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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市緑区:鳴海西コースNARUMI WEST

2015年4月探訪。2016年3月13日作成

【コース】 距離:約7.3km
 野並駅から区西部の東海道周辺を南下し,鳴海宿に向かいます。街道周辺の史蹟と,芭蕉のゆかりの文化財を,景色も楽しみながらめぐります。

地下鉄・野並駅〜桂林寺〜古鳴海八幡社〜大塚古墳〜豊藤稲荷神社〜新海池公園〜緒畑稲荷神社〜千句塚公園〜鉾ノ木貝塚〜丹下砦跡〜光明寺〜丹下町常夜灯〜成海神社〜長翁寺〜東福院〜如意寺〜鳴海宿本陣跡〜名鉄・鳴海駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・野並駅

 今回のスタートは,地下鉄桜通線の野並駅です。名古屋駅から所要28分で行くことができ,土休日は10分間隔で運転になります。野並駅の4番出口から出てスタートします。野並駅自体は天白区にありますが,南の藤川を渡るとすぐに緑区になります。

桂林寺
鳴海町古鳴海47





 藤川を渡った先の「古鳴海」交差点を左奥方向に進んで坂を上がって進みます。100m強進んだ右手に桂林寺(曹洞宗)があります。薬師山と号し,明暦2年(1656年)に開山といい,当初は真言宗で薬師堂と呼ばれました。安永5年(1776年)に八事仏地院の住職がこの地に隠居して,曹洞宗に改宗したといいます。昭和20年(1945年)の空襲で全焼しましたが,本堂は昭和42年(1967年)に再建されました。本尊は東方薬師瑠璃光如来で,東海49薬師霊場の第33番札所になっています。また安置されている阿弥陀如来は,治承4年(1180年)に平清盛が福原に遷都した際,鳴海の人々が高く鍬をあげて活躍したので.清盛から下賜されたものといいます。この付近はかつては鎌倉街道の要衝だったといい,文政8年(1825年)の道祖神の道しるべが境内に祀ってあります。

古鳴海八幡社
鳴海町上ノ山5





 桂林寺から約100m進むと右手に古鳴海八幡社があります。室町時代以前の創建と考えられ,以前は神明社と八幡社の2社がありましたが,明治42年(1909年)に元神明社の位置に合祀され,名前は八幡社となりました。祭神は天照大神と応神天皇で,現在の社殿は昭和42年に改修されたもので,鉄筋の鳥居や燈籠など近代化されてしまいました。この古鳴海という地名は,かつて鎌倉街道が近くこの付近が鳴海の中心であったのが,中世以降に東海道が開通し,扇川沿いの鳴海宿が繁栄していくのにともなって,かつての中心ということで古鳴海と称されたと考えられています。この付近は昭和5年(1930年)に縄文早期末の貝塚(上ノ山貝塚)も発見されており,古くからの住民の生活の跡が残る場所です。

大塚古墳
戸部下1-3-41



 古鳴海八幡社からそのまま600mほど進んだ「伝治山」交差点を越え,2つ目の筋を左折して少し進むと右手に赤塚古墳跡の案内板があります。現在は石室の基底石しか残されていませんが,古墳時代後期(7世紀)の円墳がここにありました。古くは文化年間(1804〜18)に発掘された記録があり,昭和5年(1930年)の発掘では人骨や金環,鉄鏃などが発見されています。



 そのまま進んで突当りを左折した先に大塚古墳の入り口があります。7世紀の築造といい,現在は直径20m,高さ3mの円墳になっています。横穴式石室を持ちますが,天井石がなく側壁だけで,墳丘のあちこちに穴があいていました。現在は,土を入れて修復してあります。昭和5年に赤塚古墳とともに発掘されて,やはり人骨や須恵器などが出土しています。

豊藤稲荷神社
作の山町180





 南に戻って3つほど先の交差点で左奥方向に進み,そのまま300m弱進んだ3つ目の薬師山街園を過ぎた一方通行の筋が合流する交差点で左折します。さらに200mほど先の3つ目の筋を右折し,次の筋を左折すると豊藤稲荷神社があります。嘉永4年(1851年)に朝日山と呼ばれた小高い丘に,京都の伏見稲荷から勧請して創建されたといいます。祭神は倉稲魂命ら4柱で,財福の神がまつられています。昭和中期頃までは山の一軒家でしたが,現在は完全に住宅に囲まれてしまいました。昭和53年(1978年)に近代的な社殿に改築され,稲荷社として県内屈指の建物になりました。境内には多くの絵馬が奉納されています。

新海(にいのみ)池公園
鹿山1







 北に戻ってそのまま200mほど進んでいくと,突当りに新海池公園があります。緑区内に数多く設けられたため池の1つで,寛永11年(1634年)頃,新海五平治が藩の許可をとって造成した池で,面積は10ha余りを誇り,現在は緑区で最大の面積を誇る池になります。大正期には,周囲の87haほどの水田に用水を供給し,灌漑・調整用に重要な役割を果たしていました。現在は池の一部が埋め立てられて公園になり,区民の憩いの場になっています。周囲に桜の木も植えられ,桜の名所としても知られるようになりました。

緒畑稲荷神社
鳴海町三王山



 新海池公園を抜けて北側の出口から出て左折し,200m強進むと「伝治山」の交差点に戻ります。さらに500mほど進んだ千句塚公園の入り口の右手に緒畑稲荷神社の入り口があります。室町時代に伊勢の緒畑原(現伊勢市小俣)から移されて創建したといい,農耕の神である倉稲魂命の女神がまつられています。境内には多くの狐像がありますが,これはこの社を狐が守っているという言い伝えによるものといいます。また,境内には樹齢400年以上の楠の大木が2本寄り添っており,夫婦円満の霊験があるといわれています。

千句塚公園
鳴海町三王山440





 緒畑稲荷神社を出て坂を上り千句塚公園に向かいます。公園は三王山という山の上に設けられ,高台で西方向の見晴らしがよいです。かつてはここに鳴海潟という干潟で,街道がここを通っていた際は潮が引いた海岸のわずかな道を歩かなければいけない交通の難所で,古歌にも多く詠まれました。



 公園内の大榎の下には,芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚として貴重な千鳥塚[市史跡]があります。貞享4年(1687年)冬に鳴海六俳仙として知られた寺島安伸宅で「星崎の闇と見よとや啼く千鳥」の巻が終わりになったのを記念して建立したもので,文字は芭蕉直筆といい,裏面には鳴海六俳仙の名前が刻まれています。芭蕉と鳴海の関連は深く,貞享2年(1685年)の「野ざらし紀行」の旅以来幾度となくこの地を訪れており,関連の史跡が多くあります。この三王山は弥生時代の土器や陶磁器,溝状遺構が発見されたり,織田信長が父の信秀の死後,裏切った山口教継,教吉親子を攻めるために18歳で陣を置いたりと,歴史ロマンあふれる場所になっています。

鉾ノ木貝塚
鳴海町鉾ノ木



 千句塚公園の南側の出口から右に進んで道を下り,下った先の県道を左折して50mほど進むと左手に鉾ノ木貝塚があります。昭和5年(1930年)に野村三郎氏によって発見され,縄文早期から前期にかけて形成された貝塚で,この時期の遺跡としては東海地方の代表的遺跡とされています。ハイガイを主とした貝層からなり,層の下部からはやや厚手の縄文土器,上部からは爪形文のや羽状縄文を持つ鉾ノ木式と呼ばれる土器が発見され,大きな特徴となっています。昭和46年(1971年)に市が盛り土・芝張りを行ったため保存状態はよいですが,直接見ることはできません。東に100mほど山を登ったところには鉾ノ木遺跡があり,日本武尊が鉾を木にかけて休憩した場所という伝承があり,弥生式土器の破片などが出土しているといいます。

丹下砦跡
鳴海町清水寺



 鉾ノ木貝塚から200mほど進みます。この筋は旧東海道に当たり,曲がりくねった昔ながらの筋になっています。その先の筋を左折して坂を上り,100mほど進んで道なりに右に曲がった先左手方向が丹下砦跡になります。織田信長が永禄2年(1559年)に今川義元の上洛に備えて築いた一連の砦の1つで,東西84m,南北78mにおよび水野帯刀,山口海老之丞らが守ったといいます。昭和50年(1975年)以降の発掘調査で城の遺構である溝と,瀬戸焼類が発見されています。
 丹下砦跡の北側には清水寺(せいすいじ)遺跡という遺跡が広がっています。縄文から室町にかけての貝塚や住居跡などが見つかっている複合遺跡で,長い時代にかけての多くの遺物が見つかっていることで知られています。

光明寺
鳴海町丹下26





 100mほど先の交差点を右折すると,少し先の右手に光明寺(曹洞宗)があります。一国山と号し,元々は鎌倉海道沿いの三王山の東にあったという清水寺という真言宗の寺院を,弘治2年(1556年)に現在地に移転して瑞泉寺9世剛庵が伽藍を再興して曹洞宗に改め,現在の寺号にしたといいます。本尊は空海作と伝わる子安地蔵大菩薩で,丹下の子安地蔵として安産を願う人々に対して名高いといいます。この北東には天明2年(1782年)に設けられた尾張藩の地方役所である鳴海代官所があったといいます。足軽3名が常駐し,年貢徴収や寺社関連の行政,土木,訴訟業務にあたりました。愛知郡・知多郡の121村を支配した大代官であったといいます。



 さらに進んで旧東海道筋まで降りたところに丹下町常夜灯があります。鳴海の宿の西端に,馬方衆の重因という人物の寄進で寛政4年(1792年)に設けられたもので,のちに現在地に移されました。旅人の目印になったもので,火防のための秋葉社がまつられています。

成海神社
鳴海町乙子山85







 光明寺から東に戻って,そのまま道なりに進んで大きく右に曲がった先の交差点を左に曲がると,少し先に成海神社があります。朱鳥元年(686年)の創建といい,熱田神宮に草薙剣が移された同時期に設けられた古社で,平安時代の延喜式にも「愛智郡成海神社」とある式内社です。鳴海の氏神として「東宮さん」と呼ばれ,篤い崇敬を受けてきました。元々は扇川の北側の天神山にありましたが,応永元年(1394年)に安原宗範が根古屋(鳴海)城の築城のために現在地に移しました。弘治3年(1557年)には今川義元が社領を安堵したという朱印状が残されています。本殿は延宝5年(1677年)建立といい,拝殿や参集殿などは昭和61年(1986年)整備されたものです。



 境内には末社や東宮稲荷,さらには「初秋や海も青田の一みどり」の芭蕉句碑(翁塚)が立てられています。社宝には鳴海六俳仙の1人岡島自笑のものという出羽守氏雲銘の刀があります。毎年10月10日に近い日曜日に行われる大祭は,鳴海八幡宮の表方祭に対して,鳴海裏方祭と呼ばれ,丹下・北浦・花井・城之内の4台の山車[いずれも市民俗]が奉納されます。その際,日本武尊が東征した際にこの地から船出したという故事にちなんだ「御舟流し」の神事が行われます。

長翁寺
鳴海町花井町甲50





 成海神社の東側から出て,そのまま南に300m強進み,「花井」交差点を右折して200m弱進むと右手に長翁寺(曹洞宗)があります。白龍山と号し,元々はこの北の薬師山にあったといいますが,東海道の発展にともなって天正年間(1573〜92)に現在地に移転し,瑞泉寺10世海雄圭禅大和尚を開山として再興されました。本尊は行基作と伝わる釈迦牟尼仏です。境内の薬師堂には,織田信長の守護仏と伝われている薬師如来があり,俗に「織田薬師」と呼ばれています。一族の織田長益有楽斎が信長の持仏をもらいうけて,この地に堂宇を建てて祀ったと伝わり,東海49薬師霊場の第34番札所に指定されています。
 長翁寺の西側にはかつて,鳴海の西の問屋場があったといいます。花井に居を構えた児玉家がつとめていましたが,天保(1830〜44)の頃に東の問屋場ができて,月番交代でつとめるようになったといいます。

東福院
鳴海町花井町3





 長翁寺の先の「三皿」交差点で左折し,そのまま旧東海道に当たるこの筋を100mほど進んで次の筋を左に曲がり100mほど進むと,左手に東福院(真言宗智山派)があります。護国山と号し,創建は不詳ですが元々は鳴海町赤塚(新海池の西側)にあったといいますが兵火により焼失しました。その後,現在地より北の森下地区を経て,寛永年間(1624〜45)に盛弁法印が廃城になった鳴海城の廃材を利用して現在地に再建し,中興したといいます。山門は再興当時面影を残していると伝わっています。本尊は木造大日如来坐像で,脇には不動尊が祀られ毎月護摩焚きが行われるといいます。山門脇の観音堂には子宝観音と呼ばれる観音があって親しまれ,境内には弁財天が祀られているといいます。



 ここから旧東海道に戻ってさらに南下します。戻って南に進んだすぐ左手には,かつて花井の地名の由来となった井戸があったといいます。この井戸は鳴海城主安原宗範の家臣伊勢木右衛門の屋敷にあったといい,周囲に桔梗が生えて花を咲かせたことからこの名前があるといいます。名泉として知られ,江戸時代には酒造用に,つい最近までは近くの住民の飲み水として重宝されたといい,雨不足のときには多くの人々を救ったといいます。



 東海道を南下して,次の右へのびる細い路地に入ります。そのまま進むと扇川に突き当たります。この付近には戦後しばらく土場と呼ばれる船からの荷上場がありました。江戸時代は港が設けられ,小舟で現在の名古屋港に酒や絞などの荷を運び,そこで千石船に積み替えて江戸などに荷を運んだといい,尾張藩の年貢米を収める郷蔵が設けられていたといいます。明治時代には鉄道の開通まで桑名,四日市などに人を運ぶ役目を果たしたといいます。

如意寺
鳴海町作町85





 扇川を右に見ながら東に進み,次の筋を左折してその先の「作町」の信号を右折します。その先の左手には如意寺(曹洞宗)への入り口があります。頭護山と号し,康平2年(1059年)に開基されたといい,元々は北の上ノ山の地にあって青鬼山地蔵寺と称したといいます。その後,長母寺(東区)の無住国師が弘安5年(1282年)に移転再興し,応永20年(1413年)に現在の寺号となりました。本尊は定朝作と伝わる地蔵菩薩で,歩射行事の際に蛤を放ったことから蛤地蔵の呼び名があり,大事件があると地蔵の首が傾き汗をかくと伝わり,尾張六地蔵の第4番に指定されています。江戸時代には別名鳴海寺とも呼ばれ,時を告げる時の鐘が一時期設けられたといいます。この付近は鳴海宿の中心に近く,かつては多くの旅籠が密集していたといいます。

鳴海宿本陣跡
鳴海町根古屋



 如意寺の入り口のところからさらに東へ50mほど進んだ右手に鳴海宿本陣跡の案内板があります。鳴海宿は東海道五十三次の40番目の宿場町として栄え,慶長6年(1601年)に正式に宿場町として指定されました。天保14年(1843年)の最盛期頃には旅籠68軒,人口は3600人余りを数えたといいます。勅使や公家などの高い身分の人が滞在する本陣は,当初はこの北東の本町付近におかれましたが,寛永10年(1633年)頃に現在地に移されました。本陣の経営は西尾伊左衛門家によって行われ,嘉永年間(1848〜54)からは千代倉家に引き継がれました。文化8年(1811年)に再建されたという図面は建坪235坪を誇り,熱田宿の本陣より大きかったといいます。本陣に次ぐ脇本陣は本町に2軒存在していました。

ゴール:名鉄・鳴海駅



 本陣跡の案内板のところを右折し,その先の突当りを左折,続く筋を右折すると約100m先にゴールの名鉄名古屋本線の鳴海駅があります。名古屋本線の急行または準急を利用して,金山まで約16分,名古屋駅まで約20分です。

写真使用数:34

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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