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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市熱田区:白鳥コースSHIRATORI

2015年2月探訪。2015年10月1日作成

【コース】 距離:約4.9km
 西高蔵駅から神宮西駅西部の白鳥地区をめぐります。断夫山古墳などの古代ロマンから,堀川周辺の景勝地,熱田の社寺の文化まで感じられます。

地下鉄・西高蔵駅〜雲心寺〜青大悲寺〜断夫山古墳〜名古屋国際会議場〜白鳥庭園〜白鳥古墳〜法持寺〜龍珠寺〜弥勒院〜本遠寺〜成福寺〜滝之寺〜岡部又右衛門家跡〜誓願寺〜全隆寺〜地下鉄・神宮西駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・西高蔵駅



 今回のスタートは地下鉄名城線・西高蔵駅です。名城線で金山駅から1駅です。地下鉄金山駅は名古屋港行も発車するので,乗り間違えに注意しましょう。西高蔵駅の2番出口から出発します。

雲心寺
尾頭町3-19







 2番出口を出て北の「西高蔵」交差点を北に渡り,100m弱進むと雲心寺(浄土宗)があります。遺迎山と号し,はじめは知多郡清水村(現東海市)にあり,元文5年(1740年)に現在地に移転しました。入口の楼門は文久2年(1862年)の建立で,漆喰塗の風情ある建物です。戦後の区画整理で境内は縮小しましたが,中央に池を配した趣深い庭園を持ち,傍らには付属の幼稚園があります。本尊は文久4年(1884年)に供養された京都知恩院阿弥陀堂の本尊を模し丈六阿弥陀像で,名古屋市の三大仏の一つになっています。

青大悲寺(せいだいひじ)
旗屋町1-10-39







 雲心寺からUターンして南に進み,西高蔵駅を越えてさらに300mほど進むと右手に青大悲寺があります。宝暦6年(1756年)に生まれた如来教の本山になっており,登和山と号する尼寺です。如来教はこの地に生まれた「きの女」が啓示を受けて,享和2年(1802年)から本格的に唱え出しました。尾張藩士や商人にも信仰する人が多く,その説法の記録は「お経様」と呼ばれ,名古屋弁のまま語られるのが特徴といいます。境内は落ち着いた雰囲気で庭をゆっくりと散策できます。寺前の地蔵堂には文政年間(1818〜30)に寺にもたらされた鉄地蔵菩薩立像[県文化]があり,尾張六地蔵の1つになっています。これは観聴寺にある2体の鉄地蔵とともに祀られていたもので,像背面の裾近くに応永32年(1425年)と考えられる銘が刻まれています。



 青大悲寺からさらに50mほど進むと,延享4年(1747年)の建立という寿琳寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。この西の熱田球場がある付近には,鉄地蔵のあった旗屋地蔵堂がありました。

断夫山(だんぷさん)古墳
旗屋町1-10 熱田神宮公園内 [公式HP(外部リンク)→]



 さらに少し進むと,右手に熱田神宮公園があります。公園に入って少し進んだ左手に断夫山古墳[国史跡]があります。全長150m余りに及ぶ東海地方最大の前方後円墳として知られ,築造年代は6世紀初頭と推定されています。ここは熱田台地の西端に近く,かつては海を望む位置であったことから,海に関する人物が被葬されていると考えられていましたが,現在は娘を継体天皇の妻に出し,朝廷と結びついて尾張南部で勢力を奮った尾張連(むらじ)草香の墳墓という説が有力です。墳丘は三段に築かれ,現在はうっそうとした森になっていますが,当初は葺石がむき出しになっていたと考えられます。一段目に須恵器と円筒埴輪がめぐらされていたと考えられており,これらの埴輪の一部は昭和区の南山大学人類学博物館で見学ができます。公園は昔,熱田神宮が所有していたことから,古くからの林叢が守られており,名古屋の昔の自然を伝える貴重な林が残されています。



 先に進んだ右手には熱田球場があります。公園整備事業の一環で昭和25年(1950年)に設けられた球場で,長らく高校野球の愛知県大会の決勝戦が行われることで知られました。現在も野球の試合が行われています。

名古屋国際会議場
熱田西町1-1 [公式HP(外部リンク)→]



 公園を抜けた先の熱田記念橋で堀川を渡ります。この付近は左手の国際会議場の建物を含めて堀川沿いの眺望がすばらしく,特に春は川沿いに桜がきれいに咲き誇ります。



 橋を渡って右に曲り白鳥プロムナードという川沿いの遊歩道を約300m進むと名古屋国際会議場の東側入口に着きます。平成元年(1989年)に世界デザイン博覧会のテーマ館をベースに整備された名古屋で唯一の国際会議場としてスタートし,平成6年(1994年)に全館供用を開始しています。3000名収容のセンチュリーホールも備え付けられ,現在も名古屋で行われる様々な国際会議の会場として用いられています。建物は白鳥の建物を広げたように4つが配置され,一般も利用できるレストランなどもあります。入口にはデザイン博の際に復元された,レオナルド・ダ・ヴィンチが手掛けたものの完成に至らなかったスフォルツァ騎馬像があります。



 名古屋国際会議場の北側には,名古屋市中央卸売市場があります。名古屋市内に生成食料品を提供している卸売市場で,青果・水産物・つけ物などを取引し,中部圏の中核の卸売市場となっています。イベントなどの際には一般見学も可能です。

白鳥庭園 [有料施設]
熱田西町2-5 [公式HP(外部リンク)→]



 白鳥プロムナードを戻って南方向に進むと白鳥公園に到着します。春は桜の名所として知られ,この西側には名古屋学院大学の煉瓦造りの建物が印象的に見えます。



 公園の南西側の池のところに白鳥貯木場址の案内板があります。寛永年間(1624〜43)に堀川左岸に木曽材を揚げて売る材木場がありました。これに伴い,堀川沿いに多くの材木屋が集まったといい,材木保管のための大池も掘られ,これを太夫堤と呼んだといいます。対岸には舟の繋留場である御船蔵が設けられ,のちには大小の軍船も繋留場にもなりました。明治期には林野局が新たな貯木場が設置され,広さは4万坪にも及んだといいます。



 白鳥公園からさらに川沿いに南に進むと,白鳥庭園の北門があります。もと白鳥貯木場であった土地を埋め立て,平成元年(1989年)の国際デザイン博の際に「日本庭園」のパビリオンとして整備され,平成3年(1991年)に現在の形になりました。







 大きな池を中央に配置した「池泉回遊式」の庭園で,公園南側の築山を御嶽山に,川の流れを木曽川に,中央の池を伊勢湾に見立て,東海3県の自然の豊かさを表現し,特に紅葉の時期は有名で多くの人が訪れます。園内には本格的な数寄屋建築で知られる茶室の清羽亭があり,池を見ながらお茶を楽しむことができる茶寮の汐入があります。時間があればじっくり時間をかけてめぐりたいものです。

白鳥古墳
白鳥1-2



 白鳥公園の北門に戻り,ここの堀川を渡る御陵橋を渡り,先の左手の横断歩道を渡って右に曲り南に少し進むと,左手に白鳥古墳の入口が見えます。6世紀初頭に築造されたと考えられ,全長は70mにも及んだと言いますが,道路の拡張や隣接する法持寺の移転により墳墓はかなり小さくなってしまいました。墳丘には円筒埴輪が並べられていた形跡があるといいます。「尾張名所図絵」によると1837年(天保8年)の台風の際に石室が現れたといい,直刀や須恵器などが発見されたと言い,のちに埋め戻されました。古墳には尾張氏の有力者が被葬されていると考えられますが,熱田神宮の社伝では,白鳥になって当地に降り立った日本武尊の墓だとしています。公園の入り口には本居宣長が当地を訪れた際に詠んだという歌碑があります。



 堀川沿いにさらに50m強進んだ宮中学校には,入ったところに若山牧水の「うす紅に葉もいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花」の歌碑があります。この他に校庭には芭蕉のすみれ塚もあります。元々ここは次に訪れる法持寺の境内でした。

法持寺
白鳥1-2-17





 北に戻って白鳥古墳の左側の上り坂を200m弱進み,突き当りを右に進むと,すぐ右手に法持寺(曹洞宗)があります。白鳥山と号し,天長年中(824〜34)に空海が日本武尊をしのんで創建したという古刹で,当初は白鳥古墳の宝物を持つことから宝持寺といいました。のち,円通寺の2世明谷義光が文明年間(1469〜86)に再興して曹洞宗に改め,承応年間(1652〜54)に今の寺号に改めました。熱田大宮司の千秋家の菩提寺であり,織田信長も桶狭間の戦いの際に戦勝祈願に訪れたと言います。その後,宝暦7年(1757年)に火難にあいますが,七堂伽藍が再建され城壁のごとくなったと『尾張名所図絵』にも紹介され,西側に堀川を望む眺望のよい法地だったといいます。昭和20年(1945年)に戦災により本尊などを残してすべて焼失し,昭和30年(1955年)に戦後復興計画により以前の敷地は宮中学校となって現在地に移転し,昭和63年(1988年)に伽藍が復興されました。東海道を往来する文人に愛されたといい,芭蕉などの歌碑が残されています。

龍珠寺
旗屋2-24-10



 法持寺の正面から真っ直ぐ進むとすぐ左手に龍珠寺(臨済宗妙心寺派)があります。臨済山と号し,天文元年(1532年)に建てられ,本堂と表門は寛文年中(1661〜73)に今の地に移った際の建立といい,右手の鐘楼は幕末期に建ったと考えられ,昔ながらの趣深い建築物群がみどころです。

弥勒院
旗屋2-25-13



 さらに進んで次の右に入る筋を進むと,少し先の右手に弥勒院(真言宗豊山派)があります。花林山と号し,天文7年(1538年)に創建といい,貞享2年(1685年)に現在地に移ったといいます。弥勒菩薩像を本尊として,その右側には稚児大師が据えられ,子どもを守る神様といいます。名古屋21大師の第13番札所に指定されています。毎年7月20日に「すりばち灸」が行われ,すり鉢にお灸を入れそれをかぶるといい,頭痛や子どもの虫封じに霊験があると言われています。

本遠寺(ほんのんじ)
白鳥2-3-20 [公式HP(外部リンク)→]



 そのまま直進して横断歩道を渡り,そのまま直進して2本目の筋を右に曲り,さらに次を左に,続いて右に進んでいくとやがて右手に本遠寺(日蓮宗)があります。妙光山と号し,延暦年中(782〜805),最澄が熱田神宮内で100日の読経修行を行った際に,阿福長者なる者が堂を建て,最澄が自ら刻んだ像を安置して法華堂としたことに始まり、その後日蓮が同じくこの堂にて法華経を100日読経したといいます。その後,日蓮の孫弟子の日澄上人が,応安年中(1368〜75)(諸説あり)に熱田神宮の宮司に頼み,現在地に法華堂を移したのが本寺のはじまりとされます。その後,里村紹巴の「富士見道記」で永禄10年(1567年)に本寺で連歌会が催されたことが伝わり,寛永19年(1642年)には京都本国寺と本末を争い藩主に訴えたが,敗訴したといいます。享保7年(1722年)に熱田の海岸に津波が襲った際の水害が起こり,それ以降毎年水済会と言われる水施餓鬼(現在は川施餓鬼)(水の上で行う供養)が行われ,現在でも毎年9月14日に行われています。立派な伽藍を誇り,旧法華堂と旧山門は国の重要文化財に指定されていましたが,昭和20年(1945年)の戦災で焼失しました。その後,昭和39年(1964年)に法華堂が,昭和55年(1980年)に本堂が再建されています。境内は入った中央に釈迦堂(法華堂)がある伽藍配置で,中には秘仏で年3回開帳されるという立像釈迦像が安置されています。また,本堂横には平成8年(1996年)に再建された書院があり,清洲城から移したという旧書院を再現したものだそうです。境内には室町時代に建立されたという石塔があり,歴史を感じさせます。

成福寺
白鳥2-7-16



 本遠寺から戻る方向に進んで最初の交差点の左奥に成福寺(曹洞宗)があります。北高山と号し,天文年中(1532〜55)に熱田北山(熱田神宮公園付近)に江南寺として創建されましたが,弘治2年(1556年)に現在地に移して寺号を改めました。熱田で亡くなった旅人や遊女などはこの寺で埋葬し,北山墓地を運営していました。入口を見ると様式から江戸中期建立という四脚門が印象的です。
 境内には船頭重吉の碑があります。尾張知多半田村の船頭小栗重吉は文化10年(1813年)に知多師崎から江戸に出帆し,その帰りに遭難。約480日にわたって漂流し,アメリカ・カリフォルニア付近の洋上で救助されました。カムチャッカ・松前・江戸を経由して文化14年(1817年)に尾張に帰郷を果たしました。鎖国時代において海外を検分した少ない日本人として知られます。その後,口述筆記で漂流の様子を記述した『船長日記』を書き上げ,文政7年(1824年)頃,著作を売り歩いた資金などで,笠寺に台座が廻船の形をしたこの慰霊碑を建立しました。重吉が死去した嘉永6年(1853年)にこの成福寺に移されました。帆柱の部分に南無阿弥陀仏と刻まれ,台座部分に亡くなった乗組員の名前が刻まれています。台石が舟形になっている大変珍しい碑です。

滝之寺(たきのじ)
白鳥2-6-8



 成福寺のところの交差点からそのまま東に進んで,次の交差点を右に曲ったところに,滝之寺(天台宗)があります。円融山中正院と号し,もと滝之坊と呼ばれました。もと古井村(現千種区)にあったものを移したといい,大永年間から永禄年間(1521〜70)には滝之坊連歌と呼ばれ,多くの連歌師がここで会を催している様子が伝わっています。また,信長が幼児期にここで手習いをしたといわれ,文中に「熱田多喜坊」とある所領に関する信長の朱印状があったといいます。明治24年(1891年)の濃尾地震で建物が被害を受け復旧しましたが,昭和20年(1945年)の戦災で建物をすべて失い,再建されました。

青衾神社
白鳥2-6-1



 50mほど進んだ右手に青衾神社があります。熱田神宮の境外末社にあたり,『延喜式神明帳』にも名前が見られる式内社で,正二位の格式高い神社でした。古くは白衾社といったようです。社殿は戦災で焼失し,昭和43年(1968年)に再興されました。毎年中秋の名月の時期に青衾社祭が行われます。祭神は天道日女命で,尾張氏の祖と考えられている女性です。
 

岡部又右衛門家跡
白鳥3-10-8



 青衾神社の先を右に曲り,続いて左に曲がって100mほど進み国道1号線に突き当たったところに名古屋道の道標があります。この西の一文渡しと呼ばれた白鳥の渡しと名古屋道の分岐を示したもので,「東左まえかす(前ヶ須,現弥富市)」と刻まれています。



 ここを左折して国道1号線を進むと,約100mで左手に西福寺(真宗大谷派)があります。寺伝によると文亀年中(1510〜)に御器所丸山に建立され,元和7年(1621年)に現在地に移ったといいます。入口の桜の木が印象的です。



 この先の「熱田神宮南」の交差点で左折し,そのまま約100m進むと左手に岡部又右衛門家跡があります。岡部家は代々熱田の宮大工として様々な普請に関わり,織田信長による安土城や,豊臣秀吉による京都方広寺大仏殿,家康による名古屋城など様々な造営において重要な役割を果たし,熱田の地元の職人を組織する際に活躍したといいます。



 案内板の先の筋を左に入って少し進んだところに宝持院(真言宗豊山派)があります。青松山と号し,天正8年(1580年)に創建され,元和4年(1684年)に再建したといいます。その先の交差点には,熱田の真言宗の本山であった金宝山地蔵院がありました。足利義尚を描いたという室町期の武将像を伝える上で貴重な絹本着色騎馬武者像[国重文,名古屋市博物館寄託]などの寺宝を有していました。

誓願寺
白鳥2-10-12



 国道19号線に戻ったところには,笠亭(りゅうてい)仙果の出生地跡の案内板があります。江戸末期の著名な戯作者で,本名を高橋広道といい文化3年(1806年)にこの地で生まれました。鈴木朖(あきら),本居大平らから国学などを学び,江戸の柳亭種彦らと文通をかわしました。後に江戸に赴いて多くの作品を残し,江戸後期の名古屋が生んだ異色の文人と言われます。



 左に曲がって国道19号線を300mほど進むと,左手に誓願寺(西山浄土宗)があります。妙光山と号し,大永5年(1525年)(享禄2年(1529年)の説もあり)に建立。天正19年(1591年)に豊臣秀吉の母が本寺に参詣したことから,慶長5年(1600年)に火災で伽藍が焼失した際に,同12年に秀頼の命により再建されています。その後,尾張藩主の崇敬も厚く,寺領が与えられ,往時は熱田上人と称し代々朝廷に参内したといい,京都にも屋敷地を与えられたと言います。昭和20年(1945年)に戦災で全焼し,道路拡張で境内は半減しました。
 平安時代,この地には熱田大宮司の下屋敷があり,頼朝の母が大宮司の娘であったことから,久安3年(1147年)にこの地で源頼朝が生まれたという伝承があります。産湯の井戸と伝えられているものもあり,源義経が奥州平泉に行く途中,ここに立ち寄って元服の義を行ったという説もあります。入口には,徳川家康の養育係がここの尼であったことから葵の御紋が掲げられています。また,ここの前には交通安全を祈願した地蔵がまつられています。



 そのまま進んだ左手には福重寺(曹洞宗)があります。応永元年(1394年)に上杉謙信の一族という浅井右近善長が創建したと言います。



その先には金刀比羅社があります。

全隆寺
旗屋町405 [公式HP(外部リンク)→]



 そのまま先の「旗屋町」交差点を北に渡ったところの右手に全隆寺(曹洞宗)があります。大亀山と号し,元和または寛政年間(1615〜45)に尾張最初の永平寺の直末寺院として創建されたといいます。本堂は元禄・宝永期に建立したと言われ,1989年(平成元年)に改築されました。境内には近代的な納骨堂である鳳凰殿があります。

ゴール:地下鉄・神宮西駅

 全隆寺の前にある地下鉄名城線・神宮西駅の4番出口がゴールになります。地下鉄名城線で金山まで約4分,栄まで約11分です。名古屋駅へは金山または栄乗り換えになります。

写真使用数:38

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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