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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市瑞穂区:堀田コースHORITA

2015年1月探訪。2016年1月11日作成

【コース】 距離:約8.0km
 旧東海道周辺の史跡をまずめぐり,その後井戸田と大喜をめぐります。古くからの遺跡も多く,長い間の人々の営みが感じ去られる場所です。

名鉄・堀田駅〜ブラザーコミュニケーションスペース〜八丁畷公園〜浮島神社〜東ノ宮神社〜藤原師長謫居跡〜龍泉寺〜長福寺〜安楽寺〜地蔵寺〜津賀田神社〜大聖寺〜瑞穂遺跡〜大喜寺〜田光八幡社〜秋月院〜市バス・牛巻バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄・堀田駅



 今回は名鉄の堀田駅がスタート駅です。名鉄名古屋駅から豊橋・岡崎方面の急行または準急で8分,普通で10分です。名鉄の本数は多いですが,市交通局のドニチエコきっぷなどは使えないので注意してください。栄から基幹バスも運行されています。

ブラザーコミュニケーションスペース
塩入町5-15 [公式HP(外部リンク)→]



 駅の東側から出て右に進み南に100mほど進むとブラザーコミュニケーションスペースがあります。ブラザーの企業博物館で,平成17年(2005年)にオープンしました。ブラザーはミシンメーカーから始まり,現在は情報通信機器メーカーとして国内有数の地位を築いていますが,その歴史とミシンやプリンター,はたまたカラオケシステムまで,ブラザーの製品が展示されています。平日以外は第2・4土曜のみの開館なので,注意してください。

浜神明社
塩入町14-5



 先の「堀田駅南」交差点を右折し,続く交差点を左折して200m弱南に進むと,右手に浜神明社があります。かつては南の八丁畷付近にあり,この社のある浜から伊勢神宮を拝む遙拝所になっていました。その後,田園となったのちは五穀豊穣を祈るために天照大神が祀られました。明治41年(1908年)に津賀田神社に合祀されましたが,昭和15年(1940年)に分離して現在地に遷座し,再建されました。
 境内には天正17年(1589年)の銘がある市内最古の月待供養碑[市民俗]があります。桜本町付近に住んでいた四郎五郎が建立したといい,特定の月齢の夜に集まる月待ですが,十七夜の月待供養は珍しく,また天正年間の碑も例が少なく珍しいものです。また,慶長20年(1615年)の銘のある斗帳寄進碑があり,伊勢神宮に斗帳(社殿の垂れ幕のこと)を寄進し所領成就を祈ったもので,津賀田神社にあるものとで一対になっています。碑の上に胎蔵界大仏如来を表す梵字が彫られており,神仏混交の名残を示すものです。その他にも,西行法師(1118〜90)が東下りの際に休憩したと言い伝えられている西行腰掛石があり,嘉永かつては熱田神宮にあったという言い伝えもあります。

八丁畷公園
河岸1-1



 浜神明社の先を左折し,続く「地下鉄堀田」交差点を右折します。そして南に100m進んだ「松田橋」交差点の北西に八丁畷公園があります。東海道の山崎川から熱田の裁断橋付近まで,かつては八丁(約873m)に渡って松並木が植えられ,七里の渡しで海上から遠望すると一筋の縄のように見えたことから,八丁縄手といいました。戦前までは松並木が残されていたそうですが,現在はその面影はありません。元々この道は天正3年(1575年)に織田信長が4人の奉行をおいて整備したものといい,のちに徳川家康が東海道として整備したといいます。公園には,昔この辺りにかかっていたという松田橋が復元されています。

浮島神社
浮島町6-26



 八丁畷公園のところを右折して国道1号線を300mほど進み,「内浜」交差点で歩道橋を渡って南側に行き,さらに国道の高架の左側を400mほど進み,JRの踏切を渡った先を左折して,続く筋を右折すると,右側に浮島神社があります。昔,この付近は海で潮の干満のたびに小高いところが島のようになり,松が4〜5本あって浮いているように見えたことから浮島ヶ原と呼ばれたと「尾張名所図会」にあります。ここに社が復興され,現在は熱田神宮の境外末社となっています。



 浮島神社から戻って東に進み,次の筋を右に,その先の信号を左折し,そのまま約300m,東海道線の線路をくぐって進むと,右手に内浜公園があり,ここに内浜神社が祀られています。元々東海道の八丁畷松並木沿いにありましたが,昭和12年(1937年)に現在地に移されました。戦災で焼失し,昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で浸水被害を受けましたが,その後内浜公園の整備と合わせて現在の形になりました。

東ノ宮神社
神穂町1-14



 内浜神社の先,田光中学校の突当りを左折し,そのまま約150m進んで国道1号線に戻ります。右折して,300m先の「松田橋」交差点の歩道橋を東側に渡って,そのまま南に進み1筋目を左折すると,すぐに東ノ宮神社があります。境内には明治天皇覧穫之碑があります。明治元年(1868年),明治天皇は遷都のために京都から東京に移動する途中,熱田に到着され,元尾張藩主徳川慶勝に稲の出来具合を尋ね,この地にて天皇が稲の収穫作業をご覧になった。天皇が農作業を視察するのは当時としては異例で,のちの大正2年(1913年)にそれを記念してこの碑が建てられました。大正5年(1916年)頃,この付近は熱田神宮領の神田があり,この神穂の地名の由来になったといいます。その後,熱田神宮は土地を売却して離れた一隅にこの神社を建てました。



 東ノ宮神社の先を左折し,次の筋を右折します。この右折した筋が旧東海道に当たりかつては八丁畷の松並木が残されていたといいます。400mほど東海道を進むと,右手の山崎川の堤防上に秋葉金刀比羅神社があります。かつては渡海の安全を祈るために讃岐の国から金毘羅宮を勧請し,その後防火のために秋葉社を勧請しました。現在の社殿は昭和4年(1929年)に修築され,昭和54年(1979年)に修理造営が行われました。



 秋葉金刀比羅神社の先の交差点の左奥に井戸田やくしの道標があります。東海道に建てられ,井戸田薬師と呼ばれた龍泉(りょうせん)寺への道を示したものです。

藤原師長謫居跡
土市町1-6



 井戸田やくし道標の手前の筋を左折して200mほど進み,4つ目の筋を右折して名鉄の高架をくぐって約150m進んだ3本目の筋を左折すると,すぐに嶋川稲荷があり,ここに藤原師長謫居跡の案内板があります。藤原師長は平安末期の保元の乱にて失脚した頼長の子で,治承元年(1177年)に太政大臣にまで出世しましたが,いわゆる治承3年(1179年)の政変で平清盛にこの地に流され剃髪したといいます。師長は建久3年(1192年)に亡くなった際に法名を妙音院と称し,この付近の地名で地下鉄の駅名にもなっている妙音通の由来になっています。師長は琵琶の名手として知られ,配流されている間鳴海潟を眺めながら琵琶を眺め,また熱田神宮に参詣して琵琶を演奏したといいます。またこの地の豪族横江氏の娘と恋仲になり,師長が許されて京に帰ってしまったのち,娘は贈られた琵琶とともに庄内川に身を沈めてしまったといい,そこに琵琶塚が設けられたことから枇杷島(現,西区)という地名が生まれたという伝説が残されています。稲荷は元妙音通2丁目付近にありましたが,道路開設のために現在地に移転しました。

龍泉(りょうせん)寺
井戸田町4-9





 嶋川稲荷からそのまま「妙音通3」を越えて100m強進むと,右手に龍泉寺(曹洞宗)の入り口が見えてきます。右手に進むと,亀井水の案内板があります。この付近の井戸田の地名の由来になった井戸で,「尾張志」にも名水として記録され,久安3年(1147年)に源頼朝が生まれた際,産湯の井戸になったと伝わっています。



 先に山門があります。龍泉寺は亀井山と号し,古くはこの付近に薬師寺という行基菩薩(670〜750)が開基した真言宗の大伽藍があり,本尊の薬師如来は聖徳太子の作と伝えられ,摂津の四天王寺,三河の鳳来寺と並んで日本三薬師の1つに数えられたといいます。往時は南区の笠覆寺と規模を争い,龍泉庵,龍雲庵,福伝庵,妙喜庵,蔵伝庵の5つの塔頭を数えたといいます。その後,応仁の乱(1464年)の頃,龍泉庵のみが残って現在の龍泉寺になったといい,井戸田村が郷村として形成された室町末期に曹洞宗に改宗されました。
 当寺は雷除大般若経の由緒があります。元暦年中(1184〜85),源義経が武蔵坊弁慶などを伴って京へ上る途中,兄頼朝が生まれたという井戸田に立ち寄り,産土神の津賀田神社に参拝したところ,激しい雷にあったため,般若心経を読誦したところ雷がやんだといいます。そこで大般若経を写経し,以後寺では大般若経の奉読を行ったところ井戸田には雷が落ちなくなったといいます。また,藤原師長がこの寺の庭を好んだという故事から,正徳3年(1713年)頃それにちなんで堂の1つに槐隠堂の額を掲げたといいます。残念ながらこの槐隠堂は空襲で焼失しました。境内にある歯痛地蔵が片手と顔の一部を欠けているのは空襲の名残だといいます。また,境内の古石は昭和58年(1983年)頃までここにあった大黒塚の塚上にあったものだといいます。



 さらに先に進むと,最経寺(日蓮宗)があります。日光山と号し,昭和6年(1934年)に日蓮宗の布教の拠点として開かれ,昭和18年(1943年)には最上神社が設けられました。戦災で焼けましたが昭和29年(1954年)に再建。昭和31年(1956年)に寺号公称の許可を得て,現在は「井戸田の最上様」と呼ばれています。神仏習合を色濃く残す寺院です。

長福寺
井戸田町3-33



 最経寺の先の突当りを左折したら,少し先に剱塚があります。武士の塚で鎧などが多数出土したことからこの名があります。馬に乗って塚の前を通ると必ず落馬するという伝説があります。名鉄線開通の際に土が利用されたため,村民が祠をまつって霊をなぐさめたといいます。この付近は鎌倉期には鎌倉街道が通り,京と鎌倉を往来する人が通ったといいます。ここには文化5年(1808年)建立という観音像があります。



 剱塚の先の筋を2本目のやや太い筋を左折すると,右手に火防の神をまつった秋葉堂があります。この堂は戦災で周囲が燃えた際も焼け残ったと伝えられています。



 先に進むと右手に長福寺(曹洞宗)があります。喜覚山と号し,寺伝によると奈良時代の創建といい,元は妙喜庵といい現在の妙音通付近にあったといいます。永正7年(1510年)に長福寺として開山し,寺伝によると熱田の浜に漂着した仏像をあがめたてまつったといいます。文政7年(1824年)に大須大光院によって中興されました。戦災で以前の建物は焼失し,現在の建物は戦後再建されたもので,昭和47年(1972年)に改築された際に,本堂下に弥生時代の用水路遺構が発見されました。また,本堂裏には三島由紀夫像があるといいます。



 長福寺の少し先の左手に井戸田の山車蔵があります。約300年の歴史のある井戸田の大山車が保存されており,戦争で焼失して昭和25年(1950年)に作り直され津賀田神社の祭礼の際に曳き回されていましたが,道路事情などにより平成11年(1999年)に廃車となり,現在はからくり人形や太鼓などが保管されているといいます。また,北の井戸田コミュニティセンターには,山車のジオラマが置かれているといいます。

安楽寺(為麿塚)
井戸田町1-80



 長福寺の先を道なりに左折した次の筋を右折し,続く分岐点を右に2回進み,突当りを左折して50mほど進むと左手に安楽寺(真宗大谷派)があります。為麿山と号し,明治12年(1879年)に井戸田教会として開設し,戦災を受けて昭和26年(1951年)に再興されました。境内には山号にもなっている為麿塚があります。長岡為麿は元禄期(1688〜1704)に熱田神宮の祠官として神道の復興に努め,仏教色の強い護摩加持を行ったといいます。老後はこの地に住んだといい,書道の神様としても知られています。
 安楽寺付近には,かつておつくり山古墳という古墳がありました。調査によると直径16m,高さ6mほどの円墳で,鏡,刀,鉄鉾やガラス玉が発見されましたが,昭和3年(1928年)に耕地整理などで破壊されました。出土品は現在東京国立博物館にあるといいます。

地蔵寺
柳ヶ枝町2-72



 安楽寺から100m弱道なりに進むと左手に名鉄の高架が合流し,その先の止まれ標識を右折します。そのまま200m弱進むと左手に瑞穂生涯学習センターが見えてきます。



 その先50mほど先の交差点の右手に大乗寺(真宗大谷派)があります。宝樹山と号し,昭和10年(1935年)に田光説教所として設立され,昭和24年(1949年)に寺号を受けました。



 大乗寺の先の3本目の筋を右折すると,少し先の左手に地蔵寺(曹洞宗)があります。福昌山と号し,熱田法持寺の末寺で,もと熱田神宮東門付近にあり地蔵堂と称しましたが,昭和13年(1938年)に現在地に移されました。地蔵尊は吉野山中で修行し,紀州鬼ヶ島で得られたという地蔵尊の首に胴体を彫刻して祀ったものといい,胴体には熱田前新田の開拓で活躍した津金文左衛門の念持仏阿弥陀像を譲り受けて地蔵尊の胎内に収めたといい,人々に「腹籠り地蔵」と呼ばれて信仰されたといいます。

白龍神社
白龍町1



 地蔵寺から100m強進んだ左手に白龍神社があります。この付近にはかつて田光ヶ池という池があり,ボートも浮かぶ憩いの場所だったといいます。この池には北東へ水路が流れ,ここが白龍大王の通り道といわれ,池の埋め立ての際にはたたりで犠牲者も出たことから,埋め立てられた昭和13年(1938年)頃に池畔の穴のあるところにこの神社を祀ったといいます。現在も境内に穴の跡があります。埋め立ての際に縄文・弥生期などの住宅跡や土器片が発掘され,長期にわたって集落があったと考えられています。



 神社の先2本目の筋を右折し,約150m進んで郵便局を越えた先に北川天満宮があります。学問の神様である菅原道真を祀った神社です。

津賀田神社
津賀田町3-4





 北川天満宮のところの細い路地を左折し,そのまま突当りに進んで右折し,次の分岐を左に進んだ先の信号で横断歩道を渡ったのち右折し,次の筋を左折すると正面に津賀田神社があります。創建は不詳ですが平安時代以前といい,古来は若宮八幡宮,あるいは境内に松原が続いていたことから長森八幡と呼ばれていました。治承3年(1179年)に藤原師長が井戸田に流刑されたとき,この神社に祈願したため,無事許されて京都に戻ることができたといい,久安3年(1147年)に源頼朝がこの地で誕生し,神宮寺の龍泉寺で産湯につかったということから頼朝の産土神といわれ,治承4年(1180年)に鎌倉鶴岡に分霊したという説もあります。建久2年(1191年)には,八幡宮を勧請し,江戸時代には北井戸田,本井戸田両村の氏神となりました。津賀田の名前の由来には諸説ありますが,津潟が転じたものと言われています。戦前には大般若経600巻を所蔵していましたが,戦災で失われました。

天聖寺
津賀田町2-80





 津賀田神社の右側の路地を進み,3つ目の細い筋を右に進み,道なりに左に曲がった先を右折すると,すぐに天聖寺(曹洞宗)があります。亀嶽山と号し,熱田円通寺の末寺で,寛永元年(1704年)に観音堂として設けられ,享保2年(1717年)に開山して亀嶽山瑞巌寺となり,その後寛政9年(1797年)に現在の寺号に改めました。亀嶽山という山号は,この地が細かい起伏が多く,亀の甲羅のようだったことに由来します。門前には周囲から集められた石仏が並べられ,胸に赤ちゃんを抱えた子安地蔵もあります。明治24年(1891年)には瑞穂小学校の前身がここに置かれました。本尊は聖観世音菩薩で戦災から免れたものになります。

瑞穂遺跡
牧町 および 豊岡通2



 津賀田神社の右側の道に戻り,右に曲がって北上して300mほど進み,「瑞穂小南西」の歩道橋を渡って先に進んだ瑞穂小学校の正門に瑞穂遺跡の案内板があります。昭和6年(1931年)に最初に発見され,瑞穂小学校を中心とした200m2四方に弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住宅の跡が見つかり,昭和26年(1951年)の南山大学による発掘作業などで,土器片や石器,玉類などが発掘されました。特に土器は出土量が多く,この地域の土器編年上の基準資料ともなりました。昭和53年(1978年)以降の発掘調査では集落の全貌が明らかになり,弥生後期にV字状の濠をめぐらせた環濠集落が存在し,その内側には50以上の竪穴住居が営まれていたことがわかり,平安から鎌倉時代の資料も見つかっているといいます。最近は平成13年と平成20年にも発掘調査が行われ,現在までの主な遺物は南山大学や名古屋市博物館に保管されています。



 瑞穂遺跡の案内板から先2本目の筋を左に曲がり,200mほど進むと左手に乾徳寺(臨済宗妙心寺派)があります。蓬雲山と号し,天正5年(1577年)に丹羽郡楽田村(現犬山市)で創建され,文禄2年(1593年)に熱田伝馬町に移り,その後昭和28年(1953年)に現在地に移されました。寺宝に開山の東叔和尚画像があり,享栄年間(1716〜36)のものといいます。

大喜(だいぎ)寺
大喜町3-20







 乾徳寺から先に進んで,続く交差点を右折し,到着した「豊岡通1」交差点を渡って,交差点の右にある筋に入り,道なりに右に曲がって先の突当りを左折し,その先の筋を右手前方向に進んで,次の筋を左折し,そのまま道なりに200mほど進むと右手に大喜寺(真言宗豊山派)があります。増益山と号し,元は高野山弥勒院の末寺で,創建は不詳ですが本尊が大同年間(806〜10)の作といい,奈良・平安時代までさかのぼる歴史を有すると考えられます。本尊の大日如来は弘法大師作と伝わり,元熱田神宮の本地仏といわれる秘仏で60年に一度開帳されます。境内には地蔵堂があり,尾張最古の石地蔵とされる大松地蔵が安置されています。「尾張名所図会」では鎌倉街道沿いに道祖神であったといい,風化が進んでいますが鎌倉時代作という貴重なものです。大松の下に祀られたことから大松地蔵の名があります。入って右側の庚申堂には天保6年(1835年)の銘がある青面金剛像があり,元は道路のそばにあったといいます。大師堂内と本尊左右に一対の時計燈明台があり,享保8年(1723年)に尾張7代藩主宗春の母宣陽院より賜ったもので前面に葵の紋が入っているといいます。明治9年(1876年)に瑞穂小学校の前身がここに置かれ,戦後も本堂が一時仮校舎となりました。名古屋21大師の第17番札所になっています。



 大喜寺の先を右折し,そのまま広い通りに出るまで進んだら,左手に秋葉社があります。火防の神として人々を守ってきました。

田光八幡社
大喜新町3-23





 秋葉社の手前を左折し,200m強西に進んだ右手に田光八幡社があります。延暦元年(782年)に熱田神宮の神官が社を建てたのが始まりで,田光というのも熊襲を討つために日本武尊に従った尾張田光之稲置が住んでいたのが由来の古い地名です。境内には神社のシンボルでご神体にもなっている高さ25mの大楠があり,「尾張名所図会」によると弘法大師お手植えの7本のクスノキの1つといいます。また,この他にも和合の木というケヤキとムクノキ,体を寄せて願うと痛いところがいえるというケヤキの木もあります。この付近も縄文時代の住宅跡や弥生時代の土器片などが見つかり,田光遺跡といわれ古くからの居住の痕跡が見つかっています。また,大喜城という3つの城跡が弘化4年(1847年)の村絵図に記録されています。

秋月(しゅうげつ)院
大喜町1-28



 田光八幡社の先100m強の2本目の筋を左折して南に100m強進むと,左手に秋月院(曹洞宗)が見えてきます。弓頭山と号し,慶長3年(1598年)に熱田の地に創建されましたが,熱田神宮の拡張のために昭和13年(1938年)に現在地に移されました。寺を開いたのは今川義元の弟氏豊の娘で,その娘の法名の秋月院から寺号が取られました。境内には秋月院のへその緒をまつったとされる最古の碑があり,慶長年間(1596〜1615)の建立といいます。山号は織田信秀の家臣でもあった夫の中野又兵衛尉重吉が弓衆を束ねる立場だったことが由来といいます。

ゴール:市バス・牛巻バス停

 秋月院の前から右折して西に200mほど進むと,基幹バスの走る空港線に出ます。ここを右折して200m強進むと,ゴールの牛巻バス停です。基幹1号系統に乗車して鶴舞,栄方面に出ることができます。栄まで所要約20分,昼間は10分ごとぐらいに運転しています。また,反対方面に乗車するとスタートの堀田駅にも戻れます。その他にも金山駅,神宮前駅に向かうバス便も利用できますので,アクセスは便利です。

写真使用数:37

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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