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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市千種区:平和公園コースHEIWA PARK

2015年4月探訪。2016年10月21日作成

【コース】 距離:約9.2km
 区東部に位置する平和公園とその周辺をめぐります。戦後市内の墓地が移され多くの文化人の碑がめぐれるほか,豊かな自然も魅力の場所です。

地下鉄・東山公園駅〜新池〜平和公園くらしの森〜蓮勝寺〜養蓮寺〜猫ヶ洞池〜平和公園メタセコイア広場〜動物愛護センター〜桜の園〜平和堂〜虹の塔〜無縁塚〜山本梅逸墓〜献体の塔〜アクアタワー〜市バス・光ヶ丘バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・東山公園駅

 スタートは地下鉄東山線の東山公園駅です。地下鉄東山線を利用して,名古屋駅から約17分,栄駅から約13分です。本数の多い東山線が利用できるのでアクセスは容易です。駅の東改札口から出て,2番出口からコースをスタートしましょう。

新池
星ヶ丘山手付近



 2番出口を出て広小路通りを200mほど東に進むと「平和公園口」交差点があり,この交差点の北東側に平和公園の入り口の標柱があります。ここから北の平和公園に向けての道は桜並木が続き,春には見事な風景が広がります。



 交差点の北東側には新池があります。元禄15年(1702年)に尾張藩の直轄工事として造られたといわれ,かつては七ツ釜池と呼ばれたといいます。北の猫が洞池とともに名古屋新田をはじめ多くの地域で灌漑のために利用されました。現在は駐車場などになっていますが,かつては現在の2倍以上の面積を誇り,土木技術も発達していない江戸時代に多くの土を人力で運んだ工事は,想像以上のものだったと予想できます。池の東側には千種スポーツセンターがあり,その東には愛知県立の工科高校が出来るなど,文教地区として現在も発展しています。

平和公園くらしの森
東明町7-25-1(里山の家)





 新池の西側の道を約200m進んで,「新池町」の交差点の分岐を右に進み200m強進むと,右手に平和公園くらしの森があります。かつて,この付近にあったという里山の風景を残したという施設で,森の他にも池や田畑が昔ながらの状態で残されており,散策やジョギングに最適の場所です。平成22年(2010年)には休憩所の「里山の家」もオープンし,地域の森づくりの会による里山に触れるイベントも数多く行われています。時間が許せば,広い施設内を散策するとよいでしょう。

蓮勝寺
池上町2-39 [公式HP(外部リンク→)]



 くらしの森から北上して400m弱進んだ「猫洞通1」交差点を左折し,300m強進んだ「猫洞通2」を右折するとすぐ先の右手に蓮勝寺(日蓮宗)があります。森住山(しんじゅうさん)と号し,天正年間(1573〜91)に清須で創建されたと考えられ,元和4年(1618年)に清須越で名古屋小川町(現在の東区東桜)に移転し,格式高い日蓮宗の寺院として発展したといいます。戦災で山門を残して焼失し,昭和25年(1950年)に戦災で残った山門を移して現在地に移転しました。伊勢湾台風で被害を受けましたが,昭和38年(1963年)に本堂が完成し現在に至ります。

養蓮寺
池上町2-10



 蓮勝寺から50m強進むと右手に養蓮寺(浄土宗)があります。宏綱山と号し,天文24年(1555年)に信長の家臣とも考えられている林信勝が,父林宏勝の菩提を弔うために那古野村高木町(現在の西区付近)に創建され,宏勝の法名の養蓮院から寺号にしたといいます。戦後現在地に移転し,宏綱の墓は平和公園に移されたといいます。

猫ヶ洞池
平和公園2







 養蓮寺の先2本目の筋を右折し,そのまま道なりに50m強進むと猫ヶ洞池の遊歩道の入り口に着きます。猫ヶ洞池は寛文年間(1661〜73)に尾張藩主徳川光友の命によって開削された池で,当初は現在の千種区・昭和区・中区などにまたがる7・8ヶ村,のちに11ヶ村の水田を潤す用水源となりました。猫ヶ洞というユニークな名前は,この付近かかつて兼子山といい,それが転じて猫になったという説が知られています。江戸末期の俳人である井上士郎は,この猫ヶ洞の様子を「藤竹をよじ,渓水をわたりて其辺(ほとり)に出づ。池塘尾花枯れて雪の如く,鳧鴎(ここでは鴨のことか)影沈んで水底に清し。」などと記しています。昭和37年(1962年)の地下鉄工事の際は,梯形の木枠を出土したといい,かつて猫ヶ洞池から用水を引き,各地に送った遺物とされています。池は部分的に釣り人にも開放されており,特に休日には賑わいます。

平和公園
平和公園2 など





 猫ヶ洞池の遊歩道を東に進むと,平和公園の園内に入ってきます。平和公園は,昭和22年(1947年)に戦後復興事業の一環として市内に点在する約280寺の19万に及ぶ墓地を,東部丘陵のこの地へと移転させたものです。そのため,名古屋を拠点とした多くの文化人がこの地に眠っており,郷土を発展させた先人たちの墓碑をめぐり,過去に思いをはせることができます。また,市内では貴重な自然が残された地でもあり,東山1万歩コースなどの遊歩道も整備されています。特に2300本におよぶ桜の木は,東山公園に次ぐ市内2番目の大きさを誇り,春には多くの人々が訪れます。入ってすぐのところにあるメタセコイア広場は,名前の通り大きなメタセコイアがシンボルの公園で,休日には家族連れなどで賑わうほか,イベントも行われます。



 メタセコイア広場の北西側から出て,道路をはさんだ反対側には総見寺(寺は大須にあり)の墓地があります。宝永7年(1710年)生まれの尾張藩士で,漢詩や俳諧に分野で才能を現した堀田六林,宝暦6年(1756年)生まれで尾張の浮世絵師として名高く,地誌類や神社・祭礼の図会などを多く残した高力猿猴庵(高力種信)の墓があるといいます。



 総見寺墓地の先を右折して登った先を左折した光勝院墓域に伊藤圭介の碑があります。享和3年(1803年)の生まれで,幕末から明治にかけて活躍した名古屋を代表する植物学者として知られます。文政10年(1827年)に長崎でシーボルトと知り合って動植物学を学び,明治14年(1881年)からは東京大学の教授となり,その後我が国初の理学博士となりました。東山動植物園や名古屋大学に残る伊藤文庫といわれる膨大な書籍が有名です。





 進んだ先の政秀寺墓地には,平手政秀の墓があります。延徳4年(1491年)生まれで,織田信秀・信長の2代にわたって仕えた老臣で,志賀城(現在の北区志賀公園付近)を居城としていました。信長の行状が改まらずに苦心し,天文22年(1552年)に信長をいさめるために自刃したといいます(自刃の理由は諸説あり)。信長はその後,春日井郡小木村(現在の小牧市)に政秀寺を建立して菩提を弔いました。政秀寺は現在,中区の白川公園の東にあります。

名古屋市動物愛護センター
平和公園2-10 [公式HP(外部リンク→)]



 平手政秀の墓から猫ヶ洞池の方に坂を下りて進み,その先を右折して150mほど進んだ駐車場の先を左折し50mほど進むとユーカリハウスがあります。東山動植物園で飼育されているコアラのえさのために,約1万本のユーカリの木がここで栽培されています。





 さらに100mほど進むと名古屋市動物愛護センターがあります。動物愛護の啓発を行う愛護館や犬猫のふれあいルームなどが設けられ,犬のお散歩教室など動物愛護に関するイベントが行われます。また,管理棟では犬猫などの返還や引き取り業務が行われ,捨てられた犬や猫などを譲渡する活動も行っています。



 150m戻って左折した交差点に戻り,ここを左折して100m弱北上すると右手に法輪寺墓地があります。享保8年(1723年)に生まれて藩主宗春に小姓として仕えた国学者であり,日本書紀を研究して『書記集解』を現し,俳諧でも知られる河村秀根の墓があるといいます。また,名古屋惣町代で花井家11代主人といい,俳諧でも知られる花井八郎左衛門の墓もあるといいます。

平和公園(南西部)



 法輪寺墓地から愛護センターの出口の交差点に戻り,左折して東に250m進むと広い通りに突き当たるので,この道を渡ったのちに左折し,約50m進んだ右手の誓願寺墓地に鈴木朖(あきら)の墓があります。宝暦14年(1764年)生まれの名古屋が誇る儒学者,国学者として知られ,本居宣長のもとで多くの業績を残しました。







 南に100mほど戻った左手には,高岳院墓地があります。徳川家康の第8子で,わずか5歳で大坂でなくなった松平仙千代,寛永19年(1642年)生まれの弓術家で,京都三十三間堂の通し矢で2度天下一をとったという星野茂則(勘左衛門)の墓があります。また,『尾張名所図会』の挿絵画家として知られ多くの絵を残した小田切春江とその子である春陵らの墓があるといいます。



 その先の筋を左折して道なりに進んでいくと,突当りの階段を上がった先に称名院墓地があります。ここには本居宣長に師事し,『古事記伝』の出版などにもかかわった国学者で版木師の植松有信の墓があります。



 その奥の細い道を右に入った先には静黙碑があります。第16代名古屋市長の小林橘川の功績を偲んで昭和36年(1961年)に設けられたもので,伊勢湾台風の復興などに尽力したことなどで知られています。



 ここを右折して,次の筋を右折すると少し先の右手に平田院墓地があります。ここには徳川家康に仕えて数々の戦功をあげ,のちに尾張藩祖義直の子守役となり,藩主に代わって藩の政務を行った平岩親吉の墓があります。







 さらに進んだ先を左折し,続く筋を左折して少し先の右手には萬松寺墓地があります。ここには尾張藩重臣の大道寺家の出身ともいわれ,農業振興と社会改善に生涯をささげて,世界初の農業協同組合である先祖株組合を創設した大原幽学,江戸時代後期の浮世絵師で,名古屋では草分け的存在として知られ,喜多川歌麿や葛飾北斎に学んだという牧墨僊(ぼくせん)の墓があります。





 さらに少し進んだ先の右手には乾徳寺墓地があります。享保13年(1728年)生まれの狩野派の画家で,俳諧を学んだことでも知られ,天明4年(1784年)の飢饉の際には画を描いて米に変え民衆に施した逸話でも知られる内藤東甫,江戸後期の俳人として知られる秋麿の墓があります。また有名な赤穂義士四十七人の一人で,尾張に生まれて浅野家家臣片岡六右衛門の養子になって赤穂藩に入り,浅野内匠頭の小姓であった片岡源五右衛門の墓があります。彼は主君の仇を討ち,元禄16年(1703年)に36歳で主君の後を追いました。



 乾徳寺墓地の先を右折して,50mほど進んだ左手に阿弥陀寺墓地があります。俳人として暮雨巷二世となり,また本居宣長の門下として国学を修めた桜田臥央の墓があり,「秋の夜のたることしらば窓の月」の句碑になっているといいます。



 その先の突当りには大光院墓地があり,文化8年(1811年)生まれの儒学者で俳人でもある細野要斉(忠陳)の墓があるといいます。



 大光院墓地に突き当たったところを右折して100mほど進んだ左手に久宝寺墓地があります。車道に住居した俳人として知られ多くの門下を持ったという桜田四郎太の墓があるといいます。



 先の突当りを右折した先には,平和公園会館があります。墓参者用の休憩所が設けられていますので,ウォーキングの際に活用できます。





 平和公園会館の南には,桜の園があります。約2300本の桜が平和公園にはありますが,その中心的な広場です。桜の時期は多くの市民が訪れ,お花見の席も並び,憩いの場になっています。

平和堂
平和公園3



 桜の園を東へ抜けて100mほどさらに東に進んだ左手に洗月院墓地があります。熱田の郷士で俳人・書家として知られる林桐葉の墓があるおいいますります。貞享元年(1684年)に松尾芭蕉が「野ざらし紀行」の旅で名古屋を訪れた際にそれを迎えたことで知られ,尾張蕉風の開拓者といいます。洗月院は熱田の法持寺の塔頭の一つで,周囲には彼の家族の墓もあるといいます。邸宅跡の案内板が熱田神宮の南に設けられています。



 さらに50m強進んで左側の階段を上がった先には平和堂があります。第2次世界大戦の犠牲者を追悼し,平和を祈念する目的で昭和39年(1964年)に完成し,内部には中国から贈られた高さ3.5mに及ぶ千手観音像が祀られています。普段は閉じられていますが,春やお盆や彼岸などのシーズンには一般公開されます。



 平和堂の左手奥から伸びる階段を降りていくと,途中に伊勢湾台風殉職者慰霊碑があります。伊勢湾台風の犠牲者を弔うために,昭和35年(1960年)に設けられたものです。



 進んで,虹の塔に向かう階段に下りるところを左手前方向に進んだ長栄寺墓地には寺村馬六の墓があります。宝暦6年(1709年)生まれで,江戸中期の尾張美濃派の俳人として活躍し,楓左坊と号しました。墓は秋雨塚と呼ばれる句碑にもなっており,「蜘の囲秋の小雨のかかりけり」の句が刻まれています。



 また,戻って左に曲がった先の駐車場の先のところに玄周寺墓地があり,尾張藩の重臣で安永9年(1780年)に京都で生まれ,井上士郎の門下の一派で俳人としても活躍し,米翁とも呼ばれた竹村鶴叟の墓があるといいます。



 また駐車場と玄周寺墓地の間の道を進み,さらに右手に進んだ先には虹の塔があります。高さ21mの平和公園のシンボルの1つともいえる塔で,下から見上げるとステンドグラスが光を通して壁が虹色に見えるというところから,この名前がついています。

平和公園(東部)





 虹の塔から北西方向に階段を下り,その先を左手前方向に進んで50mほど進むと左手に建中寺墓地があります。第7代の尾張藩主で大須に芝居小屋や遊郭を作るなど都市の繁栄を促し,質素倹約を図る将軍吉宗と対比される徳川宗春の墓があります。戦災で破損していたものを,宗春を盛り上げるNPOにより2010年(平成22年)に整備されたものといい,高さは3mに及びます。副葬品などは寺に残されているといいます。



 さらに同じ建中寺墓地には陳元贇(ちんげんぴん)の墓があります。中国明から渡来して寛永4年(1627年)に日本に帰化し,藩祖義直に招かれて藩の顧問となりました。書道や漢詩,作陶に大きな影響を及ぼし,晩年には尾張藩邸内に窯を開いたといいます。また拳法を日本に伝えた人物ともいわれています。



 建中寺墓地の前から突当りまで進んで右折し,次の筋を左折して道なりに50mほど進むと左手に照運寺墓地があります。ここには名古屋随一の俳人として知られる井上士郎の墓があるといいます。犬山藩士の子として守山に生まれ,代々の産科医をついで医者としても名声を得,社交性にも富んで多くの門下が集まり「尾張名古屋は士郎でもつ」とまで呼ばれるようになり,寛政期の三大家と呼ばれています。文化9年(1812年)に没したとの銘があり「つくづくと見ておれば散る桜哉」の句があります。さらに100mほど進んだ左手に平和公園無縁塚があります。無縁仏などが葬られて塚になったものになります。



 戻って続く筋を右に入り100mほど進むと,右手に安斉院墓地があります。寛政6年(1794年)に生まれ,和歌や俳諧をたしなんだという朝岡宇朝の墓があるといいます。随筆『袂草』を著し,朱子学を学んで小笠原流の礼法にも詳しかったといいます。



 先の交差点の左奥にある慈眼院墓地には,享保12年(1727年)生まれの俳人である鈴木去角の碑があり「橋立や懸つく星の夕がらす」とあります。



 慈眼院墓地の手前の交差点を東へ進み,続く筋を左折して少し進むと,右手に普蔵寺墓地があり,「山寺や幾夜寝さめの時鳥」の句が刻まれた酒井月松軒の墓があるといいます。



 さらに次の筋を左折した先には,西蓮寺墓地があります。享保17年(1732年)に犬山に生まれ,犬山城主の成瀬氏の家臣で,句吟に励んだという石原唯阿(存古斉)の墓があるといい,墓碑には「此ままに死ねばめでたし秋の暮」の句も刻まれているといいます。また,それに師事し宝暦12年(1762年)に京都に生まれた快台の墓もあるといいます。生涯実名を語らず詳しいことはわかっていない人物といい,「秋の暮余念おこらば只の我」と碑に刻まれているといいます。

平和公園(中央部)



 西蓮寺墓地のところを右折して西に進み,次の筋を左折した先には洞仙寺墓地があり,ここには江戸末期の近代南画の巨匠で花鳥画の傑作を多く残している山本梅逸の墓があります。



 戻って突当りを左折し,50mほど進むと左手に勝鬘寺墓地があります。横井也有に師事して俳諧を学んだという石原文樵の墓があり,「身は土にかへして魂は秋のかぜ」の句碑があるといいます。



 その先を右折し,次の筋を左折して少し進んだ右手に永安寺墓地があり,延享2年(1745年)生まれで加藤暁台に俳諧を学んだ大島蘭水の句碑があり,「野は燃て乱れ初けり春の雁」と刻まれているといいます。



 50m先の次の筋を左折し,続いて右折・左折と進むと右手に光蓮寺墓地があります。同じく加藤暁台の門下で旅を好んだ風流法師といわれる羅城の碑があり「荒海の上にも秋の夕部かな」の句があるといいます。



 先の左手には守綱寺墓地があり,明治期の小説家で新聞記者としても知られる渡辺霞亭の墓があるといいます。伯父が有名な青松葉事件で犠牲となり,それを糧にほとんど独学で自立し,活躍したといいます。



 その先の突当りを右折した先の左手に常端寺墓地があります。江戸時代の歌人で,万葉集を主に研究し本居宣長らと交流した国学者として知られる田中道麿の墓があるといいます。



 さらに50mほど進んだ左手には安浄寺墓地があります。細野要斉と親交が深かったという大随筆家として知られ,幕末,明治維新の詳細な記録を残したことでも知られる小寺玉晃の墓があるといいます。



 その先を左折して50mほど進んだ左手には心海寺墓地があり,天明3年(1783年)に生まれ,酒造業を営んで町代を勤めた名家で,井上士郎らに俳諧を学んだという森本沙鴎,その弟子で尾張藩の重臣でもあったという寺西我竟の墓があり,それぞれ「春風や双子のような須磨明石」「稲刈やきのふのままの山の色」と句があるといいます。



 戻って約100m進んだ右手には万国戦没者墓地があります。戦前あった陸軍墓地を移したものといい,軍関係者から外国人の戦没者まで祀っています。

平和公園(北部)



 さらに北に約50m進み,信号のところで横断歩道を2回わたって交差点の北西側に進み,再び北上するとすぐ左手に大法寺墓地があります。安永7年(1778年)生まれで尾張藩の大工をつとめ,俳句では名古屋俳壇の棟梁としても活躍した三輪月底,享保3年(1718年)生まれの俳人である柴田了光の碑があるといい,それぞれ「初秋に続てうれし初月夜」「桜咲く山や下行く鐘の声」と句があります。



 その先の左手には本龍寺墓地があり,元禄10年(1697年)生まれの尾張藩士で,兵学者と俳人として知られる近松茂矩の墓があるといい「剃てから変りも猶月の形」とあります。



 さらにその先の左手には情妙寺墓地があります。文政6年(1823年)生まれで,明治初期以降の旧派俳人として知られる織田車友(しゃゆう)の「覗かるる木間もあるや夏けしき」の碑と,情妙寺6世和尚で犬山生まれの呑水の「蓮の実の十方に飛んであそびけり」という辞世の句の句碑があるといいます。



 情妙寺墓地の先の筋を左折して,100mほど進んだ先を左折すると,献体の塔があります。医学の進歩発展のために自分の遺体を献体とした人の功績をたたえるために昭和60年(1985年)に建てられたもので,献体に関する業務を行っている不老会[公式HP(外部リンク→)]によるものです。医学の発展を願う志を持った人々のシンボルともいえる塔といいます。

平和公園アクアタワー
平和公園1



 献体の塔から戻って北方向に道なりに150mほど進み,右手に進むと平和公園アクアタワーの入り口があります。高さ50mにも及ぶ名古屋市上下水道局が管理する給水塔兼展望台で,名古屋東部の丘陵地帯に安定した水を供給するために設けられています。タワーの内部にはくみ上げられた水を入れる巨大タンクが入っており,災害時の給水にも用いられるといいます。





 土曜休日の昼には展望台が公開されており,エレベーターで上がって展望台にいくと,平和公園はもちろんのこと,東の猿投山や南の東山スカイタワー,西の名古屋駅のビル群などが一望できます。

ゴール:市バス・光ヶ丘バス停





 アクアタワーから戻って,公園内を北向きに進み,突き当たった道路を左折すると100mほどでゴールの光ヶ丘バス停に到着します。地下鉄自由ヶ丘駅まで星丘11系統,池下11系統や入庫系統で約10分ほどです。本数は1時間に3〜4本程度です。名古屋駅までの直通の基幹バスも運転されており,約45分で名古屋駅まで1本で行くこともできます。本山駅,池下駅,星ヶ丘駅などの便もありますが,これらは本数が多くないので時刻を調べておくといいでしょう。


写真使用数:69

←前:茶屋ヶ坂コース / 名古屋市千種区 / 次:東山公園コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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