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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県清須市:清洲城コースKIYOSU CASTLE

2016年7月探訪。2016年7月30日作成

【コース】 距離:約9.6km
 旧清洲町の西部・中部をめぐります。清洲城,美濃路清洲宿など清須市のメインの観光地と,周辺の地元信仰が生きる社寺をめぐります。

名鉄・新清洲駅〜蓮忍寺〜(上条)稲荷神社〜日吉神社〜久證寺〜ARCO清洲〜清洲城〜清洲古城跡〜清洲公園〜川上神社〜清凉寺〜上畠神社〜清洲宿本陣跡〜廻間八幡社〜東勝寺〜光専寺〜土田八幡社〜大吉寺〜名鉄・新清洲駅

【補足】桜の時期に訪れた清洲城,清洲公園の様子は,名鉄のハイキング2016/4/3のページに掲載しています。


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄・新清洲駅



 スタートの名鉄名古屋本線新清洲駅は,名鉄の旧清洲町の中心駅で急行も停車し,名鉄名古屋駅から急行で約11分で来ることができます。本数も1時間に4本程度運転されているので便利です。駅は昭和3年(1928年)に西清洲駅として開業し,現在は上下の待避線も備えた地下駅舎になっていますが,バリアフリー化もされず手狭な印象があり,改良工事の計画もあるそうです。新清洲駅の南側の出口から出てスタートしましょう。



 なお,駅の東側には立派なお地蔵さんがありますが,これは昭和33年(1958年)に起こった踏切事故の慰霊で設けられたものといいます。

蓮忍寺
上条織部638





 新清洲駅前から出ると,そのまままっすぐ新清洲駅前商店街が延びていますので,ここを進んでいきます。商店街には全部で5体の信長の陶人形が飾られており,織田信長のゆかりの町清須に来てくれた人を出迎えてくれます。





 商店街を抜けて200m進み,次の信号を左折してさらに次の筋を右折し300m強進むと,右手に蓮忍寺(真宗大谷派)があります。紀州山と号し,創建は不詳ですが清洲城下町時代は八欧山浄仙専坊と呼ばれたようです。慶長年間(1596〜1615)に教如上人がこの地で休憩された際の御文や腰掛け石が残されているといい,その後本山の宣如上人から絹本著色阿弥陀如来像や親鸞聖人像が下賜されており,この頃に現在の寺号になったと考えられています。境内は平成10年(1998年)に本堂の修復と庫裡の新築で様子が変わりましたが,現在も落ち着いたたたずまいをしています。



 この西側には農園が広がります。かつてこの上条地区は上条瓜が名物になっており,幕府や尾張藩主に献上された記録もあります。その後もワラビ,ミツバなどの栽培が行われ,現在はパセリの栽培も行われているそうです。かつては海部郡に属し,昭和18年(1944年)に編入された歴史を持つため,現在でも海部地方(旧甚目寺町)との結びつきが強い地域です。





 蓮忍寺から東に戻って,次の筋を右折すると,やがて右手に(上条)秋葉神社があります。社の周辺には台座に天保9年(1838年)の銘がある地蔵が収められた地蔵堂,馬頭観音石像が立ち,かつての上条の人々の中心地だった様子がわかります。

(上条)稲荷神社
上条2-4





 秋葉神社のところ直進し,次の突当りを左折します。そのまま約100m進んだ次の交差点を右折すると,少し先の左手に(上条)稲荷神社があります。なお,神社の目の前の道は旧鎌倉街道に当たり,かつては京と鎌倉を結ぶ大動脈として賑わっていたようです。創建は不詳ですが,『寛文村々覚書』(1671年頃)に記載があり,これ以前の歴史を持ちます。社殿は中央に稲荷社,右に須佐之男社,左に飯綱社の三社が並んでいますが,以前は須佐之男社と飯綱村内の別の場所にありました。昭和19年(1944年)に清洲飛行場が建設された際に2社が稲荷社の位置に移動し,現在の形となりました。拝殿は平成10年(1998年)に焼失したのちに再建された,新しいものです。

清洲山王宮 日吉神社
清洲2272 [公式HP(外部リンク→)]



 稲荷神社から直進して2本目を左折し,そのまま500m弱,五条川にかかる巡礼橋を渡ります。



 「巡礼橋東」交差点まで来たら右折すると,少し先の右手に丸の内の秋葉神社があります。幕末以降の創始といい,秋葉・津島の2社が並んでいます。平成9年(1997年)に改築され,小さいながらも地元の人に大切にされている様子が伝わります。この付近は丸の内の名前通り,かつては清洲城の第三郭内の地点でした。



 さらに次の細い筋を左に曲がった先の墓地の手前に元禄地蔵があります。元禄7年(1694年)の銘があるこの付近で最も古い地蔵で,右側には同じころと考えられている「南無阿弥陀仏」の石塔があります。かつては墓地への辻地蔵として建てられていましたが,昭和38年(1963年)の火事で損傷したため,昭和49年(1974年)に今のお堂が建てられて祀られ,歯痛などに御利益があるとされます。



 奥の墓地にあった正徳3年(1713年)の六地蔵や,昭和19年(1944年)の清洲飛行場建設で移動された地蔵などがすぐ裏手にまとめられています。





 「巡礼橋東」交差点に戻って,そのまま北に350mほど名鉄の線路をくぐり道なりに進み,次の信号を越えた次の細い筋を右折して進むと,約150m先の左手に日吉神社があります。社伝によると宝亀元年(771年),付近に疫病が流行したため疫病除災を祈願して建立されたといい,大同2年(807年)に橘逸勢(たちばなのはやなり)によって社殿が建立され,その後神仏習合により山王宮と呼ばれるようになり,尾張の中心清洲の総氏神として厚く崇敬をうけました。清須城代の尾張太郎左衛門尉が,天正8年(1580年)に近江坂本の日吉大社から末社21社を勧請しました。
 天文22年(1553年)には織田信長ら同族の信友を破って清須に入城する際,火起請(ひきしょう)という裁判に立ち会ったと伝わります。秀吉の母大政所はこの神社に祈願して秀吉を授かり,その縁から幼名を日吉丸と名づけたといい,のちに秀吉の正室北政所(ねね)とともに生け垣や三十六歌仙色紙などを奉納しました。また,小牧長久手の戦いの際に兵火にかかった際は,徳川家康が制札を出して安堵したといい,戦後は織田信雄が本殿や末社を建造しました。清洲城主となった松平忠吉がさらに社殿の造営を行いました。享保11年(1726年)には境内で大判など60枚が発掘され,現在でも埋蔵金伝説があります。明治に入り日吉神社と改められ,現在は厄をさり福を招く申(さる)の神社として知られるようになり,境内には多くの申のモニュメントがあります。年中行事としては5月の人形供養,8月の輪くぐり神事,怨念や苦しみをはらうために神舞を舞う11月のはきだし祭などがあります。



 境内には,大政所が日吉丸(秀吉)を授かったと伝わる子産石があり,この石に触れるとたちどころに懐妊すると伝わり,安産祈願の石として崇敬を集めます。



 また,境内の高さ5mに及ぶ大灯籠は,明治15年(1882年)に枇杷島中島の美濃路に建立されたもので,明治17年(1884年)に旧清洲町役場に移転され,昭和37年(1962年)に現在地に再移転しました。



 他にも,平成16年(2004年)の申年に奉納された巨大絵馬など見所が多くあります。



 境内北東に山王稲荷社があります。正徳3年(1713年)に尾張徳川家の吉通公が当山王宮などから分霊を勧請して名古屋古渡町(現名古屋市中区)に山王稲荷を建立しましたが,江戸時代末期にその山王稲荷から勧請して建立されたといいます。昭和28年(1953年)に境内南西から現在地に移され,平成20年(2008年)に修復工事も行われました。

中本町薬師堂
清洲1722



 西に戻って,来たやや太い道を越えて直進し,次の筋を左折したところに山神社があります。創建は不詳ですが,平成2年(1990年)に新しい社殿になり,地元の人々に大切にされている様子が伝わります。秋葉・山神・津島の各神社があり,文政3年(1820年)銘の毘沙門天像は個人のものでしたが,明治頃に合祀されたといいます。



 戻って左折し,さらに西に進むと次の交差点で美濃路に突き当たります。ここには明治29年(1896年)建立という道標があり,名古屋の米仲買人の伊藤萬蔵に寄進されました。



 道標のところを左折して美濃路を北上します。100m強先の次の細い筋を入ったところには,中本町の神明社と薬師堂があります。明治初期にともに現在地に移されたもので,神明社の方は今は伊勢,津島,秋葉の三社が祀られ三社様とも呼ばれます。薬師堂は明治期まで日吉神社の神宮堂にあった薬師如来を,明治初期の廃仏毀釈で現在地に移したもので,昭和33年(1958年)に増改築されましたが,江戸時代からの流れをくむ建物が残されてきたといいます。

久證寺
清洲1581





 美濃路に戻って50mほど進むと,左手に久證寺(真宗大谷派)があります。清照山と号し,寺伝によると本願寺教如上人が関ケ原の戦いの際に無事帰洛させるのを手助けした功から清洲6坊の1つとして袈裟が与えられ,元和6年(1620年)に本山より公認され,寛永年間(1624〜43年)に現在地に創建されたといいます。山門は文久2年(1861年)築という古いもので,それ以外の建物は濃尾地震(明治24年(1891年))で倒壊し立て直されました。五条川の拡張工事で本堂の位置が移動し,昭和62年(1987年)に鉄筋の本堂の落慶式が行われました。

ARCO清洲(清須市清洲勤労福祉会館)
清洲2537 [公式HP(外部リンク→)]



 美濃路をさらに北上して,次の「長者橋東」交差点を右折して300mほど進むと,左手にARCO清洲があります。平成7年(1995年)にオープンしたスポーツ施設で,ARCOはスペイン語で「アーチ」の意味で,公募により決められたといいます。プール棟と多目的棟からなり,プールは流水プールやウォータースライダーなどの設備を備えている公共プールであることから,地元の人たちから人気の施設になっています。



 「長者橋東」交差点に戻り,美濃路をさらに150mほど北上すると左手に上本町の天王社があります。元々五条川の堤防上にあった津島,豊受,秋葉の三社を平成3年(1991年)に現在地に移されたもので,一緒に移された天保9年(1838年)の銘の石燈籠から幕末期には鎮座していたと考えられています。

五条橋



 そのまま美濃路を進むと,清洲宿に入るための五条橋のところに来ます。平成8年(1996年)に新しい橋が完成しました。五条橋の歴史は古く室町時代に清洲が斯波氏の城下町だった時代に架橋され,大手門前にあって城中に通じる橋であったことから御城橋とも呼ばれましたが,その位置はよくわかっていません。慶長7年(1602年)に清洲城主の松平忠吉が架橋し,その欄干をかざる擬宝珠が現在も名古屋に残されています。慶長15年(1610年)の清須越しで五条橋も名古屋に移され,堀川に架かる橋になりました(現在は名古屋市西区にあり)。その後は簡単な橋に代わりましたが,清洲が美濃路の宿場として繁栄したため,新しく橋が整備されました。その後,美濃路の往来が激しくなるにしたがい,何度も改築された記録が残されています。



 五条橋の東側には,清須と武将・前田利家およびその夫人のまつに関する案内板が設けられています。





 五条橋のところを右折して美濃路を離れ,次の細い筋を左折して50mほど進むと,(田中町)御鍬社があります。織田信長が花きを愛でたという鍬をご神体にして田中町の氏神としてあがめられたといいます。神社の南には田中町工匠(大工)の宮田信義(吉兵衛)の業績をたたえた宮田君之碑があります。天保14年(1843年)の生まれといい,病院・鐘楼・橋梁に至るまで多くの工事を手掛け,清洲など西春日井郡の他知多郡や可児,下石津など一円に建築物を残し,多くの弟子も設けたといいます。神社の隣には田中町の公民館があり,安永8年(1779年)の銘の観音,大日如来,地蔵や街道沿いにあったという馬頭観音や五輪塔などが集められています。

清洲城 [有料施設]
朝日城屋敷1-1 [公式HP(外部リンク→)]











 御鍬社の先を右折して五条川沿いの道を進み.JRの高架をくぐって進みます。歩道がないので注意して歩きましょう。くぐった先右手の階段を上がって少し進むと清洲城があります。この清洲城は平成元年(1989年)に当時の清洲町の町政100周年を記念して建てられたもので,往時の清須城も想像しながら,天守閣を備えた4階建ての建物になっています。内部は清須の歴史などを学べる展示室になっており,1階は清須市周辺の歴史の概観を学べるプロローグエリア,2階は戦国時代の清須の城下町の様子の展示,3階は清須にゆかりのある武将に関する展示で,4階は周囲を一望できる展望台になっています。展望台からは名古屋駅周辺のビルまで見え,各方面の眺望が楽しめます。城の周りには,岐阜御岳石が配された石庭が設けられ,織田信長が桶狭間の戦いで勝利したころから熱田神宮に奉納したという信長塀が再現されています。
 清洲(清須)城は尾張守護の斯波義重が,応永12年(1405年)頃に守護所の下津(おりづ)城(現,稲沢市)の別邸として築き,守護代の織田氏に守らせたのが始まりで,応仁の乱を契機に文明8年(1476年)に下津城が廃され,守護所が移されたことで本格的な歴史の舞台に登場しました。弘治元年(1555年)には,清洲守護代だった織田信友を追って那古野城から織田信長が入城して居城とするようになり,永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いではここから出陣して今川義元を破り,天下統一の足掛かりとなりました。信長はその後,小牧,岐阜,安土と居城を移しますが,清洲は後方の重要拠点として長男の信忠に守らせました。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で亡くなり,その後の天下を議論する清須会議が行われたことでも知られます。こののちは信長の次男の信雄(のぶかつ)が清須を得,西岸(現在の城がある対岸)に盛り土をして天守閣などを作り,五条川の流れを利用した内堀,中堀および城下全体を囲む惣構えの外堀を設け,東西1.6km,南北2.8kmに及ぶ一大要塞を作り上げました。関ヶ原の戦い後は,徳川家康の四男松平忠吉を,その後は九男の義直を配し,西国に対する防衛拠点としました。この時期の慶長12年(1607年)訪れた朝鮮通信使は,清洲城の繁栄ぶりを「関東の巨鎮」と評しています。しかし,慶長15年(1610年)に徳川家康は名古屋城への遷府(世にいう清須越し)を命じ,城や武家から寺社,町屋に至るまで名古屋に移されました。その結果,清洲の堀が埋められ,その後は田畑・新田となり,「思いよらざる名古屋ができて花の清洲は野になろう」と唄われました。その後は,清洲は美濃路の宿場町として発展することとなります。

清洲古城跡
朝日古城448



 清洲城の前から伸びる大手橋を渡った先には,清洲ふるさとの館があります。中にはおみやげの販売所,清須市の紹介映像などのコーナーがあり,観光案内やパンフレット置き場,無料休憩所などもあるため,ウォーキングの際の中継拠点としても最適です。



 また,建物の地下1階では手作り甲冑の製作を行っている清洲甲冑工房があり,無料で見学をすることもできます。見学は一部曜日の午後のみですので,見学希望の場合は事前に問い合わせておくといいでしょう。



 清洲ふるさとの館の右側に進むと,平成8年(1996年)に行われた遺跡調査で発見された清洲城の石垣が復元されています。戦国時代に用いられた工法で石垣が組まれ,清須越し直前の本丸南側の石垣と考えられています。現在は対岸に清洲城が復元されていますが,かつてはこちら側に天守があったといいます。



 清洲ふるさとの館の左側に広がる公園は,かつて清洲城の天守があったとされる場所です。明治30年(1897年)に清洲古城保存会ができて石垣などの整備が行われ,大正11年(1922年)に清洲公園として整備され,現在の天主台跡が整備されました。



 その天主台跡には現在,信長公を祀る社が設けられています。これは昭和19年(1944年)に京都の建勲神社からお札をもらいうけて創建され,現在も6月2日の信長公命日に顕彰祭が行われます。



 天主台には,文久2年(1862年)に設けられた「清洲城墟碑」と,五条川に埋没していた清洲城塁石に刻印した明治3年(1870年)までに設けられた「右大臣織田信長公古城跡」の碑があります。

清洲公園
清洲3-7-1



 清洲古城跡からJRの線路をくぐって五条川沿いに進むと,約100m先の右手に清洲公園があります。ここもかつては清洲城の跡地として整備されましたが,明治19年(1886年)に現在のJR東海道本線が開通して分断された形になっています。境内には昭和11年(1936年)に設けられた,信長公が桶狭間の戦いの際に出陣する様子を表した信長公の像があるほか,脇には濃姫像もあり夫婦円満や恋愛のパワースポットにもなっており,信長をしのぶ多くの人たちで賑わう観光地です。



 入口には,市内の各地にあったという戦争記念碑が集められています。また,清洲古城跡にかけて春は桜の名所として知られ,桜の時期は露店も出てお花見客で賑わい,お祭も行われています。



 清洲公園から川沿いに進んだ少し先の右手には川上神社があります。かつては牛頭天王社といい,清洲越し以降にこの地に移されたと考えられています。境内にある巨石は幕末に川から引き揚げられたもので,清洲越しのときに名古屋に運ばれずに残された石垣の一部と考えられています。例祭はかつて清洲天王祭といわれ,津島天王祭と同じ日に行われ,尾張藩内ではここだけに許された花火が打ち上げられ,『尾張名所図会』にも描かれています。神社の南東隅には樹齢250年に及ぶムクロジの大樹がそびえています。

清凉寺
清洲551



 川上神社から川沿いに200m強,「五条橋西」交差点付近には,清洲古城跡を越えて進むと右手に徳順寺(真宗大谷派)があります。創建は嘉永5年(1851年)といい,明治18年(1885年)に説教所として認可され,昭和25年(1950年)に寺号を得ました。現在は,平成6年(1994年)のコンクリート製の本堂があります。明治6年(1873年)から約1年間,清洲小学校の前身の清洲義校が説教所内に開設されたといいます。





 「五条橋西」に戻って左折して美濃路を進むと,約100m先に清凉寺(曹洞宗)があります。洪福山と号し,創建は不詳ですが,かつては土田の大吉寺の西にあって正法庵と称しましたが,火災にあって寛永年間(1624〜44年)に現在地に移転し,万治年間(1658〜61年)に清凉寺と改めたといいます。本尊の聖観音は『尾張名所図会』によると伊勢白子の観音を移した子安の観音といい,奥本尊の地蔵菩薩は恵心僧都作といいかつての本尊と伝えます。山門は二階に梵鐘がかかる鐘楼門で大正3年(1914年)に改築され,地元の文化人らが奉納した25枚の絵馬が2階天井にはめられています。清凉寺付近はかつて美濃路清洲宿の中心であったため,正徳2年(1712年)以降に時に鐘が鳴らされ,清洲宿内に時を告げる役割を担っていました。幕末以降は鐘が鳴らされなくなりましたが,戦時中の供出も免れ尾張に残る時鐘としては貴重なものです。また,川上神社の別当寺として長らく清洲の花火にも関わりました。境内の本堂左手には,茶花を多くの人に教授し慕われた青松庵之碑,その後方には浄瑠璃を教えた「豊沢歌吉」の碑など3つの芸道に関する碑があり,この寺が高い文化・教養を育んできたことを伝えています。寺の前は「札の辻」と呼ばれた中心地で,前に道標が建てられていましたが,現在は交通上の理由で撤去され,清洲小学校公民館前へ移されたといいます。また入口には寛永元年(1624年)の延命地蔵があります。



 そのまま100mほど西に進むと津島神社があります。創建は不詳ですが,安政年間(1854〜60年)頃に町並みがこの付近にもできた頃に創建されたといいます。元々は東向きでしたが,整備されて南向きになり,あった池は埋め立てられて公園になりました。



 神社の前には辻堂があり,延命地蔵と道標となった石香盤があります。清凉寺の前で美濃路から八神街道(羽島市八神への道)が分かれ,その八神街道からここで甚目寺・津島方面に向かう街道の分岐点となっており,その道標として設けられました。

上畠神社(清洲神明社)
清洲2



 津島神社の右側の筋を進み,次の信号のある交差点を左折すると,清須市の清洲庁舎があります。観光情報などを手に入れる場合に活用することも可能です。







 戻って信号を越えて進むと左手に上畠神社があります。いわゆる清洲3社の1つで,垂仁天皇(1世紀頃)の頃鎮座したと伝わり,清洲神明社とも呼ばれます。最初は現在の清洲公園付近にあったものが,清洲城の築城あるいは拡張の際に城の鎮護として現在地に移されたと考えられています。その後,歴代清洲城主から寄進を受けて繁栄し,慶長3年(1598年)には豊臣秀吉が病気平癒の勅願が出たとき,当社とみられる神社があげられています。社宝には古文書のほかに寛永2年(1624年)に奉納された寛永の三筆の一人である松花堂昭乗筆の36歌仙絵馬も有名です。また,清洲花火の際の神明町の車楽が倉庫に保管されています。

清洲宿本陣跡
清洲2



 上畠八幡社からさらに東へ50mほど進むと美濃路に突当ります。ここを左折して100m弱進むと左手に清洲宿本陣跡があります。清須越しで名古屋に移転したのちは,清須は元和2年(1616年)に美濃路の宿場とされます。美濃路は東海道の宮宿(熱田宿)から中山道の垂井を結ぶ脇往還で,宮宿から桑名までの七里の渡しを避けて京・大坂と江戸を往来する人々などで賑わいました。当初は,ここよりも北の桑名町にありましたが,寛文8年(1668年)に火災で現在地付近に移されました。江戸後期には本陣,脇本陣3件,旅籠が21件あり,特に本陣は大名,公家,朝鮮通信使などの使節などが宿泊する豪壮な造りで,明治天皇も明治11年(1878年)の行幸の際にこの地で休憩され,碑が残されています。建物は明治24年(1891年)の濃尾地震で倒壊したため,その後規模を縮小して門のみが再建されたものです。都市化の波で古い建物が減りましたが,この建物が清洲宿の往時の名残を残し,当時をしのばせるものになっています。



 本陣跡の先を左折し,250mほど進んだ3本目の筋を右折すると,先に迦具豆知(かぐつち)神社があります。創建は不詳ですが,西市場地区の氏神として厚い崇敬を受けてきました。昭和4年(1929年)に現在地に移転し,境内が南向きになりました。境内にはこの西市場を明治42年(1909年)に清洲町に合併させるのに尽力した山田伊兵衛の頌徳碑があります。また,神社前の道には宝暦9年(1759年)作という石地蔵があり,横には旅人を見守った馬頭観音があります。

廻間八幡社
廻間1-3





 迦具豆知神社から戻って1つめの筋を右折して西に進み,300m強進みます。途中,県道を渡るところでは車に注意して進みましょう。すると公園の先に廻間八幡社があります。廻間村にあった八幡社と神明社,天王社が合祀されており,村の氏神として崇敬されています。社殿は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒壊後にコンクリートで作り直されたものですが,昔からの配置になっています。



 神社の右手を進むと公民館があり,横には公園が広がります。区画整理で住宅が急増し,すっかり新しい住宅地の雰囲気になりました。



 その奥には梶尾山と号する正願寺(真宗大谷派)があります。

東勝寺
廻間1-18-10



 廻間八幡社の先を左折して約100m進み,3本目の筋を左折すると,100m弱先に庚申寺(曹洞宗)があります。この先の東勝寺下の尼寺で,本尊は恵心僧都作と伝わる十一面観音で,前立には寺名の元になっている庚申がまつられています。創建は不詳ですが,江戸時代には庚申堂と言われ,明治初年(諸説あり)に火災で現在地に移され,その後東勝寺に合併します。その後分離して,昭和27年(1952年)に庚申寺となりました。





 庚申寺からさらに100m弱進むと,左手に東勝寺(曹洞宗)があります。剣留山と号し,小牧正眼寺の末寺です。天智天皇7年(668年),朝鮮新羅の僧の道行が熱田神宮から宝剣を盗み,ここまで来て道に迷い廻る間に夜が明けたために,この地に剣を留めて去ったといいます。そのため山号を剣留山,地名を廻間にしたと伝わりますが,伝説の域を出ません。天正18年(1590年)に直主座により再興され,剣留薬師と呼ばれる木造薬師如来坐像を本尊にしました。江戸初期に天台宗から曹洞宗に改宗されたといい,その後も何度か再興されました。濃尾地震(明治24年(1891年))に本堂が倒壊したのちは南向きになり,昭和63年(1988年)に現在の本堂になって境内が整備されました。

光専寺
土田北浦142





 東勝寺の前を右折して南に進み,右折した先の筋を左折して南に進むと,約100mで名鉄の線路に突き当たります。前の歩行者専用の踏切を渡って,先の左手の筋に入り,突当りを左折,右折としてさらに2筋目の神社の森を越えたところの筋を左折して100mほど進み,突当りを左折すると少し先に光専寺(真宗大谷派)があります。堤田山と号し,寺伝によると元は天台宗護国山専修院といい,今のあま市萱津にあったといい,永仁2年(1294年)に僧正玄が親鸞聖人に帰依して真宗に再興します。永正7年(1510年)に堂宇が大破したため土田堤田に移転し,その後天正年間(1573〜91年)に現在地の西に移転します。慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉討伐を行った際は,本山の教如上人の関東下向に住職が随行し,帰洛の際に当寺に宿泊した際に,現在の寺号に改名の命を受け,いわゆる清洲6坊の1つに数えられることになりました。慶長8年(1603年),清洲城主松平忠吉から現在地の土地を賜って移転,清須越の際もこの地にとどまり,寛永14年(1637年)には本山より本尊の阿弥陀如来像を賜りました。平成15年(2003年)に本堂や山門が修復され,寺域が整備されました。

土田八幡社
土田郷上切146





 光専寺から戻って東に50mほど進むと,土田八幡社があります。社伝によると,建久年中(1190〜99年)に源頼朝が上京するときにこの地で眼病の治療を受け,竹林に白鷹がいるのを見て,京都の石清水八幡宮から勧請したのが始まりといいます。慶長11年(1606年)に清須城主の松平忠吉が所領と三十六歌仙の額を寄進しました。江戸時代には,万徳寺(稲沢市)末の法幢院が社僧となって発展し,清洲3社に次ぐ扱いの神社となりました。拝殿前には延宝7年(1679年)の寄進という清洲で最古の灯籠があり,また社宝には天正9年(1581年)に寄進されたという石造狛犬,慶長11年(1606年)に松平忠吉が出したという制札があります。また,神社の東一帯は江戸時代まで存在したという真言宗放生山宝幢寺の跡地となっています。明治の廃仏毀釈で廃寺となり,寺地は畑になりましたが,歴代和尚や永禄5年(1562年)没の万徳寺大雲和尚の供養塔が残されているといいます。
 なお,この土田地区は明治以降,土田かぼちゃという高級かぼちゃの産地として知られます。愛知の三代カボチャの1つとしても知られ,かつては料亭などに多く販売されていたといいます。

大吉寺
土田郷上切7





 土田八幡社から出て正面の参道を突当りまで進んで左折し,次の筋を左折した先に大吉寺(曹洞宗)があります。冨士見山と号し,小牧の正眼寺の末寺で,創建は久寿2年(1155年)といいますが諸説あります。本尊で秘仏の大日如来像は禅宗には珍しく,一説にはこの大日如来を本尊とする天台宗大日堂があり,その後大日寺と名を改めて改宗したともいいます。永享4年(1432年)に将軍足利義教がこの地に鷹狩りに訪れた際に,当寺を参詣し,その際に富士山が見えたことから冨士見山の山号と寺領を与えられたといいます。天文15年(1546年)には火災で本尊を除き焼失しますが,天正10年(1582年)に賢悦により再興され秀吉からも所領が寄進され,慶長6年(1601年)には清洲城主の松平忠吉からも朱印状を受け,歴代尾張藩主からも保護され年賀を述べる立場になったといいます。現在の建物は濃尾地震を機に直されたもので,境内には地蔵や庚申塔,供養塔が残され,江戸時代の喚鐘や太鼓も残されているといいます。



 境内から出て,東へ進んだ街道沿いのところには珍しい六面体の六地蔵堂があります。寛保元年(1741年)の建立といい,六地蔵は六面石の上部に地蔵を刻み,下には南面だけ三界萬霊六親眷属,他の五面には男女の法名が刻まれています。土田地区には他にも色とりどりの頭巾をかぶった地蔵が祀られ,庶民信仰が感じられる場所になっています。

(土田)天神社
土田2-11-1





 六角地蔵のところを右折し,次の筋を左折します。さらに100mほど進んだ突当りを左折し,続く筋を右折すると約50m先の右手に(土田)天神社があります。祭神は菅原道真で,学問成就の社として知られます。創建は不詳ですが,寛文(1671年頃)期に土田3社(八幡・天神・神明)の1つとして記載されています。拝殿には絵天井が張られており,地元の有力者による奉納と考えられています。本社右前には天王社が昭和43年(1968年)に神明社から移されました。



 天神社から戻って東に200mほど進むと,(土田)神明社があります。旧鎌倉街道沿いにあり,いわゆる土田3社の1つです。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で本殿が倒れるなど大きな被害を受け,コンクリート造りの社殿となって様子が大きく変わりましたが,明治期の石燈籠や昭和初期の神馬像などがあって落ち着いた雰囲気になっています。かつては神明・天王・水天の3社が祀られていましたが,伊勢湾台風後の再建を機に神明・天王が1社にまとめられ,水天社は昭和41年(1966年)に西清洲に移されました。



 境内の前には,地元の人に大切にされている様子の伝わるお堂があり,千手観音と子安地蔵がまつられています。

ゴール:名鉄・新清洲駅



 神明社からさらに進み,突当りを右折して次の筋を左折します。さらに次の道を右折すると,目の前に信号がありますので,ここを左折すると新清洲駅前の商店街に戻ってきます。ここを200mほど進むと新清洲駅に戻ってきます。名鉄名古屋駅まで急行で11分ほどで戻ることができ,本数も15分間隔であるのでアクセスは便利です。

写真使用数:76

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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