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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市緑区:大高西コースODAKA WEST

2015年2月探訪。2016年4月10日作成

【コース】 距離:約9.3km
 大高の旧城下町の古い町並みや社寺を楽しみ,大高の地名の由来であり,日本武尊や宮簀媛命の伝説が残る氷上姉子神社の周辺をめぐります。

JR・大高駅〜津島社〜碑石公園〜海岸寺〜弥陀寺〜秋葉社〜大高城跡〜春江院〜石神白竜大王社〜氷上姉子神社〜斎山稲荷社〜萬乗酒造〜東昌寺〜山盛酒造〜薬師寺〜神の井酒造〜(町屋川)八幡社〜JR・大高駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR・大高駅



  前コースに引き続き,JR東海道線の大高駅がスタート駅です。普通列車のみの停車で,所要時間は金山駅から約10分,名古屋駅からは約15分です。日中はおよそ15分間隔での運転です。明治19年(1886年)に開業という愛知県で最も古い歴史を持つ駅で,その案内板が駅前に立てられています。

津島社
大高町北大高畑15



 駅から出て,目の前の県道を左手に進んで,約250m先の信号を右奥方向に進んで150m先の「天神」交差点で県道の右側に渡って先の菊井橋を渡ります。菊井橋の由来は,かつてこの南に菊井紡績が進出したことによります。





 その先100m強先の右手に津島社があります。創建は不詳ですが,俗に「お天王さま」と呼ばれ,天和2年(1682年)に記載があることからそれ以前の古社といいます。境内は森におおわれ,昭和40年(1965年)に建てられた本殿は立派なものです。境内には延宝4年(1676年)勧請という天満社が建ち,安永3年(1774年)の銘のある手洗鉢があり,参道入り口には明治13年(1880年)建立という「大高村南部農車道開墾之碑」があります。

碑石公園
森の里2





 津島社から南に進むと,森の里団地に入ります。この森の里団地は昭和50年(1975年)に閉鎖された大日本紡績(現ユニチカ)の工場跡に設けられた大規模団地です。約100m南に進むと右手に碑石公園があります。公園内には山口洪崖(1882〜1947)の「鴻邱(おおだか)春詞碑」があります。この地に大日本紡績を誘致したときの町長で,漢詩文にすぐれて多くの漢詩を著し,大高町の発展に大きく寄与したということで,顕彰するために設けられた碑文です。





 碑文公園から1つ手前の筋に戻って左折して西に進み,先の突当りを左折してそのまま道なりに右折,左折,と進んで大高小学校の突当りを右折し,さらに2本目の大高小学校の入り口のところを右に50mほど進むと,田中の神明社の入り口があります。なお,祠は石段を30段ほど登った先になります。慶長以前の創建といい,大高城の鬼門除けに設けられたといい,古くは農耕の神の「オシャグジ」が祀られていたといいます。後に神明社が合祀されて,名前も神明社に改められました。

海岸寺
大高町田中14 [公式HP(外部リンク→)]



 神明社の入り口から50mほど先の突当りを右折し,道なりに100m強左手に海岸寺(天台宗)の入り口があります。白祐山と号し,大高城が築かれていた城山の東端に位置します。天正2年(1574年)に織田信長の命により開山したといい,海上交通の安全を信長も祈願したと伝わります。元は源光院と称し,場所も大高川の河口付近にありました。元禄7年(1694年)までには海岸寺と改称されていたといい,宝暦7年(1756年)に現在地に移されました。かつては大きな伽藍を有していたといいますが,寛政2年(1790年)の記録には海岸寺,源光院,三光坊のみが記され,以外の諸坊は廃絶していたと考えられています。嘉永年中(1848〜54)の火災で記録類が焼失したため,寺の由来は不詳となっています。戦後,本殿内陣や庫裡など環境が整備され,入り口の仁王門は緑区で唯一のもので,2m余りの2体の力士像が迎えてくれます。本尊は定朝作という木造聖観音菩薩像で,本堂や客殿は立派な襖絵があり,また見事な龍の図があるなど見事だそうです。



 海岸寺の境内を北側に抜けて左折し,その先道なりに右折し,その先の交差点を左折して50mほど先の江明公会堂の前には大高の力石があります。「力大高」と刻まれ,行事の際に若者が力比べをするために用いられたものです。

弥陀寺
大高町江明24



 江明公会堂の50mほど先の右手に弥陀寺(曹洞宗)があります。先で訪れる春江院6世の泰印性印による創建といい,本尊は聖徳太子作と伝わる阿弥陀如来像で,古くは十王堂,阿弥陀堂と称しており,尼寺になっています。江戸から明治にかけては虫供養が行われ,大高川岸に仮小屋を設け仏像の掛図をかけて法要が行われ,人で賑わったといいます。現在は無住になっており,見学はできないようです。

秋葉社
大高町高見32



 弥陀寺から100m弱進んだT字路の左手に秋葉社があります。創建は不詳ですが,常夜灯の銘には明和7年(1770年),社寺明細帳には寛政12年(1800年)の勧請といいます。この付近は辻と呼ばれる大高で最もにぎわった地区で,宝永年間(1704〜10)から「江明市場(よめちば)」が立ち,春秋の30日間行われ,享保17年(1732年)頃から六斎市(月6日の市)も開かれて賑わいました。昔から大高は火事が多く,火防の神様である秋葉社を中心部に設けて安全を願ったものと考えられます。かつて大高は火高と呼ばれていましたが,永徳2年(1382年)に火災で大きな被害があり,地名を大高にしたといいます。

大高城跡
大高町城山







 秋葉社のところのT字路を左折して,100m弱進んだ先を「大高城跡」の案内に従って左折し,200m弱坂を上って進むと大高城跡[国史跡]があります。記録には標高20mの台形の丘上に四方に二重の濠があったといいますが,現在は土居,内濠などは形が認めにくいといいます。永正年間(1504〜21)に花井備中守によって築城されたと伝わり,その後天文・弘治年間(1432〜57)に知多郡東浦の水野忠氏,大膳親子が居城しました。水野親子は今川方でしたが,織田方に寝返ったため,永禄2年(1559年)に今川方となった山口左馬助に攻められ,今川方の鵜殿長助の支配下に入りました。織田信長が丸根・鷲津の両砦を築き,大高城の兵糧を断つ策を講じたので,若き松平元康(のちの徳川家康)が大高城に見事兵糧入れをした話は有名です。桶狭間の戦いの跡は廃城となりましたが,元和2年(1616年)に尾張藩祖徳川義直公の母相応院の兄である志水忠宗が城跡に屋敷を設け,明治3年(1870年)まで居住しました。公園の西側には鶴岡八幡宮から勧請した城山八幡宮があり,寛文10年(1670年)に志水氏が寄進した石燈籠があります。

春江院
大高町西向山5



 大高城跡公園から南西方向に抜けてそのまま道なりに突当りまで進み,右折して100mほど進むと左手に春江院(曹洞宗)の入り口があります。大高(だいこう)山と号し,弘治2年(1556年)に大高城主水野大膳が父の和泉守忠氏の菩提のために創建したといい,尾張横須賀(現,東海市)の長源寺4世の開山で,寺号は忠氏の法名「春江全芳禅定門」によります。石畳の参道を上った先にある「大高山」の扁額を掲げた山門[国登録]は文政13年(1830年)に再建されたものです。



 山門を抜けた先の本堂[国登録]も同じく文政13年(1830年)の再建といい,入母屋造本瓦葺きで江戸後期の建造物ながら華美な彫刻を抑えた質素で堅実な建物になっており,本尊は多宝如来です。



 また右手には昭和8年(1923年)建立の庫裡[国登録],慶応元年(1865年)再建の鐘楼[国登録]があります。本堂の西につながる玄関及び書院[国登録] は江戸末期建立で有松絞の開祖竹田庄九郎宅にあった参勤交代の諸大名や公家の休憩に使われていた建物を明治12年(1879年)に移築されたもので,狩野永秀画の白鷺があります。



 また,奥には昭和11年(1936年)建立の不老閣[国登録],明治後期に尾州久田流の開祖である西行庵によって建てられたという茶室[国登録]などがあります。また,墓地には篆刻家,俳人として知られる余延年(1745〜1819)など大高の文人らの墓があるといいます。

石神白竜大王社
大高町石神



 春江院の入り口から少し進んだ先の交差点を左折し,100mほど進むと右手の高台に石神白竜大王社があります。昔,この地に蛇が住む塚があり,「たたり」があると恐れられたため村人が白竜を祀ったと言い伝えられています。入り口には桜とクスノキの大木があり,昔ながらの雰囲気を感じさせる神社です。境内には,この南にある石神遺跡の6世紀後半築造の古墳の石室の石が置かれています。また,「埋もれたる神の碑出て時雨かな」の句碑があります。



 さらに道なりに100m弱進み,突当りを右折して150m強住宅街を進みます。この南側の高台は平野遺跡と呼ばれ,昭和39年(1964年)以降の発掘調査で先土器時代の約3万〜1万年前の小型石器が発掘されました。現在は住宅開発され,遺跡の面影はありません。

氷上姉子神社
大高町火上山1-3 [公式HP(外部リンク→)]





 そのまま国道23号線をくぐる道に進み,国道を越えた突当りの左手に氷上姉子神社の入り口があります。熱田神宮の摂社で,大高町の氏神として古くから信仰を集め,創建は仲哀天皇4年(195年頃)といい,日本武尊の妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)を祀っています。社伝によると日本武尊が東征から戻る際に神剣の草薙剣を,宮簀媛命の館があったこの地に預けて祀ったのが始まりといい,その後草薙剣は尾張氏一族の祭祀場であった熱田に祀られることになります。元々は現在の元宮の位置にありましたが,持統天皇4年(690年)に現在地に移転し,氷上山一帯に5.9haの境内を持つようになりました。平安時代の延喜式にも「火上姉子神社」と記載のある式内社です。なお,この地はかつて火上の里と呼ばれましたが,永徳3年(1392年)に大規模な火災があって,火の字を避けて氷上と書かれるようになり,火高は大高と改められたといいます。本殿は貞享3年(1686年)に徳川綱吉が社殿を造営した際に建立されたものが明治21年(1888年)に焼失したので,明治26年(1893年)に熱田の別宮の八剣宮の本殿を移築して設けたものです。現在の名古屋城の位置に設けられた名古屋離宮の仮賢所を昭和8年(1933年)に移築したという拝殿は,昭和61年(1986年)に改築されたものです。例祭は毎年10月第1日曜日に行われ,大高町の各町内から傘鉾車などが奉納されます。また,5月6日の頭人祭では,かつては鷹狩りの鷹が奉納されていましたが,現在は鷹の絵馬が奉納されます。また境内の大高斎田では毎年6月第4日曜日に御田植祭が執り行われています。かつては瑞穂区神穂町にあった熱田神宮斎田が都市化で田植えができなくなったため,現在はここの御田植祭がとって代わり,田舞を奉納して田植えを行っています。かつては景勝地で神聖な雰囲気を持つ社叢を持っていましたが,国道23号線の開通で雰囲気が大きく変わりました。





 拝殿から南に道なりに進んだ先には,末社の元宮の入り口があります。100m強進んだ元宮は,かつて神社があった地といい,宮簀媛命の邸宅跡の碑が立てられています。



 戻って,道路を北に進んだ先には末社の玉根社があります。一説には古墳の跡地ともいい,医薬や酒造りの神様である少彦名命が祀られ,この地域では信仰が篤いといいます。



 玉根社の先のやや太い道との交差点を左折し,そのまま200mほど進んで太い道を道なりに右折すると,100mほど先の左手に寝覚の里の碑があります。この地は昔,波が打ち寄せる海岸で,朝ごとに波音に目覚めさせられたという伝説があり,火上の地にいた日本武尊や宮簀媛命もその波音で寝覚めたといいます。明治43年(1910年)に熱田神宮宮司によるこの碑は,寝覚の里の伝説が刻まれています。

斎山(いつきやま)稲荷社
大高町斎山





 寝覚の里の碑の先の「大高町砂畑」交差点を左折し,300m強先の3本目の筋を左折して400mほど進むと,斎山稲荷社への登り口があります。元々は東海市へと連なる古墳群の一角をなす斎山古墳で,直径20mの円墳で埴輪片などが発見されています。稲荷社は寛永18年(1641年)に宮司の祖という長兵衛重応が倉稲魂命を祀ったのが始まりといい,元禄の頃(1688〜1704)に社殿の造営が行われたといいます。以後,この付近の民衆を中心に厚い崇敬をうけたといいます。



 神社の南側には,東海市の大廻間の池が広がり,見晴らしがいいです。

萬乗酒造
大高町西門田41 [公式HP(外部リンク→)]





 「大高町砂畑」交差点に戻り,そのまま約300m東に進んで,国道23号線の1つ手前の交差点を右折し,200m強先の歩道橋を渡って,その南の筋を左折して150m強先を右手に入っていくと,朝苧社があります。氷上姉子神社の境外末社で,宮簀媛命の母神という老姥神が祭神といい,乳が出ない婦人が祈ると霊験があるといい「乳の神」ともいわれます。また,麻苧社とも考えられることから織物の神様とも考えられています。



 入り口から東に進んで約150m先の突当りを右折すると,右手に萬乗酒造の建物が広がります。寛政3年(1791年)創業とする老舗の造り酒屋といい,代表銘柄は「醸し人九平次」で,山田錦で作られる純米大吟醸はフランス・パリの三ツ星レストランでも提供されるといいます。主屋[国登録]など,11点の建造物が国の登録文化財に指定されており,江戸末期から大正期の昔ながらの建物が残っている点で貴重です。



 先に進んだところに久野九平治本店があり,酒蔵で作られたお酒などが販売されています。

東昌寺
大高町西門田15





 久野九平治本店の先の突当りを右折し,先を道なりに左折して,その次の筋を案内板に従って右折した先に東昌寺(曹洞宗)があります。日陽山と号し,創建は不詳ですが,かつては大高城の大手門近くにあり東正寺と称していたといいます。寛文6年(1666年)に春江院4世の雪嶺本積が中興開山し,現在地に移転したといいます。本尊は聖観世音菩薩坐像で,かつてこの付近にあった観音寺のものといい,井戸から拾い上げられたと伝わっています。平成8年(1996年)に本堂が建て替えられ,境内には愚痴聞き地蔵尊が立てられています。



 案内板に戻り,そのまま南に進んだ少し先に観音寺の古井戸があります。かつて観音寺という寺がこの付近にあったことからこの名前があり,かつては家庭でも利用されていました。酒造りに用いたという井戸も4本あるといいます。

山盛酒造
大高町高見74 [公式HP(外部リンク→)]



 久野九平治本店に戻り,さらに北に200mほど進んだ左手には,折戸の地蔵があります。鳴海からの常滑街道の道標があり,「左ひらしま,右よこすか」(ともに現東海市)と刻まれています。



 地蔵から戻ってすぐの筋を左折して東に進み,約150m先の筋を右折した先に山盛酒造があります。明治20年(1887年)に江戸時代築造という酒蔵を譲り受けて創業したといい,「鷹の夢」を代表とする日本酒を生産しています。これは,縁起物の「一富士二鷹三なすび」と,蔵元のある大高とから命名されたといいます。毎月第3土曜日に試飲販売会を行うなどイベントも多く開かれています。

薬師寺
大高町高見76



 山盛酒造から50mほど先の右手に薬師寺(曹洞宗)があります。医王山と号し,創建は不詳ですが,古来は薬師堂と称し,元禄7年(1694年)に春江院5世の愚徹が開基したといい,長い間尼寺でした。本尊は薬師瑠璃光如来で16年ごとに開帳されるといいます。境内には観音堂,弘法堂があり,この北東の大高川にかかる念仏橋のそばにあったという青峰山観音がまつられています。

神の井酒造
大高町高見25 [公式HP(外部リンク→)]





 薬師寺から先を道なりに左に曲がり,突当りを右折した先に神の井酒造があります。安政3年(1856年)創業という老舗の酒蔵で,代表銘柄の「神の井」は氷上姉子神社の御神井にゆかりがあることから名付けられたといいます。酒蔵の前に直売の売店があるほか,毎年2月末には酒蔵開放のイベントが行われています。大高の地に酒蔵が誕生した時期は詳しくわかっていませんが,江戸時代に多くの蔵元が誕生し,明治18年(1885年)には9件の酒蔵が4500石の生産をあげたといいます。



 神の井酒造の先の筋を左折した先には,江明(えみょう)公園があります。ここには大高の篆刻家であり,俳人としても知られる余延年(1746〜1819)の邸宅跡の碑と,旧大高町役場跡の碑が立てられています。



 その先にある大橋は,大高ではメインの橋であり天保12年(1841年)の村絵図にも板橋で描かれているといいます。現在の橋は河川改修後の昭和58年(1983年)に竣工しました。橋で渡る大高川は江戸時代以降湊があって多くの船が出入りしたといい,昭和初期まで伊勢参りの船が出ていたといいます。

(町屋川)八幡社
大高町町屋川14





 大橋を渡って200m弱進むと左手に(町屋川)八幡社があります。創建は不詳ですが,大高城主の花井備中守がここと大高城内に鎌倉から鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりといいます。永禄4年(1561年)に徳川家康が若武者のときに参詣したと記録があり,大高村の村社として氷上姉子神社に次ぐ規模を誇る神社で,住民から篤い信仰を受けました。現在は大高北小学校の敷地に当てられるなどして面積は縮小しています。昭和56年(1981年)に本殿,平成11年(1999年)に社務所,平成14年(2002年)に拝殿などの改築が行われ,すっきりと整備され落ち着いた雰囲気の境内になっています。



 八幡社の先には学区資料の保管庫になっている奉安殿があります。昭和3年(1928年)に当時の大高尋常小学校の校庭南側にあって,生徒や教員は最敬礼をしていたといいます。戦後廃棄命令がありましたが,平成9年(1997年)に歴史遺産として修復されました。正面には当時からある菊の紋章があります。

ゴール:JR・大高駅

 八幡社の先の分岐を右に進み約150m進んだ「大高駅西」交差点を右折すると,スタートしたJR大高駅に戻ってきます。JR東海道線を使って金山・名古屋方面に戻ることができます。


写真使用数:46

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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