本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市緑区:鳴海東コースNARUMI EAST

2015年2月探訪。2016年3月21日作成

【コース】 距離:約3.8km
 鳴海駅から旧東海道鳴海宿の文化財をめぐります。旧街道の社寺や芭蕉ゆかりの史蹟,桶狭間合戦の跡地など見所がたくさんあり楽しめます。

名鉄・鳴海駅〜浅間神社〜誓願寺〜円道寺〜鳴海城址公園〜天神社〜円龍寺〜雷貝塚〜鳴海球場跡〜善照寺砦跡〜浄泉寺〜萬福寺〜相原町山車蔵〜中島砦跡〜平部町常夜灯〜神明社〜二位殿塚〜名鉄・左京山駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄名古屋本線・鳴海駅



 今回のスタートは,名鉄名古屋本線の鳴海駅です。急行または準急を利用して,金山駅から約16分,名鉄名古屋駅から約20分です。本数も1時間に6〜8本運転されているので便利です。鳴海駅は平成19年(2007年)に高架化工事が完成し,近代的な駅と生まれ変わりました。鳴海駅の西側の出口を出て,突き当たる筋を右折して進みます。



 なお現在,鳴海駅の駅前には鳴海絞発祥の地の碑があり,鳴海絞のいわれについての案内板も設けられています。

浅間神社
鳴海町向田



 駅から北に進んで,扇川にかかる橋の手前を右手に進んだところに浅間神社があります。元禄13年(1700年)に鳴海八幡社の御旅所として創建されて浅間堂と呼ばれ,元々は鳴海町小森にありましたが,元文2年(1737年)に現在地に移されました。現在は秋葉社も合祀されており,毎年7月末に輪くぐり神事が行われています。名鉄高架化にともなう再開発で,東へ少し移されました。

誓願寺
鳴海町根古屋16





 浅間神社から県道に戻ってそのまま扇川を渡り,100m弱進んだ「本町」の交差点で県道を渡ってさらに進むと,左手に誓願寺(西山浄土宗)があります。来迎山と号し,天正元年(1573年)に僧俊空によって建立されたといいます。鳴海の豪農でのちに本陣も務めた千代倉家の菩提寺で,山門は一間高麗門と呼ばれる形で,千代倉家の自宅の門を移したものといいます。本堂は文政年間(1818〜30)初期の建立といい,本尊は阿弥陀如来です。



 芭蕉ゆかりの史跡が多く,境内には安政5年(1858年)に永井士前(1807〜88:永井荷風の曽祖父)らが建立した芭蕉堂があります。入り口の「芭蕉堂」の扁額は瑞泉寺20世和尚の呑舟により,中の「翁堂」の扁額は江戸末期の俳人である成田蒼きゅうによるといいます。中に安置されている芭蕉座像は,元々東の細根山にあった寂照庵に安置されていたものといい,芭蕉お手植えの松の木が台風で倒壊しそれを名古屋の仏師嘉左衛門が彫刻したものといいます。同じ芭蕉像はもう1体あって,名古屋松原の東輪寺(現中区)に納められましたが,この芭蕉像は戦災失われましたので,ここの像は唯一残った貴重なものです。芭蕉堂南脇には元禄7年(1694年)の芭蕉の死後1か月後に建てられたという芭蕉最古の供養塔[市史跡]があります。鳴海の芭蕉門下によって建立されたものといい,当初は西の如意寺にありましたが,後年移されました。その他,境内や墓地内に鳴海俳人の句碑や墓碑があり,俳人に縁の深い寺院になっています。

円道寺
鳴海町根古屋18 [公式HP(外部リンク→)]





 誓願寺の先,左手に円道寺(曹洞宗)があります。庚申山と号し,文禄年間(1592〜95)に瑞泉寺11世の仁甫和尚による開山といいます。当初は庚申山猿堂寺と称しましたが,宝暦7年(1757年)に有松に移転し,これが現在の祇王寺となります。一方,旧地には地蔵堂が残され,安永3年(1774年)に庚申堂と改称されて尼寺となり,それが昭和17年(1942年)に円道寺と改称されました。本尊は庚申と呼ばれる青面金剛童子で,屋根に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿が据えられています。また,寺の前の坂はこの寺の名前から庚申坂と呼ばれ,庚申行事に関する説明が寺の前に掲げられています。

鳴海城址公園
鳴海町城3



 円道寺の先の筋を左折した50mほど先に鳴海城址公園があります。鳴海城は室町時代の応永3年(1394年)に安原備中守宗範による築城といい,のちに織田信秀の家臣である山口左馬助と九郎二郎が入りましたが,天文20年(1551年)頃,信秀死後の織田方に見切りをつけて今川義元につき,のちに今川方の岡部五郎兵衛元信が城主となります。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際にも城は落城せず,のちに義元の首と引き換えに城が明け渡されたといいます。その後,織田の家臣の佐久間信盛が城に入りましたが,天正18年(1590年)に廃城になりました。この公園は,鳴海城の旧西の丸に当たるといいます。

天神社
鳴海町城30





 県道に戻って横断歩道を渡って東側に進み,南に戻ると天神社があります。この付近は鳴海城跡の地で,かつては鬱蒼とした大木が茂っていたといいますが,新しい道が切通ででき,この神社も石垣で組まれた見通しのよい社殿になりました。北の乙子山に鎮座する成海神社の旧社地に設けられた神社で,朱鳥元年(686年)の創建といい,成海神社は応永3年(1394年)の鳴海城築城時に北に移されました。この天神社は鳴海城廃城の後に成海神社の御旅所として設けられたもので,昭和18年(1943年)には鳴海城址之碑が立てられました。境内には平成3年(1991年)に設けられた3つの翁塚があります。



 天神社の先には,鳴海宿の高札場が復元されています。幕府や藩の重要法例を周知するために設けられたもので,制札8枚が名古屋市博物館に保存されています。この高札場は平成21年(2009年)に復元されたものです。

円龍寺
鳴海町本町11-1



 天神社の先を左折すると,すぐ先に円龍寺(真宗大谷派)があります。竹林山と号し,創建当初は天台宗で善正寺と称し,善照寺砦付近にありましたが,嘉禎年中(1235〜38)に僧善念(平重盛の末孫と伝わる)が真宗に改め,桶狭間の合戦の際に焼失するなどして場所も二転三転して,寛永10年(1634年)に現在地に移され,現在の寺号になったといいます。現本堂は昭和60年(1985年)に建て替えられたものですが,それまでの旧本堂は宝暦7年(1757年)の建立といい,間口7間半(約13m)に及ぶ入母屋造本瓦葺で前面に1間(約1.8m)の向拝を持つ荘厳な寺院でした。本尊は阿弥陀如来で,寺宝に恵心僧都作と伝わる薬師如来の秘仏があり,珍しい龍の蓮華台座を持つ像であることから,寺号の円龍寺が名づけられたといわれています。かつてこの付近には鳴海廃寺と呼ばれる伽藍があったといい,軒丸瓦などが出土しています。

雷貝塚
鳴海町矢切50付近



 円龍寺から坂を上って100m弱進んだ鳴海小学校の入り口のところを右に入ったところに雷(いかづち)社があります。大きなクスノキやイチョウが生い茂る中に白壁の社殿があり,雷神がまつられています。



 そのまま鳴海小学校を左に見ながら150mほど進み,次の筋を左折して150mほど「鳴海小東」の交差点を越えた次の筋を左折すると,100mほど先のカトリック鳴海教会の裏手に雷貝塚の案内板があります。昭和2年(1927年),野村三郎氏によって発見された縄文晩期から弥生期に至る複合遺跡で,ハマグリを主体とする貝層からなり,人骨や土器などが出土して当時の生活様式をうかがうことができ,特に土器は雷式と形式名称が与えられています。鳴海の貝塚遺跡発掘の先駆となりましたが,貝塚は住宅開発などでほとんどが破壊されてしまいました。



 「鳴海小東」交差点に戻り,約100m東に進んだところに鳴海球場跡の案内板があります。昭和2年(1927年)に建設されてから,高校野球のメッカとして有名になり,昭和9年(1934年)に日米対抗野球,昭和11年(1936年)に日本初のプロ野球の東京巨人軍と名古屋金鯱軍試合が行われ,甲子園,神宮と並んで三大球場と呼ばれました。昭和33年(1958年)に閉鎖されて名鉄自動車学校になりましたが,現在も自動車学校の形や整備工場に使われる一部スタンドなどが球場の面影を残しています。

善照寺砦跡
鳴海町砦3





 鳴海球場跡からさらに東へ進み,次の横断歩道のところで右折し,上り坂を約100m進んだ右手の階段を上がると善照寺砦跡(砦公園)があります。今川義元との戦に備えて織田信長が永禄2年(1559年)に築いた砦の1つで,桶狭間の戦いの際は佐久間右衛門と舎弟同左京亮が守っていたといいます。桶狭間合戦の際は信長がこの砦に兵を集め,本隊が集まっているように見せかけるために旗や幟を残したまま,桶狭間に移動して奇襲をかけたといわれています。現在は四方の見晴らしがよい公園になっており,公園内には有松絞を始めた三浦玄忠夫人の碑が立っています。

浄泉寺
鳴海町上中町9





 砦公園の西側から出て,次の筋を左に曲がり,さらに次の筋を右折してさらに2本目の筋を左折します。100m強先の突当りを左折して100m弱進んだ左手に浄泉寺(真宗高田派)があります。木林山と号し,永享4年(1432年)に鳴海荘の名主だった森山左近三郎吉勝が蓮空上人に帰依して浄空と名乗り,将軍の足利義教の庇護を受けて道場を創建したのが始まります。道場は当初は約100m北にありましたが,文明10年(1478年)に兵火に遭って現在地に移転し,文明15年(1483年)に現寺号を賜ったといいます。本堂は享和元年(1801年)の建立で,内陣の天井の中央部が清洲城廊下の天井を移したというひし形天井になっているのが珍しいです。本尊は阿弥陀如来で,ほかに聖徳太子画像や足利義教が下賜したという弘法大師作と伝わる簾の名号などがあります。近年,納骨堂や釈迦三尊石像などが建立され,整備されました。

萬福寺
鳴海町本町5





 浄泉寺の入り口から少し先の右手に萬福寺(真宗高田派)があります。三井山と号し,斯波家の家臣三井右近大夫高行が永享年中(1429〜41)に創建し,永禄3年(1560年)に兵火で焼失して再建されました。文政10年(1827年)に連純和尚によって中興開山され,25年かけて現在の大型の本堂が改築されました。寺内に寺子屋や練習場を設け,明治6年(1873年)には鳴海小学校の前身である広道学校が設けられました。寺宝に尾張藩主徳川義勝筆という「鳴海寺」の扁額,玄奘三蔵帰国の水墨画,鎌倉末期かそれ以後の作という住吉物語絵巻があります。また本堂の欄干には鳴海の山車彫にもかかわった彫刻家瀬川治助による龍と天女の彫刻が見事であり,天保15年(1844年)から3年にわたって彫られたものになります。

相原町唐子車山車蔵
鳴海町相原町254付近



 萬福寺からさらに50mほど進むと旧東海道に突き当たります。ここの右には,東海道の道筋がクランク状に曲がっている曲尺之手(かねのて)があります。道路がまっすぐだと敵に攻められやすいのを防御するためにわざと曲げられたものです。



 この西の緑生涯学習センター付近には鳴海宿の東の問屋場があったといいます。問屋場は運送や文書の伝達,宿の割り当てなどを行う施設で,当初は花井町にのみ設けられましたが,天保の頃(1830〜44)に東の問屋場が設けられ,月替わり制で問屋場の役目を果たしました。この生涯学習センター前には旧愛知郡鳴海町役場跡の碑があります。



 戻って東海道曲尺之手から東に50m強進むと,右手に相原町唐子車山車蔵があります。毎年10月中旬に行われる鳴海八幡宮の例祭である鳴海表方祭の際に曳かれる唐子車山車[市民俗]の山車蔵で,明治初期から残る建物として名古屋市の登録地域建造物になっています。普段は扉が閉まっているので山車を見ることはできません。

瑞泉寺
鳴海町相原町4



 山車蔵から100mほど先の左手に瑞泉寺(曹洞宗)の入り口があります。龍蟠山と号し,寺伝によると永徳元年(1381年)に大徹宗令が鳴海の平部山に庵を結び人々を教化したのが始まりといい,嘉慶2年(1388年)に室町3代将軍足利義満がここを通りかかった際に宗令に帰依して荘田20町と唐画星宿像を与えたといいます。その後,鳴海城主の安原宗範が応永3年(1396年:別説もあり)に伽藍を建立して瑞松寺と称しました。文明元年(1469年)に兵火で焼失しますが,文亀元年(1501年)頃に現在地に移転・再興し,正徳年間(1711〜16)に現在の瑞泉寺に改めたといいます。宝暦6年(1756年)に中興の祖呑舟が鳴海の豪農下郷弥兵衛の援助のもとに堂宇を再興し,東海道沿いの古刹として「尾張名所図会」にも描かれています。







 宇治黄檗山万福寺を模したという正門[県文化]は三間一戸の重層門で宝暦年間の再興時から残る特徴的な文化財です。同じく宝暦の再興時の法堂,寛延元年(1748年)創建の鐘楼,文化年中(1808〜18)創建の庫裡,慶応3年(1867年)創建の僧堂など18の建物があり,市内屈指の伽藍を誇ります。本尊は釈迦牟尼如来座像で,他にも30ほどの仏像を有し,寺宝として瑞泉寺文書と呼ばれる多数の文書を所蔵します。裏手の墓地から,寺など昔ながらの鳴海の景観を楽しめます。

中島砦跡
鳴海町下中13



 瑞泉寺の先,扇川を中島橋で渡ります。この中島橋は応永15年(1408年)には存在が確認される古い橋で,江戸時代は長さ31mに及ぶ反橋で,尾張藩直轄の橋として天白橋と並んで大きな橋でした。明治になって平橋に直され,現在の橋は昭和53年(1978年)に改築されたものです。



 中島橋を渡ってすぐ右折し,次の筋を左折して川沿いに50mほど進むと左手に中島砦跡があります。丹下,善照寺と並んで鳴海城を包囲するために永禄2年(1559年)に織田信長が築いた砦の1つで,長さ144m,幅90mに及んだといいます。桶狭間合戦の際は信長が善照寺砦から,この砦を経て桶狭間に向かったと伝わっています。明治のころまでは,砦を守った梶川平右衛門の墓と伝わる五輪塔が残されていましたが,現在はなくなって昭和2年(1927年)に建てられた中島砦跡の碑が残っています。私有地になっていますので,迷惑にならないように見学しましょう。

金剛寺
鳴海町平部41 [公式HP(外部リンク→)]




 中島砦跡から進んで次の筋を左折し,続く突当りを右折します。さらに50m強先の左手に金剛寺(曹洞宗)があります。紫雲山と号し,宝暦10年(1760年)頃に瑞泉寺20世の呑舟による開山といいます。本尊が行者菩薩で,古くから行者堂の名前で親しまれ,子供のあざ封じに霊験があったといいます。昭和17年(1942年)に現在の寺号に改められました。現在は水子供養で知られ,境内に西国三十三観音の祠があります。



 金剛寺から200m強進んだ「平部北」交差点の先に平部町常夜灯があります。鳴海宿の東に文化3年(1806年)に建てられたもので,「永代常夜灯」「宿中為安全」「秋葉大権現」「文化三丙寅正月」の文字が四面に刻まれています。夜に灯りを付けて安全祈願したもので,付近には木戸と立場(茶屋)があったといい,往時を偲ぶことができます。

神明社(曽根2丁目)
曽根2





 「平部北」交差点からさらに旧東海道を東に進んで約250mで左手の神明社へ上る階段があります。室町時代に伊勢神宮から勧請して創建され,祭神は天照大神です。かつて倭姫命が天照大神をまつる場所を探して全国を巡行した際に,この地に立ち寄ったという伝説があり,伊勢神宮の前身が鳴海に設けられたという伝承もあるといいます。この地はかつて鳴海潟を眺めることができる景勝地で,伊勢遙拝もできたといいます。現在の社殿は昭和9年(1934年)に設けられました。この付近の旧東海道はかつて松並木があったといい,神明社の手前にある一本松は松並木の名残といいます。



 旧東海道をさらに100mほど進んだ次の筋を右折し,150mほど進んだ右手には二位殿塚があります。詳細は不明ですが,昔から「二位殿」(平清盛の奥方)の塚と呼ばれ,平家の落人を祀ったといい,地元の人々に崇敬されてきました。元々は少し北にあり,鬱蒼とした樹木に覆われていたといいます。

ゴール:名鉄・左京山駅



 その先の手越川を左折し,次の筋を右折すると100m弱先にゴールの名鉄左京山駅があります。普通列車のみの停車で,電車は約15分間隔。スタートの鳴海駅には約2分で戻れます。金山・名古屋方面は鳴海駅で急行に乗り換えるといいでしょう。

写真使用数:36

←前:鳴海西コース / 名古屋市緑区 / 次:大高東コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>