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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県北名古屋市:師勝北コースSHIKATSU NORTH

2015年5月探訪。2016年2月27日作成

【コース】 距離:約8.9km
 旧師勝町北部の能田・六ツ師・熊之庄・薬師寺地区の寺社を訪ねます。岩倉龍潭寺末寺の曹洞宗寺院など,地域信仰が感じられる史跡が多いです。

名鉄・徳重名古屋芸大駅〜北名古屋市歴史民俗資料館〜津島神社〜寿昌院〜牟都志神社〜観音寺〜旧加藤家住宅〜普門寺〜コッツ山公園〜長栄寺〜不伝寺〜大珠寺〜日光寺〜長岳院〜熊野神社〜薬師寺〜白山社〜名鉄・大山寺駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄 徳重・名古屋芸大駅



 今回は名鉄犬山線の徳重・名古屋芸大駅がスタートです。普通列車のみの停車で,名鉄名古屋駅から15〜20分で来ることができます。急行・準急に乗った場合は,西春駅で乗り換えてください。駅を出て,東方向に進んでいきます。

北名古屋市歴史民俗資料館〜昭和日常博物館〜
熊之庄御榊53 [公式HP(外部リンク)→]



 駅を出て東に約500m進むと,左手に名古屋芸術大学の東キャンパスがあります。西キャンパスが美術学部,デザイン学部が入っているのに対して,こちらは音楽学部と人間発達学部が入っており,授業のあるときは若い学生で賑わっています。



 さらに300mほど進んだ「熊之庄」の1つ手前の筋を右折し,次の筋を左折した少し先に八幡社があります。熊之庄の中之切と呼ばれた集落の旧村社で,江戸時代以前の創建と考えられています。現在は,昭和47年(1974年)の鉄筋コンクリート製の本殿になっています。



 その先の県道を右折し,約300m進んだ「市役所東庁舎西」交差点を左折し,さらに200mほど進んだ4つ目の筋を右折すると,右手に北名古屋市歴史民俗資料館の建物があります。昭和日常博物館の愛称があり,常設展には昭和30年代の激動の時代の生活用品が多数展示されており,昭和時代のコレクションが充実しているのが特徴です。昔の人にとってはなつかしい家具や看板などを見ることができ,タイムトリップした気分になります。ここでは昭和時代の展示を見ることで高齢者の記憶を刺激する回想法という取り組みも行われています。また,企画展示室では「昭和」をテーマの中心とした様々な企画展示が行われています。昭和をテーマにした博物館としてよく知られるようになり,旅行のガイドブックなどでもよく取り上げられている施設です。土師器[市民俗],薬師寺地区で見つかった弥生中期の埋葬用と考えられる壺型土器[市民俗]など,市内で見つかった考古資料も保有しています。

津島神社
能田引免地



 歴史民俗資料館の先の交差点を左折し,続く突当りを右折します。ここの正面には市の総合体育館,左側には市の東庁舎があり,この付近は旧師勝町の行政・文化の中心地となっていることがわかります。



 総合体育館の前を右折したのち,次の十字路を左折して100mほど進むと左手に津島神社があります。創建は不詳ですが,慶長期(1596〜1615)には存在していたといい,能田村の旧村社になっていた社です。祭神は須佐之男命で,境内には神明社と御嶽神社もまつられています。本殿は昭和3年(1928年)に建立された檜皮葺きのもので,拝殿は瓦葺きで大正4年(1915年)の建立です。神社の前には能田徳若万歳[市民俗]の案内板が建てられています。これは初春の祝福芸の1つで,鎌倉時代に長母寺(現名古屋市東区)の名僧であった無住国師に,味鋺村(現名古屋市北区)の安部有任の次男徳若が陰陽道を学ぶかたわらで「万才歌」を教わったのが徳若万歳の期限とされます。その後,万歳は海部郡方領村(現あま市)の桂五郎に伝承され,この桂五郎が明治初期にこの地の長瀬幸右エ門らに伝承したのが能田徳若万歳の始まりとされます。他に類例が少なく郷土芸能上重要なもので,曲目には、院経五穀の舞,さっかい踊り,七福神ばやし,お茶ばやしなどがあるといい,現在は地元の保存会が伝統芸能を継承しています。

寿昌院
能田南屋敷376-1





 津島神社から100mほど進んだ2本目の筋を右折し,続く先を左折すると左手に寿昌院(曹洞宗)があります。牛王山と号し,正保元年(1644年)(寛永12年(1635年)の説もある)に小牧の正眼寺の末寺として創建され,当初は雲生山と号しましたが,明治5年(1872年)頃に現在の寺号になったといいます。江戸末期には,正眼寺の隠居所になったと伝わります。本尊は木造の十一面観世音立像で行基作とも伝わります。また,正徳元年(1711年)の銘のある舎利塔があります。

牟都志(むつし)神社
六ツ師南屋敷760





 寿昌院の先を道なりに右折して突当りを左折し,その先を左折して200m弱進んだ「宮西」交差点を右折すると,少し先の左手に牟都志神社があります。社伝では白雉2年(651年)の創建と伝えられ,かつては白山社と愛宕社が境内にあって,このうち白山社が平安時代の延喜式に「春部郡牟都志神社」と記載されている古社といいます。最古で慶安元年(1648年)の棟札が残されており,そこには白山社の文字が見え,この時期は白山社と称していたことがわかります。また,愛宕社にはかつて6つの大石があって,これが地名の六ツ師(牟都志)の名前の由来といいます。祭神は家庭円満の神である菊理姫命で,現在の建物は大正14年(1925年)に建てられたといいます。寺宝に円空作という木造愛宕神立像[市文化]があり,像高58.5cmで延宝年間(1673〜80年)頃の作と推定されています。昭和35年(1960年)の本殿調査の際に発見され,背面に「あたご円空作」の墨銘があり,円空の壮年期の作とされます。円空仏らしい素朴な彫り込みで,愛宕神像の円空仏は尾張では作例が少なく貴重なものです。また江戸時代末期から伝わるという獅子芝居(嫁獅子)である六ツ師獅子舞[市民俗]が毎年10月の例祭のときに演じられます。

観音寺(六ツ師)
六ツ師中屋敷517



 牟都志神社の右側の道を進んで100m先の十字路を右折し,その先道なりに左折して,さらにその先の突当りを右折すると左手に観音寺(曹洞宗)があります。六師山と号し,寺伝によると天文6年(1537年)に岩倉竜潭寺の末寺として開創したといいます。その後,たびたびの火災などで衰微し,明和6年(1769年)の火災で堂宇や記録などをすべて失いましたが,寛政年間(1789〜1801)に信徒の努力で再建が始まり,享和3年(1803年)に青山村(現豊山町)の泉松寺(現千松寺)から講じて法地開山されました。往古は尾張三観音の1つで,萩の名所として知られたといいます。山門は文政2年(1819年)に建立されたものといい,本堂などは寛政3年(1791年)建立のものが昭和50年(1975年)に建て替えられて新しくなりました。

旧加藤家住宅
六ツ師南屋敷704-1







 観音寺から50mほど進んで先の十字路を右折したところに加藤家住宅[国登録]があります。この加藤家は「大加藤」と称され,江戸時代は六ツ師村の庄屋を務める家柄で,江戸末期から明治中頃までは酒蔵業も営んでいました。約40m四方の屋敷地に主屋や離れなどが密集して建築されており,明治10年(1877年)頃建造の主屋,中門,土蔵や,主屋の西には大正〜昭和初期の建造という離れなどがあり,伝統的な家屋が失われつつあるなかで明治期地主層の典型的な形式の家がよく保存されている貴重なものです。住宅の東側には,平成14年(2002年)に竣工した回想法センターがあり,昔ながらの住宅を活用して,高齢者の認知症予防や介護予防などを行う回想法の取り組みが行われています。これは昔の経験を生き生きと語り合うことで自分を取り戻そうとする心理療法だといいます。

普門寺(六ツ師)
六ツ師中屋敷514





 加藤家住宅から北に戻って,約50m先の観音寺から来た十字路の次の交差点を左折すると,100m弱先に普門寺(日蓮宗)があります。慈雲山と号し,応永元年(1394年)に実成寺(現あま市)の2世日長が草創したといい,次に訪れる長栄寺を建立し,続いて当寺を建立したといいます。天文16年(1547年)に大樹院日法によって中興したといいます。その後,元禄年間(1688〜1704)に堂宇を再建し,享和年間(1801〜04)と天保年間(1830〜44)に堂宇が修復されましたが,明治24年(1891年)の濃尾地震で山門などを除いて倒壊しました。

コッツ山公園
六ツ師山の神76





 普門寺の前を道なりに曲がって,その先を道なりに右に曲がり,約200m進むと県道に突き当たります。左折して「山の神橋西」交差点を右折して合瀬川を橋で渡ると左手にコッツ山公園があります。中央のコッツ山という石山がシンボルの公園で,春は桜の名所としても知られます。コッツとは,西を流れる合瀬川のことで,元は木津(こっつ)用水と呼ばれ,慶安元年(1648年)からこの地方の農業用水を確保するために木曽川から南に約16kmを開削して設けられたもので,慶安3年(1650年)に完成しました。用水はこの地域を肥沃な穀倉地帯にするのに大きな役割を果たし,江戸時代末期から昭和初期にかけては船の行き来もして物流の拠点ともなりました。中でも舟唄を歌いながら木曽川の玉石を運んだ船は「コッツの石船」といわれ,この地域の風物詩になりました。コッツ山はこの石船をイメージしたもののようです。その後,昭和になって木津用水は河川の扱いとなり,現在の合瀬川となりました。



 ここから合瀬川の右手を北上します。この付近は合瀬川遊歩道となっており,桜の時期は見事な景色となります。

長栄寺
六ツ師北屋敷2358





 合瀬川遊歩道を100m強北に進んで.次の県道に突き当たったら左折して,その先の「六多橋」交差点を越えて100m先,2つ目の筋を左折し,100m強先の突当りを右折したところに長栄寺(日蓮宗)があります。延寿山と号し,永徳2年(1382年)に創建され当初は真言宗でしたが,実成寺(現あま市)2世の日長が応永元年(1394年)に日蓮宗に改宗したといいますが,諸説あります。堂宇は明治24年(1891年)の濃尾地震で倒壊し,その後明治30年代以降に建てられたものになります。寺宝には寺を建てたという日長がもたらしたという大黒天像が知られます。境内には六ツ師神楽屋台,神楽ばやし[ともに市民俗]の案内板があります。神楽屋台は明治26年(1893年)に建てられた番神堂に収められており,神楽屋台自体は名古屋近郊の農村一帯にありますが,六ツ師のものは江戸末期作といわれ,当時の神楽本来の姿を残しているものとして貴重です。神楽には青年獅子がついており,その獅子舞は秋祭りの呼び物の1つで盛大に行われてきました。神楽ばやしも同時期に始められたと考えられ,5曲があって10月の例祭の時などに披露されます。



 長栄寺の前を道なりに曲がって次の筋を右折し,そのまま300mほど進むと右手に児子社があります。牟都志神社の境外末社で元禄12年(1699年)の創建といいます。祭神は子供の守り神として知られる天之御中主命で,境内社には素戔嗚尊を祀る津島社があります。

不伝寺
熊之庄江川40



 児子社の先の十字路を左折し,約200m先の2本目の筋を右折すると,100mほど先の右手に不伝寺(曹洞宗)があります。万法山と号し,寺伝によると弘治元年(1555年)に岩倉龍潭寺の4世天洲入寂が創建したといいます。本尊は行基作とも伝わる十一面観世音菩薩で,創建寺という本堂がありましたが,昭和43年(1968年)に鉄筋コンクリート造のものに建て替えられました。

大珠寺
熊之庄江川33



 不伝寺から50m強先の突当りを右折し,道なりに約50m進むと右手に大珠寺(曹洞宗)の入り口が見えます。真海山と号し,「徇行記」によると天文7年(1538年)の創建と伝わり,もとは金玉山宝珠院と称し,岩倉龍潭寺の末寺でした。その後江戸末期に再興されて現在の寺名になったといいますが,明治35年(1902年)に火災にあって古い記録が失われたため,詳しいことはわからないといいます。本尊は木造観世音菩薩で,本堂などは昭和48年(1973年)に改築されたものです。境内にある宝篋印塔は室町中期頃と考えられる古いものです。

日光寺(熊之庄)
熊之庄城ノ屋敷3159





 大珠寺から200m弱進むと,突当りに日光寺(曹洞宗)があります。なお,突当りの県道を渡る際は左手にある横断歩道を利用しましょう。能嶋山と号し,天平年中(729〜749)の創建と伝わり,往古は真言宗(天台宗との説もある)と記録されています。その後寺伝によると大永6年(1526年)に岩倉龍潭寺の2世心峯文智が再興開山し,その後曹洞宗になったといいます。元々本尊は行基作とも伝わる阿弥陀如来で,尾張国分寺にあったという丈六弥陀7体のうちの1体であったという伝承がありましたが,明治14年(1881年)の火災で一切が失われ,本堂は明治36年(1903年)に,庫裡や山門は昭和になって建てられたものです。



 日光寺の前の県道を東に100mほど進むと神明社があります。熊之庄の下之切と呼ばれる集落の旧村社で,江戸時代以前の古い時期の創建とされ,祭神は天照大神です。

長岳院
熊之庄城ノ屋敷3097



 戻って日光寺の右側の筋を進んで,150mほど先の突当りを左折したところに長岳院(曹洞宗)があります。久亀山と号し,寛永15年(1638年)に没したという厳泰の創建と伝えられ,岩倉龍潭寺の末寺です。本堂は江戸時代後期に建てられたと伝わる古いもので,本尊は十一面観世音菩薩です。本堂前には高さ約8m,幹回り2.2mのクロマツ[市天然]があります。現在,市内で最大の松で,伊勢湾台風も乗り越えた貴重な大木といいます。境内には,秋葉堂と観音堂もあります。

熊野神社
熊之庄大畔36





 長岳院の先約50mにある2つ目の筋を右折して,300m弱進むと目の前に熊野神社があります。熊之庄の上之切と呼ばれた集落の旧指定村社で,創建は不詳ですが紀伊の熊野大社から勧請された社で,熊之庄の地名の由来の社と考えられています。古くは慶長20年(1615年)の棟札があり,江戸時代は熊野権現と称していました。本殿は昭和4年(1929年)に建立されたもので,ご神体としてまつられている木造阿弥陀如来立像[市文化]は,門外不出の秘仏になっているといいます。



 熊野神社の右手には熊之庄歴史資料館があり(開館は祭礼日などに限られるので確認のこと),現在はおおよそ5年に1度,祭礼の際に行われる熊之庄流鏑馬神事[市民俗]の関連資料が展示されています。この流鏑馬神事は江戸時代の「尾張名所図会」「尾張年中行事絵抄」といった文献に別名「お手柄祭」として記載されている古い神事です。流鏑馬は,大変ものいりで手間のかかる神事だったので,やすやすと毎年行うことはできず,およそ5年に1度,豊作だった年などに行われていたといいます。資料館には流鏑馬で用いられた江戸時代中期から伝わるという熊之庄流鏑馬道具[市民俗]が保管されています。このほかに,熊野神社の祭礼の際に「流鏑馬」とともに神前に奉納されるという熊之庄上之切神楽屋形[市民俗]もあります。この神楽屋台は弘化3年(1846年)に氏子により新調されたという墨書があり,長岳院の秋葉堂の火祭りの際には,獅子芝居とともに奉納されたといいます。

薬師寺
薬師寺屋敷53



 熊野神社から900mほど,「熊之庄北」交差点を過ぎ,五条川に突当る1本手前の筋まで進んで,ここを右折します。200m強進んで県道に合流したら,少し先に薬師寺公民館があります。ここには,この地区で発見された弥生時代後期の壺形土器[市文化]が保管されています。埋葬用の棺に使われたと考えられています。



 公民館から100mほど先の「薬師寺」交差点を左折し,続く筋を右折して200mほど進むと左手に薬師寺(浄土宗)があります。鳳儀山と号し,創建は不詳ですが,往古は天台宗であったものが,徳川秀忠の命で高岳院(現名古屋市東区)の僧が浄土宗に改めて中興したといい,徳川秀忠の位牌が寺に安置されているといいます。古くは木造の本堂や庫裡がありましたが,老朽化のために取り壊され,昭和45年(1970年)に鉄筋コンクリートの建物が建てられました。本尊の木造薬師如来立像は過去には秘仏で33年ごと開帳でしたが,現在は毎年開帳されているといいます。



 薬師寺に隣接して,白山社があります。創建は不詳ですが明治12年(1879年)以降は薬師寺村の村社として篤い崇敬を受けました(それ以前は熊野神社が産土神)。



 薬師寺から1つ手前の筋に戻って右折して五条川沿いに進み,そのまま右折して五条川沿いを200mほど進み,その先の県道の橋で五条川を渡ります。この付近は春には名物の川沿いの桜が見事に咲きます。

ゴール:名鉄 大山寺駅



 川を渡ってすぐ左折し500m強進んで,県の水道管の橋のある筋から2本先の筋を右折して約200m先の突当りを左折,続いて右折するとゴールの名鉄犬山線の大山寺駅が見えてきます。普通列車のみの停車で1時間に5〜6本程度運転されています。名鉄名古屋駅や地下鉄鶴舞線経由での伏見駅まで約25分です。

写真使用数:36

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
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