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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県愛西市:藤浪コースFUJINAMI

2015年6月探訪。2017年5月22日作成

【コース】 距離:約6.6km
 佐織地区中部の見越,根高,諏訪,北河田,南河田,諸桑地区をめぐります。津島街道沿いおよび佐屋街道近くの由緒ある社寺をめぐります。

名鉄・藤浪駅〜誓入寺〜六合庵趾碑〜六所社〜津田正生宅跡〜釜地蔵寺〜巡見橋〜佐織歴史民俗資料室〜法融寺〜大明社〜(北河田)神明社〜巌浄寺〜願念寺〜諸鍬神社〜千手寺〜満成寺〜市川柳助の碑〜名鉄バス・日光バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄津島線・藤浪駅



 名鉄津島線の藤浪駅がスタート駅です。本数は1時間に4本程度で普通列車のみの停車なので注意しましょう。名古屋本線との分岐駅である須ヶ口駅からは約14分の所要です。名鉄名古屋駅から利用する場合は,25〜30分の所要時間を見ておけばいいでしょう。高架下の出口から出てスタートします。

誓入寺
見越町堂起45



 藤浪駅から出て線路沿いに津島方向に進み,県道に突き当たったら左折して高架をくぐります。その先の信号を右折して200mほど進み,喫茶店の先の筋を右折して高架を再びくぐり,300mほど進むと正面に誓入寺(真宗大谷派)があります。稲葉山と号し,寺伝によると永享7年(1435年)に西了により旧佐屋町稲葉に創建され,定専坊と称したといいます。寛永年間(1624〜44)に現在地に移転し,誓入寺と改めたといいます。

六合庵趾碑
見越町古堤起549付近



 誓入寺のところを左折して南下し,次の筋を右折,さらのその次の交差点のところを右折します。150mほど進んで橋の手前の交差点を右折して100m弱進むと左手に道標と六合庵跡碑が並んで立てられています。道標は「是より西つしま」と刻まれ津島との境界を表します。また,六合庵はこの地で生まれた津田正生(後述)が津島街道沿いに設けた庵で,街道を行き交う人々に湯茶を提供し,情報を収集したといいます。正生没後は庵は点々と移動し,最後の場所に残されたのがこの碑だといいます。なお,この付近には津島神社の祭礼の御葭が流れ着いた場所である御葭場(みよしば)があったと伝わっています。

六所社
見越町高畑329







 六合庵趾碑の先の筋を右折し,さらに次の筋を右折し,その先を左折したところに六所社があります。創建は不詳で,延享3年(1746年)に再建されたと記録され,天照大神など6柱が祀られている見越町の氏神です。この見越町はアメリカ移民を多く出した地として知られ,神社の社標に寄進者が書かれています。また,境内には伊勢湾台風で大きく傾いた松の木があります。かつては「信長松」と呼ばれる織田信長が素晴らしいと褒めたという松がありましたが,昭和初期に枯れて伐採されたと伝わっています。
 ここ見越町は,昭和16年(1941年)にグアム島に出征し,終戦を知らずに現地にとどまり,昭和47年(1972年)に帰還して「恥ずかしながら帰って参りました」と第一声が有名な横井庄一や,北アルプス前穂高岳で亡くなったクライマーの若山五郎などの出身地として知られます。若山五郎は昭和32年(1957年)に発行された井上靖の小説『氷壁』のモデルとして知られているそうです。

津田正生宅趾碑
根高町古堤己新田



 六所社から東に進み,県道458号線を左折します。この付近は平成12年(2000年)に道路の拡張工事が行われた際に川田遺跡という古墳時代から鎌倉時代にかけての遺跡が発掘されています。この付近は古代に極楽寺という寺院があったことが知られており,その関連性が指摘されています。



 100m強先の「見越」交差点で道路の右側に渡り,さらに100mほど先の橋の手前の筋を右折して津島街道に戻ってきます。曲がりくねった街道は昔ながらの雰囲気を残しています。



 街道を200mほど進むと右手に津田正生宅趾碑があります。安永5年(1776年)に津田正生(まさなり)は根高の酒造業を営む家で生まれ,近所に並びなき豪家だったといいます。20歳頃より儒学などを学び,様々な交流を通して地誌,随筆,戯作など多くの分野で著作を残しました。中でも尾張地方の地名の由来を紐解いた『尾張地名考』が有名です。

釜地蔵寺
根高町古堤己新田イ130





 津田正生宅趾碑から少し進んだ左手に釜地蔵寺(真言宗智山派)があります。あま市蜂須賀の蓮華寺の末寺で,本尊の鋳鉄地蔵菩薩立像[県文化]は尾張六地蔵の1つとして知られ,承応2年(1653年)に名古屋在住の辻弥兵衛之種によって造られたといわれています。この地蔵菩薩立像は釜の蓋の上に立っていることから通称釜地蔵と呼ばれています。この地蔵については,意地悪な継母からいじめにあった子どもが,水が沸かしてあった大釜の中に入れて煮殺されそうになったが,地蔵が身代わりになって助けたといい,それを見て継母が改心したという昔話が伝わっています。境内には他に十王堂などがあり,簡素ながらも落ち着いた雰囲気の寺院です。



 釜地蔵寺の先には八幡神社があります。

佐織歴史民俗資料室
諏訪町郷西456-1 (佐織公民館内)



 八幡神社から街道を350mほど進むと水路を渡る橋がありますので,ここを左折するとすぐに領内川を渡る巡見橋があります。江戸時代に幕府の巡見使(地方を見て回る人々)が通ったといわれる橋になっています。巡見使は萩原村(一宮市)から現在の国道155号線に沿って続いていた巡見街道を通って全国を巡っていたといいます。





 巡見橋から南に戻って,200mほど進んだ信号を左折した先に愛西市役所佐織庁舎があります。合併する前の佐織町役場で,建物前の標柱前に展示されている石は勝幡城の石垣と伝えられています。







 佐織庁舎から南に進んだところには佐織公民館があります。公民館内には佐織歴史民俗資料室があり,佐織地区の文化財や農業器具などの展示があります。佐織地区の歴史散策する際に立ち寄りたい施設です。調査から日本最古の「複材くり船」と認定された諸桑の古船(木片),円窓付土器などこの地域の特徴的な遺物である東西野遺跡出土品,堤口寺と刻まれている珍しい瓦で,愛西市で確認される古代寺院のものと考えられる諸桑廃寺出土瓦[いずれも市文化]などの文化財,この地域で盛んに行われたアメリカ移民の資料などを有しています。

法融寺
諏訪町郷西447



 佐織庁舎に戻って,東へ100m弱進んだ右手には法融寺(真宗大谷派)があります。大観山と号し,寺伝によると寛喜年間(1229〜31)に大観による開創といい,当初は天台宗でしたが天文16年(1547年)に浄土真宗に改めたといいます。現在は諏訪幼稚園を併設しています。



 法融寺から少し進んだ左手には大明社があります。創建は不詳ですが,古くからの記録が残ることから古社と考えられています。かつてこの地に大池があり,信濃諏訪神社の分霊を勧請したことから現在の地名がついたと考えられ,江戸時代は光蓮寺という寺院の境内にあったが,その後寺院は移転し,変遷により現在の姿になったといいます。

厳浄寺
北河田町郷西341



 大明社の先の交差点を右折し,300m弱進んだ佐織中学校の先の筋を左折します。名鉄の線路をくぐって,その先のT字路を左折した先に(北河田)神明社があります。寛永6年(1629年)に伊勢国豊受大神を勧請して創建され,寛永7年(1630年)に現在地に移されたといいます。



 神明社から戻って東に進み,県道を渡って100mほど進んだ3つ目の筋を左折した先には厳浄寺(真宗大谷派)があります。山田山と号し,寛文年間(1661〜73)に開創といい,津島市中一色にあった福忍寺が再興されて当地に移されたものと考えられています。



 厳浄寺の前から東方向に進み,公園に突き当たったら右折します。その先の北河田公民館の前には昔ながらのお地蔵様も祀られ,昔ながらの雰囲気を感じさせます。

願念寺
南河田町高台81



 北河田公民館から南下して,県道に突き当たったら右折します。100m強進んだ信号のところで左折して県道を渡り,50mほど進んだ次の筋を左折して道なりに200mほど進むと右手に(南河田)神明社があります。創建は不詳で,豊受大神と天水久麻利神が合祀されています。



 さらに50mほど進むと願念寺(真宗大谷派)があります。田中山と号し,創建は不詳ですが慶長年間(1596〜1615)に覚春による開基とされています。元々は岐阜市小熊町の浄土寺の末寺だったといいます。

諸鍬神社
諸桑町郷城76





 願念寺から400mほど田園地帯を南下します。この付近は五竜遺跡と呼ばれ,13〜14世紀を中心とした土器や陶器などが出土し,現在も発掘調査が行われています。ここから発掘された八竜遺跡出刳り物桶[市文化]は平成28年(2016年)に市の文化財に指定されました。
 横断歩道のある交差点を左折して300mほど進みます。2本目のT字路の筋を右折して200mほど道なりに進むと,諸鍬神社があります。延長5年(927年)に作られたという『延喜式神名帳』に記載されている海部郡八座のうちの1つである式内社として知られる由緒ある神社です。祭神は天諸羽命(あまのもろはのみこと)で,蚕桑の神として信仰されています。
 ここ諸桑町は戦国武将の桑山重晴の出身地として知られます。桑山重晴は大永4年(1524年)にこの付近で生まれ,織田・豊臣政権では秀吉の弟である秀長に仕え,但馬竹田城主,和歌山城の城代などを務めました。関ヶ原の戦いの後は,その子孫は大和新庄藩(現,奈良県葛城市)の初代藩主となりましたが,天和2年(1682年)に改易となりました。現在もその支配地だった新庄の地には,桑山氏によって勧請された諸桑神社があるといいます。

千手寺
諸桑町郷城74





 諸鍬神社に隣接して,千手寺(真言宗智山派)があります。創建は不詳ですが,天和2年(1682年)に再興され,行基作と伝わる千手観音が本尊としてまつられています。近世には海東新四国八十八か所霊場として信仰を受けたといいます。この付近からは7世紀頃を考えられる諸桑廃寺の平瓦の破片や陶製の五重塔の破片が発見され,市の文化財に指定され佐織歴史民俗資料室に保管されています。その他にも弥生時代の土器なども発掘され,古くから重要な土地であったことがうかがえます。

満成寺
諸桑町郷城120



 諸鍬神社から先の筋を右折して南下し,その先の筋を左折した先に満成寺(真宗大谷派)があります。三谷山と号し,最澄の弟子であった伊勢の住人・常光によって天台宗常光寺として創建されました。天正3年(1575年)に長島一向一揆の際に浄土真宗に転派して現在の寺号になったといいます。天保9年(1838年)に寺の裏で古船の一部が掘り出され,長さ20mに及ぶ巨大なクスノキの丸木舟の一部が発掘されました。この発掘の様子は『尾張名所図会』などにも残され,広く知られています。1992〜93年の再調査で,古船の年代が弥生時代から平安前期のものと判明し,日本最古の丸木舟の出土事例となり,木片は市の文化財に指定されて佐織歴史民俗資料室に保管されています。出土からこの付近は古代は海辺だったと推定されており,霊園の片隅に記念碑が設けられています。



 満成寺の先の筋を右折して50mほど進むと,法樹院があります。鈴木山と号し,明治31年(1898年)に三重県松阪よりこの地に移されたといい,昭和29年(1954年)に単立寺院となりました。

市川柳助の碑
諸桑町郷城334付近



 法樹院の先の筋を右折し,100mほど先の突当りを左折して300mほど南下すると佐屋街道に突き当たります。この突き当たった右手に諸鍬神社の社標に隣接して「獅子舞開祖 市川柳助」の碑が建てられています。市川柳助は天保6年(1835年)に三河で生まれたといい,各地を巡業して獅子舞を広く広めました。特に『阿波の子別れ』を演じた際は泣かない観客はいなかったと伝わっています。尾張地方では,彼の指導を多くの人々が受けたといいます。

ゴール:名鉄バス・日光バス停



 市川柳助の碑のところを左折して100mほど進むと,ゴールの名鉄バス・日光バス停に到着します。名鉄津島駅までのバスが約20分間隔で運転され,津島駅まで約6分で行くことができます。また,その先に進んで反対方向に乗車すれば,地下鉄東山線の中村公園駅まで約35分,名鉄バスセンターまで約50分で行くこともできます。


写真使用数:33

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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