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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県あま市:蜂須賀コースHACHISUKA

2015年5月探訪。2017年3月9日作成

【コース】 距離:約6.6km
 美和地区の北西部の中橋・蜂須賀・丹波・森山地区などをめぐります。古刹蓮華寺などの寺社と蜂須賀正勝ゆかりの地を訪ねていきます。

名鉄・木田駅〜美和歴史民俗資料館〜美和文化会館〜(中橋)神明社〜札掛の松〜(蜂須賀)八幡社〜蓮華寺・蜂須賀正勝顕彰碑〜円竜院〜西光寺〜(丹波)神明社〜正念寺〜五八悪水治水記念碑〜慶雲寺〜十二所社〜名鉄・木田駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄津島線・木田駅



 名鉄津島線の木田駅が今回のスタート駅です。旧美和町の中心駅で乗降客も多いため,特急も含めてすべての列車が停車し,本数は1時間に4〜6本運転されています。所要時間は,津島線の乗り換え駅である須ヶ口駅から3駅7分で,名鉄名古屋駅からは20分程度の所要時間を見ておけばいいでしょう。木田駅の北側改札口から出てスタートしていきましょう。

あま市美和歴史民俗資料館
花正七反地1



 木田駅の北口から出て100mほど進んだ美和中学校の突当りを左折し,続く筋を右折します。そのまま200mほど進んだ「花正」の交差点を左折すると200mほどで右手にあま市役所美和支所が見えてきます。以前の美和町役場で,隣接して保健センターの建物もあり,この地域の行政の拠点になっています。





 美和支所の右側の筋を北上すると,右手に美和歴史民俗資料館があります。元々は美和中学校の校舎の一部を移築して昭和43年(1968年)に美和町郷土館として開館し,昭和58年(1983年)に現在地に施設を新築して多くの資料が収められるようになりました。この地域で昔から使われてきた農具や民具などの民俗資料を中心に,この地域の遺跡で発掘された考古資料,条里制の地名に関するもの,福島正則などの武将の肖像画,陸軍法務官の小川関治郎に関する展示など,この地域にゆかりのある展示を見ることができます。また,郷土に関する企画展なども行われます。収蔵品には,永禄7年(1564年)に家康の直筆で書かれた家康筆徳政免除証文,享保11年(1726年)のものという俳諧相伝名目などの書跡や,慶長13年(1608年)の富塚村水帳[いずれも市文化]などの文化財があります。

あま市美和文化会館
花正地先1-1 [公式HP(外部リンク→)]



 美和歴史民俗資料館から300mほど北上すると,右手にあま市美和文化会館があります。大ホールや多目的ホールなどを備え,各種コンサートやイベントなどが多く開かれる会館です。館内にはトイレなどの設備もあるため,ウォーキングの拠点としても活用できます。



 会館の外は文化の杜と名づけられ,彫刻などに彩られた公園になっており,ゆっくりとした時間を過ごすのに適しています。毎月第2・4土曜日には朝市も行われて賑わうほか,冬の時期にはイルミネーションなどの企画も行われています。

(中橋)神明社
中橋郷中84



 美和文化会館の北西側に出て,美和プールに突き当たったら左折し,プール沿いに細い路地を進みます。100mほど進んだ2つ目の十字路を左折し,続く筋を右折して100mほど進んだ突当りのところにある細い路地の先に(中橋)神明社があります。創建は不詳ですが,境内に寛政6年(1794年)銘の常夜灯があり,境内には津島社も祀られています。関ヶ原の合戦の際,徳川方の伏見城で討ち死にした鳥居元忠の家臣岩間兵庫の子ども3兄弟が戦いの後にこの地に移り住んだという伝説があります。

法蔵寺
中橋郷中43





 神明社の突当りから100mほど北上すると右手に法蔵寺(浄土宗)があります。珠応山と号し,永禄7年(1564年)に僧永照良慶による創建といい,伝説によると蜂須賀小六が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いに出陣する際,戦勝祈願で奉安されていた鉄地蔵を持参することにしましたが,重量があったことからこの地に奉置し,鉄の錫杖のみを持参して出陣したといい,その後村民が寺に移して祀ったといいます。以降,蜂須賀家では錫杖を旗印として,戦や参勤交代の際にかかげるようになったといいます。なお,小六が持参したという錫杖は現在,徳島市の如意輪寺にあるといいます。本尊の鉄造地蔵菩薩立像[国重文]は寛喜2年(1230年)に造られたと銘があり,尾張地方にあるもので最古のものです。高さ160mで,鎌倉風のしっかりとした形容を持ち,製作当初のものと考えられる金箔が一部残り,子安延命地蔵菩薩として旧正月24日と7月24日に縁日が行われるといいます。

札掛の松
蜂須賀札掛



 法蔵寺の先の十字路を左折し,400mほど進むと西尾張中央道に突き当たるのでここを左折し,次の信号を横断歩道を渡って右折して200mほど進むと札掛の松があります。寛政6年(1794年)の蜂須賀村由来記によると,昔ここに誰とも知れず植えられた松があり,その松には札がかかっていた。その札によると,この松は元々谷汲山華厳寺(現,岐阜県揖斐川町)にあったもので,この地は弘法大師の霊地であることからこの地に植え置いたといいます。それ以降,蜂須賀の人々は華厳寺の観音菩薩に参詣する気持ちでこの松を大事にしたといい,松が枯れることもあったが,そのたびに華厳寺から松を譲り受けて育てたといい,現在の松は4代目といいます。





 札掛の松から200m弱進んだ右手には(蜂須賀)八幡社があります。創建の由来は不詳ですが,蜂須賀家が阿波城主になったときに源氏の末裔を名乗っており,源氏にゆかりの深い八幡社がここで祀られていることと関係していると考えられています。

蓮華寺
蜂須賀大寺1352





 八幡社の先の突当りを左折した先には美和地区で蓮華寺(真言宗智山派)があります。池鈴山と号し,弘法大師が弘仁9年(818年)に熱田神宮の信託により創建したと伝わる古刹です。創建の際に,井戸を掘ったところ,清水があふれて池になり,白蓮華が出てきたことが名前の由来といい,弘法大師がこの付近に発生した怪奇な黄蜂を退治し蜂塚を築いたといい,その蜂塚が転じて蜂須賀という地名になったといいます。その後文永元年(1264年)に良敏上人が弘法大師自作の尊像を移して再興され,慶長18年(1613年)に蜂須賀家政により寺領50石が寄進され,続いて本堂,客殿,仁王門などを寄進し,蜂須賀家の菩提寺としても知られます。古くから地域では蜂須賀の弘法さんとして親しまれ,尾張名所図会にも描かれています。
 入り口の仁王門は蜂須賀家の寄進により寛永20年(1643年)に建立されたもので,濃尾地震にも耐えて創建当時から残る貴重なものです。門をくぐると正面に本堂,右手には鐘楼があり,広い境内には大師堂,庫裡,客殿などが並びます。仁王門以外のこれらの建物は,明治24年(1891年)の濃尾地震で倒壊したのちに立て直されたものです。この再建の際には蜂須賀の和菓子屋である「松屋」を経営していた源助と柳右衛門という親子が金策に走り,その石碑が境内にあります。真言宗の古刹として文化財も多く,金剛界及び胎蔵界曼荼羅,藤原時代のものと伝わる木造仏頭法華経紫紙鎌倉版[いずれも県文化]などがあります。境内北側には普段は直接の見学はできませんが,蓮華寺庭園[県名勝]が広がっています。この庭園は中央に池を置き,高さ1〜3mの築山5つを配して石を使わないといいます。池の左右から堀川を導いて北東の川の出口には雅致に富む一枚岩の橋が架けられているといい,針葉樹や広葉樹をまばらに植えて,養老山地や伊吹山を遠望できるようにしたといいます。桃山時代には清須から寄進石24個が取り入れられたといい,築山などが原型を残し,県下でも貴重な古式の庭園といいます。また一帯は愛知県の自然環境保全地域として貴重な自然が残り,頂上には蜂須賀山(標高11.8m)の二等三角点もあるほか,庭の南西には蓮華寺のカヤ[県天然]もあります。毎年4月第3日曜日には蓮華寺の法会である二十五菩薩来迎会[市民俗]が行われ,本堂に向かって設けられた来迎橋から観世音菩薩を先頭に25の菩薩が来られます。菩薩様になでてもらうと厄難が取り払われるといい,当日は多くの人々で賑わいます。法会でかつて使用されていた二十五菩薩面[市文化]が文化財に指定されました。当日は蜂須賀家が阿波城主になった縁もあって,阿波踊りが大勢の人で踊られるといいます。



 山門横には昭和2年(1927年)に建立された蜂須賀小六正勝公碑と蜂須賀城趾碑があります。蜂須賀正勝(1526〜86)はこの地にあったという蜂須賀城に生まれ,当初は美濃の斎藤道三に,のちに信長,秀吉に仕えました。美濃墨俣城の築城など,その活躍から秀吉より天正元年(1573年)に近江長浜に所領を賜り,天正9年(1581年)には播磨龍野城主となりました。その後備中高松城攻めなどに黒田如水とともに尽力し,天正13年(1585年)の四国征伐ののちに阿波(徳島県)一国を賜りますが,秀吉の側に仕えるために息子の家政に国を譲り,翌年大坂城で息を引き取りました。その後,蜂須賀家は関ヶ原の戦いの際に,東西両軍どちらが勝利しても生き残れるように,家政は秀吉方に,その息子の至鎮(よししげ)は家康方につきます。その結果,阿波一国は至鎮に安堵され,淡路一国も加えられて徳島藩として明治まで続きました。



 蓮華寺の南西側には菅安社があります。白山大権現が祀られ,弘法大師がこの地に堂宇を建てる際に白山大権現のお告げがあったことから設けられたといい,昭和29年(1954年)に現在地に移されたといいます。

円竜院
蜂須賀北本郷1289



 菅安社の南,蜂須賀公民館の前から西に向かい,突当りを左折した先に円竜院(日蓮宗)があります。宗照山と号し,蜂須賀地区の信徒の要望により萱津の泉龍寺住職と花木茂左衛門により創建されたといい,当初は妙見堂と称したといいます。昭和5年(1930年)に京都本圀寺の円竜院を譲り受けて移転したことから,寺名も改められたといいます。



 寺の南には蜂須賀正勝公邸宅跡の碑があり,正勝の屋敷がこの付近にあったことを伝えています。



 円竜院から南下して2本目の筋を左折し250mほど進むと左手に西光寺(真宗高田派)があります。太子山と号し,暦応2年(1339年)に下野高田専修寺4世専空上人が上楽の帰路にこの地に立ち寄り,その弟子となった道元が,専空上人が残した太子像を本尊として創建したといいます。現在,本尊は阿弥陀如来になっています。

正念寺
丹波中屋敷117-1



 西光寺から西に戻って次の筋を左折して南下し,約150m道なりに南下した突当りを左折した先には(丹波)神明社があります。創建は不詳で,同じ境内にあった神明社・八幡社・八剱社が大正3年(1914年)に合祀されて現在の姿になったといいます。



 神明社から東へ100mほど進むと正念寺(浄土宗鎮西派)があります。伝法山と号し,津島長福寺の末寺で室町時代に僧高順により創建されました。現在の本堂は明治30年(1897年)に俊海による再建といいます。寺宝の『釈迦涅槃図』は元禄5年(1692年)に,現在の松坂屋の創始者である伊藤次郎左衛門が寄進したもので,毎年2月17日に涅槃会が行われるといいます。

五八悪水治水記念碑
丹波川中62付近



 正念寺から南に進んだ十字路を左折し,100m弱進んだ突当りを右折,続いて左折します。100m先の丹波歩道橋で西尾張中央道を渡ります。そのまま西尾張中央道を右折して300mほど南下し,「丹波」交差点の先の高架橋横の側道を進んで,突当りを左折します。するとその先の川沿いに五八悪水治水記念碑があります。
 かつてこの付近は沼地が広がり,耕作にも舟を用いる場所だったといい,丹波の地名も水が湛えていることを示した「たには」から転じたものといいます。ここを通る津島街道の上の村々は,長い間街道が障害となって排水に苦しみ,大雨になると街道を越えて下の村々に洪水をもたらして争いが絶えなかったといいます。享和元年(1801年)の大雨の際,下の五ヶ村が街道に置土をして下の村々に水を流すまいとしたところ,上八ヶ村がこれを破って争いとなり,役人が出動する騒ぎになったといいます。その後,代官所の命令で街道の高さを二尺(約60cm)と決めましたが,上八ヶ村の滞水はかえって悪化したため,文政12年(1829年)に上八ヶ村が工事を行うもうまくいかず,天保4年(1833年)に清須代官所の改修を訴えて,ようやく工事が成功したといいます。この碑は天保8年(1837年)に津島街道沿いに建てられたもので,改修に携わった3人の役人の名を刻んでその徳を称えたものです。改修後,明治になってもこの付近では水の争いが再燃し,その記録も残されているといいます。

慶雲寺
森山道上55



 治水記念碑から橋を渡り,津島街道を東へ250mほど進み,4本目の筋を左折して100mほど進むと左手に慶雲寺(曹洞宗)があります。景雲山と号し,長栄寺(現,名古屋市中区橘町)の末寺で,寺伝によると弘仁年間(810〜23)に長栄寺は中島郡萩園村からこの地に移され景雲山永見寺と称したといい,天文年間(1532〜54)に織田家の兵火により焼失し,文禄年間(1592〜95)に清洲に移されて金剛山長栄寺と改称されました。その長栄寺2世天沢義恩が慶長12年(1607年),旧地に堂宇を建立して隠棲地としたのが当寺の始まりといいます。その後,慶安年間(1648〜51)に洪水で堂宇が流失したため観音堂が建立され,森山観音堂と呼ばれましたが昭和27年(1952年)に現在の名前になりました。本尊は室町時代作という十一面観音菩薩で,江戸〜明治の俳人で教育者でもある雪操庵呂江の墓碑が墓地にあるといいます。また正徳3年(1713年)に寄進されたという涅槃図が残っているといいます。



 慶雲寺の東側には十二所社があります。創建は不詳ですが紀州熊野神社からの勧請といい,平安時代以降全国的に熊野三山に九座を加えた十二神を祀った祠が作られたことから,本社もその1つと考えられています。

ゴール:名鉄津島線・木田駅



 十二所社から東に進んで突当りを右折し,100m強進むと線路に突き当たるのでここを左折します。ここは旧津島街道に当たり,旧街道の趣が感じられる道です。
 ここを600mほど進むと,右手にスタートした名鉄津島線の木田駅が見えてきます。名鉄を用いて須ヶ口駅まで7分,名鉄名古屋駅へは約20分で戻ることができます。本数も1時間に4〜6本程度運転されているので,時刻をあまり気にしなくても大丈夫でしょう。


写真使用数:25

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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