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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県稲沢市:大里東コースOSATO EAST

2018年1月探訪。2018年3月8日作成

【コース】 距離:約9.1km
 市南東部の大里東地区をめぐります。美濃路周辺の寺院は貴重な文化財も多く,かつての街道の面影も感じながらウォーキングができます。

≪コース≫ 名鉄・大里駅〜増田長盛邸址〜加納院〜草部神明社〜日下部公民館〜沓石神社〜常楽寺〜亀翁寺〜立部神社〜清須代官所跡〜長光寺〜浅野長勝屋敷跡〜丹羽盤桓子出生地〜四ツ谷追分〜日吉神社〜岸松寺〜明源寺〜名鉄・奥田駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄名古屋本線・大里駅



 スタート駅は市南部に位置する名鉄名古屋本線の大里駅です。基本的に普通列車のみの停車(夕方以降は一部の急行が停車)で,名鉄名古屋駅から利用する場合は須ヶ口駅または新清洲駅まで急行を利用し,普通に乗り換えるのが便利です。所要時間は16分程度で,本数は1時間に4本程度運転されています。大里駅の西口から出てスタートしましょう。

増田長盛邸址(八幡社)
増田南町107



 大里駅の西口から新幹線の高架をくぐって南に向かいます。大里駅から商店街が続き,昔ながらのお店も見ながら進むことができます。商店街の雰囲気も楽しみながらウォーキングするのがいいでしょう。





 大里駅から700m南下した突当りを左折し,100m強進んだ2本目の筋を右折します。さらに100mほど先の突当りを左折すると,少し先の左手に(増田)八幡社があります。創建は不詳ですが現在地には元々神明社があり,明治41年(1908年)に北西にあった八幡社を合併して現在の八幡社ができたといいます。境内には増田長盛邸址の碑があり,天文年間(1532〜55)にこの地に屋敷があったと伝わっています。増田長盛はこの地出身(近江国浅井郡益田郷(現,滋賀県長浜市)の説もある)で,豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をあげました。天正18年(1590年)には近江国水口6万石の城主に,文禄4年(1595年)には大和郡山20万石の城主となり,秀吉の晩年は五奉行の1人として政治の中心で活躍しました。関ヶ原の戦いでは西軍に加わったため,戦いの後に改易され,高野山に預けられました。

加納院
増田南町100





 八幡社の先の筋を左折して50m強進むと加納院(真言宗豊山派)があります。益田山と号し,かつてこの地に聖徳太子建立と伝わる益田山東源寺という寺院があったものの,元弘年間(1331〜)の大地震にて堂宇が倒壊して大池になってしまったといいます。その池から仏像が現れたため,応永年一堂を建立して当時の六坊の1つである加納院と称したといいます。その後,織田信長の信仰を受けるなどしましたが,天正末期(1573〜93)の火災で焼失の本尊の阿弥陀三尊である木造阿弥陀如来及び両脇侍像[市文化]は室町時代の作品といい,本堂の厨子の中にまつられています。中央の阿弥陀如来は弥陀定印を結ぶ座像で,右側に観音菩薩,左側に勢至菩薩が安置されています。他の寺宝として江戸末期の狩野派末流に学んだ町絵師の作品と考えられている紙本著色仏涅槃図[市文化]があります。釈迦の入滅を表したもので,和紙を貼り継いで横250cm,横194cmに及ぶ大きな図になっており,多くの羅漢や人物が描かれた見事なものといいます。

草部(くさかべ)神明社
日下部中町6-71



 加納院から道なりに進んだ突当りを右折し,続く筋を左折します。300mほど進んだ先の名鉄の踏切を渡り,さらに500mほど進んで新幹線の線路をくぐった先の信号を越えた次の筋を右折します。ここから100m弱進むと左手に竹生島神社があります。滋賀県竹生島から弁財天を勧請して建立された神社と考えられます。



 竹生島神社から100mほど道なりに進むと左手に草部神明社があります。創建は不詳ですが,この付近は元々平安時代後期から鎌倉時代にかけて設けられた草部御厨と呼ばれる伊勢神宮の御厨だったため,その当時に建立されたと考えられています。江戸時代は単に神明社と称しましたが,大正3年(1914年)に社標が設置された際,この地が草部御厨にまつわる古い歴史を有することから草部神明社と記されたといいます。

日下部公民館
日下部中町4-13



 草部神明社から東に進んで2本目の筋を左折し,100mほど進んだ2本目の筋を右折すると日下部公民館があります。ここ日下部地区では日下部太鼓[市文化]が保存会によって継承されています。日下部太鼓は江戸末期に沖ノ島(現,あま市七宝町)から「銀」と「松」という2人の正人によりもたらされたといいます。その後,神事や秋祭りの際に太鼓が奉納されるようになったといいます。昭和52年(1977年)以降,地元の保存会により伝統が受け継がれ,各地での公演も行われているといいます。現在はメンバーの高齢化も進んでいるといいますが,何とか伝統の太鼓を守っていって欲しいものです。



 日下部公民館の北には願楽寺(真宗大谷派)があります。明治11年(1878年)に説教所として設けられ,昭和21年(1946年)に現在の寺号になったといいます。

沓石神社
日下部中町3-60付近





 願楽寺の左側の筋を北上し,突当りを右折し,さらに100mほど進んだ突当りを左折すると,少し先に沓石神社があります。かつてここにあった石が通行の邪魔になるので取り除こうとしましたが,取り除くことができなかったといいます。後の天保3年(1832年),南の常楽寺の和尚に夢のお告げがあり,石ふみという神として祀れば,腰から下の病気に霊験があるとして祀られるようになったといいます。現在も石が交差点を邪魔するようになっていますが,神様としてそのままの位置でまつられています。毎年4月第3日曜日には例祭も行われています。



 沓石神社から50m弱東へ進むと神明社があります。この付近が草部御厨だったことから,伊勢神宮の神がまつられた神明社が多く存在していると考えられています。

常楽寺
日下部東町3-29





 神明社の先の筋を右折し,さらに突当りを右折し,続く筋を左折して,さらに続く筋を左折すると常楽寺(曹洞宗)があります。花嶺山と号し,天正19年(1591年)に雄山源英和尚を開山として創建されたといいます。本尊は観世音菩薩で,本堂前の釈迦堂には平安時代後期作というヒノキの寄木造である木造如来坐像[県文化]が安置されています。この釈迦如来像は尾張国分寺仏とも,織田信長の戦利仏とも伝えられ,平等院鳳凰堂の弥陀坐像にも似た構造を持ち,量感も豊かで穏和な中に引きしまった感がある当時の美しさを感じられる仏像といいます。

亀翁寺
北市場本町3-3-1





 常楽寺から南側の県道に出て左折し,200mほど先のJR東海道線の踏切を渡って,さらに50mほど先の分岐を左に進みます。なお,踏切から線路沿いに南下すると200mほどでJR東海道線の清洲駅があります。



 さらに200mほど進んで,信号の先2本目の筋を左折します。この道はかつて熱田宿と中山道垂井宿とを短絡し,多くの人々で行き交った美濃路にあたります。





 左折して美濃路を進んだ少し先の右手に亀翁寺(曹洞宗)があります。白峰山と号し,寺伝によると後小松天皇(在位:1382年〜)の頃の創建といいますが,尾張徇行記によると正保元年(1644年)に正眼寺16世天山和尚の創建といいます。当時の鐘銘によると寛保元年(1741年)に,荒廃したことから寺号を春日井郡下原新田(現,春日井市)の薬師堂に譲り,以後は本尊の虚空蔵菩薩を安置する堂宇のみが設けられ,虚空蔵堂という尼僧堂として営まれたといいます。昭和17年(1942年)にかつての亀翁寺に寺号の復元をしたといいます。本尊の木像虚空蔵菩薩坐像[国重文]はヒノキの寄木造で,南北朝時代の良作といい,昭和27年(1952年)の解体修理の際には康安元年(1361年)の年号銘も確認されているといいます。秘仏だったことから保存状態が非常によく,宝冠などの装身具や持ち物なども当時のものが残されており,当時を伝える貴重な仏像といいます。亀翁寺では数え年で13歳になった子どもたちが成長を虚空蔵菩薩に祈る十三参りが現在でも行われているといいます。

立部神社
北市場本町2-4-1





 亀翁寺から美濃路を150mほど進んだ3本目の筋を右折すると,次の交差点を越えた先に立部神社があります。創建は不詳ですが,江戸時代以前は牛頭天王社と呼ばれ,津島神社と関連が深い神社といいます。毎年7月第4土曜日には五穀豊穣を祈願してこがし祭りが行われ,北市場地区の2台の山車[市民俗]がひかれます。この山車は中央からまっすぐ伸ばした真竹やそれを支える枕,屋根下などに多数の提灯が付けられるのが特徴で,尾張津島天王祭の山車との類似点を見ることができます。元々は津島神社と同じく五条川に山車舟を浮かべた川祭りだったといい,五条川の改修で流路が東に移動したことから現在のような提灯を飾った山車をひくようになったといいます。こがし祭りの名前の由来には諸説あり,こがしと呼ばれる団子を奉納したからという説や,三条小鍛冶という人物が祭りが簡素なのを残念に思い,自ら改造して壮麗にしたからという説などがあるといいます。





 立部神社の手前の交差点から西に100mほど進むと左手に北市場美濃路公園があります。遊具も設けられた広々とした公園で,トイレもあってウォーキングの休憩地点にも利用できます。公園前には美濃路の案内板があり,関ケ原の戦いの際にも重要な道となったことや,徳川家康が勝利の凱旋を行ったことなどが記されています。なお,この付近が北市場と呼ばれるのは,美濃路で清洲の北に位置することからといいます。

清須代官所跡
清須市春日四番割66



 北市場美濃路公園から美濃路を50m強進んだ2本目の筋を右折します。右折した先の橋は,江戸時代から美濃路六角堂村と清須代官所とを結ぶためにかけられていた役所橋で,案内板が設けられています。



 役所橋を渡って100mほど進んだ田園地帯に清須代官所跡の案内板が建てられています。天明3年(1783年)よりこの地に代官所である陣屋が設けられたといい,尾張徇行記によると面積は7反(約7000平方メートル)に及んだといい,今でもこの付近は「オジンヤ」「ジンヤアト」などと呼ばれるといいます。明治元年に代官所は廃され,建物は東の春日酉34番地の佐藤家に一部が移されています。



 清須代官所跡の北には,稲荷社があります。田園地帯に位置する小さな鎮守の森がよく見えます。

長光寺
六角堂東町3-2-8





 清須代官所跡から美濃路に戻り,50m強北上すると長光寺(臨済宗妙心寺派)があります。興化山と号し,尾張六地蔵の1番札所であり,通称六角堂と呼ばれ地名の由来ともなっています。寺伝によると応保元年(1161年)に池大納言の平頼盛の寄進により建立されたといい,延元3年(1338年)に足利尊氏が700石の寺領を寄進して復興し,法相宗に属して寛林院と号したといいます。慶長6年(1601年)に清洲城主の松平忠吉から寺領が与えられて真言宗を兼ねたが後に禅宗に改めたといい,元禄4年(1691年)に京都妙心寺7世の実性が中興開山になったといいます。
 入り口の楼門[市文化]は,元々足利尊氏が戦で上洛する際に太刀を奉納し,将軍になったのちに奉納したものといい,当初は南側にありましたが,織豊時代に美濃路に面した現在地に移されたといいます。現在の門は天明8年(1788年)に再建されたものといい,各所にすぐれた彫刻が施され,当時としては進歩的な手法がとられているといいます。門の前には北の井之口追分に設けられていた文政2年(1819年)建立という道標が移されており,「左,京都道 右,ぎふ道」と美濃路と岐阜街道の分岐の案内が刻まれています。



 門をくぐった先にある地蔵堂[国重文]は銅版葺で頂上に鉄製露盤と火焔つきの宝珠がある全国でも例が少ない貴重な六角堂です。露盤の銘によると永正7年(1510年)の建立といい,周囲には高欄をめぐらせて三方から登る階段があります。堂内にある本尊の鉄蔵地蔵菩薩立像[国重文]は,伝承によると仁寿元年(851年)に地蔵信仰に厚かったという小野篁が奉納したといわれています。銘文によると文暦2年(1235年)の鋳造といい,何かが起こる際には汗をかくという伝承から汗かき地蔵と呼ばれます。鉄は青銅などと比べても鋳造が難しく,この時期のものは作例も少ないといい,そんな中でもこの地蔵仏は抜群の完成度と良好な保存状態を備えた貴重なものといいます。地蔵堂の正面に掲げられている鰐口[県文化]は,永和2年(1376年)に近江国神崎西郡の田付大寺にて鋳造され,天正11年(1583年)に織田信長の家臣である埴原植安により寄進されたという追刻銘があります。彼は浪人中にこの寺で昼寝をしていたところを,鷹狩に来ていた織田信長に起こされた縁で家臣になったといいます。この鰐口は本能寺の変で信長が亡くなった後に植安が持ち帰り,信長の一周忌に際して縁が深かったこの寺に奉納したと考えられています。境内には信長ゆかりの臥松水と呼ばれる井戸も残されています。他には小牧・長久手の戦いが行われた天正12年(1584年)に与えられた徳川家康禁制[市文化]が現存しています。これは戦いの際に兵士が略奪を働いたり,木を無断伐採することを禁止したりして寺の安全を保障するもので,同様のものは萬徳寺にも残されているといいます。

浅野長勝屋敷跡
六角堂東町4-2



 長光寺の左手の筋を西に入ると約100m先に浅野長勝屋敷跡の碑があります。浅野長勝は織田信長に仕え,元々安井城(現,名古屋市北区)を根城としていましたが,この地に屋敷を移したといいます。養女に羽柴秀吉の妻となったねねがいたことから,のちに秀吉の近親者として仕えました。子の長政は後に五奉行の一人として秀吉の重臣となり,関ケ原の戦いの後には常陸国真壁藩(現,茨城県桜川市)に隠居し,のちに広島藩の祖ともなりました。

丹羽盤桓子出生地
井之口町出町前5170付近





 美濃路の長光寺の前に戻り,さらに美濃路を200mほど進んだ突当りのマンション前の植え込みに丹羽盤桓子出生地の碑があります。安永2年(1773年)にこの地で生まれた書家である丹羽盤桓子は,幼くして行書体の書をマスターしたといい,非凡な才能を発揮したといいます。その後,尾張藩の右筆として活躍し,藩主に書道を教えたほか徳川将軍の前で揮毛し,その腕前を披露したといいます。



 ここを左折して50mほど進んだ右手に四ツ谷追分の碑があります。美濃路と岐阜へのびる岐阜街道との分岐点だったところで,うどんが名物だったといいます。少し先の踏切の手前右手には一里塚の跡の案内板も設けられています。

日吉神社
井之口町大宮前554





 四ツ谷追分の碑からJRの線路を左に見ながら道なりに約600m進みます。この道はかつての岐阜街道に当たります。次の筋を左に入って分岐を右に進んだ先には日吉神社があります。創建は不詳ですが,この付近で天台宗の寺院が営まれ,比叡山の日吉神社から勧請して創建されたと考えられています。昭和37年(1962年)に大明神社や井之口稲荷社などが合祀されたといいます。このうち大明神社は元々貴船神社といって水の神をまつり,ご神体が尾張一宮の真清田神社から漂着して創建されたと伝わり,真清田神社の祭車を引くのにここで切り出された藤の蔓を用いていたと伝わっています。

岸松寺
井之口本町46



 日吉神社から南に戻って右折し,JRの線路をくぐって突当りを右折し,続く筋を左手前方向に進んだところに岸松寺(浄土宗西山派)があります。薬師山と号し,江戸末期に病気を患った女性が自宅を私庵としたのが始まりといい,嘉永2年(1849年)にこの付近で病気が流行し,大水で村内で祀られていた薬師様が流出したことが原因と考え,新しい薬師如来をまつったといい,この時から薬師堂と称するようになったといいます。大正2年(1913年)に和歌山市の海善寺の塔頭であった岸松院から寺号を譲りうけたといい,昭和17年(1942年)に正式に寺号認可されたといいます。



 岸松寺から200mほど南下した6本目の筋を右折すると,少し先の右にて粟生寺(浄土宗西山派)があります。京都十念寺(京都市上京区)14世和尚により,元和元年(1615年)に建立されたといいます。明治36年(1903年)に京都から現在地に移転したといいます。

明源寺
井之口本町95



 粟生寺の先の筋を右折し,続く筋を左折すると少し先に杵築神社があります。明源寺創始の際に鎮守として設けられた神社といいます。





 杵築神社の先に明源寺(真宗大谷派)があります。創建は不詳ですが文明年間(1469〜)に蓮如上人に帰依して改宗したといいます。寺宝にヒノキの寄木造で江戸時代作という木造聖徳太子立像[市文化]があります。この像は,当時の住職の弟だったという河野忠右衛門成吉が,尾張藩主の徳川義直に従軍して大坂夏の陣に従軍し,主君の義直が茶臼山に陣取った際に,近くの四天王寺から迎えて戦勝祈願をした像といい,その加護によって戦に勝利したといいます。後に義直から成吉に下賜され,兄が住職を務める明源寺に寄進したのがこの像と伝わっています。像高は31.5cmと小ぶりで,太子孝養像と呼ばれる父の用明天皇を回復するのを祈る姿の像といいます。



 明源寺から300m強進んだ広い筋を左折し,200mほど進んだ2本目の筋を右折すると左手にショッピングセンターのパールシティがあります。ウォーキングの休憩地点として活用しましょう。



 さらに400mほど進んで県道に合流し,その先の水路のある筋を左折して100mほど進み,続く筋を300mほど進んだ先の名鉄の踏切を渡り,続く筋を左折した先には津島社があります。

ゴール:名鉄名古屋本線・奥田駅



 津島社から100mほど南下して突当りを左折すると,50m強先にゴールの名鉄奥田駅があります。普通列車のみの停車で,名鉄名古屋駅まで須ヶ口または新清洲で急行で乗り換えると,15〜20分で行くことができます。本数は1時間に4本程度です。




写真使用数:44

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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