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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

名古屋市千種区:千種公園コースCHIKUSA PARK

2015年3月探訪。2015年4月20日作成
2016年10月5日再構成

【コース】 距離:約10.2km
 区北西部の今池,池下駅の北側の地域をめぐります。すいどう道,和みの遊歩道などの道を利用し,寺社や水道施設の文化財をめぐります。

地下鉄・今池駅〜大昌寺〜ナゴヤセントラルガーデン〜山神社〜専修院〜鉈薬師堂〜水の歴史資料館〜上野天満宮〜長養寺〜永弘院〜晴明神社〜愛宕神社〜千種公園〜蝮ヶ池八幡社〜古川美術館・為三郎記念館〜地下鉄・池下駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:地下鉄・今池駅



 スタートの今池駅は地下鉄東山線と桜通線の乗換駅で,両線を利用して来ることができます。名古屋駅からの所要時間は,どちらの線を使っても11分ですが,東山線の方が本数が多く便利です。今池駅の2番出口から出てスタートしましょう。

すいどうみち緑道



 今池駅の2番出口を出て,環状線から右手に分かれて進む道がすいどうみち緑道で,春には桜並木が続く名所として知られます。この北東にある東山給水塔などの給水設備から伸びる水道施設の上に設けられています。このすいどうみち緑道の桜並木に沿ってしばらく進んでいきます。

大昌寺
内山2-18-12



 すいどうみち緑道を進んで約200m,2本目の東西道路のちくさ病院の前のところを右に進んで東に進みます。さらに約100m進むと,左手に大昌寺(浄土宗)があります。江戸末期の創建といい,尾張藩の重臣で代々名古屋の新田頭を務めた兼松家の私庵を寺にしたといい,尼寺として現在まで至っています。昭和28年(1953年)以降は,寺の境内に若竹幼稚園が設けられ,現在ではむしろ幼稚園の色が濃くなっています。

ナゴヤセントラルガーデン
高見2 [公式HP(外部リンク)→]







 大昌寺のところで右折して仲田公園を右手に見て進みます。



 次の筋を右折してすいどうみち緑道を約300m進むと,右手にナゴヤセントラルガーデンのマンションとショッピング街が見えてきます。ジェイアール東海不動産と三菱地所の共同開発によるマンションとショッピング街からなる複合エリアで,平成21年(2009年)に完成し,名古屋市都市景観賞も受賞しています。高級スーパーの成城石井や高級和食,中華料理,フランス料理店なども備えたショッピング街もあり,周囲から多くの人が訪れます。青空市が行われるときもあるそうで,ゆっくりと時間を過ごしてもいいかもしれません。





 すいどうみち緑道を再び東に進んで,さらに600mほどの緑道の終点まで進みます。春には桜並木が続き見事な風景となります。



 緑道の終点付近には,正受翁遺愛碑があります。名古屋新田頭の兼松家の宗右衛門正受の偉業をたたえたもので,文政2年(1819年)に建てられました。この付近の新田開発に尽力したといいます。

和みの散歩道



 緑道終点の突き当りを右に進み,続く突き当りを再び右に(史跡散策路の表示とは反対方向)進みます。そのまま約100m弱進んだ次の交差点を左に曲がり,50m強進んで広い道に合流して進むと,すぐに妙元寺(曹洞宗)があります。



 この付近から,道路の高架下に「和みの散歩道」というレンガ造りの印象的な遊歩道が伸びています。このレンガは,かつて北の鍋屋上野浄水場のろ過池で使われたものを再利用したものといい,大正期に作られたといいます。この散歩道はネガティブなイメージになりがちな高架下を住民や大学などが協同して開発した珍しい例として話題になっており,取り組みの様子が遊歩道の案内板で紹介されています。この先にある坂道は鉄砲坂といい,かつては鉄砲の訓練を行った場所です。

山神社
田代町岩谷36





 和みの散歩道の先の右側の高架をくぐって先の階段を登り,階段を上がった先を右に進み,さらに次の筋を右に進みます。そのまま約50m進んで,道なりに左に曲がったらすぐに山神社があります。江戸時代の創建と伝わり,昔小高い山であったこの地に守山近辺の農家が山ノ神を祀ったのが始まりといいます。付近には龍泉寺(守山区)と笠寺観音(南区)を結んだ四観音道が通じており,それに関連して設けられたとも考えられています。現在は,日進市の白山宮の宮司が神職を兼務しています。開発された周辺部に対して昔ながらの雰囲気を残している貴重な空間です。

専修院(せんじゅういん)
西山元町1-7



 山神社の入り口前を左折して東に進み,100m弱進んだ突当りを左折すると専修院(浄土宗)があります。松楓山と号し,本尊の阿弥陀如来は尾張徳川家の息女が嫁入りの際に守り本尊として持参したものといい,その由縁から大正期から三つ葉葵を用いています。弘法大師が42歳の厄年のときに自ら彫った木造を,石を彫って写したという厄除け地蔵が祀られおり,これは太平洋戦争の戦災にも耐え,昭和39年に現在地に移されたといいます。また,ここには重軽地蔵と呼ばれる一種の占い地蔵があり,願いがかなうときは軽くなり,そうでないときは重くなるといい,同じような伝承は尾張地区の他の場所でも聞くことができます。

鉈薬師堂
田代町四観音道西15-3





 専修院から直進して突当りを横断歩道を渡って左折し,次の筋を右折して約50m進むと鉈薬師堂の入り口があります。寛文9年(1669年)に明国の帰化人である張振甫によって創建され,別名医王堂ともいいます。張振甫は明の王族ともいい,帰化して京都に住み,江戸に赴く途中に熱田に立ち寄り,藩主の徳川義直に懇願されて名古屋にとどまることになり,2代光友の代に西区幅下に住み,その後寛文7年(1667年)に上野村に土地をもらって振甫新田を開発したといい,その後この堂を建立したといいます。当初は現在地よりもさらに北の地に創建されたそうですが,明治42年(1909年)に現在地に移されました。張振甫は医師として御用を務め,食中毒の治療に特にすぐれたといい,それにちなんだ病気を直すという薬師仏が祀られています。また両脇には日光・月光の両菩薩が安置され,さらに名古屋城築城の余材を鉈一本で彫ったという円空の初期の作の十二神将が見事です。他に境内には名古屋が生んだ偉大な画家である中村竹洞と山本梅逸の碑が建てられています。内部の公開は毎月21日の覚王山の縁日の時のみなので注意してください。



 鉈薬師堂から約250m進んだ次の筋を右に入り,約50m上り坂を進むと,右手に張振甫の墓所の入り口があります。延宝8年(1680年)に没した張振甫はこの地に眠るといいます。彼の名前にちなんで,振甫町という地名が今に残されています。



 さらに100mアップダウンのある道を進むと,四観音道の道標があります。四観音道は,名古屋の四方にある四観音(龍泉寺,笠寺観音,荒子観音,甚目寺)を結ぶ参拝の道で,ここに通るのは龍泉寺と笠寺を結ぶ道です。この道標は「南あつた かさでら,北せと りゅうせんじ」などと刻まれています。

水の歴史資料館
月ヶ丘1-2-2 [公式HP(外部リンク)→]



 四観音道の先には県道30号線があるので,ここを目の前の天満の歩道橋で渡ります。歩道橋の南側には東山給水塔が見えます。高さ37.65mの名古屋最古の給水塔で,昭和5年(1930年)に建設され,昭和48年(1973年)までの43年間にわたってこの一帯の高台に給水するための配水塔として活躍しました。貯水タンクを頂上に乗せた特徴的な形で,この付近のシンボルタワーとなっています。春分の日と毎年8月1日の水の日に内部も特別公開され,塔内の水道に関する展示資料と塔からの展望を楽しむことができます。平成3年(1991年)には名古屋市都市景観重要建築物にも指定されました。



 天満の歩道橋を渡った先にも,東山配水場の施設があります。浄水場で作られた水を各家庭へと配水する施設です。名古屋市の水道事業は大正3年(1914年)にさかのぼり,先ほどの給水塔や貴重な煉瓦造りの旧計量室[市文化]などの水道の黎明期を今に伝える貴重な文化財が残されています。ここから北の鍋屋上野浄水場付近までは,水の歴史プロムナードとして整備され,名古屋の水道の歴史を感じることができる遊歩道ができました。



 配水場から北に進んだところに水の歴史資料館があります。水道事業100周年を記念して平成26年(2014年)に開館した名古屋市水道局による施設で,江戸時代から続く水道の歴史や,上下水道のしくみ,災害対策についてなど水道について多角的に学ぶことができるようになっており,水道の大切さを感じることができます。

上野天満宮
赤坂町4-89 [公式HP(外部リンク)→]





 水の歴史資料館から,さらに少し北に進むと天満緑道の入り口があります。北の鍋屋上野浄水場と東山配水場をつなぐ水道施設の上に設けられた緑道で,季節の花も植えられ,市民のウォーキングなどの憩いの場となっています。



 天満緑道をそのまま300mほど進み,5つ目の筋を史跡散策路の案内板にしたがって右折すると,約50m先の左手に上野天満宮があります。11世紀後半,陰陽師として知られる安倍晴明(920〜1005)の一族がこの付近に住み着いた際,一族が菅原道真公をしのんで祀ったのがはじまりといいます。元々は天満宮社といいましたが,昭和38年(1963年)に上野天満宮となり,名古屋における学問成就・学芸上達の神様として広く知られ,特に受験シーズンには多くの人で賑わいます。





 天神にゆかりが深い梅の花や天神の使いであるなで牛なども神社内に見られます。最近は高牟神社,城山八幡宮と並ぶ「恋の3社めぐり」の1社として,若い女性やカップルの参拝も見られるようになりました。140年の歴史を誇るという鍋屋上野町の源氏天流棒の手[市民俗]の奉納が行われています。最近になって,この西の永弘院の隣にあった八坂社が境内に移転しました。

長養寺
天満通1-46



 上野天満宮から西へ戻り,そのまま県道に突き当たったら歩道橋を渡り北に進みます。少し進むと左手に長養寺(天台宗)があります。往古は常善坊という大寺だったといいますが,兵火にあって創建などは不詳といいます。永禄5年(1562年)に祐順法師を中興開山として再興され,慶長7年(1602年)に元々大幸村(東区)の南にあったものが現在地に移され,現在の寺号に改められました。本尊は運慶作と伝わる十一面観音菩薩像で,円空が名古屋に来た際に彫ったというひな段状の台座に木釘留された不動三尊があります。境内には青竜石という長さ90cm,幅60mほどの平石があります。伝えによるとこれは名古屋城築城の際に,名古屋の四方に四神の石を置いて尾張藩の発展と城の鎮護を願ったものといい,名古屋城の東側のこの寺には青竜の石が置かれたといいます。



 歩道橋の手前に戻って右の筋に入り,すぐに右折して長養寺の裏手に来ると弘法大師堂があります。

永弘院(ようこういん)
上野1-4-18 [公式HP(外部リンク)→]





 長養寺の弘法堂から道なりに西へ350mほど進むと永功院(臨済宗妙心寺派)があります。なお,地元では「えいこういん」とも呼ばれるそうです。上野山と号し,戦国時代の天文7年(1538年)に,ここの南になったという上野城主の下方左近貞清が建立し,貞清の戒名から寺名がついたといいます。元禄3年(1690年)に現在地に移されたといいます。本尊は聖徳太子作と伝わる薬師如来で,ここに設けれていた薬師堂にまつられていたといい,東海49薬師霊場の第28番札所に指定されています。本堂は戦火にあい,山門を除いて戦後再建された建物です。境内には,昭和37年(1962年)建立の地蔵堂があり,貞清がその霊験により数々の武功をあげたと伝わる勝軍地蔵がまつられています。弘治2年(1556年)の稲生ヶ原の戦いの際に命からがら逃げ帰ることができたことから堂を建ててまつったといい,元亀元年(1570年)の姉川の戦いの際も,地蔵の霊験で一番槍の大功をあげることができたといいます。戦時中は出征する人々から多くの信仰を集め,現在も受験シーズンなどに合格祈願する人々がいるといいます。他にも寺の北十字路に祀られ,昭和18年(1943年)に現在地に移された馬頭観音があります。街道を行き交う馬などの安全を願って建立されたものです。



 境内には上野城址の碑があります。現在の上野小学校付近一帯がその跡といい,東西約108m,南北約72mに及び,永正年間(1504年〜)に下方貞経によって建立されたといいますが,現在は碑のみが残されて遺構はありません。この時期は足利将軍の権威が弱まり,尾張地方の豪族は自衛・侵略のためにこぞって城を築いた時期で,貞経も上野城を築き織田信秀(信長の父)の配下の武将として活躍しました。その子貞清も信秀および信長に従って桶狭間の戦いなどで活躍しました。慶長11年(1606年)に没して菩提寺の永弘院に葬られ,現在は平和公園の永弘院墓地にあるといいます。

晴明神社
晴明山1-6





 永弘院から200m強進むと広い道に突き当たるので,ここを左折して250mほど「晴明山」の交差点を越えて進むと,左手に晴明神社があります。平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明は寛和3年(987年)に尾張に訪れ(一説には流罪になったとも),晴明山に住んだといわれています。この住居跡と伝わる伝説の地に安永7年(1778年)に地元の村人が晴明の霊を勧請して建立したのが晴明神社です。建立当時,ヘビやマムシの被害が多かったといいますが,この神社が建立されて以降,その被害がおさまったといいます。昭和32年(1957年)に地域住民により社殿などが再建されました。狭い境内ですが,陰陽師のファンなどが多く参拝に訪れ,グッズも販売されるなど話題のスポットになっており,若い女性なども多く訪れます。かつて社を移そうとしたら事故が起こったなどの話題もある神社です。

愛宕神社
北千種2-2-6



 南に戻って永弘院から西に進んで来た交差点まで戻り.ここを右折して西に100mほど進むと,愛宕神社があります。弘治2年(1556年)頃,上野城主の下方貞清が愛宕権現の御利益により合戦勝利したことから創建したといいます。江戸時代には尾張藩の塩硝蔵(火薬蔵)が宝永年間(1704年〜)頃に設けられ,事故も起こったことから火防の神として祀られたとも伝えられています。



 戻って,晴明神社から南下してきた道まで行き,右折して200mほど進んだ次の筋を右折します。ここは左側は愛知工業大学名電高校,右側は名古屋市立大学北千種キャンパスの施設が広がります。しばらくは学校施設が続く文教地区を歩いていくことになります。この道を450mほど進んで,きぼうのみちと名づけられたコミュニティ道路を進み,突当りを左折してさらに次の筋を右折します。



 右折するところの左手には名古屋経済大学市邨中学・高等学校があります。明治40年(1907年)に創建された名古屋女子商業学校を前身とする歴史を持つ学校です。



 曲がった先の右手には名古屋盲学校があり,その北には振甫中学校があって学校が固まっています。



 名古屋盲学校の前を100mほど進み,突当りを右折したのちすぐ左折して150m進んだ環状線の歩道橋を渡り,大和小学校の南側の道を約150m進むと,素盞男社があります。薮天王と呼ばれ,各地にある素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀る神社の一つになります。地域の人々に大切にされている様子が伝わります。

千種公園 [写真は6月撮影]
若水1



 環状線を渡る歩道橋まで戻り,歩道橋を渡って南に進んで「都通1」交差点を左折して約200m進むと,「千種公園前」交差点を越えた右手に千種公園の入り口があります。昭和45年(1970年)に開園し,広さ6ヘクタール近くに及ぶこの付近の憩いの場となっている公園です。公園内にはテニスコートや野球場などを備え,バリアフリー化が図られた通路や無料休憩所なども備えた人にやさしい公園で,公園内をジョギングする人たちなどでも賑わいます。市内屈指のユリの名所としても知られ,5月末から6月にかけては園内のユリ園ではユリの花が見ごろを迎えます。



 野球場の右側の通路を通ってその先も分岐を右折して公園内を南下すると,やがて通路の右手に空襲で被弾したコンクリート塀が残されています。大正8年(1919年)から終戦まで,ここには旧名古屋陸軍造兵廠千種製造所があり,昭和20年(1945年)の空襲で壊滅するまで軍の施設となっていました。このコンクリート塀は,その空襲の悲惨さを今に伝えるモニュメントになっています。その近くには,杉戸清元名古屋市長の筆による「ここに涙あり,されど平和は永遠に」と刻まれた記念碑が建てられ,空襲で亡くなった70名余りの人々を慰霊しています。平成26年(2014年)には名古屋市民間戦災傷がい者援護見舞金事業の一環として,民間戦災障がい者の碑が建てられました。





 ここから左手に進むと,南東側のユリ園に出ます。このユリ園も見ごろの5〜6月にはユリの花が一面を彩ります。

蝮ヶ池(まむしがいけ)八幡宮
向陽1-3-32







 千種公園の南東側の出口から出て,千種聾学校とマンションの間の道を進みます。100m弱進んだ次の交差点を右に曲がり,約200m進んだ突き当りを左に曲がります。約200m進んだ「高見小学校北」交差点を右に曲がり,道なりに300mほど進むと,左手に蝮ヶ池八幡宮があります。祭神は応神天皇で,この付近の名古屋新田が開拓されて以来の氏神として住民から篤い信仰を受けています。蝮ヶ池は万治年間(1658〜1660年)にこの付近が開拓された際に設けられた池で,縦約200m,横約100m,周囲950mに及び,古井村一帯の水田の灌漑に用いられました。今は埋め立てられたありませんが,この八幡宮の名前はその池に由来しています。なお,現在は多くが埋め立てられましたが,かつてはこの付近には多くの池が設けられたといいます。社殿は戦災で焼失したため,昭和26年(1951年)に再建されました。



 蝮ヶ池八幡宮の裏手の出口から出て右に進み,道を下って約150m進みます。さらに突き当りを左に進み,約50m進むと蝮ヶ池龍神社があります。かつて蝮ヶ池の一角に建てられた神社です。蝮ヶ池は大正末期に埋め立てられましたが,その名残が「池下」という地名で残っています。池が埋め立てられたあとは,昭和3年(1928年)に愛知淑徳高等女学校が作られ,その後,地下鉄の車庫が設けられるなどして,その池があった跡はまったくありません。

古川美術館・為三郎記念館 [有料施設]
池下町2-50 [公式HP(外部リンク)→]



 蝮ヶ池龍神社から道を合流して50m弱進み,次の交差点を右へ,続く交差点を左に進むと,古川美術館があります。映画館や飲食店などの幅広い運営で知られるヘラルドグループの創業者として知られる古川為三郎氏(1890〜1993)が,長年にわたって収集した美術品を広く一般に公開するために平成3年(1991年)に開館しました。近代日本画を中心として,洋画や陶磁器,工芸品などおよそ2800点の作品を所有しており,季節ごとの企画展など交代で展示されています。2階にはAVルームもあり,美術館の所蔵品を開設する映像を見ることもできます。古川為三郎氏は,世界デザイン博や名古屋大学の図書館建設の際にも多額の資金を提供し,文化の発展にも大きく貢献したといいます。平成23年(2011年)に公益財団法人古川知足会の運営になっています。







 古川美術館から戻って,案内にしたがって左折し50m強進むと,右手に為三郎記念館があります。古川為三郎が晩年を過ごした邸宅を利用して,平成7年(1995年)に開館しました。母家に当たる「爲春亭(いしゅんてい)」は,急勾配の地形に建てられた特徴ある数寄屋造りで,昭和9年(1934年)の棟上げといいます。洋間である浮観の間や,中央の日本庭園を望むことができる大桐の間など特徴ある部屋があり,ゆっくりとした時間を過ごすことができます。また,館内では美術館の企画展にも合わせて,様々な展示やイベントが行われ,建物内の数寄屋カフェでは抹茶,コーヒーや季節の和菓子なども味わうことができ,ゆっくり時間を過ごすことができます。日本庭園の先には,茶室の「知足庵(ちそくあん)」があり,「足ることを知る」という利休の教えから名付けられたといい,犬山にある国宝の如庵に想を得た茶室といいます。庭園を散策するときに,その外観だけでも印象深く感じる建物です。



 為三郎記念館の先の交差点を左折した先には,よし川ビレッジと呼ばれるレストラン街が広がります。庭園をながめながら和食やフレンチ,イタリアンなどを味わえるコンセプトの異なる4つのレストランが並びます。社長はテレビ出演なども行う有名な方といいます。



 為三郎記念館の先の交差点に戻って左折して南下し,道なりに約150m進んだ突当りを右折し,続く筋を左折すると妙親寺(日蓮宗)があります。山梨県の身延山から昭和7年(1932年)に名古屋での日蓮宗の布教所として開設され,戦災にあったのちに昭和24年(1949年)に現在地に本堂や庫裡などが建立されて現在に至るといいます。

ゴール:地下鉄・池下駅



 そのまま先の広小路通を右折して,300mほど下り坂を進みます。すると右手にサンクレア池下の建物が見え,その地下に進むと地下鉄東山線の池下駅になります。東山線を利用して,栄駅までは約7分,名古屋駅までは約12分で行くことができます。

写真使用数:55

←前:古井・丸山コース / 名古屋市千種区 / 次:覚王山・本山コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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