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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市緑区:有松・桶狭間コースARIMATSU & OKEHAZAMA

2015年6月探訪。2016年5月7日作成

【コース】 距離:約7.7km
 旧東海道の絞りで栄えた有松の昔ながらの町並みと文化財をめぐり,さらに桶狭間古戦場の緑区の史跡をめぐる歴史ロマンあふれるコースです。

名鉄・有松駅〜有松山車会館〜有松・鳴海絞会館〜服部家住宅〜中濱家住宅〜岡家住宅〜小塚家住宅〜有松天満社〜祇園寺〜有松神社〜釜ヶ谷〜七ツ塚〜桶狭間古戦場公園〜長福寺〜桶狭間神明社〜慈雲寺〜市バス・郷前バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄・有松駅



 名鉄名古屋本線の有松駅がスタートです。準急と一部の急行が停車し,これを利用すれば名古屋駅から約20分,金山駅から約15分で来ることができます。鳴海で普通に乗り換えた場合は,名古屋駅から約25分,金山駅から約20分です。大正6年(1917年),愛知電気鉄道が神宮前(熱田)から有松まで延伸したときに開業しました。



 現在,駅の北にはイオンのショッピングセンターができ,近代的な駅前になっています。

有松の町並み



 駅から出て左側の階段を降りそのまま折り返して東へ,名鉄の線路を左に見ながら進みます。150mほど先の右手には藍染川沿いの遊歩道が延びます。上流に染め屋があり日によって川の色が変わったため,このように呼ばれたといいます。
 そのまま200m強進むと,旧東海道に突き当たります。ここの主に西側には有松の街並みが広がります。有松は慶長13年(1608年)に尾張藩によるお触書で東海道沿いに開拓された町で,鳴海宿と池鯉鮒宿の間が人家も少なく,松林も茂って治安も悪かったことから旅人の安全をはかるために設けられました。しかし,宿場町ではなかったことから宿を営むこともできず,主要な産業がなかったことから慶長15年(1610年)に阿久比庄(現在の知多郡阿久比町)からの移住者の長であった竹田庄九郎が九州豊後の人々から絞り染めを習い,手ぬぐいなどを作って旅人に売り出したことが,現在の有松絞の始まりといわれます。その後,東海道有数の名産品となり,十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」でも弥次さん・喜多さんが有松で買い物した様子が描かれているといいます。名古屋市の「有松町並み保存地区」に指定され,近年,無電柱化されて江戸時代からの景観が再現されました。昔ながらの商家が今に残り,様々なお店もできて名古屋市でも有数の観光地になりました。毎年6月の第1土・日曜日には有松絞り祭が行われ,街道に絞りが展示されるなど多くの人々で賑わいます。



 突当りを左折して50mほど先の左手に鈴木朖(1764〜1837)の歌碑があります。号を離屋といい,本居宣長に学んで国学者・儒学者として高い名声を得たことで知られます。



 その先の右手には近藤家住宅があります。有松絞の絞り浴衣などの製造を行っている近喜[公式HP(→外部リンク)]になっています。



 戻って東海道に入ってきた道を越えた先には松の根橋があります。昔は東海道がこの地点で少しずれていたため筋違橋と呼ばれ,有松の東の外れに当たりました。橋のところの筋を左折し,次の筋を左折したところには,絞り最終工程である「湯のし」を行っているお店である帳文があります。このような東海道の町並みから裏地に行く小路と呼ばれる路地がたくさんあり,住民の生活道路として現在でも使われています。



 旧東海道に戻り,100m強西に進んだ有松郵便局手前に延命地蔵があります。江戸時代から有松の人々によって大切にされ,旧暦6月16日には地蔵盆が行われます。



 有松郵便局の先を左折して150mほど先,「桶狭間」交差点の先の左手にホーロー看板館があります。約40年にわたって館長が個人的に集めた貴重なホーロー看板が約400点展示されているといい,昔ながらのなつかしい雰囲気にひたれるといいます。平日のみの開館で見学には予約が必要なので,見学の際は問い合わせましょう。



 旧東海道に戻って西へ進むと,江戸時代の雰囲気を楽しめる路地になっています。100mほど進んだ先左手のビルの前には,通称東竹と呼ばれる竹田邸があります。宣伝用に安藤広重などに浮世絵を描かせたことでも知られるそうです。



 その先の右手には大正10年(1921年)創業の絞り商である橋爪邸があります。昭和初期の建造で,主屋の2階のたちが高いのが特徴です。

有松山車会館 [有料施設]
有松2338



 橋爪邸の先,右手に有松山車会館があります。昭和63年(1988年)に建設され,10月第1日曜日に行われる有松天満社の例祭である有松祭の際に街道を引き回される布袋車,唐子車,神功皇后車[いずれも市民俗]の3台の山車が毎年交互に展示されています。これらの山車はそれぞれ東町(橋東町),中町(清安町),西町(金龍町)の所属で,祖先からの宝として長年,山車蔵に大切に保管されています。裏には有松で最大の蔵も残されています。



 有松山車会館の向かいには,安田商店があります。明治初期より絞りに関する紙を取扱い,染色に使用した塩も売られたといいます。現在は手芸用品などを販売しています。



 安田商店の先には,東町の山車蔵があり,中には布袋車が収められています。布袋車は,築造年代不明ですが延宝2年(1674年)の若宮八幡社(現,中区)の例祭に参加している記録が残っており,明治24年(1891年)に名古屋玉屋町から有松に譲られた山車です。4体のからくり人形があり,文化9年(1812年)に製作された山本梅逸下絵という大幕などを備えます。昭和43年(1968年)頃に現在地に移転しました。



 東町山車蔵の向かいに寿限無(じゅげむ)茶屋[公式HP(外部リンク→)]があります。明治8年(1876年)の建物で店内には囲炉裏もあり,江戸時代末期からの町屋建築の様子を今に伝えます。隣の井桁一さんの分家であり,大正時代までは絞り商が営まれていました。現在はうどん屋になっており,オリジナルの梅おろしうどんなどが有名です。

有松・鳴海絞会館 [一部有料施設]
有松3008 [公式HP(外部リンク→)]



 寿限無茶屋から50m弱進んだ左手に有松・鳴海絞会館があります。竹田庄九郎によって始められた有松絞は江戸時代以降東海道の名産となり,尾張藩は有松とその周辺に絞り生産の独占権を与えたため,有松の街は大きく発展し現在につながる街並みが形成されるようになったといいます。その後,明治初期,昭和中期以降と衰退期を迎えますが,その都度,新たな技法の開発などによって振興が図られてきました。昭和50年(1975年)に県内で初めて有松・鳴海絞りが国の伝統工芸品に指定され,その後,この絞会館が旧有松町の役場跡地に昭和59年(1984年)に建設されました。隣の信用金庫の建物と合わせて土壁に覆われた塗籠(ぬりごめ)造りになっており,周囲の風景に調和しています。1階では,有松・鳴海絞りの販売が行われており,衣類や小物,置物など様々な形に加工された絞り製品を購入することができます。有料の2階では,絞りの歴史や資料が展示されており,絞りの技術の実演やビデオの視聴,予約制で絞りの体験も行うことができます。



 絞会館の手前,信用金庫の間を奥に進むと,有松の村を開拓して絞りの技法を考案した竹田庄九郎の碑があります。昭和7年(1932年)に有松絞の同業組合が設けたもので,隣には中興の祖という鈴木金蔵の顕彰碑があります。

服部家住宅
有松2313 [公式HP(外部リンク→)]



 絞会館の道路をはさんで反対側に,服部幸平家住宅の倉[県文化]があります。隣の服部家が営む井桁家の分家で,かつては井桁一という屋号の絞問屋でした。倉は分家の際に井桁屋から譲られたもので,白い漆喰塗と腰に海鼠(なまこ)壁を持つ特徴的な倉で,江戸末期からの様相を示す景観上重要な建物です。奥にある蔵工房は昔の材木蔵で,現在は染色作家のアトリエとして用いられています。



 服部幸平家の隣に,服部家住宅[県文化]があります。井桁屋という屋号の絞問屋を営んでいた家柄で,寛政2年(1790年)の創業といい,住宅は江戸末期の創建で有松の景観を代表する建物です。東海道に面して広い間口を持つ主屋を中心として,蔵など11もの建物が連なる屋敷で,うだつや海鼠壁など有松の町屋建築の特徴の多くを備えています。現在も井桁屋として絞り商を営んでおり,絞り浴衣を代表とする様々な商品を販売しています。庭には樹齢350年を誇るというクロガネモチがあり,名古屋市の都市景観保存樹に指定されています。

棚橋家住宅
有松3004



 服部家住宅の道路をはさんだ反対側に棚橋家住宅[国登録]があります。国登録文化財に指定される際の調査から明治8年(1875年)に建てられたことが分かりました。現在の井桁屋が分家する前の本家に当たる家柄で「大井桁」といい,当地では最後まで旅人に絞り商品を販売していたといいます。その後,昭和7年(1932年)に棚橋家がこの地で医院を開院し,その後昭和63年(1988年)に医院は有松駅北に移転しましたが,建物は旧状をとどめています。



 棚橋家住宅に隣接する舛屋も江戸時代に大改装されたという古い建物で,尾張藩の絵師である小田切春江の錦絵も残されているといいます。

中濱家住宅
有松2306 [公式HP(外部リンク→)]



 舛屋から80mほど先の右手に中濱家住宅[国登録]があります。元々は明治5年(1872年)に絞販売を始めたという山田家の住宅兼店舗で,平成16年(2004年)に中濱家が購入して現在に至っています。東海道に面した主屋を中心に,西に土蔵,東に塀・物置と有松の大規模な商家に見られる典型的な屋敷の構造になっています。現在は,母屋が絞商品を扱う中濱商店になっており,オリジナルの絞りの製品や小物などを販売しています。



 中濱家住宅の奥の建物は,通称神半邸といい,昭和8〜9年頃の建物で,絞り問屋の神谷半太郎氏の住居でした。現在は手作りパンを販売するお店になっています。



 その先は,駅前から東海道を交差して通じる坂道との交差点になります。この坂道はお天王坂と呼ばれ,道幅が広くなってかつての面影はありませんが,坂道の途中に津島社があり牛頭天王が祀られていたことからこの名前があります。



 東海道から左折して,2本目の筋を右折して少し先に進むと,中町の地蔵堂があります。元はお天王坂沿いにありましたが,道路改良で少し奥に移されました。



 東海道に戻ったところには,有松天満社の案内板がありますが,この付近には江戸時代には常夜灯や高札場があり,伊勢神宮の遙拝所も設けられていたといいます。

竹田家住宅
有松1802 [公式HP(外部リンク→)]



 お天王坂と東海道との交差点から西に100m弱進んだ右手に中町山車蔵があり,中には有松祭で曳かれる唐子車が収められています。唐子車は天保年間(1830〜44)に内海の豪商の前野小平治が作らせたという豪華な山車で,3体のからくり人形がすべて唐子であることからこの名前があります。有松には明治8年(1875年)に譲られたといい,青貝を散りばめた輪かけや珊瑚の房が付くなど,細部に工夫を凝らしたのが特徴といいます。平成17年(2005年)の土地区画整理事業で現在地に移され,木造の山車蔵となりました。



 山車蔵の奥には,伊良湖村の漁夫の出身という歌人の磯丸(1764〜1848)の歌碑が設けられています。



 この少し先の左手に中舛竹田家があります。有松絞開祖の竹田庄九郎ゆかりの江戸時代創建という建物でしたが,老朽化が進んでいました。近年,募金などによって古い趣を残して改築され,現在はデイサービスの建物として利用されています。



 この向かいには,有松町並み保存地区の案内板が設置されています。



 中舛竹田家の先には,竹田家住宅[市文化]があります。江戸末期から明治初期の絞り問屋の特徴をよく残した建物で,その後大正期にかけて増改築されました。主屋と書院,奥には茶席と5つの蔵が設けられ,接客用の設備も設けられているのが特徴で,有松の商家の繁栄ぶりを今に伝えます。主屋の屋根には明治期の名残というランプがあって大きな特徴になっています。屋号を笹加[公式HP(外部リンク→)]といい,現在は絞りの製造や販売を行う竹田嘉兵衛商店も入っており,斬新な商品開発を行って新たな絞の可能性を模索しています。

岡家住宅
有松809



 竹田家住宅から100mほど進んだ左手に岡家住宅[市文化]があります。江戸時代末期の創建で,当時は絞り商人の丸屋丈助の名前で,小田切春江の錦絵にも描かれました。一棟の建物としては有松で最大のもので,重厚な絞り問屋の形態をよく残しています。勝手の釜場にも防火用の塗籠があり,これが現存する唯一の例で貴重だそうです。

小塚家住宅
有松806



 岡家住宅から少し進んだ左手には小塚家住宅[市文化]があります。天明4年(1784年)の大火の後に建てられたもので,明治期まで山形屋という屋号で絞り問屋を営んでいました。主屋と2つの蔵などからなり,改造も少なく有松の昔ながらの絞り問屋の様子をとどめ,歴史的にも景観的にも重要な建物です。主屋につく茶室は,大高の尾州久田流の茶人である下村宗匠好みといわれます。現在は,住宅として用いられています。



 小塚家住宅の向かいには,2階のガス灯の名残のランプが印象的な安藤来助邸があります。主屋は昭和初期の建築で,2階のたちが高いのが特徴です。

有松天満社
鳴海町米塚10







 安藤来助邸の先を右折して約100m,名鉄の踏切を越えて進み,突き当りを左に進んだところに有松天満社があります。元々は祇園寺の境内に菅原道真公を勧請して神祠にまつられていましたが,文政7年(1824年)に絞り商らの寄進によって現在の社殿が設けられ,有松の氏神として篤く崇敬されました。山頂に社殿が建てられる前は多くの人々が山に詩歌や文章を奉納したことから,文章嶺(ふみのみね)と呼ばれ,歌にも詠まれています。例祭が春(3月25日)と秋(10月第1日曜)に行われ,特に秋の例祭は布袋車,唐子車,神功皇后車の3台の山車が曳かれて大いに盛り上がります。境内には戦後,成海神社の宮司が発起人となって建立された筆塚があります。



 旧東海道に戻って,少し西に進んだところに西町の山車蔵があります。有松祭で曳かれる神功皇后車が収められています。明治6年(1873年)に名古屋久屋町の大工久七に依頼して作らせたもので,神功皇后が鮎を釣って神意を占ったというからくり人形が備えられています。水引幕は牡丹,杜若,芙蓉,水仙の花が刺繍された見事なもので,渡辺崋山の次男小華によるものといいます。



 山車蔵の道路をはさんだ反対側には,幕末の歌人の梅屋鶴寿(1801〜64)の歌碑が設けられています。

祇園寺
有松212





 歌碑から少し先に祇園寺(曹洞宗)があります。大雄山と号し,文禄年間(1592〜95)の開創といい,元は鳴海の地にあって円道寺といいましたが,宝永3年(1706年)に猿堂寺と改称され,その後宝暦5年(1755年)に祇園寺と改められて現在地に移され,有松の人々の菩提寺として慕われるようになりました。境内には地蔵菩薩や薬師如来などの石像が並ぶほか,文政11年(1828年)に奈良薬師寺のものを模して造られた仏足石があり,隣には熊本出身の僧豪潮による歌碑があります。他にも天保12年(1841年)に有松の人々の寄進によって設けられたという三十三観音石仏が建てられています。ここには尾張藩主義直公や有松絞りの開祖である竹田庄九郎なども祀られています。また境内に秋葉社が設けられています。



 祇園寺から東海道をさらに50mほど進むと,右手に有松一里塚が復元されています。慶長9年(1604年)に街道が整備された際に,一里(約4km)ごとに設けられたものが一里塚で,ここには江戸から87里を示す一里塚がありました。大正13年(1924年)に民地に払い下げられて一里塚はなくなりましたが,平成24年(2012年)に復元されました。



 祇園寺の前に戻り,右手の路地を進みます。この道は長坂道と呼ばれ,ここから桶狭間を経て大府や刈谷へ続く古道で,戦前までは多くの人々が行き交い賑わっていました。約150m進むと右手に絞りのひさだ[公式HP(外部リンク→)]のお店があります。有松絞が始まって以来の流れをくむ伝統あるお店である一方,今の時代にあったファッション小物やインテリア小物などの製品も作られています。



 その先の右手には弘法堂があり,弘法大師と毘沙門天,不動明王がまつられています。敷地内には秋葉社も鎮座しています。

有松神社
有松町桶狭間高根



 弘法堂から100mほど進むと国道1号線に合流し,そのまま先の「長坂南」交差点を右折します。そのまま先の歩道橋に上がって左折し,200mほど進んで道に合流したら,その先の筋を史跡散策路の案内にしたがって100mほど坂道を登って進みます。







 すると,左手に有松神社があります。鳴海から有松を一望できる標高54.5mの高根山に昭和30年(1955年)に戦争で犠牲になった人々を弔うために社殿が設けられ,忠魂碑などが設けられています。この高根山は,永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際に今川義元方の松井宗信率いる先発隊が布陣したといい,織田方の佐々政次,千秋季忠が率いる軍を打ち破ったといいます。その間,信長の本隊は今川義元が陣取る武路釜ケ谷にひそかに向かったと伝わります。この後,桶狭間の戦いの史跡をめぐりますが,古戦場保存会[公式HP(外部リンク→)]が詳しいです。

武路釜ヶ谷
武路町,および豊明市栄町武侍 付近



 高根山から南に進み下り坂を100m強進み,突当りを左折して150mほど進んでコンビニのある交差点を左に曲がって少し進むと,開元寺(天台寺門宗)があります。報恩山と号し,古くからの灯籠や百度石などが残ります。



 交差点に戻ってさらに南に50mほど先の右手には幕山北公園があります。この上の幕山も桶狭間の戦いの際は今川方の井伊直盛が陣をおいた場所といいます。





 さらに100mほど進んだ地蔵池の手前を左折します。この地蔵池はかつて「有松道池」「鳴海道池」などと呼ばれ,池の北に地蔵堂があることからこの名前がついています。





 地蔵池の左側を進んで,愛知用水の左側の道を進んで約300m,途中の分岐を左側に進んで突当りを左折すると,釜ヶ谷の案内板があります。織田信長がひそかに進軍し,今川義元の隙をうかがった場所といい,雷雨があがるのを見ておけはざま山に陣取る今川義元に一気に進軍し,勝利をおさめたといいます。目の前の名古屋短期大学の斜面を信長が突撃の際にかけあがったともいい,往時がしのばれる場所です。大学構内には信長坂という信長が駆け上がったと伝わる坂もあります。





 戻って先の愛知用水のトンネルをくぐってその先2本目の筋を「七ツ塚」の案内板にしたがって右折し,約100m先の次の筋を右折すると,少し先の右手に武路公園があります。



 その先を左折して50m弱進むと左手に七ツ塚の入り口があります。桶狭間の戦いの際,織田信長は今川義元に勝利したのち,この付近で勝ちどきの声をあげ,その後村人に命じて七つの穴を掘らせ,戦死者を葬ったといいます。村人はこれらを七ツ塚とか石塚といい,取り壊すものはたたりが起こるとおそれたそうです。平成元年(1989年)の区画整理で塚が整備され,塚の一つを残して碑が建てられ,現在の形となりました。

桶狭間古戦場公園
桶狭間北3









 七ツ塚の入り口から先に進み,突当りを左折して100m弱進んだ突当りを左折し,続く突当りを右折します。そのまま約150m進んだ3本目の筋を左折すると,すぐに桶狭間古戦場公園に突き当たります。桶狭間の戦いが行われた地は諸説ありますが,この地は田楽坪といい,おけはざま山を追われた今川義元が,織田方の服部小平太と毛利新介によって討ち取られた最期の地と伝えられています。この公園は合戦450年を記念して平成22年(2010年)に整備され,中央に織田信長と今川義元の銅像が設けられ,合戦当時の地形などがジオラマ化され,桶狭間の中心史跡として多くの歴史ファンが訪れます。公園内には,義元が昼食を取るために馬をつないだと伝わる「今川義元公馬つなぎのねず」があり,触れると熱病におかされるという伝説があります。また,義元公の墓標や,義元が水を汲み,戦いの後は首を現れたと伝わる泉の跡もあります。公園の東側にはかつて鞍流瀬川が流れていましたが,これは戦によって流れた人や馬の地とともに,馬の鞍が流れたことから名付けられたといいます。現在は区画整備で暗渠となりました。





 古戦場公園の東側から出てそのまま東に進む筋に入り,先の突当りを左折し,続く筋を右折して坂を上っていくと,右手に「おけはざま山」の碑があります。ここは今川義元が合戦の際に陣をおいていた場所といわれています。折からの雷雨で今川軍は混乱し,ここで織田信長の急襲を受けて田楽坪に追い詰められていったと考えられています。現在は,山は完全に宅地化されてしまいました。

長福寺
桶狭間427



 古戦場公園に戻り,田楽坪の碑がある公園の南側から出て,そのまま南に100mほど進むと,右手に大池が見えてきます。春には桜の名所としても知られます。



 その先左手には,瀬名氏俊陣地跡があります。合戦の際に今川義元の家臣の瀬名氏俊は,先発隊としてこの地に布陣したと伝わります。彼は本陣設営の後に大高城に向かったため戦死は免れ,のちに武田の家臣になったとも伝わります。この付近の藪は彼の名前にちなんで「セナ藪」とも呼ばれました。








 池沿いに約100m進み,先の筋を左折すると長福寺(西山浄土宗)があります。和光山天沢院と号し,天文7年(1538年)に善空南立上人によって創建されたといいます。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際,寺の上人は率先して今川方に飲食を提供したといいます。合戦の後には,織田方にとらえられた義元の茶坊主の林阿弥によって,この地で首検証が行われたと伝わります。後に林阿弥は阿弥陀如来と今川義元持仏の文殊菩薩を持って義元を供養し,その際に阿弥陀如来を本尊として義元を供養する寺になったといいます。惣門は鳴海の千代倉家が寄進したものといい,本堂は宝暦年間(1751〜64)に改築されたものが,昭和55年(1980年)に鉄筋の近代的なものに生まれ変わりました。今川義元と家来の松井宗信の木造が安置されています。





 境内には今川義元の首検証を行ったと伝わる場所に生えるという供養杉があり,伊勢湾台風で枯れたため2代目のものです。また奥には放生池があり,南北朝時代に南朝の落ち武者が隠れ住んだときの水源になったといい,桶狭間の戦いの際に血に染まった刀をすすいだことから「血刀すすぎの池」とも呼ばれました。池の中の島には七福神や龍神などが安置されています。



 長福寺から西に戻ってそのまま池沿いに進み,先の信号の横断歩道を渡って先のJAみどり桶狭間の方に進みます。ここでは毎週土曜日に朝市が開かれて賑わいます。





 その先の桶狭間寺前バス停付近に戦評の松があります。今川方の瀬名氏俊がこの松の下で軍議を開いたと伝わり,戦いを語るには重要な場所になります。初代の松は「大松」と呼ばれ樹齢400年を超える松でしたが,昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で枯死し,2代目も平成19年(2007年)に枯れてしまったため,現在の松は3代目に当たります。今川義元の命日に,白馬に乗った義元の亡霊が現れるという伝説もあります。同じ場所に明治期に御料地となって取り上げられた土地の払い下げを求める運動が起こり,それの記念碑が建てられています。

桶狭間神明社
桶狭間神明1520





 横断歩道に戻り,右折して南に100m弱進むと右手に桶狭間神明社があります。創建は不詳ですが14世紀に南朝の落ち武者がこの地に住み着いて村を設けた際に,村人たちによって建立されたといいます。桶狭間の戦いの際,瀬名氏俊が戦勝祈願のために酒樽を奉納し,その桶と伝わるものが保管されています。尾張4代藩主の徳川吉通が知多に巡行した際に奉納したという杉の枯れ木が残されています。現在の社殿は昭和10年(1935年)に改築されたものです。

慈雲寺
桶狭間上の山725 [公式HP(外部リンク→)]





 桶狭間神明社の南側の出口から出て左折し,200mほど進んだ2つ目の筋を右折し,その先の「郷前」交差点を越えてすぐ先の左手の細い路地を進み,さらに次の筋を左折すると少し先に慈雲寺(浄土宗西山派)があります。相羽山と号する尼寺で,明治初期にこの地で医者を営んだ相羽家の菩提寺として明治23年(1890年)に創建されました。名医として知られたほか,学半館という私塾も設け,桶狭間の政治にも関わりました。



 さらに100mほど進んだ突当りを左折すると少し先の左手に庚申堂があります。かつては疫病が流行った際に青面金剛童子を供養して退散を願ったという庚申塚があり,江戸時代中期頃に堂が設けられたといいます。病気平癒のお礼として絵馬が奉納され,獅子芝居の奉納も恒例化されていました。大正時代に堂が全焼し,昭和56年(1981年)にも子供の火遊びで半焼する被害をうけています。

ゴール:市バス・郷前バス停



 先の交差点を左折して150m進んで「郷前」交差点に戻り,右折した先にある郷前のバス停がゴールです。有松駅へ有松12系統および緑巡回系統が1時間に各1本で,桜通線の鳴子北駅,高速経由の栄に行くバスも1時間に各1本あります。


写真使用数:78

←前:大高西コース / 名古屋市緑区 / 次:扇川周辺コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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