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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県稲沢市:稲葉宿コースINABASHUKU

2018年1月探訪。2018年3月1日作成

【コース】 距離:約9.7km
 名鉄国府宮駅西側の旧稲葉宿,稲島,尾張国衙跡周辺をめぐります。美濃路を行き交った人々や古代寺院に思いをはせる多彩な史跡のコースです。

≪コース≫ 名鉄・国府宮駅〜吉祥寺〜小沢一里塚跡〜崇福寺〜旧稲葉宿〜宝光寺〜御嶽神社〜稲葉神社〜禅源寺〜金神社〜善慶寺〜雲門寺〜西勝寺〜因性寺〜稲島城跡〜久多神社〜修理若御子神社〜赤染衛門歌碑公園〜観音寺〜名鉄・国府宮駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄名古屋本線・国府宮駅



 今回のスタートは名鉄名古屋本線の国府宮駅です。名鉄の稲沢市における中心駅で,特急以下全列車が停車します。名鉄名古屋駅からは特急で約11分,急行で約16分で来ることができ,本数は特急,急行とも1時間に4本程度運転されていてアクセスは便利です。国府宮駅の西口出口に出てスタートしましょう。

吉祥(きちじょう)寺
高御堂2-27





 国府宮駅の西側に出て左手に進んで南下します。400mほど進んだ「高御堂二丁目」交差点の次の筋を右折し,約100m進んだ3つ目の筋を左折すると,左手に吉祥寺(真言宗豊山派)があります。蓮御山と号し,承和元年(834年)に弘法大師が各地を巡った際に創建されたという古刹で,往古は七堂伽藍を有する大寺だったといいますが,兵火により焼失したといいます。その後,文保2年(1318年)に実尊により中興されたとも,元弘元年(1331年)頃に足利尊氏が再興したとも伝えています。寺宝として鎌倉時代の銅造素文磬[市文化]があり,市内では製作年代などから見てもトップレベルの優品といいます。磬は元々中国の古代楽器がその原型で,次第に仏具にも使用されるようになったといいます。応安年間(1368〜74)という古い宝篋印塔の基礎も残されているといいます。



 吉祥寺の西側の筋を北上して道なりに200mほど進むと(途中の県道は左側の横断歩道を利用する),大江川の橋をわたったところに十二社があります。創建は不詳ですが尾張徇行記にも記載があり,吉祥寺の鎮護だった社寺などが合祀されているといいます。

小沢一里塚跡
小沢4-15付近



 十二社から大江川沿いを南西に県道の信号まで進み,県道を200m弱進んだ「高御堂」交差点の次の信号を右折します。この右折した道は旧美濃路に当たります。美濃路は熱田宿から中山道の垂井宿を結んだ街道で,東海道の七里の渡しを避けて東西を行き来する人々によって大いに賑わったといいます。稲沢市内の旧美濃路は看板も設置され,ウォーキングマップも整備されて見どころになっています。200m弱進んだ右手には小沢一里塚跡があります。一里(約4km)ごとに設けられた一里塚が古図によるとこの付近にあったといい,五間(約9m)四方の大きさで榎が植えられ,街道の両側にあったといいます。現在はおもかげは残っておらず,案内板のみがあります。



 小沢一里塚から100m弱進んだ左手には貞信寺(真宗大谷派)があります。明治末期に説教所として整備され,のちに寺号を得たといいます。この付近から旧稲葉宿の古い建物がいくつか見られるようになります。

崇福寺
小沢2-12



 貞信寺から美濃路を200mほど北上し,突当りを右折して続く筋を左折すると,やがて右手に崇福寺(臨済宗妙心寺派)があります。金剛山と号し,西にある禅源寺の末寺で,明徳2年(1391年)以前に禅源寺開山である大清和尚による創建といい,当初は小沢神明社の境内にあったのを貞享4年(1687年)に現在地に移したといいます。本尊は薬師如来で,この地域の真宗門徒の帰依仏という阿弥陀如来も祀られているといいます。西隣の郡役所建設の際に出土したという市内最古の貞和5年(1349年)銘の宝塔の一部がおさめられているといいます。





 崇福寺から100mほど北上した先には小沢神明社があります。創建は不詳ですが崇福寺がかつて境内にあったことから,明徳2年以前と考えられます。祭神は子どもを愛し,神前にて子どもが相撲をとった際に白髭神官の姿で現れたという伝説があるといいます。

旧稲葉宿
小沢2,稲葉3付近



 小沢神明社から美濃路を北上して突き当たった場所まで戻ります。この付近はかつて美濃路の稲葉宿の本陣があったとされる場所です。清洲宿から約6km,萩原宿(一宮市)からも約6kmの地点に設けられた,美濃路で4番目の宿場町になります。当初は稲葉村だけでしたが,のちに小沢村も加わる大きな宿場となりました。本陣と脇本陣が1軒ずつ,問屋場3軒,旅籠が8軒あったといいます。明治2年(1869年)にはこの付近を中心として稲葉騒動という大規模な農民一揆が発生したことでも知られます。明治以降も稲葉と小沢が合併して稲沢町となり,この付近は町の中心として銀行や電力会社,商店街などが設けられるなど発展し,今でも古い町並みが一部残されています。かつては本陣跡の碑がありましたが,現在は工事のために撤去されているようです。





 ここから先は稲葉宿の古い町並みがあり,昔ながらのお店なども見られ楽しく歩くことができます。



 200mほど進んだ右手には中部電力旧稲沢営業所の建物があり,鉄筋造りのレトロな建物が特徴的です。現在は稲沢市の民俗資料の収蔵庫になっているといいます。



 さらに50mほど進んだ右手の古い民家の前には,稲葉宿中問屋場跡の碑があります。稲葉宿には合計3軒もの問屋場が設けられ,小沢村の東問屋場が原氏,この中問屋場が伊東氏,西町の西問屋場を両氏が交替で務めたといいます。

宝光寺
稲葉3-11-1





 稲葉宿中問屋場跡から30mほど先の右手に宝光寺(真宗大谷派)があります。紅葉山と号し,元亀2年(1571年)に美濃国石津郡牧野村(現,岐阜県大垣市)に創建された法光坊という寺庵が始まりといいます。その後,天正11年(1583年)に中島郡大牧村(現,稲沢市祖父江町)に移転し,慶長10年(1605年)に現在地に移転したといいます。寛永元年(1624年)に再建されて,貞享2年(1685年)に現在の寺号の改められたといいます。美濃路に面して昔ながらの面影が残った雰囲気あるお寺です。



 宝光寺から西に少し進んだ左手には津島道の道標があります。「右つしま道 三里」と刻まれた丸い円柱で,美濃路から津島方面に分岐する街道に設置されていたものです。



 津島道の道標の先の細い筋を右折し,100mほど進んだ次の筋を右折すると,少し先の左手に西光院(浄土宗鎮西派)があります。創建は不詳ですが明治24年(1891年)以前は小さな私庵だったといい,住んだ尼の名前から隆海さんと呼ばれたといいます。その後,岡崎の松翁寺の末寺となって公寺としたといい,現在は保育園が設けられて立派な設備になっています。

御嶽神社
稲葉2-5



 西光院から西に戻って,続く細い路地を右折して北上した先に御嶽神社があります。御嶽山の御嶽大神を祭神とする御嶽教は,江戸時代に覚明行者らによって創始され,この地域に多くの信者を持つといいます。この御嶽神社を拠点とする御嶽教の明栄講は,明治初期に甚目寺村(あま市)の赤明栄講から独立して成立し,この地域一帯に講員を持つといいます。御嶽教の護摩修行は,天井に幣を吊るし,その幣を押し上げるぐらいまでに大きな火をたくのが特徴といいます。ここを拠点に行われる御嶽教明栄講の護摩修行[市民俗]は,多くの修行法が口伝であるのに対して文書により守られている貴重なもので,成立当初からの修法といいます。



 御嶽神社から南に戻り,右折して西に進んですぐの突当りを右折すると,少し先の左手に玉林寺(臨済宗妙心寺派)があります。明治初期に禅源寺住職の私庵として創建され,本尊の子安観音をまつるといいます。境内には行者堂があり,役行者の木像を安置しているといいます。

稲葉神社
北山2-53



 玉林寺の先の交差点を右折すると少し先に稲沢市民センターがあります。





 ここを越えた次の十字路を左折すると100mほど先に稲葉神社があります。創建は不詳ですが,元々は伊奈波神社,熊野・白山社,日吉社の3社で,伊奈波神社は岐阜金華山のふもとにある伊奈波神社から漂着したという伝説があるといいます。昭和33年(1958年)に三社が合祀されて伊奈波神社となり,後に稲葉神社と改められたといいます。境内はご神木のクスノキなど昔ながらの社叢も残されているようで,落ち着いた空間になっています。

禅源寺
稲葉1-6-2 [公式HP(外部リンク→)]







 稲葉神社の正面から西に進んで突当りを左折し,続く筋を右折するとすぐに禅源寺(臨済宗妙心寺派)の参道があります。金華山と号し,永和2年(1376年)に大清和尚による開山といい,永正9年(1512年)に勝岩により再興開山されたといいます。寛永11年(1634年)に徳川家光が上洛した際に寺に宿泊し,寺内で不快(おこり)が治癒したことを喜んで表道具に葵の御紋をつけることを許されたといいます。同年に砂が噴出したことで堂宇が南200mほどにあったのが,現在地に移されたといいます。その後無住の時代もありましたが,寛文6年(1666年)に本堂が再建され,延宝7年(1679年)に十一面観音をまつって本尊とし,再興を果たしたといいます。寺宝として稲葉村本陣の吉田又吉が寄進したという寛永年間(1624〜45)建立の薬医門である勅使門[市文化]をはじめ,鎌倉初期の作とされる寄木造の阿弥陀如来坐像[県文化],鎌倉後期作の釈迦如来坐像[市文化],平安時代後期制作という古式な形式が特徴の阿弥陀如来坐像[市文化],室町時代の絵画で一面十臂の像が特徴的な絹本著色毘沙門天像[市文化]などがあります。また天和2年(1682年)に美濃路を通った朝鮮通信使による板額や,美濃路を往来した際に命を落としたという薩摩隼人の墓などもあります。また境内の鐘は,明治2年(1869年)の稲葉騒動の際に合図になったという歴史あるものですが,戦時中に供出されて現在は新しい鐘になっているといいます。





 禅源寺の入り口から西へ100mほど進むと,左手に愛知文教女子短期大学と愛知啓成高等学校があります。愛知文教女子短期大学は昭和26年(1951年)の創立で,愛知啓成高等学校は,元々稲沢女子高等学校で昭和2年(1927年)の創立,平成13年(2001年)に男女共学になりました。登下校時にはこの付近は学生たちで賑わう場所になっています。

金(こがね)神社
西町1-14





 愛知啓成高等学校に突き当たったところを北上して100mほど進むと,学校の北側の細い筋に入ったところに金神社があります。創建は不詳ですが,稲葉神社と同様に岐阜城下の金神社から流れ着いたとも言い伝えられています。尾張徇行記によると禅源寺の鎮守として境内に金谷大明神大神宮,天満宮とともにまつられ,明治の神仏分離で現在の東側の丘の上に移転し,大正13年(1924年)頃に現在地に移され,西町地区の産土神として「金宮さま」という愛称で信仰されているといいます。



 金神社の西側から出て左折し,愛知啓成高校を左手に見ながら100mほど南下します。突当りを左折し,続く筋を右折して,さらに2本目の筋を右折します。この2本目の筋は美濃路に当たり,この付近も丸いポストや古い町並みが残るなど昔懐かしい風景になっています。

善慶寺
石橋2-202 [公式HP(外部リンク→)]





 美濃路を300m弱進んだ次の信号を右折し,200mほど北上した道が細くなる手前の筋を左折します。そのまま200mほど進んだ3本目の筋を右折して100m進み,横断歩道を渡ってさらに100m進むと左手に善慶寺(真宗大谷派)があります。国府山と号し,創建は不詳ですが元亀元年(1501年)に本願寺9世実如上人から阿弥陀如来絵像を下賜されたと記録があり,それ以前に創建されたと考えられています。天正19年(1591年)の記録に法蔵坊とあり,万治4年(1661年)に下賜されたという蓮如上人の御影には善慶寺とあることから,この間に寺号が改称されたといいます。明治24年(1891年)の濃尾地震後に堂宇が倒壊し,再建後の明治29年(1896年)に火災にて山門を残して焼失したため,寺の古い記録はわからないといいます。寺宝として絹本著色阿弥陀如来像[市文化]があります。裏書により文亀元年に実如上人から下賜されたものとわかっており,年号がわかるものとしては市内最古といいます。長らく所在がわかっていませんでしたが,平成8年(1996年)に発見されたといい,修復が行われて平成23年(2011年)から再び寺で保管されているといいます。

雲門寺
石橋2-70





 善慶寺から北上して突当りを右折し,道なりに進んで50mほど進み2本目の筋を左折すると,少し先の突当りに雲門寺(臨済宗妙心寺派)があります。新定山と号し,宝永5年(1708年)の建立といい,薬師堂と八幡社を合わせて享保16年(1731年)にあわせて境内としたといいます。延享元年(1744年)に愛知郡広井村(現,名古屋市西区)にあった雲門寺を移して寺院にしたといいます。西に隣接してかつては同一だったという(石橋)八幡社があります。

西勝寺
木全2-152



 雲門寺から道なりに進んで突当りを右折し,続く筋を右折して200mほど進みます。県道に突き当たったら左折して200mほど進むと左手に(木全)八幡社があります。創建は不詳で境内に秋葉神社がまつられています。





 (木全)八幡社から100mほど進んだ左手に西勝寺(真宗大谷派)があります。木全山と号し,明応9年(1500年)に釈了圓により建立されたといい,以降災厄に遭いながらも再建を続けてきたと伝わっています。

因性寺
稲島8-31





 西勝寺から300mほど東へ進んだ6本目の筋を左折して50mほど進むと左手に(稲島)八幡社があります。かつての稲島町江越地区の鎮守だったといいます。
 (稲島)八幡社から100mほど北上した2本目の筋を右折して100mほど進むと左手に大師寺(真言宗)があります。明治初年に弘法大師をまつった大師堂が建立され,昭和20年(1945年)に寺号を得たといいます。





 大師寺の次の筋を右折して100mほど道なりに北上すると左手に因性寺(真宗大谷派)があります。日比野山と号し,開基は稲葉禅源寺の近くに住んでいたという法関といいます。葉栗郡日比野(現,一宮市浅井町)から来住したといい,当初は天台宗だったと考えられています。元和元年(1615年)に教円によって現在地に移され,教専坊と称して真宗に改宗したといい,同3年(1617年)に現在の寺号を下賜されたといいます。元文5年(1740年)に堂宇が再建され,明治24年(1891年)の濃尾地震ののち同30年(1897年)に現在の堂宇を再建したといいます。



 因性寺の手前のT字路を右折したところに本郷寺(臨済宗妙心寺派)があります。宝暦年中(1751〜)の創建といい,観音堂と称していましたが昭和17年(1942年)に本郷寺と公称したといいます。本尊は十一面観音で,境内に行者堂もあるといいます。

稲島城跡(八龍社)
稲島6-13





 因性寺の前に戻って北上し,続く筋を左折して,その次の筋を右折します。そのまま200mほど進んだ左手に八龍社があります。元々はこの北側のハーモニーランドの中にあったといいますが,昭和40年(1965年)頃に移されたといいます。境内に稲島城跡の碑があります。この地の豪族木全氏の居城といい,城主だった木全忠澄がこの地で戦う際に,山にこもって敵の目を欺き,少ない兵で敵に打ち勝ったという昔話が伝わっています。忠澄の子忠征は,信長の家臣であった滝川一益に仕えて滝川姓を授かったため,別名滝川屋敷とも呼ばれたといいます。その後,子孫の豊後守忠暁が再びこの地に屋敷を構えたとも伝わっています。城の遺構は残っておらず,どのような歴史をたどったかについて詳しくはわかっておらず,城跡碑と滝川下屋敷の碑だけが昔を伝えています。



 稲島城跡から北に進むとショッピングセンターのハーモニーランドがあります。元々は豊和工業の工場があったといいます。ウォーキングの休憩地点としても利用できます。ここから東方向に進んでいきますが,その途中ではハナミズキの並木を楽しむことができます。

久多神社(東畑廃寺跡)
稲島町石畑136



 ハーモニーランドの南側から東へ200m強進み,信号を越えてさらに200mほど進んだ6本目の筋を右折して150mほど進むと左手に久多神社があります。創建は不詳ですが平安時代の延喜式神名帳にも名前がある古社といいます。その後荒廃しますが,天保13年(1842年)に尾張大國霊(国府宮)神社の宮司である野々部茂富を中心に現在地に再建したと伝わります。祭神は国府宮神社の宮司の久田氏・野々部氏の祖といい,この地に降臨して岩室に住み,尾張の国土開発に貢献したといいます。もう1柱の祭神は茜部天神で,この西の赤鍋に鎮座した祠から移されたものと伝わります。
 入り口には東畑廃寺跡の案内板があります。昭和14年(1939年)から始まった調査により軒丸瓦などが発掘され,この付近には飛鳥時代末期の7世紀中ごろの創建と推定され,尾張でも最古類に属する寺院があったと確認されました。8世紀前半頃までの瓦しか見つかっていないことから,尾張国府建設にあたっての足掛かり的な寺院だったと考えられています。



 久多神社の南の交差点を右折し,続く筋を左折して300m弱進みます。5本目の筋を右折して50mほど進むと右手に菩提禅寺(臨済宗)があります。慈恩山と号し,創建は不詳ですが,観世音菩薩を本尊に持つといいます。



 菩提禅寺から西に進んで続く筋を左折し,さらに次の筋を右折すると(稲島)神明社があります。祭神は天照皇大神ですが,多数の境内社を持ち歴史を感じさせます。

修理若御子(すりわかみこ)神社
松下2-22



 (稲島)神明社の先の県道を左折して300mほど南下し,2つ目の信号を右折すると右手に修理若御子神社があります。創建については不詳ですが,祭神の修理若御子命(墨染天神)は,尾張大國霊神(国府宮神社の祭神)の国内修理を助けた神といい,本国神名帳にもその名前がみえるといいます。境内社に神明社,津島社,富士浅間社があり,きれいに整えられた雰囲気有る境内になっています。



 修理若御子神社から東に戻った左手には平和堂稲沢店があります。ここもウォーキングの休憩地点としてうまく活用しましょう。

赤染衛門歌碑公園
松下1-17-27





 平和堂稲沢店から東へ200mほど進むと右手に赤染衛門歌碑公園があります。赤染衛門は平安時代中期を代表する女流歌人で,小倉百人一首の「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」の歌が有名です。漢学者である大江匡衡と結婚し,大江匡衡が尾張守に任命されて赴任したことから,彼に伴ってこの地を訪れたといいます。公園内には大江匡衡と赤染衛門の顕彰碑が設けられ,赤染衛門が衣を掛けたと伝わる松があります。赤染衛門は長保3年(1001年)から3年間この地に滞在し,のちに寛弘6年(1009年)から再び尾張に下向したと伝わり,歴史ロマンにひたることができます。

尾張国衙跡
松下2-13-11



 赤染衛門歌碑公園から西に戻り,続く筋を左折して100m南下し,2本目の筋を右折した松下公民館の前のところに尾張国衙跡の碑があります。大化の改新が行われたのちの7世紀後半,各国に国の役所である国衙が置かれましたが,尾張の国衙は,この松下地区に置かれたと伝わります。発掘調査により布目瓦の破片などが出土したといいますが,現在は遺構などは全く残っておらず,この碑のみが昔を物語ります。かつてはこの付近が尾張の政治・経済の中心だったといい,現在の静かな住宅地からは想像もできません。

観音寺
松下1-9





 尾張国衙跡から東に戻り,続く交差点を右折して50m強南下し,2本目の筋を左折して100mほど進むと左手に観音寺(臨済宗妙心寺派)があります。補陀山と号し,創建は不詳ですが尾張国衙があったことや境内の礎石などから当初は大伽藍であったといいます。暦応元年(1338年)に清拙和尚が開基しますが再び衰退し,名古屋総見寺霊源和尚が再興し,文翁和尚が現在の伽藍を整備したといいます。本尊は金銅勢至菩薩立像[市文化]で,元々は善光寺弥陀三尊の脇侍だったといいます。鎌倉時代後期の作品で,秘仏になっています。本尊の左右にはそれぞれ木造観世音菩薩座像,木造地蔵菩薩半跏像[ともに市文化]が安置され,ともに永正12年(1515年)に熱田の仏師信教によって作られたことがわかり,それぞれ慶応2年(1866年)に修理したという記録も残されています。



 観音寺の先の突当りを左折し,続く筋を右折し,その先の突当りを左折して国府宮駅の北側に出たところに尾張学校院址の碑があります。学校院は儒教の地方への教化と官吏養成,人材登用などを目的として国ごとに設置されたもので,尾張学校院は大江匡衡によって再興されたといい,この松下の地にあったといいます。現在はこの碑のみが学校院の存在を伝えています。

ゴール:名鉄名古屋本線・国府宮駅



 尾張学校院址から南に戻って100mほど進むと,スタートした名鉄国府宮駅に戻ってきます。名鉄の稲沢市における中心駅であり,特急なども停車するのでアクセスは便利です。名鉄名古屋駅まで特急で約11分,急行で約16分であり,それぞれ本数は1時間に4本程度です。




写真使用数:58

←前:国府宮コース / 愛知県稲沢市 / 次:大里東コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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