1999年劇評

目次


宮教演劇をよろしく

お名前: 悪役太田   

 ネームが変わっておりますが、去年までの「太田憲賢」です。ネームを変えた経緯は、「仙
台演劇ベスト3」欄を御参照下さい。
 宮教大さんが3月、4月と続けて公演をなさるとのこと、今からとても楽しみです。胸をワ
クワクさせて、お待ち申し上げます。
 また、昨日「升孝一郎とがらくた本舗」さんの「ワガクニ」を鑑賞してきまして、この作品
についての劇評は、また改めて書き込みたいと思っているのですが、宮教大演劇部から客演さ
れていた高橋美峰子さんの演技が大変素晴らしいものだったことだけは、取り急ぎこの欄で報
告した方がよろしいかと思い、こうして書き込みさせていただきました。彼女は、シバタさん
が上記で紹介なさっている高橋菜降子さんの妹さんに当たるとのこと、姉妹そろって見事なも
のです。『perfect lives』では、他の役者さんで紹介したい方がたくさんいらっしゃった
ので、彼女については言及しなかったのですが、ミツバというアネゴ肌の颯爽とした研究者を
実に格好良く演じておられたものでした。
 今回は、ちょっと頭がポーッとしている天然ぼけの可愛い大家さん、とい『perfectlives』
とは打って変わった役どころだったのですが、これも観客を惹きつけるかわいらしさで好演。
役者としての引き出しの多さを見せつけてくれました。はっきりいうけど、関・升の両名は食
われてましたよ。例えるなら、ルーキー松坂の輝きの前にくすんでしまっている西武ベテラン
投手陣、とでも申しましょうか。この2人も、昔は輝いていた時期があったんですけどねえ。
 
 客出しの時伺ったところ、美峰子さんも今年は4年で就職活動のため、演劇部には出ない予
定とのこと、とても残念です。せめて、3月の卒業公演で、姉妹そろって花道を飾っていただ
けないものでしょうか?
 

[2000年1月24日 9時26分4秒]

  お名前: シバタ・テツユキ   

 初めまして。昨年の宮城教育大学演劇部本公演『perfect lives』において演出を勤めました、
シバタテツユキと申します。太田さんがウチの大学の公演を大変好意的に見てくださっていることは
部員一同存じており、大変うれしく思っております。
 さて、本日何気なくネットサーフィンをしておりこのページにたどり着いたのですが、水上さんの
劇評、大変堪えました。私はあの公演には大変思い入れがあり、役者の力を最大限に引き出した今の
宮教演劇部においてできる最良の作品を作ることを目標としておりました。しかし私の公演日までの
日程の詰めの甘さと、創造力の至らなさが役者の力を引き出しきれず、私にとって大変変辛い公演
となり、公演後私はお金を払って見て下さったお客様に会わせる顔がなく一人楽屋口で涙をこらえて
じっと耐えておりました。しかし芝居後のアンケートには好意的に書く方が多いせいか、その後私の
耳に入るのは大変うれしいお言葉ばかり、「あの芝居は成功だったのか?」私の中での苦い思い出が
薄れてきた今日この頃、ガツンと来ました。今苦しくて死にそうです(苦笑)とくに最後のお言葉、
「もうここの芝居は見ない。」それはご勘弁を…。私もMOTHERの『perfect lives』を見ており、
水上さんがおっしゃる通り似たシーンが多いことは否めません。しかし、ウチなりに作り上げた
シーンも多いんです。オープニングはまるっきり違いますし、ダンスは曲を変更し、振り付けは
部員によるオリジナル。音効もMOTERと同じ物は作品上残さなければならないものに限定し、
一部部員が作曲しております。台本もより効果的に作品を伝えるために一部手を加えております。
ですからこの努力をかって再度ウチの公演に足をお運び頂けないでしょうか。お願い致します。
 さてさて、只今我が宮教大演劇部では三月上旬に卒業公演と題しまして、本年度卒業予定の
部員中心による、高泉敦子作「ライフレッスン」を予定しております。場所、チケット代(多分無料)
等まだ未定ですが、『perfect lives』でナノ役を務めました高橋菜降子(本学四年)。
ナガミネ役を務めました菅野準(本学三年)などが出演致します。詳細が決まり次第様々な形で
広報致しますので、どうか足をお運び下さい。
 また四月中旬には宮教大演劇部第四回春公演と題しまして、古城十忍作、「ONとOFFのセレナーデ」を
本学講堂にて無料で上演致します。詳しい日程はまだ未定なのですが、どうか頭の片隅においといて下さい。
宮教も世代交代がおこっております。常に部員一同更なる飛躍を目指して日々練習に励んでおります。
どうか皆さんお忙しいことと思いますが足をお運び下さい。そして私もよりいっそうの精進を心がけていきます。
 長くなりましたが最後までつたない文章にお付き合い頂きありがとうございました。
 

[2000年1月24日 0時33分58秒]

 

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鳥の庭園 西瓜ソロ公演「野火」 

お名前: 水天堂    URL

舞踏は「死と再生」がテーマだと以前何かで聞いたことがあります。
全てがそうではないのでしょうが、今回の「野火」は、正に「死と
再生」の舞踏であったと思います。
前半は、死と生の狭間にいる者。後半はそこから再生し、生き生き
と躍動する者と私は感じました。
いつもの西瓜さんの舞踏だと、さらに死への狭間に行きかけて終る
ことが多かったように思うのですが、今回はちょっと違い、なんとも
優しい感じに終っていたように思います。
仙台でこれだけ踊れる舞踏家は寡聞にして他に知りません。
また、場所もいわく付きで、衣装も面白い。
面白かった。
 

[1999年12月27日 1時43分3秒]

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もしもしガシャ〜ンプロデュース「逃げようよ・そ・そ」 

“70年代のテレビドラマか。”

お名前: あんもないと   

 
 これはロケットハウスの劇評からの言葉だが、本公演に関して感じたのは、
なぜ、この若手ユニットが、往来のテレビドラマ風芝居に取り込むのか、
70〜80年代風人情的スチュエーションから新しい発展はあるのだろうか。
芝居が始まってから考えていたことはその一点だった。
 
 現在の芝居がより、映像的であることは私たちがTVやマンガというマス
メディアからカルチャーの洗礼を受けたことの影響は大きい。だからといっ
て、映像世界の持ち味をそのまま舞台にあげていいのだろうか?という疑問
を持ち続けていた。しかし物語が進むにつれ、実は私が感じているホームド
ラマ的物語から既に次の段階に入っていて、同じドラマを舞台と客席から見
ていながら「もしもし」の人たちは違う映像を結んでいるのではないかとい
う思いがしてきた。
 太田氏も書いているように、全編通して保たれた「緊張感」は芝居ならで
はのものであり、ホームドラマが持つ着地点がはっきりしている安心感とは
相反するものである。彼らがあえてあのホームドラマの構造に緊張感(着地
点がはっきりしない不安感)を持ち込もうとしているならば、それは「静か
な芝居」への次のステップになりえる。 
 ただし、今回の「緊張感」という持ち味に関していえば脚本や演出のため
とは言い切れず、それぞれ役者が持つキャラクター性に頼ったところが大きい。
 
 特に私が注目したのが、渡辺氏である。
私が同氏の芝居を見たのが今回で2度目になり、新月列車「地上まで200m」
での役が印象的だったことを差し引いても、彼は自分で想っている以上に存在感
がある。
 存在感というより今回に限り「威圧感」と言い換えていいかもしれない。最初
たかはし氏との何気ないやりとりにさえも、必要以上に「期待(次に何が起きる
のかという不安)」を感じてしまう。それはたぶん「ため」「間」を置いてやり
とりをしてしまうせいではないだろうか?どうしても、同僚との軽妙な会話とは
言い難い。また、彼は目で芝居ができる人だと想うのだが、「地上まで〜」でい
かされていたその目の演技も、今回のような、自然なシュチュエーションの中で
は「威圧感」としてマイナスに目立ってしまったようだ。
 そしてもう一点、劇中で営業マンとしてシーン(例えばナツミへの応対など)
「日常を演じながら、イレギュラーな日常を演じるシーン」でどうしても必要以
上の力みが見えるような気がした。営業マンを演じているというのが逆に演じて
いる渡辺氏を浮き上がらせているように感じてしまうのである。
 その点、たかはし氏のナツミへの応対はより自然に思えた。
 演出/構成の点でいえば、ラスト近くで、ナツミしか知らない社長との
やりとりを回想する前に「3週間前」という文字看板を持たせたことはどうして
も違和感を覚えた。前半で述べたように映像的には「あり」な手法かもしれない
が、せっかくナツミが一人になるという場面で、しかもキーワードになる「林檎」
もあるのだから、彼女の回想、モノローグとして描くことは出来名なかったのだ
ろうか。
 社長とのエピソードがどうしてもラストにくるというのは、構造上よくわかるのだが、
「文字」の提示によって、劇中の時空間がゆがんでしまう。まして、この芝居は
時系列に丁重に語られてきたはずである。
 その点だけが大変気になった。
 今後、渡辺氏をはじめとする役者陣がこの「ホームドラマ的静かな芝居」にど
う取り組んでいくのか、より自然に、より緊迫感をもっていくのか、大変楽しみ
である。
 

[2000年1月28日 17時1分45秒]

お名前: たかはしみちこ   

あたってる、かな。
 

[2000年1月22日 20時44分20秒]

お名前: 太田 憲賢   

 2時間の公演を見終わったあと、ひどく肩が凝るというか、ああ、疲れたなあ、と思わ
せる芝居であった。なぜそう思わせるかといえば、最初から最後まで芝居に緊張感がとぎ
れなく続いていたためであり、その意味では、ダラダラと緊張感なく展開する退屈な芝居
が多い仙台演劇界においては、本作の演出家・奈尾真君の才能は高く評価すべきだろう。
しかし、見ている間退屈しないのはいいとしても、見終わった後、疲労感が第一印象とし
て強く残る(感動や満足感よりも)ということは、ベターではあってもベストの芝居とは
いえないように(ゼイタクな要望かもしれないが)私には思えるのだ。
 では、なぜ本作ではそれほどまでに緊張感を観客に強いるかというと、結論から言って
しまえば登場人物の性格設定にある。ここ何件か、私は「自分探し」をテーマとした作品
を高く評価する劇評を書いてきた。なぜ、「自分探し」をテーマとする芝居に私が感動す
るかといえば、「自分探し」をする登場人物に、私が自分自身を重ね合わせる、つまり感
情移入をしているからである。これに対し、なぜ本作が疲労感を持たせる芝居になってい
るかといえば、登場人物の性格が私に緊張感を強いるからだ。要するに、登場人物が私に
とって「他者」である、つまり自分を重ね合わせられないからこそ、緊張もするし、感情
移入までいかないのだ。
 わかりやすい例を挙げよう。例えばあなたが人見知りをする人間だったとしたら、初対
面の相手には緊張するだろう。もちろん、人見知りをしない人間だったとしても、やはり
初対面の相手と何かの都合で会うときは、すぐに打ち解けるというのは難しいものだ。ま
してや、相手が何を考えているかわからない人間だったり、見るからに怖そうな人間だっ
たりしたら、なおさらだろう。で、本作に登場する人間達は、1人の脇役を除いて(取引
先の社長)、みんなある意味何考えてるかわからなくて、コワ〜イ連中ばっかりなのだ(あ
くまで私にとっては、だけど)。
 この「もしもしガシャ〜ン」というユニットは、奈尾真君と渡辺淳君の二人で立ち上げ
たものだそうだ。この二人については、この1年で急速に伸びた印象が強いが、今年見た
彼らの作品、例えば「熱海殺人事件」にしろ「ポレポレ鳥」にしろ、あるいは渡辺君だけ
が出演していた「地上まで200m」にしろ、彼らの役どころってみんな怖いモノばっか
りなのだ。じっと無表情でうつむいている。あるいは笑顔で話をしているが目だけは笑っ
ていない。そして、突然の暴力!殴る!蹴る!。同じ「静かな演劇」でも、映画に例える
なら、決して大林宣彦ではなく、間違いなく北野武的ムード。この二人が中心となるユニ
ットである以上、今回の「逃げようよ・そ・そ」にも、同様の雰囲気が舞台を満たしてし
まうのは、ある意味必然といえよう。
 そして、奈尾君が演出である以上、この役作りは他の役者にも伝播する。本作は、小さ
な骨董屋を舞台にしたもので、ある日社長の奈尾君が気まぐれで採用した女の子が、突然
会社にやってくるところから物語は始まるのだが、この女の子を演じた久慈貴子さんが、
また怖い。彼女は劇団ピアスからの客演で、「夏の砂の上」の時は、カワイイんだけどダ
ラダラした演技をするなあ、という印象が残っているのだが、今回はその能面のように張
り付いた笑顔が、心底では何を考えてるかわからない恐怖感を見るものに与えており、実
際、彼女は社長の奈尾君が丹誠込めて作りかけていた商品のタンスを、いきなり、衝動的
にハンマーで破壊しようとしたり、得意先の社長が、自分の妻と奈尾君が駆け落ちしたの
ではないかと心配になって奈尾君の会社を訪問した時も、突然狂気じみた哄笑を発したり
するのだ。
 私の愛する女優、たかはしみちこさんにも同じことがいえる。彼女の場合、場の雰囲気
を無視してまで自分の個性を強調しない演技をすることが、長所でもあり場合によっては
欠点にもなっていると思うのだが、以前に私が「静かな演劇にもチャレンジするべきだ」
と書いたとおり、少なくとも「埋み火の駅」や「熱海殺人事件」よりも、本作の静かなム
ードに合わせた演技をすることが、彼女の良さを生かしていたことは確かだ。しかし、同
時に私が「女優論」で引き合いに出した、大林映画的センチメンタリズムを彼女から引き
出す演出ではない以上(先にも書いたように本作は北野的だったから)、彼女の静けさは、
むしろ見るものに「突然切れる怖い女」という恐怖感を先に持たせるものになってしまう
(実際、顔で笑っていながら、誰も見ていないところで未使用の鉛筆を素手でまっぷたつ
に折ることがストレス解消法だったりする役なのだ)。
 私が思うに、たぶん奈尾君という人は、ダンディズムを強く持った人で、自分の弱さを
さらけ出したり、自分の内面を他人に見せたりすることは、とってもカッコ悪いことだと
いう気持ちが強いのではないだろうか。深読みかもしれないが、本作の冒頭が、アニメ「ル
パン三世」のオマージュになっていたことも、彼のダンディズムを象徴していることのよ
うに思われてならない。だから、必然的に彼の作る作品はハードボイルド的なものになら
ざるを得ず、自分の弱さをハッキリ出すような人間は、逆に笑いの対象にされてしまうの
だろう。本作でいえば、取引先の社長がそうだ。彼は骨董屋に来る度に、自分の若い妻の
ことを、のろけるのを楽しみにしているような人間だ。のろけるという行為は、おそらく
奈尾君的ダンディズムの基準からいえば、格好悪いことだろう。しかし、思わずのろけず
にいられない、という社長の内面の弱さに私は好感を持ったし、妻が奈尾君と駆け落ちし
たのではないか、とおろおろするシーンでも、残りの登場人物は奈尾君の味方だから、彼
が困っている気持ちも無視して大笑いするわけだが、私はこの可哀想な社長の方に強く感
情移入せずにいられないのである。
 最後に念のため書いておくが、本作は作と演出が、同一人物(奈尾君)のものであった
が、例えば演出を「ロケットハウス」の人がしたら、ずいぶんと印象の変わったものにな
ったのではないだろうか、という感想を持った。売れない骨董屋に集う似たもの同士が送
る日常、というテーマは、ロケットハウスの志向しているものに似ているし、おそらく彼
らが同じ本作を演出したら、とっても暖かい感じのほのぼのとした作品になったような気
がするのである。その意味で、柔軟性があり、解釈の幅の持てる脚本だと思うので、他の
劇団が本作を再公演するのを見たい気が強くする作品であった。
 

[1999年12月24日 17時11分29秒]

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IQ150公演「夢幻少女'99」 

お名前: Miss   

 

夢幻少女は、よしえという少女、少女といっても二十歳を越えているのだが、その少女の追憶作品として作られた。

それからどんどん変わってきて、今回は東京公演もするそうだ。

ちなみに私が一番好きなところはゲットアップとドカタです。

よしえちゃんがなんか可哀想なかんじですね・・・・・

 

[1999年12月16日 18時50分14秒]

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劇団*翔王シアター 「全自動サンタ機」  

お名前: 関ステレ夫   

 

すいません。細かいことなんですが、学天則は帝都大戦ではなく帝都物語にでてきます。

二代目黄門さまの博士が泣かせます。では。

 

[1999年12月6日 17時52分51秒]

 

 

お名前: 関 ステレ夫   

 

やっぱり、書いてしまうのねん。

さて、下町ロボット物である。

この手の話には弱いのだ。がんばれロボコン、ロボット八ちゃんなど、機械ゆえ人には

できないことが出来てしまうが、機械ゆえの悲しさか人の世界では失敗ばかり。

なれど、その一途さで人の忘れていた何かを思い出させてくれる。

そういえば、帝都大戦の学天則などもよかったですなあ。

 

 途中、西岸良平かあ!!(漫画家 代表作 三丁目の夕焼け・蜃気朗など)とつっこみも入

れたくなったが、年季を感じさせるいい芝居だったじゃありませんか。台詞もぐっとき

たし。

 

惜しくは、ラストの三段がまえはちょっと間延びに感じた。

 あと、ラストのサンタの袋にはプレゼントが入っていて、なんだ会場に配るのか、と

勝手に期待してたらそんなことはなかったので、ちょっとわくわくした自分が恥ずか

しくなった。ああ、罪作りな演出だ。だって、スポットで袋が置いてあって、メリー

クリスマスって書いてあるのだよ。期待したっておかしくないじゃないか。ああ書い

てたら、また恥ずかしくなってきた。

 

しかし、今年の翔王は前回のRED ZONEといい好調だったなあ。

 

[1999年12月6日 17時48分18秒]

 

 

お名前: 瀬戸紫帆   

 

”劇評”とか大それた事は言えませんが、翔王シアターの芝居は、好きです。

私は、役者がとっても気に入っています。特に「誰がすき」と言う訳ではなく、

毎回違うキャラクターを(当然かもしれませんが)それぞれがなりきっていて、

私達が安心してストーリーに入っていけるのです。

今回もきちんと笑わせて頂きました。また次の作品が楽しみですね。

 

[1999年12月5日 18時2分42秒]

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宮城学院女子大学演劇部公演「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」 

お名前: 太田 憲賢   

僕はこの「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」という作品が、すっごく好きで

ねえ。今まで3回見てるんですけれども、何回見ても飽きません。それどころか、見る度

に感動が大きくなってくるような気さえします。

 初めて見たのは、作者の前川麻子本人のプロデュースによるもので、2度目に見たのは

翔王シアターB−6unitによるものでした。特に初めて見た時というのは、もう7年

前の、やはり12月のことでして、僕は当時東京に住んでいて、会場が高円寺の明石スタ

ジオだったのですが、終演後に前川麻子本人と手塚とおるの2人による即興劇が、プラス

1000円のオプションで見られたという、今にして思うと信じられないくらいゼイタク

な公演でしたねえ。

 以前に宮教大の「Perfect Lives」について、水上駿さんが僕に対する反

論として、オリジナルとの比較として良くない旨のことを書かれていらっしゃいましたが、

僕が今回の「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」を見て思ったのは、むしろ逆の

ことで、原作が名作だと、たとえアマチュアや学生劇団が公演しても、やっぱり感動させ

られるんだよなあ、という感想を持ったのでした。それは、クラシックに例えるなら、今

ぐらいの年末になると、どこでもベートーベンの「第九」が流行るのですが、やっぱりア

マチュアの合唱団の歌でも、歌い手の情熱や曲に対する愛情が伝わってくると、曲自体の

名作の度合いと相乗効果を上げて、感動を観客側に与えてくれるんですね。

 こんなことを書くと、今回の出演者の演技がイマイチだったのか、という誤解を与えて

しまうかも知れません。しかし、決してそんなことはなく、登場する4人の役者さん、皆

いい演技を見せて下さいました。特にニ子役の伊藤美樹子さん!往年の筒井美筆さんを思

わせる美形キャラで、こういう人がボソボソと、自己嫌悪のモノローグを語るシーンには、

本当にこちらの胸がズキズキ痛くなってくるのでした(そういえば、筒井さんも確か宮学

演劇部のOGだったはずですよね・・・)。

 ストーリーを御存じない方のために、簡単に紹介しますと、登場人物は女子中学生3人

(イチ子、ニ子、サン子)と、イチ子に片思いをする青年・シロウの4人。表面的にはカ

ル〜イのりで毎日を過ごしている3人の女の子ですが、シロウの登場によって、自分の内

面にある自意識過剰と自己嫌悪が明らかになっていき、3人の思いが雪だるま式にシンク

ロすることで膨らんでいくことによって、最後は3人で飛び降り自殺をする、という内容

です。

 僕がこの作品をなぜそんなに愛するかというと、僕自身が自分で自分のことを大っきら

いな人間だから、後半の登場人物達がモノローグによって繰り広げる自己嫌悪の嵐に、も

のすごく反応してしまうんですね。以前に無国籍の「口実クリーニング」について、僕は

「(自殺志願者達が)心に抱いている屈折が見えない」という劇評を書いたのですが(こ

の劇評は別の部分が論議になってしまいましたが・・・)、「口実〜」で見えなかった、

死にたい人間の内面描写の模範解答を、本作はこれでもか!これでもか!と見せてくれる

ところが素晴らしいんですよ。ラダ・トロッソの安藤敏彦さんが、僕の問題提起に対する

御意見として、最近自殺者が多い中高年者を登場人物にしなかったからではないか、とい

う趣旨のことを書かれておられたのですが、僕は、いや、そういう経済的なものという理

由がハッキリしている自殺と、「口実〜」で登場人物の言う「ぼんやりした不安」といっ

た内容の自殺は、質的に違うんではないか?という疑問を持っていたのですが、例の別の

議論の方が盛り上がってしまってので(苦笑)、そのまま反論を書かずじまいにしていた

んですよ。そういう若者が中心に持ちがちな、「ぼんやりした不安」というものの具体的

姿が、この「センチメンタル〜」に見られる、自意識過剰と自己嫌悪なんだと、僕は思い

ます。そんな僕が、安藤さんの脚本による、老人の死を題材にした「his icon」

を、何となく見る気がおきないなあ、とサボってしまい、宮学の「センチメンタル〜」に

は、喜んでいそいそと見に行くのは、だから必然的帰結なんですよ。

 あと、ストーリーとは直接は離れますが、この作品の魅力はなんといってもセーラー服!

以前にB−6unitが公演した時は、茶色の幼稚園児が着るようなスモッグを3人の女

の子が着ていたのですが、確かにあれも可愛かったんだけど、やっぱり女子中学生といっ

たら、今回の宮学のように、黒のセーラー服の胸に赤いリボン、これが王道でしょう!。

と、美少女大好き人間の太田としては、強調しておきたいところですね(笑)。

 一つだけ残念だったのは、宣伝が足りなかったせいかお客さんが10人ちょっとしか入

っていなかったこと。今日(12月15日)の6時30分からも、エル・パーク仙台ギャ

ラリーホールで公演がありますので、そこの自分で自分がキライでしようがないアナタ!、

それからそこの肥大化した自意識を押さえきれないアナタ!、是非見に行って下さいよ。

見終わった後、死にたくなること請け合いですよ〜!(笑)。

 

[1999年12月15日 9時34分57秒]

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劇団ウインドカンパニー第3回公演「誘惑の天使」 

お名前: 太田 憲賢   

 

 下の書き込みで私は、「まだ3回しか公演していない彼女らが、これだけのストーリーを書

き上げているとは」と書きましたが、実は本作は以前に宝塚で公演された脚本だそうです。

 誤った情報を書き込み、関係各位に御迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げ、並びに訂正

させていただきます。

 

 それにしても、宝塚ってあのようなB級の味わい深い作品を公演していて、しかもそれが、

好評を博しているとは・・・(12月17日「OH!バンです」より)。宝塚、あなどりがた

し!!と言わざるを得ませんねえ。

 

[1999年12月21日 9時55分50秒]

 

 

お名前: 太田 憲賢   

 

 ここのところ、私が扱う劇評は「自分探し」をテーマとしたものが多かった。もちろん、

私自身がそういったテーマに関心があるということも採り上げる理由なのだが、では、逆

にそれら小説でいえば純文学的なものとは対照的な、徹底したエンターテイメント志向の

芝居が嫌いかといえば、そんなことはない。娯楽作品には娯楽作品の面白さがあるし、多

様な価値観を同時に愛することができるのが、本来人間というものだろう(少し、大げさ

な言い方かな?)。実は、これから紹介する劇団ウインド・カンパニーの「誘惑の天使」

という作品が、まさに徹底的にエンターテイメントを極めた大河ドラマ的傑作だったのだ。

 舞台はソヴィエト崩壊後のロシア。主人公のミハイル・コルサコフは元バレエ・ダンサ

ーだったが、今は元教会を改修したクラブの店長になっている。そんなある日、かつての

プリマドンナで、彼の相手役だったタチアーナが彼のもとを訪れる。2人はかつて共に亡

命を計画したのだが、彼女だけが成功し、失敗した彼はKGBの手により収容所へ送られ

たという苦い過去があったのだ。彼女は亡命先の米国で、亡命を手助けしてくれた米国人

・レオナードと結婚したのだが、商用でロシアを訪れたレオナードが突然行方不明になっ

てしまう。彼女は手がかりを求めてモスクワの町を歩いているうちに、ふとした偶然から、

ミハイルのクラブを訪れたのだった・・・。

 どうです、設定からしてドキドキワクワクさせてくれる内容でしょう!。そして、物語

はロシア正教で用いられる、天使が描かれているイコン(宗教画)に秘密の暗号が隠され

ている(天使にそれぞれ番号がついているという設定が、「天使は瞳を閉じて」にシンク

ロしていていいですね)、旧KGBがスイス銀行に残した多額の隠し財産をめぐり、ロシ

ア・マフィア、旧KGB、新興宗教団体の3つどもえの争いが展開し(レオナードも実は

その争奪戦に1枚噛んでいたことが、のちのち明らかになっていく)、ミハイルも次第に

その争いの中に巻き込まれていくことになる・・・。

 これら各種団体の暗躍や、ミハイルと彼らとの戦い、そしてバレエダンサー時代の思い

出や、さらには歌や踊りが次々と舞台上に織りなし、見ている観客に退屈する隙を1分た

りとも感じさせないのだ。まだ3回しか公演していない彼女らが、これだけのストーリー

を書き上げているとは、本当に驚かされる。だらだらしたテンポの芝居を繰り広げる退屈

な劇団が仙台には数多いが、ぜひウインド・カンパニーの芝居をみて、学ぶべきところは

学んでほしいと痛感した次第だ。まだまだできたばっかりの劇団に、どうして我々数年の

キャリアがある劇団が学ばねばならないのか、などという下手なプライドは捨てるべきだ。

仙台高校の芝居をみて、30代の太田が高校生に教えられた、という劇評を以前に書いた

が、本当によりよいものを作りたい、と各劇団の皆さんが思っておられるのなら、キャリ

アや実績など二の次と考えるべきではないだろうか。

 まあ、そうはいっても、以前に「的を外す楽しさ」でも書いたが、屈折した私が彼女ら

のストーリーをストレートに受け止めてだけ楽しんだのではないことは事実である(笑)。

マンガでいうなら、「巨人の星」で、目の中に炎が燃えているシーンが、のちのち「すす

めパイレーツ」や、ほりのぶゆきの短編などでパロディー化されたように、大仰で味の濃

い作品というのは、どうしてもパロディー化した視点で、笑いの対象として楽しまれてし

まいがちである。ウインドの芝居も、国際舞台を背景にした、怒濤の愛と野望が渦巻く世

界なわけだから、これはどうしても大げさな場面が頻出してしまい、つい笑ってしまうシ

ーンもまた続出するわけだ。もちろん、これは彼女たちの芝居が劣っているということで

は決してなく、太田の視点が、いわゆる「オタク的屈折」に満ちているというだけの話な

ので、ウインドの方々には、私の笑いを決して失笑とは受け止めないで、自信を持って、

今の路線を続けていって欲しいものである。

 とはいいつつも、ついつい書いてしまうのが太田の業なのだが(笑)、実は元KGBの

三人組のリーダーは、金髪が多い役者陣の中で、黒髪の七・三分けに、黒ブチ眼鏡、それ

にこげ茶のスーツといういでたちだったんだけど、なんか元KGBというより、どっかの

人口五万ぐらいの市役所の庶務課長って感じだったぞ(笑)。私の隣で見ていた佐々木久

善さんが(最近、休筆が長いので、ぜひ本作の劇評は書いて欲しいです)、「シア・ムー、

えずこシアターと並ぶ、今年の仙台演劇界の三大課長だ!」と言っていたのが、なんとも

爆笑もんでした。そして、この元KGBの三人が「KGB復活の歌」というのを熱唱する

のだが(「この世に秩序は必要だ〜」とかなんとかいう、なんだか物凄い歌詞だった・・

・)、なんか昔のタイムボカンに出ていた例の三人組みたいで、そのトホホ感がなんとも

たまらない!(笑)。いい味だしてたなあ、本当。

 さらに、それを上回るトンデモだったのは、後半登場する新興宗教・ルシファー団の教

祖様!。純白のゴージャスな衣装に身を包み、拉致したレオナードに向かって、「君と僕

はずっと一緒だよ・・・」と、甘く囁きかけるところなんか、まさに「やおいマンガ」的

世界が爆発!って感じで、もうサイコー!(笑)。絶対、ミイラとか作っていそうな怪し

い雰囲気プンプンだったもんなあ(笑)。

 

[1999年12月5日 12時16分16秒]

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劇団 猫原体 第3回 「月への慕い」 

お名前: 関 ステレ夫   

 

 パラレルワールドに迷い込んだOLさんのお話で、嫌いではない(基本的にほのばのしたSF

は個人的に好き).

 

 パラレルワールドに迷い込んだOLさんが、理不尽な現社会システムをデフォルメしたような

パラレルワールドの世界のなかで翻弄される。その世界ではイリーガルな酒、タバコ(見つかっ

たら死刑)を取り扱う地下バーでの店のママ、常連客達との交流(常連客の1人が恋に悩みOLさん

のアドバイスを言葉以上に間に受け王子さまにコスプレして登場しバー内で寸劇がはじまるのが

面白かった。)を通して本来の明るさを取り戻していくのだが、常連客(前出の王子様)の逮捕を

きっかけにママは店を閉め、自殺してしまう。混乱する主人公は、店の常連であったアキラにマ

マのメッセージを伝えれられ、元の世界に帰り、自分の力で世界を切り開いていこうと決意す

る。

 舞台効果に気を使ったムードのあるつくりを感じさせる。転換には引き幕、落とし幕(これは

効果)を用意し(会場にはその設備はない。)効果をあげていた。

 

 できとしては、作品全体の解釈が脚本部、演出、役者個々人、に未整理な部分が多かったの

ではないかと感じた。しかし、見所も多くこれからが楽しみな面々である。

 

 月と言う言葉には、何かしらノスタルジックな別世界の響きがある。まあ、ルナティクといえ

ば狂気の意でもある。

  [1999年11月27日 18時56分30秒]

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宮城教育大学演劇部「Perfect Lives」 

お名前: 太田 憲賢   

 

 しかし、水上さんって僕が感動したっていう芝居でことごとく寝る人だよねえ(笑)。単に

睡眠不足なだけじゃないの(笑)。

 僕はオリジナルを見てないので、オリジナルとの比較は何とも申し上げようがありません。

きっと、オリジナルはこの公演を越えるものすごく感動的なお芝居だったのでしょう。そうい

うお芝居を見られた水上さんに対しては、素直にうらやましいなあ、と思います。

 そういうわけで、ここで水上さんの書かれている「模倣が中途半端」というご意見には、な

んとも反論のしようがないのですが、要は100点の芝居を見た後で80点の芝居を見ても、

物足りないと思うのに対し、もともと80点の芝居を見てない人間は、80点でも感動するっ

てことじゃないですかね。それ以上は、「何を見ていたのだろう?」と聞かれても、最初に書

いた以上のことは書けませんねえ。

 

[1999年11月25日 10時17分56秒]

 

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お名前: 水上 駿    URL

 

 はっきり言ってオリジナルのまんま(笑)。正直言って途中で寝た。太田と言う人は何を見て

いたのだろう?

 ひどいのはオリジナルを模倣しようとして模倣し切れなかった中途半端な出来。

 真似して楽しい?って感じがした。もうここの芝居はみない。

 

[1999年11月24日 16時54分23秒]

 

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お名前: 太田 憲賢   

 

 私は常々、作り手の視点とは違った視点での楽しみ方などを提唱していることもあり、皆様

にはひねくれた鑑賞法ばかりしている奴のように見えるかもしれませんが、作り手の作品内容

が素晴らしいものであれば、なにもわざわざ屈折した見方をせず、素直に感動するのは当然の

ことです。ただ、そういう芝居がなかなか少ないという現状を私は指摘したいのです。

 しかし、これから紹介する宮教大の「Perfect Lives」は、ストレートに見て

も感動する希有なものでした。こういう芝居が見られると、本当に心から嬉しく思います。

 舞台は近未来のクローン人間を秘密裏に開発している研究所でのもので、五年間の記憶を消

された主人公の科学者が、何者かに襲われ逃亡しているうちに、ある恐るべき秘密計画が浮か

び上がってくる。その中に恋あり、友情ありといった盛りだくさんなもので、2時間10分の

大作でした。

 学生演劇で2時間以上なんて途中でだれるんじゃないか、という懸念を隣に座っていた佐々

木久善さんなどは開演前におっしゃっていたが、私はそんなに心配していませんでした。とい

うのは、前回公演の「天使は瞳を閉じて」は2時間30分と、もっと長い芝居であったにもか

かわらず、最後まで飽きさせず見せることに成功していたからです。

 なぜかといえば、この劇団の役者のレベルがみな高いからです。ストーリーの中にギャグを

ちりばめているシーンがかなり多いのですが、いくら脚本のギャグが面白くても、肝心の役者

が「ボケ、ツッコミ」のタイミングなどをうまく演じなければ、客席は白けてしまい、かえっ

て本筋とは関係ないシーンが多いことが、だれる原因になる危険性にもつながるのですが、彼

らの笑わせるタイミングは、実に絶妙なのです。「ピアス」や「山全」の役者陣など、弟子入

りして一から教えてもらったらいいんじゃないか、と思ったぐらいでした。

 もちろん、ギャグだけが素晴らしいのではありません。例えば主人公役を演じた菅野準さんは、

善人と悪人の1人2役というとても難しい役どころであり、しかも2時間10分ほとんど

出ずっぱりにも関わらず、見るものに不自然さを感じさせず演じ分けていたんだから本当に大

したものでした。また、クローン人間で、成長が普通の人間と違い、1週間で死ぬように設定

されているという悲劇のヒロイン役を演じた高橋奈穂子さんも、役柄の関係上、少女からギャル、

おばさん、老婆のすべてを一つの物語の中で演じ分けなけらばならなかったのだが、これ

がまた巧いんだ!例えていうなら、まるで松坂慶子を見ているような感じでした。

 それぞれの年齢がどれも不自然なく演じているんだから、ビックリしてしまいました。こん

な上手な女優さんが仙台にいたなんて!しかも4年生で今回が最後の公演だなんて!今までど

うして学生演劇だというだけで、アマチュア劇団よりレベルが低いんだろうな、というレッテ

ルを勝手に貼って見なかったんだろう、と後悔することしきりです。その意味でも、今回の演

劇祭でも高校演劇を特に熱心に見ているようにしているんですけどね。本当に、学生演劇に弟

子入りした方がいいんじゃないか、ていうアマチュア劇団たくさんありますよ!これからは、

社会人劇団は本当に好きな数劇団だけを見て、後は学生演劇鑑賞に専念しようか、とすら考え

ているくらいです。

 もちろん、今述べた主役級クラスに宇限らず、準主役、脇役もみな上手で、いちいち書いて

いたらキリがないので、以下申し訳ありませんが省略させていただきますが、個人的好みで1

人だけ紹介しますね。研究員の1人で、天然ボケ的なキャラクター役の笹本愛さんが、とても

かわいくてよかったです。前回の「天使は瞳を閉じて」でも、ぼけるシーンでの演技がとても

面白かったのですが、その時はシリアスな役柄だったため、その魅力を完全には出しきってい

なかったのです。でも、今回は役柄がもともとの彼女の個性にあっていたようで、とても楽し

く拝見することができました。トロンとした大きな瞳が、手塚のぶ絵さんを連想させますが、

彼女をさらにグレードアップした力を持っているように感じました(手塚さん、引き合いに出

してごめん。でも、本当によかったんだ、この子)。

 最後に1つだけ残念だったこと。前回「天使は瞳を閉じて」で天子役を演じて、私がこの欄

で「涙が出た」と書いた吉田みどりさんが今回は裏方に回られて出演されていませんでした。

もちろん、いろんな経験を積まれることはとても大事なことだと思いますが、僕は彼女の何と

もいえないオーラがとても好きなんだよなあ。一観客のわがままな希望として聞き流していた

だいてもかまいませんが、次回公演では再び役者としての御出演を、ぜひお願いします!

  [1999年11月15日 11時51分11秒]

 

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三角フラスコ公演#009「ミカン」 

お名前: 太田 憲賢   

 

 例えば冷たい日本酒を飲んだ時って、その場では大して酔っぱらってないなあ、と思ってい

ても、後になってからジワジワと効いてくることってあるじゃないですか?お芝居の中にも、

そういう冷や酒みたいなのがあるんだよねえ。例えば、去年の演劇祭で見た「在」(現「山

全」)の「あいたいよー」。物語のテンポがメチャクチャ悪くて、見てる時はものすごく腹立

ってたんだけど、後になってから思い出してみると、登場人物達の孤独な心が、だんだん胸に

染みてきて、「あれって、ホントはいい作品だったんだよなあ。」と、自分の心の中での評価

が徐々に上がってくる。今回の三角フラスコの「ミカン」もそんな作品でした。

 主人公の実香は、複雑な家庭環境が原因で、いわゆる「引きこもり」状態になっている女の

子。しかも、「電波系」の症状も出ていて、巻き貝の貝殻を電話の受話器と思いこみ、そこか

ら流れてくる「ミカン」という人からの「電波」と話をすることを、毎日の楽しみにしている。

 なんで実香が「引きこもり」になってるかというと、彼女と同居しているかな子って女性が

実香の父親の後妻なんだけど、実香とほとんど年が違わなくって、しかも実香とは幼なじみで、

もっとショッキングなことには、どうも実香が中学時代から既に実香の父親と加奈子は同棲し

ていたらしい、という回想シーンが出てくるんだ。これは屈折するよねえ。だって、言葉悪い

けど、「ロリコン親父」じゃないですか。

 この実香の回想シーンで、ロリコン親父がセーラー姿のかな子を抱きしめて、デヘヘヘヘな

んて笑ってる姿でも出てくれば、実香の屈折が、より明確な形で観客にもわかったと思うんだ

けれども、そういう生々しいシーンを出さないのが、生田さんの美学なんでしょうねえ。この

シーンは、実香の一人芝居で処理されていました。もちろん、三角フラスコが今までファンタ

ジー的な雰囲気を重視する劇団であり、そういう生々しいシーンはあまり出したくない、って

いう気持ちはわからないでもない。でも、そういう(あくまで実香にとっての)醜いシーンで

も、それを明らかにすることで、実香が「ミカン」へと逃避する理由もより明確に見えてくる

し、むしろその「ミカン」との幻想シーンをより美しく見せるためのスパイスになりうると思

うんだよねえ。まあ、個人的な好みの問題といわれれば、それまでなんですけどね。

 あと、「引きこもり」っていうのはアダルト・チルドレンの人に似た屈折だと思うんだけど、

通常のアダルト・チルドレンと呼ばれる人たちの物語の場合は、登場人物達は淋しいもんだか

ら、いろんな人たちと接触しようとするんだけど、彼ら本人も歪んでいて人を傷つけやすいし、

また、心の弱い人たちのことだから、普通の人ならそんなに傷つかないところでも必要以上に

傷つくという性癖があるため、結果的に人間ドラマが生じやすい。それだけ、観客が感情移入

しやすいシーンも増えてくるわけだけど、「引きこもり」の子の場合は、内面的にはそういう

アダルト・チルドレンの人たちと同じ寂しさを抱えてるんだけど、彼らとの最大の違いは、も

うあきらめてる、ってことなんだよね。アダルト・チルドレンの人たちみたいに「居場所」や

「自分をわかってくれる人」を探すために一生懸命にならない。つまり、自分を受け入れてく

れる人や場所なんてないんだ、とあきらめているから「引きこもり」になってる。気持ちはわ

かるんだけれども、でも引きこもってばかりいると、今述べたような自分探しをするアダルト

・チルドレンとは違って、ドラマが生じにくいんだね。去年の演劇祭での「すばらしいメガネ」

でも、やはり今回と同じ瀧原弘子さんが主人公だったんだけど、自分の家に「引きこもる」キ

ャラクターだったため、退屈なお芝居になってしまったと思うんだ。

 良かった芝居といってる割には、批判的な文章になってる?それがまさに「ミカン」の冷や

酒的な特長なんですよ。芝居の流れから言えば、だらだらとした退屈なものになっていた。だ

から、実際に見ているときにはイライラしてしまうんだけど、終わった後になってから主人公

の孤独な心を思いやると、ふと涙が目ににじんでしまう。そういう意味で、「ミカン」は「あ

いたいよー」にとてもよく似ているし、心に屈折を持っている人でなければわからない、客を

選ぶ芝居だと思うんですね。

 だから、ある意味エヴァ論争と似たところがあると思うんですよ。わからない人には、「な

んだ、あの作品は!」という怒りの対象になるし、同じ屈折を持つ人には「涙が出た!」とい

う程の高いシンクロ率を示す作品。でも、僕は以前に「わからない奴はわからなくていい!」

という文章をここで書いて批判されたけど、「ミカン」のことをわからない、っていう奴に無

理にわかってもらう必要は本当にないと思うなあ。泣ける人は、自分の心の中に大事にとって

おきなさい、と言いたくなる作品でした。

 

[1999年11月4日 10時9分0秒]

 

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劇団山全「スラップスティック・エロティック」

太田 憲賢   

このお芝居のテーマは、チラシや当日パンフにも書いてある「機械を使わずに子供を作

れるの?」というものだ。舞台は近未来。DNA操作が現在より発達し、子供は全て人工

受精によって生まれる社会で、あえて遺伝子操作をせず生まれた「野生児」の若者7人を

当局が拉致し、機械を使わず子供を作ることができるか実験するという内容であった。

 演劇が「作り物」である以上、現実とは違うフィクションを織り込むこと自体は当然責

められるべきものではない。もし、リアルでなくなるからと全てのフィクションを否定し

たら、SFなど存在自体を否定されてしまう。問題は、メインの設定にフィクションを持

ち込んでも、枝葉の部分にまでウソが満たされれば、今述べたリアルさがなくなるという

危険性が出ることだ。だからこそ、脚本の中には現実に近くしなければならない部分もあ

ると私は考える。

 例えば、「12人の優しい日本人」という芝居がある。これは映画化もされたので御存

じの方も多いと思うが、もし日本にも陪審制度があったら?というフィクションを基にし

た内容であった。ここで、登場人物が皆アメリカ人のように議論好きで、何でも白黒をは

っきりつけたがる人間達であったなら、物語は面白くなくなってしまう。つまり、登場人

物が、議論によって人間関係がギスギスするのを避けたがる典型的日本人であるというリ

アルさが、観客が登場人物に共感させるために必要な要素なのだ。つまり、外的条件にフ

ィクションを入れても、登場人物の心情はなるべくリアルであることが、観客が感情移入

する上で望ましい、と私は思うのだ。

 ひるがえって今回の「山全」である。冒頭に述べた「機械を使わずに子供を作る社会」

という設定はいい。問題はそれに派生して、登場人物が皆セックスの方法を知らない、と

いうフィクションが生じていたことだ。作者は、子供を機械で作るようになれば、人は皆

セックスしなくなるだろうと考えたようだが、本当にそうだろうか?

 私が思うに、これは近未来に限らず現在既におこっていることだが、人間にとって性欲

とは、既に生殖行為から離れて、娯楽・快楽として使われているという事実を本作は見落

としているのではないか?たとえば、ピルやコンドームといった避妊具が現実に販売され

ているのはそのよい証拠だし、また、ソープランドなるものが実際に存在し、女子高生の

援助交際が社会問題となっているのも、やはり人間が性欲を本来の目的から離れた娯楽と

して利用している証明である。

 例えば、これを食欲に置き換えればわかりやすいだろう。昭和30年代頃の「サザエさ

ん」に、近未来では人間はビタミン剤で栄養を摂取するようになる、という四コマがあっ

たが、現実にビタミン剤やカロリーメイトなどが当時より商品として増えた現代でも、食

欲は単に栄養を摂取するという本来の目的を離れ、グルメと称して、よりおいしいものを

食べようとする人間は現実にたくさん存在するのだ。だとするならば、例え機械で子供を

作るようになったとしても、快楽に対して積極的な人間がセックスをしなくなるとは、現

実に考えられないではないか。

 つまり、私が冒頭で言った人間の心情に対するフィクションを本作は行ってしまい、そ

れが作品からリアルさを失わせてしまったように感じるのである。

 ただし、唯一感情移入できる点があった。それは、登場人物のうち2人の男性が1人の

女性を好きになる、いわゆる三角関係になった場面である。1人の男性は、とてもストレ

ートにアタックし、もう1人はムードづくりを巧みにすることによって女性に近づく。で、

結局女性は後者とくっつき、とうとう子供も作ってしまうのだが、前者のストレートな男

性は、正直であることがアダになり、ストーカーに対するのと同じような非難まで浴びて

しまうのであった。「彼は正直なだけなのになあ。」と、似たような経験を何度も持つ私

は、いたく同情してしまったのであった。

 

[1999年10月27日 12時28分11秒]

 

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演劇部隊シンデレラボーイズ「誰よりも高く翔べる方法」 

お名前: 林 公一   

 度々ついでにもう少し意見を。

私は仙台の演劇を良く観るのだが、今年の春にシンデレラに良く似た団体を観つけた。その名も

青葉玩具店である。私は家に帰って慌ててシンデレラのパンフレットをひっくり返したのだが、

ほとんど元劇団員で構成されているのには驚いた(芸名を変えたりしてはいるが)。で、思い出

すと彼らの芝居はシンデレラの模倣なのであった。考えてみれば当たり前の事で、元劇団員で構

成されていれば似ているのはむしろ当然の帰結であったように思う。

私はこの集団は何がしたいのだろう?と疑問にかられた。もし単なる仲間割れで分裂しているな

らこれほど愚かな事はない。色々劇団の事情があるのだろうが、新しい劇団を作ったのであるな

らば、新しい作品を提供しなくては仕方がないように思える。実は私は初日にシンデレラの芝居

を見にいったのだが、丁度青葉玩具店の方々が受付で差し入れを渡しているところであった。

そして私は劇終了後この両団体がどんな会話をするのだろうと、半ばやじうま根性で早めに客席を

出て141のフロア−で待ちかねていたのだが、シンデレラ側は笑顔で挨拶をしていたのに、

対して青葉玩具店側はシンデレラに何の言葉もかけずに顔を隠すようにそそくさと立ち去ったの

が非常に両団体の間にドラマを感じたのである。ちょっと穿った観方をすれば青葉玩具店は、今

度オリジナルを上演する。その偵察に来ていたのでは?などとイジワルな想像も働いたりした。

 シンデレラの模倣をしている青葉玩具店が次回もシンデレラの模倣から抜け出てこなければ、

私はこの団体の存在意義を疑うだろう。

 

 

[1999年11月24日 16時33分11秒]

 

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お名前: 林 公一   

 

 私は旗揚げからシンデレラを見続けている1人である。最近このフォーラムの存在を知って

覗いて見たのだが、シンデレラも劇評の対象になるぐらい認知されるようになったんだなあと、

感慨にふけっている。

 劇評の中でシンデレラは良くも悪くもシンデレラはキャラメルの様式に似通っていると意見が

あったが私はこれは違うと思う。

 というのも、シンデレラは実は10本も公演を重ねていてキャラメルボックスの芝居はたった

の2本しか上演していないのである。後はオリジナルを除けばショーマや三谷の戯曲を上演して

いたのである。私は一貫してこれらの作品群を見ているが、確かにキャラメルを上演している時は

似ているなあと思ったが、ショーマや三谷の作品群を上演しているのを見てこれが、シンデレラの

色なんだなあと痛感させられた。それも演出の「これで作品が似ているなら仕方がないな」

という叫びが聞こえて来た気がしたのである。だからこそ私はシンデレラはキャラメルには似ても

似つかない集団だと思っている。確かにダンスがあったり客席からすすり泣きや笑い声が聞こえて

来るのはキャラメルっぽい。だが脚本は似ても似つかないほどドロドロしている。キャラメルが

甘口の芝居なら、シンデレラは辛口の芝居である。それだけでも私はシンデレラは違うと思う。

だが、シンデレラを敬遠している劇評家は乱暴にキャラメルと似ている集団だと論じている

。むしろ私は劇評家の皆さんにはこの団体の良いところをもっと発掘してほしいと思っている。

 

付記:私も遠藤さんには期待しているが寒河江君も注目してほしいと思っている

 

 

[1999年11月24日 16時2分12秒]

 

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お名前: 太田 憲賢   

 

 シンデレラボーイズの正式名称が「演劇部隊」であるのを、「演劇集団」と間違って記載し

たことをお詫びいたします(私だって、こういう事実関係の誤りに関してはお詫びするのだ。

いつも意地になって謝らないと思ったら大間違いだぜ。)。

 それにしても、佐々木さんの「阿部さん、あなたの演じた山本つぐみはよかった。」という

お言葉、いいですねえ、泣けますねえ!これぞ、ファン心情って感じで、クーッ!

 佐々木さんも、こういう「心の叫び!」的劇評をもっと書いて下さいよ。そして、このコー

ナーを「女優バトル」にしちゃいましょう!(それって、やっぱりマズいか・・・)。

 でも、まじめな話、あのミモザを表した時の「宮城県の宝」以来の心に残る名言(by金野

むつ江)だと思いますよ、佐々木さん。ぜひ、次回も熱い劇評を!

[1999年10月12日 12時49分22秒]

 

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お名前: 佐々木 久善   

 

 まず最初に、太田さんの間違いを訂正しておこう。

 シンデレラボーイズは「演劇部隊」なのであって、「演劇集団」ではない。

 些細なことのように思われるかもしれないが、構成メンバーには深いこだわりがある

ことと思うので、ハッキリさせておこう(そんなたいそうな指摘でもないが)。

 さて本題に入る。

 この劇団の芝居は大好きでしばらく前からよく観ている。前は高橋いさをとか三谷幸喜

の作品などを上演していたが、前回からはMSFシリーズと銘打ってオリジナル台本をや

るようになった。

 そのときに思ったのだが、ここは演劇集団キャラメルボックスの影響をもろに受けてお

り、ほとんど様式模写のようだ。

 今回はその傾向がより深まった。ほとんどキャラメルボックスの作品といっても通用し

そうなくらいである。

 ほめているのか、けなしているのか、ハッキリしない書き方であるが、おそらくそのど

ちらでもある。

 よくいえば、飽きのこない構成と展開。肉体訓練の成果である体育会系の演技。センチ

メンタルな音楽。ハラハラ、ドキドキの2時間半を保証してくれている。

 部隊員のみならず客演者まで体育系に訓練してしまう徹底ぶりに、さすが「部隊」だと

感心してしまう。

 しかし一方その上手さが決して固有のものではなく様式模写によるものであるために、

描きたいものを少しゴマカシていないかという気持もある。展開のために必要な物語とい

うものはあるのだろうが、たとえ下手になっても心から描きたいものには、格別の感動が

あると思う。少し下手になってみるのも必要なときがあると思う。

 とにかく次回の『ラストヴェガ』は楽しみにしている。

 昔、仙台っこに「シンデレラボーイズのチェーホフが観たい」と書いたがその気持は今

も変わらない。

 太田さんにあわせて女優さんのことを書くと、私も遠藤裕美さんは好きなのだが、前回

の『君の瞳に星空は映っているか』に出演していた阿部真奈美さんが今回出演しなかった

ことがつくづく残念である。阿部さん、あなたの演じた「山本つぐみ」はよかった。

 次の舞台での復活に期待しています。

  [1999年10月8日 22時44分1秒]

 

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お名前: 太田憲賢   

 

遠藤裕美さんって超カワイー!

 私が女優のことばかり書いている劇評について、「かわいい女優しか見るべきところ

がなかった芝居」というネガティヴな評価を、嫌味っぽく書いていると思われている方

も多いかと思う。しかし、それは誤解だ。決して皮肉ではなく、他の諸要素に見るべき

ところが全くなかったとしても、女優の存在がとても魅力的なものであれば、私にとって

その芝居はポジティヴな評価を与えるべき芝居なのだ。

 だから、さる9月18,19日にエル・パーク仙台で公演された、演劇集団シンデレ

ラボーイズの「誰よりも高く翔べる方法」についても、私にとっては杉浦虎介役の遠藤

裕美さんが、ただひたすら可愛かったという感想しか持てないものであったけれども、

それは私にとって決してネガティヴな評価ではなく、また一人魅力的な女優さんに出会え

たとの喜びの方が強いのである。

 この物語は廃部寸前の社会人野球の選手が終戦直前の同じ野球部のある会社にタイム

スリップするという話で、当時のその会社は軍に接収されていて、軍人さんが野球部の

部員を兼ねているという設定なのだが、遠藤さんはショートの選手役・つまり男性の役を

演じていたのである。

ここでIQにおける江目ひとみさんと同じ問題が生じる。遠藤さんの持つ魅力は、果た

してボーイッシュなものかどうか?確かに彼女はショートカットで小柄で体も細いという

こともあって、男性の役も無理なくこなしてはいた。しかし、やはり私はもったいない!

と思ってしまうのだ。なぜなら、彼女は男性を演じるには、あまりにも可愛らしすぎるの

である。

今、私の手元には、当日公演の際に配布されたパンフレットがあって、そこには彼女の

写真も掲載されているのだが、これを見てあらためて感じるのは、彼女ってアイドル時代

のキョンキョンとか、元レベッカのNOKKOとか、あるいは岩井俊二の映画「picn

ic」に出てた頃のCHARAに雰囲気近いな、というものだ。彼女たちに共通している

のは、ショートカットで小柄で線が細いという、まさに遠藤さんと共通するものであるが

(そして最も重要な要素として、笑顔がカワイイ!)しかし、彼女たちの魅力は必ずしも

ボーイッシュというものではなかったことは、多くの方が御存じのことであろう。だとす

るならば、遠藤さんの魅力も(無難にこなせはするものの)必ずしもボーイッシュなもの

とはいえない、という私の意見も御理解いただけよう。

 ところで私はこの公演を楽日(日曜日)に見に行ったのであるが、その時遠藤さんは

もう声がすっかり潰れてしまっていて、途中でほとんど何を行っているか聞こえない状態

となっていた。これに関しては、TPOを考えず、どんなシーンでも役者にただひたすら

絶叫をさせる演出に非常に疑問を感じたのだが、他の役者は誰も声が枯れていなかった

ことを考えると、彼女の発声法にも問題があったのだろう。まあ、あえて私がここで書か

なくても本人自身が一番自覚し反省していることだと思うので、あまり深く追求はしな

い。私がここで言いたいのは、以前にも書いたが、役者の魅力というのは技術的な意味で

はマイナスな要素も、観客の視点からは逆にプラスに感じられる場合もあるということ

だ。

 この物語の中で、彼女は空襲によって全身に大怪我を負い、途中から半身不随になっ

てしまう。同時に彼女の部隊の中で仲間割れが生じていたことも、彼女の心に大きな傷と

なっており、そんな状況の中で、車椅子に座った彼女が打ちひしがれた表情で「みんな、

嘘つきだ!」と叫ぶシーンは、彼女の声が潰れていたことが、彼女の悲しみをより深く

感じさせるものとして、非常にプラスに作用していたのだ。カワイイ女の子が、下を向い

て寂しそうな表情をしている。もうこれだけで、大林映画好きの私などは「心にクル!」

シーンなのだが、声枯れがさらにオプションとして、「ヒョウタンから駒」的効果では

あったにしても、有効に作用していたのであった。

そんなわけで、私にとって遠藤裕美さんの存在は、新たなニューアイドルの登場!的

衝撃だったのだが、ぜひ次回作では彼女にカワイイ女の子役を与えてほしい。IQの江目

さんの場合は、おしとやかな優等生が似合うと先に私は書いたが、遠藤さんの場合は、

同じ優等生でも、元気のいい女の子というパターンだろう。幼なじみに不良化している

男の子がいて、「煙草吸っちゃダメでしょ!」とか 「授業さぼっちゃダメでしょ!」と

か会う度に怒ってる女の子。男の子の方は「いつもうるせーなー」なんてブツブツ言って

るんだけど、心の中では彼女のことを憎からず思っている。まあ、青春ドラマにありがち

なパターンだが、男の子やらせるよりは彼女の魅力が絶対生きると思うんだよなー!

今回の配役にしても、部付きの女医役を彼女が演じても、「カワイイお姉さん先生」と

いう感じでよかったと思うんだよ。そのかわり、ショート役をどこかから男優を客演させ

て。ぜひ、次回作では御検討いただきたい、と切望する次第である。

  [1999年10月8日 20時59分17秒]

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劇団ピアス第7回公演「夏の砂の上」 

お名前: 太田憲賢   

親愛なる友人・渡辺ケンくんへ 

 

親愛なる友人・渡辺ケン君へ(別に揶揄でも皮肉でもないですよ・笑)あなたの希望されることはよくわかるんですけれども、ただこの件については、既に無国籍を巡る議論の中で「的を外す楽しさについて」等で僕の見解はうんざりするくらい述べているものなのです。

それで、お手間をかけて申し訳有りませんが、今回の渡辺君のご希望に対する回答としては無国籍に掲載されている僕の文章を参照してください。以上、あしからず。

[1999年10月7日 19時3分50秒]

 

お名前: 渡辺 ケン   

太田君、こんばんわ。

劇評ありがとうございました。また、第7回公演ご来場頂き誠にありがとうございました。さて、劇評に関する評論というかわたしの方からも評論させていただきます。(高校の 同級生として・笑)まず、今回、当劇団として客演いただいた紺野鷹志さんと小山浩美さん、私としてもさまざまな意味で感謝しております。

また、劇団レギュラーの演技に対するご意見、見方によってはそのようにみられるかも知れません。しかしながら、演劇あるいは芝居、舞台をみる場合、そこには必ず観る人の好みが生じてきます。実際、御来場いただいたお客様からいただいたアンケートの中には太田君と同じような意見のアンケートもあります。同様にまったく正反対の多くのご意見が存在することもたしかです。当劇団でも結成から間もなく4年を経過しますが、以前よりご覧いただいている一般のお客様の中には、今回は舞台的な匂いがする・以前は殺気だった雰囲気が漂っていたが今回はそれがつくられているような気がするなどのご意見を述べられるお客様もおります。

(演出としては、今後の劇団の成長のためにも今回客演を要請したわけですが) 最近、当劇団の奈尾君の劇評等がこのホームページに掲載されることがありますが、奈尾君に関しても、劇団ピアス公演で演じている時の評価をする方が多いことも事実です。実際、奈尾君はこれからまだまだ伸びていく役者であると確信してますが、やはりそれは観る 側の好みまたは役者になにを望むかによって異なってくるものだと思います。演出も同様でお客様になにを見せるか、演じる役者の個性を見せるのか、あるいはお客様が役者の目線で舞台を見せるのか、それは一致することはないと私は考えています。ですから、同じ役者が様々な演出によって色を代えたとしても、それはその役者に求める観劇者の意図によって異なってきます。しかしながら、それは大変にミクロな部分であって一般のお客さんにとっては些細なことと思います。劇評をしていただくことは大変ありがたいことです。しかしながら、劇評をいただく場合においては、各劇団の方向性方針、観せ方をご理解いただいた上でそれを個人的好みによるものではなく、その劇団または団体を成長させるべき劇評をお願いしたいと思います。(公演時のアンケートは別ですよ。)

[1999年10月6日 2時22分14秒]

お名前: 太田憲賢   

公演から多少時間が経過してしまいましたが、劇団ピアス第7回公演「夏の砂の上」(9月17〜19日、エルパーク仙台)について書かせていただきます。この公演で強く印象に残っている、というか驚いてしまったのは、ピアスのレギュラー陣の芝居がひどくダラダラと退屈なものだったのに比べ、客演した役者さんが緊張感のあるいい芝居をしていた、両者のあまりに極端な差に対してでした。例えば劇団三銃士の紺野鷹志さん。僕はこの人の演技を「アリゲーターダンス」「越前牛乳」で見ているのですが、もう独特の過剰な雰囲気を持った人なんですね。それで、今回は主人公の倒産した前の会社の元同僚という役で、飲み会の後主人公の家を 訪れるという設定で登場されたのですが、もう出てきただけで、今までダラーッとしていた場の雰囲気が、まるで「俺が紺野鷹志だーっ!」と言ってるかのようなオーラを体中から濃厚にまき散らしてくれるおかげで、会場に「待ってました!」とでも言いたくなるような活気が満ちてくるんですよ。それでまた、酔っぱらいの役がはまるんだ、この人は。客演ということもあって多少セーブはしてるんだろうけど、それでもピアス・レギュラーにはないパワーを感じさせてくれました。

また、元・未来樹で「そよ風」の芸名で親しまれていた小山浩美さんが、3年ぶりの舞台として、今回久々に出演されていらっしゃいまして、それでこの人も未来樹時代から、やっぱり独特の雰囲気を持った役者さんだったのですが、3年のブランクがあっても衰えていませんねえ!先の紺野さんが交通事故で亡くなられて(もちろん役の中でですよ!)、主人公が通夜に行こうとするとき、突然彼女が訪問してくるのですが、頭と腕に異常に大きな包帯を巻いて現れるんですね。それだけでも異様な雰囲気なのですが、それから延々と自分がなぜこのような大けがをしたのか話をするんですよ!通夜に行かなくてはいけないのでソワソワしている主人公の気持も知らず。自転車に乗っててボーっとしてただのなんだのってね。気分を害するというより、むしろこの人どっかオカシイんじゃないか、という異様な不気味さを感じさせるわけ。この間の異常な緊張感、そしてそれを一種不条理ギャグ的な味にまで昇華させているところが、彼女のウマサなんだよなあ(結局、主人公の妻と彼女の夫が浮気をしているということを訴えに来たというのが真相だったん だけど、やっぱり異様だよなあ、自転車の話、延々・・・)。このように、客演陣が健闘しているのに、レギュラーの役者だけのシーンになると途端に、ダラーッとした雰囲気になっちゃうんですよ。この原因は何かといえば、僕は渡辺ケン君の「透明な演出」にあると思うんですね。実は僕と渡辺君とは高校の同級生で、その関係もあってときどき親しく雑談したりしているのですが、ちょうど去年の今頃だったか、彼にこんな話をされたことがあるんですよ。「僕は透明感のある役者を使いたいんです。いろいろな役を柔軟にできるには、役者 に色がついてない方がいいんです。」僕がその時、「仙台で僕が一番上手い若手女優は岩佐絵理(steamTV)だと思うなあ。」という話をしたところ、彼は「確かに彼女は上手いけど、色がつきすぎてるから、ウチでは使えないなあ。」と答えたのを、「へえ、そういう考えもあるんだ。」と驚いて聞いた覚えがあるのです。しかし、今回の公演の結果を見てもわかるように、観客の目を惹きつける、いわばドラマのある芝居をできる役者って、まさに「色のついた個性的な」客演陣なんだよね。 透明感を大事にするあまり、レギュラーの役者に魅力がなくなってしまったら、本末転倒じゃないかと思うんですよ。

 奈尾真なんて、「熱海殺人事件」や「ポレポレ鳥」など、他所に出演してるときはイキイキとしたいい演技を見せてくれるのに、なんでピアスに出た途端あんなに生彩がなくなるんだ?僕はこれを仙台演劇界七不思議の第一番に挙げたいくらいなんだけど、 要は渡辺君の「透明演出」に問題があると思うんですね。だから奈尾君ねえ、なんでもキミ、「自分にとってピアスは本妻、ナベオ君やミチコ リンと芝居をするのは愛人関係みたいなもの」みたいな発言したらしいけど、現実問題としてピアスでの演技の方がツマンナイという事実を受け止めてほしいんだよねえ。あと、あんまりミチコリンを悲しませるようなことをいうと、たかはしみちこファンクラブ会長の、この太田が許さないよーん!!なんてね(でもこのファンクラブ、会員は 現在、太田・佐々木の2名しかいないのであった。トホホホホ・・・)。

[1999年10月5日 12時36分15秒]

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劇団満塁鳥王一座公演「水の上を歩く」 

お名前: 太田 憲賢   

再び、関君へ

個人的に言わないで、この場に書き込むことによって、双方の演劇観の違いみたいなのが明らかになることが面白いんじゃないですかね。それが、劇評バトルの趣旨にも合致してると思うし。「サロン」が「まったり」してるかといえば、僕は実演を見てないのでうっかりしたことは言えないけれど(ここは「サロン」を論じる場でもないし)、脚本を読んだ限りでは、結婚式当日に結婚をキャンセルするっていうのは、相当屈折してるし、あんまり「まったり」してるって印象はないなあ。まあ、本作に比べて救いがあるっていう意味では、見ている側にとって癒し度は高いと思うけどね。それから、君、「共感はするけど、この手は使わない」っていつ言ったよ。俺、その発言、今回初めて聞いたよ。最初からそういえば、話は分かりやすくなるのにさあ。「ツボ」の件については、冒頭にも述べたとおり、その違いを書き込み合うことが「劇評バトル」の面白さだと思うよ。ま、僕の返答はこんな感じです。

[1999年10月26日 11時5分30秒]

お名前: 関 ステレ夫   

下の発言は、なにも電話で話せばよかったことでした。またやってしまった、と深く反省します。

f(^_^; 

[1999年10月26日 0時45分23秒]

 

お名前: 関 ステレ夫   

>この登場人物達のような屈折が自分の心の内にないのだろうか?

それはね、僕にとって「水の上を歩く」のリメイク前の「非対称の裸体」で感じたことでだから、太田さん鳥王面白いって去年から推薦してたわけでしょ。その後、まったりとした「サロン」という作品を鳥王さんは提出してきたわけだし。 僕も、演じる側の末端にはいますからね。「共感はするけど、この手は使わない」ぐらい言いますよ。逆に、離れてないとないとすぐ影響されて猿真似みたいなの作っちゃいますからね。つまんないし、観たくないでしょ、そんなの。

屈折についてしいて言えば、笑いにもツボがあるように屈折にもツボがありそれは、人それぞれであるべきだということですか。「それは笑えない」と同じように「それは屈折しない」ってことも、あるでしょう。

それは、「太田」と「関」の気持ち悪さの違いでもあるのではないのですか。

[1999年10月26日 0時30分47秒]

 

お名前: 太田 憲賢   

 

 さる10月17日(日)、福島駅西口テントにて、劇団満塁鳥王一座公演「水の上を歩く」を見てきた。この公演は、本来10月9,10日に台原森林公園で行われるはずのものであったが、公園当局側が「作品が社会的通念に反する内容」との理由で貸し出しを許可しなかったと聞いている。それで、わざわざ福島まで見に行ったわけである。

しかし、私が以前に無国籍の論争で論じたように、社会的通念に反する=不道徳であるものでも、人間の心の中には「業」というものが現に存在するのであり、それを演劇というバーチャルな場で取り上げることがいけないという考えには納得しがたいものを感じる。むしろ、社会的通念に反しているからこそ、現実ではない場で取り上げる意義があるのではないだろうか。

さて、実際のストーリーでどこが問題になったのだろう?私は、当局の見解を直接聞いたわけではないので断定はできないが、実際に芝居の内容を見て推測するに、おそらく登場人物の1人が、衝動的に猫や犬を殺すことに楽しみを見いだす人間であり、それが次第にエスカレートしていき、最後には小学生の殺人に至るという内容が、例の「酒鬼薔薇事件」を連想させる、ということではないだろうか。しかし、これはまさに作者の大信氏が言うとおり、作品のテーマに関わることであり、妥協はできないところであろう。この作品のテーマは、社会学者・宮台真司氏の言う「終わりなき日常」がつらいと感じる人間たちが、いかに「強度」を自分の生活の中に見いだすか試行錯誤をするというものであると、私は理解したからだ。

物語は海辺の古いアトリエで個展を開こうとする若い女性が主人公で、その「少年殺し」の男は、個展の準備の手伝いをする仲間の1人なのであるが、この主人公の女性も、自分の生活にいかに「強度」を見いだすか、悪戦苦闘しているような人物である。退屈な日常から脱却するために、彼女は行きずりの男と寝たり、周りの仲間が一生懸命準備の手伝いをしている中、ふらっと散歩に出たまま帰らなかったりする。では、彼女が宮台氏の言うコギャルのように、理想的な「まったり」した生き方をしているかといえば、どうもそうには見えない。手伝っている彼女の親友の女性や(奇しくも私と同じ太田という名字であった)やはり手伝っている昔の彼氏(大信氏本人が演じていた)が主人公があまりにわがままだと説教すると、彼女は「自分にとっては意味ではなく、強度が大事なんだ!」という、まさに宮台氏が本に書いている内容をそのまま書き写した理屈を、ベラベラと声高に反論するのである(後で大信氏本人に聞いてみたら、やはり大信氏は宮台氏の本の愛読者だそうだ)。

もし、本当に彼女が「まったり」と「強度」に身を任せて生きているのだとすれば、このような理屈を述べたりはしないだろう。コギャルが自分の生き方を正当化するために、延々と理屈を述べたりしないように。つまり、理屈という「意味」を経由しないと、「強度」に達することができない、という意味で彼女のとっている態度には矛盾があるのだ。「強度」に身を任せて生きたいけど、現実には「意味」がないと、きつい。しかし、これはコギャルではなく、今の世の中がきついと感じている、私自身の姿でもある。その意味で、私はこの矛盾を持った主人公や、少年殺しの男性に共感した。

ストーリーは、少年殺しが露見した男性に、主人公+主人公の妹が一緒に海へ向かい、入水自殺する結末で終わる。結局、彼らの試行錯誤は失敗し、死ぬという選択しか残されなかったのだ。「水の上を歩く」という題名は、この結末の比喩である。水の上を歩いて、向こう側に行けばユートピアがあるかもしれないと言う希望。しかし、そんなものは幻想にすぎないという苦い現実がこの題名に込められている、と私は思った。実は当日、関ステレ夫君と会場であったのだが、彼は「最近の若者達の群像をよく描いている」といった感想を述べていた。しかし私には、彼のように「最近の若者達」と、登場人物を自分から切り離して、第三者的立場から醒めた目で見ることはできない。関君には、この登場人物達のような屈折が自分の心の内にないのだろうか?自分は彼らとは違い心の歪んだ人間ではないんだ、と自慢しているようで。それではなぜ君は演劇というアートに関わっているの?現実生活だけでは満たされない、一般の人たちとは違う心を持っているからこそ、演劇してるんじゃないの?という疑念を感じてしまった。私は、あえてカミング・アウトするけど(と、いうより私の文を読んでいる人は既によくご存じのことだろうが)、私の心が屈折し、歪んでいるからこそ、演劇が好きであり、特にこの作品に感動した、とハッキリ述べさせていただく。

[1999年10月20日 11時16分0秒]

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太穣の舞(太白区文化センター開館記念 区民手作り演劇 

お名前: 太田 憲賢   

佐々木さん、僕は太白区長もなかなかの名演だったと思いますよ(笑)。ところで、佐々木さんはシアタームーブメントと比較していらっしゃいますが、たぶんこれは今年のシア・ムーのことだと思います。ただ、本作は主人公が若い女性で、仙台に住み続けるか否かを悩んでいるというストーリーを考えると、むしろ昨年の「夢の観覧車」と比較するのが、適切だと思うのです。では、「夢観」と比べた場合は、どうか?僕は、それでも今回の「太穣の舞」の方が断然上だと思います。だって、主人公のキャラクターが「太穣」の方がずっと立ってるんだもん。「夢観」の場合は、主人公はポーッとしていて、何で仙台に残っていたいのか見えないキャラだったけど、「太穣」の場合は、仙台に残るか彼氏と北海道へ行くかの心の揺らぎがよりリアルに見えましたからね。
 実は本作の作者は、先にピアスの客演で名演をした、元「そよ風」の小山浩美さんなんですよ。ピアスといい太穣といい、3年ぶりとは思えない大活躍ですね。仙台演劇人フォーラムに表彰制度がないのが残念だけれども、もし表彰制度があれば、小山さんを99年度仙台演劇カムバック賞に真っ先にノミネートしたいと思います(それとも井伏、太田、佐々木の3人で私費を出しあって、「劇評バトル特別賞」でも作りましょうか?)。ラストもカーテンコールが終わった後、役者の踊りがあったところが「マカマカ50」みたいで楽しくて良かったです(でも、「太穣の舞」と「マカマカ50」の両方見てる人って、太田・佐々木の2人だけかも・・・)。ぜひ、来年のシア・ムーは「太穣の舞」をやってほしいです。地元の石垣さん演出で充分いい作品になりますよ、それこそ佐々木さんのいうように無理して東京から演出家ひっぱって来なくたって。そのときは、ぜひ太白区長の客演も続けてネ!(区長が登場しただけで、会場から拍手がおこるんだもん。出てきただけで拍手をとる役者なんて、七ヶ浜で見た片桐はいり以来だよ。 つまり、太白区長は片桐はいりレベルの役者なんですよ!?)。

[1999年10月8日 11時40分1秒]

 

お名前: 佐々木 久善   

期待していなかったのだが、予想に反してとても面白い芝居だった。青年文化センターでのシアタームーブメントよりよっぽど地元発信の舞台という感じがするいい作品である。こういう作品を上演しつづけていくことこそが、大事なのだと思う。地元が出過ぎていて恥ずかしいと思う人もいるかもしれないが、ぎりぎり地元にこだ わった作品ほど普遍性を持つ可能性があるということを、この作品は示している。はっきりと申し上げて、役者の演技はひどい人が多い。特別出演で太白区長までもが出演している。しかし遊びと割り切って初心者・素人を上手くはまるように使った演出家の巧みさに私は感動した。芸術としてもっと上を目指したいという気持は演出家であれば必ず持っているはずである。しかしそれを無理に通していけばこの区民手作り演劇のような形態は成り立っていかない。そのことを十分に理解し、過不足のないコントロールを3時間近い上演時間の随所に行き渡らせた演出は見事であり、大枚を叩いて東京から演出家を呼んできて、消化不良の作品を作ることのおろかさ教えてくれる。

[1999年9月26日 15時59分7秒]

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劇団リタラリーギルドシアター第1回公演『マイ チルドレン! マイ アフリカ!』 

お名前: 佐々木 久善   

今、観て帰ってきたばかりです。昔、といっても十年ぐらい前はこういう芝居をつくる劇団が仙台にも多かったなあ、と思います。
どういう芝居かといいますと、骨太の社会的な問題に真正面から取り組んだ戯曲に正々堂々ぶつかっていくような命知らずな芝居です。これは決して、バカにしているのではなく、今回の公演を観て、その昔の芝居が持っていた熱気を思い出しました。アパルトヘイトをめぐる教師と二人の生徒の物語ではあるのだけれど、単なるアフリカの話としてではなく、今の私たちの周りにも知らないうちに存在している偏見の物語としても観ることが出来ると思います。上演時間三時間という長い芝居ではありますが、たった三人でこの長尺をどうこなしているのか、一見の価値は大いにあると思います。 [1999年9月23日 17時27分19秒]

お名前: 瀬戸 紫帆   

大分公演から日が経ちますが、今でもあの空間は忘れることが出来ません。仙台で演劇を見始めて4年位観続けて、本当によかったなと思える出会いでした。もっと私達にいろいろな作品を観させて下さい。陰ながら、応援しています。

[1999年11月28日 1時50分13秒]

お名前: 関 ステレ夫   

やはり、どんな舞台でも稽古の充実が感じられるモノは観ていて嬉しいです。第一回公演にしてあの、のびのびとした役者陣の演技。 随所、ユーモアを感じさせる演出。これからの活躍に期待大といったところでしょう。 旗揚げ公演の成功、おめでとうございます。

(^―^) イエー 

[1999年9月26日 22時49分8秒]

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えずこシアター第3回公演『場所』 

お名前: 太田憲賢    課長がかわいそう過ぎるよー(泣) 

この物語の主人公の女性は、いわゆる普通の会社に勤める普通のOLなんだけど、自分の仕事が誰にでもできるものなんじゃないかという疑問を日頃から抱えていて、ある日、下請けに厳しいことを言っている上司である課長と大喧嘩してしまうんですね。そこでの彼女のセリフがさあ、なんか「自由に本音でものを言えない人間関係なら、 会社なんてない方がいいんです!」とかいうものだったんだけど、でも自由に本音で 無国籍の劇評を書いた太田はバッシングを受けたぞ(笑)。
まあ、自由に本音でものを言う、ということは聞こえはいいけどリスクを伴うというのは太田も彼女も同じだったようで(笑)、彼女は課長にクビを宣告されます。それで、彼女は失業者となり、以前から仲のよかった屋台でパンを売っているお兄さん(のぼりに「愛のパン」と書いているのが、なんともねえ・・・)と一緒に桜を見上げるところで物語は終わるのですが、この物語の教訓は何か?ここで、「口は災いのもとっていうことですね」という答えができるようなら、あなたは「作者の意図とは違う見方で芝居を楽しむ視点」大合格です!でも、まじめな 話、この物語を見ての僕の感想はそうでしたよ。要するに、この物語の作者の吉川さんみたいに、自由に本音でものを言いながら飯を食える人って、今の世間ではごく限られた能力ある人だけなんですよ。この前書いたアマデウスの例でも言ったけどね。だから、この物語の課長みたいに不本意ながらも会社人間になっているのがほとんどなわけ。シアター・ムーブメントでの公務員の課長も、やっぱり相当ステレオタイプな人格だったけど、なかじょうさんといい、吉川さんといい、芸術に携わっている人達って、どうしてこう組織人間に対する憎悪というかアレルギーが強いんだろうね。もちろん、自分は組織に頼らず一人で生きているんだ、という自負が強いからなんだろうけれども、でも実際に見に来るお客さんのほとんどは、そういう組織の中に生きる、という現実にあるわけなんだからさあ、そういう立場の人の心情も汲むような視点も必要だと思うよ。つまり、この前文月さんに「素朴すぎる」と指摘したことが、なかじょうさんや吉川さんにも当てはまると思うわけです。結局、主人公は再就職できたかどうかうやむやのままに終わっちゃうんだけど、あの性格じゃ他の職場に行っても絶対トラブル起こすと思うぞ!まさか、公立ホールの芸術プロデューサーになりました、なんてオチじゃないだろうね(笑)。 [1999年9月16日 13時25分2秒]

 

お名前: 佐々木 久善   

えずこシアターを見るのは、第1回公演『境界』以来、二度目である。以前に比べると、物語があり、わかりやすくなっている印象がある。ただし、あくまでも以前と比べてのことであり、一般に考えられる演劇における物語としてはいささか物足りないお話であることは否めない。全体は大きくわけて、心象風景的な場面と物語的な場面とによって構成されている。心象風景的場面は、音・言葉・身体表現のコラージュである。物語の背景にあるものを補完し、相対化あるいは批評的にとらえるために配置されているのではないかと思われるのだが、少し漠然とし過ぎている印象がある。特に言葉があまりにも断片的であり 音との境界が曖昧である。このあたりの表現は狙っているのではないかと思われるのだが、漠然とした中から浮き出すものが少しあったら、もっと理解しやすかったのではないかと思い、少し残念である。また、身体表現のことで申し上げれば、全体としてゆっくりとした動きを表現するにあたって、少し下半身のふらつきが感じられた。形を表現するにあたっての基礎の部分のかため方が不足していたのでは、とも思われる。
さて、問題の物語的な場面であるが、私の個人的な感想と思っていただいてかまわないのだが、言いたいことがそのまま台詞や場面になってしまっていて、まるでコントのような感じなのである(ただしそんなに笑えるものでもないのだが)。ストレートに直球勝負という感じなのだろうが、演劇的な間合いとか呼吸が息づく瞬間といったものが、入る余地のない構成という気がしてしまうのである。
役者の技量の差や練習時間の都合などいろいろな要因から、このような物語に落ち着いたのではないかと推察するのだが、台詞と役者の肉体とに隙間が感じられて、いま一つ物語に入り込めなかった。漠然とした人間臭さがもっとあってもよかったような気がしている。
今回の公演の売りに舞台美術と音楽とのコラボレーションというものがあったように思えるのだが、美術については、造型としては目を引き、照明との相性もよく、面白かったのだが、演技がしづらい舞台美術ではなかったかと思う。物語の進行にしたがって少しずつ増えていくなどの工夫が欲しかった。音楽については、舞台の上に役者と一緒にヴァイオリニストを歩かせるなどの工夫はあったものの生でミュージシャンを入れて演奏するというところまで内容に深く関わった表現になっていたのか、疑問である。
全体的に気になるところばかりを並べると、悪いことばかりになってしまったが、本当のところを言えば、結構楽しめたし、泣ける話ではあったと思う。ただ、そうとばかり書いていたのではいけないと思い、あえて悪いところを並べてしまった。悪いことついでに、もう一つ。次はもっと物語物語したものが見たいような気がする。たとえば井上ひさしの作品のようなワイワイ人間味の出るようなものが。そのほうが味の出そうな役者さんがえずこシアターには多いような気がする。 [1999年9月14日 22時43分43秒]

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劇団ポトフ第2回公演「TOM」 

お名前: 佐々木 久善   

 太田さんといっしょに見に行った佐々木です。主だった物語の展開は太田さんが説明をしてくれているので、私はその土台をお借りして、話をはじめたいと思います。マージマルという言葉の説明をしますと、境界ということです。
 TOMは飼い猫が外の世界に飛び出してきたので、しきたりとか世渡りとかそういう生きていく上で必要とされているしがらみから自由な精神を持っています。彼が飛び込んだのは、昼は犬、夜は猫の集まる広場です。ここでTOMは二重に境界の存在です。それまで飼い猫であったため、犬だとか猫だとかという区別の意識がないので、どちらとも仲良くなろうとします。このことは昼と夜とでうまく棲み分けをしてきた(本当はそう思っていただけではないかと思われる)犬と猫の双方に波紋を起こします。猫は野良猫ではないことで、犬は犬ではないことで、それぞれ区別の意識をするのです が、一度投げ込まれた波紋は次々に広がっていく、というのが私の物語の解釈です。
 そのTOMを演じるのが、若い女の子なのですね。しかもこう言ったら怒られないか心配ですが、性的に未分化のお年頃の女の子です。境界にいるということはどちらへも行けるのだと思ってきたが、二つの異なったものの親和剤にもなるのだということがわかりました。
 大河原町のミモザの時にも思ったことですが、児童劇的な表現には、無限の可能性があると思います。子どもから中年までの広い年齢層の団員を抱え、子ども向けのような外観を持った芝居を作りながらも、その本当のところは子どもの団員にも納得ができる作品づくりをしているということなのだろうか。全国オーディションをして、独りよがりな舞台を作るよりはよっぽど、教育的であり、なおかつ、創造的ではないかと思えるのです。

[1999年9月11日 22時12分33秒]

お名前: 太田憲賢   

ポトフの主役は田中麗奈似

 無国籍の劇評を巡る議論では、地元の女優をアイドル的視点で見ることへの批判もあった。しかし、私には今もって納得いかない。そもそも、アイドルであれ地元の女優であれ芸術・芸能の存在として、不特定多数の観客の視線に晒されるという意味では、 両者は等価ではないのか?などと堅苦しい書き出しをしてしまったが、要はこの前見た芝居に出ていた主演の女優さんが、またかわいかったので紹介しようというだけの話なのです。
 さる8月29日(日)、多賀城市民会館で拝見した劇団ポトフ第2回公演「TOM」の主役、TOM役の女の子が、また田中麗奈似でとてもかわいくてよかったのでした。8月29日?そう、この日はサイマル、重箱、IQと各劇団の公演が重なっていたのですが、私はそのどれも蹴ってあえてポトフへ行ったのです。赤井君、熊谷君、井伏さん、申し訳ない!まあ、いつも見ている劇団にはマンネリ感を最近もってまして、新しい劇団を開拓したい、という気持があったんですね。ポトフは多賀城市が主催した手作り創作ミュージカルの卒業生達が自主的に作った劇団だそうです。そのため、まだ公演回数もまだ2回ということもあって、技術的にはまだまだのレベルではありますが、やはり一生懸命やろうという熱意が伝わってきて、見ていてとても気持ちいい。
 物語は飼い猫TOMが家出するところから始まります。TOMは飼い主にとてもかわいがられてはいたのだが、それは文字どおりの「猫かわいがり」で、家から一歩も出たことのないTOMは、外の世界で自由に生きてみたいという欲求を募らせていたのでした(ちなみに飼い主は、ラダ・トロッソの瀬戸みなさんです)。で、このTOMはオス猫の設定なのですが、演じているのは中学生か高校生ぐらいの女の子なんですねえ。先に田中麗奈似と書いたけど、彼女の魅力ってむしろセクシャルなものとは反対で、男でも女でもないような存在、天使・妖精的魅力なわけです。つまり、TOMはオス猫だけれどもまだ子猫なので、あえて女優さんを使うことによって、天使的魅力を出そうとしたわけですね。これは、例えばアニメのエヴァンゲリオンで主役の碇シンジ君の声を女性の声優さんがあてていたり(14歳なんだから本当なら声変わりしてるはずだし、実際彼のクラスメートの役は皆男優さんが声をあてているわけで、これはシンジ君に中性的魅力を出させようという効果なのでしょう)、また先に劇団きいろいもくばが旗揚げ公演「Wonderingで、主役の少年役に女優さんを使っていたという例などにも見られるものです。つまり、的を外した意見とはいえないよ。
 それで、このTOMの子の寂しそうな表情がとてもいいのです。脱走したTOMは空き地で野良猫達と出逢います。そこで、ある野良猫に祭りの楽しさを説明されるんだけど、その時のTOMの「僕、お祭りって一度も見たことがないんだ」といって寂しそうに下を向くシーンが、心にジン!とくるのです。これは、美少女趣味の人じゃないとわかんないだろうなあ(それにしても、瀬戸さーん、お祭りぐらい連れてってやってよー!)。 また、野良猫として生きていくために仲間のミハエルという猫からネズミの取り方を教えてもらうのですが、ミハエルが模範演技を示して、TOMにやるように勧めても、「僕、こんなことできないよ!」と、また寂しそうに泣き言をもらすのです。これが男優が演じてたら、「甘ったれるんじゃねえよ!」とドツキたくなるところですが、かわいい女の子が言ってくれるおかげで、「その寂しそうな表情がいいんだよ!」と感動してしまうのでした。
 ちなみに、このネズミの取り方を教えるミハエル役の女の子も、飯島直子に似ていてかわいかったなあ。ホントにアイドル系の顔した女優さんが多い劇団で、アイドル好きの私のような客にはこんなに嬉しいことはありません。
 この飯島直子については、TOMの先輩猫という役柄でもあり、20歳前後の人なのかなあ、と思って見ていたのですが、いっしょに見にいった佐々木久善さんによると「いやいや、太田さん。私は客出しの時に飯島直子の顔、近くで見ましたけどね、けっこう若くてTOMと同じぐらいの年って感じでしたよ。」とのこと。ううむ、さすが佐々木さん、チェックが厳しい!さすがに私が劇評ライバルと認めただけのことはあります。佐々木さんはミモザの劇評でも、「テクノイド・ナオはピチピチしていた」と書いてましたが、女優に対する視点に私に近いものを感じ、嬉しく思います。なんてことばかり書いてると、「太田さーん、あんまり私をバッシングの方向へ巻き込まないで下さいよー!」と怒られるかもしれません。でも、佐々木さんは帰りの車の中で、「TOM=マージナルな存在」という、真剣な演劇論を展開なさっていたので、ぜひこの後にその御意見を投稿して下さって、真面目な読者を感心させて下さいませ。最後に余談を一つ。配布されたプログラムの協力欄に小山全志の名前があったのですが(!)、いったい全ちゃんはどこで何をしていたのでしょう?気になるところである。

[1999年9月9日 13時5分4秒]

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OtoO第一弾『夏の、思い出』を観て 

お名前: オット 代表 白鳥英一    

当日は会場に足をお運びいただき、メールにても劇評をいただき、誠にありがとうございました。お客様のご意見を参考に、また次の演劇に向けがんばっていこうと思います。次回公演までオットの世界を磨いてまいります。是非、ご覧になってください。ほんとうにありがとうございました!

[1999年9月10日 20時18分5秒]

お名前: あんもないと  

“退屈さずにみせる”芝居。舞台に対する集中力を観客、役者ともに持続させること。これはあらゆる芝居に問われることですが、「夏の〜」では、脚本の背景にある 緊張感(男女の従兄弟同士という兄弟愛でもなく友情、恋愛にもとらわれない関係)と演技そのものの緊張感によって“退屈さずにみせる”舞台を作り上げていました。ただし、この異なる緊張感の境目があやふやであったため、どこまでが芝居そのものの緊張感なのか、水天堂さんが指摘するギクシャクした関係を技術的に表現した緊張感なのかが分かりづらいのも事実でした。その為、後半徐々にリラックスしていく2人の関係と心情の流れが観客に伝わりにくかったと思います。また、随所にちりばめられた「言葉」が劇中のキーポイントになりそうなのに(意味ありげなのに)そのまま流されたような感覚がありました。後半の合唱部分は舞台展開としての効果は大きく「釣りで童心に返る2人」を芝居で追いかけずに表現したのは良かったのですがむしろ、「子どもの2人」を表現するなら本当の子どもに歌わせた方か分かりやすかったのではと感じます。いずれにしろ、新しい表現方法、役者のあり方を模索した作品になっており次の舞台を見たいと感じさせるものでした。また、この脚本であれば、音楽・映像で作っても面白いものができそうだと思いました。OtoOには舞台の上だけでなく独自の表現を拡げていって欲しいです。

[1999年8月31日 15時24分12秒]

お名前: 水天堂   

OtoO第一弾『夏の、思い出』を観ました。まず思ったのは、「やっぱり、静かな演劇か。」と 言うことでした。”静かな演劇“で済ませてしまうのは大変乱暴なのですが、ここ数年のIQ150の 芝居の流れから大きく外れない芝居だったと思います。『夜交花』を思い出しました。何でもない日常を、何でもなく、しかし、退屈させずに見せるタイプの芝居だと思いました。しかし、その”退屈させずに”が曲者で、役者の退屈させないための技術としか見えない時が 結構、(特に前半)ありました。芝居自体が起伏の少ない淡々とした話しだけに、余計そう見えたのだと思います。(家具屋のバイト君がアドリブかます所が一番笑いが起きてましたが、計算の上での笑いの中に計算外の笑いが入ったためだと思います。笑いが目的の芝居では無いと思いますが…。)
 それと、これも特に前半ですが、二人の間が妙にピリピリしたギクシャクした関係に見えました。何が嫌なんじゃろか。もしかしてこの二人、何かあってつまりそういう芝居なんかいな?と余計な想像力を働かせてしまいました。二人っきりでずっと暮らしてるとかなら別かもしれませんが、家族と一緒ならここまでいらいらするだろうか?二人きりで居るシチュェーションに拘り過ぎたのでは?と、思いました。
 ラスト近くの、“夏の思い出”の合唱は背筋が痒くなりました。気持ちはわかるのですが、もっとうまく歌うか、いっそアカペラで生で客の前で歌った方がまだよかったのでは?と思いました。
他にもいくつか細かい点で気になる事はありましたが、実は結構好感を持って見終わりまた。白鳥さんが、何故OtoOを旗揚げしたのか、OtoOで何をやろうとしているのかという点 に好感が持てました。芝居が終わってからの舞台挨拶で、白鳥さんが涙で言葉を詰まらせていた所が一番劇的でした。語弊を恐れずに書けば、ある完成形を極めたIQ150にあって、自らの未完成を未完成として、まず受け入れ、そこを土台として一歩前に進むための企画なのだろうと感じました。今後、OtoOの第二弾、第三弾で(本人も言ってましたが)より白鳥さんらしい表現が展開することを期待します。た。

[1999年8月31日 14時39分6秒]

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大豆鼓ファーム『泥棒組合』 

お名前: 五十嵐 なおと   

「泥組」千秋楽に観にいきました。舞踏と言うものを初めて観ました。なんだかわからなかったけど、とても面白かったです。音楽とてもかっこよくて素敵でした。 歌は…その…あの……無くてもよかったんじゃないかな? と思いました。皆さん最後とあってか、非常に楽しそうでしたね。少し気になったのは、楽団の人やスタッフの人たちには非常に面白いことでもあったのか「え?何?今何が面白かったの?」という笑いがちらほらあったこととか、下流に西瓜の皮がいっぱい流れるんだなーと思ったり、ぼくの後ろに座っていた人がインドの修行僧みたいだったと言うことですかね。とにかく面白かったです。 皆さんお疲れ様でした。体に気をつけて次回の公演もがんばって下さい。ゴールデンさん、すっっっっっっっっっごくカッコよかったです。また観たいです。バンダナと泥棒組合のTシャツのスタッフの格好で芝居の公演を観に来た人がいました。 あれは勘弁して下さい。[1999年9月5日 1時27分32秒]

お名前: 水天堂   

『泥棒組合』の楽日を観に行きました。いやぁー面白い!!凄い!!劇評から外れるかもしれませんが、観劇しての感激を書きたいと思います。受け付けを終えて、生バンドの御囃子の中河原への坂を下り、稲荷神社を思わせる藪の中に延々と続く鳥居を潜ると、川の中に設営された客席へ。この時点でかなり、ドキドキウキウキワクワクしていました。開演前に、こんなにドキドキしたのは久しぶりです。そして、公演が始まります。舞踏はそれほど見ていませんが、『泥棒組合』はストーリー性の有る舞踏で初心者にも見やすく、生バンドの演奏(というより御囃子と言うべきか)、開放された空間で展開されるコミカルで美しい群舞は、舞踏に馴染みの無い人も十二分に楽しめるものだったと思います。舞踏と聞くとついイメージしてしまう”幽玄で静か”な物ではなく、”暑くて激しい”土方巽の舞踏を(ビデオ映像でしか見ていませんが)思い出しました。”愛すべき妖怪達の謝肉祭”と言うべきか。よく、”芝居は祭りだ”と言われます。芝居ではありませんが、本当の意味での祝祭劇だったと思います。初期の歌舞伎や猿楽と言われた頃の能は、こんなであったかと思いました。一つだけ欲を言えば、最後の方で船が起立しステンドグラスになってから二段、三段展開が続いたのが長く感じ、その辺をコンパクトにまとめても良かったのではないかと思います。どうしても、大仕掛けが有るとそれで終わる様な印象を持ってしまい、その後が蛇足のように感じてしまいました。
 しかし、致命的な物ではもちろんなく、見終わって、なんだかずいぶん元気になった気がしました。不順な天候にたたられながら本当にお疲れ様でした。 [1999年9月1日 13時41分8秒]

お名前: 劇団鳥の庭園 関 ステレ夫   

それにしても、大豆鼓ファーム困った奴等!皆さん気が滅入るのが嫌いで、大騒ぎが好きな明るい人たちでした。

迷惑大王な組長の星野裸身番君、仙台にはもう二度と来るなよ!(大笑)ありがとう。

[1999年9月2日 7時55分20秒]

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宮教大演劇部公演「天使は瞳を閉じて」

宮教大講堂に天使を見た!  太田 憲賢

高校野球の季節ですね。世間ではプロ野球より高校野球の方が好きだ、という人がけっこういらっしゃいます。技術的なことを考えたらプロの方が優れているのになんで?という疑問を持つ人もいらっしゃるでしょうが、技術的には劣っていても、それを超えたひたむきさ、一生懸命さが見るものの心を打つということは現実的にあるんですよ。これはスポーツに限ったことではなくて、僕はクラシック音楽も好きなんですけど、例えば技術的には下手だけど一生懸命演奏しているアマチュア・オーケストラが、プロの演奏会より感動を生むということだってありまして、そこが芸術・文化の面白いところでもあり、奥の深いところでもあるのだと思います。
実は最近僕は高校・大学の演劇部の公演を見に行くことにはまっているのですが、その理由は、今述べた法則が演劇にも当てはまるように感じるからなのです。三女高、仙台高校と見てきまして、どちらも、もし技術的にうるさい人が御覧になればいろいろ言いたくなるようなところもあるとは思うのですが、僕にはそれを超えたところでの感動というものを強くいだかずにいられなかったのです。
さて、以上の前提を基にして、僕の高校・大学ツアー第3弾、宮教大演劇部公演「天使は瞳を閉じて」(8月9,10日、宮教大講堂)についてお話ししましょう。
鴻上尚志の代表作ともいえる作品ですので、あえて細かいストーリーは述べません。人間社会を見て、自分も人間になりたい、と天使から人間に変わった天子(てんこ)という女の子を中心とした、若者たちの哀しい群像劇です。ここではその中で一番感動したエピソードについて述べます(なにせ2時間40分の長いお芝居でしたので、印象的なシーンを全部書いていくと、きりがなくなりそうなんですよ)。芸術家志望のケイという女の子が天子(てんこ)を主人公としたビデオ作品を作ります。これが、天子が天使の格好(といっても、背中に羽を付けて、頭に輪っかをのっけてるだけの簡単なもの)をして、何回もただ「だいじょうぶ!、だいじょうぶ!」と言いながら視聴者に微笑みかけることを繰り返すだけ、というもので、ケイはTV局にこのビデオを売り込むけれども、さすがにTV局の人も、「これは放映は無理だよ」と断ってしまうのですが、実は僕はこのビデオのシーンで不覚にも涙がこぼれてしまったのです。
  今回、2日間の公演がダブルキャストで、僕は初日の9日(月曜日)に見に行ったのですが、その回の天子役・吉田みどりさんが、ものすごくよかったんですね。このシーンは、天子は実は本当に天使だから、見ているものがファンタスティックな癒しを感じさせるシーンになるわけなのですが(でも演出の解釈によっては、ものすごくパロディックなシーンにもなりうるところです)、吉田さんってほんとに天使みたいだったんですよ!
 吉田さんという人は、体が本当にちっこくて、そのせいか声量が細くて、バックで他の役者が歌を歌ったりしているところでしゃべるシーンではセリフがよく聞き取れなかったり、また、芝居にメリハリをつけるために、劇中で「イッツ、ショウタイム!」と一人の役者が叫ぶと同時に、 何人かで踊りを踊るシーンが何回か挿入されるですが、他の役者ほど基礎を積んでないのか、その場面の吉田さんの踊りだけひどくぎこちないなあ、と感じさせたり、まあ例えばサイマルの芝居を見て、「佐武令子以外の役者は発声からやり直すべきだ」と書かれた井伏さんあたりが御覧になったら、まず酷評しそうな演技だったのですが(笑)、これが先に述べた天使の役を演じる場面になると、 そのマイナス面が逆に、はかなげ+ファンタジーを感じさせる雰囲気として、本当の天使のように見えるというプラス面に変わっていたのでした。
  もし吉田さんを演技が今一つにも拘わらず天子に抜擢した理由が、このビデオのシーンで彼女のマイナス面が逆にプラス面としてハマる!、彼女でなくてはこのシーンは生きない!との判断から決めたものだとすれば、ここの演劇部の演出家は本当に大したもものです。なぜなら、僕が冒頭で述べた、「見る者を感動させることと技術面の上手さが必ずしも一致しない」という例に彼女も当てはまることにこの演出家は気づいていた、ということなのですから。
 もっとも吉田さんの場合は、冒頭で述べた高校野球的一生懸命さというよりも(もちろん彼女も一生懸命がんばっていたとは思いますが)、むしろ今述べたような、彼女のもともと持っている、はかなげなオーラとでも呼びたくなるようなもので、より強く感動させてくれたのでした。実は僕は彼女を見ていて、昔のアイドルのことを思いださずにはいられませんでした。70〜80年代の、いわゆるアイドル歌手といわれた人達は、歌が下手な人が本当に多かった。当時子供だった僕は、なんで歌唱力のない人の方が、実力派と呼ばれる人より人気があるのだろう、と憤りを感じていたものです。しかし、歌唱力というものばかりが人を惹きつけるものではない。技術的な面以外での、オーラとでも呼ぶしかないものは存在するのだ、ということがやっと理解できるようになったのは、ある程度年齢を 経た最近になってからのことなのです(我ながら情けない話です)。そういえば原田知代なんて、TVのベストテンで思いっきり音程はずしまくってたけど魅力あったもんなあ。今じゃスウエーデンロックの歌姫だそうだけど。実はこのコーナーの常連、関ステレ夫君と佐々木久善さんは共に「現在の」原田知代のファンで、佐々木さんはコンサートにまで足を運ばれたそうです。僕が、「時かけ」(もちろん、「時をかける少女」のことだ!)歌うんなら僕もコンサートに行ってみたいなあ、と話したところ、2人には「さすがに今は『時かけ』は歌わんよ。」と言下に否定されてしまいました。しかし、吉田さんに天使が似合うように、「時かけ」を歌ってこその 原田知代じゃないのか!と、僕は昔とは全く逆の憤りを感じずにはいられなかったのでした。
 吉田さんも、これから役者としてのキャリアを重ねていくにつれて、技術力は向上していくものと思われますが、その、本当の天使のようなはかなさをいかにして失わないでいてくれるかが、実は大事なことだったりするんじゃないかなあと感じます。でも、こればかりは努力によってどうなるというものでもなさそうだけに、難しいよねえ。

[1999年8月17日 0時24分29秒]

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劇団ミモザ『キャラメルマン』 

太田 憲賢   

「宮城県の宝」について僕も一言 太田憲賢佐々木さんと一緒に大河原までミモザを見に行った太田です。実は佐々木さんとは昨年の劇評モニターで一緒だったのですが、その時から貴重な友人ができた、と喜ぶと共に「この人は僕にとっての劇評ライバルだぜ!」という意識も持っていたので、今回のミモザ評には正直いって「やられた!」と思いました。どこがやられたかっていいえば、やはりこの「さざなみしおんは宮城県の宝である」という表現ですよ。なかなか思いつく形容詞ではない。劇評を書くとき、いつもワンパターンなほめ方ではいけないな、と思いつつボキャブラリーで苦労することは劇評書いている人なら経験あると思いますが、まさか「宝」とは・・・。 しかも、それがミモザにピッタリはまってるんだよなあ。さらに驚いたのは、後の配役紹介の中で「キャラメルマン1(お宝)」と書いてあって、あれ、お宝って役者は出てなかったはずだけど、と考えつつ、あっ!さざなみさんのことか、なんという念の入れよう!しかもユーモアたっぷりに。もう今回は参りました、って感じです。でも、佐々木さんもいつもこういうユーモアたっぷりな文章を書いて欲しいのに、なぜか「仙台っこ」の劇評は紋切り調で物足りないんですよねえ。こういう笑いに溢れた文章を、ぜひよそでも書いて下さいませ。 ところで佐々木さんの劇評では、物語のあらすじが載っていないので、どんな話かよくわからない 方も多いと思いますので簡単に説明しますと、舞台は100年後の世界で今よりももっと環境破壊が進んでいて、世紀末感・この世の終わり感が強まっているのですが、そこに現代の天才科学者(兼劇作家)・さざなみしおん(お宝)が、死体を改造して蘇らせたサイボーグ、その名もキャラメルマン(って、それってゾンビかフランケンシュタインじゃ・・・。)をタイムワープで 派遣し、世界中にキャラメルを空からまき散らすことによって人々に子供の頃の純粋な心を思い出してもらえれば少しは終末的状況もよくなるだろう、という、とーってもいいお話なんですけど、実さざなみさん(お宝)のサービス精神溢れたドタバタギャグの炸裂するパワーで、本来のテーマがよく見えなくなってしまっているという、なんとも素敵な物語だったのでありました(これって褒めてないって?いえいえ、客にとっては面白ければ結果オーライですよ、というのが僕のポリシー)。 特に温暖化で南極の氷が溶けかかっているという危機的状況を描写するため、ペンギン三羽のエピソードがあるんですけど、一羽が「しりとりをすると、最後にペの字の単語が少ないので、ペンギンと呼んでくれる人がいない!」と言い出して(それって温暖化と何の関係があるんだよ!)、なぜか突然大しりとり大会が始まるシーンにはもう爆笑しちゃいましたよ。 しかも、オチが「カトちゃん、ペ!」だよ・・・。ドリフネタかい!ラストシーンも、キャラメルマンが空から降らしたキャラメルが、猛スピードで地上に落ちてきたため、それが当たったことが原因で多数の死傷者が出てしまったという、去年の「星空の迷子たち」を見たものにとってはにわかには信じがたいブラックなオチ(しかも、そのキャラメルが人々には「恐怖の大王」と呼ばれるようになったというオマケつき)。もちろん、もっとブラックなネタをとばしている劇団は他にありますけど、あのミモザがブラックユーモアとは・・・、という衝撃に僕と佐々木さんは思わず客席で硬直してしまったのでした。えずこホールの知り合いの職員の方に聞いたところ、さざなみさん(お宝)は来年、再び仙台公演を考えているとのこと。これはみなさん、見なきゃいかんでしょう!今からとっても楽しみバビョーン(byキャラメルマン4号)。 [1999年8月6日 19時20分29秒]

 

佐々木 久善   

 

7月30日にオープンした東宝7の影響で大河原町のえずこホールの付近は、大渋滞である、という情報を聞き、私と太田氏は大分早い、12時30分に北仙台駅前で待ち合わせ大河原に向かった。目指すは、劇団ミモザ公演『キャラメルマン』である。ミモザといえば、昨年の仙台演劇祭に参加したものの河北新報の劇評でめちゃくちゃに けなされてしまった劇団である。その劇団の何が楽しくて大河原まで行くのだという人もいるかもしれないが、私は河北に書いてあるほどひどいとは思わなかったし、正直な感想を申し上げれば、随分こどもっ ぽい(内容、演技、美術など)とは思ったものの、心に引っかかるものがあったし、太田氏の強力なプッシュがあったので、いそいそと出かけて行ったのだ。その結果を一言で申し上げれば、さざなみしおんは宮城県の宝である。(これはもちろん仙フィルと同じ様にという意味で)観客の数こそさびしいものがあったが、ステージの上に炸裂するパワーは昨年のものを大きく上回り、決して上手とは言えないものの、台詞、歌、踊りとバランスの取れたキャラクターは2時間をあっという間に、楽しませてくれたのだ。大人向けの童話ということがよく言われるが、これもそういうものだろう。作りこそこどもっぽいが、内容は案外に大人じゃないとわからないかもしれない。今を一所懸命に生きるとはどういうことなのか、考えさせられてしまった。キャラメルマン3号のわたあめ★ひろみさんは、NHKの歌のおねえさんのようで楽かっ たし、二十一世紀マンの南部敏典さんは三上寛のような感じで味が出ていました。キャラメルマン4号の日下千尋ちゃんはまだ小学生なのでしょうが、役者の中では一番しっかりしていたし、テクノイド ナオの後藤尚子さんはぴちぴちしていた。キャラメルマン1(お宝)、2(池田耕亮)、3号の掛け合いは、絶品であった。仙台からももっと見に行くべき劇団である。ちなみに、次回公演は来年だそうだ。[1999年8月1日 22時46分57秒]

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劇団 M.M 第2回公演 「ミリオンセラー 〜運命の見分け方、教えます」 

太田 憲賢 「愛すべきジコチュー女」(劇団M.M「ミリオンセラー」)

前回の「RED ZONE」でも書いたことだけど、僕が演劇を見る場合、登場人物に 感情移入するという見方で楽しむことが多い(特に「ダメ人間」とか「困ったちゃん」といわれる人に対して)。これは人それぞれ違うことだろうとは思うけれども、僕自身の人間としての資質がダメ人間に共感するようにできており、なおかつ物語に「自分の気持ちをわかってくれること」を求める傾向が強いので、必然的にそうなってしまうのだ。さて、さる7月24,25日にエル・パーク仙台で観劇した、劇団M.M(「ママ」と読みます)の「ミリオンセラー」というお芝居は、まさにそんな僕に「ビビビ」とくる内容だった(実はこの「ビビビ」というのはこの物語のテーマとなる言葉だったりもするわけだが)ので紹介したい。物語は松本聖子という、明らかに松田聖子のパロディーとわかる大スタア(笑)が、 自分が運命の男の人に出会った時に「ビビビ」とくるものがあって結婚したという(トホホ・・・)体験を基にして書いた本がミリオンセラーとなっている世界での話。2組の男女の間で起こる四角関係のドタバタなんだけど、男性ペアは職場の先輩後輩、女性ペアは大学のクラスメートという設定で、どちらのペアも片方がしっかりもので片方が困ったちゃんなワケ。ここまでの経緯から考えれば、僕が困ったちゃんの方に感情移入するというのは当然わかっていただけると思うんだけど、じゃあ男女のうちどっちかっていうと、これが女の子の方なんだな。「なんで?あんたは男なのに」って、思うでしょ。実は、男より女の方がキャラクターが立ってたんですよ。もっとあからさまにいうと、女の方の困った度が激烈に高かったんだね。男の方は彼女がいなくて、「彼女欲しい!彼女欲しい!」と騒いでいる人間なんだけど、 彼女がいないこと以外で特に歪んだ感じもなくって、僕の見る限りではなんか印象が薄いんだよね。そこそこ格好いいし。これに対してタムラ・ミキさん演じる女の子の方は、「ジコチュー女」って劇中でいわれちゃうんだけれど、とにかく自分がいかにいい女かについてアピールばかりしているメチャクチャ騒々しいヤツ。男の2人組の方の先輩(シッカリしてる方)に片思いするんだけど、彼が優しいのをいいことに、相手の迷惑かえりみず、飲みに連れまくり! 夜中に電話かけまくり!でも、そんな困った度が上がれば上がるほど、僕は彼女のことを気に入ってしまったんだなあ。なんでかっていうとね、この手のタイプの人間っていうのは自分に自信がないんですよ。本当に魅力があるのなら「能ある鷹は爪を隠す」っていうけど、黙っていても周りの人たちはその人の魅力を認めてくれるはずでしょ。でも自分に自信がないから、自己アピールを積極的にしていかないと、「ダレもワタシをみてくれない!!」という不安がある。つまり孤独に対する強い恐れがあるわけ。「RED ZONE」の馬場の場合は自分に自信がないから自分の殻にこもってしまったわけだけど、「ミリオンセラー」の女1(タムラさんの役名)は自分に自信がないから、必要以上に自己アピールをして「ジコチュー女」とまでいわれてしまう。 外側に出てくる人格は正反対のようだけど、根っこの部分は同じダメさをもっているってことなんだね。そしてタムラさんの役作りがまたよかった。ダメ人間を表現するってことは、一歩間違えると 見ている人に不愉快な感情をだかせる危険性もあるんだけど、彼女はその「ジコチュー」さを、とってもコミカルに演じていたので、観客はあまり不快感を持つことなくその三の線ぶりを 笑いことができた。そして敏感なお客さんなら、その心の中にある弱さを、隠し味として(うっすらとではあるが)感じることができたと思うんだ。物語はシッカリした方の二人が、実は昔ささいな勘違いで離れていた恋人同士だったということがわかり、ダメな方の二人も、お互いを「ビビビ」と感じる相手だったと気づくという他愛のないハッピーエンドでおしまい。それにしても、このタムラ・ミキさんという人は、初めて拝見したんだけど上手い役者さんだねー。最近若手劇団でいい女優さんが次々出てきていて、仙台演劇界も未来が 明るいって感じだね。[1999年8月2日 20時8分49秒]

 

 

関 ステレ夫   

観ていて、楽しい芝居でした。役者の個性も見え、またほんとに人を楽しませようとしている努力も好感が持てます。内容は、ミリオンセラー松本 聖子(をばた りえ)の著書をめぐる、若い男女4人のドタバタ喜劇である。設計会社のサラリーマン桜井 潤(ユージ)は、女子大生源ひかる(菊地 めぐみ)を見て体に100万ボルトの電流が走る。実はこれは松本 聖子 のミリオンセラーで述べられ世間で話題になっている、ビビビ説(運命の人に出会うと身体に電流が走り、その人と結ばれると幸せになれる。松本 聖子自身も実体験しており現に今もラブラブである。)であり、潤はひかるを運命の人と思い込んでしまう。一方、ひかるの友人である森 マスミ(タムラ ミキ)は潤の会社の先輩である吉田光男(みや)を見ててビビビを感じてしまう。ところが、ひかるも光男も相手に対してはビビビがこない。そこで、潤とマスミは共闘を組み、お互いの運命の人であろう二人に猛然とアタックをしかけるのだが…・このビビビのシーンでは効果でフラッシュと電流の流れる音が流れ「ウ!」という 演技がいちいち入るのが面白かった。それと、今回はマスミの自己中心的で破壊的なキャラクターをタムラ ミキさんが身体を張って好演していたのが楽しかったです。話的には、前半は申し分ないのですが後半クライマックス前にもう1つ盛り上がるエピソードがある良かったと思いました。それぞれ、キャラクターが面白いのですが後半キャラクターで引っ張る限界が少し見えたような気がしました。話としてのしかけで援 護があると良かったのではないでしょうか。最後に当日ビラで、脚本のユージさんが「今思えば国語をもっと勉強しておくべきだったと後悔してます。」とありましたが気にすることはありません。僕も、劇評バトル の投稿では、乱筆乱文、誤字誤植、人名の間違い、外来語の思い違い、送り仮名の間違 い、内容がうすい、相手に対して礼儀がない、もっと違う言い方はできないの?等、国 語力の無さに対するクレームの嵐です。いいのです。恥ずかしいのは結局それだけのことなのですから。 [1999年7月26日 11時41分11秒]

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OCT/PASS新人公演  「天才バカボンのパパなのだ」を観て 

演劇人1号   

何もかも中途半端だった。まずはキャラクタ-。この役者たちは、バカボンを知っているのか?もう少しバカボンのマンガを読んで役作りして欲しいものである。パパは、なんか受け狙いの感じがするし、バカボンは、お父さんを尊敬していない感じがする、もっと一緒にバカを演じて欲しい。 それが息子バカボンだ。その他ママ、レレレのおじさんに関してもいまいち。その肝心のバカボン一家のキャラクターが出来てないから」。その他の人物と絡む時の不条理な空間が出し切れていない。まあ新人公演だからしょうがないかと思おうとしたが、新人にしては、パワーがないし、料金は結構な 料金取るし。照明は昼だか夜だか分からないし。装置はドウッテこともないし。さんざんだった。1時間半位の芝居だったが睡魔(ブラックコメディーなのに…涙)が何十回も訪れた。期待をしてたのにかなり裏切られた芝居だった。 作った芝居を見せて下さい。これは脚本が悪いのではありません。余りにも公演のサイクルが早いせいか。手抜きだったのでは。オクトパスならもっといい芝居が出来る。いくら新人公演でも。そう思ったのでちょっときついこと書きましたがご勘弁ください。ほめる点、広報が良かった位カナ。 芝居おもしろ度(@5点満点中)@です。

[1999年7月31日 0時32分25秒]

 

関 ステレ夫   

その昔モナド企画というギャグユニットが仙台にありまして、僕はそこに三年ほど参加していたのですが、同時期に十月劇場がリニューアルして、現在のOCT/PASSになりました。その、OCT/PASS 第一回公演の告知ビラには主催である石川裕人氏のコメントには多少正確さには欠けますが「最近、仙台では東京の芝居を模倣したナンセンスなものがもてはやされているようだが…」といったことが記されてあったことを覚えています。
僕は「なんだい、喧嘩売ってンの」と単純にキレました。そんなことがありまして、関ステレ夫のOCT/PASSに対する発言は、多少私怨 を含んでいるということを、ここに明言いたします(^^)v
私見ですが別役実には、ベケット(不条理演劇)→アンデルセン(理不尽に対するやさしい視線)→赤塚富士夫(デタラメで、暴力的展開)という大変わかりやすいひとつの流れがあります。(もちろん、それだけではないです。念の為…)アルフレッド・ヒッチコックを粋なサスペンスの巨匠とすると別役実は粋な狂喜の料理長といったところでしょうか。
今回の公演では新人の皆さんが、いっぱい×2(あっぷ×2)で好感が持てました。初演は誰もが名演といいます。怖いものないからね。現OCT/PASSの看板、升孝一郎、南條和彦両氏には不満を感じました。なんかいいお兄さんになろうとしてないか?もっと脂ぎったところを観て見たい。ヒラタ朗氏にしても自分の持ち味に寄りかかり過ぎることなく更なる飛躍を期待したい。しかし、5年前は憤りしか感じていなかったOCT/PASSにも、いつのまにかメ ンバーの結婚披露宴に呼ばれるくらいに親睦を深めてしまい、打ち上げの席では石川氏に自ら酒を注ぎ「いやあ新人さん入って盛り上がってますね。」とかやっている僕はやはり、自分の芸名に偽りなくステレオタイプなのだということもはっきりとここに明言 しておきたい。m(_ _)m
恐るべきは仙台演劇界、人間関係の狭さである。[1999年7月31日 0時33分18秒]

ぺッパー   

こんにちは。どうしようか迷ったけれども、やっぱり一言。久しぶりのオクトパスということで、 楽しみにしていきましたが、見事に期待を裏切られました。別役は、確かに難しいけれど、オクトパスはどんな風に味付けをするんだろうするんだろうとみにいきました。でも、途中から早く終わらないかなぁと思い、観終わった後も消化不良で、どうしてこんなに高い料金を払わなければいけないのかと思いました。伝わってくるものが、なにもなかった。別役のもつ独特なひきづりこまれる感覚もなく、台詞のもつ、言い回しの面白さといったものも、つぶされていくようで、すごく残念だった。キャラクターを重視しろとはいわないが、あんな風につくるならもっと役柄の研究をしても良かったのでは。                               新人としても、なんかきれいにつくってるという印象しかなかった。もっとバカになってがむしゃらに役にぶつかっているという感じが、みたかった。確かにいっぱいいっぱいではあったが、芝居の上手い下手ではなく、早口言葉を上手く言えるということでもなく、もっと自分なりに役を愛して、突き進んでほしかった。                そういった意味で、新人公演としてのうまみはなかった。 オクトパスということで、もしかしたら過剰な期待をしてしまったのかもしれないけれど今回は本当につまらなかった。でも、また観に行くのでがんばって下さい。また、期待していくのでよろしく。

[1999年7月31日 0時34分36秒]

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東北大学学友会演劇部『ポレポレ鳥』 

佐々木 久善   

作、演出、出演は奈尾真さん。ピアスの、あるいはつかこうへい物の役者のイメージが強くある人です。それらは両極端でどちらが本当の奈尾さんなの、と迷っていました。今日の芝居を観て、どちらも本当の姿であったのだと、わかりました。今日はとても暑い日で、芝居の内容も腐っていきそうな人たちの話でした。音の使い方がとても上手で、より一層暑さを盛り上げていました。(音響 中井 均さん)こんなに繊細に音を使って、まるでアートシアターギルドの、あるいはヴェンダースの 映画のように淡々とアパートが取り壊されるまでの数日を描いたこの芝居は、今年の夏の 暑さと共に記憶に残るだろうと思います。取り壊しの前日の壁を壊す場面はこちらの生命の危機さえ感じさせる迫力がありました。昨年の『蒲田行進曲』からはるかに演出家として大きくなったことを感じました。

[1999年7月25日 22時36分5秒]

関 ステレ夫   

年に何回か、観いてヤバいと思う芝居というのがある。客として自分の身の安全が危 ない、とか内容が過激でビビるとか、それもあるのだが、自分で一番でヤバいと思うのは何かしら徹底していてそれでいて十分伝わってくるものがありなおかつ最後まで飽きなかった芝居である。それが在仙作家のオリジナルであれば、もう、どきどきなのだ。2時間20分、大変暑くてせまい会場での長丁場な公演でありましたが、あの場所でなければ、あの長さでなければという必然性を感じました。今回のスタッフおよび出演者の皆さん、作,演出 奈尾 真さんの今後のご活躍心より楽しみにしています。

[1999年7月26日 9時41分5秒]

てづかのぶえ   

私もこの作品の空気は、とても好きでした。でも先のお二人とは異なり、長過ぎるのが決定的な問題点と感じました。話題の途切れた沈黙、どうしようもなく持て余す間の悪さはある種の快感でした。ぐじゃぐじゃのままあえて答も出さず、いいかげんな毎日を送っている。そんな日々の記憶は、きっと多くの人が持っていることでしょう。
青春映画ですね。ただとても欲張りすぎていたと思うのです。おもしろい伏線を張りっぱなしで肩透かしだったり、細かいネタが多くて、いろいろていねいにやってるんだけど、全部触りで終わってたり。それだったらもっと整理してほしい。同じ重さ・薄さのネタは羅列されるうちにだんだん麻痺してきます。例えばトイレに忘れてあった「鉄兜」。みんな意味ありげにかぶってみたり遊んで遊んでひっぱった挙句、後半になっておっさんの「昔世話になった人のものだ」ただ一言で終わらせたり。忘れたころにまた出てくれば、こちらとしてはどんなドラマがでてくるのかと期 待してしまって、拍子抜けでした。表に出てこないサイドストーリーの多さはマニアックな楽しみかもしれないけれど。特にもったいないなと感じたのは「おっさん」の存在でした。リアルというよりナチュラルに等身大の人物像の中で、ひとりだけ異質に「おっさん」な わけです。その彼が、くさりそうな若者たちの中に突然割り込む=>受け入れられるというプロセスが粗いため、話が急に雑になるのです。ただ単に無関心な若者たちで、実は受け入れられてなかった?でも強引にしっかり交流は生まれているんですね。シーンが替わると、いつのまにかなかよくなってる。おっさんも彼らのことを見直したと言うけれど、いったいどこを見て見直したのか、全然わからない。そのおっさんの正体も、ちょっとあきれる強引な落ちと感じてしまいます。全体にていねいにつくっているだけに気になるのです。おっさん役の渡辺君、「熱海殺人事件〜モンテカルロ・イリュージョン〜」の木村伝兵衛役がはまるくどさ、個人的にはとても好きですが、今回の芝居では馴染みませんでした。また次回に期待しています。
東北大片平キャンパス内の第一ホールという場所はとても古くてうっとおしくて、そのま ま長く変わらずにいてほしい建物です。わたしはこの小屋が好きで、ここの公演はなるべく観に行くようにしているのですが、今回のように音にこだわった公演は初めてでした。 というよりもこの建物でもこれだけできるんだ、と驚きました。(ついでにいうと昨年12月、寒い中で雨を降らせたのはとにかくウケました。) 東北大学学友会演劇部のみなさん、これからもこのすてきな小屋のいろんな顔を見せてくださいね。
 なお私が観たのは全12回公演の2回目、先のお二人が観たのは確か楽日であり、そのまま比べられるものではないかもしれないということを、念のため付け加えておきます。

[1999年7月28日 23時3分24秒]

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劇団CUE1999年  第七番目の月 三本立て公演

七月十八日 エルパーク仙台 ギャラリーホール

関ステレ夫  knj-ooo@pop12.odn.ne.jp

僕は、今年31歳になりました。おっさんです。すぐに横になりたくなり、油断すると腹が出て来たりします。昔話で恐縮ですが、自分でもやばいなと思い始めたのが、渋谷系と呼ばれる一連のブー ムでした。それまでの自分のロック解釈とのギャップ。そして、確実に近所レベルまで浸 透して行く恐怖。かつて60年代から活躍しブリティッシュロックでは絶対的バンドthe whoのボーカル、ロジャーダルトリーの発言でパンクが出てきたときなんだコリャ…俺も歳をとったなあ…という発言がありました。自分にもそんな日が来るのかな…漠然と考えてはいたのですが、まさかそれがフリッパーズギターのようなタイプのバンドだとは夢 にも思わなかったです。
 さて、前おきが長くなりました。だから何が言いたいかといいますと、そんな季節を通りすぎてしまった僕には若いゆえの勢いというものがそんなに恐怖ではなくなってしまったのです。だから、劇団CUEの中核であるお笑いユニットピンズの圧倒的な勢いを観てもあせったり、悔しがったり、歩み寄ろうとしたり、頭から否定したりしません。
 別に、できませんでもいいですよ、僕は(^^)v
 それにしても、スタッフワーク弱いと思いました。劇団CUEのようなタイプはプロに 外注してもいいんではないでしょうか。僕は2,000円払ってもいいからちゃんとして欲しかったです。外しが多くて出てる人かわいそうだと思いました。(べつに今回のスタッフを責めているわけではなく、劇団CUEのプロジュース姿勢に対する発言です。)

 

劇団CUEの森です。

ご批評ありがとうございました。真摯に受け止めています。特に今回はアマチュアリズムの悪い面が表に出てきたという点が大きな反省材料になっております。これは演技にもスタッフ にも言えることだと考えております。CUEではできるだけ多くの人に演劇に参加してもらおうという趣旨から、スタッフにもキャストにも、素人同然のメンバーを沢山投入しております。
 しかし、それが今回は「安かろう、悪かろう」という問題になって表面化してきた部分が否めません。ご来場いただきました300名のお客様に対して、あれで果たしてよかったのかということは今後の劇団CUEの大きな問題になるでしょう。
 劇団CUEは現在若者参加型の「アマチュア芸能事務所」として発展していく方向で運営を考えておりますが、そのためにクリアすべき問題はあまりにも多いと思います。貴重なご意見をありがとうございました。

[1999年7月20日 18時25分47秒]

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太田憲賢   「女優論 たかはしみちこ」

たかはしみちこには一度静かな演劇にチャレンジして欲しい!

 

僕が最近とても気になっている女優に、たかはしみちこさんという人がいる。(しかし、芸名がひらがなだと読みにくいですね)彼女は「新月列車」という劇団の看板女優なんだけれども(現在は退団)、僕が彼女を意識して見るようになったのは去年の演劇祭で、劇団からんこの「埋み火の駅」に彼女が客演してからだ。この辺の経緯は’98年演劇祭の劇評モニター報告書に僕の文章が掲載される予定なので、重複を避ける意味でここで詳しく書かないけど(報告書が出たら、皆さん読んで下さい!)要はモニター仲間で佐々木久善さんという方がいらっしゃたのですが、その方が彼女の大ファンだというのをうかがい、そんじゃどんな女優か注目してみるか、と思ってその芝居を見たわけ。そしたらけっこう人を引きつけるオーラのようなものを持っている人だったので、「おお、これはなかなかいい女優さんだなあ。」と思ったんだけれども、ただ、そのオーラを今一つ上手く生かしきってないなあ、という印象も同時の持ったのである。
「埋み火の駅」での彼女の役というのが結婚詐欺にあった若い女性というもので、日常生活ではいつも勝ち気に振る舞っているのだが、内面はとても孤独に弱くて淋しがり屋で、まあその弱い内面を防御する意味もあって、あえて勝ち気に振る舞っているという部分もあるわけなんだけれども、その心の弱さにつけ込まれて結婚詐欺にあってしまうという役どころなわけね。彼女がたまたま赤いコートを着ていたところから、僕はその時のアンケートに「まるで惣流アスカ・ラングレイーのようだ。」と書いたりもしたのだが(わからない?そういうキャラクターの女の子がエヴァンゲリオンというアニメに出てたの!見てない人は見てね、泣けるから。)それはさておき、その時の彼女の勝ち気に振る舞っている時のアップテンポの騒々しい演技と、時折ふっと見せる寂しそうな顔や自分が詐欺にあったとわかった時の悲しみでいっぱいになった表情のコントラストがすごくよかったのだ。なんていうのかなあ、ああいう寂しげな表情がさまになる女優さんていうのに僕はめちゃくちゃ弱いんだよね。まあ、これは僕に限ったものじゃなくて、大林宣彦という映画監督の撮った「尾道もの」と呼ばれる作品群があるんだけれど(小林聡美の「転校生」、富田靖子の「さびしんぼう」、石田ひかり、中島朋子の「ふたり」などが傑作)これがまさに寂しげな表情の似合う少女にこだわり続けたもので、この「大林映画」を愛する人であれば僕の言わんとすることが御理解いただけると思う。
ただ、たかはしさんの場合、そういう寂しげな表情がすごくいい女優さんであるにも関わらず、その長所を生かす場面を、あえて自分から少なくしている感じがある。つまり、自分はアップテンポで騒々しい演技をするのが似合っている女優だ、という固定観念を持ってしまってるように見えるんだなあ。
それは「埋み火の駅」でも感じたんだけれど、2月にロングラン公演された彼女の最新作「熱海殺人事件」では、より強調された形で出てしまった。つかこうへい作品だから騒々しい演技をするのが原作に忠実でいいんだと思ったのかもしれないんだけど、脚本の中にはけっこうセンチメンタルな場面も多いんだよ。ああここはもっと間をたっぷりかけて寂しい表情を長くして欲しいのになあ!と思ったシーンが何回あったことか!そう思う間もなくすぐに騒々しい芝居に逆戻りしてしまって、ほんともったいない!たかはしみちこの真価は静かな芝居にあり!これは美少女センチメンタル映画にうるさい僕が言ってるんだから間違いない!ということで提案なんだが一度徹底して静かな演劇に彼女はチャレンジしてもらいたい。
いい例が佐竹令子さんだ、彼女の所属するサイマル演劇団も「疾走する演劇」をテーマにしており、そのためアップテンポの騒々しい芝居をすることが多かったのだが、三角フラスコの「ソラシドミニカ」に客演したのを機に、とぼけた味のあるかわいい女の子という役柄を見事に身につけ、演技に幅を持たせることに成功したのだ。その意味では、生田恵さんの演出がいいだろうな。二人芝居で相手役は我が悪友・関ステレ夫(鳥の庭園所属)でどうだろう?あんがい関君の方が食われまくりそうな気がするぞ(と親友には冷たい太田なのであった)。

 [1999年7月12日 19時11分24秒]

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鳥の庭園『ファンドとリス』

佐々木久善   

 

私はこの劇団が好きだ。だからこの度の公演については納得出来ないことがあるので、こうして筆を取った。果たしてこの芝居を野外で上演することにどのような意味があるのだろうか、ということだ。台詞に重点が置かれた構成の戯曲であり、それを大きく崩すこともなく上演するのに野外では 無理があったのではないだろうか。実際に、台詞は公園の広大な空間に吸い込まれてしまい、客席まで届かなかった。役者の技量ということもあるのだろうが、台詞劇を野外で上演する、というそもそもの発想にこそ疑問があるのである。野外=スペクタクルという単純な図式で疑問を持っているのではない。野外というデメリットを 補う何物も感じられない演出に疑問を感じるのである。肉体を使って表現することが得意な劇団ではなかったのか。それならば、それに合わせた戯曲を選択するべきであろうし、何らかの欲求からそうでないものをやろうとするのならば、自分達の得意な方向に芝居を引きずり込むことが必要なのではないだろうか。最後の場面の、土と花火のために芝居を作ったわけではないのでしょうから。

 

[1999年7月8日 ]

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越前牛乳プロジュース「越前牛乳」

作/演出 紺野 鷹志  99 7/3.4 エルパーク仙台 ギャラリーホール

関 ステレ夫

人を集めるのはたいへんなことだと思う。それはわかる。わかるよ。だってうちの劇団実質5人(内 男手2名 後はかよわい女子)で野外にセット組んで公演してるんだもの。手伝いは頼 むけど、あした来てくれるかなあーとか、すごく心配だもの。
 越前牛乳プロジュースを観て、一番感じたのは14名キャスト集めるのが一番大変だったんだろうなということです。プロ役者の需要が少ない仙台市でプロデュース公演という形をとってキャストを14人集めるのはかなり難しい。(いろんな劇団に参加してキャリアを積むと考える人は少ないと思う)しかし、集めて公演を行った。そこは買います。頭の下がる思いです。
 ただ残念なのは、今回の越前牛乳プロジュースは、そこで終わってる気がしてならないのです。キャストがほとんど野放しでした。この場合14人のキャストそれぞれの力の差がはっきりと見えます。それが、全体としてうねりにはならず、むらを生んでいたと思います。力の差とは「才能」(この言葉はまやかし、批評で才能という言葉を連発する人は信じません。)ではなく、ちょっとしたことに気がつく人か、そうでない人かとかその程度のことです。 それは演出がバランスに気を配ればある程度は解消できたと思います。セットがあんまりでした。せっかくギャラリーホールなのに学校の体育館のような舞台は、どうかと思いました。キャストを見せるため、照明の効果をねらったためにしても、なんかさびしかったです。当日びらには劇団旗揚げ募集のお知らせとありました。僭越ながらアドバイスを・・・・ 今回のメンバー一人も逃してはいけません。それが、また面白い公演を打てる近道だと思います。日曜日の夜を観ました。では。
PS それにしても青葉玩具店のゲスト前説は寒かった。東北サカリパークの客演は最高だったと聞いている。体張っているのはHOTだったが−100度の太陽のように思えた。

陳謝 関 ステレ夫   

越前牛乳プロデュースの関ステレ夫の劇評投稿にて、ゲスト前説を行った青葉玩具店に対し「寒い」と評したことについては謝る必要を感じません。しかし、タイトルにでかでかと明記し、さらし者のようにしていることについては、いささかやりすぎであるということを認めここに青葉玩具店に対し陳謝いたします。また、劇団 M.M等在仙劇団公演の当日ビラ協力の欄に青葉玩具店の名前をよく見かけます。他劇団のゲスト前説のみで、青葉玩具店のイメージを誇大解釈し劇団のプライドを傷つけるような行為をしてしまったことを深くお詫びいたします。
[1999年7月26日 15時13分21秒]

たかお   

この文章を読んで、ちょっと疑問を感じたので投稿させていただきます。「謝る必要を感じない。」ということは、謝れという要請がどこかからきた、ということでしょうか?感情に走って、暴言を発したのならともかく、特に問題のない劇評の範囲内だと自分は思います。その劇評に対して、いちいち非公式に何らかのプレッシャーがかかったのであれば、イヤな世の中になったものだなぁとおじさんは思ったのでありました。もし、投稿した方が自主的に陳謝したのであれば、自分の余計な心配であり、この文章で多少なりとも、不快感を受けた方全員に深くお詫び申し上げます。

[1999年7月27日 12時47分8秒]

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劇団*翔王シアター「RED ZONE」を見て。

関ステレ夫

どうも! 劇団鳥の庭園の関ステレ夫です(^O^)/

ゴミゲッターのダメ人間 馬場(芳賀本名氏好演!)ワンルームいっぱいの仙台市指定ゴミ袋に詰まったゴミ!(本当に匂ってきた)そのゴミをめぐってのスラップステック。 大家!オカマ!!町内会長!!!そして謎の世話焼き男女… 翔王シアターは仙台の吉本か?翔王シアターは世にも奇妙な物語か?なぜ高野連は社会性にこだわるのか?

そして…夏目雅子とカウンタック!!!

(いや、馬場の部屋のセットにあったパネルのことなんだけどね…。小道具としては馬場が顔を洗う医療用の手洗い器に水が本当に入っていて良かった。マイムで水はあることにしましょうとしてしまうこともあるけど、馬場の不潔な部屋の中に本物の液体が出てくると感覚に来るものがあった。ゴミの中のペットボトルに少し残ったウーロン茶と合わせ技。馬場がそれを訝しながら飲むシーンは最高。芳賀本名賛。)それではC= C= \(;・_・)/  


太田 憲賢

劇団*翔王シアターの新作「RED ZONE」は、見ていてせつなくて涙が出そうな芝居だった。芝居が終わった後、主宰の高野蓮さん、主演の羽賀本名君にそう伝えると、彼らはそういう 意図でこの芝居を作ったのではなかったらしく、たいそう驚いておられた。その意味でこれから書く文は作者の望む感想では必ずしもないかもしれないが、一つの作品 には正しい唯一の解釈のみが存在するわけではないという前提の基に、こういう受け取り方もあるんだな、と思って読んでいただければ幸いである。僕がこの作品を見てせつなくなってしまったのは、主演の芳賀君演じる馬場のあまりのダメっぷりに対してである。ダメ人間が主人公として出てくる物語というのはある種の人間 にとっては強く引かれるものがあり、古くは大宰治から、最近ではエヴァンゲリオンの碇シンジまで熱狂的ファンを生んできたものである。本作の馬場という人物に、僕はそれら 歴史的名作に綿々と続いている「ダメ人間の悲しさ」とでも形容したくなるものを強く感じたのである。
 馬場は定職にも就かず、毎日家でゴロゴロしている人間である。生計はゴミ拾いをして、会社や個人がうっかり捨ててしまった重要書類を隣室のオカマ・田村に売ることによって しのいでいる。田村は自分の働いているオカマ・バーに来る常連の会社のお偉方にその情報を高く売りつけているというわけだ。そういう事情で馬場の部屋はいつもゴミでいっぱいで、事情を知らない大家からは出ていくかゴミを捨てるかどっちかにしろ、と頻繁に注意を受けている。そんな生活をしているものだから、友人や恋人などいるはずもなく、彼はいつも 無気力で寂しそうな表情を浮かべているのだった。もう、こういう設定だけで僕は涙が浮かんでしまう。最近、東京では「ダメ連」という、自分はダメな人間だという悩みに苦しんでいる人たちが、連絡を取り合って、お互いがんばっていこうと励まし合う組織ができ一部で話題になっているが、学校ではいつ落ちこぼれる存在になるかという恐怖を抱え、社会に出たら出たで今度は勉強以外の協調性、 積極性、明るさといった新たな定規で日々計量され、他人とうまく人間関係を結ぶのが苦手な人間にとっては、「自分はダメだなあ」と落ち込むことが日常と化しているのが今の世の中の現実なのである。だからこそ、大宰やシンジ君にもう一人の自分を見てしまう人たちは、「この人だけは自分の気持ちをわかってくれる人だ!」と熱狂的支持者になるわけである。そして、本作の馬場がまさにそういう自分に自信のない人たち(当然僕自身を含む)に、ぴったりはまるキャラクターだったと思うのだ。
 さらにいえば、本作を見て僕がふと思いだしたのは、2年前の演劇祭でサイマル演劇団が公演した「ニキビ・ビキニ」という芝居である。この物語の主人公サエキ・ケンゾウも典型的ダメ人間だった。定職に就かず、道ばたの草を喰って生きているという人間で、ある日いつものように草を喰っているうちに日射病か何かで倒れてしまい、病院に入院して いるという設定であった。そこへ偶然、左翼ゲリラの残党のニキビという若く美しい女性(演じるはもちろん、サイマルの看板女優・佐竹令子さんだ!)が病院を占領して立て 籠るという事件が起こる。ニキビに好意を持ったケンゾウは、彼女を助けようとするがかえって足手まといになり当然のことながらニキビに疎まれる。しかしケンゾウの誠意が通じたのか次第にニキビは彼に心を許すようになり、最後に二人は駆け落ちのように病院から姿を消すところで物語は終わるのである。僕はこの作品を見たときも、「これはオタクの夢を描いた作品だ!」と感じ、涙が出る思いだった。というのも僕自身もまた、自分もまた、自分のようなオタク・ダメ人間にはとても彼女なんてできないだろう、というあきらめを持ちながら日々生きているのだが、これは芝居という絵空事だとわかっていつつも、そんなダメ人間に彼女ができ最後に二人が駆け落ちして 終わるという設定に心の底から救われる思いがしたし、泣いてしまったのである。
 なぜ「ニキビ・ビキニ」のことを書いたかというと、「RED ZONE」でも馬場に彼女ができるチャンスが訪れるのである。馬場の友人を自称し、何かというと馬場の世話を焼きたがる中川という男が登場するのだが、彼が馬場に彼女を紹介するといい、職場の同僚・伊藤を連れてくるのである。僕はこの展開に、物語としては嘘臭くてリアリティーがなくなるという批判を 受けるだろうけど、こんな馬場みたいな男にも彼女ができたらどんなにいいだろう、という思いで舞台の進行を見ていた。でもやっぱり馬場はだまされていたのだ。中川と伊藤は大手広告代理店の社員で、うっかりゴミに捨てた大事なフロッピーディスクを馬場が拾ったものと判断し、彼をだまして部屋を探そうとしていたのである。結局だまされていたと気づき落ち込む馬場に、唯一の信頼関係のもてる相手だと思っていた 田村が、じつは自分が馬場の部屋からこっそり持ち出していたことを告げ馬場にショックの追い打ちをかけるのだった。 結局自分に好意を持っているように見える人間は皆自分を利用しているだけだった。しかし、彼には日々の生活があり、落ち込んでばかりもいられない。夜が明けると彼はのろのろと部屋を出、またゴミを漁りに出かけるところで物語は終わるのであった。 何という絶対的な孤独感だろう。僕は馬場のラストシーンの寂しそうな後ろ姿を見て、本当にせつない思いに胸を締めつけられる思いがした。この物語を見ての僕の結論は、ちまたに多くいる大宰ファンやエヴァファンと同じだ。「わからないやつはわからなくていい!でも、誰がなんといおうと馬場の気持ちが僕には痛いほどわかるんだと!」と。

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