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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市南区:東海道コースTOKAIDO ROUTE

2015年1月探訪。2016年1月31日作成

【コース】 距離:約8.0km
 区北部の東海道周辺の笠寺・桜・呼続地域をめぐります。古代からの遺跡や寺社・城跡,笠寺観音などの東海道周辺の見所が多いコースです。

JR・笠寺駅〜南区役所〜七所神社〜善東寺〜粕畑貝塚跡〜笠寺一里塚〜東光院〜泉増院〜笠覆寺〜戸部新左衛門の碑〜富部神社〜長楽寺〜桜神明社〜東宝寺〜呼続遺跡〜地蔵院〜白毫寺〜熊野三社〜安泰寺〜法楽寺〜名鉄・呼続駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR・笠寺駅



 スタートは,JR東海道線の笠寺駅です。東海道線の普通列車で金山駅から6分,名古屋駅から10分で,日中は15分間隔で運転されています。笠寺駅の東口から出てスタートします。

七所神社
笠寺町天満12



 笠寺駅の東口から出て150mほど進み「笠寺駅前」交差点を右折して国道1号線を右折して300mほど進んだ「前浜通」を左折し,環状線を200m弱進むと南区役所があります。南区の地図などを入手するならば立ち寄るといいでしょう。



 そのまま環状線を200m強進み,名鉄の線路をくぐった先を右折して線路沿いに200mほど進みます。





 1筋目を左折すると,すぐ左手に七所神社があります。日本武尊など7柱が祀られていることからこの名前があり,承平年間(931〜37)に平将門の乱が生じた際に平定を祈願して創建されたといい,天慶3年(940年)に祈願が成就したため熱田神宮から神々を勧請したといいます。10月の大祭の時には,神輿渡し神事が行われ,南西にある丹八山まで神輿が渡されます。境内には,熱田神楽の正統を継承してきたという神楽師の碑があるといいます。明治42年(1909年)に笠寺一里塚付近にあった新宮天王社が合祀されました。



 七所神社から西に戻って名鉄の踏切を渡り,その先を左折して200m弱進んだ4本目の筋を右折すると,100m弱先に丹八山公園があります。七所神社の御旅所で,神社の大祭にはここまで神輿が渡されます。



 公園から出て戻り,最初の筋を右折して南に進んだ先には,善東寺(浄土宗)があります。南方山と号し,承応元年(1653年)の創建といいます。かつて本堂前には樹齢300年に及ぶ打上の松という松があったといいます。この付近はかつては海岸で,干潮時には海岸を通ることができましたが,満潮時にはこの松まで波が打ち上げられたことからこの名前があるといいます。

粕畑貝塚跡
粕畠町3-17付近



 善東寺から道なりに先に進み,広い筋に突き当たったら左折して約200m,名鉄の線路をくぐって進み,次の信号を左折して,100m先の突当りを右折してさらに50mほど進むと右手に粕畠貝塚跡の案内板があります。現在では貝塚は破壊されてしまいましたが,昭和2年(1927年)に発見,昭和10年(1935年)に発掘調査が行われ,ハイガイが主に出土し,他にもイノシシやシカの骨や石器が見つかっています。また,縄文時代早期(約6000〜7000年前)の土器が発見され,食物繊維が混ぜられ貝殻で刻み目が付けられた尖底の土器で,東海地方に特徴的に出土する土器の1つで,「粕畑式土器」と呼ばれています。この地域で縄文時代が生活を始めた最初の頃の貝塚としてよく知られています。案内板の後ろには観音塚があります。この地は元々笠覆寺が発祥した地で「元観音」と呼ばれ,享保元年(1716年)に又兵衛新田を開発した加藤又兵衛が碑を建立したといいます。元はエノキの大樹が茂っていましたが,なくなってしまいました。

笠寺一里塚
笠寺町下新町



 粕畑貝塚跡から直進して太い道に合流する直前の筋を左折し,約200m道なりに進むと東海道に合流します。ここを左折して100m弱進むと,左手に笠寺一里塚が見えてきます。慶長9年(1604年)に江戸幕府は東海道をはじめ主要街道に一里塚を築いて街道を整備しました。一里塚は街道の一里(約4km)ごとに塚を築き,エノキやマツが植えられたもので,街道を行き交う人々の目印になっていたとともに,運賃計算の目安になっていたといいます。市内にはかつて9か所の一里塚があったといわれますが,笠寺の一里塚はそのうち現存する唯一のもので,江戸から88里の一里塚であり,大きなエノキが根を張り,春の初めにはスイセン,秋にはヒガンバナなどが彩ります。かつては一対の塚で,南にもムクノキが植えられた塚がありました。
 一里塚のすぐ南西には下新町遺跡や市場遺跡など縄文・弥生時代の遺跡が多く見つかり,土器や石器が発見されています。古くは長い時代集落があった地と考えられていますが,遺跡は住宅街になってしまいました。また,笠寺市場城跡,笠寺寺部城跡などの城跡があったことで知られ,長い歴史がある地域です。

東光院
笠寺町上新町47





 一里塚の左手を進んで東海道をさらに約200m進みます。この付近は旧街道のんだ次の十字路を左折し,道なりに150m強進んだ次の筋を右折すると,少し先の右手に東光院(真言宗智山派)があります。笠覆寺十二坊の1つとして創建されて当初は東光坊といいました。本堂は江戸中期に建立されたもので,本尊の不動明王は伝教大師の作で元熊野新宮の本尊とのいわれもあり,慶安3年(1650年)に伝来したものといいます。寺宝として,星崎城主の山口重勝の所持品という別名「出世お神酒天神」と呼ばれる菅原道真の肖像画が所蔵され,笠寺天満宮が境内にあって学問成就の祈願も盛んです。また宮本武蔵が一時期滞在したという伝説があり,両腕で書いたという掛け軸や武蔵の肖像画,武蔵自作という木刀があります。

泉増院
笠寺町上新町76





 東光院から約100m進むと笠覆寺の入り口前まで来るので,ここで左折するとすぐ左手に泉増院があります。笠覆寺の十二坊の1つとして創建され,日本のシンデレラストーリーとして知られる玉照姫ゆかりの寺で,姫の像が安置されています。玉照姫は元美濃国の豪族の娘でしたが,美しさゆえに鳴海の長者の召使いに成り下がっていました。希望を捨てずに毎日観音様にお祈りをしていたところ,ある雨の日にずぶぬれになりながら観音様に自分の笠をかぶせていたところを藤原兼平がたまたま通りかかり,心優しい姫を見初めてプロポーズし,めでたく2人は京で幸せに暮らしたといいます。2人の思い出の地に建てられたのが笠覆寺(笠寺観音)といい,名前の由来になっています。この伝説から縁結びの御利益があるといい,若い女性やカップルに人気がある寺院です。

笠覆寺(りゅうふくじ)(笠寺観音)
笠寺町上新町83 [公式HP(外部リンク)→]



 左折する前に戻ると目の前に笠覆寺(真言宗智山派)があります。天林山と号し,通称笠寺観音といい,尾張四観音の1つとして昔から多くの信仰を集めた霊場として知られます。縁起によると天平5年(733年)(天平8年説もあり)に呼続の浜に1本の霊木が流れ着き,僧善光がその霊木で十一面観音像を刻んで粕畑の地(南に約650mの地点で,現在は観音塚がまつられる)に堂を建てて奉ったのが始まりといい,元は小松寺と呼ばれました。その後荒廃しますが,延長年代(923〜31)に玉照姫と藤原兼平がこの地で出会い(泉増院の項参照),この夫婦がこの地に寺を復興して笠覆寺と名づけられました。鎌倉時代の嘉禎4年(1238年)には僧阿願が田畑を寄進して堂宇を再興しました。明治の廃仏毀釈以降は再び荒廃しますが,戦後政織和尚により再興され現在に至ります。平安期と伝わる妙法蓮華経[国重文]や鎌倉〜江戸期という笠覆寺文書9巻,銅像十一面観音像,六稜式厨子・古甕[いずれも県文化]などの寺宝を有し,毎月6のつく日に行われる「六の市」や毎月18日に行われるフリーマーケットなど地域の人々を巻き込んだイベントも盛んです。仁王門(山門)は文政3年(1820年)の上棟で,彫刻が多い華やかな造りになっており,名古屋市の都市景観重要建築物に指定されています。



 山門から入ると目の前に本堂と護摩堂があります。本堂は寺記に宝暦13年(1763年)の建立とあり,高覧の擬宝珠に文化・文政の年号もあることから相当の時間がかかって完成したと考えられています。本尊の十一面観世音菩薩像[県文化]は玉照姫の故事から笠をかぶった姿といい,秘仏で8年に一度開帳されます。受付前には抱き地蔵であるおもかる地蔵がまつられ,堂の前には玉照姫と藤原兼平がまつられています。隣接する護摩堂は,元々本堂の代わりに使われているなど本堂より歴史を有し,弘法大師や不動明王,なごや七福神の恵比寿様を祀っています。



 護摩堂の右手には,奥から那智の青岸渡寺の如意輪観音をまつり,虫歯に霊験があるという如意輪堂や明暦2年(1656年)建立という薬師堂,寛保元年(1741年)建立という善光寺堂があり,間には「星崎の闇と見よとや啼く千鳥」という笠寺千鳥塚と呼ばれる芭蕉の句碑や宮本武蔵の供養碑があり,昭和期に寺を再興した政織上人の像があります。



 その南には貞享元年(1684年)に再建された鐘楼があり,鎌倉時代の中興である阿願上人の発願で作られたという建長3年(1251年)の銘がある梵鐘[県文化]があり,尾張三名鐘の1つと知られ,大みそかに除夜の鐘がつかれます。



 本堂前に戻って西に進むと,左手には多宝塔があります。正保年間(1644〜48)の建立という笠覆寺で最古の建物で,阿弥陀如来がおさめられていた二層の塔であり,江戸初期の優作として知られます。塔の奥には芭蕉の春雨塚があり,「笠寺やもらぬ岩屋も春の雨」の句が刻まれています。



 右側には手前から鎮守の白山社(延宝8年(1680年)建立),延命地蔵堂(享保14年(1729年)建立),行者堂(享保3年(1718年))があり,江戸時代の面影を残す密教寺院らしい落ち着いた雰囲気になっています。その他,織部灯籠,愛智塚,笠寺暁台塚などの史跡もあり,ゆっくりとめぐりたいところです。初観音や節分の際には,笠寺の郷土玩具である麦わら馬が売られ,現在も伝統が守られているといいます。



 そのまま文化11年(1814年)建立の一間薬医門である西門から外に出ましょう。



 西門を出て左手に進んだところには笠覆寺の塔頭である西方院があります。ここに祀られている烏瑟沙摩(うすさま)明王は,木曽義仲の母が持ち歩いていたものとされ,義仲を無事に出産できたことから安産に御利益があるといいます。

戸部新左衛門の碑
戸部町3





 笠覆寺の西門からまっすぐ300m強,環状線と名鉄名古屋本線の踏切を越えて進みます。この付近は旧東海道の古い商店街が続いて昔なつかしい雰囲気になっています。



 踏切の先の1本目の筋で東海道が右に分かれます。



 さらにその先の筋を左に曲がって50mほど進んだ次の交差点の右奥に明治17年(1884年)の銘の戸部新左衛門の碑と戸部古城跡碑があります。戸部新左衛門政直は戸部城の城主で今川方の武将と考えられていますが,謎の多い人物とされています。信長と争っていましたが,その信長の計略にかかり,謀反の疑いをかけられて今川義元に三河吉田(豊橋)で殺害されたといいます。その霊をなぐさめるために戸部城跡にこの碑が建てられたといい,碑には弘治2年(1556年)の銘があり,この年が命日だと考えられます。戸部城はこの少し西にあったといい,東西約30m,南北約180mで別名「松本城」とも「笠寺城」とも呼ばれています。西側と南側は高さ10数mの崖になっていたといいますが,現在は耕地整理で痕跡はとどめていません。

富部神社
呼続4-13-38 [公式HP(外部リンク)→]





 戸部新左衛門の碑の右側を進み,次の筋を右折して400m弱進むと目の前に富部神社があります。慶長8年(1603年)に清洲城主の松平忠吉が西にあった祠をうつし,津島神社を勧請して創建したといいます。忠吉が病気快癒を祈ったところ全快したことから,慶長11年(1606年)に本殿や祭文殿,回廊や拝殿を建てたと伝えられています。また,神社の東側に神宮寺として海雲山天福寺(明治の神仏分離令の際に廃寺)が建てられて寺領100石が与えられ,歴代尾張藩主の崇敬も篤かったといいます。別名,「戸部天王」「蛇毒神天王」とも呼ばれました。明治11年(1873年)に当初の須佐之男命に加えて,田心姫命など4柱が加えられました。本殿[国重文]は創建当時の様子を伝える特徴的な建物で,とくに正面の蟇股、屋根の懸魚・桁隠などに桃山時代の特徴を備えているといい,祭文殿・回廊[市文化]も同時期に建てられた貴重なものといいます。境内の山車蔵には享保12年(1727年)作という高砂車山車[市民俗]が保管されており,高砂車を象徴する大きな松の木を背景して屋台を据えて前に人形が置かれた大きな車体が特徴です。江戸時代は例祭の時に曳航されましたが,近年は老朽化のため蔵の中で組み立てられて祭のシンボルになっています。



 公園の西に隣接して呼続公園があります。広さ4ha余りの野球場も備えた広い公園で噴水もあり,市民の憩いの場になっています。ここは曽池遺跡といい,公園整備の際には古墳時代から奈良時代にかけての須恵器が発掘され,船の一部や漁具が発見され,小貝塚も見つかったことから,漁業を生業とする人々が生活していたとされています。「尾張徇行記」によると奈良時代には戸部は熱田に向かう渡しがあったといい,この時代は付近の中心地だったの1つだったとも考えられます。

長楽寺
呼続4-13-18 [公式HP(外部リンク)→]



 呼続公園から東に進むと,長楽寺(曹洞宗)があります。稲荷山と号し,寺伝によると弘仁12年(811年)に弘法大師(空海)がこの地に巡礼した際に七堂伽藍を整備したといい,真言宗戸部道場寛蔵寺と呼ばれました。当時安置された清水叱枳尼眞天(しみずだきにしんてん)は境内の清水稲荷殿に安置されています。その後,繁栄しますが衰退し,文明6年(1474年)に義山禅師が再興して長楽寺と改め,宗派も曹洞宗に改められました。大永5年(1525年)には今川氏により諸堂の修繕が行われたといいます。戦前までは現在の呼続公園の敷地も寺域でした。寺宝には天文4年(1535年)の銘のある懸鏡や呼続浜でかつて使われたという汐汲槽があるといいます。



 境内の立木観音堂は,寛政10年(1798年)に境内の松の霊木から立ち木のまま刻んだという十一面観音が安置されており,尾張33観音の第4番霊場として多くの参拝客を集めます。





 境内には動物霊園と盲導犬の慰霊碑があります。多くの盲導犬がここに眠っており,中には昭和57年(1982年)に主人を守って車の事故に巻き込まれ,足を切断したという名犬サーブも眠っています。このサーブの像は中区栄の久屋大通公園エンゼルパークにあることを知られ,春と秋のお彼岸には供養祭も行われています。

桜神明社
呼続4-27-39





 長楽寺の東側から出て右折して細い道を100mほど進んだ突当りを左折し,150mほど進んだ突当りを左折して,続く筋を右折すると左手に桜神明社があります。創建は不詳ですが桜村の氏神として信仰され,桜神明社古墳という古墳上に建てられています。古墳は直径36m,高さ4.5mの円墳で,神社が建てられたことから保存状態がよく,北から西にかけても濠が原型のまま残されています。埴輪片や須恵器などが発掘されており,5世紀末の創建と考えられ,古図には「ひめ(姫,比米)塚」と記されています。10月に大祭が行われ,天保年間(1830〜44)の作というお馬塔(まんとう)の馬具が展示されます。

東宝寺
西桜町98





 桜神明社から進んで名鉄の踏切を渡った先の突当りを右折し,続く筋を左折するとすぐ左手に東宝寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。薬王山と号し,応永元年(1394年)の創建と伝わりますが,16世紀の桜中村城の家老屋敷跡とも伝わっていることから創建年代は疑わしいといいます。境内にある桜村固本碑は「尾張徇行記」の著者の樋口好古撰といい,江戸時代の桜村の様子が刻まれています。それによると,桜村は細かく区分された土地からそれぞれ税が徴収されたため農民たちが困窮していたため,村役人の村瀬藤九郎が土地の細分化をやめ,蔵入地(藩主の土地)にしてほしいと訴え, その願いが聞き入れられて10年間税が固定化され,村人が安心して生活できるようになったため,それに感謝して碑を建てたといい,民は国(藩)の基礎であり,基礎がしっかりしていれば国は安泰という考え方から,この碑を桜村固本碑と名づけたことが刻まれています。



 戻って,名鉄線路の東側の筋を北に進みます。この街道は塩付街道といい,千種区古出来町から現在の昭和区,瑞穂区を通ってこの付近まで伸びていました。星崎のこの付近は塩の生産が盛んで,その塩を運ぶことから塩付街道の名前がありました。この付近の塩は「前浜塩」と呼ばれ,慶長13年(1608年)頃には100haに及ぶ塩浜があったといい,塩は飯田街道(中馬街道)などを経由して信州まで運ばれたといいます。しかし,新田開発などで塩浜が減少し,以降は次第に塩は作られなくなったといいます。





 そのまま2つ目の筋を左折すると,少し先に名鉄桜駅があります。桜の地名は,もともと熱田神社の領地である作良郷から来ているといい,元々は谷や狭間といった意味だったといいます。



 名鉄桜駅の北側の踏切を渡り,100mほど進んだ突当りを右折し,続く「呼続小学校前」交差点を左折すると呼続小学校があり,呼続遺跡の案内板があります。古くは呼続小学校裏貝塚と呼ばれ,昭和55年(1980年)の発掘調査では古墳時代から中世(鎌倉・室町期)に至る住居跡が発見され,古墳時代を中心として長期にわたり住居が営まれた地であることがわかりました。笠寺台地の西側で発見された中心的な集落跡として貴重な遺構となっています。

地蔵院
呼続3-11-27



 呼続小学校の北側にある歩道橋を渡って右に進み,「呼続小学校前」交差点を左折して50m強進むと左手に誓願寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。正覚山と号し,桜の東宝寺の末寺です。境内には大阪城落城の折,帰りに福島正則が滞在して植えたと伝わる樹齢300年になるサザンカがあります。



 そのまま50mほど進んだ次の筋を右折したらすぐ左手に地蔵院(真言宗)があります。海底山と号し,弘長2年(1262年)の創建といい,中には高さ2.3mに及ぶ湯浴地蔵という鉄地蔵が安置されています。これは鎌倉時代または室町時代に鋳造され,「尾張名所図会」によると井戸田村(現瑞穂区)にて海中から拾われて湯で泥を洗い流したという伝説があり,これが湯浴地蔵の名前の由来になっています。慶長年中(1596〜1615)に現在の山崎村に移したといいます。太平洋戦争の戦災と伊勢湾台風の被害にあい,現在は頭部と両手首を残すのみで他はコンクリートで復元してあります。この時期の大きな坐像は珍しく,貴重な遺物になっています。名古屋21大師の第15番札所に指定されています。

黄竜寺
呼続3-11-23



 地蔵院からさらに東に進んだところには秋葉神社があります。さらに進むと,左手に黄竜寺(曹洞宗)があります。梅森山と号し,応仁2年(1468年)に竜玄寺として創建されました。宝暦8年(1758年)に寺号が黄竜寺と改められ,明和4年(1767年)に現在の山門と寄棟造りの本堂と禅堂,庫裡が再建され,江戸期の特徴的な建築が残されています。境内に鎮守天満宮が元禄6年(1693年)に創建され,熱田の誓願寺から遷座したという菅原道真の真筆画像が所蔵されており,その由来が「尾張徇行記」にあります。



 戻って西に進んでいきます。この東西に伸びる道は,鎌倉街道の中の道に当たります。鎌倉街道は京から鎌倉に通じる道で,この中の道は白毫寺から村上社を経由して古鳴海に至る道になっており,この付近は昔の面影を残している場所です。

白毫寺
岩戸町7-19





 300mほど進むと左手に白毫寺(曹洞宗)があります。眉間山と号し,元亀2年(1571年)に創建されたと伝わります。境内は桟敷山とも呼ばれ,源頼朝が京都にのぼる途中に立ち寄ったのが由来と言われ,かつては境内に頼朝公物見の松という7.5mほどの巨松があったといいます。



 境内には年魚市(あゆち)潟勝景跡[市名勝]の碑があります。あゆち潟は鳴海から熱田にかけてかつて広がっていた,海が湾入した遠浅の地形を指したものと言われ,「あゆち」から「あいち」に転じて県名の語源になりました。昔この付近は,あゆち潟と知多の浦を望む勝景の地で,万葉集巻7の「あゆちがたしほひにけらし知多の浦に朝こぐ舟もおきによるみゆ」に代表されるように多くの人々が訪れ歌に詠まれました。現在は陸地に代わってしまい,面影はほとんどありません。また,本堂前庭の木立の中に春雨塚という芭蕉句碑があり,表面に「春風や戸部山崎のやねの苔」と刻まれています。

熊野三社
呼続2-6





 白毫寺から出て左の細い道を進み,広い道に突き当たったら右折して200mほど進み,次の信号を左折して100m強進むと右手に熊野三社があります。永禄年間(1558〜70)に山崎城主であった佐久間信盛が守護神として設けた社を,寛永4年(1627年)に山崎村の氏神としてこの地に移しました。社務所中庭に松巨(まつこ)島手洗石があります。これは正面に松巨島と刻まれた明和3年(1766年)の銘がある手洗鉢です。松巨島は笠寺台地のこの付近を称したものと言われ,かつては熱田方面から見ると松の大きな島に見えたことが由来とも,日本武尊の妃の岩戸姫の本拠を「松小島」と呼んだことが由来ともいわれています。この付近は古代は四方を海と川に囲まれた島で尾張の名所に数えられ,鎌倉街道の交通の要衝にもなったといいます。

安泰寺
呼続元町16-22



 熊野三社から出て,その先の筋を右折して道なりに200mほど進むと,名鉄の線路を越えた先に安泰寺(浄土宗西山禅林寺派)があります。宝珠山と号し,桜村の東宝寺の末寺で大永元年(1521年)の創建と伝わります。元々ここには山崎城という城があり,東西が約45m,南北56mほどにもおよび,三方が崖に囲まれた要衝で,別名「羽城」とも呼ばれました。名鉄の線路は本城の西の堀を通っているといいます。城主ははじめは蔵人浄盤で,続いて織田家の家臣の熱田の豪族である加藤弥三郎で,弥三郎が桶狭間合戦で戦死したのちは,御器所城(昭和区)の一族の佐久間信盛が城主となりました。廃城の後に桜村にあった宝珠庵がこの地に移され,安泰寺になったといわれています。

法泉寺
呼続2-1-21





 安泰寺から戻って次の筋を右に曲がり,続く突当りを左に進むと東海道に戻ります。ここを右に曲がって100m弱進むと右手に法泉寺(曹洞宗)があります。龍雲山と号し,元は井戸田村(瑞穂区)にあった真言宗の薬師寺の流れをくむといい,文禄3年(1594年)に再興されました。その後,寛永19年(1642年)に現在地に移り,寛政年中(1789〜1801)に曹洞宗に改宗されました。本尊は薬師如来,日光菩薩,月光菩薩で弘法大師の作と伝わり,東海49薬師霊場の第31番札所に指定されています。
 東海道に戻って再び進みます。この付近には旧東海道を示す碑が多く建てられています。この付近の呼続の地名は,熱田の宮宿に七里の渡しの船が着いたときに「船が来たぞ〜」と呼び継いだことが由来という説が俗に出回っていますが,鎌倉期以前から呼続の地名は文書に見られるためこの説は当てはまりません。元々は海岸線の近くの傾斜地を「ヨビ」と呼んだことからついた地名というのが正しいようです。

ゴール:名鉄・呼続駅



 法泉寺から東海道をさらに進み,次の信号を右折して150mほど進むと左手にゴールの名鉄呼続駅があります。普通列車のみの停車で,15分ごとの運行です。金山駅まで約6分,名古屋駅まで約12分で行くことができます。

写真使用数:53

←前:大江・柴田コース / 名古屋市南区 / 次:見晴台コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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