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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県東浦町:生路・藤江コースIKUJI & FUJIE

2018年12月探訪。2018年12月10日作成

【コース】 距離:約9.6km
 町南部の生路地区と藤江地区をめぐります。衣浦湾沿岸の昔ながらの生活が感じられる文化財や史跡が豊富にあり,衣浦湾の眺めも楽しめます。

≪コース≫ JR・東浦駅〜藤江塩田跡〜藤江越し跡〜鍋田新田堤防跡〜伊勢湾台風慰霊碑〜原田酒造〜常照寺〜観音寺〜北組けいこ部屋〜生路井〜神後院〜伊久智神社〜富士塚〜安徳寺〜白雪稲荷〜藤江常夜灯〜藤江神社〜専正寺〜JR・東浦駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR武豊線・東浦駅





 スタートするのはJR武豊線の東浦駅で,東海道線の大府駅から約11〜15分です。名古屋駅からは約35〜40分の所要時間を見ておけばいいでしょう。本数はおおむね1時間に2本になります。東浦駅は町南部の拠点駅で,東浦町内で最も乗降客も多いです。元々は生路地区に尾張生路駅が,藤江地区に藤江駅が設けられていましたが,昭和19年(1944年)に戦況悪化に伴って駅の統廃合が行われ,2つの駅が統合されて東浦駅が誕生しました。昭和52年(1977年)に当駅を基点として衣浦臨海鉄道が碧南市まで延伸され,現在も貨物列車が運転されています。

藤江塩田跡
藤江ヤンチャ28付近



 東浦駅から出て目の前の道を左手に進み,300mほど南下した突き当りを左折します。その先の踏切を渡って200m強進むと左手に藤江塩田跡の案内板があります。古くから製塩が行われていた東浦町ですが,江戸時代には多くの塩浜(塩田)が設けられました。時代とともに塩浜は北から南に移動してきたといい,藤江村に塩田が設けられた記録があるのは1750年頃からといいます。明治中期までこの付近には四丁八反五畝(約480a)の塩田があったといいますが,明治34年(1901年)に水田へと転換されたといいます。

衣ヶ浦藤江越し跡
藤江稲栄二区



 藤江塩田跡から東へ300mほど進んだ左手には衣ヶ浦藤江越し跡の碑があります。かつて藤江と吉浜(高浜市)を結んだ藤江越しと呼ばれる渡船場の跡で,昭和57年(1982年)に碑が立てられ,西行法師の「波洗ふころもの浦の袖貝をみぎはに風のたゝみおくかな」の歌が刻ま
れています。昭和31年(1956年)に南の衣浦大橋が開通するまでは,知多と三河を結ぶ重要な交通手段の1つだったといい,所要は6〜7分で1日およそ70〜80人が利用し,船頭は藤江と吉浜の合計4人が交替でつとめたといいます。

鍋田新田堤防跡
藤江稲栄二区



 衣ヶ浦藤江越し跡の碑から東に進んで,次の筋を左に進んで鍋田新田排水機場のそばを通ります。





 100mほど道なりに進んで次の分岐を左に進んだところに鍋田新田堤防跡があります。この付近の鍋田新田は,文政元年(1818年)に名古屋の商人鍋田太兵衛により売り渡されたために鍋田新田と名付けられました。江戸時代は東浦町では新田開発がどんどん進み,人口増加に寄与したといいますが,この新田は金銭的な問題や水難により苦心の末に開発された歴史が記録に残されているといいます。この奥には広大な田園地帯が今も広がっていて.江戸時代以降開発された田園の広大な実りを感じることができます。





 鍋田新田堤防跡から東に進んで衣浦湾の堤防沿いを進んでいきます。右手に衣浦湾の雄大な景色を楽しむことができます。対岸は三河の刈谷市と高浜市になり,広大な工場地帯が延びているのがわかります。



 途中の左手には生路の排水機場があります。広大な田園地帯を開拓することは水との戦いの歴史でもあります。

伊勢湾台風慰霊碑
生路東午新田97付近





 衣浦湾沿いの道を約1.1km進み,国道をトンネルでくぐってさらに豆搗川沿いに300mほど進みます。



 次の車道がある橋のところを左手前方向に200mほど進むと,道が突き当たるところに伊勢湾台風慰霊碑があります。昭和34年(1959年)に東海地方を襲った伊勢湾台風では,東浦町でも海岸の堤防が決壊し,25名の人々が亡くなりました。ここには供養のための観音のほか,災害で亡くなった人の名前が刻まれ,当時の恐ろしい様子を表した絵が刻まれており,かつての災害を後世に伝えています。

原田酒造
生路坂下29 [公式HP(外部リンク→)]



 伊勢湾台風慰霊碑から来た方から見て右方向,南西方向に300mほど進み,武豊線の踏切を渡って国道に突き当たったところに原田酒造があります。幕末の安政2年(1855年)に創業したという老舗の酒蔵で,この付近にある日本武尊ゆかりの井戸の名前である「生道井」のブランドで日本酒を生産しています。伊勢湾台風で被害を受けたため,昭和34年(1959年)に現在地に移されました。毎年12月には酒蔵の開放が行われ,多くの人で賑わうといいます。知多半島では,江戸と大坂の間の船の通り道という交通の便の良さから酒造りが発達し,生路地区でも生路大明神に湧き出る亀井からの水を利用して亀屋酒という銘酒が作られていたといいます。安永9年(1780年)にこの地を訪れた尾張藩士の横井也有は「汲人の よはいやともに よろつ世も 生路の里の 亀のいの水」という歌を残しているといいます。

常照寺
生路狭間105







 原田酒造から国道366号線を100mほど北上し,歯科医院の先を左折し100m弱進み,先の十字路を右折して細い路地を進みます。100mほど進んだ先の細い急な階段を登って進むと常照寺(曹洞宗)があります。生路山と号し,創建年代は不明ですが,乾坤院4世周鼎和尚の弟子である惟信忠公を開山として創建されたといい,当初は常照庵と称したといいます。延徳3年(1491年)の古書「梅花無尽蔵」によると,惟信和尚は植木が好きで寺の石段の下に数十本を植えて大切に育てていたといいます。その中に薬の材料となる木があり,薬の調合をする人は和尚に譲ってほしいと頼んだといいます。和尚は,この木が薬として人の役に立つならと自分で斧を取って木を切り取ったといいます。このことが世間で話題になり,詩を作って和尚の仁徳の深さをほめたたえた人が数多くあったといいます。本尊は阿弥陀如来で,四国直伝弘法の第18番札所に指定されています。

観音寺(知多四国10番)
生路狭間2







 常照寺の西側の出口から出て左折し,100mほど南下すると左手に観音寺(曹洞宗)があります。福聚山と号し,寛文3年(1663年)に生地村中として観音堂が創建され,庄屋の管理で住民から信仰を受けたといいます。のちに知多四国霊場10番札所となり,昭和17年(1942年)には寺院に昇格して,常照寺と神後院が6年交替で住職を兼務しています。本尊の聖観世音菩薩は行基作といい,6年ごとに開帳供養が行われています。開帳するための厨子の鍵は住民の代表が管理しているといい,まさに住民の手で守られてきたという寺の風習になっています。堂内左手の「びんずるさま」は自分の痛いところをさすると,治してくれる像といいます。



 観音寺から南に進んで突き当りを右折し,続く筋を左折して先の突き当りを左折し,その先の突き当りを右折し,続く筋を左折したところに多賀社が祀られています。祭神はイザナギ命とイザナミ命で,寿命の神様とされているといいます。

北組けいこ部屋(生路学校跡)
生路森腰88





 多賀社から東に道なりに100mほど進んだ左手には北組けいこ部屋があります。祭りの際の道具などが保管されている倉庫といいます。生路,藤江,有脇の連合で藤江の安徳寺に反強学校が設けられ,その後独立して明治10年(1877年)にここに生路学校が開設され,生路における学校のスタート地点となりました。その5年後には西に校舎を新設し,現在森腰ふれあい広場の入口にある石柱はその名残といいます。大正15年(1926年)になって現在の生路小学校の位置に鉄筋コンクリートの校舎ができました。その費用は全額村民によってまかなわれたといいます。

生路井
生路森腰



 森腰ふれあい広場から真っ直ぐ東に延びる道を進み,階段を降りた先を左手に進んだところに生路井があります。古代,日本武尊が東方に遠征を行うために尾張に留まった際,鷹狩りでこの生路の地を訪れたといいます。暑い夏の日で皆が喉が渇いて困っていたところ,日本武尊が崖の下に1つの石を見つけ,その石をはねのけたところ清水が湧き出したといいます。その後,この井戸は村人の飲み水として利用されてきたが,心の良くないものが汲むとたちまち水が濁ったと伝えられています。生路の地名の由来はこの井戸にあるといわれ,元々井口と呼ばれたのが生路となったとも考えられています。井戸のかたわらには地元の原田酒造が生産した銘酒を「生路井」と命名した記念碑が設けられています。

神後院
生路森腰82







 生路井から南に少し進んだ右手に神後院(曹洞宗)があります。仏国山と号し,永禄7年(1564年)に育川守養を開山として神後庵として創建されたといい,嘉永3年(1850年)に火災により焼失して,同7年に再建されたといい,昭和17年(1942年)に神後院と改称されました。四国直伝弘法の19番札所にも指定されています。境内墓地には白砂糖をこの地で製造した原田喜左衛門の墓があります。江戸中期,薩摩などで黒砂糖は製造されていたものの,白砂糖は多くが中国からの輸入に頼っていたといいます。享保年間(1716〜35),慶右衛門という長崎出身で中国人から白砂糖製造の技術を受け,尾張国にて試作を行いました。この地はさとうきびの栽培に適したため,尾張藩では気候温暖な知多半島で栽培を奨励したといいます。生路村の庄屋だったという原田喜左衛門は,ここで工夫を重ねて白砂糖の製造を行ったといい,中国渡来のものより上級品を製造したといいます。また,境内には昭和40年(1965年)に建立されたという書道家で教育家の原田鳴石の銅像があり,碑文にはその栄誉が刻まれています。

伊久智神社
生路森腰79 [公式HP(外部リンク→)]







 神後院の南側から出て,そのまま西に進み,続く筋を左折して少し進むと左手に伊久智神社の入口があります。創建は不詳ですが,享徳3年(1454年)に社殿の修繕した記録があるという古社です。祭神は安産の神様である木花咲耶姫と,塩の神様である塩土翁といいます。平安時代の「延喜式」にこの地で生産された生道塩は塩土翁がこの地で製法を広めたものといい,村の海岸は塩を生産する「神塩浜」と呼ばれたといいます。特色ある堅塩といい,京都東寺の諸仏にも献上された記録があるといいます。社殿北側に広がる社叢は伊久智神社大楠の森[町天然]と呼ばれる樹齢数百年を数える楠の大木が生い茂る鬱蒼な森があります。昭和52年(1977年)に町の木が楠になったのはこの森が由縁といいます。正月や祭礼時に奉納される伊久智神社神楽[町民俗]が奉納されています。これは慶応3年(1867年)頃のはじまりといい,村の南組は高浜から伏見流を,北組は吉浜から朝日流を伝承して,以降南北共同で伝承してきたといいます。昭和30年代に一時期中絶しましたが,昭和46年(1971年)に保存会が組織されて復活したといい,南組20曲,北組19曲の奏楽があるといいます。



 伊久智神社の南側から出て,そのまま右手の細い道を50mほど南下すると天満宮があります。生路村の小社は明治42年(1909年)に伊久智神社に合祀されましたが,その少し後に伝染病が流行したといいます。そのため天満宮のみ元の位置に戻されたと伝わっています。



 天満宮から南に進んで,突き当りを右折して続く筋を左折すると生路コミュニティセンターがあります。生路地区の住民の交流施設で,ウォーキングコースの起終点にもなっています。この地区で古くから残る近世文書は生路村方文書[町文化]として一括指定されており,近世の村の様子を知るうえで貴重な史料になっているといいます。

富士塚
生路富士塚





 生路コミュニティセンターの南側の道を右に道なりに進み,400mほど進んだ生路小学校の先の分岐を左の細い路地に入り,さらに続く突き当りを左折します。さらに200m強進んだ左手には富士塚があります。江戸時代中期以降富士講の信仰が広まってここに富士権現社が設けられたといい,明治以降は衰えて明治42年に伊久智神社に合祀されたといいます。その後も山岳信仰の拠点として大峰山の碑や役行者の石像が置かれているといい,戦争で亡くなった人々を弔う忠魂碑も設けられています。



 富士塚の南には東浦高等学校[公式HP(外部リンク→)]の北門があります。昭和25年(1950年)に設けられた刈谷高等学校東浦分校を前身として,昭和48年(1973年)に創立されたといい,衣ヶ浦が眼下となる環境に恵まれた学校といいます。





 東浦高等学校の北門から西に進んで,高校を左に見ながら道なりに300mほど進みます。広い筋に突き当たったらその先に続く住宅地の遊歩道に入って200mほど進みます。途中にはといまや公園が設けられており,休憩地点にも活用できます。

安徳寺(知多四国11番)
藤江西之宮82







 といやま公園から遊歩道を南に進んで,遊歩道の終点のところを左折し,100mほど先の2つ目の十字路を右折します。200mほど先の突き当りを左折し,さらに200m弱進んだ国道に突き当たる1つ手前の遍路道を右折すると,100mほど先の右手に安徳寺(曹洞宗)があります。光明山と号し,永禄2年(1559年)に乾室玖元和尚の開創といいます。当時は衣浦湾に近い低地にあったといいますが度々の水害に遭い,さらには享保年間(1716〜36)頃には大火で堂が焼失したため現在地に移されたといいます。本尊の釈迦牟尼仏など多数の仏像が安置されており,元薬師堂にあったという恵心僧都作と伝わる薬師如来立像[町文化]も祀られています。この薬師如来は,元郷中にあって延享元年(1744年)に村人が寺の境内にお堂を建てて祀ったものといい,台風の被害も免れ,平成18年(2006年)には修理も行われたといいます。明治6年(1873年)には,有脇村・藤江村・生路村が共同で寺の衆寮に反強学校(現在の藤江小学校の前身)を創設したといい,村の教育の場にもなりました。

白雪稲荷
藤江仏132



 安徳寺から遍路道を南に150mほど進んで,3つ目の細い路地へ右折し,須賀川に突き当たったら左手の橋を渡ります。この先は桜並木が続く雰囲気ある遊歩道になっています。







 100mほど進んだ次の筋を右折し,続いて案内板にしたがって右折すると,先に白雪稲荷があります。白雪稲荷は天明6年(1786年)に名古屋萬松寺に勧請しましたが,何者かに盗まれて売られ,その後武豊の玉鉾神社に合祀されたといいます。その後,大正14年(1925年)に藤江の御嶽教先達の小田清陸氏が現在地に社殿を建ててまつったといいます。境内には大峰山と御嶽信仰の記念碑なども多く設けられています。
 なお白雪稲荷の西には藤江小学校があります。大正から昭和にかけて約20年校長をつとめ,元校長先生と人々に親しまれた小田文平氏の胸像があります。明治27年(1894年)生まれの久松潜一,大正2年(1913年)生まれの久米常民という2人の国文学者がこの地出身といいます。



 稲荷の南側には藤江コミュニティセンターがあります。藤江地区の住民の交流の場で,町が設定しているウォーキングコースの起終点にもなっています。

藤江の常夜灯
藤江須賀38付近





 白雪稲荷から須賀川を渡る橋まで戻り,川を右に見ながら南下します。100mほど先の国道366号線を歩道橋で渡って少し進むと,左手の巨大なムクノキの下に藤江の常夜灯[町文化]があります。須賀川堤にあるこの常夜灯は寛政10年(1798年)という年代があり,火袋の足に当時船乗りが信仰したという「象頭山金比羅大権現」(四国こんぴらさんのこと)と刻まれています。海を行き交う船に対しては灯台の役割を果たしていたといい,また当時の村の南端がここであったといいます。

藤江神社
藤江須賀66





 藤江の常夜灯の先の筋を左折して50mほど北上すると左手に藤江神社があります。創建は不詳ですが大永3年(1523年)に社殿再建したという棟札が残る古社で,須賀川の氾濫があったため出雲国から勧請されたと伝わっています。かつては藤江大明神とも藤井大明神とも呼ばれたといい,藤井神社(大府市横根町)との関連も考えられ,藤江という地名も藤井から入江の奥に村を開いたことから起こったと考えられています。境内末社に4社(白峯社・津島社・琴平社・稲荷社)があり,明治期に合祀されたという7社があります。
 毎年10月の秋の例祭では,藤江のだんつく獅子舞[県民俗]が奉納されています。奉納の際は面をかぶった1人の神人が登場し,祭神の建速須佐之男神がヤマタノオロチを退治する所作を模して,棒を四方に向かって厄を払うがごとく突き出すといいます。続いて雌獅子と雄獅子が登場して,小太鼓を打ちながら踊り舞います。最後に6頭の子獅子が現れて雌獅子の前にうずくまるので,八ツ頭の舞と呼ばれます。俗称のだんつくの由来は不明ですが,かつては横根村の藤井神社の奉納神事として行われていたといいます。しかし村に疫病が流行してだんつくのせいという者がおり,寛文8年(1668年)に豪華な山車を新調してだんつくを取りやめることになりました。そこで藤江村がその舞楽などを伝承し,器具を譲り受けて藤江神社で行うようになったといわれています。また,だんつく古面[町文化]と,享保7年(1722年)の修理の記録があるという龍頭の面[町文化]も指定文化財として貴重なものといいます。

専正寺
藤江上廻間51



 藤江神社の前の道を北方向に100mほど道なりに進み,突き当りを左折して続く分岐を右に入ります。さらに突き当りを右折して50mほど進むと左手に専正寺(真宗大谷派)があります。藤江山と号し,嘉永年間(1848〜55)に現在の高浜市高取の専修坊の星川達祐が隠居所として設けたといい,明治11年(1878年)に説教所に,昭和22年(1947年)に星川祐道を開基として専正寺にしたといいます。

ゴール:JR武豊線・東浦駅





 専正寺から100mほど進んで3本目の筋を左折します。この道はコースのスタート時に南下してきた道です。ここを300mほど北上すると右手にスタートした東浦駅があります。武豊線を利用して,大府駅まで約12分です。名古屋駅までは約35分の所要時間を見ておけばいいでしょう。

写真使用数:52

←前:石浜コース / 愛知県知多郡東浦町 / 次:緒川西コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
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