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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市西区:稲生ヶ原コースINOGAHARA

2015年1月探訪。2015年2月17日作成
2015年9月22日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約5.4km
 庄内通駅から庄内川南側の稲生・名塚・堀越の各地区の社寺をめぐります。織田家の家督争いで起こった稲生ヶ原の戦いの舞台になった地域です。

地下鉄・庄内通駅〜伊奴神社〜妙本寺〜安性寺〜稲生街道〜庚申塚〜白山神社(名塚町)〜宗圓寺〜新福寺〜円福寺〜白山神社(上堀越町)〜寶琳寺〜東岸居士の墓跡〜市バス・康生通3丁目バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・庄内通駅



 今回のスタートは,地下鉄鶴舞線の庄内通駅です。名古屋駅,栄から来る場合は伏見にて上小田井方面行に乗り換えで,伏見から4駅7分で到着します。庄内通駅の1番出口を出てスタートします。

伊奴(いぬ)神社
稲生町2-12 [公式HP(外部リンク)→]







 庄内通駅から北に進んだ「名塚町」の交差点を右折し,続く交差点を左折します。そのまま約200m北に進むと庄内用水の橋を渡ります。庄内用水は名古屋西部にかつて広がっていた大水田地帯に水を供給するために,元亀・天正年間(1570〜92)に開削がすすみました。この付近では稲生川とか惣兵衛川とも呼ばれます。慶長19年(1614年)には,この稲生村付近に取水施設が設けられ,この付近の農業の発展に大いに貢献しました。現在の姿になったのは明治10年(1877年)に黒川が開削されたときです。現在は住宅が立ち並び,農村だったときの風景はおもかげもありません。



 橋を渡ったら右に曲り川沿いに600m進むと,左手に伊奴神社があります。天武天皇の時代の673年に創建と伝わるこの付近では最も古い歴史を持ち,延喜式に「山田郡伊奴神社」と記載されている式内社です。この地で稲を採らせて献上した際に建立されたといい,この付近の地名「稲生」の名前になっていると考えられています。はっきりしたものでは,永享2年(1430年)に社殿を造営した記録があり,一時期荒廃していたのを万治3年(1660年)に再興し,江戸時代は熊野権現と称していたようです。





 境内には犬石像やなど多くのところに犬のモニュメントがあります。祭神も安産・子育ての神である伊奴姫神で,干支の戌年には特に多くの参拝客が訪れることで知られます。境内は緑豊かで樹齢800年のシイの御神木や天狗が住んでいたという大杉,地上1.8mのところから大きく分かれたシャシャンボ(ツツジ科の常緑低木で高いものは珍しい)などがあります。境内は縮小しているのか,100mほど南に一の鳥居があります。

妙本寺
稲生町4-44



 伊奴神社の手前宮前橋の1つ西の宮西橋のところで北上して約150m進み2つ目の交差点を左折して約300m進むと右手に妙本寺(法華宗)があります。稲生山と号し,永久11年(1114年)の創建と伝わり,もと真言宗でしたが,応永年間(1394〜75)に日蓮宗に改宗したといいます。織田信長の時代に清須に移り,清須越の際に再び名古屋に移して東区の寺町に移転しましたが(寺町に現存する妙本寺がそれに当たります),旧地に再建されたのが当寺といいます。弘安7年作の鰐口と応永20年作の日陣筆題目が寺宝として有名です。妙本寺前のT字路の南西には,織田信長の家臣であった丹羽長忠の屋敷址があり,現在墓だけが一部残されています。

安性寺
稲生町5-20





 妙本寺から150mほど進んだ2つ目の筋を左に曲がり,続いて左に曲ったところに安性寺(曹洞宗)があります。秋葉山と号し,徇行記によると昔は稲生山賢治寺といいましたが,弘治2年(1556年)の稲生ヶ原の合戦の際に観音堂を残して焼失したといいます。享保13年(1728年)に知多郡常滑村の総心寺沢田長老の弟子の寿聞が篠島の松寿寺の末寺新造庵をここに移し,秋葉山安性寺と改号したといいます。本尊の十一面観音像は最澄作といい,慶安4年(1651年)に藩主の徳川光友が自作の秋葉三尺坊の木像を勧請したと言います。寺伝によると藩主が鷹狩りに訪れた際は立ち寄られたと言い,名古屋城深井堀に設けられた観音堂の世話を安性寺の住職が行うなど,尾張徳川家と深い関係を持っていました。

稲生街道





 安性寺から出て右に進んで西に200m弱進んで突き当たった先が稲生街道になります。この北側の庄内川には,かつては稲生の渡しと言われる渡し船がありました。稲生村と大野木村を結ぶので大野木渡ともいい,今の庄内川橋の代わりとなっていました。街道はこのあと小田井にて岩倉街道と合流していました。突き当たった地点より北には題目塔があり水神様がまつられていて,かつての街道を見守っていた様子がしのばれます。先の庄内川の渡しの堤付近は,かつては名古屋からの行楽地として知られ,「尾張名所図会」には「城北の佳境にして,古人の詩歌も多し」と述べられています。ここから左に曲がって街道を南に進み,かつての旧街道のおもむきがある住宅地を通り抜けていきます。

庚申塚
名塚町1付近







 稲生街道をそのまま300m南下して,庄内用水の橋の手前で右に曲って川沿いに進み,先の信号を渡ってそのまま川沿いを150mほど進むと,遊歩道の下に庚申塚があります。稲生ヶ原の戦いの際に戦死した人々を祀ったものと言われますが,本来は庚申信仰の名残です。庚申信仰は江戸時代には民間に広く普及し,近隣同志が庚申講といって集まったりしましたが,ここの庚申塚では樹木の一枝や一握りの砂でも持ち帰るとたたりがあると恐れられたそうです。そのため,村人は裸足でお参りし,帰りに砂をよく払ってぞうりを履いたそうです。また,この庚申が児玉町の女神のところに真夜中に出かけられ,道中の惣兵衛川(庄内用水)の上を霊火が行き来して,その速度で庚申様の機嫌がわかったとの伝説があります。
 この付近で争われた稲生ヶ原の戦いは,弘治2年(1556年)に織田家の信長と弟の信行による家督争いが原因の戦いです。天文20年(1551年)に父の織田信秀が死亡し,清洲に入った信長と,千種区の末森城に残った信行の対立が深まりました。信長の行動に不信を持った家老の林通勝と弟光春,柴田勝家らは,兵を挙げて荒子や米野(中村区)の城主と結び清洲と名古屋の通路を断って信長を孤立させました。信長はこの付近に名塚砦を築き,佐久間大学に守らせましたが,砦が完成しないうちに庄内川の大水に乗じて勝家と光春が砦にせまったため,急を聞いた信長は大水の庄内川を渡り,光春,勝家を打ち破りました。この戦いにより信長は織田家内地位を確固たるものにしました。江戸時代はこの付近の田野を耕すと,さびついた甲冑や刀剣がよく出土したといいます。

白山神社(名塚町)・名塚砦跡
名塚町4-22-1



 庚申塚から南に行き,庄内用水の遊歩道の1段高い部分を回り込むように進み,北東に向かう道に入ったら1本目を左奥方向に進むと約200mで白山神社があります。明暦3年(1657年)に勧請・創建とされます。10月15日に例祭が行われ,現社殿は昭和13年に再建されたものです。境内にはかつて大杉があり,大杉に落雷が落ちたために白山神社の祭神が怒って鉄箕に雷を閉じ込めてしまったため,雷は命乞いをして,それ以降名塚の地には落雷の被害がなくなったという伝説があります。
 入口右手に名塚砦跡の案内板があります。稲生ヶ原の戦いの際に信長方の佐久間大学に守らせた砦で,ここにあったと言われますが,名塚の村落は慶長19年(1614年)に庄内川の堤内にあったものを堤の南側に移したという歴史があるので,旧地にあったとも考えられています。

宗圓寺
名塚町4-46





 白山神社の前から右に曲って西に約100m進むと,2つ目の交差点を右に進んだところに宗圓寺(曹洞宗)があります。稲生山と号し,創建は不詳ですが享禄2年(1529年)再建され,釈迦像を安置したと言います。以前は庄内川堤内にあったのを,水難が多かったために慶長19年(1614年)に村落とともに現在地に移されました。

新福寺
名塚町2-60





 宗圓寺の前の道を西に進み,次のやや広い道を左に曲がって南下します。約150m進んだ,「名塚町1」交差点の1つ手前の道を右に入ると新福寺(天台宗)があります。稲生山と号し,寺伝によると天平年間(729〜749年)に行基によって創建されたという古寺で,本尊の薬師如来は平安後期の秀作といいます。かつては大伽藍で最澄の高弟である円仁大師のときには十二坊を誇りましたが,いつしか衰退していたものを天文12年(1543年)に中興されました。この寺ももともと庄内川堤内にありましたが,慶長19年(1614年)(元和2年(1616年)説もあります)に村と共に七坊が移されました。
 本堂の左手前には高さ約1.5mの観音菩薩があり,即身成仏した僧の墓で弘化2年(1845年)に建立されたものです。また本堂の裏庭には市内最大といわれる高さ15mにも及ぶシイノキがあり,市の名木に指定され,秋には多くの実をつけるといいます。また,本堂前の池は擂鉢池といい,ある秋に暴風雨があり,その池の波も吹き上がったと思ったら大木が降ってきた。しかし,翌朝になると降ってきたはずの大木がなく,人々は池の主の大蛇が天に昇って行ったのだと考えたといいます。

円福寺
名塚町4-22-1



 右に入る前の筋に戻り,再び真っ直ぐ南に進んで「名塚町1」の交差点を右折し300m弱進むと,右手に円福寺(真宗高田派)があります。松登山と号し,創立は不詳ですが平安期にさかのぼる古寺といいます。もと天台宗でしたが,嘉禎元年(1235年)に親鸞聖人が東国から京都に戻られる際にこの寺に2日間滞在し,その際に住僧の慶順坊は深く帰依して転宗したといいます。永禄4年(1561年)に火災にあった際,寺は全焼しましたが,親鸞聖人親筆の十字の名号が燃え盛る火炎から自ら出て,寺の松の枝にかかったと言います。その故事から,名号を火難除けとし,松登山の山号に変更したと言います。慶長19年(1614年)に村落と共に現在地に移転し,寛永年中(1624〜44)に堂宇を再建しました。



 円福寺の向かいには八幡社があります。創建は不詳ですが天正年間(1573〜92)以前には鎮座していたといい,慶長19年(1614年)に村落の移動と共に現在地に移転しました。例祭が10月4日に行われています。

白山神社(上堀越町)
上堀越町1-34





 円福寺からそのまま西へ300m進むと,右手に白山神社があります。祭神は女神であるイザナミ命で,白山信仰の一つとして加賀の国一宮の白山比盗_社から勧請されました。創建は不詳ですが,永享2年(1430年)に鎮座との棟札が発見されたといいます。ここの白山神社のクスノキは明治38年(1905年)に植樹されて神社のシンボルになっており,名古屋市の都市景観重要建築物等指定物件となっています。例祭は毎年10月第2日曜日に行われます。

寶琳寺(ほうりんじ)
上堀越町4-32



 白山神社の奥の交差点を左に曲がり,一方通行の道を200m強進むと交差点に突き当たるので,ここを左奥方向に進み,続く交差点を右に曲るとすぐに寶琳寺(曹洞宗)があります。醫王山と号し,昔は来福寺という天台宗の寺院でしたが,永禄元年(1556年)に現在の寺号,宗派に改めたと言います。創建年月日は不詳ですが,慶長19年(1614年)に庄内川堤内から移され,その後現在地に移りました。長い間,尼寺でしたが,小牧の青松山正眼寺の42世を勧請して現在に至ると言います。



 寶琳寺から右に曲る前に戻り,南に進んで約200mで左手に神明社があります。創建は永享2年(1430年)といい,慶長19年(1614年)に庄内川の築堤内にあった村を移した際に,寶琳寺のところに移されました。その後,明治14年(1881年)に現在地に移転したといい,境内社に元治元年(1864年)に祀られた水神社,浅間社があります。

東岸居士の墓跡
南堀越1-8-20



 神明社からそのまま200mほど進み,突き当りを左へ250m,さらに国道22号線を右に曲って約300m進んだところを右奥方向に進むと,約200mで東岸居士の墓跡があります。東岸居士(〜1283)は東山雲居寺の僧で,出家もせず,僧衣も着用せず,人々を高座から説教し,念仏踊りをしながら諸国を馬で回ったと言います。この地で最期をとげ,村人はその徳を敬いとむらったといいます。東岸居士の墓は以前は寶琳寺にありましたが,国道22号線の道路拡張にともなって,ここに移され,人々から「いぼ神様」として信仰を集めています。

ゴール:市バス・康生通3丁目バス停

 さらに直進して水路を渡り,左に進んで国道22号線に出たら左へ曲ると,市バスの康生通3丁目バス停に到着します。名駅11,26系統で名古屋駅へ,栄25系統で栄まで出ることができますが,名駅11系統が1時間に2〜4本で一番本数が多いです。バスの時刻は調べておくといいでしょう。

写真使用数:27

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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