本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市西区:美濃路コースMINOJI

2014年12月探訪。2015年2月8日作成
2015年9月22日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約4.6km
 浅間町駅から西にのびる美濃路とその周辺の史跡をめぐって,清須市との境である枇杷島橋まで進みます。旧街道歩きも魅力的なコースです。

地下鉄・浅間町駅〜法蔵寺〜宝周寺〜林貞寺〜海福寺〜鈴木朖離屋の跡〜大木戸跡〜本龍寺〜養照寺〜白山神社〜本壽寺〜八坂神社〜八幡社〜西源寺〜清音寺〜中島黒體龍王大神社〜名鉄・東枇杷島駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・浅間町駅

 今回のスタートは地下鉄鶴舞線の浅間町駅です。名古屋駅や栄から訪ねる場合は,伏見駅で鶴舞線に乗り換えて2駅,約4分です。浅間町駅の3番出口からスタートです。

法蔵寺
新道1-19-36



 浅間町駅の3番出口を出て国道22号線の南側の歩道を西に200m弱進むと,法蔵寺(真宗大谷派)が見えてきます。清涼院と号し,創建は寛喜元年(1229年)で,寛永元年(1626年)に下小田井(現在の清須市西枇杷島町)から現在地に移転したといいます。当時はこの付近は名古屋の町の西端に当たり,このお寺は西の守りを固める意味もあったようです。



 境内には貞享4〜5年頃(1687〜88年),芭蕉がこの寺で詠んだとされる「刈跡や早稲かたかたの鴫の声」の句が刻まれた鴫塚(刈跡塚)[市文化]があります。安政3年(1856年)に立ったといい,秋の飾らない自然を詠んだこの句は,江戸時代にはこの付近が田園地帯であることを物語っています。寺宝にはこの刈跡塚の建立の記録のほか,芭蕉翁の肖像画などのゆかりの品もあります。また,明治期の女優であった川上貞奴の師匠といわれる小万奴が文化9年(1812年)に中国から入植したという柳の二代目と,彼女の墓碑があるといいます。



 さらに200mほど進んだ「押切」の交差点の南に名古屋扇子の末廣堂[公式HP(外部リンク)→]があります。名古屋扇子は宝暦年間(1751〜64)からの伝統を持ち,京都から移住した井上勘造親子によって始められたと言います。高級品が多い京都の扇子と比べて,名古屋扇子は量産品や男物などが主流で,庶民でも気軽に扱えるものが多いとのこと。末廣堂は大正元年(1912年)創業の老舗で,現在は名古屋扇子の代表的な店舗として知られ,インターネットでも扇子の販売を行っています。

宝周寺
浅間2-3-27



 「押切」の交差点で国道22号線を北にわたって右折し、そのまま200m進んだ3本目の筋を左折するとすぐに左手に宝周寺(浄土宗)があります。高木山と号し,寺伝によると知多郡大井町の高木氏の菩提寺として真言宗阿弥陀寺として創建されたと言います。寛文6年(1666年)に現在地に移り,延宝4年(1676年)に宝周寺と改められました。山門は高木門と言われ,文化11年(1814年)に建立されたものが残っており,江戸時代のおもかげを残します。戦前には安政6年(1859年)に再建された観音堂や鎮守堂がありましたが,戦災にて全焼しました。

林貞寺
浅間2-3-25





 宝周寺にほぼ隣接して,林貞寺(臨済宗妙心寺派)があります。馬頭山と号し,創建は不詳で,名古屋城築城の際に清須より西区の弁天通付近に移り,寛永16年(1639年)に現在地に移ったといわれます。元禄時代に建立されたナマコ壁と言われる武家屋敷から移築して作られたという高塀が残っており,江戸時代のおもかげを今に伝えています。本尊は馬頭観音で,大和・伊勢を支配した北畠顕家の守本尊が伝えられているといい,別名,幅下観音ともいいます。境内には江戸時代より伝わる「おもかる地蔵」があり,地蔵が重ければ願いかなわず,軽ければ願いがかなうといわれます。また,門の左側にある手水鉢は正徳3年(1713年)作といわれます。

海福寺
浅間2-11-21





 林貞寺から小さい道を1本はさんですぐのところに海福寺(臨済宗妙心寺派)があります。玉峰山と号し寛永14年(1637年)に政秀寺から法嗣を受けた真伝和尚により建立されました。昭和20年の空襲で焼失し,本堂は昭和39年(1964年)に再建されたものです。尾張藩の藩祖の徳川義直が鷹狩のさいによくこの地に休憩したといわれ,以降尾張徳川家から金銭や寺領などを賜るなど関係を深め,寛延元年(1748年)に火災にあったさいも藩の寄進で再建されたといいます。

鈴木朖(あきら)離屋の跡
花ノ木1-7-1



 そのまま北に50m進むと美濃路に突き当ります。ここを右へ進み,続いて左へ,さらに次の交差点を左に進んだところに「鈴木朖離屋の跡」の案内板があります。鈴木朖は明和元年(1764年)に西枇杷島の医師の第3子として生まれ,寛政4年(1792年)に本居宣長に入門し国学の研究者として多大な業績を残しました。文化2年(1805年)から天保4年(1833年)に尾張藩校の明倫堂の教授となるまで,尾張藩鍼医の勝田三雪の離れに住み,ここから号の離屋としたといいます。その後,江川端(現,城西3丁目)の新居に移りました。

樽屋町の大木戸跡



 美濃路に突き当たったところに戻って,美濃路を西に進むとすぐ左手の公園に樽屋町の大木戸跡の案内板があります。大木戸は城下町の中と外を分ける場所に設けられたもので,名古屋にはこのほかに,中区の橘町と東区の赤塚にありました。ここから名古屋城外で美濃路が本格的に始まります。美濃路は慶長7年(1602年)に開かれた名古屋の熱田から中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)までを結ぶ街道で,京都まで海路を使わずに移動できるため多くの人々に利用されました。名古屋市内ではここから枇杷島橋までまっすぐのびていて,このコースでは美濃路に沿って進んでいきます。

本龍寺
押切2-7-5



 趣のある美濃路を200mほど進むと「押切北」交差点があり,ここを渡って次の一方通行の筋を右に曲り,続いて左に曲ると,右手に本龍寺(法華宗)があります。文安元年(1444年)に越後蒲原の本成寺の末寺として創建されたといいます。境内には永禄元年(1558年)の銘のある題目曼陀羅碑や,国学者鈴木朖の晩年の寄宿先の勝田三折の墓碑があります。

養照寺
押切2-4-4



 本龍寺の先の交差点を左に曲がり,美濃路に戻ったら左に進んだら,左手に凧茂(たこも)本店[公式HP(外部リンク)→]があります。江戸時代後期から手作り和凧を製造している老舗で、伝統の技を守りながら現在でも凧の製造卸を行っています。店内に色々な凧が展示されているほか,予約をすれば凧作りの体験もできるそうです。特に干支の凧を毎年製造していることで知られ,店を見学するとおもしろいです。





 美濃路を引き返して100mほど西に進むと右手に養照寺(真宗大谷派)があります。もと浄圓寺といい伊勢桑名郡にありましたが,天正年間(1573〜91)に織田信長の兵火を受けて焼失したため,愛知郡日置村(現在の中区大須1丁目)にて再建し,その後寛永年間(1624〜43)に押切村に移り,正保2年(1645年)に現在の寺号に改めました。享保20年(1735年)に火災にあって現在の地に移りました。戦災で全焼して昭和26年に再建され,平成26年(2014年)には現在の新しい本堂が完成しました。

白山神社(押切)
押切2-5-2





 養照寺から少し進むと右手に白山神社があります。俗に榎権現ともいい,文明9年(1477年)に尾張守護の斯波氏が加賀国の白山権現を勧請して建立されたといいます。榎の名前の由来として,雉がいずことなくこの地に飛来したが落ちて死んでしまい,村人が哀れんで屍をうめたところ,雉の腹の中にあった榎の種が芽吹き,神社の神木になったという伝説が伝わっています。境内には多くの末社があり,鳥居をくぐった左にある戸隠社は薬の神様として知られます。例大祭は7月17・18日に湯立神事が行われます。永禄3年(1560年),織田信長が桶狭間の合戦の際に,戦勝祈願として太刀一口を奉納しているほか,江戸時代には美濃路を通る諸大名が必ず本社に参拝したと言われます。また,神社前は休憩場所である立場になっており休憩所になっていたといいます。かつては西側にお伊勢川と呼ばれた笈瀬川が流れており,権現橋という石橋があり,神社の垣根の一部に昔の橋の欄干が使われています。

正壽寺
則武新町1-8-2



 白山神社の先の「榎小学校北」交差点を左折し,約200m進んだ「菊ノ尾」交差点で横断歩道を渡って右折し,ここから2本目の筋を左折すると少し先に正壽寺(曹洞宗)があります。七宝町桂(現,あま市)にある廣済寺の末寺で,明治43年(1910年)に本堂が建立されました。



 正壽寺から100m進むと,右手に神明社があります。例祭が毎年10月7日に行われる地元の神社で,津島社,秋葉社などが境内社としてあります。



 神明社の先の交差点を右に進み,約150m進んだ2本目の筋を右に曲ります。さらに150m進んだ再び国道22号線の手前に津島神社があります。毎年5月に桑名から伝えられたという石取まつりが行われ,鐘や太鼓で打ち鳴らすこのお祭りは初夏の風物詩となっているようで,現在,3台の山車が活躍しています。真宗高田派の正信寺が隣接しています。

八坂神社
名西2-34-20





 津島神社の先の「名西1」交差点で国道22号線を渡り,そのまま直進して200mほど進むと美濃路に突き当たります。ここを左折して約300m進むと右手に八坂神社があります。創建年月日は不詳ですが,元禄15年(1702年)に現在地に遷宮し,その後何度か修造されているといいます。毎年5月第3土日に行われる提灯祭りが有名で,これは長寿延命と豊作祈願を祈って行われ,特に初日の夕方に高さ20mの竿に五段にわたって880個もの提灯がさげられる「山竿提灯」は見事です。境内には,境内社の秋葉社と神明社がまつられています。また,社が東向きに設けられているのは,元々南向きに建てられていたのですが,前を通る美濃路を新川の刑場へ向かう罪人が通るたびに鳥居の前で落馬するということが起こったため,神のたたりとして神社の向きを東にしたところ落馬しなくなったといいます。



 八坂神社の先の「八坂」交差点で国道22号線を渡り,さらに50mほど進むと,庄内用水(惣兵衛川)を渡ります。庄内用水は戦国時代の元亀・天正年間(1570〜92)に開削されたといい,庄内川から取水して名古屋の街に水を提供しました。ちょうど,信長や秀吉が活躍していたころなので,国力を高めるために用水が作られたと考えられます。豊かな実りを実現するために苦労して引かれた用水は、今は遊歩道になっています。



 用水を渡るとすぐに左手に尾州殿茶屋跡の案内板があります。かつては尾張藩の接待所としての茶屋がここに設けられ,尾張藩と関係が深い要人が接待を受けていたといいます。名古屋には宿場の機能がなかったため,清洲と熱田の中間にあたるこの位置に疲れをいやす施設として設けられました。



 この南の枇杷島公園には,枇杷島市場跡の碑が立てられています。前身は慶長16年(1611年)に下小田井(現,清須市)に設けられた市場で,美濃路にも近く立地条件がよかったことから特に青果市場として江戸時代から大いに賑わいました。昭和30年(1955年)にこの枇杷島公園の位置に移動し,青果の卸売市場として発展しましたが,取扱量の増加と大型トラックの増加で敷地が手狭になったことから,昭和58年(1983年)に豊山町の北部市場に機能が移転されて閉鎖されました。



 美濃路をさらに進むと,右手に屋根神のある家があります。屋根にお社を載せるのは名古屋独特の風習だそうで,たいがい津島神社,秋葉神社,熱田神宮の三社がまつられています。四間道にもありましたが,昔は名古屋周辺で一般的に見られたそうです。

八幡社
枇杷島3-9



 庄内用水から歩いて300mほど進むと,右手に八幡社が見えてきます。1529年(享禄2年)創建と伝わり,現在より500mほど北にありましたが慶長17年(1612年)に美濃路沿いの現在地に遷座しました。通称,「鷹八幡」と呼ばれ,鷹の諸病などに霊験があったため,鷹匠や鷹狩りをする武将などに崇敬され,尾張藩の歴代藩主の崇敬も厚く,藩祖の義直は西の方に鷹狩に出かけたときには必ず参拝したと伝えられています。

西源寺
枇杷島1-15-20





 八幡社から美濃路をさらに少し進むと左手に西源寺(真宗本願寺派)があります。寛永3年(1626年),伊勢国多度の空念寺出身の僧祐信により創建され,万治元年(1658年)に現在より北にあったのを美濃路沿いの現在地に移転しました。延宝6年(1678年)に大谷派から転派しています。本堂は昭和4年(1929年)に再建されたもので,昭和55年(1980年)に西源寺会館が建設されました。尾張鋳物師で知られる水野太郎左衛門の喚鏡があることでも知られます。

清音寺
枇杷島3-10-6





 西源寺の道路をはさんで反対側に松峰山と号する清音寺(曹洞宗)があります。治承3年(1179年)に太政大臣藤原師長は平清盛により尾張国井戸田(現,瑞穂区)に流されました。許されて帰路につく際,そこで寵愛した村長の娘が名残惜しんでこの付近まで見送ったため,師長は薬師如来と自分の白菊の琵琶を形見として娘に手渡した。しかし,彼女は悲嘆にくれて「四つの緒の調もたえて三瀬川沈み果てぬと君に伝えよ」の一種を琵琶の甲に書きつけて池に身を投じたため,人々は池を琵琶池といい,周囲の地名が琵琶島と呼ばれるようになったといいます。師長は娘の菩提をとむらうために建立した寺が清音寺の起源と言われ,寺号はその娘の法号「清音院」に由来しています。永正年中(1504〜21)に正眼寺の八世和尚が中興の祖となり,その際に曹洞宗に改宗しました。美濃路開設以前は,現在地より600mほど北の枇杷島村の中心部にありました。木 曽の御嶽教の開祖である覚明がかつてこの寺で修行していたことでも知られています。また,明治期の俳人で西枇杷島に住んだ大木静処(1828〜92)による明治26年建立の「海のそら苫屋の露にしつみけり」の塚があります。

中島黒體龍王大神社
枇杷島2-25-8



 清音寺から名鉄の高架下を抜け約100m進むと,庄内川の堤防の前に出てきます。ここに美濃路の標識とモニュメントがあります。隣には標識があり,この辺りが枇杷島河原といい,当時,那古野(名古屋)や清須で生活していた幼少時代の信長がこの河原でよく遊び,中村の稚児集団にいた秀吉もここで川遊びをしたという案内板が立っています。庄内川が戦国武将を育んだ様子を伝えています。



 美濃路の道標から道沿いに進むと右手に中島黒體龍王大神社(黒龍神社)があります。もともと庄内川の中洲に当たる西枇杷島町下小田井中島にあり,慶安年間(1648〜51)に夢で現れた龍王をまつるために創建されたと伝えられます。その後,御嶽開山の覚明が,大雨で庄内川を渡れずに困っているところ,金の大蛇が現れて対岸に運んでくれたという伝説があります。彼はそのお礼に神社を改修したといいます。その後,庄内川の改修で1953年(昭和28年)に中島からこの地に移されました。境内には伝説にちなんで龍や蛇の置物が設けられています。



 神社から先の階段を下りたところには子安地蔵尊があります。美濃路をゆく旅人をずっと見守ってきたようで,今でも地元の人に大切に管理されているようです。

ゴール:名鉄・東枇杷島駅



 中島黒體龍王大神社から道をさらに100m弱進むと,庄内川を渡る枇杷島橋の南側に出ます。美濃路はここで庄内川を渡り,清須市西枇杷島町へと続いていきます。
 枇杷島橋とは反対方向に東へ県道を進んでいくと,約250mでゴールの名鉄・東枇杷島駅になります。名鉄名古屋駅へは2駅,約5分で戻ることができますが,普通列車のみの停車なので注意しましょう。

写真使用数:31

←前:円頓寺コース / 名古屋市西区 / 次:城西・浄心コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>