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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県稲沢市:国分寺コースKOKUBUNJI TEMPLE

2018年6月探訪。2018年6月8日作成

【コース】 距離:約10.8km
 明治地区南部,矢合観音や国分寺などの社寺と植木センター,尾張国分寺跡などをめぐります。古代尾張の中心は文化財の宝庫にもなっています。

≪コース≫ 名鉄バス・矢合観音バス停〜矢合観音〜安楽寺〜日吉神社〜法華寺〜法円寺〜塩江神社〜善応寺〜荘厳寺〜大福寺〜正楽寺跡〜愛知県植木センター〜尾張国分寺跡〜鈴置神社〜平和の塔〜円光寺〜国分寺〜名鉄バス・矢合観音バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄バス・矢合観音バス停



 スタートは名鉄バス(稲沢市コミュニティバス)の稲沢中央線の終点である矢合観音バス停です。名鉄国府宮駅から名鉄バスを利用して約15分で行くことができます。本数は1時間に1本程度なので、あらかじめ時刻を調べてから利用するといいでしょう。国府宮駅からは稲沢市コミュニティバスの平和線(平和町経由勝幡行)を利用しても来ることができ,この場合は下車バス停が「矢合観音北」になります。ただし本数は1日4本で休日は運休となります。

矢合観音
矢合町三島前2664 [公式HP(外部リンク→)]







 矢合観音バス停から横断歩道を渡り,矢合観音に向かう参道を進みます。この参道の入り口や周辺には飲食店や土産店,植木などを販売する花屋などが並び,昔ながらの門前の雰囲気を感じられます。







 参道を100mほど進んだ右手に矢合観音(臨済宗妙心寺派)があります。元々は寺ではなく,橋本家にて代々奉祀されてきた十一面観音が,様々な病気の平癒に御利益があると近隣に伝わったことから多くの参詣者を集めるようになったといいます。観音の由来には様々な説がありますが,尾張藩の学者細野要斎の随筆「感興漫筆」によると18世紀中ごろに円興寺(現、国分寺)から橋本家に贈られたという説が有力です。当初は乳の病,指の痛みのみ祈念していましたが,後に諸病全快も祈念されるようになったといいます。境内の井戸から涌く水は,仏前に供えて祈祷を受け,患部に塗ったり飲んだりすると病気平癒に霊験があるとされています。毎月18日は観音の縁日で,周辺に植木の露店も出て特に賑わうといいます。





 矢合観音の西側の筋に出た左手には三島社があります。この付近には昔ながらの観音や地蔵が祀られ,昔ながらの信仰の地であることをうかがわせます。

安楽寺
船橋町観音寺30





 矢合観音の西の筋を200mほど北上して三宅川を渡った先を左折します。この付近では三宅川沿いののどかな風景を楽しめます。三宅川を渡った先を左折したところに三宅川治水神社があります。三宅川の氾濫を抑えるために改良工事が終了した後の昭和12年(1937年)設けられた神社といいます。







 三宅川治水神社から名所となっている桜並木を抜けて北上した先に安楽寺(臨済宗妙心寺派)があります。大悲山と号し,天平13年(741年)に尾張国分寺が建立された際に,周囲に平楽寺・正楽寺・長楽寺・安楽寺の4楽寺が設けられたといい,そこからの歴史を有する由緒ある寺院と考えられます。往古は観音寺という天台宗の寺院で,国分寺の支院だったといいますが,室町時代に妙興寺(一宮市)の末寺となって臨済宗に転派したといいます。桜並木から北上したところの仏殿には貴重な仏像が収められています。本尊の木造十一面観音[国重文]は一木造の平安末期の作品で,目鼻だちがやさしく童顔をつくる様やおだやかな彫り口の衣文が特徴といいます。木造阿弥陀如来坐像[国重文]はヒノキの寄木造で平安末の定朝風と呼ばれる作風にならったものですが,地方作的な特色も持つといいます。木造釈迦如来坐像[国重文]はヒノキの寄木造で,阿弥陀如来と同じ作風ですが面長でふっくらとした顔立ちが素朴な印象を与えるといいます。他にも平安初期作でカヤの一木造である木造兜跋毘沙門天立像[県文化],鎌倉時代作で市内最古の掛仏として貴重な銅造阿弥陀如来坐像[市文化]、室町時代作で緻密な仕事が特徴という本堂厨子[市文化]などがあります。



 安楽寺の北側の筋に出て左折し,続く筋を左折して道なりに右折した先には(法花寺)天神社があります。

日吉神社
法花寺町漆畑271





 (法花寺)天神社から西へ道なりに300mほど進むと右手に日吉神社の入り口があります。創建は不詳ですが古くからの神社といい,元文5年(1741年)以降の棟札が残されているといい,境内には津島社と白山社があります。このうち白山社は元々西の法華寺の鎮守で,日吉神社の境内に移されたときに鉄製懸仏が納められ「源義泰」「大永四年(1525年)」などの刻銘があるといいます。この義泰は永正17年(1520年)に長滝白山神社(現、郡上市)に銅製十一面観音懸仏を奉納したといいます。

法華寺
法花寺町熊ノ山77







 日吉神社の道路をはさんで反対側に法華寺(曹洞宗)があります。大齢山と号し,かつての国分尼寺があったと考えられる場所に,永正年中(1504〜21)無味禅公が才赦桂林を招聘して曹洞宗に改めて中興し,大鈴山国鎮寺と称したといいます。その後織田家の兵火に遭って残った草堂を鎮守白山社(現,日吉神社の境内社)のあった現在地に移します。さらに越前国南条郡高瀬村(現,福井県越前市)の法円寺和尚を招聘して大齢山谷椿(こくちん)寺と改められますが,元禄13年(1700年)に国鎮寺と旧号に復し,明治20年(1887年)に現在の寺号になったといいます。本尊の木造薬師如来坐像[国重文]は丸く穏雅な顔と衣文のおだやかな彫りが特徴で,平安末期の作といいます。濃尾地震で堂宇が倒壊したのち,本堂に移されて本尊になったといいます。

法円寺
馬場2-52



 日吉神社の南の鳥居のところに戻り,鳥居の南の筋を西へ200mほど進んだ4本目の筋を左折し,続く筋を右折した先に法円寺(真宗大谷派)があります。鷲尾山と号し、江戸時代中期の開基といいます。



 法円寺の先には(馬場)八幡社があります。創建は不詳で,境内には秋葉社も祀られています。



 八幡社の先の筋を右折し,続く筋を左折し300mほど進んだ左手には(山口)天神社があります。天暦元年(947年)に創建されたと伝わっています。

塩江神社
中野宮町85







 (山口)天神社から神社の北の筋をさらに150mほど進むと右手に塩江神社があります。天武天皇の白鳳4年(675年)に天細女命の末裔である猿女の君が猿田彦大神を祀ったのが始まりといい,その子孫の牧野氏が長らく社家を務めたといいます。平安時代の延喜式神明帳にも記載がある式内社といいます。境内社として沢園社があり,祭神として沢園兵衛を祀っています。この付近に洪水が頻発し不作に悩まされていた際に,時の清須代官沢園兵衛は10年もの歳月を費やして用水の改修につとめ,寛政10年(1798年)に完成したといいます。境内はクスノキなどの保存樹が並び神聖な雰囲気を感じさせます。本殿裏にはシイノキ[市天然]があり,開発前には一面に広がっていたであろうシイ林の名残となる貴重な樹木といいます。

善応寺
片原一色町道上67





 塩江神社から300mほど進んだ明治小学校の案内板がある筋を左折し,200mほど進んだ突当りを右折して,続く筋を左折します。100mほど進んで県道に突き当たったら右折すると,少し先に善応寺(浄土宗鎮西派)があります。旭照山と号し,建仁年間(1201〜04)に一色左京大夫満吉が,比叡山の蓮乗坊尭空がこの地に来た際に帰依し,善応と号して天台宗の一宇を建立したといいます。その後荒廃と再興を繰り返しますが,天文元年(1532年)(永禄元年(1558年)との説もある)に一色城主の橋本道求一巴が再興して浄土宗に改めたと伝わっています。明治24年(1891年)の濃尾地震で堂宇が全壊して,その後再建されました。



 境内西側にある大日堂の銅造大日如来坐像[県文化]は天文7年(1538年)の作といい,像内に鉄心が残ることから前後に型をとって鋳造したと考えられ,やや粗い処理が特徴といいます。背面には横井時勝の銘があり,愛知郡横井村(現、名古屋市)の出身で後に赤目城(現,愛西市)を築いて子孫が尾張藩に仕えた横井時勝に関係する仏像と考えられます。他にも同時期の製作と考えられる厨子[市文化]が安置されています。





 善応寺の手前のところには富士社があります。建仁年中(1201年頃)に善応寺を守護するために周辺に四神を勧請したものの一つといい,南東の守護神として設けられたものといいます。慶長13年(1608年)に再興された記録が残っているといい,寛永2年(1625年)頃に再建したという棟札も現存しているといいます。

片原一色小学校
一色中屋敷町64



 善応寺から西方向に進みます。この道は,元和元年(1615年)に尾張藩の重臣で八神(現,岐阜県羽島市)城主であった毛利広義が開いた八神街道に当たります。
 街道を250mほど西に進んで「片原一色」交差点で国道155号線を越え,さらに100mほど先の歩道橋のある筋を北に入ったところに片原一色小学校があります。小学校の南西側、体育館の南に稲沢市の木にも指定されているクロマツ[市天然]があります。長年の風雪に耐えた立派な風格を備えているといいます。





 戻って歩道橋のある交差点の南西側には八剣社があります。文亀年間(1501年頃)に橋本伊賀守による再建の棟札があり,祠官の田島氏がこの時期に熱田から移住してきたと考えられています。明治5年(1872年)までは片原一色の総産土神だったといいます。

荘巌寺
一色下方町102





 八剣社から南下する筋に入って次の筋を左折し,さらに続く筋を右折すると右手に荘巌寺(真宗大谷派)があります。宝地山と号し,当初は東光坊という天台宗の寺院でしたが,天和2年(1682年)に真宗に改宗して現在の寺号になったといいます。楠氏の一族の野田左衛門尉正道がこの地に移ったと伝えられ,その縁で橘の家紋を用いているといいます。





 荘巌寺から100mほど南下した突当りを右折し,続く筋を左折してその先の筋を右折すると左手に秋葉神社があります。天明5年(1785年)に遠州の秋葉神社から勧請されたといいます。





 なお秋葉神社の西400mほどの位置には河俣下神社があります。元々は別の場所にあったといいますが,木曽川の一支流である古川が度々決壊したことから,社を堤防の側に移したといいます。元禄9年(1696年)には白山社と記録され,天保11年(1840年)に川俣下神社と改称したといいます。明治5年(1872年)に郷社となって,この付近の中心的神社になったといいます。

澳津社
一色森山町56



 秋葉神社の先のT字路を南方向に進み,続く筋を左折し,100mほど進んだ国道155号線を右折します。その先の「一色下方」交差点を左折して,100mほど進んだ2本目の筋を左折し,続いて右折,左折と進むと左手に澳津社があります。創建は不詳ですが,寛文2年(1662年)に古川新田を開墾した1人である杉村六右衛門の持宮であったとも伝わっています。元々弁財天社と呼びましたが,明治5年(1872年)に改めたといいます。森山地区の氏神だったといいます。





 澳津社から南に戻って左折し,続く筋を右折して県道に突き当たったら左折して東へ進みます。途中には和菓子屋もあって休憩もできます。さらに東へ進むと右手には日光川上流浄化センターの施設が広がります。

大福寺
儀長2-7







 日光川浄化センターの入り口から300mほど県道を進み、大きな鉄塔を越えた次の筋を左折します。「尾張水道みち」を越えた次の筋を右折し,続く筋を左折した先に大福寺(臨済宗妙心寺派)があります。日輪山と号し,かつて南の千代田村福島にあったのが水害により移転したといい,妙興寺(現,一宮市)の末寺といいます。尾張徇行記によると天正12年(1584年)の開基といいます。期境内には樹齢150年と伝わるオオムラサキ[市天然]があり,4〜5月に枝の先の花が一面に咲き誇ります。





 大福寺から東に進んで道なりに右折し,2本目の筋を左折して200mほど進むと左手に貴舩神社があります。雨乞いの神が祀られています。

正楽寺跡
儀長3-39



 貴舩神社の先の十字路を左折して200mほど進むと県道に突き当たるので右折して100m弱進むと右手に正楽寺跡の碑があります。正楽寺は尾張国分寺の周囲に設けられた四楽寺と呼ばれる4つの末寺の1つで,国分寺の西に設けられた寺院といいます。この付近では昭和59年(1984年)に稲沢市教育委員会が,平成6〜7年(1994〜5年)に愛知県埋蔵文化財センターがそれぞれ発掘調査を行い,須恵器の破片や布目瓦が出土したといいます。現在は寺跡に結び付く遺構は発見されていませんが,今後の調査で古代の建物跡などの発見が期待されています。





 正楽寺跡の先を右折して,三宅川を左に見ながら400mほど南下すると右手に善宮社があります。

愛知県植木センター
堀之内町花ノ木129 [公式HP(外部リンク→)]



 善宮社からさらに南下して県道を左折し、先の「儀長南橋」交差点で県道の南側に渡って東へ150mほど進み,案内板にしたがって右折すると200mほど先に愛知県植木センターがあります。全国有数の緑化用樹木の生産地である愛知県が,緑化用樹木に関する知識や技術の向上を図るために昭和61年(1986年)に開所された施設です。植木や造園に関する各種の研修などが行われています。稲沢の植木生産は嘉暦3年(1328年)に円興寺(現,国分寺)の住職柏庵禅師が中国から柑橘苗木の生産技術を持ち帰ったのが始まりといい,現在は埼玉県川口市、大阪府池田市,福岡県久留米市に並んで植木の四大産地と言われています。センター内には梅林があり,稲沢市随一の梅の名所として知られ,3月最初の土日に梅まつりも開催されて大いに賑わいます。梅まつり期間以外は,平日のみの開所となりますので注意しましょう。

尾張国分寺跡
矢合町宮西1141







 愛知県植木センターから北に戻り,続く筋を右折して県道のところに戻ります。さらに水路沿いに直進して2本目を左折した先に尾張国分寺跡[国史跡]の案内板があります。天平13年(741年)に仏教による国の安定を図るために,聖武天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺を建立することを命じました。少なくとも天平勝宝元年(749年)には着工され,尾張国の国分寺がこの付近に建立されたと記録されています。その後元慶8年(884年)に焼失したため,愛智郡定額寺願興寺にその機能が移されたと伝わります。昭和36年(1961年)から継続して行われている発掘調査によって建物の位置が確認され,金堂・講堂・南大門が一直線に並び、塔を東側に置く伽藍配置が明らかとなり,東西約200m,南北約300mの大寺院があったと推定されています。国分寺跡の案内板から少し北上して,案内板にしたがって右に入ったところには塔跡があり,礎石が残されています。現在見られる遺構はここのみですが,今後の発掘調査と並行して整備計画が設けられており,資料館などの整備も検討されているといいます。

鈴置神社
矢合町宮屋敷1171





 尾張国分寺跡から北上して県道に出たところで右折し150mほど進むと左手に鈴置神社があります。この付近にかつて熱田神宮の鈴置郷と呼ばれる領地で,貞治6年(1367年)に円光寺に寄進され萩園村と呼ばれたといい,鈴置神社を名乗っているこの神社との関係性を推測できます。神社の伝説として,昔鎌倉将軍宗親親王の御息女梅君がこの付近を通過した際,凶賊にとらえられて行方知れずになったため,お供の田中肥後守というものが塚を築いて菩提をとむらったといいます。



 鈴置神社の左手の道を100mほど北上して続く分岐を左に進み,その先の突当りを左折します。100mほど先の県道を越えてさらに進んだところには,稲沢名産の植木・苗木屋が集まっています。この付近が稲沢の植木栽培の発祥の地といいます。

平和の塔
矢合町番切3684



 左右に植木屋が集まっているところから西へ400mほど進むと右手に平和の塔があります。稲沢市の戦没者慰霊碑になっており,広大な広場では毎年戦没者の慰霊祭が行われているといいます。隣接して市立中のセミナーハウスがあります。



 平和の塔から東方向に戻って続く筋を円光寺の矢印にしたがって左奥方向に進みます。100mほど進んだ右手には昔ながらの辻観音がまつられています。

円光寺
矢合町山屋敷3424







 平和の塔から進んだ辻観音から100mほど進んだ先に円光寺(臨済宗妙心寺派)があります。萬松山と号し,正中年間(1324頃)に僧宗暁が開創し,永和元年(1375年)に妙興寺の開山である円光大照(滅宗宗興)の開山といいます。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇より綸旨をたまわって勅願所となって寺領を安堵されたといい,その後も綸旨をたまわったといいます。永徳2年(1382年)に滅宗宗興がこの地で亡くなり,その墓である天瑞塔が建てられたといいます。萩の寺として有名であり,参道から境内まで約20種類200本の萩があり,9月の花の見ごろには多くの人で賑わいます。境内には名古屋出身の歌人のものという「さようならの言えるまでこの萩の寺」の句碑があります。





 円光寺の東側に隣接して萩園神社があります。円光寺の鎮守社として滋賀県の日吉神社を勧請して創建されたといいます。明治の神仏分離の際に円光寺と別れて日吉社と称したといいます。明治末期に秋葉社と元禄2年(1689年)創建という若宮社が合併し,現在の社号に改称されたといいます。

三社
矢合町城跡2491



 萩園神社から200m弱進んだ五差路を右奥方向に進み,さらに300mほど進むと市神社があります。創建は不詳で境内に秋葉社も祀られています。



 市神社の左側の筋を100mほど北上すると三社があります。創建は不詳ですが,宝暦年間(1751〜64)前後の棟札が残されているといいます。素戔嗚命の御子の三柱が祀られていることから社名になったと考えられ,明治12年(1879年)に村社になったといいます。

国分寺
矢合町城跡2490 [公式HP(外部リンク→)]







 三社の西に隣接して国分寺(臨済宗妙心寺派)があります。鈴置山と号し,元々は円興寺と称し,創建は永和元年(1375年)に大照または覚山によるという説と,嘉暦3年(1328年)柏庵宗意によるという説があり,他の文書から嘉暦3年以前の創建は間違いないといいます。元々北の三宅川沿いにあったといいますが,戦国時代矢合城主の橋本大膳の死後,矢合城のあった現在地に移されたといいます。その際に旧国分寺にあった釈迦堂(現,国分寺堂)を境内に移し,のちに旧国分寺の本尊だった薬師如来が移されて,しばらくしてから本堂に移されて当寺の本尊になったといいます。明治19年(1886年)に国分寺と改名されました。寺宝として鎌倉期の大小の木像釈迦如来坐像[国重文]があり,初期の禅宗系作品として貴重で,宝冠をいただくことなどから別名宝冠釈迦像とも呼ばれるといいます。木造伝覚山衣装坐像[国重文]は鎌倉期の作で,禅宗頂相(ちんぞう)形式と言われるもので椅子に座って法衣を前面に出し,両袖を左右に長く垂らして高徳僧の風格を感じさせる像といいます。木造伝熱田大宮司夫妻坐像[国重文]は熱田神宮領である鈴置郷があったことから大宮司夫妻の像という伝承が生じたといい,特に婦人像の例は珍しく貴重といいます。寺付近には片原一色城の城主である橋本道一の弟橋本大膳が居城したという矢合城があったといい,碑が設けられています。最近になって,毎月国分寺マルシェと呼ばれる市が行われるようになり,住民の交流の場にもなっており,大変賑わうといいます。



 国分寺の入り口から西に進んで続く分岐を右に進むと,50m強先で県道に合流します。ここには入り口の屋根が警察の制帽の形をした特徴的な建物の矢合駐在所があります。

ゴール:名鉄バス・矢合観音バス停



 矢合駐在所から少し北上したところに,スタートした名鉄バス(稲沢市コミュニティバス)の矢合観音バス停があります。バスを利用して,名鉄国府宮駅まで約16分,JR稲沢駅まで約33分で行くことができます。本数は1時間に1本程度で,ここが始発のバス停になります。時刻はあらかじめ調べておくとよく,時間がうまく合わない場合は矢合観音の参道などで買い物を楽しんで時間を調整しましょう。




写真使用数:72

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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