本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県津島市:神守コースKAMORI

2017年10月探訪。2017年10月17日作成

【コース】 距離:約7.8km
 佐屋街道の神守宿の史跡と周辺の社寺をめぐり,宇治町,寺野町など昔の街道沿いに点在する社寺と古代寺院の跡地である遺跡群をめぐります。

 名鉄バス・神守口バス停〜神守一里塚〜養源寺〜吉祥寺〜憶感神社〜旧神守宿〜穂歳神社〜手力雄命社〜福祐寺・宇治城跡〜逆川神社〜大徳寺〜八幡社〜寺野神社(寺野遺跡)〜明安寺〜波寄神社〜長福寺〜福泉寺〜名鉄・青塚駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄バス・神守口バス停



 スタートの名鉄バス神守口バス停は,名鉄バスセンターおよび栄から安松経由の津島行きバスに乗車して向かいます。名鉄バスセンターからはおよそ40分,栄からは約50分の所要時間となります。本数は合わせて1時間に3本程度運転されているので,アクセスは容易でしょう。津島駅からバスを利用する場合は,所要はおよそ10分になります。

神守一里塚
神守町下町75付近



 神守口バス停を出発したら県道を西に向かい,「神守口」交差点を渡って100mほど進むと右手に神守一里塚跡[市史跡]があります。一里塚は街道に一里(約4km)ごとにおかれた目印ですが,この一里塚は寛文年間(1661〜73)に設けられたといい,熱田から佐屋を結ぶ佐屋街道上で唯一現存する一里塚です。高さ約1.5mの小山に保存樹となっているムクノキが植えられています。かつては南側にも塚があって,榎の木が植えられていたといいます。



 神守一里塚から250mほど進んだ「神守町下町」の北東に津島祭の山車蔵があります。山車蔵の中には神守の山車[市民俗]のうち南町山車が収められています。この神守地区の祭りは文化年間(1804〜18)頃に始まったといい,古くは穂歳神社,憶感神社を中心とした収穫の祭りが行われていたといいます。現在は10月第1土日に行われる津島秋まつりの際に,3台の神守の山車が練り歩きます。南町の山車は七福神の寿老人で,からくりは団扇太鼓を打つ小唐子と大唐子だといいます。

養源寺
神守町中町51





 「神守町下町」の交差点を右折して北上します。この道は旧佐屋街道に当たります。次の筋を左折して100m弱進むと,右手に養源寺(真宗大谷派)があります。神守山と号し,往古は天台宗でしたが享禄4年(1531年)に改宗したといいます。本堂は享和3年(1803年)に改築したもので本尊の阿弥陀如来を有し,本堂隣の経蔵には釈迦如来像と一切経が奉安されています。この寺の第13代住職である空観は,尾張の名僧として知られ,明治22年(1889年)に没するまで国内外に熱心に布教を行い,愛知医学専門学校の設立にも尽力したといいます。



 佐屋街道に戻って,北上して100mほど進んだ診療所の奥の交差点のところに,神守村道路元標があります。旧神守村だったときの道路の距離の基準となる元標です。



 この元標の交差点の左奥方向には,神守の山車の中町山車の山車蔵があります。中国詩人の林和靖の人形があり,からくりは大唐子と小唐子が梅の木に逆立ちして太鼓をならすものといいます。
 また,その南の個人宅には石原正明の墓[市史跡]があります。石原喜左衛門正明(1760〜1863)は神守生まれの国学者,歌人として知られ,本居宣長の門に入って江戸でも活躍し,盲目の国学者という塙保己一とともに『群書類従』をまとめました。また1万首にも及ぶ歌も詠んだといわれています。

吉祥寺
神守町上町35



 佐屋街道に戻って,さらに100mほど北上すると神守の宿場跡の案内板がある突当りがあります。ここを右折すると,少し先には神守の山車の上町山車の山車蔵があります。三国志の武将「関羽」の人形があしらわれ,回転する小唐子のからくりがあるといいます。





 これに隣接して,吉祥寺(真言宗智山派)があります。憶感山と号し,元々は蜂須賀蓮華寺(現,あま市)の末寺だったといいます。山号が憶感山ということからわかるように,過去は隣接する憶感神社の神宮寺(別当寺)で,慶安元年(1648年)に神守宿が開設された際に元々あった大木村から移転したといいます。



 境内入り口左手には珍しい六角地蔵堂があり,延命地蔵菩薩が祀られています。文政3年(1820年)に建立され,旅人は道中の安全を,地元の村人は家内安全などを祈ったといいます。津島霊場巡りの第16番札所になっています。

憶感神社
神守町上町36





 吉祥寺の南東に隣接して憶感神社があります。平安時代の延喜5年(905年)に出された延喜式神明帳に記載のある式内社で,これは津島市内では唯一の由緒ある神社です。仁寿3年(853年)に祈年祭・月次祭・新嘗祭などを行う官社になったと記録されています。祭神は八竜権現と伝えられ,これは水をつかさどる神様でこの地域の治水を祈るものとだったと考えられます。神守の地名も元々は川守とする説があり,この神社が地名の語源に当たるとも言われています。また,心願成就・縁結び・家内安全・商売繁盛などの御利益がある「おかみの神」もまつられ,古くから佐屋街道を行き交う人々を見守ってきたと考えられます。正保4年(1647年)に神守宿が開設されるまでは北の大木町との境にありましたが,宿開設の際に神宮寺であった吉祥寺とともに現在地に移転したといいます。

旧神守宿
神守町上町



 憶感神社から西に進んだところが旧神守宿になります。佐屋街道は慶長20年(1615年)に徳川家康が大坂夏の陣でここを通行したことから本格的に整備が始まり,寛永3年(1626年)に将軍家光が上洛の際の帰路にも利用しました。東海道を通る際,熱田から桑名までの七里の渡しを避けて往来する人々で賑わったといいます。しかし街道の佐屋と万場(名古屋市中川区)の間の距離が長かったため,正保4年(1647年)に中間にあたる神守に宿場が新設されました。本陣1軒,問屋場の2ヶ所,荷付け小屋1ヶ所があり,脇本陣はなく大名が宿泊するには設備は少なかったようですが,『尾張名所図会』に「佐屋街道の馬継なり。駅舎旅館のすこぶる壮麗にして、いと賑わえり」と描かれています。現在も様子がだいぶ変わったとはいえ,宿場町のおもかげを残している場所があります。

穂歳神社
神守町中切45



 憶感神社から西に200mほど進んだ右手に穂歳神社があります。スサノオの御子で秋の実りをもたらすという大歳神をまつっており,雨乞いと豊作の御利益があるという神社です。境内には三十番社があり,これは月の30日を守護する30柱の神様がまつられています。





 穂歳神社から東に戻って,続く筋を左折し,300mほど進んだ4本目の筋を左折すると,100mほど先に大木町遺跡の案内板があります。土地改良事業で発見された古墳時代から中世にかけての遺跡で,現在は広大な田園地帯になっています。なお,この付近には神守の代官所があったといいます。



 大木町遺跡の案内のところを右折して250mほど進み,突当りを左折して続く筋を右折すると,正面には相殿神社があります。





 なお,旧神守宿から西へ500mほど進んだ越津中之郷には,弘盛寺(高野山真言宗)があります。法喜山と号し,天正4年(1576年)に高野山から弘法大師を迎えて創建されたといい,越津弘法として親しまれて露店なども出て賑わう寺院だったといいます。津島霊場めぐりの17番札所となっています。

手力雄命社
宇治町茶ノ里188-1



 相殿神社から北西方向に200mほど進んだ「蛭間町西屋敷」交差点を左奥方向に進んで県道を西に進みます。100mほど進んだ2本目の細い筋を左折すると少し先の田んぼの中に宇治町遺跡の案内板があります。耕地整理が行われた際に大量の土器片が発見され,時代も古墳時代から中世に及びます。中国製の青磁や灰白磁の小片も見つかっており,この地域の豊かな文化を感じることができます。





 先の突当りを右折して200m強道なりに進むと,右手に手力雄命社があります。津島市内で唯一手力雄命(たぢからおのみこと)を祀る神社で,今でも力の神,スポーツの神などとして信仰を受けています。江戸期には志津天王社と呼ばれており,その名前から津島天王の分霊社とも考えられていますが詳しいことはわかっていません。神社の北には木々に囲まれた三躰社があるといいます。

福祐寺・宇治城跡
宇治町茶ノ里79 [公式HP(外部リンク→]





 手力雄命社から東に戻って,続くT字路を左折し,さらに次の筋を左折して道なりに200m弱進むと右手に福祐寺(真宗大谷派)があります。朝日山と号し,天正元年(1573年)に祐俊によって美濃小熊村(現在の羽島市)の浄土寺の末寺として建立され,当初は正福寺といいました。天和3年(1683年)に祐春が福祐寺と改称し,現在の宗派に帰属したといいます。地域の拠点になっているお寺で,秋には観月コンサートなどのイベントも行われているといいます。
 境内は中世から戦国期にかけてこの海東郡の拠点の1つとなった宇治城の跡地といい,寺の再建の際には地下から多数の大石が発見されたといい,本堂の裏にある石は残された礎石だといいます。戦国期の宇治城は東西100間(約180m),南北200間(約360m),と大きなものだったと考えられています。城主は篠田左衛門で,京都東福寺の建立で有名な九条道家の子孫と伝えられています。その後,織田信長の命により織田源五郎長益が宇治城主となり,この地域の一向宗徒との戦いの拠点となりました。戦いが進むにつれて南の鯏浦城(弥富市)や蟹江城が拠点となったため,宇治城は廃城になったと考えられています。
 また,宇治地区にはウナリ石の伝承があります。洪水が起こった際に神社が流され,あった場所に大石が残されたため,石を持ち帰ったところ石がウナリ声を発したため,村人は怖がって元の場所に戻したと伝わっています。

逆川神社
蛭間町西屋敷1100



 福祐寺から東に戻って,続く筋を左折してそのまま県道の信号まで出ます。信号で県道を渡り,続けて右折して県道を東へ進み,100mほど先の物流センターのところの筋を左に入り,300mほど進んで県道に突き当たったら左折すると約150m先の左手に逆川神社があり,水の神様である瀬織津姫命がまつられています。昔,この付近の川は南側に流れ出る場所がなく,北に流れていたために逆川と名づけられたといいます。川に建てられていた竹を人々は川の神と呼んでおり,病気だった人がこの竹を拝んだところ数日ののちに完治したため,多くの人が参拝するようになり,祠を作ったといわれます。今でも下腹部の病気が治ると言い伝えられています。

大徳寺
蛭間町西屋敷1137





 逆川神社のところの筋を左に入ったところに大徳寺(浄土宗)があります。法寿山と号し,北の葉刈町にある長福寺の末寺で,立派な鐘楼門が特徴的です。寺には腹に帯がある腹帯地蔵尊が祀られており,この地蔵に願をかけるとお産が非常に楽になるといい,多くの婦人が参拝したといいます。そのときにお地蔵さまは汗をかかれるとも伝えられています。境内にはこの寺で寺子屋を開いた水野先生の碑があります。

八幡社
蛭間町西屋敷1174





 大徳寺から県道に戻って北上するとすぐに八幡社があります。住宅地帯ながら鎮守の森をもつ神社で,高さ15m余りのクロガネモチのほか様々な木を見ることができ,社叢が津島市の祖先の遺産に指定されています。



 神社のそばには神守北部地域の遺跡群の案内板が立っています。この付近の旧上街道沿いにまとまって存在する弥生時代から古墳時代にかけての遺跡について説明があります。この蛭間町にはイボ石の伝承があります。この付近にあったという山の神のそばに奇岩の大石があり,イボを持つ人がこの大石をさすればたちまちにイボが消えるといわれることから「イボ石」と呼ばれたといいます。

寺野神社(寺野遺跡)
寺野町郷58





 八幡社の先の橋を渡った先,3本目の筋を右折します。そのまま300m弱進むと左手に寺野神社があり,その前には寺野遺跡の案内板があります。昭和39年(1964年)に寺野町の20haの耕地整理工事の際に発見され,多くの土器片や布目瓦などが出土し,弥生時代に集落が発達していたことがわかりました。これらの出土品は寺野町遺跡出土品として市の文化財に指定されており,祖先の生活を知る貴重な資料になっています。また,古代の軒丸瓦や法隆寺と同じ形式の瓦が出土しており,古代に大きな寺院の大伽藍があったことが知られ,寺野廃寺と呼ばれています。この付近はあま市の甚目寺遺跡や篠田廃寺,愛西市の諸桑廃寺など古代は大寺院が東西に連なっていることから,古代の東海道がこの付近を通っていたとも考えられています。
 なお,寺野町の個人宅には慶長十三年尾州海東郡寺野村御縄水帳[市文化]があります。慶長13年(1608年)の尾張国検地帳のうち,原書の副本と考えられるものは少なく貴重な歴史資料だといいます。

明安寺
寺野町郷76





 寺野神社の左側の筋を進んで突当りを左折し,続く筋を右折して50m強進むと右手に明安寺(浄土宗)があります。大日山と号し,藤原時代後期の作という木造仏頭[県文化]を有します。これは巨大な大日如来像の頭部とされ,面長36.8cm,面幅27cm,豊かな頬が特徴的な優作といいます。先に述べた寺野廃寺の流れをくんだ文化財とも考えられており,これからのこの付近の発掘調査で尾張仏教の黎明期の解明が待たれます。





 明安寺から北上して次の筋を左折し,続く筋を右折して道なりに200mほど進んだ4本目の筋を道なりに左折し,さらに100m強進むと波寄神社があります。津島市の祖先の遺産にも指定された立派な鎮守の森が特徴で,シラカシ,サカキなどの照葉樹林相を呈しており,ムクドリなどの野鳥の絶好の生息場所になっているといいます。

長福寺
葉苅町北町41



 波寄神社から西に進んで県道に突き当たったら左折します。そのまま200m強進んで3本目の横断歩道のある筋を右折して,そのまま道なりに500mほど進むと右手に長福寺(浄土宗鎮西派)があります。法性山と号し,天文6年(1537年)没という岌清上人による開山という古刹で,京都百万遍知恩寺が本山といいます。周辺に12もの末寺を持つこの付近の浄土宗の中心寺院となっています。本尊は丈六阿弥陀如来坐像で,元文2年(1737年)に伴伊平によって寄贈されたといいます。この伴伊平は円成寺(中一色町)の関通上人に帰依し,円成寺の本尊や今市場町の貞寿寺の建立にかかわったといいます。明徳2年(1391年)作という秘仏で,子どもの顔を連想させる優しい目鼻立ちが特徴という木造十一面観世音菩薩立像[市文化]や,鎌倉〜室町期作とみられる両面を使用した珍しい弁財天図・来迎図版木[市文化]などの古くからの文化財を有します。また境内の観音堂には十一面観音のほかに不動明王・毘沙門天・石仏三十三観音がまつられています。
 この付近には,近世まで三本柿街道と呼ばれる街道が残っており,これは木田付近にあった1本で3種の柿がなるという木が名前の由来になっています。この付近は愛西市北河田・古瀬から津島市葉刈・青塚・寺野を通ってあま市森山に至る道といい,この街道沿いには長福寺を含めた古い社寺が集まっているといいます。



 長福寺から東に戻って,目比川沿いの堤防を北上します。川沿いの景色を楽しみながら進みましょう。



 300m強進んだ次の橋のところを右折して橋を渡り,渡ったらすぐに左折して川沿いを進み,続く筋を右折して100mほど進むと白山・神明・八幡社があります。



 さらに100m弱進んだところには,福泉寺(真宗大谷派)があります。

ゴール:名鉄津島線・青塚駅



 福泉寺から200mほど進むと県道に突き当たります。ここを左折して100m強進むと,ゴールの青塚駅があります。ここから名鉄津島線を利用すると,須ヶ口駅まで約10分,名鉄名古屋駅まで約25分(乗り換え列車もあり)で戻ることができます。普通列車のみの停車で,本数は1時間に4本程度です。


写真使用数:42

←前:[大治町]大治西コース / 愛知県津島市 / 次:神島田コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>