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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県江南市:江南東コースKONAN EAST

2017年12月探訪。2017年12月11日作成

【コース】 距離:約10.5km
 市東部の社寺と史跡をめぐります。庶民信仰が生きる社寺のほか,江南ゆかりの武将,蜂須賀小六と前野将右衛門ゆかりの史跡をめぐります。

≪コース≫ 名鉄バス・市民体育会館バス停〜永正寺〜高屋神社〜地蔵寺〜八所社〜二夕子薬師〜八幡社〜薬師寺〜安楽寺〜蜂須賀屋敷跡〜宮後八幡社〜井出神社〜観音寺〜前野天神社〜前野家屋敷跡〜歴史民俗資料館〜北野天神社〜名鉄・江南駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄バス・市民体育会館バス停



 前コースのゴール地点である名鉄バスの市民体育会館バス停がスタートです。江南駅西口から名鉄バスの市民体育会館経由すいとぴあ江南行,または江南厚生病院行に乗車しておよそ10分で到着することができます。本数は1時間に2本程度ですので時刻は調べておいた方がいいでしょう。南に進んで「市民体育会館西口」交差点から出発しましょう。余裕があれば前コースから続けて歩くことも可能です。

永正寺
高屋町中屋舗46 [公式HP(外部リンク→]



 「市民体育会館」交差点から東に進むとすぐ左手に市民体育館があります。







 市民体育館から400mほど東に進んで「高屋町」交差点の1つ手前の筋を左折して100m強進んだ2本目の筋を右折した先に永正寺(臨済宗妙心寺派)があります。高屋山と号し、永正元年(1504年)に杉山主水(もんど)による開創といい,長良崇福寺(現,岐阜市)から獨秀乾才が招かれて開山になったといいます。往古は高屋庵と称しましたが,享保12年(1727年)に現寺号に改めたといいます。平成16年(2004年)に設けられた真新しい山門があって整備された境内になっており,想いの滝と呼ばれる水辺や藤棚も整備されています。本堂は濃尾地震で倒壊したのちの明治26年(1893年)の再建で,イベントやコンサートなども行われ,地域に開かれた寺院になっているといいます。

高屋神社
高屋町本郷108





 永正寺から県道を南下して「高屋町」交差点を左折し,150mほど進んだ3本目の筋を左折すると高屋神社があります。延長8年(930年)創建という千年以上の歴史を誇る古社で江戸時代は八所大明神と呼ばれ,明治5年(1872年)に八所社となり,明治43年(1910年)に高屋神社と改称されたといいます。その後昭和初期に東向きだった社殿が南向きに改められたといいます。



 境内南西部には高さ24.5mで樹齢400年余りというくろがねもち[市天然]がそびえます。くろがねもちは市内各地にあって植栽もされ,江南市の市の木にも指定されていますが,この木はその中でも最大級の立派なものです。また,境内の大杉の付近は,伊勢神宮外宮領の高屋御厨があった場所と「尾張名所図会」が伝えています。

地蔵寺
山尻町本丸西4



 高屋神社の東側の出口から出て150mほど進み,3本目の筋を左折して300mほど進んだ五差路のところを右奥方向に進みます。さらに100mほど進んだ2つ目の筋を左折した先に地蔵寺(臨済宗妙心寺派)があります。延命山と号し,正徳4年(1714年)に地蔵堂として創建され,元々は曹洞宗の岐阜正覚寺に属しましたが,のちに永正寺の末寺となりました。本尊の地蔵菩薩は,昔子供にめぐまれなかった夫婦が熱心に祈ったところ子宝を授かったという言い伝えから「子育て地蔵」として広く知られており、尾張三地蔵の1つとして信仰されています。年2回の地蔵祭の際に本尊が御開帳されて多くの参拝客が訪れます。





 地蔵寺の左手の道を進んで続く十字路を右折し,続く突当りを右折し,2本目の筋を左折した先に日吉神社(山尻町)があります。創建は不詳ですが延宝5年(1677年)以来の棟札が残されています。椋の大樹などにおおわれた落ち着いた空間です。

(和田)八所社
和田町宮146



 日吉神社から100mほど北上して突当りを左折し,道なりに右左折して進むと勝佐の阿弥陀堂があり,誰も手を触れないのに火難を免れたという阿弥陀如来がまつられています。
その先の広い筋に出て50mほど進むと十王寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。江戸時代は十王堂と呼び,その後扶桑町専修院の末寺となって昭和27年(1952年)に現在の寺号になったといい,地蔵菩薩をまつります。





 十王寺から広い筋を150mほど北上した先に(和田)八所社があります。創建は不詳ですが,古くから天神社とともに和田にあった社といい,8柱の祭神がいると考えられています。境内は立派な椋の木が生い茂り,拝殿も整備され,境内には和田地区の歴史を記した碑も設けられ,わだつみ(海)のごとく水をたたえる木曽川から地名が生まれたという昔の和田地区を感じることができます。

二夕子薬師
和田町天神





 八所社の先の筋を右折して400mほど,先の県道を注意してわたって案内板にしたがって右折すると二夕子薬師があります。創建は不詳ですが江戸末期の弘化年間の村絵図に書かれています。一段高い台地の上に行基作と伝わる二夕子薬師如来がまつられ,古くからはれ物や目,耳などの病気に霊験があるとされて信仰を集めています。この台地は元々前方後円墳だったといい,登り道にある薬石は元々石室の一部だったと考えられています。

(山尻)八幡社
山尻町朝日106







 二夕子薬師から南下して200m弱進み,斜めに交差する筋を右奥方向に200mほど進むと左手に(山尻)八幡社があります。文保2年(1318年)の創建といい,明治42年(1909年)に同じ山尻地区にあった三社宮と境内社の子安社が合祀されました。かつて蜂須賀正勝(小六)が野武士だったころ,三社宮に兵馬や武器を隠したと言い伝えがあり,盗人宮とか隠れ宮とも呼ばれていたといいます。現在は八幡社の境内に三社宮旧跡地の碑が建てられています。
 なお,山尻町内の共同墓地には樹齢170〜220年、樹高8mにおよぶ百日紅(さるすべり)[市天然]があるといいます。

薬師寺
江守町上63



 八幡社の西側の出口から南下して突当りを左折し,100m先の十字路を右折して150mほど先の左手の道との合流地点まで進みます。その先の筋を左折します。250mほど進んだ五差路になっているところを右折して100mほど進むと左手に薬師寺(曹洞宗)があります。江林山と号し,延宝元年(1673年)に薬師堂として設けられて石仏の薬師如来が本尊になっています。大口町桂林寺の末寺で,昭和27年(1952年)に現寺号となりました。





 薬師寺から150mほど進んで県道を渡り,さらに100mほど進んで陸橋に突き当たったら左折し、続く筋を右折して陸橋をくぐり2本目の筋を右折した先に熊野社があります。延長6年(928年)創建と伝わり,明治43年(1910年)に村内の八王子社と住吉社が合祀されたといいます。境内はくろがねもちの大木など整備された落ち着いた空間が広がっています。

安楽寺
宮後町西屋敷72







 熊野社から北上して県道に戻って左折し,300mほど進んだ「江守西」交差点を右折して200m弱進んだ「宮後西屋敷」交差点を越えた次の筋を左折します。さらに100m強進むと右手に安楽寺(西山浄土宗)があります。天文6年(1537年)に曼陀羅寺12世賢恵が創建した同寺の末寺です。本尊は江戸時代作という十一面千手観音といい,現在の堂は嘉永3年(1850年)に名古屋京丸屋が再建したものと伝わります。境内に隣接して天道社など3社がまつられており,樹高11.8mのツバキ科の常緑高木であるもっこく[市天然]があります。

蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)
宮後町八幡58





 安楽寺の正面から続く道を150mほど進み突当りを右折して50mほど進んで県道に合流し少し進んだところに蜂須賀家政公誕生地の碑と家屋敷跡の案内板があり,道路をはさんで南側には宮後城跡の碑もあります。宮後城は守護大名土岐氏の配下であった安井氏の居城で,蜂須賀小六が織田信長と争って敗れた際に母の在所であったこの地に逃れたといわれ,子の家政がこの地で生まれたといわれています。県道をはさんだ地域に蜂須賀家の屋敷が広がっていたといい,東西60間,南北80間(1間は約1.8m)に及んだといいます。後に蜂須賀小六は生駒屋敷に出入りして信長,秀吉に仕えるようになったといいます。小牧長久手の戦いの際にも砦として用いられたといい,戦国ロマンを感じさせる場所です。

宮後八幡社
宮後町八幡79





 宮後城跡の「宮後」交差点を越えた先を右手前方向に200m弱進むと,左手に宮後八幡社があります。応永年間頃(1394〜1427)に宮後城主の安井氏が城の鎮護のために創建したと伝わり,天正15年(1587年)以来の棟札が伝わります。その後、寛永元年(1624年)に阿波城主となった蜂須賀家政が再建したといいます。本殿[県文化]は蜂須賀氏による再建から残るものと言われ,一間社流造で尾北の代表的な八幡造の古建築として貴重なものです。宮後城の砦としても利用されたといい,残されている石垣がその名残といいます。





 宮後八幡社から進んで名鉄の線路沿いまで出たところに秋葉寺(臨済宗妙心寺派)があります。大興山と号し,文政9年(1826年)の創建といい,長らく無住でしたが昭和15年(1940年)より尼僧が管理するようになり,昭和24年(1949年)に現寺号となりました。本尊は聖観音で秋葉権現もまつられ、山門前には馬頭観音や石仏もまつられた庶民信仰を感じる寺院です。

井出神社
宮後町清水4







 秋葉寺から名鉄の踏切を渡って,その先の左右の分岐を右に進んで100m先の突当りを右折して100m進むと右手に井出神社があります。平安時代の延喜式神明帳に見える丹羽郡井出神社(井立神社)とされ,祭神は不詳ですがこの付近に清水が出たことから水の神をまつって,豊作祈願を行ったと考えられます。なお,井出神社は当社のほかにも,岩倉市井上の神明社を比定する説もあります。元文3年(1738年)以降の多くの棟札があるといい,清水の神として多くの信仰を受けていた様子が伝わります。

井出の清水(清水公園)
前野町西1-1





 井出神社から参道を進んで正面まで出たら左手に進み,100mほど進むと右手に清水公園があり,井出の清水の案内板が設けられています。井出の清水は別名前野の清水とも呼ばれ,一面の荒野だった場所のここだけは清水があふれる場所でした。宮後村で恋愛関係のもつれからお菊という女性が清水に投げ込まれ,亡霊になって現れたという伝説があります。公園はベンチやトイレが設けられ,ウォーキングの休憩地点としても活用することができます。

観音寺
前野町西91





 清水公園から300mほど進んだ右手に観音寺(臨済宗妙心寺派)があります。仏徳山と号し,寛延元年(1748年)に徳林寺(現,大口町)3世の継山全初和尚を開山としてこの地にあったという弘法堂が観音堂として創建され,8世祖蘭和尚が再建して明治15年(1882年)に公称が認められ,昭和16年(1941年)に観音寺と改称されました。戦国時代にこの付近を支配した前野将右衛門長康の菩提を弔うために草庵が設けられたという言い伝えから前野氏の菩提寺と呼ばれています。本尊は古くは三面八臂座像観世音と言われていましたが,平成元年(1989年)の調査で不空羂索観世音菩薩であることがわかり,江南市内で唯一のものといいます。

前野天満社
前野町西214





 観音寺のすぐ東に前野天満社があります。文永2年(1268年)の創建と伝わり,当時支配していた前野氏の先祖に当たる吉田家4代時綱の母が,越後国菅原天満社宮司の娘だった縁で勧請され、菅原道真を祀ります。大永5年(1525年)に前野五郎九郎正義が天満社を再建し,前野氏の守り神として信仰されました。当時、天満社と八幡社、大日霊社が同じ場所にありましたが,明治44年(1911年)に合祀されました。神社改修の際に,墨俣築城の際に使ったというソリの車輪やのろし筒が見つかったため,戦国武将たちが勝利を祈願した神社としても知られます。春にはフジ[市天然]が花を咲かせ,境内を彩ります。

前野家屋敷跡
前野町西261



 前野天満社の正面から出て右に進み,県道を50m強進んだ先に前野家屋敷跡があります。戦国時代にこの地を支配した前野将右衛門長康をはじめとする前野氏の屋敷跡で,慶長13年(1608年)の絵図や八屋敷とこの付近が呼ばれていたという言い伝えから,広大な屋敷群が広がっていたといいます。前野将右衛門長康は蜂須賀小六とともに秀吉に仕え,その功績が認められて後に但馬出石(現,兵庫県豊岡市)領主となります。その後秀吉のおいの豊臣秀次につかえますが,秀次が秀吉によって自害させられると,彼を弁護したことをとがめられて文禄4年(1595年)に自害を命じられました。前野氏の子孫という吉田龍雲氏が,伊勢湾台風で被害を受けた土蔵を整理していたところ,先祖が書き残したという「武功夜話」などの古文書が大量にみつかりました。「武功夜話」には織田信長や豊臣秀吉がこの屋敷に訪れたこと,蜂須賀小六らとともに前野将右衛門長康が墨俣一夜城の建築に携わったことなど一族の武功が細かく記され,貴重な記録となっているといいます。



 前野家屋敷跡から100mほど南下して次の信号を右折します。ここから青木川を渡る橋の手前まで600mほど歩きますが,その途中は江南市の木となっているくろがねもちの並木が続きます。

日吉神社(山王町)
山王町本郷32



 くろがねもちの並木から青木川を渡る橋の手前まで来たら左折して川沿いに100mほど進むと日吉神社(山王町)があります。記録によると永禄3年(1560年)に滋賀県大津市坂本の日吉神社から勧請して創建されたといい,元禄3年(1690年)に再建されたといいます。明治末期に火災にあって大正4年(1915年)に本殿と祭文殿が再建され,伊勢湾台風で倒れた境内の桧を使って拝殿が再建されたといいます。祭文殿には寛永年間(1624〜45)のものという大太鼓や鬼瓦が社宝として保管されているといいます。



 日吉神社から青木川を渡る橋までも戻り,橋を渡ってすぐ右手には青木川の調節池があります。冬の渡り鳥を中心に鳥が多く訪れ,自然を感じられる場所です。

常蓮寺
宮後町砂場北235





 青木川調節池から西へ400m進んで砂場公会堂のある七差路になっているところを右折すると常蓮寺(臨済宗妙心寺派)があります。松林山と号し,寛永元年(1624年)に阿波城主となった蜂須賀家政の寄進で建立されたといい,明治11年(1878年)に観音堂と改称されますが,明治33年(1900年)に再び常蓮寺となりました。阿波城主となった家政が故郷に感謝の気持ちを込めて建立した寺として知られていましたが,老朽化が激しかったため多数の信徒が参加して平成5年(1993年)に落慶法要が行われたといいます。本尊の木像如意輪観音菩薩座像[市文化]は鎌倉末期の作といい,安産祈願の御利益があって家政の母の大匠院も信仰したと言い伝えられています。

江南市歴史民俗資料館
北野町川石25-1(江南市民文化会館1階)





 常蓮寺から南に戻り,さらに100mほど南に進んで十字路を右折し,続く筋を左折します。その先の少し広い筋を渡ってさらに100mほど進むと左手に中央公園があります。面積33,000平方メートルにおよぶ広大な公園で,子ども向きの遊具や広い広場などが整備され市民の憩いの場になっています。







 公園内の遊歩道を歩いて,公園南側まで進むと右手に江南市民文化会館があります。この1階には江南市歴史民俗資料館があり,江南の歴史について学ぶことができます。市内の文化財についての展示や市内遺跡の出土品,農業で使われた農具などが見どころになっています。

北野天神社
北野町天神7



 江南市民会館から駐車場を抜けて南側の筋に出て右折し,100m強進んだ信号の先には昔からのお堂があります。





 その先100mほど進んだ左手に北野天神社があります。棟札によると承応3年(1654年)の創建といい,学問の神様である菅原道真を祀り,「北野の天神さん」と親しまれています。昭和39年(1964年)より毎年2月に道真の命日を偲んで筆まつりが行われ,最近は1月下旬に行われます。合格祈願や学業成就を願う多くの人たちで賑わう行事です。

ゴール:名鉄犬山線・江南駅





 北野天神社から江南駅前の商店街を抜けて100mほど進むと,ゴールの名鉄犬山線江南駅の東口に到着します。駅前にも北野天神社や曼陀羅寺の案内碑が設けられています。名鉄名古屋駅まで特急で約18分,急行・準急で約22分で行くことができます。

写真使用数:56

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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