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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県弥富市:鍋田コースNABETA

2017年1月探訪。2017年1月23日作成

【コース】 距離:約13.6km
 市南部の鍋田地区をめぐります。新田地帯に生きる人々の生きざまが感じられる社寺や史跡,伊勢湾台風関連の記念碑などをめぐっていきます。

弥富市鍋田支所〜稲元観音寺〜明信寺〜彦九田神社〜六体地蔵〜大谷神明社〜伊勢湾台風殉難之塔〜弥富野鳥園〜鍋田神明社〜八穂地蔵〜稲荷崎神社〜境神明社〜中原神社〜顕宗寺〜富島神社〜長養院〜伊奈利神社〜弥富市鍋田支所


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:弥富市コミュニティバス・鍋田支所バス停



 スタートの鍋田支所へは,近鉄弥富駅から弥富市コミュニティバス(きんちゃんバス)の南部ルートに乗車して20〜25分で行くことができます。南部ルートは2経路ありますが,どちらを利用しても行くことができます。本数は合わせて1日10本程度なので,バスの時刻を弥富市のホームページで調べておくといいでしょう。ただし,日曜・祝日は運休となりますので注意してください。
 日曜・祝日の場合や,ちょうどいいバスがない場合は,同じく近鉄弥富駅から出る木曽岬町の自主運行バスも利用できます。バスの源緑見入線の木曽岬温泉行に乗車して,約15分。和泉神社バス停にて下車して,そのまま鍋田川を渡って500mで鍋田支所に着くことができます。こちらも本数は1日7本なので,時間は調べておきましょう。

弥富市鍋田支所
稲吉1-8



 バス停のところに弥富市鍋田支所があります。この付近の鍋田川と筏川にはさまれた地域は,昭和30年(1955年)に当時の弥富町と合併するまでは鍋田村と呼ばれました。この付近は江戸時代以降,新田開発により陸地化され,昭和21年(1946年)には農林省によりこの付近に鍋田干拓地が着工され,広大な田園地帯が出来上がりました。今回のコースは,この新田地区の開発の歴史を感じながら進んでいきます。



 なお鍋田支所の東側に隣接して鍋田招魂社があります。

稲吉観音寺
稲吉2-53



 鍋田支所から県道462号線を東に300mほど進むと,愛知黎明高校[公式HP(外部リンク→)]の入り口があります。昭和38年(1963年)に設立された普通科と看護科を持つ私立高校で,長らく弥富高校といいましたが,平成25年(2013年)に現在の校名になりました。ユニークな探究授業などを取り入れているのが特徴といいます。





 愛知黎明高校の入り口の先に稲吉観音寺(曹洞宗)があります。明治元年(1868年)の創建といい,この地に生まれた女が僧を志して伊勢国で修行し,戻って一庵を結んだのが始まりといいます。昭和初期に三河から奉納されたという珍しい釈迦降誕図が大切に保存されているといいます。



 先の「間崎2丁目」交差点を右折して,少し先の左手に明信寺(真宗大谷派)があります。法敬山と号し,稲元新田の地主木村嘉兵衛の没後,その妻が菩提を弔うために説教所を開設したのが始まりで,珍しい木製の宝塔が保存されているといいます。稲元新田は元禄8年(1695年)に知多郡大野村(現,常滑市)の綿屋六兵衛が開田し,宝永3年(1706年)に造成が完了しました。

彦九田神社
稲元1-9





 明信寺から300mほど南下して,次の筋を左折すると少し先に彦九田神社があります。稲元新田が開拓された際,人々の心の拠り所として勧請されたと考えられます。境内には愛知県初の横綱である第28代大錦大五郎が寄進した石燈籠があります。稲元に生まれた彼は,幼少期から年上の相手を相撲で負かせ,「稲元の金太郎」の異名をとったといいます。明治31年(1898年)に京都相撲に入門し,頭角を現して次々と昇進し,大正7年(1918年)に横綱に昇進しました。昭和8年(1923年)に地元の彦九田神社にこの石燈籠が寄進されました。彼の肖像画や使われた大うちわなどは,弥富市歴史民俗資料館に保管されています。また,境内の石鉢には開拓者の子孫と思われる「綿屋伝兵衛」の銘が刻まれているといいます。

六体地蔵
稲元6-42



 彦九田神社の先の筋を右折し,そのまま道なりに300m強進んだ突当りを右折し,その先の突当りを左折して200mほど進み,次の交差点を右折して200mほど進んだ「狐地東」交差点で国道23号線を渡って,そのまま左折して国道を進み,2本目の筋を右折して100m弱進むと左手に六体地蔵[市文化]があります。稲元新田開拓の際,難工事によって亡くなった犠牲者を供養するために設けられた地蔵で,六体のうち一体の背面に宝永2年(1705年)の年号が刻まれています。元禄8年(1695年)に開拓された新田は,開拓者の綿屋六兵衛の名をとって,当初は大野綿屋新田と呼ばれました。その後子孫である平野六兵衛秀勝の法名をとって友関(ゆうかん)新田とも呼ばれましたが,文化14年(1817年)に稲元新田となりました。北には秀勝が開基したという秋葉寺があり,秀勝画像が保管されているといいます。

大谷神明社
大谷1-93



 六体地蔵から300mほど道なりに進み,次の十字路に当たる筋を左折して,600mほど進んだ突当りを右折します。さらに200mほど進むと右手に多度神社があります。三重県の多度大社から勧請したもので,地域的には近いですが弥富市内で唯一の多度社となります。



 多度神社前を通り抜けて西側から南下し,次の筋を右折した先には操出公民館があります。公民館の西側には開拓の歴史を記した操出開拓百年記念の碑があります。明治初期に操出新田が開発されアシ原だったこの地に稲穂が実るようになったといいます。



 そのまま水路沿いの道を南下して300mほど進み,2本目の筋を左折して100m強進むと左手に大谷神明社があります。この付近の大谷新田の開発者である大谷謙造氏の偉業を称える尚徳碑が入り口左側に建てられています。私財を投げうって新田を開発し,この付近に豊かな実りをもたらし,また製糸工場を開発したともいいます。

伊勢湾台風殉難之塔
操出11



 大谷神明社から西に戻って,2つ目の筋を左折します。そのまま道なりに約400mほど進むと,左手に小さな社があります。



 さらに400mほど進むと伊勢湾台風殉難之塔があります。昭和34年(1959年)にこの地方を襲った伊勢湾台風では,現在の弥富市域でも358名の人々が亡くなりました。江戸時代以降,遠浅の海を干拓してできたこの地域は,堤防が破壊されるとひとたまりもなく,堤防の復旧やポンプによる排水を行ったにもかかわらず,水没地域が完全になくなったのは台風襲来から半年後だったといいます。この碑は昭和38年(1963年)に,犠牲者の慰霊と伊勢湾台風の惨禍を風化させないために設けられたものです。



 敷地内には,平成9年(1997年)に建てられた村上冬燕の句碑があります。医師としてこの地を訪れた際に詠んだ「洪水の底にて稲穂靡(なび)くかたち」の句が刻まれ,心を痛めた様子が伝わります。同じ敷地内には海苔の記念碑があります。尾張における海苔の養殖が明治4年(1857年)にこの付近で始まったとされ,その後「蓬莱海苔」として海部地方の海苔は知られるようになったといいます。

弥富野鳥園
上野町2-10 [公式HP(外部リンク→)]



 伊勢湾台風殉難之碑の先の西尾張中央道を南下します。400mほど進むと,名古屋競馬場の場外馬券場であるサンアール弥富と,弥富トレーニングセンターの入り口があります。弥富トレーニングセンターは総面積77万平方メートルの広大な土地に,所属場のトレーニングを行う諸施設や,競馬関係者の住居があります。将来的には名古屋競馬場からこの地に競馬場が移転する計画になっています。





 さらに500mほど南下して,伊勢湾岸道が上に走る「鍋田」交差点の先を左折して400mほど進むと,弥富野鳥園があります。庄内川から木曽川にかけての伊勢湾沿岸は水鳥を中心とした野鳥の飛来地として知られており,それらの野鳥を保護・観察する目的で昭和50年(1975年)に設けられました。





 本館は1階が事務棟,2階が展示室になっており,展示室では飛来する野鳥のジオラマやはく製標本,鳥類の体の構造を知れる羽根や骨の標本展示があって,この地に飛来する野鳥についての知識を得ることができます。3階は展望室になっており,倍率20倍の双眼鏡を用いて保護地内の野鳥の観察を行うことができ,土日などには観察指導員によるガイドを受けることもできます。周辺の保護地は葦原や草原,樹林地などが設けられ,普段は立ち入ることはできませんが,見学会などのイベントの際には立ち入って見学もできるそうです。

鍋田神明社
鍋田町稲山195-1





 弥富野鳥園から戻って,伊勢湾岸道のそばの道を西へ900mほど進み,「鍋田中央」交差点を右折して500m強進むと左手に鍋田神明社があります。昭和44年(1969年)に伊勢湾台風がこの地に来襲してから10周年になるのを記念して設けられました。境内には伊勢湾台風で殉職した人々を慰霊するために,伊勢湾台風殉難之碑と慰霊の観音が設けられています。慰霊の観音は昭和38年(1963年)に犠牲者ゆかりの地の土を陶土に混ぜて作られたといい,その後観音堂が設けられてこの地に安置されたといいます。



 鍋田神明社からさらに100mほど北上した左手には八穂地蔵[市文化]が安置されています。この付近の八穂新田は,鍋田新田の一部として江戸末期の天保4年(1833年)頃から開発が始まりましたが,安政元年(1854年)の大地震と,その後の暴風雨などで完全に海の底になってしまい,この地蔵も海の底となりました。明治8年(1875年)に北の富島地区の漁師によって地蔵が引き上げられ,長らく富島地区で安置されてきましたが,伊勢湾台風後の昭和38年(1963年)にこの地に安置されました。長らく水害と戦ってきたこの地域の歴史を物語るうえで貴重な遺産になっています。

稲荷崎神社
境町85



 八穂地蔵からさらに北に進み,次の筋を左手に進んで築堤上の道を進み,さらに次の信号を越えた先の筋を右折して,続く筋を左折します。200mほど進んだ2本目の筋を右折し300mほど進むと,稲荷崎神社があります。新田開発の際に勧請されたと考えられる神社です。



 南の筋に戻って右折して西に進み,続く分岐を右に進んで300mほど進むと境神明社があります。同じく新田開発の際に心のよりどころとして勧請された神社と考えられています。鍋田地区はこのように新田地域に勧請された神社が数多く残されています。



 境神明社の先の分岐を右に進み,そのまま道なりに200mほど進んで県道103号線に合流します。鍋田川沿いを500mほど進むと右手に中原神社があります。

顕宗寺
富島105



 県道104号線を400mほど道なりに進むと右手に顕宗寺(真宗大谷派)があります。享和元年(1801年)に明浄が創建し,元は知多郡阿久比にあって浄土宗から改宗したといいます。浄土宗であったためか庫裡に阿弥陀如来坐像が安置され,本堂右手に年一度開扉されるという若き姿の親鸞聖人木像が安置されているといいます。



 顕宗寺から200m強進んだ右手には富島神社があります。天照皇大神を祀り,新田開発が行われた際に勧請された社の一つと言えそうです。

長養院
加稲3-62





 富島神社から200m強進むと,右手に長養院(曹洞宗)があります。古くは知多郡寺本村(現,知多市)ににあり,天台宗の法海寺の山内にありましたが,天正年間(1573〜93年)に焼失したといいます。延宝3年(1675年)に伊勢長島の伊藤九八郎なるが加稲新田を開発し,代々長養院に祈願をしたことから,この地に堂宇を建立しました。享保10年(1725年)に曹洞宗に改宗されて現在に至ります。歴史的に古い寺であることから旧鍋田村を中心に多くの檀家を持つ寺です。本尊の法海寺時代からの聖観音で,市内でも最も古い部類の仏像といいます。



 長養院から200mほど北上すると,伊奈利神社があります。この神社についても新田開発の際に勧請された稲荷神社と考えられます。



 さらに150mほど進むと右手には間崎公園があります。桜の名所としても知られている公園で,住民の憩いの場になっています。



 その先の「間崎」交差点の先には,末広稲荷大明神があります。

ゴール:弥富市コミュニティバス・鍋田支所バス停

 「間崎」交差点から東に進むと,スタートした鍋田支所バス停に戻ってきます。バスで戻る場合は,本数が少ないですので時刻をあらかじめ確認して利用しましょう。

(プラスワン)糟谷磯丸歌碑
松名3



 鍋田支所のある間崎地区から北に900mほどの位置に春日神社があります。享保11年(1726年)に開発された筏川の中心に位置する松名新田の氏神として設けられた神社といいます。



 その少し北には糟谷磯丸歌碑があります。糟谷磯丸は江戸末期の伊良湖の歌人で,1844年頃に松名を訪れたとき,この地に立っていたという大松を詠んだ「いかばかり年をつむらん名にしおふ まつなの里の松のこたかさ」の和歌が刻まれています。


写真使用数:36

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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