登場人物達のしゃべりが、本当に一番町や中央通りを歩いている女子高生

がペチャクチャしゃべっているような自然体であったのだ。脚本に載ったセリフ以外の部

分でのこうした細かい仕草が、本作に強いリアリティを与えていたと、私は思うのである。

 本作は既成の脚本を使ったものである。しかし、その内容をまるでオリジナルであるか

のように、自分たち自身のものとして引き寄せることに成功したことが、本作を感動作に

した大きな要因だったと思う。この作品については、そう私は結論づけたい。

 

[2000年11月18日 22時58分45秒] 

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未来樹シアター「みんな、待ってる」 

お名前: KIT   

 

 土曜日の夜見てきました。すべてに実力を感じさせる公演だったと思います。

 

 ...それにしても「みんな、待ってる」があれほど怖い言葉だったとは。(^^;

 

 

 必要にして充分、簡素でセンスの良さを感じさせる舞台装置や照明からは攻めの姿勢が

うかがえた気がします。

 なんだか偉そうな言い方になってしまいますが、去年の「寂しいきつね」ではちょっと

カタくて周りの出演者たちとギャップの感じられた女優さんが、今回は見事に溶け込みつ

つ、埋没せず、物語を盛り上げていた感じがしたのは見事でした。

 

 本と演出についてですが、麦版「ら抜きの殺意」とは遠くて近いアプローチだったように

思えて面白かったです。

 

 (お客の層がかなり違ったので多くないとは思うのですが)両方ごらんになったお客さん

はどのように思われたか、興味深いところです。

 

 知り合い何人かと話してみたなかでは、20代とそれから上とで感想が分かれました。

私を含む後者はこの話にそれぞれ何かしら後味の悪さを感じたようです。

 個人的な好みの話になってしまいますが、あの閉塞感はちょっと疲れました。

 

 でも「みんな、待ってる」は厳しくて、確かで、鋭くて、とても勇気のある本だったと思

います。その厳しさはもしかしたら作者が世の中にまだ大きな希望を持っているからこその

ものなのかも知れませんね。

 

[2000年11月16日 12時43分10秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

未来樹シアター 「みんな、待ってる」劇評

 みんなが待ってるのは何なのか。「現代病」を描いた秀作

仙台劇評倶楽部 小野一也

 

 舞台には、8コの木箱が置かれて、バックの紗の手前に8本の細い柱が

下がっているだけ。「未来樹シアターの舞台は高低を生かした舞台」という

イメージを強く持っていた私は戸惑いを感じた。その戸惑いは、斜の向こう

で踊りを見せられるに及んで「いつもとちがうぞ」という興味に変わった。

が、その時点では、その「興味」は、「はたして?……」という「?」付き

であった。

 さて、これは個人的なことだが、私は《イジメには吐き気をもようすほどの

嫌悪感を持っている》。冒頭のエナの儀式を経て展開されるイジメをみるのは

席を立ってしまいたい程につらいことであった。が、それは、それほどまでに

「あのイジメは迫力があった」という証明である。そして、その迫力が、

展開されるストーリィに活(い)きていくことになる。「冒頭で興味を持た

せて芝居の中にグイグイと引きづり込む」は、芝居作りの鉄則である。私は、

「前半は、テーマを伝えるために展開されるお話しの為の説明、という作り

になっていて退屈するといった作品が多い」ことに不満をもっていたが、

そんな中で「未来樹シアター」は、今までも冒頭から説明ではなく興味を

持たせて引きづり込むという「方式」になっている。この芝居の場合この

「方式」は、顕著で、見事に活(い)きた。

 作者は、チラシに「黄昏の子供」の改訂版のはずだったと書いているが、

「黄昏の子供」で扱った《おまじない雑誌》を、「不幸のメール」に置き

換えて、はびこ

っている「携帯電話」、それも「居場所のわかる携帯電話」の特徴を活(い)

かして観客を舞台に集中させることに成功した。

 さらに、観客を舞台に集中させる為に効果的だったのは、「女学生たち

の場面」と、「会社の3人」との場面を交互に展開させ、《一見何の関連性

もない2つ場面》が、どう結び付くのかという強い興味を持たせたということ

である。得意の不気味さを漂わせながら展開する。作者の芝居作りの「智」をみた。

 その「智」は、「人間はだれでもが何かを待って生きている。が、待っている

ものが何かが分からない。それはなぜなのか。どうすれば分かるのか。分からない

まま、一人っきりになる不安の中で、その不安を恐れて他人との結び付きを求める。

 

その結び付きは、直に話し合う、本音で話し合うという形をとらずに、《携帯電話》

でしゃべりあうとう形しか取れない。それで満足したと思い込もうとする。思い

込もうとはするが、そんなことで待っているものは何なのかは分かるはずはない」

という、現代が抱えている心底の「現代病」とも言える「問題」を提起して見せた

ことにある。      

 話は変わるが……、文月奈緒子さんにお願い。心底からお願い。

 「夢の観覧車」の上演権はどこにあるのか分かりませんが、あの作品を、

「未来樹シアター」で上演できるよう努力してください。上演してください。

 言うまでもないことですが、「いじくり回される前の、文月奈緒子さんの作品」を、

「城崎 憫」の演出で。         《11月12日 17時 観る》

  [2000年11月14日 20時35分16秒]

 

 

お名前: 水天堂    URL

 

 明日も公演があるので、具体的な内容に関しては触れませんが、一筆感想を

書きたいと思います。

 

 面白かった。

 私にとって、今まで観た未来樹の芝居の中で一番見応えのある公演でした。

 内容的にも、また舞台美術を含めた構成・演出的にも、今まで観た未来樹の

公演に無い要素が取り込まれ、それが効果的に生きていたように思います。

 

 従来の未来樹の芝居が「ほんの少し異質な要素を抱える少女が、異人・異界

と出会うことで、それに惹かれそこに踏み込む(ないし踏みとどまる)」とい

う話が多かったと思うのですが、今回は、「全ての人に異質さがそれぞれ内在

し、現実世界そのものが同時に異界である。」という前提から始まっているよ

うに思います。

 この違いにより、見終わった後、より現実的な救いの無さが、そしてそれゆ

えの救いが、感じられました。

 中心となる人物も、今までとちょっと雰囲気が違うような気がしましたが、

この辺の内容的な変化の延長線上にあるように思います。

 

 また、舞台美術や構成面での変化が、今回の台本を(文月さんの世界を)よ

りクッキリとしたものとして見せてくれたように思います。また、従来より、

舞台が客席に近いような感じも受けました。

 

 特に一部で噂になっていた未来樹パラパラ隊の舞台一杯でのパラパラは、そ

んなシーンがあると知っていてもなかなか壮観で、恐ろしかったです。

 

 今まで未来樹を見慣れている方にもお薦めです。

  [2000年11月11日 21時55分10秒]

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演劇集団 円 小劇場「抱擁ワルツ」劇評 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

「人間は一人では生きてゆけない」

 

 芝居が始まる前。観客の目の前に砂浜が広がっている。

 照明が落ちる。

 照明が入ると、二人の男が砂浜の前に立っている。

 二人の男は、泣き顔になり、笑い顔になり、苦悩の顔になり……、それらの顔を何回も

何回も繰り返す。二人の男は、全く同時に寸分違わずにその顔を繰り返す。なぜに全く同時に

それらの顔を繰り返すのかは、芝居が進行するにしたがい、観客に伝わる。計算された、

巧みな手法である。そして、それがこの芝居のテーマなのである。

 この汚い服装の二人の男は、本屋から本のページを破り取っていつものようにこの砂浜に

やって来たのだと分かる。そのページは精子についてのページだことも分かる。しかも一人の

男は、左手の手のひらを丸めてその中にその精子があり、こぼれないようにしていることも

知れる。この精子が大きな意味を持っていることも後で明らかになる。

 さて、これらのことが観客に知れるには時間がかかる。一人の男の発する「ことば」は

「言葉」になっていない。その「言葉」になっていない「ことば」を、もう一人の男には

理解できる。そのことも大きな意味を持っていることが後で知れる。一人の男の、「言葉」に

なっていない「ことば」を、もう一人の男の返答で観客に芝居の中身が知れる……という風に

して芝居は進行して行く。この進行の仕方も又、この芝居が訴えようとしているテーマその

ものなのである。

 盗み取って来た本のページを奪い合うようにして読んだ二人が、精子の持つ大きな意味

「精子の真実」を知り、感動して、その手のひらにこぼれないようにして持っていた精子を

空に向けて放つ場面は感動的である。この場面あたりから芝居はそのテーマが表面化して

観客に伝わり出す。

 宇宙に向けて精子を放った一人の男は、放ったが故に、一人の男に「抱きたい」と言う。

この「抱きたい」と言い出した男の心情に私は涙した。この場面の「つながり」「流れ」に、

演出の冴と、鋭いまでの、そしてそれでいて暖かな感覚を感じた。

 「抱かれる」ことに拒否反応を示していた男が、抱かれることに同意するその経過、

その間に交わされる会話。そして、同意して抱き合ってから交わされる会話が心打つ。

なぜなら、精子を宇宙に放った場面で表面化したこの芝居のテーマは、この抱き合うことに

なった二人の会話で、より具体化して、さらには、車椅子の少女と母親が登場により最高潮へ

と向かい出すからである。私は、身を乗り出していた。

 車椅子の親子の会話は、二人の男の会話と異なりストレートである。しかも、その中身は

すごみをおびている。この対比で、心通わせるのに言葉は「抱擁」ほどの大きな意味を

持たないことを示す。母親が男と情を交わす場面を目撃したと告げる少女と、最初はそれを

否定していた母親が肯定するまでの二人の会話はドラマチックである。母親を攻撃していた

少女が、事実を認めた母親に対して大きくうなづき、それ以降は素直。「はい。お母様」と

言うセリフの響きは優しい。が、この優しさは大きな意味を持っていた。ここにも演出の冴が

感じられた。優しく「はい、お母様」と言った少女は、実はその夜母親の目を盗んで二人の

男の元に車椅子を走らせる。不自由な足をものともせずに、車椅子から身を乗り出して抱き

合った二人の男に両足を広げて「見て」「見て」と迫る場面は迫力があり、この芝居のテーマが

より具体的に露呈されることになる。  

 この芝居のテーマは、優しさである。一人では生きて行けない人間が求め会う優しさである。

抱擁し合う二人の男。男に情を求める母親。そして少女。観客には通じないが、もう一人の

男には通じるという「言葉」、この特異な手法。「抱擁」を通じて心通わせ合うことの大切さ、

優しさを私たちに与えてくれた舞台であった。宇宙に放たれた精子。広い宇宙の中の小さな

小さな人間。一人一人は小さな存在だが、その人間は心を通わせ合うことで、大きな宇宙に

匹敵した大きな広がりを持った存在になり得る。

私は、帰り道に夜空を見上げて深呼吸をした。すごく優しい気持ちになっていた。

さて、この芝居を観た翌々日、「芝居のジャンル分けが必要だ」という知人と議論した。

私は、この芝居「抱擁ワルツ」はジャンル分けするとしたなら、何というジャンルに入るの

だろうかと思いながら、「ジャンル分けは必要無い」と主張していた。新劇の「文学座」から

枝分けして「演劇集団円」を結成したのはなぜなのか。新劇ではないものを目指そうとした

ためなのだろうか。この芝居は「新劇」というジャンルで作ったのか。そうでないとしたら

何というジャンルで作ったのか。そんなことにこだわる必要は無いと私は思った。

先にも書いたが、私はこの芝居を観終えて「一人では生きて行けない人間が求め合う優しさ」を

強く感じて、優しい心持ちになって帰宅した。この芝居の作り手は、そういう思いを込めて

作ったのだろうと信じている。「この芝居のジャンルは何か」ということは、この事実の前に

何らの意味も持たない。  

  《11月3日観る》

[2000年11月14日 20時30分49秒]

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劇団演奏舞台 「難波津に咲くやこの花」ー 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

劇団演奏舞台 「難波津に咲くやこの花」ー近松拾遺

「芝居とは想像力を膨らませる芸術」を証明した秀作

      

 わざわざ演奏と名付けた舞台とはどういう舞台なのか? ということに興味があったし、

期待感もあった。その期待感が満たされたかどうかについては、後に触れることにして、

どうしても書きたいことから書き出すことにしよう。

 この作品を観て「芝居とは、想像を膨らませる芸術である」と、つくづく《思った》。

というよりは、《確認》した。そのことを書くためには、六月にロシアへ旅して「白夜・

芸術祭」で「モスクア・ユーザーパド劇場」の「検察官」「ロミオとジュリエット」と、

「ポクロフカ劇場」の「結婚」「三人姉妹」を鑑賞して感じたことを書かねばならない。

 

 さて、この四本に共通していたのは、《ほとんど舞台装置がない》ということである。

「ロミオとジュリエット」では鉄柱が六本あるだけ。「三人姉妹」は、大きなテーブルのみ。

「検察官」にいたっては、舞台にはなんにも無し。舞台装置が無くとも何らの物足りなさを

感じない。このことについて「ロミオとジュリエット」を例に詳しく書いてみよう。

六本の鉄柱は「屋敷の柱」になり、「広場に面した屋敷」になり、ロミオとジュリエットが

恋を語る時には平面の鉄柱は落差のある「バルコニー」になる。両家の決闘の場面で、

照明を落としてその鉄柱に剣を当てれば、火花が散りに散り、すさまじい闘いを想像させる。

この「ロミオとジュリエット」を仙台演劇鑑賞会は例会にした。九千人近い会員が鑑賞したが、

イヤホンガイドを耳にして鑑賞した会員から「分かりやすかった」という喜びの声は聞いたが、

「舞台装置が無くて物足りなかった」という声は全く聞かない。イヤホンガイド無しで現地で

鑑賞した時既に「芝居には舞台装置は要らない。芝居は想像を膨らませる芸術」と思った私は、

鑑賞会の会員から「分かりやすかった」との声を聞くという事実を経て、この《劇団演奏舞台》の

「難波津に咲くやこの花」を観て、そのことを「確認」したと言う訳である。

 さて、舞台に装置は何もない。奥中央にドラム等演奏楽器がデーンと位置している。

コンサートの舞台としか思えず、手前にお膳がなければ芝居の舞台とは思えない。芝居は最後

まで装置はないままで進行する。屋内、屋外と、数多くの「場」はあるが、その「場」は

舞台装置が無くとも、違和感無くイメージ出来る。芝居に舞台装置は不要であるなどと言う

つもりはサラサラない。私が言いたいのは、舞台装置が無くとも芝居は成り立つということで

ある。それはどのような場合か。モスクアの劇団の芝居や、この「難波津に咲くやこの花」の

場合に共通して言えるのは「演出力」「演技力」が優れていたということである。優れた

「演出力」「演技力」があれば想像が膨らみ、想像で舞台は自分の中にクッキリと浮かび

上がるのである。役者は自由に動き回り、伸び伸びと演技する。観客は自由に舞台を想像して、

舞台と客席は一体化する。別役実の「電柱一本だけの舞台」を例に出すまでも無く、芝居の

楽しみ方の一つに「想像力を膨らませる」ということがある。想像力を膨らませることが出来る

「力」を持った芝居に出会った時の幸せを、モスクアの劇団の芝居に引き続き、この芝居でも

味合った。

 時代物の芝居を現代の衣装で演じても違和感を与えない。《古典劇を現代劇化》するには、

「自信」という確かな裏打ちがなければならない。パンフレットによれば、この劇団の二つ

ある路線の一つにしているということ、うなづける。

 今なぜ心中物なのか? と思った人はいるかもしれない。が、この芝居を観終えた時、勿論

心中を是とするわけではないが、心中という形で死を選んだ二人に愚を感じなかった。

近松門左衛門の「曾根崎心中」を原典に、劇化した作者は、「形だけの愛や見せかけの

愛だけがはびこり、真の愛不毛の現代だからこそこの芝居を」と考えたのではなかろうか

思ったものだった。事実古臭さを全く感じさせなかった。

 大阪弁の達者さに、「大阪の劇団だったかな」と、も一度パンフレットを見直したほど。

演奏者が、楽器から離れて「役者」になって、また楽器もどって「演奏者」に、という

早変わりには一瞬「あれっ」と驚いたが、

面白い趣向。

 さてさて、冒頭にふれた「生演奏」についてであるが、結論から言ってしまえば「期待感を

満足させてくれた」ということになる。パンフレットに、「芝居と臨場感にあふれたサウンドとの

相乗効果が好評」と書いてあったが、「同感」である。正直に言わせてもらうと、私は

「音に効果を頼り過ぎる芝居づくり」に反対を唱えて来た。冒頭で「興味がある」と書いたのは

そのためである。が、この芝居の場合、というよりは、この「劇団」の場合は、「音に頼り過ぎる」

ということではなく、音と一体になった芝居作りを「基本」に据えて芝居作りをしているのである。

しかもそれは「生」で。言い方を替えるなら、「生の音を基本にした芝居作り」がこの劇団の基本路線。

その「基本路線」にこの作品は「ピシュリとはまった出来になっていた」と、私は言いたいのである。

劇団名が文字どおり「劇団演奏舞台」なのだ。

    《10月15日観る》

 

[2000年11月7日 20時37分56秒]

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東北大学学友会演劇部「モチモチの木」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 僕が最近、高校演劇や大学演劇など、学生演劇に強い関心を持っていることは、既にこ

の欄で何度も書いているとおりである。その意味で、今回の東北大の新作「モチモチの木」

にも、期待を持って観劇に望んだのであるが、残念ながら不満を感じざるを得ない内容の

作品であった。

 本作の主人公・俊介は20歳の大学生である。両親が交通事故で10年前に突然亡くな

り、今は高校生の妹と二人暮らしをしている。そんなある日、自分の部屋に見知らぬ若い

男女が上がり込んでくる。この2人は、自分たちのことを「お前の両親の幽霊だ」と自己

紹介し、妹も「父さんと母さんだ」とあっさり納得するのだが、俊介だけはどうしても納

得できない・・・。

 本来、このような出だしで始まる芝居であれば、次に観客が期待する展開は、「では、

なぜ両親が今頃になって突然やってきたのか?」とか「なぜ、幽霊とはいえ両親の年が異

常に若いのか?」といった謎解きであることはいうまでもないだろう。常識的に考えれば、

突然、両親の幽霊がやってきたという不条理が、もし自分自身におこれば、狼狽するのは

当然だし、その意味で一番狼狽している俊介に観客が感情移入するのは自然な成り行きで

あろう。

 しかし、本作では、その謎解きがさっぱり展開しないのである。では、何が舞台上で行

われるかというと、父親と妹がTVを見ながらダラダラしたり、家族そろって黙々と朝食

を食べたりするシーンが延々と続くのである。そして、それらのシーンで登場人物が沈黙

するシーンが、やたらと長い。

 僕はこの展開を見て、演出さんは叙情性を出したいがために、沈黙のシーンを多用して

いるのではないか?と思った。というより、それ以外の理由が見あたらないのである。し

かし、それは残念ながら、誤った演出法であるように思われる。僕は観客の立場でしか演

劇に関わっていない。そういう意味では、演出に関しては素人だが、同じような叙情性を

持つ演劇や映画は、好きで何本も見ている。それら成功作との比較をすることくらいなら、

僕にもできるというものだ。

 例えば、平田オリザや宮沢章夫といった作家が作る、いわゆる「静かな演劇」といわれ

る作品を見ていると(この「静か」が、叙情性を醸し出している効果となっていることは

彼らの作品を御覧になった方なら御存じだろう)、確かに役者はセリフを淡々としゃべっ

たり、BGMがほとんど流れていないといった特徴があるかも知れないが、沈黙のシーン

がやたら長いということは決してないはずだ。つまり、静かではあるが役者がコミュニケ

ーションを交わし続けることによって、舞台上でドラマは間違いなくおこっているのであ

る。表面的に沈黙を多くして、静かな雰囲気を作ることにより、叙情性を漂わせようとい

う試みは、観客をただ退屈させるだけという逆効果しか与えていないように僕には思える

のである。

 もう一点、疑問に感じたことがある。それは、父親の性格設定である。両親が突然、若

い姿で帰ってきたことの理由が明らかにされないのは、ある程度やむを得ないものと思う。

つまり、学生だけの芝居である以上、両親役にふさわしいそれ相応の年に見える役者がい

ないため、幽霊が出るということ自体が不条理な設定なんだから、両親の年が異常に若い

という不条理があったっていいだろう、とおそらく作者は考えたのだろう。ここまでは観

客も納得できる。しかし、父親の精神年齢までが異常に低く、小学生並のイタズラ(例え

ば、スライムを息子の鼻に押しつけて、「鼻水!」と言ったり、掛け軸の裏に秘密ののぞ

き穴を作ったり・・・)をやたらとするというのは、どういうことだろう?年が異常に若

くなっていても、中身はやっぱり昔の父さんだ!ということであれば、最終的に両親の再

会、という感動に観客を持っていくことも可能であろう。しかし、人格まで変わってしま

ったのでは、正確な意味で父親と再会したということにならないのではないだろうか?

 これは、もしかしたら両親の幽霊が帰ってきたことによる子供達の困惑を基にしたドタ

バタ・コメディーを(最終的には感動に持っていくとしても)本当は作者は作ろうと考え

ていた、ということなのだろうか?しかし、だとしたらますます、沈黙を多用した叙情風

演出は矛盾したものとなってしまうはずだ。

 誤解のないように書いておくが、役者陣の演技はとてもナチュラルなものであった。会

話の時に、ヘンに一泊間が空くようなところもなかったし、セリフに変な抑揚がついたり、

逆に棒読みになるようなところもなかった。つまり、本作が疑問作となった原因に役者の

責任はない、と僕は思う。やはり、演出に問題がある、ということではないだろうか?

 本公演は、明日、あさってとまだ続くのであるが、できることなら、あの以上に長い沈

黙の箇所を、少しでも直していただくことを強く希望したい。それによって、公演時間は

極端に短くなってしまうかも知れない。しかし、ダラダラとした芝居をお客さんに見せる

よりは、次善の策としてぜひとも考慮して欲しいのだ。演出さんの善処に期待するもので

ある。

 

[2000年11月5日 0時14分38秒]

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サイマル演劇団「ミリオン!!!!!」 

お名前: W.S   

 

「感動を共有するより、衝撃を産むことを目標として、役者がストーリーやテーマに隷属

することなく、<役者の背骨が唄い始める芝居>を目指して...」

 これがこの劇団のプロフィールである。今回の芝居はこの劇団の目標が明確に観客に伝

わり、そして劇団自体も一区切りの成長段階を越えることができた芝居ではないかと思う。

 役者の演技については、太田氏とほぼ同じ感想であえて付け加える必要はない。前回の

舞台「昭和かれすすき」の段階に比べて、藤岡成子、カーツ福間の成長は著しいと感じた。

どこが成長したのかといえば、前回は表面的な演技を懸命に作り上げようとする意気込み

のあまり、堅さが目立ち、大切なところで、テンションが落ちてしまった点が特に気にな

っていた。今回は旅公演などで場数を踏んで来たせいだろう。表面的な固さがとれ、その

代わりその力が自分の内面を深く掘り起こし、自分自身の個性を柔らかにそして大胆に、

表に引き出していた。そして、それが他の二人のレベルに追いついてきたと思われる原因

であろう。

 芝居全体のテンポはスムーズになり、軽快で気持ちがいい。役者もそのリズムに上手く

載ってのびのびと演技をしていた。私があえて強調しておきたいのは、その軽快なリズム

の芝居の中で、「泣き虫横丁」のシーンだけが全体から浮き出ていたことである。これは

決して失敗ということではない。短いリズミカルなそして軽快な会話が全般に続く中で、

このシーンだけが詩的で情緒的でそして、ゆったりと我々にモノローグ調の台詞で語りか

けるのである。異論があるかもしれないが、私はこのシーンが一番役者自信の個性というか、

「背骨」、そして「心」が観えてくるシーンではないかと思った。この部分は前回の「昭

和かれすすき」とつながりをもつシーンであるが、初演の「ミリオン」のときもこの

シーンは入っていたのだろうか。もし、今回初めてこの場面を挿入したとするならば、

私は見事に成功したと思う。これによって作品全体が大変重層的になったのだと思う。

また、もしこのシーンが小林氏と赤井氏の共同執筆によるものだとしたら、今後もこ

のよう書き方をすべきではないかと思う。

 最後に赤井氏の役者の個性を引き出す演出はぜひ見習いたいと思う。演出が役者を

愛しているそんなことを感じられる劇団だから1度みただけで好きになれたのだと私

自信好きになれたのだとあらためて感じることかできた。

 

[2000年11月6日 19時35分4秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作は昨年公演されたものの再演なのであるが、初演の時と比べて、より面白く、楽し

める仕上がりとなっていた。その理由は、単純に一つに限定されるものでなく、いろいろ

な複数の要素が絡まりあってのものであろうが、少なくとも僕にとって一番印象に残った

のは、役者陣が以前に比べて、すこぶる充実したなあ、ということである。

 以前のサイマルは、良くも悪くも佐武令子さんが一人輝いていて、その他の役者には強

い印象が感じられない感があり、佐武さんが登場している場面は舞台が生き生きしている

が、彼女の出ないシーンになると、途端に物足りない雰囲気が場内を覆っていたようなと

ころがあった。しかし、今回は主要登場人物である4兄弟が、それぞれに個性的演技を見

せてくれ、佐武さん一人が目立つということなく、他の役者同士の絡みでも充分楽しませ

てくれたのであった。

 特に強調したいのは、前作の「昭和枯れすすき」でも指摘したが、前回初演だった藤岡

成子さんの存在である。佐武さんとは別の魅力を持った彼女の登場によって、サイマル女

優陣が二枚看板になったことが、僕のような「アイドル好き」ファンにとっては、いい意

味で、とても大きな変化と感じられるのである。今までサイマルに登場していた他の女優

さんには、残念ながら佐武さんと比べると、やや物足りなく、いわば位負けしているよう

なところがあったのだが、藤岡さんは、役者としてのキャリアが今までほとんどない人に

も関わらず、その存在感はなかなかどうして、大したものなのである。

 彼女の魅力を一言でいうと、やはり表情のとても豊かなところであろう。喜怒哀楽の表

情の変わり方がとてもハッキリしていて、しかもそれが大仰とか、クサいという印象では

なく、本当に内面から喜びや怒りがにじみ出ているように見えるところが素晴らしいので

ある。そして、その豊かな表情のベースにあるものは、明るさであり、元気の良さである。

そういう「元気の良さ」的なところが、前作の少年探偵というボーイッシュな役どころに

マッチしていたのであろうが、今回演じたいくつかの女性の役でも、それが「明るく、元

気な女の子」という魅力的方向に作用しており、決して少年の役だけが似合う単色な役者

ではないことが証明されたのであった。僕は、今回の彼女の演技を見ていて、ふと「ノル

ウェイの森」に出てくる「緑」という女の子のことを思い出さずにはいられなかった。屈

折してネクラなところのある主人公・ワタナベ君は、この緑という元気で自由奔放な女の

子と出会うことによって、心の中の屈託が次第に癒されていく。僕自身も、自分自身がネ

クラでオタク系的な性格だという自覚があるせいか、藤岡さんのような生き生きした魅力

を感じさせる女の子を見ていると、それだけで元気を分けてもらった!とでも形容したく

なるような、癒された気分になるのである。

 そして、もう一方の看板女優・佐武令子さんが、そういった藤岡さんの持つ雰囲気と正

反対の魅力を持っているところが、今のサイマルの強みとなっていると思う。藤岡さんが

元気系なら、佐武さんは不思議系である。彼女の表情のベースは、穏やかな微笑である。

もちろん、場面によって怒ったりするシーンもあるのだが、その怒った顔も、なんだかベ

ースの穏やかさの上に仮面のように張り付いたような表情なのである。これは、彼女が下

手だということでは決してない。むしろ、どんな表情をしても、それがメタのように見え

てしまい、その根っこにある穏やかさが見る者をホッと落ち着かせる方向に持って行くと

ころが、彼女の魅力なのである。いってみれば、小津映画における原節子的な穏やかさ、

とでも形容すべきものであろうか。その、メタ的なところがボケの方向に作用すると、前

作で僕が劇評で書いた「バラドル」的な面白さに向くのであろう。僕はアイドル評倶楽部

を名乗っていることもあるから、ある有名なアイドル批評の言葉を、ここで引き合いに出

させていただこう。それは、ある評論家が口にした「山口百恵は菩薩である」というフレ

ーズである。僕なんかに言わせると、あんなキツい感じのする姉ちゃんのどこが菩薩なん

だ?という疑問を抱かずにはいられないのであるのだが(笑)、むしろ佐武令子のような

存在にこそ、菩薩という形容詞は似合っているのではないだろうか?あの、能面のようで

はあるが穏やかさをたたえた微笑は、観客である僕にとっては、「ああ、なんかうまくい

えないけど、今まであったいろんなことをみんな許してもらえそう。」と思わせてくれる

ような安心感を与えてくれるのである。

 この2人の看板女優にプラスし、前作に引き続き客演した佐藤トモヒコ君が、またいい。

彼の演技はナチュラルさというよりもむしろ、大衆演劇的大仰さが特徴となっている。し

かし、それはサイマルという劇団のカラーを考えると、むしろプラスの方向に働いている

と思う。つまり、役者の演技でナチュラルさが評価されるのは、芝居にリアリティを出す

ためであろう。だが、リアリティというのもまた、観客に自然に芝居を見せるための「手

段」に過ぎない。観客を楽しませることが「目的」であることを考えるなら、必ずしもす

べての芝居がリアリティを追求する必要などないのだ。そして、大仰さは観客にとってデ

フォルメという面白さを提供する手段として充分に機能するものである。以前、三角フラ

スコに出演していた頃の彼は、その劇団の作品の持つカラーが、静かな雰囲気を重視する

ものであったため、どうも場から浮いているような印象を観客に与えていたように思われ

るのだが、サイマルという過剰さが魅力となっている劇団に出演したことで、彼の個性が

生きる方向に働いたことは、双方にとって喜ばしい結果となったと思う。

 そして、カーツ福間君。彼も当初はその他大勢的役者であったが、「擬似鼓動」のウル

フマン・ジャックを演じたあたりから、濃い表情でありながら、穏やかな優しさを感じさ

せるキャラクターが立ってきたように思う。また、以前は彼のようなタイプの役者さんが、

他にも何人かいたのだが、それらの方々が次第にいなくなったことも、彼にはいい方向に

作用した、ともいえるだろう。

 役者評が長くなってしまったので、ストーリー等他の要素については割愛する(もとも

と再演だから、既にストーリー知っている人も多いだろうし)。それにしても、これだけ

面白く成長した劇団が、本作を最後に仙台を離れてしまうのは、実に惜しく、残念なこと

である。東京にフランチャイズを移転してからも、機会があれば上京してぜひ見に行きた

いと思っているし、逆に、東京に行ってからも、ときどきは仙台公演を実施して欲しい、

と切に願う次第である。東京での、さらなる活躍を心よりお祈り申し上げます。 

 

[2000年11月4日 11時5分32秒]

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劇団麦「ら抜きの殺意」 

お名前: W..S   

 

10月29日(日)の楽日に見させていただきました。

 実はこの日腕時計が壊れていて、結構長い芝居なんだなと思いながら終わって外に出て

みると、なんと2時間30分以上もたっていて驚いた。それだけ、最初から最後まで、

退屈せずに観れた(観られた?)せいだろう。脚本の内容も実に入り込みやすかったし、

主役を演じた二人の演技が実に滑稽さが出ていた好感が持てた。そう、一方で「らぬき」

言葉に対して不快感丸出しの教師(これが実は身近にもいて困っている)とそれに反発

するサラリーマンのコンビがじつに面白い。どちらも自分の考え方に、プライドがあり

一生懸命だからこそ、第三者が見ていて滑稽なのである。

 それで十分なのではないかなと思うのですが、サラリーマンの伴の恋人役の女性営業

だやってきてめちゃくちゃな敬語や謙譲語をつかったり、会社の女の子の電話の応対が

また言葉が乱れていたと少々くどすぎる面が多いかなと思いました。これはあくまでも

脚本上の問題かもしれませんが、これでもかという風にこられると、こっちはもう分か

ったから...という風に引いちゃう部分もありますのでその辺は適度に台本を削るな

り演出上サラッとやるのがむしろ効果的なんじゃないかなと思います。特に阿部さん演

ずる女性が汚い言葉で電話に向かって叫ぶあたり、実はそれが真実の言葉に近いんだと

いう説明的な副社長とのやり取り、携帯電話が鳴り響き電話に出ることの出来ない彼女。

このあたりの演出もくどすぎるような気がします。最後に実は伴さんが山形県の人間で

東北弁が一番自分らしく語ることができるんだという結末も、主張が多すぎてまるで、

ワイドショーのコメントを聞いているみたいに聞こえました。

 分かりやすさを目指すと座長さんはおっしゃっていましたが、分かりやすさとは作り手

側が客に何を言いたいかが言葉として伝わることではないと僕は思います。それならば

討論会や青年の主張で十分だからです。この芝居では二人の人間がどちらも滑稽だが愛着

がもてるなと思える演出をするだけで十分なのではないかと思いますし、客がどういう結

論を出そうが客の勝手であり、作り手側は材料を提供しているに過ぎないんだというスタ

ンスで作ってくれた方が共感を持てると思うのですが。

 それから、伴さんが国語教師を本気で殺そうとますよね。タイトルから言ってもあそこ

は最も大切に演出しなくてはならなかったのでしょうけど、殺意にいたるまでの心の動き

が今ひとつ役者が追い込み切れてなく、納得できませんでした。

 伝えたいことを伝えるということ目的とする芝居も否定はしませんが、むしろ我々が芝居

を通して見たいのは人間であり、愛情と嫉妬、コンプレックス、自分の奥に無意識にしまい

込んでい残虐性など、この台本が持っているそいうった部分をクローズアップさせた演出を

行えば全く違う芝居になっていただろうし、この劇団の目的には合わないかもしれないけれ

どそういうものを観たい客だっているということも忘れないでほしいと思う。

 しかしながら、大変面白い芝居であったことを最後に強調しておきたいと思います。帰り

に一緒にエレベーターに乗った客達も概ね満足そうでした。

 

 

[2000年11月3日 16時5分25秒]

 

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

劇団麦「ら抜きの殺意」

今回麦は77回目の公演をむかえた。

数えたら私は、1975年以来30本近く見たことになる。

今回の作品は、私が麦の劇評を書き始めてから〔「五番街の灯」以降〕久々に見る、

麦らしさがでていた、いい作品だと思った。

 

 以前も「やりたい作品よりやれる作品を」と書いたのだが、今回は麦でしか出来無い俳優の

ラインナップだと思う。

 最近麦が上演した小劇場系の作品では、キャラメルボックス等エンターティーメント系が

多かったが、当書きされたスター俳優が多い作品は、かなり難しいように思った。俳優の

年齢的にもかなり無理があったし、全体的なバランスが悪く、麦本来の丁寧な舞台作りが

見えなかった。

 

 長年演出を勤めていた榊原文彦氏が退団されたと聞いたが、今回演出の弟子は銀河旋律以降

2度目の演出にもかかわらずうまくまとめていたと思う。

今回の作品は今後の麦の新しい転機になるような作品に思えた。

 

 とにかく脚本が良かった、日本語とは何かを考えさせられる中、その言葉によって人間関係が

うまく変化していた。

何より主役の一人を演じてた北島寛がいい。

麦に入団して2度目の出演なのだが、見事に、日本語の乱れを許せない高校教師役を演じてた、

とにかく大げさな演技をぜず、キャリアを感じさせるリアリティのある演技だった。

螺子転造、あまりましたも好演していた。

この3人は彼らのためにこの作品を書いたのではと思わせるぐらいはまり役だった。

本当に自分達に合った作品を選んだと思う。

 

 以前に私が書いた 「麦らしさとは、現代的作品を近代的演出をしている」という問題にも

触れたい。

以前劇評バトルで、関氏が「才能という言葉を使う演劇人は信用できない」という趣旨の評論を

していたが、私は才能をセンスという言葉に置き換えたい。

小劇場の作品を、大劇場的な新劇的センスで演出しているという意味だ。

これは、劇場の大きさが大きく影響している。

つまり、大劇場的な演劇に対して、小劇場的な同時代演劇、例えば青年団などは、現在の日本の

演劇におけるリアリティーを求めて、観客200名以内程度の小劇場にこだわっている。

同時代的リアリティは小劇場でなければ表現できないと言っている。

 

 今回の麦の作品も、そういう意味では小劇場的作品なのだが、演出センスは大劇場的に

感じられた。

やたらと正面を向く俳優達、それによって相手との関係性、意識のつながりが中断されて

しまう。

以前、他の人も指摘していたが、舞台上で同時に二ヶ所で会話があるときに一方が、無言の

パントマイムの会話になる、つまり口パク。

現代的な演出なら、同時に話したり時間差を付けたりするのだが。

大道具も書割りの前に、実際の小道具を置いている、つまり古ぼけた壁を書いた絵〔パネル〕

の前に実際の棚などがあるのが、統一感が感じられなかった。

現代的な道具だったら、この壁も実際の壁布や壁紙を貼って、それに汚しをかけていただろう。

仙台演劇祭に出た、弘前劇場の大道具のリアリティを参考にして欲しい。

効果音の指向性の無さも気になった、舞台中央の電話や携帯の呼び出し音が、脇のスピーカー

から聞こえてくる、このような場合、本当に鳴らすか、中央に小さい隠しスピーカーを用意

するだろう。

 

これらのセンスは、大劇場ではリアルに感じられたり、必要だったセンスかもしれないが、

このような作品では、逆にリアリティを失ってしまう。

あくまで、これはセンスが良い悪いと言う問題ではない。

演出が客席に座って見た時感じるリアリティのセンスと、私の客席から見たリアリティの

センスが違うのと言ってるのだ。

 

次ぎに、これはセンス以前の問題なのだが、俳優達の行動の段階的な嘘が各所にみられた。

具体的的にいうと、例えば、ドアを入ってきた人物が入った瞬間に相手に話しかけている。

ドアを入る、中を見る、相手を捉えるという行動の段階が無いのだ。

電話の番号を押してすぐ話始める。

番号を押す、耳に当てる、呼び出し音を聞く、相手がでる、相手を確認する、話すという

段階が無くなっている。行動は、まずモノや、相手を捉えてから初めて起こるということを

しっかり考えて欲しい。キッカケだけでの行動はリアリティが感じられない。

表面的な顔の表情での内面を説明するような演技も斉藤正樹や那須睦子に残っていた。

これは何度も繰り返しているのだが、まともな大人はなるべく表情を読まれないように

するのが普通であり、対人関係においても感情を説明はしない。

つまり顔の表情で表現しようとすると、ただ単にうるさいだけで、内面的タメが逃げてしまう。

北島は内面を観客に想像させたのに対して、斉藤は観客に説明していたように感じた。

 

センス的に気になった部分はあったが、作品的にはかなりの出来だと思った。

若い演出の更なる研鑽を望む。

 

[2000年11月1日 17時53分31秒]

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ガマの卵プロデュース「ジャング・ギャング」 

お名前: R.S   

 

正直、どんな芝居だろうと不安半分、そんなに期待もせずに

足を運んだのだけれど。・・・面白かった。

物語が、よく組み立てられていたように思います。

くだらないギャグだとは思いながらも、つい微笑んでしまう

自分に気づいて、そう、人ってそんなもんだろうと思わせる

舞台だったと思います。

今後もこの路線で、書いてほしいと願ってます。

ただ、書いて欲しいというのは、役者の技量が物語に

負けていると感じました。

演技(演出)の部分を今後の課題にしたほうがいいと

思います。

もっと面白くなるはずだと思うし、

特に犯人役の高橋大さんにそれを感じました。

また、芝居と芝居の間の暗くなる部分の音楽、

もう少し、印象に残るものだったらよかったのかな・・・。

もったいない気がしました。

今回は、第1回の公演で、たぶんいろいろとやることが一

杯でそこまでいかなかったと思うのですが、もっとしっか

りとした人物・舞台をみたかったと思います。

ただ、反対に相手役の方は好演してた気がします。

劇団ピアスの役者さんとのこと、12月にも公演があるそうで

出演されるようですね。頑張ってください。

また、第2回公演の際にはみてみたいと思います。

勝手な意見ですいません・・・。

でも、いい作品だったと思うので、次は多くの人たちに

みてもらいといなと思います。

 

[2000年10月31日 1時15分41秒]

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IQ150「シュガー・ドロップス」 

お名前: 仙台劇評倶楽部小野一也   

 

I.Q150 「シュガー・ドロップ」

 

 再演に期待持たせる

 

 

 丹野久美子の世界である。ではあるが、残念ながら物足りない。それは、「『女ともだち』

の男版」を想定していたという私の先っ走りという面もあったということはある。が、

そればかりではない。この点を中心に書いてみようと思う。

中途半端である。例えば、「女ともだち」はアドリブを交えながらもそこに展開されるのは

まさに「おんなともだち3人の生態」であり、観客はその3人と同じ部屋にいて3人の

おしゃべりを聞いているという図式になっている。3人と観客は共存している。

誤解を恐れずに言ってしまえば「女ともだち」の素晴らしさは、《なにやかにやの理屈は

一切なしの3人と観客との一体感の徹底》にある。

 この「シュガー・ドロップ」には、この《男性11人のおしゃべりを聞く観客との一体感》

は生まれない。なぜならそこに、作者はあまりに大きなテーマを持ち込んだからである。

テーマを持ち込んだのが悪いと言っているのではない。持ち込んだテーマが中途半端であった

からである。ラストでりょうと父親との和解はあまりに安易である。母親を殺したと思っていた

りょうが、実は死んでいなかったと知らされて父親の胸に頭を押し付けるという図はいただけない。

父親に向かって「何しに来たんだ。説教しにか?……」のあのりょうの心からの叫び、

あの長ぜりふはなんだったのか?

 りょうの、抱えている将来への悩み。、親にさえも理解してもらえない苦しみ。

理解してもらおうにも親との間に真の対話が成り立たない、そのもどかしさ。

 大人たちのおしゃべりは理解し合うための会話であろうはずはない。

 会話とは何なのか。理解し合うためにではなく、単にしゃべりあう……。言葉は行き交うが、

決して心と心とは通い合わないという「寒々とした現代」の姿、空虚さが浮かび上がって来る。

作者は、理解し合うことの重要性をねらったのかどうかは知らないが、そのことが私には強く

伝わって来た。もどかしい芝居の作りになっている。生煮えの感は否めない。

  それにしても、すごい役者をそろえるものだ。さすがである。 

佐々木卓の安心感漂う演技。佐々木充の着実さ。井伏銀太郎のいぶし銀のごとく光る存在感。

永島りんごの初々しさ。

 この役者で、台本に手を入れて改訂版としての再演を待つ。心から待つ。期待して待つ。

《10月20日観る》

 

 

[2000年11月6日 21時58分51秒]

 

 

お名前: W.S   

 

 実をいうとこの劇団の公演を見たのは15年振り位です。「眠れぬ夜の羊は少年」という

実に型破りの芝居、エネルギッシュな芝居を見て、仙台にもこんなに挑戦的な(?)劇団が

あるんだということを知りホッとした記憶があります。その後、何故公演を見に行かなかっ

たのかというと、あまり理由はないのですが、ついつい行きそびれたといっただけの理由に

過ぎません。

 見終わった後、15年前に抱いたこの劇団の印象とは全然違う印象を持ちました。自然体

なんですね。

 今回の作品は女性である丹野久美子氏が書いた「野郎」の芝居ということで、果たしてど

んな人間を描くのか楽しみにしていました。実に人間臭い男達を見事に描いていたと思いま

す。もしかして、素でやっているのかと思うくらい役者さんはそれぞれ自然体の演技がはま

っていた。ゴルゴ似の役者さんも普段もあんなことやってるんだろうなと思わせる位無理な

く生き生きしていたと思う。そして一人一人が格好いいのである。自分も自分らしくそれで

いて格好をつけるときは格好をつけていたい。男だもの。というわけで多くの役者さんに共

感できた芝居でした。

 そして、永島りんごさんの少年役のリアルさ。あれもきっと日常で何かを引きずっている

のかなと思いました。それ位、真に迫ってくるものがありました。 

 ただ、男というものはもっと考えていることの何割かは下品でどうしょうもない部分もあ

るのではないのかな。と思う部分もありましたけど....。きっと、そういう男の部分は

わざと省いたんでしょうね。

 芝居全体の構成について、1時間35分という理想的な時間で終らせることはいいことだと

思いますが、前半の部分が少々長いような気がしました。まあ、あれによって一人一人の人

物像が良く分るようになるんですが、後半ストーリーが一気に展開して、実は女性を討った

のは少年でそして父親が飛び込んできて説得してという流れが急展開しすぎのような気がし

ました。少年を説得するマスターと客達の部分が短いのは、マスターと少年の関わりのバッ

クグランドが少々突っ込んでいなかったためではないかと思うのですが....。単に店に

やって来る少年というだけでなく、どうしてその店に好んで来るようになったのか。おそら

く、僕も若い頃通っていた店があったけれど、そこのマスターに父親とか兄貴とかそんなも

のを求める気持ちや生き方に対する憧れみたいなものがあったと思います。そこのとこは表

現されていたといえばいえるけれども、「蒲田行進曲」の銀ちゃんとヤスまではいかなくて

も少年がマスターに求める気持ちの強さみたいな物ももう少し見たかったような気がします。

 それから、男と女の愛はあえて書かないとなってますけど、やはり男を動かすエネルギー

はやはり愛じゃないかなと思います。だから、ゴルゴ似の役者さんが電話で娘に語りかける

ところはやけに説得力があり笑えました。また、父親の息子に対する無条件の愛情も見てて

僕は納得いきました。僕も父親だからでしょうか。男と女の愛のストーリーなんて、勿論書

かなくてもいいけれど、この他の男達がどんな愛を抱えているかを見たい気もします。

 また、一見平凡なストーリーに見えましたが、そこには私達の日常へとつながる開かれた

物をしっかりと見ることができました。この時代の普通の人間が抱えている日常も映し出さ

れていたと思います。ただ、一緒に見に行ったやつが、母親が助かって終わるのは平凡では

ないかと言っていましたが、どうでしょうか。また、昔、別役実氏が「観客を裏切ること」

の重要性を書いていましたが、そういった部分ももう少しあってもいいのではないか

と思いました。少年が実は犯人であることは大体想像つきますよね。あえてそうしたのでし

ょうか。

 多分、的外れなことを言ってる部分もあると思いますが、お許しください。脚本集を買い忘

れてしまったために確認しないで書いたとこもありますのでもし違ってたら教えて下さい。

 

[2000年10月23日 18時44分46秒]

 

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”OCT/PASS”公演「又三郎」 

 

お名前: 渡部  進   

 

 blue-city さんへ。一応反応してくれたことは、私個人としては嬉しいのですが、頭が

おかしい人とあなたが考える人とは誰のことなのでしょう。別に私のことだと言っても構いません。

ただ、皆さんおっしゃているように、何を基準に頭が正常、異常とあなたが判断するのか、そ

こをきちんと書いてもらいたいなあと思います。

 それから、これは言っておいた方がよいのかなと思うのですけど、芝居を作るという作業は

他人の劇を見て感想を書くことの100倍以上は大変だというです。一度でも真剣に芝居を作

った経験のある人なら当然分ると思いますが。その苦労を十分理解た上で感想をあえてこのよ

うな所に載せるというのなら、それなりの覚悟があってのことであると私は思います。

 もし、その苦労を理解しようとせずに安易に批判ばかり書いているのだとしたら、私だって

頭に来る気持ちはわかります。劇評クラブの方々は前者であると私は信じていますが、どうなの

でしょうか。

 

 

 

[2000年11月30日 18時15分11秒]

 

 

お名前: ケイコ   

 

佐々木さんはどんな覚悟で劇評を書いてるのでしょう。

謝るのなら最初から書かなければいいのにと思いました。

芝居をする者と同じくらいの覚悟で取り組んで欲しいと思います。

そうでなければあまりにも失礼です。そんな軽い覚悟で劇評を書く方が非礼だと思いました。

書いた物にたいして責任をとり、自分の論を通す方が失礼じゃないと思います。

 

もうひとつ思ったことなのですが、作り手が反論をすることは悪い事じゃないと思うのですが

どうも不快な印象を感じます。ただの言い訳にしか聞こえなかったりするからでしょうか。

今回の場合、学生さんとみよこさんに対して馬鹿文章と切り捨ててしまう石川氏の芝居に

対する姿勢が気になりました。

ただつまんなかったと言う簡単な意見では不満なのでしょうけど。

 

 

[2000年11月30日 8時19分32秒]

 

 

お名前: KIT   

 

 下のbule_cityさんのご発言、せっかく出てきていただいてなんなんですが...

1〜3行目と6行目が意味不明です。特に6行目について、どうか一人で納得されずに

ご説明をお願いしたいです。何か取り違いをされているような気がするのですが?

 

 

[2000年11月26日 23時45分17秒]

 

 

お名前: blue_city   

 

”あたまのおかしい人の相手をしてはいけません。それでは相手の思うツボです”って

ニュースグループに時折出てくるあれですね。

・・劇評倶楽部とやらの方々の劇評はそちらのwebに載せていただけると幸いです。

それだけの志しがあるのなら自分たちで芝居作ってみれば?!

 

そうやってグループ化しちゃうのがかなり笑えました。

 

 

[2000年11月26日 18時52分57秒]

 

 

お名前: 渡部  進   

 

 何か、この欄がこのままバックナンバーに行ってしまうのも惜しいということなのか、いつ

までも残っているようなのでまた失礼ながら記入させていただきます。

 もしかしたら、私が感想文をここに一観客として書いたのがきっかけでこのような悪い雰囲

気のままこの欄が終わっているのではという気がするからです。はっきりいえることは、今年

は夏から秋にかけて仙台の芝居を観たけれど、やはりOCT/PASSはすごいと思ったこと

は言わなくてはならないと思います。しかしながら、私と同じように、過去にもっとすごい物

をみせつけられた者にとっては、やっぱりその芝居を基準に考えるからなんとなく物足りなさ

を感じる。それだけの話だということは書いておきたいと思います。(蛇足なのでしょうが)

 今年「レミング」を観た時、客席を眺めると結構年齢層の高い観客が多くて、仙台にもこん

なに演劇を観たい年配の方(といっても40代〜50代位でしょうか)がいるんだなと感じま

した。でも、いままで私が観に行った芝居の観客は若い世代が比較的多く、また演劇に携わっ

ている方が多い感じを受けました。そういって意味で、石川さんのやっている「AgingAtack」

という試みは演劇を観る観客層を広げるという意味でも評価はできると思いますし、若い世代

の我々が観て物足りないからと言って一概に批判するのはよくないのではと思います。

 ただ、私は私が過去に観た最高のレベルの芝居をこの劇団の上演にも観たかった。それは欲

張りだったのかもしれませんが、例え客演が多く苦しい中で作品を作っているのだとしても、

より高い理想に向かって欲しいということを願うだけです。私が住んでいた札幌市では今、

演劇ブームで、面白い劇団は1万人単位で客が入るそうです。何故なのでしょうか?仙台の方

は特に一般の方は何故演劇を観に来ないのでしょうか。私も演劇が大好きな人間の一人として

きっと面白い物を作れば皆さんが振り向いてくれる、そう信じたいといつも願っています。

 仙台を今後もリードしていくであろう劇団の方々、私たちの街にもっと演劇人口が増えるよ

う今後を素晴らしい芝居を作り続けて下さい。

 そして、この欄を観てただ第三者として傍観しているあなた。間違ったり、稚拙な言葉でし

か語れないとしても、本当に演劇を愛するのであれば何かを言って欲しかったと私は感じまし

た。

 

 

 

[2000年11月24日 0時30分45秒]

 

 

お名前: 喪歌魔多利   

 

書いていいのかな?

 

自分も客演していた芝居なのでね、読ましていただきましたが……

べつに「つまらん」と言っていただくぶんには全然かまわないのですが、いろいろと

ひっかかることがありますので少しばかり書き込ませていただきたい、と想いました。

(まずかったら削除して下さい。)

 

まずは「テント」と言うことについてですが、テントがこの芝居に必要であったかどうか?

と言うご批評がありましたが、あれって何に対して言ってはるのですかね?手法としての

問題としてなのか、演出効果としてなのか、はたまた役者体のこととしているのか?

まったく解りません。

自分らが立つべき場所として選んだことに関してならば、これは覚悟の問題に近いんですよね。

総てを抱え持つ演り口として選んでいる訳ですからこいつを否定されると困ってしまいます。

作品としての時間とまた違う時間の流れも見ていただかないとねー、そんなこと客には

関係ない!正にその通りなのですが、「劇評家」を自認している方ならば「ただのお客さん」

ではないのですからキチンと把握してから御批判いただかないと演ってる側としては困ります。

演出効果的な部分からの御発言なら効果的ではなかった、ということですよね。テントでしか

なかった芝居をテントを上手く使っていなかったからテントである必要はなかったと言うのは

如何なものでしょうか?俺なんかテントばかり20年近くも演ってきた人間なのですが……

上手く行かない芝居もあります。で、テントの必要無しでは人格の全否定に近いのでかんべん

してくれ、ですね。必要だから演っているのです。ここのところでの御発言なら(石川氏では

ありませんが)あぁ、この喪歌魔多利にケンカ売っているんだと、俺なんか想ってしまいますね。

役者体が空間に棲み込んでいなかったということならば、ゴメンナサイ。俺たちヘタクソでした。

この部分なら納得できます。もっと意識してテントそのものと勝負すべきでしたね。既成の劇場

では有り得ない存在感とか舞台での居直り方とかまだまだ演らなければならない問題は山積みです。

頑張りますのでこれに懲りずに次回に期待して下さい。

うーん、あとは台本そのものがテント芝居に合っていないってケースも在るのですが、今回は

それは有り得ませんよね。ホールで飛ぶ教室を現前させるなんてことを実現させるためにどれほどの

資金と技術が必要か考えたら言わずもがなですよね。まさかそんなこと、ね。

それ以外の部分でしたら俺には今ンところ考えつかないのでまたご指摘下さい。

 

それから「アングラ云々…」とかの発言もよく解りません。

「私は日本に於けるアンダーグランド演劇及び小劇場運動は表現技術を指すのではなく、

国家体制に対する否定から始まった政治闘争だと考えている。

つまり、資本主義体制で生じた矛盾を端に、社会主義、乃至は更に過激な共産主義的思想が

進出していった先鋭的活動だと解釈しているのである。」

だからなんなんですか?

これって、俺はそう想いません。で終ってしまいますよ。

今回のテントでのイベントでも「アンダーグランド演劇の…」ってのがありましたが、結果

あれだけ拘っていた諸先輩方でも統一見解の欠片も出せなかったような命題を普遍性を持つか

のように劇評のベクトルとして使うのは軽率ではないでしょうか?

俺なんか所謂「第3世代」ってやつですから思想性などこれっぽっちもないのですが、

「アングラ役者」と呼ばれていますし、自分としては『ま、いいか。』なんて気楽に考えて

いるのですが、これってダメなことなんですかね?

 

笑えるのは批判的な発言をされている劇評家の方はほとんどが(石川裕人氏名指しが多いですが

)個人攻撃(誉めるのもそうですかね)なんですよね。芝居は現場性を持つから芝居なんでしょう?

木を見て森を見ず。これは役者が陥りがちな状態なんですけれどね、人の振り見て我が降り

直せですよね、勉強になりました。

 

また仙台にお邪魔したいと想っています。

その折にはまた、舞台の上でお逢いしたいと想っています。

 

 

[2000年11月10日 0時16分53秒]

 

 

お名前: W.S   

 

> とにかく、こんなもので愚生と劇団員、客演してくれた役者陣がが死ぬと思ったら大間違

いだ。

 

石川氏の怒り、伝わってきます。きっとこの気持ちがあれば、次は今回よりもっと素晴ら

しい芝居が完成するだろうな。ということを一観客として期待します。今回の芝居を作るとき

もこのような感情の動きあったのでしょうか。芝居というのは、演出家、役者がどれだけ自分

を追い込んでいるかが露骨に表面に現れますよね。ですから、どんなに完成度の高い物を作っ

ても客が反応しない時っていうがあるのではないかと思います。

 私はこの数多くの書き込みの中で一番、(一観客としての)真実の言葉を語っていたのは

「学生」さんと「みよこ」さんの言葉だったと思うのですよ。芝居を作る者はそのことに敏感

であるべきだし、それを逆に宝にするべきですよね。勿論失礼な点は私も含めてお詫びしなく

てはならないと思いますけど。残念なのは、それに対して、「いやこの芝居は良かったよ。何

言ってるんだおまえ達の目は節穴か。」みたいな反論が一般の方から出てきて当然なのに出て

こなかったことです。

 私も高校生相手でしかありませんが、芝居を作る人間ですから、言葉のニュアンスには一番

敏感なつもりです。「高校生相手のW.Sの感想文でも」ということばからあなたが高校演劇

に対して持っている本音も伺えました。

 そんなことより、皆さん、石川氏に期待しているからこそ、このように沢山の文章が載った

わけだし、少なくとも、誰一人悪意を持っているようには思えませんでした。ですから、次回作、

ぜひいい芝居作ってください。お願いします。

 また、これは「談話室」の方を見ていただければ良いと思いますが、寸評、感想、エッセイ

的な物でも結構です。と管理人さんから返事をいただいています。代表として、これが駄目だ

ということであれば、きちんと訂正して欲しいと思います。

 

 

[2000年11月8日 1時44分9秒]

 

 

お名前: 佐々木 久善   

 

 石川さんは私の書いた「高慢な感想文」をご覧になって喧嘩を売られたと考えておられ

るようですが、私は他人に喧嘩を売るほどの腕っぷしもありませんので、まずは謝ります。

 不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。

 私もこの「感想文」を書きながら石川さんが相当に不快な思いをされるのではないかと

内心ビクビクしておりましたから、ストレートに「喧嘩を買った」と出てきていただき、

自分勝手ではありますが、謝る機会ができて少しほっとしてもおります。

 ただ一つ、私には石川さんに「私怨」があると思われている理由に心当たりがございま

せんので、自分でも自覚しないうちにこれまでいろいろなご無礼を働いてしまっていたこ

とと思い、こちらもあわせて申し訳なく思っております。

 石川さんの反論はいちいちごもっともなことばかりで、はっきりとご自分から説明して

いただければ、私のような部外者がブラーブラーと申し上げるまでもないことばかりです。

 あなたがいかにご自分の考え方のストレートな表現として芝居を創作しているのか。そ

して「無意味で何が悪いのか」とおっしゃっておられることに心底感心しております。

 まさに目からウロコが落ちるとはこのことを言うのだと実感しております。

 あなたもおっしゃっておられるように私は「冷静な」人間なので全てのものに意味を求

めてしまう悪いクセがあります。このクセは私の36年の人生において育まれてきた性質

なのでお許しください。

 またご自分でもお書きになっておられるように、芝居を続けていくことは本当に大変な

ことのようですね。

 私のような何も知らない門外漢が発言するような世界ではなかったのだと深く深く反省

しております。

 演劇人フォーラムの代表としての立場でさえご自分の持論の前では何の意味もなさない

とのお考えにすべてを納得いたしました。

 最後にひとつだけ、私の考えをお聞きください。

 あなたがどんなに尽力しても「仙台の演劇のレベルを立ち直れないくらいに落とすこと」は

困難であると思います。

 このご発言は撤回していただいたほうがよろしいかと思います。

 

 

[2000年11月8日 0時42分25秒]

 

 

お名前: みよこ   

 

>あなた達のは馬鹿文章です。

どういうこと????

 

>自己満足のために感想文書くなら日記にしまっておいて

私はお金払って観た芝居を感想として書いただけなのですが。まちがっていたのでしょうか。

ここはそういう場では無いのですか?

ここでの正しい書き方を教えて下さい。難しい言葉では書けないので素直に書いたのです。

これらの感想が誹謗中傷だとおもわれるのでしたら、削除したほうがいいのでは無いですか?

 

 

[2000年11月7日 18時36分12秒]

 

 

お名前: 石川裕人(TheatreGroup“OCT/PASS”主宰)   

 

売られた喧嘩を買いましょう。

石川裕人(TheatreGroup“OCT/PASS”主宰)

 

愚生は自らの劇評に関していままでこういう形での反論をしてこなかった。

何故かといえば芝居者として批評への答えは次の舞台成果に注ぎ込んでいたからだ。

その禁を犯してある批判に答えてみたくなったのは余りに独善的で劇評とは言い難い

感想文がまかり通り、そして中傷とも取れる文脈でネット上を流通していることへの

怒りだった。これは喧嘩を売られていると感じたわけだ。批評と喧嘩とは別次元の

ことだが、批評を志す人が確信的に書いているのだろうから、それは喧嘩になっても

いいと言うことだろう。

 

佐々木久善氏に問う。

無意味で何が悪いのか?愚生はいままで演劇の意味論などというところで芝居はして

こなかったし、これからもそういう考えである。無意味でナンセンスでアナーキー

だからこそ愚生は芝居をやっているわけで芝居で教訓をたれたり、教条的な芝居には

反吐をする。あなたは人生を含めた全てのことに意味を見いだしたいようだが、

ではあなたが演劇に求める意味性とは何か?無意味では芝居は成立しないのか?

非常に根源的なことだけど芝居の面白さとは、「個」対「個」の表現の乱反射なのでは

ないのか?「又三郎」が全てそれを体現しているとは言わない。そんなことはやってる

本人が一番気づいている。それを作業仮説としてメソッド化したりして血肉化していく

わけだし、いままでもそうやってきた。それには途方もない時間がかかる。あなたも

ご存じの通り“OCT/PASS”は昨年から劇団員が流動化して今回は主要なキャストを

客演に仰がなければならない状況だった。お家の事情なんて聞きたくない、それなら

やめればいいさとはいかない。愚生は人の芝居を見て高邁な感想文を書く側の人間じゃない。

芝居を生き方の糧にしている。勉強もやり直したり、ずっと続けている。あなたから勉強を

し直した方がいいなどとお節介なことを言われる筋合いはない。ましてや仙台演劇フォーラムの

代表とその作品の関連云々となると森首相の適格性のようで、そこまで責任をとらされるの

なら仙台の演劇のレベルを立ち直れないくらいに落としてやろうかとも思う。誤解されては

困るが、愚生は芝居を仙台のレベルのためになんてやったことはない。罪のあるのはあなたの

感想文だ。あなたがこういうことを書く心理がはかりしれない。今年4月のAging Attack !!

公演の批評も愚生への私怨としか取れないようなものだった。

(明らかに他の批評文とは違う冷静なもの)私怨ならそれでこのような場所で展開する

性質のものではないと思うのだが。

 

川島文男氏に問う。

あなたが感動と名付けるのはどういうことなのだろうか?

感動の押し売り的な物言いしか感じない。あなたは観客の代表ではないのだ。観客論を

度外視して観客を一般化するのはやめたほうがいい。あなた以外の観客がどれほど喜び、

感動していたのかを知るべきだと思う。役者はそれに励まされ、鼓舞され、観客と

セッションをしていくわけで。

批評とは一般化ではなく、批評家の個的な営為と切り結ぶことではないのか?

佐々木氏にもいえることだけど、批評に妙な公共性を持ち込んだりするのはやめた方が

いいのではないか。誰にでも愛される芝居なんてない。

いつでもそうだが、私はなんでも知ってるよという高飛車な批評は、どこか滑稽だ。

 

学生・みよこさんに。

あなた達のは馬鹿文章です。高校生の演劇WSの感想文でももっと的確なことを書いている。

人を批評すると言うこと、このような形で自分が批評されたらどう思うかと言うことを

思慮する事だと思う。自己満足のために感想文書くなら日記にしまっておいて。

 

何も褒めちぎってくれと言うことではないんです。

演出論だの、戯曲論だの、俳優論、観客論、あらゆる論を包括し、それをOUT PUT

したところに舞台は現前します。それを生きるのが芝居者です。様々な苦しみ、悲しみ、

喜び、怒りの稽古現場があって作品が立ち上がってきます。実はやった芝居のことを

一番わかっているのはやった当人たちでどんな批評も甘んじていることの方が多い

わけです。もっとやれたはずだとか、やっぱり今回もできなかった等々。

反省しきりなのです。

芝居者はそうやって続けていきます。愚生もそうやって30年くらいになります。

しかしながらわからないところは年を追うごとに増えてくるわけで、演劇の本質に関わる

ところに常に触れ続けています。そうやって試行錯誤しながら金にもならないことに地道を

上げ、四苦八苦して達成感なんかこの十年来感じたこともありません。しかし、続けます。

こりゃ面白いと思えることには飛びついて行こうと思っています。いくら酷評されようと、

失墜ねらいの感想文が出ようと愚生はやり続けます。

そして、多くの芝居者がそう思っているのだと、期待票です。

そういう芝居者の思いに至らず、ダラダラと自分の感想が書き込まれ、

(他に書き方はないのか?)それがまだ閉鎖的な様相の強いネット上で垂れ流されるのは

困ったことだと思うし、ネット環境のない人まで犠牲になっていく構図が怖いと思う。

とにかく、こんなもので愚生と劇団員、客演してくれた役者陣がが死ぬと思ったら大間違いだ。

ご高覧、応援してくれたみなさん、ありがとうございます。

好意的な方もそうでない方もまた劇場でお会いしましょう。

 

 

[2000年11月7日 15時18分1秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木 久善   

 

 宮澤賢治の『風の又三郎』の物語を使いながら映画への偏愛を描き、アングラ演劇の継

承を狙った野心的な作品である。しかしその野心は時代錯誤であり明らかに失敗してい

る。

 ゴミ処理場の建設が始まり住民全員の村外への移転が進行している村の小学校に一風変

わった転校生がやってくる。真っ赤な髪の毛にマントを翻すその少年・高田三郎のことを

村の子供たちは「風の又三郎」だと思い込む。小学校の教師・宮澤は生徒が帰って誰もい

なくなった教室で亡くなった妹・ネリと再会する。彼にとって彼女は身内を超えた愛情の

対象であった。夜毎彼女と語り明かし彼女を失った悲しみを追体験するうちに彼は村の崩

壊の元凶であるゴミ処理場を自らが犠牲となることによって破壊しようと決心する。宮澤

の思いを知り、風を操る不思議な力を発揮して処理場を攻撃する「又三郎」ではあったが

堅固なその建物を壊滅するまでには力及ばず、計画の中止という曖昧な結末のうちに三郎

は再び転校していってしまうのであった。

 以上がこの芝居の物語である。宮澤賢治の『風の又三郎』を基本にしながら賢治自身の

近親相姦的愛情と今日的な環境問題とを絡めた展開は十分に魅力的であった。しかし一方

この物語を中断するように侵入してくる人物が何人か存在している。

 第一にナウシカ婆あ。明らかに映画『風の谷のナウシカ』からの出典であることがわか

るがそれ以上の何者でもない。映画の主人公が自然と人間との間に立って無償の愛を持ち

つつ戦ったのに対し、ただの老婆である。キャラクターの名前の引用に過ぎないというこ

とだろう。次にアキラ。日活映画の小林旭を意識したようだがビルのこだまを上手く使っ

たギャグ以外には目立ったところのない人物である。最後にインディー・ジョーンズと助

手のキム。やはり映画である。処理場の建設地に忍び込んで恐竜の化石を発掘することが

唯一物語との接点である以外前述の二人同様に無意味である。

 以上の無意味な侵入者を登場させることで作者が意図したこととははたして何だったの

か。もちろん映画への目配せという意味もあるかとは思うが、それ以上に作者・石川裕人

の演劇論がわかりやすい形で現われていると私は見る。

 それは一言で言って稚拙。好きなものをただ並べることだけしかできない未成熟な劇作

論である。そこでは効果的な構成や考え抜かれた展開は影を潜め、おもちゃ箱のような乱

雑さのみが際立っていた。彼がアンダーグラウンド演劇をそのようなものとしてとらえて

いるとすれば明らかな間違いである。

 唐十郎の状況劇場に代表されるアングラ演劇・テント芝居は確かに一筋縄ではとらえき

れない物語構成に特徴がある。だがそれは日常のすぐ隣にポッカリと口を開けている非日

常の陥穽を観客に理解させようと考え抜かれた末に到達した地点であり実に大胆な仕掛け

であった。そこでは脱線であっても物語の本筋に切り込んでくる鋭い刃を持っていた。

 それに対して石川裕人の構成は物語の合間に自分の好みの話題を挿入しているに過ぎな

い。一見無意味で唐突な人物が物語へと突っ込んでくる瞬間こそが劇的なのであって、そ

の瞬間を構想することができないならばやはり無意味なのだ。

 三時間近い上演時間のうちのどれほどが無意味な脱線に費やされたかを考えてみれば一

目瞭然である。

 石川自身が演じた校長先生という役が本当に必要であったのか、また最後の場面の舞台

の奥に消えてゆく教室のように使い古されたテント芝居の技法が本当にこの芝居に必要で

あったのか、上演の前に考える必要があったと思う。

 残酷な言い方になるが、石川裕人はもう一度演劇を勉強し直したほうがいいと思う。

 この芝居を観て、野外・テントという他にない仕掛けだけで新鮮であると思えた人も多

かったとは思う。しかし一方ドラマの基本を欠いたいい加減な構成に呆れてしまった人も

同様に多かっただろう。仙台演劇祭に参加する劇団が仙台演劇界の代表であると思い観劇

した人も多かったと思われる。しかも仙台演劇人フォーラムの会長が主宰する団体の作品

である。これを観て仙台の演劇のレベルを見限った人も少なくはないであろう。

 非常に罪のある公演であった。

 

 

[2000年11月4日 13時10分52秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

 

[劇評]「又三郎」劇団オクトパス 「十月八日の公演を観て」

   仙台劇評倶楽部代表 川島文男

 本作を劇評するには多少の躊躇を伴う。原作、演出意図を発表すべきチラシに於て、石川氏は

「演じる上で気をつけていることはアドリブをたくさん入れること。テント公演はお祭りみたいで

楽しい」と述べ、「相手にアドリブが利かないのがツライ[笑い]」とも語っているからである。

つまり楽しむことが優先され、作品の質についての真剣な取り組みがなされたとは思えなかった

のである。しかし、劇評するにはその演劇が真剣に演じられていなくてはならないと言う

前提条件がいる。そうでなければ如何なる劇評も上演者側のジョークとして捉えられ、あらゆる

言い分を許してしまうことになるからである。よって私はこのコメントを真面目に受け取るべきか

どうか迷った。或いは氏の照れで述べているのではないかとも考えた。だが上演意図が宮沢賢治

の名を上げるに止め、他のどの部分にも述べられていない以上、本音であると判断せざるを得な

かったのである。また作品を見終って、確かにその通りだと思える部分が多数見受けられたこと

にもよる。

 在仙演劇家のなかで、石川氏はアンダーグランド演劇を標榜する名にし負う劇作家である。

だが今回の「又三郎」はそれであったのだろうか。私にはこの作品がそうだとするには余りに

不十分と思えた。僭越を承知で言えば、私は日本に於けるアンダーグランド演劇及び小劇場運動は

表現技術を指すのではなく、国家体制に対する否定から始まった政治闘争だと考えている。

つまり、資本主義体制で生じた矛盾を端に、社会主義、乃至は更に過激な共産主義的思想が

進出していった先鋭的活動だと解釈しているのである。勿論、私はそのような思想に賛同する

ものではないが、それは別として、そのような主義主張がこの作品に表現されていたとは思え

ないし、ラストシーンでの「私の力は不十分であった」との三郎の台詞さえ木で鼻を括った

ものに感じられ、思想面からみて余りに脆弱な思想表現であると思えたのである。

 次に、この作品を表現技術といった面から見てみる。私はこの二時間四十分に及ぶ作品を、

最初から観た人々と、途中から観た人々が受ける印象の違いについて想像してみた。しかし

、恐らくこの両者に大きな違いはなかっただろうと思える。つまり、どこから切っても同じ絵の

出る金太郎飴のような作品ではなかったか。そしてこのことは、その時間の大半が同じ意味の

繰り返しのなかに費やされ、それが余りに過ぎたことが原因と考えられる。例えば空中を舞う

アクロバット的演技にしても、これだけの仕掛けを用意するなら、それによって観客に大きな

感動が生まれなければならないと考える。そうでなければ、これまで努力してきた役者や

スタッフに報いることは不可能だからである。にも拘らず、観客は冷静に凝視していた。

豊年座の獅子踊りにしても、何の必然性もない退屈な余興的時間ではなかったか。話を原点に

戻せば、観客が金を払って観たいと思っていたのはドラマであり演劇なのである。だから観客

はこのような無理強いされた見世物的獲物に飛びつかず、演劇だけが許される素晴らしい感動を

得られなかったのである。つまり表現技術の面からみても、アンダーグランド演劇を問う以前の

芝居が行なわれ、観客を満足させることは出来なかったのである。更に前述したラストシーン

での又三郎の台詞を補足すれば、この輝かしい力強い台詞も、他の無益な演出に邪魔され、

既に時を逸してしまったように思える。そして氏が観客の歓心を意図したであろう喜劇風の

仕立ても、豊かな色とりどりの空間も、或いは時にはシリアスな心を打つ見せ場も、全てが

各々勝手に主張し、決して融合することはなかったのである。

 とは言え、出演者やスタッフの活躍には目を見張るものが感じられ、舞台を完成させる

要素は十分にあった。特に、又三郎を演じた佐々木久美子氏は粗削りで、また宝塚調の口調に

多少の不満は残るが、作品を理解している感性の深さを際立たせていたように思う。

彼女の「三郎」が今でも私の脳裏に蘇ってくるのは嬉しいことである。一方、良否が

決められず困っているのが石井氏の舞台装置である。重機器等を用いての大掛かりな仕掛けや、

舞台両面を使っての舞台移動が賞賛に値するのは当然だが、芝居全体の繋がりの中で一体と

なって存在していたかとなると、その賞賛に匹敵するだけの価値を見いだすのにやや消極的になる。

つまり、これもまた単独で輝いていたのではないかと思え、俗に言う「勿体無い活躍」として

受けとめざるを得ないのである。だが、これほどの仕掛けを用意できる装置家はざらにはいないと

思えるし、これによって氏の評価が揺らぐものではない。今後も更なる「見せ場」を創ってもらい

たいと願う。

[2000年11月1日 20時36分6秒]

 

 

お名前: W.S   

 

 私と同じ感想を持った人、やっぱりこの劇団はすごいと感じた人、いろいろな人が居て

安心しています。

 さて、しつこいようですが、もう一言だけ述べさせてください。それは演技法なのか演出

法なのか分かりませんが、又三郎の演技についてです。確かに一見熱演ですばらしい演技で

した。しかし、なぜ私がもの足りなさを感じたのかといえば、それはしょせん作り事にすぎ

ないようにしか思えなかったからです。又三郎を一生懸命演じている、作っている佐々木久

美子さん本人があの目の奥から読み取れてしまうんです。つまり、表面的に見せている又三

郎と佐々木さんが二重になって見えてしまうんですね。それは、必死に表面上を作っている

からなんでしょう。それは、他の役者さんにも多少はいえるんですけど、又三郎がやはり一

番目立ってしまったのは役柄のせいでしょうか。つまり、佐々木さん自身の人間性が役にし

っかりと結びつくような演出をしないとこういうことになってしまうんですよね。つかこう

へいが「口立て」による演出方法を確立したのは、まさにこのような作り事の演技からの脱

却を狙ったからであると私は思っています。この演出方法はアングラどころか新劇に近いの

ではないのかと思われます。ですが私は新劇で学んだことはないのでこんなことは言っては

いけませんね。

 目の演技がすばらしいというのであれば、サイマル劇団の佐武令子さんや赤井康弘さんの方

が上手だと思いますが。なぜなら、彼らは演技のそこにしっかりと自分というものが存在して

います。それは決して素でやっているということではなく、自分自身の底にある何かを引き出

して提示してくれているからです。そして、役者と演出の戦いがしっかりと見えています。

 私個人の傲慢な意見かもしれませんが、「演技というものは何か」ということを作品論以前に

考えなくては...だからいい役者が育たないのかなと思うこのごろです。

 

 

 

[2000年10月28日 14時49分57秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

錦町公園に宮沢賢治と「十月劇場」が蘇る

 

「AGINGATTACK」を二年観た。劇評を書いたが、つらい作業であった。「高齢者俳優養成」

というねらいはすばらしいが、内容が伴っていなかったからである。「趣旨が良いのだからそれで

いいではないか。素人演技に期待し過ぎてはいけないよ」という人がいたが、その言い方は的外

れだ。私は演技には最初から期待はしていなかった。せっかくの試みなのに、台本がそれにふさ

わしくなかったのである。すばらしい作品を書いて来た作家なのに、せっかくの試みそのものをも

マイナス化してしまうほど、話そのものがありきたりだったのである。私は、劇評を《こんな内容の

芝居をやるのなら「AGINGATTACK」は止めたほうが良い。継続するなら、きちんとした台本を

書かなくてはならない》という思いをこめて書いたものだった。告白させてもらうなら、言い方がき

つくなるが、作者は台本作りに行き詰まりを感じているのではないかとさえ思ったものである。 

そんな私を「余計な心配だったかな?」と、少し安心させたのは、『現代浮世草紙集』六の巻

「夜を、散る」であったし、この作品「又三郎」改訂版であった。が、?マークがついていて、しかも

「すこし」と、わざわざことわりを入れたのは、この「又三郎」は改訂版であるという点と、あれ

以来、「まだ二作目に過ぎないという点である。

 さて、言うまでもないことだがテント芝居の場合、「なぜ屋内ではなくてテントなのか」が問われ

る。その意図が観客に納得行く形で伝わらなければならない。その点でこの芝居は「まさにテン

ト」である。テントの特徴が見事までに生かされていた。舞台と屋外をふんだんに生かして、

《この場面は舞台》《この場面は屋外》というふうに、それも交互に納得いく台本になっていた。

特に屋外での場面は、スケールが大きくダイナミックであった。 座席の向きも工夫されていて

観客は向き合う形で座ることにより、芝居が始まる前からテントの中に仲間意識が生まれてい

た。その一体感は、芝居が始まると演じる側をも巻き込んで「演じる側」と「観る側」とが交じりあっ

て、会場には「独特の『世界』」が形成されていった。その「世界」は、まさに宮沢賢治の「世界」と

相通じるものであった。作者は「演劇通信」で「テントの仕掛けや舞台の使い方を観て欲しい」「舞

台が2つあるところ」と言っているが、これも計算の内なのだとしたら、脱帽するのみである。

 

 「まさに宮沢賢治の『世界』に相通じるものがある」と、書いたが、こと宮沢賢治に関していうな

ら、芝居全体が宮沢賢治の世界そのものであったと言っても過言ではない。

 作者は「演劇通信」で、宮沢賢治へのこだわりについての質問に「何本かやっているので

『こだわり』はあります」「アレンジものでこれからも宮沢賢治の作品をやっていきたいです」と

答えている。その作者のこだわりが、作品全体を宮沢賢治の世界そのものにしたのだろう。

すさまじいまでの「こだわり」である。

 随所にみられた「だじゃれ」は、宮沢賢治にそぐわない。蛇足の感があり、不要だったのでは…

…と、思えるのだが、観客が沸いていたことからすれば「あれはやはり必要だったのか」と認めて

しまいたくなる。言い方を変えれば、そぐわない「だじゃれ」さえも「ものともしない」ほどの濃さをあ

の芝居は持っていたということになるのだろう。

 それほどまでの「濃さ」について、具体的に書いてみよう。

 テントを巧みに使い座席設定で、始まる前から観客を独自の世界に巻き込んだ工夫について

は、冒頭に書いた。

 宮沢賢治の作品を、芝居全体の中に違和感をあたえることなく巧みに織り込み観客を引き付け

て離さなかった。

 いい役者をそろえた。

 特に目立ったのは、「ネリ」を演じた古村朋子。ただ立っているだけですでに「ネリ」であったし、

無表情の表情とあいまってセリフまわしに「あの世の人」を感じさせ、兄宮沢先生への語りかけに

は説得力を持つ。

 それに「三郎」を演じた佐々木久美子がいい。軽やかな身のこなし、話す相手を見る目は「風の

又三郎」そのものであった。私は、役者の演技の差は目だと思っている。「目」で演技が出来かど

うかにかかっている。セリフまわしや身振りが巧みでも、「目」で表現出来なければ「よい役者」と

は言えない。

 そして、「あきら」の南城和彦。インディ・ジョーンズの喪歌魔多利。何といっても極め付けは、

「ナウシカ婆あ」の絵永けい。立ち振る舞い、セリフ回し、そのものが役に成り切っている。出てくる

だけでその場はすでに「ナウシカ娑あ」の世界。存在感ある役者である。敬服。

 長さを感じさせることなく、雨模様の寒い日であったが、寒さを感じさせることない「充実の芝居」

であった。その要因について書いて来たが、最後に書いておきたいことがある。作者の意図とは

違うことになるかもしれない。作者は巨大なゴミ処理場問題をこの芝居のテーマにと考えたのか

もしれないが、私にはそのことが深く響いて来なかった。むしろ観ている間に深く響かなかったか

らこそ「充実の芝居」になり得たのだとさえ思っている。テーマがじわじわと後からにじみ出て来て

観客の心に染み込む作品だってあるのものだ。

 「0CTPASS」は、「十月劇場」に戻ったらどうだろうか。石川裕人作品はテント用に書いたとき

輝く。限りなく輝く。              《10月9日観る》

 

 

[2000年10月25日 23時44分55秒]

 

 

お名前: みよこ     

 

確かに私もがっかりでした。前までいた素晴らしい役者達さんがいなくなったせいでしょうか。

それともオクトパスがつまらなくなったからその人達がやめたのでしょうか。

まあ、私にはわかりませんが。

昔のテントの方がよっぽど面白かったように思います。なんだかアングラの真似っぽいように思えて‥‥

と書くとアングラってなんだろうって悩みだしてしまいますね。

昔のオクトパスは面白かったのに‥‥と感じる今日この頃です。

 

 

[2000年10月21日 10時48分49秒]

 

 

お名前: 学生   

 

OCT/PASSをはじめてみました。

初日です。がっかりでした。期待していた分、ものすごくがっかりでした。

書きこみを見て、正直驚いています。それほど評価されるお芝居でしたか?

スト−リ−はいきあたりばったりで、力がない。笑えないギャグ、コントもどき。

2時間30分もやる必要がないものだと思いました。無駄に話をのばしている。

私には苦痛でした。寒くて、文字通り苦痛だったってのもありますが・・・・

失礼にあたるとは思ったのですが、他の方のものを読んでいて、自分も書いてみました。

 

 

[2000年10月20日 16時50分47秒]

 

 

お名前: W.S   

 

当然、太田さんからこういう意見が来ると思ってました。ただ、ここは「又三郎」の劇評の

コーナーなので、そのことについては別の欄か私に直接メールを送って下さるようお願い

いたします。私も太田さんの意見は最もだと思いますが。

  

 

 

 

[2000年10月19日 23時8分28秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

僕はこのお芝居は見ていないので、本作の劇評は書けません。ただ、一言いっておいた方がい

いかなあ、と思ったことがあったので書き込ませていただきます。

それは、下のW.Sさんの、

>僕は一言レスというのも大切にすべきだと思いますけど。

という件についてです。

たぶんこの御意見は、僕が以前に「演劇掲示板」で匿名氏の一言レスに対して、削除依頼を出

したことを念頭においてのことと思われるのですが、僕があの「一言レス」に対して削除依頼

を出したのは、その内容が中傷に該当する、と判断したからなのです。「一言レス」でも、内

容のある、中傷ではないものであれば、削除依頼を出すつもりはありません。でも、それだけ

の内容を、果たして一言で書き込めるものか?という疑問は残るのですが・・・。

 話は変わりますが、やはり演劇掲示板のコーナーで、劇団に対する批判で、今の仙台演劇界

は「発表会」が多い、というものがありまして、僕はそういう考えは単にレッテル貼りではな

いのか、という反論を書いたのですが、あえて百歩譲って、その主張に同意するなら、演劇で

発表会が許されないのなら、劇評でも「発表会」的なものは安易に認めるべきではないのでは

ないのか、と思うのです。僕は、一言レスというのは、中身の濃い内容を書くのに限界がある

という点で、「発表会」的劇評と判断せざるを得ないんじゃないか?と個人的には思っている

のですが、いかがでしょうか?

 

 

[2000年10月19日 22時54分20秒]

 

 

お名前: W.S   

 

10月9日の楽日に見せていただきました。石川氏の演出の力をあらためて感じることの

できる芝居でありました。演技もきちんとしているというか、安心して見ていられること

ができました。他のお客につられて私も随分と笑いましたし、退屈せずに2時間30分強

の間狭い空間に座っていることができました。

 しかしながら、見終った後のこの空虚感は何なのだろうと、今感じているのです。

芝居の台詞にも出てきたように、この劇団は元はアングラといわれる芝居が発端のなだろ

うと思われます。アングラとは何かと訊ねられれば僕自身よく分らないけれど、1980

年の初めH大学の同じ「唐十郎」を氏と仰ぐ演劇研究会のテント芝居を思い起こすと、今回

の芝居には、あのときの感動がない。自分の心を動かすものが足りなかったと思うのです。

 具体的にいうと、あの頃の自称アングラ集団は、極めて破壊的だった。演技にしろ発声

にしろ、わざわざ完成に向かっていく作品を自ら崩壊させようとでもするように。そして

常に何かと戦っていた。それは、大学当局であったり、大人達であったり、きれい事ばかり

ならべている某劇団であったり。

 今回の芝居に僕が期待したものはやはり足りなかった。ストーリーは反論不可能なきれい

事とまではいわないが、高校演劇などによくある誰もが共感せざる終えないものだったし、

演技自体もまとまりすぎ(まとめようとしすぎ)のように感じられた。私がよく知っている

人間も一人出演していたのだが、私と以前芝居をやったときに見せた、彼の奥底にある人間

性を引き出してはいなかった。しかし、演技は上手かった上手すぎてつまらなかった。

 最も引っかかったのは終始笑いの中で芝居は進められていくのだが、笑ったあとの虚しさ。

この芝居の笑いには毒がないのである。唯一心から笑えたのは「デーブ・スペクター」に似

てるってやつだった。

石川さん自体も何度か登場していて、それだけで受けていたのだが、きっとこの劇団のファ

ンが期待していて、それに応えているための出演なのではと思いました。本当に演出家であ

彼は出演すべきなのか、この劇団のファンの方に聞きたいと思います。彼が出てくる度に芝

居の緊張感が下がるし、本当に効果があるとは思えませんでした。

 

 まあ、あれこれ生意気なことを書きましたが、最近このコーナーが「劇評バトル」という

タイトルから遥かに遠ざかっていることもあり、あえて反論ひんしゅく覚悟で書き込んでみ

ました。これが仙台のNO1(なのかは定かではないのですが)劇団では困ると思ったから

です。もちろん、自分のことを棚に上げないと他人のことは言えないわけですが、仙台の演

劇のレベルを高めるためにこのコーナーがあるのでしょうから、芝居のストーリーの解釈や

素敵な俳優がいて僕は好きだ,なんていうだけでなく、(そういうのもいいんですが、やは

りそれだけでは...)芝居を見た率直な感想をもっと皆が書きこむべきではないでしょう

か。僕は一言レスというのも大切にすべきだと思いますけど。

 とにかく、素晴らしい芝居でした。でも、上に書いたような不満を抱いたのは本当に僕だ

けだったのでしょうか。皆さんの意見、劇団の方の反論をお願いします。

 

 

 

[2000年10月19日 17時26分32秒]

 

 

お名前: おーみ   

 

十月劇場の稽古場公演は、何度か行った記憶はあるが、テント公演は始めての観劇だ。

いまさらアングラでもあるまい、と思いながら臨んだ芝居だった。

 

いや、ビックリして腰がぬけた。

 

石川さんも伊達に長い間やってるわけじゃありませんね。その昔、アングラのみならず

時間表現にかかわる者たちは、芸能と言う原点に立ち返れみたいなことを言っていたよ

うに思います。(私だけの勘違いかなあ)

ちなみに、最近20年ぶりで読み返した世阿弥の「風姿花伝」にも、珍しい、常とは異

なる風情にて、観劇者の心に異形の心持を呼び覚ます事が、肝要である。といった事が

書かれていました。その意味では、予定調和を破壊し、瞬間瞬間の役者の芸のぶつかり

合いとうねりのようなテンポの出し方。そして、イメージの積み重ねをもとにした劇全

体の重層構造による重厚な表現に、アングラこそ、能の奥義を地で行く表現形態なのか

なと本当に考えさせられてしまいました。

 

ちょっと劇評とは離れますが、かぶくという語源を持ちながら、”かぶく”、”けれん”

などの表現形式を否定しているかのような歌舞伎。(猿之助の言われようなどは歌舞伎

の基本精神を無視していますね)

また、上記花伝書に書いてあるとおり、時代に合わせた衣装や表現にて、リアルタイム

な観客の気持ちをつかんでいく事を説いた能。

それぞれの、基本精神を無視した現在の芸能のあり様を見るにつけ考えるにつけ、

OCT/PASSのような劇団(石川さん個人かな?)こそ芸能の直系を受け継いだ表現

形態なのではないかと思い至るしだい。

 

まず、空間のダイナミズムを推し進めた舞台構成。

一人一人が達者でありながら、劇中の登場人物そのものといった枠を外さずにのびのび表

現にしている役者達。特に又三郎役の佐々木久美子さんは、ほんとに又三郎そのものとい

った風情でほんとに驚いた。死んだ人に会ったような気分だった。いや誰と言わずみんな

はまっていたです。

そして懐かしいような音楽(効果音)。

一つ一つ、一人一人について、書ききれないほど言いたいことはあるのだけれど、それは

またの機会に譲ることにして、このへんで止めにしておきます。

 

言うに言われぬ底力を見せてくれました。脱帽です。

 

こういう物凄いのを観ると、しばらく何も観たく無くなるんですけど、今月は公演がめじ

ろ押しなので、パワーをためて乗りきるか。

 

 

[2000年10月11日 23時38分14秒]目次へ


きらく企画プロデュース「回りまくる人」 

お名前: あんもないと   

 

引き算という名のセンス

 

見終わった後、正直すごく驚いた。久々に、誰かの頭の中を見せられたような、

できあがった世界が舞台で見れた。

きらく企画を知ったのは当サイトの劇評中に、高校生の頃から面白い脚本を書く人がいると

いうのを読んで興味を持ったからで、以前の活動については全く知らなかった。

ただ、劇団のホームページを見に行き、シンプルだけどすごくセンスがいい(頭がいい)と

感じた。舞台は正にそのセンスが活かされたものだった。

 

 物語は、父母娘の3人家族がどうにも変わった朝を迎えたことから始まる。

微妙に食い違う会話と、部分部分が取り違えられている身体。やがてそれは、時代を越え

受け継がれるべき魂が同時間内に存在することから起きる「狂い」だと謎の男2人(天使なの

だろうか)に告げられる。原点に返ろうという男達と、壮大な「繰り返し」に巻き込まれる家族。

 

 舞台の始まりと終わりで映像が付けられている。最近はいろんな公演で、舞台に映像を使おう

とするが、どうしても異質なものを持ち込んでいるという感覚が残った。ところがきらく企画の

映像は、舞台空間の延長のようで違和感なく受け止められた。これは、たぶん「こうしたい」と

いうはっきりしたイメージがあって映像という手段を使っているためだと思う。

 そうした部分は舞台上のいたる所で見られた。例えば、舞台美術にしても一見すごくシンプルな

のだが、ここぞという場面で意外な演出効果が盛り込まれていて驚かされる。

 これを伝える為にはこれを使う、そして他は省くという独自の「引き算」のセンスが、複雑な

世界を一つの舞台に作り出している。

 

 会話の大半は、言葉遊びというか、音遊びの要素が多い。たぶん、脚本だけを本として読んで

はここまで面白い世界というのは伝えにくかっただろう。それを舞台で可能にしてるのは、演出

、役者、スタッフが脚本に描かれた世界観を明確に把握していたからだ。本当によく、この不思議

な物語を、統一した感覚でとらえ具体化し、観客に届けてくれたと思う。

 役者では、特に父親役(礒部氏)、母親役(三浦氏)の会話で、シュールな言葉のやりとりを

上手く間や動きではずし、笑いを誘っていたのが印象的だった。

 

 たぶん、きらく企画はたくさんの引き出しを持っている。

今回の舞台には必要ないと切り捨てていった部分を、次の舞台でも「引き算」のセンスと共に

次々見せてくれそうな気がする。最後になるが、ラストシーンで娘が風につつまれながらほほえ

む場面で、一気に物語は不可思議なものになる。このラストシーンがすごく面白かった。

 

[2000年10月22日 1時12分49秒]

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泉高校演劇部「或る晴れた日に」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作もまた、最近の高校演劇に多く見かけられる、「自分の居場所がなくて辛い」とい

う登場人物達の悩みがテーマとなっているものでした。「高校演劇ははかないからこそ、

魅力的。」というCUEの森さんのお言葉を先日紹介しましたが、確かに高校生の時でし

か書けない、または演じ得ない作品というものはあるでしょうし、そのこと自体を否定す

るつもりはありません。しかし、例えば高校生以外の私のような人間が、彼らの芝居を見

て感動するということは、同時に高校生にだけ限定されるものではない、普遍的なテーマ

を彼らの作品が持ち合わせている、ということもまたいえるのではないか、とも思うので

す。その代表的なものとして、彼ら高校生のお芝居によく表れるのが、この「居場所のな

さ」なのです。

 「居場所のなさ」というのは、何も高校生だけが感じているものではありません。昔の

モーレツ社員ならいざ知らず、リストラ流行の昨今、会社が居場所だ!と自信を持って言

える人がどれほどいるでしょうか?家庭だってそうでしょう。広瀬高校の「家ジャック」

ではありませんが、表面的には平穏そうに見えて、実は心がバラバラな家族というのはけ

っこうあるように思われます。もちろん、そういった自分の身の回りの居心地の悪さを、

より感受性の鋭い高校生の方が、作品という形で発表した場合、よりナイーヴな形で発表

する傾向はあるかもしれません。だからこそ、彼らの作品は感動的なのですが、しかしこ

れは、世代を越えてある一定の人々に共感できる内容であることも、また事実ではないで

しょうか?

 前置きはこのくらいにして、あらすじを紹介していきましょう。本作の主人公、アリス

ガワは理系の大学を卒業後、海沿いにある政府系の研究所に就職します。実はその研究所

は、秘密裏にアンドロイドを育てる実験をしているところで、所長のカミジョウ、カミジ

ョウの幼なじみの研究員・ミサキ、アンドロイドの少女・ユイが主な登場人物として出て

きます。で、この中で、特に「居場所のなさ」で悩んでいるのは誰かというと、ユイとカ

ミジョウなんですね。

 ユイは、自分がアンドロイドということで、実験の道具としてしか、周りの研究所員達

に認識されていないことに、どうしようもない孤独感を感じています。しかし、新任とし

てやってきたアリスガワは、以前から勤めていた職員達のように先入観がないからなのか、

ユイを実験の道具としてではなく、一人の人間として接していきます。ユイは、このアリ

スガワという存在と出会うことで、初めて自分の居場所を見つけるんです。

 一方のカミジョウはどういう問題を抱えているかというと、実はユイを作ったのは彼の

父だったんですね。彼は、偉大な科学者としての父に、ものすごいコンプレックスを感じ

ていました。また、父が実の息子である自分よりも、アンドロイドのユイの方を愛してい

るのではないか、というジェラシーも強く感じていたのです。それで、彼は父が死んだ時

に、「自分は父を超えてやるんだ!」という決意をするわけです。その結果、今まで比較

的自由に育てられていたユイを、研究所にほとんど監禁のような状態にして、連日連夜の

実験づけにするという、ほとんどマッド・サイエンティストと化してしまったのです。

 そんなある日、ユイが反政府系のスパイの銃弾に打たれるという事件が起こります(こ

のスパイ役の伊藤仁美さんが、もうもの凄く格好よかった!ここのシーンだけ、なぜか0

07の一場面のようになっていたのが、面白かったですね。彼女にも演技賞出してあげて

ほしかったな・・・)。ユイは危うく一命を取り留めるのですが、銃弾に特殊な薬品が塗

られていたらしく、ユイの体には足の方から徐々に魚に変化していくという不思議な後遺

症が現れ始めます。マッド・サイエンティストのカミジョウは、このままでは自分の研究

が無駄になると、「ユイが死んでしまう危険の方が大きい」、という周りの反対を聞かず、

ユイを手術して、魚化を止めようとします。そんな中、やはり反政府系の仕業か、突然研

究所に火災が発生!ユイを逃がそうとする他のメンバー達に、「ユイがいなくなったら、

俺はこれからどう生きていけばいいんだー!」と、カミジョウが、もう本当に悲痛な絶叫

をします。ここで!僕は本作の中で、一番泣かせるシーンだと個人的には思っているので

すが、カミジョウの幼なじみ・ミサキが、カミジョウを「わたしがいるじゃない!」と、

強く抱きしめるんですよー(泣・泣・泣)!

 白百合のところでチラッとふれたのですが、このミサキ役を演じていたのが、去年はボ

ーイッシュな男の子役を演じていた小野菜実子さんだったのでした。一年見ない間に、こ

んなに泣かせる演技をするお姉さんになって・・・、と見ているこっちも感慨無量のもの

がありましたね。実は、本作の脚本を書いたのも、小野さん本人なのです。「居場所がな

い」ということが本作のテーマであることを考えると、きっと小野さんが演じていたミサ

キという存在は、小野さん自身の中にも願望として、こんな人間がいてくれたら・・・と

感じられてやまない人間なのでしょう。だからこそ、あれだけ泣かせる演技ができたので

はないのかなあ、と思うのです。

 一方のユイは、魚化を止めることができず、最後には魚になって海に帰ってしまいます。

しかし、ユイは最後にアリスガワに「自分にとっての居場所が、ここにあるということが

わかったから、いつかまた陸に帰ってくる」という言葉を残していきます。カミジョウに

とってミサキが「居場所」となり得たように、ユイのとってもアリスという存在が「居場

所」となったことを、このセリフは示しているといえるでしょう。

 そういうわけで、冒頭にも述べたとおり、この作品は、「自分にとっての居場所がどこ

にあるのかわからない」という思いを抱いている人間にとっては、本当に泣ける内容にな

っていたのでした。泉高校は残念ながら、三年生は引退してしまうところのようですが、

こんな泣かせる作品を書ける小野さんには、ぜひともこれからも脚本を書き続けててもら

いたいなあ、と強く願う次第です。高校卒業しても、何らかの形で演劇活動続けて欲しい

なあ。それだけのものを、小野さんは持っていると思いますよ。 

 

[2000年10月19日 22時13分10秒]

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仙台工業演劇部「幽霊学校」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 突然ですが、プロ野球の話をします。今年のセ・リーグは巨人が圧倒的な強さで優勝し

ました。「野球は巨人」と考えている人が世の中では多数派のようで、そういう方々はさ

ぞかしお喜びのことでしょうが、世の中にはアンチ巨人という人もそれなりの数おりまし

て、そういう方々はこういった主張をよくなさいます。いわく「巨人が強いのは、金にあ

かせて強力な選手をたくさん集めたからだ。あれでは強くなるのは当たり前で、不公平だ。」

もちろん、巨人側の「せっかく金があるんだから、それを有効に使って何が悪いんだ。」

という主張ももっともな言い分であり、一概にアンチ巨人ファンの言っていることばかり

が正しいともいえないところもあるのですが、僕個人としては、お金も人材も少ないとこ

ろで、なんとか頭を使って工夫して巨人に負けないように頑張ろう、という巨人以外の各

球団の方に感情移入するところが強いのです。人間、そうそういつも恵まれた状態にいる

ことなんて少ない。むしろ、自分の思うとおりにことが運ばないことが多いもの。そう考

えると、巨人と巨人以外の球団では、どうしても自分の状況に照らし合わせると、巨人以

外の球団の方に目が向いてしまうんですね。

 なんで、演劇の掲示板で延々プロ野球の話をしているんだって?実は、今まで書いてき

たことって、高校演劇コンクールを比喩したものなんですよ。建前上は同じスタートライ

ンに立っていることになってはいるものの、実際には学校ごとに部員の数の多少とか、部

につけられている予算の多少という条件の違いというのはどうしてもあるわけです。それ

で、何十人ものキャストによる大がかりなお芝居や、お金かかってるんだろうなあ、と思

わせるものすごく凝った舞台装置を作ってくる学校も当然あり、それはそれでいいお芝居

を見せてくれるのですが、僕個人としては、どうしても少ない部員の中から一人二役など

で一生懸命やりくりしていたり、よくいえばシンプル・悪くいうとショボいセットで、い

かに観客に魅せるかを工夫している学校を見ると、ついついそっちの方に感情移入してし

まい、思わず心の中で、「がんばれ!」と声をかけてしまうのです。

 その意味では、先に書いた泉松陵が優秀賞を取ったことに、僕は心より「おめでとう」

と声をかけたいのですが、実はもう一校、少ない部員の数にも負けず、面白いお芝居を見

せてくれた学校がありました。それが、仙台工業演劇部なのです。

 この「幽霊学校」という作品は、去年の夏休みの夜に教室で幽霊を見た!という大作に

連れられて、後輩の健一、クラスメートの真理子、良子の3人が1年後の同じ日の夜に同

じ教室にやってくるところから始まります。大作は怖くなって、幽霊が出る前にトイレに

行ってしまうのですが(これは部員が少ないので、大作役の津田佑介君が幽霊に変わるた

めの苦肉の策なのです)、残り3人は詰め襟服を着た高校生の幽霊に出会います。実は彼

は戦争中に死んだ高校生の幽霊で、本当は学園生活を満喫したかったのを果たせなかった

ために、毎年命日に幽霊として姿を現すのだが、自分の死んだ時間が夏休みの夜だったた

めに、せっかく幽霊として表れても、学校には誰もいない、という笑っていいのか悲しん

でいいのか、トホホな状態にいたのでした。

 それで、3人はこの幽霊のために模擬学校を演じ、幽霊君に学園生活を楽しんでもらお

う、と思い立ちます。幽霊君は、彼らの思いやりに満足し、最後に成仏して物語は終わる、

という内容でした。

 こう書いていくと、本作は戦争の悲惨さを訴えた重苦しいお芝居だったのだろうか、と

思われる方も多いでしょう。しかし、彼らの作品は、この幽霊君を喜ばせようとする3人

の試みが、見事なまでのギャグになっていて、むしろ、最初から最後まで笑いどおしにさ

せてくれる楽しい内容となっており、いわゆる戦争モノにありがちの、重苦しさや、説教

臭さから脱することに成功していたのでした。僕は、彼らが重いテーマを選んだことより

も、むしろそういったギャグセンスのほうをを高く評価したいと思うのです。重いテ−マ

を選べば、教育的配慮から、先生方の評価は良くなるかもしれない。でも、彼らが望んで

いたことは、むしろ、とにかく面白いモノを見せることによって、お客さんを喜ばせたい、

という面の方が強かったのではないでしょうか?

 例えば、幽霊君を呼ぶために、3人は幽霊君に名前を聞きます。しかし、何しろ昔のこ

となので幽霊君は名前を思い出せないというのです。そこで彼らは幽霊に、よりによって

「ボウフラ君」という名前を付けるのです!なぜって?どこからともなく湧いてきたとこ

ろがボウフラみたいだから、だって(ヘナヘナ〜)!物語の最後の方で、幽霊君が3人に、

「みんな、僕の名前を呼んでよ!」と叫び、彼らがそれに答えて、幽霊君に名前を呼びか

ける場面があります。本当なら、とても感動的なシーンになるところなのですが、何しろ

呼びかける名前が「ボウフラ君!」なものだから、観客としては、笑っていいのか、感動

していいのか、とまどってしまうのでした。でも、そういった泣き笑いのようなシーンっ

て、僕はけっこう好きです。なぜなら、ストレートに感動を持ってこようとするのって臭

んじゃないか?というような問題意識が作り手側にあるように感じられるからなのです。

 本作はけっこうお客さんも笑っていて、会場の評判も上々だったように感じたのですが、

残念ながら予選を突破することはできませんでした。何しろ、2校しか県大会に進めない

のですから、やむを得ないのでしょうが、僕としては最初にも述べたように、例えていう

なら小林一茶の「やせがえる 負けるな一茶 ここにあり」的な気持ちがあり、このまま

本作が忘れられてしまうのは惜しいことだなあ、という思いから、こうして劇評を書くに

至りました。それにしても心配なのは、来年は今1年の津田君一人になってしまうのか、

ということです。新しい1年生が入ってきて、また来年もコンクールに出られるといいの

ですが・・・。まあ、最悪の場合は「アテルイの首」みたいな1人芝居をするという手も

ありますけどね。これからも頑張ってくださいね! 

 

[2000年10月18日 20時20分45秒]

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富谷高校演劇部「広くてすてきな宇宙じゃないか」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 本作で主演のおばあちゃん役を演じていた佐藤里香さんが、地区大会での演技賞を受賞

されました。おめでとうございます。高校演劇コンクールで個人賞が出たのを見たのは初

めてだったので、ちょっとビックリしてしまいました。講評でも、彼女の演技が絶品だっ

たと審査員の先生が言っていたので、異例ではあるが、あえて個人賞を出した、というこ

とだったのでしょうか?

 確かに、彼女の演技はとてもとても素晴らしいものでした。でも、彼女に対する「相手

役」ともいえるクリコ役の三浦絵理さんの演技もまた、僕には負けず劣らず絶品のものに

見えました。松陵の亀歩さんが、より生きたのが、相手役の最上純くんのとぼけた味わい

のある演技であったように、佐藤さんのおばあちゃんが生きた裏には、三浦さんの絡みが

あったと思うのです。というわけで、ここでは三浦さんの方にスポットを当てた文章を書

こうと思います。

 本作はキャラメルボックスの成井豊氏の代表作ともいえる作品であり、あらすじをご存

じの方も多いと思いますので、ストーリーは簡単に紹介します。舞台は近未来。妻を早く

に亡くしたTVキャスターが、まだ幼い3人の子供達のために最新の科学技術で作られた

アンドロイドのおばあちゃんを家に連れてきます。上2人は、最初は反発しつつも仲良く

なっていくのですが、下の娘・クリコはおばあちゃんとずっと口を利かず、やがておばあ

ちゃんを壊そうと、ある事件を起こす・・・。で、この末娘のクリコを演じていたのが、

三浦絵理さんだったわけです。

 要するに、彼女がおばあちゃんに反発していたのは、おばあちゃんとの仲が親密になれ

ばなるほど別離の時が辛くなる、という深層心理での思いが理由だったわけで、そういう

意味では、クリコって、とっても寂しがり屋な女の子なんですね。実は、富谷高の春の単

独好演「半神」も僕は見たのですが、その時三浦さんは、双子の愛されていない方のシュ

ラ役を演じていまして、自分が周りから愛されていない、という自覚からくる孤独感を、

それこそ観客の心にグサッとくるように演じていたのが、とても印象に残っていたのです。

つまり、寂しそうな表情が、とってもサマになってる娘なんですよ。そんな彼女が、3人

兄弟の仲で、一番の寂しがり屋であるクリコを演じていたのですから、これははまらない

わけがない!のです。

 と、書いても具体的に読者の皆さんには、完璧にはイメージできないでしょうね。この

辺が、文章の限界とでもいうもので、自分でも書いてて歯がゆくて仕方がないんだけれど

も、あえて、例えていうなら、サイマル演劇団という仙台のアマチュア劇団がありますが、

そこの看板女優の佐武令子さん。三浦さんは、その佐武さんをを10年若くしたような感

じの女の子なのです。最近の佐武さんは、どちらかというとバラドル的なとぼけた感じで

笑いをとる演技が多いのですが、以前に三角フラスコの「ソラシドミニカ」で客演したと

きは、それこそ、身勝手な彼氏を待ち続ける女の子の孤独感を、こちらの胸が痛くなるよ

うな表情で見せてくれたものでした。細ーい目に、顔が卵形の輪郭で、笑うとかわいい。

でも、その笑顔には、どこかしら寂しさが宿っている。そんなところに、僕は佐武さんと

三浦さんの共通点を感じます。 

 ラスト・シーン。年老いて、子供は皆独立し、孤独になったクリコは、再びおばあちゃ

んのレンタルを希望します。ひとりぼっちで部屋にいる彼女の寂しそうな表情!最後の最

後におばあちゃんがクリコに空を飛ぶところを見せるシーンが、本作の最も泣ける場面で

あることは確かなのですが、そのラストが生きるためには、三浦さんの、それこそ孤独感

が体中からにじみ出ているような演技が伏線としてあってこそ!だと思うのです。実は、

おばあちゃん役の佐藤さんは、春の「半神」では、三浦さん演じるシュラにくっついた双

子のもう片っ方、マリアを演じていたんですね。そういう意味で、この2人はきっと富谷

を引っ張る車の両輪のような存在なのでしょう。今回、富谷は3年生も公演に参加してい

たのですが、そういう意味でも、再び、この2人の絡みをどこかで見たい!という強い思

いに駆られたのでした。期待していますよ!

 

[2000年10月18日 0時13分39秒]

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プロジェクト・ナインゲージ 「ちゃんとするまで待って」 

お名前: 関 健治   

 

舞台は、森首相の神の国発言に対し行われた学生運動の要求がすんなり通ってし

まった為に「ハワイを、日本国とする」という要求を出してしまい、そんな要求が

通るわけもなく以後2年間閉鎖された大学のバリケード内、文芸部の部室である。

1週間後、機動隊の突入を控えた部室内。描かれているのは「モノトリアムの臨

界点」である。文芸部の女部長 最上(太田 ゆう)はヘッドホンで音楽をききなが

コタツで読書をしている。しかし、そのコタツには、電源が入っていない。

 

前作「ストロベリーフィルズ フォーエバー」では、血縁の不条理をテーマにして

いた様に感じたが、正直テーマなのかモチーフなのかがはっきりしない点が不満

だった。作品内にちりばめられた脱力ギャグ(秀逸、面白い。)の数々が、ラスト

の主人公の叫びに作品を通しての主張を感じる分、照れ隠しのように思えたから

だ。

 

しかし、本作「ちゃんとするまで待って(stay high cracking

 cherry)」ではそのギャグ群が包括される世界観がきっちり描かれている。

馬鹿馬鹿しく、意味の無く、不道徳なことで盛り上がれる。必死で盛り上がろう

とする。しかし、それも過剰さと短絡さゆえに飽きそれでもそうせざるしかない

そんな微妙な季節のなかでの、ギャグはすでに骸でしかなく、ゆえの熱のない脱

力なギャグが本作では繰り返される。それが、作品全体の世界観にうまくはまっ

ていたと思うのだ。

 

本作では、もうひとつの世界が別舞台で進行する。どこかの国の戦時中捕虜

となった男 星撃ち(砲弾手の総称らしい。役 室野尚武)とおなじく捕虜の

少女ヒビ(堀口佳奈子)収容所の門番(松山ユウコ)の物語である。捕虜となった

星撃ちは門番の出す条件、以後一年間星撃ちとして働きその後本国送還、

もしくは星撃ちの廃業目的で両眼をつぶした上での本国送還、を拒みつづけ

収容所に最後の星撃ちの捕虜として居座りつづける。

 

そんな、星撃ちに危険を冒してまで会いにくるヒビは、星撃ちに歌をきかせにく

るのだが、どうにもならない歌ばかりでさらにひどく音痴である。しかし、彼女

は明るい。無駄に明るい少女である。

 

文芸部の部室には学生結婚で大学を出た沢木(二役 樋口佳奈子)が部室を訪れる

彼女は離婚し、「祭り」をもとめ機動隊突入前の部室に舞い戻ってきたのだ。

部室内では、宴会が始まるがここで文芸部員で前半虫山(紺谷和生)ともに道化的

役割だった殿村(鎌田澄人)は理不尽な宴会ゲームで姿を消す。丁寧にもカルト教

団ネタで1回よみがえり、また別のカルト教団ネタで完全に姿を消すのだが、沢

木の心配をよそに最上と虫山はいっこうに気にしない。

そんな中、機動隊突入のサイレンがなる。

 

もう一つの世界では、星撃ちに会いにきたヒビが発見されヒビの銃殺か、それと

も条件をのむかと門番が星撃ちにせまる。ぎりぎりのなか条件を飲むことに決め

た星撃ちの前に拘束されたヒビがあらわれ歌をきかせる。

内容は、あなたの夢になるために私は死をえらぶ。といったものである。

星撃ちは、驚愕し崩れる。

 

部室内に、戦いにやぶれた最上と虫村が帰ってくる。沢木は、えらんだヘルメッ

トの色がピンクで目立ちすぎたせいかガス弾にあたって死んだ。最上は虫村の

会話の中で前線にいる恋人イサオに会いに行くことを告げる。その理由として

イサオが最上に書き残した小説のラストをどうしても知る必要があるからだと

いうのだ。

 

ここで、収容所の世界はイサオの書き残していた小説だということが明らかにな

る。ここで二つの世界はクライマックスを迎える。

 

門番は、なぜ選択を拒みヒビの銃殺を止めなかったのかと星撃ちを激しく責める。

星撃ちは、ここではじめて選択を拒み収容所に居座りつづけた訳を語りだす。星

撃ちは「星撃ち」であることに、自分を見出せなくなっていたのだ。

ゆえに、星撃ちとして戦うことも、星撃ちを放棄することで自分の目をつぶされ

ることも拒み続けていたのだ。星撃ちはさらに語りだす。拒みつづけ居座りつづ

けた結果結局ここも、自分の場所ではないことに結論した。ゆえに国に帰る。星

撃ちとしてではなく、自分として国に帰るのだと門番に告げる。

 

部室では、虫村が最上に、いっしょに自分の故郷に帰ることを説得する。最上を

愛するがゆえにこれからの自分には最上が必要だという。しかし最上は、それを

拒む。虫村の気持ちはわかっていたが、最上に必要なのはイサオなのだ。

 

門番は星撃ちに馬乗りになり、星撃ちを殺そうとする。

星撃ちが星撃ちであることを自ら否定してしまえば、自分が門番であることも意

味の無いことになるからだ。

 

虫村は最上に馬乗りになり、最上を殺そうとする。

虫村は、最上がイサオの元に去れば自分の2年間はまったく意味の無いものに

なってしまうからだ。

 

2つに分けられた舞台で進んできた二つの物語は文芸部の部室内で一つになり

劇と劇中劇の壮絶なリンクのなかビートルズ中期の名曲「ストロベリーフィルズ

フォーエバー」が鳴り響き幕を閉じる。

 

作・演出の今野信一は本作においてモノトリアムのぬるさに対する愛情と嫌悪を

提示し、その極限に個でありたいことを主張している一方で、モノトリアムに対

する軟弱ともいえる執着をラストに描いた。

 

終わりなき日常に、どっぷりとつかってきた人間に簡単に結論を出させること無

くむしろ、それによって起こる歪のなかに人間性を求めたラストは実際よくでき

ていたと思う。健康的だとすら思った。

 

プロジェクト ナインゲージは、今野信一のソロプロジェクトであり、キャスト、

スタッフとも大学生中心に公演されているのであるが、そういったことを考える

と自らの日常の延長を作品として実に昇華したものだ。

14日のマチネを観た。

 

 

[2000年10月17日 19時22分31秒]

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白百合学園演劇部「HAPPY BIRTHDAY」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 仙台高校の劇評の欄で岩井俊二のことを書いたけれど、実は僕は日本映画がけっこう好

きである。それも、「踊る大捜査線」みたいなアクションものではなく、今挙げた岩井俊

二や、あるいは大林宣彦といった、いわゆる叙情性あふれる監督の作品が好きなのだ。

 そんな僕にとって長い間フェイバリット・ムービーであり続けているのが、中原俊監督

の「櫻の園」である。最近の映画だと思っていたら、もう10年前の作品になるんだね。

創立記念日には伝統的にチエホフの「櫻の園」を演劇部が上演するという、地域からはお

嬢様学校と見られている女子高演劇部の1日を描いたものである。僕はこの映画が好きで

好きで、もう10回ぐらい見てるんだけれども、今にして思うと、僕が高校演劇をこんな

に好きになったのは、この「櫻の園」を見たためかもしれない。映画を見た当時は、演劇

にはほとんど興味のない人間だったんだけれども、高校演劇が将来好きになる要素が、深

層心理にサブリミナル効果(?)として、あの映画によってインプットされたのかもしれ

ない。なんでそんなことを思い出したかって?たぶんそれは、白百合演劇部の芝居を見て

しなったためだろう。

 この「HAPPY BIRTHDAY」という作品は、誕生日の前日に仲の良い親友3

人とささいなことからケンカしてしまった1人の女子高生が、時間の止まった夢の世界に

連れていかれるものであった。この夢の世界にいれば、誰かに傷つけられることがない。

でも、現実世界のような生きた他者との関係もない。夢の世界にいるのがいいのか、現実

に戻るのがいいのか、という選択を主人公が迫られるという、まあ、わかりやすくいうと、

エヴァンゲリオンの「人類補完計画」を、少女漫画風のファンタスティックなタッチで演

劇化するとこんな感じになるんだろうな、という作品であった(ちなみに、エヴァンゲリ

オンはアニメだが、やはり「映画」版が大ヒットしたもので、僕も大好きな作品です)。

 で、なんでこの作品を見て「櫻の園」を思い出したかというと、主人公が前日の学校で

のケンカを思い出して再現するシーンの、昼休みにお弁当を食べているという女子高生の

何気ない日常を淡々と描いている場面が、なんか「櫻の園」を思い出させて懐かしいなあ、

と感じたからでもあるんだけれども、4人組の親友の中に、一人ショートカットで元気の

いい、ボーイッシュな女の子がいたんだね。彼女は「夢の世界」では、サッカー少年の役

で出てくるんだけど、僕は彼女を見ていて、なーんかどっかで見たことあるんだよなあ、

という印象を拭えなかったのだ。でも、キャスト表を見ると、彼女(倉島紗綾華さん)は

1年生なので、去年のコンクールには当然出場していない。それで、なんだろう、このデ

ジャブー感は?と、ずっと悩んでいたんだけれども、表彰式の時に、各学校の生徒さんが

それぞれの制服で着席しているのを見たとき、ハッとした。「あ!彼女って『櫻の園』の

時の、つみきみほにそっくりじゃん!」。そう思い出した途端、僕の頭の中で10年前に

見た映画の思い出が、まるで走馬燈のように巡りだし、ほとんど死を直前に迎えた人間の

ような状態になってしまったのでした(笑)。

 うーむ、なんかお芝居そのものの劇評になってなくてゴメンナサイ。でも、昨日、CU

Eの掲示板で代表の森さんが、高校演劇というのははかないから美しいという趣旨のこと

を書かれていらっしゃったけれど、「櫻の園」って、きっと櫻の花があっという間に散っ

てしまうはかなさと、高校演劇(あるいは高校生という人生の中の大きな一時期)のはか

なさを掛け合わせた映画だったんだなあ、ということを、白百合の演劇を見ていて、ふと

思い出してしまったんだ。それはきっと、倉島さんの、「この娘、ほとんど役作りしてな

いんじゃないか?地丸出しでそのまま舞台に上がってるんじゃないか?」と思わせながら

も、いや、むしろ地そのものであるからこそ、とてもキラキラと輝いて見える元気ハツラ

ツさが、僕のような30代の若年寄には、とてもまぶしく見えたからなんだね(誤解のな

いように書いておくけど、地のままで舞台に上がる=ヘタ、ということでは決してない。

だって、普通の人なら舞台に上がると、たいてい緊張するじゃん。少なくとも、地のよう

に見えるということは、そういう緊張感からくる不自然さがまるで感じられない、という

ことだから、これは実はすごいことなのだ)。

 でも、今年の白百合は残念ながら予選落ちしてしまった。そういうわけで、県大会で、

彼女たちの、なんか、懐かしい感じのする、暖かい雰囲気のお芝居を見ることはできませ

ん。まあ、倉島さんはまだ1年生だから、来年、再来年も登場されることを、今から心待

ちにするとしよう。でも、「私はやっぱり、スポーツの方が好きだあ!」、なんて、運動

部に移ってしまいそうな雰囲気があるんだよなあ、彼女(勝手に想像してすみません・苦

笑)。あるいは、泉高校の小野菜実子さんみたいに、来年になったら、カッコいいお姉さ

んに早変わり!してるかもしれないしね、それはそれでまた楽しみである(小野さんも、

去年は映画「Love Letter」でトヨエツが演じていた主人公の彼氏の役を、と

てもボーイッシュに演じていたのだが、今年は打って変わって大人っぽいインテリ女性科

学者を好演していたのでした)。

 

[2000年10月16日 22時0分4秒]

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泉松陵高校演劇部「fractional....」 

お名前: 亀の代理母   

 

温かいお励ましの御言葉本当にありがとうございました。亀がこれを読んだらまたないて喜ぶでしょう。

 

[2000年10月16日 22時9分4秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

恐るべき高校生(’00版)、亀歩!

 

 昨年の高校演劇コンクールで、私は、育英の大江有美さんの、あまりにも高校生離れし

た名演に感動し、「恐るべき高校生、大江有美!」という文章をこの場で書いたことは、

皆さんも覚えておいでのことと思う。今年もまた、並のアマチュア劇団をはるかに凌駕す

るような、ものすごい高校生はいないかなー、と思いながら各公演を見ていたのであるが、

最後の最後に、ついに見つけた!その名は、松陵の亀歩(かめ・あゆみ)さんである。し

かも、昨年の大江さんの場合は、役者としてのすごさに圧倒されたのだが、今年の亀さん

は、それに加えて脚本も自分のオリジナルとして書いていたのである。そういう意味では、

むしろ、昨年でいえば仙台高校の朝理恵さんに近いかもしれない。

 この「fractional....」という作品、とにかく冒頭からすごかった。舞台

は学校の食堂。主人公の高校生・川上高瀬が、悲愴な表情でカレーの皿を高く掲げている。

「ここにあるカレーは中辛ということだが、しかし、本当に中辛だろうか?もしかしたら、

辛口。いや、甘口かもしれない!」といったセリフを(台本持ってないので、正確ではな

くてすみません)、あたかもシェイクスピアの四大悲劇の主演男優のように、眉をひそめ、

この上なく深刻な表情で、朗々と語るのである!もう、この冒頭で私などは完璧にノック

・アウト。爆笑の渦に巻き込まれ、笑いすぎて目から涙が止まらなくなってしまったので

あった。

 この川上役を演じた最上純君というのも、また亀さんと息のあったギャグの応酬を見せ

てくれた。本作は優秀賞を見事受賞したのであるが(個人的には最優秀賞でもおかしくな

いと思ったが・・・)、これは亀さんのすごさに加え、最上君の味のあるボケぶりも大き

な要因であろう。実は、川上は自分で自分が何をすればいいか決められない優柔不断な人

間で、冒頭のギャグに象徴されるように、カレーの味ですら自分で判断できないようなヤ

ツなのである。彼は、親友の木元(石川泰介君)にいつも金魚の糞のようにくっついてお

り、コーラを飲むにも、コカ・コーラかペプシか自分で決められず、木元に決めてもらっ

ている有様なのであった。

 そんな川上を、未来の世界から見ていた孫娘の役が、亀さん演じる小池美紀である。彼

はこんなダメ人間のため、たぶんろくな彼女ができないだろう。でも、もっとしっかりし

た人間になれば、素敵な彼女ができるかもしれない。そうすれば、孫娘の自分も、今より

もっとスタイルの良い美形に生まれ変われるかもしれない。そう考えた美紀は、川上の人

格を前向きに改造するため、未来の世界からやってきたのであった。実は、この初めて亀

さんが登場するシーンが、またものすごく衝撃的なのだが、あえてここでは教えない。知

りたい人は、ぜひぜひ県大会まで足を運ぶのだ!絶対、多賀城まで見に行く価値はあるぞ!

 美紀の突然の登場に驚く川上だが、彼女が現代の人間では使えない特殊な能力を持った

人間だとわかると、実は自分が隣のクラスの超美人、佐藤さんに片思いをしていることを、

つい教えてしまう。しかし、親友の木元もまた、佐藤さんに片思いをしていることが明ら

かになる。今まで、木元にベッタリで主体性のない川上だったが、美紀の励ましにも助け

られ、次のマラソン大会で、見事、木元を破って優勝し、格好いいところを佐藤さんに見

せつけることによって自分をアピールし、そのチャンスに告白もしようと決意するのであ

った。

 つまり、この物語は古典的なビルドウングス・ロマン(成長物語)なワケだが、差し挟

まれるギャグの質がものすごく高く、しかも観客を飽きさせないために随所随所に効果的

に組み込まれているため、まさに、笑いあり、涙ありの、文字通りの感動ストーリーにな

っていたのであった。ギャグとして面白かったのが、電話を使ったネタだったのだが、こ

れもあえて教えない。せっかく県大会があるのだから、ここで文章としてネタを知るより、

現場で実際の演技を見た方が、絶対に笑えると確信するからだ。また、単にネタだけが面

白いのではなく、亀さん自身の役者としての個性も、また素晴らしかった。小さい体を、

それこそはじけるように元気いっぱい使っていて、ギャグに笑わされつつも、なんか、そ

の頑張っている姿がとてもけなげで、見ているこちら側の胸にしみるところもあったのだ

った。

 んで結局、川上は佐藤さんには振られちゃうんだけど、人間的には成長したことを見届

け、とりあえず一安心して美紀は未来の世界に帰る。ラストは、布団にジャージ姿で寝て

いた川上が目を覚ますところで終わるのだが、終演後の講評で古川高校の伊東先生も指摘

されていた通り、このラストはさらに改善すれば、より感動的になるだろう。例えば私だ

ったら、ダブルキャストとして、同じ学校に亀さん演じる同級生を登場させ、新たな出会

いを設定する。そうすれば、美紀が現在の美紀と同じ人間として将来生まれることのつじ

つまも合うし、川上も幸せになって、ハッピーエンドということになるわけだ。県大会で、

その辺をどのようにリニューアルしてくるか(あるいは、あのラストシーンにはこだわり

があり、そのまま変えないという可能性も、もしかしたらあるかもしれないが)、半月後

が、とてもとても楽しみである。

 と、いうわけで、私個人にとって本作は、猫原体の「アナログ・ノート」と甲乙つけが

たい、今年見た中で一、二を争う感動作であった。年末の年間ベスト10をどうしたもの

か、まだ10月だというのに、もう今から嬉しい悲鳴だよ!

 

[2000年10月15日 21時53分16秒]

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劇団M.M「エプロン」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 高校演劇コンクール、今まさにたけなわである。今日は注目の泉・宮城野地区初日とい

うこともあり、5校中4校を観劇してきた。本当なら昼間に4本も芝居を見たら、夜はも

う疲れて一休みしたい気分のところである。しかし、なんといっても劇団M.Mである。

去年の「ミリオンセラー」の面白さは、一年経った今でも未だに印象に強く残っている。

しかも、今回の作品は「三姉妹」が主人公である。「三姉妹」と聞いて、アイドル評倶楽

部の私が、そのまま見逃すわけにはいかないではないか!

 というわけで、青年文化センターを出たその足で、イベントフォーラム山口に向かった

のであるが、私が本作・「エプロン」で最も目をひきつけられたのは、実は主人公の三姉

妹ではなく(彼女たちの演技も良かったのだが)、客演していた青葉玩具店の西園ナツさ

んだったのである。

 物語は、三姉妹の長女が結婚することをきっかけに、失踪していた父親を捜すために、

TVの「三姉妹コンテスト」に彼女たちが出場するという話だったのだが、このTV番組

の司会者役で登場していたのが、今述べた西園さんなのである。彼のどこが面白かったか?

実は、彼は一週間前の劇団三銃士の「ねずみとり」にも客演していたのである。わずか一

週間に二本連続で客演するというのもすごいが(しかもどちらもけっこうセリフが多かっ

た)、私がここで指摘したいのはそのことではない。「ねずみとり」はアガサ・クリステ

ィー原作のミステリーで、当然舞台は50年ぐらい前のイギリスである。彼はペンション

に宿泊する怪しい外国人の役で登場していたのであるが、今回のTV司会者の役作りが、

その時の外国人の時と、全く瓜二つの演技だったのである!

 「三銃士」は、代表の紺野鷹志さんのカラーがよくも悪くも色濃く出ている劇団で、ま

あ要するに、出ている登場人物が皆、過剰に味の濃い芝居をするところである。西園さん

もその例に洩れず、怪しげなイントネーションを使い、ペンションの奥さんをナンパしよ

うとする、年齢不詳の(年食っているように見えるが、やたらと身のこなしが軽い。ギリ

シャ系の名前だが、むしろラテン系のノリ)外国人オヤジの役を怪演していたのだが、本

作では日本人のTV司会者であるはずなのに、その身のこなしといい、怪しいイントネー

ションといい、もう、その怪しい外国人そのまんま!

 つまり、私が何を言いたいかというと、彼の今回の面白さは、いわゆる楽屋オチ的なも

のだった、ということなのだ。先週の「三銃士」を見ていない観客にとっても、彼の過剰

かつ怪しげな演技は、充分笑えるものだったと思う。しかし、先週の彼の演技を見たもの

にとっては、彼は匿名のその場限りの存在ではなく、「なぜ、あのときの変な外国人が、

この現代の日本のTV番組に?」という実名性を伴うものになることによって、より面白

みが増していたわけである。例えていうなら、かつてのシャボン玉ホリデーにおける、植

木等の「お呼びでない?」的な面白さ。つまり、「三銃士」での演技が、今回のM.M出

演の(少々長すぎるが)伏線としての効果となっていた、というワケなのだ。

 彼が、意識して2週続けて役作りを、あえて似せたかどうかまではわからない。もしか

したら、本当は不器用な役者さんで、どんな役を演じても、同じ傾向のキャラクターにな

ってしまっただけなのかもしれない。しかし、楽屋オチ的に観客を笑わせるために、わざ

とあえて同じ役作りをした、と考える方が、夢があって面白いではないか!実は、衝劇祭

の時の青葉玩具店の本公演も私は見ているのだが、その時の西園さんの印象が、正直私に

は薄いのだ。つまり逆に考えれば、衝劇祭の時の彼の演技は、この2週にわたる演技とは

違う役作りをしていたから印象が薄い、と考えるのが妥当なわけで、そう類推していくと、

やはり今回の彼の演技は、確信犯、と考えるのが妥当なのである。

 今回のお芝居は、そういった西園さんの演技に限らず、楽屋オチ的な面白さが楽しめる

ものであった。例えば、三姉妹がTV出演しているシーンで、三姉妹がTVカメラに向か

って「ミヤさん、見てるー!」と手を振るシーンがあった。このミヤさんという人は、以

前M.Mに所属していた役者さんの名前なのだが、先日の衝劇祭でのGECKA−BIJ

INの芝居に客演する予定だったのが、突然失踪してしまった人なのである。もちろん、

そういうウラ話を知らなくても本作は充分面白いのだが、知っていると、より爆笑してし

まう仕掛けになっている、という構造になっており、しかもその伏線の貼り方が、あくま

でさりげないものであり、「はい、これは楽屋落ちですよー!」と、声高に見せつけるも

のでないところに、センスの良さを感じさせるのである。今、引き合いに出したGECK

A−BIJINは、「大・失・敗」の時に、出てくる役者が、「BIJIN−GECKA」

という劇団に所属している、という話になっていたが、そのように露骨に楽屋落ちを出し

てしまうと、かえって見ている者は鼻白んでしまうものなのである。楽屋落ちは、わかる

人にニヤッとさせるくらいに、さりげなくしてこそ効果があるものなのだ。こういうとこ

ろを、GECKAさんあたりは、先輩劇団のM.Mさんから学習するといいと思う。

 この公演は、明日も14:30の回があるが、今述べた理由で、特に、先週「三銃士」

を見た方に御覧いただくことを、強くおすすめしたい。もちろん、先週「三銃士」を見て

いない方でも、充分楽しめる愉快な内容になってはいるのだが、やはり、一週間がかりの

壮大な伏線、という楽しみ方は、そうそう味わえるものではないだろう。「三銃士」と、

今回の「M.M」、2回通し券でも作れば面白かったかもね!

 

[2000年10月14日 23時7分0秒]

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仙台高校演劇部「PICNIC」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 私が数ある高校演劇部の中で最も注目している高校として、仙台高校演劇部の名前を何

度か挙げていることは、既に皆さんご存じのことと思うが、その仙台高校が本コンクール

にぶつけてきたのが、岩井俊二の映画「PICNIC」の演劇版である。岩井俊二といえ

ば、昨年も泉高校が「love letter」を演劇化していたが、2年続けて彼の作

品が劇化されたということは、今時の高校生の心に通じるものが、彼の作品の中にあると

いうことなのだろう。私自身も彼の作品の大ファンなので、こういう傾向は個人的にはと

ても嬉しかったりする(まあ、私の文章はどれも、根をたどれば全て個人的な思いに通じ

てしまうのだが)。

 映画を御覧になった方はご存じと思うが、本作は精神病院が舞台の物語である。殺人な

ど重度の犯罪を犯した青少年が、おそらく精神病歴があるという理由で強制入院させられ

ている病院に主人公のココ(多田麻美、映画ではCHARA)が到着するところから、物

語は始まる。彼らは「(病院の)塀を越えては行けない」という規則に縛られているが、

それを逆手に取り、塀づたいにどこまでも歩いていくのは構わないだろう、とココと仲良

くなった男の子2人、計3人で冒険をはじめる。なぜか?世界の終わりを見に行くためで

ある。

 昨年の「今夜の君は素敵だよ」の主人公が、チョコレイト工場に幽閉された少女であっ

たように、今年の主人公達もまた、精神病院という場所に監禁されている。つまり、昨年

と同様、巨大な世間に対して常日頃私達が感じている閉塞感、が本作のテーマなのである。

そして彼らは、閉塞した状況をまさに打破するために、「世界の終わり」を渇望するので

ある。

 しかし、ココは劇中でこうも言っている。「自分が生まれたとき世界は始まり、自分が

死ぬとき世界は終わる」。確かに、「本当は」自分が生まれる前から世界は存在し、自分

が死んだ後も世界は存在し続けている。だから、ココのセリフは正確には間違っているか

もしれない。しかし、自分が生まれる前と自分が死んだ後では、自分という存在がない以

上、世界を知覚することはできない。だとするならば、自分という実存にとっては、世界

は存在しないのと同じことになるのだ!つまり、「世界の終わり」は、閉塞した現状を壊

すことを意味するが、同時に自分の存在がなくなることでもある。

 映画のラストシーンはこのことに自覚的であり、だからこそ悲しくも美しいものであっ

た。ココが、なかなか終わらない世界に苛立ち、「私が死んだら、世界も終わるのかな」

と、たまたま拾った拳銃を取り出し、衝動的に自殺する。唐突の銃声と美しすぎる夕焼け。

そして、物語はそれこそブチ切られる形で終幕を迎える(「私が死んだら世界も終わる」

のだから当然のことだ)。あのシーンは岩井ファンなら忘れがたい、まさに名場面であろ

う。しかし、今回の演劇版ではこのラストが改変されていた。主人公達3人は、死後の世

界で生き、世界の始まりに向けて輪廻の旅をはじめるのである。

 物語をオリジナルのままで上演するのでは芸がない。自分たちらしさを出すためにスト

ーリーをいじりたい、という気持ちは理解できる。しかし、この改変は本作の最も芯とい

うべき部分をアヤフヤにしてしまい、甘ったるい御都合主義に後退してしまったのではな

いだろうか?それが、私にはものすごく残念だったのである。

 「世界が終わる」ということは、自分も終わる=消えてなくなることを意味する。それ

でも、世界が終わった方がまだマシだ、というせっぱつまった究極の選択だからこそ、最

後のココの選択は濃密なものとなるのである。人が演劇を見るとき、登場人物に感情移入

しながら鑑賞するということは、作品の内容によっては、現実世界のシミュレーション・

ケーススタディとしているということを意味することでもある。現実離れした荒唐無稽な

異次元でのファンタジーや、笑いを目的としたドタバタ喜劇なら話は別だが、本作の場合

は、精神病院という状況が、上にも述べたとおり現実世界のメタファーであることを考え

るならば、特にシミュレーションとしての傾向は強いものといえるだろう。だとするなら

ば、本作の結論はつらくなったら自殺すれば別の世界に行くことができて、幸せになれる

よ、ということになってしまう。しかし、オカルトを信じている人ならともかく、死後の

世界は存在して、みんな死ねば幸せになれるという確たる証拠なんてどこにも存在しない

のだ。むしろ、現実の世界を精神病院という比喩によって、そのキツさを強いリアリティ

をもって描いているだけに、ラストシーンでオカルトをもってくるのは、その落差があま

りにも甘すぎる、という不満をだかせずにはいられないのである。

 途中までの展開は実に見事で、役者の演技力は他の高校と1ランク違う、と思わせるに

足る見事さだった。特に、「M.O+」の時に、とても高校生とは思えないと絶賛した多

田麻美さんが、今回ますます素晴らしい出来映えだったことは、特筆していい。私達は役

者を見る際、稚拙かそうでないかの判断でリアリティさを基準とする傾向がある。しかし、

道行く通行人にいちいち私達が感情移入しないように、どこにでもよくいる人のリアリテ

ィが出たとしても、それにプラスアルファがなければ、観客は役者に引きつけられないだ

ろう。しかし、多田さんにはそのプラスアルファとでもいうべき、強いオーラが感じられ

る役者となっていた。昨年、「天使は瞳を閉じて」を見たときは、1年先輩の佐藤弥子さ

んにそのオーラが感じられ、多田さんは目立たない存在であった。しかし、この1年とい

う短い期間を経て、多田さんも今回、まさにその域に達していたのである。それだけに、

あのラストシーンの改変は実に惜しい!まさに画龍点晴を欠くではないか!と思わずにい

られないのである。

 彼女たちが感じる現実が、重苦しくうっとうしいものであることには強く共感する。年

齢の差を超えて、私も同じ現実を感じているからこそ、彼らに共感するのだ。だから、救

済を望む気持ちもまた理解できる。しかし、理解できるからこそ、あまり安易な結論に走

ってほしくないのだ。なぜなら、現実の重苦しさがリアルであればあるほど、それをうち

破る救済も安易なものでは説得力がなくなってしまう、と思うからなのだ。

 

[2000年10月10日 23時41分35秒]

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宮城広瀬高校演劇部「家ジャック」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 実に衝撃的な芝居であった。なぜなら、本作は家族崩壊というテーマを扱っており、し

かもそれを他人事としてではなく、彼女たち高校生自身のものとして問題提起した内容だ

ったからである。

 主人公・麻子の家は母子家庭である。幼い頃に両親が離婚し、母親が女手一つで彼女を

育ててきた。しかし、どうしても仕事が忙しく、麻子の進路面談にも出席できない。夜遅

く帰ってきて、仕事のストレスから麻子につらい言葉を浴びせる。おまけに、どうやら不

倫をしているらしい。そんなこんなで母親不信に陥り、暗い表情をしている麻子を、クラ

スメートの美沙が、自分の家に遊びに来るように誘う。

 美沙は麻子と対照的に明るい性格で、その明るさが麻子にはうっとうしく感じられるの

だが、幸せそうな美沙の家族をうらやましく感じた麻子は、たまたま家庭科で使ったため

カバンに入れていた包丁をとり出し、「この家をジャックした!今日一日、この家の家族

にしろ!」と、彼女の家族を脅迫する。

 しかし、その時たまたま帰宅して来た美沙の父親を見て、麻子は驚く。なんと、麻子の

母親の不倫相手が、美沙の父親だったのだ!しかも、彼は家の中では暴君のように家族に

振る舞う人物で、美沙の母親はそんな彼の振る舞いにいつもおびえを感じていたのだった。

 表面的に幸せそうに見えていた家族も、結局は自分の家と大して違わないじゃないか、

と絶望した麻子は、「家ジャック」をあきらめ、自宅で睡眠薬をあおる。運よく、母親が

早いタイミングで発見し救急車を呼んだため、麻子は一命を取り留めるのだが、この時、

母親が麻子に「お前がとても大事なんだ!」という内容を(ちょっと、セリフうろ覚えで

すみません)、麻子に向かって泣き叫ぶシーンがとても感動的であった。

 こうして、麻子は母親と和解し、明るさを取り戻すのだが、一方の美沙の家は、両親が

離婚し、美沙自身も、「自分はつらい状況を直視するのがつらくて、無理して明るく振る

舞っていたに過ぎない。でも、もうそんなことをする必要はなくなった。」と、明るく振

る舞うのをやめるのであった。

 ラスト、明るくなった麻子にあった後、以前に麻子が自分の家で「家ジャック」をした

ときのように、携帯電話から母親に「自分は誘拐された!」と美沙は狂言をする。しかし

電話は留守電で、美沙が「ふー」とため息をつくシーンで、物語は痛々しく幕を閉じる。

 実は、公演プログラムに「演出のことば」というのが載っているのだが、そこには「今

の私達の思いです。誰もが一度は感じたことだと思います。」と書いていった。これもま

た、私には衝撃的であった。要するに、この芝居は絵空事として書かれたものではなく、

彼女たち自身にとって現にリアリティを持つ問題なのである。もちろん、彼女たちの家族

が、皆母子家庭だということはないだろう。しかし、大きな少年犯罪がおこる度に、家族

の形骸化が識者によって指摘され、あるいは「家庭」についてのアンケートで、バラバラ

に食事をとる家庭が増えている、という内容などが、よくマスコミなどで取り上げられる

ことに象徴されるように、自分の家がこの物語ほど極端ではないとしても、ある意味、仮

面家族的な側面をもっていると感じている高校生は、わりかし結構いるということなので

はないだろうか?

 そして、この作品のいいところは、結末をきれい事のハッピーエンドにもっていかず、

美沙の家を離婚という悲劇に導いていった点である。「高校演劇」に教育的側面を持ち込

もうとするなら、「家族」の素晴らしさをみんなが認識し、父親も母親もそれぞれに反省

する、という結末が「望ましい」と先生方は思われるかもしれない。しかし、それでは彼

女たちのリアリティとは一致しないのだ!

 つまり、説教によって人間は変われない、という一種のあきらめを彼女たちは認識して

いるということではないだろうか?「子供達の心の問題には、親の責任が大きい」と、評

論家達はよく口にする。しかし、両親だって人間である以上、なかなか完璧に「いい親」

だけを演じられるものではない。子供に八つ当たりをしたくなることも、気持ちが弱くな

って誰かに頼りたくなり、結果不倫に走ることもあるだろう。それを評論家が説教したり、

自分たち子供がプロテストしても、その時一瞬は反省するかもしれないが、人間なんてそ

う劇的に聖人君子に変われるものではない。なぜなら、人間とは本来不完全な存在であり、

それは自分たちの両親だって例外ではないのだ、という諦念を、私は本作から感じずには

いられないのだ。

 そういうわけで、私は本作を高く評価するのであるが、ひとつだけ気になった点を。麻

子の母親が本作では普通のOLのようであるが、かえって水商売にした方が、よりリアリ

ティが出たのではないだろうか?麻子の学費を女手一つで稼ぐだけの仕事であり、いつも

夜遅く帰ってくる状況や、また、美沙の父親と不倫をしていた、という事実も、彼女が水

商売をしていたという設定にすれば、皆つじつまが合うのではないだろうか?(つまり、

美沙の父親が客として彼女のバー?なりの常連だったとすれば、二人の出会いはより自然

だろう)なぜかというと、彼女が麻子に向かってクダを巻いているときの啖呵の切り方が、

どっちかというと、普通のOLというより、飲み屋のお姉さんが荒れている、という感じ

のリアリティが出ていて、とてもいい演技だったからである。

 昨年の広瀬高は如月小春の「DOLL」を演じていたが、’83年の作品であることや、

オリジナルの脚本でないためか、どうも役者が脚本を消化しきっていないような印象を受

けた。今年の「家ジャック」は、登場人物が同じ高校生でも、自分自身の問題という雰囲

気がより強く漂ってきて、去年の2年生には申し訳ないが、格段の進歩を感じずにはいら

れなかった。選考結果がどうなったかわからないが、ぜひ県大会まで進んでほしい作品で

ある。

 

[2000年10月10日 0時3分33秒]

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翔王シアター最終公演「地球防衛軍-MITABI-」 

お名前: 水天堂   

 

 遅ればせながら、『地球防衛軍-MITABI-』の感想を書いてみたいと思います。

 

 楽日のマチネを見ました。

 私は、『地球防衛軍』の第一作目を見ている(というか手伝いで入っていた)のですが、

その後はほとんど翔王の芝居を観ていませんでした。その頃の私には翔王の芝居がどうして

もTV的すぎて、芝居でやる意味が無いように思えていたからです。

 

 今回の『-MITABI-』を観て、もったいないことしてきたなと思わずにいられませんでした。

 十年ぶりに観た翔王は全然別物で、でもほとんど変わりないものを持ち続けていました。

 

 ストーリー等は、第一作とは全然別物でした。第一作はもっと、スラップスティックとい

うか、なんとも救われない(実際人類は救われない)終わりでした。(と記憶しています。)

この『-MITABI-』(正確には『再び』からか?)では、家族達の運命はより悲惨で、残酷で、

でも、それをしっかり受け止めてギリギリまで逃げない強さが織り込まれていました。

 第一作がファルス的であるとするなら、このバージョンはより悲劇的であると言えるかも

しれません。

 全体の流れがほとんど変わりなかった分、この変化は、私にとってとても劇的な差と感じ

られました。

 

 「先生、人類は立ち直るでしょうか。」

 「私はそう信じています。お父さんは?」

 「もちろん私も。」

 火をつける父!燃える防衛軍基地!倒れるパネル!下敷きの村長!

 っっっっかっこいい!

 周囲には、変な家族の焼身自殺と思われる形で、でも、本当の意味で地球を救い、残され

た妹と姉(を名乗っていた宇宙人)が一緒に地球を救うために頑張ろうと決意をかわし、最

後に振り向く夜空に流れ星!!!

 すっげぇぇぇ!!凄いぞ!!いいぞ!これだ!こうなんだよ!こうでなくちゃ!

 

 …興奮してしまいました。

 とにかく、久しぶりに「物語」らしい「物語」の芝居を観た気がしました。

 一頃「物語は死んだ」というフレーズが流行り、物語らしい物語が軒並み消滅してしまい

ました。最近こまめに観劇していないので、今はまた変わってきたのかもしれませんが、少

なくとも私にとって、芝居の原点は「物語」にあったのだと思いを新たにせずにいられませ

んでした。

 

 翔王の芝居を観て、「物語は死んだ」りしてないと思いました。

 「物語は死んだ」とうそぶく人の中で、凍結してしまってるだけではないのでしょうか?

 

 物語を物語として語るには、役者に、作家に、演出家に、力が必要です。物語の力を信じ

る力であったり、物語を飲み込む力であったり、物語になる力であったりです。

 十年前の翔王の芝居には、その力は正直欠けていたように思います。

 物語を語りたいが、恥ずかしくてそこまで踏み込めないからスラップスティックでお茶を

濁すという姿勢を感じていました。(その辺が観に行かなくなった原因の一つなのですが)

 今回の翔王(と、今回の公演に参加している皆さん)にはその力−物語を物語として語る

力−があったと思います。やはり、劇団が、役者が、脚本が、“熟成”されたということが

大きいのかもしれません。

 

 これで解散ということが、とても残念に思います。

 ある一つの完成品が終わるときは、つねにこうなのかもしれませんが。

 

 願わくば、また、プロデュースなりどこかの芝居で、再び出逢えますことを。

 

[2000年10月23日 14時7分24秒]

 

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お名前: おーみ   

 

芝居が始まってほどなく、舞台空間が或る気体(のようなもの)に満たされている事に気がついた。

その時点でもうこの芝居は9割がた成功していた。それにしても、この気体は何なんだろう。良い

(とおーみが感じる)舞台にはたっぷりと満ち満ちていて、その雰囲気を感じているだけでも、充

分に観賞している気にさせてくれるものなのだ。まして、この中で意思にあふれた(やる気なんて

安い気持ちの事じゃないよ、必然なんだ)役者さんたちが、背伸びせず縮こまらず稽古通りに演じ

ている。そんな感じで。なんて素敵なんだろう、なんて良いんだろうと思いながら最後まで観てい

ました。終わった後も、松任谷由実の「最後の春休み」みたいに、♪ずーと、ずーとうずくまって

居たい てな感じでしたね。

 

あ、なんかダメ出しも少ししなきゃ。ウーン、そう、熱演のわりには、舞台が平板に見えたのは、

脚本の問題なのかな?たしかに、あとで考えてみると、もう少し脚本が良ければな!という感じ

が否めません。

 

ま、劇団としては、解散されたのでしょうけれども、役者さんたちはまたどこかで会えるのでしょ

う。一人一人忘れません。そしてベンジャミンと言う名前もね。またの機会を楽しみにしています。

 

[2000年10月11日 23時33分15秒]

 

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お名前: KIT   

 

 8日の昼、見て来ました。

 

 熱血の舞台、いい公演でした。他に何も言えませんが、良かったです。

 笑ってホロっとして帰ってきました。

 

 これで解散とのことですが、本や芝居づくりの方向が好きだっただけに、今後見られないと

思うと残念でなりません。

 

[2000年10月9日 1時24分38秒]

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朴沢学園明成高校「馬鹿者共の夢の後」 

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お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 「演劇談話室」にも書いたが、この秋、私が一番の楽しみにしていた高校演劇コンクー

ルが、いよいよ今日から開幕した(今日、明日は青葉地区予選)。いつもなら、休日とも

なると、昼まで寝ていることを常とするズボラな私ではあるが、さすがに今日ばかりは平

日と同じ時間に起床し、午前10時の「上演1」が始まる頃には、既に青年文化センター

・シアターホールの客席に、期待に胸を膨らませながら、座席にその身をしずめていたの

であった。

 「上演1」の題名が、またいい。いきなり「馬鹿者共の夢の後」である。これから県大

会を含めると、約1ヶ月半の長丁場となるコンクールの初日の一発目が、いきなり「馬鹿

者」である。この題名が、最後に終わってみれば、今年のコンクール全体を暗示するもの

だったなあ、などと思わせるような楽しいコンクールとなってほしいものだ、と切に思わ

ずにはいられない。

 内容がまた、題名に決して名前負けしない、実におバカなドタバタもので、最初から最

後まで楽しく笑いどおしで芝居を見終えることができた。今年も実に幸先がいい。明成の

皆さん、どうもありがとう。

 物語は西遊記を連想させるような、古代中国を舞台としたファンタジーである。不運な

事故によって洞窟に閉じこめられた、釈迦族の娘・ヒミコとその従者・イヨ。2人の前に、

カラスに姿を変えさせられた、この土地の土俗の神、フウギ・ジョカと、いたずら者のサ

ル(おそらく孫悟空がモデル)の美侯があらわれる。実は3人の間には遺恨があり(2人

をカラスに変えてしまったのは、実は美侯のイタズラだったのだ)、彼らのケンカにヒミ

コとイヨも巻き込まれ、5人はワアワアと言い争いを始めるのだが、そこへこの洞窟の大

家(洞窟に大家がいるのだ!、なぜか・・・)があらわれ、騒々しい彼らを「お前らはみ

んな、ダメな奴らだ、クズだ!」と一喝する。

 この大家役の森下恵さんのキャラクラターが、まったくもって強烈この上ないのだ。堂

々とした体格にかっぽう着という格好で登場し(なんで古代中国でかっぽう着?というシ

ュールさが、また笑いを誘わずにはいられない)、5人の中では一番威勢のいいヒミコま

でをも完膚なきまでに言い負かすところが、実に格好いい。まるで、女版寺内貫太郎、あ

るいは往年の京塚昌子をも彷彿とさせる、圧倒的な肝っ玉母さんぶりなのである。

 さて、大家が怒っていた理由が、実はサルの美侯が洞窟の入り口を崩して出入りできな

くしてしまったことが原因の一つだったということがその時明らかになるのだが(美侯は

カラスの2人組とのトラブルから、彼らが洞窟に来ないようにと、わざと入り口を崩した

のだ)、大家にクズ呼ばわりされたことに発憤した彼らは、大家を見返してやろう!と、

今までのケンカを棚上げし、5人で協力して出口の修復をはじめる。5人の間に友情が芽

生えるのだが、次の日にはいよいよ出口が回復と言うところまでこぎ着けた朝、みんなが

起きてみると、崩したはずの岩が、なぜか元通りに出口を邪魔していたのである!

 それでも、5人の努力で出口はその日開通するのだが、実は岩を元に戻していたのは、

美侯だったということがその時明らかになる。なぜ?美侯はねえ、みんなと別れるのが淋

しくて、わざと岩を元に戻したんだって!

 思わずヘナヘナー、となってしまうオチである。私は今まで、孤独感や空虚感をテーマ

にした演劇を高く評価する劇評を何度も書いてきた。そういう意味では、この美侯の行動

は、初めてできた大切な「仲間」を失いたくない、という気持ちから生まれたものだから、

本来なら感情移入すべきところだろう。しかし、その手段があまりにも幼稚なもののため

(だって、好きな女の子の持ち物をイタズラしてワザと隠す小学生みたいじゃないです

か!)、シリアスに感情移入するよりも先に、脱力的な笑いが、ついこみ上げてしまった

のであった。でも、そんな子供っぽいところまでをも含めて、美侯の気持ちに、「なんか

いじらしいなあ」と、胸がちょっと痛くなる思いがしたのも、また事実である。こういう

子供っぽいけど、実は寂しがり屋なキャラクターって、憎めなくっていいよね。

 結局、出口を開通させた5人は、それが縁で一緒に旅を続け、最後には日本に渡り、後

にヒミコは、あの邪馬台国の卑弥呼となった、というオチでこの物語は終わる。そう、我

々日本人の祖先は、実はみな「馬鹿者」だったのである!

 全体的に、やおい系同人マンガのような雰囲気を感じさせる、コミカルで笑わせつつも、

さりげなく心の中の寂しさを登場人物達が吐露する、とても楽しい芝居であった。役者で

は、先にも述べたが大家役の森下恵さんの圧倒的な存在感を筆頭として、広末涼子を思わ

せるようなショートカットがカワイイ、ジョカ役の山澤枝理子さん、そして宝塚の男役を

思わせるかっこよさと、まるで子供のような憎めなさを併せ持つ、美侯役の石垣さわ子さ

んが強く印象に残った。この手のコンクールって、どうしてもシリアスものが高く評価さ

れがちになってしまう傾向にあるのだが、こういうドタバタ系の面白さも、審査員の方々

には正当に評価して欲しいものだなあ、と思わずにはいられない。明日、どういう結果が

出るかわからないけど、もし不運にも予選落ちしたとしても、僕はこの高校の良さを高く

評価する気持ちは変えないつもりだ。それに、1年生部員が多い高校なので来年以降も、

今からとても楽しみである。これからもがんばって、楽しい芝居を見せてくださいね。 

 

[2000年10月7日 22時40分31秒]

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劇団満塁鳥王一座「楽園ダンス」 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 昨年、会場の公園貸与をめぐってひと悶着あり、残念なことに仙台公演を断念した福島

の劇団・鳥王のトラブルの件については、皆さんの記憶にも新しいことと思うが、私が福

島までその作品・「水の上を歩く」を見に行き、その内容に大変感動したことについて、

昨年の劇評バトルに書いたことを覚えておられる方も何人かいらっしゃることと思う(詳

しくは、昨年の劇評バックナンバーをご参照のこと)。その鳥王が、今年は「信夫山野外

演劇祭」という企画を立ち上げ、仙台の劇団、三角フラスコ・サイマル演劇団と3者で、

福島の信夫山公園にて、テントによる演劇祭を開催しているという情報を聞き、これはぜ

ひとも見に行かねば!という強い思いに駆られ、昨日、福島まで行ってきたのであった。

 物語は、大西洋に浮かぶ離島に赴任したサラリーマン夫妻が主人公である。彼らは、会

社の税金対策のため、タックスヘイブン(税金のないこと)の島へ赴任して2年になる。

仕事の性格上、島でなすべき業務などほとんどあるはずもなく、毎日毎日ゴロゴロしてい

るだけの生活に、妻の時子は少々ノイローゼ気味になっている。

 私はこの設定を見て、「ああ、これは宮沢章夫の『砂漠監視隊』と同じテーマなんだ」

ということに気づいた。多賀城の劇団・ポトフが以前に演じた、「14歳の国」の脚本を

書かれた宮沢章夫氏のシリーズに「砂漠監視隊」というものがある。これもやはり、砂漠

を監視するという、ただそれだけの目的のために砂漠に赴任した人々について書かれたも

ので、やはり毎日毎日、退屈で同じような日常が続いていき、中には精神に失調をきたし、

「声が聞こえる!」といって、砂漠に飛び出したまま戻ってこない人間も出てくる。そう

いえば、以前に鳥王の主宰・大信氏と話をした時、彼は「宮沢章夫の作品はとても好きで

すねえ」みたいなことを言ってたっけ。つまり、砂漠や離島で続いていく昨日も今日も明

日も変わらない日常、というのは、昨年の「水の上を歩く」でも彼が取り上げた、今の我

々を覆っている「終わりなき日常」のメタファーであり、私達はこの「終わりなき日常」

をいかにやり過ごしていけばいいのだろう、というのが本作のテーマなのである。

 大信氏は、その処方箋の1つとして「祭り」を考えているらしい。本作の題名、「楽園

ダンス」の「楽園」が、この島を意味しているとしたら、「ダンス」は、まさにその「祭

り」に相当する。彼らが住む島は、土地の人々には「神の住む島」と信じられており(つ

まり神の住む島だから、税金もないのだ)、年に1度、大きな祭りをその神のために開く

ことになっている。そして、この島では部外者である日本人の駐在員達も(主人公の他に

数人、やはり同じ目的で駐在している日本人がいるのだ)この祭りに参加し、ダンスを披

露するしきたりとなっているのである。

 これは、近代社会以前に存在した「ハレ」と「ケ」の、「ハレ」を意味するものだろう。

つまり、「人生には意味とか、目標とか、夢がなければいけない」という考え方は、産業

革命以降(つい最近の日本でいうなら「高度成長」が典型的だが)、社会が急速に成長し、

「生産」や「競争」が必要とされた時代には有効な考え方であったが、本来それら資本主

義が発達する以前の社会では(例えば江戸時代の農村では)、人生に意味や夢などないの

が当たり前で、毎年同じように農作業をし、退屈な日常を紛らわすために、年に1度、大

きな祭りを行うことを楽しみにするという人生を、みんながおくっていたのではないか。

産業革命(高度成長)が一段落した現在の社会は、今またそのような状況に戻っただけの

話で、無理して「夢」や「目標」を探すこともないじゃないか。だったら、毎年1回の祭

りを楽しみにして、後はまったりと生きようよ。ということを作者は言いたいのではない

だろうか。だからこそ、本作の舞台は、未だに土着の神様が信仰されており、地元民が日

本人と子供を作ったりすると、「異教徒の子を産んだ!」とその女性を焼き殺すような(そ

ういう場面が物語の中の回想で出てくる)、迷信深い孤島にする必要があったのだろう。

実際、物語の中の登場人物は日本人でありながらも、そんな島の雰囲気に馴染んでおり、

年に1度の祭りでのダンスを楽しみに、後はまったりと生きている、ダウナー型人間がほ

とんどなのである。

 しかし、まったりと生きたくてもそうそう簡単に変われないのが人間というものではな

いだろうか?子供の頃から、「人生には意味や夢が必要」という社会環境や教育によって

育ってきた我々は(受験勉強などその典型だろう。一生懸命勉強すれば、よい学校に入れ、

よい学校に入ればよりよい会社に入れ、と幸せになるために競争を余儀なくされるシステ

ム)、いまさら「人生に意味なんてなくても、まったりと生きればいいじゃん」という別

の価値観を提示されても、「頭ではそういう価値観は理解できるけれども、毎日毎日が変

わりのない日常というのは耐えられない」と思ってしまうのが現実ではないだろうか。だ

って、今までそういう価値観で20年も30年も生きてきたのだもの。一朝一夕に人間な

んて変われるものではない。そのジレンマに悩んでいるのが、本作の主人公・時子なのだ。

彼女は、年に1度の祭りだけで満足する他の登場人物とは違い、退屈な日常にイライラし

ている。そのため、日本にいる友人から、通販の健康器具などを次々取り寄せて、その欲

求を満たそうとするのであるが、それでも気持ちは晴れない。また、逆に島の祭りに過剰

なまでにのめり込み、ダンスの振り付けを毎日のように手直しし、駐在員達の雑談の中で

日本の話題が出ると、過剰なまでに嫌悪感を示し、「ここで日本の話はしないで!」と怒

る、もう一人の駐在員の妻、瑞希もまた、時子とコインの裏表のような生き方をしている

が故に、やはり根っこの部分で現状に欲求不満を抱いている人間なのである。

 しかし、今回の作品では、昨年の「水の上を歩く」のように、登場人物が皆、生き方を

模索しているような人間であるのと違い、彼女たち2人以外の人間が「まったり系」のた

め、まったりしたムードが舞台をしめることが多くなってしまい、観客の私が実存的な部

分で登場人物に感情移入してしまうシーンが、前回より少なくなってしまったように感じ

られたところが少々残念だった。これは、大信氏自身の意識が、「意味を求める系」から、

「まったり系」へと移行しているということを意味するのであろうか?

 ともあれ、本作はそういった小難しいテーマを別にしても、最後まで飽きさせず楽しめ

る作品であることには変わりはない。特に、役者の演技が非常にナチュラルで、臭くもな

く、棒読みでもないセリフ回しになっていたことには非常に感心した。私は、以前に東京

で、宮沢章夫氏本人が演出した「遊園地再生事業団」の諸作品、「ヒネミ」「箱庭とピク

ニック計画」「砂の国の遠い声」などを見ているのだが、そこで登場していた役者達と比

較しても、決して遜色はないと思わせるものであった。「14歳の国」「夢いかだ」と、

似たような方向性に進みつつあるように見える、劇団ポトフの皆さんなどが御覧になった

ら、大いに勉強になる演技ではないだろうか。今月13日(金)18:30より、エル・

パーク仙台スタジオホールで仙台公演を行うとのことなので(今回はテントでのトラブル

をさけるため、屋内公演としたようだ)、去年見逃してしまった方や、拙文を読んで興味

を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひ御覧になられることをお勧めする。「こんなレベ

ルの高い劇団が、意外に仙台に近いところにあったんだねえ」と、驚かれる方が多く出る

ことを期待しつつ、本稿を閉じることとする。

 

 

[2000年10月1日 14時18分41秒]

 

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米澤牛一人芝居『アテルイの首』2000改訂版 

 

お名前: 水天堂   

 

 『アテルイの首』は今回で三度目。同じ物語を、同じ役者が演じてこれほど変化するものか

と、つくづく感じる作品である。三作見てきて、今回が一番、芝居として良くまとまり、かつ

エネルギッシュで、構造的にも複層的で豊かな芝居であったと思う。

 

 今回と前二作を比べて、最初に目につくのはセットのシンプルさである。舞台と上から垂れ

下がる紐だけ。初演のOCT/PASS STUDIOを埋め尽くす現代を象徴するかのようなスクラップの

山も、二作目の広い舞台を覆い尽くす鍾乳洞のセットもさっぱり消え失せた、舞台だけ。

 その簡素な空間を、米澤牛は、エネルギッシュな演技できっちり埋め尽くし、世界を見せて

くれた。

 

 二作目を見たとき、“物語を物語るだけの味気なさ”というようなことを感想として持って

いたので、当然その辺にも目が行ったのだが、語り部(狂言廻し?)として「イタコのババ」

(このキャラクターはなかなか味があり、もともと物語全体を廻す役目を担っていたのだが)

を持ってくることで、物語としてのまとまりと、芝居としての面白い見せ方とを結びつけてい

た。このイタコのババが、仙台駅前にたむろする有名なホームレスのおばあさん風で、第一作

目の何処の誰ともわからない青年よりも、物語と現代とを結びつける力が強まったように感じ

る。

 

 そして、なんと言っても全二作と大きく変わり、この芝居自体の方向性さえ変えたのが、ラ

ストの展開である。前二作では、物語は一応エゾの麻呂を中心に進み、そのエゾの麻呂が志し

半ばで悪露に斬り殺され、その悪露も天変地異(日食)によって勝機を失い、敗北するという

ような展開で、語られる言葉も「エゾとヤマトの血が混ざれば、それでええ」という点だけが

前面に出ていたように思う。

 だが今回は、エゾの麻呂が辛くも悪露を切り倒し、真のアテルイを探して旅に出る、それを

見送るイタコのババが、「エゾの麻呂よ何処まで行ったんだ…。何処までも走って行けよ。お

前のアテルイ様は見つかったか?」と語りかける。また、史実上でアテルイとされ降伏し、京

都で首を切られた男の首を鞄から取り出し語りかけるシーンも良かった。

「お前がこんなになって、エゾとヤマトを結びつけたが、そのかわり、エゾもヤマトも何かを

失ったな?」

 この一言で、前二作と今回の『アテルイの首』は全く別物になったように思う。

 否、前二回で語れなかった部分が、まとまりこなれてくることで、やっと表面に出てきたと

言うべきか。

 

 今回の『アテルイの首』は、東京、沖縄でも公演されるとのこと。特に、沖縄での評価は是

非聞きたいところである。

 

[2000年9月26日 23時34分33秒]

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演劇集団華臨党「夕日にシーツが染まる時刻」 

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お名前: 女医の幽霊@オオクボ   

 

こんにちは!

女医役をしましたオオクボと申します。

うちの党主より噂を聞きつけて覗きに来てみました。

ありがたいお言葉ありがとうございます。

この劇評を他のメンバーにも見てもらいたいので、印刷させていただきます・・・・

明日(14日)に公演の大打ち上げ会があるので、そこで公表させていただきますね♪

本当に大変ありがたい劇評をありがとうございます!

 

これからも、演劇共々がんばっていきたいと思っているので

機会がありましたら、またいつかお会いしたいです♪

・・・・その前に、半年後はお母さんという役になってるんですけどね(汗)

落ちついたらまた役者として復活(?)できたらと・・・・

まあ、どのような形であれ華臨党はエンターテイナーとしてもがんばっていくそう(他人事?)

なので違う意味でも楽しみにしていてくださいね♪

 

それでは、またちょこちょことこちらにもお邪魔させていただきます!

では、また(^−^)ノ

 

[2000年10月13日 12時21分1秒]

 

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お名前: とめのアイドルさる   

 

 太田サン、 大変ありがたい劇評に感激しております。

 エンターティメント演劇集団(?)「華臨党」の党主でーす。

(余談ですが、うちは党首じゃないんです、主なんです、ただの。だからなんの権力もないのよーん。

って、いつもいばってるけど。)

 私のとって「演劇」は娯楽の一環なんです。自分が楽しくなくちゃ嫌だけど、やっぱ、

観に来てくれたお客さんにも楽しんでいただきたい。そんなところから、出来上がっているのです。

だから、難しいことは抜きにして、楽しめる演劇作り、それが、うちのコンセプトであります。

(だから、くまが登場するのよ)

太田さんが気に入って(?)くれた、自殺の図解を書いたのは私!(うふふ)

演劇集団「華臨党」はまだまだ、ヨチヨチ歩きの劇団です。

これからも、密かに頑張っていくので、陰ながら応援しててください!

 

 

[2000年10月8日 10時26分33秒]

 

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お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 ここのところ、大河原の劇団ミモザや、多賀城の劇団ポトフなど、仙台市以外の県内劇

団の活躍が目立っている。以前、当HPの「演劇談話室」のコーナーで、「仙台では文化

は育たないか?」といった内容の議論があったように記憶しているが、仙台以外の地域で

は、劇団自体が存在しない地域もたくさんあるわけで、つまり育つ・育たない以前の問題

であるところに比べれば、仙台はまだまだ恵まれた状況にあると思うのだ。そんな中、登

米にもアマチュア劇団があり、この度第3回公演を開く、という情報を入手した私は、こ

れはぜひ応援に行かねば!という強い思いにかられ、例のごとく佐々木久善さんを強引に

説き伏せ、2人で登米まで出かけていったのであった。

 会場は登米祝祭劇場の小ホール。最近、仙台にも演劇専門ホールを!という話題が、や

はり談話室で問題提起されていたが、この登米の小ホールは、まさに演劇専門ホールにふ

さわしい、すばらしい雰囲気のところで、こういうホールが仙台にあったらいいだろうに、

また逆に在仙の劇団がもっと仙北公演などを行ったら面白いだろうに、と思わずにはいら

れなかった。聞くところによると、このホールではほとんど演劇公演はおこなわれていな

いという。いわば宝の持ち腐れで、実にもったいない話である。

 さて、肝心の芝居であるが、舞台はある病院の屋上。目の病気から演劇ができなくなる

という恐怖を抱えた女優が、まさに身投げをしようとしているところを、長期入院患者の

若者(男性)と外科医(女性)の2人が発見し、危うく押しとどめる。2人は「病院のぬ

し」的存在らしく、女優が最終的に自殺を敢行するかしないかについて賭けを始め、若者

は自殺をやめるよう、女医は自殺をするよう、それぞれ女優に説得をおこなう。

 この2人の説得と女優の自殺したい思いについてが、その後芝居の中で劇中劇という形

で交代交代に登場するのだが、その内容が実にコミカルで面白かったのだ。まあ、要する

に5分程度のショートコントを次々と積み重ねる形で、芝居が進行していったわけである。

 以前、屋上で自殺しようとしている3人が偶然に集まるという、似たような設定の芝居

を仙台の劇団・「山全」がおこなっていたことがあったが、今回の「華臨党」と「山全」

の最大の違いは、「山全」では3人が自殺したい思いを抽象的な禅問答的に延々議論して

いたのに対し、「華臨党」では、本筋から脱線しているように見えながらも、エンターテ

イメントに徹したエピソードづくりを心がけていた点であろう。別なところでも書いたが、

ストレートな議論は、物語に加工されていないという意味で「演劇」とは呼べない、と私

は思うのだ。

 また、登場人物達が語る内容を劇中劇にしていたことも、本作が成功した要因だろう。

やはり、仙台の劇団・サイマル演劇団の「昭和かれすすき」では、登場人物達の思い出話

をそのままモノローグとして表現していたが、演劇という視覚に訴えるジャンルを選択し

ている以上、今回の「華臨党」のように劇中劇という形で表現した方が、観客へのアピー

ル手段として、より望ましい形態であることは、いうまでもないことだと思う。

 さて、それら劇中劇の中で特に面白かったのが、主人公の女優が以前読んだ少女漫画の

エピソードを語るものである。その時は、自殺の話から発展して輪廻転生の話をしていた

のだが、ある女性が山の中で倒木の下敷きになっていたところを、熊が通りかかる。熊は

女性に結婚してくれたら助けてやるというのだが、熊と結婚するのがイヤな女性は、今自

分は既婚者であるとウソをつき、来世で結婚すると熊に方便をいい助けてもらう、という

内容のものだったのだが、このシーンで登場した熊がすごかったのだ。なぜか、頭に「た

れぱんだ」のぬいぐるみをかぶったかわいい女の子(ラダ・トロッソの今野由美子さんを

連想していただくと、かなり近いだろう)が、ひらがなで「くま」と書いたTシャツ姿で

登場したのである!なんなんだ、お前は!「くま」って書いてなかったら、ただのヘンな

女の子だぞ!と、ほとんどの観客が、おそらく心の中で突っ込みを入れたに違いないあの

シーン!あのマヌケでシュールな空間を、言葉では完全に書き尽くせないことが残念で残

念で仕方がない。しかも、この女の子のしゃべり方がまた、天然ボケのポヤーンとしたも

のだから、ますます場内のマヌケなオーラに拍車がかかっていったのだった。終演後の場

内アンケートで、よかった役者に圧倒的に「くま」が選ばれたことは、ある意味当然の帰

結であった。

 このように、本公演はわざわざ登米まで見に行った甲斐のある楽しく面白い芝居であっ

たのだが、敢えて不満な点を挙げるなら、自殺を志願する登場人物の内面の書き込みが弱

く、彼女が自殺したい気持ちに観客がシンクロできなかったことだろう。実は、主人公の

女優が自殺するかどうかを賭けしていた2人は、共にこの病院で自殺(及び自殺未遂)を

した幽霊(生き霊)だったというオチが最後につくのだが、女医は恋人の死が理由である

のに対し、若者はごく普通のサラリーマンだったのだが、いわゆる生きるのが不器用なタ

イプで、日々に対する漠然とした不安から自殺を敢行(結果、未遂だったが意識不明とな

り十年以上この病院に入院中)したのであった。だとするならば、この3人の中でいちば

ん観客がシンクロしやすいのは誰か?女優・女医は自殺志願の理由が視力・恋人の喪失

と、それぞれ明確である。しかし、私達の現実には、そうそうドラマティックな喪失とい

う出来事はしょっちゅう起こるものではない。むしろ、平凡に続く毎日に閉塞感を感じ、

鬱に落ち込んだりすることの方が、現実を生きる我々にはリアルなことではないだろう

か?その意味では、本作では理由のはっきりしない若者の方こそが、むしろ観客の心情に

シンクロするリアルさを内面に持ち得たキャラクターだと思うのだ。だからこそ、彼が脇

役という設定のため内面描写が最小限に限られていたことが、どうにも私には勿体ないこ

とのように思えたのであった。

 そうはいっても、それら不満を割り引いて余りある面白さを本作が提供してくれたのは、

上に述べたとおりである。ミモザ・ポトフ・華臨党と、これら仙台市以外で頑張ってる劇

団を仙台のお客さんに紹介する機会がなんとかできないものだろうか?と思わずにはいら

れない。仙台演劇祭は仙台市主催だから難しいだろうが、例えば衝撃祭でこれら3劇団を

招聘することはできないものだろうか?そんな思いを胸に抱きつつ、会場を後にしたので

あった。

[2000年9月24日 22時23分53秒]

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劇団ポトフ「夢いかだ」 

お名前: ポトフ影の応援団@美奈子   

 

5時からの公演を見ました。んー ・・・ そうなんでしょうか?「青年団」を

意識して芝居を作っていたのでしょうか?なるほど、そういう見方をすれば、

そのようにも見えない事はない。そのように見なかった私が、そのように感じ

なかったのは、過去において(ポトフ結成以前において)もっとテンションの高い、

もっとキレがある、もっともっと「演じる」ことの出来る彼等・彼女等を見た事に

因るのかも知れません。

この場合の「演じる」という意味は、「素を素として感じさせつつも、実は素ではない

」という意味ですが。

なにを演じても、どのような役についても、普段そこにいる「役者以前の素の人」が

感じられてしまうのは、舞台に立たない時の彼等・彼女等を知っているという悲しさ

でもあるかも知れません。いや、悲しさというよりは・・・・私の見方がいやらしい?

もしも「青年団」の真似をしているというのであれば、もっともっと追求しなければ

ならない事柄があると思います。決して真似をしているつもりがない、というので

あれば、そのように見えることに、演出の吉田氏をはじめ、役者達が頭を抱えて

今後の課題として取り組まなければならないでしょう。なんてことを、心優しき

太田氏の記事を拝見して感じてしまいました。

ただし、演劇公演を見る観客というものは、さまざま勝手な見方をするのが常であり、

私のように、アマノジャク的な感想を持つ者も、確かに観客として存在しているのだ

という事実が、今後の公演に際して、いくばくかの刺激になればいいな〜〜〜と、

思うわけです。

脚本に関しては、同じ思いを抱きました。吉田氏の繊細さ・言葉による感情表現の

センスも随所に見られ、訴えたいと思うことが伝わるだけの力を持った脚本だったと

思います。

「優しい共同体」・・・まさに、その言葉に尽きるのではないでしょうか。観る側を

巻き込むだけの優しさを、確かに感じ取ることができました。ただ!それを芝居を

媒体として伝えるために、もう一味・・・もう一歩の踏み込みがほしいと、

思わずにはいられませんでした。

縁あって、公演後の打ち上げに、ちょっとだけ参加させていただきましたが、

劇団員の中にも、そのジレンマを感じている人もいるようで、劇団としての葛藤も

あるかとは感じられたのですが。(その部分については、どこの劇団でも抱えている

問題ではあるんですけどね)

劇団ポトフの最大の武器は、演劇に携わる者たちとしての「貪欲さ」が表立って

見えない事。そして、ポトフの最大の弱点は、実はその「貪欲さ」が乏しいことでは

ないでしょうか。と言いつつ私個人としては、現実にも「優しい共同体」である彼等が、

その持ち味を失うことなく、より一層の活動を続けて行くことを、心から願っているのです。

この思いが、彼等に伝わると嬉しいのですが・・・・。

劇評ではなく、劇団評になってしまいましたか?どうも思い入れが強いもので・・。失礼しました。

 

 

[2000年9月24日 1時44分21秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 去年の「TOM」から約1年ぶりにポトフの芝居を見たのだが、昨年と比べてストーリ

ーづくりがより緻密になっており、約1時間20分の公演時間を最後まで飽きさせない作

りになっていたことに、非常に感心させられたのであった。

 物語は、主人公・加代が生まれ故郷の離島に12年ぶりに帰ってくるところから始まる。

加代は学生時代からの夢だったカメラマンになれたのであるが、最近スランプ気味で、島

にすんでいた頃の写真の師匠である敦にアドバイスを受けようと思って帰郷したのであっ

た。しかし、肝心の敦はカメラをやめていた。その理由を敦は語りたがらないのだが、実

は彼らの共通の幼なじみである浩之の海難事故(10年前、いかだに乗っていて高波に呑

まれて亡くなった)と関係があるらしい。田舎の離島のため、登場人物のほとんどが幼な

じみであり、この2人に限らず、この事故は登場人物達(事故で死んだ浩之の妹・麻衣と

その彼氏・一矢。やはり加代・浩之との幼なじみである隆。そして事故の現場に居合わせ

たが、当時5歳だったため、詳しい記憶が曖昧になっている美和。)それぞれの心に影を

落としていたものであったが、敦が真相を語らないため、お互いそれを胸の中にしまい込

んでそのままにしていたのであった。だが、加代が帰郷し、敦が写真をやめた事実を知り

ショックを受けているのを見た彼らは、10年ぶりに、蓋をした過去の記憶に決着をつけ

るため、敦に事故の真相を語ることを迫る・・・。

 BGMは静かなユーミンの曲をカラオケでたまに淡々と流す程度。暗転も必要最小限し

か使わないところは、平田オリザの「青年団」の芝居を連想させる。そして、一見淡々と

しながらも、登場人物が常に2〜3人舞台上に交代で登場し、モノローグではなく対話に

よる短いエピソードを集積することによって、それぞれの内面やストーリーの中の謎を少

しずつ明らかにしていく脚本の手際の見事さは、よくある「青年団」の外っつらだけをマ

ネして、結果ダラダラした芝居となって失敗している、「静かな演劇マネっこ劇団」と違

い、平田的手法を自分自身のものとして作者が消化していることを意味する。去年「TO

M」を見た時は、まだまだ稚拙なところがありながらも、一生懸命頑張っているさわやか

さに感動したものであったが、1年の間に脚本・演出の吉田氏が、これだけストーリーづ

くりに長けるようになったことには、正直舌を巻く思いがした。私は見なかったのだが、

今年の2月にやはり「静かな演劇」系と呼ばれている、宮沢章夫氏の「14歳の国」をユ

ニット公演したことが、作者や劇団にいい財産として残ったということなのかもしれない。

 さて、私がこの作品で最も感動したところはどこかというと、それはこの物語の幼なじ

みの登場人物達が、浩之の海難事故というトラウマを共通に持ちながらも、お互いを許し

あっているという、「優しさ」の共同体を構築しているところなのだ。普通、この離島に

象徴されるような「田舎」では、人間関係が「濃い」ところから、この手の事故が起こっ

たとしたら、敦のような立場の人間は、後ろ指を指されることによって、その土地にいた

たまれなくなる可能性が高いだろう。しかし、事故で最もショックを受けたであろう浩之

の妹・麻衣ですら、事故の当事者なんだろうと、うすうす感じている相手・敦を恨むこと

なく、むしろ落ち込んでいた時に優しくしてくれた敦に対して感謝の感情すら持っている

のである。こういう「傷をもつもの同士の優しい共同体」は、現実には存在しないユート

ピアかもしれない。しかし、この物語が感動的なのは、私をはじめとする観客にとって、

この殺伐とした現実社会で、最も切実に欲しいと願ってやまないものが、まさにこの吉田

氏が描くところの「優しい共同体」だからだと思うのだ。

 ラストに、実は浩之の事故は、10年前にやはり加代が写真について悩んでいた時に、

それを知った浩之が、加代を元気づけるために自分の夢であるいかだに乗って太平洋を横

断しようとするところを、敦に写真にとってもらおうとしたためにおこったものだったこ

とが、敦の口から明らかにされる。再び写真をやめようかと思っていた加代は、浩之の遺

志をくみ取り、みたびカメラマンを続けることを決意するところで、物語は感動的に終わ

るのであった。

 役者では、浩之の妹・麻衣役の三浦牧子さんが、特によかった。彼女は去年の「TOM」

では、主人公のTOMにネズミの取り方を教えたりするミハエルという猫の役で出演して

おり、「飯島直子に似ていて、かわいい」と佐々木久善さんと話題にしていた女の子であ

る。今回は、ただかわいいだけではなく、日頃は元気で明るいように見えるのだが、実は

兄が死んだことによって心に傷を持っているところが翳りとなっている、という複雑な役

どころを見事、上手に演じていた。おーみ氏流に言えば(笑)、「アイドル」から「女優」

へと成長しつつある注目株、といえるだろう。 逆に今回残念だったのは、「TOM」で

主役を演じていた高橋美沙子さんが、今回キャストから外れていたことだ。「多賀城の田

中麗奈」のお姿に、ぜひ次回公演ではお目にかかりたいものである。吉田さん、一つよろ

しくお願いします!

 

 

[2000年9月23日 21時3分48秒]

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続・蒲田行進曲 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木久善   

 

 私が初めて、「たかはしみちこ」と出会ったのは、『飛龍伝』の公演のときだ。

 正直なところ、そんなに期待して観に行った訳ではなかった。ただ、つかこうへいの芝

居をやっているから観に行ったに過ぎなかった。

 しかし、観終えて私はすっかり興奮していた。

 仙台にもまだまだ凄い奴らがいるものだと正直なところ思った。演出・斉藤可南子、女

優・たかはしみちこ。この二人の名前が脳裏に焼き付いた。

『続蒲田行進曲』のことを書くのに、何故昔のことを持ち出すのか、と訝る方もいるかと

思うのだが、私は今回の芝居を観ながら、その時の興奮を思い出していたのだ。

 単純に、鉄パイプのセットが似ているとか出演者が同じ(たかはしみちこや奈尾真)と

いうことではなく、芝居に溢れる熱気に、本当に懐かしさを感じたのである。

 仙台駅前の商業ビルの一角に特設の劇場を立ち上げるというとんでもない企てを実現し

たのは製作者としての腕前ではあるが、これが芝居の内容と密接に関係してくるところが

彼女の演出家としての上手さであろう。

 映画という虚構の世界を虚構のままに描いているつかこうへいの芝居を上演するのに、

これほど理想的な枠組みはない。芝居が終わってしまえば、そこはまた元のビルの一角に

戻るのである。その夢のような一瞬のきらめきこそがこの芝居の全てなのである。

 この夢のいいところは女性がたかはしみちこしか出てこないことである。

 登場人物には、もうひとり娘が出てくるのであるが、これを照明で上手く演出して、登

場させていない。結果としてたかはしみちこと野郎共という感じに仕上がっていて非常に

面白いのである。

 所詮、つかこうへいは虚構である。活動屋だとか親子だとかの台詞を並べていても、劇

的な時間を過ごすことしか考えていない戯曲なのだ。

 これを思いっきり遊ぶとしたら、ラブアタック方式(知っている人なんているかね)で

いくしかないだろう。

 個人的にはつかこうへいの芝居は嫌いだ。しかし、たかはしみちこのつかこうへいは大

好きだ。それは女が女として男と真正面から向き合う姿を誇り高く見せてくれるからだ。

それは勇ましく、潔い。気高く、そして美しい。

 

[2000年9月19日 22時11分26秒]

 

 

お名前: 観劇道フォーラム@おーみ   

 

太田君の挑発にのろうではないか。アハアハ。

タカハシ君は、じかに見てると凄い綺麗な人なんだよね。

しかも、話をすると、超過激で、演劇表現として求めるものの高さが

計り知れない。壮絶なまでのいい女なんだ。それが、なにがトラウマ

となって演劇のような実りのない世界を驀進するかなーというのが、

率直な気分。

しかし、たとえば、今回の芝居のような若い男優(AVみたいでごめ

ん)たちにとって、まさに、自由の女神的な存在だったんだろうと、

思うし、まさに、地の底から一条の光目指して這い上がりやがて天上

へと導く太腕繁盛記のような今回の芝居。ウーン、アイドルよりもう

ちょいとふさわしい形容詞がないですかねー。なんせ、いい女過ぎて

おーみ、ちっとも惚れませんぜ。

 

劇評も軽く行きましょ。

とはいっても、これだけ書きこむのに、タンカレージン47.5%ボ

トル半分と、オールドパー4分の1だけ勇気が要りました。

異常でっせ。

 

[2000年9月6日 23時9分2秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

おーみさん、僕にとってのアイドルは、狭義の意味でのものではなくて、実力派も含めた広義

のものなんですよ(笑)。要は、僕にとって「萌え〜」の対象になる人。まあ、その辺おーみ

さんも知ってて、あえてユーモアとして僕を引き合いに出したのでしょうけれどね。

それにしても、僕がアイドル評倶楽部を自称したと思ったら、今度は仙台観劇道フォーラムで

すか。観劇側にもいろんな団体ができるのは楽しいですね(笑)。

 

[2000年9月6日 0時52分37秒]

 

 

お名前: 近江 俊彦   

 

『公演は、生き物である。そしてロングランともなればなおさらで

ある。その、若々しさと、成熟した姿と、朽ちる寸前の瞬きと、つ

まり、初日近辺、中日近辺、楽日近辺の、最低3回は、観て楽しめ。』

といったのは、井伏君だが、その教えを比較的守っている、仙台観

劇道フォーラム副代表@おーみです。(現在2名しか居ません)

 

今回の公演は、初日、中日、楽の前日の3回、観劇して。

そして、今回のような、暴挙とも写る(ってこれが普通なのかな?)

ロングランを結果的に3回観る事ができてラッキーだったと思って

いる。

 

初日、中日の感想は、下記のみなさんの感想とほぼ同じである。

特に、初日はひどかった。たかはし君と奈尾君以外はもうぼろぼろ

だったように記憶している。

中日は改善されてきてはいたものの、中盤までのもったりとしたテ

ンポの悪さが退屈感を醸し出していた。後半は急にノリを取り戻し

なだれ込むようにラストまで一気の盛り上げで、豪腕たかはしを印

象付けられた。そして、楽の前日土曜の21:00公演を迎える。

 

うーん、化けた。芝居の最初から密度が濃い。同じ役者が同じ演技

をしていながら、主演の2人と他の役者の温度差がなく、リズム

が感じられる。

そして、これは、今回の白眉であると思うが、たかはし君の顔(表

情ではなく顔そのもの)が、前半・中盤・ラストと違ったことだ。

もちろん、それぞれの役のうえでおかれている状況は、それぞれ異

なっているが、それを、顔が変わるほど精神まで入れ替えて演技で

きるというのは始めてみた。すごかった。

この回の公演は、そんな感じで全体がうまく回っていたので、たか

はし君も、のりにのって演技ができたからなのかな?

 

仙台アイドル評倶楽部@太田君には悪いが、たかはし君はアイドル

ではなく女優だ。と思った。

 

[2000年9月6日 0時29分29秒]

 

 

お名前: 毛長猫      

 

いい芝居だったとは思うけど、いきなりテンションが上がっててがなるのにはついていけないと

ころもあった。お客さんにもっと心の準備をさせてほしいな。おいてけぼりだった。

 

銀ちゃんはスターなのになんであんな貧乏くさい背広着てたの?銀ちゃんじゃないと思った。

それともト書きに書いてあったのかなあ。

銀ちゃんはミスキャストっぽい。それとも力不足。

きちんとすみずみまでこだわりをもってつくってほしいと思いました。

気持ちよさそうにしてたけど、お客も気持ちよくさせて欲しかったかな。

 

[2000年9月4日 1時26分34秒]

 

 

お名前: KIT(きたじま)   

 

 私が見たのは26日夕方の回でした。役者の息切れとかは感じなかったです。

 

 荒削りだけどエネルギッシュで、役者としての喜びのようなものを感じて、私としては結構

納得して帰ってきたのでした。

 

 冷徹(いじわる)で緻密な演出といったものは感じられなかったですけど、どう見せようかと

言った工夫が感じられました。パワーで勝負しようとした方針は悪くなかったと思います。学生

演劇ではあるのかも知れませんが、一般でああいう体当たりの公演をしようとする集団を仙台で

は初めて見たものですから、私はちょっと嬉しかったです。

 

 初めて見る役者が多かったのですが、線が太くて個性的な良い役者がここにも沢山いたんだな

と思いました。

 

 奈尾さんは何回か見たことがありますが、今回が一番幸せそうに感じられました。

 ただ、熱演だったんですが他の役者が皆良かっただけに、主人公としては埋没していた感じが

して残念でした。奈尾さんならもっとカリスマで複雑な銀ちゃんができたんじゃないか思います。

 

 この集団としても別々の個人としても、メンバーの今後が楽しみです。

 

蛇足:実は本も本家の公演も見てないんですが、USSをUSSRというのは本の通りなんでしょうか?

 

 

[2000年9月3日 2時52分1秒]

 

 

お名前: 水天堂    URL

 

 あんもないとさんのカキコを読んで、いくつか自分のカキコに関してフォローを入れたいと

思い再び投稿します。

 

テンポについて

>冒頭のテンポの速さは、知っている知識と人間関係を照らし合わせるのに精一杯だった私に

>は早すぎにも感じた。

 物語の展開は確かに慣れてない人にはつらいテンポであったと思います。これはたぶん上演

台本そのものの展開の早さに由来しているように思います。

 私がテンポが悪いと感じたのは、芝居全体のテンポではなく、役者一人一人のテンポでした。

 セリフはとても流暢で、早い。動きも早い。でも、セリフとセリフの隙間、動きと動きの隙

間に、妙に無駄な間が必ず挟まれていて、それが気持ち悪かったのです。

 あれは、役者が自覚できにくい類の間だろうと思います。それを丁寧に排除するにはしっか

りした演出が必要です。

 

 もう一つ、カメラ目線について

>客席後ろにカメラが回り続けている、あるいは観客の目がカメラのレンズ

>という解釈で、客側に一種の「見栄をきる」ことも気にはならない。

 この解釈は正しいと思います。

 しかし、それが演出として今回効果的であったかというと、私は首を傾げざるを得ません。

 見得を切る。カメラを気にする。しかし、他の役者が語っている時、あるいは自分に語り

かけている時にも役者の意識がしっかりそれに向けてコントロールされていたように見えな

かったのです。「客席向けと言われたから向いた」と言うほど無自覚ではないと思いますが。

 一言で言えば、「もっと魅せてくれよ」と言うことでしょうか。

 「カメラが向いたら魅せずにいられないのがスターさんじゃないのかい?スターじゃない

ならカメラの前に立てないんじゃないのか!客席に振るならもっと魅せてくれ!」と思った

のです。

 

 

 

 

[2000年9月2日 15時54分46秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 いつもは長文の劇評を当欄に書き込む私・太田ですが、今回は私の感じたこととほぼ近いこと

を水天堂氏が書き込まれているので、私独自の劇評は改めて書き込まないこととします。

 もちろん、太田と水天堂氏は違う人格の人間なのだから、100%同じ感想と言うことは、あ

り得ないでしょうが、大枠の部分で一致している以上、トリビアルな部分での差異を敢えて書き

込む執筆意欲もわかないし、読者にとってもそう言った些末な内容が面白いとも思えない、と感

じました。

 水天堂氏支持に1票!以上です。

 

 

[2000年9月2日 14時31分16秒]

 

 

お名前: あんもないと   

 

私は今回の作品が、つかものの初体験になる。

本家のつか芝居についてもちょこちょこと聞きかじってはいたが、作品を一本の芝居として

見たのは初めてだ。曰く「つか的演出」「つか的演技」。

それが何を指して言うのか、私がわかっていないせいなのか、下記の水天堂氏と全く反対の

見方をしていた。

冒頭のテンポの速さは、知っている知識と人間関係を照らし合わせるのに精一杯だった私に

は早すぎにも感じた。全く「蒲田行進曲」を知らない人にはちょっとつらいテンポだったか

と思う。だがここで乗りきれば、あとは物語と役者に集中できる。

 

>何故相手役へのセリフを意味もなく客に語るのだ?つかだから?

に関しても、客席後ろにカメラが回り続けている、あるいは観客の目がカメラのレンズ

という解釈で、客側に一種の「見栄をきる」ことも気にはならない。

撮影所の裏を創造させる鉄パイプとライトの舞台。銀幕あるいはカメラのファインダー

をイメージした四角い光、そこに切り取られた役者の表情とシルエットが印象的な演出

だったと思う。

 

前編通して、人物にしろ、設定にしろ物事としてのリアリティはない。どこまでが映画撮影

でどこまでが銀と小夏の話なのか。だが人物に実在感があった。言葉の調子の良さに振り回

されず、意味を消化した台詞廻しと所作が何よりの説得力になる。

ここ数年「がなる」芝居には正直閉口していたので、ここもがなりかと覚悟していたが、役者

が気持ちいいだけのものではなく、内容が観客に届いていたように感じた。

 

特に今回印象深かったのは、役者が他の公演では気になっていた癖が抜けて「持ち味」まであ

と一息の所まできていたこと、そして、たかはしみちこ氏の存在感だ。

母・女・女優が持つ残酷さを毒を持って演じ、銀だけを一途に思う少女のような純粋さと好対

照だった。

また、小夏と死に際のルリ子のやりとりは一番の見せ場だろうが、思い切ってルリ子の台詞を

切り落としたことは小気味いい演出だったと思う。なぜ生きなければならないのかという言葉

もあれほど、「芝居めいた」台詞でありながらお涙頂戴ものの場面にならなかったのはそのせ

いだ。

 

荒削りではあったが、これからどんどん良くなる。どんどん変わっていくだろう。

あのテンションが、楽日に向かってどこまで上り詰めていくのか、見てみたい。

 

 

[2000年9月2日 10時35分39秒]

 

 

お名前: 水天堂    URL

 

 つか作品の公演は、これまでつか事務所公演以外では三回観ている。

 この公演は、その三回の中ではピカイチの出来であったと思う。つか作品が好きな方なら

一度観に行く価値は十分あると思う。が…。

 

 私は、金曜日の深夜の回を観た。深夜だというのに満員。「空いてるとと思ったのに…」と

いうつぶやきもちらほら聞こえた。もちろんこういう回が好きで来たらしき人も結構いた。

 小説の『銀ちゃんが逝く』は好きで何度も読み返したし、他のつか作品も買い漁った時期が

あった。熱く、激しい、ある種の役者なら一度はやってみたい世界だと思う。

 で、開演。十分後には、正直言って来たことを後悔し始めていた。

 テンポが悪い。ノリが悪い。テンションばかりで演技パターンが一緒。

 殺陣の腰が引けている。気持ちのリアリティが無い。笑いがしっかり外れてる。

 好きな話が汚されていくようできつかった。

 でも、最後に向けて、力を振り絞り上り詰めていく辺りは目を離せなかった。

 上で書いたような欠点がチャラになってお釣りが来るくらい良かった。

 

 たぶん、深夜公演のため、役者の疲れがドッと出てしまったのだろうとは思う。

 が、演出不足であったようにも思う。

 役者は皆、テンションが高く、技術的にも巧みだ。だが、何故相手役へのセリフを

意味もなく客に語るのだ?つかだから?なら、魅せる演出が必要だ。だが、それはほ

とんど無かった。(と、私には感じられた。)

 つかの作品は、展開にもキャラクターにもいわゆるリアリティはほとんど無い。その、

リアリティが無い言葉をどうやってリアルなものにするかが、つか作品の醍醐味であり、

ダイナミズムであると思うのだが、私が観た公演では、皆がなり立てるばかりで、その

テンションを裏付けるパッションが甘く、空回りしているように感じた。

 

 若いエネルギーすら感じられない公演は多い。それに比べたら、凄く良い!のだが、

だからこそ、「もっと、ここを…」と欲が出てしまう。

 テンション高く、気持ちよく演じる姿は良し。だが、それと客が気持ち良いかは別

問題だ。ある演歌歌手は、歌ってる最中泣きそうになる良い所で、一歩踏みとどまって

その気持ちをため込むそうで、何故かと言うと「でないとお客さんに届かないから」だ

と語っていたのをTVで見たことがある。そう言った策略というか作戦というか、演出が、

もっともっと欲しかった。それが、今回のエネルギーとミックスしたら…。

 

 とは言え、繰り返しになるが深夜公演で、一番疲れが出やすい時ではあった。

 まだこれからぐんぐん良くなる可能性はあると感じられる公演ではあった。

 役者、スタッフの方々、お疲れさまでした。最後まで頑張って下さい。

 

 

[2000年9月2日 3時33分5秒]

 

 

お名前: かに   

 

まだ見てない方、必見です。

ただ会場が狭いのが残念でした。

もう一回見たい気がするなあ。

 

 

[2000年8月30日 10時37分12秒]

 

 

お名前: KIT   

 

見応えがある話でした。

みんな、何とも気持ちよさそうに演じてましたよ。

(上演がまだ来月まで続いてるので、一言感想でした)

 

 

[2000年8月26日 21時24分23秒]

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劇団CUEプロデュース ピンズライブ「Dilemmer」 

 

お名前: 劇団CUE森    URL

 

佐々木様

渋谷加奈子は伊達ロックでボーカルをやった子です。10月からFM泉で放送する「劇団CUEの

モザイコ」という番組でピンズらとともにパーソナリティを務める予定です。放送日、時間は

未定ですが毎週夜間9時半ごろから30分の番組の予定です。

 

[2000年9月14日 21時43分51秒]

 

 

お名前: ささき@SAI    URL

 

渋谷さんって、伊達ロックのステージでも歌った方かしら?

 

だったら見に行きたかったです。

 

[2000年9月14日 18時59分2秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

森さん、ご回答ありがとうございます。

渋谷さんは「DOLL」でも見たのですが、全然雰囲気が違いましたね。別人だとばかり思って

ました(もちろん、今回の方がすごくかっこよかった!)。

女の人は、ばけるからコワいよな〜(苦笑)。

 

[2000年9月11日 23時39分44秒]

 

 

お名前: 劇団CUE森   

 

太田さんおいでいただきありがとうございます。

ご質問にお答えさせていただきますが、最後に歌った不思議系ボーカルは劇団CUEの

「渋谷加奈子」です。ダイアモンドダストのボーカル「ユーコ」さんは3月公演に

出演の予定です。

 

[2000年9月11日 21時28分40秒]

 

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 劇団CUEの公演は、ピンズのライブを含めて今まで見たことがなかった(主宰の森氏

が顧問をしていた高校のコンクール作は1回だけ見たことがあるのだが・・・)。なぜか

というと、CUEの場合、今回のように1回のみの公演というケースが多く、私自身のス

ケジュールと合わないことや、チラシでの宣伝がないため、チラシによる情報収集をする

ことの多い私にとっては、気がついたときは終わっていた、というパターンが続いていた

ためだ。それで、「縁がないのかなあ」と思っていたのだが、今回初めて公演を見ること

ができ、そのあまりの面白さに「もっと早くから見ておけばよかった」と、ただただ後悔

することしきりなのであった。

 私は当欄で、自分の中の空虚感を埋めるものを見たいということをよく書いているのだ

が、これは「お笑い」の面白さにも当てはまることだろう。どういうことかというと、ベ

ルグソンだったかバタイユだったか忘れたんだけど、「笑い」というのは落差である、と

いう文章を読んで、「なるほど!」と思ったことがあるからだ。つまり、今までの自分の

経験にないものを見聞きすることによる衝撃が、強い濃度・刺激となってみるものに作用

することが「笑い」である、ということがそこには書いてあったんだけれども(確かにこ

の考え方からすれば、なぜマンネリなものがつまらないか、という理由も明らかになって

くる。つまり、マンネリなものは経験値として観客の中に既に存在しているため、落差が

小さくなってしまうのだ)、その伝でいうと、今回のピンズのネタは、見ているこちらが

どういう方向へ行くか予想がつかなかった、ということが、面白かった最大の要因ではな

いかと思うのだ。これはなかなか大変なことである。なぜなら、TVという全国レベルの

自然淘汰を勝ち抜いてきた「笑い」を、観客は既に経験値として持っているのだから。そ

の点、「演劇」の場合は、生で見たときの感覚が、なかなかTV・ビデオでは伝わらない

部分が多いジャンルであるという意味で(それがTVで劇場中継がなかなかなされない理

由なのだろうが)、「笑い」よりは若干優位な状況にいるとはいえそうだ。

 面白かった理由の1つが、ネタの新鮮さだったとすると、2つ目の理由として考えられ

るのは、タイミングの良さであろう。以前、「ゲキテキ」の劇評でギャグのタイミングが

遅い、という苦言を私は書いたのだが、誰かがボケた時の、ツッコミの出し方のテンポの

速さが、まさに「ゲキテキ」と対照的であったのだ。「ゲキテキ」の役者さんには、こと

ギャグに関しては、ピンズさんから学ぶことが多いと思うので、一度観劇されることをお

勧めしたい。さらにいうなら、その速いところが、ただ闇雲に速いという、悪いときのサ

イマルのようになっていなかったところにもまた、強く感心せずにはいられなかった。彼

らはきっとこの公演のために、練習量をみっちりと重ねてきたのだろう。それがきちんと

実になっていたのである。

 ところで、一つだけ残念だなあと思ったのは、今回のライブは主要出演者は全員男性だ

ったことだ。女性は出ていたが、本当にチョイ役というかたちで、メインのコントで役を

あてがわれるというものではなかった。「それはアンタがアイドル評倶楽部だからでしょ

う!」、と読者にはつっこまれるかもしれない。もちろん、それも理由の1つであること

は認めざるを得ないが(苦笑)、まじめな話として、コントのシチュエーションの幅を広

げるには、女性もいた方が、よりいろんなケースが作れるというのは事実だろう。せっか

く、CUEには女性の役者さんも何人かいるのだから、次回は誰かメインで絡んでくる人

が登場することを、強く期待したい。 

 それから、公演が終わった後、キャスト紹介がなくあっさり終わってしまったのは、ち

ょっと淋しかった。これはよくある演劇公演とは一線を画したライブなんだよ、だからキ

ャスト紹介もしないんだよ、という意志表示であえてそうしたのかもしれないが、観客に

名前を覚えてもらうことによって、個々の役者に親近感を持ってもらい、結果としてファ

ンを増やすという戦略的なことを考えるなら、やはりキャスト紹介はした方がいいのでは

ないだろうか?私としてはエンディングで、突然ヴォーカルで出てきた不思議系の女の子

が気になって仕方がなかったもので(シリアスな歌なのかなあ、と思わせつつ、突然音を

激しく外すところがおかしくておかしくて。プログラムに名前の載っていた「ダイアモン

ドダスト」のボーカルの方なのだろうか?)。

 

[2000年9月10日 22時53分42秒]

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新月列車仙商祭公演「誰か−STRANGER−」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 ここ10年ほどの少年漫画と少女漫画の違いについて、こんな意見を聞いたことがある。

少年ジャンプが驚異的に部数を伸ばしていった時、ヒットの要因となった作品はたいてい、

「強い敵が現れる、それを倒すとさらに強い敵が現れる、それを倒すとさらにさらに・・

・」、という単純なストーリーだった。これに対して少女漫画は、他者との関係性とか自

分探しといった心をテーマにした純文学的作品が多い。これは、同年代の男女だと女子の

方が複雑な現実に対応するツールをより必要とする、現代の社会環境に原因がある、とい

う意見である。私も漫画は好きだが、なにぶん作品が膨大でどこから手をつけたらわから

ない、ということもあり、最近はあまり読んでいない。しかし、昨年の演劇祭で「一跡二

跳」が演じた「夏の世の貘」(大島弓子原作)や、今年の富谷高演劇部が公演した「半神」

(萩尾望都原作)といった、少女漫画原作の演劇作品を見るにつけ、そのテーマの深さに

上記の意見に同意せざるを得ないものを感じさせられてきた。そこへもってきて、新月列

車が少女漫画を原作にした新作をするという。去年の演劇祭での「地上まで200m」以

来、心をテーマにしたヒット作を連発している、あの新月である。しかも、原作者の那州

雪絵という人を私は不勉強にも今まで知らなかったのだが、何しろ少女漫画の中でも特に

お耽美系として定評のある、あの白泉・「花ゆめ」連載の作品である。これは面白くなら

ないはずはないだろう、と期待を胸に仙商に足を運んできた。

 舞台は、とある大学の演劇部部室。深夜に熱い練習をしていたところ、突然の雷雨によ

る停電が発生する。ようやく電気が復旧すると、そこにはさっきまで3人しかいなかった

部員が4人に増えているではないか!実はこの学校では以前に自殺者が出ており、その幽

霊が部員に化けているらしいのだ。しかし、幽霊の記憶操作によって(そういう力が、な

ぜかこの幽霊にはあるのだ)4人は4人ともが昔からいた部員だという錯覚に陥っている

ため、誰が幽霊かわからない。しかも、停電の影響か入り口のドアが中から開かなくなっ

ているため、4人は幽霊かもしれない1人を加えたまま、一夜を共に明かす羽目に陥る・

・・。

 明日も公演があるので、4人のうち誰が本当の幽霊であったかというタネをここで明か

すことはしないが、要はこの作品は個人のアイデンティティをテーマとしているのである。

4人は、幽霊が誰かを突き止めようと、「お前は本当に昔からいた人間なのか?」と、互

いの過去や記憶を問いつめあっていく。そうすると、今まで自明だと思っていたアイデン

ティティが、「本当に自分は自分なのか?」という疑問によって、がらがらと崩れていく。

私は「演劇談話室」での川島・劇評倶楽部会長との論争で、氏の「一般常識(=自明)」

という言葉に対し、一般常識と思って思考停止してしまうのではなく、実は自明だと思っ

ていたものも突き詰めて考えると自明ではないこともある。それを探っていくのが批評を

含めた表現のなすべきことの一つではないか?という反論を書いたのだが(文章は違うが、

そういう意味を込めて書いた)、本作は、まさにそのテーマを「自分」というものにまで

当てはめて描いた作品なのである。 

 しかし、だからといって内容が堅苦しい作品になっていないところが、本作の見事なと

ころだ。ここのところ、私はストレートにテーマを出しすぎる作品に対して、「演劇は物

語であって、論説ではない」という批判を書いてきたのだが、本作は「誰が幽霊なのか?」

を巡って登場人物全員が大騒ぎするというドタバタが、ストーリーのテンポをよくし観客

を笑わせつつ最後まで飽きさせない効果となっていた。つまり、物語としての面白さを前

面に出し、テーマは行間から匂わすという、まさに、論説ではない「演劇」となっていた

のである。やはり、これは原作者が少女漫画という、自然淘汰の厳しい環境で作品を発表

していることに理由があるのではないだろうか?自明と思っているものが、実は自明では

ないことがある、という意見を私は上に書いたが、ここ数週間の各劇団の作品を見て思う

のは、一流の作家と一般常識ではなっているらしい、つか・こうへいや高橋いさをなどよ

りも、演劇界では無名である(少女漫画ファンにとっては有名なのかもしれないが)那州

雪絵の方が、よっぽど優れた作品を書く力量があるのではないか、ということである(だ

って、つか・こうへいってあまりにもストレートにテーマを出しすぎるんだもの)。野田

秀樹が少女漫画に着目し、「半神」を演劇化した理由が、少女漫画の持つ作品の内容の高

さの割に、少女漫画ファン以外にはあまり知られていないことを惜しむ気持ちが理由だと

するならば、斉藤可南子も同じ意味で有能な「目利き」と高く評価せざるを得ないだろう。

 個々の役者に目を移すと、昨年「地上まで200m」でハルカ役を演じた、遠藤名津子

さんが、やはり素晴らしかった。「地上まで〜」のハルカ役は、「頭が足りない」が、他

の登場人物を癒す「絶対承認」の供給者だったのに対し、今回のチヅルという役はいわゆ

るフツーの大学生である。しかし、彼氏に対し優しい表情を浮かべたりするシーンで見せ

る微笑みは「誰が幽霊かわからない」と不安になっている彼氏役のみならず、見ている観

客をもホッと一息つかせる、心を和ませる笑顔なのであった。「癒し系アイドル」という

言葉が一時はやったが、遠藤名津子さんこそ、まさに仙台演劇界の「癒し系」NO1とい

えるだろう。その理由は、上にも述べたとおり、彼女の微笑が見ているものに「絶対承認」

を感じさせずに入られない、暖かみのあるものだからなのだ。

 また、今回斉藤可南子さん本人も役者として登場していたが、彼女はこういう極限状況

で、ハイテンションになっている人間の役をやらせると、本当にハマル人だ。よく、役者

としての幅を広げた方がいい、という意見を役者に対してしている批評を見るのだが、私

はみんながみんなゼネラリストになる必要なんてないんじゃないか、と思っている。何を

やっても似たような感じになってしまうんだけど、ツボにはまると他の小器用な役者の追

随を許さない、いわばスペシャリストの役者という存在はもっと評価されていいのではな

いだろうか。斉藤可南子は、よく見ると、いつも「斉藤可南子」な傾向が強い役者である。

しかし、精神的に「いっちゃってる」役、異様にハイテンションな役をやらせたら、彼女

を越えるものは仙台にはいないのではないか、という独特な味を、ヘンに器用になろうと

せずに極めてもらう方が、私は好ましいと思うのだ。

 ともあれ、本作は明日も公演が2回ある(11時と13時)。仙台商業は移転したため、

ものすごく地の利が悪いところになったのかと、行く前不安に思っていたが、実際は地下

鉄の泉中央駅から徒歩で十分行ける距離であった。「地上まで200m」「トランス」「彼

女の場合」を見て面白い!と思った人なら、ぜひ見に行った方がいいと思う。今回、高校

の学園祭のためか、インターネット以外の告知がなく、今日も一般のお客さんがほとんど

いなかったのが非常に残念だっただけに、ここで力説する次第である。

 

[2000年9月9日 23時26分24秒]

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えずこシアター「ひなたは、草の匂い。」

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

吉川脚本は「朝生」である!

 

 俗に「面白さ」には2種類あるといわれることがある。つまり、「心で感じる面白さ」

と「頭で感じる面白さ」である。「心で〜」は、叙情的・センチメンタルな作風で、観客

のエモーショナルな部分に訴えかけてくるもの。一方の「頭で〜」は、推理したり分析し

たりする面白さ、いわゆる知的興奮と呼ばれるものである。昨年、今年とえずこシアター

で吉川由美さんの脚本作品を2年続けて拝見して思ったのは、実は彼女の作品の醍醐味は、

知的興奮の方にあるのではないか?ということなのである。

 本作「ひなたは、草の匂い。」は、田舎の退屈な日常が耐えられず、都会へ出たいとい

う女の子が主人公である。これに対し、彼女の両親やおじいちゃんは、田舎の自然のすば

らしさなどを強調して反対する。彼女はその反対を振り切って都会へ出ていくわけだが、

本作は、この「都会と田舎ではどちらが素晴らしいか?」という二項対立がテーマとして

最後まで進んでいくわけである。

 もちろん、本作の題名が「ひなたは、草の匂い。」であり、仙台市ではなく大河原町に

ある、えずこホールで行われる公演という性格から考えても、作者が訴えたいことが田舎

賛美であろうことは、容易に想像できる。しかし、ここで私が以前、高橋いさを氏の脚本

について批評した懸念が本作にも出てくる。つまり、テーマをストレートに出しすぎる脚

本は、物語化されていないという意味で、演劇としての面白さが出ないのではないか?そ

して、実際に吉川脚本の登場人物達のセリフは、非常にストレートなものなのである。

 しかし、吉川脚本ではこの懸念を、先に挙げた「二項対立」という形で解決しようとす

る。つまり、テーマを一方的に訴えかけたのでは、「青年の主張」になってしまう。そこ

で、テーマに対するアンチテーゼを別の登場人物にしゃべらせることで、舞台上に議論を

起こさせ、結果、一方的な意見を作家が観客に押しつけるというイメージを低減しようと

狙っているのである。その結果、舞台上では役者達が賛否両論を延々と議論しあう場面が

続出し、まるで「朝まで生テレビ」を見ているような錯覚に観客はおそわれるのである。

 しかし、それではやはり「演劇」とはいえないのではないか?という疑問を抱く人もい

るだろう。もちろん、「起承転結がきちんと存在し・・・」とか、「ストーリーの中にド

ラマ性があり・・・」といった、狭義の意味での演劇を愛する人にとっては、本作は「演

劇」ではないかもしれない。だが、こう考えてはどうだろう。私が演劇を見るのは、以前

別の劇評でも書いたが、心の中に存在する空虚感を埋めんがため、という理由が大きい。

その「空虚感を埋める」という目的に合致するだけの濃度を持った「なにか」を見る、と

いう意味であれば、それが必ずしも「狭義の意味での演劇」である必要は必ずしもないの

である。TVで「朝生」を見ることによって、「夜中に退屈で仕方がない」という屈託が

埋められるのであれば、「朝生のような演劇」を見ることによって知的興奮を味わう、と

いうこともまた、退屈さを埋めるテンションを確保する、という意味では成功なのである。

 ところで、皮肉なことではあるが、吉川脚本はこのアンチテーゼを出すことによって、

本来訴えたいテーマが相対化され、説得力がなくなってしまうというジレンマを抱えてい

る。昨年の「場所」でいえば、「自由に生きることができないのなら、会社という組織な

どに属さない方がいい!」という自由の素晴らしさをテーマにしながら、実際には主人公

は会社を解雇されてしまい、明日の食い扶持に困ってしまう。今年の「ひなたは〜」でい

えば、本当は田舎の素晴らしさを全面的にアピールできる終わり方に持っていければいい

のだろうが、退屈な日常を克服できるだけの面白いものを持っている都会という現実に対

し、「ひなた」という自然では説得力がどうしても弱く、ラストシーンでは主人公は帰省

こそしているものの、「やっぱり田舎の方がいい!」と、都会を捨てて帰ってきたという

ドラマティックなシーンにすることは出来ずじまいなのである。おそらく、それをやって

しまうと、あまりにも嘘臭くなる、という懸念が作者にあったのではないだろうか。テー

マをストレートに持っていきたいが、アンチテーゼの反論が説得力あるもののため、大団

円を作れないジレンマ。しかし、脳天気な「青年の主張」を訴えるよりは、作者にまだ「現

実の社会は複雑なのに、脳天気にテーマを押しつけるだけでは、説得力がなくなるのでは

ないか?」という問題意識が存在するだけ、私は作者に好感を持つし、昨年の「場所」よ

りは一歩進歩していると思うのだ(「場所」は、解雇されても言いたいことを言った主人

公を賛美するようなラストシーンとなっており、それが鼻につく感があった)。

 ジレンマという意味では、汚いなりをしてはいるが心は美しいホームレス達と、きれい

な格好をしているが心の中にむなしさを抱えている主人公のバンド仲間達を、対比的に取

り上げているシーンがあったのだが、ビジュアル的なリアリティを追求していくと、ホー

ムレス達より、バンド練習をしている若者達の方が、どうしても美しく見えてしまうとこ

ろも、皮肉ではあるが、その皮肉なところが屈折した観客たる私には面白かった(そもそ

もホームレス達が皆きれいな心を持っているだろう、という発想は、おそらく見かけだけ

で人を判断してはいけない、というメッセージから出たものだろうが、どんな職種の人に

も性格のいい人と悪い人がいるように、ホームレスだからみんな心がきれいだろうという

発想自体がステレオタイプで一方的なものなのである)。特にキックボードに乗って、楽

しげに舞台を駆け回っていたバンド仲間の女の子がとてもかわいく、アイドル評倶楽部と

しては、特に推薦マークをつけさせていただきたい。さらに言わせてもらえば、えずこシ

アターでは、2月に若手のみの部分公演をしたそうだが、もし、あのバンドの若者達を演

じた役者の方々が中心で出てくる芝居であれば、ぜひ来年の2月にもやってほしい!と願

わずにはいられなかった。だって、彼ら、ホントにかっこよく、また、かわいかったんだ

もん!

 

[2000年9月3日 20時58分21秒]

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きいろいもくば「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 物語と論文との最大の違いは何か?受け手である観客や読者に対し、あるテーマなりメ

ッセージなりを作り手側が伝えようとしてそれらの手段を用いる、という意味では両者に

は共通性がある。問題は、このメッセージ等を伝える際の手段にある。

 論文・論説・評論などというものは、原則的にそのメッセージをストレートに受け手側

に伝えるために用いる手段である。それに対し、小説や戯曲といった物語という手段は、

ストーリーやドラマ、あるいはギャグといったものを介在し、観客にエンタテイメント性、

あるいは叙情性という装飾を用いながら、その陰にテーマを隠し味風に忍び込ませ、観客

にそれら「芸」を楽しませつつも、知らず知らずのうちに、そのテーマに共感させようと

するものだろう。だから、逆にいえばテーマやメッセージがあまりにストレートに出てい

る芝居というものは、「わかりやすい」かもしれないが、「芸がない」ともいえ、また、「青

年の主張」や「立会演説会」とどこが違うんだ?という疑問を抱かずに入られないものと

もいえる。実は、私が高橋いさを氏の脚本に対して常々抱いてしまう違和感というのも、

氏の脚本におけるメッセージ性のあまりにもストレートなところなのだ。

 今回上演された「ある日、僕らは夢の中に出会う」は、少女誘拐犯と彼らを担当した刑

事たちとの間に生ずる犯罪ドラマである。主人公の女性新米刑事は、TVの刑事ドラマの

大ファンであるのだが、現場の先輩刑事達の行動は、彼女のTVから得ていた知識をこと

ごとく裏切るものである。これをコメディーとしての部分を強調していけば面白い作品に

なるのかもしれないが、高橋氏の脚本は、むしろ「ドラマと現実とが同じと考えるのは、

ドラマのお約束ごとに毒されている証拠だ。」というメッセージを強調するセリフがやた

らと頻出するのだ。そのため会場の空間が、エンタテイメント的面白さよりも理屈っぽさ

で充満されてしまい、「言いたいことはわかりすぎるほどわかるが、自分は芝居を見にこ

の会場に足を運んだのはなかったのか?これは芝居と言うよりも、むしろ演説ではないの

か?」という疑問を観客に抱かせてしまうものとなってしまう。

 だから高橋氏の作品は劇評いらずとも言える。あるお芝居を見て感動した観客が、「自

分は感動したんだけど、なぜ感動したのかが、今ひとつモヤモヤしてわからないなあ。」

と感じていたとする。その時、「この作品のテーマというのは、実はこれこれこういうも

のなんだよ。」という劇評を読むことによって、「ああ、なるほど。」と、作品に対する認

識がより深まっていく、という過程が全く不要になってしまうわけだ。私のような劇評を

書くことを楽しみとしている人間にとっては、全くやりがいのない作品といえるが(笑)、

そもそもやりがい以前に、そんなストレートすぎる作品とは、果たして物語等、「芸」と

いう手段を本来用いるべき「演劇」といえるのだろうか?(ここで、本論から多少脱線す

るが、不条理演劇は必ずしも「物語」を必要としない、という反論を述べる方がいるかも

しれない。しかし、「物語」を用いずとも、不条理には不条理なりの「芸」が存在してい

るはずだろう)

 もちろん、脚本に多少問題性があったとしても、その問題性を補うコーティングをする

演出法というものはあるはずだ。ベートーベンの同じ交響曲を違う指揮者が指揮すると、

全く違う解釈でオーケストラが演奏するように。つまり、楽譜とは記号であり、その記号

をそれぞれ独自に解釈するのが指揮者の仕事であるとすれば、演劇における演出家の仕事

とは、指揮者が楽譜を解釈するように、自分の流儀で脚本を解釈することだろう。しかし、

残念なことに本公演の演出家は、むしろ本作のストレートな部分をより強調することが、

観客に対して本作のメッセージをわかりやすく伝えるという意味で、よりよいことである、

という考えを持っていたように見えた。なぜなら、役者が作者の主張をストレートに代弁

するようなシーンでの役者のセリフ回しが非常に強調され、逆にギャグとしての面白さが

出る部分でのテンポが今ひとつノリが悪かったように、客席の私には感じられたからだ。

これは全く仮定の話なのだが、「きいろいもくば」は高橋いさを作品をこれまでも好んで

よく取り上げてきたのだが、実はそれは「高橋脚本は内容がわかりやすいから」という理

由からなのではないだろうか?だとするならば、当人達が意識しないでいても、知らず知

らずのうちに、ストレートにメッセージを発する部分を強調する演出・役作りをしてしま

う、ということは充分あり得そうな話である。

 少々厳しいことを今回は書いてしまったので、最後にお約束の、本日のよかった女優さ

んについて。新米刑事のストウ役・菅原千寿さんが面白かった。彼女はドラマで見た刑事

と目の前にいる現実の刑事との違いに、先輩達が冗談をしていると思いこんでよく笑うの

だが、その笑い方が「ハハハハハ」と、本当に笑っているというより、むしろセリフを棒

読みするような笑い方をするのだ。もちろん、これは下手だからそういう笑い方をするの

ではなく、芝居の中で「現実」と呼ばれているものも、また芝居という虚構なのであるこ

とを遠回しに表現するために、わざとウソっぽい笑い方をしたのであろう。ここで私が彼

女を高く評価したいのは、つまり、メッセージをストレートに観客にわからせてしまうの

ではなく、「なんでこんな棒読みのような笑い方をするんだ?待てよ、これはわざとやっ

てるんじゃないのか?」というように、観客側に、ふと立ち止まって考えさせる演技をす

ることが、むしろ高橋作品のような「わかりやすすぎる」脚本には望ましいと思われるか

らなのだ。この人、ドラマが緊迫した場面でも、なぜかのほほんと微笑を浮かべているこ

とが多かった。これも、「今ここでおこっていることは芝居という虚構なんだよん」と、

芝居に対して醒めた視点を持つ、という高橋氏のメッセージを、暗喩的に示しているとい

う効果があったと思うのだが、それを意図してやっていたととらえるのは、さすがに深読

みのしすぎだろうか?

 

[2000年8月20日 20時1分36秒]

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劇団猫原体「Analog Note」 

お名前: 森和彦(劇団CUE)    URL

劇団「猫原体」Analog Note の問題点。

 下記の太田さんのご批評で指摘のあった「台本の書きなおし」「演出」について、ご指摘を踏

まえつつ私の思うところを述べてみたいと思います。基本的にはよくまとまった公演であり、

一部で目にするような「もっと演技の勉強をしろよ」といいたくなるような公演とは全く違って

いたと思います。しかし、私も太田さん同様に今回の書きなおしがあまりうまい形になっていな

かったと感じています。

 

 ただ、私はそれでもこの書き直しで臨もうとした姿勢を評価はしたいと思います。よって、太

田さんとほとんど同じ問題点を感じながらも、結論としては「サトミ」を中心とした物語として、

本格的に台本を見直すべきだったと考えています。この点が、「原作を尊重すべきだった」

という太田さんのご指摘と異なる、私の感想です。むろんそのためには原作者との慎重な打ち合

わせが必要であり、原作者のいしどおさんの許可があればというのが前提ですが。

 

 私は、この猫原体版「Analog Note」があくまでも「サトミ」の物語であるかのような書き

方をしましたが、その根拠は、ラストシーン直前という重要なタイミングで、サトミが一人舞台

に立ち、かなり熱の入った演技で「電話を切る」という場面が挿入されていたことです。照明も

またそれを強調するかのように、今までとは変わったものになっていました。そして、その場面

のサトミを演じた佐藤裕美さんの演技が非常に突出していたこともそうです。これは最初の

太田さんのご指摘どおり、「くさい」と言われかねない演技だったかもしれませんが、しかし、太田

さんも認めていらっしゃったように、この演技が「泣ける」ものであり、一定のレベルを越えて

いたことは確かでした。

 しかし、それは劇全体を見直したときに、あまりにも唐突でした。「くさい」と言われかねな

い演技だったとは私も感じましたが、その理由は、今までの物語の流れの中に、このシーンを盛

り上げるだけの伏線がまったくなかったということが大きいのではないでしょうか。もしもサト

ミの物語にするつもりがまったくなかったのならば、サトミが電話を切るシーンをあそこまで強

調する必要はなかったでしょう。正直このへんの意図がはっきり伝わっていなかったことが、一

部の観客を混乱させたのかもしれません。

 

 私はしかし、「サトミ」を切り口に物語にアプローチを図ろうとしたならば、それは斬新な劇

解釈であり、評価をしたいと思って居ます。そうでなければ、いよいよ何に焦点を絞って作られ

た台本であったのかが、判然としない芝居だったといえるでしょう。つまり、舞台は、サトミを

演じた佐藤裕美さんの独壇場であり、本来の主役であるべき「カレン」を演じた福地春奈さんは

独特のキャラクターを味わい深く演じていたにもかかわらず、物語の本筋にかかわる見せ場がほ

とんんど与えられていなかった印象を受けるのです。

 たとえば、カレンは「しあわせ」とは何だろうという深刻な問題提起を物語の中でしていま

した。そして「しあわせ」とはなんだろうか、その答えをカレンがしっかりと受け取る場面がい

つ登場するのだろうかと思ってずっと劇を見ていたのですが、いくつかの会話でその問題が処理

された程度にとどまり、そのままカレンが消えてしまっていたので、????という印象を受け

ました。そのほかの問題提起についても同様の処理がされているだけで、「サトミ」が電話を切

るシーンと比較しても明らかに場面の作りが軽いのです。

 

 よって、私は「サトミ」中心の物語としてこの物語を受け止め、それゆえに、その着眼点を評

価しつつも、多大な不備があったことを問題を感じたわけです。物語をテンポよく進めて行こう

とする流れが劇からは読み取れず、役者だけが必死に舞台を支えている。そういう印象を受けた

公演でした。

 ただし、役者の存在感には拍手です。佐藤裕美、福地春奈という二人の女優は今後まちがいな

く猫原体を支えていく二本の柱になるでしょう。一方で、演出は個々の場面作りが大変細かい一

方で、物語全体を通して見通す視点がかなり弱いという印象をうけました。ただし、もしこの

物語を「サトミ」の物語として再構成しようという意欲を持っていたのならば、その冒険心に

可能性を感じます。

 次回の公演の予定はいつなのかわかりませんが、また足を運び、一回り大きくなったこの劇

団をみることを楽しみにしています。

  [2000年8月26日 19時20分27秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

本作について、その後猫原体さんの掲示板で、CUEの森さん、また作者のいしどおさ

ん本人が御感想を書き込まれておられました。詳しくは猫原体さんのホームページを御覧

いただきたいのですが、お2人のご意見を拝読すると、非常に興味深い指摘がなされてお

り、今回の作品について、より理解を深めることができました。そこで、本作について改

めて補足を書いておこうという考えに至り、ペンを執ることとしました。

 まず、森さんは、本作のクライマックスを、サトミが電話を切るシーンであると考え、

そこへ向けて物語が集約していない、と批判されています。これについては、もし物語の

主役がサトミであるならば、森さんの指摘は正しいものといえましょう。

 ところが、一方で作者のいしどおさんは、「だって主人公の名前が知らない人だもん!」

と書き込まれています。これはどういうことかというと、TVから出てきた少女・ミイの

名前を、猫原体さんの公演ではカレンに変えていることを示唆しているんですね。つまり、

作者としてはこの物語の主役はサトミではなく、ミイ(カレン)である、と述べておられ

るわけです。ここで問題となってくるのは、もし森さんの言うようにサトミが主役であれ

ば、「依存していた架空の関係の清算=電話を切る」行為が、物語のクライマックスにな

るだろうが、ミイが主役となると、「感情というものを知らなかった少女が、最後には幸

せというものの意味まで理解するようになる」というミイのストーリーが本筋となるため、

クライマックスの場所が森さんの指摘する場面とは必ずしも言えなくなってくるのではな

いか、という疑問が生じてくるわけです。

 この謎を解く鍵は、猫原体さんが台本を描き直しされている、という点にあると思いま

す。実は公演終了後、改めて本作の台本が読みたくなり、インターネットのシナリオガレ

ージから、本作の台本をダウンロードして再読したのですが、実は猫原体さんの公演では、

サトミがミイ(カレン)をTVの中に押し戻してしまうシーンとなっているところが、脚

本では、ミイが再びアナログ・ノートを開くことによって、登場人物達が危機を脱する結

末となっているのです。

 つまり、猫原体版で考えると、サトミはアナログ・ノートを頼らなかった=他人に頼ら

ず自力でピンチを脱しようと決意した、という解釈が成り立ち、結果として森さんの言う

ようにサトミ=主役となり、電話を切るシーンも自力で生きていくことを象徴的に示すシ

ーンとしてクライマックスにふさわしいものになる、と思われます。しかし、原作版で考

えると、ミイが主役なのだから、感情を知らなかったミイがアナログ・ノートを使うとい

う自己犠牲を呈してまで他者を救うシーンこそがクライマックスにふさわしい、という考

えが成り立ってきます。

 つまり、演出さんには厳しい言い方になってしまいますが、台本を書き換えたことによ

って主役が誰であるかが不明朗になったことが、結果として森さんのようにサトミが主役

=電話を切るシーンがクライマックスだろう、という誤解を生じさせる原因となってしま

ったように思うのです。

 では、なぜ演出さんはこのような脚本の書き換えをなさったのか?たぶん、ミイがアナ

ログ・ノートを使うことによって「願いが叶う」という結論が、やや御都合主義に過ぎる、

と感じられてしまったからではないでしょうか?しかし、これはファンタジーであり、一

種の寓話なのです。御都合主義というなら、そもそもミイがTVの中から出てくるという

設定自体が非現実なものなのです。だから、物語のテーマについて誤解が生じる危険性を

考慮するなら、御都合主義というリスクをおかしても、原作のクライマックスを適用した

方がよかったのではないか?というのが、原作を改めて読んでの私の結論となるのです。

  [2000年8月26日 0時8分21秒]

お名前: ひの@猫原体    URL

太田さま

事前の書き込み通り「セツナイ」話になっていたようで、私としては安心しています。

2回・3回公演の話は今回も出たのですが、団員の休みが合わないことで断念しました。

次回こそ、複数回の上演を目指したいと思っています。

ありがとうございました。

  [2000年8月21日 1時9分24秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

以前、「演劇談話室」のコーナーで「仙台の演劇では泣けるか?」という議論がおこっ

たことがあった。仙台の演劇をこよなく愛する私は、当然「泣ける」の側に立った意見を

展開したのだが、そうはいっても、やはり本当に泣ける芝居というのは、年間そう何本も

あるものではない。なぜなら、泣ける芝居にするには、まず脚本が泣けるものでなければ

いけないし、それを演出・役者が正確に脚本の泣ける部分を伝えなければいけないからだ。

 私は、以前「的を外す楽しさ」と題し、劇団が伝えたいメッセージをあえて正確に受け

取らなくても、面白いと思う部分を発見できるのなら、あえて的を外す見方を観客がして

もかまわない、という論を展開したことがあった。しかし、実をいうと、これは芝居を笑

うために見る時には通用するが、芝居を見て泣きたい時には通用しない方法論なのである。

なぜかを説明するとものすごく長くなるので敢えて一言で言うなら、「失笑」という言葉

は辞書に存在するが、「失泣」という言葉は現実にどこにも存在しないという事実が、そ

れを如実に示している、とはいえないだろうか。

 前置きが長くなった。要するに、私はこれから取り上げる、猫原体の「Analog Note」

を今回見て、不覚にも泣いてしまったのである。そして、本作の脚本はオリジナルではな

く、既成のものではあるが、私が泣いたのは、単に脚本がよかったからだけではなく、こ

の劇団の役者さんたちが、その泣ける部分を正確に伝達する力量を持っている、というこ

とが言いたくて、上のような長い前置きを書いてしまったのである。

 舞台は、情報化社会が極限まで進んだ現在の日本。しかし、そこは同時に、「電波」を

基にした新種の生命体が誕生している、というSF的な世界でもある。彼らは人間よりも

高度な知能を持っているが、人間の持つ「おいしい」「楽しい」「悲しい」「幸せ」といっ

た感情を有していない。ある日、好奇心の強いNo552が、文献に書いてあるクッキー

を現実に食べてみたい、と「彼らの世界」から人間の世界へとやってくる。そこは、売れ

ない芸術家の卵たち3人組のたまり場で、突然TVの中から飛び出してきた552を見て、

最初はひどく驚き訝しむが、彼女の性格がとてもピュアなことに気づき、仲間として迎え

入れるようになる。

 私は、この知能は高度に発達しているが、人間的感情を持ち合わせていない、という「未

来人」(?)の設定は、現実を生きる私達自身のメタファーではないかと思う。彼女たち

は、「幸せ」というものが、どういうものかわからない、という。では、私達ははたして

どうなのか?辞書的な意味では、「幸せ」というものを知っているかもしれないが、現実

的な意味で「幸せ」というものを実感しているだろうか?

 去年の高校演劇コンクールでの、仙台高校演劇部の作品「今夜の君は素敵だよ」の主人

公の少女も、感情というものを知らない人間だった。彼女の場合は、チョコレート工場に

幽閉され、他者との接触を断たれた状態にいたために、感情というものを知らないままに

生きてきた、という設定だった。552が感情というものを知らないのも、他人との関係

性が存在していない環境にいたからだろう(周りに同族はいるが、彼らもまた感情という

ものを知らない存在なのだから)。そんな中、チョコレート工場の少女は、工場が使わし

た同年代の少年との交流によって、また、552は、芸術家の卵達という「仲間」との出

会いと交流によって、感情、そして「幸せ」というものを覚えていく。つまり、これらの

物語の共通点は、「幸せ」というものは、「自分を承認してくれる他者」との関係性によ

って生まれてくるものだよ、というテーマを、「感情を知らない少女」という象徴的存在

を主人公にすることによって示そうとしている、というところにあるのだ(ちなみに、こ

の「自分を承認してくれる他者」=「幸せの条件」というテーマは、去年の演劇祭におけ

る新月列車の「地上まで200m・Xside」にも共通する内容だったりもする)。

 個々の役者さんについても述べていきたい。まず、なんといってもサトミ役の佐藤裕美

さんが素晴らしかった。実は私は、彼女の感情のこもりきった演技で泣いたのである。サ

トミはカレン(人間社会に来た552についた名前)にある時、「幸せとはどういうもの

か教えて」と尋ねられ、「幸せは、おいしいとか楽しいと違い、人から教えられる感情で

はない。しかし、今のあなたは充分幸せそうだ。」と答えるシーンがあるのだが、その時

のセリフ回しが、本当に見ているこちら側の涙腺のツボを、これでもかー!、と押すよう

な、心のこもった演技だったのである。人によっては、彼女の演技を、「クサい」と批判

する人もいるかもしれないが、観客の涙腺を刺激するには、彼女くらいでちょうどいい、

と私は思うのだ。実はサトミという女性も、遠距離恋愛の彼氏と受話器を置かない電話で

つながっている、と本人は言っているが、実はその電話はずっと話し中のままになってい

る、という境遇にいる人間である。つまり、彼女自身も「幸せ」を実感するために、承認

してくれる人間関係を求めている(しかし、その関係性は、実は架空のものである)人物

なのである。それだけに、「幸せ」についてカレンに語るサトミの言葉は、サトミ自身の

境遇がダブルミーニングとなっているだけに、見ていて痛ましく、涙が出てくるのだ。

 そして、552(カレン)役の福地春奈さん。ここんとこ、マジメな劇評を書くことが

多かったが、久しぶりにアイドル評倶楽部らしいことを言ってみよう。彼女、ホントにカ

ワイイんですよ!まさに、アイドルの名にふさわしい感じ。大きくつぶらな瞳に、かわい

らしく立った耳が、芸能人で似たような人がいたなあ、と思いながら見ていたのだが、そ

う、佐藤藍子にそっくり、この人。

 もちろん、ただカワイイだけではなく、重要な役柄を壊さないだけの演技力だって身に

ついていた。最初に他の仲間と一緒に人類の歴史を研究している場面では、人間より高度

な知能を持っているらしい大人っぽい雰囲気を出していたので、「この場面はこれでいい

かもしれないけど、後半は感情というものを知らない、無垢な少女という役柄になるのだ

から、このままでは大人っぽすぎないかなあ。」と、少々心配しながら見ていたのだが、

人間世界に来てからの場面では、少女らしい雰囲気に、ちゃんと役作りを変えてるのね!

そんなの役者なんだから当たり前じゃないか、と思う人もいるかもしれないけれど、場面

によって細かく役作りしなくちゃいけないのに、最初から最後まで無自覚に同じキャラク

ターで通しちゃう役者さんって、意外と多いのだ。そういう一見当たり前のように見えて、

なかなかできないことがキチンとできていた彼女にも、強く拍手を送りたい。

 一つだけ残念だったのは、103(もう一人の新しい生命体)役の高橋和也さんのセリ

フ回しが、他の役者さんが感情のこもった演技をしている中、一人だけ棒読みのしゃべり

方をしていたことだ。これは、彼だけが感情を知らない生命体ということを示すために、

あえて意図的にしたことかもしれないが、他の役者との絡みの部分で、棒にしゃべること

は効果的かもしれないが、モノローグで物語のキーワードとも言える重要なことをしゃべ

るシーンで、まるで森首相が国会答弁で原稿を棒読みしているようなしゃべり方をしてい

たのだけは、なんとかしてほしかった。感情たっぷりにしてはいけない役柄である、とい

うことは理解できるが、しゃべっているセリフが、「神に選ばれし生命体は我々・・・」

とかいった内容のものなのだから、少々感情を込めた語り口であっても、特に違和感はな

かったと思うのだ。

 ともあれ、これから秋に向けて、高校演劇コンクールなどもあり、感動的なお芝居に巡

り会う可能性は年末までまだまだあるだろうが、現時点での私が今年見た中で、一番泣い

た芝居に本作をノミネートさせていただくとする(あくまで8月現在の暫定1位だけど

ね)。願わくば次回公演からは、今回のように1回だけといわず、2〜3回公演をしてほ

しいものだ。映画と違って、演劇は後でビデオで見られると言う可能性が非常に低いし、

生とビデオとでは差が大きく出るジャンルでもある。感動した芝居は、時間とお金さえ許

せば、その場で何回でも見ておきたいのだ。

  [2000年8月19日 22時22分44秒]

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劇団魚類の薔薇「えす」 

お名前: 近江 俊彦   

狭い空間での公演という事はあるにせよ、最後までほとんど途切れない緊張感というか、

空間を支配するソウル(演劇ではこういう事をどう表現するのか分からないけど)演劇

マインド?ともかくも、芝居の意識に包まれていて幸せなひと時でした。

 

どうも、20代の作家の書くものに共通して不満だったのが、恋愛を扱っているんですけ

ど、経験にない事を書くものだから、リアルではない事(というより勘違いしている事)

が多いのと、類型的である事がどうもうまくないと感じました。

 

あと、これまでずっと不満に感じる事が多かったんですけど、脚本のシーンが固定しない

事があげられます。つまり、作家が、映像の中で見ている部分と、芝居の中で説明してい

る部分と、芝居の中の人物が自らの意思で語っている場面とが、明確に分化されていなく

て、なおかつそれが瞬時にしかも頻繁に入れ替わるものだから、芝居としての一貫性を、

追うのに汲々としてしまって、充分に芝居にのめりこめませんでした。

ところが、この芝居は、役者のスキルも高かったんでしょうけど、この欠点が、全面的な

欠点としてよりも、作家の可能性として見えてきたのでした。

この、多分、テレビとTVゲームと希薄な人間関係の中で培われた(であろう)感性が、

つむぎだす世界の見え方、これが、時間表現である演劇の新たな可能性を示唆しているよ

うな期待感を感じました。

  [2000年8月22日 0時55分26秒]

お名前: 毛長猫   

あまりにも平たんでおもしろいところが見つけにくかった。

女性をころす前と殺す後ではまるで演技に変化が無く、ストーリーがストーリーでなかったよう

に思った。ただきれいな言葉(詩?)を並べ立ててるだけ。

女性の体を触る動きは、あまり上手くいって無かったように思う。もっときちんと体を作って

稽古した方がいいんじゃないかなー。(=_=)触ってるように見えなかった。女性がいるみたいには

見えなかったな。

きれいな言葉が多かったけど、あまり役者さんと似合ってる気がしなかった。

やっぱり ずーっと同じテンポだと疲れました。1時間以内だったのに長かった・・・。

でも、スタッフのみなさんは、スーツ着たり黒づくめで雰囲気良かったかな・・・。

  [2000年8月18日 17時31分37秒]

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ステージプロジェクト『ゲキテキ』第1回公演「Find-er」 

お名前: 木村 宣仁   

劇評ありがとうございます。

今回の旗揚げ公演で、医者役を勤めさせていただきました、木村宣仁と申します。

 

この劇評を、ヒロイン役の武田さんと読ませていただいたのですが、

とても参考になり、かつ自分の未熟さ、これからの課題がわかったような気がします。

 

今回は本当に未熟な演技でしたが、次回作では全く違った演技をお見せすることを

お約束します。あなたをあっといわせる役者に俺は必ずなって見せます。

この先も「ゲキテキ」を温かい目で見守ってやってください。

 

最後に武田さんからです。

「劇評ありがとうございます。

太田さんに批評していただいて、演劇を続けてきて

本当に良かったと心から思いました。

私自身、演技に関しては、まだまだだと思う点はたくさんあります。

それでも、太田さんのように感じてくださる人がいるということは

これからの演劇活動を行っていくうえでとても励みになります。

ありがとうございました。

 

これからも、誰かの心を動かすことのできる演技を目指して

もっと成長したいと考えています。

 

次回公演も、ぜひご来場下さい。

「ゲキテキ」一同、さらにパワーアップしてお待ちしております。」

[2000年8月23日 12時19分6秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

先日の朝日新聞県内版の記事によると、ステージプロジェクト『ゲキテキ』は、高校演

劇コンクールでライバル同士だった、仙台三高と富谷高校各演劇部のOB、OGが中心に

なって旗揚げした劇団だそうだ。最近の高校演劇の面白さについては、私は当欄を通じて、

今まで口が酸っぱくなるほど書いてきたが、先日の「企」といい、この「ゲキテキ」とい

い、最近の高校演劇出身者が次々と劇団を旗揚げすることは、仙台演劇界の活性化という

意味で、とても喜ばしいことだと思う。ぜひ、既存の劇団を脅かすパワーを、これから存

分に発揮してほしい。

 さて、今回の「Find−er」、写真家を目指すため、夜勤でコンビニのバイトをし

ながら、コツコツと貯金をしている主人公の若者のバイト先に、突然パジャマ姿の女の子

が現れるところからドラマは始まる。実は彼女は夢遊病患者で、夜な夜な深夜の町を徘徊

しているのだが、若者が気に入ったのか、それから少女は毎日コンビニに姿を現すように

なり、少女と若者との間に、次第次第に友情が深まっていく。

 この夢遊病の少女役を演じた、武田優美さんの演技がすばらしかった。本作では夢遊病

という設定を、病気という深刻・暗いものとしてとらえるよりも、むしろ寝ぼけたヘンな

女の子というイメージで、観客を笑いに誘おうという演出の意図があったと思うのだが、

コンビニを訪れる際の彼女の、まるでキョンシーのような独特の歩き方や、目を半開きに

しながら薄ら笑いを浮かべているおかしな表情が、なんともシュールなユーモラスさを見

るものに与えており、アッパー系のギャグを他の役者さんがだいぶ外していたのとは対照

的に、私は大いに笑わされつつ、かつ感心させられてしまったのだった。

 彼女は素に戻った時のモノローグのシーンも(若者から渡されたポラロイド写真を見つ

つ、物思いに耽る場面)、静かでセンチメンタルな感情がこもった語り口がまた素晴らし

く、ああ、また若手でいい役者さんが一人出てきたものだなあ、と見ながら嬉しく思わず

にはいられなかった。

 さて、物語は、ある日、やはり夢遊病でフラフラしているヒロインが、危うく車にひか

れそうになるところを、主人公が身をもって救うのだが、その事故の影響で主人公は記憶

を喪失。一方の少女も、夢遊病の治療薬の副作用でこれまた記憶を喪失してしまう。

 5年後、若者は新聞社所属のカメラマンに、少女は治療先のアメリカで売れっ子女優と

なり、2人は新聞社の取材で再会する。お互い記憶を失っていながら、潜在意識の部分で

相手のことを覚えているのか、「はじめまして」といいながら、懐かしそうな表情を2人

が見せるラストシーンは、やはり記憶を失った若い男女が数年後に偶然再会する、映画「時

をかける少女」のラストシーンをどこか連想させ、しみじみとした感動を与えてくれたの

だった(でも、今20歳前後の今回の役者さんたちは、「時かけ」なんて知らないんだろ

うなあ)。

 全体の公演時間も、1時間10分という短いもので、ストーリーもコンパクトにまとめ

られており、若手劇団にありがちなダラダラした展開となっていないところに、旗揚げな

がらも脚本家の才能を感じた。おそらく、高校演劇コンクールの制限時間が、やはり70

分程度であるため、現役高校生時代から、ストーリーをコンパクトにまとめる方法を体で

学んできた成果なのだろう。こういうところは、一般のアマチュア劇団にも学んでほしい

ところだ。

 ところで、私はヒロインが夢遊病という設定を、物語をドラマティックにするための単

なる手段なのだろう、と最初軽く考えていたのだが、本作の山場とでもいうべき部分で少

女が若者に語りかけるシーンで、実は夢遊病は物語のテーマを伝えるために必然的に選択

した設定だったことに気づき、それまでの自分の解釈の甘さに少し恥ずかしい思いをした。

 少女は言う。世の中にはいろんな特技を持った人間がいるが、自分はなにもない「から

っぽな存在」だ、と。自分は起きているのと寝ているのが同じであり、砂漠の中のサボテ

ンのような存在なのだ、と。先の「企」の劇評で、私は彼らの持つ虚無感にシンクロした、

という趣旨のことを書いたが、自分は起きてる時も、ただ生きているだけという意味では、

寝てる時と同じ存在に過ぎないのではないのか、という少女の思いも、やはり「企」と同

じく、虚無感をテーマにしている、ということではないだろうか。だからこそ、寝てる時

に意識があるような状態に見える夢遊病者をヒロインにすることは、「起きてる時も寝て

る時も同じ」という「むなしさ」を具体的な姿としてみせるという意味で必然性を持つも

のであり、決してドラマを盛り上げるために、御都合主義的に作り上げた役柄ではないの

だ。それに気づいた時、私は本作にもまた、「企」を見た時と同様に共感した。

 最後に一つだけ不満点を。物語の終盤、医者がヒロインに、薬を飲めば夢遊病は治るが、

記憶を失うという副作用を生ずることを宣告する決定的な場面で、医者やヒロインの母な

ど他の役者の人たちが、妙に間を空けてセリフをしゃべっていたのが少々気になった。お

そらく物語をドラマティックに盛り上げるために、タメを効かそうとしてのことと思われ

るが、あまりに間が空きすぎると、せっかくのクライマックスの緊張感が弱まってしまい、

逆に「セリフ忘れたんじゃないのか?」という不安を観客に感じせしめ、結果、物語から

観客が醒めてしまう、というデメリットが生じてしまう。ギャグの件についても、先に苦

言を述べたが、ボケをする人に対して、ツッコミをする人のタイミングが遅れてしまい、

せっかくのギャグが笑えなくなってしまうシーンもいくつか見られた。まあ、できたばか

りの劇団だから、なにもかも完璧にとはなかなかいかないのはこちらも重々承知であるし、

そういったミスを割り引いてもなお、私が本作を好きな作品の一つに挙げる気持ちに変わ

りはないのだが、武田さん以外の役者さんたちが、これらセリフのタイミングをもう少し

上手にしていただければ、次回以降よりよい作品ができるだろう、とは思った。

 次回作も期待しているので、ぜひ頑張ってほしい。そして、できれば次回は、社会人の

観客も来やすい土・日+夜公演も組んでいただけるよう強く希望して、ペン(キーボー

ド?)を置くことにする。

[2000年8月17日 18時13分39秒]

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企(くわだて)旗揚げ公演 

お名前: 近江 俊彦   

   若い劇団なのだろうが、古い世代のコピーのように見えた。

表現という事を根源的に考え直して欲しいなと思いました。いや、こう言う行き方もあって

いいとは思うけど、だったら、もっと表現として確立した劇団に入って個々の表現を磨けば

いい話だし、このメンバーが、集団として出来うる限り最大限の表現をやり尽くすといった

ふうには見えなくて、どちらかというと予定調和的なまとまり重視型の集団に見えました。

 

とはいえ、役者一人一人の取り組みは賞賛に値すると思います。あの長丁場でだれることな

く(かつ、とちることなく)進めて行けたのは、個人の意識が高かったんだなと感じました。

それだけになおさら、全体をまとめる力というか意識というか、プロデュースの部分が弱か

ったのではないかという気がしました。

   [2000年8月22日 1時10分41秒]

 

お名前: 早瀬  俊   

    先日の劇評について、補足いたします。私が結末を平凡ではないかと書いたのは、

あくまでも「夢オチ」だからという本当に平凡な理由からではありません。太田さ

んの言ってることは、分かった上でなおかつもう少し予想外の結論があってもとい

う高度な要求から出た言葉ですので、単なる批判と受け取ったらご勘弁ください。

 私がこの芝居で良いなあと思ったところは、ところどころに出てくる彼らの真の

声です。特に1回しか見ていないのでよく覚えていないのですが、「せめて身体だ

けはきれいでいよう」(間違っていたらすみません)というような部分の入ってい

た長台詞を聞きながらドキっとしたことは事実です。彼らのそういった言葉をもっ

と聞きたいと思いながら会場を去ることができたのは、収穫であったと思っていま

す。

 しかしながら、この劇団が上演する側の自己満足に陥ることなく、演技力や演出

力をつけていく努力を惜しまずに続けてほしいと願うばかりです。

[2000年8月17日 10時6分1秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

    公演が終了したので、ストーリーの結末を含めた劇評を書かせていただきます。

 物語は、政府との戦闘で壊滅的打撃を受けた反政府組織の秘密本部と、毎日を退屈に過

ごしている若者5人組の日常という、全く別のストーリーが同時並行に交代交代に進んで

いくというもので、この2つをどう結びつけるのだろう、と思いながら私は見ていました。

 結局、彼らは社会不適応者を収容した牢の中にいる人間たちで(あるいは精神病棟?)、

実は「反政府組織」も「退屈な日常」も、彼らが薬によって眠らされていたときに見た夢

だった、という「夢オチ」だったのでした。

 おそらく、早瀬さんは、この「夢オチ」というものを「ありふれた結論」と認識された

のだと思います。確かに、中国の古典「荘子」の、「荘子が寝てたら蝶になったが、夢の

中の蝶と現実の荘子では、どちらが現実かわからん。」という話の頃から、この手の結末

というのは延々と存在し続けているわけですが、私が本作で面白いなあと思ったのは、最

終的に夢オチだと登場人物たちがわかった時点で、では、どの現実を選択するか、と彼ら

が問われたところで、全員が「退屈な日常」ではなく、「終末的世界」を選択したところ

なのです。

 私たちが現実に生きている世界と、今回の芝居の中でシミュレートされた世界で一番似

ているのは、おそらく「退屈な日常」でしょう。毎日、衣食住についての不安はないが、

昨日も今日も明日も同じ毎日。いろいろな遊びを思いついても、その遊びにすら飽きてし

まう毎日。昨年、福島の劇団「鳥王」の劇評を書いたときに、私は社会学者・宮台真司氏

の著作を引用して、「終わりなき日常」を描いた作品、と評したのですが、「企」の彼ら

の現実に対するキツさもまた、この「終わり的日常」を牢獄のように感じている、という

ところにあるのではないか。現実に、彼ら「社会不適応者」は「牢」に収容されていたわ

けです。だからこそ、彼らは一見絶望的に見える、終末的世界観を選択したのではないか。

そして、「終わりなき日常」をキツいと感じている認識では、私もまた、年齢差を越えて

「企」の面々と一致しているのです。だからこそ私は、早瀬さんや、たぶん他の方も感じ

たであろう、彼らの演技の「中途半端」さを越えて、彼らの設定したテーマに感情移入し

てしまうのです。

 しかし、「終わりなき日常」よりも「終末的世界観」を選択するということは、非常に

危険な選択でもあります。やはり、宮台氏の著作からの引用になってしまいますが、あの

オウム事件を起こした犯人たちの精神的背景は、まさに「終わりなき日常」より「終末的

世界」の方が、濃密な人生を送れる、というところにあるのではないでしょうか?だから

こそ、ハルマゲドンを自作自演すべく、彼らはあのような事件を起こしてしまった。「企」

の登場人物たちが、終末的世界観を選択するのも、表面的には絶望的な世界のように見え

ながら、彼らの空虚感や虚無感(物語の中でこれらの言葉が、モノローグとして何度か使

われていました)を埋める、濃密な生き甲斐があの世界にはあるからなのです。つまり、

オウム的な心象は、オウムの犯人たちだけが持っていた特殊なものではなく、演劇を愛す

る、彼ら普通の高校生にも、そして一演劇ファンである30代男性・凡人の私自身の心の

中にも、多かれ少なかれ存在しているものなのです。

 コギャルのようにまったりと生きられる人間なら、「牢」のような終わりなき日常の中

でも、そこそこ楽しく生きていけることができるでしょう。しかし、「自意識」がいささ

か過剰気味に存在する私や彼ら「企」の面々は、これから如何に生きていくべきか?現実

に「終末」を引き起こす等という、恐ろしい選択はできず、しかし何か濃密な体験が起き

ないかと渇望する。だからこそ、彼らは「演ずる」という方法で、また、私は「客」とい

う形で、それぞれ「演劇」という手段を選択し、その空虚感を埋めようとしているのでし

ょう。しかし、「演劇」という手段が、彼らや私・それぞれの空虚感を埋められないもの

になってしまった時は?それを考えるのが、とても恐ろしい。そんなことを強く私の心に

引き起こしてくれた、という意味でも、やはり私には本作は傑作に値するのです。

 

[2000年8月12日 23時35分5秒]

 

お名前: 早瀬 俊   

    企旗揚げ公演見に行って参りました。正直言って太田さんは熱演と書いておられますが

私には熱演という演技には見えませんでした。一人一人の演技が中途半端で役作りも中

途半端という印象でした。楽しんで演劇をやることは最も大切なことだと思いますが、

お金をとって見せること(お金を取らなくてもですが)の責任感を感じて芝居を作って

くれることを望みます。とはいえ、サービス精神豊かで観客に楽しんでもらおうという

色々な試みと熱意は十分感じることができました。役者の個性を豊かで好感が持てまし

た。ただ、演出と演技がかみ合っていないのではという面が多く見られ残念です。自由

演技の中に演出の方針というか、統率力というかそういったものを発揮してどんな場面

でもある種の緊張感を出すことが大切だと思います。でなければせっかくの面白いシー

ンも単にダラダラやっているようで見ているほうが飽きてしまいます。演出と役者は仲

よくなることよりも本音でぶつかり合える雰囲気をつくらないといけないのではと思い

ます。芝居のラストは少々くどかったと思います。また、個人的にはありふれた結論だ

ったと思いますが他の皆さんはどうだったでしょうか。

 とにかく、若いエネルギーは感じることができたし今後が楽しみです。頑張って下さ

い。

   [2000年8月12日 10時13分46秒]

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 今年の正月一発目の投稿で、今年の台風の目になりそうな劇団として、企のことを書いたの

ですが、今日の夜の回見てきたんだけど、重いテーマを見事に熱演していて、いやあ、流石で

した。

 感動した部分について書くと、結末のネタばらしになってしまうので、詳細劇評は後日書き

ますが、明日(日付が変わって今日ですね)も昼・夜2回公演あります。少々テンポがダレる

ところもありましたので、テンポ重視のお客さんにはお勧めしませんが、「僕たちはこれから

如何に生きていくべきだろう」というテーマの芝居に関心がある人にはお勧めです。

 もちろん、固い話ばかりだけじゃなくて、笑えるギャグのシーンもありますよ。

 役者では斉藤役の宍戸香奈恵さんがすごい!この人は第2の岩佐絵理ですよ。顔は似てない

けど、声がそっくりなので、目を閉じて声だけ聞いてると、岩佐と区別がつかないよ、きっと。

もちろん、演技の質もシリアスなときの岩佐を彷彿とさせてくれます。

 あと、古沢晋介君の「困らせる人」という場面の一人語りも面白いよ! 

     [2000年8月11日 1時11分45秒]

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宮城教育大学演劇部

「ウォルター・ミティにさよなら」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 僕は宮教大演劇部の芝居が大好きである。どのくらい好きかというと、例えば、もし僕

が誰かにインタビューされたとして(そんなことはないと思うが)、「在仙で太田さんの

好きな劇団はどこですか?」と聞かれたら、「仙台高校と宮教大です。」と答えるくらい

好きである。

 やはり去年の夏公演で、僕は宮教大を高校野球に例え「技術的には劣っていても、それ

を越えたひたむきさ、一生懸命さが見るものの心を打つということは現実にあるんです

よ。」と書いた。たぶん、今回の公演「ウォルター・ミティにさよなら」についても、作

り手の側に身を置いている人から見れば、いろいろと技術的に指摘したいところはたくさ

んあるだろう。しかし、僕には宮教大の芝居は、そういう技術的な欠点を超越した、「す

がすがしさ」とでもいうべきものをオーラとして感じずにはいられないのだ。

 今回の作品は、ラブ・ストーリー、刑事もの、特撮ドラマという3つの無関係な物語が

同時並行的に進行し、最終的には特撮ドラマに一本化され、正義の味方が悪を倒すことに

よって終わるまでをコミカルに描いたものであった。

 ところで、僕のような30代前半世代は、コミカルな勧善懲悪ものというと、「タイム

・ボカン」シリーズが、パッと反芻的に浮かんでくるのだが、ご存じの方もいらっしゃる

と思うが、この手の作品では悪役がいかに魅力的かが重要である。つまり、悪役がマジに

嫌な奴では、シリアスものと区別がつかなくなってしまうわけで、あのマージョ様やボヤ

ッキーみたいに、マヌケで憎めず、むしろ正義の味方を喰ってしまうような面白さがある

と、観客側は大いに楽しめるわけだ。

 今回、僕はBプロを見たのだが、悪の首領・ヘルナイト(また、名前がいいでしょ)役

の高橋愛美さんが、内田春菊ばりの濃〜いお姉さん的キャラクターでよかったのだ。特に

正義の味方に対して見栄をきるところ等、大仰な芝居がさまになっていてよかったなあ。

こういう適材適所な役者がちゃんと部内に存在しているところに、ここの層の厚さを感じ

ずにがいられない。

 また、ヘルナイトとグルになっている連続保険金殺人犯役には、OGの高橋菜穂子さん

が出演していたのだが、やっぱこの人は若手の中ではピカ一な味のある演技をする。去年

の「Perfect Lives」で、ナノという少女から老婆までを同じ舞台上で演じる役をナチュラ

ルに演じていたことに舌を巻いたことは去年の劇評で書いたが、保険金殺人の犯人という

のは、新聞報道などでもわかるとおり、中年以上の人間が犯人であることが多い。だから、

役作りとしては、おばさんである方が自然なわけで、ナノの時におばさん役をとても学生

とは思えないくらい自然に演じていた高橋さんをこの役に持ってきたのは、まさにはまり

役だったわけだ。よく、学生演劇で中年や老人の役を演じている役者に対し、「中年や老

人に見えなかった」と不満を書いている劇評を見かける。僕などは、その辺は観客の側で

ある程度「見立て」をすればいいのではないかと思うし、ドラマ性など他の部分が面白い

と、そちらの魅力でカバーされてしまい、あまり気にならない方なのだが、高橋さんがお

ばさんを演じると、そういう口うるさい観客でもおばさんには見えないとは言えないだろ

う、というレベルの演技を見せてくれるので、とても嬉しい。

 彼女は3月に宮教大を卒業したということで、どこか一般の劇団に入るのかなあ、と思

っていたが、こういうOGという形で演劇部に出続けるという選択の方が、むしろベター

な手段ではないだろうか、と今回の公演を見て思えてきた。今まで、学生演劇時代にはと

ても光った演技をしていたのに、社会人になって一般の劇団に入った途端、その劇団の演

出家が、その人の魅力を引き出せないため伸び悩んでしまっている役者さんを何人か見て

きた。そのような形で「飼い殺し」になるくらいなら、OB、OGも演劇部で活動し続け

るというスタイルの方が、双方にとってメリットになるように思う。それで、OG組があ

る程度人数が増え、現役生に出番に差し障りが出そうになったら、どこかの劇団に入るこ

となく、自分たちで新劇団を旗揚げすればいいのだ。

 さて、アイドル評倶楽部としては、かわいかった女優も一人挙げたいところだが、今回

は人造人間の妹役の藤山明日香さんを推薦したい。飯野和義さんという、村上春樹の「中

国行きのスロウ・ボート」の挿し絵も描いてる、チリチリ頭のかわいい女の子を書くイラ

ストレーターがいるのだが、藤山さんは、そんなイラストから抜け出てきたような感じの

子で、彼女が出てきた途端、アイドル好きの僕が「オー、カワイイじゃん、カワイイじゃ

ん!」と、目をランランと輝かせたことはいうまでもない。それでまた、顔が若い頃の山

口智子みたいなんだよなあ。今回は脇役で、あまり出番が多くなかったのが残念だったけ

ど、こういう子が「アニー」とか「オズの魔法使い」みたいなミュージカルの主役を演じ

たら絶対はまりますぜ。

 ところで、今回の芝居であえて苦言を呈するとすれば、クライマックスで悪役が貯水池

に毒薬を投げ込もうとするところで、主人公組と悪役で毒薬の争奪戦が展開するのだが、

この場面の間が悪くて、緊迫感に欠けてしまっていたところだけは、何とかしてほしかっ

た。例えば、サイマルのように「疾走する演劇」を目指すあまり、どんなシーンでも早口

でしゃべってしまい、せかせかと落ち着かない芝居をしてしまうのも問題だが(いつもと

は限らないが、時としてそうなる傾向がサイマルにはある)、やはり物語の一番の山場で

変に間が空いた芝居をしてはいけない。そういう意味では、去年の「Perfect Lives」での、

クライマックスに向けてグングン盛り上げていく柴田哲行君の演出は見事だった。彼のこ

とをいろいろいう人も以前いたが、今回の演出をみてしまうと、やはり柴田君の演出が懐

かしく感じられてしまう。ぜひ次の秋公演では、彼に再度演出のチャンスを与えてほしい、

と思わずにはいられなかったのだが、どんなもんだろう?

 蛇足。今回、平日公演ということもあり、Bプロしかみられなかったのだが、Aプロで

は、去年「天使は瞳を閉じて」で天子役を演じ、僕が絶賛した吉田みどりさんがヘルナイ

ト役を演じたそうだ。Aプロを見に行った佐々木久善さんに「吉田さんどうでした?」と

電話で聞いたところ、「いやあ、かわいいし、なんか変だし、面白い子ですねえ。」との

こと。チクショー、見たかったなあ!

[2000年8月10日 23時32分40秒]

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第29回宮一女演劇部単独公演

「たおやかな偏光」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 皆さんご存じの通り、私は最近、高校演劇にすっかりはまっています。それと同時に、

アイドル評倶楽部を名乗っていることからもおわかりかと思いますが、かわいい女優さん

が出そうな芝居にもまた、目がない人間です。そんな私が、その2条件を兼ね備えている

一女高演劇部が単独公演をすると聞いては、見に行かないわけにはいかない。そんなわけ

で、さる8月9日(水)、仙台市民会館へ足を運んだのでした。

 登場人物は4人姉妹と彼女たちの主治医、看護婦。胃潰瘍で入院していた長女が退院し、

自宅でお祝いのパーティを開こうというところから物語は始まります。この4人姉妹の両

親はともに癌で死んでいるため、4人は自分たちも癌で死ぬのではないか、という漠然と

した不安を感じています。しかも、長女は実業家、次女は女優、三女は売れっ子漫画家、

とそれぞれストレスのたまる仕事を抱えているためか、無類の酒好き。そんな中、看護婦

が持ってきた、この家の飼い犬のレントゲン写真から(実はこの犬が癌に犯されているの

だが)、実は4人のうちの誰かが癌ではないか、という疑惑が巻き起こり、勘違いが勘違

いを生みドタバタが展開する、というコメディー的作品でした。

 役者の演技については、まあ、先に書いた宮教大や企と同様、厳しい視点でご覧になる

方にとっては不満を感じさせる内容かもしれませんが、私のような、「かわいい女子高生

が一生懸命頑張ってる!」というだけで嬉しくなってしまう人間にとっては、充分すぎる

ほど楽しめるものでした。そうはいっても、同じ女子校でも以前に書いた三女高の三年生

サヨナラ公演に比べると、役者のセリフ回しが一本調子で、また、感情の出し方がやや大

げさかな、という部分はありましたけどね。ただ、この物語が4人姉妹を主人公としてお

り、また、笑いをとろうとしている作品であることから、チェーホフの「三人姉妹」やオ

ルコットの「若草物語」のパロディー的要素を持っていることも事実で、喜怒哀楽を過剰

に出した、いわゆる「演劇的」しゃべり方が、これら昔ながらの新劇的芝居をパロってる

ように見えるという点では、彼女たちの、少々大仰で臭いようなセリフ回しは、ケガの功

名かもしれませんが、いい方向に作用していたと思います。

 役者では、三女の漫画家役の伊藤智美さんが秀逸。まんまるの眼鏡をかけ、やせぎすで

髪型やファッションに無関心そうな雰囲気が、いかにも「やおい系マンガ家」的としての

役作りを見事に出していました。パンフによると、「この人が考えることがさっぱりわか

らない!」(本人談)と、役作りにだいぶ苦労されたように書かれていますが、どうして

どうして、一番役にはまっているように、こちら観客側からは感じられましたよ。

 また、対称的に元気のいい次女役の松原恵理子さんも熱演。この次女と三女が正反対の

ような雰囲気のため、二人が絡むシーンがとても面白かったです。

 秋のコンクール、この2人に特にチェックを入れて、また見に行こうと思っています。

 

[2000年8月13日 1時44分19秒]

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最近感じている事 

お名前: 近江 俊彦   

 

最近見た作品について、色々と考えさせられる事が多かったので、まとめてみます。

 

劇団鳥の庭園「奇妙な果実」

この芝居について語る場合、まず身体表現が持つ表現の多様性について述べなければ

ならないと思います。

それは、人の体が持つ表現の多様性と読み替えるべきことのように思います。また、

日常のしぐさと非日常の表現との境界についても明確にしていかなければなりません。

身体表現について考えてみたいと思います。

(1) 体の動き

1生活のための日常の動作(移動のために歩く、食べる)

2 スポーツとしての動作(体を動かすことそのものに意味がある動作)

3 ダンスとしての動作(意味を求めて体を動かす動作)

(2) 表情(顔も体も)

1 精神的要素(喜怒哀楽)による表情

2 肉体的要素(苦痛、快感)による表情

(3) 声

1 会話

2 歌

3 声(言葉による意味またはリズムおよびメロディによる音楽性を持たないもの)

(4) 音

1 音楽的な音(拍手・足踏みによるリズム)

2 非音楽的なもの(ぶつかる、ぶつける等の突発音)

 

これら、体から発する要素のどれを使用してもしなくても、結果的に鑑賞者にとって

最大限の劇的効果をあげられれば良いわけです。その表現要素のなかからすべてを自

分で選択し組み合わせ磨き上げ表現していくわけです。

舞踏による表現は、言葉による意味性を極力排除し、身体の動きによる意味性をつよ

く感じさせるものだと思います。上記の例でいえば、(2)を強く意識した表現だと

思います。

言語を代表とする記号を媒介とする表現には、具体的であるだけに受け取り側の主体

性(受け取り側の経験や環境が言語の意味を理解する基準になるだけに、それだけに

表現者にとって表現効果の曖昧性を残すことになりますが)にゆだねるしかない表現

者側のもどかしさを残した表現のアプローチになってしまうと思います。それに対し、

たとえば、赤ちゃんを見てかわいいと感じるような共通性のある感性そのものに訴え

かける直接的な表現手法を用いて訴えかけていくのが舞踏の表現の基本だと思います。

 

鳥の庭園の表現は、この雄弁な身体表現を最大の武器に、脚本、ストーリー、音楽、

舞台効果を味付けとして構成された時間表現だと感じました。

その意味では、

・ 役者の身体表現のレベルが高いことと揃っていること

・ ストーリー性が舞踏の持つ表現の自由度を妨げないことと役者の個性を生かす内容

・ であること

・ 台詞のシーンと舞踏のシーンの境目が不自然にならないこと

・ 舞台の展開が舞踏空間を妨げないこと(むしろ生かすような空間を作ること)

・ 音楽は、舞踏に色付けをしない内容でありながら、シーンに負けない強さを持つこと

などが、要求される表現手法だと思います。

 

「奇妙な果実」は、姉弟の生死を挟んだ葛藤を元に、それぞれの人生の出来事や愛憎を

浮き彫りにしつつそれらの感情すべてを昇華させていくまでを描いたストーリーです。

この表現の中で台詞の持つ意味はあまり重要ではなく、狂言回しのような役割を与えら

れていたと思います。シーンそのものの説明というよりは芝居全体をつなぐ鎖のような

役割をになわせられていたように思います。

それに対し、舞台装置と舞踏表現はいくつものイメージを自在に出現させ積み重ねてい

く事で、観る側のなかにイメージを並列に置いて行き、華麗かつ荘厳な大仕掛けのラス

トで、全ての意味をしみわたるように納得させられてしまう構成になっていました。

この構成の中で、上記の要求される舞台の要素がちゃんとしたレベルで表されていたか

を考えてみたいと思います。

 

この中で文句無しの松ランクに挙げたいのが、音楽の確かさだったと思います。シーン

毎の音/音楽が実にシーンに合っていて効果は絶大だと思いました。芝居に合わせてあ

らかた作ったのかなと思っていたら、全て既製品の合成とつなぎだけだということで、

大変びっくりしました。

次に,竹ランクは、ストーリーと演出(細かい意味での)かな。表現方法を、これらに

は、あまり頼らない表現方法であれば、普通で充分ってなところですか。

で、梅ランクは役者のレベルと、レベルが揃っているかというところですが、舞踏家と

してみるとやはり、多分に不満が残ります。まあ、みなさんまだ若いですから、まだま

だこれからでしょうね。舞踏の表現は、個人的には20年以上稽古に明け暮れしないと、

指先から炎が涌き出てくるような感じは出せないと思っています。これについては、当

方あと20年は待つ覚悟は出来てます。

そしてもう一つ梅ランク(であり松でもあるんですけどここは一つ辛口に徹します)な

のが、舞台装置ですね。舞踏のためにはやや動きづらそうでした。舞踏には、この"や

や"が実は大きく表現を阻害する要因となってしまうと思うので、この点は改善の余地

が有るように思いました。

 

全体を通して少々気になったのが、舞台全体の縮尺が少し小さいように感じました。実

際舞台装置を構成する上で色々と問題は有るのかもしてませんが、舞台装置それぞれの

サイズは適正に見えるにもかかわらず、その周囲の空間がやや狭く感じました。感覚の

問題といわれればそれまでですが、ちょっと、もったいない気がしました。

 

とはいえ、このような志高く、表現を追い求める劇団が仙台に在るのは、ちょっと奇跡

的な気がしました。いやー出会えて良かった。演劇については、どうしても表現として

の曖昧さが付きもののように考えていたのですが、この劇団の在り様が示すように、曖

昧性を削ぎ落とした、厳しい表現も可能なんだと再認識させられました。

 

 

このように演劇の可能性を前提としてそれ以外の公演について考えてみると、もっとも

不満感が高かったのが、

 

演劇集団Lada・Trossoの「SAMBO?」でした。

ちび黒サンボの問題は、確かに話題性はあるかもしれませんが、表現者として考えてみ

るとこの程度の問題は、表に出ないだけでざらにある話だと思います。もともとその程

度のテーマをことさら一回の公演のサイズにひきのばしたものですから、何を言いたい

のか、何が問題なのか、または、演劇によって表現されるべきものは何なのかが、まっ

たく希薄になってしまったように思います。そのためか、終了してもしばらくは「もう

終わり?」ってな感じが強く残りました。

このような、脚本も、演出も、役者もそれぞれ力量を感じさせられる劇団ですから、こ

じんまりとまとまることは考えず、この劇団でしかできない表現とその可能性を押し広

げていくような活動を望みたいと思います。

 

 

逆に、圧倒的な才能と可能性を見せつけてくれたのが、

 

プロジェクト・ナインゲージの「ストロベリーフィールズフォーエバー」です。

会話のセンスといいテンポのよい展開といい、大変面白いもので、エンターテイン

ントとしての演劇表現においてすでに完成の域に達している部分も感じられました。ただ、

いかんせん発表の場も狭いギャラリーでしたし、舞台装置、設備等も劇団としての全力を

出しきったものとは言いがたいと思います。また、恋愛をテーマにしていますが、これに

ついても経験不足で、本質が分かっていないなーという感じが強く残りました。この劇団

も、今後色々な経験を積み重ねながら成長し、10年後、20年後とそれぞれ現在とは異

なる作品を生み出し、この劇団があらゆる意味で全力を出しきった芝居を観てみたい!心

からそう願わずにはいられません。

確かに、仙台では(日本ではと言い換えてもよろしい)表現者が活動して行くためのサポ

ートといったものがほとんど皆無であり、全ては表現者の自由活動に任せるといった、結

果的に、放任であり、無視であり、ひどい場合は人生の落伍者的な扱いを受ける事もしば

しばであるといったマイナス要因のほうが多い環境であるわけです。そのため、表現者と

してよほどの覚悟が無いと、活動を続ける意味が感じられなくなってしまい、このような

圧倒的な才能を握りつぶしてしまうといったことが、結構多く見うけられるのが現状です。

演劇関係者が、状況に対して何を求めているのかは良く分かりませんが、芝居に足を運ぶ。

観た芝居に関しては感じた事をなるべく言葉にして、あちこちで語り合う。こういった、

地道なところから、一歩一歩裾野を広げて行く必要が有るんじゃ無いかな?と思います。

 

 

新月列車の「彼女の場合」も、

 

もしもしガシャーンプロデュースの「ふにふに王国」

についても、上記作品と同じ事を感じました。細かいことを指摘して行ったらそれこそ不

満は山ほどありますが、大きく言えば、人生経験不足、金をかけていない、大きな可能性

を感じる。そういった事です。どちらにしろ、劇団の可能性を信じて、多くの公演をこな

しながら色々な経験をして深みを増して行って欲しいものです。そして、その能力を全開

にした作品を発表して欲しいと思います。

 

1回ごとの公演で、御手伝いできる事は何もありませんが、極力、拝見し、意見を述べつ

づけて行きたいと考えています。

[2000年8月6日 22時38分51秒]

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鳥の庭園「奇妙な果実」

お名前: 井伏銀太郎   

 

 鳥の庭園は「チキータ・チータ」以来の観劇だから、野外での公演は初めてになる。

今回は、空、水、風など野外特有の表現で見ごたえの有る舞台となっていた。

鳥の庭園が野外にこだわって来た理由が分かった。

人間の持つ匂いや、エロス、人と人との間で起こる風のようなものさえ感じさせる

舞台だった。

姉と弟の近親愛を中心に、男同士、女同士のエロス的関係性。

セリフを極力少なくして、肉体での表現に重点を置いていた。

特に人形を抱いた二人の女のパフォーマンスが良かった。

人形を抱いた二人の女が現れる、舞台は水で満たされて来る。

二人の影が水面に映り美しかった。子どものように大切にしていた人形を水に沈めて、

二人は目隠しをして絡み合う、やがて人形を沈めたようにもう一人を沈める。

二人のバランスが良かった、どちらかというと中性的な魅力の西瓜と、女性的なラインの

かたつむり。女同士のようにも見え、時には男女の絡みのようにも見えた。

 

最後は反射鏡が開くと空中でブランコに乗った姉と弟が現れる。野外ならではの表現だ。

 

今回特に感じたのは客演の升孝一郎と、かたつむりが、他の俳優達と遜色が無く踊っていた

ことだ。升孝一郎のダンスは初めてだったが、よく訓練されていたと思う。

かたつむりは、いままでどちらかというと、女性的な役が無かった、女性をやったのは

初めてと本人が言っていた。戯画的な演技が多かったが、今回は女性のエロスを表現して

いたと思う。

役者達の新しい魅力を引きだした演出に拍手を送りたい。

 [2000年7月30日 13時44分0秒]

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仙台高校演劇部公演「M.O+」 

お名前: 太田 憲賢   

 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢   

 

昨年、僕の個人的年間ベスト10で堂々の第1位に認定した仙台高校演劇部ですが、去

年の2年生が受験のために引退し、新2年生が主メンバーとなっての今回の第1作、果た

してどれだけの成果を見せてくれるか、期待と不安を胸に見に行きました。結論から先に

言えば、若干課題は残ったものの、今度の新メンバーも、なかなかいい芝居を見せてくれ、

秋のコンクール上位入賞の有力校になるだろう、という期待を充分に抱かせたのでした。

 今回の「M.O+」という作品は、もともとは2つの別の作品を1つにドッキングさせ

たものだそうで、1つは交通事故で意識不明の重体となった少女の心の中に同居していた、

4体の霊が、事故をきっかけに他の人間にとりつきはじめる、というホラーもの。もう1

つは、あだち充の「みゆき」のような、両親を亡くし2人で同居している、実は血のつな

がっていない兄妹と、兄の勤め先(シックなバー)に現れた謎の美女との三角関係を描い

た恋愛もの。この2つのストーリーが、微妙に双方に影響を及ぼしあうドラマティックな

展開で、1時間半、最後まで飽きさせずに楽しませてくれました。

 ところで、僕が昨年の「今夜の君は素敵だよ」で、登場人物の心の中の空虚感や孤独感

に涙した、と書きましたが、今回の「M.O+」も、交通事故にあった少女は天涯孤独の

身の上で、孤独感から幽霊を自分の体の中に複数住まわせていた、という設定。そのため、

事故により彼女の体から出てきた霊たちは、やはり心の中に「マイナス感情」を持つ人達

にとりついていきます。僕はこのストーリーを見ながら、これって人類補完計画みたいだ

な、と思わずにはいられませんでした。欠けた心をもつもの同士が、お互いの欠けた部分

を埋め合っていこうという人類補完計画と、マイナス感情を持つ者同士が、お互いの心の

中に共存しようという本作。酒鬼薔薇−ネオ麦世代ならではの視点なのかなあ。でも、こ

ういう心の問題にストレートに取り組んだ作品が書けるのも、自由な校風の仙台高校なら

ではなんでしょうね。「清く、正しく、美しく」といった道徳的視点から自由でいられて、

余計なバイアスに影響されず、心の問題を正直に出してくる仙台高校のお芝居が、僕はと

ても好きです。このテーマは、実際30代の僕あたりにまで共感できるものですからね。

 個々の役者評に移ります。主役の医師役の佐藤隆一君。主役に抜擢されただけのことは

あり、なかなかのダンディーな印象でしたが、初舞台がいきなり主役というせいもあって

緊張したのか、セリフが早口で、しかもゴニョゴニョと聞き取りづらかったのが残念。去

年の劇評にも書いたけど、コンクールの審査員って、減点法的視点で見てる人が多いよう

だから、いくらストーリーやテーマで泣かせても、主役のセリフ回しが悪いとなると、減

点の対象になる危険性、大いに高しです。その点、去年のコンクールで、あの石川裕人氏

も絶賛し、僕も去年の最優秀男優にノミネートした貝山雅史君が、今回は音響に回ってい

たのが、ちょっと残念でした。ぜひ、コンクールでは、あの不思議感覚のお芝居を、また

見せてほしいものです。

 一方の女優陣ですが、三角関係の当事者2人、謎の美女(大人のお姉さん)役の多田麻

美さんと、カワユイ妹役の高橋絵理子さんは、昨年の「天使は瞳を閉じて」でも既に出演

しているキャリアからか、2人とも堂々の好演でした。はい、ここで「アイドル」・渡部

なちゅさんからも御好評いただきました、仙台アイドル評倶楽部・本作のMVP発表で

す!(なちゅさん、劇団名間違えてスミマセンでした)。今回は、大人のお姉さん役の多

田麻美さんで、決まりですね!。バーに一人で、けだるそ〜にお酒を飲んでいる役なんだ

けど、高校生に見えないのよ!ほんと、大人の女だー!、って感じで。国分町のバーあた

りで、多田さんがカウンターに腰掛けていたら、絶対20代前半のお姉さま、ってみんな

誤解するね。世の男性諸氏は、国分町でキャミソールにウエーブかかったロングヘアーの

お姉さんを見かけても、高校生かもしれないので、うっかりナンパしないよーに!(そも

そも、高校生が国分町のバーにはいないか・・・)。しかも見た目が大人っぽいだけじゃ

なくて、下がりかかったキャミソールのひもをさりげなく戻す演技とかが、すごくシック

でカックイイ演技なんですよ。しかもしかも、なんと三角関係の相手の男の子とのキスシ

ーンまであるんですよ!おいおい、高校演劇でそこまでやるかよ!、やってくれるなー、

仙台高校!と、見てるこっちの方が大いに狼狽してしまったのですが、なぜか二人がキス

しようとすると、シャキーンという謎の金属音がして、できないんですねえ(少しホッ?)。

実はお姉さんにとりついていた霊が、男の子の母親のものだったという驚愕の事実が明ら

かになるわけです(「みゆき」というより、大映ドラマだね、こりゃ)。

 一方の、実は血のつながっていなかった妹役の高橋絵理子さんは、ヒロスエとか田中麗

奈を連想させるショートカットが似合う、こちらは文字通りのカワユイ系。しかし、多田

さんと高橋さんが絡むシーンを見てると、君たちホントに同い年?本当は10歳ぐらい年

離れてない?という疑問を持たずにはいられないのでした。

 もう一人、面白かった人。看護婦役の早坂淳子さん。初出演にもかかわらず、突然キョ

エーッ??っと奇声を発したり、あるいは突然病院の中でリハビリダンス、と称する謎の

踊りを始めたり、とコミカルな三の線ぶりが見事見事!層の厚い高校では、必ず1人は、

こういう笑かしてくれる役者さんがでてくるんだよねー。彼女も初出演のためか、主人公

の佐藤君との絡みのシーンでは、彼に影響されて、早口ゴニョゴニョになっていたところ

に改善の余地ありだけど、その欠点を補って余りある面白さでした。ぜひ、秋のコンクー

ルでも三の線で登場し、大いに観客を笑いの渦に巻き込んでほしいものです。

 

[2000年7月27日 22時34分52秒]

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衝劇祭を振り返って。 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 今回の衝劇祭は、三角フラスコ、Gecka−Bizin以外すべて観劇した。

全部観たかったが、週末の早い時間都合をつけられない場合この2劇団は、7時過ぎのソワレ

公演が無かったので、今後は週末休めない観客のための時間設定を期待したい。

 すでに劇評に書いた劇団も有るので、繰り返しにならないように書きたいと思う。

 

Lada Trosso「Sambo」 サイマル演劇団の「昭和枯れすすき」

 

「Sambo」は表現として作家の目指す「さわれる演劇」に近づけた公演だと思った。演劇を

ストーリーではなく構造で見せる手法によって、より俳優達の肉体が浮かび上がった公演だと

思った。

他の仙台の劇団や、他地域の演劇人とも、ワークショップから作り上げた良さが出てたと思う。

ただパントマイムや独白はダイナミズムを感じたが、サンボの朗読会を邪魔される、リアルな

会話になると、やや、会話のやりとりが不自然に感じた。遊びとしてのお芝居と、リアルな

会話のバランスが重要になってくるだろう。

 サイマル演劇団の「昭和枯れすすき」もLada Trosso同様、自分たちの演劇的コンセプトで

ある「役者の背骨が唄い始める芝居」に近づけた芝居と思った。

舞台は唐十郎のDNAそのままという構成だったが、役者の科白の一つ一つが、浪漫を引きずっ

ていて、灼熱の稽古場で、役者が床に溜まるぐらい汗を垂らしながらの公演は、アンダーグラ

ウンドの匂いが立ちこめていた。

以前はどちらかというと、物語性に役者が引きずられていた観が有ったが。今回は逆で役者が

物語を出現させていた。Lada Trossoもサイマル演劇団も今後の転機になるような作品に感

じた。

 

 俳優組合MANKAI-DO! プロデュース実験室 壱「マシーン」って何だ?

 

観客にとっても、出演者にとっても、その人の演劇的教養や感性がためされている公演に感じ

た。見る人によってかなり賛否が分かれた公演ではあるし、出演者も自分から演じていた俳優

と、動かされていたように感じる俳優に別れていたように感じた。

一番感じたことは、このような作品を、シアタームーブメントで出来無いかということだった

 もはや、東京から演劇人をお金をかけて呼んでくる時代は終わったと思ってる。俳優達も

ベテランは、シアタームーブメントの出演者と重なっていた人もいるし、構成も共同で

前回シアタームーブメントの作家なかじょうのぶさんがしていた。

東京から人を呼んでこなくても十分出来るのだ。

ベテラン俳優達は、去年のシアタームーブメントのよく分からない全国オーディションで

選ばれたというの俳優達と比べても、全体的に素晴らしいものでした。

企画と俳優を決めて、その中から、演出を選んでいくという方法も有るのではないだろうか。

 

OH夢来'S カフエクラブ夢喰豚(ばく)第二章『誕生祭』

 

市民ミュージカルの仲間で旗揚げした集団だが、東京にメンバーが修業に出たりしていて、

10年間積み重ねてきた技術を一気に開化させた様な舞台だった。

なかなかミュージカルが根づかない仙台だが、歌も踊りも長年の訓練が読みとれた。

各地での公演などの、自信がうかがえた。

しかし女優陣に比べて、男優が客演が多かったためかやや、歌や踊りに差が感じられた。

物語が、誕生日を祝ってもらえなかった少女の夢というものだった、確かに大人たちの悲哀も

描かれていたが、私は東京キッドなどのミュージカルを見て育っているので、次回は、俳優の

同年代の視点から書かれたの大人の物語が見たい。

 

劇団ピアス第10回公演 「ドレス」

 

今回は前作に続き渡邊一功の作だった。

前回同様物語は、ある失踪した夫を調査を依頼された探偵が、調査していくうちに、自分たちの

夫婦関係が浮き彫りになっていくという構造でした。(前回は記者が調査した)

構造的でよく出来た作品だった、しかし今回は演出的なセンスは各所に見受けられたが、前回と

比べると、渡辺ケンや奈尾真が出演していなかったせいか、物語のリアリティには俳優の年齢が

たりなかったように感じた。中鉢大や久慈貴子は好演していたが、自分の人生に不安を

持つ中年には若すぎたように見えた。

 しかし次回は初のオリジナルに挑戦すると言っていたので俳優と役柄のずれは感じないだろう。

舞台美術は、舞台を半円形にして、うしろをホリゾントにしたデザインは、時間経過などがよく

分かり 面白かったが、ベニヤにただ色を塗っただけの本棚を兼ねるカウンターや青いドアが

あまりにも浮いていた。俳優が開けるたびがたつくドアは物語も邪魔するようだった。

俳優にいっさい大げさなよけいな動きをさせない現代的な演出は、仙台でも例を見ないほど

センスがいいのだから、スタッフ的なバランスをもっと考えてほしい。

若い俳優達の中にも将来性を感じさせる俳優が多かったので次回を楽しみにしている。

 

劇団次世代隔差『 P−Bridge 〜ストックホルムの朝に〜』

 

今回参加劇団の中で唯一旗揚げ劇団だった。

旗揚げでこのような演劇祭に参加するのは勇気が入ったことと思うが、作品的には若さを感じ

させながらも、構造的に分かりやすい作品だった。

笑いを誘いながらも最後はしんみりさせるというものを目指してるように感じた。

作演出を兼ねる 添田武志や、櫻井真美など旗揚げにしては芸達者な俳優だった。

 

全体を通じて、招待劇団の充実はもちろん、各劇団転機になるような公演が多かった演劇祭に

感じられた。

[2000年8月2日 17時30分51秒]

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劇団次世代隔差Pーbridge

お名前: 仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢   

 

 開演前、本作のアンケートを見たところ、「一番気に入った役は誰ですか?」

(「一番好き」だったかなあ?、アンケート提出しちゃったんで記憶が今ひとつはっ

きりしないんだけど)という項目がありました。こういう項目の質問を作るというこ

とは、本作の登場人物の6人それぞれに人間ドラマが作ってありますよ、6人の持つ

ドラマ性や性格設定はそれぞれ別々で個性的なものですよ、という劇団側のメッセー

ジだと理解したんですが、「仙台アイドル評倶楽部」としては、ご期待通り!6人中

2人の女性のどちらかを選ばせていただきました。では、どちらか?

 2人の性格づけは、確かに劇団側が意図しているな、とわかるほどハッキリと対照

的でした。片や、結婚直前で陽気に浮かれている、少々天然ボケのはいったウェイト

レス・アスカ。もう一方は、29歳で周りの友人がみな結婚していき、やさぐれた雰

囲気のキョウコ。アイドル評倶楽部なんだから、当然アスカの方を選ぶだろう、と思

うでしょう?でも、違うんだなあ。僕はアイドルという言葉を便宜上使ってはいます

が、要は僕にとって惹かれる要素を持った女優を高く評価しているわけで、それが大

人のお姉さまの魅力であっても、全然差し支えないわけです。というわけで、今回の

MVPはキョウコ役の櫻井真美さんの圧勝でーす!

 なんでかっていうとね、出演する女優に対して、どれだけ「濃い」ものを感じられ

るか(別の言葉で言えば、「個性」かな?)が、僕の好きな女優に対する基準だった

りするわけですよ。やっぱり、わざわざ劇場まで足を運ぶからには、そのリスクに値

するだけのテンションを役者から感じたいよね。それでいくと、アスカという役柄

は、確かにかわいい。天然ボケも面白い。でも、天然ボケというランクからいくと、

例えば宮教大の笹本愛とか、仙台高校の早坂淳子とかに見られるような、独特のテン

ションの高さ、こいつ本当に天然じゃないか?と思わせるような危うさが、今回の濱

口幸さんにはないんだよね。誤解のないように釈明するけど、彼女が別に下手と言っ

てるわけではありません。むしろ、新人とは思えないほど、ソツなくこなしてはいま

した。

 ただ、マスターが長期で外出しているため、店を任されているウエイトレス役とも

なれば、あまりに非常識なボケは役柄上無理があるし(ある程度常識的部分がないと

店なんかやっていけないもんね)、また、彼女のボケは天然という部分よりも、まも

なく結婚を迎えて舞い上がっているという部分も加味されています。そうなると、演

劇を見る、という行為をする観客というのは、心の中にある種の満たされなさを持

ち、それを一時的に埋め合わせるために劇場に足を運ぶという要素もあるわけだか

ら、幸せいっぱいそうな登場人物を見ても、ケッ!というひがみ根性の方が先に立っ

て、感情移入の方向に動かないわけです。

 一方の、キョウコ。これはいいですよ。どこがいいかといえば、その屈折しまくっ

たところが、ひねくれた観客たるこちらの琴線をふるわせてくれるので、いいんです

よ(笑)。29歳で周りの友人で独身なのは自分を含めて残すところあと二人。今日

も友人の結婚式の帰りで、思いっきりやさぐれた表情で喫茶店の椅子に腰を下ろす。

携帯電話禁止の店にもかかわらず、あてつけがましく大声で電話。注意されると、今

度は後から入ってきたサラリーマンの携帯をわざとらしくヒステリックに注意。な

んって、イヤな性格なんだろう(笑)!でも、そのイヤさがコミカルに演じられてい

ることによって、不快感にまで至らず、逆に、そういう気持ちわかるなあ、人間って

そんな聖人君子みたいには生きられないよね、と共感の方向にまで持ってくる演技

力。

 もちろん、共感・感情移入という意味では、キョウコのヒネクレに自分のヒネクレ

が強くシンクロはしたのですが、でも、感情移入というなら、他に4人男優が出てい

るのだから、むしろ同じ性別の男優の方に共感する部分が多くなるのではないか?と

言う疑問が出てくると思いますけど、ここで、感情移入にプラスして異性に対するあ

こがれ、という要素が出てくるわけですね。もちろん、その部分でも櫻井真美さんは

合格!でした。結婚式の帰りということもあって、黒いサマードレスでの登場だった

んだけれども、それがまたシックに似合っていて、ああ、格好いい大人の女!という

感じで素敵だったんですよ。やさぐれた表情がまた、愁いを帯びていて、10代の子

には出せない味わいとなっていたしね。佐々木久善さんは、下で丹野久美子の若い

頃、と比喩していますが、僕は若い頃の中島みゆき、とまでいっていいんじゃないか

と思ったね。そのやさぐれ感が彼女の持つ歌と共振しているところからいってもね。

 だから、物語の結末で、彼女にも結婚相手が見つかってハッピーエンドに終わる、

というもって生き方は今ひとつ納得いかなかった。20代後半ともなると、世の中が

ある程度見えてくるわけだから、結婚することが、必然的に幸せにつながるとはいえ

ないことも、わかっているはずなんだよね。物語の途中で、写真家になりたいけれど

家族に家業の医者になれと圧力をかけられて苦しんでいる少年が中心になる場面があ

るんだけれど、その時彼女を含めた登場人物達は「周りがどう言ったって関係ない

じゃない。自分自身の問題でしょ。」と言って彼を励ますんですよ。でも、それを彼

女にそのまま当てはめるならば、「周りがみんな結婚したって関係ないでしょ。自分

自身が幸せになれるかどうかが問題なんだから。」という返し方もできるわけ。ま

た、彼女が心の中に欠落感を抱えていて、それを埋めるために結婚という願望を持っ

ているというのであれば、見つかったお相手が医者ということで大喜びするというの

は安直でしょう。そういう「三高」的単純な価値観で満足しない屈折を持っていてこ

そ、彼女の人物像に深みが出るわけだから。

 長くなるから、他の登場人物については書かないけれど、物語をハッピーエンドに

持っていきたいがために、それぞれの登場人物にやや安直な幸せを与えているんじゃ

ないかなあ、という不満は少々感じました。これに関して反論するなら、例えば国民

的人気を得た映画に「男はつらいよ」というのがありますよね。あの中で、寅さんは

毎回マドンナに振られるんだけど、だからといってひどく陰惨な話になっているとは

いえないでしょう。例えば、この物語が連作になったとして、キョウコがいつも喫茶

店の片隅に腰をかけて、「まーたふられちゃったのよねえ、マスター。」なんて、サ

イトーに声をかけているシーンなんて、ちょっと味があっていいんじゃないかなあ、

なんて頭に浮かんでくるわけよ。何でもかんでもほのぼのハッピーエンドに持ってい

けばいい、とは必ずしもいえない。むしろ、適度に幸せ、適度に不幸ぐらいの方が、

観客の実生活にもシンクロして、ああ、共感できるなあ、となるケースだってある。

まあ、底抜けのハッピーエンドで感動させる物語もあるから、一概には言えませんけ

どね。ただ、本作に関しては、はじめにハッピーエンドありき、という結論が強すぎ

て、いささかリアル感がかけてしまったきらいはあるんじゃないかなあ、とは思いま

した。

でも、前半のギャグの応酬、ドタバタにはセンスの良さを感じたので(後半の「いい

話」になってからは、少々臭くなったかな)、次回以降はコメディー重視の中に、

さりげなくテーマを埋め込むようにできるといいな、と思いました。大河原のミモザも、

以前は説教臭かった部分があったけど、そういうワザを身につけるようになりました

からねえ。

次世代さんだって、頑張ればできると思いますよ。御健闘をお祈りしております。

  [2000年7月31日 11時38分39秒]

お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木久善   

 

 私はこの劇団を心待ちにしていた。

 今年の始め、劇団永字八法の公演の時に折り込まれたチラシで旗揚げを知って以来、

ワクワクして待っていた。そしてその期待は一部満たされまた一部裏切られた。

 私の期待とはどのようなものだったのか。

 とにかくおバカな芝居を観たかった。ベタベタのギャグがいたるところで発射され、

オイオイいい加減にしてくれヨ!とニタニタしてしまう、そんな芝居だ。

 前述のチラシにはそれを期待させるものが確かにあった。

 だが実際はそんなもんじゃなかったのだ。

 確かにオイオイというギャグは随所にちりばめられ、ニタニタはできたさ。

でもコイツらの目指しているものってもっともっと上のものだった。

 開幕一番、『踊る大捜査線』のティンパニーどんどんというBGMに乗って強盗が

はじまると同時にぐいぐいと芝居に引き込まれてしまう。イヤーいいね!こういう出だしって。

 その後、舞台はビルの地下にある喫茶店に移り、物語はそこで進行してゆくことに

なるのだが、そこに集まるキャラクターがとにかく面白い。

 結婚式を二日後に控えたこの店のアルバイト・アスカ(濱口幸)。

この人の天然ボケの演技は絶品である。

 その先輩で広告代理店勤務のセージ(添田武志)。

この人は見た目にチョット恐い。でも人のいいところもあるという感じが上手く出ていて

なかなか面白い。

 29歳(この歳をごまかすところのやりとりが面白い)の崖っ淵の女・キョウコ(櫻井真美)。

 このひとのビンタを見るだけでも芝居に行く価値がある。どんな人かといえば、

丹野久美子さんの若い頃という感じの人である。

 ナゾの少年・アキラ(清野直貴)。この人のことを説明しちゃうと物語をバラすことに

なるので、詳しくは書かないが、台詞の少ない分だけ後半のキレぐあいが印象的ですネ。

 銀行強盗の若者・ナオト(大宮司公明)。同じくおじさん・サイトー(宮本良平)。

 この二人は本当に面白い。でこぼこコンビという感じではあるが、時にはホロッとさせ

てくれる。

 ちょっと人の紹介で時間をかけ過ぎてしまいました。

 こんな人たちが本当に芝居って感じのドラマを見せてくれます。

少し最後に上手にまとまり過ぎてしまっているという感じもするけれど、

まず、旗揚げとしてはいい感じではないだろうか。

 次はもっと毒のある芝居を見せてください。

  [2000年7月30日 11時54分6秒]


青葉玩具店「BLANK」

お名前: 井伏銀太郎   

 

 青葉玩具店は去年の仙台演劇ベスト3でも書いたのだが、非常に可能性を感じさせる

劇団だ。今回は「LIFE for LIFE」に引き続き2回目の観劇となった。

 

 芝居の本編の前に、前説をミニFMのDJ風にやったり、カーテンコールの後、

次回作の予告編を上演したり新しい感覚が随所に盛り込まれている。

 

 どこがいいかというと、役者のバランスがいい。舞台美術、音響、照明のバランスが

いい。非常に演劇が分かった連中が作っているのだ。舞台の役者一人一人から、演劇に

かける情熱というものが伝わってくる。舞台も長い暗転が無く、テンポよくシーンが

積み重なっており、役者の動きもスピーディーで、面白いギャグもあちこちにちり

ばめられており、エンターティメントとして飽きることなく楽しめる。

何より舞台が終わった後、感動して、声を出して泣いている女性もいたくらいだ。

仙台の若手劇団の中でもっとも総合力のある劇団のひとつだと思う。

 

 作品的にはSFファンタジーで、どちらかというとキャラメルボックス風なのだが、

前回よりは、独自性がでてきたと思う。

 物語は、ある高校の夏休み、未来からタイムスリップしてきた少年が、その後の花火

大会の日に死ぬ予定の女の子を、何とかして助けようと奔走するというのが主軸に

なっている。そこにその少年のトラウマとかが重なってくるという構造的にも複雑な

作品なのだ。

やや、時間軸がわかりにくい点もあったが、その少女を助けようとする少年の思いが

伝わってきた。

少年少女の恋心が直球で伝わってきた。

次回は俳優達の同世代の物語を期待したい。

これからも、もっと新しい自分たちの世代の演劇を見せて欲しい。

  [2000年7月28日 22時41分28秒]


劇団Sympathy「フォルッテシモ」 

お名前: 仙台アイドル評倶楽部@太田   

 

 喫茶店のマスターと、マスターにあこがれる女子高生、マスターの高校時代のクラスメ

ートのカップル、計4人が偶然マスターの喫茶店で出会い、友情を深め合って行くが、実

はマスターは難病で死んでしまう、という物語でした。

 最近、喫茶店を舞台としたお芝居が多いような気がするんだけど、世知辛い世の中で、

まったりとくつろげる時間がほしい、という願望が、芝居でそういう場を表現しようとい

う発想として、出てくるんだろうね。僕自身もまったりしたいという願望が人一倍強い方

だから、気持ちはすごくよくわかるんだけど、ただ、そういう「たあいもない日常」って、

ダラダラと退屈な空間になる危険性も大きい。三女高演劇部「ポケット」の劇評でも書い

たけど、小津映画や三女高の「たあいもない話」が面白かったのは、表面的には何事も起

こらない空間のように見えて、実は細かい事件が次々と起こっているところにあるのね。

今回の「フォルッテシモ」は、高校時代の思い出話や、高校生・神崎の宿題の話で延々1

時間、間を持たせようとしたところに無理があったように思います。マスターが突然倒れ

るところで、おっ!いよいよ話が盛り上がってくるかな?と期待してたら、あっさりマス

ター死んじゃうんだもん。もうちょっと死ぬまでの闘病生活にドラマを作らないと、あっ

けなさすぎて、マスターが死んだことによる悲しみに、観客も感情移入できないと思いま

すよ。

 役者では、高校生役の江川美樹さんがよかったです。ハキハキと割舌もよく、しゃべり

方も棒読みじゃなくて、ちょうどよいテンポで感情がこもったものになってましたね。ポ

ッチャリ系でかわいかったし、アイドル評倶楽部として推薦させていただきましょう(笑)。

プログラムを見ると、彼女17歳って書いてあるところをみると、本当に高校生なのね。

最近は、本当にどこの劇団みても、大人の役者より、高校生の子の方がうまいってパター

ンがホントに多いなあ。

 マスターの悪友で大学生の関根役の叶正規さんは、アルバイトでホストもやっている、

という設定だったため、キザなしゃべり方を役作りとして一生懸命がんばってました。そ

れは認めるんだけど、役作りに気を取られて、せりふ回しが単調になってたのが残念。緊

張していたのか、落ち着かない早口なしゃべりだったしね。江川さんみたいに、ゆっくり

しゃべるところは落ち着いて表現するところを見習うといいと思うよ。

 関根の恋人役の坂野井一恵さんは、偶然の再会に驚く場面のリアクションが大げさで面

白かったんだけど、関根との絡みが多いため、叶さんの早口につられて、自分も落ち着か

ないしゃべりになってた部分が多かったのがもったいなかったね。

 マスター役の佐藤謙一郎さんは、主役だけにこなれた演技をしていました。が、主人公

が死んだ後、主人公の父として1人2役で出てきたのは、ちょっとどうかと思ったなあ。

だって、谷村新司みたいな口ひげをつけただけで、マスターそのまんまなんだもの。「実

は死んだのはウッソでーす!」と、口ひげをとって、みんな大笑いのハッピーエンド、っ

てオチかと思っちゃいましたよ。客演でもいいから、父役は別な人をあてた方がよかった

と思うなあ。あと、病気を表現するのに、ゲホゲホと咳をする、というのも、なんかウソ

臭くて、どうかと思いました。昔みたいに結核の死亡率が高い時代ならともかく、病気を

あらわすのにゲホゲホやるっていうのは、今ではギャグとしての記号みたいになっている

しね。コントとしてみると笑えるんだけどね。

 まあ、いろいろ問題点もあったけど、応援したいと思わせるさわやかさを感じさせる劇

団でした。次回作も見たいと思ってますので、頑張ってほしいです。

 

[2000年8月6日 15時6分28秒]

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シェイクスピアカンパニー「恐山の播部蘇」 

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

 

 本場でシエイクスピアの芝居を是非観たいと思い、ツアーを企画して出掛けたほど

シエイクスピアにほれ込んでいる。実際に観賞して感じた第1は《セリフの明瞭さ》であった。

主役は勿論、出演者全員のセリフは「朗々」という感じで劇場内に響き渡るのであった。

このことを冒頭に明らかにしておいて、この芝居を観て思ったことを書いてみよう。

 さて、この芝居は、「マクベス」を下敷きにしたかもしれないが、あくまでも

シエイクスピアの「マクベス」ではなく、下館和巳の「恐山の播部蘇」である。チラシには、

翻訳とあったが、翻案に近いかもしれないし、チラシにあった「脚本構想」の表現にはうなづけた。

幕開けのイタコの場面が良い。播部蘇が、自分の気持ちを具体化することになる呼び水と

してのイタコの存在は十分な説得力を持つ。彼の運命を予感させるものとしての存在感が

ある。繰り広げられるのイタコのセリフは明瞭であり、一人で、二人で、そして三人の声が

合わさっても、リズムさえ感じさせて、乱れることはない。演出の意に見事応えた3人に

拍手を送りたい。

 演出という面からいくつか触れてみよう。

1階席を立ち席にした試みは、まさに「グローブ座」であった。その才に感嘆。

紗を巧みに使い奥行き深く見せる手法が効ていた。

又、竹の音を生かした戦闘の場面は迫力があった。

舞台を大きく使って走らせたのは、少ない出場人物で迫力ある戦闘場面をイメージ

させるのに効果的であった。

竹を使っての森が動いたと観客に感じさせるのに違和感はない。

 気になったこと2つ。

その1。 播部蘇がイタコの予言でいったんは決意した将軍殺しを迷う場面はあったが、

決意した場面がない。エジンバラ公演向けに短くする必要があり、

その場面を削ったのかもしれないが、いったんは決意した場面があってこそ

「決意はしたが迷い、それをなじる婦人のセリフが迫力を持つのだし、播部蘇の末路が観る人の

心に焼き付くことになると、私には思える。

その2。 セリフが不明瞭な役者が少なくない。声が届かないのではなく、高い声で割れる因

ばかりではない。

「自分たちの言葉」で演じることに意味を持ってる劇団にとって残念なことである。

私が、この文の冒頭に、本場で観た芝居の感想にセリフのことを書いた意味はここにある。

 

 エジンバラ公演の成功を心から祈っている。凱旋公演を待っている。

《7月23日13時 観る》

[2000年8月3日 20時20分52秒]

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

 シェイクスピアカンパニーは初演の「ロミオとジュリエット」以来7年ぶりの観劇となった。

初回は、東北弁を使ったシェィクスピアという話題性のみで、演劇としては見るものが

少なかった、何よりも、俳優達が勝手に質の違う演技をしていて、演出論、俳優論が全く

見えない芝居で、失望して帰った覚えがある。特に違和感を覚えたのは、西洋風の衣装を

着た俳優達と、東北弁が全くあってなかったことだ。

その後、舞台を東北の物語に移し替えて、東北弁を喋るというのは、当然の帰結だろう。

七年後ぶりに見た「恐山の播部蘇」は当然だが、私が初回に感じたような違和感はなかった、

リズミカルな東北弁の長台詞にむしろ心地よさを感じたほどだ。俳優もマクベス、マクベス

夫人、マクダフなど存在感の有る役者に育っていた。これは七年間の活動や、地方での公演の

自信から来るものだろう。やっと俳優論が見えてきた感じがする。

 

 しかし演出が見えない。転形劇場の「水の駅」と同じように舞台に水道が一つ。

これは演出が知ってか知らずか、おなじイメージを使うのはどうだろうか。

 

 演劇としてみた場合、総合力が弱い。大道具が無く、照明でも空間を区切っていないので、

俳優が大きく見えない。素舞台に近い広い舞台の上で、動き回るものだから、シーンにアク

セントが無く迫力がない。そのため結果的に匂いのしない舞台になっていた。

マクベスはシェイクスピアの中でも特に、血やエロスの匂いのする芝居だと思うが、無菌室で

作られたような芝居になっていて。人間の熱、東北の匂いやエロスが伝わらない芝居になって

いる。

これはやはり総合芸術としての演劇表現をもう一度考える必要が有るのではないのか。

スタッフ面が弱すぎる。

 

 衣装は黄金の藤原文化の世界のはずなのだが、衣装がただの黒装束のためコロスにしか見え

なく一人何役も演じるので関係性が見えにくかった、簡単に言うと敵味方すらはっきりしない。

 特にメイクアップが顔を汚すだけの化粧にしか見えなく、役者の個性を引き出すまでに至って

いない、化粧に統一感が全く無い。

 俳優学校のシェイクスピア劇を演じる俳優達のプログラムの中にフェンシングが有るが、

今回は竹刀をばらした竹の棒を剣に見立てていたが、あまりにも迫力がなかったし(バーナム

の森のイメージにも使っていた)、最後のマクベスとマクダフの決戦も竹刀で戦っていたが

もう少し工夫はなかったものか。物語はすっきりしていて分かりやすくなっていたが、肝心の

舞台表現までダイジェストでは困る。

 せっかく物語や俳優ががはっきりしてきたぶん今度は舞台上の衣装や化粧や小道具達が

物語に追いついていないのだ。

 しかしこの七年間で着実に成長しているので、今度は、そのような問題を解決したとき

本当の意味での独自のシェィクスピア劇になるだろう。

 

 劇評であまり観客のことを書くことは少ないのだが、演劇の重要な要素として今回は

書かなければならない。

観客がひどすぎた。

会場に入ったとき、大学生ぐらいのずいぶん若い観客が多いなと感心した。

シェィクスピア劇の今どきの観客層としては珍しいと思った。

 しかし、本番中に無駄話のおしゃべりをしたり、携帯電話を何回も鳴らしたり、俳優の

目の前で舞台に頬杖を付いて居眠りを始めたり・・・全く集中力がないのだ。このような

観客を見たのは初めてだ。

 帰り際にその謎が説けた。学生達が「講義のビデオで見た時はセリフが分かったけれど、

今回は分からなかった」などと話していたので、どうやら、大学の授業の関係で来ていた

みたいなのだ。学生達が演劇に触れ合う機会を持つことはいいが、その前に最低限の観劇の

マナーを教えてほしい。本当に芝居を楽しもうと思って見に来た観客にとって、そのような

学生の観客は迷惑以外の何者でもなかった。演劇初心者の学生のための演劇鑑賞会にしたい

のなら一般観客とは時間を別にして公演して欲しい。

 

[2000年7月30日 13時42分48秒] 

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Gecka−Bizin「大失敗!!」 

お名前: 渡部 なちゅ   

太田様

劇評を書いていただきありがとうございます。

ただ、「月下美人」ではなく「Gecka−Bizin」です!

・・・せめて「ゲッカビジン」にして下さい。

 

追伸 仙台アイドル評倶楽部、頑張って下さい。

     ↑こういうあほっぽいの好きです。

         (↑失礼) [2000年7月25日 22時19分33秒]

 

お名前: 太田 憲賢   

 

月下美人「大失敗!!」

                        仙台アイドル評倶楽部 太田 憲賢

 

 映画・演劇にしろ、TVにしろ、お目当ての女優さん見たさに映画館や劇場に足を運ん

だり、チャンネルを回したりする人間というのは少なからずいるわけで、スクリーンに映

るスターも、地元アマチュア劇団の女の子も、観客という立場からすれば、「ファン−役

者」という関係性は等価だ、という視点で僕は劇評を書くことが多いのですが、そういう

視点で劇評を書く人間は、現在のところ残念ながら僕しかいないようです。最近では、開

き直って、「仙台劇評家倶楽部」に対抗して「仙台アイドル評倶楽部」という会を勝手に

でっち上げようかと思っているくらいなんですけどね。

 というわけで、「仙台アイドル評倶楽部(現在会員1名、泣)」今週の一押し女優さん

は、ジャジャーン!、月下美人の渡部なちゅさんでーす!

 月下美人の芝居は去年の旗揚げ公演を見て以来2度目なんだけど、旗揚げの時のなちゅ

さんは、裏社会の組織の一員という思いっきり悪役で、黒づくめの服装にロングヘアーが

黒木瞳みたいで、それはそれで格好良かったんだけど、例えば「黒蜥蜴」みたいな、人間

的に魅力ある悪役、というパターンではなくて、もう本当に単なる嫌なヤツ、って役だっ

たのね。それで、ああ、こんなにかわいい女の子がもったいないなあ、一回ベビーフェイ

スの主人公やらせてあげてほしいなあ、と思いながら見ていたんだけど、いやあ、今回そ

んな僕の夢が叶いましたですよ!

 主人公はアマチュア劇団に所属している一人暮らしの女の子。ある日彼女の家に、突然

「宇宙人」を自称する男が転がり込んでくる。確かに彼は、地球人の常識では起こし得な

い能力を持っており、そんな彼がなし崩しに主人公の家に居候をはじめ、主人公の妹や他

の宇宙人を交えてドタバタを繰り広げるコメディー、というのが本作の主な内容でした。

 んで、主人公のなちゅさんが、もうホント!にかわいいんですよ。今回は、旗揚げの時

と違ってショートカットにしてたんだけど、なんかね、若き日の樋口可南子みたいでした

ね。童顔で、すごくピュアーな笑顔をする人なんですよ。今はまだまだ実年齢もお若いの

だと思うんですが、たぶん30過ぎてもこういう童顔の人って、かわいい顔で居続けるん

だろうな。樋口可南子もそうだし、あと、南果歩もそうだよね。

 ストーリー上では、主人公姉妹は妹の方がかわいくて、姉の方は「ドロロ星人みたいな

ブス(居候宇宙人のメモより)」ということになっているんだけど、そういう意味ではミ

ス・キャストでしたね(笑)。だって、なちゅさんのほうがカワイイんだもん。

 というと、妹役の菊地めぐみさんに対して、大変失礼な言い方になってしまうかもしれ

ませんが、そうじゃなくて、菊地さんは役作りとして徹底的に三の線に徹した演技をして

いたんですよ(二の線やれば、この人も充分かわいい女優さんだと思う)。特に、居候が

本当に宇宙人とわかったときの、ミーハーな驚きっぷりの見事さ!もう、爆発してるのよ、

はじけてるのよ。それでいて、臭くならない。こういうミーハーな女の子っているよなあ、

というリアル感も同時に持ち合わせる演技力。彼女は劇団M.M.からの客演とのこと。

M.M.といえば、去年の「ミリオンセラー」でのタムラ・ミキさんの、やはり爆発する

三の線の演技の面白さに圧倒された経験があるのですが、その後、よくM.Mを見ている

という方から、「いや、あの時はたまたまタムラさんが三の線をやってたんだけど、いつ

もは菊地さんの方が三の線をやることが多くて、それがまた面白いんですよ」という話を

うかがっておりまして、今回自分の目でそれをしっかと確認することができました。菊地

さん、ブラボーです!

 そして宇宙人役の、るうがあ熊谷君。彼は旗揚げの時も、主人公の家に突然転がり込ん

でくる役どころだったんだけど(そういえば、旗揚げの芝居と今回の芝居は、シリアスか

コメディかという違いだけで、ストーリーの構造は酷似している。同じ作家さんだから

か?)、こういう居候役は、ただでさえ胡散臭く見られるわけだから、でも何となく憎め

ない、ズルズルと居候させてやるか、と思わせるような愛嬌がないといけない。というの

はわかるんだけど、その愛嬌を出そうとするあまりに、かえってなれなれしいヤなヤツ、

というイメージを見る物に与えてしまっているところに改善の余地があるように思われま

す。しおらしくなってからの演技が、けっこう同情をひけるものになっていたので、もう

少しおさえた演技をした方がいいんじゃないかな。

 それでも、ドタバタの際の姉妹とのボケ・ツッコミのタイミングの旨さはなかなかのも

ので、こういう当意即妙な演技を、劇団ができたばかりの月下美人の役者が既にできてい

るのに、たまたま前日に見たピアスの役者が全然できていないのはどういうことだろう、

と思わずにはいられませんでした(ギャグをとばすシーンがけっこうあったにもかかわら

ず、だらだらしたテンポと棒読みのセリフで笑えないものになってしまっていた)。まあ、

ここはピアスの劇評を書くところではないので、これ以上はここでは書きませんが。

 そういうわけで、ピュアな感じのかわいい女優さんも見られたし、歯切れの良いドタバ

タも楽しむことができたしと、久しぶりに満足のいく芝居を観させていただきました。で

も、マジな話、なちゅさんって「週刊朝日」の篠山紀信撮影の表紙に出てきても、全然違

和感ないと思うなあ。「演劇人タイムズ」、月刊化して表紙は地元女優のグラビア写真に

するっていうのはどうでしょう?あるいは、ここのトップページに「今週の女優」と題し

て、JPEGで、その週公演予定劇団の看板女優掲載するとか。、そしたら、「SPA」

の中森明夫みたいに、僕がコラム書きたいなあ、なんてね。

[2000年7月24日 21時23分42秒]

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劇団ピアス 第10回公演「ドレス」 

お名前: 劇評倶楽部小野一也   

   「ピアス」は好きな劇団だ。

大好きな作家である松田正隆の作品を取り上げる劇団の姿勢、そして松田正隆のあの

独自の世界を巧みに表現している劇団として評価していた。第9回公演で松田以外の作家の

作品を取り上げると知った時、その作家渡邊一巧を知らない私は、「興味半分」「危ぐ半分」で、

観劇したものだった。渡邊一巧の作品はすばらしく、それを「ピアス」は、見事に上演して見せた。

私はうれしかった。

 そうした意味で、渡邊一巧の作品の2作品目ということで、興味を持ち、期待を抱いて観劇した。

が、期待は裏切られた。

 そのことを書く。

 端的に言えば、この渡邊の作品をこなす力が残念ながら劇団にはなかったということになるが、

この渡邊作品は、前作と比して、深みがあり、難解であり、「ピアス」の今の力量ではこなすには

無理であったということである。

 この作品は、一見失踪事件を扱った単純な作品に見えるが、底が深い。その深みを理解して

上演しなければ観客の心を打たない。なぜこの作品のタイトルが「ドレス」なのかを理解しなけ

ればならない。「ピアス」は、理解した上で上演したが、伝える力量に欠けていたのか。

そこまで理解しないままに上演したのか。そのどちらであるかは定かではない。が、観客に伝わ

らなかったことは残念ながら事実であろう。

 自分は一体誰なのか。自分はどういう人間なのか。自分は何を求めて生きているのか。

自分に係わる人間を自分としてどう見ているのか。自分は係わる人間に人間としてどう見られ

ているのか。作者が「ドレス」としたタイトルの意味は重い。

 この極めて重いテーマを突き付けないままで、この芝居が上演された時、観客は単に

「失踪した人間が整形手術をして生きていた芝居」として受け止めるしかないのである。

作者にとっても、劇団にとっても、何よりも観客にとって不幸なことである。

 私の書き方が一方的であると指摘する人もいるだろう。が、私はこう信じて疑わない。

 劇団「ピアス」は、次では初めてのオリジナルに挑戦するという。期待して待つことにしよう。

  《22日(土)昼観る》[2000年7月25日 21時56分30秒] 

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奇忌棄危鬼4番目の呪文「めんたまだああああいすき」 

お名前: ロン!ドラのみ   

 

これは演劇か?パフォーマンスか?

      芸術か?それともただの悪ノリか???

 

観に行った者にしかわからない

      異次元空間!トリップ感!

観に行った者にしか味わえない

      地獄絵図!身体の負担!

観に行った者だけが感じる

      満足感!怒り!嫌悪感!そして愛!!!

 

空気が薄い!灼熱のサウナ!そしてゴホゴホゴホッ・・・ゴホッ・・・ケホッ・・・・・

 

きっと観客の大半が二度と行くまいと心に誓い

きっと観客のごく一部は奇忌棄危鬼の虜になってしまった・・・

 

私はまた必ず行きます。ええ、行きますとも。

 

[2000年7月14日 1時53分35秒]

 

 

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宮城県第三女子高演劇部「ポケット」

お名前: 太田憲賢   

 

 僕はあまりオカルト的たぐいのものは信じない方だが、それでも不思議な偶然というも

のはこの世にあるようで、例えば面白い芝居を見る時は、短期間の内に今年のベスト1と

思えるような作品に立て続けに出会うということがよくある。

 実は先週、佐々木久善さんが劇評で、ミモザは今年のベスト1だと太田と見解が一致し

た旨を書かれておられたが、その翌週に見た三女高演劇部の本作が、これまたミモザを更

に上回る出来だったものだから、佐々木さん共々ビックリしてしまったわけだ。

 本作「ポケット」は二つの短編のオムニバスであり、共通のテーマは「思い出」である。

おそらく、三年生のサヨナラ公演という趣旨から、そのようなテーマを選んだのだろう。

 最初の「たあいもない話」は、高校時代修学旅行に行った思い出を、三十年後に同じ旅

館に集まった五人が回想するという話。しかし、この「たあいもない」というところがな

かなか曲者なのである。

 よく小津安次郎映画を見る人の感想として「たあいもない日常が淡々と流れて・・・」

というのがあるが、実は小津映画って小さな事件・ドラマが立て続けに起こっていて、そ

れが見る者を飽きさせない仕掛けになっているんだね。みんな、笠智衆や東山千枝子のゆ

っくりした演技に幻惑されているんだよ。実は、この「たあいもない話」も同じような作

りになっていて、三十年後の回想としては、「たあいもない」ことだけど、当時の彼女達

にとっては重要な事件が次々と起こっているわけ。

 例えば修学旅行が片思いの彼に告白するチャンスとばかりに勇んで彼の部屋へ出かけて

いく女の子。ところが、他に好きな子がいると言われシオシオと部屋に戻ってくると、さ

っき「がんばっといで!」と応援してくれた友人の胸にロケットが。しかも取り上げて中

を開ければ、さっきフラれた彼とのツーショットの写真が入っていたりするんだな!

 あるいは、別の仲良し二人組は、突然部屋の中でエクササイズを始めたりする。今まで

静かだった旅館の一室が、突如として女子高生が踊り狂う場面に転換してしまうんだから、

これは驚きますぜ。しかも二人につき合わされて一緒に踊りだした三人目の転校生の子が

意外や踊りが一番上手かったり。けっこう細かい芸で笑わせてくれるところが見事だ。

 さっきも小津映画を引き合いに出したけど、淡々とした話を作ろうという時、勘違いし

てダラダラとした芝居を作ってしまい失敗するケースってけっこう多い。その意味で、「た

あいもない」と題名にしながらも、実際にはものすごく作り込んだ脚本を書いた三女の皆

さんは(今回初のオリジナルだそうだが)ホント、大した者である。

 さて、後半は東映戦隊モノのパロディ(オマージュ?)、ドリームレンジャー!である。

これもまた思い出がテーマになっている。学校で好きな子にフラれ、イジメに会い、と嫌

なことが続く少年が主人公。その少年に、そんな嫌な思い出なら、私達によこしなさい、

と甘くささやきかける悪役・スパイダー一味。「でも、君の思い出の中には素敵なものも

あるはずだろう。それすら捨ててしまうのかい?」と、少年の思い出を救おうとするドリ

ームレンジャー!両者の熱い戦いが見る者を惹きつけ、酔わせる!

 それで、この後半の話はキャストが豪華なんだ。レンジャーのリーダーは、昨年のコン

クール「ラ・ヴィータ」で主役を演じた「たね」こと鈴木亜矢さん。彼女は出る度に全く

違うタイプの役で出てくるが、それぞれに別の個性で完璧に演じ分ける。とぼけた銀河鉄

道の駅員−死を間際にした老芸術家−そして今度は元気ハツラツなドリームレンジャーの

リーダー。ピアスの渡辺君がいう、自分を特定の色に染めないで柔軟な役作りができる役

者って彼女のような存在ではないだろうか。だとしたら、ピアスの役者は皆、たねさんに

学ぶべきだ。

 リーダーをサポートするイエロー役が井林麻希さん。彼女は前二作では少年の役で、そ

れはそれで見事だったんだけれど、一度女の子役も見てみたいと思っていた。今回はその

念願がかない、これに勝る喜びはない。で、やっぱり女の子役が超カワイイ!しかもただ

カワイイだけでなく、演技力もあるから、ホント、いうことなしである。

 そしてピンクハウス役の沼田希実さん。ラ・ヴィータでは愛人役であり、今回は主人公

の母親役も兼ねていたのだが、おっとりした優しげなオーラを前回同様、今回も漂わして

くれていて、これも一流の折り紙をつけたい。

 このオールスターキャストが、皆三年生で、今回の公演が最後というのは本当に淋しい。

ぜひ、卒業後このメンツで新劇団を旗揚げして欲しいものだ。仙高・育英に負けない名演

を見せてくれた彼女達を、僕は決して忘れない。

 

[2000年7月10日 20時26分48秒]

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東北大学学友会演劇部「怪談・銀の骨鞄」

お名前: ロン!ドラのみ   

 

初めて東北大のお芝居を観ました。

会場の狭くて暗い雰囲気,大好きです。

台本は北村想のものでした。まだ私は読んだことのない台本です。

1時間弱におさめられていたので,結構セリフを削られたのだと思います。

東北大のみなさんもセリフの削り方には相当苦慮されたのではないでしょうか?

しかし,今回の上演ではこのお芝居の(怪談とわざわざ銘打ってあるのに)旨みが

ほとんどなくなってしまったように思えます。

つまり,あっちこっち削りすぎたために訳が分からないお芝居になってしまい,

その結果がむしろシュールさを孕み,難解なだけのアングラ芝居に感じられてしまったのです。

やっぱりこれだけ意味のつながらないストーリーになってしまうと,観客はなかなか楽しめません。

そのあたりにもう少し配慮がほしかったです。

 

役者はみんな頑張っていました。

気迫で押せ押せの演技スタイルのようで,これはこれで東北大のスタイルとして

貫き通してほしいです。

ただし,老人を大学生が演じるのにはちょっと無理があったように思います。

キャストの上では仕方ない部分ということもわかりますが,物語の中核を担う魅力的な存在ゆえに

もうちょっとなんとか対処してほしいところでした。

 

なにはともあれ,アングラな北村想が観れて,とても不思議な気持ちになった公演でした。

(やり方でどうにでもなるんだなあっていう意味で)

 

[2000年7月13日 16時24分16秒]

 

 

お名前: 太田憲賢   

 

 例によって、よかった女優さんについて中心に書かせていただきます。

 このお芝居の僕にとってのMVPは、なんといってもウエイトレス役の永井久美子さん

ですね。彼女は主人公が物語のキーとなる不思議な老人と出会う喫茶店のウエイトレスで

して、従って登場する場面は、怪談という設定から、古風な感じの、まあ喫茶店というよ

りはカフェーという言葉が似合うような雰囲気を出したお店とする必要があると思われる

ところなのですが、永井さんの色白・ロングヘアー・狐目の美人というポイントポイント

が、その「古風なカフェーの女給」というイメージに、ぴったりとはまっていたんですわ。

そう。ウエイトレスではなく、ここは是非とも「女給」という言葉を使わせていただきた

い。そういうレトロな風味が似合う人なんですよ。んで、それまで正直いって「なんか退

屈な芝居だなあ。まあ、北村想の芝居って退屈なストーリーが多いし(戸川純のマリイ・

ヴォロンはよかったけど)、演者というよりは脚本のせいだろうなあ。」などと勝手なこ

とを思いながら見ていたのですが、喫茶店で永井さんがでてきた時点で、ハッと目が覚め

たようになりましたね。なんていうの、最近かわいい系の女優さんは結構見てきたけど、

久しぶりに本格的な「美形」という言葉が似合う女優を見たって感じ。それで、自分が美

形であることを自分でも知っていて、そのために気位が高く、ウエイトレスではあるけれ

ども、接客態度でも過度に媚びた笑い方はしないぞ、ちょっとお高くとまっているぞ、と

いう役作りがまた似合うんだなあ。こういう本格派美形女優を仙台で見たのは、そう、「鳥

の庭園」に以前いらっしゃったスルメさんという役者さんを見て以来ですわ。いいなあ、

東北大。また女優さんをチェックするために見に行こうと思わせる劇団が一つ増えて、嬉

しいことこの上なしです。

 永井さんを見たことない人に、彼女がいかに美形であるかを説明するのはとても難しい

のですが(東北大のHPに顔写真とか載ってるのかな?チェックしてないからわからない

けど・・・)、吉田秋生という「櫻の園」とか「バナナフィッシュ」という作品を書いた

有名少女漫画家がいるんだけど、その人のマンガに「吉祥天女」というロングヘア、狐目

の美人がでてくるコワーイ作品がありまして、その主人公に永井さんそっくりでした。是

非、東北大は次回公演で「吉祥天女」の演劇化をしてほしいぞ!(なんてね。ファンの勝

手な戯言です。気にしないで下さい。)

 ところで、この物語は主人公の若者が不思議な老人の家に連れられ、そこで老人の妻の

亡霊に誘惑されるという話でして、そういった意味では亡霊役が最も大人の色気を感じさ

せる女優でないといけないわけです。しかし、残念なことにこの亡霊役の女性が、今回3

人登場した女優の中では、最も色気を感じさせない人だったんだなあ。誤解の内容に言っ

ておくけど、彼女の演技が下手って言ってるわけじゃないよ。つまり、その人の持ってい

る個性として、大人の色気、と言うよりは、むしろ性格俳優的、というか、まあ有名な役

者さんに例えるなら、市原悦子的な感じがする人だったんだね。だから、役者が悪いんじ

ゃなくて、キャストを考えるとき、もう少し適性を考慮できなかったかなあ、と見てて思

いました。物語のラストで老人が主人公の青年に「君はたぶらかされているんだ!」とい

うシーンがあるんですが、もし僕が主人公だったら、永井さんになら絶対にたぶらかされ

るんだけどなあ・・・と思いながら見てましたもん。まあ、女給のコスチュームがものす

ごく似合う人だったから、あえてウエイトレス役を外して亡霊役に持っていくのももった

いない、という配慮が演出にあったのかもしれないし、それはそれですんごく理解できる

んですけどね。

 というわけで、東北大の次回公演は「吉祥天女」が無理なら、昭和初期のモボ・モガ時

代のお話を、永井さん主人公で強くきぼーん!あ、でもその手の話は「ネオ・クラシック」

をやったナインゲージの方が向いてるかな?今野君も東北大関連の人だし、是非次回作は、

彼女を主役で御検討いただきたいものです。ま、あくまでファンの勝手な願望ですけど、

ひとつよろしくお願いいたしますです。

 

[2000年7月10日 20時25分41秒]

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サイマル演劇団「昭和枯れすすき」

名前: 早瀬  俊   

 

 今回初めて見ました。客演のトモヒコ君からチケットを貰い、今まで居た劇団と

違って熱い演技ができるという話を聞き楽しみして行ってまいりました。

 確かに会場も厚いが演技も熱いものを感じさせてくれる芝居でありました。

昔私も天井の低い狭く生き苦しい小屋で芝居をした経験があるものですから大変懐かしい

思いがしました。

あれは1980年代の始まりであり、考えてみればこの劇団の人たちはそのころまだ小中学生

といったところでしょうか。

 さて、本題に入りますと、まず幕開けから緊張感のあるスタートで、赤井さんの表情

とくに目にひきつけられました。私的なモノローグから始まるなんともミステリアス(?)

な時空間のつくりはこの後ラストまでよく生きていたと思います。ただ残念なことに随所に

現れるモノローグというか長台詞をこなしきれていない役者が多かったと思われます。

テンポやトーンの変化といった基本的な技術的なこともさることながら、内的な感情の

揺さぶりが小さく、パンフレットに書いてあるような(私の勝手な期待だけだったのかも

しれないが)内的感情の爆発が見られなかったのは残念です。私も芝居を作るときは心掛けて

いてなかなかできないのですが、もっともっと役者が自分自身を追い込んでいくことが大切では

ないだろうか。

(そんなことは分かっているんだよといわれそうなのでこの辺にしておきます)また、

演出自信が出演することによって演出が甘くなることも考えなくてはならないと思います。

テンポの乱れ、リズム感の乱れ、演技のメリハリがもっとあるべき脚本であるはずなのに

役者がやっていないのではと思われる箇所も随所にありました。看板役者兼演出のつらい

ところかも知れませんが、思い切って演出に徹してもよかったのではないかと思いました。

 今後もぜひみにいきたいと思っています。生意気言ってすみませんでした。

  [2000年7月18日 20時34分35秒]

 

お名前: KIT   

 

 土曜日の昼を見てきました。ココロも体も灼熱の公演でした。ウチワサービスが嬉

しかった <(^o^;;; です。

 

 私は「マリファナベル」と2回しか見てないのですが、前の方が楽しめた感じです。

 今回の赤井氏の本の路線は個人的に大好きなのですが、もうちょっと熟成が欲しかっ

たなと思います。それから、最後、何か起こりそうだと思ったところで終わってしまっ

て残念でした。前編と続編が見てみたいなぁと思います。

 

 単語一つ一つに強烈なイメージを乗せようと頑張っていた役者さんたちでしたが、

魔力の点では佐武さんが頭2つほどリードして自在な感じでした。客演の佐藤トモヒ

コさんも良かったですが、掛け合いでは他の役者がなぜか(?)ちょっとやりにくそ

うに見えました。

 「マリファナベル」でマモーを思わせる役作りで怪演していた赤井さんをはじめ他

のキャストが今回ちょっと大人しかったのも残念です。

 

 近いうちに活動拠点を東京に移すそうですね。

 失礼かも知れませんが、他の土地で今回の「昭和枯れすすき」ような本を上演する

劇団を多く見てきました。圧倒的なパワーとイメージ力と哀感を誇る劇団が地方を中

心に数多くありました。他の土地だと、舞台と客席で果たし合いをするかのような公

演もあるかも知れませんね。あれは楽しいものですが、ぜひ仙台にも持って返ってき

て下さい。

 ご健闘を祈ります。

  [2000年7月17日 21時36分28秒]

 

お名前: 太田憲賢   

 

サイマル演劇団第11回公演「昭和枯れすすき」

 

 サイマルには佐武令子さんという看板女優がいるんだけれども、1人だけ突出して

魅力的だと、彼女が出番でないときに物足りない思いをするし、また、彼女に万が一

のことがあったりしたら、一気に劇団の魅力が低下するんじゃないか、という不安も

あった。昨年あたりから新人の女優さんが1回だけ登場することがあったが、新人に

こういう言い方は酷かもしれないけど、佐武さんに比べるとどうも見劣りする感じが

否めなかった。ところが、今回新人で出演した藤岡成子さんは、新人ながら佐武さん

に負けないだけの魅力を感じさせてくれ、これでサイマルも二枚看板ができたか、ま

すます層の厚い劇団になりつつあるなあ、とファンとして嬉しく感じたのであった。

 藤岡さんの魅力を一言で言い表すなら、「ちがちゃん的雰囲気」ということに尽き

よう。御存じない方のために説明すると、「ちがちゃん」とは、福祉大出身で現在ラ

ダ・トロッソに所属している千川原友希さんの愛称である。以前に別なところで書い

たが、千川原さんの魅力は、ファンタジーを感じさせるユニ・セックスな役柄がはま

るところにある。代表例としては、福祉大在学時代の「トロイメライ」でのカイ少年

役が挙げられるが、奇しくも今回の藤岡さんの役柄は、「少年秘書」であった。女の

子だけど、男の子っぽい格好をして登場するが、だからといって男臭くならず、どち

らの性にも属していないような、不思議な魅力をたたえている役柄。感情表現も押さ

え気味で、だからといって無愛想というわけでもない、その微妙さが、とてもかわい

らしかった。赤井君が、不思議少女の演出に長けている人とは、意外ではあったが嬉

しくもあった。むしろ、本家のちがちゃんも、最近はこの手の芝居が少ないようだ

が、一度サイマルに客演などされたら面白いのではないだろうか。

 一方の佐武令子さんはといえば、前回のような鼻水ダラダラといったミスもなく、

いつもの魅力を振りまいてくれたところは流石であった。今回は小学生役ということ

で、少女っぽい服装での登場であったが、なんというか、こういう大人の女性が小学

生っぽい格好で出てくるのって、昔のTVでコントに出演してた時のキャンディーズ

とかを思い出させて、そこはかとないおかしみがある。そんな、違和感をもたせつつ

も、かわいいと思わせるのは、やはり佐武さんの持つキャラクターの勝利であろう。

人によってはシャレにならない結果になる可能性もあるわけだから。それと、今まで

男優だけが登場していて、暑苦しい場だったところに、突然脳天気な微笑を浮かべ

て、調子っぱずれな歌を歌う女性が出てくるというシチュエーションは、やはりTV

でバラエティーアイドルが場の雰囲気をかき回して、視聴者に好感を持たせつつ観客

を笑わせる芸と共通するものを感じた。そうか、今まで佐武令子には魅力を感じつつ

も、それを具体的にうまく表現できないもどかしさがあったのだが、彼女の良さって

バラドル的魅力だったんだ、と目が覚めた次第。

 脚本についていうと、今回はいつも書いている小林君の本ではなく、主宰の赤井君

が書いたものだったが、率直にいって小林君の方が一歩勝るなあ、と思った。物語の

なかにドラマ性がなく、ほとんどの時間が1人1人の俳優のモノローグによる思い出

話で終始しているため、ストーリーの流れが悪く退屈してしまった。思い出話って、

物語の登場人物について観客がある程度感情移入した後でならアリかもしれないけ

ど、いきなり登場した人間が思い出話をするのに対してのめり込むというのは、非常

に難しいと思う。しかも、話をしている間、その情景が物理的に眼前に展開するわけ

ではないのだから、ほとんど朗読劇みたいな状況になってるわけで、「演劇」として

ビジュアルを期待してきた僕にとっては、何でいちいち情景を想像しなきゃいけない

んだよという、おっくうさも感じてしまった。やはりこの劇団は、物語の中に山あり

谷ありを作るのに長けた小林君のドラマ性ある脚本を本筋として公演していくこと

が、今後とも望ましいと思われる。

[2000年7月14日 19時34分19秒]

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高山広のおキモチ大図鑑"Dear Friends"

お名前: ロン!ドラのみ   

1人芝居で2時間弱!

それなのにちっとも飽きることなくグイグイ惹きつけられる。

本当に面白かったです。

たった一つの肉体が創り出す世界の大きさ,多彩さに感服!

とにかく観客を笑かそうとする。

時には力技であっても。

観客はまんまと罠にはまり,爆笑!

そして最後にキュンとせつなくさせられる。

笑いながらせつなくなる。ジーンとくる。

私はこんなふうに笑えるお芝居が観たかった!

 

でもお客さんがもっと入ったらもっとよかったのに。

今までもよく,いいなあって感動したお芝居で

ふと後ろを振り返ると(いつも一番前に座るので・・・)

お客さんがパラパラだったりする。

つかのお芝居とか,フィリップ・ジャンティとか,この前の南河内とか。

そんなときすごくもったいなくて,とても寂しい思いをします。

やっぱり知り合いが出てるお芝居にばっかりお客さんは集まってしまうものなのでしょうか?

来週またあのフィリップ・ジャンティが仙台にくるけど,

お客さんいっぱいになるといいなあ。

高山広もきっとまた仙台に来てくれるような気がします。(なんとなく)

県外から来てくれる質のいいお芝居をもっとたくさんの人で楽しめる

そんな仙台になるといいのにと思います。

[2000年7月13日 16時3分18秒]

 

お名前: あんもないと   

 

おキモチ大図鑑という名のファンタジー

 

公演当日のチラシにあった

「生物はもとより、モノや概念にまでなりながら、微妙な心理を表現する」という言葉に偽り

はない。この人が持つ想像力、観察力、そしてそれを実際に舞台の上で体現して見せる技術

と体力に驚かされた。そして素直に笑えて、少し感動した。

 

 舞台の上には基本的に高山氏しか存在しない。次々と演じられる者、モノ、物たちの中で、

高山氏が表現する「モノ」は他の「人間」を描写したものよりもずっと人間くさく愛しく思え

て印象的だった。

 そんな訳ないだろうと突っ込みたくなるようなTVのぼやきを、歯ブラシ・フェイスタオル

のやりとりを、思わず我が身に重ねて感情移入して見入ってしまうのは、同氏が持つ説得力あ

る表現と独特なユーモアを余すことなく発揮しているからだ。子供の頃であったら難なく入っ

ていけた、今では浸りきれないファンタジー。しかもそれは、童話やキャラクターに頼らない、

何とも日常的なファンタジーに、同氏は大人の味付けと役者の技量で難なく導き入れてくれる。 

 

 最後の「歯ブラシとフェイスタオル」では、自分を見せることを知っている器用な「役者・

高山広」と高山広という(不器用な)人物の相反する両面がよく見えたように思えた。以前に

書いたことがあったが、舞台の上の「リアリティ」と現実との違い、そういうことを充分に理

解して技術として体得している。上記の演目では2役をほぼ同時に演じわけて行くのだが、そ

の切り返しに無理がないこと、また「転倒シーン」などでも演技という技術を持って、体で表

現できる役者だと改めて感じた。

 

 舞台を見るのが初めてという人はもちろん、役者や演劇関係者にとっても見ていて感じるも

のが多い芝居だったと思う。

[2000年7月11日 23時41分0秒]

 

お名前: 井伏銀太郎   

 

初めて芝居を観るお客様が楽しめる芝居がなかなか無いと思われる中、

このDear Friendsはそんなお客様でも文句無く楽しめるだろう。

オムニバス形式の一人芝居なのだが、笑っているうちにぐいぐい引き込まれて

最後はジーンと来ている自分に気づく、そんな芝居だ。

色々な状況の人物を演じるのはもちろん、終わったあとその物語自体を

構造で笑わせたり。

人間はもとより、モノまで一人芝居で演じるとの前評判どうり、

老婆にリモコンで酷使されるテレビや、使い古された歯ブラシのたどる運命。

それらをたった一人で演じきるのだから見事としか言い様がない。

一人芝居の概念を変えたと言われる通り、たった一人の肉体の持つ直接性で

演劇の楽しさを十分伝えてくれる舞台だった。

[2000年7月9日 0時37分51秒]

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のほほんシスターズ公演『エレベーターでいこう』 

お名前: 井伏銀太郎   

 

面白かった。

笑わせるところを、きっちり笑わせる、脚本、演出、俳優。

未来樹シアターを中心に、劇団無国籍、オクトパスの

俳優同士が立ち上げた企画と聞いたが、俳優達の意気込みが感じられた。

 

物語は、ある合唱サークル、次の発表会で、演劇をやるということになって、

演劇初心者のサークルメンバーと、指導に来た女優、そのサークルの実力者の勘違い主婦との

芝居を作り上げていくコメディー。

 

普通に観客が疑問に思っている演劇の嘘や、勘違いがそのまま劇になっていて、芝居の約束事

を知っている人なら特に面白かっただろう。

宝塚しか知らないサークルの実力者主婦が、勝手に設定をロシア皇帝の末裔にしたり、

長い独白を勝手に作曲家を頼んで歌にしたりと、それに振り回されるメンバー達。

最後はその主婦をみんなで追いだして、無事劇が終了する。

映画「ラヂオの時間」を連想してしまった。

 

 

勘違い主婦を演じた菊田由美は未来樹シアターの中でどちらかというと新劇的演技が気に

なってたのだが、今回はそれを逆手にとって、見事、宝塚マニアの主婦を演じきっていた。

上島奈津子は、それに振り回されながら、調整役を買って出る役どころを見事に演じていた。

 

未来樹シアターの女優が男性とからむのも珍しかったし、何より普段、役柄上中高生を演じて

いる彼女達が、実年齢に近い役柄を演じていたのも新鮮だった。

一回限りと言わず、これからも、ぜひ続けてほしい企画だ。

 

 

[2000年7月5日 17時36分2秒]

 

 

お名前: ぴも   

 

私は今回初めて、在仙の役者さんの作品を拝見しました。

とにかく、驚きました。

こんなに仙台の演劇のレベルが高いとは思っても居ませんでした。

色々と、チラシも頂いて来たので

是非また、足を運びたいと思っています。

 

私は、ただの素人なので本当は意見など書かない方が良いのかもしれませんが

あえて、思ったまま書かせて頂きたいと思います。

劇の中盤、中だるみを感じました。

だったら、成田と霞のやりとりを増やした方が良かったのではないかと思いました。

初心者の成田の不満は、欲の現れなのかな?

演劇への興味、欲。自らの一歩。

対決じゃなくて、初心者達だけでのやりとりでも良かったかな・・・

 

なんか、思ていた以上に面白かったから

観ている側にも欲がでてしまったのかもしれません。

 

 

[2000年7月5日 17時7分55秒]

 

 

お名前: ロン!ドラのみ   

 

たいへん面白かったです。

大袈裟かもしれませんが,脚本・役者・演出・照明・音響・舞台の全てが巧くかみ合った,そんな

印象すら抱くことができる舞台でした。

しかしながら,それは決してゴタゴタした脂っこい芝居ではありません。玄人受けだけの芝居

でもありません。

自然に,本当に自然にフッと身体に入ってきて,終演後柔らかな満足感を伴った笑みがもれる。

そんないい公演だったと思います。

 

この舞台は,私のような上演する側の人間が楽しめ,観る側の人間が楽しめ,普段お芝居を観ない

人間が楽しめる。そんなマルチなお芝居のような気がしました。

私は,男くさく熱くたぎるような芝居が好きで,女性のきれいな芝居ではあまり満足できないの

ですが,(というと偏見のようですが,多分女性らしさが苦手なだけで,あくまでも好みの問題です)

この公演は最後までいい気持ちで観劇させていただきました。

そしてひさしぶりに満面の笑顔で会場を後にできました。

のほほんのみなさん,ありがとうございます。そしておつかれさまでした。

 

 

[2000年7月5日 9時44分11秒]

 

 

お名前: 仙台劇評倶楽部 佐々木久善   

 

 演劇をもっぱら観てばかりいる私のような人間には演劇を実際にやっている方々との意

思疎通が上手くいかないことが間々ある。そんなとき私は(いろいろな意味で)やっぱり

自分はお客さんなんだよなと思ってしまうのだが、この芝居を観てそんな感覚のわかる人

がこの演劇をつくったことに気がついた。

 題名の『エレベーターでいこう』にはあまり深い意味はない。いや本当は非常に深い意

味が隠されているのかもしれない。何といっても素人が芝居をやろうとして様々な変なこ

とにぶつかっていく…という物語だ。演劇に何らかの関心のある人なら思い当たることが

次から次へと描かれている。笑うことも出来るし、不謹慎ななどと怒ることも出来る。あ

るいはよく出来ているなと感心することも出来るし、詰めが甘いと非難することも出来

る。実際には観る人の関心の方向によって様々なとらえ方の出来る芝居なのだ。

 しばらく無国籍の芝居が観られなくて寂しい思いをしていたから、こんな形で無国籍の

新しい芝居に触れることが出来て幸せである。

 よく出来ているのではじめて芝居を観る人にも安心して勧めることが出来る。

 早速、妻には明日観に行くように言い聞かせている。

 

 

[2000年7月1日 22時19分42秒]

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劇団麦「郵便配達夫の恋」

お名前: 仙台劇評倶楽部 小野一也   

先ず、砂本豊の作品に挑戦した劇団麦の意欲を買う。過去75回公演のレパートリーに

明らかだが、1、2本の例外はあるにしても劇団が今まで取り上げた作品とこの作品は

異質だ。私のイメージとしては、劇団が大きいということも原因しているだろうが、多人数の

出演で、活力が伝わる内容が多く、それを得意として来た、と受け止めていた。その意味

では、この公演に期待を持った。 

 期待は裏切られた、というよりも劇団の意欲が作品の出来に結び付かなかった。

そのことを具体的に書いてみよう。

 「そんな小さなことを」と、思われるかもしれないが、砂本豊の作品は、その小さなことが

大事にされてこそ成り立つ芝居なのである。

  配達夫は書留カバンから普通郵便を取り出したが、現実としてそれはあり得ない。

  カセットテープが入っている郵便として配達された郵便は《うすっぺら》でカセットテープ

が入ってたと観客には思われない。

  「あかり」が、来る日も来る日も同じシャツを着ているのは、若い女として、恋される女と

してのセンスが疑われて、恋物語として成りたち難い。リアルで無い。

 この芝居は、「郵便配達夫・森尾と、あかりの母との恋」ではなく、「上村とあかりとの恋」

が、観る人にロマンチックに伝わらなければならないのだが、上記のような、一見小さいと

思える欠点が災いして、伝わらない。惜しいのである。

 演技について触れる。あの芝居の場合、上村の性格だけが他の登場人物とは違うという

設定になっているのだが、演技力ある斎藤にしてもいまいちリアル感に欠ける。

もち論あのような演技が非常に難しいことは承知の上での苦言である。阿部は声が上ずって

いて「セリフが体から出るのではなく口から出ている」としか聞こえない。伊藤は無難な演技で

あったし、浦崎は安心してみていられた。

 色々書いたが、長年観て来た劇団「麦」への期待は大きい。次作品を待つ。

      《1日昼観る》

[2000年7月25日 21時53分34秒]

 

お名前: 北島寛(KIT)   

 

▼ 団を代弁する立場ではないので、個人の立場で 御礼 ▼

 

 観に来て下さった方々、ありがとうございました。

あの時点での精一杯をお送りしました。少しでも楽しんでいただけたなら幸せです。

 

 皆様のおかげで、後から考えればたしかに欠点はあったと思いますが、良い芝居を

お送りできたのではないかと思っています。

 会場を出て行かれる時のお客さんの表情を見まして、正直ほっとしています。アン

ケートの回収率も良かったです。厳しいご指摘とともにたくさんの励ましをいただき

ました。

 次回10月公演では・も・ち・ろ・ん・もっと上を目指しますのでどうかよろしく

お願いいたします。

 

▼ 蛇足 ▼

 

 私はいわゆる初舞台ではなかったのですが、パンフレットで「新人」と紹介されま

したので(まさに、そのとおりなのですが)ことさら暖かく見ていただいたのかなと

思っています。役者としてはこれまでと違う、新しいものを引き出してもらえたよう

で、お客さんを始めスタッフ、役者の仲間にも感謝しています。

 夢中でやっておりましたので、舞台上で何が起き、何が起きなかったのか、これか

らゆっくり検証したいと思っています。ありがとうございました。

  [2000年7月8日 20時6分24秒]

 

お名前: 井伏銀太郎   

劇団麦は、25年以上みている私からすると、イメージ的にオーソドックなリアリズムの劇を

しっかり丁寧に作るというイメージだった。

 しかし最近は、その方法論と、作品の間にずれが生じているようでならない。

最近のエンターティメント系小劇場の作品に新劇的演出や演技が会わなくなってきているように

思う。

それはなぜかというと、麦の劇評で何度も書いたが、舞台上でドラマが起こってこないのだ。

以前私は、役者間の小さなドラマの積み重ねからしか大きなドラマが生まれないと書いた。

どこからドラマが起こるかというと登場人物間の会話からだ。

以前、言葉は数学で言うベクトルと書いたが、力と方向性、それに演劇ではニュアンスが含まれ

る。

日常では、誰が誰に向かって、どのくらいの距離感、どのようなニュアンスで会話しているか

自然に分かるが、この舞台の上では、役者間でこのベクトルが見えないのだ。

方向性もなく、力(距離感)もいい加減、ニュアンスも感じられない。

これは簡単に言うと、キッカケでだけ芝居をしていて、全く相手を捉えていないからだ。

相手を捉える前に観客に向かって説明的に芝居をしている。

それに加えてセリフのテンポが遅すぎたり、変な抑揚を付けるため、会話がかみ合わない。

 

 演出の「誰にでも分かりやすく」というコンセプトからか、役者が舞台の上で自分の感情や

内面を直接観客に説明している、相手役に集中することよりも、観客に向かって、演技をする

ことに意識が向かっている。(これがすべて悪いと言っているのではない、そのような独白や、

遊び、客いじりなど、直接観客に向かっての演技は確かに有る)しかし、だからと言って、

リアルな場面で役者間のコミュニケーションを無視していいというのではない。

確かに最終的に芝居は脚本の意味を観客に伝えるものだ、しかしそれは、あくまで役者間の

会話を通してだ。

 演劇は映画や文学と比べても、観客の想像性にゆだねられたジャンルだと思う。

観客は俳優の内面の説明を聞きたいのではなく、会話によってその場で起こっている俳優の

内面を想像したいのだ。だから余計な身振り、よけいな顔の表情での説明はいらない。

観客は一つのセリフ、行動によって、何を説明したいのかを聞きたいのではなく、それによって

何を隠したいのか想像したいのだ。

 

俳優的に言うと新人の北島寛は、他の相手を捉えられない俳優の中では、しっかり相手を捉え

ようとはしていた、少なくとも相手役に話そうとしていた。他の地域での演技経験があると

聞いたが、基本が出来ていると思った。

前回公演の「かっちん」といい、今回の北島寛といい、新人俳優が自然に見えるのはなぜだろ

う。

 しかし、北島寛は全編を通じてしっかり演技してほしかった、杖をついた足の悪い老人という

設定がいつのまにか全く無くなっている。

仙台演劇祭参加の「五番街の灯」の劇評でも書いたが、盲人の女が、いつのまにか杖で さぐらず

階段を上ったり、集団の中から友達を見つけたり。なぜ設定にあった一貫性のある丁寧な芝居

作りをしないのだろう。

演出が気がつかないのか、俳優が出来ないのかどちらかわからないが、俳優として、

物語を、与えられた設定で最後まで生きるということが出来なくなっている。

 

 伊勢江美の挫折した歌手というのも設定に無理を感じた、プロの歌手に見えないのだ。

あのギターと歌は、プロの歌手としてのリアリティーが無かった。

 

 伊藤祥司は、やはり年齢設定に無理があった。かつての母親を陰ながら愛していたという

設定なのだが、伊勢江美とは同年代にしか見えない。それを隠そうとしたのか、不自然な

メークも気になった。

 

 斎藤正樹は一人だけ浮いていた。前回も書いたのだが、よけいな動き、不自然な表情が多すぎ

る。瞬間的に表情が変わり、身振りが大げさすぎて、常に相手を指さしている。(あいてを指さ

し過ぎるのは、普通の感覚を持っている人間は失礼と思うのだが)、これは個人的癖というより

は、指さしている相手とお芝居をしてますよという、意味不明の説明にしか見えない。

 確かに馬鹿といわれる設定なのだがそれにしてもひどすぎる。常に身振り、顔の表情で説明

しようとしていて、ただただ気配がうるさすぎて、普通の人間に見えない。

何度も言ってるのだが普通のまともな人間は、自分の感情や内面を他人に対して容易に説明は

しないということをもう一度考えてほしい。

俳優は常に何かを表現しなければならないという強迫観念があるのだろうか、そこか

らは全く普通の人間が持っているニュアンスが消えている。

北島寛を除いては役のリアリティーも無くなっている。

自分たちで作品を選びながら、全くのミスキャストになっているのは何故か。

 

 かなり辛口になったが、北島寛は、今後いい役者になりそうな希望が持てた。

自然な感覚を持っているので、彼に演出を担当させるのもいいのではないか。

 

 大道具的はホリゾントを使った舞台だったが、雲と波のエフェクトをかけ感じがでていた。

このような舞台は麦らしくてイイと思う。

しかし、小道具は、ここ数年何度も言っているのだが、その公演のために新品を集めるのは

やめてほしい役者達の生活感が全く感じられないのだ。それでも、同一空間上での本物と

無対象演技の混在はなくなっていたので、確かに進歩はあった。

 

 演出は舞台において全責任を取るものだが、今回も細かいところに目が行き届かず、役者の

演技にも統一感が無かったし。行動の一貫性も無かった。

かつての、リアリティーの有る作品を丁寧に作るという姿勢をもう一度思いだしてほしい。

今後はもっと自分たちの役者体、演技スタイルにあった作品選出が望まれる。

「やりたい作品」ではなく、自分たちで丁寧に「やれる作品」が望まれている。

 

 もう一度、斎藤正樹に作品を書くチャンスを与えてはどうだろうか、集団として劇作家に

経験を積ませ育てるという姿勢も大切と思う。斎藤正樹の作家としての可能性を私は高く評価

している、いい演出がつけば必ずのびる作家だと思う、斎藤正樹作、北島寛演出の芝居を

観てみたい。(初日を見た)

  [2000年7月5日 17時37分14秒]

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島文男   

チラシにある「演出の言葉」は、現代のスピードについていけない「人々の癒しになれば」

と語っている。私も同感である。だが観客の「・・・癒し」になるためには、上演者側の

出来得る限りの努力と、観客の賛意を必要とする。間違っても「面白くなかった」と言う

ような基本的な非難を浴びてはならないし、そのための訓練を惜しむべきではない。

だが残念ながら、この演劇はその「癒し」に程遠いものとなった。

 舞台は辺ぴな漁師町の民家で幕が開く。ところが、既にここから私の疑問は始まったのである。

関係者によればこの家は灯台を想定していたとのことだが、如何してもそうは見えないし、

民家だとしても土台のコンクリートが気になってしまう。湿気の多い地域は高床のような

風通しの良い家屋を好むからである。また続いて登場する人物は、年齢不詳等の理由で役割が

判断としない。そして主演者が誰なのかさえ分からない。 例えば北島の「徳蔵」は杖を突いて

かなりの老齢を感じさせているが、かと思えば猿のように飛び跳ねて機敏な動きを見せる。

伊勢の「あかり」は声幅が少ないため、感情の起伏が押さえられ娘のようには思えない。伊藤の

「郵便配達夫」は二枚目に終始し、あかりの恋人と間違えられかねないほど若い。斎藤の「上村」

はひょうきんな面を強調しすぎて子供ぽく見えるし、作者が望んでいた人物とはこのような性格

だったのかさえ疑問である。その他にも疑問は無数にある。老人の用いた杖は最新式に見えるは

何故か。「あかね」の読む手紙は誰から誰へのものなのか明確ではなく、どれが最も大切な手紙

なのかさえ分からない。或いは「あかね」との隠れた愛情を表現できる唯一の小道具である

ワイン瓶は、上村の粗雑な扱いで何の意味も持たなくなってしまった。

 つまりそれぞれの登場人物が自分の与えられた役創りを怠り、精神性を重視する作品の特徴を

壊してしまったのである。そして全てが曖昧に解釈され、それを理解出来ぬうちに曖昧に終わら

されたのである。現代にはこのような作品こそ尊ばられなければならないと思うし、他の劇団では

得られにくい年配者の多数の観客のためにも、次回は十分な分析と十分な稽古量で望んで欲しいと

願う。

[二〇〇〇年六月三〇日初日を観劇して]

[2000年7月4日 22時33分39秒]

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南河内万歳一座「なつざんしょ…−夏残暑−」

お名前: プチ   

遅ればせつつ、すごくおもしろかったです。

私は演劇のことはくわしくない方だけれども

感想って劇を芸術ととるかエンターテイメントと取るかで

大きく変わるのだとおもいます。

でもどっちだとしても、おもしろかったな、とか笑ったり

感動したりすることがあればいいのだと思います。

見た後の後味って大切ですよね。

見てよかったと思える劇がいい劇なのじゃないのかなと。

 

この劇、また観たいな。

[2000年7月3日 19時6分37秒]

 

お名前: 仙台劇評倶楽部代表 川島 文男   

相変わらずの凄まじい芝居である。舞台一杯に広がる人海戦術は、誰しもの視界に頼る

全ての感覚を満足させる。だが飽く迄それは視界に限ってのことである。我々観客には

五感があり、その他に思考する能力もある。つまり演劇に限って言うならば、演ずる側と

同様の想像力があるのである。

 緞帳のデザインは明らかに大衆演劇を目指している。要するに人間の持っている喜怒哀楽の

ほんの上辺だけを捕え、それを観客の心情に訴えようとする手法である。またそれが間違って

いると言っているのではないし、それなりの立派な演劇である。だが我々の観たい演劇とは

そんなものではない筈ではないか。その喜怒哀楽が何処から発せられたのか、そしてその

起こってしまったものに何処対処していくのかが問題なのである。或いは米沢牛の「実験、

マシーンて何だ?」のように、起こってしまったことを誇大に観せることによって再発への

警鐘とすることもある。そしてそのことを個人として、或いは総合としての芸術の姿に仕立て

上げていくことに意味がある。与えられた物語が当たり前のように帰結し、或いはそれに

幾何かの劇的趣向が凝らされたとしても、それが何程の価値があると言うのだろうか。

私達の持っている想像力とはそんなものを見るためにあるのではないし、舞台上で表現される

彼等の想像力との戦いのためにあるのではないか。だから、その場限りの一瞬が楽しめれば

良いと言った演劇は、我々の求めている演劇とは全く違うように思えるのである。勿論、

前述した緞帳は唯の照れ隠しだと言いたいことは察しがつく。しかし残念ながら、全く

その通りに感じてしまったのである。

「なつざんしょ」の作品意図は何処にあったのか。そして何を訴えようとしたのか。私には

その辺のことが良く分からなかったし、作者の演劇に対する姿勢に疑問を持った。幾つもの

賞を得た氏の事であるから、確かに演じられる舞台は文句の言いようがないほど立派な技術と

物語性を兼ね備えていた。だが我々が各々会場を去るとき、我々の心の中に何程の温かい、

或いは冷たい感覚を持たせて貰っただろうか。あの寄席での帰路と同様の空しい感覚は、

私一人にしてほしいと思った。技術を優先させ、劇的なるものを優先させ、そして訴えるべき

ものを忘れてしまった演劇の空しさである。

[二〇〇〇年六月二四日の上演を観た]

[2000年7月2日 17時48分47秒]

 

お名前: ロン!ドラのみ   

 

これは面白い!

あつい!やかましい!そして面白い!笑った笑った笑った!

あっという間の2時間10分。全然そんな気がしない!

やられました。めろめろです。

こんなに雄弁にロマンを語る男がいたんですね。

私まで今年の夏が、夏が惜しくなってしまいました。

 

去年観た「流星王者」が私の初万歳一座でしたが、去年は前評判とのギャップもあり

少し拍子抜けした記憶があります。

でも今、この「なつざんしょ」を観た今では、あの「流星王者」のよさが今ごろになって

じわじわと込み上げてきます。

万歳一座は私に最上級のロマンを提供してくれます。

嗚呼、また観たい!

[2000年6月25日 4時0分30秒]

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