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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市東区:寺町コースTERAMACHI

2015年1月探訪。2015年3月19日作成
2015年8月29日再構成・地図掲載

【コース】 距離:約8.3km
 栄駅北東に位置する東桜・葵・泉地区をめぐります。東桜の寺町に代表されるように社寺が多く,名古屋城下町時代からの歴史も有する地区です。

地下鉄・栄駅〜オアシス21〜森村記念館〜東充寺〜含笑寺〜法華寺〜御下屋敷跡〜ヤマザキマザック美術館〜白山神社〜布池カトリック教会〜無量寿院〜室寺観音院〜禅隆寺〜大光寺〜高岳院〜富士神社〜地下鉄・久屋大通駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・栄駅

 名古屋市中心部の栄駅からスタート。名古屋駅から藤が丘方面の東山線で2駅です。栄駅の東側の4番出口方向に向かっていきます。

オアシス21
東桜1-11-1 [公式HP(外部リンク)→]



 栄駅の4番出口方向に向かうと,オアシス21と地下通路でつながっています。栄駅北東にあるオアシス21は,平成14年(2002年)に正式オープンしたバスターミナル・公園・商業施設などを含む複合施設です。名古屋の繁華街栄を構成する一施設ですが,実は中区ではなく東区にあります。地下の商業施設の上には,大屋根となっている水の宇宙船があり,夜にはライトアップされてここのシンボルになっています。東側の愛知芸術文化センターの手前には地上公園の緑の大地があり,市民の憩いの場になっています。その下にはバスターミナルがあり,ホームドアを備えた近代的な設備で,各地域への高速バスなども発着しています。また,マスコットキャラクターとして恐竜をモチーフとした「いやしす」が設定されており,楽しくさせられます。

愛知芸術文化センター [一部有料施設]
東桜1-13-2 [公式HP(外部リンク)→]



 オアシス21の東側に隣接して,愛知芸術文化センターがあります。1992年にオープンした芸術文化センターは,名古屋都心にある文化施設で,愛知県美術館やコンサートなどが開かれる愛知県芸術劇場,アートギャラリー,ミュージアムショップ,レストランなどがからなり,愛知県の芸術の発展を支えています名古屋を代表する美術館として有名な愛知県美術館では各種企画展・巡回展が頻繁に開かれるほか,紙本著色山紅於染図 (浦上玉堂筆),紙本墨画淡彩富嶽列松図(与謝蕪村筆),紙本墨画淡彩秋色半分図(浦上玉堂筆)[ともに国重文]といった文化財も保存されています。また,クリムトの「黄金の騎士」を始め,20世紀ドイツ表現主義や戦後アメリカ美術などの洋画のコレクションも充実しています。

NHK名古屋放送センタービル
東桜1-13-3 [公式HP(外部リンク)→]



 愛知芸術文化センターの北側に隣接して,NHK名古屋放送センタービルがあります。平成3年(1991年)に落成。NHK名古屋放送局が主に入っているビルですが,地下には飲食店街などもあります。1階には放送体験スタジオ「わくわく」があり、NHKのキャラクターと記念撮影したり,ニュースが出来るまでを映像で学んだりできます。

森村記念館 [有料施設]
東桜1-10-18 [公式HP(外部リンク)→]



 ビルの北西にある「NHK放送センター前」の交差点から北に20mほど進むと,森村記念館があります。代々大和絵画家として知られる森村家の旧邸宅を一般公開して,1988年(昭和63年)に開館しました。森村家の所蔵する大和絵を見学することができます。また,館内の茶室や和室などで茶道や華道,書道などの講座が開かれるほか,1階はアートカフェ栄を併設しており,ゆっくりとした時間を過ごすことができます。

東充寺(へちま薬師)
東桜2-8-15 [公式HP(外部リンク)→]



 「NHK放送センター前」の交差点に戻り,左に曲がって東に進みます。約600m,名古屋高速の高架をくぐって進むと,東桜2丁目の寺町といわれる寺の集まった地域に到着します。この当たりは名古屋の街が作られた慶長年代(1610年頃)に清須から多くの寺が移されました。左手に見える松山公園の前の左側に壽林寺というお寺があります。



 隣接して,東充寺(西山浄土宗)があります。仏法山と号し,もともとは尾張国丹羽郡稲置の地(現在の犬山市)に建立され,織田信長の時代の天正年間に清洲へ,そしてその後,慶長年間に清須越で名古屋に移されたという由来があります。



 入って右手に薬師堂があり,本尊の瑠璃光薬師如来が安置されています。なお,薬師堂自体は嘉永7年(1854年)に建立とのこと。別名「へちま薬師」といわれ,へちまを用いた祈祷が有名です。これは昔の住職が夢で授かった祈祷法と言われ,病気の際に患部にへちまをなぜて,そのへちまを祈祷してもらうと快復するといわれるものです。寺の内部には病気全快の際にも奉納されたへちまも合わせてたくさんのへちまがあり,見どころになっています。



 東充寺から目の前にある松山公園をはさんで反対側には安斎院(曹洞宗)があります。ここも1610年以降の清須越の際に移されたお寺です。織田信長の側室,吉乃の母の菩提所とされています。

含笑寺
東桜2-15-36



 東充寺から南方向に120メートル進むと左手に含笑寺(曹洞宗)があります。鷲嶺山と号し,大永8年(1528年),織田信長の父の信秀の生母,含笑院の菩提をとむらうために清須に建立されました。元は天台宗でしたが,萬松寺の愚庵を招いて禅宗とし,慶長15年(1610年)に清須越によって現在地に移転しました。名前にふさわしく,「含笑長屋・落語を聴く会」が昭和42年に結成され,東西の落語家を招いた例会などを開催しているそうです。昭和62年には20周年を記念した碑が門前に建てられました。

飯田街道



 含笑寺から次の交差点まで100メートル進みます。この合流するちょうど斜めになっている道が飯田街道です。飯田街道は名古屋と豊田などを経由して信州の飯田を結んでいた街道で,慶長年間(1596〜1615年)に家康によって設定され,現在の国道153号線のルートに当たります。名古屋市内は,この付近をスタートとして,千種,御器所,赤池を経て日進市方面に抜けていました。元々は赤池まで「駿河街道」と呼ばれていました。飯田から山の幸を名古屋に運び,帰りは主に塩を信州に運んだことから,「塩の道」とも呼ばれています。

西蓮寺
東桜2-12-28





 飯田街道を右折して進むと,約50メートルで西蓮寺(浄土宗)の入口があります。武田信玄の親類が,信長の祖母といわれる「西蓮院」のために清須に創建したと伝わり,清洲越の際に現在の地に移されました。明治41年に名古屋市の市政がしかれたときは,ここが東区役所として用いられたということです。本堂裏にある「二河白道浄土庭園」と呼ばれる庭が名所になっており,尾張名陽図絵にも記載されていたということです。

妙泉寺
東桜2-16-43 [公式HP(外部リンク)→]



 飯田街道を南東へ進むと,来た道からさらに約50メートルで錦通に合流します。ここの「錦通東桜2」の交差点を北上すると妙泉寺(日蓮宗)があります。本光山と号し,天正15年(1587年)に尾張地方の日蓮宗の布教拠点として清須に建立され,清須越で現在地に移転しました。表門は珍しい棟門で,天明3年(1783年)に類焼後に再建された当時の様式のようです。

永安寺
東桜2-22-6



 「錦通東桜2」の交差点に戻り,錦通を渡ってすぐ右手に永安寺(曹洞宗)があります。泰崇山と号し,元は現在の美和町にあったとされます。その後、木下利直により清須城西側に移され,慶長年間(1595〜1615)に清須越で移されました。寺号は利直の法名からだそうです。

法華寺
東桜2-16-29



 再び「錦通東桜2」の交差点で錦通を渡って東に進み,次の左に入る筋を進むと,すぐに法華寺の入口があります。啓蓮山と号し,延徳年間(1489〜91年)に織田家の祖といわれる織田常昌の子,常勝によって清須に建てられ,慶長14年(1609年)に現在地に移りました。天正7年(1579年)に安土宗論で信長に日蓮宗が弾圧された際,説得によって弾圧を逃れ宗門の危機を救ったと言われます。主要堂宇は度重なる火災を経ての再建で,織田氏関係の多数の古文書も戦災で失われましたが,水屋については18世紀前半頃の貴重な建物と言われています。

真柳(しんりゅう)寺
東桜2-17-33



 法華寺の反対側には,真柳寺(日蓮宗)があります。恵眼寺と号し,慶長年中(1595〜1615)に建立されました。江戸中期から残る表門が印象的になっています。

照遠(しょうおん)寺
東桜2-16-21



 法華寺の北に隣接して,印象的な楼門の照遠寺(日蓮宗)があります。棟札によると享保15年(1853年)の建立といい,楼門としては簡素ですが,貴重なものになっています。境内の主要堂宇は嘉永8年(1853年)の火災後に再建されたものになります。

法輪寺
東桜2-16-16



 法華寺の北に隣接して,印象的な楼門の照遠寺(日蓮宗)があります。棟札によると享保15年(1853年)の建立といい,楼門としては簡素ですが,貴重なものになっています。境内の主要堂宇は嘉永8年(1853年)の火災後に再建されたものになります。

妙本寺
東桜2-3-25



 法輪寺から道を1本越えてそのまま150m進むと,妙本寺(日蓮宗)があります。寿量山と号し,永和2年(1376年)に春日井郡稲生村(現在の西区)に創建され,当初は真言宗で,応永年間(1394〜1428)に転じ,その後慶長13年(1608年)の清須移転を経て現在地に移転しました。総門は享保4年(1719年)の火災後に再建されたもので,三間薬医門,本瓦葺で,趣深いものになっています。

御下屋敷跡
葵1-3-21



 妙本寺から1つ筋を戻って東に進み,国道153号線を渡った先の左手に芸術創造センターがあります。昭和58年(1983年)に開館した劇場・コンサートホールで,名古屋法務局の跡地を再開発して建てられました。六角形を基調とした外観の建物は,名古屋市都市景観賞を受賞しています。



 芸術創造センターの東に隣接して東生涯学習センターがあり,その前に御下屋敷跡の案内板が立てられています。城下の東南部にあり,延宝7年(1679年)に二代藩主光友の命によって建てられ,敷地は6万4千坪に及んだといいます。豪華な邸宅や庭園が造られ,その後薬園なども設けられました。七代藩主の徳川宗春が当時の倹約の方針に反する施策をとって,ここに蟄居させられたことでも知られます。現在は市街地化して当時の面影は全く見られなくなりました。

ヤマザキマザック美術館 [有料施設]
葵1-19-30 [公式HP(外部リンク)→]



 「芸術創造センター前」の交差点から南に約200m進んだ左手にヤマザキマザック美術館があります。工作機械メーカーのヤマザキマザック創業者の山崎照幸氏が収集した美術コレクションを展示している美術館で,ロココやエコール・ド・パリなど18〜20世紀のフランス美術をメインとして,アール・ヌーヴォーのガラス器や家具も展示されています。無料で音声ガイドを借りることができるほか,額装のガラスがなく筆の質感を味わえるなど,こだわりを持った美術館が造られています。

神谷家住宅
中区新栄2-1004



 ヤマザキマザック美術館から錦通を東に進んで約150m,新栄町駅を越えて「葵町」交差点を右折します。その先の「新栄町」の交差点を直進して中区に入り,約50メートル進んだ2本目の道を左に曲がりさらに50メートル弱進むと,神谷裏千家茶道教室があります。名古屋の茶道裏千家の流れを組む家で,柏露軒,孤庵,腰掛待合,中潜門[ともに国登録]が知られていますが,ビルの陰になっていて道路からは見ることはできません。

宝林寺
中区新栄3-14-1 



 そのまま約150メートル進むと,右手に宝林寺(臨済宗)が見えてきます。「粟稗に貧しくもあら須草の庵」という芭蕉の句碑(通称粟稗句碑)が境内に立っています。同じ句碑は,北区の解脱寺にも設けられています。
 ここを直進した中央高校の前には宇都宮三郎の出生地の案内板があります。天保5年(1834年)に生まれ,西洋砲術と火薬の研究に専念し,明治初期の化学工業界の先駆者として大きな貢献をしました。

白山神社
中区新栄3-27-24



 ここで右に曲がって約200m,「新栄3」の交差点を越えて進むと左手に白山神社があります。この付近の氏神で,もともとはここの北西にあった円教寺(天台宗)と同じでした。この神社も清須越で移転してきたといいます。この辺りはかつては名古屋新田と言われる田園地帯で,名古屋の町が作られたのちの寛永年間(1624年〜)あたりから町並みが出来始めてきた地域だといいます。

カトリック布池教会
葵1-12-23 [公式HP(外部リンク)→]



 ここから引き返す方向に約600m進み,「広小路新栄3」の交差点の先で東区に戻ります。すると,「葵1」交差点の左奥側に特徴的な建物のカトリック布池教会[国登録]が見えてきます。正式には聖ペトロ聖パウロ司教座教会といい,1962年に建設されたゴシック様式の教会です。名古屋教区(愛知・岐阜・富山・石川・福井)のカトリックの中心で,毎週日曜日に塔の鐘が鳴らされ,ミサが行われています。また,結婚式などのイベントもよく行われているということです。
 江戸初期まではこの付近は原野に大池があり,布をさらすのに用いたことから布池といい,この付近の地名になりました。また,この向かい側には,市邨学園の創立者の市邨芳樹宅の跡がありますが,現在は駐車場になっており,何もありません。

無量寿院
代官町27-18



 カトリック布池教会の東の道を約200m北上して,桜通の歩道橋を渡ると,左手には永平寺名古屋別院があります。福井県の曹洞宗永平寺派の名古屋の中心になります。





 さらに100mほど桜通を西に進むと日本陶磁器センター[公式HP(外部リンク→)]のビルがあります。北側の昭和前期の旧館[国登録]は陶磁器を扱う団体らしくタイルなどの陶磁器をふんだんに利用した意匠で,南側の昭和中期の新館[国登録]はガラス面を広く取った特徴的な近代建築になっています。



 永平寺別院の右側の「桜通水筒先」の交差点を200m北上し,次の左に入る筋に進むとすぐに無量寿院(浄土宗)があります。文化13年(1816年)に尾張徳川家が,現在の東京新宿区の尾張藩屋敷内に創建した寺院がもとになっています。安政3年(1856年)に七代藩主の徳川宗春の菩提をとむらうために現在地に移されたということで,尾張徳川家にゆかりの深い寺院になっています。

田中不二麿生誕地の碑
代官山16-11



 無量寿院を越えた次の道を右折し,続く道を左折します。そのまま200mほど進むと「横代官」の交差点があるので,ここを右折し,次の信号を左折すると,左手に田中不二麿の生誕地の碑があります。田中不二麿(1845〜1909年)は,幕末の動乱期に尾張藩の藩論の統一に努力し,明治政府では尾張藩では珍しく参与として政府に関わり,その後教育行政に関わり,アメリカなどの最新の教育状況にも触れて,先進的な教育施策をかかげ活躍しました。

室寺観音院
泉3-7-15



 先に進んだ国道19号線の「代官町」のところの歩道橋を渡り,南に約20メートル進んだ1筋目の右に入る道のところに善光寺街道の道標があります。名古屋城下から北区の大曽根を通り,現在の中央本線に沿って中山道と結んだみちで,別名,下街道と呼ばれました。ここから北区,守山区,春日井市と通っています。



 右に入り少し進むと,公園の北東側に室寺観音院(西山浄土宗)があります。谷汲山と書かれた標識があり,岐阜の谷汲山華厳寺に関連があると思われます。本尊が木造十一面観音菩薩立像で,境内左手には江戸時代から残るという石仏が残っています。戦前まではもっと広い寺域で,由緒もある寺なのだとか。

養念寺・烏が池跡
泉3-3-13



 室寺観音院のところの公園のところを右折して,道なりに北上して100メートル弱進むと左手に,養念寺(真宗大谷派)があります。富永山と号し,慶長2年(1597年)の建立とされます。尾張藩主徳川宗春が蔵米を寄付するなど,徳川家のつながりもあったようです。
 入口には烏池古跡の碑があり,ここがかつて「尾張名陽図絵」にも記載された烏が池という庭園だったことが示されています。池が泥土の色が黒く,池が黒く見えたことから,こう呼ばれたといわれ,特に紅蓮が有名だったようです。戦災で荒れていたのを昭和56年の改修工事で復元されました。

松山神社
泉3-2-29



 養念寺の手前の道を西に進み,次の突き当りを左に進むと,左手に松山神社があります。創建当初,この付近は松が茂る広大な山林であったためにこの名前がついたといい,この地域の氏神として篤い信仰を受けています。大永年中(1521〜28年)の創建または再建と言われ,江戸時代には天道宮とも呼ばれていました。毎年10月に例祭が行われています。

貞祖院
泉3-11-16



 松山神社から南に100メートル進んでいき,突き当りを右に進むとすぐに貞祖院(浄土宗)があります。吉秀山と号し,慶長13年(1608年)に徳川家康の4男の徳川忠吉の位牌所として清須に建立され,当初は忠吉の法名から玄白寺といいましたが,寺を建立した忠吉の義母の戒名から現在の名前になり,十七世紀半ばまでに清須から移転したといいます。天明2年(1782年)の大火で本堂が焼失しましたが,明治4年(1872年)に建中寺の徳川家霊廟の1つを移して本堂としました。したがって,多少の改築はありますが,建中寺霊廟とよく似た本堂になっているようです。



 松山神社の手前の交差点まで戻り,西に進むと鍋屋町商店街になります。この商店街は歴史が古く,昔ながらのお店が多く残っており,古い町の街歩きが楽しめます。

禅隆寺
飯田町36





 ここから次の交差点を右折して北に進み,100メートル進んで外堀通りを「飯田町」交差点の横断歩道で渡り,外堀通りの北側の歩道を約50メートル進むと禅隆寺(曹洞宗)があります。宗興山と号し,元和9年(1623)初代藩主義直より寺地を拝領して創建されました。その後も,八代藩主宗勝の生母円珠院の菩提寺となり,寄付をうけるなど尾張徳川家と関係しています。境内の「山水菩薩庭園」は,特に紅葉は有名で隠れた名所になっています。江戸時代初期から残る山門、織田家ゆかりの清須越えの観音堂などの文化財も見ものです。

大光寺・井上士朗宅跡
泉2-5-12





 「飯田町」交差点に戻り,南に戻って1つ目の右に入る筋を50メートル進むと,大光寺(日蓮宗)があります。妙瑞山と号し,天文年間(1532〜55年)に現在の群馬県に創建され,前橋・甲府・清須を経て,慶長15年(1610年)に現在地に移転しました。明治4年(1871年)には名古屋で最初の小学校がここで開かれました。
 入口に井上士朗の邸宅跡の碑が残っています。享保2年(1742年)に守山区小幡に生まれ,俳句の分野では文化文政期の与謝蕪村などと交流し,また絵画や医学の分野にもすぐれ,「尾張名古屋は士朗(しろ)でもつ」とも言われたといいます。

教順寺
泉2-10-12



 大光寺から右に曲がる前の道まで戻り,直進して次の左に筋に入り,続いて右に曲がると教順寺(真宗本願寺派)があります。鈴木山と号し,天正10年(1582年)に現在の群馬県で創建され,その後,甲府,丹羽郡を経て寛永年間(1624〜44)に現在地に移転しました。元禄11年(1698年)に藩主徳川綱誠が寺領を与えたとの記録が残っているそうです。

遍照院
泉2-19-23



 教順寺から進んだ次の交差点を左折して南に100m,信号を越えた次の交差点を左に少し進むと遍照院(浄土宗)があります。摂取山と号し,元和7年(1621年)に藩祖徳川義直の側近の青山春勝が創建したといいます。



 さらに少し進んだ先には,高岳・泉の大寒桜の桜並木があります。3月上旬に咲き始める名古屋でも有数の早咲き桜の名所で,毎年名古屋に春の訪れを告げています。

高岳院
泉2-21-17



 ここから引き返して200m西に進み,突き当りを左へ,続く交差点を右に進むと高岳院(浄土宗)があります。持名山と号し,この付近の地名の「高岳」の名前の由来になっている寺院です。慶長13年(1608年)に徳川家康が早逝した八男仙千代の菩提をとむらうために清須城外に建立し,慶長16年(1611年)に清須越で今の地に移りました。もともと清須城の黒門を移したという国宝の山門がありましたが,残念ながら昭和20年(1945年)の戦災で失われました。



 ここから少し進んだ国道41号線を右折して300mほど進むと,右手に「鋳物師頭 水野太郎左衛門宅跡」の案内板があります。水野家は,信長より鐘や鰐口などの鋳物を製造する特権を得ていた家系で,慶長16年(1611年)にこの地に移って、この地域の鋳物師頭として鋳物製品の製造・販売を独占していました。

富士神社
東桜1-4-12





 国道41号線を再び南に引き返して進み,「高岳」の交差点を右に曲がります。さらに100m進んだ左手に富士神社があります。もと富士浅間宮といい応永5年(1398年)に静岡県の富士浅間神社から勧請されたといいます。当初はうっそうとした森に囲まれていましたが,名古屋城築城の際に普請小屋が設けられ,西区に遷座。その後再びこの地に富士浅間宮がまつられたといいます。毎年5月に大祭が行われます。また現在も,名古屋城築城の際の残石が残されています。

ゴール:地下鉄・久屋大通駅

 富士神社からさらに300mほど桜通を西に進むとゴールの久屋大通駅です。桜通線・名城線が利用でき,名古屋駅へは桜通線で3駅です。

写真使用数:60

←前:[中区]橘町・別院コース / 名古屋市東区 / 次:白壁コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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