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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県江南市:布袋コースHOTEI

2017年12月探訪。2017年12月4日作成

【コース】 距離:約10.3km
 市南部の布袋駅周辺をめぐります。この地方を支配した生駒氏の史跡と信長側室の吉乃の方に関連する名所を訪ねるロマンあふれるコースです。

≪コース≫ 名鉄・布袋駅〜廣間家の門〜大仏殿〜道音寺〜東林寺〜白髭神社〜宝蔵院〜大日寺〜田代墓地〜龍神社〜常観寺〜生駒屋敷跡〜久昌寺〜神明社〜南山神明社〜曽本寺〜二子山古墳〜般若寺〜宝頂山墓地〜富士塚〜松岩寺〜名鉄・布袋駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄犬山線・布袋駅



 今回のスタート地点となる名鉄犬山線の布袋駅へは,急行・準急を利用して名鉄名古屋駅から約20分,普通列車では約30分で行くことができます。特急を利用した場合は,岩倉駅で乗り換えましょう。本数は急行・準急・普通を合わせて1時間に6本程度運転されています。布袋駅の西口から出て出発しましょう。
 布袋駅にはかつて大正元年(1912年)に名古屋電気鉄道として開通当初から現存する駅舎が現存していました。大正ロマンがただよう擬洋風建築で,地元有志による保存運動もありましたが,現在は取り壊され2019年の高架化に向けて工事が行われています。旧駅舎は一部が北にある保存倉庫にて保存されているといいます。

廣間家の門
布袋町中200



 布袋駅西口から目の前の筋を西に進みます。この通りには地名の布袋にちなんで,七福神の布袋の像がずらりと立ち並び,歩いていて楽しい通りです。



 100m強ほど先には地域住民の活動拠点である布袋ふれあい会館があります。



 布袋ふれあい会館から100m弱進んだ横断歩道のある交差点を右折して100mほど進むと,100mほど先に廣間家の門[市文化]があります。戦国時代よりこの地に拠点を持ち,江戸時代には尾張藩の重臣だった生駒家のご用医だった廣間家の前に立っており,廃藩置県のあった明治初期に生駒家から移されたものといいます。けやき造りで正面のなまこ壁が特徴的な当時の面影を残す貴重なものです。門の南袖には,主人がここから外出する際に駕籠ででかけたため,駕籠の棒を刺した穴が残されています。





 廣間家の門から2筋目を交差点を左に入ったところには,昔ながらの馬頭観音がまつられています。この通りは昔ながらの蔵もあり,趣がある通りです。







 100m強先の突当りは新町通りと呼ばれ,古い町並みが残ります。突当りのところには山星酒造があります[公式HP(外部リンク→)]。天保10年(1839年)創業という老舗の造り酒屋で,木曽の伏流水を利用して「星盛」「布袋野のほていさま」などのブランドの日本酒が生産されています。お酒は江南市周辺のスーパーなどでも購入できるといいます。ここから昔ながらの民家や珍しい3階建ての木造建築を見ながら南下します。

大仏殿
布袋町南18



 新町通りから南下して布袋駅からのメイン道路に戻ると右手に大仏殿(浄土宗)があり,高さ1m 33cmに及ぶ木造阿弥陀如来坐像[県文化]があります。この像は元々尾張一宮である真清田神社の西神宮寺の本尊で平安時代末期の作とされ,宝永8年(1711年)修復したという記録も残されています。明治維新の廃仏毀釈で西神宮寺が廃寺になり,この像も売却されますが,信心深いこの地にいた女性が大仏を譲り受けて,明治7年(1874年)に堂を建てて安置しました。大正2年(1913年)に堂が焼けますがこの像は運び出され,昭和20年(1945年)の一宮空襲の際にも被害を受けますが一部破損したのみで大きな被害はまぬがれました。その後,昭和61年(1986年)に仏像が修理されて文化財としてふさわしい形になり,江南市でも最古の部類の仏像として地域の人々から親しまれています。大仏殿の建物も昭和59年(1984年)に改築されて新しくなりました。



 大仏殿の少し東には尾張ういろの布袋店[公式HP(外部リンク→)]があります。江南で手作りされたういろうなどの和菓子を味わうことができます。

道音寺
五明町青木282



 大仏殿の西の交差点に戻って,ここから西に50m弱進んだ右手には布袋神社があります。布袋地区の戦没者を祀るために昭和13年(1938年)頃に設けられた神社で,境内の北には忠魂塔も設けられています。





 布袋神社から200mほど進んで道に合流し,そのまま100m強進むと右手に道音寺(曹洞宗)があります。一見山と号し,天文16年(1547年)に開基したといいます。当初は善香寺と称しましたが,寛永年間(1624〜44)に現在の寺号となり,後で訪れる久昌寺の末寺になったといいます。



 境内の観音堂には,木造聖観音菩薩立像[市文化]が祀られています。高さ80cmの寄木造で,寺伝によると定朝作で約600年前の「やろか水」と呼ばれる洪水の際にこの地に流れ着いたといいます。彩色ははがれおち,後世の補修も多いのですが,室町風の作品といいます。観音堂の左側には遊佐河内守の古い碑が立ちます。これは河内国若江城(現在の大阪府東大阪市)の城主だった遊佐河内守が秀吉との戦いで敗れ,この地に生駒氏を頼って訪れたことを縁に立てられたものと考えられています。尾張七福神の寿老善神の霊場として多くの参拝者が訪れます。

東林寺
五明町天王95





 道音寺から西へ200m強進んで「五明町天王」交差点を越えた先の右手には東林寺(西山浄土宗)があります。紫雲山と号し,寺伝によると宝暦年間(1751〜63)に周防国徳山の出身である詫龍大和尚が念仏の教えを広めた際に設けられたといい,明治19年(1886年)には曼陀羅寺の末寺となって阿弥陀堂と称し,昭和17年(1942年)にかつての名前だったという東光寺となりました。境内には温和な表情の観音が立ち,100年の歴史を誇るという四国88カ所の霊場が設けられた築山があり人々の信仰を集めています。また築山には樹齢100年以上というドウダンツツジがあり,見どころになっています。



 「五明町天王」の交差点に戻って横断歩道を渡ってから右折して南下し,続く筋を左折して150mほど進み,突当りを右折して150mほど南下すると善光寺(浄土宗)があります。創建は不詳ですが明治35年(1902年)に現在の京都市伏見区淀から移転したといいます。

白髭神社
五明町根場62



 善光寺から北に戻って,2つ目の筋を右折すると少し先に三寶大荒神が祀られています。





 さらに100mほど進んだ左手には白髭神社があります。創建は不詳ですが社伝によると享徳年間(1452〜54)に近江国白髭神社から猿田彦命を勧請して創建されたといい,元和3年(1617年)再建の棟札があります。境内はクスノキやイチョウなどの大樹が多く,よく整備されて住宅地の中の憩いの空間になっています。



 白髭神社の先にはピアゴ布袋店があります。ウォーキングの休憩地点として活用することができます。

宝蔵院
布袋下山町南175



 ピアゴ布袋店から200m弱進んで国道155号線に合流し,300mほど進んだ布袋下山町南歩道橋の先の筋を左折し,続く筋を右折すると宝蔵院(真言宗醍醐派)があります。明治32年(1899年)に五明町に堂宇が設けられ,同36年(1903年)に醍醐三宝院の末寺として現在地に移されたといいます。本尊は不動明王で,尾張七福神の布袋尊がまつられ多くの参拝客が訪れます。他にも尾張三弘法の1番として弘法大師がまつられています。

大日寺
小郷町粟田木60



 宝蔵院から布袋下山町南歩道橋に戻って歩道橋を渡り,西に進んで1つ目の筋を左折して,100m弱先の突当りを右折すると大日寺(曹洞宗)があります。永正元年(1504年),藤原氏の末裔である駒田氏の駒田立味は上杉と武田の争いに参加するために川越の戦に赴きます。戦が終わった後にお告げがあってこの地を訪れ,さらにお告げを受けて大永7年(1527年)に寺を建立したと伝わります。長らく大日堂と呼ばれましたが,昭和17年(1942年)に大日寺と改められました。本尊の木造大日如来坐像[市文化]は高さが28cm,秘仏で17年ごとに開帳されるといい,寺伝によると当時の仏師大宮法眼によるもので室町末期の寄木造といいます。額の白毫には水晶がはめこまれているとも考えられ,飾りにヒスイがふんだんに使われるなど華やかさあふれる仏像といいます。



 大日寺の先には(小郷)神明社があります。創建は不詳ですが寛文元年(1661年)再建の記録があります。秋の例祭で馬を引く行事がありましたが,現在は馬道具が飾られるといいます。

吉乃(きつの)の方荼毘地(経塚)
田代町西ノ丸





 (小郷)神明社の先の小郷公会堂のある交差点を左折し,400mほど進んだ7本目のT字路の筋を右折すると,少し先に田代墓地があります。墓地には吉乃の方荼毘地の経塚があります。吉乃の方は享禄元年(1528年)頃に生駒家3代の家宗の長女として生まれ,弘治2年(1556年)に信長の側室となります。その後,嫡男の信忠をはじめ,信雄,徳姫(後に徳川家康の長男信康の室となる)を生み,天文17年(1548年)に信長の正室となった濃姫には子供がいなかったことから,実質的に正室に近い立場になり,信長最愛の女性であったという説もあります。永禄7年(1564年)に小牧山城の築城とともにこの地から移りましたが,産後の体調が思わしくなく,永禄9年(1566年)に亡くなりました。この地は吉乃の方が荼毘にふした場所といい,石碑に刻まれた観音像は吉乃の方の面影を残したものといい小牧山城の方を向きます。前には「久庵桂昌大禅定尼」と彼女の法名が記されています。墓地の一角には通称吉乃桜と呼ばれる彼岸桜[市天然]が植えられ,信長に精いっぱい尽くした吉乃の方を偲ぶことができます。

龍神社
小折町八竜84





 田代墓地から東に戻って突当りを右折して南下し,150mほど進んだ突当りを左折します。さらに150mほど進んで突当りを右折し,続く筋を左折して少し進んだ先の線路を越えて3つ目の筋を左折して200m強進むと左手に龍神社があります。創建は不詳ですが,「本国帳に従三位小田天神とある。昔からこの地を小田代といい,今もその名が残っている。当初は国主織田信雄公の出生の地であるので,氏神として尊敬された社である」と記録されています。最古の棟札によると元和8年(1622年)に岡崎城主徳川信康の室,見星院ならびに生駒因幡守利豊によって再建されたといい,当初は八大龍王と呼んで雨乞いの神様として知られ,水を持ち帰ると龍が雨を降らせるという雨壺池の跡が残されています。





 かつてはこの付近は低湿地で,吉乃の方が織田信長と青春を楽しんだという吉乃御殿が社務所の付近にあったと伝わり,案内板が設けられています。またその隣には村の若者が力比べをしたという力石がまつられています。神社入り口には八条流馬術の名手という埴原(はいばら)加賀守が葬儀された場所という埴原塚があり,元々神社前にあったものが土地区画整理で入り口に移されたといいます。

常観寺
小折町八竜114



 龍神社から150mほど北上して斜めに横切る筋との交差点を越えた次の筋を右折すると常観寺(曹洞宗)があります。桜雲山と号し,創建は不詳ですが嘉祥・仁寿の頃(9世紀半ば)参議篁(たかむら)が地蔵菩薩銅像をたてまつり創建したと伝わります。その後永禄元年(1558年)に荒廃していた寺が太広によって中興され,その後生駒利勝らの援助を受けて伽藍が大造営されたと記録されています。



 本尊は釈迦牟尼仏で,地蔵堂には県下最大の高さ162cmに及ぶ鋳鉄地蔵菩薩立像[県文化]が祀られています。鎌倉中期の作といい,台座が釜の形をしていることから通称お釜地蔵と呼ばれ,頭部が後世の青銅製の補修でやや小さいながらも肩張りが強く雄大な像で,尾張六地蔵の第2番として信仰されています。また寺宝の鰐口[市文化]はかつてあったという青銅の地蔵尊が寺から盗まれて讃岐で見つかってこの地に送り返される際に,讃岐の高原天神から一緒に送られてきたものといいます。その際に桜一株も送られ,桜雲山という山号の由来になったと言います。

生駒屋敷跡
小折町八竜245



 常観寺の門から続く参道を南下し,ななめに通る筋に合流したらその道を進んで次の筋を左折すると,約100mで生駒屋敷跡があります。別名小折城とも呼ばれ,生駒氏が居城した広大な屋敷が広がっていました。生駒氏は藤原氏の末裔で元々大和国生駒山麓に住んでいましたが,応仁の乱の戦乱を避けてこの地に移り住み,灰(染物の原料)と油を扱う馬借(運送業)として勢力を伸ばしました。後に織田信長と主従関係を結び,宗女の吉乃の方が信長の側室となりました。若き信長が吉乃の方に会うために足しげくこの屋敷に通い逢瀬を重ねたとも伝わっており,信長の恋愛ロマンスを感じることができます。その後,織田信雄がこの地で生まれ,その後尾張藩主となった際に城を修築して守りをかため,天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際に徳川家康がこの地を訪れるなど歴史の舞台になった場所です。名古屋遷府後,生駒氏は名古屋城下の屋敷に移ったため,この地は別宅となり家臣が周辺を治めました。現在は保育園が一角に碑が設けられています。

久昌寺
田代町郷中51





 生駒屋敷跡の先,県道に突き当たったら右折して150mほど南下し,2本目の久昌寺の案内板にしたがって右折すると50m強先に久昌寺(曹洞宗)があります。嫩桂(どんけい)山と号し,寺伝によると至徳元年(1384年)にこの地の土豪林朝忠の援助で禅喜寺として創建され,嘉慶元年(1387年)に慈雲山龍徳寺と改めたといいます。その後大和より移住した生駒家広が父親の菩提を弔うために寺を再建し,以降は生駒家の菩提寺となります。永禄9年(1566年)に信長の側室の吉乃の方が亡くなり,久庵桂昌大禅定尼という法名で祀られるようになったのを機に現在の寺号となりました。その後, 660石の知行が与えられ,般若寺など複数の塔頭を持つ大寺院へと成長します。





 境内には代々生駒家と吉乃の方の墓が立ち並び,生駒家の繁栄を偲ぶことができ,これらは生駒家石像群[市史跡]の一部となっています。

神明社
田代町郷中114





 久昌寺の正面から伸びる道を南下して突当りを左折した先に神明社があります。明応年間(1492〜1501)に生駒家広がこの地に居住した際に守護神として勧請したといい,慶長15年(1610年)に生駒利豊によって社殿が再建されました。かつての小折村には神明社が2つあり,外宮に当たる南山神明社に対して,この神社は内宮に当たるといい,生駒家の守護神として篤い崇敬を受けてきました。本殿[市文化]は一間社神明造といわれる古い形式の建物で珍しいものといいます。平成17年(2005年)に大修理が行われ建物が一新しました。



 神明社から南に進んで交差点を左に入ったところには松杜天神社があります。邸内に設けられた神社で,神経痛やリューマチなどに霊験があるといいます。

南山神明社
田代町南出466





 松杜天神社から100m強南下したところに南山神明社があります。豊受大神をまつり,生駒氏が勧請した神社のうち外宮に当たる神社で,慶長15年(1610年)に生駒利豊により再建されました。津島社,稲荷社,行者社が境内社にあり,小さな鎮守の森に囲まれています。



 南山神明社から北に戻り,続く筋を右折して100mほど進んだ県道に突き当たったら右折して,続く筋を左折してさらに左手に進んで北上すると,100mほど先に観音寺(曹洞宗)があります。霊照山と号するといい明治14年(1881年)創建といいます。



 観音寺の先の県道172号線に突き当たったところには石像と,一宮と犬山を結ぶ道の道標が設けられています。





 ここを右折して200mほど進むと勲碧酒造[公式HP(外部リンク→)]があります。大正4年(1915年)創業の造り酒屋で,直売所も設けられており冬にはしぼりたての日本酒を買うこともできるといいます。イベントで酒蔵祭なども行われ,駅から臨時バスも出るなど多くの人で賑わいます。

曽本寺
曽本町幼川添170





 勲碧酒造から2本目の筋を右折し,200mほど進んだ3本目の筋を左折してその先の五条川を渡り川沿いを南下します。少し進むと尾北自然歩道の曽本休憩所があり,トイレもあって休憩スポットとして最適です。





 さらに2本目の筋を左折すると100mほど先に曽本寺(曹洞宗)があります。丹羽山と号し,元和5年(1619年)に南栄による創建といい,本尊は聖観音菩薩像といいます。大口町の桂林寺の末寺で,北の二子山古墳から出たという観音があったといいますが,今はなく小指大の地蔵像があるといいます。



 曽本寺の南には曽本神明社があります。創建は不詳ですが貞享元年(1684年)に再建されたという記録があり,村内にあったという天神社とともに村の鎮護社として崇敬を受けたといいます。

曽本二子山古墳
曽本町二子136



 曽本寺から東に進み,突当りを左折して300mほど進んだ「曽本二子」交差点を右折して100mほど進んだ次の筋を左折すると曽本二子山古墳があります。標高15mの犬山扇状地の末端に当たる場所に設けられた古墳です。5世紀頃の築造という全長約60mの前方後円墳で,後円部は直径35mで高さ7m,前方部は幅52mで高さ4mに及び,一部が削られて原型は失われていますが,幅15mほどの周溝の存在が推定できるといいます。嘉永年間(1849〜)と明治20年(1887年)に発掘調査が行われ,馬具や甲冑,鉄器,須恵器などが発見されたと記録されていますが,現在は馬具が東京国立博物館に保存されているのみで,残りの行方は不明になっています。



 曽本二子山古墳から西に戻って250mほど進むと五条川を渡ります。橋を渡ったらすぐに右折して川沿いに進みます。ここは犬山市の奥入鹿橋から岩倉市に続く尾北自然歩道に指定されており,五条川の桜並木が20km以上にわたって続き桜の時期は圧巻です。しばらくは桜を楽しみながら進んでいきましょう。

般若寺
小折町八反畑47



 尾北自然歩道を300mほど進んだ2本目の筋を左折します。さらに400mほど進んだ突当りを右折し,続く筋を左折して道なりに2本目を右折した先には御嶽神社がまつられています。





 御嶽神社から200mほど北上すると般若寺(曹洞宗)があります。村上山と号し,明徳2年(1391年)に大雲により真言宗の寺院として開創され,文明4年(1473年)に昌山により再建されて曹洞宗の寺院になったといいます。その後戦乱などで荒廃しますが,生駒氏が永禄年中(1558〜69)に再建して久昌寺の末寺とし,その後も生駒利豊が慶安年間(1648〜51)に改築し,久昌寺8世の大頂が延享元年(1744年)が再興開山するなどして栄えました。本尊の木像千手観音菩薩坐像[市文化]は,一部後世の修復が見られるものの室町時代の良作といいます。



 また境内の薬師堂には大和国生駒山の鬼取薬師を移した像が祀られています。「尾張名所図会」によると夜な夜な門前に現れた鬼神を生駒氏が切り伏せたという逸話があり,切り付けた刀は関の兼吉作のもので,切り伏したのちに古い五輪塔が残ったことから,刀は五輪丸と名づけられて生駒家の家宝になったといいます。

宝頂山墓地
小折町八反畑191付近





 般若寺から東に100m強進むと左手に宝頂山墓地があります。石の小橋を渡った先に生駒家5代の利豊夫妻の石廟があり,他にも4代家長夫妻の五輪塔,10代周房の墓碑があって,生駒家石造群[市史跡]の1つとなっています。この付近はかつては尾張藩主義直の家臣として重要な役割を果たした利豊夫妻の隠居所だったといい,利豊が生きながらにして成仏することを願い,断食生活に入ったもののかなわなかったとして,その子利勝が住居にふさわしい石廟を設けて葬ったとされます。利豊は寛文10年(1670年)に亡くなりますが,96歳という長寿だったといいます。

富士塚
南山町東21





 宝頂山墓地の先の筋を左折して200mほど進み,突当りを左折して続く筋を右折すると「南山町」の交差点があります。ここを直進して150mほど進んだ3本目の筋を右折すると正面に富士塚があります。これは富士古墳と呼ばれ,曽本二子山古墳と同世代の5世紀頃の築造といい現在は長さ30m,高さ6mで原型をとどめていません。発掘調査は行われていませんが,周辺から埴輪や須恵器などが見つかっています。天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際,徳川家康がこの塚にのぼり,犬山方面の秀吉方を視察したと伝わっています。現在は塚の頂上に,天和2年(1682年)に生駒利勝が初代からの生駒家の由緒と武勲を伝えるために設けたという富士塚の碑[市文化]が立てられています。塚が亀の形をしていることから,別名お亀塚とも呼ばれるといいます。

布袋八劔神社
北山町西138





 富士塚から西の十字路に戻って150mほど北上した「北山町」の交差点を左折します。そして400mほど西に進むと右手に布袋八劔神社があります。創建は不詳ですが,日本武尊をまつり,天正19年(1550年)に再建されたと記録されています。伊勢湾台風で倒壊したため,5年の歳月をかけて昭和40年(1965年)に社殿が再建され,立派な建物になります。



 神殿の西側には高さ10m,樹囲4mにおよぶ御神木のいちいがし[市天然]があります。神社が再建された頃から500年ほどの樹齢を誇ると考えられています。



 布袋八劔神社の先の筋を右折した先には薬師寺(曹洞宗)があります。村基山と号し,寛政9年(1797年)に薬師堂として創建され,昭和17年(1942年)に現在の寺号となりました。入口西側には千体地蔵堂があり陶器製の像がまつられ,境内には昭和34年(1959年)に移されたローマ字が彫られた切支丹灯籠があります。

松岩寺
布袋町西布7





 布袋八劔神社から西へ200mの名鉄の線路を越えた先の右手に松岩寺(曹洞宗)があります。仙境山と号し,元亀元年(1570年)に僧海翁が亀嶽山瑞龍寺として開基し,元禄13年(1700年)に現在の寺号になったといいます。明治の濃尾地震で大きな被害をうけましたが,その後再建されたといいます。本尊は観世音菩薩で,聖天・天満宮・布袋稲荷・弘法大師なども祀られているといいます。明治7年(1874年)に現在の布袋小学校の前身の1つとなる学校がこの寺に設けられたといいます。寺から北北西に400mほどのところにある地蔵山はこの寺の飛び地境内になっており,山にある弘法堂には地蔵菩薩と弘法大師がまつられています。この地蔵はかつて「やろか水」と呼ばれた洪水の際にこの地に流れ着いたものといいます。

ゴール:名鉄犬山線・布袋駅

 松岩寺の前から50m強南下すると,スタートした布袋駅西口に戻ってきます。急行・準急・普通が合計1時間に6本ほど運転されています。急行・準急は名鉄名古屋駅まで約20分,普通だと約30分で行くことができます。

写真使用数:68

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作成者 Rintaro Nagano
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