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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市北区:大曽根コースOZONE

2015年1月探訪。2015年3月11日作成
2015年9月11日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約5.8km
 平安通駅から大曽根駅西側の古い街並みの史跡をめぐります。その後,下街道を進んで山田地区へ,さらに北西の上飯田の社寺をめぐります。

地下鉄・平安通駅〜清蓮寺〜観音寺〜六所社〜成福寺〜鈴蘭南座〜大曽根商店街〜常光院〜山田天満宮〜金虎酒造〜霊光院〜長全寺〜六所宮〜地下鉄・上飯田駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・平安通駅

 今回のスタートは地下鉄名城線・上飯田線の平安通駅です。栄から名城線外回りを利用すれば約10分で到着します。平安通駅の3番出口から出てスタートします。

清蓮寺
下飯田町4-64





 出口を出て左に曲がり約400m進んだ「御成通3」の1つ手前の筋を左に曲り続いて右に曲ると,清蓮寺(黄檗宗)があります。永禄2年(1559年)に創建され,当初は浄土宗でしたが,延宝4年(1676年)に黄檗宗の第9代管長である霊源和尚により黄檗宗に改宗されました。境内に入ると恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来がまつられた本殿と,延命地蔵をまつった小堂があり,また周囲の黒塀とともに,周囲は下飯田の昔ながらの町並みを今に伝えています。

観音寺
下飯田町2-26



 寺を出て目の前を右へ,突き当りを右へ続く交差点を左へ,さらに2つ目の右に入る筋を進むと,約100mで観音寺(真言宗智山派)があります。国保山と号し,もとは安国寺といって聖武天皇が各地に建てた安国寺の1つとも言われています。その後,建武年間(1334年)に後醍醐天皇が国家鎮護の勅願寺として伽藍を整備し,壮大な伽藍を誇ったといいます。江戸時代に観音寺と改称され現在に至ります。寺には,下飯田出身の数学者である大脇鉄蔵の門人が奉納したという算額があります。境内には多数の石仏もあり,古くからの地域との結びつきを感じさせます。観音寺の前には,病気から身を守るといわれる津島神社から勧請した天王社が設けられています。


六所社(下飯田町)
下飯田町1-1



 観音寺の前からまっすぐ100mほど南下し,突き当りを右に曲って200mほど進むと六所社があります。かつては田園風景が広がっていたこの地域に,大正3年(1914年)に付近の工場が建設されることにともなって,周囲にあった神社を合祀したもので,名前の通り六柱をまつっています。境内の掲示板の足は,かつてこの南を流れていた大幸川などの柱の標柱を再利用したものになっています。

成福寺
瑠璃光町1-8



 六所社の西に隣接して,成福寺(曹洞宗)があります。医王山と号し,熱田の法持寺の末寺として建立されましたが,天保4年(1833年)の大火で炎上してそれ以前の由来は不明です。薬師堂におさめられている瑠璃光薬師如来があり,東海49薬師の第29番札所に指定されています。また,この付近の瑠璃光町やこの北の黒川にかかる瑠璃光橋の名前の由来になっています。境内の山門より奥は,幼稚園の敷地になっていますが,無数の無念仏の墓もあり,不思議な空間です。

石原家住宅
東水切町1-17



 成福寺の先を左に曲がり,約250m進んで「杉栄町5」の交差点に進みます。この西の城東町からその南の長田町にかけては,戦災からも逃れて大正から昭和初期以来の古い街並みが残っている地域です。城東園といわれる遊郭もあり,西の中村遊郭と並んで一時期は賑わったといいます。
 交差点を左前方に約100m進みます。なお,この道筋はかつて大幸川という川が流れており,その跡に作られたものです。すると,黒漆喰の石原家住宅[国登録]があります。昭和初期の都市住宅として貴重なもので,平成23年に国の登録文化財となりました。個人宅なので残念ながら中の見学はできません。
 さらに100mほど進んだ次の信号を右折し,100mほど進んだ右手にはかつて本館などが国の登録文化財に指定されていた十州楼がありました。建物から十の国が見渡せるということで名づけられた料亭で,昭和11年・12年の貴重な旅館建築が残されていましたが,残念ながら取り壊されてしまい,今は新しい住宅が建てられています。

十州樓googleインドアビュー 外部リンク

鈴蘭南座
大曽根1-15-3 [公式HP(外部リンク)→]



 そのまま約200m南下し,少し広い道を越えた次の筋を右に曲るとやがて鈴蘭南座があります。昭和29年(1954年)から続く大衆演劇の芝居小屋で,かつては大曽根にはたくさんあったそうですが,常時公演している常打ち小屋はここだけになってしまいました。以前は貸しホールなどにも用いられましたが,今は大衆演劇専門の劇場に戻っています。昔ながらの客と一体になった演劇を楽しむという機会をぜひ持ってみてもいいかもしれません。

円満寺
大曽根1-19-6



 鈴蘭南座から戻る方向に200m強進むと円満寺(浄土宗)があります。明暦3年(1657年)に現在の東区泉の遍照院の末寺として建立され,天明年間(1781〜89)に京都法然院の末寺となって満徳山阿弥陀院になったといいます。本尊の薬師如来は,大曽根村の東の田の中にあったものを移したことから,田中薬師といい,別名祖父薬師とも呼ばれています。また,明治6年(1873年)にのちの六郷小学校になった大壮義校が境内に設けられました。
 この先の国道19号線の「大曽根南」交差点付近には弘法井戸と呼ばれる井戸があり,清らかな水で街道を行き交う人の憩いの場になっていました。ここにあった弘法像が西にある普光寺にあります。

大曽根商店街(OZモール)
大曽根2 および 大曽根3





 「大曽根南」交差点で国道19号線を渡ると,目の前に大曽根商店街OZ(オズ)モールの特徴的な入口が見えます。昔はアーケードを持つ商店街でしたが,平成元年(1989年)に新しくオープンモールのスタイルに生まれ変わり,統一的な三角屋根の店舗デザインや拡張された歩行者専用道路が開放的な雰囲気を作りだし,第1回愛知まちなみ建築賞を受賞しています。しかし,その後の駅前再開発で駅本体と分離されてしまったため,集客が落ちてしまい,現在様々なイベントを開催して集客につとめています。



 商店街を約600m抜けて進み,大曽根地下街の入口のところに下街道の道標が立っています。別名善光寺街道ともいい,尾張藩の公式街道であった稲置街道(木曽街道)に対して庶民が使う非公式な街道であったことからこう呼ばれました。現在のJR中央線や国道19号線と同じルートで中山道の大井宿(恵那市)を結びました。公式の稲置街道より距離が短かったため,多くの人々に利用されました。ここ大曽根は下街道と瀬戸に向かう瀬戸街道の分岐点で,名古屋城とを結ぶ御成道もあったことから交通の要衝になっていました。



 その後大曽根では,明治33年(1900年)にJR中央本線が開通した際には駅は設けられませんでしたが,地元の請願のかいもあって明治44年(1911年)に大曽根駅が開業し,瀬戸に向かう鉄道の乗換駅となり,現在もJR中央線・名鉄瀬戸線・地下鉄名城線やゆとりーとラインが集まる名古屋北部の交通の要衝になっています。

常光院
山田町3-54





 大曽根駅西側の「東大曽根」交差点を渡り,そのまま北上して約250m進むと「山田2」の交差点があります。ここから国道19号線の右側の歩道を約150m進んだ山田郵便局のところの筋を右に曲がり約50m進むと左手に常光院(真言宗智山派)があります。降華山と号し,元和年間(1615〜24)に東区にある長久寺の念仏堂として建立され,度重なる洪水に苦しむ人々の信仰により繁栄しました。名古屋21大師の第8番札所になっています。また境内では度重なる水害の際に運び込まれた多くのお地蔵さんが印象的です。寛文13年(1673年)に近くにあった質屋の大坂屋から寄贈されたという鬼瓦が残されています。

山田天満宮・金神社・御嶽神社
山田町3-25 [公式HP(外部リンク)→]





 常光院の先に,山田天満宮・金神社・御嶽神社があります。社伝によると,尾張第2代藩主の徳川光友が寛文12年(1672年)に,藩の学問祈願と名古屋の鬼門の守護を兼ねて菅原道真をまつったのが始まりとされ,現在は中区の桜天神社,千種区の上野天満宮と並んで名古屋の合格祈願の神社として有名で,春は梅の名所としても知られます。国道19号線の矢田川にかかる天神橋の名前の由来にもなっています。



 昭和58年(1983年)には,貞享3年(1746年)に創建された近くの金(こがね)神社を合祀しました。金神社では名前にちなんで銭洗いが行われています。これはざるの中に銭を入れて洗い清めると福徳利益を授かるというもので,鎌倉の銭洗い弁天のようにお金を洗うと何十倍にもなるという話が生まれ,信仰が定着していったと考えられます。
 また,境内にある御嶽神社は良縁を生み悪縁を断つとのいわれがあり,良縁をもたらすという「よりそい石」があります。この石を撫でると恋愛成就がかなうといい,千種区の高牟神社,上野天満宮と並んで,名古屋の恋の三社めぐりの1つとなっています。

廣福寺(山田次郎重忠舊里(ふるさと)の碑)
山田町4-42-1



 常光院と山田天満宮の間の道を約150m進むと,左手に山田幼稚園があり,幼稚園の入口に廣福寺(黄檗宗)の標柱が立っています。廣福寺は大応山と号し,以前この地にあった庚申堂を,貞享3年(1686年)に味鋺護国院の末寺を移して改宗し建てたといいます。



 入口の右手に,山田次郎重忠舊里(ふるさと)の碑があります。この山田の地名の由来になった人物で,清和源氏の一族としてこの地に住し,屋敷を構えていました。鎌倉時代の承久の乱(1221年)で後鳥羽天皇側につき,墨俣や杭瀬川(揖斐川の支流)の戦いで善戦したものの力及ばず,瀬田川(滋賀県)の戦いでも敗れ京都嵯峨で自刃しました。

金虎酒造
山田3-11-16 [公式HP(外部リンク)→]



 そのまま国道19号線に進み右に曲がって約100m進むと,右手に金虎酒造があります。江戸時代末期の弘化2年(1845年)に下街道(善光寺街道)の名古屋の入口の現在地に開業したという名古屋に残る貴重な造り酒屋です。金虎の屋号は,名古屋城の金シャチと,三代目善兵衛が寅年であったことから命名されたそうです。商品は「金虎」の他,名古屋城本丸御殿の再建を願って醸造されている「本丸御殿」などがあります。

霊光院
上飯田東町3-57





 金虎酒造の先にある山田四丁目の交差点の横断歩道を渡り,国道19号線の左手の道を道なりに進みます。約350m進んだ宮前小学校の北西側の交差点を右折して,さらに約200m進むと,右手に霊光院(臨済宗妙心寺派)があります。宝月山と号し,元和元年(1615年)にこの付近上飯田にいた斉藤四良右衛門が祖先の冥福を祈って建てたといいます。境内にはたくさんの石仏があり,これは霊光院が上飯田周辺の信仰の中心で,周囲の野仏が集められたためです。また,山門左手の延命地蔵は,かつて上飯田の名鉄ビルができたときに遷座したものを新しくしたもので,昭和20年(1945年)に空襲で名鉄駅から北の夫婦橋付近にいて犠牲になった約250名の供養のために作られたものです。戦争で犠牲になった人の供養塔も境内にあり,白砂が印象的なきれいな庭にあって名古屋空襲で犠牲になった人の悲しみが伝わってくるようです。
 霊光院の東側は、明和4年(1767年)の矢田川の洪水で矢田川の流路が変えられるまで,矢田川が流れていた場所にあたり,周囲よりも高くなっています。矢田川は天井川で周囲より高い位置を流れていたため,このような痕跡になりました。矢田川の過去の痕跡がわかる珍しい場所です。

長全寺
上飯田東町5-39



 霊光院から道なりに西に約300m進むと,右手に長全寺(曹洞宗)があります。亀尾山と号し,永禄7年(1564年)に清須で創建され,慶長期に名古屋の新栄町に移り,江戸時代は990坪の寺域をもつ名刹で,含笑寺の末寺でした。戦災にあって現在地に移転し,昭和33年(1958年)に本堂が完成したといいます。現在も昔ながらの石仏や燈籠たあり歴史を感じさせる一方,きれいに整えられた境内でゆっくりとした気持ちになれます。

(上飯田)六所宮
上飯田南町3-97





 長全寺の手前の交差点から道なりに200m弱南下すると「上飯田南町3」の交差点があり,この右手前に上飯田六所宮があります。慶長4年(1599年)創建と伝わり,名前の通りイザナギなど6柱がまつられています。戦災で本殿などは失われてしまいましたが,戦時に国旗を掲揚した国旗掲揚塔や戦争に出征した人の無事を祈った赤心富士碑などが残されています。戦争に関するものが残っているのが皮肉な感じがします。

ゴール:地下鉄・上飯田駅

 「上飯田南町3」の交差点から西に約500m進み,「上飯田通1」の交差点を右折するとすぐに上飯田駅とバスターミナルがあります。上飯田駅からは上飯田線で名城線の平安通駅に出ることができます。また,バスターミナルからは幹名駅1系統,名駅13系統など名古屋駅に直通するバスもあるので,時間があれば利用してもいいでしょう。

写真使用数:25

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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