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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市西区:城西・浄心コースJoSAI - JOSHIN

2014年12月探訪。2015年2月15日作成/4月1日加筆
2015年9月22日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約6.5km
 浅間町駅から名古屋城西側の史跡と浄心・児玉地区の文化財をめぐります。昔ながらの庶民信仰が生きている界隈で,昔ながらの建物も多いです。

地下鉄・浅間町駅〜富士浅間神社〜受徳寺〜堀川堀留の碑〜辰ノ口水道大樋〜武島天神社〜上宿山神社〜興西寺〜西光寺〜蜂谷宗意宅跡〜宗像神社〜浄心寺〜周泉寺〜白山社〜旧志水家車寄せ・風信亭〜観音寺〜市バス・葭原町バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・浅間町駅

 今回のスタートも地下鉄鶴舞線の浅間町駅です。名古屋駅や栄からは,伏見駅で鶴舞線に乗り換えて2駅,約4分です。今回は浅間町駅の1番出口からスタートです。

富士浅間神社
浅間1-3-4



 浅間町駅の1番出口から江川線の1本東の一方通行の道を進み,続く筋を右に曲るとすぐに富士浅間神社があります。応永3年(1398年)に富士本宮浅間大社を勧請して富士塚町(現,東区泉1丁目)に創建され,慶長15年(1610年)にその場所が名古屋城の普請場になったため,この地に移されました。なお,東区の旧地にも現在は富士神社が創建されています。境内には東西に分かれて10もの末社があり,周囲の神社が合祀されてきた歴史があります。例祭は10月4,5日で,かつては各町内に提灯がともされて山車も引かれたといいます。



 富士浅間神社から右に曲る前に戻り,来た方から直進方向に100mほど進むと美濃路に突き当たります。この付近にはかつて江川の一里塚が設けられていました。熱田から数えて2つ目の一里塚です。

受徳寺
城西2-12-13



 さらに100m進んだ左手に受徳寺(真宗本願寺派)があります。華號山と号し,創建は不詳ですが元々は現在のあま市甚目寺町にあって天台宗でしたが,永正8年(1511年)に僧願正が中興して改宗しました。明治39年(1906年)に現在地に移転しましたが,この場所には元々,明治24年(1891年)頃に設けられた蓮華院という説教所があったそうです。

堀川堀留跡の碑
城西1-1付近



 美濃路に戻り,東に進んでいきます。約150m進んだ「城西1」交差点の先にある和菓子屋秀松堂総本店の前には美濃街道の標識が建てられています。この和菓子屋も明治25年創業の老舗で,歴史を感じさせます。



  そのまま約100m進んで堀川に突き当たったら川沿いに南に進んで2本目の朝日橋を渡ると橋の上に堀川堀留跡の碑があります。熱田と名古屋城とを結ぶために慶長15年(1610年)に開削された堀川ですが,ちょうどここが船の終点になっていて,堀留と言われる船のたまり場になっていました。碑にはその様子を説明した案内が書かれており,その後の大幸川や黒川の掘削などの歴史も伝えています。海水がこの付近まで来ていて「堀川ぶな」とも呼ばれる鮒などがとれ,明治維新後に失業した士族が生計を立てるためにここの魚をとって,袋町にあったつくだ煮屋に売ったという話が「尾張名所図絵」に記されています。また朝日橋は天明4年(1784年)に大幸川を開き,その流れ込む地点に翌年に架橋された橋で,城の南西に当たる辰之口にあったことから辰ノ口橋ともいい,俗称として「どんどん橋」「ざあざあ橋」とも呼ばれました。
 朝日橋の南西方向が巾下学問所の址になります。寛延元年(1748年)に儒者の細野養斎は藩の許可を得て設置した学問所で,翌年には藩主徳川宗勝は明倫堂の扁額を授かりました。しかし,宝暦元年(1751年)に学問所の維持のための藩の補助を受けられなかったため廃止されたといいます。しかし,私的な学問所としては存続し,のちに天明3年(1783年)に現在の東照宮の位置に開設された藩校明倫堂のさきがけとなりました。案内板は国道22号線の南側にあります。





 朝日橋を渡り,左に曲がって堀川と名古屋城の堀の間の道を少し進んだ道の右手に辰ノ口水道大樋の案内板があります。寛文3年(1663年),2代藩主徳川光友が,現在の庄内川から御用水を開削して名古屋城の御深井の堀まで水を引きましたが,さらにこの南の幅下方面に木樋で配水するために設けられた木製の大樋です。

武島天神社
城西5-16-4



 名古屋城の堀沿いに北に進んで約400m進みます。



 途中左手,ホテルの北側には名古屋城築城の際の犠牲者をとむらったという御深井地蔵があります。



 進んだ先の筋向橋で堀川を渡ったら,今度は堀川沿いに進んでいきます。この付近は堀川緑道として整備されていて,春の時期は桜がきれいに彩ります。橋を渡った先は名城公園の施設です。



 堀川緑道を約400m進み,東に中土戸橋を見る「名城公園西」の交差点を左に曲がります。曲がってさらに約200m,山神公園の手前の道をこえて進むと,右手に武島天神社があります。創建時期は不詳ですが,応安元年(1368年)という説があります。元々は名古屋城の御深井丸の南付近にあったものが,築城の際に移されました。かつては上宿山神社の末社となり,万治四年(1661年)に修造遷宮しましたが,明治13年に独立しました。

上宿山神社
城西5-18-8



 武島天神社のところを右折して北に進むと,約50mで上宿山神社があります。山や野の神といわれている大山祗神が祀られています。創建は不詳ですが,文和3年(1355年)の棟札がありそれ以前の鎮座と考えられます。当初は今の名古屋城のある那古野村にありましたが,築城の際に移されました。



 上宿山神社のところの突き当りを左に進み,一つ目の大きい通りを渡ったところに地元建設会社が建てたという豊臣秀吉像があります。

興西寺
城西4-15-24



 さらに西に100m進み,バス通の筋から3本目の筋を左に曲るとすぐに興西寺(真宗大谷派)があります。寺伝によると応永17年(1410年)に現在のあま市甚目寺に真言宗の浄徳坊として建立され,永正8年(1511年)に冨田町供米田(現在の中川区)に移り,その後天正11年(1583年)には浄土真宗に改宗して浄蓮坊と号しました。慶長10年(1605年)には現在の名古屋城北付近に移りましたが,名古屋城築城のために慶長14年(1609年)に北鷹匠町に移りました。元和3年(1617年)には藩主から深井丸という山号を賜り,三ツ葵の紋が許されましたため,以降は上宿御坊と言われました。正保2年(1645年)に尾張藩祖徳川義直によってこの地に移され,元禄十二年(1699年)藩主綱誠の薨去以来、徳川家代々の位牌を安置してくるなど尾張徳川家と深いつながりを持っていました。明治24年の濃尾地震,昭和20年の戦災で大破しましたが,現在は真新しい本堂が新築され,きれいな姿になっています。

西光寺
城西3-19-4



 興西寺の南の筋を右に曲がり,続く筋を左に曲がります。さらに2本目の一方通行の筋を進むと約100mで左手に女義太夫として有名な豊竹呂昇の出生地の案内板があります。明治7年(1874年)にこの地に生まれ,幼少のころから義太夫の手ほどきを受け,明治25年(1892年)に大阪の初代豊竹呂太夫の門に入り,その後明治31年(1898年)には上京して美貌と美声で一世を風靡しました。墓は北区の光音寺と大阪の大蓮寺にあります。



 ここから先の筋を左に曲がり,2本目の筋を右に曲った「西区役所前」の交差点の手前の左側に国学者鈴木朖の終焉地の案内板があります。前回の美濃路コースで訪れた勝田三雪の離屋から天保4年(1833年)にこの地に移り,天保8年(1837年)に終焉を迎えるまでこちらで過ごしました。



 ひとつ交差点を戻って右に曲り,2本南の筋を左に曲がって進むと西光寺(浄土宗)があります。五雲山と号する京都禅林寺の末寺で,明治22年(1889年)に中区門前町に説教所として設立し,明治39年(1906年)に和歌山県海草郡の西光寺を移転して現在地に建立しました。

弁天通商店街
城西4,5 および 上名古屋2,1 [公式HP(外部リンク)→]



 西光寺の先の交差点を左折して400m強印象的な並木道を北上します。





 やがて「浄心東」交差点に到着しますが,ここの東西には弁天通商店街が広がっています。大正4年(1915年)に名古屋市電が浄心町まで延伸されたことで大きく繁栄し,昭和20年代まで賑わいましたが,その後道路拡張などで商店街が賑わいを失い始めました。その後,電線の地中化などの工事や,毎月3日に行われる弁天市などのイベントで賑わう商店街を目指しています。交差点を渡った所には,名物の白い牛に乗った弁天像があり,東側には七福神の像があります。また,商店街の南東には街角資料館(要予約)があり,昔の写真などが見学できるようです。

蜂谷宗意宅跡
上名古屋2-10-5



 「浄心東」の交差点を北に渡って進み,次の交差点を右に50mほど進むと蜂谷宗意宅跡の案内板が建っています。蜂谷宗意は志野流香道の十五世に当たり,享和3年(1803年)に京都に生まれましたが,その後明治維新の戦乱を避けて名古屋に移住しました。香道とは香木を炊いて香りを楽しむ日本独自の芸道で、室町期は公家が中心のものでしたが,志野宗信が足利義政の知遇を受けて,大名や武家にふさわしい志野流の香道を創始して志野流香道[市無形]と呼ばれるようになりました。明治14年(1881年)に没するまで多くの人に尊敬されたといいます。

[市無形] 香道志野流 外部リンク

宗像神社
上名古屋2-7-2



 Uターンして60mほど進むと右手に宗像神社があります。尾張藩祖の徳川義直が福岡県の宗像神社から名古屋城内に勧請したもので御深井弁天と呼ばれます。徳川義直筆の社号額,狛犬などが宝物としてあり,尾張徳川家に大切にされた様子がうかがわれます。明治7年(1874年)に村社となって一般に参賀が許され,明治22年(1889年)に現在地に移りました。戦災で焼失した後,昭和27年に再建されています。毎年6月9・10日には子供の茅の輪くぐりが行われ,10月には例大祭が行われ,琴の奉納が行われます。

浄心寺
上名古屋2-21-1



  宗像神社の先の交差点を左折し,弁天通に戻ったら右折して進むと「浄心」の交差点の手前に浄心寺(曹洞宗)があります。上宿山と号し,文化8年(1811年)に大須大光院の末寺として開山しました。本尊は如意輪観音で,岩塚光明寺より勧請した薬師如来も知られます。現在の本堂の棟札には安政4年(1857年)の銘があり,本尊の須弥壇には弘化2年(1845年)の銘があります。かつては毎日18日に「いっぷく茶屋」が設けられ,ふるまいが行われていましたが,平成22年に残念ながら中止となりました。



 浄心寺の前には江川の碑があります。この付近はかつて江川が南北に流れており農業用水として利用されていました。ウナギなどの魚もとれ,これがひつまぶしのルーツにもなったという説もあります。昭和初期に川は埋め立てられてしまいましたが,南北に走る通りの江川線という名前で残されています。

周泉寺
花の木3-7-20





 「浄心」交差点で横断歩道を2回渡って南西側に行き,300mほど進んだ「浄心西」交差点の次の筋を左に進んで約100m進むと右手に周泉寺(曹洞宗)があります。万霊山と号し,寛永2年(1625年)に中島郡片原一色村(現、稲沢市)より移り,当初は無縁寺といいました。

しゃんしゃん馬の碑
児玉3-18付近



 バス通に戻り,さらに西に500mほど進んだ「押切公園西」の次の筋を右に進み,さらに150m,4つ目に左に入ることができる細い道を進むと,約50mで将棋の駒のような形をしているしゃんしゃん馬の碑があります。戦国時代に,この付近に児玉という姫がいたが,押切に針を習いに行く際に走ってきた馬に突き当たって死んでしまったのだが,周囲の人達には馬が見えなかった。その後この地域で徴発された馬が死んだという知らせが伝わり,馬の霊が返ってきたということで碑をたててまつったのだといい,歯痛のときにお参りすると治るという言い伝えがあります。



 しゃんしゃん馬の碑の後ろに子安地蔵尊と役の行者の像があります。子安地蔵尊は元文元年(1736年)の刻があり,ちょうど疫病が流行した頃でそのために建立されたといい,役の行者は嘉永7年(1854年)の刻があり,修験道の開祖です。今でも朝夕にはお参りが絶えず,毎月24日にはお祭りが行われています。

白山社
児玉3-19-6





 さらに少し進むと白山社があります。創始年代は不詳ですが,安永2年(1773年)の木札があり,現在の石川県白山の神を勧請して創建されたといいます。大正7年(1918年)に周辺の5社が合祀され,現在は10柱が合祀されるこの地区の唯一の氏神として人々に信仰されています。拝殿は大正6年,本社末社は昭和24年に改築されたものになります。境内社のうち神明社は,元和4年(1616年)に一陣の風が吹いたのち,翌日伊勢神宮の祓いを背負った木馬が落ちていたので,それを納めた神明社を設けたということで,鷹狩に来ていてそれを聞いた藩祖徳川義直が,この地を伊勢山と名付け,東を流れる川をお伊勢川(のち笈瀬川)と名付けたといいます。

薬師寺
児玉3-15-10



 白山社のところの道を左折し,左に空地を見ながら細い道を進むと,約50mでT字路に突き当たります。ここを右に曲がると丹羽長秀邸址の碑が見えてきます。天文4年(1535年)にこの地で生まれた丹羽長秀は,天文19年(1550年)から織田信長に仕え,その後美濃の斎藤龍興との戦いや近江六角氏の戦いで武功をあげ,天正元年(1573年)には若狭国を与えられ,織田家では柴田勝家に次ぐ二番家老となりました。秀吉は柴田勝家と丹羽長秀から1文字づつもらって羽柴という名字した話は有名です。その後,秀吉とともに明智光秀を山崎の戦いで討ち,若狭・越前を領土とする大名となり,天正13年(1585年)に没しました。



 奥には薬師寺(曹洞宗)があります。享保3年(1718年)に建立と伝わり,安置されている薬師如来はもと胎内仏と言われ,元禄11年(1699年)の書付があります。丹羽長秀の屋敷跡に建立されたといいます。

旧志水家玄関車寄せ・風信亭
児玉3-13-38



 続く突き当りを左へ進んだ次の交差点の手前に旧志水家玄関車寄せ[市文化]があります。この門は元々名古屋城三の丸にあった志水甲斐守屋敷の玄関車寄せを移築して門としたもので,大矢氏が明治初めに自邸に移築して表門としました。志水家は尾張藩の重臣で,この門は一部改造されていますが,上級武家屋敷の規模や様式を伝える貴重なものになっています。中にある風信亭[市文化]はもともと名古屋城二之丸庭園の茶亭を明治初期に移築したもので,江戸時代中期頃に建設されたといいます。城内庭園の茶亭の雰囲気をよく残す建物として貴重なものですが,通常は非公開になっています。

覚岸(かくしょう)寺
名西2-18-18



 そのまま直進してバス通に出て,右手に見える横断歩道を渡って,東方向に戻り,1つ目の一方通行の道を進むと,約100mで覚岸寺(かくしょうじ,真宗大谷派)があります。昭和13年(1938年)創建という比較的新しいお寺で,ちょうどこの付近に住宅ができはじめた時期に創建されました。当時はこの付近は低湿地帯で,庄内川から土砂を運んで盛り土をしてから家を建てなければ,すぐに雨で浸水してしたり,邸内がしけってしまったりしたといいます。

観音寺
名西2-16-31





 覚岸寺の次の交差点を右に曲って約100m進むと観音寺(曹洞宗)があります。三宝山と号し,慶長8年(1603年)に創建され,中区の永安寺に属しました。本尊の聖観音像は尾張2代藩主の徳川光友が寄贈したものと伝わります。現在は白山社に鎮座している木馬の伝説のある神明社は,かつては当寺に鎮座していました。昭和20年(1945年)の空襲で本堂や大日堂などがすべて燃えたため,現在はコンクリート製の本堂になっています。

ゴール:市バス・葭原町バス停

 観音寺から出て右に曲って約100m南下し,突き当りを左に曲がって東に約100m進むと,名古屋中央郵便局があり,その前にある市バスの葭原町バス停がゴールです。名駅13系統を利用して,名古屋駅までバスを利用して約10分で移動が可能です。本数は1時間に2〜4本ぐらいなので,少し時刻を気にするといいかもしれません。



【再訪問】桜の名古屋城西側の遊歩道 [4/1追加掲載]

 3月末の桜が満開の時期に,名古屋城西の遊歩道までの部分を再訪問しました。



 富士浅間神社も桜でいっぱいでした。







 名古屋城の西側の石垣も桜でいっぱいです。







 冬には味気なかった堀川緑道もこの時期は桜で彩られていて,多くの人が訪れていました。

写真使用数:44

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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