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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県津島市:津島神社コースTSUSHIMA SHRINE

2017年11月探訪。2017年11月9日作成

【コース】 距離:約4.4km
 津島駅東部の旧津島街道周辺と津島中心部の北側の社寺をめぐっていきます。昔ながらの古い町並みと津島神社周辺の信仰を感じながら歩きます。

名鉄・津島駅〜常楽寺〜宝泉寺〜本蓮寺〜西方寺〜照蓮坊〜西光寺〜良王神社〜不動院〜雲居寺〜大龍寺〜市神社〜成信坊〜観光交流センター〜千体地蔵堂〜清正公社〜津島御殿跡〜御旅所跡〜宝寿院〜津島神社〜津島神社南バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄津島線・津島駅



 スタートするのは前コースと同様に市の中心部となる津島駅です。名鉄名古屋駅からは,佐屋または弥富方面行の電車に乗って約30分で行くことができます。場合によっては須ヶ口駅まで岐阜方面の急行を利用して乗り換えも可能です。津島駅はすべての電車が停車し,乗り換え列車も含めると1時間に4〜6本程度運転されています。

常楽寺
天王通り5-10



 津島駅を出ると西に向かって津島神社まで天王通りが伸びています。現在は津島駅から津島神社までを結ぶメインストリートになっており,昔ながらのお店が立ち並びます。



 駅前の「藤浪町1」交差点を右折し,続く筋を左折して100m弱進んだ公園前には藤浪町1丁目の屋根神様が祀られています。元々東京製パンの建物の屋根の上にあって下された屋根神といいます。



 そのまま進んで続く筋を左折して,次の筋を右折して天王通りに戻ります。そのまま「天王通5」交差点を越えた先の右手には魚良商店があります。水郷津島の名物となる川魚を扱っており,なまずやどじょうなど郷土色を感じられます。実際に利用する際は予約をするのがよいようです。





 魚良商店の約50m先には常楽寺(曹洞宗)があります。補陀山と号し,元中9年(1392年)に太初継覚和尚の開基,応永6年(1395年)の開基と伝わります。津島神社神主の氷室家が開基に関係が深いといい,代々神主の菩提所になっており,長大な墓石が並んでいます。本尊は如意観音で,人物名は不明ですが青年貴人の肖像である寄木造の木彫肖像[市文化],かつて塔頭だった瑞雲山高正寺の本尊だった千手観音などがあります。室町末期まで常楽寺にあった銅鐘が三重県鈴鹿市小岐須町の龍雲山桃林寺にあり,三重県最古の銅鐘として三重県の文化財に指定されています。これは秀吉が亀山城攻めの時に持ち去ったと伝わっています。尾張西国三十三観音の21番札所で,津島霊場めぐりの8番札所になっています。



 常楽寺の先の左手にはらく楽菓子舗があります。蓮根ういろうやネギクッキーなど郷土色の強いお菓子が販売されています。

宝泉寺
池麩町2







 常楽寺の先の左に入る筋を進み,100mほど先の突当りまで進むと宝泉寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。飛龍山と号し,16世紀前半の創建,17世紀に中興されたといい元の山号は来迎山であったといい,元々池があった場所に立っている為池の堂とも呼ばれ地名にもなったといいます。境内にそびえる大楠は胴回り5m,高さ20mにも及ぶ名木です。元々坂口町(本町2・3丁目)にあった秋葉神社から移された六地蔵が境内のまんだら文庫に安置されています。また,熱病に御利益があるというおこり(瘧=熱病のこと)地蔵が境内にあり,頭巾をかぶっていないのは熱を冷ますためという言い伝えがあります。昭和5年(1930年)に服部秀助家から移築したという宝泉寺書院[国登録]は木造平屋建ての数寄屋風建築で,丁寧な造りが随所にみられる建物といいます。境内にある糸竹の碑は明治25年(1892年)に片町に筝曲指南所を開いた神戸すゑの偉業を称えるために,尺八奏者らによって昭和51年(1976年)に設けられたものです。



 宝泉寺から西に少し進んだところには池の堂の山車蔵があります。津島秋祭の際に出される七切の山車[市民俗]のうちの一つで,池町の山車が収められています。倒立唐子遊のからくり人形が特徴といい,逆立ちをした唐子が鉦(かね)を打ち鳴らすといいます。現在の人形は竹田藤吉によって寛政6年(1794年)に製作したといいます。寺の前には池麩町の案内板があります。現在の池麩町は池の堂と麩屋町の2つの町名が合体して名づけられたものであり,麩屋町は麩を作っているお店があったことに由来するといいます。寛政年間(1789〜1800)に吾妻屋万蔵が丸麩の製造法を考え出し,代々の尾張藩主や高須(羽島市)の領主に献上され,高級品として手土産にされたといいます。

本蓮寺
池麩町18





 宝泉寺から北に戻る途中の左手に本蓮寺(日蓮宗)があります。妙栄山と号し,平家の一族である津島大橋家の大橋貞経が愛知郡中根村に天台宗法華堂を建立し,明徳3年(1392年)に津島に移して,遠江本興寺の日乗を講じて開山とし,日蓮宗に改宗したといいます。南朝の地を引く良王君(よしたかぎみ)の子である神王の菩提寺といい,その後神王は大橋家に入り大橋重信と名乗ったといいます。



 本蓮寺の西側の出口を出た左手には,麩屋町の山車蔵があります。湯取神子のからくり人形があり,両手に笹をもった神子人形が釜の前に移動して湯立神事を行うと釜から湯に見立てた紙吹雪が沸き上がる仕組みになっています。

西方寺
天王通り4-23





 麩屋町の山車蔵から100mほど北上すると右手に西方寺(浄土宗鎮西派)があります。岳翁山と号し,16世紀初頭室町時代の建立といいます。元々は橋詰にありましたが,延享4年(1747年)に火難を避けるために元々奴野(ぬのや)城があったというこの地に移転しました。奴野城はこの地を支配した土豪であったという大橋定高によって正慶元年(1332年)に築城されたと伝わり,大永4年(1524年)に大橋定広の時代に勝幡城の織田信定と戦って敗れ,その後廃城になったと考えられています。境内には高さ25mの巨大なクスノキなどがあり,名残をとどめています。尾張藩主と由緒があり,その使節が度々この寺を宿坊にしたといいます。また町の西の守り神として祀られていた十王尊が境内に安置されています。津島霊場めぐりの第7番札所に指定されています。



 西方寺の先の左手には布屋町の山車蔵があります。恵比寿と大黒天のからくりを持ち,恵比寿が鯛を釣り,大黒天が打出の小づちを振ると前方におかれた宝袋から宝船が現れるおめでたいからくりといいます。なお,奴野(ぬのや)や布屋は元々「沼之谷」であったと考えられ,沼のある湿地帯の意味だといいます。

照蓮坊
宝町20



 布屋町の山車蔵から北上して次の十字路を右に入ったところに照蓮坊(真宗本願寺派)があります。帝護山と号し,往古は天台宗で照養院と称したといい,文明5年(1473年)に蓮如上人に帰依して浄土真宗大谷派に改め照蓮坊と号したといい,延宝2年(1674年)に本願寺直末となりました。江戸時代は大乗山と号したといい,この付近は的場といって,東に続く道の奥に寺があり,その地形が射場に似ていたことからこのように呼ばれたといいます。現在は津島方面に一直線の道が開かれて寺の境内は削られたといいます。





 照蓮坊から西に20mほど進んだ右手には印象的なかくれたぬきの置物があります。また近くには昔ながらの建物があり,新聞記事にも掲載されたといいます。

西光寺
米之座町2-8





 照蓮坊から西に50mほど進んだところに西光寺(浄土宗)があります。元々京都にあったものがこの地に移転したといいます。本尊は阿弥陀如来で,鎌倉時代作という木造地蔵菩薩立像[県文化]があります。像高は約160cmで後世の補修が見られますが鎌倉初期の特徴を残し,運慶またはその流派の製作といいます。地蔵菩薩に添付された「御仏のめぐみの早きなぞらへに高間の水の落つる姿を」という詠歌から,水落ち地蔵と呼ばれています。

良王神社(熊野社)
米之座町1



 西光寺から東に戻って,続く十字路を左折して北上し,100m先の突当りを左折して続く筋を右折すると,少し先の左手に良王神社(熊野社)があります。正式には熊野社ですが,境内に良王(よしたか)親王伝説地」の碑があるため通称は良王神社と呼ばれます。南朝の後醍醐天皇の子孫である良王君が永享7年(1435年)に三河国設楽郡作手から津島に移られ,奴野城の大橋氏にかくまわれたといい,この神社はその良王君を祀っているといいます。この神社は良王が源氏だったことから「御源公様」と呼ばれ,現在はオゲンコサマと呼ばれているともいいます。明治21年(1888年)の宮内庁の調査で境内から五輪の石塔が発見されたと伝えられています。現在は境内に巨大なムクが茂り,熊野社になっているといいます。永享8年(1436年)の正月に良王君に雑煮をふるまったところ,その年から運がよくなり良王君は流浪しなくてもよくなったことから,雑煮を正月に食べる習慣ができたと伝わっています。





 良王神社に隣接して海善寺(曹洞宗)があります。北の雲居寺2世永光耳山が開山し,17世紀末には廃寺になったといいますが,嘉永3年(1850年)に矢野藤左衛門によって中興され,寄贈された阿弥陀如来を本尊としました。再興前は北の大龍寺の門前にあったといいます。
 海善寺の先を右折して少し進んだ左手には七切の山車の1つの米之座の山車蔵があります。「高砂と神官」のからくりを持ち,舞いながら左右に移動する神官が上半身を後ろに倒すと宝船へと早変わりするといいます。

不動院
良王町2-15





 海善寺の先を右折し,100m先の2本目の筋を左折し,さらに続く筋を左折すると不動院(真言宗)があります。松尾山と号し,本尊は不動明王です。創建は不詳ですが延徳2年(1490年)に政長上人によって再興されたといい,15世紀の文献に「国中希有の古場なり」と見えて,津島でも最も古い寺院の一つと考えられています。連歌師宗長による「宗長手記」の大永6年(1526年)の条には,この寺が正覚院と呼ばれ,当時は織田家の賓客の宿坊の役割を果たし,複数の塔頭を持つ盛大な寺院だったことを伝えています。寺宝に安永2年(1773年)修復の銘がある絹本著色十二天画像[市文化]が伝わり,明代の中国画で,十二の護聖天が描かれています。また,応永26年(1419年)の胎内墨書銘を持つ木造地蔵菩薩立像[市文化]は,修復で原型が失われているものの歴史がある仏像で資料的価値に優れるといいます。他に天文3年(1534年)の銘の直径27cmの鰐口[市文化]があり,不動院の当時の名称である清泰寺とも刻まれています。

雲居(うんごう)寺
北町32



 不動院から西へ50m強進むと雲居寺(曹洞宗)があります。龍宝山と号し,永享元年(1429年)に開創されたといい,良王君が津島の奴野城に入城した際に従臣の一人であった服部伊賀守宗純が創建したといいます。服部家からは織田信長に仕えた服部小平太が出ており,桶狭間の戦いで今川義元を襲撃して戦功をあげ,のちに豊臣秀次(秀吉のおい)に仕えて伊勢領主となりました。しかし,秀頼が生まれたために秀吉から疎まれて秀次が高野山に追放されたため連座して切腹したといいます。津島の町の木戸番(町を出入りする人を見張る人)がこの寺に住み,津島の町の北端に当たる寺といいます。本尊は薬師如来で,境内の西には天保年間のものという羅漢堂があり,五百羅漢が安置されていて見事といいます。また境内にはソテツの大木があります。



 雲居寺の先には北町の山車蔵があります。三体の唐子による「唐子遊」のからくり人形があり,蓮台をせりあがる唐子,太鼓をたたく唐子,チャッパを鳴らす唐子が回転ハンドルで動くといいます。その先には北町の案内板があります。

大龍寺
北町113





 雲居寺から西に進んで突当りを左折し,続く筋を右折して100m弱進むと右手に大龍寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。亀伯山と号し,本尊は阿弥陀如来です。永享7年(1435年)に良王君が津島に来た際に,父親の尹良親王(南朝の御醍醐天皇の孫にあたる)のために建立したといい,親王の戒名が大龍寺殿だったことから寺号にしたといいます。なお,寺内には明徳2年(1391年)銘の宝篋印塔があり,菩提所になったのを機に寺号を改めたとも考えられます。所蔵する大龍寺所蔵文書[市文化]は,織田信忠禁制,織田信雄定,松平忠吉三奉行連署状の3つは尾張領主から受けた禁制であり,当時の寺の隆盛を示したものといいます。また,「浪合記」「信濃宮伝」「井伊家文書」の3点は中世の津島を掌握していた土豪集団に関する資料といいます。また寺宝の当麻曼荼羅図[市文化]は鎌倉後期から南北朝にかけての作品で,奈良県当麻寺の当麻曼荼羅図を転写した転写本の1つで,享保15年(1730年)に修理されたものの,当時の貴重なものといいます。また大般涅槃霊図[市文化]は南北朝から室町にかけての作で,京都高台寺や一宮市の福寿院本涅槃図などの作例に比較的近いものといい,作例が少なく貴重なものといいます。塔頭の宝樹院に安置されていたという秘仏の十一面観音が当寺に安置され,尾張西国の22番札所になっており,また津島の町の北にあったという十王堂の像も安置されています。

市神社
米町1



 大龍寺から東に戻って突当りを右折して南下します。この筋は本町筋といい,津島の旧市街地を構成する道で古い町並みが残ります。



 100mほど進んだ左手には宗念寺(浄土宗)があります。通常は非公開ですが5月の藤まつりの時期などは開かれて阿弥陀如来を拝めるほか,ヨガ教室などの各種のイベントが行われます。





 宗念寺の先に市神社があります。津島神社の境外末社の1つで,弘和元年(1381年)の創建と伝わり,七切のまちの産土神です。祭神は市場の神様である大市比売命(おおいちひめみこと)で,商売繁盛や豊作に御利益があるといいます。津島秋まつりの際に7台の山車が出る七切の祭りは元々この市神社の祭礼で,正徳元年(1711年)に笹に提灯をつけた傘鉾を出したことに始まり,享保3年(1718年)から山車を出すようになったといいます。神社の前には旧上街道本町交差路の案内があります。津島上街道がこの地点で本町通と交差し,市が出て賑わった様子が案内されています。



 市神社の先交差点の手前右側に米町の屋根神が祀られています。伊勢,秋葉神社の神様などを祀っています。

成信坊
本町1-41



 市神社から本町筋を50m強南下します。この付近の本町筋は蛇行していますが,これは本町筋が旧天王川の自然堤防上に設けられたためです。







 進んだ左手奥に成信坊(真宗大谷派)があります。久遠山と号し,創建は不詳ですが元々は天台宗で,明徳2年(1391年)に慶専が真宗に帰依して改宗したといいます。天正3年(1575年)に長島一向一揆で慶専の孫祐念が教如上人の身代わりになって討ち死にしたことから功績を賞され,津島御坊の称号を授けられました。江戸時代には東本願寺門跡東行の際にこの寺で講義をするようになり,また伊奈備前守が検地の際にこの寺で執務したことから年貢割や宗門改めなどを成信坊で行うようになるなど,津島を代表する寺院となりました。山門から入ると境内には元々石臼に使用されていた石がひかれていたため,俗に「ひきうす寺」と呼ばれ,現在もその一部が残されているといいます。本尊は阿弥陀如来で,寺宝に木喰明満作木造薬師如来坐像[市文化]があります。木喰妙満(木食五行)(1718〜1810)は江戸後期の真言宗の僧で現在の山梨県出身であり,円空などと並んで全国を行脚する遊行僧として知られます。故郷に戻り,寛政13年(1801年)には88体の仏像を作成して四国堂を建立しました。大正8年(1919年)に四国堂の像が売りに出され,像は全国に散ってしまい,この像はそのうちの1つと考えられています。



 成信坊の入り口に戻った右手には清正公社の道標があります。西にある清正公社への道を示すもので,清正の家紋である蛇の目模様が刻まれています。



 その少し南には上切の井戸があります。花崗岩の立派な石組をもった古井戸で,江戸時代は付近住民が共同で利用し,津島天王祭の船や屋台を連結するわら縄を編む際の打ち水としても利用されたと記録されています。津島の町は木曽川の伏流水が多く井戸には恵まれた土地だったといいます。その奥には昔ながらのたたずまいを残す糀屋というお店があり,甘酒の元などが売られています。

津島市観光交流センター
本町1-52-1





 糀屋のすぐ南に津島市観光交流センターがあります。昭和4年(1929年)建築という白い鉄筋コンクリート造りが印象的な旧津島信用金庫本店[国登録]の建物を利用した観光拠点施設です。建物は1920〜30年代の典型的な地方の銀行建築で,鉄筋コンクリートがどのように地方に広がったかを物語るうえで貴重な建物といい,津島経済の繁栄を今に物語る近代遺産となっています。まつりの館津島屋という愛称がつけられており,建物の中には津島天王祭の巻きわらや秋祭で出る山車のからくりなど津島の祭りの展示や映像があるほか,津島の歴史・文化などを知ることができる展示ブースがあります。観光案内所の機能も備わっており,パンフレットを手に入れることもできます。



 敷地の西側には土蔵棟があります。明治26年(1893年)に開業した津島銀行の附属家屋かそれ以前にこの地にあった商家の附属家屋だといいます。

千体地蔵堂
天王通り3



 津島市観光交流センターから南下して次の天王通りを左折して50mほど進むと千体地蔵堂があり,堂内には円空作木造千体仏[市文化]が安置されています。円空(1632〜1695)は美濃国に生まれ,32歳から作仏をはじめ,全国をめぐって12万体にも及ぶ仏像を作ったといいます。円空の作った仏像(円空仏)は鉈で彫った素朴で大胆な作風が特徴で,北海道から愛媛・福岡までの全国各地にまつられています。この津島の千体仏は5cm程度の六地蔵が裾につけられた地蔵坐像を中心に,5cmほどの小仏が階段のある岸壁のように作られた光背にびっしりと並べられていて見るものを圧倒します。延宝年間(1673〜81)の作といい,善財童子,護法神,韋駄天の3体の仏像とともに厨子に納められています。円空仏がこれだけきちんとした形で残されているのは珍しく,造像時に姿を今に伝える貴重な文化財です。毎年地蔵盆には開帳が行われるといいます。

清正(せいしょう)公社
上河原町6



 千体地蔵堂から西に戻り,約50m進んだ先には印象的な建物のイトウ写真館があります。創業は1927年といい,近年昔ながらのおしゃれな外観になって津島の町にも調和した建物になっています。



 さらに50mほど進むと三木屋があります。昔ながらの草餅が名物の餅菓子屋さんで,休憩スペースも設けられています。





 三木屋の筋を右折して北上します。この昔ながらの小路はかつては天王川の堤防に当たりました。この道を50mほど進むと清正公社があります。明治18年(1885年)に加藤清正公の徳を偲んで,加藤清正公が幼少の頃に住んだという叔父の館跡と伝わるこの場所に設けられました。加藤清正(1562〜1611)は豊臣秀吉に仕え,賤ケ岳の七本槍の1人として活躍し,天正16年(1588年)に肥後を与えられて熊本城主となりました。築城の名手としても知られ,名古屋城の築城に中心的にかかわったことでも知られます。境内には加藤清正公遺跡の碑があり,津島市の祖先の遺産に指定されています。上河原町では津島秋祭りの時期に鬼祭[市民俗]が行われます。これは加藤清正が虎之助と呼ばれ津島の叔父の家に住んでいた時代,ある夜に2,3人の盗賊が家に侵入しました。そこで虎之助は祭りに使う鬼の面をつけてつづらの中に隠れました。何も知らずにそのつづらを持ち出した盗賊は,遠くの松原でつづらを開けたところ,鬼の面をつけた虎之助が飛び出したのでびっくりして逃げ出したといいます。清正公社の絵図にはこの様子が描かれています。鬼祭はこの故事にちなんで親鬼が大きな鬼面をつけ,赤鬼・青鬼・山伏などの一行と共に男衆が謡い囃しながら練り歩きます。



 清正公社の入り口のところに上河原地蔵堂があります。眼病または乳授かりの地蔵として広く信仰を集め,子どもが難産のときに身代わりになって全身に汗をかくことから汗かき地蔵とも呼ばれています。立派なお堂に置かれ,地域の信仰心を感じます。

津島御殿跡
高屋敷町5付近



 上河原地蔵堂から北に100m強進んだ3本目の筋を右折した先には高屋敷の山車蔵があります。七切の山車の1つで,「唐子の面かぶり」のからくりがあります。チャッパを持つ唐子が狸々のお面を瞬時に着けるのが見どころで,前には時々舌を出す神官人形があります。



 右折する前の所に戻って,さらに北上すると右手に天然記念物津島の大椋の石碑があります。この付近にはかつて,尾張徳川家の別荘と言える津島御殿がありました。これは元和4年(1618年)に尾張藩祖の徳川義直が建てたもので,東西65m,南北130m,約4000坪という広大な敷地を誇ったといいます。義直は津島の地を大変気に入り,鷹狩などで頻繁に訪れましたが,天和3年(1683年)に取り壊されました。この地には江戸時代は義直公が千貫椋と名づけた27本もの巨木が立ち並んでいましたが,昭和時代には大椋1本のみが残り,国の天然記念物に指定されていました。しかし平成5年(1993年)に根元から折れてしまい,現在は石碑のみが残っています。


御旅所跡
馬場町

 津島御殿跡からさらに進んで続く筋を左折し,その先の突当りを左折して100mほど進むと,1つ目の交差点の先の右手に池須町の屋根神が祀られているといいます。伊勢・津島・秋葉の三社が祀られています。さらに150mほど先には「天王通1」交差点があります。かつて天王川の川底にあったというこの交差点は,現在は津島秋祭の際に七切・向島・今市場の山車が一斉に並びます。



 ここを右折して少し進んだ右手には天王通り1丁目の屋根神が祀られています。池須町の屋根神と同様に伊勢,津島,秋葉の3社をまつっています。





 さらに少し進んだ右手には御旅所跡があります。津島神社の山車が訪れる御旅所がかつては天王川の堤であったここにあったといいます。ここには県内屈指の巨樹である津島神社のイチョウ[県天然]がそびえています。県下3位の大きさで,雄木といい樹高30m,根回り10mにも及ぶ見ごたえのあるもので、『尾張名所図会』にも牛頭天王の神木と記載されています。かつては天王川の堤防に根を張っていました。ここにはかつて天王川を渡る天王橋がかかっており,織田信長もここで津島天王祭を見学したと伝わっています。御旅所のイチョウの近くには馬場町の屋根神が祀られています。



 御旅所跡から細い路地を50mほど南下したところに浦方町の屋根神様があります。伊勢,津島,秋葉の神札をまつり毎月17日に榊と供物を供えます。元来からの屋根に乗っている屋根神様です。
 御旅所の左手の道を少し北上した消防団の建物の北側には向島の山車[市民俗]の馬場町の山車蔵があったといいます。向島の祭りはかつての天王川の西側,津島の神領と呼ばれた向島の町内で行われる山車祭りで,津島神社境内摂社の居森社を中心に祭事が行われ,上町,中町,馬場町の3つの山車があります。馬場町の山車は寛政11年(1799年)の墨書銘を持つ提灯箱が確認され,このころに整備されたと考えられます。大黒のからくり人形を持ち,大黒の表情が変わるユニークなからくりといいます。この北には上町と中町の山車蔵があり,上町は綾渡りの唐子のからくり人形,中町は2体の唐子のからくり人形を持ちます。毎年10月第1土日の津島秋祭の際に山車が町を練り歩きます。

宝寿院
神明町2 [公式HP(外部リンク→]





 御旅所跡に戻り,西に進んだ津島神社の門前には昔ながらのお店が並びます。左手にはしょうゆ味のみたらし団子のお店があり,右手には津島銘菓として知られるあかだ・くつわのお店が3店舗並びます。あかだは米粉を練りちぎって油で揚げたもので,津島神社の県祭りの御下がりの米を保存するためという説と,神社の本地仏として祀る薬師如来にちなんで,丸薬を模したとする説があります。またくつわは米ともち米を混ぜて蒸し,団子にして砂糖を加えたものを渦巻き状にして揚げたもので,素朴な味わいが喜ばれています。









 西に進んで津島神社の赤鳥居をくぐったすぐ先を右折すると,少し先に宝寿院(真言宗智山派)があります。牛頭山千蔵坊と号し,文和2年(1353年)の中興といい,津島神社の神宮寺の1つで,かつては実相院,明星院,観音坊の3寺とともに津島神社と一体の存在でした。明治の神仏分離令により他寺は廃業をしますが,宝寿院は当時の住職が私財を投げうって寺を守ったと伝わっています。その際,津島神社の境内から仏教に関するものがこの寺に移され,現在はこの時代の名残を残すものは津島神社には見られません。本尊は薬師如来で,元々津島神社の境内にあった本地堂にあった歴史を持つものといいます。寺宝には絹本著色阿弥陀三尊画像[市文化]があり,中尊,観音,勢至の3像が踏割蓮台の上に乗った良好な保存状態の逸品といいます。また,津島神社の拝殿に懸けられていたという康安元年(1361年)の銘のある鰐口[市文化]は,神仏分離の際に宝寿院の所蔵になったもので,南北朝の様式を伝え後補も見られない貴重なものといいます。明治の神仏分離の令が書かれた慶応4年朝制御一新社僧御廃止留付[市文化]など3点の歴史資料も有します。伊勢湾台風でも被害を受けましたが,その後各堂が再建され,平成18年(2006年)には地蔵堂が再建されて安産地蔵菩薩が安置されています。津島霊場巡りの第11番札所となっています。

津島神社
神明町1 [公式HP(外部リンク→]



 宝寿院から南に戻ると津島神社の東側の入り口になります。東海地方を中心に全国3000社にも及ぶ天王信仰の総本山として知られ,建速須佐之男命が祀られています。社伝によると建速須佐之男命の和魂が対馬(長崎県)から欽明天皇元年(540年)この付近に移り,弘仁9年(810年)に現在地に移って正暦年間(990〜94)に一条天皇から天王社の称号が送られたといいますが,平安時代の延喜式神明帳には神社の記載はなく,これ以降の鎮座と考えられています。承安5年(1175年)の文献で最初に「津嶋社」として見え,以降は津島牛頭天王,または天王と呼ばれました。戦国時代には勝幡城にいた織田氏が,経済の中心であった津島の支配を重要視し,信長の祖父に当たる織田信定が津島を支配しました。以降,織田信長も津島神社と深い関係を持ち,豊臣秀吉や尾張藩祖徳川義直も寄進をして保護をしたそうです。江戸時代には熱田神宮と並んで尾張の国々から信仰を受け,疫病厄除けに御利益があるという天王信仰が広まりました。



 入口の東鳥居の脇には津島神社のイチョウ[県天然]がそびえ,御旅所跡のものと比べると小ぶりながら高さ25m,根回り4.8mに及び,1m余りの「ちち」と呼ばれる気根が垂れ下がり,お乳の出に御利益があるといわれています。



 その先には豊臣秀吉が寄進したという楼門[国重文]が立ちます。天文19年(1591年)の建立といい,東向きに立っていることから従来は脇門に当たりますが,江戸時代は東に天王川が流れ,御旅所まで神輿が行き来したことから,荘厳な楼門が設けられたといいます。



 正面右手に進むと拝殿を先頭に廻廊,祭文殿,釣殿[ともに県文化]などが続きます。祭文殿は文政6年(1823年)の再建,廻廊は文政8年(1825年)に檀家の寄進を受けて再建といい,拝殿は本殿と合わせて再建されたと記録があります。これら本殿と合わせて左右対称に祭文殿,釣殿,拝殿が一直線に配置され,南向きに蕃塀が設けられる「尾張造」というこの地方特有の配置になっています。かつては熱田神宮も尾張造でしたが,現在は建て替えられており,尾張造がはっきりと残る神社としても貴重だそうです。奥の本殿[国重文]は慶長10年(1605年)に徳川家康の四男松平忠吉が病弱だったため,その妻から夫の健康祈願のために寄進されたもので,雄大な建物と豊富な装飾で神社建築の中でも傑作といいます。



 廻廊の右奥には摂社の御荒魂社[県文化]がまつられ,元はやまたのおろちの霊を祀ったことから蛇毒神社と称されたといいます。津島神社の古い形式を残す社殿といいます。



 また本殿左側には須佐之男命の子どもを祀った八柱社[県文化],京都伏見から勧請して宝暦10年(1760年)に建立された稲荷社があります。



 その南には弥五郎殿社があります。本殿及び拝殿[県文化]は寛文13年(1673年)の再建といい,この社地の産土神で,津島神社の社家の祖である武内宿弥が祀られています。吉野南朝に仕えたという津島神社の社家である堀田家の堀田弥五郎正泰がこの社を再建し,大原真守の太刀[国重文]を寄進したことから弥五郎神社と称したといいます。また,延喜式神明帳に記載された國玉神社をこの神社に比定する説もあります。





 弥五郎神社から東に進んだところには柏樹社があり,信託により天平元年(757年)に現在地に移ったといい,社の後ろに古い柏の木があったことが名前の由来といいます。柏樹社の南には和魂社があります。江戸時代には蘇民社と称し,姥ヶ森(現在の愛西市町方新田)に鎮座していたものを移したといいます。正月4日に拝殿前に茅の輪をたてて輪くぐりを行う神事が行われます。



 南に進むと尾張造の特徴である蕃塀の南に南門[県文化]があります。慶長3年(1598年)に秀吉が発病した際に,子の秀頼が福島正則を通じて平癒祈願をした際に建立されたものと考えられています。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒壊したため,のちに復元されました。



 南門から出て右手に津島出身の戦没者を祀った照魂社があります。



 道路をはさんだ向かい側には津島神社の社叢[市天然]が広がり,この地方では珍しい4樹の津島神社のホルトノキ[市天然]が伸びています。





 照魂社の南には菅原道真を祀った菅原社があり,正保年間(1645〜48)に創立したと伝わり,元々は神主の氷室家の邸宅にあったものといいます。境内には尾張名所図会にも描かれている三ツ石があり,これは古代祭祀に関連するものとも考えられ,津島市の祖先の遺産に指定されています。



 社の前には与謝野晶子の句碑があり「二もとの銀杏を於きて自らは紅き津しまの神の楼門」とあります。昭和10年(1935年)に津島高等女学校の記念講演のために津島に来て詠まれた歌といいます。



 さらに50mほど南にある居森社[県文化]は天正19年(1591年)に秀吉の母大政所の寄進によるもので,欽明天皇元年に須佐之男命を最初に祀った場所と伝えられています。津島秋祭の際にはこの神社を中心に向島の山車3台が町を練り歩きます。津島神社の社宝には他に,備前長船派の初代長光作剣[国重文],鎌倉後期の作で四天王像の透彫を持つ鉄燈籠[県文化],八柱社前に安置されていた凝灰岩性の石造狛犬[県文化],3996点にも及ぶ津島神社文書[県文化]などがあります。市の指定文化財も計15件程度あります。



 居森社の先の左手には尾張津島観光センターがあります。津島神社参拝者の無料休憩所になっており,津島秋祭りの山車の模型なども展示されています。





 さらに進むと昭和3年(1928年)から建設されたという津島神社南参道大鳥居があり,その前には建設記念碑が建てられています。

ゴール:津島市ふれあいバス・津島神社南バス停



 南参道大鳥居をくぐって右折して100mほど進むとゴールの津島神社南バス停があります。津島駅に向けてバスが運行されていますが,1日6本なので時刻に注意して利用しましょう。所要は約15分です。徒歩で津島駅まで戻る場合は東へ約20分です。時間に余裕があれば,次の天王川公園コースを引き続き歩くこともできます。


写真使用数:82

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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