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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県清須市:朝日コースASAHI

2015年5月探訪。2016年7月23日作成

【コース】 距離:約6.9km
 旧清洲町の東部および北部をめぐります。清洲城下周辺のさまざまな社寺と,弥生時代の広大な遺跡である朝日遺跡に関する史跡をめぐります。

城北線・尾張星の宮駅〜八幡神社〜医王寺〜明泉寺〜愛知県貝殻山貝塚資料館〜検見塚〜厳島神社〜真福寺〜愛宕神社〜朝日天王社〜御園神明社〜一場天王社〜本成寺〜光遠寺〜一場浅間神社〜総見寺〜JR・清洲駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:城北線・尾張星の宮駅



 今回のスタートは城北線の尾張星の宮駅です。JR東海道線との乗り換え駅の枇杷島駅から1駅3分ですが,本数は1時間に1本程度ですので注意が必要です。枇杷島駅と尾張星の宮駅は,平成5年(1993年)に開業した城北線でも新しい区間です。元々国鉄瀬戸線として建設された区間ですが,平成3年(1991年)12月の開業以来,単線非電化で1両編成の気動車が日中1時間ごと運転されるだけで,あまり活用されていない印象の路線ですが,これには諸事情があるそうです。駅の西側に出てスタートします。

医王寺
阿原八幡58



 尾張星の宮駅の西側から出て右手に進み,線路沿いに進んで2つ目の筋を左折し,100m先の突当りを横断歩道を渡って右折します。その先の筋を左折して100mほど進むと右手の公園の中に八幡神社があります。祭神は応神天皇で,昭和26年(1951年)に境内に公園が整備されたといいます。





 八幡神社の先を左折して50mほど進むと,右手に医王寺(曹洞宗)があります。天栄山と号し,過去に空海がこの地にたまたま巡礼した際に本尊となっている薬師如来を刻み一宇を建立したのが始まりと伝わります。当初は真言宗で少し離れた場所にありましたが,慶長2年(1597年)に現在地に移され,元禄15年(1702年)に名古屋東寺町(現在の東区東桜)の永安寺の末寺になり,曹洞宗に改めました。本尊の薬師如来は秘仏で,普段はお前立ちを安置するといい,寺宝には元禄3年(1690年)寄贈という涅槃図,嘉永元年(1848年)作という十六善神図などがあります。
 境内は米つき地蔵発祥の地と言われます。これは300年ほど昔,阿原地内で「ポンポン」と米をつく音が夜な夜な聞こえたので,その地を探し当てて堀ったところ地蔵菩薩が出てきました。そこで,小堂を建ててまつったところ多くの参拝者が訪れ,お供えを貧者がいただいて飢えをしのいだため「米つぎ地蔵」と呼ばれるようになったといいます。その後地蔵尊は,五百羅漢大龍寺(現,名古屋市千種区)の初代和尚が同寺に勧請して,長く信仰されるようになったといいます。



 医王寺から100mほど進んだ次の筋を左折し,その先の筋を左折すると阿原教会(日蓮宗)があります。本尊に三十番神を祀るため番神堂といわれ,古く鎌倉時代の創建という宝篋印塔の礎石があります。かつては日蓮宗の一寺として栄えた歴史があったと考えられています。

明泉寺
西田中本城61-1



 阿原教会から戻って右折し,2本目の筋を左折します。さらに250mほど進むと,西田中公民館の建物があります。この横の交差点を右奥方向に進むと,右手に明泉寺(真宗大谷派)があります。清浄山と号し,寺伝によると武田信玄の密子,武田信世が清洲城下に至り,飯束氏房と称して城下の天台宗四明山福泉寺に入門し,のちに住職となってといいます。天正8年(1580年)に教如上人から大本阿弥陀如来尊影を賜って浄土真宗に改宗し,元和9年(1623年)に現在の寺号に改めました。その後,火災,明治24年(1891年)の濃尾地震などで本堂が倒壊し,明治25年(1892年)に現在地に移転して再建されました。境内にはかつて西田中の墓地にあったという享保11年(1726年)銘の六地蔵があります。



 明泉寺の先には,西田中の神明社があります。西田中の産土神として古くから信仰され,多くの樹木に覆われた雰囲気ある神社ですが,境内の灯籠などの石造物の銘は明治以降のものになります。例祭が毎年10月第1土曜日に行われます。大正期はこの付近はいちごの栽培が盛んで,いちご狩りに訪れる人も多かったといいますが,今はすっかり様子が変わってしまいました。

愛知県貝殻山貝塚資料館
朝日貝塚1 [公式HP(外部リンク→)]







 西田中神明社の先を右折し,そのまま100m強進んだ2つ目のやや広い通りを右折します。さらに200mほど進んだ次の信号を左折して100m強進むと,右手に貝殻山貝塚[国史跡]があります。昭和4年(1929年)に初めて発掘調査が開始され,弥生時代の貝類や前期から後期までの遺物が発見されました。その後の昭和46年(1971年)以降の道路工事にともなう大規模な発掘調査で,名古屋市西区と清須市にまたがって,東西1.4km,南北0.8kmもの規模となる弥生時代前期から古墳時代前期にかけての拠点的集落と考えられる遺跡が発見され,朝日遺跡と呼ばれるようになりました。発掘の成果などは,奥にある愛知県貝殻山貝塚資料館に展示されています。集落は弥生時代前期から中期にかけて巨大化し,逆茂木や環濠などの防御施設が設けられ,この時代が争乱の時代であったことを物語っています。また,ヤナ(魚をとる装置),300余りの方形周溝墓,多数の竪穴住居の跡なども発見され,敷地内に竪穴住居が再現されています。また,この遺跡は前期弥生文化が広がった東縁のものとして知られていますが,水田農耕の伝来を示す遠賀川式土器と縄文土器が共存し,東海地方にどのように弥生文化が広がったかを考えるうえで非常に重要な遺跡となっています。その他,銅鐸や巴形銅器などの金属器や,骨角器,ガラス小玉なども出土しています。その出土品は,現在は多くが弥富市の愛知県文化財調査センターに保管され,国の重要文化財となっています。



 貝殻山貝塚の入り口に戻ってさらに北上し,次の筋を右折して資料館の裏側を通って400m弱進み,突当りを左折して次の筋を右折します。その先の左手の「朝日南西」交差点の手前のところに検見塚[県史跡]があります。ここも朝日遺跡の一角をなすもので,直径15m,高さ3mの小山状の塚になっており,弥生時代中期・後期の典型的な遺跡として県の指定を受けています。かつては田園の中にありましたが,国道や高速道路のジャンクションが建設されてしまい,塚に近づくことができなくなってしまいました。

(朝日)厳島神社
朝日天王124-2



 国道22号線に入った道を戻ってそのまま西に600mほど進むと,右手に厳島神社があります。創建は不詳ですが,この地は現在名古屋市中区の広小路沿いにある朝日神社の故地とされ,慶長16年(1611年)に清須越で朝日神社が移されたため,故地に杉の木を植えて弁天の祠を建ててまつり,明治以降に市杵島姫命をまつって現在の社名になったといいます。昭和50年(1975年)に朝日遺跡一帯が史跡に指定されて,その後神社も整備されましたが,建物の配置は昔ながらのたたずまいを残しているといいます。

真福寺
朝日愛宕190





 厳島神社の手前の筋を北上して国道302号線と名二環の高架をくぐって400m強進むと,やがて目の前に真福寺(真言宗智山派)が見えてきます。稲園山と号し,天正19年(1591年)に稲沢から七ツ寺がこの地に移され,その後慶長16年(1611年)に清須越しで名古屋の大須に再び移転しました。その故地に,朝日落合の蓮花寺にあった真福寺がこの地に移転したといいます。開山は七寺の中興二世良祐で,七寺の末寺で山号も同じになっています。建物は濃尾地震(1891年)の倒壊後に再建されたもので,伊勢湾台風(1957年)で倒れた鐘楼門も平成8年(1996年)に再建されました。
 寺宝は多く,本尊のほか十二神将や弘法大師の像のほか,文化2年(1805年)修復の笏を持つ信長画像や将軍地蔵の軸画,甚目寺観音縁起などの絵巻物も伝わります。境内には至徳元年(1384年)の宝篋印塔の基礎,昭和8年(1933年)建立の尾張大正廿一大師記念碑があります。このうち尾張大正廿一大師は,大正末期に春日の蓮花寺が中心になって大師をまつる21ヶ寺をめぐる霊場で,昭和初期に盛り上がりましたが,その後は戦争の危機が迫って自然消滅したようです。



 また,本堂左には徳住上人による独特の書体の「南無阿弥陀仏」の名号石があります。徳住上人は安永6年(1777年)に三河碧海郡大浜(現在の碧南市)に生まれ,中山道本庄宿(埼玉県本庄市)円心寺にて念仏行者で知られる徳本上人に師事し,江戸から大坂までの各地にて念仏の行者として市民の感化につとめ,名古屋の光照院(名古屋市東区泉3丁目)の中興や岡崎岩津の九品院などを建立しました。名号石は存命中の文政10年(1827年)の建立といい,元々は小牧街道沿いにあったものが現在地に移されたといいます。



 寺の西南角には朝日観音と呼ばれる三十三躰観世音菩薩があり,中心の阿弥陀仏の台座からは天保年代(1830〜43)の年号があります。これは,衆生救済のために33の姿をとって現われたという観音石像です。





 真福寺の左手の道を進んで,次の突当りを右折したところに(朝日)愛宕神社があります。この地にはもと大乗院という修験堂があり,清洲城の鬼門除けとして代々の城主に崇敬されましたが,清須越しで名古屋に移転しました。その後,大智院という修験堂を再び勧請して愛宕権現を勧請しましたが,明治5年(1872年)に愛宕権現のみが残されて現在の姿になりました。

朝日天王社
朝日天王87付近



 厳島神社まで戻り,さらに100m強西に進むと左手に入ったところに朝日天王社があります。創建は不詳ですが,『尾張名所図会』などによると織田信長の清洲在城時から清洲四天王の一つとして尊崇されたと伝わります。元は五条川の堤防上にあり,明治末頃までは板葺きの本社がありましたが,現在は石段上の柵内に津島,秋葉,神明の三社が並ぶのみとなります。神社横には山車蔵があり,宝暦12年(1761年)に奉納されたという朝日天王社の試楽者[市民俗]が収められています。この山車はかつて夏祭りの際に組み立てられ北の愛宕神社まで往復しましたが,今は8月第1日曜の夏祭りの際に組み立てたままの山車を社前に出し,色紙のハナを飾り,提灯を灯すのみになっています。

御園神明社
一場神明前580-7



 朝日天王社の北の交差点からさらに100mほど進むと五条川に突当ります。





 ここを右折して,50mほど進み国道302号線の南に設けられた歩道橋を渡ってさらに100m強進み,「清洲中学校前」交差点で右折して国道302号線を渡ったら,少し先の右手に御園神明社の入り口があります。垂仁天皇時代(1世紀頃)の創建と伝わる古社で,上畠,日吉神社と並ぶ清洲三社の1つとされます。社名の御園はかつて伊勢の神宮領であった清須御厨に由来するといい,その御厨内に勧請されたのが当社と考えられています。清洲城下町時代は,門前で御園市が開かれた記録があり,天正18年(1590年)に豊臣秀吉の母の大政所(または,秀吉夫人北政所の母朝日殿)が社殿を造営したといい,慶長6年(1601年)には清洲城主の松平忠吉が補修したといいます。江戸時代は,天野信景が『惣社参詣記』で倭姫命伝説にて現れる中島宮と比定して以来,中島宮の通称が一般となりました。



 境内には清洲城の外堀の一部という遺構が残されています。寺宝には,御園神明縁起など10点の古文書があります。



 御園神明社の先,コンビニエンスストアの手前の筋のところ200m強の美濃路までの道は,かつての御園神明社の参道になります。明治末までは,この参道に多くの石造物が並んでいた記録が残されていますが,現在は多くが神社の境内に移されました。



 御園神明社の参道から500mほど進んだ,次の信号の少し手前右手には一場天王社があります。もとは御園神明社内にありましたが,明治10年(1877年)頃に神職が美努(みぬ)神社と記された曲物を津島神社と同神として美濃路の御嶽社の向かいにまつったといいます。昭和に入って旧国道建設のために現在地に移転し,戦災からも免れ助かったといいます。神社東方の一場霊園には,宝暦6年(1756年)の石塔や地蔵,元神社にあったという「高松宮殿下御視察之碑」があります。この碑は昭和4年(1929年)に本県の農業事情視察のために,ホウレンソウ栽培を視察されたときのものだそうです。

本成寺
一場1495



 一場天王社の先の信号を左折すると,すぐ先の分岐点のところに御嶽社があります。各地に残る御嶽信仰の社で,祀られている不動明王の台石は室町時代の宝篋印塔であるといいます。



 御嶽社のところ右に入り,次の筋を右折します。この付近は旧美濃路に当たるため,街道沿いの趣が見られます。江戸時代のはじめはこの付近に清洲宿が設けられたといいますが,寛文8年(1668年)に大火があり,南に移されたといいます。この連続した曲がり角はかつての枡形の名残です。





 さらに100m弱進むと左手に本成寺(真宗大谷派)があります。林光山と号し,徳川家康に仕えた三河大浜(現在の碧南市)の武士,河村与治右衛門が関ヶ原の戦いで負傷して,この地で仏門に入ることを決意し,教如上人について慶俊の法名を授かり,慶長11年(1606年)に林光坊という坊を建立したことに始まります。その後,寛永元年(1624年)に現在地に移り,寺号も現在のものに改められました。元禄5年(1692年)に今の名古屋東別院ができるまでは,清洲六坊の第一として教如上人ら本願寺門跡が江戸への往復をする際の休泊地となった由緒があります。寺内に御成御殿があって百ヶ寺が集合する会合も行われたといいます。境内の本堂は濃尾地震や伊勢湾台風で被害を受け,大修復されたもので,本堂前には弘化4年(1847年)銘の春日灯籠が立ちます。寺宝は多く,家康が与えたという永禄8年(1565年)のあてがい状,徳川光友墨画や福島正則書状,江戸初期に下賜された教如上人寿像などがあります。

光遠寺
一場1298





 本成寺の少し先の右手に光遠寺(日蓮宗)の入り口があります。清林山と号し,延宝年中(1673〜81年)の創建といいます。本堂は濃尾地震,戦災と被害に遭い昭和32年(1957年)に再建されたものですが,「南無妙法蓮華経」と刻まれた延享4年(1747年)の題目塔や元禄7年(1694年)銘のある記念碑などがあります。また,境内には日蓮宗などに特有の番神堂が設けられています。

一場浅間神社
一場1227





 光遠寺から200mほど美濃路を進んだ次の細い筋を右折して,約100m進んだ旧国道22号線との合流点のところに一場浅間神社があります。創建は不詳ですが,この位置は寛文9年(1669年)に五条川の流路を変更する前の川の堤防上にあたり,その名残から本殿は一段高い石垣上に建っています。木々に抱かれた境内には明治期の石造物が並び,歴史を感じさせます。本殿左の末社御鍬社は御園神社内にあるのと同じ文政10年(1827年)の鎮座といい,清洲ではこの年に五穀豊穣を願って御鍬祭が盛大に行われた様子が記録されています。



 美濃路に戻ってさらに北上し,用水川を渡って少し進んだ先に,天保7年(1836年)の銘の薬師,天保14年(1843年)の銘のある観音石像があります。その右手には元禄時代(1688〜1703年)に創建され,行基作と伝わる薬師如来をまつる薬師堂があります。元は少し南にありましたが,天保9年(1838年)に無住になり荒廃したため,万延元年(1860年)に現在地に移されました。堂内には,不動明王などの諸仏,円空作の薬師如来などが大切に安置されています。

総見院
大嶋1-5-2 [公式HP(外部リンク→)]





 薬師堂からさらに50mほど進んだ次の交差点を左折すると,約50m先の右手に総見院(臨済宗妙心寺派)があります。興聖山と号し,天正11年(1583年)に当時清洲の城主であった織田信雄が,父の信長の菩提を弔うために伊勢の国桑名の安国寺を移し,妙心寺の忠嶽和尚を開山に迎えて景陽山総見寺として創建し,慶長15年(1610年)に清須越しで名古屋大須に移されました。正保元年(1644年)に総見寺第三代のみん山永吃(みんざんえいきつ)和尚が,尾張藩主徳川義直と家康の長女亀姫の帰依を受けて清洲の旧地に土地が与えられたため,この地に信長の菩提を弔う寺を建立したのが始まりです。かつては美濃路に面して建てられていましたが,区画整理で山門や塀が新築され,現在の形になりました。寺宝には,本尊の釈迦如来のほか,藤原時代中期に属する貴重な木造観音菩薩立像[県文化],聖観音立像と毘沙門天像の円空仏,開山のみん山和尚が家康の長女亀姫から与えられたという唐絹織紫衣[県文化],織田信雄が本能寺の変ののち,その跡を捜索させて探し当てた織田信長が着用したという焼兜,義直が嫡子の光友に書かせたと伝わる「興聖山」の扁額,明暦3年(1657年)に書かれたという開山のみん山和尚画像などがあります。

ゴール:JR・清洲駅



 総見院から100m弱進んだ分岐点を左に進み,200mほど進んだ突当りを右折し,続く筋を左折して100mほど進むと,右手にゴールのJR東海道線の清洲駅があります。普通列車のみの停車で運転間隔はおよそ15分。名古屋駅まで普通列車で2駅8分ほどです。

写真使用数:37

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
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