【コース】 距離:約7.8km
旧十四山村東部の宝川周辺をめぐります。明治時代の東海道周辺の社寺や新田開発にまつわる史跡,四季の自然豊かな三ッ又池公園を訪ねます。
飛島バス・亀ヶ地バス停〜八剱社〜現瑞寺〜東別院蜆支院〜山神社(二つお宮の松)〜法善寺〜須賀神社〜三ツ又池公園〜烏の池〜秋葉堂〜日吉神社〜十四山支所〜神戸新田排水機記念碑〜孫宝排水機場〜飛島バス・亀ヶ地バス停
![]() (国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成) |
スタートの飛島バス・亀ヶ地バス停は,近鉄蟹江駅からの蟹江線のバス便になります。運行本数は平日は1時間に1〜2本,土曜休日は1時間に1本程度ですので,バスの時刻をあらかじめ飛島村の公式ホームページで調べておくといいでしょう。バスの所要時間はおよそ12分,運賃は200円です。バス停を降りると,目の前には雄大な宝川の流れが目に入ります。今回のコースはこの宝川周辺を中心にめぐっていきます。
亀ヶ地バス停からバス通りを戻る方向に道なりに進み,300mほど進むと左手に(亀ヶ地)八剱社があります。この付近の亀ヶ地(かめがんじ)新田が慶安3年(1650年)に開墾され,その後承応3年(1650年)に完成し,祭神は日本武尊です。
八剱社から200mほど進んだ2本目の筋を左折し,400mほど進むと県道に合流しますので,合流してその先の筋を右折して次の筋を左折すると,観音寺(曹洞宗)があります。文化3年(1806年)の開創といい,豊山町の千松寺の末寺といいます。寺の前にある天保9年(1838年)の銘のある地蔵は骨ぬき地蔵尊と呼ばれ,魚の骨がのどに刺さった時はこの地蔵に参ると取れるといいます。
そのまま100mほど進んで西尾張中央道に突き当たったら左折すると,先には栗山先生寿碑があります。
先の「竹田」交差点を横断歩道を渡ってから左折し,次の筋を右折して100mほど進むと,左手に(竹田)八剱社があります。慶安3年(1650年)に鬼頭景義が竹田新田を開拓した際に勧請されたといい,祭神は日本武尊・天照皇大神,境内社に秋葉社と菅原社の2社があります。
右折する前に戻り,さらに東へ1筋進んで右折し,100m強進むと左手に現瑞寺(真宗大谷派)があります。永享年間(1429〜41年)に丹羽郡古知野(現,江南市)に竜眼が創建したといい,明治43年(1910年)に現在地に移されて真宗寺院となりました。戦災で建物は焼失しましたが,本尊の阿弥陀如来は焼失を免れて現在まで続いています。
現瑞寺から300mほど進んだ突当りを右折し,200mほど進んだ西尾張中央道を左折し,さらに次の筋を左折して100mほど進むと左手に名古屋別院蜆支院(真宗大谷派)があります。名古屋の真宗大谷派名古屋別院の支院で,明治初期に設けられ,本尊は阿弥陀如来といいます。
なお,この通りは明治時代に東海道として整備された道で,街道周辺に史跡が多く点在しています。
戻って西尾張中央道を右手の横断歩道で渡り,直進方向へ300m弱進むと,右手に山神社があります。慶長3年(1598年)に東蜆新田が開墾されたのち,承応3年(1654年)に伊豆三島神社から勧請して創建されたといいます。境内には樹高16mに及ぶ,二つお宮の松[市天然]として多くの住民に親しまれる老松があります。伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受けたこの地域で奇跡的に生き残った松で,強い生命力を感じさせます。
山神社の道路の向かい側に(四郎兵衛)神明社があります。元禄16年(1703年)に富田村千音寺(現,名古屋市中川区)の横井四郎兵衛らによってこの地が開墾された際に,天照皇大神を勧請して宝永元年(1704年)に創建されたといいます。
山神社から200m弱進むと右手に明治天皇西蜆御休止所の碑があります。明治13年(1880年)に明治天皇が三重県地方を巡幸された際に,ここ西蜆の志水家にて休息したといい,戦前は史跡にも指定されていたといいます。
碑から少し先には法善寺(真宗大谷派)があります。明治13年(1880年)に真宗本願寺派の説教所として設立されましたが,昭和17年(1942年)に大谷派に転派し,本尊は昭和27年(1952年)頃下賜された阿弥陀如来です。寺の前には念仏講中と刻まれた地蔵がまつられており,庶民信仰を感じさせます。
法善寺から200m弱進むと,左手に須賀神社があります。社伝によると貞享5年(1688年)に勧請されたといい,元は天王社と称していましたが明治期に須賀神社と改称されたといい,祭神は須佐之男命です。
須賀神社から100mほど進むと県道109号線に突き当たるので右折して,その先の横断歩道を渡ってそのまま進み,宝川沿いの道を300m強進んだ先の橋を渡って右折すると,やがて三ッ又池公園が見えてきます。三ッ又池は宝川の遊水池で広さは15haに及び,弥富の水郷風景のシンボルとなっているほか,春は芝桜,初夏は花菖蒲,夏は睡蓮など季節折々の花も自慢の公園です。公園の北側に進んで左手の橋を渡った先にある中の島の展望台からは,池を一望することができます。特に芝桜の時期にはイベントなども行われ,多くの市民で賑わいます。池の周りには長さ2300mにおよぶ遊歩道も整備され,時間に余裕があればウォーキングを楽しみながら公園をめぐるのもいいでしょう。
三ツ又池公園の目の前にある「鳥ヶ地新田」交差点から南に100m強進むと右手に十四山忠魂社があります。
戻って「鳥ヶ地新田」の1つ手前の筋を右折して東に250mほど進むと,右手に烏の池[市史跡]が見えてきます。海に面して堤防を築いて新田開発を行ってきたこの地域は,洪水や地震でたびたび堤防が決壊し,澪と呼ばれる池が残されたといい,この烏の池は宝暦7年(1757年)の大水でこの地にできた澪だといいます。現在は多くの澪が埋め立てられて面影はありませんが,この池は,澪の跡として貴重な池となっています。池の中には八大龍王が眠るなど,信仰の対象になっています。なお,池の反対側には富吉建速神社の小さな社が設けられてます。
烏の池から100mほど進んだ左手には秋葉堂があり,堂内には木造阿弥陀半跏倚像[市文化]が安置されています。立像や坐像が多い中で半跏倚像は珍しく貴重なもので,高さ57cm,桧の寄木造です。仏像の胎内からは延宝2年(1674年)の銘のある文書が発見されていますが,製作はさらにさかのぼると考えられています。台座は後に修復されたものですが,波を表した部分があって水害に対する安全の願いが込められているといいます。堂内の左右には木造阿弥陀如来立像,釈迦如来立像などが仏像が立ち並び,信仰を感じさせる空間になっています。
秋葉堂から戻って次の交差点を左折して南に進み300m弱進むと左手に日吉神社があります。宝永4年(1707年)に町人の神戸文左衛門が神戸(かんど)新田を開墾した際に,暴風雨で大きな被害を受けて決壊した堤防のところに神札が漂流して,そこに神社を建てたといいます。その後,享保8年(1723年)に現在の新田が完成し,文化12年(1815年)に開発者の名前を取って神戸新田と改められました。この新田は尾張における町人請負新田の先駆けといい,何度も被害にあって苦心が繰り返されていることが残された文書からわかっているといいます。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風でも大きな被害を受けましたが,復興を果たしました。
日吉神社から200mほど進んだ2本目の筋を左折し100mほど進むと右手に弥富市役所の十四山支所があります。この地域の行政の中心で,ウォーキングの中継地点としても利用できます。平成18年(2006年)に弥富市に編入されるまで,十四山の村役場がおかれていました。
十四山支所の先の突当りを右折し,400mほど「神戸新田」交差点を越えて進むと,左手に神戸新田集会所があり,その前には神戸新田排水機記念碑があります。蟹江川や日光川による汚泥により,この地域はなかなか水が引かない地域になってしまったことから,神戸家が莫大な私財を投げうって明治41年(1908年)に排水機の設置を行いました。その結果,地域が豊かになったことが記され,神戸家の偉大さを今に伝えています。
集会所の先の筋を右折して100mほど進んだ右手には光岳寺(曹洞宗)があります。松寿山と号し,大正元年(1912年)に曹洞宗の教義を広めるために創建されたといい,本尊は釈迦牟尼如来です。
右折する前に戻って,さらに東へ200m強進んだ「東神戸」交差点を左折すると,孫宝排水機場があります。明治38年(1905年)に飛島新田の開発や津島銀行の設立,尾西鉄道(現在の名鉄尾西線)の設立に携わった青樹英二氏によって設置されました。排水機場設置までは悪水でこの地域は大変苦しみましたが,イギリスから輸入した蒸気機関3台を備えたこの排水機場が伊勢湾に排水をすることで,この地域は大変豊かになったといいます。先進的な取り組みで全国各地の排水機場のモデルになったといいます。
孫宝排水機場の先100mの突当りを右折したところが,スタート地点の亀ヶ地バス停になります。近鉄蟹江駅まで約12分で戻ることができます。バスの時刻をあらかじめ調べておくとよいでしょう。