本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県蟹江町:蟹江中央コースKANIE CENTRAL

2015年7月探訪。2016年11月16日作成

【コース】 距離:約4.9km
 町東部の蟹江川周辺の寺社・文化財をめぐります。蟹江町の中心部に当たる場所で,昔ながらの水郷風景や歴史,商店街での買い物も楽しめます。

近鉄・蟹江駅〜山口家住宅〜銭洗弁財天〜甘強酒造〜西光寺〜安楽寺〜蟹江神明社〜盛泉寺〜法応寺〜みちくさの駅楽人〜日吉神社〜観音寺〜宝蓮寺〜三明神社〜地蔵寺〜蟹江城址〜蟹江歴史民俗資料館〜蟹江一番街〜近鉄・蟹江駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:近鉄・蟹江駅



 今回は近鉄名古屋線の近鉄蟹江駅がスタートです。近鉄の急行と準急も停車し,これなら名古屋駅からノンストップで到着することができ,約9分で着くことができます。本数は1時間に4〜5本程度運転されていますので,アクセスは便利です。なお,JR関西線の蟹江駅とは少し離れた位置にありますので,注意しましょう。近鉄蟹江駅の開業は,昭和13年(1938年)に関西急行電鉄の桑名〜名古屋間が開業し,名古屋駅への乗り入れが実現して以来のもので,現在はJR蟹江駅よりも圧倒的に乗降客も多く,蟹江町の中心駅となっています。

山口家住宅
城4-215





 近鉄蟹江駅周辺は繁華街になっており,北方向と西方向に商店街が伸びています。駅西には大きな「尾張温泉」の看板もあり,温泉地の印象も受けます。駅から銀行の前の道を西へ進んでいくと,西方向に伸びる近鉄蟹江駅前通り商店街に入っていきます。地元のお店が入っていていますので,のぞいてみてもおもしろいでしょう。



 商店街をそのまま西へ200mほど進み,県道103号線に突き当たったら右に進むと,すぐ先の左手に山口家住宅[国登録]があります。江戸中期〜後期の建築で,「四つ建」と呼ばれる尾張地方伝統の構造を持つ貴重な建物で,蟹江町唯一の茅葺屋根を持ち,門も前庭の植栽ともマッチする趣きある玄関になっています。山口家は江戸時代には蟹江本町地区の惣庄屋を努めた家柄だといいます。

銭洗弁財天 富吉神社
城4-67



 近鉄蟹江駅前通り商店街に戻ってさらに西に進むと,すぐのところに火防の神様を祀る秋葉神社があります。



 さらに50mほどで右手に銭洗弁財天富吉神社があります。室町時代の永享年間(1429〜1441)に,北条平八郎が蟹江城を築く際に,鎌倉から銭洗弁天を勘定して創建したといいます。黄金の井戸銭洗いを作り,その浄水で軍資金を洗い,その福徳で蟹江城を築城したと伝わっています。蟹江合戦にて蟹江城が落城したのちは,この付近にあった海門寺大池の池の主として鎮座していましたが,昭和39年(1964年)に池を埋め立てることになり,現在の神社として富吉大龍神が祀られるようになりました。現在も金運上昇・商売繁盛を求めて多くの人が参拝に訪れます。境内には蟹江城の歴代城主の菩提を弔う供養塔が立っています。

甘強(かんきょう)酒造
城4-1 [公式HP(外部リンク→)]



 富吉神社から先の蟹江川にかかる橋の手前を右折します。川の対岸の堤防には,蟹江町内の小中学校などで作成された壁画が飾られています。





 そのまま川沿いに100mほど進むと右手に甘強酒造があります。文久2年(1862年)に山田平八が創業したという老舗で,昭和10年(1935年)に現在の社名に組織され,甘強みりんなどのブランドでみりんの販売を行い,高級みりんとして知られています。昭和29年(1954年)からは清酒四天王の販売も行っています。昭和12年(1937年)築の昭和初期として珍しいRC造3階建ての旧本社事務所,明治10年(1877年)頃の建築で明治から大正にかけて増改築された工場,大正12年(1923年)の建築で当時の面影を今に伝える住宅主屋住宅土蔵[ともに国登録]など古くからの貴重な建物が残り,蟹江川の水運を利用した昔ながらの水郷風景を今に伝えるものです。蔵開放のイベント時には一部内部の見学もできるようです。

西光寺
城2-93





 甘強酒造の先2本目の筋を右折し,さらにその先を左折して150mほど進んだ突当りを左に入ると,すぐに西光寺(真宗大谷派)があります。蟹江城の南にあったことから城南山と号し,寺伝によると元は天台宗の寺院でしたが,嘉禎元年(1235年)に親鸞聖人が関東からの帰国の途中に,萱津(現,あま市)で草堂を結んで滞留した際に当時の住職覚全が帰依して真宗に改めたといいます。永禄2年(1559年)に織田信長によって堂塔を焼かれますが,長島や石山本願寺の籠城などで活躍したという西円によって天正10年(1582年)に再建されたといいますが諸説あります。寺宝には本願寺11世顕如上人の裏書のある「方便法身尊形(阿弥陀如来画像)」などがあり,歴史の古さを物語っています。境内も古くからの山門や鐘楼堂などがあり,蟹江城主の佐久間家の紋章が彫られた屋根瓦などが残っているといいます。

安楽寺
城2-86



 西光寺から西に少し進むと安楽寺(真言宗智山派)があります。東照山と号し,創建は不詳ですが,天暦年中(947〜56)に七堂伽藍が整備されたという伝説があります。蟹江城主の帰依も厚かったといいますが,天正12年(1584年)の蟹江合戦で焼失し,その後慶安3年(1650年)に現在地に薬師堂と庫裡が再建され,明和5年(1768年)に秋葉堂が移されたといいます。その後明治24年(1891年)の濃尾地震で大破しましたが,明治33年(1900年)に再建されました。本尊の木造薬師如来坐像[町文化]は弘法大師が熱田神宮に参詣した際,蟹江の浜辺に打ち上げられた茶の木を刻んで作ったといい,地元では「茶の木薬師」として厚い信仰を受けています。

蟹江神明社
城2-84



 安楽寺の西側には蟹江神明社があります。永享年間(1429〜40)に北条時任が蟹江城を築城した際に,城の南の守護神として清洲の御園神明社から勧請して創建したと伝えられています。天正12年(1584年)の蟹江合戦と翌年の地震で大破しましたが,元和5年(1619年)に社殿の再興が行われたといい,正徳4年(1714年)には尾張藩主徳川継友の命で社殿の修理が行われたと記録され,享保2年(1717年)には神明社の祭りを名古屋に招き,豪華な馬具で飾った「馬の塔」や華麗な衣装の「馬おどり」が行われたといいます。現在は9月の最終土日に神事が行われ,祭屋台や祭囃子が奉納され,その後蟹江本町の各地に巡行して賑わいます。

盛泉寺
蟹江本町川西63



 蟹江神明社の先の昇平橋を渡った先には,いな饅頭の元祖の店として知られる「いなまん」があります。出世魚と言われるボラの幼魚であるイナを用いた郷土料理として知られ,130年近い歴史を持つといいます。





 ここを右折すると,すぐ先に盛泉寺(真宗大谷派)があります。かつての所在地から市場山と号し,明応6年(1497年)に本願寺蓮如上人の実子である蓮芸によって現在の蟹江新田下市場に開基し,慶長年中(1596〜1615)に火災により現在地に移されました。7代目住職の祐玄は京都や大阪,名古屋の真宗寺院を作り,現在の名古屋別院の基礎となり,元禄4年(1691年)の記録では名古屋別院の代役として宗門改めなどを行っていたといい,名古屋別院の元は盛泉寺にありとも伝わっているといいます。寺宝には本願寺11世顕如上人から天正9年(1581年)に賜ったという方便法身尊形(阿弥陀如来画像),顕如の長子教如から慶長9年(1604年)に賜ったという三朝高祖真影と聖徳太子真影などがあります。境内には歴史を感じさせる建物や風情ある大きな槙の木があり,情緒を感じさせます。

法応寺
蟹江本町川西61









 盛泉寺の先の左手には法応寺(浄土宗西山派)があります。海辺山と号し,寺伝によると永享年間(1429〜40)に蟹江城築城の際に清洲から蟹江に移され,当初は現在の学戸3丁目にありましたが,享徳3年(1454年)に現在地に移されたといいます(記録が焼失しているため諸説あります)。天正12年(1584年)の蟹江合戦で焼失し,天正14年(1586年)に再建されましたが,明治21年(1888年)の火災で山門や秋葉堂,隠居所を残して古文書類などもすべて焼失し,さらに明治24年(1891年)の濃尾地震でも被害を受けました。現在の寺は明治35年(1902年)に再建されたものです。境内の鐘楼は宝永4年(1707年)の歴史あるもので,梵鐘は戦中に国策で供出されたため,昭和24年(1949年)に鋳造されたものです。また,昭和19年(1944年)に名古屋の学童疎開を受け入れたことでも知られます。鐘楼前には観音堂があり,奥には秋葉守護堂があります。また境内は桜の名所としても知られ,季節になるとライトアップも行われるそうです。

まちなか交流センター みちくさの駅楽人
学戸4-67



 法応寺の先2本目の筋を左折して50mほど進むと新町公民館があり,ここの前には蟹江新町の地名の由来の案内板があります。蟹江新町は先ほどめぐった蟹江本町に続く小村で,漁業を生業に生活してする人が多かったといいます。ここには江戸時代から伝わる尾張農村部の民俗芸能である蟹江新町日吉神楽[町民俗]の案内板もあり,金箔の神楽屋台には文政8年(1825年),白木の屋台には文政10年(1827年)の銘があります。一時期中断した時期もありますが,日吉神社の秋の祭礼で奉納されます。





 さらに200mほど進んだ「蟹江町役場北」交差点の南西には,まちなか交流センターみちくさの駅楽人があります。平成22年(2010年)に開設された交流拠点で,地域のサークル活動などイベントが行われています。また,観光客向けのパンフレットの配布や,蟹江町のマスコットかに丸くん関連のグッズも販売し,休憩場所や地域の人々との交流の場としても活用することができます。ウォーキングの中継地点に利用しましょう。



 なお,この南には蟹江町役場があり,町の情報を手に入れることができます。

日吉神社
学戸2-62



 「蟹江町役場北」交差点から北に進むとすぐ右手に日吉神社があります。創建は不詳ですが江戸時代以前の創建といい,江戸時代には山王社と呼ばれて白山社が併置されていました。明治初期に大津市坂本の本社が「日吉山王」が「日吉神社」に改めたのにならって,この神社も日吉神社に改められたといいます。平成6年(1994年)に区画整理事業に伴って現在地に移り,社殿が新しくなりました。毎年蟹江神明社の例祭と同じ9月最終土日曜日に例祭が行われ,前述した蟹江新町日吉神楽などが奉納されます。

観音寺
今西1-204-1



 日吉神社の西側から200mほど北上した「東河原」の交差点を右折し,150m強進んだ2本目の筋を左折すると左手に観音寺(真言宗智山派)があります。海王山と号し,創建は不詳ですが永正15年(1518年),寛永8年(1631年)などの説があります。明治33年(1900年)以降は尼僧寺になっており,明治44年(1911年)に高野山真言宗から現在の宗派に転派したといいます。

宝蓮寺
今西1-187





 観音寺から50mほど進んだ突当りを左折した先に宝蓮寺(真宗大谷派)があります。千葉山と号し,織田信長の家臣江松左衛門の二男である玄勝が,京都二条の天台宗宝蓮寺を教如上人に帰依して改宗し,慶長2年(1597年)に江松村(現在の名古屋市中川区)に移転したのが始まりといい,寛永8年(1631年)に江松村に随縁寺という末寺を残して移転したといいます。寺宝には寺の歴史を知ることもできる慶長5年(1600年)銘の教如が下附したという親鸞上人御影などがあります。

三明神社
今川東上109



 宝蓮寺から東方向に戻り,100m強進んで今橋を渡って2本目の筋を左折した先に三明神社があります。創建は不詳ですが,慶長9年(1604年)に再修造されたといい,3つの明神が祭神であることから三明神社と呼ばれるといいます。この付近にあった今村の鎮守神として勧請されたと考えられています。

地蔵寺
蟹江新町上之割31





 今橋まで戻って,橋の西側の堤防下の筋まで戻って左折し,そのまま南下して200mほど県道の下のトンネルをくぐって進みます。突当りを左折し,続いて右折して川沿いに出た先には地蔵寺(真言宗智山派)があります。浮島山と号し,天文9年(1540年)に蟹江城主渡辺源十郎の祈願所として創建されました。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに続く蟹江合戦にて堂塔伽藍が焼失しましたが,その際にも本尊の地蔵菩薩は難を逃れ,火伏地蔵として崇敬されています。また寺宝には中国宋風に描かれる絹本著色文殊菩薩画像[県文化],大和絵の秀作として知られる絹本著色千手観音画像[県文化]があり,ともに鎌倉〜室町初期の製作といいます。毎年12月6日には本尊の火伏地蔵の前で護摩を焚き,素足で行者が火渡りを行って火難消除と家内安全を祈願する火渡り神事が行われます。蟹江ではこの地蔵の利益で400年間一度も火災がなかったと信じられており,地域からの信仰があつい仏事です。



 地蔵寺の先の筋を右折し続く筋を右折して50m弱進むと,右手に晴明塚があります。陰陽師として知られる安倍晴明がこの地を訪れた際に火伏を行った場所といい,その際に用いた法螺貝が埋葬されているとも伝えられています。

蟹江城址公園
城1-109



 蟹江川沿いの道に戻って,南にある城新橋を渡り,左折して100m弱先の筋を蟹江城址公園の案内板にしたがって右折すると,約100mで蟹江城本丸井戸跡があります。蟹江城が廃城になった後に,その存在を示す唯一残る遺構として伝えられており,江戸時代の天保絵地図にも記載があるといいます。



 さらに進んだ先には蟹江城址公園があり,「蟹江城址」の石碑が建てられています。蟹江城は永享年間(1429〜41)に北条時任が築城したといい,戦国時代は伊勢湾交通上の要衝として,また長島一向一揆に対抗する拠点として重要な役割を果たしました。この当時は本丸,二の丸,三の丸の3つの郭を持って3重の堀で囲まれ,海側に大手門が設けられるなどユニークな造りを持っていたといい,大野城・下之一色城・前田城の3つの支城を持っていたといいます。天正12年(1584年)に豊臣秀吉と徳川家康らによる後継者争いで蟹江合戦が起こり,秀吉方の滝川一益・九鬼嘉隆らが一時蟹江城とその支城を奪いましたが,家康方が出陣して城を奪い返し,勝利に終わったと伝わっています。城はその翌年に起きた天正地震によって大破し,その後廃城となりました。江戸時代に入ると蟹江港を中心として蟹江は佐屋代官所の支配下となって商業都市として発展し,城の遺構は失われてかつての遺構は本丸井戸跡が残るのみとなりました。現在建てられている碑は大正4年(1915年)に建てられたもので,平成24年(2012年)に城跡公園が整備された際に現在地に移されました。

蟹江歴史民俗資料館
城1-214





 蟹江城址公園から東に進んで道なりに左折して100mほど進んだ先に蟹江産業文化会館があり,隣接して蟹江歴史民俗資料館があります。なお資料館には隣接する産業文化会館から入るようになっています。蟹江町の歴史や民俗に関する展示が豊富で,中世から近世にかけての蟹江での暮らしの様子や,戦国時代の蟹江合戦に関する資料,水郷地帯の暮らしの用具や須成祭や蟹江祭の資料,伊勢湾台風以前までは盛んだった漁業に関する展示などを見学でき,蟹江町を巡る際にはぜひ立ち寄りたい場所になっています。また,蟹江町で生まれた探偵小説家である小酒井不木(1890〜1929)に関する展示が設けられており,小酒井不木全集などの作品や直筆原稿,自身が設立した「ねんげ句会」の活動で残した俳句や,江戸川乱歩との交友を示す手紙などがあります。



 資料館の館外には不木碑があり,これは昭和36年(1961年)の33回忌の際に名古屋八事霊園に設けられたものが,平成21年(2009年)に遺族の厚意により移されたものといいます。資料館では産業文化会館の展示スペースと合わせて特別展や企画展なども行われ,イベントなども開催されます。

蟹江一番街
本町9-160(一番街まちの駅) [公式HP(外部リンク→)]



 資料館からそのまま50mほど北上して県道29号線に突き当たったら右折して200m強進んだ左手にあるおつけもの若菜[公式HP(外部リンク→)]は,文政11年(1828年)に創業した料亭得月楼に起源をもつ老舗で,各地の百貨店や東京銀座にもお店のある著名な漬物店です。



 さらに先の「蟹江本町」交差点を右折して南下すると,蟹江一番街の商店街に入ります。昔ながらの飲食店やスーパーなどがあり,買い物を楽しむことができます。400mほど進んだ右手にはパンドリーノというパン屋がありますが,このお店は近年「パンのまち蟹江」で宣伝しているお店の1つとして知られます。



 さらに100m弱先の左手にはまちの駅一番街があり,各種の学習講座やイベントも行われ,直売所になったり,買い物の際の無料休憩所になったりと住民の憩いの場になっています。様々なお店に立ち寄って,住民目線で色々と感じるのもおもしろいかもしれません。

ゴール:近鉄・蟹江駅

 さらに300mほど進むと近鉄の線路に突当り,ここを左に進むと近鉄蟹江駅に戻ってきます。名古屋駅まで急行・準急を使えば所要は10分で,1時間に5本程度運転されているので,楽に戻ることができます。


写真使用数:40

←前:須成・西之森コース / 愛知県蟹江町 / 次:尾張温泉コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>