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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県丹羽郡扶桑町:扶桑西コースFUSO WEST

2017年12月探訪。2017年12月29日作成

【コース】 距離:約9.9km
 町西部の柏森・斎藤・山那地区などをめぐります。悟渓和尚ゆかりの臨済宗の寺院を訪れ,広大な木曽川の自然と文化に触れるコースです。

≪コース≫ 名鉄・柏森駅〜柏森神社〜札の辻道標〜専修院〜正覚寺〜前利神社〜顕宝寺〜悟渓寺〜(小淵)神明社〜薬師寺〜木曽川扶桑緑地公園〜山那神社(山那)〜東漸寺〜龍泉寺〜山那神社(南山名)〜高熊神社〜扶桑町役場〜名鉄・扶桑駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄犬山線・柏森駅





 スタート駅である名鉄犬山線の柏森駅は,特急なども停車する主要駅で名鉄名古屋駅から新鵜沼・犬山方面行の特急を利用して約21分,急行・準急を利用して約25分で行くことができます。本数はそれぞれの種別が30分に1本程度運転されていますので,アクセスは便利です。柏森駅の北口から出てスタートしましょう。

柏森神社
柏森丙西屋敷2-1





 柏森駅の北口から右手の筋を進んで北上し,100mほど進むと左手に柏森神社があります。明治41年(1908年)にこの地にあった白山社に大明神社が合祀されて,柏森神社と改称されたといいます。元白山社は万治2年(1659年)に勧請されて「中の宮」と称したといい,元大明神社は創建不詳で西屋敷の地にあり,「西の宮」と称したといいます。境内には市守神社がまつられており,これは市のある日に火災が続いたことから市商人がまつったものといい,大正10年(1921年)に現在地に移されたといいます。



 柏森神社の正面から伸びる筋を東に入ったところには善光寺(浄土宗)があります。明治36年(1903年)に念仏宣流のために現在の京都市左京区静市静原町にあったという観音堂を移築して創建したといい,明治38年に善光寺と改称したといいます。



 なお,善光寺の東300mほどの名鉄の線路沿いには地域から信仰されている黒野天神社があります。

札の辻道標
柏森中屋敷1付近



 柏森神社から北上した「柏森西屋敷」交差点の北東には札の辻道標があります。駅から北上してきた道は旧岩倉街道(柳街道)に当たり,この交差点は小口・江森街道との交差点で,高札が掲示される場所だったことから札の辻と呼ばれました。道標には「左 犬山道 右 うちつ・こまき道・よの」と刻まれているといい,長い間柏森小学校に移されていましたが,最近になって元々あった現在地に移されたといいます。

専修院
柏森乙西屋敷62







 「柏森西屋敷」交差点から150mほど北上して3本目の筋を左折して100mほど進むと専修院(浄土宗西山禅林寺派)があります。解脱山と号し,健治年間(1275〜77)または弘安3年(1280年)の創建と伝わり,元は真言宗で竜雲山大道寺と称したといいます。弘安7年(1284年)頃,浄土宗に改宗して現在の寺号に改められ,浄土宗の一大伽藍が整備され,4つの塔頭を持つ壮大なものだったといいます。元亀2年(1571年)に織田信長の兵火にかかって客殿を残して焼失し,客殿を仮本堂としていましたが,天正5年(1577年)に柏森駅の西にあった客殿を現在地に移して本堂とし,再興したといいます。入口に当たる東門[町文化]は元々犬山城二の丸にあった矢来門が明治9年(1876年)に移されたもので,江戸初期の城門の高麗門という形式が残り,300年以上の歴史を持つ貴重な門といいます。

正覚寺
斎藤県タ21





 専修院から東に1筋戻って左折し,300m弱北上します。柏森小学校に突き当たったら小学校左手の道を200m弱進み,突き当たったら左の県道に合流して,先の「柏森」交差点を左折して200mほど進むと左手に正覚寺(臨済宗妙心寺派)があります。医王山と号し,創建は不詳ですが往古は真言宗の巨刹だったといいますが,幾度も兵火にかかって荒廃したといいます。永正6年(1509年)に友峰和尚が臨済宗の寺院として再興して中興開山となりますが,天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで焼失したといいます。本尊は薬師如来で天平14年(742年)に聖武天皇の勅命により行基が自作したものと伝わります。本尊両脇には円空作の正覚寺の十二神将[町文化]があり,円空仏らしい粗削りな彫が魅力といいます。約300年前の作品といい,円空仏の十二神将は数も少なく,江南市の音楽寺のものと並んで貴重な文化財といいます。寺宝として元竜泉寺和尚是孝が天明2年(1782年)から寛政6年(1794年)までの13年の歳月をかけて書き写したという大般若経[町文化]があります。堂の裏には多数の舟形地蔵尊がまつられており,この付近では江戸時代初期にキリシタンの処刑が行われた場所といいます。扶桑町ではキリシタン弾圧・処刑にまつわる場所が多くあり,高木・斎藤・高雄の旧家には24通の切支丹関係古文書[町文化]が保管されているといいます。

前利神社
斎藤宮添3





 正覚寺から1筋南に戻って前利神社の標柱のある道を300mほど東に進むと前利神社があります。創建は不詳ですが,「続日本後記」承和8年(841年)に県主前利連の氏神として祀られていたことがみえ,平安時代の延喜式神名帳にある丹羽郡前利神社とある古社です。「尾張名所図会」には天神社と称していたことが記載されています。旧県社として徳川家からも信仰を受けていたといい,明治3年(1970年)に徳川慶勝が自ら参拝し揮毫したという前利神社掛軸[町文化]が伝わっています。

顕宝寺
南山名寺前28





 前利神社の東側から出て左に進んで北上し,突当りを左折して続く筋を右折します。ここから700mほど道なりに進み,突当りを右折した先に顕宝寺(臨済宗妙心寺派)があります。多福山と号し,正安3年(1301年)に多和田七右門尉が両親の菩提を弔うために開基したといい,当初は浄土宗の寺院だったといいます。明応9年(1500年)に再興され,この付近で臨済宗の布教をした悟渓和尚が中興開山となって臨済宗の寺院となりました。享保18年(1733年)に火災で焼失したため,同年に現在地に移転したといいます。境内の釈迦堂に安置されている鋳造誕生仏立像[県文化]は,昭和40年(1965年)に南山名の畑で発見された10世紀のもので,昭和46年に寺へと寄贈されて,のちに奈良国立博物館によって平安初期鋳造仏の基調となる全国的にも稀な誕生仏と鑑定されました。左肩から袈裟をかけた姿が珍しいものといい,毎年4月第1日曜日の花まつりの際に開帳されるといいます。



 顕宝寺から北の県道に出て左折し,県道を西へ300mほど進むと左手にイオンモール扶桑[公式HP(外部リンク→)]があります。この付近の休憩拠点としても利用できる大型のショッピングモールになっています。

悟渓寺(悟渓屋敷)
南山名本郷94-1





 イオンモール扶桑の北側から出てそのまま続く筋を500m北上し,突当りを右折して2本目の筋を左折すると,悟渓寺(臨済宗妙心寺派)があります。この地は悟渓屋敷[町史跡]と呼ばれ,正長元年(1416年)に生まれた悟渓宗頓の生誕地といいます。悟渓宗頓は室町時代の高僧で,10歳で出家して瑞泉寺(現,犬山市)に入山し,のちに妙心寺の所持を務めて東海派の開祖となりました。尾北地方から美濃地方にかけて臨済宗妙心寺派の普及を行い,徳林寺(現,大口町)や顕宝寺などの建立に携わったといいます。





 境内には悟渓禅師生誕地の碑と寛永7年(1630年)に建てられたという無縫塔があります。また,本堂前にはシンボルともいえる立派なしだれ桜があり,春には見事な花を咲かせます。

(小淵)神明社
小淵本郷1231





 悟渓寺から回り込んで裏手の道に出て右折し,続く十字路を左折して北上し,さらに次の交差点を左折します。100mほど進んだ突当りを右折して200mほど進んだ左手に(小淵)神明社があります。創建は不詳ですが小淵村の旧村社として信仰を受けた神社です。末社には熊野社,稲荷社などがあり,熊野社は貞享4年(1687年)に木曽川の大洪水が起こったときに無事を祈念して被害が免れたことから,祠を建立したと伝えられています。また稲荷社は明治初期に木曽川堤にあったものが移されたといいます。夏には江戸時代から続く虫送り行事であるおんからかみ[町民俗]が行われます。笹竹で作られた畳一畳ほどの船に,討ち死にして害虫になったという斎藤実盛と船頭,御姫様を意味する3体のわら人形を乗せ,子どもたちが町に曳いて回るといいます。家々では焚火がたかれ,子どもたちが笹竹で火を消しながら回り,五穀豊穣や無病息災を祈るといいます。

(小淵)薬師寺
小淵堤南1391



 神明社の右側の筋を北上して200mほど進み,はしご櫓のある交差点を左折して続く分岐を右に進みます。



 さらに2本目の筋を右折して続く筋を左折すると,右手に(小淵)薬師寺(臨済宗妙心寺派)があります。創建は不詳ですが往古は木曽川の中洲にあったといいます。寛永6年(1629年)に木曽川の洪水で流出したため,天明8年(1788年)に現在地に移されたといいます。境内の祠堂にはキリスト像をかたどったという石割不動や舟形地蔵尊が祀られ,これらは江戸初期のキリシタン弾圧で亡くなった人々にまつわるものであるといいます。

木曽川扶桑緑地公園
小淵砂原 [公式HP(外部リンク→)]





 薬師寺の先の突当りを右折して100mほど進み木曽川の堤防上に出ます。県道を注意して渡った先には木曽川扶桑緑地公園があります。木曽川沿いの10ヘクタールの敷地にアスレチックやグランド,テニスコートなどが整備され,家族連れなど多くの人に利用されています。



 公園西側のアスレチックの南側には,般若用水元杁跡[町史跡]があります。般若杁は小田井村の杁と並んで尾張最古の元杁(水の取り入れ口)といい,当初は慶長13年(1608年)に旧岩手村の現在地より約70m下流に設けられました。寛永11年(1634年)に木曽川が氾濫して流されたため,現在地に移されたといいます。元文5年(1740年)には土砂の堆積が進んで使われなくなり,さらに上流の木津用水の取水口から水が取り入れられることになりました。





 般若用水元杁跡から公園を北に進み,一度北の出口から公園を出て畑を西に進んだところには旧岩手村跡の塚[町史跡]があります。岩手村は木曽川の川洲にできた尾張最北の小村で江戸初期には30名余りが暮らしていたといいます。しかし慶長12年(1607年)に御用囲堤が築堤されたことで洪水の危険が高まったことから,ついには無住になってしまったといいます。この塚のあったところは,旧岩手村の精神的なよりどころとして弁財天と地蔵が祀られ,洪水の際の避難場所になったといわれています。また塚のところには県内でも屈指の大きさという26mもの樹高のイロハモミジ[町天然]が生育しています。



 塚から公園に戻って,さらに東に300m強進んで黄色いすべり台のあるところから南下して県道の所に出ると小淵の渡し跡[町史跡]の碑があります。元々はやや上流にあって山名(やな)の渡しと呼ばれ,対岸の前渡(岐阜県各務原市)との間を結んでいました。渡しの歴史は古く,「吾妻鏡」承久3年(1221年)の項にも「摩免戸渡」としてその名前が現れるといいます。明治末期に小淵の渡しとなり,美濃と尾張の往来のための重要な交通路となりましたが,鉄道の開通や架橋などによって利用者が減少し,大正末期になくなりました。碑の場所から木曽川の渡しに続く道があったといいますが,現在は完全に公園になってしまっています。



 小淵の渡し跡から県道を東へ100mほど進んだところには御囲堤の案内板があります。尾張徳川家の支配がはじまった慶長13年(1608年)から,徳川家康は犬山から木曽川河口に至る約50kmもの堤防を伊那忠次に命じて築かせました。この堤防は御囲堤と呼ばれ,わずか2年あまりで完成しました。この御囲堤によって木曽川の流路が安定し,名古屋の街の建設も始まって尾張の発展につながっていったといい,また西の豊臣方の大阪城から尾張を守る役割も果たしたといいます。御囲堤の案内板のそばには昭和26年(1951年)に小淵杁が完成した際に設けられた当時の吉田茂首相筆の碑があります。



 北に進んだ公園には小淵杁の案内板があります。木曽川の南を流れる宮田用水に水を引き込むために設けられた杁の一つで,昭和12年(1937年)に着工しましたが,戦争や水害などでたびたび中断し,昭和26年に完成したといいます。しかし土砂の堆積などで昭和40年代には取水困難となり使われなくなりました。以降は木津用水など犬山城下の取水口から水を引いて尾張地区の水を確保することになります。





 小淵杁の案内板から東に進むと木曽川沿いの遊歩道が整備されています。この付近は地元の人々によって小淵の三本桜など,桜並木が整備されて歩いていて楽しい道になります。



 遊歩道を400mほど進んで右手に進んで堤防に上がると,山名の常夜灯があります。かつて山名の渡しがあったときの目印となった常夜灯で,船で川を行き来する人にとってもよい目印になったといいます。

山那(やな)神社(山那)
山那屋敷地609





 山名の常夜灯のところから県道を注意して渡って右手の堤防下に続く道に入り,南下して突き当たったら左折して100mほど進むと右手に山那の山那神社の裏手入り口があります。かつては木曽川の中洲に鎮座していましたが,寛永6年(1629年)の大洪水で神社や民家などがことごとく流失したため,末社の神明社があった現在地に移されたといいます。明治30年(1897年)までは天神社と称していたといいます。



 神社正面入り口の少し東側には,儀典用端折長柄傘[町文化]の案内板があります。野立の席やお茶会,パーティーなどで用いられる朱色の儀典用端折長柄傘は,別名「つまおり傘」と呼ばれ,昭和18年(1943年)に民芸の大家である柳宗悦によって紹介され,一躍全国に名が知れるようになりました。この北にある尾関家では,約400年に渡って伝統の技法を守って傘の製作が続けられているといいます。



 山那神社正面入り口から西に300m進んだ右手には扶桑守口食品[公式HP(外部リンク→)]があり,守口漬などの漬物の販売が行われています。木曽川河川敷などで栽培されている守口大根は,通常の大根より細長いのが特徴で,191.7cmのものが世界一長い大根としてギネス認定もされています。元々は現在の大阪府守口市付近で栽培されていましたが,水はけがよく適度な粒子の砂が混ざっているという土壌から,現在は扶桑町が生産量の6割を占めるまでになっています。守口大根は身がしまって固いため漬物に適しているといい,これらを用いて守口漬が生産されています。守口漬は天正13年(1589年)に現在の大阪府守口市で休憩をとった豊臣秀吉が守口漬を食し,味を賞賛して名づけたという伝承があります。愛知県では,明治15年(1882年)に地元の実業家の山田才吉が,岐阜市付近で栽培されていた細長大根を利用して「守口大根漬」の販売を開始し,現在では名古屋・尾張地方の名産としてすっかり定着しました。

東漸寺
山那大持837



 扶桑守口食品からさらに100mほど西に進むと右手に東漸寺(臨済宗妙心寺派)があります。仏光山と号し,創建は不詳ですが隣接する龍泉寺と同年代といい,かつては龍泉寺の境内にあったといいます。寛永6年(1629年)に木曽川の洪水で被害にあったため,同17年(1640年)に現在地に移されました。龍泉寺を西寺と呼ぶのに対して,この寺は東寺と呼ばれ,東禅寺あるいは東禅庵と呼ばれました。明治29年(1896年)に現在の漢字の東漸寺に改められました。

龍泉寺
山那大持838 [公式HP(外部リンク→)]





 東漸寺の西に隣接して龍泉寺(臨済宗妙心寺派)があります。金毛山と号し,永正2年(1505年)に美濃国前渡(現,岐阜県各務原市)に当地の領主であった片山越後守成久が菩提寺として創建し,木曽川崖上寺子山にあって塔頭6カ寺を持つ大伽藍だったといいます。寛永6年(1629年)の木曽川洪水で堂宇などすべて流出したため,同8年(1631年)に土地の寄進を受けて現在地に移されました。明治22年(1889年)に火災で山門,土蔵を残して焼失し,酒蔵倉庫を移して庫裡としていましたが,平成13年(2001年)に新しいものに生まれ変わりました。禅寺らしく落ち着いた空間で,春には墓地の2本の桜も見事だそうです。

山那(やな)神社(南山名)
南山名森58







 龍泉寺と東漸寺の間から南下する山名小学校の左手の筋を400m強南下すると,左手に南山名の山那神社があります。創建は不詳ですが正暦年間(990〜94)に修復したという記録があることから相当の古社といい,平安時代の延喜式神名帳にも記載されています。明治43年(1910年)に村内の八幡社が,大正9年(1920年)に大明神社が合祀されました。境内南西には尾張平野部で屈指である樹高30mにおよぶケヤキ[町天然]がそびえ,神社の長い歴史を物語っています。かつて境内には廻り舞台や化粧室まで備えた舞台が設けられ,地域の若者の歌舞伎指導を行った小室仲太郎(1834〜1916)の影響もあって盛んに芝居が演じられたといいます。現在は,舞台は取り壊され,舞台の絵図や由来が書かれた案内板が設けられています。

高熊神社
高木福1148



 山那神社の正面からまっすぐ400mほど進み,突当りを右折して100m先の次の筋を左折します。さらに200mほど先の2本目の居酒屋のある筋を右折すると,少し先に高熊神社があります。明治43年(1910年),元々熊野社があった場所に,村内の白山社と八王子社を合祀して社名を改称して設けられました。旧熊野社は棟札によると文明年間(1469〜86)以前の創建といい,幸宮,福宮などと呼ばれていたといい,それにより字名が福になったといいます。八王子社は8柱が祀られていることから名前がつき,福の宮とも副の宮とも称したといいます。



 高熊神社の先の十字路を左折し,続く筋を右折して50mほど進むと地蔵寺(臨済宗妙心寺派)があります。創建は不詳ですが,東の覚王寺8世が寛政3年(1791年)から隠居していることからその頃の創建と考えられています。

扶桑町役場
高雄天道330 [公式HP(外部リンク→)]



 地蔵寺の先を左折し,続く筋を左折して100mほど進み広い筋に戻ったら右折します。さらに200mほど「扶桑町役場西」交差点を越えて進むと,右手に扶桑町役場があります。扶桑町の行政の中心で様々な情報も手に入れることができます。扶桑町は明治39年(1906年)に柏森村,高雄村の大部分と山名村,豊国村が合併してできた扶桑村がその前身で,かつては養蚕業が盛んで桑畑が多く,桑によって扶養される町であることから扶桑と名づけられたといいます。現在は減りましたが,町内での養蚕はまだ行われているといいます。



 扶桑町役場の先には,JA愛知北の扶桑支店があります。産直センターは地元産の野菜の直売所になっており,新鮮な野菜をお値打ちに購入することができます。

ゴール:名鉄犬山線・扶桑駅





 JA愛知北の先の「扶桑駅西」交差点を左折すると,ゴールの扶桑駅西口に到着します。犬山線の急行・準急列車が利用でき,名鉄名古屋駅まで30分弱で到着することができます。普通列車に乗車した場合は,途中の岩倉駅などで乗り換えるといいでしょう。本数は各種別とも30分ごとに運転されており,合わせて1時間に6本ほどです。

写真使用数:53

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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