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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県愛西市:立田南コースTATSUTA SOUTH

2017年9月探訪。2017年10月16日作成

【コース】 距離:約10.5km
 立田地区南部の森川町,立田町などをめぐるコースです。広大な蓮園を進み,福原の輪中集落で木曽川の自然と水利の歴史を感じるコースです。

名鉄・五ノ三駅〜釈迦堂〜常端寺〜専随寺〜薬師寺〜森川蓮花田〜富岡神社(古木江城跡)〜道の駅立田ふれあいの里〜即隋寺〜立田大橋〜木曽三川公園東海広場〜誓光寺〜木曽川文庫〜船頭平河川公園〜Kバス・松之木集会所バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄尾西線・五ノ三駅



 今回のスタートは名鉄尾西線の五ノ三駅です。名鉄名古屋駅から弥富行に乗車して35分程度です。途中の須ヶ口駅始発の電車もありますので,乗り換えて利用しましょう。電車の本数は30分に1本程度です。弥富駅からは1駅3分で来ることができるので,名古屋駅からJR関西線か近鉄を利用して弥富経由で来ることもできます。その場合も時間は乗り換え時間を含めて35分程度で来ることができます。

釈迦堂
西保町北川原181-6





 五ノ三駅を出て左手に300mほど進み信号に突き当たったら右折して100mほど進むと左手に釈迦堂があります。佐屋駅南にある星大明神社僧松隣寺にあったという仏像が安置されています。明治維新で廃寺になったため,大正10年(1921年)に堂を建てて安置したといい,元の山号である竹王山の額もあるといいます。

常端寺
森川町上梶島32



 釈迦堂から南に戻って,信号の先の調剤薬局の手前の筋を右折して,300m強進んだ水路を渡った先の筋を左折します。200mほど進んだ次の十字路を右折し,続く筋を左折して200mほど進むと常端寺(真宗大谷派)があります。黒部山と号し,永正元年(1504年)に伊勢国辰田郷にて創建されたといい,慶長年間(1596〜1615)に尾張国上立田村に移転したといいます。その後,名古屋に移転しますが旧地にも常端寺と称する堂を設けたといいます(なお,名古屋市中区に同名の常端寺があります)。明治23年(1890年)に木曽川の改修のために現在地に移転し,旧地は川底となりました。



 常端寺の南西に梶島神明社があります。創建は不詳ですが明治26年(1893年)に八幡社が境内に移されたため,祭神は天照皇大神と応神天皇です。



 境内入り口にいかだ中継ぎ場跡の碑があります。ここ梶島は,木曽の木材を運搬する中継地点として知られています。慶長20年(1615年)に尾張藩主義直が木曽を領土として与えられて以降,尾張藩の管理のおかれた木曽の木材を名古屋に運ぶ際,岐阜の錦織綱場(現在の岐阜県八百津町)までは一本流しで流され,ここで筏に組まれて木曽川・佐屋川を下りました。ここの梶島で筏の点検や区見直しが行われ,筏川を経由して熱田の貯木場まで運ばれたといいます。

専随寺
森川町下古川186



 常端寺から北西へ100m強進み,道なりに右に進んで250mほど進んだ3つ目の十字路を右折します。ここから300mほど進むと,槇の生け垣が続く「あいさいロード」と呼ばれる道が続きます。この地域では槇を生け垣にする習慣があって,かつては市内全域でみられたといいます。現在はこの付近2kmほど槇の生け垣の道が続きます。



 あいさいロードを300m強進んだ左手には森川の津島社があります。





 森川の津島社から150mほど進むと右手に専随寺(真宗大谷派)があります。織田信雄の家臣の石原武太夫の長男仁右衛門が,東本願寺護持のために度々の上山と上納を行ったため,特別の計らいで親鸞聖人の御影一幅,六字名号一幅を賜ったといいます。そこで仁右衛門は法名を了海と改め,この地に一宇を設けて専随寺という寺号を賜ったといいます。本尊は東本願寺第15代の常如上人から賜ったという阿弥陀如来で,延宝5年(1677年)の銘があります。境内の本堂前には「赤芽の白山桜」という珍しい桜の木があります。かつては愛知県の天然記念物に指定されていましたが,昭和34年(1959年)の伊勢湾台風により倒木したため,指定から解除されました。しかしその後,根元から芽吹いた若芽が立派に成長し,かつてと同じような美しい花を咲かせるようになったといいます。

薬師寺
森川町上古川106



 専随寺から北に300m弱進むと左手に上古川の富岡神社があります。このすぐ横には下古川の地蔵堂があり,毎年8月15日頃には「ぼんたたき」と呼ばれる伝統行事が行われます。これは子どもたちが村の家々を回って庭をたたくという行事で,かつては立田・八開の各地で行われていたといいます。各家では掃除をして子どもたちを出迎え,子どもたちは村に伝わる「はやし唄」をうたいながら庭にしゃがんで一斉にたたくといい,家の人々はたたき終わると「志」のおこづかいをいただいたといいます。



 富岡神社から250mほど進むと右手に薬師寺(曹洞宗)があります。泰平山と号し,天明年中(1781〜88)に設けられた薬師堂を起源にしているといいます。昭和22年(1947年)に現在の寺号となりました。

森川花蓮田
森川町村仲86



 薬師寺の西側のT字路を西方向に進み,200mほど進んだ学校給食センターの先の筋を左折します。続く筋を左折して蓮池に挟まれた道を200mほど進むと左手に森川花蓮田があります。7月から8月にかけての花のシーズンには見事な蓮の花が咲き乱れ,花を求めて多くの観光客で賑わいます。7月第2または第3日曜日には蓮見の会などのイベントも開催されています。この付近の水郷地帯は愛知県でも有数の蓮根の栽培地としても知られ,夏は広大な面積に蓮の花が咲き誇る圧巻の景色になります。

富岡神社(古木江城跡)
森川町村仲86



 森川花蓮田から西に進むと川にさしかかるので,この手前を左折して少し進んだ先に富岡神社があります。尾張国国司の大江匡衡が長保3年(1001年)に勧請したと伝わり,立田輪中17カ村の総鎮守として多くの人から崇敬を受けたといいます。祭神は豊岡比当スで,大正5年(1916年)に神明社が合祀されて,天照皇大神も祀られるようになったといいます。この付近でもっとも古い神社で,長い歴史を感じさせます。



 境内には古木江城跡の碑があります。古木江城(小木江城とも)この付近に大きな勢力を誇っていた一向宗の立田門徒に対抗するために永禄10年(1567年)頃に織田信長の弟である織田信興によって築城されました。元亀元年(1570年)に織田信長が近江国で浅井長政・朝倉義景らの軍隊で挟まれて動けない状態になっていたとき,立田門徒らに急襲されます。6日間の激戦の末に城は滅ぼされ,信興勢は全滅したといいます。信長と一向宗の戦いを偲ぶ史跡になっています。

道の駅立田ふれあいの里
森川町井桁西27 [公式HP(外部リンク→]





 富岡神社から北に戻って,県道で橋を渡った先に,道の駅立田ふれあいの里があります。平成17年(2005年)に開設された尾張地区では最初の道の駅で,立田地区の観光拠点の中心となっています。観光案内などを行う情報交流施設のほかに,名物の蓮根を中心とした産直市場やレストランなどがあります。色々な蓮根料理が味わえるあいさい弁当やレンコンラーメン,レンコンうどんやレンコンが入ったパンなど各種の蓮根料理が有名です。ウォーキングの拠点にするのに最適な場所ですので,じっくり休憩するとよいでしょう。

即隋寺
立田町富安124



 立田ふれあいの里から県道を300mほど進み,次の信号を右折します。さらに2詰目の筋を左折して少し進むと右手に即隋寺(真宗大谷派)があります。永禄元年(1558年)に創建,貞享3年(1686年)に現在地に移されたと伝わりますが,その後の火災で文書が失われ詳しいことはわかりません。火災後の安永6年(1777年)に再建されますが,明治24年(1891年)の濃尾地震で倒壊し,長らく仮堂でしたが昭和58年(1983年)に再建されました。



 即隋寺の先の十字路を左折し,100m先の突当りを右折して100mほど進むと,富安の八幡社があります。創建は不詳ですが,明治38年(1905年)に神明社も合祀されたといいます。

立田大橋
立田町松原・立田町福原





 八幡社から堤防上に進み,南にある立田大橋を渡ります。立田大橋は昭和59年(1984年)に開通し,長良川の長良川大橋,揖斐川の油島大橋と合わせて,愛知・岐阜・三重の三県を結ぶ重要な橋になっています。この付近は愛知県の県境は長良川になっており,立田大橋は両岸とも愛知県である木曽川唯一の橋になっています。雄大な木曽川の眺めを楽しみながら歩くことができ,干潮時には川底にある遺構を見ることもできるそうです。交通量が多いので注意して歩きましょう。

国立木曽三川公園・東海広場
立田町福原地先 [公式HP(外部リンク→]





 立田大橋を渡った先を左折します。この交差点からは西に木曽三川公園の展望タワーを望めます。また,この地点には特徴的な長良川大橋の観測所が設けられています。





 そのまま木曽川を左に見ながら進む道に入ると,左手には国立木曽三川公園の東海広場があります。広大な芝生広場や対岸にはバーベキュー場があり,気候のよい休日になると家族連れで賑わいます。国立木曽三川公園は全部で13カ所の公園からなりますが,この広場は平成2年(1990年)に開設されたものです。東海広場の河川敷を南下していったところにはねじ柳の碑があるといいます。平治元年(1159年),平清盛に敗れた源義朝は東国へ敗走し,この付近にたどり着きました。その時に空腹に耐えかねて,近くにあった藤右衛門宅と隣の三右衛門宅に食事を頼んで御馳走になったといいます。その時,義朝は世話になった証として,箸として使った柳の枝を川端に刺して出発しました。その刺した柳の枝は後に立派に根付き,ねじ柳という大木として有名になりました。明治20年代の木曽川の改修工事で柳は水没して枯れてしまい,現在はこの碑のみが柳の存在を今に伝えているといいます。

誓光寺
立田町福原88-1



 東海広場を左に見ながら進み,次の筋を右に入って道なりに150mほど進むと福原神明社があります。創建は不詳ですが,明治37年(1904年)に木曽川の改修で現在地移転したといいます。この付近は長良川と木曽川にはさまれた特徴的な輪中地帯になっています。





 そのまま南に進んで突当りを左折すると100mほどで誓光寺(真宗大谷派)があります。松法山と号し,寛永7年(1630年)の創建と伝わり,桑名市の西福寺から分かれて旧松田村に建立されたといいます。当初は西福寺でしたが,貞享元年(1684年)に誓光寺と改称し,明治20年代の木曽川改修工事で村が川底に沈むことから現在地に移されたといいます。



 誓光寺から約100m進んだ2本目の筋を右折すると,立田南部小学校の福原分校があります。愛知県内唯一の分校といい,加藤太兵衛(1836〜1907)が設けた加立学校に由来するといいます。加藤太兵衛は実弟の黒宮許三郎と共同で,三稲外繰出新田(現,弥富市)の開発をしたり,安城ヶ原に明治用水を開通させる事業に尽力してこの地域を日本のデンマークと呼ばれる穀倉地帯にしたりと,この地域の政治に関与して地域発展に尽力しました。



 なお,福原分校の少し西の長良川河川敷には福原の渡し跡の碑があります。江戸時代以降,福原から対岸の油島に渡るために設けられた渡し船で,多度大社の参拝客などで賑わいました。大正10年(1921年)まで設けられていたといいます。

木曽川文庫
立田町福原88-1





 福原分校から東方向に戻り,200mほど道なりに進んで堤防沿いの県道に合流します。そのまま県道を400mほど進むと右手に木曽川文庫があります。揖斐川,長良川,木曽川の木曽三川が流れるこの地域は,古くから水との戦いの歴史があります。ここでは集落を堤防で囲う輪中集落の形成から,江戸時代に設けられた御囲堤,薩摩藩による宝暦治水による工事,そして明治のヨハネス・デ・レーケらによる木曽三川分流工事など,木曽三川の治水の歴史を学ぶことができます。また治水に関する資料の保存や公開なども行われており,木曽三川にまつわる様々な調べものにも活用できます。

船頭平河川公園
立田町福原272 [公式HP(外部リンク→]





 木曽川文庫から南に進むと船頭平河川公園があります。木曽川と長良川を行き来する船のために設けられた船頭平閘門[国重文]を中心として設けられた公園です。公園の中心にある船頭平閘門は,明治25年(1892年)からの木曽三川分流工事によって木曽川と長良川の船の行き来ができなくなったため,2年後の明治27年(1894年)に2つの川をつなぐ水路の建設が決定し,明治35年(1902年)に完成しました。長良川の方が木曽川より水面が約2m低かったため,閘門により水位を調節できるようになっています。完成当時は年間2万隻の船が通過したといいますが,現在は漁船やプレジャーボートなど200隻程度の通過になっています。現在は北の葛木港から運行される観光船に乗れば,閘門を船が通るのを体験することができます。



 平成6年(1994年)に電動化などの改修工事が実施され,平成12年(2000年)には現在も稼働している貴重な閘門として国の重要文化財となりました。なお改修前の水門の扉は,閘門の北側に展示されています。



 船頭平閘門のすぐそばにはヨハネス・デ・レーケ(1842〜1913)の銅像が建てられています。オランダ人技師として明治6年(1873年)に来日し,同じく土木技師だったG.A.エッセルらとともに淀川の改修や三国港(福井県)の改修に関わりました。その後,木曽三川分流工事に中心になって関わり,10年にわたって心血を注ぎ成功させ,この地域の発展に貢献しました。明治36年(1903年)に日本を離れるまで多数の報告書をまとめ,日本の砂防や治山工事を体系づけたため「砂防の父」とも呼ばれています。日本を離れた後は中国上海の黄浦江の改修事業にも技師長として辣腕をふるい,大正2年(1913年)にアムステルダムにて没しました。



 公園の南側には大きなハス園が設けられています。7〜8月には15種類もの見事な蓮が咲き誇ります。公園では4月には芝桜,5〜6月にはカキツバタなども楽しむことができるそうです。



 船頭平公園の南東側の出口から出て,左手に進んでいった先に西船頭平八幡社があります。創建は不詳ですが,船頭平の氏神として信仰を集めました。公園の拡張などで平成8年(1996年)に現在地に移転しました。



 八幡社から100mほど南下し,続く筋を左折した先には福原新田の神明社があります。天明5年(1785年)に祀られたといい,その後木曽川の改修工事で点々と移動したと伝わっています。

ゴール:桑名市コミュニティバス・松之木集会所バス停



 神明社から先の筋を右折し,150mほど先の突当りを右折して,続く筋を左折します。100m強進んだ先を左折した先にゴールの松之木集会所バス停があります。ここから桑名市コミュニティバスの長島ルートが,1日4本長島駅との間を結んでいます。利用する場合は時刻をあらかじめ調べておきましょう。なお,ちょうどよいバスがない場合は徒歩利用となり,JRおよび近鉄長島駅まではおよそ4km,徒歩50分程度かかります。

(プラスワン)立田町周辺の寺院



 立田ふれあいの里から橋を渡って鵜戸川を左に見ながら600mほど進んでいきます。次の橋のある十字路の一つ手前の筋を右折し,続く筋を左折すると随順寺(真宗大谷派)があります。応永元年(1394年)の創建といい,当初は真言宗で清水山西道寺と称し,美濃安八郡にあったといいます。その後,幾多の変遷を経ますが,応仁年中(1467〜69)に浄土真宗に改宗され,元和6年(1620年)に栄通寺と改称されます。その後寛永元年(1624年)に現在地に移され,このころに現在の寺号になったと考えられています。明治16年(1883年)に火災により記録が失われました。



 さらに500mほど東の雀ヶ森町には,道泉寺(真宗大谷派)があります。寛永9年(1632年)に僧玄清が創建し,慶安年中(1648〜52)に正玄が中興したといいますが,それ以外は災害により流出し,詳しくわかっていません。

(プラスワン)木曽川沿いの寺院・史跡

 木曽川沿いの地域には,明治以降の木曽川の改修で川底に沈んだ村々から移転してきた寺院などが点在しています。



 立田大橋から1.5kmほど北に田尻城跡の碑があります。詳しいことはわかっていませんが,輪中を望む砦があったと推定されています。また,城跡に近い木曽川堤防上には小家の渡し跡の碑があります。立田大橋が開通する昭和59年(1984年)まで無料渡船が運行されていました。



 田尻城跡から南に600mほどのところに宝球寺(真宗大谷派)があります。宝樹山と号し,永正7年(1510年)に開創されたといい,当初は伊勢国香取庄にあったといいますが,永禄元年(1558年)に美濃国鹿野村に,寛永元年(1624年)に立田の和田村に移転しました。明治20年代の木曽川改修工事で移転し,さらに木曽川の堤防拡張工事で昭和60年(1985年)頃200mほど南東の現在地に移転したといいます。



 立田大橋の南400mほどのところには龍音寺(曹洞宗)があります。興雲山と号し,寛永13年(1636年)の創建で,赤目町の一心寺の末寺だったといい,本尊は聖観世音菩薩といいます。明治24年(1891年)の木曽川改修工事で現在地に移転し,昭和19年(1944年)の南海地震で本堂などが倒壊したため,昭和40年(1965年)に再建されたといいます。



 さらに700mほど南下した先には頓教寺(真宗大谷派)があります。創建は不詳ですが寛文3年(1663年)に寺号が与えられたといいます。明治36年(1903年)に木曽川改修工事により移転し,その後,昭和19年(1944年)の南海地震と翌年の三河地震により大きな被害を受け,苦労を重ねましたが現在に至ります。
 このように,木曽川沿いの文化財を訪ねることで,木曽川の改修工事によってこの地域が大きく変貌した様子がうかがえます。


写真使用数:46

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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