本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県津島市:天王川公園コースTENNOGAWA PARK

2017年11月探訪。2017年11月9日作成

【コース】 距離:約4.2km
 天王川公園から津島中心部の南側の文化財をめぐります。古い町並みや歴史ある社寺・文化財など,津島の見所が詰まったコースの1つです。

 津島神社南バス停〜堀田家住宅〜瑠璃光寺〜天王川公園〜浄光寺〜氷室作太夫住居〜堤下神社〜津島神社道標〜善福寺〜西福寺〜瑞泉寺〜三養荘〜妙延寺〜大土社〜延命寺〜弘浄寺〜貞寿寺〜蓮慶寺〜蓮台寺〜観音寺〜名鉄・津島駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:津島ふれあいバス・津島神社南バス停



 スタートするのは津島ふれあいバスの津島神社南バス停です。津島駅から津島ふれあいバスのAコース(公共施設巡回コース)を利用して30分弱で行くことができます。本数は1日6本なので時刻表を確認して利用しましょう。津島駅から歩く場合は駅から天王通りを西へ約20分です。また,時間と体力に余裕があれば,前のコースから引き続いて歩くこともできます。

堀田家住宅 [有料施設]
南門前町1-2-1



 津島神社南バス停から東に進んで,津島神社南参道大鳥居の前を通過して100m弱進んだ左手に堀田家住宅[国重文]があります。堀田家は津島神社の神官の流れを組む旧家で,始祖の堀田理右衛門之理は福島正則に仕え,正則が慶長5年(1600年)に広島に転封された際にこの地に戻ります。その後,その子孫は酒屋や金融業,新田開発を行い,苗字帯刀を許されました。この住宅は正徳年間(1711〜16)に建築,明和2年(1765年)に修理されたものといいます。時代によって拡張などが行われましたが,古図などがよく残り屋敷の変遷も知ることができるとして,古図9枚も併せて重要文化財に指定されています。平成8年(1996年)に津島市へ寄贈され,住宅が公開されるようになりました。





 住宅は主屋と3つの土蔵からなり,入口左手の大きなうだつが最初の見所になります。格式高い家の一つの特徴で(「うだつが上がる」ということわざもある),雨仕舞をよくしたり,火を防いだり、泥棒除けにも効果があったといいます。



 大戸口に入ると,右手に「みせ」,左手に「こみせ(待合所)」があり,堀田家の商売の窓口がそのまま残されています。また奥の「みせざしき」では重要な商談が行われていたといいます。



 土間に入ると上に荒神様を祀っている荒神かまどがあります。別名飾りかまどともいわれ,昔はここに一家が集まり新年の餅をついて祝ったといいます。



 また茶室は銅版葺きで,入り口に竹製の刀掛けがあり,町人の刀掛けは現在では他ではほとんど見ることができない珍しいものといいます。北側には西蔵・小蔵・東蔵の3つの蔵が並び,屋敷の中を通って蔵にたどり着くようになっており、尾張の商家の特徴といいます。この他にも江戸時代の商家の雰囲気を味わえる見どころが多くある住宅です。



 堀田家住宅から東に進んで次の筋を左折した先に旧堀田廣之家住宅[国登録]があります。堀田家住宅に住んだ家の分家に当たる堀田廣之家のもので,明治45年(1912年)の建築といい,この地を代表する近代和風住宅です。2階立てて1階が生活空間,2階が接客空間になっているといいます。残念ながら通常は非公開になっています。

瑠璃光寺
瑠璃小路町1-1



 堀田家住宅から東に100m強進んで,天王川公園の手前を右折して少し進むと,右手に瑠璃光寺(単立)があります。鏡池山と号し,弘仁13年(822年)に在海法印によって真言宗の寺院として創建され当初は医王山と号したといいます。創建時は津島神社の境内にあり,夏の祭りの際に神輿が移されるお旅所でしたが,嘉吉元年(1441年)以降に使われなくなり,現在地に移されたといいます。本尊は薬師瑠璃光如来で,川のお薬師様と呼ばれ人々に親しまれ,縁日や御開帳の際は多くの人で賑わったといいます。現在の薬師堂は正徳元年(1771年)に建立,その後修理されて安政2年(1855年)に現在の姿に改築されました。信長の弟が瑠璃光寺に住み,そこから僧を伴って瑞泉寺に出かけたという話が伝わっています。

天王川公園(津島湊跡)
宮川町1





 堀田家住宅から東に100m強進んだ右手に天王川公園があります。大正9年(1920年)に開設された公園で,中央にある丸池はかつての津島神社の東を流れていた天王川の名残として知られます。平成19年(2007年)には日本の歴史公園100選にも選ばれました。この地はかつて津島湊があった場所として知られます。鎌倉時代以降,桑名と津島を結ぶ船の発着所としてこの地は繁栄し,諸侯の宿泊施設なども設けられて大いに賑わったといいます。織田信長はこの湊が尾張の支配に重要と考え,いち早く津島の支配を行ったといいます。しかし,江戸時代以降は慶長14年(1609年)の御囲堤の築堤により天王川の土砂の堆積が進み,湊としての機能が低下してしまい,桑名と結ぶ船は佐屋が中心となり,公式には寛文6年(1666年)には湊は廃止されますが,その後も津島神社の参詣をする人々のための中小の船が行き来しました。その後,天王川が埋め立てられて現在の公園ができあがりました。春は桜が咲き誇り,その次は藤が見事に咲き,夏の睡蓮,秋の紅葉など季節に応じて様々な姿を見せるのも印象的です。7月第4土曜日とその翌日には尾張津島天王祭の車楽舟行事[国民俗]が行われます。尾張津島天王祭は津島神社の祭礼として600年近い歴史があり,土曜日夜の宵祭はまきわら船が津島笛を奏でながら天王川を渡り,きらめく提灯が川面に移ります。翌日の朝祭は市江車を先頭に6槽の車楽舟[県民俗]が能の出し物をかたどった置物を飾り,音楽を奏でながら神社に向かって漕ぎ進みます。平成28年(2016年)には山・鉾・屋台行事の1つとしてユネスコの無形文化遺産に指定されました。





 公園の中央には広大な丸池があります。それを左に見ながら南下すると中の島があり,ここにはヨネ・ノグチの銅像があります。津島出身の詩人であるヨネ・ノグチこと野口米次郎は明治8年(1875年)に津島で生まれ,幼くして英語を学び,上京して慶應義塾大学を中退したのち単身アメリカ・サンフランシスコに渡り,大詩人シラーの影響を受けて詩作を始めました。アメリカにてヨネ・ノグチとして賞賛を得ますが,日露戦争を機に帰国し,日本文学や絵画などをアメリカに紹介し,東西文化の架け橋としても活躍しました。子どものイサム・ノグチは彫刻家として知られています。



 中の島のところから西の道路に出て少し北上したところに多度道の道標があります。文化8年(1811年)に天王川の堤防上に設けられたもので,多度大社への道しるべを刻んだものです。ここから西に進んで木曽三川を船で渡れば,この地方から多度大社への近道になったといいます。



 公園に戻ってさらに南下した右手には片岡春吉の銅像があります。毛織物の父と呼ばれる片岡春吉(1872〜1923)は明治29年(1996年)に東京モスリン会社に入社して毛織物の技術を習得し,明治31年(1898年)に片岡毛織工業の操業を始めました。モスリンより丈夫で使い道の広いセル織物の生産に成功し,外国にも負けない優秀な製品を開発した実業功労者として知られます。





 片岡春吉像の奥の出入戻って南に進んだ津島公民館の前のところには杉浦兼松顕彰碑があります。津島出身の医師である杉浦兼松(1889〜1979)は,コロンビア大学で生化学を学び,がん治療の化学療法を確立した世界的研究者として知られます。





 杉浦兼松顕彰碑から南に進んだところには藤棚が広がります。津島は昔から藤浪と呼ばれる藤の名所として知られましたが,この公園にも昭和53年(1978年)から藤棚が造成され,現在では日本最大の藤棚とも呼ばれています。長さは275mにもおよび,花を咲かせる4月末〜5月初めは圧巻の景色を見せ,この時期は藤まつりも行われます。



 藤棚の南にはカジノキ群落[市天然]が見られます。カジノキは和紙の原料として植えられますが,暖かい地方に多くこの地方の群落は珍しいといいます。



 藤棚から北に戻って,丸池の南東側にある橋を渡った手前には常夜灯があり,天王祭の車船をイメージしています。



 その先には濃尾大地震記念碑があります。明治24年(1891年)に発生した濃尾地震のこの地域の被害の状況などが記されていますが,残念なことに碑文の一部が剥離して見られないといいます。



 記念碑から進むと右手には車河戸が見えます。ここや尾張津島天王祭の屋台島があり,ここで車楽の準備が行われます。この入り江になっていた部分は,かつては津島湊の船着場があったといい地名にも残されています。



 ここから北に進むと御嶽神社がまつられています。

浄光寺
片町2-17





 御嶽神社のところから公園の外に出て,そのまま神社の参道に当たる道を進み,突当りを左折して100mほど進むと右手に浄光寺(真宗大谷派)があります。日月山と号し,慶長11年(1606年)に僧教念が本願寺の教如上人に帰依して草庵を結んだのが始まりで,貞享元年(1684年)に寺号を許可され浄光寺と称したといいます。寺宝に豊臣秀頼筆六字名号[市文化]があり,秀頼が青年期に執筆したものとして貴重な作品といいます。秀頼は津島神社にも多くの寄進をしており,この書跡でも津島との関係の深さをうかがえます。また境内には昭和2年(1927年)にこの地に移された明治天皇佐屋行在所[市史跡]の建物があります。元々は佐屋宿脇本陣加藤五左衛門の邸宅で,明治元年(1868年)12月に明治天皇が京都に移動される際に天候が急変したためこの建物に1泊され,その他にも2回休憩された建物といいます。元々は弘化2年(1845年)の建築で,尾張藩から下賜されたものと伝えられています。

氷室作太夫家住居
片町2-8





 浄光寺から100m弱進んだ右手に氷室作太夫家住居[市文化]があります。氷室家は津島神社の社家(神職に携わる家系)で,社家は幕末は30家を数えたといいますが,明治に入ると多くが転職してしまったといいます。嘉永2年(1849年)に建てられたこの住居は当時の社家の様式を残す貴重な住居になっています。氷室家を含めた旧社家は太夫名を名乗り地方を回って信徒を結び付け,信徒が津島神社に参詣する際は宿泊所にもして神楽でもてなしたといいます。残念ながら通常は非公開となっています。
 この片町は道の西側が天王川で,片側のみに町があったことから片町と呼ばれました。堤防西側は津島天王祭の際に見世物小屋がかかり,大勢の見物客で賑わったといいます。当時の津島は名古屋大須と並んで芝居が盛んな土地柄だったといいます。天王川の堤防には氷室豊長によって桜が植えられ,その後も多くの桜が植えられて現在のような名所になったといいます。



 氷室作太夫家住居から100mほど進んだ次の十字路を左折すると,約50m先に秋葉神社があります。

堤下神社
本町2-16



 秋葉神社から十字路に戻り,さらに50mほど進むと金町の案内板があります。かつてはこの付近は「かなどおら」と呼ばれ,現在の堤下神社におかれた鉄燈籠(現在は津島神社にあって県指定文化財)があって,西の津島神社をここから拝んだことから地名になったといいます。この付近はかつては天王川の東堤に近く,様々なものを扱う店が並んでいたといいます。





 金町の案内板の手前を右折して東に100mほど進むと突当りを右折したところに堤下神社があります。かつては金燈籠社と呼ばれ,天王川をはさんで津島神社を拝む遙拝所だったといいます。境内には遙拝する際の手洗いに用いられ,住民の生活水としても用いられた堤下神社の井戸があります。現在は堤下神社の石垣内に井戸の遺構が残され,市の祖先の遺産に指定されています。地元では夜泣き封じの御利益も信じられています。

津島神社道標
本町2-23付近



 堤下神社から南へ50m弱進んだ次のT字路のところに大石柱の津島神社の道標があります。この橋詰町の三叉路はかつて上街道や下街道から津島神社に向かう参宮路への分岐点になっていて,この大きな道標が設けられたといい,津島市の祖先の遺産に指定されています。



 この道標の付近は昔ながらの建物を利用したお店が並びます。





 なお,この一筋北の道は蔵の道と呼ばれる蔵が立ち並ぶ昔ながらの風情が味わえる場所です。蔵の石垣は打出の小づち,ひょうたん,扇などの縁起物を模した石がさりげなく積まれているといいます。



 津島神社の道標から50m弱進んで次の分岐を右に進んだところに坂口町の井戸があります。石組に大正7年(1918年)の銘があり,津島の古地図には記載されていないことから比較的新しい井戸と考えられ,昭和10年(1935年)頃まで使われていたといいます。井戸の変遷を知るうえで重要なもので,津島市の祖先の遺産に指定されています。





 分岐した先も古い町並みが見られます。桔梗屋茶店,伊勢屋茶舗といった昔ながらの茶店が続きます。



 その先の右側のかつて浄蓮寺があった場所には巴山碑[市史跡]があるといいます。巴山を号とする藤原秀親(寛延元年(1748年)没)は江戸時代中期の内医者で,里の子弟に多くの教授を行ったといいます。この碑には宝暦6年(1756年)尾張藩儒松平君山の撰文が刻まれ,功績がたたえられているといいます。

善福寺
筏場町46



 横町の筋をそのまま進んで突当りを左に進んだところに筏場神社があり,筏場町の氏神として祀られています。筏場町は昔,筏のつなぎ場だったと考えられ,「金持ちが住まった花の筏町」と呼ばれ金持ちが多く住んだ場所として知られました。





 筏場神社の先の右手には善福寺(真宗大谷派)があります。大森山と号し,創建は不詳ですが天正9年(1581年)には海西郡富吉庄にあったことが知られ,元々海西郡荷之上村(現,弥富市)にあり清須を経て名古屋城下に移転した興禅寺の末寺だったといいます。正保3年(1646年)に興善寺が本願寺派に転派した際に本山直末になり,元禄元年(1688年)に現在地に移転したといいます。寺には尾張国海西郡津島之図[市文化]が伝わります。これは延享5年(1748年)に製作された村絵図で,製作年代の分かるものでは津島では最古のものです。作者は津島神社の堀田之邑といい,精密な描写が特徴といいます。

西福寺
西御堂町19





 善福寺の先の筋を右折すると,少し先の住宅地にはお地蔵さまが祀られています。さらに50mほど進むと右手に西福寺(浄土宗)があります。紫雲山と号し,弘長年間(1261〜63)に堀田尾張守正重の創建といい,堀田家の菩提所として知られ,代々の位牌を安置するといいます。かつては西の御堂と呼ばれ,東の御堂と呼ばれた蓮台寺と並んで大寺だったといいますが,寛永13年(1636年)に火災で大きな被害を受け,さらに延享4年(1747年)の火災では塔頭の宝珠院を失ったといいます。長らく時宗でしたが,昭和29年(1954年)に浄土宗に改宗されたといい,本尊は阿弥陀如来です。檀家の堀田家からは寛永19年(1642年)に下総佐倉12万石の大名となった堀田正盛や,その3男で将軍綱吉のもとで老中・大老となった堀田正俊がいます。津島霊場巡りの第6番札所に指定されています。

瑞泉寺
舟戸町40 [公式HP(外部リンク→]





 西福寺から南下して次の筋を左方向に進むと,少し先に瑞泉寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。鏡池山と号し,南朝の末裔である良王君が津島を訪れた際に建立したと伝えられ,明応元年(1492年)に良王君が亡くなられた際に瑞泉寺殿と号されたことから,寺の名前を瑠璃光寺から改号したといいます。そのため、良王君の末裔という元奴野城主の大橋家の菩提寺にもなっています。元々は真言宗で,天王川の西の瑠璃小路付近にあり,境内に鏡池という蓮池があったことが山号の由来といいますが,永正14年(1517年)に寿慶和尚が現在地に移転し,浄土宗に改宗したといいます。良王君の御影がありましたが,延享4年(1747年)に焼失し,宝暦9年(1759年)に再製されたものが現存しているといいます。境内に茶席の椿園(ちんえん)があり,江戸時代後期の神主で京都花壇桂園派の四天王と称された氷室長翁の茶席といいます。これは彼が吉野を散策した際に1本の椿の木に感動し,それを持ち帰って神主の邸内にその椿を使用して茶席を新築したと伝わり,明治になって瑞泉寺に移されたといいます。また明治23年(1890年)に建立された芭蕉句碑があり,「草臥てやとかるころや藤の花 はせお翁」を刻まれています。



 瑞泉寺の南側に回ったところには瑞泉寺の稚児門があります。津島天王祭の川祭りの際に,当日乗船する子どもたちがこの門から出て船に乗り込む祭で重要な役割を果たす門です。江戸時代中期頃まではこの付近まで天王川の入り江が入り込み,門の前まで水路になっていました。舟戸町という町名はそれが由来となっています。





 瑞泉寺の稚児門の少し先の右手には六地蔵尊が祀られています。珍しい灯籠型の六角形の地蔵堂で厨子の周りに六地蔵が祀られています。かつて盗賊がやって来た時に,この六地蔵が僧侶に姿を変えて盗賊を追い払ったという逸話が残されています。境内には延享2年(1745年)奉献という石燈籠があります。



 六地蔵尊から進んで次の筋を左に進んだ少し先には白山神社が祀られています。



 六地蔵尊の北のところの十字路を東に50mほど進んだところにはヨネ・ノグチの生家があります。天王川公園に銅像が設けられている英文学者のヨネ・ノグチこと野口米次郎はこの家で生まれました。入口に案内がありますが,家の中は非公開になっており整備が待たれます。

三養荘・屋根神様
本町4-32



 六地蔵尊の北の交差点からさらに北に50mほど進むと左手に三養荘があります。貞享2年(1685年)の建築といい,当時の原型をとどめる貴重な建物です。松尾流宗家の意匠が取り入れられ,数寄屋としても貴重な建物といいます。建物の所有は津島の堀田家から豪商の服部家に移り,昭和60年(1985年)から清林館高等学校に移り,「信仰・勤労・実際」の三つの心を込めて三養荘と呼ばれるようになりました。建物内には立派な茶室を持ち,多くの町屋が茶室を持つのは津島に特有のものといい,各家で工夫をこらしてお茶で客をもてなす習慣は今も息づいているといいます。建物には屋根神があり,伊勢・津島・秋葉の神札を祀っています。元々近所にあったものが移されたといいます。



 その先の交差点左手,ポストの近くには津島町道路元標があります。大正8年(1919年)の旧道路法により設置された津島の町の道路の起点終点を示す道標です。





 この交差点付近には,和菓子屋さんなどがありますので,場合によっては休憩地点にしてもいいかもしれません。

渡邉家住宅
本町3-13



 道路元標から左奥方向に50m強進んだ左手には長珍(ちょうちん)酒造があります。明治元年(1868年)に創業し,元々は提灯屋の屋号でしたが,提灯のお店と誤解されるため改号したといいます。直接お酒の販売や酒蔵見学は行っていませんが,虫籠格子(むしこごうし)と呼ばれる格子のある町屋や酒蔵を見ることができます。



 さらに50m弱進んだ右手には渡邉家住宅[市文化]があります。文化6年(1809年)に海部地区の開発を行った渡辺新兵衛義陳(よしつら)が建てたといいます。昭和50年(1975年)にいったん現代風の外観となりましたが,その後江戸後期の姿に復元され平成26年(2014年)から一部期間に予約制で公開されるようになりました。数寄屋造りの当時の茶室の「涵月楼(かんげつろう)」などが残されているといいます。





 さらに少し進んだ坂口神社の反対側には,旧東海銀行の前身である愛知銀行(現在のものとは別のもの)津島支店だった建物が残っています。鉄筋コンクリートの銀行建築が普及する前の重厚な建築が今に残されています。

妙延寺
今市場町1-11





 坂口神社から東に戻って,県道58号線に合流した少し先の左手奥には妙延寺(日蓮宗)があります。津嶋山と号し,往古は真言宗の七堂伽藍の道場で津嶋山高乗坊と称しました。寛正5年(1464年)に身延山の日意上人の教化により日蓮宗に改宗して妙延寺に改めたといいます。戦国期から手跡指南所(後の寺子屋)があったといい,9世の日順は加藤清正が幼少時に津島にいた際,読書・手習いを教えたといいます。清正は熱心な日蓮宗の信者として知られ,熊本城主となった際も日蓮宗寺院の建立を進めましたが,それはこの寺で手習いをした影響とも伝わります。その縁で江戸時代には加藤清正の像が設けられ,参詣する人で賑わったことが「尾張名所図会」に記されています。かつては境内に清正が双紙をかけたという清正双紙掛の松がありました。本堂などはすべて濃尾地震(明治24年(1891年))以降の再建ですが,山門は寛保3年(1743年)建築で,立派なたたずまいを感じることができます。津島霊場巡りの13番札所になっています。

大土社(土は右下に点が入る)
今市場町1-5



 妙延寺から50mほど東に進むと大土社があります。今市場町の氏神として地元から長く慕われ,この神社を中心に津島秋祭のときは3台の山車が行き交います。境内裏にはおもかるさんと呼ばれる石があります。これはかつて旧街道沿いの祠に祀られていたものが,明治43年(1910年)の火災で焼失して現在地に移されたもので,さすれば子宝に恵まれるという言い伝えがあります。

延命寺
今市場町1-23





 大土社の右側の細い路地に入ったところに延命寺(曹洞宗)があります。大安山と号し,永享9年(1437年)に東にある興禅寺2世天庵喜朗が創建し,いったん中絶しますが安永10年(1781年)に雲居寺11世大通弘道が再興したといいます。本尊は延命地蔵菩薩坐像で,境内には真野時綱の墓[市史跡]があります。国学者の真野時綱(1648〜1717)は津島天王家の一人で,名古屋で吉見幸勝らに学ぶなどし,藩命により『尾張風土記』の編者となるなど多くの著作を残したといいます。墓には法名の心廓了堂居士と刻まれています。

弘浄寺
本町5-17





 延命寺の入り口から東に50mほど進んだ「今市場町2」交差点の1つ手前の筋を右折して南に100m弱進むと弘浄寺(浄土宗)があります。白鳳山と号し,寺伝によると天武天皇の勅願寺で創建が7世紀の白鳳時代であることから白鳳山と号したといいます。永禄年間(1558〜70)に天正18年(1590年)に没したという乗運和尚が開山し,宝永4年(1707年)の宝永大地震で損傷したのか善長和尚(元文元年(1737年)没)により中興されたといいます。信長がこの長島一向一揆の戦った際にこの寺に陣を敷き,そのために焼き払われたといいます。寺宝には三尊来迎?仏[県文化]があります。鎌倉から室町時代の作品といい,多くの色糸で精巧に縫い取り,絵画的効果が高く信仰対象としてもしっかりと目的を果たせる作品といいます。境内には江戸末から明治にかけてこの寺で書道などを教えていたという橋本魯堂の碑があります。

貞寿寺
今市場町2-18





 「今市場町2」交差点に戻って,東に少し進んだところには貞寿寺(浄土宗鎮西派)の入り口があります。宝池山と号し,元々は百体仏の阿弥陀堂だったといいますが,元文3年(1738年)に津島の伴伊平が関通上人に帰依してこの地に尼僧道場を設けたのが始まりといい,尾張で著名な尼僧寺として発展したといいます。本尊は阿弥陀如来で,寺宝には円空作木造菩薩坐像[市文化]があります。高さ9.8cmの小さな像で,元々は他所にあったものが寄贈されたといいます。全国を巡った円空は多くの場所で仏像を人々に与えたといいますが,この像もそれらの1つといい,ていねいに彫られた美しい像といいます。

蓮慶寺
弥生町35





 「今市場町2」交差点から北に50m強進んだ左手に蓮慶寺(真宗大谷派)があります。永尾山と号し,往古は天台宗で海東郡大矢村(現,稲沢市大矢町)にあったと伝わり,その後本願寺10世光如光教に帰依して改宗したといいます。元和9年(1623年)に本尊の阿弥陀如来が下賜されたのを機に現在地に移されたといいます。

蓮台寺
弥生町6





 蓮慶寺の少し先の右手に蓮台寺(浄土宗)があります。九品山と号し,弘長2年(1262年)に堀田尾張守正重が創建し,西の西福寺と並んで「東の御堂」と称しました。蓮台寺宛の織田信長の判物(文書)があり,信長との関係をうかがわせ,それによると当時は堀を周囲に張り巡らせた寺院で,のちに「尾張名所図会」にも記載されています。昭和29年(1954年)に時宗から浄土宗に改宗しました。寺宝に木造弥阿上人坐像,木造一向上人坐像[ともに県文化]があります。前者は文保2年(1318年)に没したという当寺の住職の像で,30回忌の貞和3年(1347年)に法橋幸賢により作られたといいます。後者は弘安10年(1287年)に立ちながら念仏を唱えて没したという時宗一向派の祖で,文明2年(1470年)の造立であり,古像としての渋みのある像といいます。津島霊場巡りの第15番札所になっています。

観音寺
天王通り6-45



 蓮台寺から100mほど進んだ「天王通5」交差点を右折すると,少し先の右手に白山社があります。明治元年(1868年)の神仏分離以前は観音坊(現,観音寺)の鎮守社でした。昭和6年(1934年)に天王通りが開通して境内が小さくなったといいます。





 白山社の先の筋を右手に入ったところに観音寺(真言宗智山派)があります。三輿山と号し,永正12年(1515年)に海東郡見越村(現在の愛西市佐織地区)にあり,織田信秀の頃から白山信仰の拠点として寵愛を受けたといいます。天正年間(1573〜93)には白山社とともに津島に移転し,秀吉や家康からも信仰を受けたといい,その後には津島神社の社僧の列にも加わったといいます。昭和29年(1954年)に観音坊から観音寺に改められました。本尊は不動明王で,毎月28日の縁日には護摩焚きが行われるといいます。また境内には四国八十八か所霊場が設けられています。津島市霊場巡りの第2番です。

ゴール:名鉄尾西線・津島駅



 観音寺から天王通りに戻り,東へ200mほど進むとゴールの名鉄津島駅があります。名鉄名古屋駅までは約30分で,1時間に4〜6本程度(須ヶ口駅乗り換え電車も含む)運転されています。一宮方面は1時間に4本程度,弥富行は1時間に2本程度運転されています。

(プラスワン)市西部の自然景観



 天王川公園から800mほど西にいった下新田町には,下新田町のフジ[県天然]があります。古くから親しまれ,氷室長翁も来遊したといいます。残念ながら通常非公開になっています。



 天王川公園の南西200mには青池があります。津島市内で最も水質の良い池といい,木曽川水系の伏流水によるといいます。人や馬を池に引き込むカッパ伝説があります。



 さらに400m強南にある津島高等学校には宮川町のエノキ[市天然]があります。2本のエノキが合体したかの形状をしており,樹勢が旺盛な見事なエノキです。その形状から昭和10年(1935年)頃までは「子授け榎」として信仰されたといいます。 


写真使用数:80

←前:津島神社コース / 愛知県津島市 / 次:[愛西市]勝幡コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>