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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県清須市:西枇杷島コースNISHI-BIWAJIMA

2015年5月探訪。2016年5月29日作成

【コース】 距離:約7.4km
 旧西枇杷島町北中部の枇杷島駅,下小田井駅周辺の見所をめぐります。閑静な住宅地の昔ながらの庶民信仰が感じられる社寺や祠をめぐります。

JR・枇杷島駅〜旭神社〜日之出神社〜大黒寺〜西枇杷島小学校〜砂入神社〜にしび創造センター〜宝国寺〜神明社〜西方寺〜小田井城跡(城跡公園)〜花咲公園〜小場塚弁財天〜小場塚神明社〜光円寺〜JR・枇杷島駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR・枇杷島駅



 今回は,JR東海道線の枇杷島駅がスタート駅です。普通列車のみの停車ですが,日中は1時間に4本運転され,名古屋駅の次の駅で所要は4分とアクセスは良好です。駅の開設は明治19年(1886年)に熱田から延伸して開業した清洲駅(初代)にさかのぼります。現在地に移転したのは明治39年(1906年)で,現在は東海交通事業城北線の西の終着駅にもなっています。枇杷島駅の西口から出てスタートしましょう。

日之出神社
西枇杷島町日の出23



 枇杷島駅の西口を出て左方向に進み,約200m先の「旭二丁目北」を直進して次の筋を右折し,次の突当りを左折して少し進むと左手に旭神社があります。明治40年代に創建され,元は屋根神だったといい,その後,昭和11年(1936年)に旭神社となりました。昭和31年(1956年)に現在地に移転しました。須佐之男命,日本武尊が祭神となっています。





 旭神社から200mほど,新幹線と東海道線の高架をくぐって進み,高架をくぐって2つ目の筋を右に入ったところに日之出神社があります。大正期に多くあった小さな祠をまとめて,昭和29年(1954年)頃に現在地に設けられました。祭神は木花咲耶姫命で,摂社として熱田,津島,秋葉,金刀比羅の各社があります。





 右折前に戻ってそのまま東に進み,県道に突き当たったら右折します。この先にかかっている西枇杷島歩道橋は,交通量の多い道路から学校に通う児童を守るために昭和34年(1959年)に日本で始めて設けられた歩道橋として知られ,案内板も設けられています。老朽化した橋は平成22年(2010年)に架け替えられましたが,古い橋は名古屋大学に保管されているといいます。

西枇杷島小学校
西枇杷島町住吉1



 西枇杷島歩道橋のところの交差点を右折して100mほど進むと,右手に西枇杷島小学校があります。



 校庭にあるクロガネモチ[市天然]は,大正4年(1915年)に学校が現在地に移されて以来,ずっと児童たちを見守ってきました。創立80年を記念して,当時の西枇杷島町の天然記念物に指定されました。



 また,校内の東側,体育館の南側には旧枇杷島小橋橋柱[市文化]があります。この南を通っていた美濃路にかかる枇杷島橋は,かつて中島という島とはさんで大橋と小橋に分かれており,この標柱は明治20年(1987年)に小橋の標柱として建てられました。井村常山の書で,彫刻は梅吉と記録されています。その後,大正元年(1912年)に枇杷島橋が架け替えられた際に,当時中島にあった郡役所に標柱が移され,その後中小田井の旧家に庭石として保管されていましたが,平成5年(1993年)に現在地に移されました。また,明治28年(1895年)に作られた前身となる二松学校校名額[市文化]が教育委員会に保存され,文部大臣を務めた井上毅の筆といいます。



 小学校の先の「西枇小学校北」交差点で道路の左側に渡り,50m先の左手に大黒寺(日蓮宗)があります。安永年間(1772〜81)に枇杷島橋がかけられた中島に創建され,当初は大黒堂といいましたが,昭和17年(1942年)に現在の寺号となりました。その後,中島が取り壊された昭和27年(1952年)に現在地に移されています。境内には江戸時代からあるという宝塔があり,当初は枇杷島大橋と小橋の間に設けられたものといわれています。



 「西枇小学校北」交差点に戻り,学校の左側に入る筋を進み,100m先の次の筋を右折すると,約100m先ににしびさわやかプラザがあります。勤労福祉会館と保健センターを備えた複合施設で,スポーツ施設や研修室などが備えられています。

砂入神社
西枇杷島町砂入37





 にしびさわやかプラザの先の交差点を左折し,次の交差点を右折するとすぐに砂入神社があります。昭和4年(1929年)頃,付近にあった小さな社を集めて創建されたといい,当初は少し東にありましたが,昭和9年(1934年)に現在地に移されました。天照大神,日本武尊が祭神になっていて,摂社に津島社・秋葉社があります。



 戻ってそのまま北に300mほど進んだ4本目の筋を右折すると,やがて左手に弁天寺(曹洞宗)があります。享保12年(1727年)に名古屋城内に祀られたのが起源といい,その後,南外堀町(現名古屋市中区),長久寺(現同市東区)を経て,枇杷島橋のあった中島に安置されました。本尊の弁財天はこのときに庄内川から漂着したものと伝わっています。明治24年(1891年)の濃尾地震で堂宇が倒壊したため郡役所楼上に仮安置され,明治33年(1900年)に高照寺に移され,大正12年(1923年)に再び中島に堂宇が建立されて移されました。その後,中島の撤去に伴って昭和26年(1951年)に現在地に移されました。境内には,中島に会った当時からのものという八大龍王と,昭和38年(1963年)頃寄進されたという延命地蔵尊があるといいます。

にしび創造センター
西枇杷島町小田井1-12-1



 弁天寺の先,歩行者用の踏切を渡って約100m進み,突当りを左折して,100m強進んだ左手には,郷新町の祠と地蔵堂があります。祠は尾張五社(津島・真清田・国府宮・大県・針綱)が祀られ,地蔵堂には嘉永7年(1854年)創建という地蔵尊が祀られ,8月24日の地蔵盆には行事が行われます。



 その先の交差点を左折して少し進むと右手に上新公園が見えてきます。子ども向けの野球場やテニスコートも整備されている大きな公園で,ウォーキングの拠点になります。



 公園の手前の交差点を右折し,その先を左折して進むと,100m弱先に名鉄犬山線の下小田井駅があります。普通列車のみの停車ですが,15分おきに発車し,名鉄名古屋駅まで7分ですので,中継地点として活用しましょう。



 駅手前の筋を右折し,線路沿いに北に200mほど進むと右手ににしび創造センターがあります。集会室やホールなどのほか,天体観測室も備えた市民の憩いの場になっており,地域のイベントなども行われます。

宝国寺
西枇杷島町小田井1-7-2



 にしび創造センターの前の筋を右折し150m先の突当りを右折し,続く筋を左折すると,100m弱先の左手に宝国寺(浄土宗西山派)があります。亀岳山と号し,創建は不詳ですが,もと天台・真言・三論・浄土の4宗派の兼学の地であったといい,古くは北の中小田井(名古屋市西区)にあったといいます。その後,長享2年(1488年)に織田家の武運長久を願って再建されたといい,その後小田井城の築城に際して現在地に移されたといいますが,諸説あります。その後,弘治元年(1555年)に開山されたといいます。かつては法国寺と表しましたが(明応4年(1459年)の棟札には法国寺とあります),いつのころか宝国寺になったといいます。江戸時代には,徳川家が浄土宗に帰依していたこともあり,尾張徳川家の藩祖義直以来,歴代藩主が鷹狩りを行った際の休憩所に使われたといい,明治初期には西春日井郡役所がおかれました。本尊は阿弥陀如来の木像で,寺宝には中将姫(藤原豊成の女で奈良当麻寺にゆかりがある)の生髪で刺繍されたという髪繍阿弥陀如来像[市文化]があり,鎌倉時代の作で織田氏が寄進したと伝えられています。その他にも仏像など多数の寺宝を有し,昔からの伝承も多い古刹です。境内には文政2年(1819年)に建立された柳谷観音をまつる観音堂や,稲荷大明神,鎮守堂などがあります。



 さらに東に進むと庄内川の堤防があり,ここから庄内川の眺めもなかなかのものです。



 戻って先の筋を右折して北に進み,100m弱先の左手に浄安院(浄土宗鎮西派)の入り口があります。明治31年(1898年)に渡辺安兵衛によって創始されたといい,本尊は木造の阿弥陀如来です。現在は善応寺(稲沢市片原一色)の住職が兼務しています。



 先の交差点を右折して,その先の突当りの右側に河原の2つの祠と地蔵堂があります。祠左手には尾張五社が,右手には秋葉神社がまつられ,地蔵堂の地蔵尊は天明2年(1782年)の建立といい,天明の飢饉の救済を願って建立したといいます。



 突当りを右折して,100mほど進んだ国道22号線の高架の手前右手に念仏寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。天保3年(1832年)に設けられた庵が始まりといい,昭和5年(1930年)に現在地の少し北に,その後国道22号線の整備で現在地に移りました。

神明社
西枇杷島町小田井2-9-12





 そのまま100mほど,国道22号線の高架をくぐって進むと突当りに神明社があります。小田井城主の織田久孝が永正年中(1504〜21)に伊勢の内宮を勧請して創建したといい,小田井城廃城の跡は下小田井村の鎮守神として地域の人々に信仰を受けてきました。大正元年(1912年)に町屋社が,同2年には熊本社が合祀され,境内末社に秋葉社,多賀社,須原社があります。また,境内は西方寺に親鸞聖人が訪れた際に,説教を行った跡地とも伝わっています。最古のものは慶長17年(1612年)の棟札があり,慶応3年(1867年)に起こった「ええじゃないか」を物語る棟札もあります。



 神明社から出て左手に進んで東へ進み,次の交差点を先左手には市場の祠と地蔵堂があります。祠は尾張五社がまつられており,地蔵尊は天保12年(1841年)に飢饉で疫病が流行した際に救済を祈願して建立されたものといいます。



 その隣には阿弥陀寺(浄土宗鎮西派)があります。天明5年(1785年)に春日井大泉寺の退休寺の庚申堂を移して創建されたといい,荒寺となっていましたが,昭和初期に再興されたといいます。

西方寺
西枇杷島町小田井3-11-1



 市場の祠のところを左折して北に進み,200m強進んだ3本目の筋のところに町屋の祠があります。ここも尾張五社の伊勢神宮が祀られています。







 祠のところを左折して,50mほど先の右手に西方寺(真宗大谷派)があります。渡河山と号し,創建は不詳ですが元は天台宗だったといい現在の小田井城跡にあったといいます。寺伝によると貞享元年(1232年)に叡山の竹林房静厳僧都の法弟であった玄理が,親鸞聖人が関東から帰京する際にこの地に迎えて真宗に帰依し,覚証という法号が与えられたといいます。覚証らは瀬部七門徒の1人として親鸞聖人の木曽川渡渉に尽力したといい,その由縁で山号を渡河山にしたといいます。その後,永禄8年(1565年)に小田井城が築城された際に現在地に移され,その後明治24年(1891年)の濃尾地震で山門を残して倒壊したため,大正9年(1920年)に再建されました。東と南の入り口には「親鸞聖人御舊蹟」の石碑がそれぞれあり,前者は文政期(1819年),後者は嘉永元年(1848年)のもので,山門も江戸期のものといいます。本尊は木造阿弥陀如来立像です。親鸞聖人の旧跡として寺宝も多く,天台宗時代の本尊と伝えられる三尊釈迦如来像[市文化]は中国宗時代の作といい,鎌倉時代の芸術にも影響を与えた宗仏画の1つといい,近年は「阿弥陀三尊来迎図」とする説もあるといいます。また,光明本尊像[市文化]は室町時代初期のものといい,保存状態が良好な貴重な作品です。中央に「南无不可思議光仏」という光明本尊が配され,左右に大悲釈迦如来,大慈阿弥陀如来が配されているといいます。これらを含めた寺宝は,毎年8月24日の虫干し時に拝観が可能といいます。また,昭和21年(1946年)に完成した棟方志功による18面の大襖絵なども有名で,現在は名古屋市美術館に寄託されています。また,親鸞聖人が当寺を去る際に植えられ,750年余りの命を保っている百合があるといいます。

小田井城跡(城跡公園)
西枇杷島町小田井2-8



 西方寺の先約50mの次の筋を左折し,約150m進んだ右手に城跡公園があり,公園内に小田井城跡の碑が建てられています。小田井城は,もと西方寺があった場所に文明13年(1481年)に織田大和守俊定が築城したと伝わり,その弟の久孝が初代の城主になったといいます。後,天正8年(1580年)頃,城主だった織田忠辰が羽柴秀吉に追われ,廃城になりました。元々,城跡の碑が現在の古城交差点付近にありましたが,道路工事で現在地に移されたといいます。現在も,この付近には古城,城前,馬留などの地名が残り,城があったことを物語ります。元は高さ3mほどの台地があったといい,台地の北から西を回って南にかけて帯状の環濠跡が残されていました。





 公園の北東と南西にはそれぞれ祠と地蔵尊があり,祠は尾張五社や秋葉神社などが,地蔵尊は北東のものは明治14年(1881年),南西のものは天明2年(1782年)の建立といい,昭和46年(1971年)の区画整理で現在地に移されました。8月24日には地蔵盆も行われるなど,地域の人々に大切にされています。

花咲公園
西枇杷島町花咲84



 城跡公園の南側から出て右折し約100m,名鉄の踏切を渡って2本目の筋を左折し,そのまま500mほど進みます。進んだ付近は,下小田井駅西側で昔ながらの街道沿いの商店が立ち並びます。



 左手に下小田井駅がある交差点から,さらに2筋先を右折し100mほど進むと右手に大和神社があります。創建は昭和26年(1951年)といい,祭神は天照大神,摂社に津島,秋葉各神社があります。昭和51年(1976年)に現在の社殿になりました。





 50m強先の突当りを左折し,続く信号のある交差点を右折して100m強進むと,右手に花咲公園があります。西枇杷島庁舎に隣接する公園で,公園内には『恋待白菊』の琵琶のモニュメントが建てられています。治承3年(1179年)に平清盛によって井戸田(名古屋市瑞穂区)に配流された前太政大臣の藤原師長は,土地の豪族の娘と恋仲になりました。翌々年に許されて京都に戻る際,娘は別れを惜しみ,土師野の里(新川町)までついていきましたが,師長はふびんに思い,自分の持っていた「白菊」の琵琶と守り本尊の弁財天を娘に渡しました。しかし娘はこの世をはかなんで近くの池に身を投げてしまったといいます。この白菊の琵琶伝説にちなんで,彫刻家の流政之氏によって設けられたのがこの琵琶のモニュメントといい,平成元年(1989年)の世界デザイン博にも出展され,その後現在地に移されました。



 花咲公園の東側から出て左側に進み,次の筋を左折すると左手に西枇杷島庁舎があります。合併前の西枇杷島町役場で,地域の行政拠点になっています。

小場塚弁財天(市寸島社)
西枇杷島町宮前2-56



 西枇杷島庁舎から約100m先の分岐を細い左の路地に入り,突当りを右折して続いて左折します。工場の横を200mほど進み次の筋を左折して,100m先の水路の左側の道へと左折し,そのまま100m強進むと,県道をくぐった先に小場塚弁財天があります。治承4年(1180年)に藤原師長が帰京する際に,恋仲になった井戸田の豪族の娘が土師野の近くの池に身を投げました。その後,娘を弔うために姨(おば)塚という塚を立てて弁財天を勧請したのがはじまりといいます。かつては琵琶塚弁財天または小場塚弁財天と称しましたが,明治11年(1878年)に市寸島社と称するようになりました。毎年5月第1日曜日に例祭が行われています。社宝に琵琶塚弁財天縁起版木[市文化]があり,これは嘉永7年(1854年)の神社の再建のおりに,神社の由来を琵琶悲恋物語と共に記述して説明したもので,この地域の人々によって大切に保管されています。





 市寸島社の横の宮前公園を抜けて,南東側の出口から出て右に進み,次の筋を左折したところに小場塚神明社があります。慶安5年(1652年)の創建といい,かつては少し南西にありましたが,東海道新幹線の建設にともなって昭和38年(1963年)に現在地に移されました。祭神は天照大神で,摂社に津島社,末社に秋葉社があります。



 神明社の先の筋を右折し,200mほど進んで東海道線と新幹線の高架をくぐると右手に光円寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。明治17年(1884年)に阿弥陀堂として建立され,昭和17年(1942年)に現在の寺号になりました。



 光円寺の先の交差点を右折して少し先の右手に,小場塚の地蔵堂があります。西に地蔵尊,東に観音さまと2体の像を収めており,創建は前者が安永3年(1774),後者が寛政2年(1790年)と刻まれます。最近は歯痛に利益があるといい参詣者を集めます。

ゴール:JR・枇杷島駅

 戻って300mほど東方向に進むと,左手にスタートしたJR枇杷島駅の西口が見えてきます。JR東海道線を利用して,行きに来た方法で戻りましょう。

写真使用数:44

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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