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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市中村区:岩塚宿コースIWATSUKASHUKU

2015年3月探訪。2015年10月1日作成

【コース】 距離:約6.6km
 区西部を庄内川に沿って南下していきます。庄内川近くの要衝として城跡も多く,佐屋街道の岩塚宿周辺を中心に多くの史跡があるところです。

市バス・稲葉地町バス停〜凌雲寺〜(城屋敷)神明社〜広讃寺〜了通寺〜名古屋市演劇練習館〜真聖寺〜大一美術館〜七所社〜林高寺〜岩塚宿跡〜光明寺〜遍慶寺〜浄信寺〜薬師寺〜横井山緑地〜高野宮社〜市バス・横井町バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:市バス/名鉄バス・稲葉地町バス停



 今回のスタートは,市バスの稲葉地町バス停です。東山線の中村公園駅から,名駅24,中村14,幹栄2の3系統が利用可能で,およそ1時間に4本運行です。また,名鉄バスの津島・大坪方面行に乗車しても行くことができ,こちらは1時間に6本程度運行です。中村公園駅からのバスが止まる稲葉地町バス停の南側からスタートです。

凌雲寺
稲葉地本通3-18-13





 バス停のところの横断歩道を渡って,橋のある西に約150m進むと,凌雲寺(臨済宗妙心寺派)があります。集慶山と号し,永正年中(1504〜21)に稲葉地城主の津田豊後守信光(織田信長の伯父)が創建し,津田家の墓所となった寺です。織田信長が幼少の一時期,信光に引き取られてこの寺で手習いをしたといわれ,手習いで用いた草紙を枝にかけて遊んだという「信長草紙掛の松」があります。往時は二百貫文の寺領を持ったが,豊臣氏が没収,のちに福島正則が寺領を寄進したといいます。境内の庭は禅寺の風格を備えた見ごたえのあるもので,市内でも屈指のものと言われています。本尊は観音菩薩で,定朝作と伝わっています。
 寺の墓地には,「天文5年(1536年)」の銘のある宝篋印塔があり,刻字から創建した津田豊後守信光の墓であることがわかっています。また,「応永30年(1423年)」の銘の笠塔婆や,歴代の住持の墓がある一角に古い五輪塔があり,開山の南溟紹化(なんめいしょうか)和尚の墓と伝えられています。

(城屋敷)神明社(稲葉地城跡)
城屋敷町4-10-1





 階段下の凌雲寺入り口ところから寺の右側の道に進み,続く一方通行の筋を左に進むと,約50mで(城屋敷)神明社があります。創建は不詳で,かつてはいわゆる棒の手が奉納されていたといいます。境内には稲葉地城跡があります。城はこの南東にかけてあったといい,天文5年(1536年)以前の築城で,城主は凌雲寺を創建した津田信光といい,三代にわたって居住したのちに廃城となりました。東西四十間(72m)南北五十間(90m)にもわたって跡が残るといいます。この地は庄内川をはさんで西の拠点となる防衛上の重要地点だったことが「信長公記」にも残されています。

広讃寺
城屋敷町3-30 [公式HP(外部リンク)→]





 神明社前から信号へと続く道を南東に進み,1筋目の一方通行の道を左折します。そのまま約200m進むと左手に広讃寺(真宗大谷派)があります。松岡山と号し,永正年中(1504〜17)の創建と伝わり,福井県松岡(現永平寺町)出身で祢宜町に住む塩屋利兵衛が再興したといいます。利兵衛は新田の開発に尽力し,港区の福田新田にある浄恩寺は二男長賢の創建といいます。境内はマツやイチョウの庭木が立ち並ぶ落ち着いた空間になっています。

了通寺
稲葉地町3-20





 広讃寺の先の突当りを右折し,信号で稲葉地本通を渡って右折し,次の筋を左折して約100m進むと立派な木造建築が印象的な了通寺(真宗大谷派)があります。大野山と号し,往古は天台宗で仙蔵坊といい,明応6年(1497年)(諸説あり)に改宗したといいます。昔この地にあったと伝わる「千畳堂」の跡地から出土した三体の石仏が保管されており,信長の時代に仏教が弾圧を受けたので,しばらくの間地中に埋められたとも伝えられています。

名古屋市演劇練習館(アクテノン・旧稲葉地給水塔)
稲葉地町1-47 [公式HP(外部リンク)→]



 稲葉地本通に戻って右折して,東へ300m弱進むと,「稲葉地公園北」交差点があり,ここを右折すると稲葉地公園があります。野球場などを備えたこの付近では大きな公園になっています。
 公園を先に進むと正面に名古屋市演劇練習館があります。通称アクテノンといわれ,現在は名古屋市の演劇の練習用施設になっています。元々昭和12年(1937年)に水道施設の稲葉地給水塔として設置されました。その後,大治浄水場の整備で給水塔としての機能は停止しましたが,改装されて昭和40年(1965年)に中村図書館として再び利用され,その後,平成7年(1995年)から現在の演劇練習館として利用されています。高さ31m,直径33mの特徴的な建物で,名古屋市の都市景観重要建築物にも指定されています。

真聖寺
稲葉地町3-62





 稲葉地公園の南西側から出ると,「稲葉地公園西」の交差点があるので,ここを西に進み,100m弱進むと遊歩道と交差するので,ここを左折して南に進みます。50m強進むと右手に真聖寺(黄檗宗)があります。薬王山と号し,元は岩塚村祠官の支配にありましたが,享保10年(1725年)に宇治万福寺の末寺となり,直聖寺となったといいます。往古,庄内川が氾濫した際に流されてきた薬師仏をまつったところ,村から疫病がなくなったといいます。この仏は,かつて東方にあった真言宗の千畳堂から流された本尊という話も伝わっています。黄檗宗の異国情緒あふれる赤い門が特徴的です。

(花ノ木)神明社
稲葉地町2-119





 さらに遊歩道を進んで,次の筋を左に曲がると,100m弱で神明社があります。通称花ノ木神明社といい,延宝7年(1679年)以前の創建といいます。稲葉地のこの地域の氏神として信仰されてきました。春日,八幡,秋葉,大日の4つが境内社としてあり,クロマツやケヤキなどの保存樹も見事です。

大一美術館 [有料施設]
鴨付町1-22 [公式HP(外部リンク)→]



 神明社から100mほど進んだ次の交差点を右折し,さらに150mほど進むと「鴨付町」の交差点とバス停に到着します。ここの西には,名古屋音楽大学や同朋高校などの同朋学園の校舎が立ち並びます。



 「鴨付町」の交差点から南にそのまま少し進むと,右手に大一美術館があります。パチンコメーカーの大一商会が運営する企業美術館で,平成9年(1997年)に開業し,主にエミール・ガレやドーム兄弟,ルネ・ラリックなどのガラス工芸を所蔵し,近代から現代にかけてのコレクションが豊富です。ガラス細工などの企画展が頻繁に開かれています。

七所社
岩塚町上小路7 [公式HP(外部リンク)→]









 大一美術館から直進して約350m進むと「岩塚本通4」の交差点になります。ここを右折して300m,万場大橋へ上がる車道横の側道を進んでいくと,右手に七所社が見えてきます。御田天神など熱田から移した7所の御社があることからこの名前があり,元々御田神社は元慶8年(884年)以前には鎮座していたと考えられていますが,応永32年(1425年)に岩塚城主の吉田守重が熱田の7つの社を移したといいます。境内および周辺は岩塚古墳群といわれ,数基の円墳が見られましたが,開発などで取り壊されました。社殿南東の濠をめぐらせた1号墳の墳丘が目立つ墳丘で,直径5m,高さ2.5mで全体がうっそうとした森に覆われています。庄内川の自然堤防上に位置するここは,弥生時代から古墳時代にかけて重要な生産地だったようです。社殿東側には「日本武尊腰掛岩」があり,日本武尊が荒神を退治するために遠征に行った際に休憩した場所と伝わり,岩塚の名前の由来と「尾張名所図会」は記しています。かつては本殿東横にナギの神木があり,幹が空洞でそこから数十本の竹が生じる珍しく「尾張名所図会」にも記載されましたが,現在は枯れて根元が残るのみです。
 毎年旧暦の1月17日には,きねこさ祭[市民俗]が行われています。国府宮神社のはだか祭,田県神社の豊年祭とともに尾張三大奇祭の1つに数えられ,鎌倉時代から同じ形式で祭りが行われ,古い田祭の様子がよく伝わる民俗学的にも貴重な祭りです。氏子中から12名の役者が選ばれて祭りの中心となります。特に庄内川にて行う川祭りでは,役者が裸体で1本の笹竹を川に入り,川の中ほどで竹を立てて1人が竹に登り,竹の倒れた方向で吉凶を占うというユニークなものです。その後,役者は神前で所作を行いますが,きねとこさの役は餅をつく所作を行い,その後参詣者を叩いて厄落としをするといいます。これから「きねこさ祭」と言われ,笛や太鼓の音から「つうくら祭」とも呼ばれます。

林高寺
岩塚町新屋敷23





 七所社から南に進んで県道の高架下をくぐり,150m先の次の十字路になっているところを左折します。すると約200mで左手に林高寺(真宗大谷派)があります。浄風山と号し,弘仁9年(818年)に創建され,はじめた西光坊と称する天台宗の寺院で,この北の現在の岩塚水処理センターがある付近にありました。応永31年(1424年)に移って,翌年隣地に七所社が創建され,当寺が社僧となり,長禄2年(1458年)に宝池山林高寺と改めて現在の宗派となり,寛永14年(1637年)に現在地に移されました。その後,明治期に境内にあった池がなくなったことから,浄風山としました。

佐屋街道岩塚宿



 林高寺から出て右手の道を南に100m弱進んだ次の筋が佐屋街道になり,この付近には岩塚宿の街道沿いの街並みが伸びています。東海道の脇道として熱田と佐屋を結んだのが佐屋街道ですが,ここは熱田から最初の宿場町で,寛永13年(1636年)に設けられました。本陣や旅籠などが立ち並び賑やかさが想像でき,天保14年(1843年)の記録では旅籠7件があったといいますが,往時の建物は残されていません。庄内川対岸に万場宿があり,宿の御役などは2宿交代で務めていたといいます。

光明寺
岩塚町郷中90





 佐屋街道を右に曲がると少し先に,光明寺(曹洞宗)があります。見陽山と号し,創建は不詳ですが,北の現在の下水処理場付近にあったといい,岩塚宿が設置された寛永13年(1636年)に現在地に移されました。中興開山は宝永6年(1709年)に善篤寺9世和尚と伝わります。本尊は行基作という地蔵菩薩で,この地蔵にサラシをかけて安産を祈願し,戌の日にはずして妊婦の体につけるという信仰が伝わっています。



 光明寺に隣接して八幡社があります。岩塚宿旧西町の守護神で,道路向かいには岩塚宿の本陣があったと伝わっています。
 

遍慶寺
岩塚町郷中62



 光明寺から佐屋街道を東に戻り,最初の筋を右に曲がると,約200mで遍慶寺(真宗大谷派)があります。創建は不詳ですが,元々は海東郡萱津村(現あま市)にあって原西堂といい,天台宗でしたが,蓮如の弟子で明応9年(1500年)に没した僧巧念が改宗して現在地に移転したといいます。江戸時代中期までは熱田の円通寺の末寺でしたが,享和元年(1801年)に東本願寺直末となっています。山門前には岩塚城跡の碑があります。尾張守護斯波氏の一族の吉田氏の居城で,斯波氏が滅ぶと城主だった吉田長英は子の元氏に家督を譲って,元氏は織田信長に仕えたが永禄11年(1568年)に伊勢で戦死し,その子九郎左衛門は織田信雄に仕え天正19年(1591年)に岩塚城を拝しますが,慶長5年(1600年)に福島正則によって滅ぼされました。山門から入ってすぐ左手にはイブキの巨木があり,高さ12m,枝張りが南北8.9mにおよび,優美な樹形が見事で区内で最初に指定された保存樹になります。

浄信寺
岩塚町郷中20





 遍慶寺の先の筋を右に曲がって約100m進み,突当りを左に進むと浄信寺(真宗大谷派)があります。羽衣山と号し,嘉禄2年(1226年)に開基され,当時は延命院という天台宗の寺院で,現在の横井山の北付近にありました。その後,親鸞に帰依して現在の宗派になり,天正年間に(1573〜91)に兵火で焼失したため,現在地に移転したといいます。横井山付近にいた横井氏の菩提寺だったとも伝えられています。

薬師寺
八社1-232 [公式HP(外部リンク)→]



 浄信寺の前から南に200mほど進んだ突当りを左へ,続いて右へ,さらに突当りまで進みます。ここの南には八所社があります。旧下小路の守護神で,この地区の八社の地名の由来になっています。





 さらに突当りを右へ,続いて左に進み,突当りを左に進むと薬師寺(曹洞宗)があります。桃水山と号し,岩塚薬師とも呼ばれます。昔,岩塚に薬師堂がありましたが,いつの頃が焼失。本尊を地元の方が預かり,その後現地に移転して安置したといい,昭和31年(1956年)に現在の寺号になりました。本尊の薬師如来のほかに,日本一ともいわれる大はら布袋尊があり,多くの信仰を集めています。寺にはフォトギャラリーや茶席などがある福心館が併設されており,多くの人に寺に訪れてもらおうという雰囲気があります。

横井山緑地
横井1





 薬師寺の正門から南に進んで,2本目の筋を右に曲がり200m進み,左に曲がって庄内川の堤防沿いを400m強進んでいくと,やがて右手に横井山緑地が見えてきます。庄内川の河畔砂丘で,明治期は標高11.8mもあり,風光明媚な場所として知られ,小学生の遠足やキャンプ場として賑わったといいます。現在はテニスコートも備えた公園として整備されました。丘の上には清正公をまつった清正堂と,明治17年(1884年)に名古屋徳林寺に建立され移された弘法堂があります。


 また,公園内に庄内川で溺れた2人の友人を助けて絶命した「山田清一少年」の碑があります。この付近は土豪である横井氏が支配していて,熱田神宮の大宮司とも関係があり,江戸時代に尾張藩に組み入れられたときにも特別な扱いを受けるなど権力を持ちました。

高野宮社
横井2-185





 横井山緑地の南側から出て,県道の橋の下をくぐり,突当りを右に進みます。100m弱進んで2つ目の筋を左に入ると,少し進んだ先に高野宮社があります。創建年代は不明ですが,文明17年(1485年)に下之一色城の前田与太郎が収蔵したといいます。境内に「一楊しょう御厨舊地」の碑があります。一楊荘は稲葉地から下之一色にかけて広がっていた荘園で、その一部は伊勢神宮の御神領地で御厨とよばれていました。この宮は下之一色城主前田与太郎の祈願所で,かつては極楽寺と称する阿弥陀堂がありましたが,文政13年(1830年)に下之一色に移転しました。かつては与太郎の墓という「五輪石」も移されたといいます。戦前までこの地方で行われていた嫁獅子が奉納していました。女役に当たる人は獅子頭をつけて,獅子舞に続いて獅子芝居を演じたといいます。

ゴール:市バス・横井町バス停



 そのまま進んで突当りを左折し,道なりに100mほど進んで2本目の筋を左に進むと,ゴールの横井町バス停です。名駅22,名駅23,中村11の3系統が岩塚,中村公園,名古屋駅などまで通っています。本数は各系統それぞれ1時間に1本程度です。岩塚駅まで約10分,名古屋駅まで約25分です。

写真使用数:38

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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