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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市北区:楠コースKUSUNOKI

2015年1月探訪。2015年3月14日作成
2015年9月11日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約8.3km
 庄内川北側の楠地区を,北西の喜惣治地区から如意地区へ,そして南へ下って味鋺地区の順にめぐります。庄内川に関わった史跡が多い地区です。

市バス・喜惣治1丁目バス停〜(喜惣治)神明社〜大我麻神社〜大井神社〜鶏足寺〜瑞応寺〜岳桂院〜首切地蔵〜白山薮古墳址〜味鋺神社〜護国院〜西八龍社〜市バス・水分橋バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:市バス・喜惣治1丁目バス停

 今回は北区の北西に位置する喜惣治1丁目バス停からスタートします。名古屋駅からは名駅12系統で約30分です。また栄からは栄11系統で約30分です。また,鶴舞線の終点の上小田井駅からの便もあります。バスの本数はいずれも30分に1本程度なので,時間を調べて利用した方がいいでしょう。今回訪れる庄内川の北側は昭和30年(1955年)に名古屋市に合併するまでは楠村といいました。

(喜惣治)神明社
楠町大字喜惣治新田官有堤防



 この付近の喜惣治という地名は,宝暦13年(1763年)に開拓をおしすすめた国枝喜惣治にちなんだものです。川にはさまれたこの地域は,開拓以前は低湿地帯で大雨のたびに周囲から水が流入し,開拓は苦労の連続だったそうで,強固な堤防を築いて開拓を推し進めるのに10年の歳月を要したとのことです。
 バス停の西側にあるのは喜惣治橋で,この西は西区になります。橋の南東のところに喜惣治観音があります。右手を頬に当てるしぐさをしており,歯痛に効く観音様だといいます。





 橋の東側の道を少し北に進むと(喜惣治)神明社があります。新田開発当初に,この地を開発した国枝喜惣治が,伊勢神宮から天照大神を勧請して創建されたと言われます。また,神社には享保2年(1717年)の棟札が残っており,一説にはこの地区の開拓者の始祖である林平八が関わっているともいいます。いずれにしても開拓当初からこの地を見守り続けた神社で,地元の人々の信仰を受けているようです。



 そのまま堤防沿いを北上して,喜惣治大橋の下をくぐり川沿いの遊歩道を進んでいきます。神明社から約400m進んだところが楠西堤と呼ばれる堤防になります。江戸時代の新田開発で設けられた大規模な堤防で寛永2年〜宝暦13年(1749〜63)の15年近くかけて完成し,この地域の新田開発完成のシンボル的存在だったようです。平成12年(2000年)の東海豪雨でこの地域に大きな被害があったことから,堤防の補強が行われて今に至ります。

大我麻神社
会所町2





 川沿いの道から階段を下りて,団地をぐるりと回るように進んでいきます。2回右折を繰り返し,続く道を左折して道なりに約100m進むと,大我麻神社があります。かつてこの付近は低湿地帯で,周囲4kmにも及ぶ大蒲池という池がありました。新川の開削で排水がよくなって徐々に池が小さくなったため,喜惣治新田に続いて入植の機運が高まり,文政3年(1820年)に豊場村(現:豊山町)の佐々木磯吉がはじめて大蒲に移植しました。苦心の中,開墾をすすめ,その後文政10年(1813年),大蒲新田と喜惣治新田が分離した際に,大蒲新田の氏神として設けられたのがこの神社です。境内には大蒲新田開発記念碑があり,佐々木磯吉と名古屋で酒造業を行い新田開発の支援をした三輪惣右衛門の名前が刻まれています。またここの地主だった三輪家が食料生産の重要性を考えて戦争終了前の昭和20年6月農地解放を行ったことを伝える仁沢碑も設けられています。現在,周辺は団地になっており200年余り前まで新田だった面影は全くありません。

大井神社
如意2-1



 大我麻神社から道なりにさらに進んで約650m,「大我麻町西」交差点まで進み,ここを右折して約450m,国道41号線を越えて進むと,バスターミナルになっている如意車庫があります。



 またこの横にある北高校には「にょらい塚」という塚の跡があることで知られます。





 如意車庫からさらに東に約300m進むと,左手に大井神社があります。平安時代の延喜式神名帳に「山田郡大井神社」とある古社で,和銅・養老年間(708〜723年)に勧請されたと伝わっています。昔,ここにあった観音堂に安置されていた如意輪観音があったことから,この付近の「如意」という地名になったといいます。明応4年(1393年)に石黒重行が奥州塩釜六所明神の像を背負って来て,その子が嘉吉2年(1442年)に本社を造営して相殿に六所明神をまつったといいます。境内には,かつて市の文化財に指定されていた獅子芝居の碑があります。獅子芝居とは有名な芝居を獅子頭をかぶって演じるものでしたが,演者の老齢化でとだえてしまいました。

鶏足寺
如意2-7



 大井神社の東に隣接して,鶏足寺(真言宗智山派)があります。創建は不詳ですが,元禄年中に再建されたといい,味鋺にある護国院の末寺でもとは鶏足坊といいました。境内に「楠小学校発祥の寺」の碑があり,明治6年(1872年)に楠小学校の前身の如意義校がここに設けられました。翌年には学校は移り,明治10年(1876年)には木造校舎が完成したといいます。その後,昭和27年(1952年)に鶏足坊に鶏足寺に名称が変わりました。

瑞応寺
如意2-73





 大井神社からさらに東へ200mほど進み,「如意北浦」の信号を左折するとすぐに瑞応寺(臨済宗妙心寺派)があります。如意山と号し,南北朝時代の臨済宗の僧である夢窓国師が鎌倉から京都に向かう途中にこの地に立ちより,貞和4年(1348年)に創建されたといい,もともとは瑞竜寺といいました。
 山門脇に『南朝忠臣石黒重行之蹟』の碑があります。石黒重行は越中国(富山県)の城主であった重定の孫に当たり,南北朝時代に南朝側について戦い,敗れて奥州に逃れましたが,明徳4年(1393年)にこの如意の里に来て長谷川と姓を変えてひそんでいました。その後,尾張守護の斯波氏の庇護を受けて如意・味鋺の領主となりました。その後,重行は夢窓国師をしたって瑞竜寺を立派な七堂伽藍にして,自らも出家して宗円居士と称しました。本堂の奥には重行の墓が残されています。その後,荒れ果てた寺を再興したのは八代孫の石黒重成で,彼は改宗して瑞応寺と寺名を変えました。重成は徳川家康に従って天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで功をあげ,その後家康の家臣になって仕えたことで知られます。

岳桂院
如意5-224



 瑞応寺から前のバス通に戻り,約800m道なりに東に進み,「如意」の交差点を過ぎて5本目の点滅信号がある右に入る筋に進み,続いて左に進むとすぐに岳桂院(曹洞宗)があります。鶴楽山と号し,室町時代末期の創建と言われ,享保3年(1718年)に庄内川の氾濫から逃れるために現在地に移転しました。





 境内に入ると立派なクスノキの大木が印象的です。クスノキの北側にある明王堂は女性の幸福をかなえてくれるといううすさま明王がまつられており女人講が発起して建造したといいます。木の下には戦没者の供養塔があり,如意から戦地に赴き亡くなった人の霊をまつっています。また,無縁仏塔の上にある六地蔵は元禄7年(1694年)の刻がある古いものだそうです。



 岳桂院の北,生棚川に沿って進んだ先には六ヶ池があります。かつては広大な池でしたが,開発で現在の姿になりました。大きな労力をかけて用水を開発し,新田を生み出していったといいます。池には伊勢から勧請されたという猿田彦社をまつっています。



 岳桂院の前の道を進んで1本目を右折し,突き当りまで進んで左,続いて右に進み,さらに100mほど進むと右手に堀田天神が見えてきます。祭神は菅原道真で、もともと鳥見塚と呼ばれた地にありましたが,明治初年に現在地に移ったといいます。周囲が宅地化され,ここだけが昔の姿で残っているようです。

首切地蔵
楠味鋺3-2411



 堀田天神の1つ手前の道をずっと南下して900mほど進むと新地蔵川を渡ります。新地蔵川は,春日井市の地蔵川から八田川をくぐって新川までの流路を作ることで、この付近の排水をよくする目的で作られ,構想から長い年月を経て昭和43年(1968年)に全長3.4kmが完成しました。



 新地蔵川を渡った次の分岐点を左へ約100m進むと,左手に首切地蔵があります。首の部分と2つに切断された胴体という3つの部分に分かれて接ぎ合わされた珍しい地蔵です。文政(1818〜29)の頃,この付近の郷士だった一ノ曽五左衛門が失態をした女中を手打ちにしようとしたところ,この地蔵が身代わりになって切断されたという逸話が残されています。昔から地域の人によって大切に守られている地蔵で,特に旧暦7月24日の地蔵盆の際には賑わいをみせます。



 首切地蔵の交差点を右に曲り南下します。ここの道は昔の稲置街道に当たります。稲置街道を南に100mほど進むと,左手に木製の忍び返しという塀がついた旧家があります。これは「曲水宴」を醸造していた双葉酒造で,明治2年(1869年)の創業で,元々は大坂屋といい,平成4年まで醸造していました。

白山薮古墳址
楠味鋺5-1501



 さらに400m進み突き当りの1本手前の少し太い筋を左に曲ると味鋺保育園があります。この付近にはかつて白山薮古墳という古墳がありました。発見前は一面の薮に覆われた土地でしたが,昭和25年に粘土槨(棺が入る外箱)が発見され,その後の南山大学考古学教室の発掘調査によって,この古墳が4世紀末から5世紀初頭にかけて作られた直径20m,高さ4mの円墳(前方後円墳説もある)であることがわかり,三角縁神獣鏡や副葬品として鉄製の剣や鏃,管玉や勾玉などが発見されました。その後も,味鋺周辺には二十基ほどの古墳が造られたことがわかっており,これらは味鋺古墳群と呼ばれ,特に春日井市の二子山古墳などは有名です。残念ながら墳丘は宅地化で完全に破壊されました。

味鋺神社
楠味鋺2-736



 左に曲がる前に戻り,首切地蔵から直進方向に進むと一方通行の道に合流しますが,この道がかつての犬山街道になります。合流した次の道を右に曲がり,次の突き当りを左に曲がると,右手に味鋺神社があります。平安時代の「延喜式」に「春日郡味鋺神社」とある式内社で,江戸時代には六神をまつることから,六所明神とも呼ばれました。味鋺というのはおもしろい地名ですが,もともとは「悪し」からきているようで,元々は庄内川が氾濫するため耕作や住宅に適さなかった地を指していたようです。



 本殿は延宝6年(1678)造立,享保10年(1725年)造替などの標札があり,祭文殿は天明4年(1784年)の建立といい,尾張地方の古社の形式によく見られるものだそうです。境内には樹齢何百年かと思われる楠の大木もあり,趣深い景観になっています。本殿の横には平成22年に建てられた流鏑馬像があります。寛治7年(1093年)に競馬の神事を行ったのが始まりとされ,江戸時代後期の『尾張名所図絵』に味鋺神社の流鏑馬の図が見られ祭りで賑わっている様子が伝わっています。第2次世界大戦で流鏑馬神事は途絶えましたが,神輿渡御が今でも祭りの際に行われています。
 社務所の横には縁結びの椿があります。昔,村の娘がこの椿の下で雨宿りをしていたとき,若者が同じ木に雨宿りに来ました。雨が降り,雷が鳴り響く間,2人は同じ場所で過ごし,雨がやんだあとはすっかり打ち解けて,再び椿の下で会う約束をし,その後2人は結ばれたという伝説があります。また社務所の南側にある空池にかかる橋は清正橋と呼ばれ,かつては稲置街道にかけられていたものといいます。加藤清正が名古屋の築城の際に,小牧の岩崎山から石材を運ぶためにかけたという話が残っています。

護国院
楠味鋺2-732





 味鋺神社の西に隣接して,護国院(真言宗智山派)があります。味鏡山天永寺と号し,行基が天平年間(729〜749年)に自ら刻んだ薬師如来を本尊とし,薬師寺として創建したと伝わる古刹です。味鏡山というのは,もともとこの地に鏡池と呼ばれる池があったからで,池を作る際に鏡が出てきたことから,この名前がついたといいます。天暦2年(948年)の洪水で衰退しましたが,天永2年(1111年)に西弥上人によって再建され,現在の寺号になったといいます。その際,寺の北東隅にあったという池から白竜が高く舞い上がっていったことから,竜ヶ池と名付けられたと言います。七堂伽藍,十二坊を誇る大寺院になりましたが,文明11年(1479年)に火災に逢い,その後,将軍家光が本堂を再建したといいます。
 本堂は平成4年に建立されたもので,庄内川の氾濫に備えて高い位置に設けられており,立派な金色のし尾が印象的で遠目でも目立ちます。山門に立派な四天王像がありますが,本堂にもこの東にあった岩屋堂観音に安置されていた仁王像があり,戦後大須観音の仁王像が焼失した際に一時期安置されていたものです。千手観音二十八部衆[国重文・名古屋市博物館寄託]尊勝種子曼荼羅図[市文化]仏眼曼陀羅図[市文化]などの寺宝があります。また墓地には「尾張万歳発祥地」の碑があり,13世紀半ばに長母寺の無住国師から万歳を教わり,それが幕末まで続いていたといいます。山門横の無縁仏がたくさん置かれた山の下に小さな2体の観音像があり,北側の観音像には「右 勝川道 左 小牧道」と書かれています。元々稲置街道の庄内川を渡る味鋺の渡しのところにあったもので,元禄9年(1696年)の年号があり,市内の道標で最も古いものです。

西八龍社
中味鋺1-203



 護国院の前をさらに道なりに西に約200m進み,突き当りを左に曲がり続いて右に曲って約250m進むと,右手に忠魂社があります。昭和15年(1940年)に建立,昭和49年(1974年)に現在地に移転したもので,日露戦争や太平洋戦争で亡くなった霊をまつっています。





 忠魂社の手前の交差点を左折して南に進むと約100mで西八龍社があります。承平年間(921〜938年)の創建とされ,江戸時代には特に雷よけの神社として厚く崇拝され,往時は祭礼に五〜六千人の人々が訪れ,お札は三万枚も授けられたといい,落雷の際に西八龍社のお守りを身に着けていた若者だけが助かったという逸話もあったそうです。太平洋戦争で本殿以外は焼失し,昭和25年の庄内川の堤防工事で本殿が移設され,様子が大きく変わったとのこと。現在の本殿は平成9年に新築されたものです。



 西八龍社から庄内川の堤防に出て,庄内川に沿って東に進みます。この付近はかつては稲置街道の味鋺の渡しがあった所で,往時は街道を行き交う人々を乗せた船が往来したところです。



 堤防沿いの道を800m進むと「水分橋北」交差点があります。ここの手前200mのところの階段を下りたところに東八龍社があります。味鋺神社の末社で日乞いの神社として知られます。

ゴール:市バス・水分橋バス停

 「水分橋北」の交差点から北に400mほど進むと,ゴールの水分橋バス停があります。曽根13系統で上飯田・大曽根に出るのが便利です。1時間に2〜3本の運転なので,時間を調べておくといいでしょう。幹栄1系統の栄行のバスもありますが,時間がかかります。ちょうどいいバスがない場合は,先の「味鋺」交差点を右折して,名鉄の線路が見えたら左折して線路沿いに進むと,10分ほどで小牧線の味鋺駅に行くことができます。

写真使用数:33

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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